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信じるということ
1
:
わめ
:2005/02/28(月) 15:05:58
とかく宗教では「信」を重要視することが多いと思われます。
信じることによって救われるということもあるでしょうが、また信じて騙されるということも多いのではないでしょうか。
私はある対象に対して信じると思うこと自体、その対象とするものの正当性が証明できないものであることの証拠であるように思います。
信じる=願望、未確定、曖昧、証明できないこと。
信じるとは言わない=当たり前のこと、常識的なこと、誰もが認めること、理論的に証明されていること。
智慧を得るための信ならば、良いことだと思いますが、信じることによって智慧が奪われていくならば本末転倒だと思います。
2
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/07/04(月) 18:36:35
まだ昭和の時代、私が男子部で活動を始めた頃(18歳くらいかな?)、先輩幹部から「無疑曰信(むぎわっしん)」について習ったことがある。
先輩幹部は「この仏法に疑問に思うことがあったら、先輩幹部に遠慮なく何でも聞きなさい。そして疑問が何もかも無くなった時、「無疑曰信」と言う信仰者として最高の信になる。」と、このように教わった。
この時、仏法に疑問(疑い)を持てとは、なんという自信、どこをとってもその正しさが証明できるという日蓮大聖人の大確信に触れた思いで驚いたことがあります。
ですがその後いつの頃からか、「無疑曰信」とは疑いなきを信と曰うと、まだここまでなら疑いが無くなった状態を言ってるから昔学んだことと変わりないと思ったが、後に続く解説では何が何でも信じきっていくことが大切なんだと言うことでした。
多分この解釈の違いは昭和52年の第一次宗門問題で起こったことだと思うが、学会流では「疑問が何もかも無くなった時」、第一次宗門問題後は宗門の「何が何でも信じきっていくことが大切」という解釈に学会も変更されたのだろうと推察する。
疑いについては、五鈍使・六根本煩悩・六随眠のひとつとして悪しきことのように説かれる場合が多いが、自宗に対して疑いを持たせない為に説かれたのではないかと甚だ疑問に思う。また仏教に限らず、他宗教においても疑うことは忌み嫌われるのが常である。
知り得たことに疑問(疑い)を持たないでいたら、文化・科学・その他諸々の人類の発展は無かったはずである。
人を救うための宗教が、いつの間にか自らの利得のために、その教義自体をも変質させてしまっているのではないか。これは加上ではなく加悪であるといえよう。
信じることは疑いの心を捨てることでもあり、疑い(疑問)の心が起こらない。
これはもう思考停止状態と言えまいか。
3
:
めぐみっち1
:2005/07/04(月) 20:22:07
突然お邪魔します
ペガサス掲示板から来ました。
信仰って何かをずっと考えてて、つい飛びついてしまいました。
一切の疑いを持たないのは思考停止。
わめさんの言うとおりですね。
わたしが信仰について思うとき、組織を問題にしたくありません。
「キリスト」とか「お釈迦さん」のように思わないと混乱します。
信仰の決め手は、肌に合うか合わないかだと思います。
そして躓きながら「ほんまに大丈夫かな」と思いつつ、
やって行くのが間違いない。
良いことがあれば、汚点とサンのおかげと思って、空回りしたら
「神も仏もあるもんか!」と思う。そんなもんです。
学会活動にばりばりだったころ、上から言われるまま信じて、
げ、と思ったことも打ち消して来ました。
力を抜いて身を任せきったらろくなことはないので、
そういうのは極力止めようと思っています。
大いなる力はあると思います。
けども、ひとつに決め手しまうのは違うような気がします。
やっぱり恥ずかしいなあ。
わめさんごめんなさい。
4
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/07/04(月) 23:06:04
めぐみっち1さん、こっちでもこんばんは〜^^
> 突然お邪魔します
いえいえ、ペガサス掲示板でのご丁寧な挨拶ありがとうございました。<(_ _)> ちょっといじめ気味レスでもしようかと思ったけど、いじめようがないw汗
> 信仰って何かをずっと考えてて、つい飛びついてしまいました。一切の疑いを持たないのは思考停止。わめさんの言うとおりですね。
わめなんて疑問を持たなくなったら頭の中が空っぽになっちゃいますw
あ それはそれで幸せなのかも・・・ ( ゜ ρ ゜ )ボーーーー
> 「キリスト」とか「お釈迦さん」のように思わないと混乱します。信仰の決め手は、肌に合うか合わないかだと思います。
> そして躓きながら「ほんまに大丈夫かな」と思いつつ、やって行くのが間違いない。
むっ難しいww汗 やはり頭の足りないわめには、宗教・信仰は無理w
人間としての釈迦を理解しようとするくらいが限界ですww
> 学会活動にばりばりだったころ、上から言われるまま信じて、げ、と思ったことも打ち消して来ました。
> 力を抜いて身を任せきったらろくなことはないので、そういうのは極力止めようと思っています。
(*゜ー゜)(*。_。)(*゜ー゜)(*。_。)ウンウン
> 大いなる力はあると思います。けども、ひとつに決め手しまうのは違うような気がします。
大いなる力はあるのかもしれませんが、わめには一生見えない気がします。
なので貴方やわめの周りの方たちだけが頼りです。どうぞわめの大いなる力になってください!m(_ _"m)ペコリ
> やっぱり恥ずかしいなあ。
きゃー わめも(/-\*) ハジュカチ…
5
:
祥子
◆Y4utoQzFP2
:2005/07/06(水) 10:58:48
無宗教もんの屁理屈も入ってると思いますが
鰯の頭の信心も壁に向かって祈るも
その一念てすごいって思います
本尊とか拝む対象を前にするてことにこだわらずに
祈るという行為は信じてる信じたいが前提だと思います
日常の中で見上げた太陽にも月にも
通り過ぎる風にも願いをかけて 語りかけることが
けっこう人てしてるし 出来ると思います
学会の本尊に祈る一念も尊いですが
人は奇跡を起こすことはできないけど
奇跡を起こす努力を人はできるって言葉が好きです
(この言葉は古い漫画だけどその中の一説です”七つのエルドラド”(古)
フラシーボ効果とか難しい言葉は説明できないけど
学会員さんも祈って叶うて祈る努力なんだろうなぁ
って想像します
まぁ大抵は世の中 そう簡単に物事うまくいかないってことは
想定内ですが
6
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/07/06(水) 11:31:04
祥子さん、ちょっと早起き(9時♪)なわめです^^
祈る、願う(願望)また、叶うと信じることには、各々その祈る対象が違えど、その祈る事柄に対する意識を強く持っているが故の行為だと思います。
叶うと信じ努力するという意味での「信じる」行為は思考停止どころか、思考フル回転状態なのかもしれませんね。
この意味では信じることすべてが、思考停止を生むといえないと思います。
宗教ではないですが、マフィーの法則などの成功哲学もその一種のように思います。
祥子さんの言うように、祈ること、そこには悩み苦しみまた努力し、知りえる範囲において必要な知識を求め吸収し、願いを叶えようとするところが大切だと思います。
ただ宗教や占い師の怖いのは、信じるもののその願いを、自らの利得のために利用(金銭・自組織振興活動等)し、それに疑いを起こさせるような思考を止めようとすることです。
わめも祈る・願う行為は良いことだと思います。
なにより女性の純粋に祈る・願う姿は素敵です^^
貴重なご意見ありがとう。<(_ _)>
7
:
みれい
:2005/09/10(土) 02:46:56
例え話でいい事を聞いたことがあるので(^^)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
恋人同士の彼女は、彼が100パーセント浮気をしないと信じていた。
ところが、彼の浮気が発覚した際、彼女は大きくショックを受け、遺書を残し自殺してしまった。
彼女の母親はひどく悲しんでシスターのもとを訪ね、遺書を持ち、問うた。
「娘は純粋がゆえに死ななければならなかったのでしょうか」
シスターは言いました。
「100パーセント信じるというのは相手に負担をかけます。
人は、間違う事もあるし、迷う事もあるし、時に過ちも犯すことだってあります。
信じるというのは98%くらいでいいのです。
では、残りは疑う事をせよというのか、というとそうではないのです。
残りの2%は「許す」ということです。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実際のシスターの説法を聞いててなるほどこれは学会では聞いたことがない話だ、と思いました。
ちなみにこのシスターの説法は日本のお寺で行われました。
(当時は「え〜!仏教の寺でキリスト教の法話?しかもカトリック?」といささかカルチャーショックだったのですが、十字架切る姿と合掌する姿の融合は、なかなか感動的でしたよ)
とてもいい話がたくさんあって、勉強になりました。
「信じ方」ってだいじなのですね。
8
:
フルナ
:2005/09/10(土) 06:39:53
>>7
おはようございます。
みれいさん、いいお話をありがとうございました。
9
:
みれい
:2005/09/11(日) 02:22:24
フルナさん
いえいえ^^こちらこそいままでいつも読ませていただいておりました。
日本であのような宗教コラボな公演が見れてよかったです。
何宗とか何教とか、○○教っていうのはあくまでブランド名みたいなもので、
後世に伝えたい事の根本というか、みな目指すところはそんなに離れていないのだなァと思いました。
なぜならキリスト教の教えなんてほとんど知らなくてもあのシスター
(
http://www.yamatocalvarychapel.com/topic/watanabe.html
)
の話は感動したし、逆に日本の尼僧さんの説法にシスターが聴講に来たりしてました。
そんなご縁でキリスト教会のステンドグラスも眺めてきました。
特に西日がステンドグラスに当たる教会が、如来か天使が降りて来そうなほど綺麗でデートにもお勧めです^^
「信じ方」も禅宗では「疑心、疑心、大疑心!」とか、
「不信」「不審(これは禅の文献では「こんにちは」という意味だそうですが)」など、
なんとも徹底的に覚めて見ることを教えるようです。
どこまでも捨ててナンボだったり、マイナスの哲学というのか、自分を自分で突き放す大人の宗教という感じです。
日本のお寺は時代とともにだんだん悪くなっていったのかな、と思っていたら、悪いのは今始まったことでなくて、昔からなまぐさボウズはたくさんいたそうで(痔という字も坊さん達が、女人禁制ならと男色に皆走っていた結果出来た文字だそうでw大事な文献とともにおバカエピソード話もしっかり残っているようですw)。
逆に今でも本物のお坊さんは確実に存在しているようです。
葬式ビジネスだけで説法もろくにない寺の方が圧倒的に多く、当然そんなことで昔ほどの需要はないので淘汰も始まっているようですが。
10
:
フルナ
:2005/09/11(日) 09:09:17
おはようございます。
みれいさん
>後世に伝えたい事の根本というか、みな目指すところはそんなに離れていない
ぼくの持論と同じですね。法華経の一仏乗の視点からすれば、キリスト教も(教えのすべてではないにせよ)包含されてしまうと。
特に、仏教とキリスト教との共通点を示すキーワードは「慈悲」だと思います。
>>7
の書き込みにもそれが感じられます。テーラワーダでも、心を育てる根本は慈悲だと説いていますし。
「生きとし生けるものは幸せでありますように」いいことばだと思います。
11
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/13(火) 15:18:16
みれいさん、皆さん、こんにちは。^^
>>7
短絡速レスなわめらしくもなく、みれいさんのお示し下さった例え話を、「信じる」と言うことからじっくり考えてみました。
でも信じるって一体どんなことなんだ?とか、色々考えてもみたのですが、結論は出ませんでしたw爆
ってことで、そんな小難しいことは置いといてぉぃwレスします。(^^;;
まず100%信じるって以外と難しいじゃないかと言うのが、まずひとつの感想です。妄信では定評のある?w学会バリさんでも、100%信じている方が果たしているのか疑問で、わめ的には「100%信じる」ことができる方は病的なのじゃないかと思ってしまいます。98%でも病的に思いますけどw
ふたつめの感想は、わめの好きな”縁起”で考えると、世の中すべて関係性であり、無常であるわけで、この例えで言えば、無常であるものを変わらぬものと信じてしまったことが、不幸を招いたと言えるのではないかと思いました。
以上、こんなに時間の空いたレスなのに、これだけのコメントになってしまいましたw涙
12
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/13(火) 15:50:10
思ったことを忘れないようにここにメモ書きw
無常と、何か信じることとは相反するのかな?
あるいは世の中無常だから、何か信じることも必要なのかな?
わめ的には、信じないことから見える景色って、とってもいい感じなんだけどな。^^
13
:
みれい
:2005/09/13(火) 17:17:58
わめさん
>98%でも病的に思いますけどw
その部分に着目するのが形而上好きのわめさんらしい視点かもしれません^^
そもそもそこに食いつくと「100%を何を基準とするか」から定義しないと始まらなくなってしまいます。
>わめ的には、信じないことから見える景色って、とってもいい感じなんだけどな。^^
これ、いいことだと思います。もし常に人を疑ってかかるとしたらとても失礼な話ですが、わめさんは多分禅ぽい思想を独自で身につけたのかも。
覚めたところから見る世界はさぞかし冴え渡る事でしょう。
・・・信じないと信じてたりして。
大丈夫と思うけど、哲学好きにありがちな「相手がどんな気持ちか」より「わが思考の為の思考」の脳内マスターベーションになりませんように。
ここではパーセンテージの問題ではなく(いわばそれはその妄信した女性の母親への方便でしょう)、信じる中にも常に冷静な自分を保つ事、相手への思いやりを持つ事、寛容性を説いた話ではないかと。
いってみれば釈迦の説法と同じ事言ってます。
フルナさんそんなダンマパダありますよね。きっとキリスト教でも説いていると思います。
盲目的に信じるのは病的な気質もあるかもしれませんが、すべて病気と決め付ける事もないと思いますよ。
単に経験や知識不足ということもあると思います。
私の知り合いでは「若い頃は本気でアイドルはウンチしないと思ってたよ」なんて人もいますw
初恋の時はだれだって周りが見えないくらい惚れ込んじゃう楽しさ味わうでしょ?ないですか?
恋愛も失恋や失敗の経験を積んで相手とのバランスをとるように、信じ方も間違う事はあると思います。
よく考えれば(これが覚めてみるということに繋がると思いますが)わかることも、盲目になってしまうことは人間あると思います。
その状態を仏教だと無明と呼ぶのでしょう。
信じすぎてもよくないし、疑い続けてもきりがない、ほどほどを覚えるのが大事ということかと。
それが相手のためにもなり、自分の為にもなればいいのではないでしょうか。
>ふたつめの感想は、わめの好きな”縁起”で考えると、世の中すべて関係性であり、無常であるわけで、この例えで言えば、無常であるものを変わらぬものと信じてしまったことが、不幸を招いたと言えるのではないかと思いました。
これはまったく同感です。
彼女が死ぬ前にわめさんの縁起の話が届いてれば、彼女は死なずに済んだでしょう。
無常だからこそ、それを信じ、救われる人が出てくることでしょう。
14
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/13(火) 17:54:47
みれいしゃん、お返事来た〜♪
「100%を何を基準とするか」というか、信じることってなんだろう?って、その定義を調べるというか考えてて、これだけレスが遅れちゃったのですw(^^;;
> 覚めたところから見る世界はさぞかし冴え渡る事でしょう。
これはちょっと説明が難しいのだけど、人も世界もある瞬間を写真に撮ったものと言えばいいのか、撮った瞬間にもうそれは今じゃないというか・・・
だからアルバムを見て、当時を思い出してニヤついたりするのとちょっと感覚的に似てるかもw
> ・・・信じないと信じてたりして。
わめ的には、信じるとか信じないとかの意識が弱いというか・・・ だから対称的な禅ぽい?疑って掛かるといったことも意識が弱いかもw汗
これは”信が弱い”対”疑心も薄い”かな?
> 大丈夫と思うけど、哲学好きにありがちな「相手がどんな気持ちか」より「わが思考の為の思考」の脳内マスターベーションになりませんように。
むっ、難しいことはわめには分からないかもw
わめには特に「わが思考の為の思考」の”わが”ってのが、自分のどこにあるのかよく分からないし。涙
みれいしゃんの、知り合いの話や初恋の話面白いw笑
わめもレスする前に、こんなことも考えてたのですよw でもこれって信じると言うより、入れ込んでるというか、萌えているように思いますw爆
”萌え”対”覚めてる”とか、”熱”対”冷”みたいなw
> 彼女が死ぬ前にわめさんの縁起の話が届いてれば、彼女は死なずに済んだでしょう。
ここ!、ここなんです!!(笑
「縁起の話が届いてれば」は届くことで、信じることとは違うと思うのです。^^
無常は、エントロピーの増大と言うか、時間の経過=無常があるわけで、時間の矢が逆転しない限りはどうしようもなく世の中無常で、”信”対”疑”が入り込む余地がないと思うのです。
(と言いながら、SF大好きなわめなのですがw爆)
15
:
みれい
:2005/09/13(火) 22:22:07
禅は疑ってかかっても、そこで終わりではないようです。
>萌えているように思いますw爆
あはは。リビドーw?煩悩w?
それも信じる動機にはなりうるということですね^^
入れ込むにはある程度「信」がないと出来ないです。
信念も何かの動機があって突き動かされ、岩をも貫くような思いもかけないパワーを生むわけですね。
そこで何をどう信じてゆくかが大事になってくる。
>無常は、エントロピーの増大と言うか、時間の経過=無常があるわけで、時間の矢が逆転しない限りはどうしようもなく世の中無常で、”信”対”疑”が入り込む余地がないと思うのです。
エントロピーを出されると、答えは「正解がない」になってしまいませんか?
(エントロピーをお互いどう捉えてるかにもよりますね)
そうなると続かないのでお聞きすると、無常だとなぜ入り込む余地がないのですか?
無常ゆえ信も生まれ、疑も生まれてもおかしくない気がします。また滅することも然り。
私が教わった縁起では、
縁起の中の時間的縁起を諸行無常、空間的縁起を考えた時を、空間を時計に例えて、
・一即一切・・・ひとつの部品はすべての働きに影響するということ
・一切即一・・・すべての働きがあってこそひとつの部品も健やかに動いているということ
この二つを合わせて諸法無我と言うそうです。
「はし桶盤全をまわす」という例えがあって、水を入れた桶に、わめさんがはしでぐーるぐーるまわすと、
やがて桶の水全部がぐるぐる動き出すように、わめさんの働きがすべてに影響を及ぼしてゆく。
というわけで縁起ゆえわめさん(だけでなくすべてがですが)の思考し選択した行動が影響し世の中のすべてのものに働きかけてゆくでしょう。
簡単に言うと風が吹けば桶屋がもうかる、ですねw
16
:
みれい
:2005/09/13(火) 22:24:05
ああ、スレッドずれたかも・・・すみません。
17
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/13(火) 22:52:20
みれいしゃん、やっぱり信じるってことの定義が必要かも?w汗
ってことで微妙なラインのお話はちょっと置いといてっと。^^
> そうなると続かないのでお聞きすると、無常だとなぜ入り込む余地がないのですか?
> 無常ゆえ信も生まれ、疑も生まれてもおかしくない気がします。また滅することも然り。
無常だから(じゃなくてもかも)信も疑も生まれるのは分かります。^^
でも無常自体を信じるとか疑うとかではないと思うのですが・・・w
また同じく縁起もそうだと思うのですが、信じるから”ある”とか、疑うから”ない”と言うのもではなく、縁起も無常も”信疑”に関係なく、この世界の有り様だと思えないでしょうか?
18
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/13(火) 23:15:38
みれいしゃん、言葉足らずわめです。(^^;;
>「縁起の話が届いてれば」は届くことで、信じることとは違うと思うのです。^^
届くというのは”知る”と理解してもらえばいいのかもしれませんが、無常だと言うことは、信じるとか疑うとかの問題じゃなく、世の中の有り様であり、”知る”ことでこの例え話のような不幸は起こらなかったのではと、わめは言いたかったのです。
余談になりますが、わめはエントロピーの増大と言うか時間の経過が、無常を引き起こしていると思うわけです。
時間が止まったり、逆転すれば、無常はなくなってしまうのではないかな?と言うわめの仮説です。^^
19
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 00:04:26
みれいしゃん、わめです。^^
> 信念も何かの動機があって突き動かされ、岩をも貫くような思いもかけないパワーを生むわけですね。
> そこで何をどう信じてゆくかが大事になってくる。
わめは「何をどう信じてゆくか」が、何かの執着を生みそうで怖いです。(^^;;
それより”何かの動機”について、それはどうして生まれたのか、それは自分にとって必要なことなのか?等を、しっかり考えてみたい気がします。
在るものはちゃんと五蘊で確かめて知って、五蘊で確かめられないものは、取り合えず無いことにしてしまうのが、いい感じかなって思っちゃいますがダメかな?
20
:
みれい
:2005/09/14(水) 02:25:13
わぁレス早っ
>届くというのは”知る”と理解してもらえばいいのかもしれませんが、無常だと言うことは、信じるとか疑うとかの問題じゃなく、世の中の有り様であり、”知る”ことでこの例え話のような不幸は起こらなかったのではと、わめは言いたかったのです。
>また同じく縁起もそうだと思うのですが、信じるから”ある”とか、疑うから”ない”と言うのもではなく、縁起も無常も”信疑”に関係なく、この世界の有り様だと思えないでしょうか?
それはあくまでも縁起を信じるわめさんの世界観では?
有神論者に縁起を説いても、輪廻を信じている人にも、にわかには通用しないと思います。魂についての説明も必要になってきますし。
逆にわめさんは神の存在を知る必要がある、と言われるかもしれません。
知るのは大事だと思います。けれど知るだけでは足りるかもしれないし、足りないかも、です。
やはり「信じる」ことも必要になってくるのではないでしょうか。
話した内容を信じるのか、はてさて話した人を信じるのか。
信じなくても知る事で無意識の中に蓄えられ、やがて表層意識に作用してゆくことがあり、それが重要になってくると思います。それがいつなのか、どう作用するかはわからないですね。また作用すると信じて法を説いてゆくのではないかと。
http://www.nagaitosiya.com/a/emancipation.html
ここのコラムのコメントの下のほうにエントロピーと宗教の融合が話されています。
有神論者にすれば仏教はその中におさまってしまうようで^^
それもいいかもしれません。
ほかにもあちこちでエントロピーと宗教の融合を図るサイトが見受けられますね。
やがて世界観も宗教観も変わってゆくのでしょうね。
>わめは「何をどう信じてゆくか」が、何かの執着を生みそうで怖いです。(^^;;
ここは前から気になっています。ここだけはわめさんがとても感情的に反応する気がするんです。
わめさんにとって意外と重要な部分かもしれません。
>それより”何かの動機”について、それはどうして生まれたのか、それは自分にとって必要なことなのか?等を、しっかり考えてみたい気がします。
わめさんのコメントを読んでとても大事なことだと思いました。
>在るものはちゃんと五蘊で確かめて知って、五蘊で確かめられないものは、取り合えず無いことにしてしまうのが、いい感じかなって思っちゃいますがダメかな?
ああ、それもありですかね?
そういえば、気のせいの「気」ってなんでしょうね?
21
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 03:29:43
> わぁレス早っ
☆^∇゜) ニパッ!! この後のみれいさんのレスは予想してましたw笑
睡魔が襲ってきてますので、今夜はこれ一点だけのレスになるかもです。<(_ _)>
> >わめは「何をどう信じてゆくか」が、何かの執着を生みそうで怖いです。(^^;;
>
> ここは前から気になっています。ここだけはわめさんがとても感情的に反応する気がするんです。
> わめさんにとって意外と重要な部分かもしれません。
バ、バレタカw ってここのスレタイコメント
>>1
でもありますけどw爆
以前どこかで信じることの功罪について書いたかと思いますが、
わめは、ず〜〜〜っと昔より現在に至るまで、宗教とか思想を”信じる”ことで、人は苦しんできたのではないかと思っているのです。(信じることの罪の部分)
このことは、みれいしゃんには詳しい説明など不要だと思いますので、はしょりますが。笑
わめは、当人だけを捉えた場合、理性で自らをコントロールできる方が、信じることを活用されることは悪いこととは思いません。
その意味では、理性のコントロール範疇で、一元論的(神や真我や輪廻)な事柄を、心情的に信じることもアリかもと思っています。(理性配下では一元論も止揚可かも)
ですが、世の中縁起であるわけで、その影響は成熟(理性で自らをコントロールできる)しきっていない方に、多大な影響を与えてしまうのではないかと危惧するわけです。否、意図的に悪用する方も事実いるのじゃないかとw
信じる行為自体を回避しながら、人が円滑に、またあわよくばそれ以上に、充実した人生を送れればいいんじゃないかとのわめの思いがあるのです。
ここで言う信じる行為とは、合理・論理性に欠けるモノへの強い信仰心を指していることで、それ以外は信じることの代替として、理性・知性で補えるのではないかと思ったりしています。
しかし・・・ みれいしゃんは騙せないなw m(。_。;))m ペコペコ…
批判的意見は大いに歓迎ですので、このことにコメントをいただければ幸いです。<(_ _)>
22
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 03:37:36
> ここで言う信じる行為とは、合理・論理性に欠けるモノへの強い信仰心を指していることで、それ以外は信じることの代替として、理性・知性で補えるのではないかと思ったりしています。
あ、わめがとっても大切に思う覚悟が抜けたw汗
覚悟・理性・知性で補えるのではないかと思ったりしています。
23
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 04:12:40
> ここのコラムのコメントの下のほうにエントロピーと宗教の融合が話されています。
わめの言うエントロピーの増大とは、エントロピーそのものを指しているのではなく、時間の矢(時間は過去から未来へ流れていく)の方向は、宇宙自体、エントロピーの増大をしているからと言う程度の意味で使っています。つまりは不可逆変化(元の状態に戻ることの稀さ)=無常、との捉え方です。
24
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 05:47:16
みれいしゃん、
>>21
のわめの姿勢のまま&寝る直前でのコメントです。^^
> それはあくまでも縁起を信じるわめさんの世界観では?
わめは縁起(世の中のモノすべてが依存関係)を信じているわけではなく、客観的事実と捉えているのです。みれいしゃんがここで言う、世界観の世界みたいなものではないでしょうか。『客観的事実として世界がある』
だから縁起が客観的事実でないと解せるなら、その時は縁起を客観的事実ではないと、わめの思考から少しつらいですが排除するだけなのです。
客観的事実を信じる必要は無いと思いますが、疑う必要も無いと思うのです。
一々無数にある客観的事実を、信じる信じないで論ずる必要を感じません。
むしろ客観的事実の中で生きていながら、その客観的事実を”何かを信じる”ことによって受け入れられない方々の思考にこそ、問題があるように思うのです。
客観的事実を認めながら、その上で心情を膨らませ、何を信じるかは個人の自由ではあると思いますが、また客観的事実を個々人の中で否定するのも自由かもしれませんが、できることなら他者に対して、客観的事実を否定するような影響は与えて欲しくないとわめは願います。
このわめの願いも偏った思考なのかもしれません。(多分偏った思考なのでしょう)
このわめの思考が、他者に害を及ぼすなら速やかに改めたいと思いますので、みれいしゃんに限らず、どなた様からでもご指摘頂けたらありがたいです。<(_ _)>
25
:
みれい
:2005/09/14(水) 13:04:29
わめさん、いつもパソコンの近くにいるのですか?
>覚悟・理性・知性で補えるのではないかと思ったりしています。
聞けば聞くほどわめさんの目指すところは偶然の一致か、禅の思想に似てます。
そもそも禅が宗教ではないといわれるゆえんと同じではないかと。
日本の禅宗はちょっとちがうのかもしれないけれど。
なので「先入観」かもしれませんが、わめ思想はとても好きです。けれど、何か足りない。
まだ途中という感じです。
>わめは縁起(世の中のモノすべてが依存関係)を信じているわけではなく、客観的事実と捉えているのです。みれいしゃんがここで言う、世界観の世界みたいなものではないでしょうか。『客観的事実として世界がある』
>客観的事実を信じる必要は無いと思いますが、疑う必要も無いと思うのです。
一々無数にある客観的事実を、信じる信じないで論ずる必要を感じません。
これはわめさんが縁起を頭で理解でなくいつのまにか体得したからそう思えるのでは?
体得するまでは信じてついてゆかないとその境地にはいかないと思うのです。
わめさんは賢くて知ると同時に体得したのかも。
縁起を説く般若心経を読んでいても現世の長さのものさしでしか見ていないと、縁起のぴんと来ない人は多いです。
>むしろ客観的事実の中で生きていながら、その客観的事実を”何かを信じる”ことによって受け入れられない方々の思考にこそ、問題があるように思うのです。
確かにここは大事かも。そしてその問題をどうするか、ですね。
ちなみに>>24の「縁起」を「南無妙法蓮華経」に置き換えると、学会員に似てる印象です。
>バ、バレタカw ってここのスレタイコメント
>>1
でもありますけどw爆
う〜ん、ここだけわめさん「楽しくなさそう」なの。気のせいかな。
>他者に害を及ぼすなら速やかに改めたいと思いますので、みれいしゃんに限らず、どなた様からでもご指摘頂けたらありがたいです。<(_ _)>
害を及ぼす影響はわかりませんが、いい社会を願うわめさんの影響は限りなくあると思います。
あと、エントロピーの捉え方でさえ万別なので、思想の統一はなかなか大変だと思います。
皆、自分の得た価値観を知らせたいし、見出したいし、知って欲しいし、理解されたがっています。
「人の価値観を本当に理解し認めようと努める事」の方が案外難しいのかもしれません。
試しに有神論者の掲示板に書きにいってみてはいかがでしょうか?もしかするとすごい展開が待っていたりして。わめ思想世界に羽ばたく、なんて。
その際はぜひ結果ご報告ください。
26
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 13:54:54
みれいしゃん、わめです。^^
> わめさん、いつもパソコンの近くにいるのですか?
仕事&趣味が、PCでありネットな訳で、何処にいてもキーボードが目の前(寝室で横になりながらもキーが叩けますw)です。涙
> けれど、何か足りない。まだ途中という感じです。
足りないし、途中でもあると自分でも自覚してます。^^ これはどこまでいっても、死ぬまでそうかもしれないとも思っております。
> う〜ん、ここだけわめさん「楽しくなさそう」なの。気のせいかな。
いえ、マジで楽しいですよ。というかうれしいです。
> これはわめさんが縁起を頭で理解でなくいつのまにか体得したからそう思えるのでは?
わめが、縁起と「世の中のモノすべてが依存関係」を結びつけて表現することが、悪いのかもしれません。
ですから縁起と言う言葉を用いて「世の中のモノすべてが依存関係」とするのではなく、縁起と言う仏教用語を無くして、ただ「世の中のモノすべてが依存関係」であり、それが客観的事実と思うし、みれいしゃんが世界観と書いた”世界”も、誰もが(例外もあるでしょうが)理解しうる客観的事実と同じではないかと言いたかったのです。
「世の中のモノすべてが依存関係」は、文字通り宇宙と言うマクロから観ても、量子力学的なミクロから観ても(その観測・測定機器、観測者等さえも)、「世の中のモノすべてが依存関係」という答えが出てしまっているように思いませんか?
このような思考から、「世の中のモノすべてが依存関係」=客観的事実とみている訳で、ですのでこれは(縁起ではなくて)体得とか信じるとかの問題ではないように思います。
ただ、みれいしゃんがおっしゃっているように、客観的事実であっても人それぞれ価値観が違うわけで、価値観についてここで論じようとは思いません。
んでこのスレのテーマに戻って、客観的事実は知ることでそれを理解も活用もでき、信じる・疑う対象の不確かなものとを、同列に扱うことは避けたいし、区別したいと思うのです。
27
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 14:03:40
みれいしゃん、またまた意図するところを汲んでなかったわめです。(^^;;
> けれど、何か足りない。まだ途中という感じです。
何かが欠如しているのではないかとの指摘を、柔らかく表現されてるのですね?(*´∇`*)
わめの思考には、何かが欠如しているだろうと思っています。
まだ模索・思索中でもありますし、みれいしゃんや他の方との意見交換で、わめの欠如部分や、誤謬等を見つけ出せたらうれしいです。^^
28
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 15:17:40
事実としてある現象に名称(言葉)を付けたのであって、名称から現象が生まれるわけではないと思いますが、その現象に付けた筈の名称が、その現象から離れて一人歩きしていくのは怖いですね。
無常・無我も、それらが指し示す現象(無我は非現象)側から見た場合、客観的事実か否かについて、
・現実存在(現象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するもの。(無常)
・人から肉体を取り払ったら、現象として捉えられるものは何も無い。(無我)
この程度の無常・無我の解釈なら、客観的事実と認められると思うのですが。
ですのでわめは、その現象(無我は非現象)の名称としての縁起・無常・無我は、客観的事実であって、信疑で論ずるものではないと思うのです。
極論を言えば宗教でもなく、信仰対象でもないと。
29
:
みれい
:2005/09/14(水) 16:41:55
わめさんどうりでチャットのように早い。
>マジで楽しいですよ。というかうれしいです。
何よりです^^こちらこそお勉強させてもらってます。
>「世の中のモノすべてが依存関係」は、文字通り宇宙と言うマクロから観ても、量子力学的なミクロから観ても(その観測・測定機器、観測者等さえも)、「世の中のモノすべてが依存関係」という答えが出てしまっているように思いませんか?
科学者でも相互依存とミクロとマクロのその先に神を見出す事はあります。まだまだわからない世界はたくさんあるわけで。
そもそも神の視点から科学や量子力学的を語ることも可能だと思います。
だから、私が賛成でも人によってはわめさんの答えが当てはまらないし、最終地点ではないわけです。
「霊性」をいかに説明するかにかかってくるかもです。
>信じるとは言わない=当たり前のこと、常識的なこと、誰もが認めること、理論的に証明されていること。
「当たり前」も「常識」も「誰もが認めること」も「倫理で証明」も、
国や時代が変わればすべて変わります。
私たちはそれを当たり前と信じているだけに過ぎないはずです。
それらをマインドコントロールを出すとややこしいので
やっぱり「パラダイム」の登場になってきます。
皆がわめさんの「当たり前」という世界の中へパラダイムシフト(価値観の転換)が起これば、それは信じる信じないでなく「当たり前」になる、というだけです。
>わめの思考には、何かが欠如しているだろうと思っています。
欠如ではなく、まだ覚醒してない部分があるのだと思います。
すべてはすでに備わっているのではないでしょうか。
ちょっとマトリックスみたいになってきました(^o^)
まだ人間の脳はすべて解明していないようです。
30
:
みれい
:2005/09/14(水) 16:52:19
>・現実存在(現象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するもの。(無常)
・人から肉体を取り払ったら、現象として捉えられるものは何も無い。(無我)
この程度の無常・無我の解釈なら、客観的事実と認められると思うのですが。
ですのでわめは、その現象(無我は非現象)の名称としての縁起・無常・無我は、客観的事実であって、信疑で論ずるものではないと思うのです。
極論を言えば宗教でもなく、信仰対象でもないと。
確かにそうですが、それで満足できれば、皆信仰を求めないはずです。
そこに留まらせても留まらないから信仰心があり、宗教があるんじゃないかしら。
宗教のはじまりがそもそも見えないものへの恐れ、日本では祟りだったと思います。
そこを納得させられれば、信仰も宗教もなくていいものかもしれません。
31
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 17:39:13
みれいしゃん、流れが変な気がするわめです。(^^;;
そこでちょっと整理させてくださいね。<(_ _)>
わめは宗教・信仰が無くなればいいとは思っておりません。(功罪がある)
その罪部分で苦しまれている方を、何とか少なくできないかと思索しているのです。
みれいしゃんのコメント
>>29
>>30
では、人は客観的事実だけでは満足できないから、信仰に走る方がいるとのご意見は、その通りかもしれません。
それに客観的事実を認めた上で尚、その向こうや、それらの根源や、それらを超越した神のような存在があると思われている方もおられるようですし、そのようなことを揶揄するつもりもありません。
これは
>>24
で、『 客観的事実を認めながら、その上で心情を膨らませ、何を信じるかは個人の自由ではあると思いますが、また客観的事実を個々人の中で否定するのも自由かもしれませんが、できることなら他者に対して、客観的事実を否定するような影響は与えて欲しくないとわめは願います。』と言ってるわけです。(宗教が罪を作らないように)
客観的事実は、信疑で論ずるものではない。
以上のわめのコメントについて、いかが思われるでしょう。
32
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 18:12:38
>>1
は半年以上も前に書いたことなので、当時のわめの思いがどうだったのかちょっと思い浮かべてみましたが・・・
> 皆がわめさんの「当たり前」という世界の中へパラダイムシフト(価値観の転換)が起これば、それは信じる信じないでなく「当たり前」になる、というだけです。
わめの当たり前は、みれいさんの言われる
> 「当たり前」も「常識」も「誰もが認めること」も「倫理で証明」も、
> 国や時代が変わればすべて変わります。
> 私たちはそれを当たり前と信じているだけに過ぎないはずです。
↑と同じです。ただ、この当たり前・・・を、誰もがそう思っているから、わざわざ『思ってる・信じる』とは言わないのだと思いますし、当たり前・・・が正しく(国や時代が変わればすべて変わるのだからあり得ないけど)て、『信じる=願望、未確定、曖昧、証明できないこと。』が、間違っていると言ってるわけではありません。
何をどのように信じるかがポイントで、智慧を得るための信は良いけれど、智慧が奪われていく信(思考停止かな)は良くないと言ってるわけですね。(多分w)
33
:
みれい
:2005/09/14(水) 19:05:36
ああ、そうなんですか。すみませんちょっと飛び出しました(^o^)
>客観的事実は、信疑で論ずるものではない。
以上のわめのコメントについて、いかが思われるでしょう。
わめさんの書き込みのとおり、相手が客観的事実を否定するような影響を与えそうな場合に可、だと思います。
>何をどのように信じるかがポイントで、智慧を得るための信は良いけれど、智慧が奪われていく信(思考停止かな)は良くないと言ってるわけですね。(多分w)
そりゃぁ良くないですね。ん?多分て?
ここが難しいところですよね・・・
妄信、思考停止に関しては、
http://homepage1.nifty.com/eggs/narcis.html
自己愛性人格障害
http://homepage1.nifty.com/eggs/
境界例と自己愛の障害からの回復
があるように、宗教団体の教義が問題である場合もあると思うし、
信じる個人の問題である場合もあると思います。
私なんかは依存症の親から生まれて、やっぱりばっちり依存症を患ったので、妄信するバリバリさんの気持ちもとてもよくわかります。
なぜそこから抜けたかというと、きっかけがあったわけですが、やはり外から与えられた「情報」と「安心感」です。
私はたまたまあることで教義に疑問を持ち、心理学の本(ユングの「人間と象徴」)で無意識に着目し、カウンセリングに通った事ではじめて宗教に距離を置く事が出来ました。
とても時間がかかりました。
最近は宗教に関して疑問を持つ人がブログに書き込むようになって、そういった疑問を第三者が見ることによって情報を得られます。
そこに共感が生まれれば、信仰にしがみつく必要もないわけで、
少しずつ少しずつ、昔ほど妄信することはなくなってきているのではないかと思うのです。
34
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/14(水) 21:34:13
みれいしゃん、こんばんは〜なわめです。^^
> 私なんかは依存症の親から生まれて、やっぱりばっちり依存症を患ったので、妄信するバリバリさんの気持ちもとてもよくわかります。
わめも、学会依存の親で内向的(ユング論的)な母親に、幼少の頃から放任されて育ったような感じです。(^^;;
> なぜそこから抜けたかというと、きっかけがあったわけですが、やはり外から与えられた「情報」と「安心感」です。
やはり「情報」と「安心感」は重要なポイントのようですね。
わめは情報も、なかなか受け付けませんでしたがw笑 o( ̄ー ̄θ★ケリッ!
「マインドコントロールについて」は読ませて頂きました。^^
http://kangaeyou.hp.infoseek.co.jp/925_1057634332.html
> 最近は宗教に関して疑問を持つ人がブログに書き込むようになって、そういった疑問を第三者が見ることによって情報を得られます。
> そこに共感が生まれれば、信仰にしがみつく必要もないわけで、
> 少しずつ少しずつ、昔ほど妄信することはなくなってきているのではないかと思うのです。
そうですね、ブログやネットが素晴らしい働きをしているように思います。
今回の衆議院選挙で、公明党3議席減もその影響があったのかもしれません。♪
35
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/15(木) 04:28:11
みれいしゃん、?に対するお返事を忘れてました。<(_ _)>
> >何をどのように信じるかがポイントで、智慧を得るための信は良いけれど、智慧が奪われていく信(思考停止かな)は良くないと言ってるわけですね。(多分w)
>
> そりゃぁ良くないですね。ん?多分て?
多分は、
>>1
これを書いたのが半年以上の前ですので、当時のわめがどう考えてたかを思い浮かべながら書いたので、少し自信が持てなくて(多分w)を入れました。(^^;;
それと、
> ここが難しいところですよね・・・
が、何を指す言葉なのかが謎っぽくて眠れませんw(ってもう寝ますけど。爆)
36
:
みれい
:2005/09/15(木) 11:33:22
わめさん
「創価学会をみんなでかんがえよう」の頃は、時々バリバリさんが訪れては同じパターンでお話して、毎回アンチ側に疑問を投げられて、そうすると皆同じところで同じように感情むき出しになって、やがて消えていきました。
そのバリバリさんの反応パターンがあまりにも同じでゾッとしたことがあります。
でも後半だんだんバリバリさんもいなくなって、話の通じる学会員さんや、疑問を持った学会員さんが内部について話していたのでとても参考になりました(私が行けなくなってしばらくしてからまた荒しっぽくなってたみたいですね)
その頃の書き込みがご縁で今こうしてわめさんの掲示板にお邪魔しております。
他は何の個人情報も知らない二人がネットで繋がるのはなんとも不思議なものです^^
ちなみにその頃のわめさんその掲示板の存在知ってましたか?
そういえばその頃鬼太郎さんという感性豊かな哲学好きの人がいました。
わめさん話が合う方かもしれません^^
>> ここが難しいところですよね・・・
>が、何を指す言葉なのかが謎っぽくて眠れません
「良くない」とわかって、「さてどうするか」「ならばどうするか」、そこが難しいとおもうわけです。
答えが一つじゃないから、皆がそれぞれ自分で答えを見出して行く。
それを思考停止した人にいかに伝えるか、ということ。
たぶん私がまだバリバリ中だったらブログなんて見ずに、また見た所で学会の色眼鏡はすぐにははずれないでしょうし。
ブログをみて考える余裕のある方は問題ないんじゃないかと思うのです。
37
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/15(木) 13:48:55
みれいしゃん、こんにちは。^^
> そのバリバリさんの反応パターンがあまりにも同じでゾッとしたことがあります。
「創価学会をみんなでかんがえよう」のログは、以前少し覗いてたように思います。^^
でも当時は自分の中のバリさんとのせめぎ合いで読んでましたから、今とはまた違った受け止め方ができます。
そうそう、Poh師匠からメールで色々アドバイスを頂いているのですが、「創価学会をみんなでかんがえよう」のいくつかのスレも紹介され、今この「バリバリさんの反応パターン」に遭遇中ですw爆
> その頃の書き込みがご縁で今こうしてわめさんの掲示板にお邪魔しております。
> 他は何の個人情報も知らない二人がネットで繋がるのはなんとも不思議なものです^^
お互いに、知り合っても知り合ってなくても、無関係に生きているわけじゃないってことかな・・・
今まだ知り合ってない方と出会う前に、その方と自分とは既に何かの形で影響を与え合ってたりしてね。笑
> ちなみにその頃のわめさんその掲示板の存在知ってましたか?
進行中当時は知りませんでしたね。知ってたのかもしれませんが、当時わめもバリでしたからw汗
> そういえばその頃鬼太郎さんという感性豊かな哲学好きの人がいました。 わめさん話が合う方かもしれません^^
あ、今掲示板ログ読んでますから出会えるかもしれません。♪
> 答えが一つじゃないから、皆がそれぞれ自分で答えを見出して行く。
> それを思考停止した人にいかに伝えるか、ということ。
みれいさんと最近お話をさせてもらって、今ね、自省的に思うことがあって、それは独善は (・∀・)イクナイなのですよ。 思考停止されている方達は、この独善的思考・信念をもってしまっているのじゃないかと・・・ と、同時にわめも、思考停止はしていないものの、独善的思考に陥りやすそうな自分を発見してしまいましたw怖
> たぶん私がまだバリバリ中だったらブログなんて見ずに、また見た所で学会の色眼鏡はすぐにははずれないでしょうし。
これ、上に書いた「当時わめもバリでしたからw汗」みたいなもんですかね。(^^;;
38
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/15(木) 16:59:06
みれいしゃんに、お返事追加w♪
> たぶん私がまだバリバリ中だったらブログなんて見ずに、また見た所で学会の色眼鏡はすぐにははずれないでしょうし。
これはわめも学会教学を独善的に信じていた頃を思いだしますし、その反動?としてまた逆の方向の独善的な思考に陥りそうになるしで、その影響はなかなか抜け切りません。涙
というかわめには、元々独善的になりやすい要素(性格・思考)が強いのかもしれませんが・・・
でも、客観的事実と信仰心、理性と心情、意識と潜在意識みたいなことは、独善的にならないように気を付けながら、今後も思索していこうと思っています。
> ブログをみて考える余裕のある方は問題ないんじゃないかと思うのです。
人それぞれバリ度に差異は感じますが、大まかに考えればそうなのかもしれませんね。^^
でもそのような方も、リアルでも影響を与えていくだろうし、その意味においても今後に期待感を持っております。
39
:
みれい
:2005/09/16(金) 02:57:02
わめさん
>これはわめも学会教学を独善的に信じていた頃を思いだしますし、その反動?としてまた逆の方向の独善的な思考に陥りそうになるしで、その影響はなかなか抜け切りません。涙
というかわめには、元々独善的になりやすい要素(性格・思考)が強いのかもしれませんが・・・
でも、客観的事実と信仰心、理性と心情、意識と潜在意識みたいなことは、独善的にならないように気を付けながら、今後も思索していこうと思っています。
これはわめさん凄い事を気づかれたのではないかと思うのです。
というか、実際独善的であるかどうかは別として(わめさんは違うと思う)、省みるというのは私も含め、出来てるようで出来てない事柄の一つですよね。
私も気をつけなければいけない点ですし、一般でも言えることだとおもうのです(と言うのは簡単なんですよね・・・ははははんせい)。
学会から離れてからの過程は、Pohさんからも聞いているかもしれませんが、
マインドコントロールが解けてゆくパターンがあてはまるみたいです。
私の体験だと、はじっこにあったバネが反対に反り返って、徐々に静まるようにだんだん落ち着くと思います。
学会のクセでやたら「!!!!」を使ったり、なんてこともあるみたいです^^
けど、相手を思いやれれば多少性格にクセがあったほうが面白いです^^
http://kangaeyou.hp.infoseek.co.jp/925_1045787870.html
「意識が変わるきっかけ」
何か参考になるかと。ここを見ているほかの方にも。
そういえばLeoさんは知りませんか?
>今まだ知り合ってない方と出会う前に、その方と自分とは既に何かの形で影響を与え合ってたりしてね。笑
それが縁起ですね〜^^一期一会。合唱(−人−)
縁のむくままに。
今日も夜更かししてしもた(==)
40
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/17(土) 13:00:16
みれいしゃん、わめです。^^
>
http://kangaeyou.hp.infoseek.co.jp/925_1045787870.html
> 「意識が変わるきっかけ」
やっと読み終えたw 246からみれいしゃん登場♪
最後のほうは、よくお見かけする盲信バリさんが相変わらずなことやってますね。
Poh師匠からも参考ページの紹介など頂いてるので、読んでるだけで一日が終わっていきそうなこの頃です。(^^;;
> 私の体験だと、はじっこにあったバネが反対に反り返って、徐々に静まるようにだんだん落ち着くと思います。
何だかイメージばっちしな感じ。 わめはとりあえず縁起ベースでいこうと思います。
落ち着いてくると、自制心を緩めることできていいんですけどね。^^
気長にいきます。(^。^)
41
:
みれい
:2005/09/18(日) 01:49:43
わめさん、
いつも律儀にありがとうございます。
その姿勢にいつも頭が下がります。<(_ _)>
42
:
Leo
:2005/09/25(日) 13:52:52
みれいさん
>>39
、お久しぶりです。皆さん、Leoと申します。
Libraさんのお知らせがあり来てみました。
掲示板にあまり行かなくなってたです。
(「みんなで考えよう」掲示板がなくなってしまったので...)
最近私はタリラリラーンのコニャニャチワ(←意味不明)ですが
よろしくおねがいします。
43
:
みれい
:2005/09/26(月) 02:21:48
わお〜Leoさん!
お元気そうでよかった^^
また一人専門家が増えた^^
お久しぶりです。「みんなで考えよう」も無くなって、Leoさんのサイトも見つかりません(泣)
「創価学会を考える」
http://synapse66.fc2web.com/
あたりにいます。あとペガサスさんの掲示板が仏教の源流を再会しつつのんびりくだけてます。ぜひ来てください。
ブログが増えて皆さん分散しましたね。
44
:
みれい
:2005/10/13(木) 13:59:40
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1847/sinjiru.html
いいのがあったよ。
タイトルも「信じるということ」です。
45
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/14(金) 03:33:23
みれいしゃん、参考になりました。 d(゚Д゚)☆スペシャルサンクス☆( ゚Д゚)b
読んでみましたが、感じるのはわめは信じるとか疑うに固執していないのかもしれないっす。
って言うか、自分をちょっと覗いてみたら信疑の重要性を意識してないと言うか・・・
でも意識は薄くても、信じたり疑ったりしているのだろうけど、それに拘ると煩わしくなると言うか、自由じゃなくなるように思います。
だから頑張って意識して書いちゃうと、信じるのも疑うのもほどほどがいいかなんて思うわめです。^^
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