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紬「十年前の夏、風が強かった午後のこと」
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計量スプーンから茶葉が吹きこぼれた。
テーブルにはあまり散らばらなくてよかったけれど、
ちょっともったいないかな。
ティーポットにスプーンの残りを入れて
カバンからウエットティッシュを持ってこようと
冷たい風の吹き付ける方を向いたら、
ちょうど先生がまた脚を組み替えたところだった。
もう三度目だよ、さわ子先生。
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「あ、ごめんね。冷房もう弱くしていいわよ?」
三十分タイマーで点けたばかりのエアコンの下で
A4サイズのファイルを広げたまま、さわ子先生がこちらに向いた。
机に肘をついた方の手を自分の首もとに少しあおぐ手の甲が、
今日はとても大人っぽくみえる。 どきどきする。
いえ、
いいですよ、
きょう熱かったですもんね、
なんて言いながら戸棚の陰に避難させたティーポットの元へ戻る。
ああもう冷めちゃうよ、ちゃんとしなくちゃ。
机の角に腰を少しぶつけて、イスがかたんと鳴って、
そんなに急がなくていいのに、と先生が笑うから、
よけいにあつくなってしまう。
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「思いっきり冷やした部屋で紅茶を飲むって、考えてみるとものすごい贅沢よねえ」
先生が楽しそうにいう。
コタツでハーゲンダッツを食べるような感じですか、ときいたら、
だいぶ庶民になったわねー、とにやにやしてみせた。
机と机の距離が遠くて、きらい。
いま、あの人の半径30センチ以内にいれば、
あの傾けた肘があがって、
その指先がわたしの髪にふれたかもしれないのに、って思ってしまう。
エアコンはごうごう音を鳴らして、
ただでさえ紙のたばに遮られたあの人の小さな息の音までかき消すばかりで、
こっちの方には吹いてくれない。
ただ、部屋ごと冷たくなっていくだけ。
そうはいっても、さっきみたいに茶葉がかき乱されたら、
先生に気を使わせてしまうだろうけれど。
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「唯ちゃんたちが来たら扇風機に変えないとね」
「今日もまだ来ませんよ」
え、と書類から顔をあげる。
目が合う。
あの、
梓ちゃんと楽器屋さんに寄ってから来るみたいで。
七時間目くらいまでには、たぶん。
あわてて付け足したら、
ああそう、と先生も了解してみせた、
そんな風に見えた。
でも、わたしの声のぎこちなさはうまく直せない。
空気の振動が先生の方に伝って、こまらせてしまうのが、こわくなった。
何を気にしてるんだろう、
紅茶を入れなきゃ、
ってあわてそうになる腕をどうにか止める。
こんな気持ちでいれたら、きっとおいしくないんだから。
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ねえ、ムギちゃん、と先生が呼ぶ。
さっきと同じページを開いたまま。
「ムギちゃんって、将来のことはすっかり決めちゃってるの?」
「……ええと。大学から先は、まだ実感が……その」
「あっごめんね、違うのよ。
進路指導とかじゃなくって、こう、一般論として、ね?」
なにが一般論なのかな。
ちょっと居心地がわるくて、
先生はごまかすようにエアコンの風量と温度を変えた。
ぴっ、ぴっ、って。
ため息が落ちるようにして空調の音が静かになる。
窓の外からソフトボール部のかけ声が聞こえたりなんかして、
部屋の冷たさが染みるみたい。
「……わからないです。
人生のことは、誰にも分からないんじゃないでしょうか」
そんな重い話じゃなくてね、とほほえんで、先生はまた脚を組み替えた。
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「あのね、美術系の専門学校に行きたいって生徒がいるのよ、今。
でも、ご両親は大卒で無事に就職してほしいって考えていて」
「ちずるちゃんですか?」
そしたら、ノーコメント、守秘義務、なんていって
口にチャックのジェスチャーをしてみせた。
こういうところが子どもっぽくて、どうしていいか分からなくなる。
エアコン、もっと下げた方がいいのかも。
「そりゃあね、
私だってあなたたちぐらいの頃はなーんも考えてなかったわよ。
なんっっにもね」
「ふふ、そんなに強調しなくても」
私は運がよかったのかなあ、と先生がつぶやいてみせた。
細めた目が遠く感じて、
部屋の中がほとんど無風状態に思えて、わたしは動けなくなってしまう。
光の加減で表情を変える横顔が、急に大人らしく見えだして、
進路指導、
なんて言葉が頭をぐるぐる回りだす。
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「あの、お茶が入りました」
ああだめだ、たぶん今日のはおいしくない。
「ありがとう。……うん、やっぱり落ち着くわね」
先生はそんな風に言ってくれる。今度こそ半径30センチ以内の距離。
だけど先生は片手にティーカップ、
もう片方にクラス全員分の進路希望表や面談資料を抱えていて、
こちらに伸ばせる腕なんてなかった。
座ったら?なんて言ってくれるまで、一歩も動けなかった。
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カップの紅茶を半分ほど飲み干すころ、
外から聞こえた運動部のかけ声が止んで、エアコンの音もほとんど気にならなくなった。
さわ子先生のカップにはまだ三分の二ほど残っていて、
なんとなくペースを合わせるようにって遠ざけてみる。
でも手持ちぶさたに、またなんとなく口に運んでしまったり。
ときどきページをめくる音がさえずりみたいに聞こえるだけで、
時が止まってしまったみたいだった。
でもファイルのページ数はもう半分以上進んでいて、先生はもうすぐ読み終わってしまう。
りっちゃんたちは予備校どう、と先生が目を上げずに言った。
澪ちゃんも大変そうです、と答えると、
そうよねえ、と何かに走り書きしながらそっけなく返した。
「あれ。先生、澪ちゃんのこと知ってるんですか?」
「そりゃあそうよ。だって、ふつうはあんな赤本いらないじゃない」
向こうも合格実績を作るのに苦労するのよねぇ、とあきれた声が聞こえた。
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ああ、やっぱりさわ子先生だ。
みんなのこと、ちゃんと見てるんだ。
そう気づくと紅茶の熱がぽっと胸に灯ったみたいで、
でも、
ほんの少し冷たいとげが刺さるのを感じる。
決まってるよ、担任だものね。
先生は、先生だもの。
「ねえムギちゃん、外の風にする?」
「えっ? あの、わたし大丈夫ですよ」
急に話しかけられて、紅茶の熱がふわっと燃え上がった気がした。
なんだか変にどぎまぎして、おかしな風に見られてないか、ちょっとこわい。
先生は少し首をかしげてリモコンを置き直すと、
残っていた紅茶を一気に飲み干した。
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「ほら、
唯ちゃんたちそろそろ来るでしょう?
そろそろ自然の風に変えた方がいいかなって」
知らないうちにわたしが二の腕を守るように手を回していたせいで、
寒くて震えたんだと思ったみたい。ほんとに震えてたのかも。
さわ子先生が見てたんだから、きっとそうなんだ。
でも、さっき冷やしたばかりの部屋を
すぐ暑くしてしまうのが少しだけもったいなかった。
今だけは空気の流れまで止まったみたいなこの場所に居たかった。
冷え切った部屋で先生に紅茶をいただいてもらえるのも、
いまは世界でわたし一人だけ。……世界だなんて、あは。
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「やっぱり気になるのよね、ムギちゃんは」
じっ、とわたしを見る先生。
レンズの奥で見開いた目の黒いまつげと二重まぶたがきれい。
わたしの紅茶で濡れた唇、なにか話すたびに白い歯がのぞいて見える。
大人のキスって、歯の向こう側まで伸ばしてくっつきあうんだよね。
さわ子先生は大人だから、そういう時間もあったのかな。
そうしたら、先生はあのまぶたを閉じるのかな。
それともずっとこちらを見てるのかな。
わたしは……わたしはだめだよ、すぐ閉じちゃう。
今だって先生の目が見られない。
目を下にそらした首もと、
その奥のおっぱい、さわ子先生のはやわらかいのかな、
自分のをぎゅってしても分からなかったけど、
どうしよう、今日はとってもあつい、
先生はなにも言わない、
もぞもぞと動いてまた脚を組み替える、きれいな脚、
ストッキングのうすいベージュに透けて見える肌の色、
こんなこと考えちゃだめだ、
だめだだめだ、
昨日の夜もそう決めてたのに、
つむぎ、
だめ、
先生は先生なんだから、
「……ムギちゃん、お手洗い行ってきたら?」
「やっ、違いますっ!!」
なんてこというの、先生。
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なんだかすごく腹が立ちそうで唇に力がこもる。
わたし、今きっとひどいふくれっつらしてる。
経験でわかる、菫に笑われるときの顔してる。
ほら、先生だって笑ってる。
風は吹かないし熱はとまらないし、もういや。
先生も、わたしもきらいになりそう。
「見てて飽きないわねぇ」
「先生、書類は大丈夫なんですか?」
また嫌みな言い方。
もう、晩餐会で会社の方とお話するんじゃないんだから。
どうしてわたし、先生の前だとだめな子になっちゃうんだろう。
「でもね、」
ふいに顔を堅くして、さわ子先生がいう。
「私、ムギちゃんの将来が一番気になるのよ」
えっ、それってどういう……
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「だって、一番想像つかないもの。
すごい人と結婚しちゃうかもしれないし、新しい会社を作っちゃうかもしれない。
知らない国で放牧か何かをしてたり、」
「それ。楽しそうですね」
こんな声の冷たさや、ため息をものともせず、先生はいろんなわたしを語ってみせた。
アラビアの石油王がどうだとか、
なんなら自分で掘り進めてだとか、いっそ国ごと作っちゃったりして、なんて。
とても、とてもさっきまで
現実的すぎる進路を数十人分精査してきた人とは思えなくって、
そろそろつられてしまいそうになる。
でもまだ膨れていたかった。
すねていたかった。
子どもじみてるけど、そんなのお互い様だよ。
さわ子先生のばーか。
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よけいな意地を張って、
いつしか吐息ひとつもらさないように堪えていたら、先生がこう言った。
「でも結局、
私は十年や二十後にムギちゃんがそうやって笑っていたら、
どこで何してたっていいのよ」
「笑ってませんっ」
沈黙。
時間が止まる。
……少しして、どちらともなく笑いだした。
もうだめ、こらえきれなかった。
無意識に手を取り合って、机にしがみつくようにしてぷるぷるけらけら笑っちゃった。
ああもう、なんでこんなに楽しいのかな。
わたし、ほんとに怒ってたのに。
先生はわたしの手のひらから指をはずして、
それから指を数本、おいでおいでと誘うように動かした。
身体ごとさわ子先生の方に近づけた。
すると髪に手の重みが伝って、やっぱり目を閉じてしまう。
先生の指がわたしを撫でていて、
閉じたまぶたに染み込む真っ白な光とあいまって、もうとろけてしまいそうだった。
チャイムが鳴った。
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ぱっ、と手がはねのけられて、わたしの目も見開く。
虫の声も急にうるさく聞こえ出す。
時計を見れば六時間目終わりのチャイム。
夏期講習期間だから、午後の時間割なんて関係ないけれど。
そういえばわたし、
いま何をしてたっけ。
わあ……わあっ、うわあ……。
だめだ、今日のわたし全部がだめだ、
そらした薄目のはしっこで見えたさわ子先生、
横顔が髪に隠れてよく分からない、
落ち着こうちゃんとしようって残りのお茶を飲もうとしたけど
もう一滴も残ってなくてだからさっきまでのことも何も忘れられない、
たぶんきっと、
わたしきっと先生にきっと、わあ、うわあ……。
「……扇風機、つけてもいい?」 先生の声が聞こえた。
することができたわたしは飛びつくようにスイッチを入れる。
はい、どうぞ!
「そんなにお膳立てしなくたって」
笑われてしまった。
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先生の顔、さっきと変わらない。
遠くから見てもきれいで、
近くだとわたしをどぎまぎさせたりして、でも、……そうだ。
さわ子先生だって、わたしのこと、少しぐらい。
でなけりゃ、あのとき、あんな顔。
エアコンが知らないうちに止まってた。
先生はイスに逆向きに座って、
背もたれを抱えるようにして顔に扇風機の顔を受けて、だらしない顔をしている。
逆向きだから脚を組んだりもできない。
温度や湿度の上がっていく部屋のなかで、
さわ子先生が一瞬、
同い年の友達みたいにみえた。
この瞬間、ケータイで撮ったらおこるかな。
ううん、やっぱりいい。
写真に撮ったら、目に見えたこと以外は忘れてしまいそうだから。
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さわ子先生、窓を開けますね。
ぽかんと口を開けたままわたしの方を向いた。
日差しがまだまぶしくて、
わたしの影は先生の足元、スカートの手前まで伸びている。
首を振った扇風機は顔を向こうにしていて、先生の髪も風に揺れてはいない。
そうだ、
そろそろ梓ちゃんたちが来ちゃうんだった。
わたしは窓を思いっきり引いて開けた。
ちょうど吹き付けた強い風がこの部屋に流れ込んできて、
ソフトボール部のかけ声が今度こそはっきり聞こえた。
先生の髪はまだ揺れている。
先生の少しそらした目が自分より幼い子どもみたいに見えて、
その瞬間、
十年後のわたしたちの姿がまばゆく浮かび上がったとき、
時計の針がカチッと音を立てた。
「でも、先生は嫁入りしてないと思います」
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口をついて出た言葉だ。
どうして私はあんなこと言ったんだろう。
けれどもその予言は外れるはずがないと信じきっていた。
山中先生の表情は一瞬固まって、
それから誰かに似せた冗談だと思ったのか、
わざとらしく怒った声を出して切り上げようとした。
でも七時間目開始のチャイムが鳴り出して先生の言葉を途切れさせた。
冗談は終わらなかった。
だからまだ私は続けていられる。
おわり。
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梓「てのばし」と同じ人?
これも素晴らしいです。
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