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ストーム・オーヴァー・ジャパン改

1 サラ :2007/01/29(月) 23:10:05
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その1

1950年12月8日 新京郊外

 いつの間にか風が止んでいた。
 空は鉛色。生気のない空。雪が止んでいた。雪原に視界が開ける。そこは一面の雪景色だった。地平線の向こうでは月面のように死に絶えた雪原が続く。
 疲れているせいか、その単調な風景はどこか黄色に見えた。きっと黄疸のせいだ。肝臓の調子が随分前からおかしい。軍医は酒をやめろという。勝手なものだ。軍医はこの凍えて世界を知らない。世界はこんなにも冷たい。酒精を入れなければ凍えてしまう。
 空気は酷く冷えていた。吐いた息が白く凍る。吸った息は肺の中で熱を奪いながら溶ける。
 解凍されたばかりの酸素を吸い、アルコールを含んだ二酸化炭素を吐く。
 丸太のような体躯に達磨のような顔を乗せた岸和田戦車軍曹は上気した頬とは裏腹に冷たい視線で周囲を観察していた。
 戦車の回りには無闇に危険があつまる傾向がある。
 その傾向はここ数年で決定的になり、どこにあっても戦車には過剰な火力が集まるようになっている。戦車に発展にやや遅れる形で発展した対戦車兵器は、最近では歩兵にさえ有力な対戦車火力を携帯させるようになった。
 例えば、パンツァーファウストだ。
 ドイツ第3帝国が開発し、帝國陸軍にも採用されたそれは熱エネルギーで120mmの装甲板を易々と貫通する。
 10年前なら、戦車は敵戦車と対戦車砲と地雷だけに注意していれば良かった。それが今では対戦車ロケットや戦車狩りの攻撃機まで心配しなければならなくなっている。陣地突破には甚大な損害がでるようになり、戦車の機動は迂回が基本になった。さらに最近は戦車の移動は夜間か、対空援護がある場合に限られる。敵の攻撃機が前線を飛びまわり、動くものを片っ端から攻撃するからだ。
 高度に、複雑に発展する戦場。
 帝國陸軍はその発展に乗り遅れた。
 大陸での中国人を相手にした小競り合いでは戦車は歩兵の補助兵器だった。戦車が歩兵の補助兵器であるとことは現在でも疑いの余地はない。戦場を制するのはいつでも歩兵だ。しかし、戦車の発展が歩兵と戦車の関係に別の形を齎した。その変化に帝國陸軍は長く気がつかなかった。
 欧州でソビエトがポーランドを相手に電撃戦を行なったとき、陸軍は遅まきながらも戦車について別の運用法があることに気付き、戦車隊の増勢を図った。陸軍は多分にドイツびいきだったので、ドイツ流の機甲戦術の導入を模索した。
 しかし、結果として帝国はマトモな戦車を作れなかった。戦車の製造に必要な技術も、生産設備もなかったからだ。戦術については見るべきものもないわけではなかったが、それは紙の上での話だ。現場にある戦車は97式中戦車やその改良型であり、機動性は場合によってはトラックにも劣る。機動戦など望むべくもなかった。
 しかし、そうした問題が露見することは結局なかった。
 帝国は第2次世界大戦において中立を守り、その前の大戦と同様に欧州の戦争に介入せず、金儲けに徹したからだ。前の大戦で儲けそこなった分を取り戻すように、徹底的な金儲けをした。戦争が終っても、欧州が赤化したおかげで日本は世界中の植民地に武器と商品を売って金儲けを続けることができた。
 帝国は経済的に大いに発展し、その経済力で亡命したドイツやイギリスから最新式の武器を買い、国産化し、或いは亡命したドイツ人将校から戦車戦のノウハウを得ることで、軍備の総合的な近代化を図った。
 満州にソ連が侵攻したとき、岸和田軍曹がパンター戦車を愛車にしていたのはそのような背景があった。
 パンターはいい戦車だった。
 既に型は古いが、改良を繰り返したパンターは世界最強級の戦車の1つだ。
 岸和田軍曹のパンターはJF型と呼ばれる日本製パンターの決定版である。
 装甲の合理的な強化、小型砲塔の採用、車体前面のボールマウント機銃の廃止による装甲強化。火砲は75mm70口径砲のままだったが、照準器にステレオ式照準器を採用していた。遠距離砲戦能力はきわめて高い。夜戦装備として赤外線暗視装置も中隊に3台配備されている。弱点だった変速機も最新型に換装して、エンジンの換装(900馬力)と合わせてパンターの弱点は全て克服した。
 1個中隊のパンターが1個大隊のT−34を葬り去ることも珍しくない。
 ドイツ人の真似をして砲身に刻んだ撃破マークはそろそろ30本を超えようとしている。岸和田軍曹は細心の注意と配慮で愛車を縦横無人に駆使し、愛車がそれに答えた結果だ。
 これが97式戦車やその改良型だったのなら、岸和田軍曹の努力はかなり初期に無に帰していただろう。
 士魂と小さく書かれた砲塔が沈黙のままに雪風を浴びている。
 岸和田はそっと砲塔を撫でる。
 ライオンの鬣をなでるようなしぐさだった。

2 サラ :2007/01/30(火) 23:07:57
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その2

1950年12月8日 新京郊外 夜

 夜になってから、岸和田は会議のために呼び出された。
 偵察機と斥候、捕虜から得た情報によれば、近日中にソビエト軍の大規模攻勢が予想された。
 中隊規模に磨り減った大隊を率いる少佐は妙に元気そうな声色で暗い現実を告げた。
 地下に掘られた指揮所に集まった面々はもはや絶望になれきっているので、どうとも思わなかった。悪運はいつものことだった。
 そのなかで少佐の明るさが妙に浮いていた。
 こいつはひょっとして状況を楽しんでいるのか?
 岸和田軍曹は微かに眉を顰めた。しかし、それは違うようだった。少佐の元気は妙に乾いていた。中が空洞なのだ。笑顔はどこか虚ろだった。
 岸和田軍曹は少佐にまつわるあまり聞こえのよくない噂話を思い出した。
 除鬱薬という薬がある。
 上官の命令か許可があれば軍医に処方してもらえる極ありふれた薬だ。疲労を吹き飛ばし、神経の集中を高める。疲労回復に効果があり、夜間戦闘の前に処方されることもある。最近は内地でも24時間操業の工場で利用されているらしい。
 正式にはアンフェタミンという。覚せい剤だ。
 1950年の満州においては合法である。戦時ならなおさらだった。
 中毒者は不穏、うつ、不眠、自殺衝動、精神分裂病に似た行動に走ることもある。
 もちろん、誰もがそれを知っていた。しかし、全ての兵士はそれを忌避し、やがて受け入れる。悲惨窮まる現実をせめて一瞬でも忘れたくて、アルコールかアンフェタミンに一夜の夢を見るのだ。
「軍曹殿。夜食をお持ちしました」
「もうそんな時間か」
 満州人の少年兵が大事そうに飯ごうを抱えて岸和田を見上げていた。満州国軍は開戦の早い段階でソ連に寝返ったが、即座に撃滅された。当然だ。傀儡軍がその主に勝てるわけがない。しかし、失われた時間と混乱は致命的だった。関東軍は決定的な瞬間に統制を失い、大敗した。
 満州国軍の将校は大半が地下に潜った。彼らはソビエトのシンパだった。割りを食うのは現場の兵士だ。彼らは裏切り者として多くが処刑された。相次ぐ敗走の憂さ晴らしだ。罪状は特になかった。理由などどうでもよかった。とにかく、自分以外の誰かができるだけ下らない理由で死ぬのがよかった。それは自分の代わりに贖罪の羊を死神に捧げるある種の儀式だった。
 金という朝鮮族の少年兵はそうした理由で処刑されかけた兵士の1人だった。
 金は世界を知らない。自分の死なねばならない仕組みも理解できていなかった。農村から動員で引っ張られたただの被害者だ。そうした子供が何の理由もなく処刑されることが岸和田には少しばかり不愉快だった。
 もちろん、岸和田はそうした不条理など見飽きていた。
 軍隊こそ不条理の塊だ。イエスといっても殴られるし、ノーと言っても殴られる。何も言わなくても殴られる。新兵のころ、延々と38式歩兵銃に謝り続けたこともある。何の意味あるのか、今でも疑問だ。
 それでも、それを不条理と思う心があればこそ、こうして生きている意味もあると思える。それがなければ、自分には何も残らない。残るのは肝臓の調子がおかしい、アルコールに殺されかけた中年だけになる。家族はいなかった。岸和田が満州に渡った後、結婚して10年連れ添った妻は何の前触れもなく離婚届を郵送してきた。岸和田は離婚届を破いた後、その欠片を糊で修復し、歪んだそれにサインし、血判を押して送り返した。仲間は何も言わなかった。
 不思議と哀しくはなかった。翌日には普通に勤務することができた。いつもどおりに戦車を指揮し、破壊と殺戮をばら撒いた。気分は、少しばかり爽快だった。しかし、直に何も感じなくなった。今では、何にも感動しなくなった。何にも価値が感じられなくなった。
 きっと、俺は心が死にかけているのだ。
 岸和田は無表情の下で泣き叫びたい衝動にかられた。
「どうされましたか、軍曹殿?懐炉の交換ですか」
 少年兵は先輩達の懐炉を直に交換できるように懐にいつも予備を沢山抱えていた。ある種の生活の知恵だった。
「軍曹どの?」
 疑うことを知らない幼い瞳が肺腑に刺さる。小さくない痛みだった。
「いや、なんでもない。もう行っていいぞ」
 分厚く無表情のコートを纏い、岸和田は少年兵をぞんざいに帰るように指示した。
 それでも少年兵は嬉しそうだった。
 岸和田は飯ごうを受け取り、車内の部下に交代で夕食をとるように指示した。岸和田の順番はいつでも最後だった。
 岸和田は少年兵が消えた夜の雪原を目で追っていた。そうすれば、白い闇の向こうからまたあの少年が来てくれるような、そんな淡い期待を抱いて。しかし、少年が来るのは配色の時だけだった。
 砲手が赤外線暗視装置に反応があったことを告げたのはそれから数分後のことだった。

3 サラ :2007/02/01(木) 23:52:54
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その3

1950年12月8日 新京郊外 夜間戦闘

 闇夜を照らす虚ろなる赤い瞳。
 赤外線燈「ウーフー」の照射を浴びた敵戦車が赤外線暗視射撃装置「ツィールゲレート」に捕捉される。赤外線は即座に可視光線に変換され、砲手は夜を視る。
 闇を透過して見えるのは敵の大攻勢軍。雪原が3割、残りが人と鉄。乾いた笑みを張り付かせて砲手は先頭の戦車に狙いを定めていた。哂うしかない。
 彼我の相対距離は2000mを切っていた。
 パンターの70口径75mm戦車砲でもT−34を確実に撃破するには1200mまで待たなければならなかった。
 岸和田軍曹は小隊長の射撃命令を待つ。
 陣前は静まりかえっていた。夜襲は密やかに行なわれなければならない。敵はそのセオリーを守っていた。「フラー」という狂信的な叫びはない。息を殺して、敵は歩を進めていた。
 ただ、大勢の人間が雪を踏む音だけが不気味に静かな夜に響いている。まるでこの世の終りを告げるような音色。
 夜襲は既に失敗していると言えた。敵の沈黙は完全だった。しかし、あまりにも兵の数は多く、その足音だけで十分に味方に位置を暴露していた。
 そのことに敵も気付いているはずだ。しかし、敵が沈黙を守り続ける。既に意味の失われた沈黙の帳を垂れる。ほかに何も彼らに縋るものはなかったからだ。集団自殺する鼠の群れのようにあるはずのない寄る辺を彼らは抱いて前進する。
 先に沈黙を破ったのは日本軍だった。
 5対1の戦力差だ。遠くから敵を打ち崩すのが最善。
「各車、連続、各個に撃て」
 中隊長の命令と同時に砲手は射撃ペダルを踏んでいた。
 ファイアリングピンが砲弾の底を叩き、装薬を燃焼させた。5mもある長大な砲身を弾丸がすべり、音速のおよそ3倍の速度で砲弾が先頭のT−34に向かって飛んだ。
 発砲と着弾はほぼ同時に発生した。
 パンターの主砲はそれほどの初速を発揮する。T−34は砲塔の即応弾が引火誘爆して砲塔を跳ね上げた。
 同時に歩兵が撃ち始めた。闇夜に向けって曳航弾が飛ぶ。シャワーのようだ。新式の機関銃と突撃銃が分厚い弾幕を張った。
 敵の反撃が来る。反応は激烈だった。
 装填手が次弾を装填する間に最低でも10発の至近弾があった。しかし、パンターは健在。岸和田もかすり傷1つない。車体を埋めたパンターは砲塔だけを地表に出していた。狙って当てるのは至難の業だ。
 パンターの反撃。照準、発砲、廃莢、装填。全てよどみない。薬莢の撃ち殻が自動で廃莢箱へ落ちて、燃えカスがで車外へ強制排出される。
 敵はその所在を隠すのをやめた。叫び声が迫撃砲の阻止砲撃をさえぎるように響く。地鳴りのような叫び。断末魔の悲鳴。ロシア語の、意味不明な解読不可能な雄たけび。
 敵味方の照明弾が乱れ飛ぶ。岸和田は危険を承知でハッチを跳ね上げて敵情を肉眼で偵察した。もはや哂うしかない。
 雪原は黒く染まっていた。地面かと思ったが違った。全てが皮コートを着たソビエト軍兵士の死体だった。そして、そのうちのいくつかはまだ生きていた。
 味方が匍匐で接近するソビエト歩兵に容赦なく機関銃と迫撃砲が銃弾と砲弾を振舞う。
 そして、生きた兵士も死んだ兵士も踏み潰して戦車が突貫してきた。
 見たこともない戦車だった。
 砲手が岸和田の指示を待つことなく発砲した。距離はおよそ1000m。T−34なら必殺の間合い。しかし、射弾は敵の装甲を滑る。跳ねた砲弾が地面に突き刺さり派手な土煙を上げる。
 パンターの主砲弾が弾かれた。
 戦慄が走る。敵戦車の反撃。かすりもしない。敵の遠距離射撃技量が極めて低い。新型でも旧型でもそれは同じだった。故に、敵は接近戦に全てを賭けてくるだろう。接近されてはいけない。ジレンマだった。パンターの主砲もまた接近しなければ敵を仕留められない。パンターの主砲は1000mで130mmの装甲を貫通する。しかし、敵のそれはそれを上回っていた。接近しなければ仕留められない。
 パンターは壕を飛び出し、エンジンを怒らせて前進した。間合いは一瞬で詰まる。
 岸和田は敵戦車を肉眼で直視した。
 御椀型の砲塔に長砲身のおそらく100mmクラスの戦車砲。IS−3に似ていたが、前面装甲は楔形ではなくT−34と同じ傾斜した一枚板だった。パンターよりも一回り小さく、重心は2回り低い。重厚なシルウェットが闇を纏っていた。
 改良型、派生型を含め世界で10万両もの大量生産が行なわれた東側の第1世代型戦車T−54に日本人が始めてであった瞬間だった。
 T−54の砲塔が旋回する。彼我の距離は100mを切っていた。超接近戦。
 パンターとT−54は同時に砲声を響かせた。

4 サラ :2007/02/03(土) 22:40:41
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その4

1950年12月15日 新京

 岸和田軍曹は生きていた。ソヴィエト軍に包囲された新京で。
 旅団単位で殴りかかるT−54との戦闘で、部隊は壊滅し、戦線は突破された。乗車は撃破され、乗員は岸和田を残して即死した。ほんの数日前のことだった。
 悪運はいつものことだ。
 ただ1人生き残った岸和田軍曹はそう自分に言い聞かせた。しかし、生き残るたびに前よりも酷い光景を見ることになった。今度もそうだった。新京は赤軍に包囲された。市内は混乱していた。市民にまで武器が配られ、外周部で絶望的な市街戦が始まっていた。降伏するものはいなかった。ソヴィエト軍は捕虜をとることに熱心な軍隊ではなかった。また、捕虜がシベリアに送られること知らない日本兵はいなかった。生きて脱出できる望みはなさそうだった。死ぬのが1週間か、1日か、あるいは一時間ほど伸びた程度だった。
 ただ1つよいことがあるとすれば、それは少年兵が生きていたことだった。金少年は満州国軍兵だったので、信頼されず戦線の後方に止め置かれた。それが幸いしたらしかった。
 金が生きていることを知った岸和田は小躍りして喜んだ。そして、金少年は岸和田のたった一人の部下になった。文句を言う者はいなかった。そういう人間は大抵死んでいた。
 さらに良いことが続いた。
 新しい指揮官は金少年が満州人か日本人か、まるで区別がつかない奴だったからだ。
 新しい上官はドイツ人だった。
 そのドイツ人はヨッヘンと呼んでくれと気さくに言った。本名はヨヒアム・パイパー。階級は大佐だった。どうしてドイツ人が日本軍の指揮をとるのかは不明だった。
 ヨッヘンはいたって陽気な性格をしていた。ソヴィエト軍に包囲された新京の絶望的な戦況は、彼には全く無縁のようだった。しかし、横顔はどこまでも苛烈だった。岩を削りだしたような、そんな風貌だった。
 ヨッヘンは妙なイントネーションの日本語で言う。
「戦況はほんまにあかんが、あんじょうよろしくたのんまっせ〜」
 関西弁だった。
 岸和田軍曹は目が点になる。臨時の司令部に集められた他の兵士も同じだった。
 ヨッヘンの妙な発音の日本語を駆使し、状況を可能な限り説明した。
 日本軍の5個師団(実質3個師団)と多数の難民が新京で包囲された。新京は放棄される。まもなく友軍の解囲作戦が発動され、それに呼応してできるだけ多くの兵士と難民を脱出させる。
 要約すれば、そうなった。意外なことだった。岸和田軍曹は死ぬまで戦えと命令されるとばかり思っていた。他の兵士もそうだった。日本軍の辞書に撤退の二文字はないからだ。その代わりに転進と玉砕の二文字が多用された。
 そのことを中隊長の1人がヨッヘンに言った。
「ハルピンでおうじょうこいて、こりたんやろ」
 ヨッヘンは低い声色で、雄雄しく、しかし、関西弁でそう答えた。
 開戦緒戦にハルピンで6個師団が包囲され、難民もろとも包囲殲滅されていた。ハルピンの固守にこだわった関東軍の判断ミスだった。その関東軍の司令部も満州国軍の蜂起によって全滅していた。関東軍司令部は爆撃で全壊している。岸和田は清々したと思った。
 岸和田はこの奇妙なドイツ人を信じる気になっていた。少なくとも、今まで見てきたどんな指揮官よりも有能に見えた。結局死ぬことになっても、犬死以外の死に場所を用意してくれるような気がした。それは悪くないことだった。全く悪くない。
「突破の先頭はうちらパイパー戦闘団や。きばっていくで〜」
 パイパーは極めて峻厳な口調で、しかし関西弁で言った。
「パイパー戦闘団?どこにあるんですか?」
「これからつくるんや」
 岸和田はここは笑うべきところなのか、真剣に悩んだ。
 そこで岸和田は自分の心が驚くほど軽くなっていることに気付いた。
 いつの間にか後悔と虚無は遠くなり、戦いへの闘志と生きるための気力が岸和田の中に甦っていた。金少年の笑顔もまた、岸和田の救いだった。死にかけになるほどの傷を負った心にヨッヘンの明るい関西弁は慈雨のように染みこんだ。手を繋ぐ金少年の小さな手の温もりが忘れていた何かを思い出せた。
 岸和田は生きねばならなかった。
 ヨヒアム・パイパーの才気は絶望的な包囲下にあった日本兵、そして50万人の難民にとって最後の希望だった。
 岸和田は挙手をした。
「なんや?」
「我々は戦車兵です。包囲を突破するにしても、戦車がなければ話になりません」
「そのとおりや。戦車をとりにいこか」
「あるんですか?」
「ええもんを用意したる。期待しとき」
 ヨッヘンは笑って答えた。

5 サラ :2007/02/04(日) 20:21:11
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その5

 第2次世界大戦の勝者は誰か?
 単純に考えれば、それはソヴィエト連邦と言えた。1945年8月15日に戦略爆撃と機雷封鎖で英国を無条件降伏に追い込んだソヴィエト連邦は今や全欧州を赤化し、ユーラシア大陸の過半を掌握するに至った。
 1939年のポーランド電撃戦に始まり、フィンランド、バルト三国を電撃的に制圧したソヴィエト軍は3年にわたる消耗戦を経て1945年1月にベルリンを占領、その1ヶ月後にパリを占領。そして半年にわたる戦略爆撃で英国本土を焦土し、航空機から投下する機雷によって港湾を封鎖したことで英国の戦時経済は崩壊し、本土決戦を経ることなく英国はソヴィエト連邦の軍門に下った。
 レッドストーム・オーヴァー・ヨーロッパ。
 欧州はクレムリンの夢想家、鉄の男・スターリンに征服されたのである
 戦争に参加しなかった北欧諸国、イタリア、スペイン、南欧諸国は赤化ドミノによって全て共産化し、伝統あるローマ・カトリックは壊滅。教皇はソヴィエトに引き渡され、その後の行方はようとして知れない。
 極々単純に考えれば、大戦の勝者はソヴィエトである。
 しかし、足掛け6年にわたる戦争によって欧州は荒廃し、植民地は宗主国のコントロールを離れて独立。アジアには日本の支援を受けた新興国が乱立し、アフリカもそれに続こうとしている。経済的な観点においては、第2次世界大戦の勝者は単純にソ連と言うことはできない。
 大戦に参加しなかった日米は第1次世界大戦に続いて欧州での戦争でぼろ儲けをし、米国は深刻な経済不況を完全に克服し、日本は欧州が赤化したことで宗主国を失ったアジア市場を完全に掌握した。
 大日本帝国は30年代後半から日本は中国大陸での国共内戦によって既に戦争特需によって好景気を迎えていたが、40年代前半の大戦特需と大戦終結後の欧州赤化によるアジア市場の掌握によって10年に渡って好景気が続き、その経済力は在りし日の英連邦に匹敵するか、それ以上にまで拡大、肥大化していた。国家予算だけで1930年にそれに対して5倍以上、第2次世界大戦が終結したとき、日本の経済力は米ソに続く世界第3位に達したのである。
 欧州各国はその資本、インフラ、有形無形の文化財をソヴィエトに渡さないために海外に脱出させたことも日本経済にとってプラスに働いた。経済発展に必要な元手が向こうかたやってきたからだ。特にドイツと日本は友好関係にあり、数千億マルクの資本が日本に脱出した。英連邦はカナダやオーストラリアと資本を脱出させ、フランスは世界中に散らばった植民地に分散させることで対応した。
 ソヴィエトによる没収を恐れて海外に流出した資本はドル換算で数兆ドルに達すると言われており、赤化した欧州各国の大半が没落しソヴィエト連邦を含めて深刻な経済的停滞に見舞われたのは、ある意味必然だったといえる。
 そうした経済的な停滞を、有り余る武力によって解消する方策として日本の傀儡国家でありながら、驚異的な経済発展を続ける満州国への武力侵攻が計画された。満州には欧州から亡命してきた多数の資本と膨大な労働力が存在し、これを接収することで傾いたソヴィエト経済の回復を図る。満州国を占領すれば、シベリア地域の防衛も容易になりその分の軍事費を節約できる。
 経済が停滞を続ける中で、満州への武力侵攻が強行されたのはそのような背景があった。
 満州国占領のスケジュールは半年とされた。それ以上の遅延はソヴィエト経済に対して致命的な悪影響を及ぼし、また米国の参戦を誘う可能性があった。米国では親ソ派だったルーズベルトが死去し、代わって反共主義者のトルーマンが就任していた。日米は決して友好関係にはないが、国家間の関係にはどのようなことでもありえた。不可侵条約を結んだドイツに対してソヴィエトが一方的な奇襲攻撃をしかけたように。
 動員された戦力は狙撃師団90、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40を基幹するとする兵員約220万、火砲約30000門、戦車5000両、飛行機4000機に達した。
 欧州開放作戦『赤い10月』に匹敵する大戦力だった。装備については大戦終結から5年を経てやや旧式化していたが、それでも関東軍70万を叩き潰すには十分であると考えられた。
 この戦力はソヴィエト軍の第1線級師団のほぼ全力である。
 対して、大日本帝国は前述のとおり関東軍70万を展開させ、さらにソヴィエト軍のシベリア集結に呼応する形で動員を進めており、最終的に100万の大軍を満州に送る計画だった。それでもソヴィエト軍に対して劣勢だったが、最低でも朝鮮半島の保持が図ることが求められた。

6 サラ :2007/02/04(日) 23:45:52
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その6

1950年12月20日 新京郊外

 坂田少尉は新生した大日本帝国空軍(IJAF)が独自に教育を施して最初に送り出した最初のパイロットだった。
 大日本帝国は長く陸海軍のみを保持し、航空機が戦力としてカウントされるようになった後でも独自に軍、つまり空軍をおかなかった。航空戦力は陸軍航空隊、海軍航空隊として整備され、航空機は海軍戦略、陸軍戦略の中にあった。
 それはつまり航空戦力を陸海軍の補助戦力として見なすことであり、航空機の進歩によって独自の戦略体系を持つに至った現在においては陸海軍から全く独立した軍種、空軍が必要とされるのは必然だった。
 そうした必要性を陸海軍の航空機関係者は認識していたが、セクショナリズムと予算の制約により長く空軍は建軍されず、空軍が陸海軍航空隊を統合する形で生まれたのは1947年になってからだった。
「ゲルプ01より、02。もうちょい低く飛べ」
 坂田は僚機に短く告げた。
 亡命ドイツ軍人の支援を受け、ドイツ空軍を模範として建軍されたIJAFは殆ど全てにおいてドイツ空軍の影響を強く受けていた。
「ヤヴォール」
 ゲルプ02は高度をそろそろと落す。
 プロペラ後流を浴びた雪が引きちぎれ、乱れ舞う。流れ去る風景は一面の銀世界だった。雪原は遥か彼方まで続いていた。地平線の果てまで。照り返しは強く、直視すると目が眩む。坂田は薄い色のサングラスをしていた。時折、太陽の中を見る。警戒のためだ。空は晴れていた。雲ひとつない。連日の吹雪が嘘のようだ。抜けるような青空。凍てついた零下30度の空だ。
 塵1つ落ちていない清涼な空をエンジン排気で汚しつつ、5式戦爆『飛燕改』は低空を飛んだ。
 黒いエンジン排気が細くたなびく。
 坂田は気が気ではない。
 翼下にはロケット弾と250kg爆弾を満載した5式戦爆はいいカモだからだ。
 エンジンをDB605G(2000馬力)に換装し、同時に機体の再設計を行なった飛燕改は高高度なら時速700kmを発揮する究極のレシプロ戦闘機の1つだったが、1950年の満州においては既に戦闘機として運用には無理が生じていた。 
 そうした飛燕改を戦闘爆撃機として対地攻撃に投入することは理にかなった戦術だったが、坂田はさっさとジェット攻撃機を配備して欲しいと思った。
 純白の冬季迷彩を纏った飛燕改は戦場に到着した。
「チタデレよりゲルプ編隊へ、そちらを目視した。君たちの兵装を確認したい」
 前線航空管制官の問いに坂田は手持ちの兵装を答えた。
 前線航空管制官は最前線で航空機や砲撃の弾着観測、修正、攻撃目標等の指示を行なう。効率的な近接航空支援には無くてはならない。当然、敵は前線航空統制官を目の敵にしていた。極めて死傷率は高い。危険な任務だ。
 ロケット弾が24発。250kg爆弾が4発。20mm機関砲4門にそれぞれ徹甲榴弾が200発装填されている。完全武装。
「これから、目標指示の発煙を行なう。敵はその北50mの距離だ。敵は街道沿いの林の中にいる。目標には東から侵入して、西へ抜けろ。敵の対空火器は確認されていない」
「ヤヴォール。発煙を確認した」
「いいぞ。ロスケを吹き飛ばせ」
 飛燕改は一度高度をとり、緩急降下しながら街道沿いの雑木林に殺到した。
 主翼が風を切り、降下音が高まる。魂を引き裂くような叫び。地上が迫る。染みのように雪原には砲撃の弾着跡が広がっていた。白いカーテンを汚すような、黒い染み。
 射爆照準器に目標を捉える。雪原に伸びる街道を破壊しないように、僅かに目標をずらした。引き金を引く。電気着火で爆発ボルトが吹き飛ぶ。250kg爆弾が爆弾架を離れた。機体が軽くなり、機敏に機首を上げる。機体を水平に戻す。スロットルを全開にして高速で離脱した。
 新京の解囲を目指す日本軍と脱出を阻止しようとするソ連軍との戦闘は寸土を奪い合う激戦だった。街道沿いに多数の抵抗拠点を築いたソ連軍の抵抗は激しい。
 飛燕改は一撃し、離脱した。そしてズーム上昇。反転し、高度をとると再び目標に逆方向から接近した。今度はロケット弾だった。
 飛燕改が装備するのはドイツ製の空対空ロケット弾、R4Mの対地攻撃型だった。高速で直進性高い。機関砲用の光学照準器で狙って当たるほどだ。
 今度は敵の反撃が来た。小火器だ。機関銃か、歩兵のライフルか。曳航弾が見当はずれな方向へ飛ぶ。坂田は全く恐怖を感じなかった。派手なだけで何の危険もない。高速で飛ぶ5式戦爆を小火器が狙ってあてるのは不可能に近い。
 ピカピカ光る射撃炎に向かってロケット弾を全弾斉射すると飛燕改はそのまま離脱した。
 最後に坂田は前線航空統制官に任務の終了と離脱を告げる。
 戦場は見る間に遠くなった。

7 サラ :2007/02/07(水) 23:20:25
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その7

1950年12月21日 新京郊外 

 帝国陸軍が最初に導入したドイツ製戦車はティーガーⅠだった。
 第2次世界大戦に参戦しなかった大日本帝国は欧州が必要とする様々な軍需物資を輸出して外貨を稼いでいた。同時に欧州製の優れた兵器を輸入、ライセンス生産することで軍備の近代化を図るのにも熱心であり、友好関係にあったドイツから様々な兵器が輸入、或いはライセンス生産された。
 ドイツ側も敗戦を見越して資本や技術の海外移転を考えており、ドイツ製の優れた陸戦兵器を輸入、ライセンス生産したいという日本側の要請は渡りに船だったためにティーガーⅠのライセンス生産に関する交渉は極めて迅速に進んだ。 
 しかし、実際にティーガーⅠはライセンス生産されることはなく、より先進的な設計の5号戦車『パンター』のライセンス生産に帝国陸軍は軸足を置くことになる。
 それでも中古のティーガーⅠが1個大隊分、満州の防衛強化とドイツ軍の戦車戦術導入のために輸入され、実戦配備された。それが1945年のことだった。
 それから5年後の1950年12月20日。ティーガーⅠは最後の戦いに望もうとしていた。
「アドラーよりファウケ。敵戦車多数接近中」
「ファウケ。了解。迎撃する」
 パイパーは新京から脱出するにあたってその突破の先方にパンターを充てた。ティーガーはその遥か後方で後衛戦闘に配置されている。その決定に岸和田軍曹は全く不満はなかった。ここは1950年の満州だった。1942年のワルシャワではない。今は8年後だった。突破の先頭に立つにはティーガーは老いすぎていた。
 雪が待っていた。
 吹雪だ。激しい吹雪。
 ハッチを跳ね上げた途端、岸和田の半身に雪が張り付く。視界は白く暗かった。冥府のような沈黙の向こうに聞き慣れたT−34の履帯の音が響く。雪の帳の向こうに敵がいた。双眼鏡を構えて、薄い視界の向こうに敵の姿を探す。午前11時とは思えないほど日の光は弱かった。まるで真夜中のようだ。
 視界は200m先から完全に失われていた。遠距離砲戦は不可能だ。敵は赤外線暗視装置をもっていないはずだから、近接戦闘になるだろう。ティーガーⅠの主砲旋回速度はお世辞にも良好とはいえず、接近戦になれば不利だった。
 しかも、IS−3やT−54と遠距離砲戦になれば勝ち目はなかった。今やティーガーⅠの装甲はどのような距離からでもソ連製重戦車に撃破されてしまう。
 そうした不利を岸和田は車体を壕に埋めることでカヴァーしようとしていた。
 味方の戦車は12両。新京の倉庫に眠っていた24両のうち、まともに動かせたのは半分だけだった。残りの半分はパーツを取って爆破した。敵に渡すのは忍びない。
 前哨の歩兵の入った陣地のあるあたりで銃声が響いた。
 この吹雪の中で敵が見える距離まで敵が接近したということだった。
 臨時の中隊長から射撃命令が出たのはその直後だった。
「ファウケ01、中隊。弾種徹甲。戦車、撃て!」
 砲手が火蓋を切った。
 距離は300mを切っていた。必中の間合いだ。砲撃と弾着はほぼ同時に発生した。
 弾薬が誘爆し、砲塔が派手に吹き飛ぶ。目もくらむような閃光と赤い炎が待った。しかし、全ては雪の弾幕のせいで妙に曖昧だった。
 ただ、至近距離での誘爆音だけが激しく鼓膜を叩いた。
 臨時の装填手、金少年兵が砲弾を込める。一瞬だけ、岸和田は注意をそらした。金少年が手を閉鎖器に食い千切られないか、心配だったからだ。
 しかし、それは杞憂だった。素早く次弾を装填する。金少年は次の砲弾をラックから外した。訓練どおりのスムーズな動作だった。
 これが最初の実戦とは思えないほどの落ち着きだった。自棄か、あるいは状況が飲み込めていないのかもしれなかった。
 砲手は次弾が装填された瞬間に引き金を引いた。獲物はそこら中にいた。岸和田は何の指示も出す必要はなかった。砲手の好きなようにさせた。繰り返すが、獲物はそこら中にいた。岸和田は指示を出すことを忘れ、車体上部のMGを夢中で乱射した。
 敵が後退を始めたのはそれから30分後のことだった。
 戦車が燃えていた。T−34だった。新型はいない。重戦車でもなかった。敵も先方部隊には重戦車を使うのを避けていた。
 そこに堅陣があると知れているのならともかく、とかく重戦車は鈍く、重い。大切な進撃路を自重で荒らしてしまう。その逆もまた然りだ。
 ティーガーⅠが突破先頭ではなく後衛戦闘に充てられるのも同じ理由だった。
 雪原にはT−34の残骸と敵の死体が転がっている。それも見る間に雪の下へ沈んでいった。猛烈な吹雪が何もかもかき消していく。
 氷点下に下がった空気を切り裂いて砲弾が飛来した。敵の野砲だ。
 やがて猛烈な敵の砲撃が始まった。

8 サラ :2007/04/20(金) 23:55:15
火葬世界における戦後日本の歩み

1945年4月1日
 米軍は嘉手納、読谷の飛行場と日本軍の戦力分断を狙って沖縄中部に上陸を開始。オペレーションアイスバーグが始まった。
 当初、米軍はそれまでの戦闘経験から日本軍による強固な水際防御を警戒し、砲爆撃の嵐を上陸予想地点に叩きつけた。しかし、実際には日本軍の反撃は微弱であり、事故による損失以外は損害らしい損害もないままに上陸第1日目は過ぎていった。
 これは沖縄防衛を担当する第32軍(司令官:牛島満大将)の主力だった第9師団がフィリピン戦に引き抜かれ戦力が低下していたことと、それまでの戦闘経験から水際での防御は戦艦の大口径砲の艦砲射撃を受けると容易に破壊されてしまうが判明したためであり、内陸での持久戦は理にかなった選択だった。また、沖縄戦を本土決戦の前哨線であると捉えていた大本営陸軍部にとっても、内陸部で長期間の持久を行なうことは本土決戦のための時間を稼ぐために有効であると判定されていた。
 しかし、早期に嘉手納、読谷飛行場を失ったことは大本営(特に海軍部)とっては大いなる失望だった。海軍は沖縄を米艦隊撃滅のための決戦場であると捉えており、九州の縦深のある航空要塞をして、米空母機動部隊を壊滅させるつもりだった。しかし、嘉手納、読谷の飛行場を失ったことによって、飛行場からはP−51、P−47などの米陸軍航空隊が早期に展開することによって沖縄周辺の制空権は米軍の手におちることになり、米空母機動部隊の分厚い対空防御を合わさって、神風特攻作戦の効果は急減することが予想された。以後、帝国海軍の描いた決戦戦略は半ば破綻したも同然となる。
こうした声は軍令部においては強く、逆に聯合艦隊内部で弱いものだった。海軍内部にはこの時点で奇妙な温度差が生じており、軍令部においては読谷、嘉手納奪回のために再三に渡って陸軍に第32軍による反撃を要求しようとするのを聯合艦隊が諌めることがしばしばであり、ついに第32軍は当初の持久戦略を最後まで維持することになる。
 そうした状況の中で、天一号作戦は開始される。
 戦艦大和を中心とする第2艦隊(司令官:伊藤整一中将)は4月6日、徳山沖を出撃し、豊後水道を通過して沖縄へ向かった。
 既にこの頃になると日本海軍の暗号は完全に解読されており、作戦は完全に筒抜けだった。帝国海軍のただでさえ低い対潜戦闘能力は技量低下と装備の不足によってさらに低下しており、本土近海にも米潜水艦隊は跳梁するようになっており、豊後水道を抜けると同時に米潜水艦に出撃が探知されてしまう。さらにF13(偵察タイプのB29)の航空偵察によって第2艦隊の出撃準備は察知されており、第7艦隊(司令官:スプールアンス)は万全の準備を整えてこれを迎え撃つ用意を整えていた。
 しかし、潜水艦からの報告には当初予定されていなかった未知の巨艦の存在を知らせていた。
 それこそ、日本海軍の最後の正規空母であり、未だに米軍のその所在を掴んでいなかった幻の巨大空母「信濃」だった。
 大和型戦艦の3番艦はミッドウェー海戦で南雲空母機動部隊壊滅を受けて、空母に改装されることになり、乏しい資材と既存艦の修理を優先の方針の中で必死の工事が続けられていた。一時はB29の空襲圏に入った横須賀から呉に移動させようという意見も出されたが、実際はどちらもB29の空襲圏であることが判明し、さらに艦内での火災事故などによりさらに工事が遅れることによって、取りやめになっていた。
 もしも、呉への移動が強行され、工事未了のままで航海に出て潜水艦の雷撃でも受ければ、信濃はダメージコントロールもままならないままに撃沈されてしまっただろう。しかし、火災事故という悪運による工事延長がなされ、呉へ移動することなく横須賀で工事が続けられた。
 さらに信濃には悪運が続き、最低限の工事が終了した後で呉に移動しようとしたその直前で米空母機動部隊による呉空襲があり、呉に在泊した鑑定の殆どが撃沈された大空襲を逃れることに成功している。それどころか撃沈、大破、中破した船から資材と装備を引き剥がすことによって残っていた未完了の工事を早期に完了させることにが出来ていた。
 米軍は日本軍の最後の獲物である巨大空母を血眼になって探していたが、徹底した対空擬装による偵察の目を逃れ、第2艦隊出撃のその日まで信濃は米軍の執拗な追跡を逃れることに成功していた。
 当初、この第2艦隊の出撃を知ったスプールアンス提督は戦艦による迎撃を考えていたが、艦隊に空母が伴うことを知って第58任務部隊(司令官:ミッチャー中将)に航空攻撃を命じた。
 この命令を受けて第58任務部隊の8隻の空母から400機の攻撃隊が発艦し、第2艦隊は激しい空襲を受けることになる。


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