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唯「りんごの味」
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フライングで唯誕記念SS行きます。
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くるっくるっと回転しながら、手のひらの上でりんごが跳ねる。
一旦宙に浮いたりんごが落下して、ずしっとした重さが手のひらにつたわる。
それと同時に、ぽんっぽんっと小気味のいい音を立てる。
わたしはその音がなんと言えず好きで、なんどもなんども聴きたくなる。
そうしてりんごはなんども跳ねる。
「お姉ちゃーん」
声をかけられて気が逸れたせいか、りんごは手のひらから滑り、ゴテン、と重さを感じさせる音を立てて床に落ち、バウンドして転がった。
「…食べ物で遊んじゃ、ダメだよ」
「えへへ…ごめん」
頭を掻きながら苦笑いする。
「りんご、食べたいの?柿も買ってきてあるけど」
「りんごか柿か…悩むところですが……………ここはりんごで!」
「お姉ちゃん、最近りんごにハマってるよね」
「柿も梨もみかんも好きだし、おいしい果物はなんでも好きなんだけどね。最近のマイブームはりんごだね。
憂は?りんご飽きた?」
「ううん。わたしも好き」
憂は満面の笑みで答えてくれた。
「そっか。よかった」
ほっとして、わたしも一緒に笑う。
「中でもいちばん好きなのはね…憂が選んだりんごかな」
「それって品種とか、そういうこと?」
「うーん、っていうか。他のところで食べたり、誰かにもらったり、わたしが自分で選ぶのより、憂が買ってくるりんごはずっとおいしい気がするんだ」
「確かに選んで買ってきてはいるけどね。色のつき方とか手触りとか重さとか…」
「ああ、音もいいよね」
「音?」
「ほら、こうやって」
まだ下の部分に青さの残るりんごを耳元に寄せ、コンコン、と叩いてみせた。
「…うん。やっぱり憂の音がする」
「わかんないよ、お姉ちゃん…」
憂はちょっと呆れたように笑う。
「わかんないかなー。憂の音なのにー…」
と、しゃべりながらわたしはそのままりんごにかぶりついた。
シャリっ、と新鮮さを思わせる音がする。
「う〜ん、おいし〜い。ほら、今のシャリって音も憂っぽい音だったでしょ」
「いや…だからわかんないよ…。
それにそんな食べ方、お行儀悪いよ」
「こりゃ失礼しました…でもこうやって丸かじりするのもなかなかおいしいよ?」
そう言ってわたしは囓ってない部分の方を向けて、りんごを憂に差し出した。
憂はちょっと困った顔をしつつもりんごを受け取ると、両手に持って唇に寄せ、赤い部分を小さく噛った。
…やっぱり憂の音がする。
「どう?おいしいでしょ?」
「うん…たまには悪くないかもね。でもやっぱりお行儀悪いからちゃんと剥いて食べよう?」
「ちぇー。じゃあいま囓ったところだけよけて剥いちゃうね」
「わたしが剥くよ」
「ん。たまにはわたしがやるよ。任せて!」
「そっか。じゃあ、お願い」
わたしは食べかけのりんごを受け取って席をたった。
台所に移動して憂がこっちを見ていないことを確認すると、もう一度りんごを囓った。
…うん。憂の音だ。
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*
雲ひとつない真っ青な空。
太陽の光が燦々と降り注いでいる。
秋の一日一日は、昨日とはなにも変わらないようで、夏が遠のき、冬が着実に近づいてきていることを感じさせる。
朝、家のドアを開けた瞬間。外の冷気に身を震わせる回数が増えた。
季節は確実に、移ろいつつある。
けれど今日の暖かな昼の日差しは、そんな変化を忘れさせてくれるようなやさしいものだった。
反対側のホームにやってきた電車は、観光客でいっぱいだ。
まだ紅葉には少し早いと思うのだけど、寒すぎない今くらいの気候の方が、旅行には最適なのかもしれない。
わたしたちは観光客とは逆の方へ向かう電車に乗り込んだ。
「お姉ちゃん、座りなよ」
「大丈夫だよ、憂が座って」
混みすぎてはいないけれど、二人分座れる席は空いていなかった。
お互いに譲り合いはしたけれど、結局二人とも座ることはなく、立ったままだった。
まだこの季節には少し早いと思うのだけど、気を利かせすぎな電車内には暖房が入っているようで、暑苦しくってかなわない。
「そういえば和ちゃん。なんだって?」
「…ん。大したことじゃなかったよ」
「ホント?だってわざわざ憂だけ一人呼び出すなんて珍しいじゃん。
来週はわたしが呼び出されてるんだよ。
…わたし、何か和ちゃんに怒られるようなことしたかなぁ?」
「心配してくれてるんだよ、和ちゃんは」
「心配?ちゃんと働いてるからニートじゃないし、無駄遣いも控えて貯金もしてるし、お菓子も食べすぎないようにして健康には気をつけてるし……なんだろう?」
「…和ちゃんに会えばわかることだよ。それに心配してくれる人がいるってことはしあわせなのかもね」
「そうだねぇ…和ちゃん、ありがとうねぇ…」
わたしは電車の中で手のひらと手のひらを合わせて目を瞑った。南無三。
「和ちゃん、生きてるからね」って憂にたしなめられた。
無駄遣いは控えてる、というのは無計画にお金を使わないように気をつけている、という意味であって、まったくお金を使わないわけじゃない。
ひと月に一度(主にお給料日の後)はこうしてふたりで繁華街に出かけるのが平沢家の暗黙の了解であり、月末の二人の楽しみになっている。
セレクトショップで秋冬物の新作をぐるっと見て回った後、映画館に寄って(ちゃんと前売り券買ったよ)、最後はちょっとお高いところで外食をする。
それがいつも定番のコース。頑張って働いているご褒美だもん。立派に社会人やってますから!ふんす!
ただ、この日はちょっとイレギュラーな出来事があった。
映画館を出て夕食に行こうかとしているときだった。
セレクトショップで見かけた靴を買うかどうか、映画を観終わった後も憂はずっと悩んでいた。
そんなに欲しいならわたしがプレゼントしてあげようか?って言ったけど、お金のこと以上に、真っ赤な色をしたヒールの高い靴が自分に似合うかどうかで悩んでるみたいだった。
似合うよ、きっと。
本心からそう思うんだけど、とっても軽く聞こえてしまいそうだったし、実際見事に履きこなされてしまうと、姉のわたしより大人っぽく(いやもうわたし達は誰がどう見ても大人なのだけど)なっちゃいそうなのがシャクで、黙って笑っていた。
そう。
悩んでる憂は、可愛いのです。
そんなときだった。
聞き覚えのある声がわたしの名を呼んだ。
-
「唯ちゃ〜ん!」
楽しそうに手を振って、こちらに駆けてくるのは、ムギちゃんだった。
大学を卒業して以降、今度こそ進路がバラバラになったわたしたちは、それまでのようにいつも一緒ではいられなくなった。
とはいえ、卒業後しばらくは頻繁に連絡を取り合ったり、時々はみんなで集まってたりもしていた。
…バンド活動もナントカカントカ頑張って、解散だけはしないように、って地道な練習だけは続けていた。
それは時間とともにだんだん少なくなっていったけれど、それでも近況は報告しあい、たまに会ったときは昔と何一つ変わりのないようにはしゃいで楽しんだ。
「ムギちゃん!」
「紬さん!」
「うわぁ〜まさか唯ちゃんにばったり会っちゃうんて!憂ちゃんも久しぶり〜」
憂がムギちゃんと会うのはどれくらい久しぶりなんだろう。
卒業後の集まりは放課後ティータイムの五人で集まることばかりだったから、本当に大学を出てから初めて会うくらいなのかもしれない。
こうして偶然出会うのも何かの縁。
せっかくだから、三人でご飯を食べていこうということになった。
わたしは憂の方をちらっと見た。
愛想笑いじゃなくて、本当にムギちゃんとの再会を喜んでるみたいに無邪気に笑っていた。
月に一度の二人きりのお出かけが邪魔された、なんて少しも思ってない様子に、わたしは胸をなでおろした。
「ムギちゃん、さっきの人たち、大丈夫だったの?」
「大丈夫大丈夫!気にしないで〜」
三人で入ったのは焼肉屋。
焼肉屋なんて、憂と二人じゃまず入らない。職場の飲み会やけいおん部のみんなと会う時、つまりは比較的大人数で行くところってイメージがあったから。
でもお肉、好きだけどね。
「おうちの方だったんですか?」
「うん。今実家に帰ってきてるから。でもいいのよ。ホント」
ムギちゃんはとても楽しそうだった。
どんなことにも好奇心旺盛で、見るものすべてに目をキラキラと輝かせて、世界の全てを楽しんでいた、あの頃と何一つ変わらないように。
そりゃわたしも憂も楽しかったよ。久しぶりに友達にあったら楽しいに決まってる。
でも…盃が進むにつれて(ムギちゃんがお酒だい好きだってことはとっくの昔に知っていたけれど)少しづつ雲行きは怪しくなってゆく。
「すみませ〜ん、注文いいですかぁ?生大ひとつくださ〜い。それと…唯ちゃんと憂ちゃんは?」
「あ、わたしはいいや…まだ残ってるし」
「わたしはりんごサワーを…」
「えっ!憂ちゃんなのにウイスキー飲まないの!?」
「はぁ……」
「じゃあ憂ちゃんの代わりにわたしがウイスキー飲むわ!」フンス!
…と、ムギちゃんは酔っ払いのおじさん顔負けなギャグとともに高らかに宣言すると、天まで届けとばかりに左手をまっすぐあげた。
そして大きな声で店員を呼び止め、白州のロックを追加注文した。せめて水割りにして欲しかった。
「つ、紬さん、お酒強いんですね」
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「お酒に強い」「お酒が好き」「たくさん飲む」は、似ているようで違う。
ムギちゃんは確かにこの三つが当てはまる……けどね。いくら強いって言っても限界ってものはあるわけで、それをオーバーするまで飲んじゃ、ダメなわけですよ。
ちなみに憂は前半二つ。いつもガンガン飲むわけじゃなくて、その場に合わせた酒量。今日はムギちゃんがいるから割と飲んでるけど、顔色は全く変わっていない。
わたしは真ん中の一つだけかなぁ。ちなみに我が家ではもっぱら第三のビールです。節約節約。
「あ〜。こんなに飲むの久しぶり。ほら。実家にいるとあんまり飲ませてもらえなくて」
「そりゃあ一人娘が毎晩へべれけになるのに黙ってる親はいないだろうね」
「今日は大丈夫なんですか?」
「土曜日に酔ってない方が人として不自然だと思うの〜」グイッ
それは偏見だよ……。そんなわたしの心の声を無視して、ムギちゃんは左手に大ジョッキを持つと、急角度でそれを傾けた。
「唯ちゃん、大人っぽくなったよね〜。髪を伸ばしてるせいかしら?」
急に話題を変えるのは、酔っ払いの特徴であるような気がします。
「ムギちゃん、それこないだみんなで集まったときもおんなじこと言ってたよ」
「え〜、そうだったかしら。いいじゃない褒めてるんだし」
「憂ちゃんも大人っぽくなったね。髪型が変わらないのに」
それはナニかな?わたしが大人っぽく見えるのは髪型のせいだけってことかな?
「え、あ、はい…まぁ、実際もういい歳ですから」
「二十代もあと一年だものね。早いわよね」
遠い目をして呟くようにそう言って、ジョッキの残りを飲み干した。
そうしてからスッと左手をあげる。
「…白州のロック、まだですか?」
呼び止められた店員は、少々お待ちください、と言って足早に立ち退いた。
「最近、どう?」
どうやらまた話題が変わるらしい。
「どうって何が?」
「決まってるじゃない?」
「ああ、そういう話かぁ。変わらずだよ、ずっと」
「憂ちゃんも?」
「はい、変わりませんよ」
「そう」
頼んだお酒がまだやってこないので、ムギちゃんは手持ち無沙汰な様子だ。左手で箸を持ち、カチャカチャと鳴らしている。ムギちゃんには珍しく、行儀が悪い。
お酒がなくたってお肉は美味しい。鍋奉行なムギちゃんはお肉の焼き加減や焼く順番にもこだわりを持っている方だけど、お酒が入ってくるとそれもだんだん適当になってくる。
そうなればここぞとばかりにわたしは自分のペースで肉を焼く。ビールもおいしいけど、お肉もおいしい。そうだ、デザートにアイスも頼まなくっちゃ。
「わたしね」
騒がしい店内で慌ただしく動き回る店員を見ながら、ムギちゃんは言った。
わたしは上カルビを絶妙な具合に焼いてみせることに夢中で、憂は野菜が焦げ具合が気になっているようだった。
「結婚するんだ」
憂、これいい感じだよ。カルビ好きでしょ。ありがとお姉ちゃん、しいたけもおいしそうだよ。うへぇーしいたけかぁー。好き嫌いはだめだよ。はぁい…。
わたし達姉妹は、網の上の肉や野菜に夢中だった。
「来月末」
注文したお酒がようやくやってきた。
ムギちゃんはわかりやすく目をキラキラさせると、
「はい、乾杯しよう乾杯!」
左手でグラスを持ち上げ、7、8回目になるんじゃないか、っていう乾杯をせがんだ。
「ちょっと待って」
「とりあえず乾杯しようよ」
「さっきの、なに?」
「さっきの、って?」
「結婚の話ですよ」
憂はムギちゃんの方を見ずに言った。
野菜だけじゃなく、今度はわたしに代わって肉の焼け具合にも気を払っている。
「一応言っておいたほうがいいかな、って」
「一応って…それに来月末って…いくらなんでも急すぎるよ」
「急じゃないよ。結構前から進んでた話だから」
「じゃあなんで言ってくれなかったの?それにムギちゃんは…」
「ああ、ダメになっちゃったの」
ムギちゃんが左手に持ったグラスを揺らすと、からんからんと氷が音を鳴らした。
白州はもう1/4くらいしかグラスに残っていない。あっという間。
「どうしてかしら。今夜は酔えないわ」
「ダメになったって…」
「しょうがないわよ」
「それでいいんですか?紬さんは?ヤケになって結婚して。
…あ、これ焼けてます。どうぞ 」
ちょうどいい焼け具合の肉や野菜を、わたしとムギちゃんのお皿に取り分けてくれた。
憂も食べなよ。ちゃんと。
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「いいもわるいもないよ。ヤケじゃないわ。結婚くらい、『普通』のことでしょ。だってもうわたし達、いい歳なんだもの。結婚適齢期よ」
「知ってます?生涯未婚の人がどんどん増えてること。
結婚が『普通』なんて、考え方が古いですよ 」
「ま、まぁ…ひとそれぞれだから…ね。
…… ん!んん!!お肉おいしい〜!ほら、憂もムギちゃんもお肉食べよう!おいしいよ!」
「お姉ちゃんは好きだけお肉食べなよ。わたしは野菜食べるから」
「…わたし、お酒飲みたいから」
「……はい」
憂とムギちゃんがふたり同時に手をあげる。
ふたりの殺気を感じたのかどうなのか、店員が飛ぶような勢いでやってくる。
「結婚するとかしないとかより、好きな人と一緒にいるってことの方が大事だと思います」
「あら。大人っぽくなったと思ってたけど、随分と子供っぽいこと言うのね」
「大事なことに、子供っぽいとか大人っぽいとか関係ないですよ」
「そんな風な考えだけでやっていけるほど、世の中は甘くないのよ」
「一つしか歳が変わらないのに、大人ぶらないでください」
注文したスクリュー・ドライバーが一つ、ビッグ・アップルが一つ、そしてわたしが頼んだりんごアイスがやってきた。
「乾杯♪」
「…乾杯」
「かんぱーい…」
グラスが割れるんじゃないかって心配したけれど、大丈夫だった。
「わたしが好きでもない人と結婚するって思ってる?」
憂は黙っている。カクテルに口をつけることもしない。
わたしはりんごアイスをゆっくりと食べる。
「『好き』って気持ちと、『結婚』という行為はイコールじゃないわ」
「…わかってます。それくらい。結婚するってことがまだまだ世の中にとって『普通』のことだって思われてることも。
でも結婚できなくたって、好きな人とずっと一緒にいたいとは思わなかったんですか」
「…冷めたのよ。わたしも。あの人も」
「うそ」
「ほんと」
「うそです」
「…頑固ねぇ、憂ちゃん。確かに、ずっと一緒にいたい、って。そう願っていたこともあったわ。でも願うだけじゃ…祈るだけじゃ、どうにもならないこともあるのよ」
「覚悟がないだけだと思います」
「わかったように、簡単に言わないで」
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憂は右手に、ムギちゃんは左手にグラスを持つと、残りを一気に飲み干した。
わたしはまだちびちびとりんごアイスを食べている。
「…………すみません。言い過ぎでした。
お二人のことですから、わたしが口を挟める筋合いはないですけど、今の紬さんは…」
ビッグ・アップルを飲み干した憂の頰が珍しく紅潮していた。
久しぶりにたくさん飲んだせいか、それとも興奮しているせいか。
「不潔です。なんだかとっても」
憂は笑って言った後、「ごめん、お姉ちゃん。先に帰るね」と席を立ち、そのまま店を出て行った。
ラストオーダーを告げにやってきた店員に対し、ムギちゃんは左手をあげ、「もういいわ、大丈夫」と笑って断りを入れた。
わたしは…まだりんごアイス残ってる。
「…ごめん。憂がヘンなこと言って。悪気はなかったと思うの。ちょっと飲みすぎだったね…」
「…不潔、かあ……ねぇ唯ちゃん。わたし、不潔かな」
「…え」
「正直に言って」
「………うん。…ちょっと、ね」
「そっか。やっぱり、ね。…………アリガト」
「…え?」
「あ、そういえばさっき憂ちゃんが飲んでたカクテル、美味しそうだったね。わたし、やっぱりもう一杯飲むわ!」
ムギちゃんが威勢良く声をあげて、左手を大きく振り、店員を呼び止めた。
それから、ラストオーダー後の注文であることを可愛らしく謝ると(ムギちゃんはぶりっ子なんてしなくても、いつもの通りにしていれば十分に可愛い)、ビッグ・アップルを注文する。
そして注文したお酒が運ばれてくると、ムギちゃんは目をキラキラさせながら、左手にグラスを持ち、勢い良くビッグ・アップルを飲んだ。
まるで、今日いちばんおいしいお酒を飲むように。
りんごアイスの残りは、溶けてドロドロになっていた。
-
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喫茶店の端の席に座っている学生っぽい男性が、洒落たデザインのパソコンを操って、熱心に何かを打ち込んでいる。
「何見てるのよ」
「ん。いいな〜新しいパソコン欲しいな〜って」
「要らないでしょ。唯にパソコンが使いこなせるとも思えないし」
「…いや使うよ。ネットとかさぁ。するし」
「わたしの家にある古いやつあげようか?」
「要らないよ。古いやつって動くの遅いでしょ」
「唯にはちょうどいいと思うわ」
「失礼だなぁ和ちゃん…ちなみに聞くけどOSは…」
「『2000』よ。弟が去年まで使っていたのが余っているわ」
和ちゃんは眉一つ動かさず、真面目そうな顔をして喋るけれど、確実にわたしのことをバカにしている。そう確信した。
わたしが今使ってるの「7」だし!いくらなんでも古すぎだし!
「…あーでもできればMacがいいな。かっこいいし。澪ちゃん使ってたし」
「澪は関係ないでしょ。使いやすいんだからWindowsにしときなさい。『普通』はそうするわ。その方が使いやすいもの」
ま、そうかもね。
そう思って、アップルティーを一口啜った。
…あんまりおいしくない。
学生時代ムギちゃんの淹れてくれる紅茶を飲み過ぎたせいか、すっかり紅茶の味には厳しくなってしまった。
「ところでアンタ、先のこととか考えてるの」
「…先って?あ、まぁ考えてるよ〜」
「…じゃあ言ってごらんなさいよ」
「えー。働いてお金稼いで、税金納めて、残りのお金でおいしいもの食べたり…休みの日にはギー太弾いたり、憂とお出かけしたり…」
「…今と何が違うのよ」
「一緒だよ。ずっとこのまま、今のままでいられたらいいな、って」
「全然考えてないじゃない」
「そっかなぁ…」
和ちゃんが大きくため息をついて、コーヒーカップをテーブルに置いた。
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喫茶店の窓から外を見ると、道行く人の群れにマフラーを巻き、コートを着込んだ人が多いことに気がついた。一週間前はもっと暖かかったのにな。
道沿いに植えられた銀杏並木は、下から真ん中あたりまでが黄色に染まり、上に行くほどまだちょっぴり緑が残っていて、鮮やかなグラデーションを見せている。
街は、季節の移ろいを映し出していた。
「もう一つ聞くわね。今、付き合ってる人はいるの?」
「ん〜……さて、どうでしょう??YesかNoか!?」
「もったいぶってんじゃないわよ。どうなの?いるの?いないの?」
「彼氏はいないよ」
「わかったわ。じゃあ単刀直入に言うわね。お見合いしなさい」
「…………エ?」
「アンタがオッケーしてくれたら、すぐにでも話を進めるわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで?なんで急にお見合い?
まだわたし20台だよ?そんな焦るような歳じゃないよ!」
「だからよ。このままズルズル歳だけ取ったらアンタみたいなの貰ってくれる男なんて誰もいなくなるわよ」
「和ちゃんシドい!これでもモテなくはないんだよ!」
「その歳で彼氏いないのに?」
「うっ、まぁそりゃそうだけどその気にさえなれば…」
心の中で指を折って数える。
最後に付き合った男と別れてから、どれくらいの年月が経っただろう。
「それなら早くその気になりなさい。いつまでも今と同じだと思ってたら痛い目に合うわよ。心配してるの」
和ちゃんが専業主婦になったことはすごく意外だった。
てっきり一流企業に勤めたり、弁護士とか医者とかになったりして、バリバリ働くイメージだったから。
大学院の博士課程在学中に学生結婚。今や二児の母。この少子高齢化社会で実に立派なことです。頭が下がります。
「…ま、とか言いながらわたしは正直唯の好きにすればいいって思ってるんだけどね」
「え、あ、そうなの?」
「そりゃそうよ。唯の人生なんだから、唯の好きなようにした方がいいに決まってるじゃない」
「じゃあなんでさっき、あんなこと言ったの?」
「ウチの親もとみおばあちゃんも、周りがみんなが心配してたから。一応、ね」
「ああ、なるほど。もしかして憂にも同じこと…」
「ええ、先週ね。あの子、ちょっとふさぎ込んでたみたいだから心配」
「……そっか」
「結婚するとかしないとかっていうよりね…」
メガネをかけていない和ちゃんを見てると、小学生のころを思い出す。
理知的な和ちゃんの表情の中に、幼い頃の面影を探して、懐かしい気持ちに浸る。
それにしても美人だよなー。結婚してからさらに綺麗になった気がする。
旦那さんも心配だろうな。
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「聞いてる?」
「聞いてるよー」
「…結婚するかしないか、っていうよりもね。
わたしはこういう人間だから、わたしはこういう風にしか生きられないから、って自分の可能性や選択の幅を無理に狭めるようなことをしないで欲しいのよ。
ほら、憂ってヘンに頑固なところがあるじゃない」
和ちゃんのこれまでの人生はなかなか面白い。少なくとも高校時代の和ちゃんからは想像できない人生だ。
男っ気なんて微塵もなかった(ごめんね和ちゃん)和ちゃんの初めてできた恋人は、留学先で出会った外国の人だった。
けれどその彼とは、帰国後連絡が取れなくなっちゃって、あーもうダメかなーって思ってたら、なんと今度は彼の方が日本に留学生としてやってきちゃった。
その後彼は留学を終えて母国に帰っちゃうんだけど、今度は和ちゃんが彼の国の大学院に進学して…もちろん一緒にいたいって理由だけじゃなくて、そこの大学院でちゃんと勉強したかったって言ってたけれど本音のところはわからない。なにせ恋する乙女だったからね、その頃の和ちゃんは⭐︎
そうして博士課程まで進んだときに子供ができちゃって、安心して出産できる環境の方がいいし、たまたま彼が日本文化の研究者を目指してることもあって帰国しました、というわけ。旦那さんは日本語ペラペラです。
「和ちゃんの言うことはわかるよ。でもさ。最終的には何かを選ばなきゃいけないよ。『選ぶ』ってことは何かを切り捨てることだよ」
「アンタや憂はね、ハナから別の選択肢を考慮せずに切り捨てちゃってる気がして心配なの」
「……」
「遊びに行くような気持ちで行ってみたらいいのよ。人生経験だと思って」
「そっかぁ…どうしよっかなぁ」
「そういえばわたし、今の旦那とどうやって知り合ったか、言ってなかったかしら」
「あ、それ聞いてない。クラスが一緒だったとか、図書館で勉強中に出会ったとか、そんなのかと思ってた」
「違うわ。ハロウィンパーティで出会ったのよ」
「 は ろ う ぃ ん 」
「そんな柄じゃない、って思ったでしょ。わたしもそう思うわ。
付き合いで出たパーティーでね、どんな仮装したらいいかもわかんなくて自分なりに考えたつもりがかなりズレた格好だったみたいで…」
和ちゃんの感性は、万国共通でおかしいことが証明されたんだなぁ…!
「…目立ってたみたいなの。まわりのみんなはわたしを見てクスクス笑うばかりだったわ。パーティーの半ばくらいでやっと自分の格好がおかしいかも、って気がついて恥ずかしくなって衣装を脱ごうとしたら…」
一体どんな衣装だったんだろう?
ゲゲゲの鬼太郎の格好でもしていったのだろうか。
「声をかけてきたのが彼だったの。『それは日本の妖怪だよね』って」
幼馴染みとしての自分の勘の鋭さはなかなかのものだった。
トラ柄のちゃんちゃんこを着るのは嫌だけど、和ちゃんの言うことも一理ある。
「…こほん。まぁわたしの話はいいわ。
アンタ達もなにがキッカケで人生変わるかなんてわからないわよ
とにかく考えておいて、憂にもよろしく」
「うん、わかった。心配してくれてありがとね」
メガネを外した和ちゃんは、小学生のときとも、高校生のときとも違う大人の女性だった。
「ああ、そう唯。ところで長野の親戚からりんごがたくさん送られてきたんだけど、食べる?
わたしのところではあんまり食べないから余っちゃって。よかったらまた今度持って行くわ」
ひと口しか飲んでいないアップルティーはすっかり冷めてしまっていた。
-
*
目の前に果実がなっている。
甘く香り立つその果実を、わたしはじっと見つめていた。
「ただいまー」
「おかえりー」
このところ憂の帰りが遅い。
たぶん年末が近づいているせいだろう。最近退職者が出たとかで急な人事異動があったらしく、慣れない初めての部署での年末を迎えることもあって大変そうだ。
今まで触っていたギー太を横に置くと、お疲れな妹を玄関先まで出迎えにリビングを出る。
「お疲れ〜お風呂沸いてるよん。ご飯も準備できてるけど…どっちにする?」
「……お姉ちゃん、先に帰ってたんだ」
「メールしたじゃん。20時には帰るよって」
「……ごめん見てなかった」
「そっかそっか。そういうこともあるよ〜。わたしもよくやる」
「お姉ちゃんがいてくれてよかった…」
「どうしたの?ヤなことでもあった?」
「ううん。そんなんじゃないけど。ごめんね、大丈夫だから」
「うん…ごはんたべよ。あ、お風呂先入る?どうする?」
「…………ぎゅっ、てして」
「甘えん坊だなぁ、憂は」
「………うん」
憂がこちらに身体を預けてくる。
脱ぎ捨てられたヒールが、乱雑に三和土に散らばった。
いやに身体が冷え切っていた。
全身を憂に密着させる。わたしの体温で憂を温めるために。
「よしよし…」
「…ん、元気でた。ありがとお姉ちゃん」
「そっか。じゃあお風呂に先に入っておいで。最近寒いからね。風邪引かないようにね」
「うん…」
-
お風呂あがりの憂は、あったまったおかげだろうか、少しリラックスしているように見えた。
「ごめん、待たせちゃって。お腹空いたでしょ」
「大丈夫だよー。実は晩ご飯作ってる最中に我慢できなくてつまみ食いしちゃいまして…」タハハ
「アハハ…ならよかった」
よいしょ、っとちいさく掛け声をかけて、土鍋をテーブルまで運ぶ。
「今夜はキムチ鍋ですよ〜」
「もう、鍋の季節かあ…早いね」
「鍋は年中美味しいけどね〜。でも寒いときの鍋は最高だね」
「そうだね。この間まで、暑い暑いって言ってたような気がするのに」
「今や、コタツなしには過ごせません!」フンス!
昨日と今日は、今日と明日は。大して変わっていないように思える。事実大きく違うことなんてそうそう起きやしない。でも大して変わっていないことと、変わらないことは違うんだ。
少しづつ、ほんのちょっとだけど季節は移ろい変わっていく。今日は暑い、昨日は寒い。それを繰り返し、だんだんと冬になっていく。
木々はほんのりと色づき、落葉する。この前咲いていた道端の花が萎み、また知らない花の蕾が膨らんでいる。
秋は…そんな些細な季節の移ろいに気がついて少しセンチメンタルな気持ちになったりする。歳を重ねたせいかもしれない。いやそうでもないかな。澪ちゃんなんかは昔からこういうことを考えていそうだ。
「そういえばムギちゃんからお酒もらったんだ。りんご酒だって。飲もうよ」
「紬さんから?」
「うん、こないだのお詫びだって。飲みすぎて余計なこと言ってごめんって」
「そんな…それならわたしの方がよっぽど」
「まぁいいじゃん。お酒の席だったんだし。それにわたし達の間で遠慮はいらないよ」
「…うん。じゃあお返ししないとね。結婚祝いも兼ねて」
「そうだねぇ…結婚、かぁ」
未だにムギちゃんが結婚してしまう……ということに実感がない。
結婚してしまえば今より一層会う機会も減るだろう。そのこともだけれど、自分が置いてけぼりにされるようで寂しかった。
喜ばしいことのはずなのにね。ちっともそんな気持ちにならない。
「式や二次会は?お姉ちゃん達は行くんでしょ?」
「ううん。呼ばれてない」
「えっ、そうなの」
「……見られたくないんでしょ。呼べるわけないし。
かといってわたし達だけ呼ばれるのもなんだか気まずいし」
「そっか…そうだよね」
憂はムギちゃんに覚悟がない、って言ったけれど、覚悟がないのはわたしも一緒だ。
友人が変わっていくことを知って、不安でたまらない。
誰にも理解されず、大切なもの全部なくして、一人の味方もなしに、世界中を敵に回しても、それでも守り通すことができるだろうか。
「お姉ちゃん、どうしたの?食べようよ」
「あ、ごめんごめん。いただきま〜す」
「いただきます」
目を瞑り、手と手を合わせて頭を垂れる憂は、まるで神様に祈りを捧げる修道女のように見えた。
憂は何を願うのだろう。何を祈るのだろう。
「おいしいね」
「うん。すっごく」
ちょうどいい感じの豚肉も、ちょっと青っぽくてシャキッとした韮も、ほどよく辛いキムチも、全部おいしかった。
疲れて帰ってきた一日。こうしておいしいものを食べながら、目の前で憂が笑っているのを見ていると、どんなシンドイ一日だったとしてももう帳尻が合うどころかお釣りが出ちゃうくらいハッピーな気分になれちゃう。
でも、ムギちゃんからもらったりんご酒は、なんだかあんまり口に合わなかった。
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「憂、こないだの和ちゃんの話なんだけど」
「お姉ちゃん、グラス空いてる。ほら注ぐよ」
「…ありがと。憂、行っておいで」
「行くってどこに?」
「お見合い」
「なんで?」
本当はこんな話はしたくない。
でも胸の内でもやもやしていたくないから。覚悟を決めるなら、こういうことにぶつかっていかなくちゃならない。
「お姉ちゃんはさ」
憂がわたしのグラスにりんご酒を注ぎながら言う。
このりんご酒、憂はおいしいと思っているのだろうか。
「わたしが結婚してもいいの?」
「お見合いするだけでしょ。まだ結婚するって決まったわけじゃないよ」
「でもお見合いって結婚するためにするものでしょ」
「そんな昔みたいな堅苦しいものじゃなくて…パーティーみたいなもんだって和ちゃんが…最近そういうの流行ってるじゃん。婚活パーティー?だっけ」
「知らない。興味ないから」
「…そういうもんらしいよ。ま、人生経験だと思って」
「結婚するつもりがないのに、そういうところに行くのって、失礼じゃない?」
「まぁ…それは…そうかもしれないけど…ほら和ちゃんだって今の旦那さんと知り合ったのがね…」
「聞いたよ。でも和ちゃんが行ったのは婚活パーティーじゃないし、そのとき特に好きな相手がいたわけでもなかったんでしょ。わたしとは違うよ」
「そりゃ全く一緒ってわけじゃないよ。でも憂。自分の可能性を自分で狭めるようなことしちゃ、ダメだよ」
「…意味がわからないよ。本気で言ってるの?お姉ちゃん」
「…本気だよ。姉として妹の将来を心配するのは当然でしょ」
憂の箸は止まったままだ。わたしも。ふたりの真ん中に置かれた鍋だけが温かそうに湯気を出している。
わたしも憂も、りんご酒に口をつけない。
「わたし、行かない。お姉ちゃんはわたしが結婚してもいいの?」
「だからパーティーに行ったからってすぐに結婚するわけじゃ…」
「ごまかさないでよ。わたしはお姉ちゃんの気持ちが知りたいの」
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「…うん。
憂にはしあわせになって欲しいと思ってる。
憂が心から大切に思える人と出会って、その人と結婚できたらそれはとてもしあわせなことだって思う。
だからそういう人と出会えるかもしれない機会を自分で潰して欲しくないの」
「いいんだ…わたしがいなくなっても」
「そういう意味じゃないよ」
「お姉ちゃん、一人で大丈夫なの?ちゃんと家のことできる?
お掃除して洗濯して…お料理だって今日みたいな鍋ばっかりじゃダメだよ。しっかり栄養のバランスを考えて…」
「できるよ。だってわたし、大人だよ?高校生の頃とは違うよ」
「できないよ。無理だよお姉ちゃんは。わたしがいなくなったらきっとめちゃくちゃになっちゃう」
「大丈夫だよ。だってわたし、お姉ちゃんなんだから」
「…できないよ」
「…確かに憂ほどちゃんとはできないだろうね」
「だったら…」
「でもね。そんなことで憂を縛り付けたくないの。
わたしのせいで憂の可能性を縛りたくない」
「ありもしないものを可能性だなんて耳障りのいい言葉でごまかさないで。
お姉ちゃんはわたしがいなくなってもさみしくないの?
ひとりで嫌じゃないの?」
「さみしいよ。でもね、憂。姉妹ってそういうことなんじゃないかな」
「お姉ちゃん…わたし、ずっとお姉ちゃんと二人でいたい。
他の人と結婚してもきっと今以上しあわせになんてなれないと思うの。
お姉ちゃんとこうして二人でいることが何よりいちばんのしあわせなの」
「ちがう…それはちがうんだよ、憂」
両親が留守がちだった子供時代。わたし達はいつだって一緒だった。
どこに行くにも二人一緒。両親よりも誰よりもお互いが側にいた。
学校に入学してからは年齢が一つ上だった分、わたしがいつも一歩だけ憂の先を歩いていたけれど、家に帰れば憂の笑顔が待っていた。
大学に入って…働き始めて…寮で暮らしたり一人暮らししたり、外国に行ったり…離れ離れのときはあったけれど、それでも帰るべきところとしてお互いがお互いの拠り所だったのだと思う。現に今、わたし達は昔のように一緒に暮らしている。
まわりは変わっていくし、わたし達も変わった。けれど肝心なものは変わってない、子供の頃から何にも。そう思ってた。
でも、どんなに仲が良くたって、一生ずっと共に暮らし続ける姉妹や兄弟は、世の中にどれくらいいるのだろう。
同じ家庭に生まれ、歳も近い存在。
お互いがお互いを大切な存在として、どんなに愛おしく想い合ったとしても、血のつながりを理由に別れなくちゃならないなんて、理不尽だ。
でも、理不尽であることと、世の中の『普通』とは別の話。
論理も理屈も、当人同士の想いも何もかも踏み潰してしまうのだ、ソイツは。
…自分の勝手な思い込みかもしれない。自分も思ったより『普通』なのかもしれない。和ちゃんの言うと通り、自分の可能性に蓋をしているだけなのかも。わたしも憂も。
わたしはもうわからなかった。
わからないまま自分の気持ちを優先させることで憂を不幸にしてしまうことが怖かった。だからもう、考えるのをやめて『普通』に身を委ねてしまおう、そう思った。
わたしは目の前で揺れる果実から、目を逸らす。
「姉妹だからなの?」
「そうだよ。姉妹はね、そういうものなんだよ。それが『普通』なんだよ」
「なにそれ、『普通』って。わたしにはわかんない」
「ねぇ、憂。わたしも結婚しようと思う」
「うそ」
「うそじゃないよ。本気で婚活するよ。いつまでも今のままじゃいられないからね」
「…それがしあわせなの?お姉ちゃんにとって」
「…うん。きっとそうだよ。それがわたし達にとっての『普通』のしあわせなんだよ」
「…じゃあもう、わたしがいなくても大丈夫なんだね……?」
「……………大丈夫」
憂は黙ったまま箸を置くと席を立った。
わたしはひとりでも黙々と残った鍋を平らげた。
お腹がいっぱいで苦しかったけれど、なんとか頑張った。
おかげで食後のアイスは食べられなかった。
冷凍庫には憂の買ってきてくれたアイスがたくさん詰まっていた。
大丈夫に、ならなきゃなあ…。
台所に転がったりんごを一つ手にとって、耳元に寄せると人差し指でコンコンと鳴らした。
やっぱり憂の、音がする。
お腹がいっぱいで、りんごは食べられない。
ムギちゃんにもらったりんご酒は、グラスに残ったまま、テーブルに置かれていた。
-
*
『急転直下だったわね』
「そうだね。まさかプロポーズされてたなんてなぁ…
なーにも言ってくれないんだもん」
『わたし、恥ずかしいわよ…柄にもなく婚活パーティーだとかお見合いだとか勧めちゃって…』
「確かに柄じゃないね」
『うるさいわよ』
左手にケータイ。
右手にはりんご。
手のひらの上で軽く回転しながら、くるっくるっとりんごが跳ねる。
今日は別に食べたいとも思わなかったのに、気づいたら買い物カゴに入れてしまっていたりんご。
和ちゃんからたくさんもらったりんごもまだ残っているというのに。
あの日は月曜だったからその週は一週間…憂は朝は早くに家を出て、夜は遅くに帰ってくるようになって、生活は完全にすれ違いになった。
夕飯も外で済ませて帰ってくるし、朝は食べずに出かけて行ってしまう。
ここでだらしがない様子を見せたら「それ見たことか」と思われるに決まってる。
わたしはいつも以上にきちんとした生活を心がけた。たぶん、まぁそれなりなんとかなっていただろうと思う。
仕事が休みのはずの土曜も朝早くに出かけて行って、帰ってきたのは22時過ぎだった。
うるさいことを言うつもりはなかった。心配じゃない、って言えば嘘になるけれど、心配だ、って口にするのも嘘っぽい気がした。
わたしはリビングでおもしろくもないバラエティ番組を見ながら、ギー太を弾いていた。
鍵が開く音で憂が帰ってきたことはすぐにわかったけれど、玄関まで迎えにいくことはしなかった。
「ただいま」
リビングに入ってきた憂は、わたしの方を見ずに言った。
「おかえり。ごはんは?」
「いらない、済ませてきた。それとねお姉ちゃん…」
「うん、なに?」
「結婚するから、わたし」
突然のことにわたしは何にも言い返せなかった。
そのままお風呂に入ろうとする憂を押しとどめて詳しい話を訊こうとしたけれど、憂はただ冷めた顔で、
「寒いからお風呂に入りたいんだけど」
って…。今まで憂を怒らせことはなんどもあるけれど、輝くベスト1ってくらいの顔だったね!
『アンタ、バカなの?まぁ、知ってたけど』
「バカじゃないよ!親しき中にも礼儀ありだよ!」
『ハイハイ。わたしに連絡があったのは次の日だったわ』
りんごは赤いほうがよく熟しているだっけ?
でも熟してるとあんまり日持ちしないって、聞いた気もする。忘れた。
憂にちゃんとした相手がいた。
付き合ってる…といえるかどうかは微妙だけど、ときどき二人で食事をしたり、比較的仲の良い同期入社の男性社員。実は1年以上前に一度プロポーズされたことがあったらしい。
そのときは丁重にお断りしたみたいなのだけど、相手の方は随分と憂にベタ惚れだったらしく…アプローチは続いていたそうです。
ま、憂に結婚を言い寄る男の一人や二人、いない方がおかしいよね。自慢の憂ですから。
『同期の出世頭で、それなりにちゃんとした人らしいわよ』
「へぇー」
『…アンタ。姉としてもっとちゃんと興味持ちなさいよ』
「持ってるよぉ〜…えぇっとあれ?ナニさんだったっけ?」
『米澤さんよ。せめて名前くらい覚えておきなさい…マッタク』
わたしには、りんごの色や形を見て、それがおいしいか、判別できない。
姉としてわたしがすべきこと。
ちゃんと妹をしあわせにできる男なのか、どうなのか、姉として見極める責任。
そんな大それたことができるかできないかよりも。
憂の結婚相手がどんな人間かってことよりも。
憂がわたしから離れて遠くへ行ってしまう、というを受け入れることができるか、それが今の自分の課題。
りんご。あの音がもう、聴けなくなる。
「ねぇ、和ちゃん」
『何よ。あんまり長電話してるほど暇じゃないんだけど』
「わたし、姉失格かも」
『…………大丈夫よ。あなたは自分で思ってるよりずっとちゃんとお姉ちゃんしてると思うわ。他ならぬわたしが言うんだから間違いないわよ』
「…ありがと。じゃあね、和ちゃん。長電話ごめん」
『いいわよ。相談したいことがあったらなんでも言って。
それじゃ、おやすみなさい』ピッ
なんでも言って、か。
もう一度和ちゃんに電話しようとして右手を滑らせ、りんごが落ちた。
ゴトン、と聴いたことのない音を立てて。
-
*
ムギちゃんが消えた。
それを教えてくれたのは、未登録の電話番号からの留守録だった。
昔会ったことのある、執事さんの声だった。
行き先は、知らない。
何も教えてはくれなかった。
憂に聞いてみたけれど、菫ちゃんも知らないらしい。
誰にも行き先を告げなかったのだろうか。
どうしても誰にも見つかりたくなったのだろうな。
もっとちゃんと、まわりを不幸にしない、真っ当なやり方があったような気もするけれど、わたしにはわからない。
自己犠牲によって世界を救った勇者は、英雄として称えられる。
じゃあ、その逆は?
りっちゃんは言った。
『世界中が敵になっても、わたし達だけは味方でいよう』
あずにゃんは言った。
『離れていても、どこにいても、わたし達は放課後ティータイムです』
わたし達は遠くまで来てしまった。
あの頃は思いもしなかったくらい遠くまで。
気がつかないうちにいろんなことが変わってしまっていた。
憂は落ち込んでいた。
「ごめんなさい…紬さん」
最後に会ったあのとき、ひどいことを言ってしまった、謝ることができなかった、と。
いいんだよ、憂。
あんなことはムギちゃん自身がいちばんわかっていただろうから。
ムギちゃんにもらったりんご酒、まだ結構残ってる。
今夜、飲もうかな。
わたしにはもう、祈ることしかできなかった。
「どうか どうか ふたりが しあわせに なりますように」
風が吹いて、果実が揺れた。
目を逸らそうとしても、気がつけばまた、見つめている。
それは、わたしの目の前でゆらゆらと揺れて続けている。
-
*
「ただいま…」
「今日は遅くなるんじゃなかったの…あ。髪」
「ん。切っちゃった。どう?高校生に見える?」
「…若返ったとは思うけどそこまではちょっと……。
でも似合ってるよ。お姉ちゃんにはそれくらいが一番似合うと思う」
「さすがに高校生は無理かー、いやいや制服着たらまだまだ…」
「やめときなって。大学生ならいけると思うけど」
久しぶりに憂の笑顔を見た。
でもまだぎこちなく、不自然な作り笑いだ。こんな笑顔は見たくない。
「今日あれ、和ちゃんの言ってた…」
「ああ、あれ。行かなかったよ」
「え…じゃあどこに」
「米澤さんに会ってきた」
「……なにそれ」
「結婚、できないって言って断ってきたから」
憂の表情が一気に強張っていく。
「ちょっと待ってよ。なにそれ。来週向こうの実家に挨拶いく予定なんだよ!」
「行く必要なくなってよかったじゃん。手間が省けて。
あ、アップルパイ買ってきたよ。食べる?」
「ふざけないで。なんで!なんでそんな勝手なことしたの!?」
「…りんごが」
「…え?」
「りんごが美味しくないの。味がしないの。音も気に入らないの」
「……なに、言ってるの?」
「憂の買ってくるりんごが食べられなくなるの、困る」
「……冗談はやめて。本当のことを言って」
「うそじゃないよ。
他のことはなんとかなっても、りんごのことだけはダメそうなんだ。
だから困る。憂が結婚していなくなったら、困る」
「わたしに結婚勧めたのお姉ちゃんじゃない!」
「ごめん」
憂はケータイを取り出して慌てて電話をかけようとする。
「やめときなよ、あんな男」
「黙ってて!」
「わたしと憂の違いもわかんないような男。やめておきなよ」
憂がケータイを触る手を止めて、私の方を見た。
手がぷるぷると震えている。
-
「結構長いこと一緒にいたんだけど、ぜんっぜん気がつかなかったよ。
一体あの人、憂の何を見てたんだろうね。憂の何に惹かれたんだろうね。
同期なんでしょ?長年毎日同じ職場で一緒に働いてきたのにね」
「…ひどいよ。そんなのひどすぎるよ」
「わたしが言うだけじゃダメだと思ったんだ。憂が直接断らないとダメだって」
「だからって…やっていいことと悪いことがあるでしょっ!!」
「ごめん。結婚勧めたくせにこんなことして、悪いと思ってる。でも…」
「聞きたくない。いまさらそんなこと、聞きたくないよ」
「お願い聞いて」
「いや!」
憂は両手で耳を塞いで座り込んだ。
「憂がムギちゃんに言ってたでしょ。『覚悟』って。
できたよ、『覚悟』。
遅くなってごめん。こうなる前にちゃんと憂に言えなくてごめん」
わたしも腰を下ろして、憂の背中をさすった。
憂はふさぎ込んだまま、わたしの方を見ようともしない。
「こうなっちゃったらさ。行動を起こすのが遅ければ遅くなるほど大変なことになるって思って。だから、今日…」
「………せめて相談してほしかった」
「聞いてくれないと思った」
「…………………」
「ごめん。遅くなってホントごめん。わたしバカだからこんな風になるまで自分の本当の気持ちがわかんなかった。覚悟ができてなかった。
いまやっとわかった。和ちゃんのおかげかもしれない」
「…もうちょっと早くに言ってくれたらよかったのに」
「ごめんね」
ゆっくりと抱きしめる力を強めていく。
憂の身体の震えを落ち着かせるように。
「…もう結婚勧めるようなこと、言わない?」
「言わない」
「…ぜったい?」
「うん。ぜったい言わない」
「…ずっと、一緒にいてくれる?」
「いるよ。ずっと一緒にいる」
「…やくそくだよ。ずっと一緒にいるって…」
「うん。やくそくする」
「ほんとに…?………ほんとのほんと?」
「……ほんと。本当だよ。約束する。
憂がいてくれたら。憂がいてくれるだけで。それでいいの。
ほかにはなんにもいらない」
ようやく憂が顔をあげた。瞳は潤んで真っ赤になっている。
「………泣き虫」
「………バカ。お姉ちゃんのせいだよ」
「あ、でもひとつだけ、お願い。りんごは憂が買ってきてね。約束だよ」
「……うん」
「…寒いね。一緒にお風呂入ろうか?久しぶりに」
「………バカ」
「………エヘヘ」
秋の夜風が窓をガタガタと揺らした。
時計の針が、カチカチと静かに時間を刻んでいる。
わたしは手を伸ばして目の前の果実を掴むと、
力を入れてぎゅっと捻り、それをもぎ取った。
-
*
紅葉が本番を迎えたわたし達の街は、どこもかしこも観光客でごった返している。
今日は月に一度のお出かけの日。
賑わう街を歩くのは楽しいのだけれど、行きも帰りも電車は人でいっぱいで、それだけはちょっとご勘弁。
「つーかーれーたー…」バタンキュ
「お姉ちゃん、玄関で寝っ転がるのはやめてね。
ソファのところまでがんばろ」
「…ガッテンです」
のそのそと立ち上がり、重たい身体にむくんだ足を引きずって歩く。
ようやくソファにたどり着き、コート脱いで、ボフン、と寝っ転がる。
フードの部分に入り込んでいたのか、銀杏の葉がこぼれ落ちた。
「今日観た映画、面白かったね」
「澪さんが苦手そうな映画だったね…」
「原作全部買っちゃおっかなー…」
街はもうクリスマスの装いで、イルミネーションや巨大なツリーで華やかに彩られていた。
この季節には子供の頃も戻ったように、ウキウキした気持ちになる。
「もうすぐ、クリスマスだね」
「12月に入ったら、ツリー出そうね。今年は雪、降るかなぁ」
「あー!そうだプレゼント!考えなくちゃっ!」
「……お姉ちゃん。そういうのはわたしがいないところで言ってよ」
「…あ、そだね。ごめんごめん」テヘ
ふと、昔、我が家でクリスマスパーティーをしたことを思い出した。
あのときはまだ、あずにゃんはいなかったな、和ちゃんがプレゼント交換に海苔を持ってきたんだっけ。さわちゃんはいつの間にかウチに入り込んでて…憂は一発芸してくれたんだよね。りっちゃんもムギちゃんもたのしそうだったな。
「澪ちゃんは今でもサンタ服似合いそうだなぁー…」
「どうしたの?突然」
「ううん。なんとなく思い出しちゃっただけ。元気にしてるかなぁ、澪ちゃん」
「そうだね…元気だと、いいね」
あれからどうしているだろう。
いつかまた、むかしみたいに。みんなで騒げる日がやってくるといいな。
-
「あの…お姉ちゃん、ちょっといいかな?」
「どしたの憂?もじもじして?」
「本当はちゃんと当日に渡さなきゃいけないって思ってたんだけど…
今年はケンカしてたし、もういいかと思って買ってなくて…
だから昨日、仕事早く上がって…」
「えっえっ」
「これ…プレゼント。誕生日の。遅れてごめんね」
「ういぃー…ありがとぉ…。今年は貰えなかったからめちゃくちゃ落ち込んでたんだよぉー…」
「な、泣かないでよ。大げさだなぁお姉ちゃんは…」
「あ、開けてもいい??」
包装紙を丁寧に外していく。中に包まれていたのは、赤いベルトが可愛らしい腕時計だった。
りんごの家をモチーフにした、愛らしい時計。
「かわいい…」
「特別高価なものってわけじゃなくてごめんね。気に入ってくれると嬉しいんだけど…」
「ありがとぉういー!とってもうれしいよぉ!」
「そ、それでね。実はわたしも…」
憂がバックから取り出しのは、わたしにくれたものと色違いの腕時計だった。
「それって…」
「うん、お揃い。
お姉ちゃんとね…何かお揃いのものが欲しかったの」
「うい…」
わたしは思わずぎゅうっと憂を抱きしめた。
強く強くつよーく。
「いたいよお姉ちゃん…」
「あ、ごめんごめん」
「でも…喜んでくれてよかった」
わたしの腕時計と憂の腕時計。
同じ時計が、同じ時を刻む。
ソファからたち上がって、台所へ向かう。
冷蔵庫を開けると、りんごがひとつだけ転がっていた。
燃えるように赤い色をした、りんごだった。
わたしはその最後にひとつだけ残った果実を取り出す。
「あ、お姉ちゃん、それ、もう古くなってるかも」
「うん。でも大丈夫だよ、きっとおいしいよ」
耳元に近づけて、いつもするように、コンコン、と指で鳴らす。
耳の奥に、りんごの音が響く。
「ほら、いい音がする。憂の音だよ。だから大丈夫」
「…ホント、りんご好きだよね。お姉ちゃん」
「うん。だい好き」
「………わたしも」
それからがぶりと、果実を囓る。
「やっぱり、りんごは憂の音がするのでなきゃ、ね」
そう言ってわたしは、囓ってある部分をそのまま向けて、果実を憂に差し出した。
憂は何言わずに唇を寄せると、わたしの囓った上の部分から勢い良く、
果実にガブッと噛り付いた。
「どう?おいしいでしょ?」
「…うん。お姉ちゃんの味がする」
わたしはもう一度果実を口にした。
憂の囓った上から、がぶりと。
口の中いっぱいに、甘美な蜜が満ち渡っていく。
それは、憂の味だった。
了
-
睦まじい姉妹にさわちゃん化したムギ。
どういう話かと思ったら、内容のあるシリアスな展開。
文も唯の独白にセリフを加えて引き込まれる上手い文章。
続きが楽しみ。
-
↑の者です。
9まで読んでた時の感想なんで、すでに了だったんですね。
妙な感想になって失礼しました。
凄く上手い文章、重い内容なのに唯のふわふわした口調で中和されました。
終わり方がもやっとするし、ムギも心配だけど姉妹に幸あれ。
-
うわぁ続き欲しいけど終わりだよな…
脳内で補完するとしよう…
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