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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

1 わめ@管理人 ◆TJ9qoWuqvA :2005/06/17(金) 12:30:37
 生命とは生体の生存維持活動に必要不可欠な意識(自意識・自己「エゴ」)である。
この自意識は実在ではない。脳が創り出す生存維持に不可欠な要素である。
この意識はおそらく動植物にも備わっているものと推測する。
この意識の主体が死亡(脳死含む)することで消滅する。
自らの意識と他者の意識は互いに影響を与え合う。
 しかしこのことにより、影響(他者・他物「書物・メディア等」)を受け合う対象たる生物は、その影響の度合いに応じて自らの行動・言動に変化が現れる。そしてその行動・言動が連鎖的に他の生物に影響を与え、また影響を受けて行く。この意味において、一人の人間の死は、そのものが生存中に他の人間を含むあらゆる生物の意識に影響を与え、この影響の連鎖を、影響を与え合うすべての生物の死滅を除いて止めることはできない。また、その生物の生存中に残した遺物が、後の世の生物の意識にも影響を与えるものである。一人の人間の意識は、ある意味宇宙やすべてのものが消えてなくなるまで消滅することは無いのかもしれない。
 またこの意識は、生存中の様々な経験を、脳かあるいは何らかの器官を通じ、物質(生化学的)的に記録しているものとおもわれる。これは遺伝的要素として子孫にも影響を与えていくものである。
これらを総括して、
・1個の生物としての生命(自意識)の永遠性はない。
・1個の生物としての生命(自意識)は、他の生物に永遠に受け継がれていく。

私は現在、釈尊の説かれた縁起の法・空・無我を、このように理解している。

※読まれた方、ご意見(ご批判大歓迎)を頂けましたら幸いです。

2 わめ@管理人 ◆TJ9qoWuqvA :2005/06/18(土) 00:23:09
読み返してみると言葉足らずが一杯だ・・・w
それにスレタイは最初「試論 生命について」にしようと思ってたけど、やっぱりそのほうがよかったかもw汗
このスレもわけわかめだw。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

3 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/06(水) 16:57:31
わけわかめなわめのたわ言より、やっぱりこっちかw

佐倉哲さんのエッセイ集 仏教について
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html

4 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/09(土) 14:24:01
ペガサス師匠の掲示板から、わめの書き込みを文字数制限のため3回に分けて転載
(「存在とは関係こと」を「存在とは関係のこと」と訂正)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
投稿者 : わめです 投稿日時 : 2005/07/09 12:01

○○さん、トムクルーズの宇宙戦争を朝方見終わったわめです^^

>わめさんの言っていた信号の色ってことから連想して書いてみました。
>
>http://home.newsch.net/gizmo/archives/blog221.html
>↑
>「自分を信じること」

あ、わめがPoh師匠に書いたこと、信号の話が書いてある♪
わめの現段階で思うこと、ちょうどいい題材です^^
読んでみてふっと感じるわめの思うこととの違い”自分”と”信じること”、なのでそこからくる答えのようなものが当然違ってきます。

わめの”信じること”への捉え方は、こちらをみてもらえば分かると思います。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1109570758/

”自分”って存在についてなのですが、わめなりに考える”自分”ってものを、無我、縁起の法、またペガサスさんが書いてくれてた量子力学の観察物と観察者のお話から話を進めさせていただきます。^^
とはいえ、わめの拙い文章より、佐倉哲さんのエッセイのほうがよっぽど分かりやすいので引用します。
佐倉哲さんのエッセイ集の仏教に関する来訪者の声の「死後の世界観から(7)」から、全体として長いのでリンクじゃなくその部分のみ引用・貼付けします。
続く

5 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/09(土) 14:25:15
続き
---引用---

(3)関係性と存在

もちろん存在のないところに関係性はありませんが、「最初にあるのは存在であり」そのあとに関係性が生じる、というのは誤解ではないでしょうか。むしろ、すべての存在(すくなくともわたしたちの知っているすべての存在)は始めから関係性の中にあるのではありませんか。
子供の最初の形態を形作ったのは精子と卵子の特殊な関係であり、その精子と卵子はそれぞれもともと父母の体の中にあって、その体の一部として、父母との(部分と全体という)関係を持っていたものです。また、父母の体の一部である精子や卵子を構成する分子のそれぞれは、父母の食べた物質から直接あるいは間接的に作り出されたものでしょう。

そして、ご存知のように、分子とは原子と原子の間の特殊な組み合わせ(関係)のことであって、分子がそれ自体で存在しているわけではありません。その原子も原子核と電子の間の特殊な組み合わせ(関係)のことであって、原子がそれ自体で存在しているわけではありません。また、原子核は素粒子の関係であり、素粒子はクオークの関係であり・・・・という具合で、すくなくともわたしたちの知っているすべての「存在」は、よくみると、すべて関係のことです。

父と母との関係、精子と卵子の関係、体とその構成要素との関係、食べる生物と食べられる物質との関係、物質と物質との関係、等々、一人の人間の存在は、このような複雑で無数の関係に依存して、始めて「生じる」ものです。「最初にあるのは存在であり」そのあとに関係性が生じる、というのは誤解だと思います。

---引用終わり---

と言うように佐倉哲さんは”自分”を含め「存在とは関係のこと」と結論づけています。

わめには、ズバリ「存在とは関係のこと」とまで言い切れませんが、相対性がないものを人間が認知できないように、自分に対する何らかの関係性があるものがなければ、自分さえ認知できないことになってしまいます。
量子力学の観察物と観察者のお話でも、月があるのか無いのかは、その観察者がいてこそあるといえるし、観察者がいなければ無いともいえる。

以上のように、関係性の中に”自分”はあるのだから無我、関係性とは縁起の法そのものではないかと思います。

わめの思う”自分”と”信じること”は、このような感じ方ですから、
続く

6 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/09(土) 14:26:23
続き
>世間的に見て正しいか正しくないかなんて関係ない。
>本人の中で正しければそれでいいと思います。

世間も関係なのですから関係があり、

>そんなんじゃいつまでたっても、
>自分の思い通りに生きることは出来ないと思うんです。
>まず自分を信じて、周囲がどう思っていようとも、
>一歩を踏み出せなきゃどうしようもないでしょう。

自分の思い通りに生きるの”思い通り”とのその思いは、実は関係性の中から生まれたことであり、周囲(関係)が無ければ今の自分の思いさえないことになる。

>他人は他人。自分は自分。

これも他人がいるから自分と認識できる、他人(関係性)無しに自分の存在さえ認知できないのだから、他人は他人ではない。

>本当の自分の心に聞いてみて、
>自分の心が「青だ」と答えたら、それは青です。
>自分の心を信じることが信心だと、俺は思っているので、
>自分の心の声は絶対的に信じます。

本当の自分の心も、関係性(ここでいう周囲)の中から生まれたことであり、周囲(関係)が無ければ”本当の自分の心”さえないことになる。わめはこのように感じました。

それぞれの思い、それぞれの思考、それぞれの個性は、縁起の法の彩であり素晴らしいと思います。
また人が、縁起の法を無視・否定しようとも縁起の法は、その人をも包み込んでいると感じます。

佐倉哲エッセイ集 仏教について
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html

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注.ペガサス師匠をペガサスさんと書いてしまったw汗

7 フルナ :2005/07/09(土) 18:48:27
わめさん、こんばんは。

昔、般若心経を中村元先生が訳したものを読んで感動したことがあります。

色即是空──すべての物質的現象には実体がない。
空即是色──実体がないからこそ、物質的現象であり得るのである。

ぼくはこれを読んだとき、「空」がわかったと思いました。その思いは現在も変わっていません。「自分」というものを存在と捉えるから固定的に見てしまうのであって、「現象」と捉えればどうでしょうか?

8 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/09(土) 19:31:55
フルナさん、いらっしゃい♪
F1フリー走行を見ながらなわめでです。^^
こちらでもよろしくお願いいたします。<(_ _)>

自分を現象と捉えるですか。ある意味「空」というものを捉えやすいかもしれませんね。^^

> 色即是空──すべての物質的現象には実体がない。
> 空即是色──実体がないからこそ、物質的現象であり得るのである。

ただこの偈だけみると、わめには物質的現象には実体(アートマン)があるといってるのか、無いといってるのか分かりません。
小乗教も大乗教も難し過ぎてよくは分かりませんが、大乗経典は全般的に、どうもウパニシャッド思想を仏教に取り入れてしまっているように思えて、人間ブッダ好きのわめにはどうにも馴染めません。w汗

わめは信仰心のない罰当たりもんですw笑

9 フルナ :2005/07/09(土) 19:55:45
レスありがとうございます。

>ただこの偈だけみると、わめには物質的現象には実体(アートマン)がある
>といってるのか、無いといってるのか分かりません。
ぼくにもよくわかりません。

結局、それが生き方にどんな影響を与えるか?──にしか興味がない、と言ったらキザでしょうか?釈尊のスタンスも、おそらくそういうことだったのではないかと拝察します。

ヘタな喩えで恐縮ですが、クルマのエンジンの構造がわかることよりも、安全に運転する術を身に付けることの方が役に立つように・・・。

ただ「執着するな」と言われるより、「あなた自身も現象なのだよ」と諭される方が胸にスッと落ちませんか?ぼくには、それで十分です。

10 フルナ :2005/07/09(土) 20:11:04
すみません、ひとつ書き忘れ。

実体として「無い」ということは、とりもなおさず現象としては「有る」ということなんですね。「道元とサルトル」という本に書いてありました。

11 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/09(土) 20:42:47
フルナさん、もうすぐF1公式予選にわくわくなわめでです。^^

> >ただこの偈だけみると、わめには物質的現象には実体(アートマン)がある
> >といってるのか、無いといってるのか分かりません。
> ぼくにもよくわかりません。

そのわからないとポイしておくこと、非常にいいと思います。

> 結局、それが生き方にどんな影響を与えるか?──にしか興味がない、と言ったらキザでしょうか?釈尊のスタンスも、おそらくそういうことだったのではないかと拝察します。

あ こっちでいいと言うべきでしたw汗

> ヘタな喩えで恐縮ですが、クルマのエンジンの構造がわかることよりも、安全に運転する術を身に付けることの方が役に立つように・・・。

いい譬えだと思います^^

> ただ「執着するな」と言われるより、「あなた自身も現象なのだよ」と諭される方が胸にスッと落ちませんか?ぼくには、それで十分です。

下手に執着すると、この教えを信じると見えない力が事故からあなたの身を守るのですとか、危ない方向に引き込まれかねませんしねw

> 実体として「無い」ということは、とりもなおさず現象としては「有る」ということなんですね。「道元とサルトル」という本に書いてありました。

...ψ(。。)メモメモ...

わめはこの「有」を、関係性の上からあると捉えてます。

学ばせていただきました。<(_ _)>

12 みれい :2005/09/04(日) 13:15:18
わめさん

スレッドの趣旨がずれるのでこちらへきました。
(ここでもずれるかもですが、ここのスレッドにとりあえず)

>わめは一時期はある意味成功した人間です。
その時は自尊心も強かったです。
でもそれが崩れて(成功)からは、色々ありましたが結果自分は”バカ”だったと言う結論に達しました。
それ以降自分の中身を総入れ替えしたくてここまできました。
なので固執しているのは”自分を変えたい”なのです。

http://www.urban.ne.jp/home/omijo/houwa/aohara.html

天上天下唯我独尊

自尊心のバランスを整えることも、自らを愛し、他を愛し、そこに分け隔ての無い事を知ります。

相手を立てすぎるのも自尊心の裏返しですね^^
人を尊敬するのと同じくらい、自分を尊敬する。
自分を愛するのと同じくらい、他人を愛する。

みんな自尊心はあるし、自分を守るし、自分をかわいがりたいはずです。
自分を変えるときは総入れ替えなんてせずとも、「自分の視点を変える」だけでいいはずです。意識すれば学べば学ぶだけ万華鏡のように視点を変えられます。
わめさんはこれだけの書き込みが出来るのを見ても、コミュニケーションを見てても、おバカでもなんでもなく、賢いし、もともと尊い方のはずです。
これからも今のわめさんを大事にして生かしてください。

スレずれしまして、お邪魔しました(^o^)ノ

13 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/09/04(日) 15:32:51
みれいしゃん、励ましのお言葉、ありがとうなわめです^^

 「自分の中身を総入れ替え」は、ちょっとJAROから怒られそうな誇大表現かもでしたね。(^^;;

 それくらいの強い気持ちじゃないと、みれいしゃんの言われているように、『みんな自尊心はあるし、自分を守るし、自分をかわいがりたい』気持ちと、戦え(学会言葉か?w汗)なくって、以前の「自分の中身」との対決をしてきたつもりなんです。

 でもわめにはそれくらいで丁度良かったように思います。だってわめは自分が、誰よりも優れた人間だなんて、心の中で密かに思ってたみたいなのですものw怖

 で、それが事業等の失敗により、社会的地位や人望等を失ったこと(失望感・脱力感等々)で脆くも崩れ、しばらくの猶予期間の後、わめの中では「自分の中身の総入れ替え」が始まったわけですが、そこからの長い時間の中でふっと気が付くと、生存していくことのなんと簡単で(安堵感・畏怖的妄想の消失等々)、自分にとって何が必要かを知ることができ、信仰と言う夢幻に支えてもらう必要がなくなっていったのです。

 それでも今後の人生において、一体何が自分の身に起こるかはわからない、その不安もあったわけで、葛藤しながらあるひとつの答えを見つけることができました。

 見つけたもの、それは”信仰”ではなく”覚悟”だったのです。今後我が身や、関わる方に起こるであろう様々なことに対して、例えそれがどのようなことであっても、”覚悟”を決めて、それに備える心こそ大事ということを見つけたのです。

 そのような覚悟を決めてからも、様々な人生の変転はありましたが、この覚悟にどれだけ救われたかも、いずれブログ等で述べていきたいと思っています。

 話が全然在らぬ方向に脱線しちゃいましたがw汗、でもこの”覚悟”は、このスレに相応しい現在(将来は分かりません)のわめの、答えなのかもなんて思っています。^^

 って、誰もが気が付くようなことを、この歳(内緒♪)になるまで分からなかったことや、しかもそこからもっと先にあるかもしれないものも掴んでないなんて、わめはやっぱりバカかもですがw涙

14 フルナ :2005/09/04(日) 15:44:12
>>13

こんにちは。

う〜ん、現在のわめさんと自分の心境って似てる気がしますね。

「覚悟」っていうのは、現実をありのままに見ることから始まります。「諦める」も「明らかに見る」ということでしょう。おごるのでもなければ、投げやりになるのでもない。「いま」自分にできることを精いっぱいやって、結果は淡々と受け入れる。

簡単なことのようで実は難しい。よほどの覚悟がなければできません。

15 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/09/04(日) 16:03:29
フルナさん、こんにちはなわめです^^

> う〜ん、現在のわめさんと自分の心境って似てる気がしますね。

きゃー♪

> 「覚悟」っていうのは、現実をありのままに見ることから始まります。「諦める」も「明らかに見る」ということでしょう。おごるのでもなければ、投げやりになるのでもない。「いま」自分にできることを精いっぱいやって、結果は淡々と受け入れる。

 小難しいことはよくわかりませんがぉぃw、実感として”覚悟”は素晴らしいと思ってます。^^
 っていうか、わめは”誰よりも優れた人間”だなんて思ってたわけですから、超厚着で貴金属などのアクセサリー多数を着け、財布の中身は札束一杯で思いし嵩張るし、高級車まで背中に背負ってたような人間ですからぉぃw、それらをみんな剥ぎ取られたら軽い軽い♪

 あれ?、なに言いたかったんだろう・・・ あ、わめはすべて剥ぎ取られて何もなくなったから”覚悟”が楽だったということです。^^

> 簡単なことのようで実は難しい。よほどの覚悟がなければできません。

 皆さん大切なものを沢山背負ってられるかもですね。うらやまし〜^^
 大変かもしれませんねw

16 フルナ :2005/09/04(日) 16:12:11
わめさん、ぼくはテーラワーダを知って本当によかったと思います。

誤解を恐れずに言えば──池田氏のスピーチには何の感動もありませんが、スマナサーラ長老の説法はまさに「目から鱗」でした。ぼくは、ひとりでも多くの学会員に長老の話を読ませたい、そして覚醒させたいと真剣に思います。

17 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/09/04(日) 16:23:05
フルナさん、速レス感謝^^

> わめさん、ぼくはテーラワーダを知って本当によかったと思います。

最近、フルナさんのそのようなコメントをよく見かけますね。(^▽^)

> 誤解を恐れずに言えば──池田氏のスピーチには何の感動もありませんが、スマナサーラ長老の説法はまさに「目から鱗」でした。ぼくは、ひとりでも多くの学会員に長老の話を読ませたい、そして覚醒させたいと真剣に思います。

覚醒できることはいいかもとは思います。
でも、こっちの水は甘いぞ〜、あっちの水は苦いぞ〜的なことになって、更に甘い水にハマりこんでしまわないか心配です。

ブッダがホントに”信仰を棄てよ”と言ったかは分かりませんが、言った言わない&また深い解釈はどうでもよくて、ただ”信仰を棄てよ”との言葉は、わめは覚醒の言葉かもと思っちょりますばいw

PS
今からドラマ鑑賞に没頭します。m(_ _"m)ペコリ

18 みれい :2005/09/06(火) 23:58:22
上座部もきびしい自力の教えのようですし、
悟りとか覚悟とか目覚めとか覚醒になると、すでに宗教(いわゆる学会などのような功徳など神秘性を説くような)ではなくなりますよね。
私は禅(ジャーナ)もそういう意味では宗教ではないと思うし(宗派となると皆どう捉えるのかわかりませんが)、
皆がどんどん「目からうろこ」になれば、と思うのでした。
うろこが落ちても色眼鏡はかけたままの事もありますね。体験談。

悟り(覚醒)も何段階かあるみたいですね。わくわく。

19 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/09/07(水) 00:11:35
きゃー みれいしゃんいらっしゃい^^

> 皆がどんどん「目からうろこ」になれば、と思うのでした。

目からウロコ現象でたー♪

> うろこが落ちても色眼鏡はかけたままの事もありますね。体験談。

ミ(ノ_ _)ノ=3 ドテッ!!

> 悟り(覚醒)も何段階かあるみたいですね。わくわく。

目からウロコ現象は無限大にあって欲しい!!

20 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/09/07(水) 11:24:47
皆さん、(*゜ー゜)vオハヨ♪

 いいもの発見!

曽我さんのWebサイトより『…現時点の私の仏教理解の総括…』2004年11月23日(第2回総括)
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html
 上記リンクで曽我さんは、具体的に「無常=無我=縁起を納得する方法」を述べられています。

曽我さんのWebサイト『月を差す指はどれか?』
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/

21 みれい :2005/09/13(火) 22:39:27
http://tozanji.exblog.jp/
ブログ

http://www.geocities.jp/tozanji/
HP「仏とは何か」

宗教家と宗教解説者では少し違うみたいです。
日本の禅僧からの視点もたまにはいいかと。
カテゴリー別で禅語教えてくれます。
「自分」という言葉も、自然の分身というところからきた禅語だったと最近知りました。

22 snow :2005/10/06(木) 22:16:48
わめさん

「法華経」スレでの誘導に乗って(笑)こっちに来てみましたよ〜♪
でもね、かなしいかな、>>2までしかよくわからないれす…(T_T)
わめさんが廃案にした「試論 生命について」ってスレだったら、私も大好きなジャンルだから飛びついてたかも〜。
仏教用語は、やっぱり今に私にはかなりネックです…。

そうは言ってもなかなかおもしろそうなんで、ゆっくり時間のあるときにリンク先とかも見ながら読んでみますね。
はじめはまた「なぜなに坊や」になりそうな気もしますが(笑)
お話しできたら嬉しいです〜

23 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/06(木) 22:37:58
snowさん、こんばんは。^^

廃案じゃなくてこのスレッドのタイトルに「試論 生命について」と付けようかと思っただけで、中身は変わってないです。(^^;;

と、生命を縁起の法からみてどのようなものかを、>>1で書いてみたのです。

でね、ここに誘導したのは、学会員さんが言う仏法は日蓮仏法を指すわけで、日蓮さんは法華経に釈迦の教えの真髄(縁起・空)があると思い宣揚し、結局、縁起の法が究極の教えであると繋がってくるわけです。

ですから、縁起の法と学会員さんが言う仏法の違いが、snowさんの求めるところに当てはまるのではないかと思うのです。

できましたらsnowさんから、学会員さんの?と思うところを提出していただけましたら、縁起の法から言えばその?はどうなのかを、考えていきたいと思っております。

でも一辺に沢山にあげられると、わけわかめになりそうなので、ひとつひとつ?を話し合っていきたいと思いますので、そこのところをよろしくお願いします。<(_ _)>

24 snow :2005/10/07(金) 11:30:40
中間報告です。

>>20の曽我さんの「総括」を読みました。
私には、大変納得のいくお話でした。
もちろん、100%理解した、などとはいえませんが。
今まで私が漠然と考えていたことが整然と説明されてて納得がいった点、
気づかなかったけど、言われてみれば納得がいく点などが多く、
最後まで一気に読めました。

まだイマイチ「縁起の法」とやらが掴めませんが、
(本当はそんな簡単に掴めるものじゃないんだろうけど・笑)
「仏法」と言うより、哲学、科学に近いなぁ、と思いました。
「理詰め」なところとか。

あと、サイトそのものの感想ですが、
仏教用語が少ない、または使ったとしても、わかりやすい説明が付いていたので読みやすかったです。

「違う!」と怒られそうですけど、私は「バカの壁」に書かれていることとの共通点が多いと感じました。

究極、科学者も宗教家も、専門用語を使わないで人に説明出来る人が本当にわかってる人、って気がしました(笑)

また来ます。

25 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/07(金) 13:40:11
おおsnowさん、曽我(中川村村長)さんのサイトをお読みになったのですね。^^

> まだイマイチ「縁起の法」とやらが掴めませんが、
> (本当はそんな簡単に掴めるものじゃないんだろうけど・笑)

いえ、本当は簡単に掴めるものですよ。(^^;;
あるもの(普遍的な現象)が対象ですから、それぞれの人間個々にしたって、それを意識するしないはともかく、生きていく中で漠然と知っていることなのですから、掴む必要もないのかもしれません。

> 「仏法」と言うより、哲学、科学に近いなぁ、と思いました。
> 「理詰め」なところとか。

哲学・科学もそして本来の仏教も、この世界にある普遍的な現象(少し語弊があるかもしれませんが)を、見つけ研究し、そしてそれをどう捉えるかといった意味では同じだと思います。

> あと、サイトそのものの感想ですが、
> 仏教用語が少ない、または使ったとしても、わかりやすい説明が付いていたので読みやすかったです。

ホントのことを企みなく説明する言葉は分かりやすいと思います。

> 「違う!」と怒られそうですけど、私は「バカの壁」に書かれていることとの共通点が多いと感じました。

それはホントのことを書いているからかもしれませんね。^^

> 究極、科学者も宗教家も、専門用語を使わないで人に説明出来る人が本当にわかってる人、って気がしました(笑)

科学の場合はその途上ということもありますが、つまりはホントと決まっていないことも説明しなければならず、分かりやすい説明は非常に難しいのかもしれません。(^^;;

四則演算などもなんで1+1=2なのかの前に、1があるわけで、1が何で1なのかを説明できる方はいないと思います。
1は1なんだとの定義からはじまるわけで、数学は真理じゃない便宜上のものだからかもです。^^

26 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/07(金) 13:43:09
一瞬思ったバカなわめの妄想

数学は、世界共通認識の宗教かも?

27 青空 :2005/10/07(金) 14:25:32
わめさん^^

数学を万物の楚とした教団がありますよ。

その名も、ピタゴラス教団!!!!!!!!!

http://inri.client.jp/hexagon/floorA7F/_floorA7F_pythagoras.html

面白いよん!!

28 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/07(金) 14:39:10
(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 青空さんお久しぶり〜♪

> 数学を万物の楚とした教団がありますよ。
> その名も、ピタゴラス教団!!!!!!!!!

やっ、やはり数学は宗教だったかぁぁぁw爆

29 青空 :2005/10/07(金) 16:02:21
うん、数学者はマルチな方が多いみたい。

ちなみに、世界最古のカルト教団とされてます。

30 Leo :2005/10/08(土) 00:04:24
ピタゴラス教団って電卓たたきながら(昔そういう名前の電卓があった)白装束着ている集団を想像してしまった(^^;

西洋では数学と宗教と音楽の間に密接な関係があったようですね。

ギリシャの音楽哲学
ttp://www.geocities.jp/hukuhuku_pii_623/heikinritu.htm
「紀元前6世紀にはすでに、ピュタゴラス派による音楽と数学という最も高度な分野の学問研究が、
 算術・幾何学・音響学の基礎を築いていた。音響学では、数学の理論が主要な音程を決定するのに用いられた。」

中世音楽概観1 〜中世の音楽とは
ttp://www.mab.jpn.org/lib/gothic/outline1.html
「その音楽は一聴して不思議な魅力を 与えるが、楽譜を詳細に検討するとその背後には
 当時の細密画を 連想させるような緻密な構成があることが明らかとなる。
 数学的ともいえるその高度な手法こそ、音楽が学問であった中世の 音楽の神髄ともいえるものであろう。」

31 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 00:20:01
 わめが余計なことを書いたため、話がおかしな方向に脱線してしまっているかもw汗

 縁起とはなんだ? みたいな話に進行して行ければありがたいです。(^^;;

32 Leo :2005/10/08(土) 00:29:52
音楽って縁起だなーということで(^^;
中世の西洋の音楽のサイト私もこの中のCDのいくつかきいたことがあります。
澄んでいて神秘的なんです。中世のメリスマ(声をふるわせる)って引き題目に似ているかも。

ノートル・ダム楽派
ttp://sawat225.hp.infoseek.co.jp/page028.html

音楽は縁によって起こり、固定的な実体がないです。題目も音楽に近く縁起なんですね。
音楽の話はこれぐらいにしておきます(^^;脱線終わり。

34 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 00:37:11
Leoさんも、相当縁起にハマってますな。o(*^▽^*)oあはっ♪

ってわめもだけどw汗

>>32にみたいな感じもいいと思います。

でも縁起とは何を指すのか、実感として分かりやすい言葉で表現したいです。
なかなか難しいかもしれないですが、じゃないとsnowさんが悩んじゃいそうw

35 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 00:44:14
わめ的には>>5の佐倉哲さんの、縁起を関係性として説明されていますが、これなんか非常に感銘を受けました。^^

「すべての存在は関係性の中にある」極論すると「存在とは関係のこと」

ここまで言い切っていいのだろうとか、少し不安になりますが、縁起の特徴が見事に出ているように思います。

36 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 00:45:19
訂正w

>ここまで言い切っていいのだろうとか、少し不安になりますが、縁起の特徴が見事に出ているように思います。

ここまで言い切っていいのだろうかと、少し不安になりますが、縁起の特徴が見事に出ているように思います。

37 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 01:07:36
佐倉哲さんの「和の思想と空の思想」から引用

ナーガールジュナの空の思想

 ナーガールジュナの空の概念は、このブッダの無我の概念を人間だけではなく、すべての存在に適用して、ブッダの思想をより普遍化したものである。だから、空の概念は、よく俗説に言われるように、すべての存在は夢や幻のごとく人間の心のなかにしか存在しない、というような説ではない。そうではなく、変滅する現象の背後に、なおも、ある不変な何ものかを想定しようとする人間の執着、それを否定する思想なのである。
−−−−−−−−−−引用終

「変滅する現象の背後に、なおも、ある不変な何ものかを想定しようとする人間の執着」、このような執着を持つ信仰者は多い気がする。
何故か日蓮仏法を信仰する方達にも・・・

38 Leo :2005/10/08(土) 01:08:25
今度はチベット仏教を参考にしてみます。

チベット老僧の教え
ttp://www.lung-ta.org/buddhism_teaching/teaching4.html

空と縁起とは

「もし今、あなたが苦しみを感じているならば、それは誰かを傷つけた結果であり、
 もし幸せを感じているならば、それは誰かを幸せにした結果なのである。」

「相手を責めるのは間違いだ。原因は自分の行動や考え方にある。」

「今までの自己中心的な生活、行い、考え方を止め、意固地にならず、
 他の考え方を柔軟に受け入れられる考え方をした方がいい。」

「仏教の聖人でのないかぎり、自分に見えているものは、大きく現実からかけ離れているのだから。」

39 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 01:13:06
Leoさん、

> 「もし今、あなたが苦しみを感じているならば、それは誰かを傷つけた結果であり、
>  もし幸せを感じているならば、それは誰かを幸せにした結果なのである。」
と、
> 「相手を責めるのは間違いだ。原因は自分の行動や考え方にある。」

これは、すごく宗教的で、こんなの証明できっこない気がするのですが・・・w汗

> 「今までの自己中心的な生活、行い、考え方を止め、意固地にならず、
>  他の考え方を柔軟に受け入れられる考え方をした方がいい。」

これは道徳的ですね。^^

> 「仏教の聖人でのないかぎり、自分に見えているものは、大きく現実からかけ離れているのだから。」

これは危ないんじゃないw 縁起からも反する気が・・・

40 Leo :2005/10/08(土) 01:22:44
>これは、すごく宗教的で、こんなの証明できっこない気がするのですが・・・w汗

一見神秘的とか超自然現象に思えますが、これは作用・反作用というか十如是と
いうか、「思い込み」(先入観)を反省とか、幸せや苦しみも縁によって起こり原因がある
という意外と理にかなったことかなーと思います。

>これは危ないんじゃないw 縁起からも反する気が・・・

これは「思い込み」(先入観)への戒めと思います。人はなんらかのフィルター(先入観)を
通して外界を見ているという。

41 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 01:33:24
>>40 Leoさん、わめにはちゃんと分かる気がするのです。^^

でも縁起を、人が生きるための教訓とか教法話に逝っちゃうと宗教臭いし、縁起そのものが掴みにくくなってしまう気がするのですがw

42 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 01:35:51
「ビルから飛び降りると大怪我もしくは死にますよ」では、万有引力や重力を語っているとは思い難いです。(^^;;

43 Leo :2005/10/08(土) 01:38:15
おお、そういうことでしたか。

44 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 01:40:42
もし誰も万有引力や重力を知らないとしたら、
「ビルから飛び降りると大怪我もしくは死にますよ」と説くだけで教祖になれそうですが。
(*´Д`)y−~~~ウマー!

い、いかんw 脱線してるwm(。_。;))m ペコペコ…

45 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 01:48:00
Leoさん、案外こんな話を続けていくだけで、何か縁起がおぼろげながら見えてくるようにも思いますね。^^

Leoさんに感謝です。ぺこ <(_ _)>

46 Leo :2005/10/08(土) 01:59:59
>Leoさん、案外こんな話を続けていくだけで、何か縁起がおぼろげながら見えてくるようにも思いますね。^^

そうですね。わめさんと私がこのように話していることも縁起です(^^;

そういえば、「ひろさちや」訳「般若心経」ってなんかわかりやすいですね。
ttp://www.scn.tv/user/terao-ji/singyo.htm
ttp://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hirohannya.htm

学会(ないし日蓮(正宗)系)って「般若心経」読まないのだけれども。

47 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 02:16:23
> そうですね。わめさんと私がこのように話していることも縁起です(^^;

ですね。(⌒▽⌒)アハハ!

> そういえば、「ひろさちや」訳「般若心経」ってなんかわかりやすいですね。

分かりやすいけどやっぱり教法も入ってきてしまいますね。(^^;;

一度縁起を宗教から切り離して、と言うか、
暫定真理(わめはそう思う)みたいな、現象としての縁起を話し合ってみたいな。(*゜▽゜*)

48 Leo :2005/10/08(土) 09:14:45
>もし誰も万有引力や重力を知らないとしたら、
>「ビルから飛び降りると大怪我もしくは死にますよ」と説くだけで教祖になれそうですが。
>(*´Д`)y−~~~ウマー!

そういえば、縁起や空が一般にあまり知られていない時代に大本尊を「幸福製造機」と説いて
教祖のようになった方(肩書きは会長だけど)がおられましたなあ。

>一度縁起を宗教から切り離して、と言うか、
>暫定真理(わめはそう思う)みたいな、現象としての縁起を話し合ってみたいな。(*゜▽゜*)

釈迦も哲学というか宗教ぽくなかったとか。縁起って一種の現象学なのかな。

49 Leo :2005/10/08(土) 11:28:11
ガイシュツかもしれませんが(縁起からややはずれますが)近藤さんという方のこのようなページがあります。

日蓮思想・創価学会批判
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/Texts/nichiren/nichiren.html

近藤さんは日蓮思想(大聖人の結論)は現代ではあまり価値のないものと捉えています。
それに対しLibraさんは日蓮思想も批判に耐えて残るものがあると捉えていると思います。
最後は個人個人の選択と思いますが興味深いですね。

50 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 12:36:02
>>49

 既出じゃないですが、わめもこの方のサイトは以前より見てまして、わめとよく似たこと書いてるなって思ってました。^^

> 近藤さんは日蓮思想(大聖人の結論)は現代ではあまり価値のないものと捉えています。
> それに対しLibraさんは日蓮思想も批判に耐えて残るものがあると捉えていると思います。
> 最後は個人個人の選択と思いますが興味深いですね。

 日蓮の中心思想に、縁起を見るか見ないか、案外そこだけが大きな差かもしれませんよ。

>>48 

> 縁起って一種の現象学なのかな。

 現象に”学”をつけて調べて、かなり迷路にハマりこんでしまった感のあるわめです。汗
 なのでわめのレベルに合わせていただけるなら、縁起を”現象”として捉えて、その縁起の現象とは何か?を、当然部分観になってしまうかと思いますが、これは縁起の現象だと思うことを思うままに書き込んで、それらを題材にまた議論していけたらいいかなんて思ったりしています。^^

51 Leo :2005/10/08(土) 14:01:33
わめさん、こんにちは。>>50

>日蓮の中心思想に、縁起を見るか見ないか、案外そこだけが大きな差かもしれませんよ。

確かに、そうかもしれません...

>現象に”学”をつけて調べて、かなり迷路にハマりこんでしまった感のあるわめです。汗

(Libraさんがポパーに興味が出る前にフッサールの現象学に興味があったとのことで、
現象学と仏教のに類似性がみられるとか)
現象という言葉を見るとつい現象学と書いてしまうLeoです(^^; ドンマイ、ケンチャナヨ。

>なのでわめのレベルに合わせていただけるなら、縁起を”現象”として捉えて、
>その縁起の現象とは何か?を、当然部分観になってしまうかと思いますが、
>これは縁起の現象だと思うことを思うままに書き込んで、それらを題材に
>また議論していけたらいいかなんて思ったりしています。^^

「これは縁起の現象だと思うこと」ですが、私は世の中にすべてが縁起の現象のように思います。

人間の心も実体がないし、物質は原子やクォークが集まって出来ているのですが、
現代物理でも相対論によると物質はエネルギーと等価で、量子論によると物質は波動とのことです。
(物質についても固定的実体がないということです)

また、生命も縁起と思います。学会教学では「仏とは生命なり」としますが、
「仏とは縁起なり」「生命とは縁起なり」ではないかなーと思います。

52 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 14:50:41
Leoさん、わめは少しづつ面白くなってきました。(*゜▽゜*)

> 「これは縁起の現象だと思うこと」ですが、私は世の中にすべてが縁起の現象のように思います。

このような捉え方だと、世の中すべてが重力の現象とも言えなくない。
世の中すべて、エントロピーが増大してる=時間が過去から未来に流れている=宇宙は膨張している。
何か特別な力が働かなければ、時間の経過と共に高い熱は、周囲の温度と混ざり合い平均化していく。

このようなことですね。
でもこれも漠然と捉えると言った意味では、良い答えに思います。^^

> 人間の心も実体がないし、物質は原子やクォークが集まって出来ているのですが、
> 現代物理でも相対論によると物質はエネルギーと等価で、量子論によると物質は波動とのことです。
> (物質についても固定的実体がないということです)

粒子と波動との二重性はよく言われていますね。でも光子は粒子ではなかったですか?

まだ解明しきられていないように思いますので、”物質についても固定的実体がないらしい”と言うところで止めておきましょう。(^^;;

と言うか、量子力学の世界では、観察者や測定機器が観察物に与える影響が甚大で、まだまだこれからと言うか、楽しみな世界であるように思います。

> また、生命も縁起と思います。学会教学では「仏とは生命なり」としますが、
> 「仏とは縁起なり」「生命とは縁起なり」ではないかなーと思います。

これはまた宗教臭くなりそうですので、もう少し将来的に話し合えればと思います。

53 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 15:04:16
ああ、エントロピーの増大(熱力学の第二法則)って唯一の真理と言われているらしいですが、これだって宇宙の膨張が止まったら、真理じゃないように思いますので暫定真理とわめは思っています。

54 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 15:14:29
わめの縁起の素朴な捉え方としては、この3つです。

・原因があって結果がある。 その逆は宇宙が縮小に向かわない限りあり得ない。
・↑とよく似てますが、無常ということ。 変化しないものはない。(宇宙が膨張か縮小している間)
・すべての存在らしきもの(人間も含め)は、関係性の中でのみの存在。(実体は何もない=無我)

55 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 15:25:27
追加

無我を個を指して言う言葉? 空はすべての存在・世界を指す無我みたいなもの?

要は縁起ですね。^^

56 Leo :2005/10/08(土) 18:51:08
>粒子と波動との二重性はよく言われていますね。でも光子は粒子ではなかったですか?

光は回折現象のような波動としての性質を持つし、波長もあります。
(たとえば可視光の波長は3500〜7500オングストロームなど)
光も粒子と波動との二重性があります。

>と言うか、量子力学の世界では、観察者や測定機器が観察物に与える影響が甚大で、まだまだこれからと言うか、楽しみな世界であるように思います。

量子力学は色々奥が深いようです。量子力学によれば、素粒子の状態は観測するまで分からないとのこと。
それに観測すると状態も変化してしまいます。

話が脱線してしまいますが、池田先生がバリバリ学会員の主張するように「すごい人」なのかアンチ学会が主張するように「悪者」
なのか本人を直接観察するまでわからないということです。

57 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 20:30:10
 う〜ん、やっぱ縁起はこの世の中の普遍原理であり、Leoさんの言うようにすべては縁起の現象か・・・

 でもこれを読んでくれる方、縁起について分かってもらえるかな?w汗

58 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 20:48:09
 snowさん、勝手にリンク(*_ _)人ゴメンナサイ http://swla.exblog.jp/2835126/

 まぁなんていうかその・・・ やっぱ多くの人に縁起を理解してもらいたいかもw汗

59 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 21:18:25
 このスレ、縁起のスレだからこれでいいかもしれないけど、第三者から見て、わめやLeoさんって”縁起信仰”してる人みたいに見えてたりしてw爆

 縁起の言葉は避けて、暫定真理とか、普遍原理とか、在りのままをつぶさに観てなどの表現にしたほうがいいのかな・・・w汗

60 snow :2005/10/08(土) 23:06:55
わめさん、Leoさん、なんというかその…。
とにかく、ありがとうございますm(_ _)m

おかげさまで、縁起のしっぽのさきっぽに、触れたような気がします。
しっぽ切って逃げられるかもしれませんが。(←縁起の正体はトカゲか!?)

>Leoさん
初めまして。お名前は何度も拝見してましたが、ごあいさつはまだでしたよね?
これからもいろいろお話し聞かせていただけると嬉しいです。

>わめさん
なんか、いっぱい書き込んであって、ビックリしました〜(笑)
私の名前もいっぱいあってビクリシタアル〜。
でも、ありがとうございます♪

あってるかどうかわからないけど、今の時点での私の縁起のとらえ方、↓に書いてみます。
またツッコミいれてくださいませ。

61 Leo :2005/10/08(土) 23:19:29
>このスレ、縁起のスレだからこれでいいかもしれないけど、第三者から見て、わめやLeoさんって”縁起信仰”してる人みたいに見えてたりしてw爆
>縁起の言葉は避けて、暫定真理とか、普遍原理とか、在りのままをつぶさに観てなどの表現にしたほうがいいのかな・・・w汗

なるほどなるほど。宗教臭くない方向とすると東洋哲学研究所の友岡さんという方の仏教の解説が参考になりそうです。

縁起とは何か?縁起とは世界のありのままの現象といえますが、人間側からすると
「一切の偏見や先入観を排除した認識の態度」といえるということです。

『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
ttp://page.freett.com/Libra0000/016.html
(楽天ブックス)
ttp://item.rakuten.co.jp/book/1301746/

「人々に自分が考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じていることが、
 歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上の自明性(簡単にいえば「常識」)が、
 批判し破壊することができるものだと示すこと」(ミシェル・フーコー)
→世界は縁起であるからこそ固定的常識が破壊できる

「ブッダは何か、すばらしい、一つの固定的なものを知ったのではありません。すべてのものに対して、
 一切の偏見や先入観を排除した認識の態度を身に付けたのです。ブッダとは、「何かを覚った人」ではなく、
 すべてのものに対する「偏りのないものの見方を持ちえた人」のことだといえるでしょう。」
→縁起とは偏りのないものの見方

「何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永遠に突破することにあります。
 一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。」
→縁起によれば虚無にも固執にも陥ることなく人は進化できる

62 Leo :2005/10/08(土) 23:22:54
snowさん、こんばんは。

書き込みされている途中で書き込んだようになってしまいすみません。
なんか一杯か書き込んでしまってびっくりされていると思いますが
あまり気になさらないでください。

63 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 23:37:10
snowさん、こんばんは〜^^

> あってるかどうかわからないけど、今の時点での私の縁起のとらえ方、↓に書いてみます。

合ってるわけないと思いますよ。わめやLeoさんも、正しく縁起を捉えているはずがないと断言できますし、だからこうして話し合っているわけだし・・・

> またツッコミいれてくださいませ。

はい、誰も彼も正しくないのですから、お互い訂正しあいましょう。(゜▽゜*)ニパッ♪

64 snow :2005/10/08(土) 23:40:33
え〜っと、とりあえず…。

多くの人が「自分」というモノがあると思っている。
身体(物体)としてだけでなく、それぞれが固有の精神というものも存在している、と思っている。
でも、実際は身体にしても精神にしても、変わらないものがあるわけではなく、
常に周囲の影響を受けながら変わっていくものである。
(↑これが諸行無常ってこと?)
自分と他者があるのではなく、自分も他者も、互いに影響・関係しながら流動的に変化するモノで、
境目がない。
で、今まさに変化している自分・他者・世界といった現象(状態?)は、
なんらかの原因があって、その結果で現在の状態になっているのであって、
現在の「結果」は未来の「原因」となって、変化はずっと続いていく。

これが私たちを取り巻いている世界の正体である。

どですか?

65 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/08(土) 23:53:17
snowさん、何だか宗教臭いですよ。笑

> 多くの人が「自分」というモノがあると思っている。
> 身体(物体)としてだけでなく、それぞれが固有の精神というものも存在している、と思っている。

これは、多くの人が自立自存していると、思い込んでいると言ったほうがいいかな。
自分と言うものは、心身共に関係性の中で生起していることに、気が付いていないということでしょうか。

> でも、実際は身体にしても精神にしても、変わらないものがあるわけではなく、
> 常に周囲の影響を受けながら変わっていくものである。
> (↑これが諸行無常ってこと?)

大当たりしているので何も書けないと書いてみるテストw

> 自分と他者があるのではなく、自分も他者も、互いに影響・関係しながら流動的に変化するモノで、境目がない。

これは微妙だと感じます。でも外れじゃない。 ただ境目がないは観念的な気がする・・・

> で、今まさに変化している自分・他者・世界といった現象(状態?)は、
> なんらかの原因があって、その結果で現在の状態になっているのであって、
> 現在の「結果」は未来の「原因」となって、変化はずっと続いていく。

これに、今は過去の結果であり、未来の原因であると言うことで、今は因果倶時とも言います。
^^

> これが私たちを取り巻いている世界の正体である。

 これがすべてかと言うと、そうではないと思いますが、正体ですね。^^
ってsnowさんは、元からある程度知っていたはずです。だってこの世界で生きて、色々経験してきているのですもの。
 色眼鏡をかけなければ、以外と誰でもすんなり理解できるはずなのです。

66 snow :2005/10/08(土) 23:59:18
>>61 >>62
Leoさん、レスありがとうございます(^-^)
かえって気を遣っていただいて、すみません。
書き込み途中だからといって、私は全然気にしませんので(掲示板とはそう言うものだと思っています)
これからも気にせずガンガンいろいろ教えてください。

>「一切の偏見や先入観を排除した認識の態度」といえるということです。

このいい方、大変わかりやすかったです。ご紹介ありがとうございます。

67 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/09(日) 00:01:06
因果倶時って、わめも宗教臭いこと書いたわw汗

> これに、今は過去の結果であり、未来の原因であると言うことで、今は因果倶時とも言います。
> ^^

因果倶時=すべての現象に因(未来の因)と果(過去の果)が具わっている。

これがずっと続いていくのですから、惰性とか、習慣とか、思い切ったことが、なかなかできないとかの理由のようにも感じたりします。^^

68 snow :2005/10/09(日) 00:03:33
ありゃ、もうわめさんからレスついてる(笑)
とりあえず>>63

そりゃそうですよね〜。あってる訳ないですね(笑)

69 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/09(日) 00:24:55
>「一切の偏見や先入観を排除した認識の態度」といえるということです。

Leoさんかっこ (・∀・)ィィ

更にかっこいいレスが付きそうだから、わめはROMろっと。♪
無我・空がでてくるかも・・・ ((o( ̄ー ̄)o)) ワクワク

70 snow :2005/10/09(日) 00:28:32
>>65
え〜?宗教臭いかしら〜?
だとしたら、夜な夜なむかっ腹立てながら創価話を眺めている恩恵かなぁ(遠い目)
諸行無常とか書いたからかな?

…と、とりあえず気になったので脱線してみる(笑)

>自分と言うものは、心身共に関係性の中で生起していることに、気が付いていないということでしょうか。

なるほろ。もとからあるものに気づけるかどうか、って事ですね。
…って、「生起」って宗教臭いかも〜(笑)

>大当たりしているので何も書けないと書いてみるテストw

イェイ♪一個マルもらえて嬉しい生徒の気持ちを思い出せた(笑)

>これは微妙だと感じます。でも外れじゃない。 ただ境目がないは観念的な気がする・・・

>これがすべてかと言うと、そうではないと思いますが、正体ですね。^^

↑部分、書いてるときも引っかかりながら書いてました。
まだまだ曖昧ですけど、もうちょっと考えてみます。

71 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/09(日) 00:38:07
あ、snowさん、Leoさんご紹介の下記ですが、
友岡雅弥氏って東洋哲学研究所の研究員方で、もちろん学会員でもあるわけですが、学会にはこんな方もおられるのです。
わめは大ファンです。^^

『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/016.html
(楽天ブックス)
http://item.rakuten.co.jp/book/1301746/

72 Leo :2005/10/09(日) 00:51:44
わめさん。>>69

(念のため...)
>>「一切の偏見や先入観を排除した認識の態度」といえるということです。
>Leoさんかっこ (・∀・)ィィ

「一切の偏見や先入観を排除した認識の態度」は友岡さんが仰ったことです...

言い方は語弊あるかもしれませんが、創価学会の方(=友岡さん、東洋哲学研究所の方)でも、
少数派かもしれませんが、理にかなったものの見方をされている方がおられるのですね。

余談ですが...1990年代半ばぐらいに聖教新聞に「仏典散策」という記事がありましたが、
友岡さん担当だったらしいです(確かLibraさん談)。当時は私は「なぜ釈迦仏教の記事があるの?
(釈迦仏教なんてやってたらダメじゃない?)」と大いに疑問で、岩波文庫の「スッタニパータ」
とか読み始めました。それが1990年代終わりにLibraさんに出合って妄信から離れるきっかけに
なったと思います。

私は理論派ではないですが「仏典散策」に目が向くとかLibraさんに出会うとか嗅覚というか
直観力は少しあったのかもしれません。

73 Leo :2005/10/09(日) 01:24:55
>更にかっこいいレスが付きそうだから、わめはROMろっと。♪
>無我・空がでてくるかも・・・ ((o( ̄ー ̄)o)) ワクワク

かっこいいレスは難しいですが(^^;

>(゜▽゜*)ニパッ♪

にちなんで、「スッタニパータ」(中村元訳、岩波文庫)より。

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。」

自我に固執する見解をうち破って→無我ということですね。

74 Leo :2005/10/09(日) 17:46:34
友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社 より

「例えば「悪人」という実体はありません、いままで、悪いことをしていなかった人でも、
さまざまな人生の状況で悪をなしてしまうことがあります。ある瞬間、悪を行うならば、
その人は悪人なのです。しかし、それを心から反省して善を行っているなら、その時は
善人なのです。」

 私は韓ドラの「オールイン」を観て上を思い出しました。

「そのような意味で、行為とその結果の因果関係は、過去世の因が現世に報いるという
形ではなく、今何をしているかがその人を決めるという「同時存在性」(因果倶時)なのです。
また、それは固定的なものでなく、瞬間瞬間変化する関係です。これが「縁起」です。
ある一定の「生まれ」とか「階級」を、固定的で不変化な「悪」と決め付けることへの
根源的な批判が、「縁起説」という形で、ブッダによってなされたのです。」

 因果倶時は「同時存在性」と表現できるのですね。

「人はしばしば何かを固定的で変化しないものと、実体的に見ることがあります。
それがブッダの批判したものです。」

「「習慣を疑え」−これは本の最初の方に何度も繰り返したブッダのマニフェスト(宣言)です。」

友岡さんは学会批判の方ではないようですが、私が個人的に思うことは「学会指導」が「習慣」
になっていないかということです。

75 Leo :2005/10/09(日) 21:04:47
縁起・空について思うこと by Leo

ロケットの軌道って縁起・空だと思う。軌道って実体がない。
軌道という線路のようなものがあるのでない。
ロケットが計算した軌道通りに飛ぶといっても、ロケットエンジンの燃焼状態など
により目標の軌道からずれるわけで、そうるすとメインロケットや補助ロケットの噴射などによって、
軌道修正したりする。そこには精妙な制御がある。制御とは測定と修正により成り立っている。
制御がないロケットは大砲とかわりがない。
目標に向かうことはおぼつかない(月や惑星になどに行けない)。

76 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/09(日) 23:14:54
Leoさん、こんばんは〜

>>72 > 「一切の偏見や先入観を排除した認識の態度」は友岡さんが仰ったことです...

かっこいい言葉を抽出されるのも、そのLeoさんの嗅覚・直観力かもしれませんね。^^

>>73 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。」

これだけ見ると無我かなって気がするのですが、中村元氏は韻文がより仏説に近いと執着する方に思え、氏の空の捉え方はどうなんだろうとか?、無我を打ち破り真のアートマン登場みたいなこと考えてたりしてw汗

>>74 >「例えば「悪人」という実体はありません〜

あるともないとも分からない過去世に縛られるなと言うことですね。(^。^) ただ、

> 「そのような意味で、行為とその結果の因果関係は、過去世の因が現世に報いるという
> 形ではなく、今何をしているかがその人を決めるという「同時存在性」(因果倶時)なのです。

の、このような表現の因果の同時存在性(因果倶時)は、ちょっと理解しにくいです。(^^;;
過去世なんて無いと思っているわめですから、現世のみで考えてみると、昨日と今日が同時に存在するって意味に取れちゃうわけで、そうなるとわめの思う、今日には、昨日の果と明日の因を含むのだから因果倶時との捉え方とは、ずれてしまいますね。

>>75 >ロケットの軌道って縁起・空だと思う。軌道って実体がない。

 目的地に向かう正しい軌道は、出発点から目的地に向かうその空間において、ロケットに与えるほぼすべての影響を、人間が知っているという英知の結晶だと思います。
 重力計算が重要だと思うけど、Leoさんは縁起に重力は含まれると思ってらっしゃるのかな? わめは重力は重力として暫定真理かなって思ってますが。

77 Leo :2005/10/10(月) 00:29:51
>これだけ見ると無我かなって気がするのですが、中村元氏は韻文がより仏説に近いと執着する方に思え、
>氏の空の捉え方はどうなんだろうとか?、無我を打ち破り真のアートマン登場みたいなこと考えてたりしてw汗

古代は文字で記録するのが貴重(高価)だったし一般的でなかったから、韻文(詩形式)というのは声に出しながら
記憶するのに便利な方法だったようです。人間テープレコーダというか、人間MDというか。
仏教では釈迦滅後の仏典結集までは文字化されてなかったそうです。
そういう意味で経典の韻文部分がより古い時代のものである可能性はあります。

確かに(すぐにソースが出てこないですが)「真のアートマン」を主張する人もおられます。

大学の先生や研究者でさえも(中村元氏含む)曖昧さを残したり間違えたりする可能性をLibraさんが指摘(および紹介)
してました。(すでに参照されているかもしれませんが...)

○「無我」と「非我」は違うか? 
http://freett.com/Libra0000/z011.htm

「〈我〉(a(_)tman)に対する否定を表し、〈我が無い〉と〈我ではない〉(非我)との両方の解釈がなされる。
中村元他編『岩波仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 779) 」
仏教の根本思想に対して「無我」と「非我」と対立する解釈はおかしいのではないかということです。

○『スッタニパータ』vs.『ダンマパダ』(袴谷憲昭)
http://freett.com/Libra0000/008.html

中村元氏は自分の著書で矛盾することを書いてしまった。

○『スッタニパータ』の立場は「ジャイナ教的相対主義」(松本史朗)
http://freett.com/Libra0000/009.html

最も古い経典についても他宗教の影響がみられるのですね。相対主義は議論なんかしても意味がないという
立場ですが、議論(または批判)せずにどうやって真理に迫ることができるのだろうかということです。

78 Leo :2005/10/10(月) 00:40:57
補足です。

>相対主義は議論なんかしても意味がないという立場ですが、議論(または批判)せずにどうやって
>真理に迫ることができるのだろうかということです。

相対主義 → 議論なんかしても意味がない
批判的合理主義 → 議論(または批判)によって真理に近付くことができる

>重力計算が重要だと思うけど、Leoさんは縁起に重力は含まれると思ってらっしゃるのかな? 
>わめは重力は重力として暫定真理かなって思ってますが。

重力についてのニュートン力学も暫定真理で、アインシュタインの相対性理論が出てきた
(これも暫定真理)。

Aという物体とBという物体が存在するとその間に重力が発生し、Aという物体も
Bという物体もなければ重力も存在しない。重力はそれ自体で存在しない。
ということで重力も縁起ではないでしょうか。

79 Leo :2005/10/10(月) 00:56:51
業務連絡(←?!) Libraさんは年末にまた掲示板に来られるとのこと。
それまでにLibraさんに質問(出来れば議論)できる話題が集まるとよいかもしれません(^^;

80 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/10(月) 01:16:06
Leoさん、重力についてもう少し勉強してみようと検索してみたら、面白いページを発見w笑

ちょっと思索してみますのでお返事はまた後日に。m(_ _"m)ペコリ

重力を制御する方法
http://www13.big.or.jp/~redsky/grav/

本来は↓など読めばいいのかもしれませんが、↑が面白そうなのでwぉぃ
http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/gravity/gravity_exp.html
http://www.kagaku.info/faq/gravity000221/

> 業務連絡(←?!) Libraさんは年末にまた掲示板に来られるとのこと。

そんなに長く来られないのね。(´・ω・`)ショボーン

> それまでにLibraさんに質問(出来れば議論)できる話題が集まるとよいかもしれません(^^;

(*゜ー゜)(*。_。)(*゜ー゜)(*。_。)ウンウン

81 Leo :2005/10/10(月) 11:02:04
わめさん、こんにちは。>>80

>重力を制御する方法
>http://www13.big.or.jp/~redsky/grav/

「未公開の重力発電機」といっても小型実験機を作成したりシミュレーション
(どのくらいの回転でどのくらいのエネルギーを発生できるか)を
やっていないことから実現性を無視したアヤシイ提案に思います(^^;
(本売れたのかなー?)

○スペースコロニー
ttp://spaceinfo.jaxa.jp/note/kouso/j/kou102_colony.html
「自転の遠心力を重力に代用する」

○惑星科学のための宇宙探査機
ttp://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/spacecraft.html
「重力による加速」

などは確かに「重力を制御する方法」「物体を加速させる方法」には違いないです。
こんなのもあります(卵を宙に浮かせるだけでもかなり大変)。

○回転するゆで卵は本当に宙に浮く
ttp://slashdot.jp/article.pl?sid=05/07/12/1420252
「ゆで卵を毎秒30回転以上させると、重力に逆らって宙に浮く」

82 Leo :2005/10/10(月) 11:14:13
>「未公開の重力発電機」といっても小型実験機を作成したりシミュレーション
>(どのくらいの回転でどのくらいのエネルギーを発生できるか)を
>やっていないことから実現性を無視したアヤシイ提案に思います(^^;

ジャイロが一定方向に動く実験映像はありましたが、実際に発電しないと。
このジャイロを仕込んだ自転車などで走り回るのでもよいけど。
摩擦で減少するエネルギーを補うのに電力とモータが必要になって
永久機関にならないのではないかと思います(^^;

83 Leo :2005/10/10(月) 17:10:18
そういえば既知の「重力発電機」ってありますね。水力発電がそう。
ライト兄弟だって人間を乗せて飛ぶ飛行機を実際に製作しなかったらただの変人に終わったでしょう。

84 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/10(月) 17:53:03
Leoさん、こんばんは。

> そういう意味で経典の韻文部分がより古い時代のものである可能性はあります。

 その可能性はありそうですね。
 でも古いのと仏説に近いのと、因果関係としてどうなのでしょう。ブッダが韻文を言ったなど聞いたことないですし、教えを説くという意味では散文だと思うし、韻文から散文ができたなどという説はその内容の違いからも疑義がありますし、まぁいずれにしても滅後100年上も経ってからの経典結集ですからね。(^^;;
 やっぱそれより思想史的方法がいいように思うな。^^

仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
http://freett.com/Libra0000/082.htm

85 Leo :2005/10/10(月) 18:02:19
永久機関について。
ドクター中松なんかはマトモな発明もしているけど(フロッピーディスクとか手動醤油(後に石油に使う)ポンプとか)、
結構トンデモな発明もしてますね(本人はギャグでなく本気かもしれないですが)。
そういうトンデモも世の中を愉快にさせるという点では有意義かもしれないです。

ドクター中松エンジン
ttp://www.dr-nakamats-shop.co.jp/dr/nakamatu.html

ttp://www.ch-sakura.jp/bbs_thread.php?GENRE=sougou&ID=117120&P=150
「このドクター中松エンジンIIとはどういうものかというと、
宇宙にあるエネルギーを取り込んで無接触で回転するものである。
その構造は、装置本体に三つの特殊なアンテナがついていて、
そのアンテナから、宇宙にある赤外線、可視光線、紫外線、
エックス線、ガンマー線などあらゆるエネルギーを吸収して、
無接触でエンジンを動かす仕組みになっている。
この『ドクター中松エンジン』の重要なポイントは、
全く接触せずに回転し つづけることである。つまり、
機械的エネルギーロスがゼロで 機械的磨耗がないので、メンテナンスが不要だ。
これがどうい うことかというと、ドクター中松エンジンIIは永久機関ということだ。
それも世界初の永久機関である。現在、永久に回転する永久機関は、
『熱力学第二法則により不可能』というのが定説である。」

宇宙エネルギーといって外部からエネルギーを取り込む時点で永久機関じゃなくなってます(^^;
たとえば太陽電池や水力発電などが半永久的に使用できても永久機関ではないです。

86 Leo :2005/10/10(月) 18:06:40
わめさん、こんばんは。>>84

> やっぱそれより思想史的方法がいいように思うな。^^

す、するどい。

>仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
>http://freett.com/Libra0000/082.htm

お、中村元氏批判はそこにありましたか。

87 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/11(火) 19:17:44
 Leoさん、わめの重力の話から脱線しちゃいましたが、重力発電機や永久機関にしろ、今までの既成概念に囚われないで、更に探求していく姿勢は学ぶところが大きいと思います。

 友岡さんの「習慣を疑え」も、既成概念を何でも当たり前のように思い込んでしまうことへの警告なのかもしれませんね。

 ところで、『今何をしているかがその人を決めるという「同時存在性」(因果倶時)』の”同時存在性”が、>>76で書いたようにわめには理解しがたいのですが、Leoさんは理解されておりますか?

 もし理解されているようなら、Leoさん流理解で結構ですので、ご意見をいただければ幸いです。

88 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/11(火) 19:31:24
「同時存在性」と言えば量子力学で、各1個の光子を正反対の方向に同時に発射して、その片方を途中から鏡なので曲げると、もう一方も同じ方向に曲がるという話があったような・・・

これは極端な例として、宇宙の端と端までその光が伸びたとしても、その片方を宇宙の端で曲げると、やっぱりもう一方も同時に同じ方向に曲がるとされる理論を読んだことがあります。

この現象には時間の概念が存在しないと言うことで、このようなことが言われているようですが、因果倶時の「同時存在性」もこのような意味合いのものなのかな?

( ̄ヘ ̄;)ウーン

89 Leo :2005/10/11(火) 23:08:00
わめさん、こんばんは。

>Leoさん、わめの重力の話から脱線しちゃいましたが、重力発電機や永久機関にしろ、
>今までの既成概念に囚われないで、更に探求していく姿勢は学ぶところが大きいと思います。

(念のため...)私は永久機関否定派でいわゆる疑似科学(トンデモ)を批判するにやはり反証は有用と思いました。

> ところで、『今何をしているかがその人を決めるという「同時存在性」(因果倶時)』の”同時存在性”が、
> >>76で書いたようにわめには理解しがたいのですが、Leoさんは理解されておりますか?

同時存在性とは原因が結果として短時間にあらわれるということではないでしょうか。
たとえばAさんが学会員であるのは、未知の過去世に池田先生の久遠の弟子であったからではなく、
入会したからとか、親が学会員であったからによるものです。

別の見方をすると、卵(原因)と鶏(結果)は同時存在といえないでしょうか。卵が消えて鶏になるので
はなくだんだん成長するわけで、空間方向だけでなく時間方向も一体の存在と捉えることが
できるのではないかと思います。

90 Leo :2005/10/11(火) 23:40:29
同時存在性に関係ありそうな時間論はこのようなページがありました。

○時間論
ttp://www.geocities.jp/enten_eller1120/thema/time.html

>「同時存在性」と言えば量子力学で、各1個の光子を正反対の方向に同時に発射して、
>その片方を途中から鏡なので曲げると、もう一方も同じ方向に曲がるという話があったような・・・

もしかして量子テレポーテーションですね。その話題に行く前に、わめさんの以前「光」の
話で疑問点が出てきました。光は一種のエネルギーですが、ビッグバン理論によって無から
宇宙が生じたとすると、光などのエネルギーが宇宙のはじめにそれ自体存在し、
縁起説が危機になるように思います。ありゃ?

○ビッグバン
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3

無といっても「エネルギーの揺らぎがあってそこから物質と反物質がポット生まれてすぐ消える、ゆらいだ状態」
(量子論的無)からの宇宙の発生だったら縁起説に反しないかな?

○現代の宇宙論
ttp://www1.fctv.ne.jp/~ken-yao/Recent.htm

91 Leo :2005/10/11(火) 23:50:14
そういえば時間も実体のないものですね。
ものごとが変化しなければ(地球が自転したり、時計が動いたりその他諸々)時間も存在しないでしょう。

92 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/12(水) 00:31:18
Leoさん、こんばんは〜^^

> (念のため...)私は永久機関否定派でいわゆる疑似科学(トンデモ)を批判するにやはり反証は有用と思いました。

わめは否定はしないけど永久機関は、第一種・第二種ともにまず無理でしょうとは思っておりますが、既成概念は否定的でもそれに屈せず探求する姿勢は好きですよ。^^

> 同時存在性とは原因が結果として短時間にあらわれるということではないでしょうか。

これだとわめの思う、昨日の今日の結果と明日の今日の原因とが、共に同じ事柄を指すということでの因果倶時かなっとは思いますが、その意味だと原因と結果に時間のズレがありますから”同時”存在性とはならないような・・・

時間方向で言えば、最初は分かりませんが整数と考えて、2は1の果で3の因、3は2の果で4の因・・・となってそれぞれの数字は因果両方含むわけで、つまりは因果倶時ではないかと。

> もしかして量子テレポーテーションですね。その話題に行く前に、わめさんの以前「光」の
> 話で疑問点が出てきました。光は一種のエネルギーですが、ビッグバン理論によって無から
> 宇宙が生じたとすると、光などのエネルギーが宇宙のはじめにそれ自体存在し、
> 縁起説が危機になるように思います。ありゃ?

ビッグバン理論によって宇宙は生まれたのでしょうか? わめには分かりませんw汗 ただ時間が流れているわけですから、始まりはあったのではないかと思うのです。と言うのはわめは始まりがないと、時間が流れないと思ったりしてるわけですけど。(怪しい?)

> 無といっても「エネルギーの揺らぎがあってそこから物質と反物質がポット生まれてすぐ消える、ゆらいだ状態」
> (量子論的無)からの宇宙の発生だったら縁起説に反しないかな?

それが本当のことなら縁起に反するのかな? てか縁起が成り立たない? 成り立たなければ棄てましょう。(^^;;

> そういえば時間も実体のないものですね。
> ものごとが変化しなければ(地球が自転したり、時計が動いたりその他諸々)時間も存在しないでしょう。

わめは物事が変化(壊れていく?)するのは、時間の矢が過去から未来に向かっているからで、それは宇宙の膨張=エントロピーの増大が原因じゃないかと思ったりしています。^^

93 Leo :2005/10/12(水) 00:42:08
>> 無といっても「エネルギーの揺らぎがあってそこから物質と反物質がポット生まれてすぐ消える、ゆらいだ状態」
>> (量子論的無)からの宇宙の発生だったら縁起説に反しないかな?
>
>それが本当のことなら縁起に反するのかな? てか縁起が成り立たない? 成り立たなければ棄てましょう。(^^;;

宇宙が完全な無から発生したとすると縁起説に反するけど、量子論的無から発生したとすると縁起説に反しないかな
と思いました。
でも縁起説に固執するのも縁起的でないし、縁起説に反証が出てきてもおかしくないです。
そうでなければ縁起信仰になってしまう(^^;

>わめは物事が変化(壊れていく?)するのは、時間の矢が過去から未来に向かっているからで、
>それは宇宙の膨張=エントロピーの増大が原因じゃないかと思ったりしています。^^

なるほど。物事が変化するのはエントロピーが増加するということで。

94 Leo :2005/10/12(水) 23:41:50
わめさん、勉強になります。ありがとうです。

時間
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82
「簡単にいえばエントロピーが増大する方向に時間は流れるのである。」

「仏教
 龍樹に代表される空思想においても時間は、現在意識を軸に考察されている。」

「同時存在性」って「現在意識を軸」が関係するのかもしれないですね。

他の話ですが、量子テレポーテーションはこのようなサイトがありました。
ttp://www.nanoelectronics.jp/kaitai/qteleportation/

絶対盗聴不可能、三菱の量子暗号通信システムが87kmの長距離通信に成功
ttp://pcweb.mycom.co.jp/news/2002/11/14/07.html
へえ!
でも7.2bpsってまだ1秒間にアルファベットか数字1文字しかおくれない。

95 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/10/13(木) 00:04:56
Leoさん、こんばんは。^^

> わめさん、勉強になります。ありがとうです。

Σ(^∇^;)えええええ〜 初めてお役に立てましたか!♪ d(⌒o⌒)b♪

> 時間
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82
> 「簡単にいえばエントロピーが増大する方向に時間は流れるのである。」

んでこれは、宇宙の膨張が成せる業じゃないかと・・・
縮小を始めると時間も過去に戻るのかもw汗

>  龍樹に代表される空思想においても時間は、現在意識を軸に考察されている。」
> 「同時存在性」って「現在意識を軸」が関係するのかもしれないですね。

「同時存在性」って「現在意識を軸」ですか・・・ 同時って現世を指すことならわめの思う因果倶時と同じですけど。^^

> 他の話ですが、はこのようなサイトがありました。
> ttp://www.nanoelectronics.jp/kaitai/qteleportation/

わめの言ってたのは「双子のパラドックス」だわ。
量子テレポーテーションはそれの応用なのね。

> 絶対盗聴不可能、三菱の量子暗号通信システムが87kmの長距離通信に成功
> ttp://pcweb.mycom.co.jp/news/2002/11/14/07.html
> へえ!
> でも7.2bpsってまだ1秒間にアルファベットか数字1文字しかおくれない。

いやいや、暗号キーのみそれで送って、後は通常通信で問題ないのだからこれは実用レベルですよ。^^

96 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/16(水) 19:26:52
Leoさん、くまりんさんの、曽我さんのサイトをちゃんと読んでいないにも関わらず、その印象というか、それを

> このかたはどうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?程度の認識しかありませんでしたのでこんどちゃんと読んでみます。

と鋭く観察されているように思います。^^

 それはわめも感じておりましたが、曽我さんは慈悲心(これ自体も縁起・無我の捉え方かも)をもって、原始仏教を捉えられているのかなって思ってました。

 縁起を関係性と捉えるわめには、曽我さんの思いにも感銘してますし、縁起を基調としていますが、仏教という枠に自分をはめ込みたくはないし、また仏教を引き入れたいとも思ってはいないように思うのだけど、客観的な思考と、縁起の思想の関係性からの思い(他者の存在の必要性・あるいは他者の不存在?)と、バランスなのか立て分けなのか分からないけど、結構難しく感じます。

97 Leo :2005/11/16(水) 23:41:12
わめさん、こんばんは。

わめさんがくまりんさんのリンクを引用していたのでてっきりお知り合いと
思ってしまいました。

くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
の指摘は考えさせられますね。
ブッダをタイムスリップさせて現代に連れて来れないですが、文献や最新の研究成果などから
素直にブッダの声に耳をかたむけてみるという点もよいと思います。

曽我さんとajitaさんの間で大激論があったり、曽我さんがヴィパッサーナ合宿に参加したり
色々あったのですね。

98 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/17(木) 01:13:29
Leoさん、こんばんは。^^

> わめさんがくまりんさんのリンクを引用していたのでてっきりお知り合いと
> 思ってしまいました。

(o_ _)ノ彡☆ギャハハ!! バンバン!
 ってわめは、くまりんさんのブログ内でトップページや記事ごとのリンクについてご自由に、連絡も無用とのコメントを発見しておりましたので、お構いなしに活用させていただいておりました。汗
 誤解させて(^∧^) ゴメンゴメーン

> くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
> の指摘は考えさせられますね。

( ̄  ̄) (_ _)うんうん
 ブッダを尊敬すればするほどそうなってしまうのかもしれませんね。ましてそれに強い慈悲心も伴えば尚更かもしれませんが、わめ如きにはやっぱり曽我さんやくまりんさんのテキストに触れても、そうなのかぁ〜程度にしかわかっていないかもです。涙

> ブッダをタイムスリップさせて現代に連れて来れないですが、文献や最新の研究成果などから
> 素直にブッダの声に耳をかたむけてみるという点もよいと思います。

 Leoさんはそっちにいきますか。^^
 わめは師匠'sやくまりんさんやLeoさんのその成果を教えていただくだけで十分かもです。♪
 わめはどちらかと言えば仏教以外に目を向けていきたいと思っちょりますばい。笑

> 曽我さんとajitaさんの間で大激論があったり、曽我さんがヴィパッサーナ合宿に参加したり
> 色々あったのですね。

 曽我さんのヴィパッサーナ合宿でのお話は同サイトにアップされて読ませて頂きましたが、大激論のテキストは見つけられませんでした。(´・ω・`)ショボーン

99 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/17(木) 17:29:30
Leoさん

早速くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」から連想して、「どうして日蓮(大聖人)を自分の思うあるべき仏法に引き入れるんだろう?」に置き換えて記事にしてみました。^^
http://wame.seesaa.net/article/9440778.html

でも当たってると思わない?

100 Leo :2005/11/17(木) 22:58:18

わめさん、こんばんは。

>早速くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」から連想して、「どうして日蓮(大聖人)を自分の思うあるべき仏法に引き入れるんだろう?」に置き換えて記事にしてみました。^^
>http://wame.seesaa.net/article/9440778.html
>でも当たってると思わない?

確かにそうですね。

『聖徳太子』というドラマで、蘇我馬子が机の上で小さい仏像をぐるぐる回していたアレですよ。
どんなお偉い方であっても「信心利用」はいけないってことですね。

それにたとえば「分断は悪」という指導は全体主義であり独裁なのでしょう。

ぜんたいしゅぎ 【全体主義】
「〔totalitarianism〕個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、
 全体の成長・発展のために行われなければならないという思想または体制。
 そこでは、国家・民族が優先し、個人の自由・権利が無視される。」
(「大辞林 第二版」)

どくさい【独裁】
「絶対的な権力を握る一定の個人または集団・階級が独断によって全体を治めること。また、そのような体制。」
(「大辞林 第二版」)

>大激論のテキストは見つけられませんでした。(´・ω・`)ショボーン

くまりんさんの話で大激論があったとわかったのですが、大激論の直接のテキストはないようです。
曽我さんのテキストの力こぶから推測するしかないようです。

101 Leo :2005/11/18(金) 00:54:08
「創価学会は日蓮(大聖人)仏法を基調とし、日蓮(大聖人)の残された遺文(御書)を教義の中心思想としています。
この遺文(御書)を集めたものが御書全集と言われるものですが、その御書全集に収められている日蓮(大聖人)の
遺文(御書)には、日蓮(大聖人)がほんとに書かれたとされるものは半数をやや越える程度で、
真偽未決や後世で加筆されたであろうと予測されるものや偽書の疑いの濃いものが半数近くを占めています。」
http://wame.seesaa.net/article/9440778.html

そうですね。
日蓮(大聖人)は創価学会の会員でもなく創価学会版御書を手元においていたのではなかったですね
(註法華経を手元におかれていた)。

日蓮(大聖人)をタイムスリップさせて現代に連れて来れないですが、文献や最新の研究成果などから
素直に日蓮(大聖人)の声に耳をかたむけてみるのもよいと思います
(本を出された山中講一郎さんがやっておられるのもそういうことなのですね)。

102 くまりん :2005/11/18(金) 05:35:34
わめさん、Leoさん、おはようございます。
 いろいろとご紹介有り難うございます。曾我さんと ajita さんのやりとりは以下にあります。曾我さんへの僕の感想はこのやりとりから生まれたものです。

http://d.hatena.ne.jp/ajita/searchdiary?word=%C1%BE%B2%E6%B0%EF%CF%BA&amp;.submit=%B8%A1%BA%F7&amp;type=detail
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

103 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/18(金) 11:11:08
くまりんさん、わざわざありがとうございます。\(^▽^)/

早速読ませていただこうと思います。
Leoさんもきっと大喜びしそう。(⌒〜⌒)ニンマリ

104 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/18(金) 18:17:24
やっと読めた。^^ くまりんさん感謝です。ぺこ <(_ _)>

 うーん、どちらかと言うとテーラワーダの教えがブッダの正当な教えで間違いはないと、ajitaさんが拘っておられるのが印象的でした。
 曽我さんは”疑”をもって不純物を取り去り、ブッダの教えを知ろうとされているような印象かな。

 わめはブッダが、縁起と呼んだ暫定真理のようなものがすげ〜って思っていて、縁起に限らず暫定真理(カケラ含む)のようなものを仏教と言うものにも拘らず、わめの視界から見える世界に目を”凝”らし、みつけ活用(楽しむ・楽しませるため)していきたいなって思ってますが、ブッダの教えに対しては何がそうで何が不純物かなんてことにはあまり興味が湧いてこない。

 それはわめが悟りとか解脱とか言うものにあまり興味がない、願ってもいないからかもしれないな。

 楽しむ・楽しませるに強く拘る、我執の塊のようなわめでした。(T▽T)アハハ!

105 Leo :2005/11/19(土) 00:27:18
くまりんさん、わめさん、こんばんは。

>曾我さんと ajita さんのやりとりは以下にあります。

資料があったのですね。くまりんさん資料ご紹介ありがとうございます。
ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。

>楽しむ・楽しませるに強く拘る、我執の塊のようなわめでした。(T▽T)アハハ!

エンターティメントですか?!
なんだかんだの昨今ですから、色々学ぶか、エンジョイするしかないです(^^;
人間、生きてるだけで丸儲けです。

106 Leo :2005/11/19(土) 00:51:58
>ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。

なんですけど、ajitaさんきついところもあるけど色々考えさせられます。

107 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/19(土) 02:40:48
Leoさん

> ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。

 こんなこと言ったら顰蹙を買いそうだけど、どうして個に向かおうとばかりするのかがわめにはよく分からない・・・(曽我さんが個に向かうのは開いていくためなのかなって思いますが)
 どうせ壊れて(拡散)いくってのがわめから見える世界だから、時間が逆戻りしてない限り、方向は内から外って思うのだけどな。
 外から内に還元されて( ゚Д゚)ウマーってのもありそうだし。

> >ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。
>
> なんですけど、ajitaさんきついところもあるけど色々考えさせられます。

曽我さんもajitaさんもすごい人だなって思うけどね。思うけどだな・・・

108 Leo :2005/11/20(日) 00:22:11
わめさん、

わめさんは仏教に拘らないと思いますが...
仏教で「我見」は「自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え」だそうですよ。
くまりんさんの掲示板のご挨拶で「我執・我見もあり」と仰っていたので...

こんなこといっているバヤイじゃないのは承知ですが...
とはいえ昔「本質が」「本質が」とさかんにいっていた人がいたなあ。

がけん 【我見】
(1)自分だけの狭くかたよった意見や見方。
(2)〔仏〕「我執(がしゆう)」に同じ。
(「大辞林 第二版」)

がしゅう【我執】
(1)〔仏〕 自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え。我見。
(2)自分中心の狭い考え。また、それにとらわれること。
(「大辞林 第二版」)

109 Leo :2005/11/20(日) 00:26:03
なんか仏教用語だけでなく、こんなことを思ってしまった。

我見・我執

・特定の宗教団体だけの狭くかたよった意見や見方。
・特定の宗教団体中心の狭い考え。また、それにとらわれること。

110 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 00:54:34
Leoさん、こんばんは〜^^

わめは仏教に拘っていないといっても、その教えには一番関心があるのは事実です。(^^;

「自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え」も、Leoさんの我見のご意見もいいですね。(*´∇`*)

なんだかわめとよく似たことを考えるものだと不思議になりました。

> ・特定の宗教団体だけの狭くかたよった意見や見方。
> ・特定の宗教団体中心の狭い考え。また、それにとらわれること。

現実問題としてね、どんなに唯一正しい教えと言うものがあったとして(ないと思うけど)、それが何かの宗教団体とか組織とか、あるいは名称がつくだけにしても、教えを広げていこうとしたらそしてそれが大きく広がっていくとしたらどうなるでしょう?
円滑に他の宗教者(組織)や政治、また他国の宗教者(組織)・政治・国家との中で問題となって血で血を洗うことになるなんてことはないと思いますか?

個々の人がその教えを信じるとしても、信じる段階でもうそれはその人特有の教えの信じ方になってその教えに拘っているわけで、他の教えを信じる方とは”異質”な信じ方であって、教えの内にも争いが起こらないとは言えないと思います。

111 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 00:57:10
補足
信じる段階でその人特有の”教え”になってしまうのじゃないかと思ったりする・
正しい教えだから世の中がよくなったり、人々が幸せになると考えるのは短絡的ではないかと思う。

112 Leo :2005/11/20(日) 00:57:47
で、さらにこんなこともいえる(自虐的?)。

我見・我執

・特定の宗教団体を諸悪の根源と考えるだけの狭くかたよった意見や見方。
・特定の宗教団体を諸悪の根源と考える狭い考え。また、それにとらわれること。

我見・我執

・仏教だけの狭くかたよった意見や見方。
・仏教中心の狭い考え。また、それにとらわれること。

113 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 01:15:50
Leoさん

> 我見・我執
>
> ・特定の宗教団体を諸悪の根源と考えるだけの狭くかたよった意見や見方。
> ・特定の宗教団体を諸悪の根源と考える狭い考え。また、それにとらわれること。

これは微妙だな・・・

すべての宗教や思想や慣習などを諸悪の根源とまではいかなくとも唯一正しいとは言えないと切っていくことは、我見・我執先をなくしていくことになって悪くはないと思ったりするのですが・・・

114 Leo :2005/11/20(日) 01:17:50
わめさん、こんばんは。

>現実問題としてね、どんなに唯一正しい教えと言うものがあったとして(ないと思うけど)、
>それが何かの宗教団体とか組織とか、あるいは名称がつくだけにしても、
>教えを広げていこうとしたらそしてそれが大きく広がっていくとしたらどうなるでしょう?
>円滑に他の宗教者(組織)や政治、また他国の宗教者(組織)・政治・国家との中で問題となって
>血で血を洗うことになるなんてことはないと思いますか?

そうなんですよ。
それに世界を征服できた覇者はいないし、覇者だって滅ぶのですね。
で、覇者は意外と宗教に関しては寛容だったりします。
なので到底宗教で世界征服はできないでしょう。

>個々の人がその教えを信じるとしても、信じる段階でもうそれはその人特有の教えの信じ方に
>なってその教えに拘っているわけで、他の教えを信じる方とは”異質”な信じ方であって、
>教えの内にも争いが起こらないとは言えないと思います。

「生きとし生けるものに幸いあれ」というのはよい(正しい?)教えかなと最近思ってます。
まあ、超強力に「正しい」と主張する宗教があるとすると、その「正しい」の微妙なズレで
「正しくない」が生じ争いや分派が生じるのですね(既にそういう歴史は見たような)。

バベルの塔という逸話がありましたが、バベルの本堂があったとかなかったとか。

>信じる段階でその人特有の”教え”になってしまうのじゃないかと思ったりする・
>正しい教えだから世の中がよくなったり、人々が幸せになると考えるのは短絡的ではないかと思う。

やはり「教え」で「不幸」はなくならなく、「不幸」の除去(解決)で「幸福」はもたらされるのでは
ないでしょうか。

115 Leo :2005/11/20(日) 01:23:49
>すべての宗教や思想や慣習などを諸悪の根源とまではいかなくとも唯一正しいとは言えないと切っていくことは、
>我見・我執先をなくしていくことになって悪くはないと思ったりするのですが・・・

ええ。それはそうと思います。

yahooや2chなどでの特定の宗教団体に対する論調や、僕が目の前の宗教団体に対して思うことへの
批判や反省なんです(説明不足ですみません)。

116 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 01:29:07
Leoさん、今夜は時間が合うね。^^

> 「生きとし生けるものに幸いあれ」というのはよい(正しい?)教えかなと最近思ってます。

自身への言い聞かせの言葉としてはいいと思います。
でもさりげない言葉、こんにちは。こんばんは。今日はよい天気ですね。お変わりありませんか。などに自他共の関係性の思いを込めるほうが、聞く側に妙な不信感・違和感(関係性に距離ができる)を与えることが少なくていいようにも思うのですが・・・

> やはり「教え」で「不幸」はなくならなく、「不幸」の除去(解決)で「幸福」はもたらされるのではないでしょうか。

この不幸の定義は難しいかもw汗 そういった意味では宗教の教えも活きてくると思うけどね。^^

117 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 01:39:33
> やはり「教え」で「不幸」はなくならなく、「不幸」の除去(解決)で「幸福」はもたらされるのではないでしょうか。

覚悟(ちょっと意味深として)ができなくてどうしようもなく苦しい(不幸?)方には、副作用はあるにしても麻酔も致し方ないのではないかと思います。幸福は個人の価値観の問題だと思うからわめには何とも言えませんが。

118 Leo :2005/11/20(日) 01:48:24
>Leoさん、今夜は時間が合うね。^^

チャット状態ですね(^^;

>自身への言い聞かせの言葉としてはいいと思います。
>でもさりげない言葉、こんにちは。こんばんは。今日はよい天気ですね。お変わりありませんか。
>などに自他共の関係性の思いを込めるほうが、聞く側に妙な不信感・違和感(関係性に距離ができる)
>を与えることが少なくていいようにも思うのですが・・・

想像ですが...何か世界を世界各国語で挨拶して回る現代の不軽菩薩をイメージしてしまいました。
インドの手を合わせて「ナマステ」という挨拶は宗教じゃないけど(よい意味の)宗教ぽくていい。

>この不幸の定義は難しいかもw汗 そういった意味では宗教の教えも活きてくると思うけどね。^^

こんなこというと偽善になるかもしれませんが、『もし世界が100人の村だったら』の
80人、70人、50人や1人、あるいは99人の状況を思います

119 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 01:55:56
> こんなこというと偽善になるかもしれませんが、『もし世界が100人の村だったら』の
> 80人、70人、50人や1人、あるいは99人の状況を思います

わめなんて納得のいく生き方をしているつもりなんだけど、でもいざとなったら思うように覚悟ができるかほんとのところは不安だし、それが親が子が兄弟が殺されていく、また食べるものもない、こんな状況にある人にこれが現実です、覚悟を決めなさいとわめには言えません。

そういった意味では宗教の教えの麻酔も必要に思いますし、麻酔で痛みを和らげている間に、できる人たちが、このような悲惨な状況を解消していく努力をしていくべきじゃないかと思います。

120 Leo :2005/11/20(日) 02:00:47
>覚悟(ちょっと意味深として)ができなくてどうしようもなく苦しい(不幸?)方には、
>副作用はあるにしても麻酔も致し方ないのではないかと思います。
>幸福は個人の価値観の問題だと思うからわめには何とも言えませんが。

映画の『マトリクス』などを例にすると...目覚めることをよしとする人もいれば、目覚たくない人もいます。
覚悟が出来なければ目覚めることはかえって不幸になることです。
でも目覚めないほうがよいかという深ーい世界がありますね。

121 Leo :2005/11/20(日) 02:04:10
>そういった意味では宗教の教えの麻酔も必要に思いますし、麻酔で痛みを和らげている間に、
>できる人たちが、このような悲惨な状況を解消していく努力をしていくべきじゃないかと思います。

やはり、それですね。

色々ありがとうございます。今日は眠くなったのでそろそろネット落ちします。ではでは。

122 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 02:07:39
でも人の心(意識)には何かおかしなものがあって、それがこのような世界を作ってしまっているようにも思うのです。そういった意味では、その”おかしなもの”も何とかできないのかな、していかなきゃいけないんじゃないかな思ったりしています。

おかしなものというのは、絵の具を海に落とせば、その成分は時間とともに拡散し、長い時間がたってもしかしたらその絵の具の成分はもう考えられないくらいに薄まるにしても、世界中の海のどこにでもそれがあるようになる。それがこの世界の常識のように思うのに、なんで人間の社会は偏りが解消されないのかといったことから、何か”おかしなもの”が人の心(意識)にはあるんじゃないかと思ったりするのです。

おかしなものとは、それの是非の判断は個々に違うとしても、何となく誰でもがわかっていると思いますが・・・

Leoさん。オ(*゜o゜*)ヤ(*^0^*)ス(*゜▽゜*)ミィ(゜-^*)ノ""マタネ♪

123 Leo :2005/11/20(日) 18:53:37
わめさん、こんばんは。

>でも人の心(意識)には何かおかしなものがあって、それがこのような世界を作ってしまっているようにも思うのです。
>そういった意味では、その”おかしなもの”も何とかできないのかな、
>していかなきゃいけないんじゃないかな思ったりしています。

「おかしなもの」って理にかなわないことや正当化や相対主義なのかもしれません。
Libraさんの批判的合理理主義の啓蒙はよかったです。
「おかしなもの」の判断基準を(暫定的にせよ)示しましたから。

124 Leo :2005/11/20(日) 19:10:25
あ、もちろん、
「おかしなもの」の判断基準がありそれらを活用するとして、
”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”
ことは認めた上でですね。

”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”
から何でもアリで勝負が肝要とかやったら元の木阿弥になってしまう(笑)。

125 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 21:14:17
Leoさん、こんばんは〜^^

>>123-124

大まかに異論はありませんが、相対主義ってのはまずいことなのですか?
というか相対主義そのものがわめにはよく分からないw汗

> ”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”
> から何でもアリで勝負が肝要とかやったら元の木阿弥になってしまう(笑)。

どこぞの宗教団体に恨みでもおありのような・・・w笑

126 Leo :2005/11/20(日) 21:30:00
わめさん。

>大まかに異論はありませんが、相対主義ってのはまずいことなのですか?
>というか相対主義そのものがわめにはよく分からないw汗

ええと、それはLibra師匠の資料集が参考になると思います。
相対主義批判(小河原誠)
http://page.freett.com/Libra0000/039.htm
「楽天的相対主義の主張は、簡単に言えば、あなたもわたくしも正しい、ということになるだろう。」
「悲観的相対主義の主張は、簡単に言えば、あなたもわたくしも間違っている、ということになるだろう。」
Livedoor的相対主義なってのはもちろんありません(^^;

>どこぞの宗教団体に恨みでもおありのような・・・w笑

「恨み」でなく「怒り」(あるいは叱咤激励愛のムチ)です(^^; 惜しいと思うんですよ。

127 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/20(日) 21:47:17
相対主義は矛盾を抱かえていると言うことですね。^^
そう言えばそこ読んでたのに忘れてた。汗

> 惜しいと思うんですよ。

今年も莫大な浄財が集まりそうですが、よい使い方をして欲しいですね。

128 Leo :2005/11/21(月) 01:28:09
>今年も莫大な浄財が集まりそうですが、よい使い方をして欲しいですね。

そうですね。
何も考えずにポロッと寄付するのですし、結果集まるのだなこれが、やはり妄信って最高ということなのですね。
でも大規模宗教団体なんかも寄付される側から寄付する側へのチェンジが必要なのではないでしょうか。
(世界に貢献するって名誉を得ることでなくて世界の困っている人に手をさしのべることでしょう)
関係ないけど年収が下がって300百億円のポパーの弟子ジョージ・ソロスは投機でガッポリ儲けて、東欧にバンバン寄付した。
私なぞ経済力は微々たるものだが、寄付される側より寄付する側がエライっ(キーを握っている)てことで、考えさせて貰います。

「何も知らなくても活動はできる」とはよくいったもので大規宗教模団の指導層が難しいこと知らなくても
今の地位を得たのだから「知らなくてもできるんだよ」、妙に納得しますね。
まあ、(私を含め)貧乏人の基本は金持ちに金をくれてやるということだったのですなあ。

未来とは人の世の希望じゃ。

129 Leo :2005/11/21(月) 22:01:25
...ですが、目くじらたてる必要はないかもしれませんね。
ギャンブル、宝くじ、酒タバコのような嗜好品、などと同じで、個人の自由、
夢や気分を買うもよし、傍からトヤカクいえないし、自分が嫌だったらやらなきゃ良いだけ。

少しは達観できたかな自分(^^;

130 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/22(火) 00:05:38
Leoさん、くまりんさんは常に自身の先頭ある認識主体を、アートマンと呼んでいるようですね。^^
認識主体がないと自身を含めすべてが認識不可になってしまうと。

ここはわめ的な考えだけど、その認識主体は五蘊に依存していて肉体の死によって消滅する。

このような認識主体のアートマンなら合理的ではないでしょうか?

131 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/22(火) 03:16:02
うーん、認識主体は現在の自分で、客体は過去の自分ってことかな。
認識主体と客体との時間差を極力詰めていくことが瞑想行には含まれているのかも。

132 Leo :2005/11/22(火) 23:39:53
わめさん、こんばんは。

>Leoさん、くまりんさんは常に自身の先頭ある認識主体を、アートマンと呼んでいるようですね。^^
>認識主体がないと自身を含めすべてが認識不可になってしまうと。
>ここはわめ的な考えだけど、その認識主体は五蘊に依存していて肉体の死によって消滅する。
>このような認識主体のアートマンなら合理的ではないでしょうか?

そのことなんですが...
Libraさんの指摘では「認識主体など無い」と主張している研究者はいないとのことでした。

○輪廻説は仏教ではない(Libraさん)
http://page.freett.com/Libra0000/z006.html
「いずれも、ブッダの否定するところが、つぎの三点にあることを語っている。
1 我所(mama)の否定
2 我(attan)の否定
3 我体(me atta(_))の否定」

ブッダは「我所有」と、「梵我一致の我」と、「自我の不変なる我体」を否定したのであって、「認識主体など無い」と
主張していないとのこと。

○原始仏教における生命観(高橋審也)
http://freett.com/Libra0000/059.htm
「この世における一切の存在が無常であり無我であることは原始仏教における一貫した基本的立場であった。
 そこにはいかなる固定的な恒常的な存在は認められない。
 その流動的な無常なる在り方に自己というものが仮構されている。
 それが諸行(sabbe sam・kha(_)ra(_))であり五蘊であった。
 それがまた、凡夫的自己の在り様であった。」

「固定的でない自己、固定的でない生命それが原始仏教の立脚点であるといえよう。」

流動的な無常なる在り方に自己というものが仮構とのこと。

松本史朗博士は「アートマンと聞くだけで拒否反応を示しちゃって」るわけでなく論理的に主張されているし、
主張に妥当性があると思います。「批判仏教と聞くだけで拒否反応を示しちゃって」る方がいるという
ことが今回よくわかりました。やはり色々な方に話を聞いてみるものと思いました。

○仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
http://page.freett.com/Libra0000/082.htm
「すなわち、釈尊の思想とは何かを考える場合、釈尊以後の仏教思想史の流れを考慮する必要があろう。
 紀元後十三世紀にいたるまでのインド仏教思想の流れ、八世紀以来のチベット仏教思想史、
 そして、二世紀以来の中国仏教、および朝鮮や日本の仏教思想の流れを見渡すとき、
 そこに雑多ななかにも、きわめて一貫した特異な思想の流れが認められる。」

「たとえば〝仏教〟が主張する〝無我〟ほど常識に反した奇妙な考え方もないであろう。」

「私は、この意味において、思想史的考察にもとづく推理の結果として、〝釈尊は縁起説を悟った〟と主張する。
 しかるに、この主張自体は、何ら新奇なものではない。先に見た道元や宇井伯寿の言葉にも示されているように、
 〝釈尊は縁起説を悟った〟とか〝仏教とは縁起説である〟と見なすことは、仏教の伝統的理解においても、
 また近代的な仏教学においても、ごく一般的なことだからである。」

「大乗仏教は妄想」ななかにも「きわめて一貫した特異な思想の流れが認められる」ということなのですね。

133 Leo :2005/11/22(火) 23:50:07
あと、こういう点にも気をつけなければならないのですね。

肯定的証拠をいくら積み重ねても理論の正しさは証明されない(小河原誠)
http://page.freett.com/Libra0000/057.htm

「さて、ここに述べてきた話は、科学とは証拠をたくさん集めて理論を立証することだと信じている人にとっては
 相当にショッキングなことがらであろう。
 理論の真なることを立証するのが科学だという考えが根本から揺さぶられることになるからである。」

「しかしながら、少なくともここには観念体系の内部にいてさえその体系への反証実験を考えることができるのであり、
 そして反証が生じるならばそれを通じて、体系の囚人であることから逃れでる可能性のあることが示唆されている。」

「ポパーは、科学的理論は反証にさらされうるものであり、そして科学的態度とはなによりもまず理論をそうした
 反証にさらそうとする批判的態度であると考えたのである。」

134 くまりん :2005/11/23(水) 02:06:52
Loe さん、こんばんは。
 僕はあなたと無意味な論争をしようと思っているわけではないのです。がちょっと誤解があるようです。
引用された各氏のテキストは僕の申し上げていることと噛み合っていないのですね。

 僕もブッダが「認識主体など無い」と主張したなどと主張していないのです。高橋先生の「固定的でない自己、固定的でない生命それが原始仏教の立脚点であるといえよう。」もその通りだと思いますし、松本先生の「仏教とは縁起説である」になんらの異論もありません。問題にしているのは縁起する無常なるこころ(=色受想行識のはたらきとしての)の時間の先頭にたって過去と過去から予測される未来を選択し峻別する暗黙の了解の自己のことです。それを他者との関係を含む過去を分別的に観察して認識していくことは確かに理性でしょう。しかし未来を選択するのも、今現在、即今の刹那に認識を取捨選別するのは変わり続けている自己そのものじゃないですか?ここで自己(永遠不変のなどではなく)が峻別しなければ認識が認識を選択し峻別することになってしまっておかしいですよと。ですからその自己を口伝で伝承され最初期のと言われる経典ではブッダがアートマンと言っているのですよと言うことと、それはなんらヒンドゥ的要素が入り込んだというようなものではなく、そのまま受け取ればいいのではないですかと申し上げているのです。サンスクリットで言えば anArtman にはかわりがないのですけどね。

 パーリ律蔵マハーヴァッカで説かれる十二支縁起もその前後に挟まれる成道のウダーナ(自らの境涯を説いた感興詩)が母体になって仏弟子達に伝承されたものでしょう。松本博士が「仏伝中のいかなる記述も、釈尊が詩をつくったことなど伝えていない」と述べておられますが、博士ご自身が「縁起と空」において十二支縁起を説明されるとき引かれたパーリ律蔵マハーヴァッカにブッダが自ら口をついて出たと伝承される成道に関する初夜の偈、中夜の偈、後夜の偈がウダーナヴァルガから引かれもしています。ブッダの説いた聖なるものとされる重要なものは口伝で伝承されたと推察出来る、それらは韻文やウダーナのみでなく仏典に何度も繰り返し説かれる散文の定型句なども含まれると推測されるとは榎本文雄博士をはじめとして宮元啓一博士、下田正弘博士などもそのご研究成果から指摘されていますが、そうしたご成果に依れば十二支縁起は「釈尊の思想とは何かを考える場合、釈尊以後の仏教思想史の流れを考慮」をせずとも最初から口伝で伝承されていた仏教の思想ということになります。

 「批判仏教」については拒否反応を示すどころかその成果の恩恵は積極的に受けています。「批判仏教」がなければそれ以後の反省も仏教学の多様な展開もありえなかったでしょう。ただ僕は下田博士の以下のことばに非常にシンパシーを感じます。

----- 以下引用
情報の収集や分析に回ればよいとった安心感が、いつの間にか共有されているようです。たまたま仏教学において〈批判〉ということを正面から問題にする貴重な試みが生まれても、それは〈仏教学〉を問い直そうするのではなく、むしろ近代仏教学が前提とする〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教〉という理念を極端に推し進め、曖昧さが排除され明晰判明となった〈仏教〉という認識の観念をもって仏教自身を批判しようとする試みであります。それは私には、近代仏教学の見出した〈仏教〉という観念をさらに観念化するような作業に思えてしまいます。 --- 中略 --- 私は、近代仏教学を否定しようとしているのでは、毛頭ありません。近代的な学問としての仏教が明確になってきたというこの大きな土台の上にこそ、こぼれ落ちた世界をもう一度考察の対象に取り上げようとする私のささやかな反省も意味を持ってくるのであります。研究の継続とはこうした努力の継続でありましょう。私は長い伝統の仏教世界を経て、その上で近代仏教学を経験してきた現在の仏教学という学問に、心から期待をしています。
----- 引用終わり
下田正弘『仏教学セミナー 73号』[大谷大学仏教学会/2001.5]所収 より引用

135 Leo :2005/11/23(水) 09:49:41
くまりんさん、こんにちは。

>Loe さん、こんばんは。
> 僕はあなたと無意味な論争をしようと思っているわけではないのです。がちょっと誤解があるようです。
>引用された各氏のテキストは僕の申し上げていることと噛み合っていないのですね。

言葉の端々で早トチリあるいは誤解してしまったようですみません。

「こぼれ落ちた世界をもう一度考察の対象に取り上げようとする私のささやかな反省も意味を持ってくるのであります。」

批判による切捨てだけでなく、拾い上げも重要ということなのですね。

136 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/23(水) 13:17:41
くまりんさん、Leoさん、こんにちは。^^

 またまたわけわかめなことを書かせていただきますと、くまりんさんの『縁起する無常なるこころ(=色受想行識のはたらきとしての)の時間の先頭にたって過去と過去から予測される未来を選択し峻別する暗黙の了解の自己』は、現実わめも生まれてこの方永遠とやっていることで、その自己は今のところやっぱあると思ってしまいます。
 余談ですが、極めて近い過去(0コンマ0何秒とか)を常に意識(あるいは必要に応じ意識)し予測される未来を選択し峻別することができたなら、もしかして衝動的な犯罪や事故やついうっかりやらかす失敗なども少なくなるのではないかと思いを巡らしております。(この点は座禅や瞑想や唱題行なども役に立つかも)

 あと、まったく論理性のないわめのコメントになってしまいそうですが、くまりんさんがご指摘されていることとわめが感じることとに類似性があるのかなぁ〜って思うところがありまして書かせていただきます。

 それは仏教学の学者さんとか、仏教を信仰されている方の多くが、自らが思うところのブッダが理想的の教えを説いたとしたいという願望があって、仏教をより理解することよりも、仏教をより正当な教えであると論証し、ブッダの権威を高めたいとか、ブッダを最極の理想的人間とか、人智を超えた存在としたいといったことが多かれ少なかれその個々の心理にはあるような気がするのです。

 わめも人事ではなく、そのような気持ちが微塵もないかと言えば甚だ怪しく、だから自戒の意味を込めて”人間ブッダ”とか”ブッダおっさん”とかの言葉を使うことがあるのですが、ブッダ及び仏教にことのほか思い入れが強ければそうなってしまうのも人間である以上仕方ないのかもしれないと思ったりします。

 脱線しますが、ブッダの悟られた縁起の法はブッダが作ったものに名が付いたのではなく、この世界にある事象・成り立ち(わめ的には暫定真理)を発見しそれを縁起と呼称しているわけで、もちろんその事象を約2500年前に発見するなどそれはもうものすごいことで、ノーベル賞を100個あげてもいいくらいなように思うのですが、”その教えまでもが絶対に正しい”とすることはできないと思うのです。
 わめとしては、そのブッダの教えに拘ることよりもできることならその縁起(わめ的には暫定真理)や、他の仏教には関係ないかもしれない暫定真理を、自分(人)はいかに捉えるのがよいか、いかに生かしていくのがよいかというところに重点をおいてもいいのじゃないかと思うのです。

137 Leo :2005/11/25(金) 00:12:11
わめさん、こんばんは。

僕はくまりんさんの掲示板で僕は思想的には反創価ですって言い切っちゃったけど(実際そうなんだけど)、
考えてみるとLibraさんは秋谷会長に手紙出して事態の改善を求めたのだし、わめさんは現役幹部で
学会や仲間のこと思いやってるし、別に反創価ではないんですよね。僕は一度学会はリセット
された方がよいと思っているし悪友や悪知識になってしまうのかな。ただ、学会がリセットされたら
苦しみを受ける人がいたら考えてしまいますよね。それにリセットされるほどやわでないのだし。
(注 これはくまりんさんへのコメントではありません)やはり僕は脳内で言葉による解体やっているぐらい
しかないかな(ボソ)。

138 Leo :2005/11/25(金) 00:29:22
んー、なんかマイナスな生命でいかんいかん。スマソ。
慌てない慌てない一休み一休み(←なんのこっちゃ?)。

140 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/25(金) 00:32:44
Leoさん、こんばんは。^^

 反創価だとか組織改善だとか表現する言葉は違っても、Libra師匠もわめもLeoさんもほとんど変わらないと思いますよ。
 ただほぼ実現不可能なことは考えても仕方ないし、組織なんて生き物じゃないし、結局学会員とか非学会員とか関係なく”人”にどうなっていって欲しいかということだと思うのだけどな。Leoさんもそんな思いだと思うよ。(勝手に推測w)

 話は変わって、実は半月くらい前より『ヴィパッサナー瞑想』ってのもやっていたのですけど、それもわめはヒマだから毎日長い時間ね。笑
 これは普通(普通ってなんだ?w)に生きてる人には結構効果あるかもしれませんよ。^^
 ただわめには目に見えて効果はありませんでしたがw爆

 と言うかわめはこの数年、ぼけ〜って生きてて毎日瞑想状態みたいな時間がかなり長かったようで、”瞑想行”って形式は要らないみたいです。(^^;;

 それと瞑想などしなくても、観察で充分じゃないかと思いました。自分と周囲(ネットの関係含む)を、ああでもないこうでもないと考えないで四六時中しっかり観察することで同じような効果があるように感じてます。

141 Leo :2005/11/25(金) 00:47:40
あ、わめさん、こんばんは。

>Leoさんもそんな思いだと思うよ。(勝手に推測w)

んー、確かに僕は別に学会が潰れればいいとか思ってなくて、学会員がもっとやわらかくなればぐらいに思ってます。
ただ相変わらずのことがあるとリセット、リセットって思いますけど。
あと、人をみて狂信じゃなければ妄信ぐらいはいいのかなーとか。

>話は変わって、実は半月くらい前より『ヴィパッサナー瞑想』ってのもやっていたのですけど、それもわめはヒマだから毎日長い時間ね。笑

ええー。そうなんですか。僕は学会の会館でヴィパッサナー瞑想の講習会やって貰えないかなとか(無理なんだけど)、
もっと年食ったら南方仏教で出家しようかなと一瞬妄想にひたることがあります(笑われるかな?)。

>と言うかわめはこの数年、ぼけ〜って生きてて毎日瞑想状態みたいな時間がかなり長かったようで、”瞑想行”って形式は要らないみたいです。(^^;;

唱題って、頭の中に思いがぐるぐる回ったりすっと消えたりして、意外と瞑想だった気がしませんか。
自然的瞑想というのもなんかよいですね。

>自分と周囲(ネットの関係含む)を、ああでもないこうでもないと考えないで四六時中しっかり観察することで同じような効果があるように感じてます。

観察ですかー。

143 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/25(金) 01:03:25
Leoさん、人が妄信・狂信に見えたらもしかしたらこっちがそうなんじゃないかって疑ってみるのも一興です。笑(実は冗談ではないですがw)

ほんとのことは結局分かんないから楽しく生きれたらよしってのもアリだと思いますよ。^^
・・・色々と覚悟はいりますけどもw

観察について自分に対しては、今自分が思っていることを知ること。なんで?って問いかけにそれはって答える自分がいますから、またなんで?って問いかけてというのを続けてみるのも新しい発見があるかもよ。(⌒∇⌒)

144 Leo :2005/11/25(金) 07:45:26
わめさん、おはとうございます。

>Leoさん、人が妄信・狂信に見えたらもしかしたらこっちがそうなんじゃないかって疑ってみるのも一興です。笑(実は冗談ではないですがw)

ううむ。たとえば本幹に行って「創価学会万歳!」(今もやっているのか?)とか、人が仏敵を倒せ、邪宗撲滅と口走っていて、
それらは妄信・狂信じゃないかと思ったら、こっちがそうじゃないかと疑ってみるということなのですね(これはものすごく意味深だ)。
批判的合理主義、縁起の法の妄信・狂信者(僕限定)が批判的合理主義、縁起の法で自ら解体されることを望みますです。

というか、「創価学会万歳!」、「仏敵を倒せ」、「邪宗撲滅」が「妄信・狂信」と思っているという(ヒステリックな?)「妄信・狂信」が
存在するということなのかな。やはり色々考えてみるものですね。瞑想者(わめさん)の指摘は一味違うものがあります。

145 Leo :2005/11/25(金) 07:46:52
>おはとうございます

造語しちゃったよ(新たな発見?)。おはようございます。

146 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/25(金) 10:00:38
Leoさん(*゜ー゜)vオハヨ♪

もう気が付いてられますけど、やっぱすごく妄想が入っていると思います。(^^;;

> というか、「創価学会万歳!」、「仏敵を倒せ」、「邪宗撲滅」が「妄信・狂信」と思っているという(ヒステリックな?)「妄信・狂信」が存在するということなのかな。やはり色々考えてみるものですね。

「創価学会万歳!」は今もやったりしてますが、一人ひとりの心の中はああまたやんのかよと形ばかりだったり、これでそろそろ終わりだなこの後どうしようとか、俺はやらんぞと立ってるだけの方とか、また”その場だけ”としてもやってる言ってるように本気で思っている方が果たして何人いるのか、参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。

> 瞑想者(わめさん)の指摘は一味違うものがあります。

瞑想とかじゃなくて、オシログラフが”死んだ状態”を指すみたいな(爆)そんな状態から反射的・自然にじゃなく、意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^

147 Leo :2005/11/25(金) 22:58:11
>参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。

成果がでたり功徳を得たり?順調だった時は心から万歳していたかも(をい

>瞑想とかじゃなくて、オシログラフが”死んだ状態”を指すみたいな(爆)そんな状態から反射的・自然にじゃなく、

グラフが平坦だから機械的にああ止まっているあらダメだとあきらめるんじゃなく?

>意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^

んー、やはり「妙とは蘇生の義なり」(最近は誰も引用しないか)ですか(← んー、まだ妄想入ってるかも)。

148 Leo :2005/11/25(金) 22:59:13
やっぱわめさんはヒューマンだな。

149 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/25(金) 23:16:24
Leoさん、こんばんは。^^

> >参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。
>
> 成果がでたり功徳を得たり?順調だった時は心から万歳していたかも(をい

あう、周囲のことじゃなく自分のことに置き換えちゃったのねw汗 その時代でも刷り込まれたことに縁してる時以外は、学会マンセーって学会スィッチは入らなかったでしょ?(^^;;

> グラフが平坦だから機械的にああ止まっているあらダメだとあきらめるんじゃなく?

いやそのw、平静というか平静な自分を見てるというか、そのような状態です。^^

> >意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^
>
> んー、やはり「妙とは蘇生の義なり」(最近は誰も引用しないか)ですか(← んー、まだ妄想入ってるかも)。

何かに縁すると体験・習慣・習性的にそれに対応した心とか出ようとするじゃない。それを観察してるとひねってみるというか試行錯誤してというか、今回はどの心を出していこうかと意識していけるということです。でも縁する直前からイライラしてたりするとよからぬ心を意識的に出しちゃう場合もあるので、直前までは平静でいる(観察状態)ことも大事じゃないかと。

150 Libra :2005/11/26(土) 02:02:25
 こんばんは、みなさん。

 くまりんさんのところにコメントしたのですが、投稿に失敗したのか、すぐ
には反映されないのか、現時点で反映されていないので、念のためにこちらに
もコピペしておきます。

───────────────────────────────────
 くまりんさん、はじめまして。Leo さん、わめさん、こんばんは。

1.「よく言われる無我説」(くまりんさん)の中身について

 くまりんさんは、《ブッダの中心思想は「よく言われる無我説」ではない》
といわれているようですね。

 実際によく言われている無我説というのは、「常住的な実体の存在はこれを
認めない」[*1]とする説(以下、「無我説A」と略記します)だろうとおもい
ますが、くまりんさんがブッダの中心思想ではないと主張される無我説(以下、
「無我説B」と略記します)も無我説Aと内容的に同じでしょうか。

 わたしは、ブッダの中心思想は無我説Aであると考えます。というのも、わ
たしも、くまりんさんと同じく、ブッダの中心思想は縁起説であるとおもって
いるところ、わたしには、縁起説と無我説Aは同一の事態を別様に記述してい
る(両者の論理的な内容は同一である)としか思えないからです。

 ちなみに、松本先生の無我説も無我説Aだとおもいます[*2]。

2.「認識主体は「理性」である」という主張について

 くまりんさんは、袴谷先生や松本先生が「認識主体は「理性」である」と主
張しているといわれていますが、具体的にはどのようにいわれているのでしょ
うか。

3.認識の主体としてのアートマンを語る仏典の記述

 Leo さんがいわれている「認識の主体としてのアートマン」と完全に一致す
るかどうかはわかりませんが、曽我さんの解説[*3]が参考になるのではないで
しょうか。

 そもそも、「認識の主体などは無い」というような主張(以下、「無我説C」
と略記します)を、自らが支持する説として「無我説」と称している人などは
いないでしょう。このような主張が不合理であることはあまりにも明らかです
から。

 もし、「認識の主体などは無い」などという不合理な主張を「無我説」と称
することがあるとすれば、それは、自らが支持する説としてではなく、論敵が
支持している説として述べられる場合だけなのではないでしょうか。


  [*1] 原始仏教における生命観(高橋審也)
     http://freett.com/Libra0000/059.htm
     
  [*2] 学問と礼節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的時間(松本史朗)、引用者註2
     http://page.freett.com/Libra0000/068.htm#2
     
  [*3] 安部さんより「自己を拠り所に」の自己とは?(曽我逸郎)
     http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha146.html
───────────────────────────────────

151 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/26(土) 02:48:43
Libra師匠、こんばんは。^^

>  くまりんさんのところにコメントしたのですが、投稿に失敗したのか、すぐ
> には反映されないのか、現時点で反映されていないので、念のためにこちらに
> もコピペしておきます。

 投稿のテキストにURLが含まれていると引っかかるようです。わめもそうでした。(^^;;
 でもくまりんさんがチェックしてくれて、今夜は無理かもしれませんが近いうちに反映されると思います。

 Libra師匠の質問に対して、くまりんさんがどのようにお答えくださるか、またくまりんさんが言っておられた『バラモン教に見られた輪廻説を形而上学的戯論として退けてしまう十二支縁起説と、輪廻的生存の根本要因である十二支縁起の無明とテーラワーダ仏教の言う「とてつもなく大きなエネルギーとしての心」の関係に話を進めたいと思います。』と予告をしてもらっていることのその内容と関係するのかわめも非常に関心があります。

『業と輪廻に纏う心 仏教の混乱とエポケー』
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=879

152 Leo :2005/11/26(土) 09:36:26
Libraさん、おはようございます。

わめさんが言われているようにくまりんさんの予告も興味あります。
くまりんさんの「ブッダが偈を感興の言葉を述べられたという伝承は仏典中に認められますし」は
「ウダーナヴァルガ」(「感興のことば」、岩波文庫 訳あり)かとも一瞬思いましたが(確かに偈はある)、
別の仏典があるのかもしれません。

わめさん、おはようございます。

>何かに縁すると体験・習慣・習性的にそれに対応した心とか出ようとするじゃない。
>それを観察してるとひねってみるというか試行錯誤してというか、今回はどの心を出していこうかと意識していけるということです。
>でも縁する直前からイライラしてたりするとよからぬ心を意識的に出しちゃう場合もあるので、
>直前までは平静でいる(観察状態)ことも大事じゃないかと。

なるほど。不要な心の働き(たとえば観察を阻害する感情など)を止めたり観察したり「止観」ぽいことなのですね。

153 Leo :2005/11/29(火) 00:53:09
わめさん、こんばんは。

スマナサーラ長老の巧みな行為。科学を結構方便として引用されているようです。
他にも興味深い話があります。
(別にテーラワーダ仏教の肩を持つのでもなんでなく興味深いと思っているだけです)
実際にやりなさいといわれると困ってしまいますが。
(特定の宗教団体の方でなくブッダに直接教わる方法(ブッダ直結)はないものでしょうか)

○「心の速度について」(2002.1月)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp32.html
「心の波動は光の速度の17倍くらい速い」
「なぜこころは17回変化するかと言う問いにAbhidhamma説は物質の瞬間はこころの瞬間の17倍ということになっています。」
「17倍かないかは関係がないのです。「こころは早い」。「物質より早い」。
 こころを清らかにしようとする人に必要なのはこれだけです。」

○救うことが大事では?(2001.7月)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html
「「救う事」は非仏教的な行為です。」

○ヴィパッサナー冥想
http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html#2
「自己観察には 「sati (気づき)」という心のはたらきが欠かせません。」
「智慧や悟りについて我々が理解しようとしても、できることではないのです」
「実際の話、ただ素直に実践する人々は、とても早く心が成長します。
 徹底的に理屈で理解しようとする人々は、残念なことに、心が全く成長しないのです。」
「でも、もうひとつ、もっと簡単なことがあります。今の自分を見るのです。」
「ヴィパッサナーの狙いは「苦」そのものをなくすことです。」
「日常的な問題は置いておいて、すごく大きなスケールで、「苦」を根本からなくすことを目指す。」

154 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/29(火) 01:09:14
Leoさん、こんばんは。^^

 実際目の前でスマナサーラ長老って方のお話を聞けばどうかは分かりませんが、テキストを読むとわめの心が汚いからか傲慢に思えてきて仕方ないのです。(^^;;

 わかったつもりになることが、わめには一番怖いことのように思えてしまうのです。

155 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/29(火) 01:14:49
Libra師匠もおっしゃってましたが、やっぱ一番大切なものは善き友じゃないかな。
ブッダのおっちゃんも善き友じゃないですか?^^

156 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/29(火) 01:28:23
> (特定の宗教団体の方でなくブッダに直接教わる方法(ブッダ直結)はないものでしょうか)

それができたとして何になると言うのでしょうか?
ブッダが説くことは絶対に正しいのですか?もしそう思うのならブッダは悲しむように思います。
自身を含めLeoさんには善き友、善き仲間が沢山おられるし、それ以上を求めるのは贅沢すぎるのではないでしょうか?笑

157 Leo :2005/11/29(火) 08:05:39
>それができたとして何になると言うのでしょうか?

ブッダの言葉は目からウロコが多いですが、弟子の人は色々アレンジしてしまっているようで、
直接聞きたいと思っただけなんです。現代では仏典から推測するしかないですが。

あと別の特定の宗教団体に走るのもないです。とにかく利害のある団体という縄張りが嫌いなんで。

それから別に盲目的崇拝を目指しているわけで全然ないんですが、ブッダは自分の思い至らぬところを示す師匠
であり自ら語られたように善き友なんじゃないかと。そして現代の善き友がいる。これだけで確かに
贅沢ですよね。

159 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/29(火) 11:59:41
Leoさん、(ノ゚Д゚)おはよう

> ブッダの言葉は目からウロコが多いですが、弟子の人は色々アレンジしてしまっているようで、直接聞きたいと思っただけなんです。現代では仏典から推測するしかないですが。

 わめが思うに直接ブッダから話が聞けても相手に応じて教えを説くと思いますし、またもし同じことを聞いたとしても人それぞれの捉え方になってアレンジされていくと思います。そうじゃなければ縁起でもないし、ブッダの言葉も虚妄になってしまいそうです。涙

 ブッダはこの世界の沢山のことをわかった(悟った?)方だと思いますが、そのわかったことに言葉はないことが多いと思うわけで、言葉に当てはめる作業自体に既にわかったことそのものではなくなっていくような気がします。またブッダが分かったことの中には、分からないことがあるということも分かったのだと思いますし、だからそこで止まることもなく「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、”この道のすべて”である」もそのようなことを指しているのかなって妄想してしまいました。

160 マターリ :2005/11/29(火) 23:00:53
今、スッタニパータを読んでいるところです。この経典より古い仏教経典
はまだ見つかっていません。
この経典には、後世の仏典に見られるような煩瑣な教理は少しもありません。
わかりやすい言葉で、道徳・倫理を説いているようです。
無我というような言葉は出てきますが、縁起の法・空というような言葉は
見当たりませんでした。空という概念は、小乗経典にはなく、釈尊滅後、
4〜5百年経過してから、般若経で初めて説かれたと認識しています。

空という概念が創り出されて、初めて、救済宗教としての仏教の道が開けた
のだと思います。空という概念を創ったのは、修行僧のグループなのか、
在家のグループなのかは、意見が分かれているようです。

161 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/29(火) 23:56:25
>>160
マターリさん、こんばんは。^^

 無我や無常や空は、縁起の法のそのものの現れ方?なのじゃないかと思うのですが、スッタニパータで無我が出てくるということはそれは縁起であると思うのですが。

それと >>84 のリンク先などもお読みになられましたでしょうか?まだでしたら読んでいただいてのご意見もお聞きしたいです。

 またわめは読んでいないのですが読んだ方からのコメントとして岩波文庫の「ブッダのことば スッタニパータ」の「二種の観察」の項で、『諸々の真理がある――このような出だしから始まり、更にこれに続く話の中には、「縁起」であるとか「一切皆苦」などの話が読み取ることができる』とおっしゃっておりました。手許にこの本があるようでしたら該当箇所をご覧になってのご感想などもお聞きしたいです。

162 Leo :2005/11/30(水) 06:28:11
わめさん、どうも。

>わめが思うに直接ブッダから話が聞けても相手に応じて教えを説くと思いますし、
>またもし同じことを聞いたとしても人それぞれの捉え方になってアレンジされていくと思います。
>そうじゃなければ縁起でもないし、ブッダの言葉も虚妄になってしまいそうです。涙

筒井氏の日蓮(大聖人)とソウカが出てくるショートSFじゃないけれどもし私がブッダに会って対機説法を
聞いたとしてあなたはブッダじゃないと言い出すかもしれません。そのように捉われ過ぎは滑稽なものです。

ですが一種の伝言ゲームのようなものとすると原点回帰は必要でしょう。

また現代においてブッダに会うということは生き続ける形のない釈尊に会うということであり、
法を見ない者は、ブッダを見ないということかもしれないですね。
これらは一見崇拝主義のように見えるしビミョーと思われると思いますが、
ブッダの教えに基ずかなければ仏教でないということで当然なのかもしれません。

○生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://freett.com/Libra0000/020.html

「ただ姿はなく、形はない。その肉身は消滅しても、教えは「法(ほう)(ダンマ、ダルマ)」として、
 ますます尊く、いよいよ高く、深い。」

○「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄) 
http://freett.com/Libra0000/085.htm

「比丘たちよ、かの比丘は法を見ず、法を見ざる者はわたしを見ないからである」
「比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである」

163 Leo :2005/11/30(水) 06:37:00
お、「二種の観察」ですか。
その部分注目してなかったけど今ページをめくってみたらよいことが書いてある。
やはり私は法を見ざる者だったのかな。

164 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/11/30(水) 11:59:41
Leoさん、こんにちは。^^

>>162-163 いい感じに思いますので一個だけレス。

原点回帰という意味では、この世界がそれだと思うのですが・・・

165 Leo :2005/11/30(水) 22:54:31
わめさん、おこんばんは。

>原点回帰という意味では、この世界がそれだと思うのですが・

はい、この世界すなわち現世。

でも、教えに気づかなければそのまんまLeo。
でも、心が現世でなくどっか逝ってしまってたらハイそれまでよ。

で、世法を深く識れば仏法。うーん、深い。

「天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云」(開目抄)

166 マターリ :2005/11/30(水) 23:19:13
>わめさん、今晩は(σ´∀`)σ

スッタニパータによれば、「縁によって起こる」と、何度も書いてあります
ので、これが縁起の法、と言うのでしょうか?
しかし、「縁起の法」と漢字で書くと、その言葉自体が一人歩きするような
気がします。表意文字である漢字の特異性でしょうか。
「一切皆苦」という表現は、まだ見つけられません。

84のリンク先を拝見しましたが、難解で何を言おうとしているのか、よく
わかりません。筆者は、どういう立場の方なのでしょうか?
私は中村元さんの本「スッタニパータ」を読んでいますが、平易かつ、すっき
りした翻訳と解説で、すぐ理解できました。

168 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/01(木) 02:08:24
Leoさん、マターリさん、こんばんは。^^ うっかり夕飯後ねてしまい起きたらこの時間です。(^^;;

> で、世法を深く識れば仏法。うーん、深い。

そういや学会でも世法は仏法とよく言いますね。でもそのまんまで深くないじゃんw汗

マターリさん

> スッタニパータによれば、「縁によって起こる」と、何度も書いてありますので、これが縁起の法、と言うのでしょうか?

(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 「縁によって起こる」はまさに縁起ですね。

> しかし、「縁起の法」と漢字で書くと、その言葉自体が一人歩きするような気がします。表意文字である漢字の特異性でしょうか。

そうなんですよ。言葉って何かを表すのには便利なのですが、現象そのものを表しきれないし、人の捉え方にもよるわけだし、やっぱその言葉の指し示す現象そのものをみていかないといけないように思います。

> 「一切皆苦」という表現は、まだ見つけられません。

これが見つかると仏教は苦を抜く教えというのも納得しやすいかもしれませんね。^^
でもわめはだから(苦を抜く教え)仏教に心底馴染めない面も感じております。

> 84のリンク先を拝見しましたが、難解で何を言おうとしているのか、よくわかりません。筆者は、どういう立場の方なのでしょうか?

松本史朗で検索すると沢山引っ掛かりますが、立場と言うことまではよくわかりません。
ここで言われている方法は「スッタニパータ」などもブッダ滅後100〜数百年かけて成立していて、仏教以外の教えも混入してしまっているので、経典そのものから純粋にブッダの教えを抜き出すことは不可能に近く、それよりも思想的方法からブッダの教えを抜き出すほうがより正確であると言っているように思います。
わめはブッダの”中心思想を知る”意味においては思想的方法がいいように思います。

> 私は中村元さんの本「スッタニパータ」を読んでいますが、平易かつ、すっきりした翻訳と解説で、すぐ理解できました。

ブッダと同じ立場になることが仏教では理想のように思うのですが、教法を探る意味では最古層の仏典を読むことも有意義だと思います。

169 Leo :2005/12/01(木) 23:33:36
>そういや学会でも世法は仏法とよく言いますね。でもそのまんまで深くないじゃんw汗

ちっとひねって「人生は勝負」でGoogle検索したら大川隆法氏が「常勝の法」だそうな。学会のパクリ?

それはともかく、世法を【深く】識るとは、「世間を縁起・空・無我と観る」ことではないかと思うのですが...

とはいえ、学会も世間の一部だから「仏法は勝負」と確信する学会も「縁起(学会は世間から孤立無縁に
存在しているのではない)・空(学会という不変の固定的実体はない(教義や指導も時代で微妙に変化する))・無我
(いくら執着しても達成できないことがある)」なのかもしれないと思ったりもします。
実に世間はうまくできております。

170 Leo :2005/12/02(金) 01:19:57
わめさん、こんばんは。

くまりんさんとLibraさんの哲学や仏教理解の違いは面白いですね(共通する部分もあるのだけれども)。
くまりんさんは法華経否定派、Libraさんはどちらかというと肯定派。
また、くまりんさんは「犀の角のようにただ一人歩む」を、Libraさんは「われを善き友として」をよりどころとしてます。
くまりんさんは法華経を哲学的凡庸といいます、一方Libraさんは「あらゆる人々は哲学者である」を引用。

「仏教とは知性と分別で形而上学的構築物を脱構築して無常にも縁起する自らの危機的で孤独な時間を
 犀の角のようにただ一人歩む道を切り開くメシアなきメシアニズム」(くまりんさん)

「いくら多くの教団が所為の経典としているから、あるいは日本の仏教の中心的存在であるからといっても
 正当な仏教の相続の流れの中ではいささか異流であるしヒンドゥ的通俗さを大いに取り入れて仏教の世俗化に
 貢献した法華経は所詮それ以下でもそれ以上でもありません。」(くまりんさん)

「法華経は「空・縁起(因縁)」の思想を説いています」(Libraさん)

「われを善き友として」(増谷文雄)(http://page.freett.com/Libra0000/012.html)

「あらゆる人々は哲学者である」(カール・ポパー)(http://freett.com/Libra0000/113.html)
「すべての人は哲学者である。人は、たとえ哲学的な問題を抱えているとは意識していないときでも、
 やはり哲学的な先入見をもっている。そうした先入見の大部分は、人びとによって自明なものとして
 受け入れられている理論である。」

171 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/02(金) 23:19:17
Leoさんこんばんは〜^^

> 世法を【深く】識るとは、「世間を縁起・空・無我と観る」ことではないかと思うのですが

これでは単なる仏教的視点で終始しませんか?
宇宙が広がっていることや量子力学の世界はブッダも知らなかったわけですし同種の粒子(電子は電子と)に相違点がないことなどもですが、それも縁起の範疇と言えなくはないですが縁起に収めて楽観視しているようではいけないように思います。(^^;

> くまりんさんとLibraさんの哲学や仏教理解の違いは面白いですね

違いは非常に少ないと思います。
例えば法華経の中心思想に、一歩下がって法華経にも縁起(空)が説かれているのですから、くまりんさんも全否定じゃないように思います。

自灯明法灯明であると思いますし、自灯明か法灯明かどっちから先に読むかの違いだけかも・・・

172 Leo :2005/12/03(土) 00:23:34
わめさん、こんばんは。

>これでは単なる仏教的視点で終始しませんか?
>宇宙が広がっていることや量子力学の世界はブッダも知らなかったわけですし同種の粒子(電子は電子と)に
>相違点がないことなどもですが、それも縁起の範疇と言えなくはないですが縁起に収めて楽観視
>しているようではいけないように思います。(^^;

素粒子まで分解すると違いがないというのは面白い視点と思います。
あと、縁起は楽観視を許さないのではないでしょうか無常(常に変化)ですし。

「ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。
 「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に固執して生きること」
 という儚(はかな)き夢から「常に目覚める者」がブッダなのです。」
(『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社)

科学でも分子が究極だと思ったら原子が、原子が究極と思ったら素粒子が、、
素粒子が究極と思ったらクオークが、といった具合に、
古典物理学が究極と思ったら、相対性理論や量子論がといった具合に、
テープレコーダ、CD、MD、MP3プレイヤーといった具合に、
そろばん、電卓、パソコン、インターネットといった具合に、無常がワクククするし楽しいんです。
(別にフツーのことなんですけど、ああすんばらしき世界)

それに無常を固定化(←?!)するとニヒルになってしまうというか。

ただ時には固定化の妄想を夢みるのも癒しになるかもしれないですけど。

173 Leo :2005/12/03(土) 00:38:38
ただ時には固定化の妄想を夢みるのも癒しになるかもしれないですけど。

一般的に「究極の何々」というやつです。

しかし、たとえば究極のラーメン屋とか料理屋とかがあったとして、つねに精進してなければたちまち転落してしまう。
(とまた、縁起や無常に戻ってしまう)

というか、なんでもかんでも仏教に思えてしまうというのも固定化なんでしょうな。

174 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/03(土) 00:46:08
Leoさん、いたわ♪

> 縁起は楽観視を許さないのではないでしょうか無常(常に変化)ですし。

わめの言いたかったのは仏教的視点(縁起)で終始という意味での楽観視です。(^^;;
やっぱ世の中縁起だぁ〜って思うことはわめも多いですが(笑)、世の中すべて縁起なの?とか、縁起で世の中のすべての問題が片付くの?とか、こんな世の中(悪い意味でw)作ってるのは自身なんだって自覚と微々たる自身が何をなすべきかなどを置き去りにしちゃいけないんじゃないかと思うのです。

> というか、なんでもかんでも仏教に思えてしまうというのも固定化なんでしょうな。

と言ってたら再投稿がw笑
思ってしまうことも仕方ないとは思いますが、仏教とか縁起という枠組み・言葉・名称では他の思想(組織・国等)と対立してしまうのではないかと思います。

その枠組みを越えた自身、他者との関わりが大事なのではないかと思ったりしています。

175 Leo :2005/12/03(土) 01:59:27
>思ってしまうことも仕方ないとは思いますが、仏教とか縁起という枠組み・言葉・名称では他の思想(組織・国等)と
>対立してしまうのではないかと思います。

むしろ対立するからよいのではないでしょうか。

フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/111.html

「討論というものは実り多ければ多いほど、討論の参加者が討論から学ぶことが多いといえると思う。
 つまり、投げかけられた問いがより興味深く、より困難であればあるほど、討論の参加者はより新しい
 解答を考案するように導かれ、みずからの意見がいっそう揺さぶられ、討論の後では物事を
 よりいっそう違ったふうに眺めることができるようになる。要するに、知的地平が拡大されるのである。」

「この牢獄はフレームワークである。牢獄を好まぬ人びとはフレームワークの神話に反対するであろう。
 こういう人びとは、別の世界から来た相手との討論を歓迎するであろう。
 というのは、この討論によって、みずからがいままで気づいていなかった鎖を発見し、
 それを断ち切り、みずからを超越する機会が与えられるからである。」

それにソクラテスのように国家や組織に付着したあぶのように国家や組織が眠ってしまわないようにするというのも重要と思います。

「だから、アテナイ人諸君、いまのこの弁明も、わたしがわたし自身のためにしているというようなものでは、
 とうていないのでして、むしろ諸君のためなのです。諸君がわたしを有罪処分にして、せっかく神から授けられた
 贈りものについて、あやまちを犯すことのないようにというためなのです。なぜなら、もし諸君がわたしを
 死刑にしてしまうならば、またほかにこういう人間を見つけることは、容易ではないでしょう。
 わたしは何のことはない、すこし滑稽な言い方になるけれども、神によってこの国都(ポリス)に、
 付着させられているものなのです。それはちょうど、ここに一匹の馬があるとして、それは素姓のよい、
 大きな馬なのですが、大きいために、かえって普通よりにぶいところがあって、目をさましているのには、
 何かあぶのようなものが必要だという、そういう場合に当るのです。つまり神は、わたしをちょうど
 そのあぶのようなものとして、この国都に付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。
 つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、
 膝をまじえて、全日、説得したり、非難したりすることを、少しも止めないものなのです。
 だから、こういう人間を、もう一人さがすといっても、諸君よ、そう容易に諸君には得られないでしょう。
 もし諸君に、わたしの言う意味がわかるならば、諸君はわたしを大切にしておかなければならないことになるでしょう。
 しかし諸君は、多分、眠りかけているところを起こされる人たちのように、腹を立てて、アニュトスの言に従い、
 わたしを叩いて、軽々(けいけい)に殺してしまうでしょう。そしてそれからの一生を、眠りつづけることになるでしょう。
 もしも神が、諸君のことを心配して、誰かもう一人別の者を、諸君のところへ、もう一度つかわされるのでないならばです。」
(『ソクラテスの弁明』、『新装版・世界の大思想19プラトン』)

>その枠組みを越えた自身、他者との関わりが大事なのではないかと思ったりしています。

枠組みは妄想として、確かに自身、他者との関わりは大事ですね。

176 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/03(土) 02:06:06
う〜ん、対立することが決していいとは思えません・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

討論・議論は大賛成ですけどね。☆^∇゜) ニパッ!!

177 Leo :2005/12/03(土) 10:04:34
>う〜ん、対立することが決していいとは思えません・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

そこらじゅうで対立があるような。

討論・議論によって対立を解消なり改善することもできるかと。

決して「やっつけ」られない(撲滅できない)のが人間存在。

179 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/03(土) 11:41:04
 Leoさん、こんにちは。^^

> そこらじゅうで対立があるような。
> 討論・議論によって対立を解消なり改善することもできるかと。

 もちろんそうでしょうけど実際問題として対立から討論・議論を実現することはかなり困難なように思いますし、みんなが完全な人間ではないのですから対立する側の意見より自らの主張に重きを置いてしまう可能性が高いように思います。
 時と場合によるとは思いますが、なるべく対立を避けよりよい方向に向かうための討論・議論のほうが実を結びやすいのではないでしょうか。

 ブッダも対立は避けていたように思いますし・・・

180 Leo :2005/12/03(土) 12:34:02
わめさん、こんにちはです。

ちょっとまとまりがつかないのでこのようなことを言ってみます。

Leoです。Leoは対立は好かんとです。でも対立はあるとです。

討論・議論などによって止揚しようとしないとしょうがないとかもです。

たいりつ【対立】
「二つの反対の立場にあるものが並び立っていること。互いに相いれないものが向かい合っていること。対峙(たいじ)。」
(「大辞林 第二版」)

しよう【止揚】
「ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。
 矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン。」
(「大辞林 第二版」)

181 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/03(土) 16:33:14
Leoさん、焼肉うまかったとです。^^

> Leoは対立は好かんとです。でも対立はあるとです。

もちろん対立はありますね。
でも自他の対立なら、他者の意見を排斥せずいっそ飲み込んじゃって、新たな自己の意見を組み立てると言うのはどうでしょう?
これも止揚かもですね。^^

182 Leo :2005/12/03(土) 18:47:48
わめさん、こんばんは。

>でも自他の対立なら、他者の意見を排斥せずいっそ飲み込んじゃって、新たな自己の意見を組み立てると言うのはどうでしょう?
>これも止揚かもですね。^^

そうですね。
初期仏教の仏典でも「真のバラモンとは云々である」とかいって、「バラモン教は邪教である」といわないんですね。
「新たな自己の意見を組み立てる」というのは止揚や脱構築なんですね。

脱構築【だつこうちく】
「フランスの哲学者デリダの用語。形而上学の仕組みを解体し,その可能性の要素を抽出して
 再構築を試みる哲学的思考の方法。デコンストラクション。」
(「大辞林 第二版」)

...「形而上学の仕組みを解体」というのがブッダとの共通性があるような。

それにまた討論・議論に勝ち負けは関係ないのだとか...

○論争における勝利にはなんの価値もない(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/110.html
「この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれはそれを享受することを学べるのである。
 これはなにも改宗などを目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものである。
 われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、
 真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのである。」

183 Leo :2005/12/03(土) 18:55:27
>それにまた討論・議論に勝ち負けは関係ないのだとか...

勝ち負けは関係ないでなく、勝ち負けに価値がないですね。

184 Leo :2005/12/03(土) 19:53:15
「人は思い込みにより事実を正確に捉えていないことがある。〜フレーミング理論より〜」

...だそうな。

ギロビッチ博士のプロフィール(大和証券グループCMより)
http://www.daiwatv.jp/group/cm/profile01.html
「「なぜ人間は、判断を間違えてしまい、あいまいな信念を形成し、
 合理的とは思えない行動を選択してしまうのか」といった事をテーマに研究しています。」

185 Leo :2005/12/04(日) 00:01:50
細々とやっていきますが今日は目先をかえて日蓮(大聖人)と並ぶ鎌倉新仏教の開祖道元禅師について少し。

道元 (フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83
「佛道をならふといふは 自己をならふ也 自己をならふといふは 自己をわするるなり
 自己をわするるといふは 萬法に證せらるるなり
 萬法に證せらるるといふは 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり - 一 現成公案」

曹洞宗と現代の哲学者ジャック・デリダとの対話が行われたとのことでこのような本もあります。

デリダから道元へ―「脱構築」と「身心脱落」 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480084991/250-2522063-7596246

脱構築(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%A7%8B%E7%AF%89
「ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムは、こうした脱構築によって済し崩しにされる。
 脱構築によってデリダは、二項対立によって回収されえない他者へのまなざしを呼び起こし、
 更なる哲学の活性化を目指そうとした。従ってデリダの真意は形而上学の転覆にあるのではなく、
 むしろ真の意味での形而上学の新たな可能性を開くところにあると見るべきである。」

186 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/07(水) 01:38:44
Leoさん、くまりんさんには怒られそうだけど、テーラワーダ仏教を知れば知るほど情けなく感じてきます。

たかだか個人の意識レベルのことでああでもないこうでもないと、心のエネルギーがどうのこうの、個に向かう精神ってそんなに大事なのでしょうか?

そんなに自分が大事なのでしょうか。
そんなに自分を高めることが大事なのでしょうか。
何だが自分自分自分自分と、他に見るものはないのでしょうか。

自身を大事にできないものは他者も大事にできないなんてよく言いますけどホントにそうなの?

ホントは他者を大事にできない者は自分を大事にすることもできないような気がする。

そんなに自分が大事なら、ブッダも悟りを開いて自分一人で悦に浸っていたような・・・

ちょっと平常心じゃないわめのたわ言でした。

187 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/07(水) 01:53:36
Leoさん、更に続きます。

人は笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を持ってますけど、それも他者や環境と切り離しては味わうことができません。

笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を、自分の中からどれだけ探してみたって見つかりっこないような気がします。

それは自分と他者・環境との関係性の中から生まれるものでしょ?

その特典をわざわざ離れたい人なら他者や余計な環境との関係性を極力縁を切っていけばいいように思うし、その特典を離れたい人はこの社会には必要ないのじゃないかな?

188 Leo :2005/12/07(水) 08:04:47
わめさん、おはようございます。

>そんなに自分が大事なのでしょうか。
>そんなに自分を高めることが大事なのでしょうか。
>何だが自分自分自分自分と、他に見るものはないのでしょうか。

本来自分への執着への否定(その最初として自己を観察)が仏教なんではないでしょうか。
わめさんの違和感というのはテーラワーダ仏教の正当化や権威主義なのかもしれないですね。

南方仏教では僧侶が無制限に尊敬を集めているといったこともあるでしょう。

私の仮説として初期の仏弟子のマハーカシャパやアーナンダがすでに権威主義者だったと思ってます。
それに対してひいき目かもしれませんがブッダは権威を否定していたように思うんです。

>その特典をわざわざ離れたい人なら他者や余計な環境との関係性を極力縁を切っていけばいいように思うし、
>その特典を離れたい人はこの社会には必要ないのじゃないかな?

「犀の角のように一人歩め」ということがそういうことなのかなとも思っています。

189 くまりん :2005/12/07(水) 11:32:15
わめさん、Leoさん、おはようございます。
 べつに怒りなんかしません。僕は坊主ですけどテーラワーダの会員でも信者でもなく、テーラワーダ仏教をパーリ仏教をストレートに伝える僧伽として尊重しているということです。そして近代仏教学も学ばれて地道な活動をされるスマナサーラ長老に対しては礼拝しますというのが僕の態度であって別に信棒者ではありませんから。僕が学生時代から勉強してきたのは禅学と説一切有部なんです。だからといって説一切有部の思想が全て正しいとは思っていませんけど。

『ちょっと平常心じゃないわめのたわ言でした。』と但し書きが付いているとはいえなにかおイヤなことでもあったのでしょうか。それともご自分で他者に想いを馳せなければとお考えの時にテーラーワーダ仏教のモノイイが不愉快に感じられたのでしょうか。とりあえずこちらに書き込もうと書き出したらちょっと長くなったので自分のほうのエントリにしました。

********
- お幸せでありますように -

190 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/07(水) 15:51:11
Leoさん、くまりんさん、コメントありがとう御座いました。

それにくまりんさんにはエントリまでして頂きまして、わめの感情的なコメントなのでお恥ずかしいやらうれしいやら複雑な気持ち(笑)ではありますが、お気に止め下さり感謝しております。

今回のこの >>186-187 わめのコメントの事の発端?は、わめのブログの記事(*1)のコメント欄でのことなのですが、余りに記事から脱線してしまう内容と思えるテーラワーダ仏教についてのお話なので、近いうちに記事として書いてくまりんさんのブログにTBさせて頂きたいと思っております。

*1
『今、創価学会に思うこと 01』
http://wame.seesaa.net/article/10186449.html

191 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/08(木) 02:39:31
くまりんさん、こんばんは〜

記事は書いたのですが、それだけではくまりんさんが書いてくれたことのコメントにはならないように思いますので、TBもさせてもらおうとは思いますが、お返事はお返事として書けるまでお預けさせていただきます。m(_ _"m)ペコリ

192 くまりん :2005/12/08(木) 03:33:14
わめさん、こんばんは。
 ご紹介いただいたエントリを拝見して自分のエントリがちょっと方向違い(^^;。だったと気づきました。
改めてわめさんのブログの方にコメントを付けさせていただきました。お返事の方はどうかお気になさらずに。

********
- お幸せでありますように -

193 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/08(木) 04:02:32
くまりんさん、ブログへのコメントありがとうございました。感涙

お言葉に甘えてそろそろ休ませていただきます。
明日の仕事が終わるまでお返事ができないと思いますがよろしくお願いいたします。<(_ _)>

194 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/08(木) 15:03:56
 Leoさん、くまりんさんがエントリーしてくださった記事ですが、よく読むとLeoさんが言った「テーラワーダ仏教の正当化や権威主義」についてのことと、「犀の角のように一人歩め」についてのくまりんさんからのお返事かもよ。^^

 わめも「テーラワーダ仏教の正当化や権威主義」の正当化ということは感じてましたのでこのとこではTBしてみようと思ってますが、Leoさんもコメントしましょ♪

 あとわめは縁起についての解釈がくまりんさんとは違い(わめは拡大解釈?w汗)ますので、その件をコメントしてみようと思います。

 ではでは。(^^)

195 Leo :2005/12/08(木) 22:59:10
わめさん、くまりんさん こんばんは。

お知らせありがとうございます。
くまりんさんのところなのかな?わめさんのところかな?どっちも見てきます。

196 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 00:42:14
Leoさん、(;´ρ`)イマオキタヨ

どっちかと言うとくまりんさんのところです。^^

197 Leo :2005/12/09(金) 00:49:43
わめさん、おはようございます。

さっきくまりんさんのところに行って記事読みましたよ。
レスも書き込んできました。レスはリンクを含んでいたからすぐに反映されないようです。

198 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 01:04:19
そうですか。^^ 早く反映されないかな。。('-'。)(。'-')。ワクワク

ブログでくまりんさんのテキスト貼ってくれてありがとう。^^

> 「人は縁起という真理を知り、無明と記号化された根本的生存欲への無知とその制御を知って
>  人は自己自身の我が身の無常に深く頷きまた人生の苦を我がこととして深く味合うことが出来るようになります。
>  そしてその時始めて人はまた他人の痛みを明確に我がことになぞらえて意識し、
>  自発的な他者に対する慈悲が現れると考えるのです。
>  理想は確かに「始めに大悲ありき」の他者との関係優先の思想でしょう。
>  しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。
>  だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。」

”他者との関係優先の思想でしょう。”まで、まったく同意なのですが、と言うかこのようなことをくまりんさんは言われていたのですね。すっごくうれしいです。

でも「しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。」ってなっちゃうところが悲しいです。これはこれでいいこととは思うのですが、わめも別に人間は良く出来ているとは思わないのですが、そうではないと思うのです。あ、そうである人もいるかもしれませんが、でもそうであるんだと自戒の念を込めてこのようにおっしゃっているのかな・・・

199 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 01:07:56
わめのためのエントリーだったのに気が付かなかった・・・涙

200 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 01:15:34
あ、ちょっと違った。

わめへのエントリーは
「理想は確かに「始めに大悲ありき」の他者との関係優先の思想でしょう。しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。」

これですね。これ以前に

「説一切有部の瞑想法を再現すると人は縁起という真理を知り、無明と記号化された根本的生存欲への無知とその制御を知って人は自己自身の我が身の無常に深く頷きまた人生の苦を我がこととして深く味合うことが出来るようになります。そしてその時始めて人はまた他人の痛みを明確に我がことになぞらえて意識し、自発的な他者に対する慈悲が現れると考えるのです。」がありました。

やっぱりくまりんさんはこっちを選択しているようですね。
この「縁起という真理」って何を指しているのでしょうね・・・
でも「説一切有部の瞑想法を再現すると」を除けば理解できるような気もしてきました。

201 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 01:18:03
あれ? 同じかw汗 なんだかスレ汚ししちゃったよw涙

202 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 01:24:28
 くまりんさんは更に「テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』というのは僕が申し上げた理由によると思いますよ、多分。」とおっしゃってますが、”テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』”これは悲しいかな危ない世界に陥ってしまいそうな危険な香りを感じてしまいます。
 思い込みの慈悲が生まれそうで怖いですw つまり心が洗脳された状態のような・・・

203 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 03:05:54
Leoさん、もう寝たかw笑

この件、記事にしましたのでくまりんさんっちへTBしてみます。^^

204 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/09(金) 17:29:08
 記事にしてブログでアップしようかとも思ったのですが、主観モロ出し偏った思考ぽいコメントではやっぱ修正すべき点が多いと言うかだらけ(笑)のようで、ここで書いてLeoさんのご意見や、あわよくばくまりんさんやLibra師匠などから批判的御意見を頂戴できてお話にもならないとぽいするか、手を加えればそれなりに使えそうかなどの悪巧みでここに書いてみます。^^

 あっと、>>202 の「危ない世界に陥ってしまいそうな危険な香り」にも関係するコメントです。

 模範とすべき心を観察しそれがどのようなものかを表したのが教えであり、その教えからの何かしらの妥当な実践(修行)で模範とすべき心を得ようとの試みではないかと思うのですが、これは物質的に随分乱暴なたとえになりますが、理想的(かどうかも分かりませんが)な実際の建物を詳細・緻密に観察し建物の図面から建物を完成させることが”教え”であり、その建物の図面から建物を現代(自己の心)に復元しようとの試みが教えの実践(修行)で、それは何と言えばいいのか”素材が個々に違い”クローンを作るようにはいかないわけで、それを無理してコピー的に人工的な建造物、模造建物を建てたとしても何か異質と言うか歪(いびつ)さがあるように思います。本来の理想的な建物はそのような建物の図面から出来上がったものではなく、この世界のありのままをありのままにつぶさに観察して出来上がったものなのだ思うのです。ですのでこの世界のありのままをありのままにつぶさに観察して出来上がるものがそれぞれ個人差(建物の形状の差異)があっても、そのそれぞれが理想的な建物と言えるし、元々この世界がそのような”仕組み”になっているわけですからそれが自然じゃないかと思うのです。
 いちいち理想的な建物の図面と自己とを睨めっこして精巧・緻密にそっくりに組み上げていっても、素材が違うためここが違うとかここが足らないここが過剰だとかが出てきて修正を加えていかなければならず、それでもまだそれが素材の違いが原因だと分かることならいいのですが、あるどこか図面どおりじゃない建て方をしてしまった可能性もあって、素材の違いなのか組み立て方のミスなのか分からず、そこに理想的な建物と同じ形にしようとの恣意的な”無理”が働くのではないかと思います。ですのでそのようにして出来上がった建物は理想的な建物とは一見同じようには見えても、その中身は理想的な建物とは異なものとなってしまうのではないでしょうか。言わばTVでお馴染みの芸能人のそっくりさんみたいなものでしょうか。本物じゃないのです。
 ちなみにここで言う素材とは、人間個々の遺伝子の違いや資質や経験や育った環境などの個体差を指して書いてみました。

205 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 00:10:09
>>204 うーん自分で書いたものなのに自分でも理解に苦しむなw汗

それはいいけどLeoさんやわめって、何か宗教とか信仰をしているように何故か見られているような気がする・・・w

あ、Leoさんは何か宗教とか信仰をしてるの? 今頃聞いてどうすんだって?w笑

206 Leo :2005/12/10(土) 00:40:18
わめさん、こんばんは。

>くまりんさんは更に「テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』というのは僕が申し上げた理由によると思いますよ、
>多分。」とおっしゃってますが、”テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』”これは悲しいかな危ない
>世界に陥ってしまいそうな危険な香りを感じてしまいます。
> 思い込みの慈悲が生まれそうで怖いですw つまり心が洗脳された状態のような・・・

やはりそういう危険性はあるのではないでしょうか。危険性を回避するとしたら、ブッダの言葉(仏典)、妥当な先達、
妥当な実践、適度な理論や議論や批判などの助けが必要ではないかと思います。
それに本来仏教は洗脳状態にはならないものだと思います。

>ですのでそのようにして出来上がった建物は理想的な建物とは一見同じようには見えても、その中身は理想的な建物とは異なものとなって
>しまうのではないでしょうか。言わばTVでお馴染みの芸能人のそっくりさんみたいなものでしょうか。本物じゃないのです。
>ちなみにここで言う素材とは、人間個々の遺伝子の違いや資質や経験や育った環境などの個体差を指して書いてみました。

たとえてみれば「自分を高める」なり「成仏」なりの設計図やそのネタがあったらなあと思って私はLibraさんやくまりんさんの話を伺ってます。

「自分を高める」であれば理想の人物を描いてそれにきっちりあてはめようとするのはやはり歪みが生じるのではないでしょうか。
誰もが「山本伸一」(山本伸一でなければブッダでも構いません)になれるものでもありません。

建物であれば「設計図」を何度も何度書き直したり、イラストや3Dパースをつくったり。
重要なのは「構造計算」(笑)をやったり模型をつくったり(検証)。
土地や建物の材料なども熟知しなければならない場合もあるでしょう。

一般に何事Plan(計画)→Do(実践)→See(検証・改善修正) のフィードバックを持ったやり方を行えば理想に近づくことができるのか
なあと思います。

伝統芸能などでも昔のままただ伝えるのでなく現代的アレンジがあるようですし、「教え」と「実践」のバランスがあるのですね。

「クローン」(分身)を思わせるような過去の指導・教義は思い出さないわけでもないですが、単なる「コピー」を作ったり増やしたりしても
何の価値もないように思います。

207 Leo :2005/12/10(土) 00:46:09
わめさん

>それはいいけどLeoさんやわめって、何か宗教とか信仰をしているように何故か見られているような気がする・・・w

たとえ創価学会を信じるのをやめたり批判的に思っても、学会員という範囲になってしまうのでは
ないでしょうか。私はまだ退会してないですが、わめさんもまだですよね?

>あ、Leoさんは何か宗教とか信仰をしてるの? 今頃聞いてどうすんだって?w笑

私は日蓮(大聖人)とブッダに関心がありますが、信仰者としてはおはずかしいです。
今の宗旨は自由主義に近いです。

208 Leo :2005/12/10(土) 00:50:03
ちなみに、

じゆうしゅぎ【自由主義】

「〔liberalism〕個人の価値や人格の尊厳性を重んじ、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障しようとする立場。
 政治的には、市民的自由の擁護・拡大、経済的には自由放任主義の主張としてあらわれる。
 市民革命期、新興ブルジョアジーのイデオロギーとして登場。リベラリズム。」
(大辞林 第二版)

私は別にブルジョアジーじゃないんですが、それはおいといて、
「個人の価値や人格の尊厳性を重んじ、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障」がよいですね。
型にはめる、はまるのは嫌じゃ。

209 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 00:57:26
Leoさんにはわめの滅茶苦茶なテキストもある程度理解できたのねw(⌒〜⌒)ニンマリ

 ちょっと補足させていただくと、例えばブッダは図面を見て悟りを開いたわけじゃないし(もしかして悟りを開いたも方便かもしれないけどw汗)、図面どおりにやったって素材が違うんだし同じ悟りは得られない(方便だったら大変だぁw)のだし、ブッダに憧れるんならブッダと同じようにしなくちゃいけないと思う。でもブッダにはなれませんけどもいいじゃんね。

 結局何かを信じちゃうとそこから体験主義に陥っちゃうのかしらん。涙

> 今の宗旨は自由主義に近いです。

わめはここだけがLeoさんと違うな。わめは暫定真理主義かもです。笑

> 「個人の価値や人格の尊厳性を重んじ、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障」がよいですね。
> 型にはめる、はまるのは嫌じゃ。

わめも極端にそれよいです。爆

それに型にはめるは業界用語じゃw
絵は描かないでw はまるの(ノ≧ロ)ノ<嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌

211 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 01:07:09
> たとえてみれば「自分を高める」なり「成仏」なりの設計図やそのネタがあったらなあと思って私はLibraさんやくまりんさんの話を伺ってます。

そっそれは妄想・思い込みの始まりじゃないかの?w汗
でもくまりんさんは御僧侶(お坊さん?)なのに妄想・思い込みが極端に少ないと言うか、仏教話は多いのにあそこまで感じさせないのはわめ流に言えば暫定真理の仏さんですよ。^^

いっ、いかん”くまりん(さん)が見てた”だw
おふざけ話までエントリーしないでくださいね。m(。_。;))m ペコペコ…

212 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 01:14:19
> 私は日蓮(大聖人)とブッダに関心がありますが、

これもLeoさんとちょっと違うかも・・・
関係性の観点から(周囲に信奉者が多いから)は関心はあります。以下略

213 Leo :2005/12/10(土) 01:22:26
>そっそれは妄想・思い込みの始まりじゃないかの?w汗

私は批判的合理主義や仏教で妄想・思い込みが払拭できると思っているのですがそういうのは妄想・思い込みの始まりなのでしょうか。
わめさんなんか深いです。究極的にはどんなところにも安住してはいけないのですね。

>でもくまりんさんは御僧侶(お坊さん?)なのに妄想・思い込みが極端に少ないと言うか、仏教話は多いのにあそこまで感じさせないのはわめ流に言えば暫定真理の仏さんですよ。^^

私もわめさんも思い込みが激しい宗派の僧侶を見た(僧侶だけでなく)と思いますが、僧侶は皆同じと思ってしまうのも
妄想・思い込みかもしれないですね。

日蓮(大聖人)自身も僧侶だし、「相田みつを」も曹洞宗の僧侶の指導を受けたことがあるのだそうです。
創価学会は僧侶を否定する風潮があると思いますが、僧侶は研鑽者や研究者、教師・指導者としてすぐれた方がいらっしゃいますね。
(これも妄想・思い込みだろうか常に自問自答...)

214 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 01:38:56
わめなんかも超思い込み派なのに、Leoさんに指摘するなんて大変失礼をばしてしまいましたw汗

ブログで最近(特に12/2分から)は結構正直に書いてしまっていますが、わめは関係性に身を置くという思い込みをやっているようです。涙

隠してきました(ばれたたかw)が関係性という暫定真理教に実は1年半以上も前からハマりこんでいるのです・・・

あ、会費はただです。^^

215 Leo :2005/12/10(土) 01:50:08
>わめなんかも超思い込み派なのに、Leoさんに指摘するなんて大変失礼をばしてしまいましたw汗

いえいえ、お互い指摘したり批判したりしないと自分だけではわからないことがありますので、
そういうキッカケは重要です。私もはっとしましたよ。天の声と思いました正直。

>ブログで最近(特に12/2分から)は結構正直に書いてしまっていますが、わめは関係性に身を置くという思い込みをやっているようです。涙
>隠してきました(ばれたたかw)が関係性という暫定真理教に実は1年半以上も前からハマりこんでいるのです・・・
>あ、会費はただです。^^

「関係性に身を置く」は悪いことでないように思います。なんでも否定しなくていいと思いますよ。
(それとも照れ隠しかな?)

216 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 01:51:05
Leoさん、思い込みは新たな思い込みで解消していくのかもしれませんね。^^

その繰り返しを一杯して、当たり前が思い込みになったらいいのかもしれないなんてね。(*゜▽゜*)

どう? いい感じ?(⌒▽⌒)アハハ!

217 Leo :2005/12/10(土) 09:32:30
わめさん、おはようございます。

>僧侶は研鑽者や研究者、教師・指導者としてすぐれた方がいらっしゃいますね。

くまりんさんもその中のお一人かもしれないです。

>Leoさん、思い込みは新たな思い込みで解消していくのかもしれませんね。^^

たとえば臨済禅師はちょっと物騒な表現で「思い込みを捨てよ」ということを説いたとのことですね。

『殺仏』(ほとけをころす)
http://dojuji.ktroad.ne.jp/ippitu43.html

>その繰り返しを一杯して、当たり前が思い込みになったらいいのかもしれないなんてね。(*゜▽゜*)

『ムトゥ 踊るマハラジャ』というインド映画でムトゥという主人公の父上が聖者なんですが、
聖者はごくごく当たり前のことを言っているだけというのが興味深かったです。
(この映画はドタバタ娯楽映画なのですが...)

218 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 10:24:44
Leoさん(ノ゚Д゚)おはよう

> たとえば臨済禅師はちょっと物騒な表現で「思い込みを捨てよ」ということを説いたとのことですね。

面白いですね。coco師匠もみれいしゃんもこのこと書いてくれてたです。^^
でもやっぱり「思い込みを捨てよ」と言う思い込みは残っちゃうんじゃないかな・・・

思い込みはなくならないんじゃないかと。まったく無くなっちゃうのは困ったことになりそうだし。

 話は変わるけど、元々人間も動物も本能的に、あるいは生存していく中での体験的智慧で、あるいはその両方で関係性の重要性を意識の深〜いところで当たり前に分かっていて、だからコミュニケーション手段も生まれ宗教も生まれその他諸々のものも生まれてきたんじゃないかと。というかこれら全部コミュニケーションが関わっていると思うのだけど、ところが当たり前のように分かっていた関係性の重要性が当たり前であったがため、またその手段であるコミュニケーション手段という道具が、関係性の重要性を考えなくても生活を快適にしてくれた。で、人はいつのまにか関係性の重要性を忘れてコミュニケーション手段が関係性の重要性を人の心から排斥していったんじゃないかと思うのだけど。
 だから手段が目的に勝っちゃっている状態の人が多くなったってことじゃないのかな。Leoさんもいい手段を探しているようにも見えなくもない・・・w汗

219 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 11:14:24
Leoさん、くまりんさんがいいこと書いてる!
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=887

 人は関係性から生まれ(わめ的には変化)、ずっと関係性の中で依存しあいながら生きてるけど、種の保存欲・根本的生存欲ってのがやっぱあって、それをうまくコントロールできない(無明だからかコントロール法を知らないからか)から色々な問題も生まれる。

 ブッダを合理的な人としたい願望も分かるな。わめも合理的なのが好きだからブッダに憧れている時はその口だったかもw汗
 十二支縁起がよく分からないので真理かどうか、と言うか暫定が付かない真理なんて思い浮かばないけど、涅槃は真理ではなく体験で、ブッダは方法論を説いたと言うことかな。
 業・輪廻も、捉え方にもよるけど現実にはない(うん 無いよね?)のにブッダがあると言ってるという言明はおかしいと考えるからややこしいけど、ブッダがあると言ってもそれは涅槃に達するための方法論としてなら何にも問題はないんじゃないかな。
 それに涅槃を目指す人にこそ業・輪廻は必要で、涅槃を目指さない人にも関係ないじゃん。と考えると目指す目的のためには思い込みも必要になってくるんじゃないかな。

 でもますますブッダへの好感が薄れていくわめがいる。(´・ω・`)ショボーン

 うぅ仕事があるからしっかり思考できないw 夜には手が空きそうだからもっと色々考えてみよう。♪

220 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/10(土) 12:36:40
メモ

ちょっとショックだわんw
人格・性格を業(カルマ)とするなら脳が壊れていくことにより人格・性格まで変質(壊れる)していくというアルツハイマー病患者の事実と整合性がとれないねw
http://freett.com/Libra0000/z006.html

221 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/11(日) 02:26:57
Leoさん、こんばんは。^^ もう寝てるって?w笑

 何かを前提(業報と輪廻転生)にしなければ真理と言えない真理って、真理ではなくよくて暫定真理の可能性を残せますが、その前提(業報と輪廻転生)も客観的事実じゃなければ、暫定真理かもしれなかったものも暫定真理とも言えなくなりそうですね。
 前世があると言う客観的事実も見えてこないし、結局これらは客観的事実とも暫定真理ともまして真理とも言えないということかな。
 でも個人の思考の中で何をどう思おうと自由であるとは思いますし、これがブッダの主要な教えで事実としての言明なら色々思うこともありますけどもそれがブッダなのでしょうね。
 Libra師匠なら色々反論もあるかもしれませんが、わめはそんなのどうでもいいかも。^^

 心の呪縛(思い込みか?)から解放されていくのは気持ちいいわ♪

 あ、そうそう、>>218 で書いた「元々人間も動物も本能的に」ってくまりんさんのおっしゃる種の保存欲・根本的生存欲なのかもって考えてます。そこからと体験的に関係性の重要性を学んで(無意識含む)いくのが本来あるべき姿なんじゃないかと思ったりします。あとは >>218 の見解は今のところ変わってないですけど。^^

222 Leo :2005/12/11(日) 02:48:34
わめさん、こんばんは。

そろそろ寝るところでした(^^; その前に、 

最近「涅槃」がわからなくなってきたので、くまりんさんのところで質問してみました。
もしかするとわめさん的には「涅槃」はどうでもよいかもしれませんが、私的には何かあるんじゃないかと
思っています。

(たとえがわけわかめですが...)
ブラックホールが体験できなくてもブラックホールの存在が推測されるような...

>心の呪縛(思い込みか?)から解放されていくのは気持ちいいわ♪

私自身への反省もあるですが、物事に凝り固まらないってことでしょうね(^^;

ではまたです。

223 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/11(日) 02:55:49
おお、Leoさん起きてた。^^

> もしかするとわめさん的には「涅槃」はどうでもよいかもしれませんが、私的には何かあるんじゃないかと思っています。

わめにはどうでもいいですが、涅槃は大いに何かあるでしょう。
わめもそのように認識してます。
ただ2500年くらいも経っているのに社会・世界に与えた影響は?と考えるとどうでもいいかなって思っちゃっているんです。
でも趣味だったら個人の好みがあるし、それが涅槃となったらその醍醐味は想像を絶するのじゃないかとは思いますよ。^^

> ブラックホールが体験できなくてもブラックホールの存在が推測されるような...

いや、心で体験できたとしても存在としては無いということなのではないでしょうか。
もちろん存在としては無いことが無意味だ何ってまったく思っていませんが。

224 Libra :2005/12/11(日) 07:34:27
 みなさん、おはようございます。

 多くの方に「そんなのどうでもいい」(わめさん)と思われるであろうこと
をちょこっと書いてみます。

 わたしがブッダの思想だとおもっているところの思想(以下、「思想A」と
略記)をわたしが支持するのは、思想Aがすぐれているようにわたしにはおも
えるからです。思想は、《それが誰によって主張されたか》とは切り離して評
価されるべきです。尊敬する顕正居士さんのご発言をお借りすると、「思想の
評価をその方の身分によって行なうなら、これもトンデモ」[*1]だとおもいま
す。

 思想Aを言い出したのはシャカだろうとわたしはいまのところ思っているわ
けですが、これは、いってみれば歴史の問題です。もし、思想Aを言い出した
のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。そ
ういう意味では、わたしにとって歴史の問題はさほど重要な問題ではありませ
ん。

 次に強調しておきたいのは、わたしは、初期仏典は思想的に矛盾していると
思っているということです。つまり、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と
無我説の両方が含まれており、両者は論理的には両立しないというのがわたし
の理解です[*2]。ややこしくなりそうなので、わたしが理解し支持している無
我説を、以下では「無我説A」ということにします。

 「論理的には両立しない」と書きましたが、わたしは、論理に西洋も東洋も
ないとおもっています。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立す
ることになるなどということはありえないだろうとおもいます。もしそのよう
なことがあるとすれば、西洋と東洋との間では相互批判は成立しないというこ
とになるのではないでしょうか。ちなみに、わたしは、「批判とは、あくまで
も言明間の論理的関係の指摘である」[*3]とおもっています。

 「初期仏典には思想的な矛盾などはない」と理解されている人も多くおられ
るようです。このような方がいわれる無我説(以下、「無我説B」と略記)と
無我説Aとは内容的には全く異質のものということになるでしょう(もっとも、
わたしには無我説Bは全く理解不可能であり、矛盾しているとしかおもえない
のでそのように想像するにすぎないわけですが)。もしシャカが無我説Aでは
なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。

225 Libra :2005/12/11(日) 07:35:02
 輪廻転生を肯定しない思想は倫理的に破産するというような考えにもわたし
は賛成しません。ポパーは「生命には終わりがあるからといって、これを価値
のないものと考える人もいる。彼らは、終わりがなかったら生命には価値がな
かっただろうという正反対の議論も同様に擁護できることを見過ごしている。
彼らは、人生の価値を理解するのを助けてくれるのは、一部には、生命を失う
という絶えまなく現存する危機であることを見過ごしているのである」[*4]と
いいますが、わたしはこのような倫理観に賛成します。「生命現象の根底にい
かなる生命原理を想定しない仏教においては、その生命現象自体も絶えず変動
にさらされ、崩壊の危機にさらされている。実はこの点に原始仏教において生
命倫理の成立する根拠があるのではないかと思われる」[*5]という高橋先生の
仏教理解も支持します。

 輪廻転生と無我説についての曽我さんと佐藤さんの議論[*6]を拝見しました。
佐藤さんは、曽我さんのお考えを「珍説」であり、「検証不能でまともに相手
にしようがない(何とでも言える)」とコメントされており、くまりんさんの
「このかたはどうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
とのコメントも同様の趣旨だろうとわたしは理解しました。おそらく、わたし
の考えに対しても同じような評価が下されることだろうとおもいます。これは
さきにのべた歴史の問題に対するスタンスの違いということになろうかとおも
います。

 わたしにとって歴史の問題はさほど重要ではありませんので、まともに相手
して頂かなくても全然かまわないのですが、思想の問題として、論理的に両立
しない思想を両方とも肯定してしまうというのは大問題だとおもいます。そん
なことをすれば、批判が成立する基盤を自ら放棄することになり、まさに「何
とでも言える」ということになるのではないかとおもいます。

 また年末年始にお邪魔させていただこうとおもっています。


  [*1] 《日蓮本仏論》再考
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog005.html

  [*2] 輪廻説は仏教ではない(Libra)
     http://page.freett.com/Libra0000/z006.html

  [*3] 批判とは言明間の論理的関係の指摘である(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/124.html

  [*4] あらゆる人々は哲学者である(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/113.html

  [*5] 原始仏教における生命観(高橋審也)
     http://page.freett.com/Libra0000/059.htm

  [*6] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

226 Leo :2005/12/11(日) 11:41:46
Libraさん、おはようございます。

>もし、思想Aを言い出した
>のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
>た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。

顕正居士さんが大乗仏教は龍樹教という意味のことを仰っておられましたが
そういう意味なのかもしれないと思いました。

>もしシャカが無我説Aでは
>なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
>するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
>う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。

釈迦が意味不明なことをいう人であったならば、初期仏教の不妄語の戒律に反しますね。
だから「釈迦が意味不明なことをいう人であったはずがない」という擬似推論でなく、
思想内容で判断すると。ううむ。

> わたしにとって歴史の問題はさほど重要ではありませんので、まともに相手
>して頂かなくても全然かまわないのですが、思想の問題として、論理的に両立
>しない思想を両方とも肯定してしまうというのは大問題だとおもいます。そん
>なことをすれば、批判が成立する基盤を自ら放棄することになり、まさに「何
>とでも言える」ということになるのではないかとおもいます。

そのご指摘はものすごく気になります。少なくとも私にとっては「どうでもよいこと」
ではないです。

227 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/11(日) 12:19:35
Libra師匠、Leoさん、こんにちは。^^

今から昼食に出かけますので一言だけ。

くまりんさんの記事(どの記事か調べなくてごめんなさいw)で、輪廻転生を肯定の思想と無我(非我)説と”論理的に両立しない思想”ではないと詳しく書かれていたと思いますが、くまりんさんのテキストは難解なのでわめの勘違いでしたらごめんなさい。

228 Libra :2005/12/11(日) 15:20:11
 Leo さん、こんにちは。

 顕正居士さんとわたしとでは意見が異なっている部分もかなり多いです。わ
たしがおかしなことを書いたせいで、顕正居士さんのお考えまでが誤解されて
しまうことをわたしはおそれます。公の場で顕正居士さんのお考えについて述
べられる場合には、直接、顕正居士さんのご発言を参照されることを希望しま
す。

 わたしは、顕正居士さんの以下のようなお考えに賛成です。

  「釈尊の大悟の内容が縁起であったことに異論はないこととおもいます。
   それが十二支の程式か、彼あれば此あり彼無ければ此無し、かには議論
   があります。」[*1]

  「龍樹の空性の説(人法無我の説)は釈尊の縁起説の認識論的発展であり、
   縁起の論と実相の論は対立しないという理解は近代仏教学の成果であり
   ます。」[*2]

 以前、顕正居士さんが、われわれの立場を想定して『理想版・創価学会会則
前文』というものを考えて下さいましたね。わたしはこの『理想版・創価学会
会則前文』に大賛成です。

  「釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法
   華経は万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華
   経の万人平等(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国
   に伝え、智者大師が両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達し
   た法華思想を、日蓮は世界に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこ
   の訓えを信じるがゆえに、空性の教義と一乗の精神とを世界に伝えたい
   とおもう。」(『理想版・創価学会会則前文』[*3])


  [*1] 素朴な疑問コーナー
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog002.html

  [*2] 素朴な疑問コーナー
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog002.html

  [*3] 仏教とは何か
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html

229 Libra :2005/12/11(日) 15:58:43
 わめさん、こんにちは。

 くまりんさんのテキストは、わたしにとっても難解なので、以下に述べるこ
とはわたしの勘違いかもしれません。勘違いでしたらごめんなさい。

 わたしが「論理的には両立しない」というのは、どこにいっても(西洋だろ
うが東洋だろうが)「論理的には両立しない」という意味です。

 くまりんさんは、《西洋論理学的には両立しないが、インド論理学的には両
立する》といわれているように見えます。

 >>224 に書きましたように、わたしは、論理に西洋も東洋もないとおもって
います。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立することになるな
どということはありえないだろうとおもいます。

 くまりんさんは「即今此処自己の自己反省の実践は未来を選択することその
ものになるよというのがやっぱりインド論理学なんです」ともいわれています
が、わたしはこのご発言を理解できません。わたしは、論理学というものを
《命題間の論理的関係や推論の妥当性についての学問》であり《命題の内容に
ついては何も語らないもの》であると認識しているからです。

 もちろん、「自己反省の実践」を重視する思想にはわたしも賛成ですが、そ
れはインド論理学の枠内においてのみ主張されうるとはおもいません。また、
「自己反省の実践」と同じくらい「他者による批判」[*]を重視したいとかんが
えています。

  [*] ポパーの倫理思想(小河原誠)
    http://page.freett.com/Libra0000/083.htm

230 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/11(日) 16:21:02
ヽ(^0^)た(^。^)だ(^-^)い(^O^)ノま

>>229

 Libra師匠、くまりんさんは確かにそのようなこともおっしゃっておられました。でもそれはそれとして、仏教を無我ではなく非我の捉え方として輪廻転生と言うか輪廻だけかもしれませんが、整合性が取れる(東洋・西洋論理関係なく)ともおっしゃっていたように思いますが、わめの読解力では誤解読の可能性もあります。涙

231 Leo :2005/12/11(日) 17:51:55
Libraさん、こんにちは。

>公の場で顕正居士さんのお考えについて述べられる場合には、直接、顕正居士さんのご発言を参照されることを希望します。

了解です(汗

> 以前、顕正居士さんが、われわれの立場を想定して『理想版・創価学会会則
>前文』というものを考えて下さいましたね。わたしはこの『理想版・創価学会
>会則前文』に大賛成です。

そのようなご発言がありましたね。しかも私のホームページに記録があるわけで(大汗
確かに『理想版・創価学会会則前文』は希望の持てるものですね。

他のホームページで 顕正居士さんのこのようなご発言があったのも思い出しました。

顕正居士さん発言集より
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/8451/taiwa/kensyou.html(リンク切れ)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html(引用)
「>顕正さんはどんな立場(宗派?)の方なんですか?
 大乗仏教です。根本教理は「人法二無我」です。霊魂とか物自体は存在しないと云う立場です。」

「龍樹−月称−宗喀巴と継承する中観帰謬論証派が最高の理解であると考えます。
 ローカル(日本仏教的)には日蓮主義です。何故かと云うと浄土教は絶対者、密教は有我、
 禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。中で日蓮は実践的には唯色論的だからです。」

「縁起(釈尊)や空性(龍樹)の説は霊魂や物自体の否定で唯心論ではないが大勢はそういう
 方向が盛んになった。日蓮的唯色論も自然科学、社会科学的発想を促すのでなく、呪物崇拝、
 呪文信仰に転落して来た。唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想は
 十分現代でも信仰に価すると云う立場かな。」

232 Leo :2005/12/11(日) 17:55:18
わめさん、こんにちは

ちなみに顕正居士さんのホームページは、

顕正居士網站連線
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/
最近掲示板はメンテされていないようですし、項目が中国語で書かれているので
ちょっとわかりにくいです。

站長介紹
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/zhanzhang.html
宗教近代合理主義
宗旨急進自由主義

だそうです。発言内容的に私の気になっている方の一人です。

233 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/11(日) 21:16:04
Libra師匠、Leoさん、こんばんは〜

>>134 が参考になるかも。^^
「時間の先頭に立って未来を選択し峻別しゆく認識主体」はある。
そしてそれは変化していくから無常でもある。
これを我とするなら自我はあると言うことになるのかな?
でも認識主体からみたら自分は非我ですね。^^

でも輪廻転送とは結びつかないかw汗


> ちなみに顕正居士さんのホームページは、

Leoさん、かな〜り以前から読んでますよ。^^
でも「時間の逆流する世界 」に興味がいっちゃいましたがw(^^;;

234 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/11(日) 21:17:26
> でも輪廻転送とは結びつかないかw汗

どこに転送するんだwヽ(・∀・;)ノ アヒャッ! 輪廻転生

235 Leo :2005/12/11(日) 23:54:05
>どこに転送するんだwヽ(・∀・;)ノ アヒャッ!

それはエンタープライズ号にでしょう(^^;

236 くまりん :2005/12/12(月) 01:07:44
Libra さん。わめさん、Leo さん、こんばんは。
 今晩は仏教者にあるまじき酒浸りでサンスカーラびんびんで外しているかも知れません。それを踏まえたうえで、すいません。酔った勢いで行きます。

歴史観のスタンスの違いは Libra さん のご指摘される通りだと思います。
 しかし Libra さん。歴史を無視してしまえば法華経は単なる有部文書をつなぎにつなげたただのパクリでしょ。そこへ非大乗系涅槃経以来のブッダと友に共存する共通の dhaatu で生存しようと思う理念はブッダ在世中からであることは明らかでありその dhaatu は基体であるばかりでなく遺骨をも意味することはなにも松本先生の思想的発見でもなんでももなくてすでに有部の文書に出てきちゃうんですから。その前提と弟子達の想いが無ければ法華経は作られることもなかったでしょう。ブッダと出会い自分の人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が、自らの感動を託すことはあっても歴史的な正しいブッダを伝承しようなどという学問的な意志でなしに口伝で伝承してきたものが初期仏典であったことを忘れてはなりません。仏教はそうした歴史無しにナーガルジュナも天台大師も日蓮さんもないんです。

 僕にとってはこの世で一番大好きな人であり、また世間の人々からも慕われ敬われた祖父に創価学会の人が邪教の幹部だからと言って石を投げつけ祖父が重体になって救急車で運ばれたこと。それにも関わらず祖父は同じ法華経を授持する人々である、法華経授持者の仲間内のことは世俗の世話になるわけには行かぬと刑事立件を予定した警察に取り下げるように申し出たこと。祖父の寺で寺男をされていたMさんと仰った大工さんが脳溢血で寺の造作仕事をされているときに倒れてなくなられたとき、寺の境内の中にあったMさんのご自宅にお参りに行った父や叔父をご自宅を占拠した学会の人たちが入れてくれなかったこと、そして集まった香典を学会の人たちが持ち去ってしまって明日の生活の途方にも暮れてしまったMさんの未亡人や、幼いころ学会の言い方で言えば邪教のお寺の境内で泥まみれになって一緒に遊んだMさんの息子のK君とその日以来遊ぶことが出来ないばかりかその行方さえ分からないこと。そして祖父の後を継ぐべく東大の印哲を進んだ父の兄、祖父の一番下の息子である僕の叔父が大学に進学しようとする僕におまえ今の身延の考え方では創価学会員は哲学的にもかなうものではない。お前は日蓮宗の坊主などにならずに仏教学へ進め!と。

 自意識が出てから大人になるまで僕の敵は創価学会だったのです。いつか創価学会を知性で叩きのめしてやろう(その時点では煩悩だらけ - 爆 -)と叔父のアドバイスに従い仏教学を選択し、祖父の親友でもあった朝比奈宗源老師のところへおもむき、臨済宗で出家した僕は、もちろんその後御利益の為にお題目をあげて良い人生を送ろう、清らかな人生をおくろうとする創価学会の方々と接して、人は組織ばかりでなくやはり個人なんだと思うこともあって理性が身に付くとともに創価学会への個人的敵憎しみは消えては行きました、しかし袴谷先生の導きによって Libra さん、あなたのサイトを知り読ませていただいとき程、嬉しく打たれたことはありません。数十年の時間を超えて祖父の「同じ法華経を授持する人々である」という「ことば」がたった今のことのように蘇り、涙が止まりませんでした。ブッダは2500年という時間を超えて今も僕たちと共存しているのではないかと。
 
 いまお話したことは別に感情的に恩を売ろうとかそんな染汚にまみれたサンスカーラの為すワザではありません。 Libra さんの考える現代科学にも矛盾しない理性的な論理にかなった仏教も、たとえ業報輪廻を否定したとしても仏教のうちに成立すると考えるし僕は尊重します。僕はそういう方々を難解な言葉を用いて論破しようなどとは微塵も思っていません。しかしちょっと考えていただきたいんです。ポパーの哲学に従えば、科学はとは経験から優れた仮説的な法則を導き出す学問であるから、死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、反証を試みるどころではなく発言することがあり得ないのです。したがって、科学的な死生観という概念は成立する議論すら為される筈がありません。にもかかわらず多くの人々は、輪廻説は非科学的な迷信だというんです。しかしポパーの論理に従えば輪廻説は科学的か否かという基準で死生観を論ずることなど、まさに迷信にほかななりません。仏教は苦しみや悩みにあえぐ人々が自覚的に安心を得る教えです。繰り返しになりますがそれはブッダと出会いその「ことば」によって人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が語りつづけることによって発展してきた思想であって、他者に対しては真理の候補であるということを忘れてはならないと思います。

238 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/12(月) 02:45:03
 くまりんさん、コメントありがとう。^^

 ブッダもくまりんさんのような思いで教えを説いていったのかもしれませんね。
 わめもその”思い”を同じにする者の端くれに加えて頂けるならにどんなにか嬉しいことでしょう。

 ただ悲しいかな思いを同じにすると勝手に思うわめとしては、同調できないとの思いが多々あります。
 これは現在のわめからは、くまりんさん以上にLibra師匠に、そしてLeoさんにも感じていることです。(ごめん)

 仏教が苦しみや悩みにあえぐ多くの人々にとって救いとなっている(きた)のは事実でしょう。それは大いに認めます。
 でも広い意味での仏教として、それがため苦しんでいる人々も多くいると思うのです。
 悲しいことですがそれは最近までよく知らなかった初期仏教とて例外ではないように思えてきました。

 わめはアホだからそれを説明するにはかなり多くの時間が必要だと思いますが、現実重視のわめのたわ言だと思って頂いても構いません。
 ただただ”思い”として端くれに加えて頂きたいとの思いを込めて、失礼とは思いながらもわけわかめなことを書かせて頂きました。m(_ _"m)ペコリ

239 Libra :2005/12/13(火) 00:49:49
 くまりんさん、わめさん、Leo さん、こんばんは。

 くまりんさん、貴重なお話をありがとうございました。他のことに集中する
ため、年末までここへの書き込みはひかえようとおもっていましたが、このよ
うなお話を読ませて頂きながら返事をしないというのは失礼だと思い、返事を
書かせて頂きます(おじいさまのように法華経の行者として生き抜くことがこ
のわたしにもできるとはおもいませんが、そのように生きたいと望むことだけ
は許されると信じて)。

1.歴史を無視するのではなく批判する

 わたしは歴史を無視しようとおもっているわけではありません。>>224 に書
きましたように、わたしは、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と無我説が
含まれていると認識しています。初期仏典は初期の仏教理解を伝えているとも
認識しています。ただ、わたしは、その初期の仏教理解の全体をシャカの思想
とイコールだとは見ないということです。曽我さんのお言葉をお借りすれば、
「<経典には、釈尊の教えそのままが書かれている>とナイーブに信じられる
ほど、事は簡単ではない」[*1]とわたしもおもうということです。これがわた
しの歴史の問題に対するスタンスです。

 わたしは、初期経典に含まれている無我説こそがシャカの思想とイコールだ
とおもっています。この無我説がなければ、龍樹もチギも日蓮もないとおもい
ます(>>228)。そして、この無我説は縁起説とイコールだとおもっています。
一方、輪廻転生を肯定する思想はシャカの思想とイコールとはおもいません。

 わたしは、初期の仏教理解(歴史)の一部を肯定的に評価し、一部を否定的
に評価するということです。このような態度をとったとしても、歴史を無視す
ることにはならないとわたしはおもいます。歴史を批判することにはなるとお
もいますが。

  [*1] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

240 Libra :2005/12/13(火) 00:51:31
2.法華経の評価について

 たしかに法華経は初期経典とか律蔵を素材にして作られていますから、形式
に注目して「パクリ」ということは可能だとおもいます。もっとも、わたしな
ら「批判的継承」といいたいところです。しかし、それは法華経の中身につい
ての思想的な評価の問題です。

 わたしは法華経の中心思想を支持しますが、法華経のすべてを支持するわけ
ではありません[*2]。くまりんさんは否定的に評価されているようです[*3]。

 わたしはまだくまりんさんの法華経評価をじっくりと読んだことがありませ
んので、くまりんさんの評価とわたしの評価がどのような関係にあるのかはわ
かりません。ただ、くまりんさんの「ブッダは2500年という時間を超えて今も
僕たちと共存しているのではないか」という表現からは、みかけほどの違いは
ないのではないかと推測します。

  [*2] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/nt50-56

  [*3] 法華経 - その哲学的凡庸さとご都合主義
     http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050921#p1

241 Libra :2005/12/13(火) 00:53:09
3.ポパーの哲学に従えば、死生観を論ずることは可能
 
 くまりんさんは、「ポパーの哲学に従えば、〔中略〕死んだらどうなるかと
いう、経験を超えた領域の問題について、〔中略〕発言することがあり得ない」
といわれていますが、くまりんさんのこのポパー理解には反対です。

 小河原先生は、「ポパーは、大部分の宗教的言明を科学でないものに分類す
るとはいえ、宗教的あるいは形而上学的レベルでの討論の可能性を否定してい
ない。つまり、ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って宗教批判
をおこなうことが可能なのである」[*4]といわれていますが、わたしは小河原
先生のポパー理解を支持します[*5]。

  [*4] 小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(講談社、1997年)の70-71
     ページ。

  [*5] 「わけわかめのために・付録2〜3」
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_001.html

242 Libra :2005/12/13(火) 00:54:40
4.真実が明らかにされるに至る手段になれれば幸い

 以上に述べたわたしの考えは、これまで、わたしなりに納得がいくまで考え
てきて、今はそのように考えているということを述べたものにすぎません。ど
なたかに同調してほしいともおもいません。どなたかに同調されたところで、
わたしの考えが正しいということには全くなりませんので。

 わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。

 最後に、ポパーの本によって知ることができたアルブレヒト・デューラーと
いう人の言葉[*6]を引用させて頂いておわりにしたいとおもいます。

 「しかし、わたしよりも有能な者が真実を推察し、その仕事の中でわたしの
  間違いを証明して、論破できるようにするために、わたしが学んだ僅かば
  かりのものを世に出そうと思います。ここにおいて、自分がその真実の明
  らかにされるに至る手段になったということに、わたしは喜びを感じます。」


  [*6] カール・R・ポパー『確定性の世界』(田島裕訳、信山社、1998年)
     の 88 ページから孫引き。

243 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/13(火) 01:14:01
Libra師匠、こんばんは。^^

>  わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
> には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。

さすが師匠です。^^ この点は人それぞれバラバラが大好きわめも激しく同意です。

わめが師匠から未だに推察することができないのは、師匠は何が目的なのかです。
もちろん答えていただけなくてもいいのですが、師匠のご期待にもしかしたらわめも多少はお応えできるかもしれないと微かな期待をもつわめです。^^

244 Libra :2005/12/13(火) 01:53:07
 わめさん、こんばんは。もう落ちますが少しだけ。

> 人それぞれバラバラが大好きわめも激しく同意です。

 「人それぞれバラバラ」だから相互批判が実り多いものになりうるのではな
いでしょうか[*1]。「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、こ
の道のすべてである」[*2]というのはそういう意味も含んでいるとわたしはお
もいます。

 わたしは「相対主義ではなくて、多元主義」[*3]が大好きです。

> 師匠は何が目的なのか

 わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。

 では、今日のところはこのへんで。


  [*1] フレームワークの神話(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/111.html

  [*2] 「われを善き友として」(増谷文雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/012.html

  [*3] 相対主義批判(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/039.htm

  [*4] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
     http://freett.com/Libra0000/024.htm

245 Leo :2005/12/13(火) 01:57:03
わめさん、くまりんさん、Libraさん こんばんは。

今日はコメントできないくらい色々な感慨で一杯です。

かろうじてこのようなことを考えたのですが、
わめさん、皆さん どうでしょうか、もしよろしければLibraさんがご多忙で閉じたLibraさんの掲示板
(NOTHING TO YOU BBS)の内容のいくつかあるいは多くを引き継ぐというのは。

NOTHING TO YOU BBSの記録
http://page.freett.com/leo020503/bbslog.html

この掲示板の目的と使用上のルール(管理人Libraさん)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog000.html

246 Leo :2005/12/13(火) 02:14:18
>>245 は全く余計でした。撤回します。わめさん達を遠くから見守って暫くROMに徹することにします。

247 Leo :2005/12/13(火) 02:33:35
わめさんに説明しておくと、(別にLibraさんにたのまれたわけでは全然ないんですが)Libraさんが掲示板に
来ない間盛り上げようと思ったんですが、私がやっていたのはまとまりのないことを書き込んで
なんか引っ掻き回したような感じでした。すまなく思っています。
わめさんから教えられたことも多いです。色々ありがとうございました。

248 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/13(火) 08:54:08
Libra師匠、Leoさん、おはようございます。^^

 意思疎通はチャットが一番との思い込みとその習慣からか、単に資質の問題なのか(涙)、”思う”ことを言葉に訳すのが苦手と言うか、思うことを書こうとするところに問題があるのかも分かりませんが、とにかく >>238 の発言はLeoさんには申し訳ないことを書いてしまったと思っています。

 Leoさんの「この掲示板を盛り上げよう」との思いはうれしく思いますし、わめにとってありがたい気持ちを持っていてくれる(た?)ことに感謝しております。そして自分でまいた種とはいえ、わめの発言が元で暫くROMに徹すると言うのは悲しくも思います。

 Leoさんにヒューマンと言われるようなわめですから、>>238 の”同調できない”発言もわめの思いをむき出しにした言葉で、人間ブッダの心・思いを棚上げにしての今回の議論だったように勝手に思い込み、また互いのよりよい生き方を模索するための議論とも思いにくく、何か何のための議論なのか空虚な感覚を持ってしまったのです。

 そこにくまりんさんから思いもよらぬ >>236 の投稿があり、その投稿内容に今回の議論で足りないと思っていた人間ブッダの心・思いを感じたのです。わめにとってもそれは比べれば爪の垢ほどかもしれませんが、でもわめにとってはわめの思考の源でもあるのです。

 しかしながらくまりんさんの心・思いには感銘するものの、ブッダはその時代・その客体である人々に対しそれで(ブッダの教え)よかったのかもしれませんが、その教えをそのまま現代に継承することには思い込みの副作用が強過ぎると感じるために同調できないと書きました。でもくまりんさんの心・思いには感銘しておりますので、その観点からわめの推量が足りないにも関わらず、心・思いの点で師匠やLeoさんに同調できないと書いてしまったのです。

 ただ、人間それぞれバラバラがいいと思うわめですから、決して非難のつもりで同調できないと書いたわけではありません。その点は誤解しないで欲しいのです。

 それに >>238 のわめの発言は今回のブッダの教えについての考察という議論においての意見ですので、できることならLeoさんにはわめのお守りは大変でしょうが、これからもお相手して欲しいと願っております。

249 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/13(火) 09:01:55
> 思い込みの副作用が強過ぎると感じる

またまた言葉が足りないやw 同調できない理由のひとつです。(^^;;

250 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/13(火) 09:42:11
Libra師匠、おはようございます。^^

 わめも同じ意見と思える点はスルーしました。(^^;;

>  「人それぞれバラバラ」だから相互批判が実り多いものになりうるのではな
> いでしょうか[*1]。「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、こ
> の道のすべてである」[*2]というのはそういう意味も含んでいるとわたしはお
> もいます。

 ブッダの教えにも含まれる可能性があるということでうれしく思います。(*´∇`*)
 「人それぞれバラバラ」については色々な思いを持っているのですがそのひとつに、人それぞれが自分と同じように思ってるとか考えているなどの錯覚・思い込みから、不幸な人間関係・事柄が多く起こっているように思うからです。また同じ時間・同じ位置に2つ以上のものは存在できないと思いますから、それぞれバラバラがホントだと単純に思っていると言うこともあるのですがw汗

>  わたしは「相対主義ではなくて、多元主義」[*3]が大好きです。

 わめも同じだと思っているので引用する必要はなかったのですが、師匠の言葉に”大好き”があってうれしかったので引用します。^^

> > 師匠は何が目的なのか
>
>  わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
> せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
> もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
> を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
> 果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。

 いつも言葉が足りなくてごめんなさい。予測して頂いたとおりです。
 ”とりあえず”と言うことでは順序の意味合いとして並行がいいと思いますが、これだけじゃないんだという意味ではうれしく思います。^^

251 Leo :2005/12/13(火) 23:29:10
わめさん、こんばんは。

>Leoさんにヒューマンと言われるようなわめですから、>>238 の”同調できない”発言もわめの思いを
>むき出しにした言葉で、人間ブッダの心・思いを棚上げにしての今回の議論だったように勝手に思い込み、
>また互いのよりよい生き方を模索するための議論とも思いにくく、何か何のための議論なのか空虚な感覚を
>持ってしまったのです。

誤解があるといけないので...わめさんの発言でROMになるのではないですよ。
くまりんさん、Libraさん、わめさん達のよい話を聞けて感慨深くなって頭を冷やそうと思ったのです。

そういえば同調についてはLibraさんは下のように仰っていましたね。
同調よりも批判(非難でもなく吟味)ということで。

242 名前: Libra 投稿日: 2005/12/13(火) 00:54:40
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/242
「4.真実が明らかにされるに至る手段になれれば幸い

  以上に述べたわたしの考えは、これまで、わたしなりに納得がいくまで考え
 てきて、今はそのように考えているということを述べたものにすぎません。ど
 なたかに同調してほしいともおもいません。どなたかに同調されたところで、
 わたしの考えが正しいということには全くなりませんので。

  わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
 には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。」

>それに >>238 のわめの発言は今回のブッダの教えについての考察という議論においての意見ですので、
>できることならLeoさんにはわめのお守りは大変でしょうが、これからもお相手して欲しいと願っております。

お守りということはないすよ。逆な気がするです。
私はしばらく頭を冷やしますので、またの折にはよろしくです。

252 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/14(水) 00:37:47
Leoさん、こんばんは〜^^

> くまりんさん、Libraさん、わめさん達のよい話を聞けて感慨深くなって頭を冷やそうと思ったのです。

 わめは余計ですが、そういうことですか。そう言うことなら・・・納得しません。笑
 互いに批判し合いながら誤謬の発見が( ・∀・)イイ!

 ・・・それに一人で議論できないからわめも独り言スレに行くことになっちゃう。(´・ω・`)ショボーン

 早く帰ってこないと悪口一杯書いちゃうぞ〜笑

253 くまりん :2005/12/14(水) 08:26:38
Libra さん、わめさん、Leo さん、おはようございます。
 先日は酔った勢いでの投稿失礼いたしました。そしてわたくしのつたない投稿に丁寧にご自身の仏教観を起承転結を以てご呈示下さった Libra さん、本当にありがとうございました。

1.縁起と業について
 わたくしの理解するところの初期仏教では物質というと当たらずとも遠からずでしょうが音や光や認識しうる表象はすべて地、火、風、水・四大で構成される「色(rupa)」と認識されるものです。その四大で構成される「色」のうち眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して認識しその認識を「因」として自ら変化していくものを生命(生命によっては5官すべてが揃うわけではない)として所謂生命ではない物体と峻別しました。すなわち人間は四大と五蘊で構成される故にブドガラです。生命には四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)が働きます。四大と五蘊はその意志を「因」として生滅と変化を連鎖のように続けます。その連鎖によって次の変化に影響を与える「縁」として形成されるポテンシャルが「業」。「業」は次ぎに生起する意志(sa#mskaara)に影響を与え「業」なしに生起する変化とは違う結果を生みます。そうして妄想を繰り返せば「わたくし」が造られその段階をちゃんと観察しありのままに見ることが出来ればそれは「わたし」ではないということになります。外界と内界の境界が眼、耳、鼻、舌、身の五境にあると認識してしまえば意志(sa#mskaara)に依って仮に集合(upacaya)したものを「わたし」とする「煩悩」ですが、その境界を常に時間の先頭の世界外存在としての認識主体である「わたし」とそれに連続して続く認識対象としての過去に置き、その時間軸の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が追認出来れば推測ですがそれは「さとり」の世界ではないでしょうか。「わたし」は此処にいるの「わたし」では無いという体験でもありますが、これは突き詰めますと方法論を異にするとは言え臨済宗で言うところの見性と非常に近い体験であると思います。ただし脳内麻薬が出てきて仏我一如の霊妙なる体験というものとは一線を画し自覚的に峻別しておく必要があると思いますけれども・・・これは最近の涅槃とは体験ですというわたくしの発言への Leo さんへのお返事でもあります。

254 くまりん :2005/12/14(水) 08:27:22
2.無我について
 認識主体である「わたし」を古代インドの通例に従ってアートマンと呼べば仏教は非我説になります。中村博士はこういう理解だと思います。また仮に集合(upacaya)したものの世界外的存在であり、かつその時間軸の先頭に立って変化し続ける立場で外から世界内存在としての過去とその反省から選択するべき未来を峻別するのが暗黙の了解の自己であるというのが説一切有部の非我説であり、わたくしの anaartman 理解もこういうものです。但し説一切有部はこれを無我説であると強弁しており袴谷先生も有部の強弁にのっかたような説を採られていると思いますが、例えば南方分別説部やその法孫の僧伽・テーラーワーダ仏教も世界外存在であろうが時間の先頭であろうが変化し続けるのだから、ウパニシャッドでいうアートマンとは異質なものであって、それをアートマンと記号化するのは間違いである、それは無我であると無我説を主張しています。わたくしは仮に集合(upacaya)したとは言え暗黙の了解の自己であるから「わたくしではない」とされる宮本啓一先生に賛同し非我説ではないか?と提起させていただく次第です。

255 くまりん :2005/12/14(水) 08:28:49
3,輪廻について その1
 ー二支縁起が口伝で伝承された仏教の核心であるということは何回か述べさせていただき、あるいはその解釈はわたくしとは違うとしても松本史朗先生や袴谷先生も含めて多くのかたが認めるところであろうと思います。それはパーリ律蔵大品や相応部・因縁篇・因縁相応第一経にのみならずサンスクリット原典はなかなか出土しないものの北伝漢訳では説一切有部の長阿含・四衆経、法蔵部・相応阿含・因縁相応、根本説一切有部律・破僧時にもそのー二支についてはまったくの同内容で顕れます。パーリ仏典よりも増広されていないばかりかむしろパーリ仏典よりシンプルなスッタニパータやダンマパダのサンスクリット・ヴァージョンやガンダーラ語・ヴァージョンが出土された現在、ハッダやバーミヤン出土のその原典分析を行った仏教大学や大阪大学の研究室からはパーリ仏典の増広発展形態がサンスクリット・バージョンではなく、説一切有部に属するサンスクリット・バージョンの聖典が律蔵やアヴァダーナに比べて出土が少ないのは、それが無いのではなくその核心部分は口伝で伝承されたからだと推察しうる、これらによって中インドマガタの言語で口伝された伝承が南方パーリ語圏、北西インドへそれぞれ別々に口伝で伝承されていったと推察される、との研究成果が報告されています。余談ですがそれを受けてわたくしは義浄や玄奘などはサンスクリット原典から翻訳したのではなしに口伝で伝承されている聖典を聞いて漢訳して書き留めていったので中国にサンスクリット原典が残っていないのではないか、通俗的に言われるようにいくら中国人が中華思想であるからといって、仏教徒であった訳経僧たちが簡単に後代に跡形もなく残さぬようにサンスクリット原典を処分するはずがないのではないかと考えています。このようにー二支縁起はブッダの教えの核心として、ブッダと出会いその「ことば」によって人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が歴史的な正しいブッダを伝承しようなどという学問的な意志でなしにその感動を口伝で伝承してきたと考えられるのです。彼らがそのブッダの「ことば」に操作を加えるでしょうか?加えなかった証拠が南方、北西インドそれぞれ別々に口伝で伝承されていったものの内容がピシャリと一致している事実ではないでしょうか。

256 くまりん :2005/12/14(水) 08:29:43
4,輪廻について その2
 ところでそのー二支縁起は無明→行→識→名色→六処→触→受→愛(渇愛)→取→有→生→老死という各ダルマをブッダが順観と逆観で考察したということになっていますが、ここにおける連鎖の鎖の「生」より以前の各支は四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)による四大と五蘊の構成の生起として「わたし」が生まれる以前の過去世の煩悩の変化のプロセスであり、いいかえればブドガラである「わたし」の生命力を観察し、それぞれの変化の過程の最小限の単位で記号化したものであるということが出来ます。これをブッダは『あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死とを、2つながらに思惟弁別して、塵を離れ、汚点なく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、―――かれを目覚めた人(仏)という』と述べたとされていますから、ブッダは過去生を瞑想によって観察したのだということになってしまいます。そうであるならば輪廻思想はブッダの生命観としてブッダ自身が持っていたということになります。しかし悲しいかな非力なわたくしには「1、縁起と業について」で述べたような内容を説一切有部のアビダルマに従ってどんなに努力して瞑想しても過去生としての無明→行→識→名色→六処→触→受→愛(渇愛)→取→有は見えてきませんでした。臨済の僧堂で掟破りではあってもやってみましたが見えませんでした。いま自由に出入り出来る日蓮宗のいくつかの静かな山の中にあるような本堂でやってみてもダメでした。

 しかしこれらのダルマを現在の自分を表象するもの、すなわちブドガラである「わたし」の生命原理の観察として実行してみればなるほどブッダの言うとおりだと自ら知ることが出来ます。まさしく「箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相ひ似て、吐けども又吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知する」のは間違いがないのです。つまり現在の「わたし」の問題としてー二支縁起を順観と逆観し無明を制御(nirodha)することで形成力(sa#mskaara)から出てくる想いやそのポテンシャルである「悪業」をもをこれもダメ、アレもダメと捨て去って、自らの執着と行動を自己反省して、他者との関係を含む未来への予測をより良きものであるよう峻別して選択することによって、 - - - わたくしの経験できることはここまでですが - - - 、その連鎖的将来である「わたし」という仮において四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)が滅(nirodha)し尽くされているならば「来世の苦である生」を滅して再び生まれ変わることがないと説く輪廻思想は現世の「わたし」の「即今此処自己」の常なる自己反省と自戒の問題になるのです。そこで善業を積めば楽果がある、悪業を積めば苦果があるという初期仏教のよく言われる倫理がブッダの生命観に統合されると思います。坊さんぽい言い方をすれば「人がイヤだと思うことはしない。」「人のためになることをすれば人間関係は良くなる。」「だからと言って見返りは端から期待しない。」つまり「自分の気持ちに悔いない行動をすればその点については未来も心は清らかである。」これが Libra さんが疑問を投げかけられた「即今此処自己の自己反省の実践」は「未来を選択することそのものになる」が「インド論理学」にちゃんと当てはまりますよということなんです。

257 くまりん :2005/12/14(水) 08:30:14
5,ポパーの解釈について
 「3,輪廻について」で申し上げたようにわたくしには過去世を観察する力もないし、自分の過去の反省から峻別すべき未来を想像することはできても、観察することはまったく出来ません。はっきり言ってわたくしには前生があるのかないのか?とか来世があるのかないのか?なんてまったく分かりません。お手上げです。しかししつこいようですが口伝で伝承され、操作を加えることを考えにくい仏教の核心であるー二支縁起が仏典で伝承されるように業と輪廻思想を前提にするならば、その否定材料を用意することができないわたくしには仏教とはそのような生命観あるいは生死観を持つ思想であると理解するしかありません。Libra さんがお好きなポパーを引用させていただいたのはアインシュタインの反証実験に感銘したという彼の哲学を持ってすれば推測することもその反証も用意することが出来ないじゃないですかという事なのです。小河原先生の「ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って宗教批判をおこなうことが可能なのである」というご意見を否定する見解ではないと思います。そういう理由でわたくしは物質認識を四大において業報輪廻から解脱すべく、かつ倫理的要請としてしても善業・楽果を説く仏教のうちに、その中から選択し峻別していくべき思想として純化した現代科学にも矛盾しない理性的な論理にかなった仏教も成立すると考えています。何故なら仏教はその思想のうちに他者への絶対歓待という輪廻思想からは必然的に自戒的に導きだされる思想が、たとえ輪廻を否定もしくは無視しても忘れることがない自覚さえ持つならば、仏教徒ひとりひとりが自覚的に安心を得る教えであり、他者とっては「わたし」が提示することが出来る人生の真理の候補の一つに過ぎないからです。

258 くまりん :2005/12/14(水) 08:31:14
6,法華経について
 法華経についてはときたま他の研究から関連することを見つけたり思いついたりする度に書き留めている程度ですのでわたくしが『法華経』を論じたまとまったテキストはありません。『法華経』好きの研究者のテキストは贔屓が入ってアテになりません。されど自分でも体系的に考えているわけでもないのですが最近思うことを少しだけ。『法華経』を成立させた条件は説一切有部僧団の中に多くみられること。まずは有部の思想の自由さについてですが『有部律破僧時』では月二回のウパヴァーサ・布薩(upavaasa)に参加し、パラティーモクシャ・波羅提木叉(praatimok#sa)を共にすれば三蔵に反しない限り議論は自由であったし森林で遊行していていてもOKであったこと。有部律には苦行者や森林遊行者に対しても仏教徒として丁重に扱いブッダの持ち分とされる財産から寝具や坐具、医薬品や食事、死んだ場合の葬送儀礼の費用を援助していたことが記されています。経の記述法についてですが特に律文献からのセットフレーズの借用は在家信者には出来ないことだと考えられます。なぜなら律蔵は比丘にしか知らされないから。在家信者にはアヴァダーナのみ。永遠のブッダについては言うまでもなく在家信者への比丘の教団と比丘の態度としては『根本説一切有部律』に見られる通りでなんの違和感もありません。また阿含経典でのブッダの対話の相手として業報輪廻の多くはアーナンダに、智慧と縁起はシャーリープトラに説かれていることを『法華経』の作者グループは良く押さえていると思うのでこれも在家信者じゃ無理なことでしょう。

 そして有部僧伽の構成員の多くはブッダによって人生の一大転換を成し遂げた声聞とその弟子達であってブッダへのあこがれは非常に強かったであろうということ。アビダルマを大成していった中心メンバーはその思想こそ僧団へ照射されうるがエリートの少数派であっただろうということ。法華経は仏塔や塔を重視しているような書き方をしているが良く読めば仏塔より経そのものを重視していること。まるで『アビダルマ・コーシャ』が『アビダルマ・マハー・ビヴァーサ』を正当化し補強するふりをして結論は教量部の思想へ導くように仏塔崇拝を勧めるふりをして経への崇拝へ導いていることですが、これは法華経の手法を後にヴァスバンドゥーが模倣したとも言えるんでしょうか。『アビダルマ・コーシャ』と『法華経』の成立はやや前者が早いのでしょうがどちらも仏塔をあまり重視せずに自分たちの思想を重視しています。『根本説一切有部律』が諸律と比較すると仏塔とそのメンテナンス、儀式などの記述が一番多く細かいのですが、これは『アビダルマ』の論師グループや『法華経』の法師グループの作り出す仏塔軽視の風潮へいわゆる授戒者と言われる声聞たちがブレーキを掛けたのではないかと思われること、その証拠にあれほど仏塔信仰が盛んであるのに南方分別説部のパーリ律蔵には仏塔についての記述がありません。法華経を貫いているのはブッダの思想というよりもブッダにあこがれた人の思想だと思います。だけど脅しが入るのは明らかに仏教的には凡庸だし違反。

 実際当時の北西インドの梵天、天人、国王、大臣、商隊主、長者、優婆塞、優婆夷、緊那羅、乾闥婆、羅ゴ羅たちに対してはアヴァダーナと同様に説戒を垂れちゃってますから新しいアヴァダーナ程度にしか受け入れられなかったんじゃないかと思います。義浄の記述によればジャータカマーラーのような本生譚やアユヴァゴーシャの仏讃頌のほうが人気があったようですから(法華経に比べてとは書いていませんけど)。それが律蔵より先に紹介された中国では大ヒットしたんですね。もし律蔵やアヴァダーナが中国に先に入っていたらどうなったのやらと思います。そういうパラダイムから見るとたいした経典じゃないことになってしまいますが、しかし大好きだし、文学的には素晴らしい経典だと思います。松本先生の「永遠のブッダを待ちきれなかった思い」には共感します。仏教学的な分析をすると悪態ばかりついているようですが「みかけほどの違いはないのではないかと推測」はご明察です。

259 くまりん :2005/12/14(水) 08:31:49
6,まとめに
 このように長文をしたためてみたのは Libra さんがお手数でしたでしょうにわたくしのためにご自分の仏教理解を理路整然と提示してくださったからです。これは論争への誘いでも宣戦布告でもありません。わたくしはまだまだ自分は変わっていくと考えています。これも Libra さんと同じように現段階でのわたくしの仏教理解の提示にしか過ぎません。わたくしが Libra さんのご意見、あるいは引用される他の研究者のかたのテキストでは自分の考え方を変更する根拠には未だならないように Libra さんがこの程度のテキストで考え方を変えられるとは微塵も思っていませんし、そのためのものではないからです。簡潔に提示しようと思っても、わたくしのテキストの稚拙さや、その稚拙さを乗り越えようとして仮にまともに簡潔なテキストになったとしてもその簡潔さがお互いに認識のために必要であると考える「ことば」や「述語」の違いから誤解を生むこともあるでしょう。わめさんの言われるように100人の仏教徒がいれば100通りの仏教があってしかるべきだと考えますし、その中での議論によって誤解を解き、あるいは指摘された誤りを改めるべきは感謝の念を持って改めていきたいと思います。わたくしの仏教学はあらたな考古学的な発見を心から期待し、そうした可能性と現実に直面したときに何を棄てて、何を残していくかのその取捨の選択の懐を常に用意しておこうとの土台作りであるといっても過言では無く、当然のように批判は歓迎されるに違いありません。批判があればこそ取捨の選択を誤る可能性を減らすことが出来ると信じます。自分が進むことが出来ると信じます。まことに夜飛ぶ虫は蛍だけではなく、常に縁起の連鎖の中で生かされ、もがいていることに感謝の念が堪えません。またこうして皆さんとの議論に参加させていただいて、普段のわたくしの日常とはパラダイムを変えるべき点をも大いに学ばさせていただきました。最後に他者に提示すべき真理の候補としてのそれぞれの仏教が副作用を伴うことがあってはならないことを自戒として自らに命じつつ、また皆さんとの議論を急がず慌てずに続けさせて頂ければわたくしにとっては過分な僥倖であると申し添えさせていただいて筆をおこうかと存じます。

********
- 清浄なる法雨の音恰が律の調べのように Libraさん、わめさん、Leoさん、に灌頂されますように -

260 Leo :2005/12/17(土) 12:11:12
くまりんさん、Libraさん、わめさん こんにちは。

少し頭を冷やしましたのでちょっと戻って来ました。ぼちぼちいこうと思いますのでよろしくお願いします。

261 Leo :2005/12/17(土) 12:25:52
くまりんさん、こんにちは。

私は今までアビダルマや唯識に関心がなかった(縁起説につながらず重要でないと思っていた)のですがくまりんさんのご紹介で少し興味が出てきました。

Abhidharma-mahāvibhāşā 大天の五事
http://ngp-mac.com/kumarin/wp-trackback.php/888

ロジックはともかく(ロジックの方の話でなくて恐縮ですが)、マハー・デーヴァのエピソードというのが
(今はなくなって来たのですが)聖教新聞4面の創価の敵対者をヤリ玉にあげる「座談会」という記事を思い起こし
違和感を持ってしまうのです。

話は飛びますが...
指導者の実像
http://page.freett.com/leo020503/note007.html
(Googleで検索するとこの文書が引用されている形跡があるのですがちなみに「指導者の実像」の題名は
原典の章題にはなく私が勝手につけたものです。)

「Ⅴ 創価学会 E(男)」について「生れは大森のノリ屋です。」これだけで誰だか察しがついてしまうのですが、
「五時間くらいもそこで締めあげられたのです。南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、
 理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。
 負けたのでシャクにさわってしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。
 それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような感じがしたんです。」

昔の創価学会の折伏というと不意打ちようなもので負かされる理論なのかというのが疑問でしかも後にかなりかなり
有名になるお方がこのような感じです。人生観としての経験的哲学(知恵・原理を探究する学問でなく)かもしれませんが
仏教との関連性が希薄なのではないでしょうか。

262 Leo :2005/12/17(土) 12:27:18
わめさん、こんにちは。

Libraさんのいわれた、
「わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
 せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
 もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
 を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
 果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。」

たとえば「創価学会」「会員」「牧口の理念」に限定せずこれらを「仏教」「仏教徒」「ブッダの教え」
(さらには仏教に限定しなくともよいです)に拡張することも可能と思います。

(a)「原点をおもいだす」(b)「自分の頭をつかって過去を振りかえったり反省すべき点についておたがいに討論」
(c)「その結果をそれぞれが明確に言葉にする」は重要と思います。以前わめさんが私の書き込みを
「わけのわかめ」系と仰ったのも私が(c)が足りなかった(特に「明確に」という点)ことであると
いうことであると思います。

263 Leo :2005/12/17(土) 14:08:39
あと、私自身の反省として次の引用をしておきます。

「いや、ところがここに一人の人間がおつて正しいことを口にしている、したがつてそれを理解しているはずでありながら、
 さていよいよ行動せねばならぬときには不正なことをする、すなわち彼がそれを理解してはいなかつたことが曝露される
 とすればこれこそ無限に喜劇的である。真理のために生命を捧げる高貴な自己否定の話を読んだり聞いたりして
 涙を流すほど感動した人間が、いや涙だけではなく汗までたらたらと流した人間が、すぐ次の瞬間にほとんど
 まだ眼に涙をためながら、ワン・ツー・スリー・ドンとたちまち一転して虚偽に勝利を獲(え)させるために
 額に汗して全力を尽すとしたら、これこそ無限に喜劇的である。」

(キェルケゴール著・斉藤信治訳 『死に至る病』 岩波文庫、1957年改版、p.148)

264 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/17(土) 20:30:19
Leoさん、(=゜○゜=)オ(=゜□゜=)カ(=゜◇゜=)エ(=゜ー゜=)ノ~~リーー!

>>260

☆^∇゜) ニパッ!!

>>261

面白い資料見せていただきました。^^
牧口先生の頃の学会はこの資料以前から教育学を主にやっていたんだなって思ってましたが、戸田先生の事業についてや学会の現世利益体質はこのようにして出来ていったのかなって想像に難くないですね。

>>262

わめはaがないし、bも弱いし、cは逆のほうに言ってそうw(>▽<;; アセアセ

>>263

いい言葉だし反省するっていいよね。^^
これが子供が転んだのを見て自分が転んだ時に痛かったのを思い出して駆け寄って大丈夫?って適切な対応をするって言う意味、自分も他者も転んだら痛いんだと理解するということなら分かります。
それぐらいの理解力しかわめにはありません。。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

265 Leo :2005/12/18(日) 01:06:18
わめさん、こんばんは。

>>263 ですが、わかりにくいのでちょっと説明します。
私がLibraさんの主張を理解しているつもり(《批判》が重要だということ)なのに反して、私が創価等への《非難》を時々口にすること
への反省です。要は愚痴を言っていても何も解決しないので知性を使わなくてはということだと思います。

ひはん【批判】
「(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
 (3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、
  その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。」(大辞林 第二版)

ひなん【非難】
「相手の欠点や過失を取り上げて責めること。」(大辞林 第二版)

○自分たち自身の知性を使え(カール・ポパー)
http://page.freett.com/Libra0000/118.html
「カントはこう書いている。「啓蒙とは、みずから課した保護の状態から人を解放することである……外からの案内なしには、
 自分自身の知性を使うことができないという無能力の状態からの解放である。わたくしが『みずから課した』保護の状態と呼ぶのは、
 それが知性の欠如によるのではなく、勇気ないしは決意が欠けているために、
 自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態のことである。
 あえて賢かれ〔Sapere aude!〕、自分自身の知性をあえて使え。これが啓蒙の標語である。」」

このカントの啓蒙主義が牧口会長に共通するのですね(啓蒙は聖教新聞の部数を増やすことなどでは決してないんですね)。

○【創価学会の根本理念──カントと牧口常三郎に共通する啓蒙主義──】(Libraさん)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_003.html
「カントがいう「啓蒙」とは《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態から人
を解放する》ということですが[注2]、この理念は創価学会の初代会長である牧口常三郎
に継承されています[注3]。この意味での啓蒙主義こそが、おそらくは創価学会の創立理
念だったのだと思います。」

時代の要請(戦後の新興宗教のニーズ)で「創価教育学会」から「創価学会」に衣替えしたのだと思いますが、
今の時代原点をふりかえってみることも大切ではないでしょうか。そうれなければ「《価》値」の「《創》造」も
「《学》」もなくなんでもアリでなにもなしのただの「《会》」になってしまうでしょう(これはたとえです)。

266 Leo :2005/12/18(日) 01:15:17
(補足)
Libraさんの(私にとっては衝撃的であった)過去のご発言の中にキルケゴールの「無限に喜劇的」が出てきました。

Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言[ 1 ]
http://freett.com/Libra0000/Yahoo_01.html

「私は創価学会員(三世)ですが、現・創価学会の教義は事実上破綻していると思います。」

「そういう意味では、「言論戦」を前面に押し出している創価学会の思想性(
 批判精神)は大いに評価されてよいのかもしれません。問題は、その「言論戦」
 の質ですね。肝腎なところで(理論的に破綻しそうになると)結局「体験主義」
 に逃げ込んで(「議論の世界」を離脱して、「実践の世界」へと引き返して)
 しまうのではダメですね。」

「実際の行動がともなっていないのであれば、いくら「菩薩行」などと口で偉
そうなことを言っていても、そこには何の説得力もないでしょう。キルケゴー
ルの言葉で言えば、「無限に喜劇的」だと思います。

267 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/18(日) 01:41:07
Leoさん、こんばんは。^^

知性と批判も大切だと思います。
また菩薩行も大切だと思います。
でもそれらは何のために大切なのか、そこが知りたくもあります。

わめなんてエゴの塊ですけど、このエゴを大切にしたいと思います。

わめは自性は否定的ではありますが、くまりんさんの思いには感銘と心打たれます。
http://wame.seesaa.net/article/10650360.html からのくまりんさんのコメントを引用。

>>みんなが至上の喜びや境智を手に入れるのは、わめやくまりんさんの後の世の方達で充分じゃないでしょうか。

 縁起の時間の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が自覚できれば、苦しんでいる方の苦しみや悲しんでいる方の悲しみもみな「わたし」自身の苦しみや悲しみそのものでしょうに。そうしてなにものにも執らわれずに、信仰への憧れを持つ人には一切智者への信仰の姿で接っし、信仰を嫌う人には信仰の素振りを微塵も見せずに、あるときは共に悲しみ、あるときは共に苦しみ、人を批判する時と境を辨え、いつのまにか自然に生きる喜びを伝え、そして喜びを分かち合えるひと。

 そういう人に僕はなりたいですけれども、そういうひとこそ、初期仏教では阿羅漢と呼び、大乗では慈悲の人と呼ぶ、そして禅で呼ぶ般若が自発発展する仏さんなんだと思います。そういう人格に趣く人はまた結果を急がずそのプロセスを重んじる。なぜなら厳しい自戒とともに常に他者を見ているから。その選択すべき未来への希望こそ「後の世の方達」への希望です。そしてそのことだけのための即今自己此処。ブッダこそそのように生きた人であったに違いないと僕は勝手に思いたい。論文じゃないからこの勝手をお許しくださいね(笑)

>>かっこいいことを書いてしまいましたが(かっこよくない?w)、実は周囲に笑顔がないとわめも楽しむことが出来ないという自己中が本音なのですがw汗

 まわりのひとの笑顔、笑顔にかこまれて生きられたら本当に素敵ですね >^_^<

268 くまりん :2005/12/18(日) 09:49:11
おはようございます。

 Leo さんへのお返事になりますが、わめさんも仏教の歴史ということでお読みください。これは僕の思想ではなく、仏教観ではなく仏教学のお話です。マハー・デーヴァのエピソードで「座談会」を思いだされるというのは良くわかります。エントリでも触れましたがマハー・デーヴァへの批判というより2段と連結ではほとんど非難です。ちょっと余談なんですが仏教史的な話をしますと説一切有部の拠点はカシュミーラやガンダーラの北西インドです。この地域はクシャン王朝の時だけが例外であとは異民族の侵入とそれに伴う政変が多くほとんど戦闘状態です。そのせいか三蔵を除く他の仏典(アヴァダーナ、ジャータカ、教団史のたぐい)をパーリ仏教圏の同様のものと比較するとパーリ語のほうは動物を主人公にしたほのぼのとした物語が多いのに北西インドの方は人間の生々しい描写や殺人などが目に付くのです。なんとなく人間が好戦的だったのでしょうか。非大乗系の部派文献はそれでもまだ律蔵の戒を守ることを前提に記述されていますが、大乗文献になれば戒など関係なく例えば大乗涅槃経には武器を取って闘うことも勧めるテキストが顕れます。ご承知のように法華経もある意味好戦的な要素を持っています。日蓮もそうですね。好戦的なオリジンは意外やカシュミーラやガンダーラにあるのかも知れません(笑)。

 話を元に戻します。アビダルマを世俗社会にいる我々の感覚で考えるとまるで違うことになってしまいます。とはいっても世俗の僕らにはどうしようもありません。そこでこんどは仏教学を引っ張り出します。仏教とはとゆーかさんがわめさんの『宗教はやっぱり好きになれない』でコメントしているようにブッダの教えであり「四聖諦」を真理と認めて(認め方は仏弟子によってさまざまですが)確信し実践する教えです。マハー・デーヴァをたとえ連結でのエピソードとしてではあっても非難しているのは出家者なのです。ブッダ自身、悟りを得るために、家族・財産、そして国までも捨てて出家し成道から死まで一貫して「出家」の生活を送りました。説一切有部僧伽の比丘たちもそれはまったく同じです。彼らが考えたのはブッダをはじめとした先人の仏弟子たちの営みから逸脱すれば、ブッダが身を以て示したブッダの説いた教えという意味での「仏教」そのものを否定することになると考えたのです。ですから初期仏教では在家阿羅漢の存在を否定します。仏教の掲げる涅槃に最終目標に在家者は至ることが出来ないとするのです。厳密に言えば、在家者のまま阿羅漢果に到達することは可能なんですが、その状態を保持し続けることは後述するように不可能なので、即日出家するか、そのまま般涅槃(完全な涅槃つまり死ぬこと)するしかありません。

269 くまりん :2005/12/18(日) 09:50:00
エラーが出たので二つに分けます f(^ー^;
 特に「アビダルマ・マハービバーサ」をまとめあげていった比丘たちは阿羅漢に達して悟りを得た比丘たちです。彼らは一切の結縛を断ち切っています。彼らは社会的立場にしがみつき、稼業にエネルギーを費やし、自己と家族の安泰を図ることをとっくに放棄しています。その阿羅漢の状態を保つためには出家で有り続けなければなりません。現実的に家族があり、財産があり、社会的立場があり、稼業がある僕ら世俗の人間が、一切の結縛を断ち切り得るかは僕ら自身考えてみれば簡単にわかることです。自分の家族や財産が他人によって危険にさらされれば、法的にも実力的にもこれと対峙しなければなりませんし、社会的立場を守り、稼業にエネルギーを費やし、自分と家族の安泰を図ることのほうが世俗では求められます。「四聖諦」で否定される「貪り」や「瞋り」は、世俗社会ではむしろ必要な意志でもあるのです。そして阿羅漢果を得た比丘達は律蔵の決まりに従って在家信者からの要望があればたとえ安居の最中であろうと出かけて行って在家信者とお付き合いしなくてはなりません。僧伽僧院に在家信者、あるいは仏教信者ではないただの物見遊山の観光客であっても頻繁に訪れる来客を連れだって僧院を案内し、説明し、その人々に応じて法を説かなければなりませんでした。僧院内の仏塔や香室など客が訪れるところの清掃と旗や花、香油などによるお清めや供養も彼らの仕事でした。比丘達には作業の割り当てが決められており結構忙しい、世俗社会との接触も自分の意志にかかわらずしなければなりませんでした。

 そういう意味では大乗の担い手だったと考えられる森林遊業者、あるいは出家の時にアビダルマ瞑想コースを選択せずに読誦コースを選択して法師となった人々(彼らのオリジナルなアヴァダーナやジャヤータカが大乗経典として成長したと考えられるし、話が面白いと人気がでて収入もあった)は世俗社会との接触は自由意志とされていたにも関わらず、衣食住は説一切有部教団から援助もされていたのですから仏教的に言えばほとんど出家と言うより世俗社会の倫理的な生活をしていた人とさえ言えるし、瞑想コースの比丘達からみれば随分と虫のいい連中ですが律蔵で決まっていましたから、彼らも尊重しなければなりませんでした。そこで阿羅漢たちはそういう世俗の結縛にいとも簡単に戻ってしまう人間の弱さを断ちきり続けるために、自らの瞑想に利用する認識対象の手引きとして、あるいは後続の阿羅漢を目指して出家修行をする比丘たちのための認識マニュアルとして四大や五蘊、十二支縁起の各ダルマのパラダイムを変えて観察して記号化し、あるいは共通要素をパラダイムごとにグループ化して記号化して、ただ認識できたら執着せず意識の中から滅していくものとしてアビダルマを体系化したのです。そしてとくに注意を払うべき仏教と対立する思想に対しては由来のエピソードとしてマハー・デーヴァのような架空の人物を仕立て槍玉にあげて連結しているのです。どうか仏教学的知識としても「座談会」とは区別して考えてください(笑)。まぁ以上は『根本説一切有部律』と『阿毘達磨大毘婆沙論』の記述や碑文や遺跡などの考古学的成果の報告から構成したもので仏教史としてお考えください。誤解していただきたくない点は、在家阿羅漢が否定されるなら在家仏教徒の実践は無意味だと短絡的に断ずることです。四向四果の預流・一来・不還・阿羅漢という定型句で言えば、不還までは到達できることになります。不還と言うのは次生において生死(インド的に言えば輪廻)を出離する者のことです。あるいはわめさんのように仏教から人生の哲学を学ぶというのも有りだと思います。なんせ僕らは在家(たとえ日本で僧侶だろうがインド的には在家と同じ)なんですから。なんか、随分長文になってしまいました。

********
- 生きとし生けるものが幸せでありますように -

270 Leo :2005/12/18(日) 17:12:55
くまりんさん、こんばんは。

>非大乗系の部派文献はそれでもまだ律蔵の戒を守ることを前提に記述されていますが、
>大乗文献になれば戒など関係なく例えば大乗涅槃経には武器を取って闘うことも勧めるテキストが顕れます。

なるほど、それは「ポア」にもつながる思想ですね。

>ご承知のように法華経もある意味好戦的な要素を持っています。日蓮もそうですね。
>好戦的なオリジンは意外やカシュミーラやガンダーラにあるのかも知れません(笑)。

創価学会員は日々の活動を「戦い」と称しますから確かにその系譜ですね。
(ちなみにそういう好戦性を理性による批判(できるなら知的生産)に昇華させようというのが私のLibraさん解釈です...)

>そこで阿羅漢たちはそういう世俗の結縛にいとも簡単に戻ってしまう人間の弱さを断ちきり続けるために、
>自らの瞑想に利用する認識対象の手引きとして、あるいは後続の阿羅漢を目指して出家修行をする比丘たちのための認識マニュアル
>として四大や五蘊、十二支縁起の各ダルマのパラダイムを変えて観察して記号化し、あるいは共通要素をパラダイムごとに
>グループ化して記号化して、ただ認識できたら執着せず意識の中から滅していくものとしてアビダルマを体系化したのです。
>そしてとくに注意を払うべき仏教と対立する思想に対しては由来のエピソードとしてマハー・デーヴァのような架空の人物を
>仕立て槍玉にあげて連結しているのです
>どうか仏教学的知識としても「座談会」とは区別して考えてください(笑)。

了解です。(念のため...(「座談会」は個人宅を用いた会合をも意味しますので)聖教4面によく出ていた「座談会」ということで。)。
少し前くまりんさんに「勝義諦」と「世俗諦」をご指摘いただいたのを思い出しました。「出家」と「在家」の
違いも(当然のことながら)そのようなことがあるのですね。

>誤解していただきたくない点は、在家阿羅漢が否定されるなら在家仏教徒の実践は無意味だと短絡的に断ずることです。
>四向四果の預流・一来・不還・阿羅漢という定型句で言えば、不還までは到達できることになります。
>不還と言うのは次生において生死(インド的に言えば輪廻)を出離する者のことです。
>あるいはわめさんのように仏教から人生の哲学を学ぶというのも有りだと思います。
>なんせ僕らは在家(たとえ日本で僧侶だろうがインド的には在家と同じ)なんですから。

近頃仏教は私にとって意味があるのだろうかと(短絡的に?)思いはじめて(悩んで?)いたところなので丁度よい
アドバイスです。ありがとうございます。

272 Leo :2005/12/20(火) 23:05:54
>(ちなみにそういう好戦性を理性による批判(できるなら知的生産)に昇華させようというのが私のLibraさん解釈です...)

これはなんか表現がおかしいのでちょっと修正。

私はLibraさんのお話や資料を拝見したり書籍を読んだりした流れから(今回思いついた表現として)
好戦性を理性による批判(できるなら知的生産)に昇華したらよいと思っています。

と書いていて、好戦性の昇華は知的生産だけに限らずなんらかのよい行いという多様性があると
思ってしまった

273 わめ :2005/12/21(水) 17:05:29
 Leoさん、Libra師匠、こんにちは。^^

 くまりんさんのエントリーのテキストから読み取れることは、アビダルマに関しての見解は大概に下記のようのものかな。

くまりんさんのブログの『Abhidharma-mahāvibhāşā 大天の五事 』から
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=888

四聖諦を核としそのうちの苦聖諦、苦聖集諦、苦聖滅諦にほほ収斂される仏教思想の核心である十二支縁起、四大、五蘊を最小限の単位で記号化し人間の苦の表象をかたちづくる心・心作用の本質的存在としてのダルマに分解されたアビダルマはそれを自身の生存原理のうちにはっきりと頷きながら認識し、認識した心作用を制御していく実践心理学、あるいは実践哲学である苦聖道諦へと連続するブッダの弟子達の豊饒なる思索の体系であるといってよい。当然テーラワーダ仏教ではそのヴィヴァサナー瞑想で活用されるが本来ならば北伝仏教である日本仏教においても活用されてしかるべきものである。

くまりんさんのブログの『出家とアビダルマ 』から
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=890
まえにも書いたけど「桜の見頃は春ですね」「いえ、いつでも見頃でございます」の問答はパラダイムを変えた視点で仏教は深いなんて比喩にも使われるけど、どんなものでも、表象でも、事象でも、本質でもパラダイムを変えてみるのが仏教では当たり前でそんなもんちっとも深くないんだ当たり前なんだということがよーく分かります。人に期待して裏切られると自分が被害者で相手が加害者みたいな意識も、みんな自分の為にやっているんだから被害者だなんて妄想だったってことも仏教では当たり前に考えていることがよーくわかります。そういうものの見方をとりあえずは rūpa から。読み出してみれば長老がなぜ「心・心所」ではなく rūpa から始めたのかが良くわかります。まずこの認識対象としての「物質」を仏教の基本的なパラダイムから始めることで当時のインドの世界観にすすっと入っていけるんです。なぜか?仏教を理解しようと思えばまずはインド的世界観をマスターせねばいけないからです。当時のインド人が知りもしなかったような現代の僕らが考えている?いやいや推測しているだけなのに認識していると思いこんでいる物質への常識は捨て去らなければなりません。当時のインドには顕微鏡もオーディオアンプも有りませんし、ましてやコンピュータなんてシロモノはないんですだから。彼らは目で見て耳で聞いて鼻で嗅いで舌で味わい身体で触れた感触だけをたよりに物質を分析したんです。それが世界観の基礎になるのです。だから長老のやり方はちっともインド学的ではないけれど正攻法なんですね。というわけで地水火風の四大と眼耳鼻舌身の五根、と機能としての五境をこれでもか、これでもかと視点を変えて、共通の働きによるグループ分けと、グループ替え、それぞれの組み合わた状態での共通の働きによるグループ分けと、グループ替え、まるでフォトショップでレイヤーを切り替えるようにとんとんとんと話が因縁で縁起して進みます。「あなたはものごとの見方が狭くないですか?それはこういう風に見たら真実が見えてくるでしょうに!」と長老の甲高い声が迫ってくるようです。編集にも携わった ajita さんがくらくらするくらい!と仰るのはまさにピッタンコの形容です。そして最後のほうに長老のひとこと。「アビダンマは哲学や心理学を語るものではありません。瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いていますから、一般には通用しません。このままでは現代の哲学にはなりません。修行者のための哲学・マニュアルなのです。- p201」

274 わめ :2005/12/21(水) 17:33:57
>>273
 「アビダンマは哲学や心理学を語るものではありません。瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いていますから、一般には通用しません。このままでは現代の哲学にはなりません。修行者のための哲学・マニュアルなのです。- p201」

 とあり、これがブッダの正当な教えの「修行者のための哲学・マニュアル」なのか、あるいは他に「修行者のための哲学・マニュアル」があるのか、またこの修行者と言うのが出家者のみを指していて在家者向けにも「修行者のための哲学・マニュアル」があるのか、その辺はよく分かりませんが、ブッダの教えがそのまんま修行者のための「アビダンマ」そのものであるとすることは、在家者にもブッダが教えを説いていることからまた、最終的に在家のままではだめで出家者になることがすべての人々にその目的から必要であると説いていないのなら、ブッダの教えから「修行者のための哲学・マニュアル」として発展させていったひとつの仏教の形となるのではないかと思うのですが。
 そのひとつの仏教の形のアビダルマとしてそれがブッダの教えと矛盾しないのかどうかと、ブッダの教えの中心思想を縁起の思想とした場合、その(暫定)真理でもある縁起の思想を信仰と切り離して自己の中心思想として日々生きて行くことは、ブッダの教えと矛盾するのかしないのかをわめは知りたいと思っております。

275 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/21(水) 17:49:21
>>273-274

 「瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いています」とありますが、これがブッダの教えの実践として正当であるかが疑問に感じているのですが、それは論理的にではなく(わめには論理的に無理w)わめからはその修行者の言動が創価学会の盲信バリバリ学会員と非常に類似して見えるからなのです。

276 とゆーか :2005/12/21(水) 20:18:58
また、相変わらず妄想していますね。

ひとことで言えば、ヴィパッサナーを行うときの認識対象を用語化グループ化しているのです。
辞書です。用語です。ラベリングの言葉です。
ヴィパッサナーで観たときに、観えない対象をいくら用語定義しても意味はないのです。
瞑想者にとってのみリアリティのある話です。

また、新しい現象を観るのですから、普通の日常用語ですむ話でもありません。
だったら辞書があったほうが良いのです。

ヴィパッサナーが進むにつれて、そういう風に分類していけるのですが、そこには用語(言葉)の個人印象の問題があり、
複数名で同じものについて同じものを見ていることを確認しないといけないのです。

悟りに必要なのは、辞書ではありませんから、その意味で上の辞書は無意味です。
しかし、お互いのお話を通じさせるためには、辞書は必要なのです。
上の辞書を読み、仏教共通言語を用いて、会話していけば、どこの認識ができていないかがチェックできるのです。

いずれにせよ、阿羅漢を目指す修行者には必要ですが、預流果についてはそこまで必要ではないとされますので概ね無駄です。
読んで面白いところを楽しんで捨てるべき本です。

仏法僧に帰依しないかぎり、これで行こうという決心(サッダー)は生まれませんから、
だから無駄です。やめなさいとブログに書いたのです。

再び、それなりの修行を行った比丘を誹謗していますから、二度目の聖者非難罪です。
このまま放置すると、預流果の悟りも無理ということになるので、
とにかくその妄想の言動をやめてください。
悪業を積んでいるだけです。これは、忠告です。

菩薩にしろ沙門にしろ、助けたくとも、帰依していないものは助けられません。
どちらも奉仕者ですから、別にあなたが何かしていなくても、帰依していれば助けられますが、
反発しているものは無理です。

邪教に帰依した業(習気)は簡単に消えないようですね。
残念です。

279 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/21(水) 20:41:28
とゆーかさん、いらっしゃい。^^ こちらでもよろしくです。

 ご気分を害されたのなら申し訳ありませんが、わめが >>273-276 で書いていることは何ものをも誹謗しているわけではありません。
創価学会と言う組織において、アンチからよく盲信バリバリ学会員との指摘を受ける方々がいるのですが、そのような方達と言動が非常に類似していると言っているだけです。
 何を信じるかが違うわけで、その信じるものが正しいか間違っているかを論じているわけではなく、その姿勢がよく似ているわけですがそれも果たしていいことか悪いことかも断じてもいませんので誤解なきようにお願いいたします。

 ただあなたの信念から、またそれが仏教上の教義として正しいとしても、他者に対して妄想しているなどと断じることはわめの管理するサイト上では今後お止めいただきたいと思います。
 人にはいろんな考え方があり、それが間違っている場合も多々あるでしょう。
 可謬性のない人間はいないと思いますし、わめやとゆーかさんとて例外ではないと思います。

280 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/21(水) 20:59:06
 とゆーかさん、誤解があるといけませんので補足しておくと、わめが指摘している盲信バリバリ学会員と言動が非常に類似していると言いますのは、とゆーかさん個人を指して言っているわけではないのです。
 チャット仲間の中にもテーラワーダの瞑想行などを実践されている方がおられるのですが、その方もやはり自分の信じていることが絶対に正しく思いそのような言動に出ることが多々あるのを、他の方がやさしく色々な考え方の人があるんだからと諭したりしたのですが、諭してくれた方を浅はかだとか何も分かってないなどと非難したりするのです。
 そのチャットを管理しているわめとしては以後もそのような発言を続けるのならチャットに参加させないようにすると勧告しました。
 このような経緯などから盲信バリバリ学会員と言動が非常に類似していると指摘しているわけです。
 わめももう少し配慮して盲信を外してバリバリ学会員と表現したほうが良かったのかもしれないと少し反省はしているのですが、自らが信じることのみが正しいとの感覚は盲信の言葉を外すと表現が難しかったこともお察しください。

281 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/21(水) 22:05:36
 とゆーかさんは、とゆーかさんが正しいと信じる教えから、わめを良い方向へと導いてあげたいとの温かい心で言っておられることは重々分かるのですが、前述の学会員の姿とまるでそっくりなんですよ。(^^;;

 LeoさんやLibra師匠や他の学会経験者がどのようにお感じになるかも興味があるのですが、わめはその点に強い抵抗感を持っているわけで、とゆーかさんがご指摘の「邪教に帰依した業(習気)」とわめが映るように、前述の学会員からはとゆーかさんが邪宗の害毒が深いなどと言いそうなこととこれもまたよく似ています。自身の信じる教えを、信じない人に対して哀れと思うなどの共通性が高く思います。

 わめのこのような意見が、今後のとゆーかさんにとって多少なりともよい意味での参考になれば幸いです。

282 とゆーか :2005/12/21(水) 22:42:00
サッダーというのはそれほどのものだとご理解ください。
サッダーです。決心です。狂信と紙一重のものです。
それほどの決心がないと、広すぎる瞑想世界は、目的地につけないのです。
本当に命綱です。

一度、チベットの死者の書(中沢新一著)を読んでみて下さい。
テーラワーダでは否定されている部分があるのですが、臨死、瞑想者の心理状態をそれなりに表現しています。

われわれ瞑想者は、眼前に広がる妄想の海から、灯台をひとつずつ見つけ、次の灯台へと進むのです。
瞑想者にとっての命綱です。あなたには関係のない話なのです。
だから、わたしはその本に触れるなといったのです。

大学生の教科書を小学生が読む必要がないように、仏教初心者には意味のない教えです。

あなたが野良猫だとします。
餌やりばーさんが、なんとかわいそうな猫だろうと、餌をあげようと、近づきます。
野良猫は、人は怖いものだと思っているので全力で逃げ、餌はもらえませんでした。

わたしも野良猫だったとします。
おなじように近づいてきました。
わたしは、餌やりバーさんをくれる人であると認識して、餌をもらえました。

そういうことなのです。
あなたは、餌やりばーさんを怖いと思う訓練をやっているだけです。

波動を読み取る力、そういう力がないと、精神世界は渡りきれません。
同じ波動同士が一緒に進むのです。
あなたの行動を見ていると、慈悲というか愛に反応はしますが、智慧、悟りには反発する性質のようです。

この世界が愛であふれているならば、ライオンがシマウマを食べる必要などないでしょう。

仏教者はそういう状況を見て、この世界は、本質的に苦であると認識します。
宇宙が愛だなんていうのは、大嘘だという事実をみます。
仏教というのはそういう教えです。

ついでだから、あなたの性格テストを行ってみます。

問題
おなかをすかせたライオンが一週間ぶりでシマウマを見つけました。
ライオンはシマウマを襲います。

そこにあなたと数人の人間が一緒でこの状況を見かけます。

1.目をつぶる
2.おもしろがってみているだけ
3.平静に観察する
4.シマウマを助けようとする
5.ライオンに手助けする
6.シマウマの代わりに身代わりになる。

あなたはどういう行動をとりますか?
あなたはどういう行動をとるひとを尊敬しますか?
師匠をその行動だけで選んでください。

それがおそらくご自身の思考パターンを表現することになるでしょう。
解説は、くまりんさんにおまかせしちゃいましょうか。
私が説明するより信用するでしょうから。

283 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/21(水) 23:56:30
 とゆーかさん、こんばんは。^^

 う〜ん、何て言ったらいいのか困ったな・・・w汗
 どう言っていいのか難しくて失礼があったらすいません。m(_ _"m)ペコリ
 とゆーかさんの信じる瞑想世界も、とゆーかさんの信じる仏教も、それはそれでとゆーかさんの中である内や同じように思う方達の中では何も問題ないと思いますし、それをとやかく言う気はないのです。
 そしてわめはとゆーかさんから見れば現実社会で貪瞋痴にまみれた人達と同じく貪瞋痴にまみれて生きているのです。でもこれが悲しい現実の世界じゃないのでしょうか。それを認めるのも認めないのもとゆーかさん次第でありますし、そのわめのテキストに触れ妄想してると思ったり哀れと思ったりすることも”ここまで”なら何の問題ないと思います。しかしそれ以上は難しくこの貪瞋痴にまみれた人達が作った矛盾に満ちた社会の常識や良識やルールがあったりするわけで、どれだけとゆーかさんが正しい、素晴らしい教えや実践法を語ったとしても、貪瞋痴にまみれたわめには理解もやってみようとも思わないのです。何故ならこの貪瞋痴にまみれたこの世界やそこに住む方達が大好きだからです。とゆーかさんの目指す目的地は果てしなく遠く、わめはこの貪瞋痴にまみれた世界の人達と一緒に良い方向にたとえ一歩、或いは半歩進めれば、否、その方向に向って死ねれば大満足なんです。それ以外は覚悟で乗り切るつもりです。歴史が物語るように限られた方しか現実世界で身に付けることができない智慧や辿り着けない悟りなら興味がないのです。それよりは「赤信号(でも)、覚悟を持って渡れば怖くない」って感じです。怖w
 いずれ未来に、あの時にとゆーかさんの言うことを聞いていればよかった、餌を貰っていればよかたって後悔するかもしれません。でもそれも仕方ないですよ、自業自得です。
 この世界はこんな貪瞋痴にまみれた人達が一杯で愛も溢れてないですよ。^^
 とゆーかさんもこんなわめに関わっているとロクなことがないかもしれません。涙
 ブッダが出家を薦めるのもこんな理由も含まれるのじゃないでしょうか?

 あ、正確テストは面白そうなのでやってみました。(*゜▽゜*)
 でも誰がどれを選んでもその方を師匠だなんて思えませんがwヽ(・∀・)ノ アヒャッ!!
 わめが目の当たりしたら選ぶのは「1の目をつぶる」でしょうかね。

 失礼しました。<(_ _)>

284 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/22(木) 00:26:15
> 歴史が物語るように限られた方しか現実世界で身に付けることができない智慧や辿り着けない悟りなら興味がないのです。

 これは誤解を生みそうですね。(^^;;
 可能性が限られているとの話じゃなくて、過去からの結果を見てということです。^^

285 とゆーか :2005/12/22(木) 03:03:25
困りましたねぇ。仏教なんて信仰しなくて良いよと言ったはずですけど。
捨てなさいといっているぐらいですよ。
トンジンチに酔っ払っている人に、仏教を伝道できると思っている初期仏教者はいないのです。

では、私がしつこく何を問題にしているのか、餌やりを例にとってもう少し説明しときましょう。

A)怖いので近づかない。安全な距離程度にちょっと離れる。
そしたら、餌やりばーさんは、足元に餌をおいて、どこかにいくでしょう。
いなくなってから食べればよいから、ほかの猫にとられなければ無問題です。

B)怖いので全力疾走で逃げる。絶対ちかづかない。
これだと足元に餌をおいても仕方ないのですから、どうにもなんないでしょう。

あなたは、Bの練習を一生懸命しているのです。
私から見ると完全にそう見える。

仏法僧の三宝に帰依さえしていれば、トンジンチに酔っ払っていても、どこかでなにか最悪な不幸なときに会うことがあっても、
助けが入るのです。
仏法僧を誹謗、中傷、批判、反発、いずれにせよそういう習慣を続けていると、その最悪の不幸のときに助けようがないのです。
例えば死ぬときビジョンで乞食坊主と天使と悪魔と天女と仏陀と菩薩がお迎えにきたときに良い道を選べなくなるのです。
(妄想に取られるでしょうけどね)
つまり、三宝帰依してれば、トンジンチによっぱらって遊んでても何もいいませんよ。
でも、仏法僧を否定する訓練を続けているとダメです。どうにもなりません。

その練習のために仏教勉強しているならはっきり悪行です。やめたほうがいい。
疑問程度はかまいません。反発してはいけないのです。ほうっておけばいいんです。
お布施しなきゃいいだけです。悪態ついてしまうと大変な悪業です。
関係ないでしょ。余計なエネルギー使って悪業積んで何がしたいのかよくわかりません。

日本で天皇陛下の悪口を言うことがどれだけ危険かはご存知でしょう?
同様に仏法僧の悪口を言ってよいことはなにひとつもありません。
キリスト教の神の悪口言うことだって命がけですよ。よーいいません。
大作氏の悪口だって周りを注意しなきゃ、大変なことになります。
たとえ不徳の僧に見えても、僧、比丘をしているだけで、それなりの善業があるのです。
有徳の僧は言うに及びません。僧、比丘というのは、現在は仏陀の代理なんですよ。
間違ってはいけません。不徳ゆえにその後、地獄に行く僧、比丘がいたとしても、
あなたの問題ではありません。

さて、悟りを開いた人ですが、
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/thread.cgi?user_id=QZV00171&amp;disp_no=2399&amp;log_no=2399&amp;msg_per_page=10&amp;def=10
仏陀の時代はこの程度ですね。
大体は無名で終わるのです。ひっそりと悟りひっそりと寂滅します。

在俗の人間にとって預流果はかなり現実的な目標です。
日本のように現在平和で物質的に豊かで教育水準の高いところに生まれた人間の場合は、
善業としては十分だというのが一般的理解です(たとえ貧乏で不細工で頭が悪くても)。
時間さえ作れれば問題はないでしょう。
幸いなことに、観法がやっと伝わり八正道の八支分が全部揃いました。
単なる禅定ではなく行捨智で業を完全に滅ぼす条件が整ったのです。

いずれにせよ、トンジンチで遊んでいたいというのなら、
命綱の三宝帰依だけは確認しておいたほうがよろしいでしょう。

だから、仏教捨てて、命綱きってどうなるか自分で確かめれば、
三宝帰依のありがたみがわかるのにと思ってお勧めしたのに、
くまりんさんはどうしても仏教に結びつけるからね。

命綱つけるなら、その命綱に切れ目入れる馬鹿は普通はいないんです。
あなたはそれをしています。

286 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/22(木) 08:41:25
 とゆーかさん、おはようございます。^^

 くまりんさんにほとんど同じ仏教の理解者と言われるように、瞑想者であられるとゆーかさんのその修行の妨げになってはいけないと思い書かせていただいた >>283 もさすがに歯が立ちませんね。(^^;;
http://wame.seesaa.net/article/10814676.html

> 困りましたねぇ。仏教なんて信仰しなくて良いよと言ったはずですけど。
> 捨てなさいといっているぐらいですよ。

 同じく上記URLのコメント欄でとゆーかさんは、『信仰を捨てよというのはまったく正しいですから。ただし、阿羅漢になってからという前提がつくだけです。』ともおっしゃっておられますが、貪瞋痴の塊のわめが阿羅漢であろうはずもないし一見矛盾しているようにも思えるのですが、しかしこれもきっとパラダイムを変えた視点で述べられているのでしょうけど、わめのような浅はかな者には理解できません。涙
 こんなわめなので >>285 のお返事を全部書いちゃっていいものか、と言うかそれ以前のコメントにもお返事してないところがいくつかあるのですが・・・、でも理解できないことで皮肉っぽく反発して書いちゃいそうなので(既に書いてるなw汗)、とりあえずここまでで控えさせていただきますね。^^

287 Leo :2005/12/25(日) 21:49:19
Libraさん、くまりんさん、わめさん こんばんは。

『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』を便宜のため抜書きしました。

アルボムッレ スマナサーラ、藤本 晃『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』サンガ、2005年
一部抜粋(1)

○アビダンマと対象とする入門テキスト『アビダンマッタサンガハ』について。
および(スマナサーラ長老が語るところの)仏教の考え方。

「仏教心理学というタイトルで、ここではアビダルマを勉強するつもりなのです。
 経・律・論の三蔵経典の三番目のアビダルマ(論蔵)は、七つのテキストで
 構成されています。」(p.4)

「正直なところ、論蔵は本棚を立派に飾るという役割だけを果たしています。」(p.4)

「上座仏教では、三蔵経はまことの仏説だと徹底的に信仰しているので、こんなことを
 言ったら破門されてしまうかもしれません。しかし、論蔵は分かりにくいということは
 まぎれもない事実です。」(p.4)

「これから勉強する『アビダンマッタサンガハ Abhidhammattha-sangaha』なら、私たちにも
 いくらか分かる可能性はありますが、本物のアビダンマのテキストは、本当にわかりません。
 いきなり、心はこれ、などと説明が書いてあるだけです。ですから仏説ではないだろうという
 感じはあります。」(pp.27-28)

「我々の俗的レベルで聞きたいことは何も説明しません。その代わり解脱の必要なことは言って
 います。アビダンマは、修行者のために必要な論理・心理学なのです。」(p.33)

「仏教、特にアビダンマには、簡単に「全知」になって「ああ、もう勉強は完全に済んだ、
 楽になった」と重荷を下ろしてもらおうという狙いがあります。」(p.55)

「atmanとかpursaとは、普遍的な、全てを支配している精神的なエネルギーだと言うのですけど、
 我々がどこまで探し求めても、そんなものはどうしても見つかりません。見つからないのですから、
 捨てて忘れてしまえばいいのです。仏教が他のどんな宗教、哲学、思想とも違うところは、
 見つからないものは、考えから外すというところです。」(p.110)

288 Leo :2005/12/25(日) 21:50:26
アルボムッレ スマナサーラ、藤本 晃『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』サンガ、2005年
一部抜粋(2)

○大乗仏教の空論への批判

「逆に「自も他もあらず、一切は空」などと言ってみても、現に私が他者を認識して
 煩悩を作っていることに変わりありません。人が勝手に「真実には自も他もない」と
 言っても、私の煩悩は消えません。だから哲学を振り回しても何の意味もありません。」
(p.134)

「簡単に「すべては空だ空だ」という人に「ではどこで煩悩が生まれるのですか」と聞いても、
 「煩悩はない、輪廻もない、解脱もない。全部空だ。」と答えます。それでは、煩悩を
 断ち切って解脱の達する仏道が全部否定されてしまうのです。このような、真理ちそれに
 至る道について何の説明もしてくれない単純な空論は、結局、哲学でもない、実践もない、
 ただの言葉の遊び、概念の空回りだけです。」(p.135)

「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色がある」と言います。
 大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸命批判しています。どちらが正しいか、
 ちょっと考えればすぐに分かります。」(p.182)

「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから『これ』と掴まえられるものはない」
 と言い、それをsunnata(サンスクリット語ではsunyata)と言います。一部の人は、ただその
 「空」という言葉だけを取って、「全ては空である」と拡げて、一生懸命宗教システムを
 作って「これが大乗です」とまで言いますけど、ただ言葉の遊びだけです。こちらは、
 「では頑張って下さい」と言うしかありません」(p.183)

「「一切皆空」などと言葉とか哲学だけでいろいろ言いますけど、それでは現象の問題は何も
 解決しません。そんなものに何の意味もありません。ただの言葉遊びです。哲学は、ものこと
 をただいじるだけです。」(pp.183-184)

289 Libra :2005/12/28(水) 02:58:25
 Leo さん、こんばんは。抜書きありがとうございました。

 「関係性」の問題のほうにもコメントしたいので、こっちのほうは簡潔に書
いてみます。不明な点がありましたら、またおっしゃってください。

 長老は「本物のアビダンマのテキスト」について「仏説ではないだろうとい
う感じはあります」といわれています。龍樹の批判対象は「本物のアビダンマ
のテキスト」だろうとおもいます。わたしは『アビダンマッタサンガハ』は見
ていませんので評価できません。

 「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色
がある」と言います。大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸
命批判しています。どちらが正しいか、ちょっと考えればすぐに分かります。」
と長老はいわれています。たしかに、長老がおっしゃるような大乗仏教がある
とすれば、そんなものが正しくないことは考えればすぐに分かります。しかし、
少なくとも、龍樹やチギの大乗仏教がそのようなものではないことは、龍樹や
チギの書いたものを読みさえすればすぐに分かります。たとえば、チギの「三
諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有していな
い(空)けれども、それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有してお
り(仮)、しかも空であることと仮であることとが一なる存在において統一さ
れている(中)がゆえに、即空即仮即中として表示されうることを明かす教説」[*1]
です。

 「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから『これ』と掴
まえられるものはない」と言い、それをsunnata〔中略〕と言」うという長老
のご理解は正しいとおもいます。ところが、「本物のアビダンマのテキスト」
では「現象の中に実体はある」といっています[*2]。龍樹は、この「現象の中
に実体はある」という考えを論理的に批判しています。この龍樹の批判を「言
葉の遊びだけ」といわれているのだとすると、長老にとっては「論理的な批判」
も「言葉の遊び」ということになるのでしょう。こうなりますと、わたしとし
ても「では頑張って下さい」と言うしかありません。わたしが長老のお考えを
論理的に批判したところで、それは「言葉の遊び」ということになるだけでし
ょうから。


  [*1] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
     http://page.freett.com/Libra0000/122.html

  [*2] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

290 Libra :2005/12/28(水) 05:55:32
 わめさんへ

 さきほど以下の拙文をブログのほうに投稿しようとしましたが、うまくいき
ませんでした。もしかしたら何重にも投稿してしまったかもしれません。適切
なご処置をよろしくおねがいいたします。

 睡魔と戦いながら書いたので内容的にも表現的にもおかしいところが多々あ
るとおもいます。

291 Libra :2005/12/28(水) 05:56:16
 わめさん、こんばんは。

 関係性の問題について、以下に私見をのべてみます(わめさんに理解してい
ただけるように書く自信はあまりありませんが)。


1.関係の不可逆性

 「ナーガルジュナの縁起思想を関係性で理解」してしまうと常に仏教ではな
くなってしまうということはないとわたしはおもいます。問題は、関係性をど
のように理解するかだろうとおもいます。

 たとえば、松本先生は、ダルマキールティが〝関係の不可逆性〟を論証した
ことを高く評価され、「彼に至るまでは、〔中略〕ナーガールジュナの論法を
別にすれば、〝関係〟というものは、相互的なものと考えられ、関係者である
二項の間に漠然と存在すると考えられていた。しかるに、ダルマキィールティ
は、〝関係〟というものは、関係項を離れては存在しないこと、従って、関係
項Aから関係項Bを見たときの関係は、BからAを見たときの関係と全く逆で
あることを論証したのである。〔中略〕即ち、彼は、〝関係の不可逆性〟を説
くことによって、〝縁起〟と〝時間〟そのものを論証したのである。従って、
彼は、仏陀とナーガールジュナを継ぐ〝縁起論者〟であると見るべきであろう」[*1]
といわれています。

 松本先生のこのようなダルマキールティ評価が現在も維持されているのかを
わたしは知りませんが、少なくとも、松本先生は「〝関係の不可逆性〟を説く
ことによって、〝縁起〟と〝時間〟そのものを論証」できるとお考えなのだと
おもいます。

292 Libra :2005/12/28(水) 05:56:50
2.存在論と認識論

 わたしは、関係性を論じるさいには、存在論と認識論を区別して論じるべき
であると考えます。松本先生は主として存在論を論じておられ、佐倉さんは認
識論のみを論じておられるというのがわたしの印象です。

 存在論と認識論を区別して関係性を論じるということは、《概念》を関係項
として論じる場合と《具体的な存在》を関係項として論じる場合を区別して関
係性を論じるということです。

 たとえば、「男」という概念と「女」という概念は、まさに相互否定の関係
にあるといってもよいとおもいます。「男」という概念がないのに、「女」と
いう概念のみがあるということはありえません。佐倉さんが「第二章」[*2]で
論じられているように、たしかに龍樹もこういった議論を展開して、概念に自
性などはないと主張しているとおもいます。

 これにたいしまして、ある具体的な男の子(太郎)と女の子(花子)がいた
として、この太郎と花子の関係性を論じる場合を考えましょう。この太郎と花
子の関係を、「男」という概念と「女」という概念の関係と同じにように考え
るのは馬鹿げているとわたしはおもいます。

 松本先生は、《具体的な存在》を関係項として、〝関係の不可逆性〟をいわ
れているのだとわたしは理解します。

293 Libra :2005/12/28(水) 05:57:25
3.松本先生の存在論──危機的存在──

 松本先生の存在論をもっとも特徴づけているのは「危機的存在」という言葉
です。たとえば、松本先生は、「法は確固不変なるものではなく、反対に実に
不安定な中ぶらりんな危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこ
にもない。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ存在
しているのだ。」[*3]といわれています。この言葉以上に仏教の縁起説を的確
に表現する文章をわたしはしりません。

 空(無自性)の思想は、概念の無自性をいうだけではありません。わたしと
いう存在に自性などはなく、まさに「危機的存在」であることをふかく自覚さ
せてくれるものであるからこそ、空(無自性)の思想は菩薩行につながるのだ
とわたしは理解しています。

294 Libra :2005/12/28(水) 05:58:07
4.龍樹の認識論──概念に自性などはない──

 《概念に自性などはない》という龍樹の主張についても、認識論として優れ
た視点を提供してくれるものであるとわたしは高く評価します。この龍樹の思
想は、《概念もまた危機的である》ということを含意します。すなわち、「概
念の体系」は plastic である[*4]ということです。このような考えは、ポパー
の以下の議論にみられるような意味での自由をわれわれに教えてくれるように
おもいます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがある種の知的牢獄、われ
  われの言語の構造的規則によって形作られた牢獄のなかに住んでいると示
  唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意があるが、しかしわれ
  われは通常この牢獄に気づいていないというかぎりでは、これは奇妙な牢
  獄だということを付け加えねばならない。われわれは文化衝突を通じて牢
  獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに気づくということによ
  って、牢獄から脱出できるのである。十分に努力し、新しい言語を研究し、
  母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。
   その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、これははるかに大きく広
  い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄に悩むこともないであ
  ろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことになれば、われわれには
  つねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由が
  あるのだ。
 
  (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
    『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
     会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

295 Libra :2005/12/28(水) 05:58:50
5.時間と場所

 「場所」というのは、ある時点において切り取られた(静止した)世界をイ
メージしてみるとわかりやすいのではないでしょうか。現実の世界は「危機的
な諸法の時間的因果系列としてのみ存在している」のですが、われわれの認識
というのは、その現実の世界をある時点における「概念の体系」で切り分けま
す。その結果として、諸法が危機的でないものに見えてくる場合もあるのでは
ないでしょうか。その典型が、諸法を支える(それ自体は変化しない)基体の
存在を信じる、いわゆる基体説だとわたしはおもいます。

 

  [*1] 『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
     http://page.freett.com/Libra0000/087.htm

  [*2] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第二章 縁起論」
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html

  [*3] 松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 27。

  [*4] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33

296 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/28(水) 16:28:11
 Libra師匠こんにちは。^^

 >>290

 年末でメンテでもしてたのか、トラフィックが上がっていたのか分かりませんが、ブログに投稿できなかったようで申し訳ありません。
 ブログの該当記事のコメント欄からリンクさせていただきますね。
『自性・無自性について』
http://wame.seesaa.net/article/10864702.html

>  睡魔と戦いながら書いたので内容的にも表現的にもおかしいところが多々あ
> るとおもいます。

 わざわざありがとうございました。<(_ _)>
 しっかり読ませていただきまして上記ブログのコメント欄でお返事させていただきます。

297 Leo :2005/12/29(木) 08:00:42
Libraさん おはようございます。

コメントありがとうございます。
龍樹(とそれをもとにする大乗仏教)は現在批判に耐えうると思いました。
(またむしろポパーの有用性を再認識してます...)

できればくまりんさん紹介の別の龍樹に関する書籍も読んでみようと思います。

298 Leo :2005/12/30(金) 21:46:22
>できればくまりんさん紹介の別の龍樹に関する書籍も読んでみようと思います。

これですね。

『ブッダ論理学五つの難問』 ISBN4-06-258335-6
http://homepage1.nifty.com/manikana/buddhalogic/buddhalogic.html

**************************************************************************

近頃の感想です。

龍樹は龍樹を理解される方、理解しようとする者には有益ですが、少なくとも
テーラワーダの修行者と修行にとっては妨げということなのですね。
(テーラワーダの大乗批判はやや不満ですが修行の達成が主眼であれば仕方ないです)

あとアビダンマは大乗にも影響与えているのですね(北伝仏法ではもっぱら倶舎)。
創価で聞いたことのある(日蓮正宗系の教義で)「三世」とか「法体」とかアビダンマ
起源なのですね。(アビダンマは部派と大乗の接点ということなのですね)

299 くまりん :2005/12/31(土) 01:30:36
こんばんは。お久しぶりです。
 年内最後の書き込みになると思います。
『ブッダ論理学五つの難問』の著者マニカナエムさんと仏教思想のソフトランディングの方向性について拙サイトとマニカナエムさんのサイトで意見交換をしています。よろしかったらご覧下さい。

http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=891#comment-12406
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2005/12/post_4fba.html

 僕は拙サイトで大乗仏教を批判していますが、基本的なスタンスとしては大乗仏教が非大乗を小乗というモノイイで論じている点についてのみ大乗を批判しています。実際のインド仏教の流れの中では部派と大乗は連続しているんです。14世紀のインドの哲人宰相 Maadhava はその著『全哲学綱要(Sarvadar;sanasa.mgraha)』 において仏教徒は〈Maadhyamika(中観学派)〉 〈Yogaacaara(実修行派)〉 〈Sautraantika(典拠学派・教量部)〉 〈Vaibhaa.sika[Sarvaastivaadin](選別学派・説一切有部)〉の四種の〈bhaavanaa(教え)〉によって優れた人間の目的を説くと仏教を解説しています。実際彼らは〈caaturdi;sa-sa.mgha(四方僧伽・全教団)〉という仏教徒としての制約の下議論を続けたのです。

 実際仏教の中に大乗、小乗などと区分を設けたのは中国での話であって実際には議論の中である意図〈vivak.saa〉の元に発せられたナーガルジュナの叫びを実際の議論と流れを理解できなかった智ギ、神会、宗密などが大乗、大乗と小乗を蔑んだだけでしょう。少なくともインドにおいては六波羅蜜ですら大乗と小乗を区別するキーワードにも成りませんし、名称としての菩薩行はともかく、実際の仏教上の呼び名で言えば慈悲行は原始仏教の時代から苦行の一種としてブッダに推奨もされ部派においても仏塔信仰とともに大いに為されたものです。

 ナーガルジュナは優れた思想家ですが彼の卓越したところは論理であって無自性は議論における意図〈vivak.saa〉でしかありません。仏教という豊かな思想の流れのなかでは1/4に過ぎないんです。それを智ギ、神会、宗密がそれぞれのやり方で引き継いだからといってなんか意味がありますか?それは単に仏教の中国的変容という視点で検討するべきテーマで、なにが正しい仏教かの俎上にのせる話ではありません。ブッダの体験としての「さとり」を排除したような仏教は仏教ではなくなってしまいます。ナーガルジュナの思想とて一緒です。彼は明らかに「さとり」の体験をしています。だから涅槃がないと言えるんです。つまらないこだわりはお捨てになって仏教を白紙から見直したほうがずっと楽しいですよ。

では、お幸せでありますように。

300 Leo :2005/12/31(土) 06:32:33
くまりんさん、おはようございます。

『ブッダ論理学五つの難問』を読んで、仏教は論理だ(釈迦は論理を表出さないでしっかり論理的だった)、
と龍樹も肯定的印象を受けたのですが、龍樹(とその系譜)は仏教の1/4というご指摘ですね。ううむ。

それに龍樹は「論理」で(を表に出して)仏教の防波堤を設けたのかもしれないのですね。

>つまらないこだわりはお捨てになって仏教を白紙から見直したほうがずっと楽しいですよ。

(他の方へのご指摘もあるのかもしれませんが)
私は創価仏教を捨てて仏教を白紙から見直しているつもり(つもりというところが曲者?)なのですが、
龍樹にひっかかって(拘って)しまったということなのでしょうか?(自問自答中)

301 Leo :2005/12/31(土) 07:33:17
(自分的宿題は多いですが...)
皆様、よいお年を!

302 Leo :2005/12/31(土) 12:01:55
>龍樹にひっかかって(拘って)しまったということなのでしょうか?(自問自答中)

ちょこっとだけわかりました(!)。
「中観派」だけだと「中観学派」、「実修行派」、「典拠学派」、「選別学派」の4学派のうち1つ
だけということですね(で1/4と)。

龍樹は「中観学派」、アビダンマは「選別学派」、世親は経量部の思想が入っているから
「選別学派」+「典拠学派」...

これら4学派はお釈迦様の仏教を中心とした(源流とする)仏教の四天王(?)のような存在ですね。

くまりんさん曰く:
「14世紀のインドの哲人宰相 Maadhava はその著『全哲学綱要(Sarvadar;sanasa.mgraha)』において仏教徒は
〈Maadhyamika(中観学派)〉 〈Yogaacaara(実修行派)〉 〈Sautraantika(典拠学派・教量部)〉
〈Vaibhaa.sika[Sarvaastivaadin](選別学派・説一切有部)〉の四種の〈bhaavanaa(教え)〉によって優れた人間の目的を説く
 と仏教を解説しています。
 実際彼らは〈caaturdi;sa-sa.mgha(四方僧伽・全教団)〉という仏教徒としての制約の下議論を続けたのです。」

303 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/31(土) 14:56:08
 くまりんさん、Leoさん、こんにちは。^^

 くまりんさんが >>299 で書かれた『ブッダの体験としての「さとり」』とはどのようなものでしょうか?仏教用語はわめには難し過ぎw つい神秘的なことを想像しがちになってしまいます。汗

 わめ的な勝手解釈では、この世界の有り様が分かることは分かり、分からないことは分からないと”分かる”ことがさとりなのかなってイメージしちゃったのですが大外れを予想しています。(>▽<;; アセアセ

 わめは仏教にはそれほどのこだわりを持っていませんので、大乗とか非大乗とかを区別して考えたりもできないのですが、ブッダも自分の教えがこんなにも分析され複雑化されるとは思ってもいなかったと思います。
 またブッダの時代に西洋論理学なるものが身近にあったとしたら、ブッダはどのような教えを説いていたのか想像して楽しくなりました。^^

 今年の総括、抱負になってしまいそうですが、いいとこ取りのわめですから仏教からはブッダの思いと、この世のものはすべて依存関係にあり「すべて危機的存在」であること(これも縁起かな?)を知り、実体はないけれどすべては関係性によって成り立っていることからの関係性重視思考に至り、わめにとってはこの実世界が現実であり関係性であるように思います。あ、実世界と言っても多数が思い描く縮図的イメージのこの世界のことですから妄想世界とも言えなくもないなw汗
 その妄想世界の住人として、互いに楽しくよりよい方向に進むための微力となっていきたいな。

304 Leo :2005/12/31(土) 15:48:21
わめさん、こんにちは。

>またブッダの時代に西洋論理学なるものが身近にあったとしたら、ブッダはどのような教えを説いていたのか
>想像して楽しくなりました。^^

(全然宣伝ではないですが...(^^;)くまりんさんのご紹介の
『ブッダ論理学五つの難問』 ISBN4-06-258335-6
http://homepage1.nifty.com/manikana/buddhalogic/buddhalogic.html

によるとブッダの論理は明白で、21世紀の西洋論理を超えるそうですよ(^^;
(うまく説明されていて目からウロコだったですが私としては若干慎重に捉えてます)
(少なくとも私にとってはですが)色々な疑問の解決の糸口になる情報がまた増えました。

(もしかすると既にご存知かもしれないですが)著者の方のHP。
MANIKANA=HOMEPAGE
http://homepage1.nifty.com/manikana/

従来インド(ヒンドゥー)風味と勘違いして敬遠してたんですが(失敬!)、良く見るとウマーなページが。
○心にしみる原始仏典
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/canonindex.html
○龍樹大好き
http://homepage1.nifty.com/manikana/love!ryuju/love!ryuju.idx.html
○『方便心論』
http://homepage1.nifty.com/manikana/upayahrdaya/upayahrdaya.html

(インド嫌いならカレー食べるな!なんていわないでねカレーがないと生きていけないですー)
最近は部派もヒンドゥー教も抵抗感少なくなくなりました。

師匠方先生方はそれぞれ一理あってためになるというか面白い世界を提供されてます。
自分は自分なりにちょこっと飛べたらよいなーと。

ものごとをこっちから眺めたりあっちから眺めたりすると色々違って見えるわけで、
コロコロ話がかわって私は節操のない人間かって?
ものごとは眺める方向が違うと違って見えるってことで勘弁して下さーい(^^;

305 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/31(土) 16:36:06
 Leoさん、こんちゃ。^^

> 師匠方先生方はそれぞれ一理あってためになるというか面白い世界を提供されてます。

 >>289 でLibra師匠が書かれているチギの三諦説も同じようなことを言っているのではないかと思うのだけど、仮諦だって仮諦としっかり捉え、仮諦に拘るなだけではバカみたいに思えてくるし、だからって仮諦のみに拘る生き方もバカみたいに思えるし、とにかくすべてが危機的状況にあることを実感として持ち、過去を反省し未来を予測選択し、今を生きることが大切なんじゃないかと思うのだけどな・・・
 それがなきゃ空でも仮でも中でも、また自性があろうがなかろうが何にもならないと思うんだけどな。

306 Leo :2005/12/31(土) 17:32:21
わめさん、こんばんは。

ちょこっと勉強した方面のパワーでちょこっとLeo流コメントしてみます。
(Libraさんはご多忙といのことでひとまずの結論はよいとしてちょっと遊びましょう)

> >>289 でLibra師匠が書かれているチギの三諦説も同じようなことを言っているのではないかと思うのだけど、

チギの三諦説は龍樹の中論にないから中論の誤読でしょうということもいえるし、
そういう意味でチギの三諦説も危機的状況にあることを実感として持ち、
過去を反省し未来を予測選択し、今を生きることは大切というか、それしか
できないかもしれないです。

人間だから多少拘っているものがあってもよいのではないではないでしょうか。
拘りすぎたら俺って拘りすぎてるかもなと思えれば拘りすぎを制御し自由に
拘ったり拘らなくなったりできればこれは拘らないに似て拘らないより自在に
なれると気づきました。

307 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/31(土) 17:49:26
> 人間だから多少拘っているものがあってもよいのではないではないでしょうか。

 Leoさん(・∀・)イイネ!!
 多少なんて言わずおもっきり拘ることもいいんじゃないでしょうか。^^
 そういうものもなければ世の中発展や発達や解明などないかもしれませんもの。
 そういった拘りも「危機的状況にあることを実感」することは大切だと思います。(*´∇`*)
 結局「過去を反省し未来を予測選択し、今を生きる」というのも一種の拘りかもしれませんし。笑

308 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/31(土) 18:40:37
 >>294 のポパーの『十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。』のテキストにみられるような、牢獄に気付き牢獄を超越していくっていい感じかなと。^^
 ただわめの場合はこの「十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって」ということさえほとんど理解できていないし、非常に怠慢でもあるような気がしますが。(>▽<;; アセアセ

309 Leo :2005/12/31(土) 19:32:11
> >>294 のポパーの『十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって、
>われわれの牢獄を超越できるのである。』のテキストにみられるような、牢獄に気付き牢獄を超越していくって
>いい感じかなと。^^

「文化衝突」なので、「言語」でなくとも、部派やアビダンマのお知らせ、龍樹や大乗の否定なども
刺激になるのかもしれませんです。カウンターパンチってことで。

たとえ話ですが、「牢獄」って別の角度から見ると隙間があったり、牢獄でなかったりするかも
しれません(映画などで脱獄人の話もありますし...根性さえあればということもあります)。
逆に「牢獄」と思わない場所が実は牢獄だったりするんです。

全然関係ない話ですが、Libraさんからの又聞きで、私知らんかったんですが、阿部日顕氏って退座
したんですね。本幹でもその話が出たという話も別方面から今日聞きました。
(聖教をひっくりかえしてみて寸鉄にもありましたが最高裁が関係するのはさだかでないですが(^^;)

あと東洋哲学研究所のHPが出来たとのことで。
http://www.totetu.org/

雑誌の第三文明に小林さんが何か書いたってご存知でしょうか。

310 Leo :2005/12/31(土) 19:39:27
>Libraさんからの又聞きで

Libraさんの許可無く、この表現を書いてしまいました。すみません。> Libraさん
(内容がある程度一般的に知れるものなので問題はないと思いますが...)

311 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2006/01/01(日) 01:08:55
 Leoさん、皆さん、明けましておめでとうございます。^^

 えへへ、2006年初カキコでごじゃります。(*´∇`*)

> 「文化衝突」なので、「言語」でなくとも、部派やアビダンマのお知らせ、龍樹や大乗の否定なども
> 刺激になるのかもしれませんです。カウンターパンチってことで。

 それはLeoさんだからでしょ。笑
 わめは仏教から >>303 のようなことを抜き出しちゃったのでカウンターパンチにはならないかもです。(⌒▽⌒)アハハ!
 牢獄と言うのも概念ですからね。あまり拘る必要も無いと思います。

 Libra師匠の >>293 に、

>  空(無自性)の思想は、概念の無自性をいうだけではありません。わたしと
> いう存在に自性などはなく、まさに「危機的存在」であることをふかく自覚さ
> せてくれるものであるからこそ、空(無自性)の思想は菩薩行につながるのだ
> とわたしは理解しています。

 とありますが、大乗とか非大乗とか越えて菩薩行(慈悲行)、と言うか仏教も超えてわめも皆さんもこの世界もすべて「危機的存在」であることを当たり前のように自覚できれば、わめにはうまく言葉に出来ませんが、そこから湧き起こる思いを共有できるような気がします。
 自他じゃなく実体のない関係性に身を置くって感覚は悪くないように思います。^^

312 くまりん :2006/01/01(日) 14:08:14
明けましておめでとうございます。
昨年は思いも掛けぬ出会いからご批判、ご指導有り難うございました。

Leo さん。
>>龍樹(とその系譜)は仏教の1/4というご指摘ですね。ううむ。
相手にこう思わせてしまうやり方こそ、龍樹の得意技なんですね(笑)
「ダルマに自性なんてねぇぞ!」ってね。
「悟り」了れば「悟り」はないんですね。
アイルランドのフィドルチューンをフィドル(ヴァイオリン)でそのまま奏でればそのままありのままに聞いて体験するしかあり得ません。「ことば」でそれを伝えることは難しい。しかしそれをギターで弾いたらどうでしょう。緻密に連続する一つ一つの音は音符に記号化されるままに一つ一つの音として、ありのままにではあるけれど、一つ一つ聞こえて来るでしょう。その時始めて「ことば」にして他者に伝えることが出来る。

わめさん。
「悟り」はあらゆる煩悩が滅し尽くされた境地、欲望を捨て去りきった境地、神秘でもなんでもありません、それを知り尽くしたブッダだからこそニヒリズムに陥らず、恐怖もなくただ楽しむことが出来るし、その涅槃への道を語ることが出来る!「悟り」を知るには口伝で伝承された教えが記述された経典を読むしかありません。あらゆる仏教の解説書よりパーリ経典を読むことが仏教を知り、「悟り」を知る近道でしょう。

 そしてより詳細にヴァイオリンの音をギターで弾くように明瞭に聞きたければ是非アビダルマも!但し一点で立ち止まって執らわれると真っ逆さまに地獄に堕ちてしまいますぞ。その流転こそ輪廻的生存そのものですが、そういうときは龍樹の「ダルマに自性なんてねぇぞ!」をしっかり思い出してください。

「仏教を超えて」ということは過去に仏教徒たちによって語られたことの一切を超えたときにのみ始めて有効です。それを超えなければ仏教の中でもがいているか、仏教に対する誹謗でしかありません。Libra さんのホームページのサイトの冒頭にはわたくしも大好きな以下の丸山真男の書簡集からの引用があります。

「日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。」(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)

本年も皆様のご活躍をお祈りしております。

********
- お幸せでありますように -

313 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2006/01/01(日) 15:03:48
 くまりんさん、皆さん、明けましておめでとうございます。^^
 昨年は、くまりんさんやLibra師匠やLeoさん他皆さんから多くを学ぶことが出来て感慨無量です。
 本年もよろしくお願いいたします。

 音楽、ギターの縦えがでてきましたのわめはちょっとうれしい。♪
 同じ曲を忠実に弾いても弾き手で音色や曲調が大きく変わるように思います。同じ人が同じ曲を弾く場合にも、その時々で音色や曲調は変わってくるようにも思いますし、また聴き手によっても変わってきます。

 これはブッダの悟りのご説明での縦えと思いますが、体験主義的に捉えることは非常に危険を感じてしまいます。ブッダの悟りとはブッダ一人のものだと思いますし、ブッダの悟りを他の方がそっくりに体験することは不可能に思いますし、一人ひとりの体験を悟りとするなら悟りは悟りを開いたと”思う・言う”人の数だけあるように思います。また仏教徒でもなく悟りを悟りと知らないまま体験する人もいるかもしれません。(悟ったかどうか、あるいはその悟りのレベルを判定する方法はあるのかもしれませんが、それもあるひとつの概念での判定法でしかないように思いますし。)

 「仏教を超えて」との表現はちょっとまずかったかもと反省していますw汗
 仏教の枠を超えてと言うのがわめ的には正しい表現であったように思いますので訂正させてください。 ってことで仏教を誹謗する気など毛頭ありませんのでご容赦ください。<(_ _)>

 但しブッダご自身があるひとつの方法でしかこの悟りを得ることができないなどともしも言ったとしたら、あるいはこれが一番の近道だと言ったとしたら、それは悟りを開いたはずのブッダ自身がその方法に固執してしまって矛盾するように思いますので、その場合はわめの「仏教を超えて」との表現もまんざらまずくないかもとも思います。

 いずれにしましても悟りや涅槃が目標でないとしたならば悟りや涅槃に拘る必要などないように思いますし、それが目標だとする方には頑張ってくださいとしかわめには言う言葉が見当たりません。

314 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2006/01/01(日) 16:04:42
 >>313 を書いてて、ふっと思ったのがわめはこの現実の世界に起こることをおもっきり享受しているんだなということです。
 それはたまに嫌なこともありますし、人命が奪われていく事件や事故や天災などが起こると悲しくもなりますし、地球のどっかじゃ自分じゃどうしようもない災禍に包まれた人達もいるでしょう。それは微力ながらわめもどうにかしていく努力をしていきたいと思っていますし、それが自身に振りかかることもあるかもしれませんが元々「危機的存在」なわけで、そのようなことにも覚悟を持って対処するつもりです。

 それはそれとして今こうして毎日過ごしていることが楽しいし、さっき大晦日の紅白歌合戦をキャプったのを視聴てたのですがやっぱり歌っていいですねぇ。^^ その歌の切なさや悲しみや願い等々、表現できないほその色々な思いが溢れてきます。これは自身の経験の中にその歌や歌い手の表現する思いと同じようなことがあったからなのかと思ったりもしますが、あぁわめもTVの向うの方達も過去から現在に至るまで色んなことを経験し精一杯生きているんだなって感じちゃってとても感慨深いです。

 また、そんな思いもこうして掲示板やブログに書いて他の方にも読んでも貰えるわけで、人間は愚かでバカなのかもしれないけれどこのようなことのできる世界を作ってくれて感謝だな。

 悲しく切ない離別もあり、また人生を揺さぶる出会いあり、生きていると色々なことがありますよね。

 泣いたり笑ったりむっつりしたり人はその時々で豊かな感情に溢れこの世の生を謳歌し、また謳歌していきたいと思っているんじゃないかと思ったりしています。

 わめはこの現実のこの世界や自分自身を否定する気がまったくないわけで、これを違った角度で見る場合にもそれはこの世の生を謳歌できていない方へのメッセージ作りに役立てたいだけなのかもしれないと感じています。
 このように考えてみると、仏教を志すということとはもしかしてまったく異質な考え方なのかもしれないと思ったりもするのですが、皆さんはどう思ってられるのか聞いてみたくなりました。

315 Leo :2006/01/01(日) 16:23:14
くまりんさん、わめさん、皆さん 明けましておめでとうございます。

私は昔テレビを観るものがないときぼーっと放送大学を眺めていたら中世の哲学とか中世の古楽とか見かけて
意外に面白いと思いました。東洋にも匹敵するものがないかと思ったら(昔はないと思っていました...)仏教を
はじめとする東洋思想・哲学なんですね。面白さだけに拘泥してはいけないのかもしれませんが...
(昨年末あたりからなんか私のスイッチONになったかなと...)

316 Leo :2006/01/01(日) 19:52:13
>やっぱり歌っていいですねぇ。

龍樹についての警告を替歌にするとこんな感じでしょうか。
オー、ベイビー、ベイビー い・け・な・い 龍樹・マジック♪

317 Leo :2006/01/01(日) 22:12:22
わめさん、こんばんは。

>このように考えてみると、仏教を志すということとはもしかしてまったく異質な考え方なのかもしれないと
>思ったりもするのですが、皆さんはどう思ってられるのか聞いてみたくなりました。

私は仏教の修行者でないので仏教を語ることはおこがましいのですが(おこがましいんですが
イッパンピープル(自分を含む)に必要なものを想像するにあえて語ると)、
仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり
(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の必要ない方は忘れていて必要になったときにふと思い出すというのも
アリかなとも思います。

318 Leo :2006/01/05(木) 07:48:37
>仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり
>(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

そういう意味においては、(仏教学的には承認され得なくとも)創価仏教も効用が十分あると思いますが、
他者とのかかわりや人格形成において疑問点があります。そういう点を確認したいなと。

319 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2006/01/06(金) 00:52:37
 Leoさん、こんばんは。^^

> 仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

 やっぱ人それぞれ違いますね。
 わめ的には”諦観を持つ”とは日常も含めて覚悟を持つってことかな。(^^;
 年末年始、わめは結構のんびりしてますが、こののんびりがこんなことしてていいのか?って自問自答が出てきて落ち着かないんだよねw汗

> そういう意味においては、(仏教学的には承認され得なくとも)創価仏教も効用が十分あると思いますが、
> 他者とのかかわりや人格形成において疑問点があります。そういう点を確認したいなと。

 創価仏教もオウムも道具として活かすなら効用はあるのじゃないかな。
 わめの中では創価仏教はもう死んじゃってますが。笑

320 Leo :2006/01/06(金) 22:13:30
わめさん、こんばんは。

>わめ的には”諦観を持つ”とは日常も含めて覚悟を持つってことかな。(^^;

私的には「諦観を持つ」と「覚悟を持つ」と同じで、「危機的存在」と初期仏教でいう「苦」は
同じかなと思っています(厳密には違うかもしれませんが)。

>年末年始、わめは結構のんびりしてますが、こののんびりがこんなことしてていいのか?って
>自問自答が出てきて落ち着かないんだよねw汗

フツーイッパン的に(正しい?)年末年始はのんびりと思います。
年末年始別に「戦(?!)」ったり「決意表明(?!)」必要もないのですということで。

>創価仏教もオウムも道具として活かすなら効用はあるのじゃないかな。
> わめの中では創価仏教はもう死んじゃってますが。笑

そですか。有益じゃない話の方向はやめておきます。
ひとつの「輪廻」から「解脱」できたと思えばOKなんではないでしょうか。
わめさんの嫌い系の話をしてもしょうがないのでこのカキコを最後に創価系はLeo的には
特に要請がない限り話題に出さないようにするということで。あとテーラワーダ
もかな。それから宗教色も出さないという感じでしょうか。
なにか発見があったら紹介するとか前向きな話だけにしましょう2006年。

321 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2006/01/07(土) 14:34:49
Leoさん、こんにちは。^^

> 私的には「諦観を持つ」と「覚悟を持つ」と同じで、「危機的存在」と初期仏教でいう「苦」は同じかなと思っています(厳密には違うかもしれませんが)。

 Leoさんの「苦」の捉え方はいい感じですね。
 でもそうだと「日常的危機」もいつだってそうなっちゃって、この後の世俗一般的な”年末年始はのんびり”はやっぱできませんよ。(^^;;

> 年末年始別に「戦(?!)」ったり「決意表明(?!)」必要もないのですということで。

 わめはのんびりしながらも昨年多く学んだことで、今後の指針を決めたいと模索中です。

 あ、学会話もいいですよ〜 思うことは何でも書いて欲しいです。^^

 もちろん有益・前向きな話は大歓迎ですが。

 話は戻って「今後の指針を決めたいと模索中」と書きましたが、わめには何も出来ないように思うのだけど、それでも何かをやっていきたいという矛盾を抱かえてしまっているようです。涙

322 Leo :2006/01/08(日) 21:23:37
わめさん、こんばんは。

最近数年ぶりに自分のホームページをいじれるようになりました(^^;
http://page.freett.com/leo020503/

Libraさんに連絡してわめさんのBBSとBLOGのLibraさんのご発言の書写を行いました。
(他にわめさんの掲示板などでLibraさんのご発言が他にありましたらお知らせいただけるとありがたいです)

あと、わめさんの掲示板へのリンクを貼ってよいでしょうか。

323 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2006/01/08(日) 23:03:54
 Leoさん、ε=(ノ‥)ノ ただいまっす。実家日帰りで先程帰宅しました。^^

> 最近数年ぶりに自分のホームページをいじれるようになりました(^^;
> http://page.freett.com/leo020503/

いっ、いじれなかったのかw(>▽<;; アセアセ

> Libraさんに連絡してわめさんのBBSとBLOGのLibraさんのご発言の書写を行いました。

 お疲れ様でした。(*´∇`*)

> (他にわめさんの掲示板などでLibraさんのご発言が他にありましたらお知らせいただけるとありがたいです)

 今のところ新ブログだけ調べてみましたが、下記にもコメントを頂いております。(⌒〜⌒)ニンマリ
『日蓮(大聖人)も真っ青』 http://wame.seesaa.net/article/9692959.html#comment
『輪廻転生について』 http://wame.seesaa.net/article/10504051.html#comment
 

> あと、わめさんの掲示板へのリンクを貼ってよいでしょうか。

 うれしっす。o(^^o) (o^^o) (o^^)o キャアキャア♪


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