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刀剣女子のための刀装具展示 IN コミティア120 歴史部!

4紋章官:2017/03/19(日) 20:39:27
三連休中日、いかがお過ごしですか?昨日は天気の良さにさそわれて、渋谷からのんびり歩きまして、神山町から代々木八幡、参宮橋と歩き刀剣博物館
へ行きましたが、いや賑やかだった!移転前の最後の展示時期。外人さんや女性の多い事。今までで一番のにぎわいでした。その上では会員だけの鑑賞会。
さすがに代々木での最後の鑑賞会だけあり、ならびました。鑑賞の短刀には粟田口吉光、新藤五国光、鑑定刀では虎徹等々、ゲームでおなじみの刀工の
作品が惜しげもなく並びました。小心者の私は、こわくて触れない!展示室の見学者の人たちは、上でそんな事をしているとは思っていないだろうなあ。

そんな華やかな鑑賞会にはかないませんが、それでもささやかに五月のコミティアで展示を行いますところです。
蝦夷目貫と共に、目貫を3点展示します。一匹獅子、二疋獅子、這龍図。これらは金目貫。本来目貫は刀の止め釘を隠す役割がありました。そのため
その上を覆い、止める方法として針金を用いていました、このため、古い目貫で時折、この針金を通したくぼみが残っています。
前回、ご紹介しました蝦夷目貫はこの針金を通したくぼみが残る珍しいものとなっています。
しかし、時代がさがると刀を止め釘「目釘」が目貫の位置から離れ、別に設けられるようになります。このため目貫は装飾としての役割が高まります。
それに目貫は手で握る柄前にあるので、拵えを指していても目立つため、「目抜き通り」の語源になるほど。
そのため道具の中でも豪華化が早くに始まったとえいます。同時に目貫が豪華さを誇るのには長い太刀拵えより、短い腰刀、短刀の発達と使用の拡大
があったものと考えられます。ご存じの通り、日本刀は古くは太刀に始まります。つまり長いもので発展する。それが平安末期から鎌倉期に短刀が誕生、
京都の粟田口派、来派、鎌倉に相州伝が始まり代表といえる正宗の在銘品のほとんど、それに九州の左と短刀の名品が多く残されます。
では、なんで短刀が多く出てきたかといえば、長いだけでは不便なところがあり短い刀の需要が出てきたと考えられます。
そして身を整える道具として短刀を納める腰刀拵えが実用から身分装身具として発達してきたものと考えられます。それは武士が富と権力を得たことで
身支度を整える必要と可能になったことがあいまっての事といえます。それが拵えの豪華化を促した事は容易に想像できるところ。鎌倉時代末期から
南北朝時代には、今川了俊が「今川大草子」に戦陣の慰みとたしなみとして、金具の細工を楽しんだ事を記し、足利尊氏の建武式目の華美禁止条項
として梅革使用の禁止の行が存在、それはこの時期に刀装具などの拵えがかなりはったつしたことを教えてくれます。
その発達した金具、その代表が目貫だったと言えます。それがどのようなものだったか、それはまた次回


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