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多事彩々

19紋章官:2020/07/30(木) 18:51:50
一応、7月が終わるんですよね。コミケがないので、何も区切りがないかんじで呆けています。はい。

南シナ海大航海時代を言うなら、目を転じて北の話もしませんと片手落ち!コロナさえなければ、北海道へ松前城本丸御殿玄関とフゴッペ洞窟とウポポイを見学に行きたい
ところですが、当分、お預けだな〜って、まわれるかな?このバラツキ。できたら志海苔舘くらいも見たいし、研究資料探しに札幌の古書店にも行ってみたいのですが。
さてアイヌ文化、これを閉鎖したイメージで見てはいけません。和人が北海道に本格的に乗り出す以前、そこには毛皮などの仲介とする北方狩猟民族交易圏が広がって
いました。北海道から北上して樺太から間宮海峡を渡り、河川水運で内陸につながる。江戸時代の間宮林蔵がたどったルートは、決して新しいものではありません。
中国史書に出てくる北方狩猟民「黒靺鞨」、彼らは場合によってはカムチャツカあたりの住民ともいわれています。
またアイヌ人の伝承にある漁場を巡る千島での争い、これはカムチャツカでの火山噴火により追われた住民が千島列島沿いに南下して生活をめぐり衝突したものとも
考えられているように、オホーツク海を囲む島々と半島による交流圏があり、樺太から大陸につながるルート、その起源は、イルクーツク付近の原石を元にした石器が
出土している事から、縄文時代には始まっていた可能性があるのです。その流通網により江戸時代、いわゆる「蝦夷錦」と呼ばれる中国産錦が大陸からもたらされ、
江戸で流行しています。但し、ここに松前藩の表向きはアイヌの交易と称して、御用商人による密貿易を行っていた余地は十分ありますが、それも先達のアイヌたちの
交流の道があればこその話。それは大陸側でもたどったのが元による樺太遠征。長く、この北方遠征はどこまで行ったが論議の的になっていましたが、確か樺太対岸に
モンゴルの土城の遺跡が見つかったとので、確実視されるようになっています。(どの本にのっていたっけ?コミケがあれば相談できるのに・・・)
それだけ彼らは一つ一つの集団は小さくても、連環することでよほど本土より広い世界につながり、豊かなものを持っていたのです。
その中で興味はユーカラと北方諸民族の民話、伝承、叙事詩の世界。目を広げて北アメリカ諸族の叙事詩なども比較に取り込みたいところです。
史料と読みこなす時間と能力がほしい・・・・なんか、前にもかいたような落ちになりました。悪しからず。それでは。


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