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勉強になるなぁ
1
:
さな
:2006/06/27(火) 11:56:16
単年度予算の制約を逃れるために研究費としてアルバイト名義で現金化して
専用銀行口座を作ってプールして、アルバイトしたことになった学生の了解も
取り付けてちゃんと目的を定めて(学生の旅費など)処理しているのであれば、
罪は罪でも横領とまでには行きません。学生次第ですがアルバイトは実際したと
見なすこともできるので、そうであれば、問題となる部分は学生から先生への寄付
行為を私的にやったところのみだと思われます。
今回、15名もの学生との関係は架空と言い切れるかどうかよくわかりませんが、
プールするにも金額が大きすぎるし、その中から研究費として使う目的があるとも
思えない1000万クラスの財テクをしたりしたことは、大学が告訴すれば横領に
なると思われます。
2
:
motopoo
:2006/07/01(土) 06:54:14
おっ おっ おっ カッチン
/⌒ ≡⌒ヽ カッチン
. (^ω^ ≡^ω^)彡 ミ
. ( ∪ ∪ \†/
と_)_) .△
3
:
さな
:2006/07/03(月) 22:27:38
55 :就職戦線異状名無しさん :2006/06/23(金) 18:33:17
今でも思い出すあの日の出来事・・・かあちゃんの悲しそうな顔
僕は生れて初めてのゲーム機に興奮した。
J('∀`)し
t─┐ノ( ノ) ヾ('∀`)ノ<これ欲しかったんだ
│■| | . (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
レジに着き、PS3を買おうとするとソフト込みで7万円と言われた。
そんなたくさんお金持ってきてないから、やっぱりいいです。としか言えなかった。
──┐
│ _[sony]
│ J(;'Д`)し (`Д´ ) <買えもしないのに持ち出すな!
│ ( )\('д`) ■ヾ( ) 棚に戻せ戻せ!
│ || (_ _)ヾ / └
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
──┐
│ _[sony]
│ J( ;'A`)し ( `Д´) <貧乏人は卑しくていかんわ!
│ ( )\( 'A`) ヾ( )ノ■ PSは子供の玩具じゃないんだよ。
│ || (_ _)ヾ ||
56 :就職戦線異状名無しさん :2006/06/23(金) 18:34:19
結局PS3を買えなかった僕たちは 外の試遊台で遊んで帰った。
帰りの電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら。
( '∀`) J('A` )し
.(_ _) ( ) .┌─
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄くく ̄ ̄ ̄|
母は 「母ちゃんバカでごめんね」 と言って涙を少しこぼした・・・
( 'A`) J('A`; )し
.(_ _) ( ) .┌─
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄くく ̄ ̄ ̄|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
後日別のゲーム機を買ってもらえた。
まぶたを閉じれば今でも思い出す。
歓ぶ僕を見るかあちゃんの、凄く嬉しそうな顔を・・・
──┐
│ [任天堂]
│ J( '∀`)し (´∀` ) <Wiiなら本体にソフト付けても安いよ
│ ( )\('∀`)ノロロヾ( )
│ || (_ _)ヾ ||
4
:
さな
:2006/07/03(月) 22:29:08
58 :就職戦線異状名無しさん :2006/06/23(金) 18:39:51
「ほんとにプレステ3買ってくれるの!?」
「プレステ3ないとタケシ学校でいじめられるだろ?」
「でも・・・お金・・・」
「カーチャンパート増やしたからね。今度はちゃんと6万2790円持ってきたから大丈夫!」
J( 'ー`)し
( )\('∀`)
|| (_ _)ヾ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
59 :就職戦線異状名無しさん :2006/06/23(金) 18:40:52
「コイツのPS3、62,790円の廉価版だぜープヒャハハハ!」
「おいおいメモステ使えねーじゃん!俺のデータ使えねーじゃんwww」
「一生独りでシコシコやってろ!ぎゃっはっは!」
(`Д') (Д´#)
( )へノ(';A`)、_(___)
/ . (: ヘヘ,, >
「たけし、プレステ3楽しいかい?クラスのみんなと仲良く遊べてるかい?」
「うん!今度クラスの友達がセーブデータもって遊びに来るよ」
「じゃあ母ちゃん、頑張ってケーキ焼こうかねえ」
J( 'ー`)し
( ) ('∀`;)
|| (_ _)
5
:
さな
:2006/07/09(日) 13:14:55
キングカズは神だと思っている。
7年ほど前の正月休みに両親と静岡市のカズ実家(もんじゃ焼き屋)に
食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなりキングカズが
玄関から入ってきた。もんじゃ焼き屋に似合わないイタリアンないでたちで。
カズが「俺いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「カズさん!」「カズさんかっけー!」などと
騒ぎ出し、カズが戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い
サインをしてくれた。
高校生達がカズの母校静岡学園のサッカー部だとわかったカズは
いい笑顔で会話を交わしていた。
そしてカズは「またな〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親はカズの気さくさとかっこよさに興奮しつつ
食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、店員さん(カズ妹)が
階段の上を指差しながら
「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
6
:
さな
:2006/07/09(日) 13:17:48
ブラジルのサッカー選手を夢見る孤児たちを育てる団体に、カズ選手がサッカーボールを送った事がありました。
しかも200個ものボールの数に、子供達はとても喜びました。
しばらくしてJリーグから同団体にボールを寄付しようと、エージェントが現地に赴き、子供達にボールを渡しました。
少年達は喜んだが、渡されたスポルディング(メーカー名)のボールを見て、
「スポルディングではなくて、メーカーは『カズ』が良かった。」
「『カズ』のボールはとても使いやすかった。」と口々に言う。
Jリーグのエージェント達は首をひねる。「そんなメーカーあったっけ?」
すると子供達に、「これだ。」とボールを手渡される。
手渡されたボロボロのボールを見てエージェントは驚く。
すでに擦れてしまっているも、ボールにはサインペンで、
「夢をあきらめるな カズ」
と現地の言葉で記したあとがあった。
200個ものボールすべてにメッセージとサインを入れ、それを見た子供達が『カズ』というメーカーのボールであると思い込んでいたのです。
7
:
さな
:2006/07/09(日) 13:22:20
Jリーグが始まった年だから、もう何年前になるんだろう。
名古屋の栄の焼き肉屋へ家族で行ったときのこと。
座敷席にカズさんと北沢選手と、数人の女の子がいた。
多分遠征中だったのだろう。
当時高校生の俺の小学校三年の弟はサッカーをやっていた。
せっかくだからと、尻込みする弟をカズさんの前へ連れて行き、
「お楽しみのところすいませんが、弟がサッカーやっているんで、何か言葉をいただけると
励みになるんですが。」
と厚かましく言った。
カズさんは、
「お、サッカー少年か」
と楽しそうに言いながら、座敷席の奥からわざわざ立ってこちらへ 来てしゃがみ込み、
弟と目線を同じ高さにした。
「サッカー少年は勉強がよくできるか?」
と、いきなりキングは弟に聞いた。
弟の成績はそれなりによい。弟はうん、と答えた。 するとキングは
「頭のいいやつは、トップ下MFがあってる」
と、カリオカ、ラモスの名前を挙げた。
さらに何かを言おうとするキングに、連れの女の子が、ねえまだーと露骨にいやそうな顔をした。
カズは、振り返って一言言った。
表情は向こう向きだったから、わからなかったが、多分厳しい顔をしていたのだろう。
「うるさい。俺たちは今サッカーの話をしているんだ」
8
:
さな
:2006/07/09(日) 13:26:11
2002年W杯の日本vsベルギー戦の直前まで、カズは一人黙々とグラウンドで練習を続けてコンディションを整えていた。
ある記者がカズにその理由を尋ねると、カズは
「試合直前だけど試合が始まるまでは何が起こるかわからないよね。もしかしたら集団食中毒が起こるかもしれないし、代表に選ばれたFWが怪我するかもしれない。
そして、もしかしたら誰かの代わりに自分が選ばれるかもしれない。もし、そうなって自分が日本代表に選ばれた時、恥ずかしいコンディションでピッチの上に立つなんてことは、自分には絶対にできない。
日本代表というのはそういうものじゃないんだ。後悔は絶対に残したくないんだ。」
と答えた。
9
:
さな
:2006/07/09(日) 13:55:45
1967年、静岡県静岡市に生まれる。1973年、静岡市立城内小学校に入学。城内FCで
本格的にサッカーを始める。さらに静岡市立城内中学校に入学。この頃から横浜銀蝿の
もの真似をするなど目立ちたがり屋であった。
1982年、静岡学園高等学校に入学するも、8ヶ月で中退。15歳で単身ブラジルのプロチーム
「ジュベントス」に留学。当時のカズは県内でもほとんど評価されず、カズのスピードと
体力ではブラジルどころか県内でも通用しない、という批判の声がほとんどであった。
それでもカズは自分を信じブラジルへと発った。
カズは、他の選手のように一時留学の形でチームに預ってもらうという形をとらなかったため、
ブラジルで注目を集め、プロの仲間入りをするには、人並以上の練習で実力をつけ自力で門戸を
開けるしかなかった。カズは、ひなびたスタジアムで罵声を浴びる毎日を送りながら、
死に物狂いの練習を毎日続け、言葉の壁、習慣の違い、いじめや孤独と戦いながらプロを目指した。
食事やスパイク、ユニフォ−ムを盗られたりもした。下手なプレ−をすれば、日本人は使うな
という世間の攻撃も受けた。
1985年の夏、カズは厳しい日々に夢を捨て日本に帰ることを考えた。そして、日本行きの航空券を買い、
リオの公園に気晴らしに出た。そこでは、20人ほどの子供達が楽しそうにサッカーをやっていた。
その中には、片足で懸命に汚れたボールを追っている少年がいたのである。「片足の子だけじゃなく、
裸足の子もいました。じっと子供たちを見ているうちにボクは反省しましたよ。ボクには両足もあれば
スパイクも新しいボールもある。いったい、何をぜいたくなことをいってたんだろうと思いましたね。」(カズ)
飛行機の予約をキャンセルしたカズは、この時から帰国を口にしなくなった。翌1986年2月、18歳の
誕生日の2日前、カズは正式に名門サントスFCと契約した。
日本では華やかに報道され、現地ブラジルでも新聞にとり上げられ話題には事欠かなかったが、サントスFCでも
厳しい苦渋を味わった。ウイングのポジションには元代表の名選手がいて、そのシーズンは2試合しか出場できなかった。
10
:
さな
:2006/07/09(日) 13:56:05
そして1年後、サントスFCの外人枠から外れ、弱小チームに貸し出されることになる。そこでの生活は
悲惨なものであった。
「まるでドサ回りみたいなものですよ。バスで延々23時間かけて地方に遠征し、 試合をして、
終わったらまた23時間かけて帰る。夜はバスの通路にクッションを敷いて寝る。
食事は高速道路のインターで同じような肉料理を1日3、4回。
それに、ブラジルは広い国だから、暑かったり 寒かったり、1日で気温が10度以上も違うんですからね。
でも、ここで負けたら永遠にオレはダメ になると、いつも心のなかでは思っていたんだ。」(カズ)
そののち、「CRB」という田舎チームを経て、1988年サンパウロ州の1部リーグチームではあるが、
ローカルチームの「キンゼ・デ・ジャウー」にスカウトされる。
このスカウトが歴史的なゴールへとつながることになる…。
カズはこの試合で、鉄壁の守備を誇る元ブラジル代表のエジソンのマークを外し、
ヘディングでゴールを決め、1-0で勝利した。点を取ったのはヘディングだったが、得意の
ドリブルで何度もコリンチャンスのディフェンダー陣を混乱させた。カズのフェイントは
ブラジルの超一流チーム相手に十分通用するようになっていたのだ。ゲームが終わった後の
ジャウーの町は1週間以上も、お祭騒ぎがつづいた。地元ではカズを「神」として崇めた。
http://www.youtube.com/watch?v=SRDy5YnKOlA&mode=related&search=
(キンゼ・デ・ジャウー時代と↓のサントス時代の映像。カズコール)
超名門サントスで活躍し、観客から「カズ」コールが巻き起こる様子がわかる
その後、パルメイラスの助っ人メンバーとしてキリンカップに出場したり、コリチーパを
パラナ州のチャンピオンにさせたりし、カズは実力をフルに発揮しはじめ、90年に再び
サントスFCと正式契約した。
カズ、このとき22歳。今度は超一流の折り紙をつけられ、堂々と胸を張っての契約だった。
11
:
さな
:2006/07/09(日) 13:56:25
1990年7月、カズは帰国し「読売サッカークラブ」と契約する。
ブラジルでの最後の2年間は、 カズは評価も高く人気選手であり、名門「サントスFC」とも契約し、
まだこれからという時での 帰国であった。
ブラジルでの成功を捨ててなぜ日本に帰ってきたのか、残念がるファンも多かった。
当時日本のサッカー界には、プロリーグの構想が持ち上がっており、カズは、その構想に引かれ
日本に帰ることを決意したのだ。カズは、ブラジルで人気選手としてサッカーを続けることより、
日本のサッカーのレベルを上げ、日本代表チームの一員としてワールドカップ出場を目指すことを
選択したのだ。
1993年にはプロサッカーリーグ・Jリーグが開幕し、また日本代表チームは、ワールドカップ・
アメリカ大会出場まであと一歩というところまで迫る。日本のサッカーは、人気実力ともに上昇して
いった。これらの功績はカズなしではとても成し遂げられるものではなかった。
日本のサッカーが軌道に乗ると、再び自らのもう一つの夢を追いかける。
そしてまた、通用しない という声の中、セリエAでのプレーを実現する。
日本は1998年フランスワールドカップに出場を決めるも、カズはそのメンバーから外されることになる。
日本代表のユニフォームを来て、ワールドカップの舞台に立つことを一番強く願っていたのがカズであっ
たと思う。日本を世界のレベルに引き上げたのが、カズであることは皆が知っていることであり、本人も
そう思っていただろう。それだけに悔しかったことだろう。
しかし、これまでのカズはブラジルに渡る時、ブラジルから帰る時、イタリアでプレーする時、常に回りに
反対される中、自分を信じて成功をしてきた。逆境をバネにして、やってきた男である。今回は代表から
外れたが、まだまだこれで終るような男ではない。
カズの帰国会見。「メンバーから外れたことは、絶対に納得してはいけない。」
いい顔をしていた。カズは、死んではいない。夢を追い続けるカズのサッカー人生は、まだまだ終らない。
--1998/7/10
12
:
さな
:2006/07/09(日) 14:39:04
開幕直後の週刊誌ネタでは
一夜に3発以上を決める精力男はハットリくんと呼ばれた…らしい。
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