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宗教と信仰

1名無しさん:2004/12/08(水) 15:50

宗教・信仰 人間にとってどんな意味があるのだろう?

思いつくまま・・・

2coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2004/12/08(水) 15:56
宗教のはじまり
宗教的観念というのは,非日常的な力を目の当たりにしたところから芽生える,というようなことが社会宗教学では言われています.古代では,たとえば雷・地震・嵐などといった自然現象に人々は非常な恐れを抱きました.そして,その非日常的な強大な力から逃れるための心の働きとして,まず,その物質的な現象の背後に,それらの力を操る目に見えない存在を見ようとします.それを霊的な存在(スピリット)と捉える.非日常的な力から逃れるために人々は,霊的存在に対し禍いから守ってくれるように祈りを捧げ,拝む.精霊信仰が始まります.これは,どの文明を遡っても,また現在文明をもっていない原始的な生活を送っている人々にも,共通して言えることだそうです.(続く)

3名無しさん:2004/12/08(水) 21:56
百隠禅師を知った。
 昔の日本人は、現代人のような文化は無かったけど、教えとして仏教を教育されていたのだ。
今の日本人に無い教育ではないか?この教育こそ本当の教育であると思う私である。
 然しなぜ日本において物理化学が生じなかったのだろうか?空の思想が原因で無いかと思ったりするのだが。
然し、大乗経典には、菩薩は技術に優れたものといわれているが、つまり物理化学を軽視するものではないと解せられるのだけど。
日本の中世(江戸時代までの時期)までは、仏教を教えとして教えることに専中されていて、其れを実生活に生かすこと、実生活を豊かにして人々の福祉に寄与するという効果が無いといっても言いと思う。
 白隠禅師は優れた僧であったらしいが、菩薩とは呼ばれていない。ところが、奈良時代の行基は菩薩と呼ばれている。彼は社会事業をして人々に楽を与えたからである。行基は橋や堤防の土木事業、をして
いるが、彼なら物理化学を発展させたであろうと思う。

4みれい:2005/03/10(木) 11:02:16
精神の方向づけ、というのでしょうか。そう考えると、宗教も信仰もはたまた宗教でありそうななさそうな禅というものもすっきりと納まります。
また欲の方向づけ、というのもあるかもしれない。

何かで読んだのですが、
ベトナム戦争での出来事。雨が降って日も遮られ非常にコンディションも悪く誰もがイラつく状況の中で弾丸が飛び交う張り詰めた戦線のなかを、
5人の出家者が通りがかった。
お袈裟だけをつけ頭をまるめた5人の出家者は、ただ、道をまっすぐと、一列に並んで歩いてゆく。
それを見たアメリカの軍人さんははたと打つのをやめ、その場違いな出家者たちを見た。
弾丸を気にする風でもなく、瞑想しながら、かく確実に歩く姿に、まるでこの世のものではないような独特の空気を感じ、圧倒された。
いつしか誰からともなく弾丸は止み、全員がその歩く出家者たちを見入っていた。
そのまま5人の出家者たちはただ黙々と歩いて向こうへ消えていった。
その間、誰もがここが戦場であることを忘れていたようだった。
まるで奇跡が起きたようだった。

精神に働きかけるその作用が事実としてあり、
それを奇跡と読んだり超能力と呼んだりご利益と呼んだり信仰と呼んでみたりして、神を見出したり、どうにかそのわけのわからない出来事をどこかに位置づけてみようとする。

・・・・・
新幹線の中で読んだ本に「我関わる、ゆえに我あり」とあった。
なるほど、縁起、と思いました。

5歩 </b><font color=#FF0000>(Sm14xCnE)</font><b>:2005/03/14(月) 20:19:08
みれいさん、こんにちは。

>>4 「我関わる、ゆえに我あり」
まさに、なるほど、ですね。

少し前まで私は、縁起というと自分をその結果「起」のほうにばかり
置いて物事を考えていました。
確かに、自分ひとりでこの世に生を受け、こうして過ごしているのも
父母あってこそ、そして多くの先人あってこそです。
生きて生かしていただいていることに感謝はつきません。
また自分は人類数万年、地球数億年、宇宙、生命体、それぞれ途方もない
歴史における結晶のひとつであること誇りにさえ思っています。
そしてそれは、すべての生命も物質もまた同じであると思います。
そちらからばかり観ると、どうしても受動的になりすぎちゃうんですね。
「縁起」というものも受動的な思想になってしまう。

それだけじゃ、やっぱもったいない。
と、いうより、自分が知ったとたん認識したとたん、つまり縁したとたんに
自分の動きが起こってくる。心の動きも身体の動きもあるでしょう。
その広がり、可能性は無尽蔵。そして自分の主体はたったひとつ。
動かないでもいい、ただひたすら祈るでもいい、
自分の思いが自分なりに表現できること。
これが「縁起」というもののスタートでありゴールなのではないかと思います。

んー、言葉の定義メチャクチャだ。

宗教とか信仰と呼ばれるものには
私としては、行動を起こすという勇気を与える側面と、
それを静かに自分で考えるというこれまた勇気を与える
この両面兼ね備えるものを求めるな。
勇気というか、希望というか、夢というか、安心というか。
得るのにひとりだけじゃたいへんだな。でも動かせるのはひとり自分だけ。

6Leo:2005/03/16(水) 00:35:19
「縁起」という言葉を含めて言葉にとらわれる(とらわれすぎる)のも執着かもしれない。

>宗教・信仰 人間にとってどんな意味があるのだろう?

人間生きている(生かされている)こと自体奇跡であり、その不思議さを思うこと(天に畏敬の念を持つこと)が宗教かもしれない。

7Leo:2005/03/16(水) 00:42:18
>「縁起」という言葉を含めて言葉にとらわれる(とらわれすぎる)のも執着かもしれない。

それはいわゆる言葉の呪縛というものですね。
(↑といいつつ、このように言葉で表現すること自体呪縛だったりして)

ですんで、言葉の定義より感じたことを話すのがいいんじゃないかなーと思います。

8みれい:2005/03/17(木) 09:49:15
生かされている、ということ、
生きている、ということ、
生かす、ということ。

スポーツ選手が無意識にとる力強いガッツポーズや、天に祈る姿など、
何かを信じ、仰ぐ姿には感動します。

言葉自体、禅から来た言葉も結構あるらしく、
「自分」という言葉も、「自然の分身」からきているそうです。
「自然と私」ではなく、「自然は私」というのでしょうか?

感動、という言葉もおもしろいですね。感じて、動く。何が?心?

9歩 </b><font color=#FF0000>(Sm14xCnE)</font><b>:2005/03/18(金) 19:38:59
>>8 みれいさん、こんにちは。

自然は私だったり、私は自然だったりすると思います。
ピッタリと一致した姿、私は禅で言う「同時」という概念で捉えたりします。

自然は私そのもの、私は自然そのもの。自然のすることに何を不平不足を
いうのか、何を恐れるのか。自然の中で逃げも隠れもできないのだから、
その中で自然と一体となって一日一日を大切に生きていきしょうよ。
自分も他人もすべての自然もお互いあってのものなんだから、
お互いのためになることしましょうよ。
必ずできますよ。いや、もとよりできているんですよ。
できなくしているのは自分の我のことばかり思う気持ちですよ。
その我をいうものを一枚ひっぺがして捨てれば、ほーら仏様のできあがり。
仏とはあなたなのです。
ってのが、私の禅的仏教観です。

蛇足になりそうだけれど、「自然環境を考えよう」っていいながら
そこに自分も自然そのものだとの思いが入ってなければ、ただの他人事。
一番考えなければならないのは、そういう自分自身という自然環境じゃなかろうか。

10歩 </b><font color=#FF0000>(Sm14xCnE)</font><b>:2005/03/18(金) 19:40:06
>>9(続き)自然は私そのもの、私は自然そのもの。

十界具足といわれるものも同じこと言ってると思います。
すべて備わる。つまり自然そのもの。つーことは、私もあなたも仏ってことでは。
そして仏になれない、ではなくて仏を見せない或いは開かない根本的原因、
つまり我こそ「魔」とか「悪」だとか呼んでいるのだと思います。
言葉に対する嫌悪感は別として、同じ思いだなあと感じます。

「魔」「悪」ってことで他人を責めるのではくて、自分の中の「魔」「悪」に
打ち克とう、ってのが本来の面目でしょうね。
悪いことを見逃さないことも自分の「魔」に克つことだと思います。
が、それが我「魔」のためであったり、また叱咤激励するものでなければ
私にとっての仏教的思想からは大きくずれていると感じます。

まして、特定政党をよろしくーってのは、主義主張、組織活動としては文句を
つける余地などありませんが、「正義」かどうか判断できません。

11歩 </b><font color=#FF0000>(Sm14xCnE)</font><b>:2005/03/18(金) 19:41:16
>>8 感動。

ほんとうにおもしろいものですよね。
何が動くのでしょうね。

自分が動いているのは感じるんだけどね。
でも、「あ、自分のこころが動いている」ってハッキリと認識できない。
というかこころって一体何なのでしょうね。だいたいひとつしかないものが
それ自身をみたり感じたりできるのだろうか。
「あ、あの人、感動してるな。心が動いているんだよ」ってのは、なんとなく
わかった風に使うけれど、自分のことはわからない。
なんだかわからないけれど、涙がでたり、悲しかったり、嬉しかったり。

まあ、自分でよくわからないことは、人の判断評価にまかせたほうがいいかな、
なんてね。否、まかせるしかないと思っています。

13coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/03/19(土) 16:59:21
そういえば,「一瞬のうちの急激な感情の変化」というものをあからさまに味わったことがあります.息子が小学校に入学した初夏の頃でした.その日小学校の校庭の脇を通りかかると,ちょうどカラーンコローンと休み時間の終りを告げる鐘が鳴りはじめたところ.校庭にいた生徒たちはワーッと群がりながら校舎の中へ吸収されてゆきます.鐘が鳴る直前から校庭では,地面の四ケ所程に設置されたスプリンクラーから水が撒かれ,運動場に舞う砂塵を防いでいます.うーん,なかなか便利になったものです.

と,よく見ると,一人の生徒が一ケ所のスプリンクラーの周りを飛び跳ねながらぐるぐる廻っています.逃げては近づき,近づいては逃げ,噴水の親分のような水しぶきにもう夢中です.すでに校庭には誰一人いないことにも気がついていません.一年生の息子と同じ背格好ですが,Tシャツの色が違います.実に微笑ましい光景です.う〜ん,見たところ低学年だけど,ああいうちょっとはずれ気味の生徒もいるのだ(うちの息子だけじゃなかった.).ウンウン,無邪気でいい・・・と非常に理解に溢れ,鷹揚且つ慈愛に満ちた(と思われる)眼差しでニコニコと眺めておりました.

その生徒のズボンの形状に目がいきました.七分のダブダブのブルーに脇の赤いストライプ.このときほど突然,嬉しい穏やかな感情から険しい怒りの感情へ変化するのを,私のそれまでの生涯において経験ことはありませんでした.
次の瞬間金網に取りついて,片手を振り回して叫んでいました.
「コラーーーっ!! なにやってんのーーーっ!!! 早く教室にもどりなさーーーいっ!!」
Tシャツは,スプリンクラーの水にすっかり濡れて,薄いグレーからブラックに変化していたんですね.
私の心はピンクからブラックに変化したんですね.心に豹を飼っているんでしょうか.
菩提即煩悩.噫.

14モーリス ◆GQJExy6YJA:2005/08/27(土) 14:13:05
1日1回の勤行(方便自我偈1回のみ)を
7〜8ヶ月(あるいはもっと?正確に憶えてない・・・)やって
希望部署への移動と公団住宅の当選が立て続けにかなったときは
心底「仏法は偉大だ!」と思ってしまった(笑)

17代理:2007/02/25(日) 15:52:49
age


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