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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

273わめ:2005/12/21(水) 17:05:29
 Leoさん、Libra師匠、こんにちは。^^

 くまりんさんのエントリーのテキストから読み取れることは、アビダルマに関しての見解は大概に下記のようのものかな。

くまりんさんのブログの『Abhidharma-mahāvibhāşā 大天の五事 』から
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=888

四聖諦を核としそのうちの苦聖諦、苦聖集諦、苦聖滅諦にほほ収斂される仏教思想の核心である十二支縁起、四大、五蘊を最小限の単位で記号化し人間の苦の表象をかたちづくる心・心作用の本質的存在としてのダルマに分解されたアビダルマはそれを自身の生存原理のうちにはっきりと頷きながら認識し、認識した心作用を制御していく実践心理学、あるいは実践哲学である苦聖道諦へと連続するブッダの弟子達の豊饒なる思索の体系であるといってよい。当然テーラワーダ仏教ではそのヴィヴァサナー瞑想で活用されるが本来ならば北伝仏教である日本仏教においても活用されてしかるべきものである。

くまりんさんのブログの『出家とアビダルマ 』から
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=890
まえにも書いたけど「桜の見頃は春ですね」「いえ、いつでも見頃でございます」の問答はパラダイムを変えた視点で仏教は深いなんて比喩にも使われるけど、どんなものでも、表象でも、事象でも、本質でもパラダイムを変えてみるのが仏教では当たり前でそんなもんちっとも深くないんだ当たり前なんだということがよーく分かります。人に期待して裏切られると自分が被害者で相手が加害者みたいな意識も、みんな自分の為にやっているんだから被害者だなんて妄想だったってことも仏教では当たり前に考えていることがよーくわかります。そういうものの見方をとりあえずは rūpa から。読み出してみれば長老がなぜ「心・心所」ではなく rūpa から始めたのかが良くわかります。まずこの認識対象としての「物質」を仏教の基本的なパラダイムから始めることで当時のインドの世界観にすすっと入っていけるんです。なぜか?仏教を理解しようと思えばまずはインド的世界観をマスターせねばいけないからです。当時のインド人が知りもしなかったような現代の僕らが考えている?いやいや推測しているだけなのに認識していると思いこんでいる物質への常識は捨て去らなければなりません。当時のインドには顕微鏡もオーディオアンプも有りませんし、ましてやコンピュータなんてシロモノはないんですだから。彼らは目で見て耳で聞いて鼻で嗅いで舌で味わい身体で触れた感触だけをたよりに物質を分析したんです。それが世界観の基礎になるのです。だから長老のやり方はちっともインド学的ではないけれど正攻法なんですね。というわけで地水火風の四大と眼耳鼻舌身の五根、と機能としての五境をこれでもか、これでもかと視点を変えて、共通の働きによるグループ分けと、グループ替え、それぞれの組み合わた状態での共通の働きによるグループ分けと、グループ替え、まるでフォトショップでレイヤーを切り替えるようにとんとんとんと話が因縁で縁起して進みます。「あなたはものごとの見方が狭くないですか?それはこういう風に見たら真実が見えてくるでしょうに!」と長老の甲高い声が迫ってくるようです。編集にも携わった ajita さんがくらくらするくらい!と仰るのはまさにピッタンコの形容です。そして最後のほうに長老のひとこと。「アビダンマは哲学や心理学を語るものではありません。瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いていますから、一般には通用しません。このままでは現代の哲学にはなりません。修行者のための哲学・マニュアルなのです。- p201」


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