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刀剣乱舞にあやかりまして!四方山話

1紋章官:2015/05/15(金) 22:37:18
あからさまにゲームに便乗しております。先週土曜日は林原めぐみさんのラジオ番組公録のあと、いつもの趣味の勉強会。趣味が修行
になってきております。まさに極道!道を極めるか、踏み外すか、という道を歩き始めています。

そんな趣味の集まりには研ぎ師さんや鞘師さん、もちろん愛刀家もいらっしゃいます。その中に、刀装具で犬養毅旧蔵のお品をお持ちの
方もいます。ちょうど今日は5月15日、5・15事件にて犬養首相が暗殺された日です。
この犬養毅は政治家と同時に大変な趣味人。号「木堂」として数寄者として名高く古美術愛好家として珍しいところでは硯の収集と研究、
また刀剣愛好家としても名高く、今でも時折、犬養毅の鞘書がある刀剣が出てくる事があります。
そんな彼の蔵刀に長曽根虎徹があったのはしられた話。
その虎徹は刀身に風神と雷神が浮き彫りされていることで「風雷神虎徹」の呼び名を持ちます。このあたり虎徹は江戸時代に活動、
名声を持ったことで、近藤勇(真偽別にして)の他、いろいろな有名人がもっていたりします。
詳しくは文春新書「名刀虎徹」に列挙されていますが、井伊直弼、木戸孝允などいます。ここで木戸孝允が出てきましたが、明治の
元勲や政治家には愛刀家が少なくありません。黒田清隆、伊藤巳代治、金子堅太郎等々、元来、下級でも武士という出自が作用し
ているのか地位と財力で収集、コレクションを構成しました。それでは。

2紋章官:2015/05/22(金) 22:47:10
虎徹の続き。虎徹といえば、元は甲冑師だったことが知られます。長曽根派という近江出自の甲冑師の流派があり、虎徹はその一員。出身は近江ともいわれ、甲冑師として越前で活動、そして江戸へ出て刀鍛冶として活躍。そんなわけで、虎徹の兜や三具などが存在しています。それでなじみの甲冑専門店に聞くと、時折売りに出るそうです。本当に時おり、知名度が高いので引き合いも多く、出たと思うと売れてしまうとか。それで兜と刀の収集をされている方に聞きますと、鋼の鍛えで兜と刀のなかご部分に共通性があるそうです。このあたりは両方知っているからご意見。刀だけでは見えないところも気がつかれるところがあるようです。やはり、多面的に視点を持つことは重要です。兜もいつか見てみたいものですが。それでは〜

3紋章官:2015/05/29(金) 22:09:05
さてコミティアでいろいろ聞きまして、一番人気が三日月宗近だそうで。てっきりあの太刀が足利義昭から豊臣秀吉の手に移ると、それを正室北政所おねの護持太刀として与えた、女性の守り神として伝来からかと思っていました。なんか、人気の理由は違うそうで。さて女性が太刀?と思われますが、大名の正室などは、このような護持刀、太刀をもっています。女性用の甲冑も江戸時代、けっこうあったのですよ。多くは失われましたが、華やかな大名甲冑の中に姫君用のが存在しています。わたくし所蔵の腹巻胴もかなり細身なので、女性用の可能性はあるのですが。
さて男女逆転「大奥」ではなく、「天障院篤姫」でも将軍御台所として儀礼で出座するときは、お付き侍女が大名の小姓宜しく、太刀持ちとして随伴しています。去年の黒田官兵衛の時も、北政所の出座の場面で何度か太刀持ち侍女が後ろに続いていました。昔はいなかったなあ〜。何しろ正室ともなれば準当主ですから。ちなみに以前、篤姫所用の太刀と拵え一式が売りに出ました。幕末とはいえ、さすがは将軍家御台所所用太刀。威風払う豪華で堂々たるものでした。
そんなわけで、三日月宗近が高台院遺品になるのも普通の事なのです。
それではまた

4紋章官:2015/06/06(土) 02:36:00
根津美術館で江戸のダンディズム展がはじまりました。刀剣や拵え、印籠などが展示されます。刀装具の認知度があがってくれないかと願うばかり。
さて三日月宗近の続き。平安時代の太刀は細身で反りが大きめ、その反り具合の美しさが特徴ですが、三日月宗近の優美さは中でも逸品!なんといいましょうか、一羽の鶴が長い首を凛と伸ばして立っているようで、「なかご」を頭に見立てれば、天を眺めているようにも思えます。
豊後国行平、古備前友近、粟田口久国等、優美な太刀はありますが、これほど美貌はなかなかにないところ、と思っています。
また「なかご」にふれましたが、この三日月宗近の「なかご」部分の曲がり方は他の太刀にくらべても傾斜がきついところがあります。このあたり、平安時代の儀礼用衛府太刀の柄部分の傾斜との関係ですが、後世、だんだんなだらかになっていく曲がり具合をしる手掛かりともなっています。それではまた

5紋章官:2015/06/12(金) 22:15:51
刀剣博物館では6月から刀剣の一大産地「備前」をテーマにした「備前刀剣王国」展が始まりました!
備前は記録に残る最古刀鍛冶の安生に始まり、古備前友近、正恒の流れから華やかさで歌われる備前一文字諸派、光忠を開祖とする大流派長船諸流、長光、景光等々、名だたる刀鍛冶が次々と登場した場所です。ちなみに備前長船博物館があるのは長船町福岡。華やかさで知られる一文字派の中で最も華やかな福岡一文字派の拠点があった場所です。それに備前国福岡といえば、黒田官兵衛の所領で、筑前に移封後に懐かしんでその地名を付けた福岡県の由来になった地名です。さてそんな長船町ですが、今から十数年前に「長船町史」を編纂、頒布しました。
その資料編に「長船派史料集」を作ったところ、この史料集に全国から注文が届いて刀剣商や愛好家がとりあい、本篇はのこっても、この資料編だけは品切れという騒動がありました。いやあ、地方市町村の史料集で売り切れとは珍事。部数が少ないのは当然ですが、長船派の人気の大きさもわかります。そんな騒ぎも昔話。平安太刀の史料集、できないかなあ。それではまた。

6紋章官:2015/06/19(金) 22:16:12
コミティアの隣で刀剣乱舞のイベントが行われていましたが、そこに刀剣博物館も企業参加で出展していたのですね〜先週の勉強会後、その話題がでて、主催者からの打診で急きょ出展したとの事でした。
それで玉鋼が1日で200組頒布したとの事。にわか仕立てながら、この成果に驚きだったそうです。このまま広報活動が盛んになるのでしょうか?そんな刀剣博物館もいよいよ両国への移転に向けて動き出します。そろそろ帽子がまわってきそうです。いくら包むことになるかな〜それではまた

7紋章官:2015/06/26(金) 23:53:16
さて御刀の御話。和泉守兼定がいますね〜ちなみに、この兼定さん、どの兼定さんなのでしょうか?
兼定というと幾人も分かれる。銘の「兼」の文字の切り方で区別しまして、一番有名で高価なのが通称「之定(のさだ)」。この人、あちこちでの製作地名があるので、どうも複数のようですが、短刀にも上手な作が多く、人気があります。
次が「疋定(ひきさだ)」この人もそうなのでしょうね。活動地はこちらは美濃で腰を据えていたようですが、「之定」のあとに出てきた人です。手堅い作風で知られます。そして会津に11代続く「和泉守兼定」。こちらは江戸時代を通じて会津で作刀、会津藩士や幕末期には幕府方の武士が用いています。新撰組でも会津藩との関係で土方歳三などが使用したと言われています。また大坂新刀の雄「井上新改」ももとは「和泉守兼定」を名乗っています。これは父親も用いていたので、継いだのですが、後に熊沢蕃山との交流で、刀鍛冶で国守の名乗りは僭越すぎると言われて、名前を井上新改と改めたものです。
なお「兼定」といっても、数打ちもの、とよばれる工房製作も多いのは当然のこと。室町、戦国期などは需要が多いので、刀鍛冶も量産方式で弟子たちが作刀していましたから、当然といえば、当然といえます。
それではまた〜

8紋章官:2015/07/03(金) 22:03:00
兼定続き。さて和泉守兼定、室町戦国期に活動したのは当然「之定」と「疋定」。両名とも美濃関鍛冶系統の刀鍛冶。但し、「之定」の方は、現存作に製作地を刻んだものが存在、それにより美濃、伊勢などあちこちに出かけ作刀したと考えられています。
もちろん「之定」本人かもしれないし、「之定」工房の職人たちかもしれません。もちろん、「之定」も複数代存在説もありますので、移動も不思議なことではありません。ただ、これで知れるのは、刀鍛冶も当時の職人らしく、渡り(放浪)をする存在だったこと。
基本的に「之定」本人が移動して作刀したと考えられていますが、彼の行動範囲はかなりの広がりを持っています。このあたり、修行のため移動したのか、よい製作場所を求めたのか、需要のある場所を渡り歩いたのか、定かではありませんが、このような移動する職人の動きがわかる点で貴重なところです。またこの「之定」は戦国武将に短刀が好まれたことでも知られ、招請された事もあるのかもしれません。
それではまた

9紋章官:2015/07/10(金) 22:00:51
とうとう民放に続き、NHKまでブームにのってきました。今日も今日とて、営業車を運転中、文化放送のラジオから歴史タレントさんが、自前の甲冑を作る話から、番組スタッフの人にレイヤーがいて、三日月宗近のコスプレをしたとかなんとか・・・あなおそろしや、ゲームの影響力。しかし、つっこみどころ満載だったなあ。やはり「歴史は脚色である」なんだろうなあ、昔の歴史への招待のような探求第一はむりなのかなあ、ブームのたびに歴史ねつ造番組が増えてくる。

あ、愚痴になっていましたので、戻りまして「兼定」。番組でも最後に会津の和泉守兼定が紹介されましたが、明治時代を迎えて刀鍛冶のほとんどが廃業、転職に追い込まれたは事実。ただ、江戸時代も寛文新刀と呼ばれる多くの刀鍛冶がさかんに活動した時期をすぎると、停滞期に入ります。これは泰平で新規需要が落ち、古い刀がたっとばれたことで、需要が小さくなったためです。そのため8代所軍吉宗がテコ入れしますが、それでも停滞。但し、水心子正秀がでて革新と復興がおこり、幕末動乱の足音で刀鍛冶も息を吹き返すのですが、武器の革新の前に命脈を絶たれることとなるのです。
この会津の11代和泉守兼定は、その水心子正秀の流れをくむ刀鍛冶。彼の活躍した時代は、刀鍛冶最後の隆盛期でした。
それが明治に一気に息の根を止められるのです。
もちろん、兼定のように陸軍の兵器廠に呼ばれる刀鍛冶もいました。これは儀仗用の軍刀向けで、ひどい場合は本当に形だけしている鉄の棒同然のものもあります。
かわったところでは、宮廷での儀式用にいわゆる御大典太刀とよばれる華麗な平安時代の衛府太刀など模した飾り太刀を、明治維新で収入の増えた公家華族、儀式に参加する軍人、官僚が必要として整えたので、それように刀を打つ職人たちが東京の芝あたりに住んでいたそうです。
おそらく、そのなかには本来の刀鍛冶もいたのでしょうが、多くは形ばかりのものとなっています。あ、長くなりましたので、それでは。

10紋章官:2015/07/17(金) 20:45:10
なにか本屋さんへ行くたびに、刀剣本の新発売!あっけにとられております。数年前の甲冑本の急増と同じような感じです。ただ、同じ御刀が何度もでてきて、似たり寄ったり。取材協力している刀剣店も本来の業務に差し支えが出るほど。執筆や写真協力するのはいいのですが、その締め切りや校正が恐ろしく短くて、そのうえ商品の写真を提供するのはいいのですが、そうなりますと、あまりに目に触れてしまい、かえって売りにくくなる問題がある。
何しろコレクターというのは偏屈なのか、こだわりというか、大変有名なお品を持ちたい、と思いつつ、あまりに目に触れて過ぎているお品だと、「なんだ、あれか」と仲間内に思われてしまうので、あまり人目に触れていない名品を手に入れて、それを見せて驚かせるのを楽しみにするところがある。そのため写真提供しすぎると、商売用語で「目あかがつく」という事になり、かえって売れなくなる。というジレンマに陥るわけです。その点、販売しない博物館などは楽なところ。
さて明日は刀剣博物館で会員限定の鑑賞会。顔見知りの先生方の講演がありますので、さて、どんなお話がきけますか?午前中は刀剣商に立ち寄り、昼からは鑑賞会。御刀もさわってみよう!それでは〜

11紋章官:2015/07/24(金) 22:49:23
見ている人はいないだろうなあ、と気軽に書き込んでいます。
それにしてもテレビの影響か、11代目会津和泉守兼定があちこちで売りに出ました。なんとも分かりやすいなあ。それで刀剣店の人に、今のブームを聞かれて、新撰組とかけて刀剣と解く、と答えました。どうで
しょうか?

さて今回のご紹介は「堀川国広」。この人、同じく京都で活動した埋忠明寿と共に、桃山から江戸初期に活動、埋忠明寿が江戸期以降の「新刀鍛冶の祖」とたたえられますが、この「堀川国広」も大きな足跡を残した人。鍛冶工房を京都堀河に開き、多くの門弟を育成、影響としては埋忠明寿よりも大きなものとなっています。
ちなみに、埋忠家は刀剣だけでなく、金工や細工物でも名をなした一派で幅広い作品を残しています。それに対して堀川国広は刀剣に集中しています。その刀剣については、また次回。それでは。

12紋章官:2015/07/31(金) 22:41:04
まだコミケカタログを買っていないので、サークルチェックも何もしていないところ。刀剣乱舞のエリアはあるのだろうか?

さて「堀川国広」。数年前に堀河国広とその一門展があり、そのカタログが販売されていますが、刀屋さんに残っているのかな?
この「堀川国広」の工房ですが、先の「埋忠明寿」の工房の近くにあったと考えられています。この埋忠明寿の工房があった地区は古地図で「埋忠町」と記載されたところで、地名になるほど埋忠派が根付いていた事がわかります。他にも記録により、芸術家であるのと同時に刀剣研ぎと鑑定の名門の一族でもある本阿弥光悦の居宅も近所で、このあたり刀剣にかかわる人々が、仕事柄、近くに集住して、交流していたことが想像されます。華麗な堀河国広の作風も、そんな刺激をえたことかと思うと、刀剣も桃山美術の一ジャンルとして評価してもらいたいところです。そういえば、山形の鶴岡で刀剣組織の何か鑑賞会か大会が明日からあるようです。また飛び入りがいるといいのですが。それではまた

13紋章官:2015/08/07(金) 22:03:55
来週はコミケ!今頃、何をしているのやら。

さて「堀川国広」。活動時期が桃山から江戸初期にあたり、場所も京都。このため作刀に恵まれたといえます。それは天下統一が進み、財力を手にした武士や諸大名が、実用としての刀と共に身分を示す道具としての刀を求めていた時期にあたります。
何しろ従来にない財力を手にしていたのです。豪華さを競う桃山文化のさなか、その中心地京都で活動できたことは、幸運なことだったことでしょう。そのことで富を得た大名たちを顧客に持ち、戦ゆえにせかされることもなく、思うがままに槌を振い、さかんな作刀を行い、多くの作品を残す事ができたといえます。
それも戦場で消耗するのではなく、泰平の時代に宝物として守られていくのです。それではまた。

14紋章官:2015/08/28(金) 22:14:54
コミケも無事に終わりました。しかしゲーム「恋愛」のジャンルに行ってみれば、「刀剣乱舞」で埋め尽くされていましたねえ〜「東方」「艦これ」そして「とうらぶ」!ゲーム3大勢力になりそうです。

それで「堀川国広」。埋忠明壽が京都の金工家系の出身に対し、もともと九州日向の伊東家の家臣。それが伊東家が50年に及ぶ薩摩島津家との抗争に敗れ、居城飫肥を追われます。このため、家臣である堀川国広も飫肥を離れ、各地を流浪、京都堀河に定住、工房を構えたのは慶長4年ごろと考えられています。そしてこの京都居住時代に優れた作刀をおこなうのです。それではまた。

15闇のかぎしっぽ屋:2016/01/01(金) 20:33:15
冬コミの打ち上げ、お疲れ様でした。(いやいや、冬コミ、お疲れ様、でしょう?!)
その中で、刀剣乱舞を教えていただきましたが、私の好きな劍があるかと思って調べたら、ないじゃん。一気に冷め、夢も覚め。刀剣乱舞、敗れたり!!!破敵、守護の二振りを打って、出直してきなさい。

16紋章官:2016/01/01(金) 21:15:43
闇のかぎしっぽ屋様。新年あけましておめでとうございます。
今頃はごゆっくりされていますか?私も詳しくはないのでよくわかりませんが、刀の愛好家にしてみれば、どの刀を撰んでいるの?という戸惑いもあるようです。もちろん、ゲーム自体に、そもそも困惑しているの
ですが。今頃になって、紅丸組さんに渡した原案のやりかたで、三日月宗近の小話がまとまりました。しかし、作画ができない・・・没かな〜
それでは今年も宜しくお願いします。

17紅丸組:2016/01/02(土) 17:06:25
紋章官さん!原案ネームになっているようでしたら拝見したいですー(^_^)/

18名無しさん:2016/11/26(土) 12:36:03
ttps://is.gd/q3T9Ib

君の声や瞳だけで胸が痛いよ


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