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変貌

1舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:28:59
このスレは舞方雅人作「変貌」を掲示するだけのスレです。
感想やご意見などは「舞方雅人の趣味の世界」スレにお願いいたします。

2舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:29:45
土曜日

「ただいま!」
玄関を開けて勢い良く入ってくる一人の少年。
靴を脱ぎ捨ててリビングに入ってくるなり、彼は荷物を放り投げて台所にいる母親におねだりをする。
「ママァ! お腹空いたぁ。おやつ頂戴」
「まあ、マーちゃんたら帰ってくるなり何なの? ちゃんと手を洗ってうがいをしなさい」
台所からは優しそうな女性の声がする。
リビングのソファに座って脚をぶらつかせている少年の母親の声だ。
「あっ、そっか」
そう言って少年は二階に通じる階段の脇にある洗面所に行って、手洗いとうがいを済ませる。
その間に彼の母親がリビングのテーブルにホットミルクとショートケーキを用意していた。
「うわぁ、ケーキだ。いっただっきまーす」
フォークを手に取り、おいしそうにケーキを頬張っていく少年。
「うふふ・・・急いで食べるとのど詰まりを起こすわよ」
その様子を母親はとても楽しそうに見つめていた。
「ねえ、マーちゃん。明日は日曜日だしパパもお休みだからみんなでお出かけしよっか?」
「うん。行く行く」
口の周りをクリームで白くしながら少年は返事をする。明日はお出かけとなれば楽しみで仕方ないのだ。
「じゃあ、パパが帰って来たらママと一緒にお願いしましょうね」
「うん!」
少年は大きくうなずいた。

郊外の一軒家。
ささやかながら庭もあり、二階建ての家は決して安いものではない。
この家に帰ってくるたびに月山修太郎は心が温かくなるのを感じていた。
親がいくらか出してくれたとはいえ、商社に勤めていることで普通のサラリーマンよりは高い給料をもらっていることが彼にこの家を買うことのできる財力をもたらしているのだ。
その分仕事はきつく残業も多いが、彼は休みはなるべくきっちりと取るようにして、家族との時間を過ごすようにしていた。
同僚や上司の中には家族と疎遠な者もいたが、彼は家族を愛していたし、家族もまた彼を愛してくれていたのだ。
若く美しく気立てのいい妻と活発な息子は彼の自慢であり、周囲の人々からもうらやましがられる存在だった。
月山の表札が出ている門をくぐり、玄関の扉をあける。
「ただいま」
玄関に入るとほんわりとスパイシーな香りが漂ってくる。
「今日はカレーか・・・」
急激に空腹を訴えてくる胃をなだめながら、彼は靴を脱いでリビングに向かった。
「ただいま、今日はカレーか?」
リビングの扉を開けて入るなり彼は言わずもがなの事を聞いてしまう。
テーブルでは可愛い息子の雅弘が大きな皿に盛られたカレーライスを大きなスプーンで口いっぱいに頬張っているところだったのだ。
「お帰りなさい、あなた。まさか昼に食べちゃった?」
台所から顔を出す妻の紗奈恵。エプロン姿がいつ見ても素敵だ。
「いや、昼はラーメンだったから腹減ったよ。着替えたら俺も食うわ」
鞄を置き、スーツを脱いでネクタイを緩めながら部屋に行こうとする。
「パパお帰りなさい」
その背中に雅弘の元気な声がかけられる。
彼にとっての至福の一時だった。

3舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:30:19
「ねえパパ、明日みんなでお出かけしようよ」
カレーを頬張る父親のとなりで目を輝かせながら少年は言う。
「ん? お出かけか? ママがうんって言うかな?」
「うふふ・・・マーちゃんと約束したのよね。一緒にお願いしましょって」
テーブルの向こうでにこやかに微笑む母親。
「何だ。もう約束してあったのか。それじゃあ出かけないわけには行かないな」
息子の好みに合わせた甘めのカレーを彼は美味しく平らげていく。
「そうだな、そろそろいい季節だから高原の牧場にでも行ってみるか? 牛さんや馬さんがいっぱいいるぞ」
「いいわね、そうしましょうよ。私お弁当作るから」
彼の妻であり少年の母親でもある紗奈恵が賛成した。
「うわーい、牛さん馬さんだー」
喜んで両手を高く少年は上げる。父親と母親が一緒であれば、どこへ行くのも楽しいものなのだ。
「ようし、そうと決まれば夜更かしはだめだぞ、今日はゲームはお休みな」
いつも遊んでいるゲームを今日は止められたが、少年は素直にうなずいた。

少年が寝静まったあと二人は一緒のベッドに入る。
「なあ・・・そろそろ雅弘の弟か妹が欲しくないか?」
修太郎は優しく妻を引き寄せた。
「いつまでも一人は可哀想だろう。兄弟がいた方がいいと思わないか?」
「ええ・・・でも、この家のローンもあるし・・・私は・・・」
紗奈恵は言葉を濁す。
「そうか・・・」
修太郎もそれ以上は言わない。
紗奈恵は一度流産をしたことがあり、それ以来恐怖感を持っているのだ。
修太郎としては雅弘に兄弟を作ってやりたかったが、無理にとも言えずに今日まで来たのだった。
「お休み、紗奈恵」
「お休みなさい、あなた」
明かりを消して二人は眠りについた。
外では流れ星が一つ高原に向かって流れていった。

4舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:31:52
日曜日

「ようし、忘れ物は無いか?」
セダンの運転席で声を弾ませる修太郎。
「お弁当も敷物も持ったし、大丈夫よ」
「早く行こうよ」
後席から雅弘が急かしてくる。
「ようし、出発!」
アクセルを踏み込み、修太郎は車を発進させた。
車は街中を抜け、郊外を抜け、見晴らしの良い高原の道路を走っていく。
車窓から見える風景は運転している修太郎にとっても心地よいものだった。
「ママァ、見て見て! 牛さんだよ、牛さん」
「ホントね、いっぱい居るわね」
窓外には牧草地が広がり、大きな牛が数頭のんびりと草を食んでいる。
後席の雅弘はめったに実物の牛など見ないので興奮気味みたいだ。
やがてセダンは高原の高台の駐車場に到着する。
見晴らしのいい展望台からは遠くに海まで見える優れものだ。
近隣の人々の格好のレジャーの場所となっていた。
三人はお弁当やレジャーシートなどの入ったバッグを持って展望台への階段を上っていく。
ゆっくりと上る両親をしり目に少年は駆け上がり、展望台への一番乗りを果たそうとしていた。
「うっわー」
思わず上がった少年の歓声に両親は顔を見合わせて微笑む。
それは仲の良い家族の日常の風景だった。

                         ******

5舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:32:25
“それ”は小さなものだった。
“それ”自身は単なるものに過ぎなかった。
だが、ここには生命があった。
重力加速度に引かれて落下する間の熱にも耐えた“それ”だったが、生きているものではなかったのだ。
だから“それ”はここが生命が満ち溢れていることに気が付くと活動を開始した。
“それ”は生命を持ちたかった。
生命を取り込み生命を自己のものとしたかった。
周りは闇だったが、“それ”の周りには生命が多く存在していた。
“それ”はまず小さな小さな生命に取り付いた。
取り付かれた生命はたやすく変化し、“それ”は生命を自己のものとすることができた。
だが、その生命はそこまででしかなかった。
ただ生命であるというだけだったのだ。
“それ”は次を目差した。
生命であるだけではない何かを求めるように。
“それ”の周りにはたくさんの生命が居たが、その生命たちは一つの大きな生命体と共存しているようだった。
その生命体が様々なものを取り込む手助けをし、見返りに生命たちも彼らが生きるに必要なものを生命体から分けてもらっているのだった。
“それ”はゆっくりとその大きな生命体に近付いていった。
そしてその大きな生命体の一部に取り付くと、“それ”はじわじわとその大きな生命体を侵食し始めた。
その大きな生命体を我が物とするためである。
やがて“それ”はこの大きな生命体が土から養分を得て光合成によりエネルギーを生み出す生命であることを理解した。
“それ”は以前の生命よりもより高度で複雑な生命体となったことを理解したが、残念なことにこの生命体は一ヶ所に留まらざるを得なかった。
“それ”はより複雑で移動可能な生命を欲した。
“それ”がその存在を主張するためにはより複雑でより高度な活動のできる生命体と一体になる必要があったのだ。
“それ”は取り付いた生命体を侵食し、自らの希望に沿うように変化させていった。
だが、もともと能力のないものを生み出すことはできない。
移動のできない生命体を移動するようにはできないのだ。
“それ”は違う生命体に取り付くことにした。
濃密な大気が漂う地表は“それ”が取り付いた生命体を揺さぶってくる。
周囲に存在する生命体の多さに“それ”は自己の希望に沿う生命体の存在を確信していた。
地表、地中、空中、いずれにも大型で複雑な生命体がうごめいている。
いずれもが“それ”の希望に沿う生命体ではあったが、活動範囲の広さを考慮すると空中を行動する生命体こそがふさわしかった。
おりしも“それ”をここまで運んできた物体が高熱を帯びて激突したときに周囲を傷付けたようだったが、それに巻き込まれた生命体が周囲に多数存在していた。
その生命体は“それ”の周囲も飛び回っており、上手くいけば取り付けそうだった。
“それ”は自己の体を揺らし空中を飛ぶ生命体に近付こうとしたが、生命体は素早く“それ”はあまりにも鈍重だった。
そこで“それ”は自己から近付くことをやめ、生命体が近付くことを待つことにした。
機会は意外と早く訪れた。
空中を飛び回っていた生命体の一体が“それ”に接触してきたのである。
“それ”はそのチャンスを逃さずにその生命体の接触している六本の突起から侵入した。
そしてその生命体を変化させ、自己と一体化させていく。
“それ”はこの生命体が高度な社会性を持つ生命体であり、種族の一体を頂点として多数の同族がそれに従う性質を持つことを知った。
“それ”はこの生命体を優れた生命体とは理解したが、“それ”の希望をかなえるにはまだ不足だった。
もっと大型で種族的強さを持つ生命体を“それ”は望んでいた。
そしてそれはこの近くに存在することも理解していたのだった。

                         ******

6舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:32:55
「ママー、こっちこっち」
芝の絨毯の上を少年が駆けて行く。
「待ちなさい、マーちゃん。あんまり走ると危ないわよ」
「平気だよー」
追いかけてくる母親を横目で見ながら少年は楽しそうに走っていた。
初夏のさわやかな風が優しく吹いて、穏やかな日差しが辺りを包んでいる。
「おおっと」
「うわっ」
少年の追いかけっこは突然中断した。
彼の目前に突然男の人が現れたのである。
もちろん降って湧いたわけではなく、男性は通りを歩いていただけなのだが、少年は気が付かなかったのだ。
「大丈夫か? 坊や」
ぶつかった勢いでしりもちをついた少年を男は優しく抱き起こす。
「うん、大丈夫」
お尻をさすりながら少年は立ち上がった。
「雅弘、大丈夫? すみません飛び出してしまって」
母親が駆け寄って抱き起こしてくれた男性に頭を下げる。
見ると彼の他にも数人の男性がいて、作業服と黄色いヘルメットをかぶっていた。
「いいんですよ。坊や、飛び出すと危ないぞ」
「うん・・ごめんなさい・・・」
ばつが悪そうにうつむく少年。
とりあえず怪我がないことにホッとした紗奈恵は彼らが何をしているのかが気になった。
「何かあったんですか?」
「ああ、いえ、たいしたことじゃないんですが、昨夜向こうの林に隕石が落ちてきましてね。」
公園管理の文字が入ったヘルメットをかぶり、男はにこやかに答えてくる。
「隕石?」
「小石くらいのものですよ。滅多にないんですがね。それが蜂の巣を壊しちゃったようでして」
「蜂の巣を?」
紗奈恵は少し不安になった。
「今時期の蜂はそれほど凶暴ではないですが、駆除しに行くんです。くれぐれも林の方には近付かないで下さいね」
男たちは手に手に荷物を抱えて林の方へ向かっていく。
紗奈恵は頭を下げると息子の手を引いた。
「あっちは蜂がいるそうだから行かないようにしましょうね」
「うん」
少年は母親の手をぎゅっと握る。

                          ******

7舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:33:27
“それ”は新たな生命体を求めて飛び立った。
力強くこの世界を支配するに足る生命体を“それ”は求めていた。
そういった生命体と一体化し、新たな生命体となることで“それ”はこの世界に確固とした地位を築くことができるのである。
すでに“それ”は自己となったこの生命体から知識を引き出していた。
自然を改変し、旺盛な繁殖力を示し、地上を支配する生命体のことをである。
その生命体と一体化することで“それ”は強力な生命体となることができるだろう。
“それ”は力の限り羽ばたき一体化するにふさわしい生命体を捜し求めた。

                         ******

8舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:34:00
ブーンと蜂の羽音がする。
一匹のスズメバチが近付いてきたのだ。
紗奈恵は恐怖した。
スズメバチは大人さえ死に至らしめることがある恐ろしい昆虫だからだ。
「マーちゃん急いで!」
彼女は最愛の息子の手を引いて走り出す。
「うわ、ママどうしたの?」
急に手を引かれ走り出す母親に少年は困惑する。
「蜂よ、蜂が来たの」
「蜂?」
少年が後ろを振り返ると、大きな黒と黄色のスズメバチが一匹ブーンという羽音とともに迫ってくる。
「わあ!」
少年も必死になって走り出すが、少年の脚力では蜂にかなわない。
「マーちゃん!」
紗奈恵は必死になって息子を抱きかかえ、何とか蜂に刺されないように体を丸めて息子をかばう。
目をつぶって必死に息子を抱きしめる紗奈恵は突然頭部に激痛を感じた。
あ・・・刺されたんだわ・・・
紗奈恵がそう思ったのもつかの間、メリメリと音がして何かが頭蓋骨を食い破るような感触と先ほどとは比べ物にならない痛みが頭部を襲ってきた。
「あぐあ・・・」
紗奈恵はたまらずに頭を押さえて転げまわる。
「ママ・・・ママ・・・」
のたうつように苦しんでいる母親を目にした少年はなすすべもなく見つめていたが、やがて泣きながら父親に助けを求めるべく走り出した。
「パパー! パパー!」
走り去る息子にも気が付かず、頭部を襲う激痛を耐えようとする紗奈恵だったが、やがて痛みは治まってきて代わりに頭の中でブーンという羽音がし始めるようになった。
何?・・・何なの?・・・
かさかさと何かが頭の中を動き回る。
いやぁ・・・何が・・・何が居るの?・・・
先ほど刺されたところを手で触ってみるが、少し盛り上がったような感じがするだけで穴が開いたりはしていない。
だが、紗奈恵は頭の中に何かが這い回っているのを感じていた。
ブーン。
かさかさかさ。
羽音と這い回る感触は一向にやまない。
紗奈恵は恐怖に気が狂いそうになる。
いやぁ・・・いやよぉ・・・誰か・・・誰か助けてぇ・・・
紗奈恵は叫びたかった。
恐怖のあまり叫びだしたかった。
だが、声が出てこない。
なぜかはわからないが叫ぶことができないのだ。
やがて不思議なことに恐怖感がやわらいでくる。
えっ?・・・
ブーンという羽音もかさかさという感触も確かに存在するのだが、それがどんどん当然になっていくのだ。
はあ・・・私ったら・・・何を慌てて・・・
「ママー!」
「紗奈恵ー!」
愛する夫と息子が慌てふためいて走ってくるのが見える。
彼らが駆けつけたときには紗奈恵はもう完全に落ち着いていた。
「ママー!」
少年が泣きながら紗奈恵の躰に抱きついてくる。
「大丈夫か、紗奈恵? 蜂に刺されたって聞いたぞ?」
「ええ、大丈夫よ。どうしたの? そんなに慌てて」
紗奈恵の表情があまりにも普通なことに修太郎も胸をなでおろす。
「良かった。雅弘が血相変えて走ってくるから焦ったぞ」
「ふふふ・・・慌てん坊ね、二人とも。ママは何ともないわよ」
にこやかに紗奈恵は答える。事実彼女にとっては何もないのだ。
「病院行かなくて大丈夫か?」
「病院? 必要ないわよ」
「ママ大丈夫?」
不安そうに少年は母親を見上げる。
「大丈夫よ、さ、もう遅いから帰りましょう」
「そうだな、そろそろ三時過ぎるし」
「帰りに大きなスーパー寄ってね。晩御飯の材料買って帰らなきゃ」
紗奈恵は夫の手を握り、しがみつく少年を優しくはがしてやはり手を握る。
三人は何事もなかったように駐車場へ向かって歩き始めた。

                        ******

“それ”はとても複雑な生命体にめぐり会っていた。
高度な知的活動を行う生命体なのだ。
この生命体と一体化することで“それ”の使命はほぼ達成できるだろう。
だが、この生命体には弱点があった。
知的活動を重視するあまり、肉体の能力が極端に低いのだ。
地上に存在する生命体の中でもかなりの大型生命体だが、肉体能力でははるかに小型の生命体にも劣ると言ってよい。
これでは肉体の維持にかなりの不安がある。
肉体の維持という点では今までの自己の方が都合が良いくらいだ。
ならばそれぞれの長所を取り入れよう。
それぞれの長所を取り入れた新たな生命体となれば、この地上に“それ”を脅かす存在は少なくなるだろう。
そうなれば“それ”はこの世界で存分に増殖することができるのだ。
増殖。
“それ”の目的はただそれだけと言ってよい。
だが、この生命体は単独では繁殖能力を持たない。
繁殖するためにはオスの精子が必要なのだ。
精子があれば繁殖できる。
精子を手に入れなければならない。

                        ******

9舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:34:30
郊外の道路をセダンは走っていく。
まだ夕暮れには早く、さわやかな風が窓から入ってくる。
後席では疲れたのか少年がうつらうつらし始めていた。
ブーンブーン・・・
羽音が響く。
紗奈恵は運転席に居る夫の横顔から徐々に視線を下げていく。
ズボンの股間。
ファスナーの奥にあるものを紗奈恵は欲しくなっていた。
「ねえ、あなた」
「何だい?」
正面を向いたまま夫はそう答えた。
「私・・・精子が欲しいわ。繁殖したいの」
「ブハッ」
突然の言葉に思わず夫はハンドルを切り損ねかける。
「な、なんだよ突然。冗談はやめろ」
冗談?・・・
私冗談を言ったの?・・・
なんだろう・・・
私・・・変だわ・・・
精子が欲しいなんて・・・
でも欲しいわ・・・
繁殖したいわ・・・
「私・・・繁殖したい・・・」
「よせって、雅弘が起きるだろ」
紗奈恵はじっと夫の股間に目をやったままうなずいた。
この生命体は今は精子を出したくはないのだ。
夜を待たなければならないのだろう。
紗奈恵は無表情で正面に向き直った。
窓外を流れていく景色にも何も感じない。
先ほどから紗奈恵は背筋がミシミシきしんでいるのを感じていた。
頭の中の羽音はもう聞こえない。
紗奈恵は自分の躰に何かが起こっていることを理解していた。
だが、それは恐怖ではなかった。
何も感じない。
紗奈恵は背筋のきしみを当然のことと受け止めていた。

やがてセダンは郊外の大型スーパーに到着する。
「どうする? 寝かせておくか?」
紗奈恵が後席を振り返ると、少年はすやすやと寝息を立てていた。
「そうね・・・寝かせておきましょう」
紗奈恵は無表情にドアを開けて車を降りる。
そして夫を待つことも無くスーパーへ向かって歩き出した。
「おい、待ってくれよ」
慌てて修太郎は車の鍵をしめ、後を追う。

買い物籠を片手に食料品売り場を歩く紗奈恵。
その脇を夫は黙って付いてくる。
栄養をつけなきゃ・・・
栄養が必要・・・
繁殖のためには栄養が必要だわ・・・
ごぼう、山芋、ほうれん草、肉、魚。
目に付くものを片端から籠に入れていく。
「おいおい、今日は何にする気だい?」
少しあきれたように声を掛ける修太郎。
だが、彼の妻は黙々と籠に入れていく。
「栄養をつけるのよ。あなたにも栄養をつけてもらうの」
「ははは・・・今日はご馳走だな」
「ええ・・・そうよ・・・今日はご馳走」
籠に山盛りの食料を抱えてレジへ向かう紗奈恵。
その表情は相変わらず無表情だった。

ミチミチ・・・キシキシ・・・
躰の中がきしんでいる。
自分は変わっていっている。
それは人間じゃなくなってしまうことのはず・・・
でも・・・
それがどうだって言うのだろう・・・

10舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:35:02
「なあ、紗奈恵?」
運転席で夫がつぶやく。
「なあに、あなた?」
紗奈恵は正面を向いたまま。
「調子・・・大丈夫なのか? さっきから変だぞ?」
「大丈夫? 大丈夫って・・・何が?」
修太郎はチラッと妻を見た。
紗奈恵は無表情のままだ。
「お前の躰だよ。なんか変だぞ。今日は日曜日だから病院やってないけど、緊急外来行くか?」
「私の躰は順調よ。何も問題は無いわ」
そう・・・問題は無い・・・
ただ・・・栄養が必要・・・
早く食事をしたいわ・・・
そう・・・それに繁殖も・・・
「早く帰って食事にしましょう」
「ああ、そうだな」
妻の言葉に修太郎もうなずかざるを得ない。
車は程なく彼らの自宅に到着した。

「ただいま〜」
眠い目をこすりながら少年は玄関をくぐる。
夕食のこともあるし自宅に着いたことで起こされたのだ。
「ただいま」
「ただいま」
少年の両親もそれぞれ挨拶をして自宅に入る。
夫は両手に買い物袋、妻はお弁当やレジャーシートが入っていたバッグを抱えている。
「ああ、疲れたぁ」
荷物を置いてソファにへたり込む修太郎。
「栄養をつけなくちゃ・・・」
紗奈恵はバッグを置き、お弁当箱を取りだすと買い物袋と一緒に台所へ向かう。
「なるべく早く頼むよ。もう腹ペコだ」
「僕もー」
眠気が醒めたのか少年はテレビの前に陣取り早速アニメにチャンネルを合わせている。
「食って来てもよかったな」
修太郎はそうつぶやいたが、その頃には台所でごそごそ言う音が聞こえ始めていた。

11舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:35:34
今日は手っ取り早く済ませるつもりだった。
少し厚めの牛肉の焼いたのとサラダを付け合せる。
紗奈恵はそう考えて千切りキャベツを作り始める。
だが、包丁を握って少し経つと違和感を感じ始めていた。
紗奈恵はじっと包丁を見つめる。
きざまなきゃ・・・キャベツ・・・きざまなきゃ・・・
シャリシャリと歯ごたえのありそうなおいしそうなキャベツのはずなのに紗奈恵は食べる気になれない。
それどころか包丁などを使う理由がわからなかった。
噛み・・・砕けばいいのよね・・・
紗奈恵は包丁を置いて両手でキャベツを持ち、口へ運ぶ。
かりっと一口齧ったところでキャベツ特有の甘みと苦味が紗奈恵をハッとさせる。
「えっ? わ、私・・・いったい何を?」
紗奈恵はキャベツをまな板の上に戻して思わず見つめてしまう。
私は・・・私はいったい?
「おーい、手伝おうか?」
リビングから夫の声がする。
その声は紗奈恵に食事の支度をするという使命を思い出させた。
「あ、いえ、大丈夫よ・・・もう少し待っててね」
紗奈恵は包丁を取り直し、キャベツをきざみ始める。
何とかきざみ終えてトマトと合わせ、ドレッシングを作ってサラダの用意を終えた紗奈恵は冷蔵庫から肉を取り出す。
フライパンに油を引いてガスの火を点けた途端に彼女は言い知れぬ恐怖を覚え悲鳴を上げてしまった。
「きゃあっ」
火・・・火が怖い・・・火が怖いわ・・・
両手で頭を抱えうずくまってしまう紗奈恵。
「どうした?」
リビングから夫が駆け込んでくる。
「あ・・・火・・・火が・・・」
紗奈恵は火の恐怖を訴えようとしたが、すぐに恐怖心はすうっと引いていく。
え?・・・
「火? 火がどうした?」
見ると大きな火力のままフライパンが空焚きされている。
「おい、どうしたんだ? 危ないなぁ」
修太郎はすぐに火を消す。
振り向くと妻はもう何事も無かったように立っていた。
「ごめんなさい。ちょっと火が強すぎたみたいね」
「ごめんなさいじゃないよ。お前いいから少し寝ていろ。今日は変だぞ」
「でも・・・栄養が・・・」
「晩飯の支度なら俺がやる。肉を焼くぐらいなら俺でもできるから」
修太郎はそう言って紗奈恵を台所から追い出した。
「いいか、少し寝ているんだぞ。支度ができたら呼ぶから」
「はい、わかりました」
紗奈恵は言われたとおりに二階の寝室へ向かう。
「ママ、大丈夫?」
「大丈夫よ」
背後から掛けられた息子の声を嬉しく思いながら紗奈恵は階段を上がっていった。

12舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:36:37
ミシミシ・・・キシキシ・・・
躰がきしむ。
お腹の中がもぞもぞする・・・
紗奈恵は布団をかぶって横になっていたが眠れずに居た。
コンコンとノックの音がする。
「紗奈恵・・・食事できたぞ」
扉が開いて夫が顔を出す。
「そう・・・今行くわ」
紗奈恵はゆっくりと起き上がり、夫とともにリビングへ向かった。
リビングでは少年が小さく切ってもらったお肉をおいしそうに頬張っていた。
雅弘はお肉が大好きなのである。
だが、その光景は紗奈恵を不快にさせた。
熱を加えたの?・・・
肉に熱を?・・・
そんなもの食べられるはずがないわ・・・
そう思った紗奈恵は自分の思いが不思議だった。
えっ?
今のはいったい?
私は何を・・・
だが、熱を加えた肉を食べるというのはどうにも感じが悪かった。
熱を加えていないものは?
紗奈恵はそう思って食卓を見渡したが、熱を加えていないのは植物をきざんで油をかけたものだけであり、それもまた紗奈恵の食欲をそそりはしなかった。
「どうした、紗奈恵?」
夫が立ち尽くしている紗奈恵を心配して声を掛ける。
「え? ええ、ご、ごめんなさい。やっぱり調子が悪いみたいなの。食欲が無くて」
「そうだろう、やっぱり調子が悪かったんだよ。明日病院へ行ってこいよ。今日は寝ていろ」
夫の言葉にうなずき、紗奈恵はリビングを後にする。
ミシミシと躰がきしむ音が紗奈恵の頭に響いていた。

13舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:37:07
食事の後片付けを終え、寝る支度を整えた修太郎は寝室を訪れる。
室内は暗く、妻紗奈恵の静かな寝息が聞こえてくる。
「大丈夫かな・・・明日病院へ行ってこいよ」
彼はそうつぶやくと、妻を起こさないようにそっと布団にもぐりこむ。
だが、その行為は無駄だった。
「ねえ、あなた」
紗奈恵は起きていたのだ。
「起きていたのか?」
「ええ、ずっと待っていたの」
紗奈恵は夫の方に顔を向ける。
目の周りに隈のようなものができていた。
「寝ろよ。明日は病院へ行くんだぞ」
修太郎はそう言って愛する妻の髪を撫でてやる。
「ええ、でもその前に繁殖をしなくちゃいけないわ」
「繁殖?」
夫はセックスでも性交でもない繁殖という言葉に不気味さを感じる。
「そう、私は繁殖したいの。そのためにはオスの精子が必要」
紗奈恵は布団をめくり、ゆっくりと起き上がる。
暗がりの中に浮かんだシルエットは腰がきゅっとくびれてなまめかしい。
「お前、裸・・・」
「ええ・・・布なんて必要ないわ」
ぷるんと形のよい胸が揺れている。
「ねえ、あなた。一緒に繁殖しましょう」
「紗奈恵・・・」
「ふふふ・・・ここから出すのよね、精液」
紗奈恵は夫のパジャマのズボンを脱がすと、パンツも下げてそれをむき出しにさせる。
「ふふっ・・・大きくしてあげる」
紗奈恵は夫のそれをやさしく手に取り、先端に吐息をかける。
そして滑らかな舌をそっと這わせていく。
「うっ、ううっ」
全身を走る快感に思わず夫は声を漏らした。
「うふふ・・・大きくなってきたわ。嬉しい」
いつに無く積極的でなまめかしい妻に不信感を感じるものの、快楽が思考を鈍らせてしまう。
「さ、紗奈恵・・・」
はむ・・・ちゅるっ・・・ぴちゃ・・・
大きく膨らんだ肉棒に唾液と舌が絡まりつく。
背筋を登る快感はえもいわれぬ感触だ。
「うあっ・・・くっ・・・で・・・でるっ」
腰が浮きそうになるのをこらえる修太郎。だが、肉棒に絡まっていた舌が離れていく。
「だぁ〜め。まだだめよ。」
妖艶に微笑みつつ夫を見下ろしている紗奈恵。
その姿は神々しさと不気味さを兼ね備えている。
「紗奈恵・・・」
「私の内膣に出すのよ・・・お前の精液を・・・」
妻はそう言って彼のいきり立った肉棒をその熱い肉ひだの中に埋めていく。
「はあぁん・・・あふう・・・いい・・・いいわぁ」
ニチャニチャと音を立て、腰を上下させ始める紗奈恵。
ねっとりと絡みつく肉壁が夫の肉棒を刺激する。
「う、うわっ・・・こ、これは?」
妻が流産の恐怖でセックスから離れていた夫にとってこれは強烈な刺激であった。
それでも男としてそうやすやすと放出するわけにはいかない。
修太郎は必死になって快感をこらえていく。
「はうん・・・あん・・・はぁん・・・あはぁ・・・」
ジュプジュプと濡れた音がして肌と肌のぶつかり合いを滑らかにさせている。
暗がりの中で表情はうかがえないが、紗奈恵は上を向き口を開けて快楽をむさぼっているようだった。
「ぐうっ・・・も・・・もうだめだ」
「出してぇ・・・私の内膣に精液出してぇ・・・繁殖したいのぉ」
紗奈恵の言葉に応じるように夫の肉棒から熱いほとばしりが放出される。
「おお・・・うっ」
「はあん・・・いい・・・素敵ぃ・・・」
獣のように夫の上で腰を動かしていた紗奈恵は、たっぷりの精液を受け取るとゆっくりと躰を離して満足そうに微笑んだ。
精液はもらった・・・次は栄養だわ・・・
彼女はしばらく目の前の夫を見つめていたが、やがてすっと立ち上がり寝室を出る。
「お、おい、紗奈恵。終わったらトイレかよ」
ティッシュを取り出し後始末をする修太郎。
室内には静寂が立ち込めた。

14舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:37:50
裸のまま紗奈恵は台所へやってくる。
室内は暗かったが、迷わず冷蔵庫の前に立ち扉を開ける。
ひんやりとした冷気が紗奈恵の足元にまとわりつき、彼女は身を震わせた。
栄養・・・栄養が必要・・・
夕食に出された肉がラップをかけられて入れられているが、そんなものより紗奈恵の目を引いたのはパックに入った牛肉の細切れだった。
栄養取らなきゃ・・・
紗奈恵は牛細切れのパックを手に取ると冷蔵庫の扉を閉め、床に座り込んでラップをはがしむしゃむしゃとむさぼり始める。
冷蔵庫内の生肉と生魚をあらかた食べつくした紗奈恵は満足したように立ち上がり、寝室へと戻っていった。


月曜日

修太郎が目を覚ますと、いつもならとっくに起きているはずの紗奈恵が布団をかぶってまだ寝ていることに気が付いた。
「紗奈恵。紗奈恵」
少し揺さぶってみるが妻は起きようとはしない。
「紗奈恵!」
「うーん・・・ごめんなさい。もう少し寝かせて」
いつもなら考えられないことだったが、昨日のことを考えると無理も無い。
修太郎はため息をついて布団から起きだした。
「会社行ってくるから病院行くんだぞ、紗奈恵」
「ええ・・・」
だるそうな妻の声を後に彼は部屋を出る。

ひとしきり騒々しかったあとには静寂が訪れた。
どうにか朝ご飯を息子に食べさせ、支度をさせて一緒に出かけたのだろう。
家には紗奈恵一人が残された。

15舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:38:21
「あふう・・・はあ・・・」
紗奈恵はゆっくりと起き上がった。
かかっていた布団を払いのけるとその姿があらわになる。
彼女の躰は変化しつつあった。
腰は異様なほどにくびれ、お尻は大きく膨らんでいた。
躰の表面は黄色と黒の毛がうっすらと覆い、手足も黒い毛が覆っていた。
両手は人差し指と中指が太くなり、爪が鋭くとがっている。
目の周りには隈ができ、ぶつぶつと小さなレンズが形成されてきつつあった。
巣を作らなきゃ・・・
私の子供たちの巣を・・・
うふふ・・・
紗奈恵は鋭くなった二本の指を使い、布団を引き裂き始める。
中の綿を取り出し口へ運んで唾液と混ぜ合わせる。
くちゃくちゃと言う音が部屋の中に響き始める。
綿や引き裂いた布切れは紗奈恵の唾液と混じりあい、それを紗奈恵は部屋の中で粘土細工をするように形作り始めた。
うふふ・・・巣よ・・・
巣を作るの・・・
私の巣を・・・
布団、本、家具などが紗奈恵の爪と歯によって砕かれ、唾液と混ぜられていく。
時間が経つにつれて部屋の中には白や茶色の混じった六角形が組み合わさったものが広がっていく。
その間にも紗奈恵の変化は続いていた。
胸もお尻も黒と黄色の毛で覆われ、目は周りと同化して巨大な複眼を形成する。
顎は下顎が左右に分かれるように裂け、額からは触覚が二本突き出し始めていた。
無心のままに巣を作る紗奈恵。
時間だけが過ぎていった。

それは突然の出来事だった。
紗奈恵は巣の材料とするべく電気スタンドを手に取った。
コンセントに繋がっているコードを噛み千切ったときに紗奈恵は感電したのだ。
「ひぎっ」
ショックと痛みが紗奈恵に我を取り戻させる。
えっ?
ここは?
私はいったい?
紗奈恵は小さな映像が無数に浮かぶ光景に驚くが、やがてそれは一つの像に集結する。
部屋に中央には茶色のオブジェのようなものがあり、家具や本などが散乱していた。
これはいったい・・・
立ち上がろうとした紗奈恵は躰の違和感に気が付いた。
お尻が張り出したようになり、躰が前かがみになる。
見ると全身は黒と黄色の毛で覆われていて両手は二本の指だけが異様に発達している。
わ・・・私は・・・これは・・・何?
「い、いやあっ!」
叫び声を上げる紗奈恵。
「いやよぉ・・・何なの・・・これぇ!」
ぺたんとしりもちをつき、変わってしまった両手を見つめる。
私・・・私・・・
「助けてぇ・・・あなたぁ・・・マーちゃぁん・・・」
泣き出したかったが涙は出なかった。
彼女の複眼は涙を流すようにはできていなかったのだ。
下の方で音がした。
玄関が開く音がして少年の声がする。
息子が学校から帰ってきたのだろう。
「雅弘・・・」
立ち上がり迎えに行こうと思って紗奈恵は愕然とした。
こんな姿で会うことなどできはしない。
『ママー』
普段なら台所にいるはずの母親を求めている息子の声。
『ママー』
じきに少年は二階に上がってくるだろう。
「雅弘・・・」
紗奈恵は窓を開けて屋根に飛び乗った。
驚くほどに身が軽い。
むずむずする背中には小さな翅が生えて来始めている。
風が気持ちいい。
紗奈恵は身を隠すべく屋根を蹴った。

16舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:39:04
女は空腹で目が覚めた。
周りはすっかり日が暮れている。
これならば少々のことでは気が付かれないだろう。
マンションの給水塔の影で姿を隠していたが、なぜそんなことをしたのか思い出すことはできなかった。
巣へ帰らなきゃ・・・
女は背中の薄い翅を大きく広げるとマンションの屋上から飛び立った。
背中の翅は彼女の体重を軽々と支え、ブーンと言う羽音が彼女の心も軽くする。
風が流れ、彼女はその風を切り裂くように飛んでいる。
気持ちいい・・・
手足を伸ばし空を飛ぶのはとても気持ちがよかった。
やがて一軒の二階建ての家が目に入る。
私の巣・・・
黙って飛び出してきた自分の巣があるところ。
彼女はそっと屋根に降り立った。

窓は開いていた。
彼女は身をくねらせて静かに降り立つ。
懐かしい作りかけの巣が目の前にある。
なぜ私は途中でやめちゃったのかしら・・・
巣を作らなきゃ・・・
卵を産んで繁殖しなきゃ・・・
その前に獲物が必要だわ・・・
おいしそうな獲物を取らないとね・・・
彼女は二本の指で器用にドアノブを回し部屋を出る。
暗い廊下に気配は無い。
かさっ、かさっと音を立てる彼女の足はやはり手と同じように鍵爪の付いた二本指だった。
階段から下を覗くと明かりが付いている。
触角を動かし気配を探るが動きは無かった。
彼女はそっと階段を下りていく。
明かりはリビングから漏れていた。
中を覗くと生命体が一体テーブルに突っ伏している。
それは見るからにおいしそうな獲物だった。
空腹を覚えている彼女はドアを開けてリビングに入り込む。
寝ているらしい獲物を押さえ込んでしまえばいい。
あとはその柔らかい肉を・・・
「うーん・・・ママ・・・」
彼女は電気に撃たれたように立ちすくんだ。
「ま・・・マーちゃん・・・」
彼女は空腹を忘れ、眠っている少年をそっと覗き込んだ。
「ママ・・・」
少年は眠っていた。
母親を探し、待ちくたびれて寝てしまったのだろう。
「マーちゃん・・・」
彼女は必死になって耐えた。
目の前の獲物を食べたくなるのだ。
彼女はきりきりと鳴る歯を食いしばり、そっと少年を抱きかかえる。
寝つきのいい少年は一度寝るとなかなか起きることが無い。
女は少年を抱きかかえながらも柔らかい肉に噛み付きたかった。
一歩一歩自分を抑え、彼女は少年を二階の部屋のベットへ寝かせ、そっと部屋をあとにした。

17舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:39:34
食べ物が欲しかった。
空腹を紛らわせないとあの少年を食べてしまいそうだった。
それがなぜいけないのかわからなくなってきたが、少年を食べるのは最後にしたかった。
リビングに下り、台所の冷蔵庫を開けるが食べられそうなものは無かった。
栄養・・・獲物・・・
獲物・・・
獲物が欲しい・・・
獲物が欲しいわ・・・
獲物を狩りに行くことも考えたが、まだどうやって狩ったらいいのかわからなかった。
イライラがつのる。
両手で頭を抱える。
硬い外骨格が爪に引っかかりキキキキと音を立てた。

玄関が開く音がする。
「ただいまぁ」
獲物の声がする。
問題は解決した。
さあ、獲物を迎えに行こう。
「お帰りなさい、あなたぁ」
彼女は喜びの甘い声を出していた。

玄関で靴を脱ぎ、廊下をリビングに向かおうとした修太郎はリビングから出てきた異様な生き物に遭遇した。
「なっ」
それは巨大な蜂のようだった。
人間の女性を思わせるようなフォルムを全体的には持っているが、腰のところは異様にくびれ、巨大に膨らんだお尻には黒と黄色の同心円状に模様があった。
胸のあたりは二つの膨らみが確認でき、全身は細かい毛で覆われている。
両手と両脚も細かい黒い毛で覆われ、節々で区切られていて先端は二本の鋭い鍵爪になっていた。
巨大な頭部はオレンジ色のヘルメットみたいな感じで大きな複眼と二本の触覚、それに左右に開く大顎が特徴をなしていた。
「ば・・・ば・・・」
化け物と叫びたかったが声が出ない。
「うふふ・・・お帰りなさい、あなたぁ」
蜂の姿をした女は両手を広げて彼に迫ってくる。

獲物は逃げ出そうとした。
振り向いて逃げようとしたのだ。
逃がさない・・・
彼女はそう思うと素早く獲物に飛びかかった。
「ぐわっ」
獲物が声を上げる。
それは彼女の心に喜びをもたらした。
「だめよぉ・・・逃がさないわぁ」
甘い声で獲物に語りかける。
獲物は床に押し付けられ、彼女の両手両脚で押さえつけられていた。
逃がしはしない・・・この獲物は私のもの・・・
うふふふふ・・・
獲物を捕らえた喜びが彼女の心を虜にする。
「は、離せぇ! た、助けてくれぇ!」
獲物は必死に逃れようとあらん限りの力で這いずり始める。
「うふふふ・・・無駄よ」
彼女はお尻をくねらせて先端から覗く針を獲物の背中に突き立てる。
「ぐあっ! ぐふっ」
獲物の動きが徐々に鈍くなる。
「うふふ・・・しびれてきたでしょ? でも心配しないでね。死にはしないわ。私がきちんと食べてあげる」
甘く耳元でささやく女。
やがて獲物の股間から尿が漏れてくる。
「あら、いけないわねぇ・・・お漏らししちゃったの?」
「あ・・・ぐ・・・」
獲物は躰が麻痺しているため声すら出せない。
「おいしそう・・・あなたってこんなにおいしそうだったのね。知らなかったわ」
彼女は獲物を器用に裏返して仰向けにする。
「や・・・め・・・」
「うふふふふ・・・」
ピンク色の舌がぺろりと上顎を舐める。
動かなくなった獲物の邪魔な衣服を剥ぎ取り、厚い胸板を開放する。
「さ・・・な・・・」
「おいしそう・・・いただくわね」
柔らかい下腹に左右に開いた下顎が食い込んだ。

ずるずる・・・ぺちゃぺちゃと言う音が廊下に響く。
長い腸を引きずり出し貪り食う蜂女。
顎で噛み砕くたびに獲物の躰がびくびくと跳ねていたが、もうそれも無くなっていた。
急速に冷えていく獲物を食べながら、彼女は至福の喜びを感じていた。
卵が形成されつつあったのである。

18舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:40:23
火曜日

いつもより早く少年は目覚めた。
夕べ食事をしなかったのでお腹が空いたこともある。
何より夕食前に眠ったので目が覚めてしまったのだ。
朝早いせいか家の中は静かだった。
少年はちょっと心細くなって母親と父親の寝ている部屋を訪ねることにした。
母親と父親の部屋は彼の部屋の向かい側だ。
夜中におしっこに起きたときなど時々入ることがある。
そんな時少年の母親はいつも優しく迎え入れてくれたのだった。
「ママー」
彼は廊下へ出て両親の部屋のノブを回した。

キチキチ・・・キシキシ・・・
そこに居たのは異形のものだった。
部屋の中央には茶色の山のようなものがあり、その前にはオレンジ色の頭をした大きな蜂が居たのだった。
「うわぁ」
少年が声を上げて逃げようとしたときには、巨大な蜂は少年の正面に立っていた。
「だめよ。大声を出しちゃだめ。ご近所に迷惑でしょ」
その蜂は少年のよく知る女性の声を出した。
「マ・・・ママ・・・」
「うふふ・・・そうよぉ・・・私はママなの」
信じられなかった。この巨大な蜂が母親だとは信じられない。
「パ・・・パパ・・・」
「うふ・・・パパはあそこ」
鋭い鍵爪が指した先には茶色の小山の中から突き出している太ももと左手があった。
「ギャ・・・」
悲鳴を上げようとした口を蜂女が押さえてしまう。
「いけない子ね・・・大声は迷惑よ」
少年は逃げようともがいたががっちりと押さえられて逃げられない。
「うふふ・・・おとなしくなさい」
そう言って蜂女はお尻をくねらせて鋭い針を打ち込んだ。
少年は声を上げることもできなくなり、躰がしびれてくる。
「うふふふ・・・見てぇ、マーちゃん。あなたの妹たちよ」
蜂女は少年を優しく抱きかかえ、茶色の小山へ連れて行く。
そこは六角形に仕切られた小部屋が複数ある蜂の巣だった。
部屋の一つ一つに細長く白いものが置かれていて、少年はそれが蜂の卵であることを理解した。
「あ・・・パ・・・」
ドロンとした目を見開き首から上だけになった父親が小部屋の一つに置いてある。
その他にも腕や脚がところどころに置いてあった。
少年は叫びたかった。
狂いたかった。
夢だと思いたかった。
だが、彼の躰は動かない。
「うふふ・・・パパったらだらしないのよぉ・・・すぐ死んじゃったの」
子供をあやすように優しく少年をゆする蜂女。
「死んじゃうとおいしくないのよね。マーちゃんはそんなこと無いわよね」
少年は愕然として蜂女を見た。
「うふふふ・・・ママ嬉しいわ・・・マーちゃんてこんなにおいしそうだったのね。ゆっくり食べてあげる」
甘く語りかける蜂女。
「ママわかったの。どうしたら獲物を殺さずに食べられるか・・・だから心配は要らないわ」
「マ・・・マ・・・」
少年の目に涙が流れる。
「うふふ・・・見て、マーちゃん。この子達が大きくなったらママは女王様なの。いっぱい仲間を増やすのよ」
少年は理解した。
この卵が孵ったら多くの蜂女ができるのだ。
きっとそれは悪夢のようなことだろう。
「そのためにはたくさん食べなきゃだめなのよ。わかるわね。マーちゃん」
少年は首を振りたかった。
だが躰は動かなかった。
「うふふ・・・マーちゃんのお肉、おいしそうだわ。いただきます」
左右に開いた下顎が自分の躰に触れたとき、少年の意識は闇に飲み込まれていった。

19舞方雅人 ◆8Yv6k4sIFg:2006/06/30(金) 22:42:50
2004年11月蜂女の館に掲載。
あらためてBeeF氏に感謝いたします。


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