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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

224Libra:2005/12/11(日) 07:34:27
 みなさん、おはようございます。

 多くの方に「そんなのどうでもいい」(わめさん)と思われるであろうこと
をちょこっと書いてみます。

 わたしがブッダの思想だとおもっているところの思想(以下、「思想A」と
略記)をわたしが支持するのは、思想Aがすぐれているようにわたしにはおも
えるからです。思想は、《それが誰によって主張されたか》とは切り離して評
価されるべきです。尊敬する顕正居士さんのご発言をお借りすると、「思想の
評価をその方の身分によって行なうなら、これもトンデモ」[*1]だとおもいま
す。

 思想Aを言い出したのはシャカだろうとわたしはいまのところ思っているわ
けですが、これは、いってみれば歴史の問題です。もし、思想Aを言い出した
のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。そ
ういう意味では、わたしにとって歴史の問題はさほど重要な問題ではありませ
ん。

 次に強調しておきたいのは、わたしは、初期仏典は思想的に矛盾していると
思っているということです。つまり、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と
無我説の両方が含まれており、両者は論理的には両立しないというのがわたし
の理解です[*2]。ややこしくなりそうなので、わたしが理解し支持している無
我説を、以下では「無我説A」ということにします。

 「論理的には両立しない」と書きましたが、わたしは、論理に西洋も東洋も
ないとおもっています。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立す
ることになるなどということはありえないだろうとおもいます。もしそのよう
なことがあるとすれば、西洋と東洋との間では相互批判は成立しないというこ
とになるのではないでしょうか。ちなみに、わたしは、「批判とは、あくまで
も言明間の論理的関係の指摘である」[*3]とおもっています。

 「初期仏典には思想的な矛盾などはない」と理解されている人も多くおられ
るようです。このような方がいわれる無我説(以下、「無我説B」と略記)と
無我説Aとは内容的には全く異質のものということになるでしょう(もっとも、
わたしには無我説Bは全く理解不可能であり、矛盾しているとしかおもえない
のでそのように想像するにすぎないわけですが)。もしシャカが無我説Aでは
なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。


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