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麒麟はまだか?ー大河ドラマネタでおしゃべりを

20紋章官:2020/10/28(水) 18:31:28
来年2月まで放送が決まりましたねえ。あと4か月で一気に本能寺に突入、どう話を飛ばすのでしょうか?

さて先日の「麒麟がくる」。けっこう記録や伝説の内容が反映されていました。まずは伊呂波太夫さんが嘆いた天皇の葬儀遅延や壁が崩れていた話。
葬儀遅延は実話で、天皇崩御後、60日間御所内に遺体が安置(放置?)されたところ。別に、古式ゆかしく「殯(もがり)」をしたわけではありません。
葬儀費用が準備できず、このような事態になったところ。この辺りは前に書きましたように、即位式も10年以上かけて、やっと費用をためて挙行している。
そして壁が崩れていた話は江戸時代に流布した話。そして織田信長が語った父信秀が壁修繕費を献金した話も記録にあるところ。実際、雨漏りは言うの及ばず、
門の倒壊など破損多数。ただ、壁の崩れはいささか俗説らしいのですが。一方で番組の最初に築城を監督している織田信長に声をかけた公家がいました
が、これは実際、ありえた場面。それというのも、信長と親しく、築城見物にしきり出掛けた公家が存在しているからです。
すなわち戦国京都の記録マニア山科言継。彼の日記の中に、細々と二条築城の進捗状態が記載されており、彼が見物に日参していたことが伺われます。
なにしろ野次馬というか好奇心旺盛な人!ちなみに、このとき官位も「大納言」で年齢60代近い!とことん、当てはまります。そして山科言継は
献金集めや収入獲得に尾張に出掛けて織田信秀や平手政秀のもてなしを受けており、当然、そのころ子供の織田信長と面識を持っていてもおかしくない。

そして築城現場で信長に話しかけた事も書かれており、また織田信長も、この後ですが、岐阜で献金集めにやってきた彼にすぐ会い、
それに応じたところからこの老公家には好意的なことが伺われ、二条築城の場で、あのようなやり取りをやっていておかしくない間柄といえます。
考えてみれば、あの時点での織田信長にとって都の知り合いは心強いところで、それも子供の頃から顔見知りとなれば、いざ上洛したものの右も左も手探りの中、
朝廷に身分のある知り合いがいたことは、信長にとってはありがたがったでしょう。
一方で織田信秀は多額の献金で朝廷に名前が売れて、案外と尾張の織田家は朝廷や足利幕府内でも評判と信用があった可能性が出てきます。
なにしろ、織田信秀の献金を超える金額を積んだのは大内義隆など数人。それだけに織田家を頼る、との選択肢は足利義昭や周囲にとって、
この献金実績から朝廷受けを考えても自然なものと見えてきます。この辺り、ひとつ検討してもいいかもしれません。それでは


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