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臨時投下場所

1112:2005/06/03(金) 01:19:09
2chのスレが落ちたとき用に立てました。
落ちている場合はこちらのスレに投下をお願いします。

145一時保管:2011/03/13(日) 11:03:44
233.偽りの代償

わずかに開いていた、特徴的な唇が一度閉じられた。
滲んだ視界の中で、井上の顔だけがやけにクリアだった。
この人が、桧山さんを――。
力は抜けきってしまったのに、破壊的な衝動が込み上げる。
右腕は、ライフルを構えよと戦慄いて、己の体を操ろうと必死になっている。
――そうはさせまいと押さえつけているのは、一体どの部分の所業なのだろう。
内なる牽制の隙を突いて表出したのは、口元からの問いかけだった。
「桧山さん」
かすれた小声でも相手まで届いたのか、井上の体が揺れた。
「最期に何て、言うてはりましたか」
井上が眉をひそめたので、すっと息を吸って、
「最期。何も言わんと死んだんですか」
と、幾分大きな声で聞いた。体の震えが急におさまったのを感じた。
渋い表情をしたままの彼は、じっとこちらを見つめていたが、間を置いて
「助けて、って……」
と返した。
一瞬だけ桧山の顔に視線を走らせ、また井上の方に戻してみる。
タ・ス・ケ・テ。
仰向けの死体と、数時間前の忌まわしい光景と、対峙している井上。
精査するようにその画をたどっていく。
――胸に起こるは、ボタンを掛け違えているような違和感。
「助けて」
独り言のように口にしてみると、それは決定的なものとなった。
「何でそんな嘘、つくんです」
井上の強張った表情が、痙攣する様に動いた。
「何が?」
「助けてなんて、言ってないでしょう」
「何を根拠に?」
「……自分でも言ってること、おかしいと思いません?」
力の入りすぎていた右手を、ストラップから離そうと持ち上げたとき、
井上がナイフをこちらに向けた。
「動くな」
ああやはり、この人も不自然なのだ。
雨に濡れたナイフの切っ先が、それを物語っている。
「殺したのも、嘘ですよね」
「……」
今度は彼の左手が震えていた。怯えているのか、それとも、静止できないほどに、
体に負っているダメージが大きいのか。
仔細に観察している己の、脳天に突き刺さるかのように、あるひらめきが真っ直ぐに降りてきた。
「英、智……?」
桧山が執着していたその名前。己がそれを発音した刹那、
目を見開いた井上が、左腕を振り上げて――

明転して真っ先に知覚したのは、右の太ももを走る激痛だった。
「――っ!」
意思とは無関係に膝が折れ、ぬかるんだ地面に上半身が引き込まれた。
視界に入った痛む部位は、スラックスの裂け目から、赤い液体を吐き出している。
触ってみるとそれは間違いなく、自身の体を流れる生温かい血液で。
――なんで、こんな傷が……?
混濁する意識に目がくらんだ。細切れの映像が明滅しているのに、
傷ついたまさにその瞬間はキャプチャできていない。
痛みに顔を歪めながら、直前まで見ていた先、井上のいた方に目を向けると、
横向きに倒れたユニフォーム姿が一人。
ちかっ、と、視神経上に浮かぶ一つのコマ。
腹にナイフを受けて、叫び声をあげた井上の姿。
――何、これ
頭を抱えてみるが、すぐに拡散してしまう。
ともかく体を起こし、ネクタイをほどいて足の付け根を縛った。
井上は焦点の合わない目を体の水平方向に向けて、荒い息をついている。
くの字のように曲がった体の中心に、黒い柄と、鮮血の広がった染みがあって。
また一度、フラッシュ。
その柄を間近で見た場面。太ももに刺さったそれを、握り締めた己の右手。
ネクタイを今こうしているように、ぎゅっと……。
どくん、と鼓動が大きく打った。
肝心なことは何一つ思い出せない。けれど。
――自分が、した、こと?
そんなはずがない。首を振って否定してみるが、再び襲ってきた震えは止まらなかった。

146一時保管:2011/03/13(日) 11:04:22
咄嗟の嘘にしては、上出来ではないかと思っていた。
「助けて」
それならば、命乞いをする人間に止めを刺したことになるからだ。気を引くのにはこの上ない。
……はずだったのだが。
彼はその嘘を、そして告白の虚偽を見抜き、それだけでなく、根源の動因、
守るべき彼の存在を暴いてしまった。
思いがけない、「英智?」との問いかけに動揺を抑えきれず、左手のナイフを投げたのだ。
いけない。
これでは、正解だと答えたも同然じゃないか。
時すでに遅し、放たれたそれは相手の右足に突き立っていた。
もう他に手段はない。相手を押さえ込むべく、足を差し出した瞬間。
「!」
桧山と同じ、感情を宿さぬ闇のような目が、そこに。
背筋が凍りついて次の一歩を出せずにいた、その間に、今岡はナイフを抜いて。
危ない。左手を差し出したが、それよりも早く、投げ返された刃は己の腹を捉えていた。
「がっ…」
口から出たのは、意味を成さない叫びのみ。
中途半端なことじゃいけないって、さっき……。
奥歯をかみながら、体は地面へと沈んでいく。
駄目だ、行かせてはいけないと、焦りだけが募り、腕を伸ばして彼の服の裾を
掴もうとするのだが、現実には蹲って指一本すら動かせず。
セキさんにもらった命なのに。
このザマでは、どんな顔して詫びたら……。
鈍痛の中心部から既に減っていた血液が流れ出していく。
体の末端から熱が失せていく。
止めないと。
必死で首を動かすと、いつの間にか立ち上がっていた今岡の影が見えて。
己の頬に一滴、温い感触が落ちた。
――泣いて、る?
佇む影は、苦悩するかのように頭を抱えて呻き、
「なんで、こんなことに……」と繰り返した。
なんで……そう、なんで、俺はナイフを投げたんだ?
自問自答してみるが、答えは形にならない。あの一瞬に意識が戻せない。
やがて、今岡はよろめきながら、井上の来た道、英智の居場所に向かって歩いていく。
あちらへ行かせてはいけない。
止めなければ。
止めなければ。
黒く塗りつぶされる視界の奥、消えていく彼の背中を追いながら、
ただ焦った心だけが取り残されて……。

【残り11人・選手会7人】

147一時保管:2011/03/13(日) 11:05:02
234.汚染

甲板にいた選手はわけがわからず、その様子を見守っているだけだった。
操舵室に飛び込んでいった森が、武器を失い、しかもスタッフの手によって
外に放り出された。カメラは彼の姿を追わず、アナウンサーは口を噤んでいる。
「何なんだよ!」
「ルール違反だって言ってるだろ。あいつは除くって」
「うっせぇ! 話はまだ終わってねえ!」
「もういいから近づかないでくれ」
「――!」
怒りで言葉を失った森の前に、一番近くにいた都築が割って入った。
「ちょっ、落ち着きましょうよ。怪我してるじゃないですか」
「お前は黙ってろ!」
払いのけようと捻った体は、後ろから山井が羽交い締めにした。
「頭冷やせよ。顔は構わんけど……腕、そんなんじゃまずいだろ」
「……腕?」
言われてようやく、左の肘が青く変色しているのを見て取った。
投げ飛ばされたときにぶつけたかそんなところだろう。
未練がましくスタッフを睨みつけながらも、森は体の力を抜いて山井の腕から逃れた。
「あっちに……湿布とかあるから。手伝いますよ」
その言葉を聞いているのかそうでないのか、さっさと彼は船室へと入っていき、
都築はそれに付き従った。
甲板全体が、ため息をついたようだった。
「次こんなことがあったら覚悟してもらうよ」
うんざりとした口調で、マイクを担いでいた男が吐いた。
「……誰も死なないさ」
ぽつりと、山井が応えた。
「……本当にそう思うか?」
「死なないよ」
男を見据えたまま彼は言い切った。
しかし――彼は背後の状況を知らない。信じていたから確認もしていない。
ジュラルミンのケースをそれとなく意識している存在がいる。
傷を負い、誰かの肩を借りて立っている人物に突き刺さる冷たい目線がある。
己のたくらみを誰に伝えるか、物色する思考が駆け回っている。
影はもう輪郭を曖昧にし、辺りはどんどんと薄暗くなっていく。

「俺たちは島まで行く。その後はあんたらの好きなようにしたらいい」
仲澤はそう言って、軍服の男に操舵の作業につけと促した。
責任者が口元を歪め、歯軋りをしたその瞬間。
「仲澤!」
操舵室のドアを乱暴に開けて、選手が一人駆け込んできた。
「次は何だ」
うんざりとした風に仲澤がこぼす。
「どうしたんですか」
湊川が尋ねるとその選手、蒼白な顔をした田上は、何から告げるべきか迷って口を
ぱくぱくさせていたが、
「ヒ素が……無くなった」と、震える声で答えた。
「えっ……」
途端、責任者の男が血相を変えて出て行き、軍服の彼も仲澤に目礼してそれを追った。
「いつ?」
「わからない。今見たらなくなってた」
「スタッフは?」
「あいつらも狼狽えてて。わからないとしか」
扉の外から聞こえてくる騒ぎ声が急に大きくなって、3人は無言のまま走り出した。

148一時保管:2011/03/13(日) 11:05:50
船室には選手とスタッフが集まり、飛び交う叫び声で騒然となっていた。
苦しげに嘔吐を繰り返す中川。その後ろでは、先ほどまであれだけ暴れていた森が、
ぐったりとして体を横たえている。
「何だよこれ」
湊川が呟いた側で、森岡が口元を押さえて前倒しに崩れた。
「森岡!」
慌てて抱き起こしたが、呻くばかりで会話にならない。
立ち尽くしていた責任者の男に向かって、軍服の男が怒鳴りつけた。
「またか? またあんたらの言う演出か?」
「違う! 見ろ、うちのクルーだって……」
指差した先、照明係の男が座り込んで、口から唾液を流している。
「ヒ素、か?」
仲澤の問いに、軍服の男は周囲を見渡し、小声で「おそらく」と返した。
「おい堂上! お前中川に何したんだよ!」
介抱していた山井が、選手の輪の外側で顔色を失っていた堂上を呼んだ。
名指しされた彼は違う、違うと首を横に振り、
「中川……熱出てたし、水飲めって、コップに入れて渡した……
それだけです! 本当にそれだけなんです!」
「タンクの水か?」
軍服の男が割って入ると、堂上は助けを求めるかのように、大きく何度も頷いた。
「他にここの水飲んだのは?」
「ショーゴーさん……10分くらい前、手当てしたときに飲んでました」
都築は律義に、時計を確認して答えた。瀬間仲も机の上を見て、
「それ、多分森岡のだから、森岡も今……」と、銀色のカップを指し示した。
中に残っていた水の臭いを嗅いでいる仲澤に、
「無駄だ。ヒ素は無味無臭だからわからない」
軍服の男はそう言った。仲澤は苛ついたようにカップを置いた。
「そいつは?」
照明係に向かって聞くと、
「俺も、さっき」
と、涙声が返ってきた。
「本当に飲んだんだろうな?」
不審の目で詰め寄る軍服の男を、湊川が止めた。
「やめてください、あっちも今は病人なんですから」
「……俺も飲んだけど」
後ろからの発言に振り向くと、筒井壮がカップ片手に立っている。
「変に胸焼けするから、おかしいなって」
胸をさすりながら言う筒井に、都築が尋ねる。
「いつ飲んだんですか?」
「ショーゴーが来た直後に汲んで、ついさっきまで少しずつ飲んでた」
カップを傾けると、まだ6割ほど水が残っている。
その水面は、小さな波を立てていた。
「俺も、こうなんの?」
低く響いた声は、酷く揺らいだ。
「量が少なければ、軽症で済むかもしれません」
本当かと繰り返す筒井の背中を、軍服の男が大丈夫ですよと撫でたとき、
「そんなの……おかしいよ」
輪の外で誰かが呟くのが聞こえ、皆の視線が一斉に集中した。
「壮さんを殺そうって言ってきたのに軽症で、何で中川とかが重症負ってんだよ」
筒井の表情が凍りついたその先、中村が純粋な疑問を宿した目で選手の輪を見つめていた。

【残り11人・選手会7人】

149一時保管:2011/03/13(日) 11:07:17
235.使者

罠であると分かっていながら、この島へ乗り込んだわけではなかった。
自分たちは否応無くここへ連れてこられたのだ ── だが、どうやって?

近鉄とオリックスの選手同士を殺し合わせ、まとめて二つの球団を葬り去り、十球団一リーグを
強行させる ── そんな狂気の沙汰としか言えない計画の存在が浮き彫りになったことにより、
球団オーナーの暗殺は選手会の決定事項となった。
決行はオーナー会議の日。場所は高輪の有名企業系列のホテル。
正体を悟られることなくホテル内へ入り込む手引き、退路の確保、会議場への誘導 ──
それらの協力を白井から得たことで、妨害なく会議場の目前まで到着できた。
武器と覆面と革手袋を身につけ、扉を破り室内へ踏み入る ──

── その中に怪物が棲むと知っていた。知っていたはず、だった。
だが、扉を開けてしまったがゆえに起こる結末についてはどうだったのか。
果たしてそれが中日選手との殺し合いの、自分が確信した“罠”の、はじまりだったのだ。
「世代交代、なあ……」


独白の続きか、同じフレーズを二度、古田が呟くのを中村は聞いた。
「……何です?」
少しの間があり、古田はちら、とこちらに目をくれ、何でもないというように右の掌を向けてきた。
「それより、聞きたい事あんねんけど」
「はい」
「お前、無線機がおかしい言うてたやろ。どんな風におかしかった?」
「え……」
中村は口ごもる。説明を請われて出来なくはないが、言葉にしたところでそれを信じてもらえるのか
どうかというためらいが先走ってしまう。
己の見聞きした事象があまりにも非現実的すぎるからだ ── それでも、唾を飲み込み、
意を決して話し始める。
「あの時、とにかく誰かが助けを求めているかも知れない、助けがいるんだったらそれを伝えて
 ほしいと思って、応答を呼びかけました。
 いくら待っても、ザーとかサーとしか聞こえなかったけど……急に、何か聞こえた気がしたんです」
「何が?」
「……声が」
「声?」
反応した古田が語尾を上擦らせる。中村は頷いて、続けた。
「全然はっきりした声じゃないんです。それこそ、男なのか女なのか、誰の声なのかも分からない。
 ……幻聴か、聞き間違いかもしれない……けど……」
知らず眉間に力がこもり、肝心な部分へ迫るにつれて動悸が早くなり、口調が滞る。
自分が軽く唇を噛んだのを見かねてか、古田が先をうながした。
「けど……で、聞き間違いかもしれんとして、何か聞こえたんやろ? 何て言うたんや」
皺の寄っているだろう額がひきつるのが分かる。中村は口許を一文字にし、落としていた
視線を上げた。
「殺せ、って」
「 ── 」
「それが聞こえたとき、今までの人生で一番腹立たしかった事とか、殺してやりたいと思った奴の
 顔とかをいっぺんに思い出して頭の中がワーッとなって、はちきれそうになって……」
前ぶれなく一気に膨れ上がった激情が、沸点も融点をも通り越して全身を燃え上がらせたのを
思い返しながら、続ける。
「そこにあなたがテントの中へ入ってきた。あなたの顔を見た途端、殺さなきゃって思ったんです」
「……それは、えらいごあいさつやな」
「その時の感情 ── というか、もっと一瞬の衝動 ── は、すぐに消えていきました。
 ただ、その後で、俺は今まで思ってもみなかった自分の本心に気づいた。
 古田さんさえいなければ、俺は ── セ・リーグ一の捕手だったって」
「……」
「俺の記憶では、そんな事を表面に出して思ったり言ったりした覚えはないんですよ。
 でも、俺は確かにそう考えてたんだと思い知ったんです。── あなたさえいなければ、と」
「……そうか」
「我ながらめちゃくちゃ女々しいというか……」
全てを語り終え、苦々しくこみあげる羞恥の感情に、無意識のうち右手で口許を覆う。
最小限の相槌以外、静かに耳を傾けていた古田は鼻からふうっと息を抜き、腕を組む仕草をした。
「まあ、そんなん言うたら俺もあるけどな。お前おらんかったら、山本にも野口にも
 特に野口には、もっと勝てたんちゃうん、とか」
「そんな……」
「大なり小なりやろ。そういう事を一回も考えへん人間のほうが気持ち悪いわ、俺にしたら」
「……」
「それに、殺そう思うのと実際に殺すのではえらい違いなんやからな。殺せって言われたけど
 お前は殺さんかった。だからええやん、それで」

150一時保管:2011/03/13(日) 11:07:52
あっさり話をまとめようとする古田の態度に、むしろ中村の方が混乱を覚えてしまう。
未遂だったとは言え、自分を殺そうとした相手を目の前にして、「ええやん」の一言で
片付けられるその度量の大きさはどこから生まれるものなのだろうか。
(いいことは……ないよなあ)
これが本塁を守る役目を離れた時の ── 古田敦也という個人の人間性なのだとしたら、成程、と
得心できる。球場で見かけたとき常に、彼の周囲に人の絶えない理由を垣間見た気がした。

「それよりその物騒な無線やな。キヨも同じように聞いとるはずや、その声を」
あ、と中村は目と口を同時に丸くした。
「そうか、通信を受けた時 ── 」
「俺と中村はイヤホン挿してなかったけど、あいつがもし耳にイヤホンして呼びかけてたとしたら
 まず間違いなく聞いてる可能性が高い」
「今岡と桧山が到着しないのも、緒方が急に出て行ったのも、もしかしたら」
「断言はできんけど、全く無関係とも言われへんわな」
中村は古田の顔を見た。古田も同じように、緊張を含んだ眼差しを返してきた。
「キヨを捜しに行こう。あいつの話では高木も危なそうやし、共倒れにでもなったらかなわん。
 幸いキヨは武器持ってないから、暴れられたとしても二人がかりやったら何とかなるやろ」
「……信じてくれるんですね」
いまさらのように呟いた自分に対し、古田は「何言うてんの」と呆れんばかりの表情になった。
「現に中村がそういう目に遭うて、俺も危なかって、知らん間に無線の電源が切れたりしてる。
 これに仕掛けがされてて、遠隔操作でいろいろいじれるようになってると考えんのが自然や。
 中日は首輪で管理されてるけど、俺らにはそういうのがないから、これを持たせて管理
 しようとしてたんかもな」
「じゃあ緒方が無線を拾ってきたのも、正確には拾わされたってことですか」
「そういうことやろな」
全てが罠。不意にそう脳裏に浮かんで、中村は言いようのない悪寒に身を震わせた。
ドラゴンズの選手とだけでなく、選手会同士でさえ殺し合いが起きるよう、あらゆる手段で
自分たちは追いこまれているのだと悟る。
── 一体何のために?
「じゃあ中村、荷物 ── 」

151一時保管:2011/03/13(日) 11:08:22
テントへ足を運びながら、首から上は中村の方を向いて古田が呼びかけた時、彼は目を見開いて
呆然と立ちつくしていた。
中村の左手から離れたキャッチャーミットが、軽い音を立てて地面に落ちる。
「なかむ、」
何事かと怪訝に思い、彼の両目から真っ直ぐ伸びる視線の先をなぞった、その時 ──
古田の視野に飛びこんできたものは、黒い筒の穴。
銃口。
「!!」
考えるより先にとっさに身体をねじって、中村に覆いかぶさるように、跳んで ──

音は、なかった。
何も音はしなかったのだ。
耳の下で空気の擦れる感覚が走ったと同時、鈍く重い衝撃に左腕が抉られ、はねあがった。
憶えているのは、そこまで。


「ふ……」
どさ、と筋肉質の身体が全体重でもって自分にのしかかり、一瞬のことで受け止めきれず地面に
尻餅をついた。
尾てい骨から腰骨を突き上げるような痛みが間髪入れず襲いかかってきたが、そんなことよりも。
中村は顔に手をやる。自分の右頬にかかった赤い飛沫。
ずる、と立てた膝の上に倒れこんでいた状態から何の抵抗もなく滑り落ち、草の上に沈んだ
彼の体躯。
倒れたときのはずみで外れ飛んだのか、傍らに落ちている眼鏡。
彼の左腕 ── 上腕から肩にかけて白いシャツの色を染め変える、赤黒い液体。
「古田さん、古田さ、ん……」
背中を揺さぶるが、反応はない。救いがあるとすれば微かな呼吸と体温を感じられるということだけ。
(早く、早く止血しないと)
焦りと動揺で暴走してしまいそうな情動を抑えつけるべく、自制をフル回転させる。
ハンカチと、自らの襟元からほどいたネクタイを駆使し、古田の左脇付近を縛って圧迫する。
両手が血まみれになることを厭わず傷口を確認すると、銃弾が腕の中へめり込んだ様子はなく
破けた生地の下、皮膚の表面が摩擦によって酷く削がれていた。反射的に、顔をしかめる。
傷の上に掌を置いても血のあふれてくる気配がないので、ひとまずは止まったのだろうか。
油断はできないが、後はガーゼと包帯で処置を、と立ち上がった中村は、前方に倒れ伏す
人影を見た。
短いパイプのような器具が取り付けられた銃を左手に握ったまま、気絶しているのか動く気配の
感じられない、灰色の。
突っ伏しているため今は頭部しか見えていないが、中村はその顔をはっきりと目撃していた。
眇められた三白眼が狙い定めていたのは、紛れもなく自分で。
銃口を向けられた、その意味を問い返すのは愚かなことだ。
彼しか、いなかった。

「佐伯 ── 」

【残り11人・選手会7人】

152一時保管:2011/03/13(日) 11:10:08
236.前夜(collation by reading out)

『君も不運なことだな』
座り心地の良さそうなソファに身を沈めた白髪の男は、開口一番にそう言った。
とある有名企業の ―― 目の前の男が所有する ―― 系列ホテルの一室にて。
それが労りの言葉に聞こえなかったのは、男が口許に皮肉な笑みをたたえていたからに
他ならない。もっとも、同情など最初から望むべくもないので、反応はせず流しておく。
『今年は一度も一軍の試合に出ていないそうじゃないか。そんなに怪我の状態が悪いのか』
(おかげさまで、膝も足首も肘も腕も、そこかしこ)
差し向かいのソファに浅く腰かけ、太ももに置いた腕の先、組んだ両手に視線を落としながら
胸中で問いかけに答える。
『冷めるよ。飲みなさい』
『 ―― 用件というのは』
相手がテーブルの上の茶を勧める仕草に被せて、ごく短く切り込む。
男は眉を上げはしたが慣れたもので、あくまでも穏やかに後を続けた。
『実は我々は殺される予定になっていてね』
『らしいですね』
『君も加わるんだろう?』
『あまり乗り気じゃないけど、役員なんで半強制的に』
『乗り気じゃない』
人の命を強引に奪おうとかそういう話なのに、随分いい加減なもんだ、と男は含み笑った。
うんざりしながら、じゃあ言いますけど、と突き返す。
『やろうとしてる事の規模からすれば、そちらの方が酷いんじゃないか。まるまる二球団、
 140人の選手の命を奪おうとしてるのはどこのどちらさん達だ』
『全滅させる、とは言ってないがね。救済措置はきちんと用意してある』
男は余裕の笑みを消さない。
『それに勘違いしてもらっては困るが、私はあくまで合併推進派なんだよ。誰が好んで
 殺戮ショーを望むものか』
同じことだろ、と溜め息に混ぜて毒づく。
『本題は何です』
言葉尻を揶揄された事にはこだわらず、どこまでも脱線していきかねない話の流れを
せき止めるべく、相手に視線を合わせた。
その口許は穏当さを装っているが、眼鏡の奥の目はぞっとするほど冷徹だ。
『ふむ』
鼻を鳴らし、男は湯呑みを手に取って、茶を一口喉に流し込んだ。
『結論から言うと、我々は死なない。死ぬのは君たちの方だ』
茶托に戻された湯呑みが、かたと音を立てる。
『それは ―― 』
組み合わせた指が脊髄反射のようにぴくりと動いたのを自覚しながら、口を開く。
『そちらの書いたシナリオ通りに、選手会が動いているだけだと』
『そうだ。君たちは我々の会議中に乗り込んできて我々を殺そうとするが、逆に室内に潜んでいる
 傭兵に捕らえられる。
 そしてある無人島に連れて行かれ、殺し合うことになる。そういう筋書きだ』
『殺し合うのは、近鉄とオリックスじゃないのか』
『それは本番だ。君たちにやってもらいたいのは、それの予行演習なんだよ』
意味をつかみきれず眉をひそめると、相手はさも得意げに解答を口にする。
『一口に選手同士を殺し合わせると言っても、会場の準備から武器の調達、隠しカメラや
 トラップの設置、各種設備の建設……やらなければならない事が山ほどある。
 時間通りに手際よく作業を進めていく事も求められる。式次第だとか、旅行のしおりみたいな
 ものだ。我々は“プログラム”と 呼んでいるがね。
 140人もの人間が関わるとなると、より緻密なプログラムを組むことが求められる。
 その為にはデータ、経験が必要なんだ。前例だな。そこで試作台本の通しを、君たちに
 演じてもらいたいと、こういうわけだ』

153一時保管:2011/03/13(日) 11:10:40
つい数分前、殺戮ショーは望まないと言っていたのと同じ口でよく嬉々として喋れるものだと、
呆れを通り越して感嘆すら覚えながらそれを聞く。
『それにしちゃ、人数が少ないな。俺も含めて17人しかいませんよ』
『その件は手配済みだ。それでも140人には遠く及ばんが。しかし、まずは慣れだ。
 我々も裏方も、いきなり100人単位をさばく自信はない』
まるで、ファンイベントの打ち合わせのようなやり取りになってきている。
『何となくは分かりました。堤オーナー』
目礼してから、湯呑みに手を伸ばす。冷え切った渋い液体を、一気に飲み干した。
『 ―― で、俺は種明かしをされたからには、お茶ごちそうさまでしたと帰るわけには
 いかないんだよな?』
『世間話にしたいのならそれでも構わんがね。そうすると君は舞台裏を知ったにも関わらず
 抵抗もできずに、ただ死んで終わるだけになる。
 私がわざわざ君にこの話を聞かせた意図を汲み取ることは、君にとって損にはならないはずだよ』
やっぱりそうなるよな、と視線を余所へ転じる。何気なく目に入った室内の壁には絵画が飾られていた。
生憎と美術品には造詣の「ぞ」の字もないので、画家も作品名も知る由がない。
ただ、その絵がとても恐ろしいものだということだけは、芸術を解らなくても身をもって知れた。
巨人が人間を喰らう図。“人喰い”の光景 ――
悪趣味の一言では片付けられない凄惨さに、心臓の温度が下がっていくような気がした。
『意図って、何だ』
もっと聞きたいことはある。はっきり言えば、相手に掴みかかって罵詈雑言を浴びせることも
選択肢の一つに含まれていなくはない。
しかし、それを実行に移すだけのマグマの温度は低い。気味の悪い寒さが胸を冷やしている。
堤義明の呼び出しに応じた、その時点で、筋書きという檻の中へ閉じ込められたも同然なのだ。

そんな胸中を見透かしたように、堤は命令を下してきた。
『君は今からこちら側の人間になる。オーナー会議の際、君には危害を加えないことを約束する。
 殺し合いが始まっても、なるべく有利になるような武器などを与える。
 その上で君には、選手会を攻撃してもらう。内側から崩して、できる限り数を減らすんだ。
 代わりに、生きて帰ったら無条件で一軍に登録する。今まで通り一塁を守ってもらう。
 もちろん、怪我の治療を優先させるなら、その後でという事になるが』
『……俺に選択の余地はないのか』
『なら、こういうのはどうだ。会場となる島に隠し部屋を作っておく。
 そこへ君が来たら交渉成立。一日猶予をあげよう。
 もし、一日経っても君が現れなかった場合は……』
残念だが、と堤は言葉を切る。
(ただの気まぐれなのか、それとも……)
同じ、西武に属する人間への配慮か。裏切り行為を唆しておいて配慮とは、何とも笑えない話だが。
返事をしないまま席を立つ。堤は何も言わなかった。
『俺のことを不運って言ったのは』
相手の座る横を通り過ぎざま、最後に問いを投げかける。
『怪我のことか、期待されながら応えきれなかったことか、理不尽なコンバートや方針に甘んじる
 しかなかったことか。どれなんです』
堤はどこか面白がるように、こちらを一瞥しただけだった。

『それは君が一番良く知っているんじゃないのかね。高木君』


オーナー会議まで、あと十数時間 ――

【残り11人・選手会7人】

154一時保管:2011/03/13(日) 11:11:28
237.続行不能

「……今の、どういう意味だよ」
全員が絶句してしまった空間を切り裂くかのように、仲澤が中村に向かって突っかかった。
「俺だって知らないですよ。ただ、こんな紙が回ってきたから、
そういうつもりなんだなって」
差し出した右手の先には、何かを千切ったような紙片。
仲澤が取って両面を確認すると、走り書きしたような汚い字で、
しかし確かに、『壮さんを狙う』と記されている。
「何だよ、これ」
「気がついたら、ベルトに挟まってました」
彼は腰の左側を指で押さえた。仲澤は眼光鋭く、
「……お前がヒ素混ぜたのか?」と、疑問をぶつけた。
「それは違います。気持ちの準備してただけで」
「準備って……」
立ち上がった湊川は、明確な非難を込めて言ったが、
相手は本当に理解ができないという顔をして、続けた。
「だってこれ、一人殺すルールなんですよ?
みんなの総意で、この紙回してたんじゃないんですか?」
「そんなの総意になるわけないだろ!」
「じゃあ、これはどういう意味ですか?」
仲澤の手を取り、中村は聞き返した。
「……」
答えに窮した。明らかに、何者かの悪意がそこには存在する。
見かねて軍服の男が、何か告げようと一歩前に出たが。
「お前ら……そんなつもりだったのかよ! 俺が死ねば良いって思ってたのかよ!」
己の命が狙われていたことを知った筒井は、激高した。
「待て」
軍服の男が止めようとしたが、筒井は聞こえていないのか小川に掴みかかり、
どうなんだよ、と恫喝した。
そして、小川が苦い表情を浮かべて押し黙ったのが、何かの証拠になったのか、
軍服は続きの台詞を飲み込むかのように、喉を鳴らした。
「お前は!」
筒井は小川を押し倒すと、自分も咳き込んで、それでも相手の首を絞めにかかった。
「だったら先に殺してやる!」
湊川とそばにいた植が慌てて筒井に組み付いて、4人がもみ合いになる。
「離せ!」
「壮さん、駄目です!」
筒井の片腕が首から離れて、半身を床につけたところ、
湊川が上から覆いかぶさって体を押さえ込んだ。
植は喉笛に食い込んでいるもう一方の手の、指一本一本を外そうとする。
「湊川、退け」
降ってきた硬い響きに、呼ばれた彼は首を回すと、上を向いた側、
左のあごに冷たい感触を知覚した。
視界にあるのは、肩が傾いだ佐藤の姿。
こちらに向かって伸びた右腕の先は、焦点が合わず、黒くぼんやりした塊が映るのみ。
「そうですよ、あなたが死ねば良かったんだ」
銃身。己に触れているものを湊川は理解した。
そして、銃口がどこに突きつけられているかも。
「やめ……」
銃に押さえつけられて、口が思うように動かない。
湊川が手を払おうとした刹那。
雄叫びとともに、人影が湊川の上を横切った。

155一時保管:2011/03/13(日) 11:12:00
影の右足が、佐藤の顔を蹴り飛ばして。
ピストルは指から滑り、音を立てて床に落ち、佐藤は仰向けになって倒れていった。
「悪いね」
膝をついて体を起こすと、跳んだ影、仲澤は悪びれた様子もなく口先だけで詫びた。
(こいつも、やばくないか?)
湊川の脳裏にそんな疑問がよぎったが、ともあれ緊張から解かれて一瞬、力が抜けた。
その隙をついて、下になっていた筒井が体を払いのけた。
唾液に濡れた口元を拭いながら、今度は寝転がった佐藤に殴りかからんと、拳を振り上げている。
また間に入った湊川は顔面を強打されたが、必死になって腕にしがみつく。
「何なんだよ、みんな……」
唖然とした田上の言葉に急かされるように、軍服の男が叫んだ。
「仲澤さん、引き返します」
仲澤は一度目を見開いたが、すぐに口惜しそうに顔を歪めて、
「ああ」と返事をした。
「……勝手に決めんなよ」
操舵室へ向かおうときびすを返すと、いつの間にかナイフを携えていた酒井が立ちはだかった。
「これだけ犠牲も出して、帰って済むと思うか」
「酒井さん……」
自身の左側にいた山井が立ち上がったと同時に、ナイフの切っ先が鋭い円を描いた。
「っ!」
山井の眉の上に赤い線が走り、すぐに玉のようになって液体が滴ってくる。
軍服の男は眉間にしわを寄せ、手刀を体の前に構えた。
「きりがない」
ちらりと視線を仲澤にやって、合図を送る。
振り上げたナイフと手刀が交錯する横を仲澤は瞬時に走り抜けた。
そして輪の外で、怯えて身を屈めた責任者の男を捕まえると、
「武器はどこだ!」と恫喝した。
目を白黒させている相手に「巻き込まれて死にたいか」と畳みかけると、
男は仲澤を凝視したまま、部屋の隅を指さした。
黒い布で覆われている一角。
仲澤が駆け寄ると同時に、中村と瀬間仲も武器を手にせんと近づいてくる。
咄嗟に植が瀬間仲にタックルし、それを振りほどこうとする彼から足蹴にされた。
腕をつかもうとした中村の顔に、仲澤は肘鉄を遠慮なく入れると、
後ろは振り返らずに武器の山に飛びついた。
己が最初に手にしていたマシンガンを山の一番上に認めて引っ張り出し、
選手の側にめがけて構えた。
鼻血を出して倒れる中村も、植を蹴落とした瀬間仲も、
軍服の男の一撃で武器を失った酒井も、動きを止めた。
「おかしい奴は撃つ! 戻れ、港に!」
仲澤の咆吼が響き渡った。

【残り11人・選手会7人】

156一時保管:2011/03/13(日) 11:12:39
238.共鳴

人影が完全に見えなくなって、それでも小笠原は森の奥を凝視していたが、
誰も戻ってはこなかった。探知機を確認しても36はどんどんと、
自分との距離を広げているだけだ。
(どうしたんだよ、井端さんは)
長い息を吐き出しながら髪を掻いてみたが、何一つ理解できないままだ。
別に普段から、仲が良いというわけではない。
ただ、選手会長を任されるほどの人望を持っている。
緊急時に助けを求めるチームメイトを、見捨ててしまうような人でないことぐらい、
わかっていた。
――はずだったのだが。
(そういえば)
記憶を反芻すると、やや曖昧さは残るが、井端が着ていたユニフォームには
36番が記されていたことに、小笠原は気づいた。
探知機の数字と選手との違いに気を取られていたが、
普通にしていれば井端が36のそれを着るはずがない。
それは間違いなく平井の持ち物だからだ。
(だとすると、平井さんは?)
平井は死んだ。彼はそう断言していた。そして6番は表示されていない。
機械のミスに希望を抱いたが、これではまるで、井端が平井の存在を
乗っ取ってしまったような……。
(……考え込んでる場合じゃない。戻らないと)
漠然と胸の内を侵食していく暗い洞察を、奥底へと押し込みながら進路を変えた時。
「あ」
探知機上の光が一つ、蛍火のように潰えた。
虫の音が聞こえていたはずの内耳に、急激に高鳴る脈動が打ち寄せてきた。


濡れた柔らかい地面を右足が踏みしめるたび、日の落ちた原野の風景に、
電撃のような白い筋が飛ぶ。
止まれ。そう命令しても、足は勝手に一歩、また一歩と前へ進む。
先を急ぎたいのではない。傷を確認し、抜け落ちた数分前の記憶について、
そして井上の死について、状況を整理したいのだ。なのに。
「うあっ」
足元の凹凸に躓いて、石のように重い体が倒れる。
唇が泥で汚れ、腫れた目に細い草の雫が飛んだ。
このまま倒れていたい。
願えども、腕はライフルを杖代わりに、体重をかけて体を起こそうとする。
まるで、何かに操られているような感覚。
(――まさか、桧山さん?)
ずるりと、また足が先へ行く。
(頼みます、やめてください)
請うように念じてみたが。
ずちゃ、と泥濘を踏む音は続く。
彼だとすれば、何のため進んでいるのか。
(英智)
痛みが目の前で明滅する。太ももなのか、それとも心のものなのか。
あの閃きはどこから来たのだろう。
この狂った数分間の引き金になるなど露も知らず、
驚きのあまり声にしてしまった、彼の名前。
(そうだ)
崩れた記憶の淵から、1コマ分の記憶が辛うじて戻ってくる。
「英、智……?」と問いかけた直後、井上は返事の代わりにナイフを
投げつけてきた。左手を上げた、彼の焦りに歪んだ表情が目に浮かんだ。
(それが、太ももに刺さって)
心音と同時に、傷口が軋んだような気がした。
己の手が柄を握り、井上は腹にナイフを受けて地に沈む。
欠落部を埋める想像に、背筋が冷たくなっていく。
自分の行為とその重すぎる意味に対して、あるべき感情の起伏が全く見当たらない。
いや、敢えて気づかないふりをしているのか?
核心に近づこうとする、感覚の中で。
「……」
やっと、足が止まった。
見てはならないと、目を瞑ったが。
(桧山さん)
出遭ってしまった。
横たわってこそいるが、息遣いの聞こえるそのユニフォーム、背番号57。
耳元で、桧山の声が聞こえた。
「絶対ぶっ殺す」
途端、腹の底から噴きあがってきた激情に体が支配され、ライフルを彼の頭に向けた。

157一時保管:2011/03/13(日) 11:13:43
違う。違う違う違う。
情動と理性が、今岡の中でせめぎあう。
桧山は早く撃ち殺せと煽り、自分はそれを頑なに拒んでいる。
銃器を抱えた腕は、二人の諍いの間で、笑っているのか、怯えているのか、
身を震わせて様子をうかがっているようだ。
「ああああ!」
弾き飛ばされるように銃から右手が離れ、太腿の傷を抉った。
衝撃が臓腑に突き刺さり、絶叫して膝をついた。
赤く濡れた人差し指と中指の向こうで、桧山の幻覚が消えた。
規則的に疼く傷口の痛みが、逆に冷静さを取り戻させる。
違う。
デイバッグの中のタオルで血を拭いながら、自分の常識を一つ一つ確かめる。
死んだ人がとり憑くなんて、あり得ない。
死んだらもう、先はないのだ。
だから、こんなに。
赤色に染まったタオルで顔をこすると、猟奇的な汚れがついたが、
今岡にそれを自覚する術はない。
それも目からあふれ出る涙で、流れ落ちてしまうだろう。
だから、桧山が死んだことが、こんなにも、こんなにも胸を締め付けるのだ。
桧山はもうどこにもいない。
残り滓のような殺意も、彼の心臓が止まると同時に消えてなくなった。
殺せと叫ぶあなたですら、自分が作った幻でしかない。
タオルにうずめた顔が上げられなくなって、今岡は硬直したようにその場に座り込んでいた。


平井、もとい井端を追うときよりもずっと必死に、小笠原は森を駆け抜けていた。
探知機の示す最短距離を走り、足は何度も草や木の根や蔦にとられ、
その度転倒して擦り傷を作った。けれど、小さな痛みを省みている余裕はない。
エラーだ、エラーに違いないから、そう思い込んで心を落ち着けようにも、
跳ね上がった心拍数は受け入れを拒否する。
(井上さん)
「人生最高のストレート」を投げると言っていた。
(絶対に間違いだ)
また左足がもつれて、手のひらが地面にぶつかった。
少し前に抱いたはずの希望の光が、いつの間にか消えている。
明るかった分だけ、闇を濃く感じる。
目印の数字まで消えてしまいはしないかという不安に染められていく。
すっかり視界のきかなくなった森を抜けて、57と43がほぼ重なり、
変わらず横たわる英智を見つけて転がりよった。
腕で脈を取り、生を確認し、あがった息の中安堵の小さな呻きが漏れる。
そして井上はどこかと、小笠原は顔を上げた。
心臓が刹那、鼓動を止めた。
2メートルほど先、背景色に溶けたスーツ姿の人影が蹲っているのに気づいた。
渇ききっているはずの喉が、ぐちゃと妙な音を立てた。

【残り11人・選手会7人】

158一時保管:2011/03/13(日) 11:14:27
239.教唆

屋内にも関わらず外気熱の入りこむ、しかしながら屋外とも呼べないのは、天井を見上げれば
空をすっぽりと遮る半円の、網目模様の施された屋根が存在するため。
そんな不可思議な構造の“ドーム”型球場。1999年。こけら落としを終えて間もないホームスタジアム。
湿気と熱気に蒸せかえるグラウンドの片隅、響くアナウンスを耳にする。
打順と守備位置、そして自分の名前を告げる声を聞き終えないうちに、太鼓の音、トランペットの
旋律、プラスチック同士を打ち鳴らす音が降り注ぐ。
背中を押す歓声を受けながら歩く、いつもの距離。ネクストサークルから左打席までを踏みしめる
人工芝の感触。
当たり前すぎた光景。いつまでも続くと信じて疑わなかった光景。
いつの間にか当たり前ではなくなってしまった、光景。

それを手に入れたところで ―― それを取り戻したところで。
(どうするんだ、俺は?)


前触れなく、四角く縁取られた小さな液晶画面に変化が起こったのを見てとり、十字キーと
ボタンを操作する手を止めた。
画面上、島の地図の上に点々と散らばる、色彩のついた丸数字は六個あったはずだが、
その内の一つが消えてしまったのだ。
消えたのは、水色の39。
隣にある紫色の27 ―― と、もう一つ、数には入れていないがその近くに感知されるので
黒枠の透明な丸に「000」と手動で登録した ―― に変化はない。
(壊れた?)
あるいは壊された、か。意図的とは考えにくいが。
もし意図的であれば、真っ先に27が消えていそうなものだからだ。そちらの方が
数字の消えた理由を推察しやすい。
紫色からやや上へ目を移すと、橙色の5は少しずつではあるが南下の動きを見せていた。
こちらに追いつくのも時間の問題のようだ。
高木は、背後の木の幹に後頭部を預けるようにして、吐息と共に瞑目した。

―― あの時、あの隠し部屋へ行かなければ、自分はどうなっていたのだろう?

人生における選択肢は、天文学的数字をも遥かに超えて存在する。無数に、無限に。
それらを一つ一つ慎重に選んで歩むことなど不可能に近い。
だからこそ、人間は後悔するのだ。自らの脳で処理しきれる範囲の、ひとつかみの選択肢を
あれこれ思い浮かべては、過去の己自身を叱責し、反省する。
そして傷を縫い合わせたらまた、前を向いて進んでいく。
それが人間のあるべき姿なのだとしたら、今ここにいる自分は辛うじて(人間として)留まれて
いるということなのか。
堤の甘言を無視して、あの隠し部屋へ行かなければ。オーナーたちの企みに気付きかけていた
緒方に同意して、一緒に知恵を出しあっていれば。
裏切り者の自分(彼はそうと知らないが)を守ると言った清原に全てをゆだね、打ち明けていれば。
何より、堤から明かされた内容を、事前に古田へ伝えていれば ――

(……くだらない)
すっと瞼を押し上げる。濃度を増す闇に合わせて、虹彩の中央が広がっていく。
迷っていたのは事実だ。選手会の役員たちを少なからず買いかぶり、彼らならもっと上手く
立ち回って、オーナー側のもくろみを覆してくれるはずだと期するものが心の隅にあったから、
あまりにも相手の思惑通りに ―― 罠に陥った彼らに苛立ちを覚えた事も。
だが、そんなものは都合の良い投影に過ぎないのだ。高木は己の思いつきを、声に出さず嘲笑う。
(お前はすでに人間じゃないよ、高木大成)
石井の水に毒薬を入れ(そして石井は戻ってこなかった)、先に挙げた選択肢をことごとく
潰してきたのは誰か。
清原を殺そうとしたのは誰か。
その忌まわしい瞬間がフラッシュバックし、胸の中心を砕かれたような痛みが走る。
―― そして、今俺は、清原さんを狂わせようとしている。
手遅れなのか、それともまだ間に合うのか。
(狗のくせに。人間じゃないくせに、人間のふりをやめられない)
真上に弾かれた銀貨は未だ、宙を舞ったまま落ちてこない。
裏切った事実は変えられないのに、自分の立ち位置を姑息に変えようとしている。
高木は歯ぎしりした。ポータブル型の通信機を折り畳んでポケットにねじ込み、座りこんでいた
木の根元から腰を上げる。
途端、右耳の奥で短い電子音がひとつ鳴った。
「決心はついたのかね」
カメラの向こう、こちらが葛藤する様子を面白半分、苛立ち半分で眺めているといった声音で
堤が聞いてくる。
スーツの厚い生地の上から胸をわし掴むように五本の指に力を込め、答えた。
「キヨさんに会う」
「会ってどうする」
高地で喋っているかのように、肺に酸素を取り込みづらい。応答に間が生じる。

159一時保管:2011/03/13(日) 11:15:22
「まだ、分からない」
「二択はない。殺せ」
「そんな、簡単に……」
すげなく切り返された命令に、噛みしめた歯の間から、情けなく濁る本音が滲み出た。
「甘えるなよ、ケツ拭き一つできない若造が」
聞いたことのない低い唸り声が、いささか上品ではない言葉と共に堤から発せられた。
「簡単だと思ったからあの部屋へ来たんだろう。人の命を奪うのは簡単だと。
 それを、実際やろうと思ったら難しかったので出来ませんでした、とでも言うつもりか?
 舐めるんじゃないぞ。己の安い矜持と命を同じ秤にかけたのは誰でもない、貴様だ。
 後戻りなど許されるものか!」
鼓膜をつんざき、イヤホンのスピーカーを突き破らんばかりの怒声は、落雷の衝撃をもって
高木の中心を貫き通した。
逃げ場として胸に凝っていた、言い訳や自己防衛の巣窟を完膚無きまでに破壊しつくす。
吹き抜ける風がさらう残滓すらない。文字通りの空洞が、そこに。
「君はどうやら勘違いをしているな。もう少し頭の回る男だと思っていたんだが」
口調を平坦に戻した堤が、痺れの残る右耳へ語りかける。
「君をこの状況へ追い込んでいるのは、君自身なんだよ、高木君。
 もし君が不本意な怪我を負わず、若い頃のような活躍を続けてこられたのなら、我々は
 君を利用しようなどとは思わなかった。
 心身ともに充実している選手に、付け入る隙などないのだからね。
 その点で君は、白羽の矢を立てる格好の的だったわけだ」
告げられた残酷な事実にも、今さら、という想念しか沸いてこなかった。
そんなことくらいとうに知っていましたよ、堤さん。だから聞いたんじゃないか。
「君は間違いなく不運だよ。伊東君に替わる次代の捕手として期待されながら、投手陣から
 彼以上の信頼を得る事はできず、捕手では生き残れないからと一塁手として再出発し、定着
 した矢先、余所からやってきた外人にあっけなくその場も奪われたのだから。
 同情は惜しまない。だから、考えてみるといい」
―― 何を。ひからびた唇は、動きはするが声を紡ぎ出さない。
「元凶は何か。君が崖淵に立つ羽目になっている、そもそもの、な。
 その現実が憎いか。憎いだろう。ありったけ憎めばいい。そうすればおのずと答えは
 出てくるはずだ」
手を引かれ、導かれる。堤の淀みない弁舌が一本道へと誘い込む。
その先の深い闇に覆われた袋小路へ。ひとつしかない答えへと向かって。
「このまま逃げたところで、君は我々に殺されるしかない。そうならないためには
 君は殺すしかない。それしか、君の取る道はないのだよ」

意識の片隅で甲高い音を聞いた ―― 銀貨が落ちてきた。
足元に転がり、やがて揺れの止まったその絵柄を、高木は虚ろな目で見つめた。
 
【残り11人・選手会7人】

160一時保管:2011/03/13(日) 11:16:12
240.蝙蝠の選択

騒然としていた病院内も、ゴメスらが一旦外へと出て行き、
平常の、どこか陰鬱な様子に戻っていた。
いつまでもロビーの椅子に腰掛けて、頭を抱えている自分は、
ある意味でこの場にふさわしいだろう。
本来ならば、誰かが川上を訪れる前にここを出て、
停めてあるタクシーで元の場所に戻り、一連の事態を報告すべきだ。
多少段取りは悪かったが、無線の些細なやりとりを聞き逃さなかった自分は
褒められるだろう。
だが実際にはこうして、看護師に不審な目を向けられながらも、ここを動けずにいる。
自分は待っている。ゴメスともう一人の男が戻ってくるのを。
そして、川上が目覚めるのを。
何を言おうというのだろう。蝙蝠は幸せにはなれないのに。
皺のよった眉間と、上がった口角。苦笑しているのか、自分は。
自動ドアの開閉音がして、正面玄関を向いている背中の後ろから、
しゃくり上げる声が近づいてきた。緊張で指先が熱くなる。
立ち上がると、目的の2人がうつむき加減で病室への通路へ向かっていった。
「あの」
肩に触れたかったのに、その手がどうしても届かなくて、慌てて呼びかけた。
怪訝な顔をして、トラックを乱暴に運転していた浅黒い男が立ち止まった。
「あの……」
「……なんだ?」
顔を手で覆っていたゴメスも、話しかけられたことに気づいたらしい。
「川上さん、無事ですか」
男はこちらを睨むような目つきになり、「あんた誰だ」と聞いた。
「僕は、二人――彼と、正津さんを、探しにきました。港から」
露骨な敵意が相手の顔に浮かんだ。
そうだな、不審者だよな。うっすらと苦笑いをして、首を振った。
「最後まで聞いてもらえますか。本当に連れて行くつもりなら、
わざわざ一人っきりで話しかけるような真似はしないです。逃げて欲しいんです」
「……」
男はじっとこちらを見ていたが、やがて周囲に目配せすると、
廊下の奥へ移るよう手で合図した。ゴメスも不安そうな表情でついてくる。
「ただ、僕が連れて行かなくても、遅かれ早かれこの場所は
奴らにつきとめられてしまう。船の数、見たでしょう。本気で探してるんです」
「捕まえて島へ戻すつもりか」
「いえ。僕も上の考えていることはわからないんですが、二人は別の場所に
連れて行くみたいです。生死は問わない、とにかく体を見つけ出せと上から
指示されました」
男の表情が、訝しげに曇った。
「その後は……?」
「わかりません。でも――」
不吉な未来を暗示するのが躊躇われて、語尾を濁した。
捕らえられたなら、二度と彼の姿を見ることはないという予感。
「だから、追っ手が来る前に、川上さんを連れてここを出てください。
球団に関わる人も、すでにこちらの手先になっているかもしれない。
どこか、誰にもわからない場所で身を隠してください」
「あんたはどうするんだ」
「僕は……僕もどこかに逃げます。見つかれば消されるだけですから」
「けど……」
男は逡巡するように、廊下の奥にある階段と、こちらをちらちら見比べた。
川上を連れ出して誰とも接触せず潜伏することは、
彼を別の種類の危険に晒すことにもなると考えているらしい。
「彼の容態を確認させてください。時間がないんです。
僕がいなくなったことだって、とっくに気づいてるはずです」
「ああ」
男は小走りで階段を上がり、病室を目指した。

161一時保管:2011/03/13(日) 11:17:00
急に扉が開き、あわただしく人が駆け込んできたので、咄嗟に首をそむけた。
うっすらと開けた瞳からは、ぬるい雫があふれる。
嗚咽をかみ殺そうとすると肩がふるえた。
「川上さん」
記憶の誰のものとも――もちろん彼を含めて――違う声。
医師だろうか。知りたいことは山のようにあったが、今は口をききたくない。
諦めて出ていってくれないかと願ったが、会話は続いた。
「まだ起きてない」
「この分なら、命にかかわる状態ではありません。お願いです、早く逃げてください」
「けど、もう一人のことだって……」
「それは……」
思わず振り向いた先には、見ず知らずの男が二人。目を丸くして、こちらを向いた。
「正津さんは……」
声を出すのが久しぶりすぎたからか、ほとんど音にならない。
体を起こそうとすると、別の人物が横から現れて、背中を支えた。
色の濃い大きな手。視線を上げると、豊かな顎髭を蓄えた横顔が見えた。
「レオ?」
そういえば海から引き上げられたとき、同じ問いを発したような気がする。
あの時、正津と一緒に救助されたはずなのに。
「正津さん」
一縷の望みすらないことはわかっていたが、繰り返した。
二人は沈痛な面持ちで俯いて、浅黒い男が搾り出すように言った。
「……病院着いたときにはもう、心肺停止状態だったって」
ゴメスが手で顔を覆い、低い嗚咽を上げた。
さっきの夢は、やはり――。
もう涙はこぼれなかった。

病室を支配するしているのは、辛くどこかもどかしい時間。
赤い目をして、表情を崩すまいと黙り込んでいる彼を、急かすわけにいかず、
けれど状況は一刻を争う。
すっかり暗くなった窓の外を眺め、駐車場に入る車を目で追っていると、
川上が不意に、口を開いた。
「逃げろって、言ったよな」
「……ええ」
「どういう意味だ」
「もうすぐ、ここにも追っ手がきます。島から逃げた、あなたを捕まえるために」
そして少し思案したが、「自分もその追っ手の一人です」と、敢えて付け加えた。
無表情の彼にほんのわずか、疑問の色が広がった。
「気が変わったんですよ」
ちらりと川上を支える男に目をやった。
そうだ。あなたの、ゴメスの姿を見て、何かが弾けた。
でもそれを言葉にすると、逆に嘘くさい。
「だったら、どこへ連れて行くつもりなんだ?」
「はっきりした場所はわからないですが、恐らくこの計画の本部に
連れて行かれるのだと。見つけ次第拘束し連絡せよ、こちらから搬送用に
ヘリか車を送る、そう言われました」
「もう一回聞くが」
黙っていた運転手の男が口を挟んだ。
「あんたは信頼できるのか?」
「もうすぐ反逆者の仲間入りですよ」
自嘲のニュアンスを込めて、肩を軽く上下させてみせる。
「黙って仲間を呼ぶことだってできた。それをしなかった。
判断はそちらに委ねるしかないです」
川上はじっとこちらをみつめ、何かを考えている風だったが、やがて言葉を続けた。
「本部ってことは、オーナーたちがいるんだよな?」
「それは……、断言はできませんが、多分」
「だったら、俺は行くよ」
何かを察したのか、ゴメスが腕をつかんだ。
「馬鹿なこと言うなよ、そんな体で乗り込んだって何ができんだ」
漁師が諭すように肩を叩いたが、川上はかぶりを振った。
「逃げて、一人だけ生き残ったとしても……何にもならない」
「一人で行ったって、それこそ無駄死にするだけですよ」
「チームのみんなが、オーナーに踊らされて死んでいくのを
待つだけだったら、その時間の方が無駄だ」
正津の死を知り、放心していた彼の声に、徐々に感情が戻ってくる。
「安全なところでただ見守るのは、もうごめんなんだ」
彼の両眼から一筋、雫が頬を伝った。
「……だったら例えば援軍を呼んで島に行くとか――」
男の台詞を遮って、川上は言った。
「人殺しをさせる連中相手ですよ。援軍を集めたって、巻き添え食らって
犠牲になる人がただ増えるだけじゃないですか?
逃げ回ってたらきっと、あなたとレオだって危ない」
どうなんだと言わんばかりに目線を振られて、確かにそれは事実だからと、頷いた。
「今だったらまだ、俺一人ならそこに行けるんでしょう?
だったら……そのチャンスに賭けるしかないんです」
リベンジを直訴する投手の、まっすぐな闘志がそこにあった。

【残り11人・選手会7人】

162一時保管:2011/03/13(日) 11:17:36
241.ボーダー

驚いたのは、その場に座っていた今岡の方もだった。
誰かが駆けて来る気配が急速に近づき、慌てて体を起こしたが、
英智のそばへと人が文字通り転がり込んできた。
あっという間の事で、隠れるタイミングを逸してしまったのだ。
暗がりの中でも、月明かりでユニフォームの白は映える。
英智の位置を把握していたということはおそらく、井上の存在も知っているはずだ。
今岡は肩からかかった狙撃銃の砲身に手をやった。
細く伸びるそれは、接近戦に向かないことを物語っている。
鉄に爪を立てながら、今岡は迂闊さを悔やんだ。
この状況下で一心に泣き崩れているなど。
(ありえない)
自分でもわかるというのに、桧山に再会して以後、歯車がずっと狂ったままだ。
『先輩の死に動揺して冷静さを欠いた』と簡潔にまとめても、
腑に落ちないからには、他の原因を探し当てなければなるまい。
様々な思考が巡る中、息を殺して、相手の様子をうかがった。
その選手は己に気づいていないようで、英智の手首を取っていたが、
やがてこちらを向いて動きをぴたりと止めた。
呼吸すら不自由に感じるほどの緊張感に、場が包まれた。


今自分の両手には何も無い。その認識と同時に、黙っていれば不意をついて
相手が襲い掛かってくるのではないか、という強迫観念を引き起こした。
「選手会の人間か」
急かされて投げた問いに、
「ああ」
と返ってきた声は、ひどくしゃがれていて、正体を隠してしまっている。
「誰だ」
さっきも同じことを聞いていた。そんな記憶が頭を過ぎる。
「……今岡やけど」
ややあって、相手は素直にそう名乗った。
驚きが起きなかったことに、むしろ意外さを覚えた。
自分が殺した選手と行動をともにしていた人物。
無意識のうちに、覚悟していたのかもしれない。
だからこそ、近くで9の数字が消えたことの意味を理解した気がしてしまい、
心臓が絞られるような吐き気がこみ上げてくる。
「井上さんに、何をした」
怒りでうまく発語できずにもどかしかったが、辛うじて押し出した。
相手は頭を押さえているようだったが、数度大きく呼吸をし、
「それが……わからへん」
と、弱弱しくこぼした。
その一言が、己の逆鱗に触れたことを自覚したときには、
相手に馬乗りになって、シャツの襟元を締め上げていた。
「わからないわけないだろうが!」
表情は判然としないが、今岡は酷くうろたえた様子で、
見境なく腕を振り回しながら、離せ、離せと叫んだ。
「井上さんを……井上さんを……!」
どうしても続きを言えなくて、ただ苛立ったまま繰り返していると、
右目に不自然な白さの衝撃が走った。
思わず眼球を掌で覆い、慌てて何度も瞬いた。
眼球に相手の指がぶつかったのか、奥のほうで鈍痛がする。
ますます我慢ならなくなり、「この野郎」と吐き捨てて利き腕を引いた直後。
顎にめがけて今岡の拳が入った。
「ぐっ……」
予期せぬ強打に、バランスを失って体が地に倒れた。
すぐに反撃しようと思えど、腕も上体も動かず、英智の体と、
その横に置かれていた手榴弾とが、視界の中でぐらぐら揺れていた。

163一時保管:2011/03/13(日) 11:18:08
小笠原の声がして、少しだけ瞼を上げた。
上げたはずなのに真っ暗で、一度下ろしてから今度は大きく見開いた。
やはり、暗い。
そのうちやっと、空の色と木の葉の影の違いが識別できるようになり、
同時に頭上で人の争うような物音がすることに気づいた。
(何だ?)
意識は目覚めていても、体躯の隅々まで伝わるのには時間を要した。
どくん、どくんと、鼓動にあわせて、下肢に痛みのシグナルが水面の輪のように広がる。
「井上さんを!」
平静にはない、親友の不安定な怒声が鼓膜を振動させる。
(井上さん?)
五感に届く情報を集約できない。
やっと動かせるようになった指先に目をやると、誰かがすぐ傍に倒れこんだ。
ふー、ふーと、威嚇している猫のようにうなっているのは、小笠原だろうか?
(だったら、誰に向かって?)
突如として合う焦点。小笠原は、誰かと戦っている。
外敵に対する警戒感が一気に己を覚醒させた。
蘇った右ひざの激痛に頬を引きつらせたが、それでも右手を地面につこうと、
腕を曲げると、冷たい塊に触れた。
(手榴弾、だよな)
何故手元にあるのか。考えている余裕はない。
ともかくそれを握り締めて体を起こした。
這いずる様に頭上の方角に寄ると、スーツ姿の男が一人座っているのだが……。
「英、智……無理すんな」
倒れていた小笠原が、肩を掴んでいた。
しかし、頭を持ち上げるのすらやっとという風に、地面を向いている。
「オガサ、誰だ?」
「今岡さん、だと」
小笠原はおぼつかない足取りで立ち上がり、自分の前に立ちはだかった。
「お前こそふらふらだろ」
目の前に来たふくらはぎを叩いたが、「殴られただけだ」と後ろ足を返してきた。
今岡は苦悩するような呻き声を上げていたが、小笠原の影が高く伸びたのを見て
「やめろ。頼む」と、強い口調で、しかし懇願した。
即座に、小笠原の足首を掴んだ。
「なんだよ」
「待てって」
何故か、攻撃すべきでないように思えて、宥めようとしたが。
「あいつが井上さんを……」
憎しみに満ちた小笠原の、完全でない台詞で悟ってしまった。
己を守ろうとしてくれた先輩の姿が、今ここにない理由。
小笠原と同じ感情に染まりかけた、その時。
「ほんまに……わからんねん。自分が、何したか」
今にも泣き出しそうな様子で、彼は言った。
己の足を砕いた男の異様な眼光が思い出された。
確実に、まともではないあの挙動。もしも今岡がその間で揺れているとしたら。
(どっちにしても、俺はもう逃げられない)
右手の武器を確認するように、親指で外殻をなぞった。
(オガサを助けられるなら、怖くない)
「井上さんと、何があったんですか」
たとえ狂気のスイッチに、触れてしまったとしても。

【残り11人・選手会7人】

164一時保管:2011/03/13(日) 11:18:48
242.援軍

「あきれてものが言えんわ」
老眼鏡をかけた男が、数枚の紙切れを繰りながら呟いた。
「船に乗り込んで、あんな企画してしもて。殺してくれ言うてるのと一緒やないか」
テーブルの上に投げ捨てた紙の表には、「特別戦第二部実施にあたっての注意事項」
と記載されている。
本来ならば、特別戦の中継クルーが所持し、こんな公の場所、名古屋市役所近くの
喫茶店でグラスの露を吸っているような資料ではないのだが。
「……あいつら、無事でしょうか」
対面に座っていた中年の男が、うつむき加減で言った。
「あのねえ」
もう片方の男は老眼鏡をはずしながら、濁声をふるわせた。
「君らは単なる自業自得でしょ。問題は二軍」
口にしかけたところで、近くの席にいたサラリーマン二人組が、
男の顔にちらちら目をやっていることを知り、ボリュームを絞った。
「二軍選手や、心配なのは。あんな状況で発症したら悲惨なことになる」
中年男性は紙切れの表紙を凝視していたが、
「どうしたらいいんですか」とこぼした。
「なんや広域電波障害で船も出せないし、軍艦の場所もわからんのでしょ。
港戻ろうとしてた、いうのを信じて待つしかないわ」
「何でそんなに落ち着いてられるんですか」
苛立ったように、中年の男がテーブルを叩いて、紙切れにできた水の染みが広がる。
「落ち着いてるもんか」
濁声の男はグラスの水をガブガブと飲んだ。
「とにかく、薬受け取るのが先や。それから港でみんなと合流、
船が戻るまで待機。以上!」
グラスの底がテーブルを打って、堅い音が鳴った。
中年の男は何か言いたげだったが、諦めたように肩を落とした。


音の携帯に、再び着信があったのは、あれから30分程度経った後のことだった。
今度は090ではない。「公衆電話」と表示されている。
少しだけ顔をしかめて、通話のボタンを押した。
「あー、もしもし、音くんか?」
こちらの電波もよくないのか、雑音が大きい。
「そうですけど」
誰かわからないが、このなれなれしい調子は知り合いに違いない。
敵なのか、味方なのか。警戒しながら続きを待った。
「ボクです、板東です。わからんかな」
「!」
ディスプレイを思わず二度見した。
「まあええわ。今、話してもええですか」
「はい」
取り繕うように頭を下げたが、電話の主に見えるはずも無く。
そんな自分に気づいて恥ずかしげに崩した顔もやがて、
硬いものへと変化していき、本線道路へと出て行く車のライトも目に
入らなくなった。
携帯電話を握っていた手が、僅かに震えていた。

――二軍の連中も危ない。
板東の台詞が脳内を巡り、音はアクセルを深く踏み込んだ。
彼がテレビ局の関係者を通じて得た情報は、音も落合らも知らないものだった。
二軍選手がナゴヤドームに集められたとき、ある種の感情、主に反道徳的なそれを
増幅させる、覚醒剤のような薬品を投与されていた。
やがて発症すれば、周囲の人間を巻き込んだ暴力沙汰になっていくだろう。
その上まずいことに、彼らは仲間同士集まって蜂起し、逃げ場のない軍艦に
乗ってしまった。
試験的に調剤されたもののため、効果の程度はわからない。
しかし、1時間ほど前に艦内で何かが起きたらしい。
「選手がおかしい。帰港すると言っているが、早く救助を――」
中継クルーの交信はそこで途絶えてしまった。
本部とテレビ局内部の連携がうまくいっておらず、情報が錯綜しており
中継クルーはなにも聞かされずに乗り込んだのだ。
薬剤の効果を薄める鎮静剤なども用意されていたのだが、
テレビ局側がそれを入手したのは中継が始まった後のこと。
何とか助ける方法はないかと、関係者に泣きつかれたと、坂東は言った。
「OBは呼べるだけ呼んだわ。名古屋から遠い人は来られんみたいやけど」
東京へ向かった落合らに援軍が必要なことを、音は手短に説明すると、
「わかった。とにかく合流しよか。港来てもらえる?」
そう問われて、「はい」と力強く答えていた。

【残り11人・選手会7人】

165一時保管:2011/03/13(日) 11:19:52
243.寓話

周囲が明るいことにはっとなって、福留は歩みを止めた。
見上げれば澄んだ濃紺の空で、白い月が輝いている。場に似つかわしくない
美しさだった。
月に向かって打て。
急にそんな名言を思い出して、唇だけその形に動かしてみた。
遣る瀬無さが胸に込み上げてきて、頭を垂れた。
誰かが冗談として言っていたのだ、どこかの球場のベンチで、試合中。
こんなタイミングでうっかり、日常の一こまを思い出してしまうなんて。
もう後戻りをしないと決めたのは、自分なのに。
足元の草も、薄ぼんやりと白く照らされていた。
いくら視界が利くといったって、今は夜だ。
移動には、まして目的地のはっきりしない探索には向いていない。
わかってはいるのだが、胸騒ぎがおさまらず、ひたすら彷徨っていた。
古田を殺せば、終わる。
その思いつきに囚われたままでいる。
もしそうだとしたら、自分たちは一体何のために?
殺し合いという舞台を作り上げるための、エキストラに過ぎない?
――エキストラがこんなに死んでしまうなんて、馬鹿な話じゃないか。
考えを振り払おうと、頭を左右に動かした。
けれど。
ポケットの中の、携帯電話を握りしめる。
選手会を仲違いさせて全滅させるだけなら、中日の選手が出てくる必要はないはずだ。

頭上で奇声がしたので振り仰ぐと、天頂を大きな鳥が横切っていった。
ぎゃあぎゃあという耳障りな鳴き声が、尾を引くように飛んでいく。
福留の見開いた目に、満月が丸く映りこんだ。
裂けそうなくらい口をあけたが、叫びは上ってこなかった。
どうしてもっと早くに気づかなかったのか。
いや、むしろ……こんなことに気づいてしまったのだろう。
バファローズとブルーウェーブが合併すれば、1球団減る。
オーナー達の望む1リーグ制のためには、さらにあと1球団減らす必要がある。
第2の合併が進んでいると聞いて、自分たちはリーグが一つになるのかどうかに
ばかり気をとられていたが。
ドラゴンズがここで消滅すれば、10球団だ。
そもそも第二の合併なんて、話があるのかどうかも怪しかったじゃないか。
今まさに選手が減っている自分たちがいなくなるほうが、オーナーたちにしてみれば「合理的」だ。
――本当に狙われているのは、自分たちの方?
突然、チェス盤のキングが倒れる光景がクロスする。
彼の脳内を占める二つの思い付きに、接点が生まれて。
表裏一体の悲劇的な結末が、像を結んだ。
最悪の手段を選び、皆に愛された球団を葬ってしまった選手会か。
強者の味方について、義憤に燃える選手会長を亡き者にした中日か。
どちらにせよ、死人に口はない。
滅びた後のことは、滅ぼしたものが語り継ぐのだ。
真実なんて都合のいいように書き換えられてしまう。
いつの間にか指を噛んでいた。血が滲んでしまいそうなくらい、強く。
古田が死ねば、ゲームセットだ。
そして、中日ドラゴンズも、そこで一緒に終わる。
嘘だ。
これは妄想だ。
自問自答を繰り返したが、いてもたってもいられず、福留はただ闇雲に森を駆けた。

【残り11人・選手会7人】

166一時保管:2011/03/13(日) 11:20:30
244.理由

電話が切れると、三木谷は指が痺れていることを自認して舌打ちをした。
堀江の手前、通話中は精一杯の虚勢を張ってみせたが、
嘘に嘘を重ねる一種の博打に、極度の緊張を強いられた。
「どうだ」
作業を続けている職員に問うが、苦い表情で駄目だと答える。
本当は、堀江の作ったシステムを妨害するところまで至っていなかった。
乗っ取りを計画していることは、向こうにいる手先を通じてわかったが、
すぐに決定的な策は打てなかった。
敵も然るもの、と、こんなタイミングでその言葉が思い浮かび、三木谷は余計に
腹立たしくなった。
完全に解除するにはまだ時間を要するだろう。
しかし、堀江の乗っ取りは今にも始まろうとしている。
目くらましの小細工を準備し、己の登場で撹乱させる。それしか最早、方法はなかった。
ブログサーバが落ちたのも、本当は乗っ取りのためのシステムと連動しているわけではない。
手先が別にやったことを、表向き取り繕っただけだ。
奴がそれに気づく前に、解除しなければいけない。
宮内の機嫌など、正直なところどうだっていい。
あの男に負ける。それがただ許し難いのだ。
幸い、奴は目くらましに騙されて、内部の裏切り者探しに躍起になっているという。
しめたものだ。
「とにかく急ぐんだ」
と職員を急かして、再び携帯電話を手にした。


薄暗い階段に2人の影。大げさな動作は無いが、何事か話し続けているのはわかる。
これまでの、彼の語り口から考えるに、重要なる知識の伝達。
押さえておかなければならない内容であろう。
しかし、肝心の中身がうまく聞き取れない。
院内にも何カ所か、マイクを仕掛けてあったが、階段からは位置が遠い。
ぼそぼそと輪郭のぼやけた音が、画面上に波形となって表示される。
首輪の盗聴器が作動していれば、はっきりと聞こえたはずだ。
「申し訳ありません」
電話の向こうで、男が詫びていた。
「謝らないでくれ。君は十分、我々を助けてくれた。恩に着る」
「しかし……」
「良いんだ、三木谷君」
宮内は通話を終えると、こめかみを押さえた。
首輪が爆発しなかった理由。
あの素性の分からぬ企業の社長、堀江がシステムの乗っ取りを企てて、
罠を仕掛けてきた最中だった。だから誤作動が起きて、5番と7番の首輪は電源が
切れてしまった。
三木谷はそれに気づき、一時的に食い止めているという。
危ないところだったのだ、我々は。宮内は冷め切った茶を一口飲んで、溜め息をついた。
彼の機転がなければ、今頃システムは落ち、堀江が正義の味方面で表舞台へと
しゃしゃり出ていたことだろう。冗談ではない。
三木谷はそれでも、解除作業が手間取っていることを繰り返し詫びていた。
謙虚な奴だな、と、宮内は思った。ただ……確かにこのままでは困る。
渡辺ほど乱用するつもりは無いにせよ、肝心なときに首輪を起爆できないのは痛い。
それに何より、7番をこのまま生かしておきたくなかった。
あの隔離された島で、何ができるわけでもないのだが、それでも早く手を打ちたかった。
――そういう性分なのだ。不安材料は除去する。そうしてここまでやってきたのだから。
高木も佐伯も、今は自分勝手に動いているらしい。
他に、こちらの一存で動かせるような存在はない。
見ていることしか、できないのか。
画面の2人は、まだその場を動かない。

167一時保管:2011/03/13(日) 11:21:18
血だまりを避けようと、恐る恐る歩く渡邉を無視して、川相は一直線に廊下の奥へと進む。
そして薄目で倒れている、直視するのも憚られる高橋の凄惨な死体から、
散弾銃を奪い取ると、階段へ向かうよう指示した。
さっきまで号泣していたから、目や鼻はまだ赤い。
しかし、人格が変わったかのように、冷静で手際がよい彼の姿。渡邉は軽い目眩を覚えた。
武器庫と書かれた部屋の前で、轟音が二度響き、固く閉ざされていたドアが諦めたように、
隙間を作って中の空間を覗かせた。
「武器庫ってわりに、大したもん置いてねぇな」
川相は忌々しげにそう言って、中を物色した。
「シグザウエルと……ウージーは1台だけか」
ふざけんなよと毒づきながら弾を確認し、装備しろと次々渡邉に手渡した。
「川相さん、これ……」
手の上に積み上げられた銃器2丁とマガジン、ナイフに視線が奪われる。
「重いだろ。走れそうか?」
「走れますけど、こんな武装する必要あるんですか?」
もちろん、選手会のメンバーに襲われたことも、忘れたわけではないのだが。
川相はショルダーホルスターに2丁の拳銃(スプリングフィールドXDというらしいが、
渡邉には自分の拳銃との違いがよくわからなかった)を装着しながら、
「この先は、選手以外が来るかもしれん」と答えた。
「選手以外って?」
いぶかしんで聞くと、
「本部からの使者。プロかもな」
事も無げに返す。
理解しきれず眉間に皺を寄せると、彼は手榴弾をデイバッグに詰めていた手を止め、
「首輪使えないみたいだから、直接来るしか方法が無いはずだ」
と、こちらの首もとを指差した。

川相の話では、出発時点から少なくとも病院に入った直後まで、
首輪にあるごく小さい正方形の窓に、緑色のランプが点いていたという。
それが今はお互い、消えていた。
状況と照らし合わせてみても、作動しなくなっている可能性が高い。
院内は電気がついたままだから、電源ごと落ちたとも考えにくい。
だったら今のうちに、首輪ごと外してしまったほうが良いのではと進言したが、
『無理に外すと爆発する』という機構はどうなっているかわからないから、
やめておけと川相は言った。
「ランプが元通りになって、途中で首吹っ飛ばされて終わるだけかもな」
彼はさばさばとした様子で、他人事のようにそうせせら笑う。
その横顔を、先ほどまで見せていた感情の片鱗が、わずかに染めていた。
渡邉は何も言えなくなった。
代わりに泣くことでもできれば良かったのに。そんなことをふと思った。
階段で告げられた話で、ようやく彼の行動の意味を悟った。
本部の目を欺き、そして何より、チームメイトを巻き込むまいとして、
続けていた狂気の演技。
死ぬ覚悟があるかと詰問したのは、己の洞察や作戦を共有すれば、
本部の標的となってしまうという警告だったのだ。
すべての会話が終わって、自分の置かれた立場を理解したが、後悔はなかった。
この病院は、わざわざ人を集めて戦わせていたのを見るに、
島の制御の機能を置いてあるとは考えにくい。
むしろ、建物に入れるまいと罠を仕掛けてあったもう一つの建物、
廃校に実体があるはずだと、川相は説明した。
監視と首輪の制約がなければ、少なくとも中日選手側が戦う必要はなくなる。
本部の妨害も十分に予想できたが、終了を待つ傍観者にはもう戻れないのだ。
一刻も早く、廃校へ。
無邪気に喜べる要素なんて、考えれば考えるほど何もないのだが、
それでも仲間のために自分にできることが見つかって、前を向ける気がした。

【残り11人・選手会7人】

168一時保管:2011/03/13(日) 11:21:58
245.prisoner

堤はモニタの薄暗い映像の中で立ちつくす高木の姿へ向け、蔑みをこめて低く嗤いかけると
マウスを操作してウィンドウを閉じ、通信マイクの付いたイヤカムをキーボードの脇へ置いた。
「おい」
部屋の隅に控えていた事務員を呼びつける。用意ができたと聞かされていた病院の設計図に
関する調書を彼から受け取り、モニタルームへ行くと伝えて席を立つ。
ふと思い立ち、一礼をして見送る事務員をドアの手前で振り返った。
「どうかね」
脈絡なく投げられた一言に、手を身体の前で組んだ姿勢の彼が、まごついた様子で目を瞠る。
「くだらない暗示などより、こっちの方がよっぽど効果的じゃないか。そう思わんか」
堤は口の端を上げると、相手の応えを待つことなく部屋を出た。


神経に障る雑音が弾けて通話が断ち切られた時、視野が黒く塗られた気がしたが、すぐさま
薄闇と己の周りを囲む木々が目の前に戻ってきた。
コンマ数秒の放送事故のように。
瞬きをしただけだと、その違和感は瑣末と処理される ―― きっとろくに寝ていないせいだ。
清原は右耳からイヤホンを外した。
どちらかと言えば泰然自若で大様な印象の強い中村が、高木の捜索を依頼した自分と
変わらないほど切羽詰まった口調で、無線を使うな、電源を切れとまくし立てていた。
―― どういう事だろう?
彼の正確な意図はつかめないが、単なる思いつきの指示でない事は解る。
言われた通り電源を切り、コードを巻きつけて再び肥やしにするべく右のポケットに突っ込む。
中村は高木の件を了解していた。目的は果たしたのだから、それでいい。
LED電灯で足元と前方とを交互に照らしながら、荒れた山道を急ぎ足で引き返して行く。

それにしても。緩やかとはいえ、気を抜けば足を取られかねない下り道に注意を払いつつ、
清原はぼんやりとした疑問を思い浮かべる。
邪魔ではあるが、特に不審な点は見当たらなかったこの無線機をして、彼があれほど必死に
なった理由は一体何なのだろうか。
中村が通信を一方的に切る直前に告げた台詞を、口の中で繰り返してみる。
『この通信で最後だ、絶対に繋げるな』
絶対にということは、向こうもこれ以降無線を使うつもりがないのだと推測できる。
都合が悪いとすれば、何に、誰に対して? ―― それは決まっている。
(オーナーに聞かれたくないから。盗聴……つうか、今さらやんけ、それ)
清原は、ぎゅっと眉根を寄せる。本当にそんな単純なことなのか。
深く考えるつもりはなかったのに、いつの間にか思惟の路に迷いかけている。
あかん、大げさに溜め息をついて、かぶりを振った。
考えるよりは、無心になるまでバットを振っている方が性に合う。迷うよりまず動け、だ。
脳みそを使うのは、そういう才のある者たちに任せておけばいいのだ。
(なあ。お前やったらもっと上手いこと考えられるんやろうけど)
自分より頭一つ背の低い、プロとして共にしのぎを削り合う同窓生の名を呼ぶ。
理屈や理論とは彼のためにある言葉なのだと、常々そう感じていた。
記憶の中の彼がこちらを振り向く。
その顔が。

―― 刹那、駆け下りる足の行方を見失い、両眼が漆黒に塞がれた。

169一時保管:2011/03/13(日) 11:22:30
視覚を失う恐怖に心臓がひときわ強く脈打ったと同時、自分が見ていたのは古い
ブラウン管のテレビ画面だった。冷静には思い返せない、十九年前のあの日。
独特の節回しがアナウンスする。第一回選択希望選手、読売 ――
告げられたのが自分の名前でなく、彼の名前なのだと知った、あの時。
容赦なく焚かれる無数のフラッシュ。頬を流れ落ちた涙。

少しずつ闇の剥がれていく隙間、その顔の下半分が醜悪に歪む。
彼の唇が、わらう。
わらいながら言う。


『殺せ』


「!」
着地しそこなった足が支える役目を果たせず、身体がバランスを失って大きく傾いだ。
前へ突き出し、宙をかいた右手がざらついた感触に当たる。掌を擦られ、肩口が木に衝突し、
腕の関節が無意識に畳まれて木の幹に巻きつく格好になった。
靴の底が勢いで滑っていきそうになり、とっさに左手で枝をつかんで踏みとどまる。
短距離走を全力で駆け抜けた直後のように、荒い呼吸がおさまらない。
自らの内にうごめく、あらゆる感情が一つにまとまり、塊となって五臓六腑を突き上げた。
清原は絶叫した。理性を称するヒューズが飛んだ。
「 ―― っうぁ……あっ……」
やがて限界を超えた喉が痙攣し、嗄れた呻きを絞り出す。
(なん、で……)
足を引き寄せ、膝から下が震えるのをこらえながら、木を支えに大柄な体躯を起こしていく。
「……何でや……なあ……」
白地に黒いロゴの ―― 高校時代のユニフォームをまとった彼は、自分の名を呼び、
屈託なく笑いかけてくるのに。
「何で、俺がお前を殺さなあかんねん」
自分にとっての思い出とは、十九年前、彼と袂を分かつきっかけとなった運命の日より
以前のことで。その日から後のことは、一本一本が皮膚にくい込み血を滴らせる
不可視のワイヤーでしかない。
「お前殺したって俺は ―― 」
いるはずのない“エースナンバー”の背中を捜しさまようかのように、立ち木に手をかけながら
下り坂をふらふらと進む。
―― 殺したって、友には戻れない。いつまでも泥まみれのユニで、無垢に喜怒哀楽を表現
し合える野球少年のままではいられないほどに、俺たちは歳を重ねすぎたのだ。
(そんなん分かっとる。分かっとる、けど)
また一筋の激情が脳天を突き、たまらず木の幹を拳で殴りつけた。
振動で枝葉がざわめいたその時、別方向から同じ音が近づいてくるのを聞いた。
呼吸の整わないまま、清原はそちらを振り向く。
前方の薄闇の中に佇む、細身のスーツ姿 ――
爆発させるつもりのない手榴弾を盾に、自分の目の前から姿を消した、西武時代の後輩。
「 ―― 」
彼の名を呼ぼうとした、瞬間。

その顔がぐにゃりと歪み、かつての友のものへと変じた。
悪意をもって三日月に形づくられた唇が、再び同じ言葉を紡いだ。

【残り11人・選手会7人】

170一時保管:2011/03/13(日) 11:23:50
246.距離

岩瀬が自分で歩けると言い出したので、山本は姿勢を低くして彼を地面の上に立たせた。
現在北上している森と、その先にある平原の境 ―― 立浪と石川のいる(あくまで希望的
観測をこめた現在形であり、今は過去形かもしれない)場所へ向かうにあたり、長く歩けない
彼の負担を減らすため、ときおり山本が背負って歩いているのだ。
見た目より体重差は大きくないので、山本の疲労蓄積も半端ではなかったが、しきりに
恐縮する岩瀬に自己嫌悪の念を抱かせるわけにはいかず、平気なふりをしている。
「投手は下半身が命だからな。トレーニングと思えば何でもないよ。お前のおかげで、
 俺の真っすぐもちょっとは速くなるかもしれないだろ」
申し訳なさそうな表情をする岩瀬に、冗談を言ってやると、少し安心したのか彼の口許に
笑みがにじんだ。
そうして並んで再び歩き出す。視界は暗いが雨雲が去ったこともあり、満天の星明かりと
東から天頂を目指しつつある月の光が、覆いかぶさる枝葉の隙間から自分たちの
行き先を照らしてくれている。
名古屋では ―― まして本拠地のドームの屋根の下では、決して見ることの叶わない光景だ。
もうそれなりの歳になったから幼い頃のようには喜ばないかもしれないが、子供たちに
この星の海を見せてやったら、何と言うだろう?
「きれいですね。木が邪魔だけど、月もいつも見てるのより全然白い。満月かな」
感慨にふけっていると、隣で岩瀬も同じようにしんみりとして呟く。
「そうだな」
「満月って言えば、昌さん知ってます? 地球に四季があるのは、月との間に絶妙な
 引力が働いてるからだって。もし、そのバランスがほんのわずかでも崩れたら、
 自転軸の傾きが変わって、地球は生き物が住めない星になってしまうって」
「なんだそりゃ」
最終回のマウンドに上がる時の顔つきからは想像もつかない、少年の面差しで宇宙の
ロマンを唐突に語りだした岩瀬に、山本は眉尻を下げ、吹き出した。
「お前あれだろ、また憲伸とかからホラを吹きこまれたんじゃないか?」
「違いますよ、真面目な話ですって! ……だって、教えてくれたの野口だし」
語尾をしぼませて項垂れる岩瀬に、ああ、と山本は笑みを消した。
「……そうか。そりゃすまないな」
岩瀬は、いえ、と首を振り、目線を前方へ戻した。
「人間もそうなのかな、って思って。人間同士も、お互いに思い合う気持ちのバランスを
 崩したら、憎んだり、裏切ったり、殺したり……そうなるのかなって」
ぽつぽつと言葉をつなぐ、その横顔は淋しい。
山北や佐伯、そして福留のことを指しているのだろうと察した。
それから、この島で目の当たりにしてきた、いくつもの死について。
「俺と、昌さんも、もしかしたら」
「岩瀬」
すかさずその台詞の続きをさえぎった。はっ、と息を詰めた岩瀬が山本を振り仰ぐ。
「俺は、お前を信じてるよ」
もし、岩瀬の心を支える軸が揺らぎかかったのなら ―― 彼を思いやる気持ちを伝える
ことでそれを正してやれるのなら ―― 何度でも俺は、それを言う。
岩瀬はほんの一瞬泣きそうな顔をして、懸命に堪えてうつむいて、しかし情けなく眉は
下げたまま ―― しっかりとした目で山本を見た。
「俺も昌さんを信じてます」
山本はただ静かに彼の背に触れ、ぽんぽんと軽く叩いた。
“IWASE 13”の文字を背負い、マウンドに仁王立ちする守護神。今季から初めて
担う事になったポジションには後がない ―― 同じ投手と言えど、山本には想像し得ない
重圧を彼はその青い数字の背中に乗せ、戦っている。
あの時、思わず弱音をもらした自分を、必死で元気づけようとしてくれていた岩瀬は
しかし、一方では誰にも言えない孤独に苛まれていたのかもしれない。
「あまり後ろ向きには考えたくないけど、立浪と石川がいなかったら今晩はもう休もうな」
昨日寝てないんだから、と付け加える。岩瀬は何も言わず、頷いた。

171一時保管:2011/03/13(日) 11:24:54
この島で、幾度も人の死を視た。裏切り者の名前を聞いた。
何が正しいのか間違っているのか、杓子定規に線の引けない世界に自分たちはいる。
だからこそ、自らの指標をはっきりしておくべきだ。山本は考える。
(正しいことをする)
憎しみや憤り、それにまつわる負の感情に裏付けられた正義ではなく、人として
なすべきことを。
自分が最後の砦などとは思いたくないが、それくらいの心積もりではいるべきだろう。
(今が正念場だ。何が正しいのか、何を信じるのか)
足場をしっかり固めておかなければ、ひょんなことから足元をすくわれてしまう。
猜疑や疑念はどこにだってある。後ろから追ってくるかもしれない。向かう先で出会うの
かもしれない。
(古田に会って ―― )
回り道には慣れている。終わりが見えず、途方に暮れながら歩いていた過去の泥まみれの
道を思えば、大した距離ではない。
(なあ、武志)
その長い道中を共に歩いてきた、かつての女房役へ語りかける。
彼も今、同じ月を見ているのだろうか。

【残り11人・選手会7人】

172一時保管:2011/03/13(日) 11:25:34
247.鏡像

何があったと問われたところで、相手の期待する明瞭な回答は持ち合わせていない。
(今だって、殴るつもり無かったのに)
爪が突き刺さるくらいきつく握り締めた右手と、その向こうに立つ選手
(オガサと呼ばれていたから、恐らく左腕投手の小笠原だと、今岡は推し量った)
とを交互に睨んだ。
自分の体がコントロールできなくなっている。
バッティングフォームのように、微細な違いではない。
相当の感情のうねりが伴わない限り、起こり得ない動きが、記憶の欠落とともに発生する。
波の予兆はある。けれど、大波そのものはまだ到達していないのに、
気がつけば自分の体はさらわれて海底を引きずられている。
これをどう、言葉で伝えろというのだ。
銃に右手がかかってしまえば、取り返しのつかない、最も忌避したい悲劇まで一直線だと、
慄然として左手を漫画のごとく押さえつけていたなど、到底、理解を期待できるものではない。
「……わからんねん、ほんまに」
だからそれを繰り返すという以外の選択肢を、見つけられないのだ。
「井上さんを」
小笠原がそうであったように、言葉として発するのを躊躇したのだろう、
名を呼んでからしばし無音の時が流れたが、英智の機械のような平坦な声が続いた。
「殺したんですか」
――そうだ、桧山を殺したと言うから、敵討ちしたのさ。
そう答えられれば、どれだけ楽になれただろう。
違うのだ。ナイフで銃創はつけられない。彼を殺さねばならない理由は何もなかった。
「確認、してないけど」
あの場を去る前の、何故か滲んだ彼の姿を思い返しながら。
「ナイフ刺さって、倒れたのは見た」
「誰が刺したんですか」
間髪をおかずに問われて、また返事に窮する。
記憶にあるのは、柄を握りしめた感覚だけだ。肝心なピースがどうしても見当たらない。
「井上さんが投げて……多分、俺が投げ返した」
「多分、だと?」
地面を踏みしめ前へ出た小笠原が、怒りをこらえきれない様子で言った。
(そうやな)
妙なくらい冷えてしまった頭で思う。
大切な先輩を殺した敵が、一番大事な部分について、筋の通らない答弁を繰り返しているのだから。
(俺だって、一緒や)
「……こっちも聞きたいんやけど」
側頭にチリチリと痛みが走る。久しぶりの、明確な感情の昂ぶり。
「桧山さん殺したのは、誰なん」

青白い光が、3人を照らしていた。
塑像のように動くことを忘れたその一群は、さながら夜の美術館のようだ。
数十メートル向こうには、本当に動かなくなった人間が2体倒れていて、
ますます錯覚を加速させるだろうが。
切れ端のような雲がかかって月明かりが弱くなり、やっと魔法が解けたと言わんばかりに
――実際は業を煮やしただけなのだが、今岡が言葉を取り戻した。
「井上さん、自分が殺したって嘘ついてはったけど」
対峙する一対の像は、互いを見合わせた。つながった視線を通って困惑が行き来していたが、
それぞれの解釈が出た時点で、双方を守るための焦燥に変わった。
「俺だけど」
右手を握りしめながら、地面に近い英智が答えた。
驚いて屈もうとした小笠原の脛を、下がっていろと言う代わりに二度叩いた。
「いきなり襲われて、膝まで砕かれたから、仕方なく」
「違う」
「オガサ」
咎めるように仰いだ英智を無理やり押しのけて、小笠原は首を振る。

173一時保管:2011/03/13(日) 11:26:29
「お前まで嘘ついてどうする」
じっと、2人の様子をうかがっている今岡を睨んで、
「嘘にむかついて攻撃したんですか」と切り返した。
ややあって発されたのは、弱い声。
「それは違うけど」
「じゃあ、どうして井上さんを」
小笠原の台詞は、やはりその先を超えられない。
「自分は何で桧山さん殺したん」
今岡も答えはせず、逆に質問をかぶせた。苛立ったように、小笠原は捲し立てた。
「桧山さんが英智を殺そうとしたからですよ。井上さんを襲って、英智の足を踏んで
こんな風に逃げられないようにして、それでとどめを刺そうってナイフを振り上げたから、
守るために撃ちました。俺の言ってることおかしいですか?」
押しつぶすように握った左手の人さし指。
トリガーの固い感触を忘れたくて、しかしいつまでも残っている。
深い傷を負った選択だったのだ。
だからこそ、井上を殺害した状況が曖昧な今岡を、理解することができなくて。
つい、「おかしいか」と付け加えてしまったのだが。
「少なくとも……殺しといて、まともやとは思わんけど」
体中の血液が凍ってしまったような錯覚が、小笠原を襲った。
『こんなことはしたくなかった』の安易なエクスキューズで、殺人を正当化しようと
している自分が、そこにいた。
「桧山さん、最期なんて言うてはった」
硬直した小笠原に、今岡はなおも問いを投げつけた。
やけに遠くで響いた気がして、意味を理解するのですらかなりの時間を要した。
頭の回転が鈍い、考えても考えても、脳内は暗転したままだ。
酷く冷たい汗が、耳の下を伝う。
「……わかりません」
敗北宣言のような、気がした。
「終わりや、英智、って……」
自身の回答に自失する小笠原を庇うように、英智が言った。
相手は何かを考えているようで、大きな呼吸を繰り返していたが、ぼそり、
「そうか」と納得したように頷いて、再び小笠原を見上げた。
「覚えてへんやん。自分も」
呆れているわけでも、嘲るわけでもない、全く感情の無い台詞。
ただ事実を突き返されて、小笠原は歯を食いしばった。涙がこみ上げてきた。
「今岡さん」
気配を察した英智が、右手の中身を密かにポケットへと押し込んで、
相手に向かって両手を開いた。
「俺ら、丸腰なんです。銃ももう弾切れしました。あなたを殺そうにも、殺せない」
砕かれた膝を投げ出すように前へ動かして、英智は呻いた。
移動すらままならない。その事実を見せつけると、
「ここは引いてもらえませんか」
と、うつむき加減で、乞うた。
はっとなって、小笠原は慌てて膝をつき、英智の背中を支えた。
今岡は無言のまま立ち上がって、銃口を2人の方に向けたが、反撃しないことを理解すると、
「わかった」と受けた。
そして、右足を引きずりながらゆっくりと、後ずさっていった。
視界から敵の姿が無くなって、英智は肺の中身をすべてはき出した。
「泣くなよ」
「……」
「お前のおかげで、俺は生き延びた。お前は悪くない」
そう言って肩を抱きすくめられたが、小笠原は地に伏して、泣いた。

【残り11人・選手会7人】

174一時保管:2011/03/13(日) 11:27:00
248.着地点

視覚のとらえる闇がよりいっそう深く濃くなったのは、単純に日が地平の下へ消えていった
からであり、精神世界を反映した比喩というわけではない。
冷静に夜の訪れを知る感覚が働いている一方で、どれくらい身じろぎもせず突っ立った
ままなのか ―― 時間の経過をまるで計れていないことも自覚する。
「 ―― 堤、さん……」
呼びかけるというよりは、話し相手がすでに電波の向こうにいないことを確かめる意味で
高木は呟いた。
イヤホンは事切れた沈黙を発するのみ。いずれそうやって止まってしまうだろう、己の
呼吸を表すかのように。
(そうか)
最後通牒、という言葉が脳裏に降りてきた。
(俺は殺されるのか)
何も不思議な事ではなかった。自分は地獄へ落ちるのだ。
彼世と現世の間で執り行われる裁判を待つまでもなく、二枚舌を引き抜かれて終わりだ。
重しのごとき認識が臓腑を押し潰す錯覚にとらわれた、その時。
「……!」
日常ではまず耳にしないだろう叫び声 ―― 『叫び』などと生易しいものではなく、
まるで血に飢えた獣の咆哮 ―― が、木々の枝葉を撫でながら通り過ぎる風に運ばれ、
高木の鼓膜を震わせた。
恐怖をかき立てるばかりの絶叫の余韻は、高木を魅了してやまない地獄への幻想を
より鮮明なものにした。
自分も生きたまま火に炙られたら、断末魔の叫びをあげるのだろうか ――
(まさか)
幻を裂いて顕れた不意のひらめきに、高木は視界に戻ってきた足元の暗い落ち葉の
一点をじっと見つめた。
あの狂った声は ―― そのこじつけは果たして乱暴か?
いや、違う。そうなるように仕向けたのは自分なのだから。
高木はポケットから携帯ゲーム機に酷似した端末を引っ張り出し、二つ折りのそれを
開いて画面上の橙色の光点を確認する。その位置を認めたら、それで充分だった。
(どうする、高木大成)
機体をポケットに戻し、すぐ動き出した両足は問いかけに応じない。銀貨の表裏は決した
のだから、歩みはその絵柄の示す道を進んでいるはずなのだが。
(でもさ)
―― コイントスで人生は決まらない。それで決まるようなら所詮、大したものでは
ないんだ。俺の人生は。

ざっ、と膝から下が低木の茂みをかきわけた時、前方に影が見えた。
大柄な、見知った影。
西武の黄金期を四番打者として築き上げ、そして ―― 新天地でその栄光との
ギャップに苦悩している男の。
開いた唇が彼の名をかたどるが、音声にはならない。同時に、向こうもこちらの
存在に気がついたようだった。
躊躇なく足を動かして彼に近づいていくと、やはり清原和博その人であることが
はっきりと判った。
(もし、この人が ―― )
清原はこちらの姿を認めはしたものの、途端に右手で顔を覆い、指の隙間から脅えた
ような眼差しをのぞかせている。
身体を震わせ、食いしばった歯の間からきれぎれに言葉をこぼす。

175一時保管:2011/03/13(日) 11:27:45
「……っ、く……んな……。こっち……」
もう片方の手は、羽虫を追い払う仕種でもってぶんぶんと振られている。
平生の彼であれば、およそ見ることのない奇怪な所作だった。
そう言えばさっきは立場が逆だったかと、我ながら気味が悪いくらいに冷めた眼で
清原を観察する。
高木へ視線を投げようとしては、指で目を隠して顔をそらし、意味をなさない呻きを
洩らし続ける、その様子を。
これを狂ったと言わずして、何と言おう。
「清原さん」
感情のこもらない改まった口調で、高木は呼びかけた。
「あなたには何が聞こえましたか」
こうやって語りかける声すら、清原の耳には届いていないのか ―― あるいは別の声を
彼は聞いているのか。
鳴り続ける雑音と砂嵐と、忌むべき一言を告げる、その声を。
「無線を使った時、声が聞こえませんでしたか」
そもそも、信じてなどいなかったのだ。無線からの声が潜在意識の殺意を喚び起こす
などという空想の話は。
それなのに、声を聞かせた桧山と今岡は移動後のキャンプに現れず、緒方は姿を消し、
清原は今、目の前でこのありさまだ。
高木はすっと空気を吸いこみ、一拍置いた。
これを口に出したら何が起こるのか、平たく言えば“興味があった”。
緒方の時には見損ねてしまった、人が人でなくなる瞬間というものに。
(もし、この人がそうなったら)
高木はひからびたままの唇を、ゆっくりと開いた。

「殺せ、って」

視界に黒と白が混じり合い、ばち、と火花が飛び散った。
骨と骨がぶつかる、とにかく鈍い嫌な音がして、首があらぬ方向に曲がったのかと
思うくらいに胴体とを繋ぐ筋が伸びきり、身体は投げ下ろされた直球に撃ちのめされた
かのごとく肩から地面へどう、と倒された。
「ぐ……っ、ふ……」
遅れてやってきた顔全体に広がる痛みに、殴られたことを認識する。それも手加減なく。
彼が本当に格闘家だったのなら、今の一撃でどこかの骨は折れていたかもしれない。
(でもそれでいい)
思うようにならない身体を捩ろうとした途端、清原が上にのしかかってきて、胸ぐらを
掴まれた。口の端から血がこぼれるのが分かった。
霞む目を動かして彼の顔を見ようとしたが、暗くて表情まではよく分からない。
(俺はこの人に殺されるんだ。俺が狂わせた、この人に)
清原が右拳を振りかぶるのを、高木は視界の端に見た。

【残り11人・選手会7人】

176一時保管:2011/03/13(日) 11:28:25
249.導火線

内からの衝撃で建物も空気も震えて、渡邉は慌てて消火器の栓を抜いた。
すぐに煙の臭いが、半壊した病院の玄関口から漂ってくる。
床板を蹴る音が迫ってきて、ほんの少し安堵したが、
川相が炎を纏って飛び出してきたのを目にし、我を忘れて消火器の中身をぶちまけていた。
「川相さん!」
幸い、すぐに彼は体を起こして、もういいと言う代わりに手のひらをこちらに向けた。
「大丈夫ですか」
体表を覆った薄いピンク色の粉の下から、所々黒く焦げたユニフォームがあらわれる。
「大したことない。それより下がれ」
川相は荷物を掴むと、病院から距離を取るように走った。
背後でどん、と、地響きが起きた。
ガソリンが充満した警備室に、手榴弾を投げ込んだのだ。爆発的に燃え広がるだろう。
振り向けば夜の水平線を背景に、白い建物の中が赤く染まっていった。
照らされている彼の顔が、火傷なのか炎の色なのか区別ができず、
もう一度怪我の有無を尋ねた。
「火って、怖いぞ」
返ってきたのはそれだけだった。
獰猛な炎は大蛇のごとく身をくねらせ、やがて窓を突き破り
徐々に徐々に外壁へ噛み付こうとしている。
「……全部燃えますかね」
「わからん」
院内の遺体、安らかな顔をした紀藤も、表情すらわからなかった中里も、
血溜まりの中で絶命していた黒木も、他の選手らも、すべてこの炎に飲まれるのだろうか。
それが良いのか悪いのか、渡邉にはわからなかったが、
一人一人の姿を偲びながら、両手を合わせて冥福を祈った。
「朝にも言ったけど」
顔を上げるのを待っていたのか、川相はデイバッグを差し出しながら言った。
「お前のことは守らないから」
「構いません」
受け取りながら、首を縦に振ってみせる。
「ただ……」
彼はぐしゃぐしゃと頭をかいて一呼吸置くと、付け足した。
「生き延びろよ」
我ながら矛盾していると思う。言うに迷って、頭に添えていた手を下ろした。
渡邉も同感なんだろう、返事がない。
ここまで話した以上、お互いいつ死んでもおかしくないのに、生き延びろなんて。
実のところ、「全部話す」とは言ったが、伏せたままにした部分があるのだ。
この戦いの後。中日と選手会の殺し合いの、後のことを。
オーナーを守るため選手会役員を殺せなんて、本来ならば全く従う義理のない命令だ。
首輪という制御装置があったとはいえ、そんな設定ですら、中日選手は残り11人という有り様。
娯楽のコンテンツとしては上出来なのだ。
そして、あの人は、この世界は、もっと刺激的な物語を求めるだろう。
すでに準備は整っている。
――そう、2球団の選手を殺し合わせて1球団にするという、非道な舞台の。
"選手生命"をもかけた凄絶な戦いが、幕開けを待っているはずだ。
黙って見過ごすわけにはいかない。
中日という球団のためにもだが、後に控える悲劇を食い止めるためにも、
こいつらが生き延びて、何が何でもこの球団を守り抜かないといけないのだ。
渡邉は黙ったままだ。
他の質問みたいに、はい、って答えろよ、馬鹿。
そう言おうとしたところで、彼は口を開いた。
「川相さんも、生き延びてください」
火災の熱風が、地を駆けていった。
乾いた空気で喉が焼け付きそうだった。
「俺は――」
言い返そうとして、やめた。
何も出来ない癖に、人の心配ばっかりしやがって。
泣いている暇は無いから、にやりと、笑ってやった。
「わかった。生き延びる」
彼が頷いたのを契機に、行くぞと南東の方角へ向かって、走り出した。

177一時保管:2011/03/13(日) 11:29:14
電子音がして、一部のモニターが砂嵐へ変わっていく。
出入りしていた職員らも、そこに釘付けになった。
電源が落ちたわけではない。ただ、渡辺が私用にしかけたカメラが、
これだけたくさんあったということだ。病院が燃え上がった今、それが機能を止めた。
「ヘリを出せ」
軍の担当者を呼びつけ、宮内はヒステリックに叫んだ。
「7番と5番を殺すんだ」
「……お受けしかねます」
眉を吊り上げた宮内が見たのは、不機嫌そうな表情。
「我々は渡辺オーナーと契約した。あなたではない」
「私は渡辺さんから全権を委任されている」
「先ほど電話がありました。宮内様、堤様からの命令は受けないように、と」
「……」
「どちらにせよ、こちらも2軍選手に襲撃され、ほぼ壊滅している」
死者の一覧を示すリストを突きつけられたが、宮内は受け取らずに床へ叩き落とした。
「もういい、下がれ!」
頭を抱えて、画像の映るモニタを睨みつける。病院を出て、森の中を走っているらしい。
奴らの行動はだいたい読めた。
学校だ。島の電力をまかなう発電機と、ここから選手を制御するための設備を狙いに来る。
堤に相談したが、彼の繋がりで自衛隊を動員することには難色を示した。
向こうも隊員が直接手を下すことは拒否したし、堤自身、そういった形で自身が
介入するのをいやがったのだ。そして、渡辺の雇った私兵も動かせない。
このまま看過していていいのか。
高みの見物を決め込んだ報いがこれかと、歯軋りをしていると、別の職員が宮内へと駆け寄った。
「川上が見つかりました」
名前を言われても誰のことかわからず、不審そうな顔をしていると、
「11番です。行方不明の」と職員が説明した。
思わず前のめりになった。
「どこにいる」
「名古屋市内の病院に搬送されていました。正津、21番は死亡が確認されました」
「今すぐ連れてこい。今すぐだ!」
頭に血が上ったのか、ふらついて椅子に腰を落とした。
朝食以後、まとまった食事を摂っていないことを思い出した。

【残り11人・選手会7人】

178一時保管:2011/03/13(日) 11:29:53
250.深層

何故だ。何故、消えない。
夢の中で、鳴り続けるラジオを切ろうとしているのと同じだった。実体のない電源を
落とそうとも、プラグを抜こうとも、聴覚のとらえる音声は消えない。
打ちおろす拳は、あの歪んだ口許を消せない。
幾度目かに振りおろした拳が硬い骨の部分にぶつかったのか、返る衝撃と痛みに
奥歯をかみしめる。
利き手ではない方の左手指の付け根が、痛みを伴って痺れていた。
(きりがない)
相手を殴り落とすだけのパワーは備えていてもそれが商売ではないから、素手を
振るうことで己の拳を壊してしまうリスクには疎く、それ以前にこれでは何の解決にも
ならない事を本能的に悟る。
(こいつが吹っ飛んだらそれで)
よぎったのは、形状がおもちゃのパイナップルを思わせる、どす黒い手榴弾の存在。
左手の甲をさすりながら、両膝をついていた地面から立ち上がる。
馬乗りにしていた人物は頭の位置にまで上げた両腕を交差し、顔をかばうような格好で
小刻みな呼吸を繰り返している。
どうやらその肘とこちらの拳が衝突したらしいが ――
仰向けのスーツ姿には見覚えがあった。ポケットに差し入れた左手の指で触れた物体の
凹凸をなぞる。ふと、足を踏み外したような感覚に陥った。
身体を縦に割った片側だけが浮遊し、とめどなく落下していく ―― その錯覚に抗い、
そちら側の足を踏ん張って堪え、取り出した楕円の物体を右手に持ち替えた。
既視感がもたらしたのは躊躇か。わらう『彼』の顔は見えない。しかし記憶より噴出する
映像が、声が、依然として彼を消し去れと急き立てる。
忌まわしい二文字を囁き続けることで。
(それで終わり ―― )
左手の指をひっかけ、ピンを引き抜き、彼に向かって投げつけようとし ――
「!?」

―― させるか!!

強烈な抵抗に遭い、なすすべなく反転した身体は標的とは逆方向へ助走をつけ、
鬱蒼と折り重なる木々の先の夜空へ向けて、右腕を振り抜いていた。
どっ、と離れた場所から静寂を引き裂く発破音と震動が起こり、ざらざらと枝葉を揺らした。
いくつかの小石が落下して地面を転がるような音も、遅れて何度か鼓膜を打った。
「 ―― 」
意思に反して、ではない。
清原は荒い呼吸に肩を上下させながら、後ろを振り返った。


どこか遠くで聞こえた爆発音を契機に、高木はこわばった両腕を動かし、地面に
手をついて上半身を起こした。
(……なんだ)
こめかみ、鼻梁、頬、顎、鎖骨の周囲。あらゆる箇所が鈍痛を訴え、じくじくと疼いている。
掌で顔の輪郭を撫でると熱を持ち、鏡がなくても腫れているのが分かる。袖で口許を
こすると、鼻血と切れた唇から流れ出た血が一緒になって布地に付着した。
(結局は怖いのか、俺)
無意識か本能が慄いた結果か ―― 殴打されるのをいつの間にか腕でかばっているなど。
どこまでもどっちつかずにしか生きられない自分に、嘲りとも悲哀ともつかない感情が
胸を押し上げた。腫れた唇からひゅう、と息が漏れた。
前方で湿った落ち葉を踏む音がし、視線を上げると、投げ出した両足の先に清原が
立っているのが見えた。
(元凶 ―― )
堤の言葉が不意に甦り、喉の奥でしのび笑う。
「……大成」
目を凝らしても、相変わらず表情までは読み取れない。感情のこもらない声でこちらの
名を呟いた清原は、同じ調子で後を続けた。
「なんやねん、これ」
二度目の問いかけは、苛立ちと癇癪が入り交じっていた。
「どういうことや、自分 ―― 」
清原の呼吸は、荒い。暗がりでも、膨らんではしぼむ胸の動きが見て取れる。
「何でお前が、それを聞いてくる」
徐々にその声に感情を ―― 怒気を載せ、清原は右手をポケットに入れてコードの
巻きついた無線機を取り出した。そちらへ一度視線を移し、ぐっと握り込む。
「こいつから! 声が聞こえるって、それを何でお前が知ってるんや!
 俺が聞いたことを……」
機体がきしみを上げる。握り潰さんばかりに力を込めた拳を振り上げ、清原は
それを地面に叩きつけた。
「答えろ!!」
激昂の叫びは、まっすぐ高木の全身へ打ちつけてきた。喩えでなく、びりびりと周囲の
空気が震えるのを肌で感じる。

179一時保管:2011/03/13(日) 11:30:25
高木は瞼を下ろし、ややあってから押し上げると、ポケットから例の通信機を取り出し
―― 当然と言えば当然だが、外れ飛んだイヤホンが落ち葉に埋もれていたので
コードを手繰りよせながら ―― 二つ折りのそれを開いて画面を清原へ向けた。
「……これは、無線に内蔵された発信機を読み取る装置です。光っている点の
 色が球団、数字が背番号です ―― 清原さんは橙色の5ですね ―― この点を
 選びながらボタンを押すと、ノイズと声を流せる仕組みになってるみたいです。
 あなたが聞いた、あの声を」
頬の裏側に圧迫感を覚えるせいか、呂律が回りにくい。しまらないな、と思いながら
閉じた通信機をポケットにしまい、イヤホンを右耳に挿した。
そうして清原に向き直り、説明を続けた。
「一回聞いただけなんで、合ってるかどうか自信ないですけど……人間の脳は
 覚醒時と睡眠時の間、つまりウトウトしてる時っていうのが一番、暗示とか
 催眠にかかりやすいんだそうです。
 その時の脳波が、ええと……シータ波、だったかな」
記憶をたどり、無線を受け取った後に堤から聞かされた内容を思い返す。
「人間の脳波にはリズムがあって、起きている時と寝ている時、そして半分寝ている
 時のリズムは全然違うそうです。ただ、このリズムは聴覚と触覚からの情報、
 音と震動に影響されやすい……つられちゃうってことなんでしょうね。
 だから、起きている時に、ウトウト状態の時の脳波のリズムを聴かせるなり
 感じさせるなりしてやれば……」
覚醒時(アルファ波)に半覚醒時(シータ波)の脳波のリズムを聴かせることに
より、アルファ波がシータ波に連動して、同じリズムを刻むようになるというのだ。
「そのシータ波のリズムを打っていたのがノイズで、それを一定時間聴かせた後で
 暗示を与える、というのが目的だったみたいです。その無線は」
一度言葉を切り、自分の膝の横に転がる黒い機体を眺めて、また顔を上げる。
「外国の軍隊が採用しようとしているって聞きました。兵士をインスタントに暗示に
 かかりやすい状態へ持っていき、殺せと命令する。
 そうすることで、無意識領域に流れている非日常 ―― 本人が自覚していない
 殺人願望や欲望が瞬間的に噴出するように仕向ける。そうすれば、本人は罪の
 意識に苛まれることなく敵を殺せる。潜在意識操作、というそうです」
でも、と呟いて、高木は口角を引き上げようとしたが、痙攣してうまく唇が動かなかった。
「堤さんの ―― というか、あの人も期待はしてなかったけど ―― 思うようには
 いかなかったみたいですね。
 清原さんはこうやって狂いきらなかったし、これだと緒方さんや中村さんたちも
 怪しいもんだし。あんまり意味なかったんじゃないかな」
「大成」
諦念がそうさせるのか、相手の反応もそっちのけで饒舌になりすぎていた高木は、
割って入った清原の呼びかけに、ふと我に返った。
「俺だけやないんか。他の連中にも、同じようにしたんか」
「それだけじゃありません。石井さんの持ち物の水に、毒を入れました」
毒を入れるのは誰でも良かったんですけど。あの人は無線を持って行かなかった
から、結果的には不公平にならずに済んだと思いますよ。
「お前 ―― 」
低い唸り声を吐き出しざま上体を曲げ、こちらの胸ぐらをあっという間に再び掴んだ
清原は、互いの息遣いを感じられる距離にまで顔を近づけてきた。
モノクロームの中、彼の両眼だけが光を帯びている。
「裏切ったんやな」
「はい」
「堤さんの命令か」
「……命令かと言われればそうかもしれません。けど、俺の意思です」
俺は見ての通りですから、付け入りやすかったんでしょうね、と自嘲気味に台詞を足した。
清原は高木の襟首を掴む右手に力を込めたまま、動きを止めていた。
ぎり、と歯ぎしりが漏れる。呼吸は深く荒い。彼は懸命に何かを堪えている。
決して高くはないだろう彼の沸点はとうに臨界を突破し、体内の溶岩はかろうじて
流出を抑えられているだけだ。高木はその心情を察する。
守られる立場の無害な後輩を演じ、まんまと自分を嵌めた目の前の裏切り者を許さない
だろう。殺したいほど憎いだろう。だから、そうしてくれればいい。
「清原さん、俺を殺してください」
可能な限り目を見開いて、彼の瞳の光に焦点を合わせ、高木は懇願した。
「それで全部 ―― 終わるんです」

【残り11人・選手会7人】

180一時保管:2011/03/13(日) 11:31:11
251.光ある場所へ

ナースが病室のドアを開いたが、もうゴメスも漁師も姿を消していた。
医師や上役の後ろで、密かに胸をなで下ろした。
背中越しに覗くと、ベッドの上の川上も打ち合わせ通り、眠ったふりをしているらしい。
上役は布団の端を軽く持ち上げると、
「首輪は?」と尋ねた。
「外しましたが」
「必要なんだ。持ってきてくれ」
医師の指示を受けたナースが、パタパタ床を鳴らしながら廊下に出ていく。
じろじろと川上の顔を見て、上役が症状について確認すると、
「水を飲んで衰弱はしていましたが、命に別条はないです」と医師は答える。
「そうか。じゃあ、麻酔を」
どう言いくるめたのやら、医師は素直に従って、用意した点滴から伸びる注射針を川
上の腕に刺した。
「……たっ」
川上が驚いたように目を開いたので、息をのんだ。
医師は動じた様子もなく、「痛いかな。ちょっと我慢して」と穏やかに諭す。
演技なのか、彼はうつろな目をして「何?」と聞いた。
「治療中だからね。気を楽にして」
なおも左右に首を振って周囲をうかがっていたが、こちらに気付いて動きを止めると、
そのまま薬が効いてきたのか、意識を失ったようだった。
「3、4時間で目覚めます」
「わかった」
戻ってきたナースから、はさみか何かで切ったらしい首輪を受け取ると、上役は
腕時計を見た。
「出口までご案内しますので」
ナースに促されて、川上をストレッチャーに移すと、それを押して廊下に出た。
力の抜けた腕の先は、双方とも包帯で巻かれている。武器を握れるとは思えない。
本当にこれで良かったのか。迷いはまだ消えない。
けれど、彼の視線を受けて、止めることは出来なかった。
川上と正津は車で近くのヘリポートまで運び、そこからヘリで本部に搬送することに
なった。
ここからだと、2時間程度で到着する予定だ。
病室でゴメスらを交えて打ち合わせをした後、タクシーで港に戻って、
「見つかりました!」なんて声を弾ませて報告してやった。
喜色を浮かべる上役に、「本部への報告には、是非同行させて頂きたい」と申し出ると、
幸いなことに功名心からの発言と誤解してくれたらしく、「それくらいは認めてやろう」と
上から目線の了承を得た。
せめて自分は、丸腰で乗り込む彼の、唯一の味方にならねばならない。
武器といったって、病院内でくすねたメスくらいのものだ。
戦いにすらならないだろう。それでも、決めたのだ。乗り込むと。
廊下を移動している最中、「携帯の件はあれだったが、よくやった」と改めて言われた。
「それほどのことでは……」と謙遜した風なしたり顔が浮かんで、苦笑した。


「行ったな……」
道路を挟んで向かい側にあるコンビニに軽トラを停めて、漁師はワゴン車が出ていく
のを見ていた。
助手席のゴメスは、不安げな表情のままだ。漁師は彼の肩を叩いた。
「お前さんの言いたいことはわかる」
彼は小さく首を横に振る。
言葉の壁は高い。大雑把な意図は通じても、詳細なコミュニケーションがとれない。
川上が何かを決断し、危険を顧みず遠くに行ってしまったのは理解しているようだ。
こちらがわかるのは、彼がそれに納得していないらしい、ということだけ。
詳しく聞くことも、諭すこともできない。
こんな2人で逃げるといったって、どこへ行けばいいのか。
考えあぐねて窓の外を眺めていると、ゴメスが何か呟いた。
「何だ?」
「well....サカエ、イク、デス」
「サカエ?」
「Yeah. ワタシ、アウ……。ah...there is a person who I want to meet.」
一語一語、区切るようにゆっくりと発音した。
サカエとは栄のことだろうか。そこで、人に会う? 会いたい人がいるということか?
しかしゴメス自身、迷っているらしい。下がった視線がそれを物語っている。
誰なのか、信用できる相手なのか。
聞けなくもなかったが、敢えて質問は避けた。
「栄だな? わかった」
キーをひねると、エンジンが甲高い音を立てる。
彼は両手で十字架を握りながら、祈っていた。

【残り11人・選手会7人】

181一時保管:2011/03/13(日) 11:32:18
252.待機

船室では、選手らが一カ所に集められ、座らされていた。
何人かはロープで後ろ手に縛られており、
仲澤はふて腐れたような表情で彼らにマシンガンを向けている。
湊川も銃器を渡されてはいたが、仲間に突きつけるのは憚られて、銃口は輪の
外側にやった。
反対側に立っている、同じく見張りの山井も同じ考えのようで、
2丁の拳銃を肩に乗せて天井を指していた。
「なあ、仲澤」
重症者の看病にあたっている都築を横目で見ながら、湊川が言った。
「なんだよ」
「本当に港に戻っていいのか? あとちょっとで島には着いたし……」
仲澤はちらりと湊川を一瞥して大げさなため息を吐くと、
「馬鹿?」と切って捨てた。
湊川は絶句し、山井は呆れて天を仰ぐ。
「島に着いたからって、10分や20分では帰れないだろ。この病人置いといたら
手遅れになるぜ。
それに、ヒ素まみれの水でお出迎えなんて、冗談じゃないね。俺なら乗船拒否する」
「……」
「仲澤、口の利き方をどうにかしろ」
山井に言われて、仲澤は「俺のほうがプロでは先輩だからいいじゃないですか」と
鼻を鳴らした。
「何でテレビに乗せられたからって、俺らまで仲間内で殺し合おうとしてんだよ。
おかしいんだよ、何かが。リセットしないとこんなのは続けらんない」
両手の自由を奪われている筒井壮が、苦々しい顔で俯いていた。
「お前は大丈夫なんだろうな」
湊川が聞くと、首をかしげた。
「知らない。暴れだしたら撃ち殺せば?」
「……やだよ」

182一時保管:2011/03/13(日) 11:32:50

港の指定場所には既に、見知った顔が集まっていた。
音は一歩進むたびに声をかけられて、一々頭を下げざるを得なくなる。
大変だな、力は貸すから、という有難い言葉もあったが、
こんな時なのに説教を始めようとする輩もいて、内心の苛立ちを隠すのに骨を折った。
「ちょっと、失礼します」
適当にあしらって距離を置き、呼び出してきた人物を探してきょろきょろしていると、
後ろから上腕を掴まれた。
「久しぶりやな」
白い前髪の下で、不敵な笑みが浮かんでいる。変わらぬかつての指揮官が、そこに。
「星野さん……お久しぶりです」
一礼すると、誰を探しているのか問われたので、目当ての人物の名を告げた。
「誰か呼んだ?」
星野の背後から張本人、坂東が首を伸ばす。
「ああ、音くんか。わざわざご苦労やね」
直前まで通話していたのだろう、携帯電話をぱたりと折ってポケットにしまった。
「で、なんや、援軍がいるねんな」
「そうなんです」
星野も間に立って聞く中で、音はこれまでの事情を説明した。
横浜の砂原オーナーから、島の位置情報や内部資料を提供するという申し出が、
広島の松田オーナーを介して落合らにもたらされた。
武器も彼らが用意してくれたので、とにかく本部に乗り込む予定だが、
なんにせよ2人だけでは限界がある。バックアップが欲しいと落合は言っていた。
切々と訴えると、腕組みをして聞いていた坂東はこっくりと頭を上下させた。
「僕も東京行かないけないからね。一部は一緒に行ってもらおか」
「恩に着ます」
坂東は星野に2軍救助のために必要な人数を問い、そんなにたくさんはいらないだろう、
という回答を得ると、小学校の先生のように手を叩いた。
「はいこっち注目」
音の説明をかいつまんで伝え、東京行きの志願者を募ると、次々手が上がった。
「えーっと、小松くんに、木俣くんに……」
メンバーを確認する坂東の隣で、星野が口を開いた。
「牛島、お前はこっちに残れ」
仕事の打ち合わせでもあったのか、きっちりとスーツを着込んで挙手していた彼は、
不思議そうな表情を浮かべる。
「なんでですか?」
「心配やからや」
じゃあ俺は心配じゃないのか、小松が口を挟もうとしたが、牛島は遮るように、
冗談めかして右腕の内側をぽんと叩いた。
「こう見えても昔はやんちゃしてたから、腕に覚えはありますよ」
「そんなことは知っとるわ」
星野は少し、呆れた風に笑った。
「……本当に大事な試合はな、普段と違うことをしたないやろ。
例えば靴紐変えただけでも、感覚が狂ってしまう」
「はあ」
「そういうことや」
牛島だけでなく、音にも坂東にも意味は通じなかっただろう。皆、こっそりと首を
傾げている。
彼は嫌味にならないよう、しかし苦笑いで返した。
「意味がわかりません」
対照的に星野は真顔で、海の方角に向かって大きな息を一つついた。
「これから行くのは命がけの現場や。普段気に止めないような引っ掛かりでも、
致命傷になる可能性がある」
星野の視線が正面に戻り、牛島のそれとかち合った。
「そういう場にな、お前と落合を、一緒に置きたくないんや」
やわらかだった彼の表情が、すっと強張った。
「俺はもう……そのことは気にしてません」
「表向きはそうやろな」
星野はまた海を見ている。
「だったら」
「あの時のお前を見てた人間として、許可できんのや」
近寄って見下ろしたその目つきは、有無を言わさぬあの場面の、それ。
「わかるな」
彼は口惜しそうに視線を泳がせたが、諦めたように「はい」と返事をした。

【残り11人・選手会7人】

183一時保管:2011/03/13(日) 11:33:27
253.因縁

東京へ向かうメンバーが大体決まり、誰の車にどう分乗していくかを話し合って
いた時、山田久志が遅れて姿を現した。彼は星野と挨拶を交わすと、
「自分はどうしましょうか」と尋ねた。
「そんなもん、わしに聞くまでもないやろ」
「え?」
きょとんとした彼の頭を、やれやれといった様子で星野が小突いた。
「これは中日だけの話とちゃうんや」
腕を組み、もったいつけた様に目をつぶる。
山田はやや困惑したように海に眼をやって、また星野を見た。
「ブレーブスの、問題でもあるんやろ」
懐かしい、かつてのチーム名。
海風が攫っていくかと、記憶の情景と重ねたが、いつのまにか凪いでいた。
星野はにやりとして、暑いのう、と呟いた。
「お前が本部に行かんでどうする」
「……」
「アホなOBがな、お前は中日の選手ちゃうって言うてきたら、言い返したれ。
阪急のために行くんじゃ、ボケ、て」
その口調があまりに彼らしかったからだろうか。山田はくすくす笑った。
「わかりました」
「なんや」
「気にしないでください」
――と、無意味に大きなエンジン音を轟かせながら、一台の高級車が集団をめがけて
突進してきた。
慌てて逃げようとするOBらの前で、急ハンドルを切って停車したそれの中から、
一人の大男が姿を現した。
「ジャマハハハハハハ!!!」
ぎょっとして彼を見つめる数多くの視線に気づき、彼は咳払いを一つ。
「噂を聞いて神戸から駆けつけましたよ。俺も仲間に入れてください!」
威勢よく握りこぶしをふり上げたが、それが逆に場から浮いている。
「星野君、まさか呼んだ?」
「そんなわけないでしょう」
坂東と星野が、若干うろたえながらお互いを見合わせた。
周囲の唖然としたような空気など意に介さないのか、大男はかつての恩師を見つけて
駆け寄った。
「星野さん! オリックスの合併騒動に振り回されて、今度はオレを育ててくれた
ドラゴンズがこの窮地に立たされてるんですよ。俺も当事者として見過ごせないんです」
困ったぐらいに一点の曇りもない、正義に満ちた燃える瞳。
滔々と、自分も計画を中止させるために戦いたいと訴え続けた。
「……山崎」
星野は思案の末、彼に聞いた。
「本部つぶすまで、諦めんか」
「絶対諦めません」
力いっぱいそう答える彼の肩を、そうかと言ってぽんぽんと叩くと、
右側に向かって親指を立てた。
「久志も一緒やぞ」
一瞬にして、その瞳が翳った。

数台の車に分乗した一陣が、港を後にしていく。
木俣の車の後部座席に乗った山崎は、見るからに不機嫌そうだった。
それを送り出して、牛島が星野に問う。
「あれはええんですか」
星野は軽く首を横に振った。
「現役を巻き込むわけにいかん。途中のサービスエリアに置いて行ってもらう」
テールランプが次々と、公道への角を曲がって、消えていった。

【残り11人・選手会7人】

184一時保管:2011/03/13(日) 11:34:16
254.彼我

衝動との戦いは、いったん自制の側が敗北を喫したかに見えた。
しかし清原は諦めなかった。高木の呟いたあの二文字が引き金となり、背後から
羽交い締めにして暴発するのを懸命に抑えていた衝動が、その腕を振りきって
駆け出してしまった時も、行かせてたまるかと猛ダッシュで追いかけたのだ。
殴り飛ばした高木を組み敷いてまた殴打し、それでは命を奪うまでに至らない
からと、手榴弾を爆発させようとした。右腕を振り上げた後ろ姿に、清原が
ようやく追いついたのはその時だ。
―― させるか!!
跳びかかって腕を掴み、渾身の力をもって身体の向きを変えさせたところで、
ついに主導権を勝ち得た。自制を取り戻したのだ。

後輩をこの手で殺さずに済んだ。安堵もつかの間、そうして再び己の内へ帰ってきた
“衝動”に対し、あれが殺意だったのかと清原は愕然するより他になかった。
荊の記憶。十九年前、意中の球団と友に裏切られた ―― 真相は分からない。今と
なっては当時、確執関係にあった読売と西武の間で水面下の駆け引きが為されて
いたとしか推測できず、両球団の都合や思惑に、友もまた巻き込まれただけなの
かも知れない ―― あの瞬間、涙と共にこみ上げてきた感情は、燃えさかる憤怒では
なく、世界のすべてが凍りついたかのような絶望だったのではないか。
(あいつを殺して俺も死ぬ)
表面化することのない、清原も自覚し得なかった深淵の凶夢。
自己破壊 ―― 手榴弾を握る右手を掲げた時、己も確かに死ぬつもりだった。
怒りに準ずる感情から孵化するだけではない。底冷えた絶望もまた、それと成り得る。
彼と我、双方向を破壊する、殺意と。


「清原さん、俺を殺してください」
顔の下半分を鼻血と唇からの流血で汚し、端正な顔を無惨に腫らした(やったのは
自分なのだが)後輩は、すがるような目で言ってきた。
それで全部終わるのだ、とも。
( ―― 何が)
終わるのは高木の命であり、人生ではないのか。
少なくとも、現実は何も終わらないし解決などしない。それは清原にとっての、だが。
それに彼は分かっていないのだろうか。清原が右手で胸ぐらを掴んでいる理由を。
怒りに任せて裏切り者を制裁しようと思えば簡単にできる。だが、自分は私刑のために
ここにいるわけではない。
清原が倒すべきは、オーナーだ。もっとも、高木の話をかいつまんだ限りでは、
オーナーがこの島にいるという説を根本から覆さざるを得なくなったのだが。
―― そうなると、立浪の態度を硬化させ、平松や大西が殺人を是とするに至った
原因の一つは初めからこの島には存在しなかったことになる ――
さらには高木に毒を持たせ、殺人を唆す暗示をかけるための無線を配らせたという事実。
あの老人たちは高木を使って選手会を混乱させ、潰そうとしていた。
同士討ちになればよし、中日との殺し合いが促進すればなおよし。
選手会を潰し、さらには中日ドラゴンズを壊滅へと追いこむメリットとは何か。
ここまでカードを開かれて、残りのカードを回収できないほど清原も馬鹿ではない。
(中日が潰れてオリックスと近鉄が合併したら、十球団一リーグ。それから……)
選手会会長、古田敦也。
認めるのは癪だが、合併による球団削減反対を唱え、オーナー連中と対等に渡り合える
のは彼をおいて他にいない。
その古田を喪うとなれば、選手会ならびに全選手の士気は引き潮のごとく消え失せ、
オーナーの前に膝を折るしかなくなるだろう。
それが狙いだったのだ。
(古田さんを殺す口実と、球団を減らす口実、それがあれば何でも良かったんや。
 オリックスと近鉄が殺し合う言うたら、誰だって血相変える。古田さんがオーナーに
 弓引きさえすれば、後は)
お膳立ては過激であればあるほど、煽られる側の反発は増大する。ハッタリで構わない。
彼らは高台から眺めているだけでいい。手も汚さず、痛手を受けることもない。

185一時保管:2011/03/13(日) 11:34:51
(……腐れ外道の老害どもが)
口の中に苦虫の味が広がり、清原は顔をしかめた。その間も、高木はこちらの瞳をただ
黙って覗きこんでいる。
高木は待っている、清原が動くのを。力をもて余した利き手がほどかれるのを。
―― だからネクタイの結び目に指を割り込ませ、ぐい、と引き寄せてやった。
首を突然後ろに反らす羽目になり、高木は何事か呻いた。
「石井を殺したんか」
「……え」
予期しない問いかけだったのか、腫れた半開きの唇はぽかんとしている。
「どうなんや」
「分かりません。確認してませんから……」
首が痛むらしく、掠れ声の弱々しい答えが返ってきた。
「見てないんやな」
「石井さんは、キヨさんがキャンプに戻る少し前に出て行ったきりですから。
 その後どうなったのか、確認しようがないんです」
嘘ではないのだろう。自然と呼び方が戻ったのは、それに対する後ろ暗さが彼の中に
存在しないからだと、清原は察する。
「そうか」
毒を入れられたのが昨夜だと仮定して、その水を丸一日近く飲まずにいることなど
まず不可能だろう。石井の生存率は限りなくゼロに近い。
しかし同時に、死んだと決まったわけではない。
無線の声を聞かされたという中村も ―― 高木の捜索依頼を伝えてからこっち、姿を
見せる気配は一向にない。
しかし高木は言った。狂ったかどうか怪しいもんだと。
―― ならば信じるしかないのだ。彼らを。
「俺は殺さんよ、大成」
わずかだが、高木の両眉がぴくりと動くのが見えた。
彼の双眸を見つめ返し、清原は宣言する。
「お前が裏切り者やろうが人殺しやろうが、俺に人生を終わらせる権利はない。
 今まで会うてきた奴も、これから出会う奴もそうや。
 殺して解決できることなんか、何もあらへん。
 俺はこの島を出て、オーナーに会う。そのための方法を考えるだけや」
本意とはいかないが、やはり古田の協力が必要不可欠となるだろう。
自分でさえここまでたどり着いているのだ。古田ならもっと先を行っていても何ら
不思議ではない ―― ただし彼が今も無事なら、の話だが。
「大成、俺はお前が堤さんにどう言いくるめられたんか、何を考えて古田さんや
 俺らを裏切ってハメようとしたんか、それは分からん。
 けどな、頭のええお前が分からんはずないやろ。
 裏切るいうのは、魂を殺すことや。野球やる上で一番大事な部分を、お前は自分で
 殺そうとしてるんやぞ? それでお前、西武のチームメイトに顔向けできるんか!?」
―― それでこれから先、平穏に生きていけると思ってんのか? ――
あの時耳を打った中村の叱咤が、清原の叫びと重なった。
そうだ、独りじゃない。選手会が一枚岩でないことは白日の元にさらされたわけだが、
同じ志を持つ者はいる。それだけは確かだった。
「よう考え。これからどうすんのか。この先はお前次第やぞ」
指を絡めているネクタイの紐がぴんと張った。高木の顔は青ざめていた。
「……考えたところで、俺が同じ結論しか出せなかったら、どうするんですか」
「その時は、お前と戦わなしゃあないわな」
せやから言うて、変な気おこすなよ ―― 釘を刺すつもりで付け足したその時、
手榴弾の爆発がもたらした震動とは比較にならない、ズン、と身体が突き上げられる
ような地響きを感じた。
「なんや?」
意識がそちらへ移った途端、右手の指からネクタイの紐がするりと離れた。
思わず立ち上がり、揺れにたたらを踏む。
目を凝らすが、彩色のない木々が視界を埋めるばかりで、肝心の光景は捉えられない。
分かるのは、解体屋のダイナマイトのような規模の大きい爆発が、どこか遠くで
起こったという事だけだ。
「キヨさん」
状況が見えてこない苛立ちに舌打ちしかけるが、高木が呼んだので視線を下げた。
感情を映さない上目、伸ばされた手、掴まれた上着の襟 ――
清原が己のあるまじき無防備さに気がついた時は、すでに何もかもが遅すぎた。

―― 空気を叩き、引き裂き、貫き通す衝撃が、夜闇に散った。

186一時保管:2011/03/13(日) 11:35:28

返ってきた痺れのような感覚に、右の手首がぶれた。
鼓膜の詰まりは嚥下によっておさまり、断続的な呼吸の音が鮮明になった。
吸いこむのは、たなびく煙。火薬の匂い。
人差し指を引っかけたトリガーの先、銃身の先、銃口の ―― 向こう側で、ぼやけた
影が、がくんと地面に膝を落とすのを見ていた。
上着の襟を握りしめた左手に重みを残して。
布地を指から離すと、それは法則性のない揺らぎかたで、横倒しに地面と衝突した。
断続的な、己の口から漏れる音だけが響いている。
右手に吸いついたコンバットマスターの銃身に視線をやり、湿った落ち葉の上に膝を
立てている自分の目の前に横たわる黒い影を凝視して ―― そのまま、身体の弛緩に
従ってぺたりと座りこんだ。
「……」
影はもぞりと動いていた。身体のどこが、というわけではない。ただ、時折おぼれ死ぬ
寸前の蟻のようにもがこうとしているようだった。
音にならない音、声にならない声、発信源が自分ではない、空気を震わす微かな呻きを
聞いた。聞いたような、気がしていた。
そんなはずはない。動くはずがない。何も聞こえるはずなどない。
心臓を狙ったのだ。最短距離に近づいた時、ここが心臓だ、確かに見えた。そこを狙った。
ひと通り、頭の中で確証の言葉を連ねた。それが一周する頃、やはり息遣いは自分の
発するものであり、他には何も聞こえないことが分かった。
影は動かなかった。自分もまた、微動だにできずにいた。

元凶は他ならぬ、自分自身だった。
ポジション争いとは名ばかりの、一塁しか守れない外国人を連れてきては繰り返される
理不尽なコンバート。
成績が上がってきたと思えば襲いかかる、怪我。手術。リハビリ。
どうあっても壁をぶち破れない、半端な自分が恨めしかった。
(恨んださ、だから)
自暴自棄になって堕ちるところまで堕ちてやるか ――
怪我でボロボロの身体をもて余すくらいならいっそ、この世を去るか ――
レギュラー復帰なんて、本当はどうでもよかったんだ。
生きて帰ったところで、まともに野球のできる身体はもうどこにもない。
でもさ。夢を見るくらい、いいだろう。
あのグラウンドであの歓声をもう一度浴びる、そんな夢くらい見たって ――
『それでお前、西武のチームメイトに顔向けできるんか!?』
ああ。
できやしない。それも分かっていましたよ。
清原さん。

「……どこまで甘いんだ、あんた」
彼は自分に言った。『誰も死なせない。みんな俺が守る。お前も絶対死ぬな』と。
そんな彼を自分は殺そうとした。ひどく後悔した。ひどく恥じた。できなかった。
だから、自分が彼を殺すくらいなら、彼に自分を殺してもらおうと思ったのだ。
それなのに彼は言った。『俺は殺さない』と。
―― お前が裏切り者やろうが人殺しやろうが、俺に人生を終わらせる権利はない ――
「そりゃキヨさんは殺したくないのかもしれない。
 ……でも、自分は死なずにその意志を貫くなんて、矛盾していると思いませんか」
殺してくれという懇願を彼に拒絶されたことで、自分の取るべき道は一つしかなくなった。
つまるところ、コイントスの通りに。
「あんたが殺してくれたら、俺はあんたを殺さずに済んだのに」
彼は殺意を抑えていたわけではない。純粋に怒りを堪えていただけなのだ。
どうしようもない後輩に対する、怒りを。
「……」
高木は落ち葉の上でくたりとなっている右手を持ち上げた。
こわばった指に握られたままのピストルが、視線の先でぶらりと宙に揺れる。
首を動かした。横たわる身体が見える。
顔はよく見えない。本来白く浮かび上がるはずの、上着の襟の間から見えるシャツは
闇と同じ色に染まっていた。
そしてその色は、上着の布地からあふれ出して、地面の落ち葉を浸していた。
清原は死んでいた。
自分が、殺した。
―― だから俺は、もう。

唇が震えた。またたく間に顔が歪んだ。嗚咽も漏れた。
なのに涙は流れない。
高木は己を嗤った。ああ当然だ、ほらみろ。俺は人間じゃないのだから ――
泣きたいのに泣けない。
それがこんなにも遣る瀬なくて苦しくて、自己を呪いたくなるくらいおぞましく
悲しいのだということを、高木は三十一年の人生で初めて、知った。

【残り11人・選手会6人】

187一時保管:2011/03/13(日) 11:36:34
255.叶わぬ夢

曲がった木の幹に体重を預けて、井端は天頂を仰いでいた。
月明かりが木漏れ日のように、揺れる葉の間を擦り抜けて煌いている。
綺麗だと思えれば、救われていたのかもしれない。
ただ、今の彼には不規則な光の点滅としてしか、知覚出来なかった。
小笠原と別れた後、心底誰の顔も見たくなくなって、木の上ならば隠れおおせるかと、
無我夢中でよじ登った。あの枝を掴めば、この無慈悲な下界から逃れられると信じて。
つかの間落ち着ける場所にたどり着き、睡魔が自分を攫ってくれるのを待ったが、
いつまでも頭は冴えたままだった。
あんなちっぽけな機械に、突きつけられた現実。
自分は自分でなくていい。
背負っているつもりだった、大袈裟なものはすべて、幻だったのだ。
いかなる傷をも受け止めるつもりでいた背中には、今は樹皮の感触しかない。
ぶら下げた両腕すらやけに軽く、それが気に触って、腹の上で手を組んだ。
呼吸のたびに上下に揺れる指。マシンガンの引き金を幾度も引いた、罪に汚れた部位。
じっとそれを見つめながら、井端は己に問うた。
――だとしたら、自分はどうしたいのか。
記憶の中の水平線が、眼前に浮かんだ。平井が消えていった後、風が吹いた青い空の下。
思えば彼が示したのは、残酷な回答だった。
仲間を守りたい。そのためには殺人も厭わぬと覚悟をしたつもりだった。
しかし内心は、人を殺すのが怖い。本当は殺したくないと怯えていた。
その矛盾に対して出した彼の答えは、
「どちらの願いももう叶わぬ」だったのだ。
己が背負いきれずに途方にくれていた、責任と道義を両腕に抱えて、平井は逝ってしまった。
仲間を殺した自分に、仲間を守る資格はない。
そして、人を殺した自分は、人の道には戻れない。
だからこそ、「誰でもない」存在になれと、彼は言った。
良き先輩で、選手会長で、チームの大黒柱であろうとするな、と。
常識的な価値観や道徳観念を、今この島では捨ててしまえと。
ありとあらゆる種の、過大なる期待を負うべきと信じていた背番号6を、
他でもない、己が撃ち抜いて葬ったのだ。
小指を強く折りながら、組んだ手を目の上にかざした。
手の甲が光を受けて、瞼には影がかかる。
「何てことをしてくれたんだ……」
その独り言に、恨みの念は微塵もない。
自嘲するように口の端が上がっているだけだ。
取り戻しかけた正へ向かう全ての感情を捨てたとして、何を欲するのか。
パンドラの箱のように、最後に残っていた、純粋なる希望とは。
――もう一度野球がしたい。
瞳からこぼれ落ちた滴が、光の届かない空間へ向かって引き込まれていった。
ただ夢中に白球を追う、その一瞬へと帰りたかった。
その希望だけが、この真っ暗な悪夢から自分を救い出してくれる、唯一の手がかりだと。
両手を口元にずらして、井端は明るすぎる月を睨んだ。
瞳孔に突き刺さった一筋の光が、彼の記憶を照らす。
『選手会の連中を全員殺すまで、この試合は終わらない』
それが最初に聞いたルール説明だった。
乗ってやるさ。
回り道をする気力はもう、残されていない。ならば最短距離を走り抜くだけのことだ。
重い枷など必要ない。己のために、終わらせようと。
――誘う光が、蜃気楼にしか過ぎないことにも。
――進まんと踏みしめている地が、絞首台に向かう十三階段であることにも、気付かずに。
彼は瞼を下ろした。
眠ろう。
目覚めたら、新しい朝が来る。

【残り11人・選手会6人】

188一時保管:2011/03/13(日) 11:37:23
256.遺恨

小笠原がしゃくりあげる度に体が揺れて、倒れまいと肩を掴んだ手に力を込めながら、
左足一本の歩みを前に進めていく。
この暗闇の向こうに待つ現実、井上の死と、直面するために。
泣き止まぬ親友に「生きているかもしれないから」と諭したその言葉を、
皮肉なことに自分自身が信じていなかった。
「そうだな」と辛うじて顔を上げた彼の、ある種の気丈さが逆に胸苦しくて、
左手でユニフォームのロゴ部分を握りしめた。
今岡は、自分の予想を裏切って、冷静だった。
凶悪な笑みを浮かべ、己の命を奪わんとした桧山のあの狂気を覚悟し、
それが表出したならば自爆も辞さないつもりでいたが、そうはならなかった。
彼の感情は困惑から静かな怒りへ変化したのみで、正常の範疇を逸脱はしなかった。
――だからこそ、一方で底知れぬ不気味さも感じたのだが。
勢いあまって己の咎を過小評価した小笠原を、あれだけばっさりと切り捨てておきながら、
自分の罪の場面では苦悩する様子を見せながらも、曖昧な語り口。
ただ、自分たちへの言い逃れや、自責の念による回避とも違うように思える。
そのつもりならばそもそも、ナイフを投げ返したなどとは言い出さないだろう。
彼はしきりに繰り返していた。
『わからない』と。
それが、真なのかもしれない。
彼の狂気は、そういう形で表れている。
しかし……選手会の面々は皆、そういったものを宿しているのだろうか。
眼鏡が光るあの会長の顔を思い出したとき、突然、小笠原が足を止めた。
考え事に没頭していた自分は、そのまま前に進もうとして、
けれど左足だけでは立っていることができず、腕が空を切ってそのまま重力に引っぱられた。
「英智!」
濡れた泥の感触を想定していたが、頬に伝わったのは、弱った弾力を包む布の肌触り。
生理的な嫌悪感が、背中を走った。
本来ならば、布の向こうに体温や脈動が感じられるはずなのに。
眼球だけ動かして、視界の隅に引っかかった何かを中央に据える。
数字の9だ。間違いなく。
己が名を呼んだきり、無言となった小笠原を見上げた。
「オガサ……」
途端、彼の影は膝から崩れ落ちた。
もう動くはずのない井上にしがみつき、感情が破壊されたかのような叫びが森の中を
木霊した。
「起きてください。起きてくださいよ!」
揺さぶった拍子に自分の体は、今度こそ湿った地面に沈んだが、
そんなことを気にかけている余裕などないだろう。
「最高のストレート、投げるって言ったじゃないですか。
起きてください! さっきみたいに、笑って……」
その後はもう、言葉にならなかった。
小笠原は内から噴出する全てを吐き出すかのように、再び慟哭した。
起き上がれなかった。
わかっていたのに、嘘のエサでここまでつれてきたのは、自分だ。
ぼんやりと、もし今岡が狂気か殺意を抱えて戻ってきたら、
今度こそ自爆してやろう、そんなことを考えていた。

189一時保管:2011/03/13(日) 11:38:00
「井端さん」
幾らかの時間が過ぎ、周囲が静けさを取り戻しつつあったとき、
涙声に混じって先輩の名が聞こえて、首を僅かに向けた。
「何で、助けて……」
闇に浮かぶ横顔が、見たこともないほどに歪んでいて、咄嗟に体を起こした。
「井端さん?」
「近く……来てくれ、って……」
「会ったのか?」
小笠原は頷きもしないし、かといって否定するでもない。頬を引きつらせているだけだ。
井端を見かけた記憶はない。自分が気を失っている間の出来事か。
「どこにいたんだ?」
問うたがやはり、身じろぎ一つしない。少し語気を強めた。
「井端さんは無事なのか?」
「知らねえよ!」
途端、小笠原は怒鳴って地面を殴った。そして、泥に汚れた拳を睨んで、また涙をこぼした。
「……どうしたんだよ」
自分でもわかるほどに、その台詞は狼狽えていた。
彼の感情が読み取れない。何を考えているのかがわからない。
元々気性は激しい方だが、それは良くも悪くも、もっとストレートなものだ。
まして、チームの柱の先輩に、敵意に近いものを見せるなんて……。
小笠原は答える代わりに、スイッチの入った探知機を差し出した。
「36番……井端さんだった」
覗き込むと、自分たちの背番号の左下方向に、36の丸数字はあった。
確かに、2人からの距離は一番近い。しかし……36?
「でも、助けてくれなかった」
悲痛な声で彼はそう言って、「平井さんだったら良かったのに」と続けた。
「平井さんは?」
探知機を隅々まで眺めるが、6は盤上にない。
「死んだ、って、言ってた」
「誰が?」
「井端さん」
形にならない、吐き気がするくらいの嫌な予感が沸き立ってくる。
平井の死を知る井端が、36番として表示されている意味。
全ては己の脳内、狭い範囲の想像にしか過ぎないはずなのに。
井上の遺体をじっと凝視していた小笠原がこぼした台詞は、一体誰に向けてのものなのか。
低い呟きは、呪詛の言葉のように、聞こえた。
「許さない」

【残り11人・選手会6人】

190一時保管:2011/03/13(日) 11:39:17
257.とある社長の憂鬱

「とりあえずさ、ブログは切っちゃっていいから、先進めたら?」
デスクトップパソコンの画面を睨み、気だるげにキーボードを指一本で叩きながら
堀江はモニタ越しに立つ社員の一人にそう言った。
「……社長、さすがにそれは」
「何で。たかだか一日二日の話じゃない」
抵抗のそぶりを示した彼にちら、と上目をくれ、堀江は唇をとがらせる。
社員は臆することなく、冷静に切り返した。
「メンテナンス名目としても、せいぜい半日が限界ですよ。それ以上はカスタマーの
 信用に関わります」
「あ、そ。だったら早く役員に通達して決めてもらってよ。顧客優先ならどうぞご随意に。
 得体の知れない遊びにご執心なアホ社長にゃ付き合ってられんてね」
そりゃそうだ、と一人ノリツッコミを完成させ、しっしっと社員を追い払う仕種で手を振る。
表情を硬くした彼は、携帯電話を取り出し、耳に当てながら退出した。
「はあー……」
キーボードの上を跳ねる指の動きを一時止め、だらしなく右肘を机の上について
掌で側頭部を支えながら、堀江はやる気のない溜め息を吐く。
「こいつか、時間泥棒は」
画面に映る一枚の顔写真と社員ID、簡易プロフィール ―― 要するに社員名簿 ―― に
半眼の視線を据え、じろ、と両の眼球を動かして黒目を端へ寄せた。
「あのさ、時間て何のためにあるのか知ってる?」
その先にいる別の社員が、問いを受けてかしこまった風に目配せをする。
「内戦とか爆破テロとか、食糧難とか銃乱射立てこもりとか、引きこもりとか社内スパイ
 とかどうでもいいわけよ。俺の関心はさ、利益が出るか出ないか、扱いやすい金づるが
 そこらに転がってないか。それだけなのよ」
ええ、と社員は静かに相槌を打った。
「俺はこの何時間か、1円も稼いでないんだよ。すげえ損失だよ、俺の人生にとって。
 今この瞬間もさ、こいつの汚ねえ顔見てるだけで時間を無駄にしてるのかと思うとさ」
何度目かの溜め息とともに椅子の背もたれに体重を預け、いまいましげに画面を
顎でしゃくる。
ブログサーバダウンを引き起こしたらしい“裏切り者”は、ログインとアクセス記録の
調査で簡単に割り出せたものの ―― それは同時に三木谷の送りこんだ走狗という
ことにもなる ―― まんまと三木谷の口車に乗せられたことについては屈辱の極み
でしかない。
冷静に考えてみれば、こちらのシステムを支配する事ができたのなら、それを電話で
知らせてやる必要がどこにあるのか。黙ってスイッチを切ればいいだけの話なのだから。
それに、先方は言わずもがな、IT企業の端くれである自社のシステムが簡単に
乗っ取られるなど有り得ないのだ。
あの老人たちの企てた、バトルロワイアル・システムの掌握が可能だったのは、
こちらが拍子抜けするほど、そのプログラムが無防備な姿で仮想空間にさらされて
いたからに他ならない。
強化ガラスでも磨りガラスでもない、透明な薄いガラス板の向こうにそのジオラマは
全貌を顕にしていた。侵入は現実に空き巣に入るより何倍も容易いことだった。
(救いようのないほど馬鹿なのか、それともセキュリティに手を回す暇が無かったのか……)
堀江は鼻白んで、背もたれの反動で姿勢を前のめりに戻した。

191一時保管:2011/03/13(日) 11:39:52
「どうしますか?」
そのタイミングで、社員が裏切り者の処遇について尋ねてくる。
「んー、ウィルスでもぶち込んどく? 手っ取り早く縛るか閉じこめるか、とにかく
 システムに入れないようにさえしてくれれば。任せる」
右手を挙げてひらひらさせると、さっそく社員は立ち上がり、部屋のドアを開けて
出て行った。入れ替わるようにして、携帯電話を折り畳みながら、先ほどの社員が
戻ってきて堀江の机へ近づいてきた。
「社長、ブログサーバの件ですが」
「うん。復旧優先か、メンテナンスでお茶を濁すか、結局どっちよ」
「役員の総意で、復旧を優先するように、と」
堀江は口許をへの字にした。
「オキャクサマはカミサマですうってね。はいはい」
「仕方ありません、大口の顧客もいます。信用失墜は即、経営の傾きに直結します」
「いいけど。その代わり急いでよ、首輪もあと1時間半もあれば復活するよ、多分」
「最善を尽くします」
一礼してから背を向け、彼は再度その場を辞した。
それを見送ってから、さて、と声を上げ、両手を胸の前で打ち合わせる。
「じゃ、目には目をって言うけど、絶対に仮想空間で戦い続けなきゃならないルールも
 ないわけだしねえ……」
先刻から片手の指でポチポチとキーを鳴らしていた作業を両手に切り替え、ものの
数十秒で完了のリターンキーを叩いた。
「リストー」
堀江の声に反応して、もう一人控えていた社員が、プリンタの吐き出した何枚かの
用紙を手に彼の座る横までやって来た。
一枚の紙につき、一個人の写真付き名簿が載ったそれらを受け取ると、堀江は一番上に
見えている顔写真を指で弾いた。
「ペーパーレス上等。紙が一番確実だよな、燃やせば失われる、残せば何百年も残る。
 二進数値の羅列は完全に消せないし、ちょっとした衝撃で壊れて用をなさないし。
 先人の知恵は偉大だ偉大」
俺は断然アナログ主義だね、メールで会話とかあり得ないもん。誰に聞かせるでもなく
呟き、机の上の携帯電話を取り上げ、発信状態にして数字の列を打ちこむ。
耳にあてた受話口から呼び出し音が鳴り始めると、傍らの社員を振り仰ぎ、
「やべえ、テレフォンショッキングだ」と、ニヤニヤ笑った。

堀江が再び視線を戻した名簿に記載されているのは、スーツ姿の中年期とおぼしき
男性の顔写真と、そして。
氏名欄に、「落合博満」の文字 ――

【残り11人・選手会6人】

192一時保管:2011/03/13(日) 11:42:56
258.リメンバー

夜の栄は、あちこちでネオンがきらめいている。
車から降りると、ゴメスは周囲を見渡し、駅がある方角へ向かって歩き出した。
「どこへ……えー、ホエア、ドゥ、ユー、ゴウ?」
漁師が聞いたが、ゴメスは振り返って小首をかしげて見せる。
何か確証が持てていないような様子だ。
会えるかわからないのだろうか。それとも、信頼できる味方でないのか。
大柄で肌の色も違う彼は、混雑したこの繁華街でも目立つ。
見失うことは無いが、まずい奴らに気づかれはしないかと不安になった。
10分ほどして、彼はある店の前で足を止めた。
華やかな入り口で光るネオンサインが、台湾料理店であることと、
漁師も見知った人物の名前を示している。思わず呟いた。
「この店……」
ゴメスも一度頷き、少し逡巡していたが、意を決したようにドアをくぐった。
「いらっしゃいませ」
接客をしていたらしい男性が、こちらを向くと、驚いたように声を上げた。
「レオ?」
緊張した面持ちだったゴメスは、ほっとしたように顔を崩し、その男性と抱擁を交わした。
奥目がちな大きな瞳と、現役の頃と変わらない締まった体つき。
異国からやってきて、ナゴヤ球場のマウンドを舞った守護神の姿。
「ゲンジサン」
彼はゴメスの頭に手をやると、よく来たねと微笑んだ。
「何にする、って聞きたいところなんだけど」
少し表情を曇らせて、奥の席に着くよう促した。
「チームのこと、だね?」
日本語でそう言ってから、流暢ではない英語でそれを訳したらしい、ゴメスがこくりと頷いた。
店員から渡された水を2人の前に差し出して、彼は漁師に尋ねた。
「あなたがレオを案内してきてくれたのですか?」
「いや、こいつが栄に行きたいって言うから、車で乗せてきただけだ」
「そうですか。どうもありがとう」
お辞儀をすると、彼は申し遅れたけど、と自己紹介をしようとしたので、手を振って見せた。
「この歳で、あんたのこと知らないドラゴンズファンはいないよ」
「光栄です」
「それより」
漁師は相手を見上げて聞いた。
「あんたは何か知ってるのか? チームのことって言ってるけど」
「詳しいところはわからないけど」
彼は店員に、メニューの何かを持ってくるよう指示して、椅子に座った。
「ドラゴンズが危ないことになってる。選手みんな、命が危ない」
ゴメスに何か英語でしゃべると、彼がそうだ、そうだと言う風に首を振った。
「OBが集まって、選手を助けようとしてる。けど、僕のところには直接連絡は来なかった」
「直接?」
「別のOBから聞いたの。お前は行くのか、って」
彼は悲しげにうっすらと笑って、続けた。
「星野さんに電話したら、『来なくていい』って言われたね。タツやカズは呼ばれてるのに」
テーブルの上で組んだ指を見つめて、短い溜め息をつく。
そしてまた英語で、どうやら経緯を説明しているようだった。
拙いなりに、漁師よりは話が通じているらしい。
「ねえ」
彼は急にこちらを向いた。
「憲伸はどうなったの、って」
ゴメスが聞いているのだけど、といった様子で彼のほうを手でさしている。
「川上は……本部に乗り込むって言って聞かなくて、
そのまま本部と関わりのある奴らに連れて行かれたよ」
「そう」
唇を押さえながら、やがてゴメスの肩をまた叩いた。
「僕を頼ってくれて、信じてくれてありがとう」
「仲良いのか?」
彼は首をかしげる。
「ドラゴンズにいた時期も違うよ。店に何回か来ただけね」
迷っていた理由はそういうことか。
「レオは地図も持ってる。これで口実が出来たよ。僕らも港へ行こう」
ゴメスにもそう呼びかけると、彼の顔が明るさを取り戻した。
「でもその前に」
店員が来て、前に麺料理を置いた。
「2人とも疲れきってるよ。ほら、食べて元気出して。レオはこれ好きだったでしょ」
ほんの少しだけ、ゴメスの目元が潤んだように見えた。

【残り11人・選手会6人】

193名無しさん:2011/06/27(月) 09:54:52
2年ぶりぐらいに覗いたら新作来てた!

194名無しさん:2013/04/01(月) 23:35:30
もうこないのかな…


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