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Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 第三章
◆p.rCH11eKY氏と長期間連絡が取れないため、代理でスレを立てさせていただきました。
【ルール】
・全二十一騎のサーヴァントによる殺し合いを行い、最後の一騎を選定します。
・非リレー企画にするつもりはないので、書きたいと思った方はトリップを付けて予約するか、ゲリラ投下で作品を投下してください。とても喜びます。とても。
・予約期限は一週間、任意で延長が更に一週間可能です。(前スレ>>679 より)
・予約解禁はこのルールを投下し終えると同時とします。
・マスターを失ったサーヴァントは、一定時間の経過後に消滅します。
・また、サーヴァントを失ったマスターも消滅します。こちらは約半日くらいの猶予があります。
・マスターが令呪を全て失っても、サーヴァントは消滅しません。
【状態表】
サーヴァントの場合
【クラス(真名)@出典】
[状態]
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:
1:
2:
[備考]
マスターの場合
【名前@出典】
[令呪]
[状態]
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:
1:
2:
[備考]
【時間表記】 ※開始時刻は午前とします
未明(0〜4)
早朝(4〜8)
午前(8〜12)
午後(12〜16)
夕方(16〜20)
夜(20〜24)
wiki:ttp://www8.atwiki.jp/kamakurad/pages/1.html
※地図の正式版をアップしてあります。
"
"
少し早いですが3スレ目を立ち上げました。
それと後編を投下します
「世界の嘘を暴いてみる?」
▼ ▼ ▼
【普遍なる少女】
「……ライダー」
「……私は、さ」
「よくよく考えてみても、よく分からない」
「私にとって、アンタはなに?」
「友達? 仲間? それとも相棒?」
「そういうふうな関係、だったのかな」
「そんなふうに、なれたのかな」
「考えようとすると混乱する。
だから、考えない」
「今まではそうしてきた。
これからも、多分、そうしていくつもり」
「……実はね」
「アンタが男だってこと。割と前から知ってたんだ」
「だってアンタ、男が廃るとか男の意地がとか、よく言ってたし」
「時間だけは有り余ってたから、伝説とか逸話とか調べる暇もあったし」
「だから、さ」
「アンタとの関係は、あんまり深く考えないようにする。
今までも、これからも」
「……うん。そのつもり」
◆
目が覚めると、そこは陽射しの強い校庭だった。
「……あれ?」
寝ぼけ眼に映るのは、明るい日の光に照らされたグラウンド。
さっぱり人気の見当たらない、よく整備された土が広がる校庭。
それを見下ろす外階段に座り込んで、ぼんやりと船を漕いでいた自分に、ヤヤは唐突に気が付いた。
「私、何してたんだっけ……」
今まで何か夢を見ていたかのような。
なんだかふわふわした、夢見心地のような気分。
夢から醒めたという自覚はあるのに、どうにも現実味のない、そんな感じ。
つまるところ、ヤヤは半分寝ぼけていた。
と、
「はぁ……はぁ……も、もう限界……」
「ちょ、ちょっと待って……」
なんとも情けない声が二人分、ヤヤの耳に届く。
出所を見遣ればそこには三人の人影。バテて呼吸も荒く倒れ込む二人と、それを見て「まさかここまでダメダメだとは」みたいな微妙な目をしたちっこいのが一人。
関谷なる。
西御門多美。
あとハナ。
三人とも、ヤヤのよく見知った顔だった。
「まさかこんなにヘロヘロとは……。
よさこいでスタミナついたと思ったんデスが」
「踊るのと走るのは別だよぉ……」
「わ、私も昔より体が鈍ったみたいで……」
聞きなれた声を聞いたおかげか、霞んでいた視界が徐々に焦点を取り戻す。
それにつれて、半覚醒の意識も少しずつ冴えていった。
"
"
ここは由比浜学園中学、つまりヤヤたちの通う中学校の校庭。
今日は運動部の活動が休みだったから、よさこい部で場所を借りていたのだ。
東中百貨店20周年祭のイベントに向けた練習……と言いたいが少し違う。
それは乙女にとって永遠の苦悩。すなわち───ただのダイエットだ。
「まあ、なんか燃費悪そうよね、アンタたち」
「ふぇ!?」
ガーン、などと擬音がつきそうな勢いでショックを受ける二人に、なんとも呑気なもんよねとため息を一つ。
果たしてそんなヤヤの気持ちを知ってか知らずか、二人は己の体をじっと見下ろす。
「確かに、私なんて食べたら食べた分だけだから……」
「つ、突っ込まないデスよ!」
ぽけっとした多美とその胸を凝視するハナ、二人は悲しいくらいに対照的な体型だった。
視線を移すと、座り込んだなるが、羨ましそうな表情でこちらを見ていた。
「でも、ヤヤちゃんって本当にスタイル良いよね……羨ましいなぁ」
「わ、私がどんだけ苦労してると……!」
不意打ちだった。
意図せず顔を赤くして、ごにょごにょと呟く。
このままじゃいけない、と思って咳払いをひとつ。強引に話を切り替える。
「ま、まあ、本気で痩せる気なら筋力トレーニングとか食事制限とかもしたら?」
なんてしたり顔で言ってみたりする。が、当の二人は何やら不満顔だった。
はて、無理やりな話題転換だが、別に間違ったことを言ったわけではない。至極真っ当なアドバイスだったはずなのだけど。
「う、うー……」
「なに?」
「で、でもあんまり筋肉とかは……」
「やっぱり女の子だし、ムキムキよりふかふかのほうが絶対かわいいもん……」
指をもじもじさせて、二人揃って。
「それに甘いものは外せないよねー!」
無駄にハモりおる。
よし分かった、こいつらに慈悲はいらない。
「いいから校庭をもう五周! あと腕立て腹筋30回5セット! 終わるまで帰さないからね!」
「え、ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
とまあそんな感じで。
気が付いたら辺りは夕焼けに包まれ、赤い西日がグラウンドの地面を赤茶けた色に照らしていた。
目の前には今度こそ疲労困憊といった風情で寝そべるなるとたみ。一方まだまだ余裕といった様子のハナがスポーツドリンクを差し入れしている。
まあ二人にしては頑張ったわよね、なんて思いながら、ヤヤは仕方ないなぁとでも言いたげに笑った。
「ねえみんな、これ聞いて」
そして、二人が頑張っている間にも、ヤヤは別にさぼって見ていただけではないのだ。
「わあー……」
PCに繋がれたスピーカーから奏でられる旋律に、三人は揃って驚きの声を上げていた。
「私の作った曲、こんなふうにアレンジしてくれるなんて……」
「EXCELLENTデス、ヤヤさん!」
「ヤヤちゃんすごい……!」
忌憚ない三人の賞賛に、ヤヤは気恥ずかしさと嬉しさと誇らしさが混じった顔で返す。
「実は何度か音楽室を借りて、シンセに繋いで打ち込みしてたの。
……ドラムは私が叩いた奴だけど、せっかくバンド頑張ってきたんだし、何か役に立てたらいいなって」
そこまで言って、とうとう気恥ずかしさが他の感情を上回ってか、照れ笑いを隠しながら徐々に声が控えめなものになっていく。
今再生してる曲は、自分たちよさこい部が踊るための曲だ。たみが作曲し、ヤヤが作詞して演奏してみた。まだまだ未完成ではあるけれど、ヤヤたちが作ったこの世にふたつとないオリジナルの曲だった。
と、そこまで言って、ヤヤは目の前に立つハナの体が震えていることに気付いた。
次瞬。
「ヤ……」
「え?」
「ヤヤさああああああああん!!」
「へ? ひゃあ! こ、こんなの大したことじゃないから! あーもう離れなさいってぇ!」
ハナがいきなり飛び付いてくる。
滅茶苦茶驚いて、咄嗟に押しのけてしまう。
それでもこりずに抱きついてきて、ああもう!と言いながらもまんざらでもない表情のヤヤ。そんな二人を見つめて、なるとたみは微笑ましそうに笑った。
「みなさん! せっかくヤヤさんが曲を作ってくれたんですから、振りももうちょっとブラッシュアップしませんか?」
ハナの提案に、反対するのは誰もいなかった。
その後、四人は下校時刻になるまで振りつけの練習を続けた。
笑顔で踊るヤヤの手には、あの日一度は拒絶してしまったはずの、なるとの友情の証である真っ白な鳴子が握られていた。
困って笑ってはしゃいで、そんな彼女らには眩しいばかりの笑顔があった。
そんな当たり前の、いつも通りの楽しい日常に、なんでかヤヤは少しだけ泣きたい気分になった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
◆
街灯の照らす夜道を、ヤヤはひとりで歩いていた。
ここ何日か続けていた振りつけの練習の帰りだ。既に日は沈み、青い夕闇が支配する鎌倉の小道。古びた石段や紫陽花の咲く路地は、見慣れたものとはいえ幻想的な雰囲気があった。
ヤヤは、心地よい疲労と振りつけが様になってきた充足感とで満たされていた。その証拠に道を往く彼女は楽しげな表情で、機嫌よく鼻歌なんかも歌っている。
それは本当だった。今、ヤヤは満足した毎日を過ごしている。
けれど同時に、何か忘れているような気がする。
特にこれといった根拠があるわけではない。けれど、心の隅に引っ掛かるというか、普通に生活している時何かの拍子に違和感を覚えてしまうというか。
言い知れない物悲しさや、寂しさに襲われる。
そんな一瞬が、日に何度か存在するのだ。
「なんなんだろ」
考えると頭が痛む。それでも思考を過るこの感慨は、解き明かさねば晴れない寂寥感を覚えさせる。
まるで狐に化かされたみたいな気分だ、と思った。そういえば前にもこんなのあったな、なんてふと思う。
そう、あれは確か、まだなるたちと仲直りしていなかったくらいの時だ。
曰く、早朝の空を半鳥半馬の生物に騎乗して駆け抜ける、天使のような美少女がいた。
曰く、切り落としへと続くハイキングコースで、甲冑の鎧武者と天女のような装束を纏った女性が双方ともに血みどろで相対していた。
曰く、町のそこかしこに、怪しげな儀式を執り行ったような魔法陣が残されているのを、学園の子が何人も見た。
いやいや鎌倉ってどんな心霊スポットよ、とかちょっと笑ったりもしたっけ。
結局のところ、一過性のホラーブームはすぐに去って、今はそんな噂はまるっきり聞こえない。ミーハーなんだから、とも思ったりする。
でもまあ、私も他人のことそんなに笑えない。
この奇妙な違和感、邪推するとそういう心霊系っぽくもあるし。
幽霊とかそういうのは弱った心が見せる気のせいだって言うけど。
そういう意味で言えば、今の私も心が弱ってるのかなー、なんて。
そんなことを考えながら、路地の角を曲がった。
その瞬間だった。
「世界の嘘を暴いてみる?」
声が───
声が耳に届くのと同時に、姿が。
赤い頭巾をかぶった少女。
道の向こうの街灯の下、笑みを浮かべて立っている。
ヤヤには見覚えのない少女だった。
まだ幼い、あどけない表情の異邦人の子。
まだ幼い、可愛らしいとさえ呼べる容貌。
気配の一切がそこにはなかった。
少なくとも、彼女が、姿を現すまでは。
けれど───
少女の姿はそこに在った。
気配、息遣いの一切を知覚させずに。
「───え?」
驚き固まるヤヤに、少女は尚も笑いかける。
赤い頭巾をかぶった子。栗色の髪をした、恐らくは10にも満たない歳の子。
見た目と所作だけを見れば赤ずきんなのに、不気味な狼であるかのように錯覚させる何かがあった。
「うそ、って……え?」
言葉が出ない。
思考が働かない。
硬直するヤヤに、少女はただ笑いかける。
ただ───
笑いかけるだけで───
「そうね。生きていくには嘘が必要ですもの」
笑う。
笑う。
少女の笑みは崩れることもなく。
「こんばんは。そしてごきげんよう、お姉ちゃん。
わたしはトト。あなたのお名前は?」
「わ、私は……」
得体のしれぬ気配に気圧されて、けれどヤヤはまともに言葉が紡げるようになったのを自覚する。
ごくり、と乾いた喉が唾を嚥下して。掠れながらもヤヤは言葉を返す。
「私は、ヤヤ。笹目ヤヤ」
「そう。ねえヤヤお姉ちゃん、あなたは邯鄲の夢を信じる?」
何を───
何を言っているのか。分からない。この少女は何を伝えたい?
いや、それとも、何かを聞きたい?
「《邯鄲の夢》だよ」
薄く開いた少女の口の、虚ろな虚ろな黒の向こうから、笑いの音と共に吐きだされる。
それは言葉の体を取ってはいても、あまりに無機的な音だった。動きのない、人形の声だった。
「お姉ちゃんが今見ているのが夢なのか。
それとも今までの生涯が夢なのか。
それは人の身においては知り得ないことなの」
「……」
空気が張りつめていた。
酷い違和感だった。今まで普通に呼吸していた空気が、今は何かおかしい。まるで地球の空気じゃなくなったかのよう。
大気そのものに冷たい恐怖が浸透し、異様な夜気を構成していた。総毛だった体毛が、過敏に夜気を感知して恐怖を倍加する。
もはや汗すら出ない。
背筋が痛いほど硬直し、体が動かない。
顎の奥がかたかたと振動する。
少女と話しているうちに、いつの間にか、この夜はヤヤの知らないものと成り果てていた。
「夢は覚めてしまえばその内容を忘れてしまう。
寂しいことだけど、それが人間ですもの。仕方のないことよね」
くすり。
その小さな笑みだけが、夜気の中に反響する。
「例えば、失われた記憶のように」
心を、冷たい手で鷲掴みにされたようだった。
か細い声。
綺麗だが、その美しさも恐怖を煽るばかりで酷く寒々しい。
「記憶……?」
ヤヤは、唐突に思い至る。
「それって……」
初めは自分のことだと思っていた。
「それって、もしかして……」
世界の嘘を暴くという言葉。
知らない記憶、忘れてしまった何か。
それは……
「私じゃない"誰か"が、そこにいたの……?」
忘れているというもの。
それはものではなく、"誰か"である可能性。
ヤヤ以外に、誰かがいたという可能性。
少女は、少女の姿をした何かは、静かに昏く、嗤った。
───忘れてなんかいないよ
ただ、あなたが知らないだけ
最初から知らなかっただけ
だったら、憶えてるわけないでしょう?
知らないもの、覚えてるわけ───
「やめて!」
呪文めいた微かな声に、ヤヤは堪らず叫びを上げた。
くすくすと、"何か"はそれを嘲笑う。
少女は微笑んでいた。
少女は歓喜していた。
一体何に。ああ、ヤヤの発した言葉にか。
気配そのものは人だった。
だが、人ではあり得なかった。
人のカタチをした何かが、ヤヤを見つめて笑っている。
半分になった異形の貌が、月の向こうで嗤っている───!
───我らは朔の夜の夢
遥か昔からこの世界に蔓延る
畏怖の念を喚起するもの
夜は闇に等しく
闇は暗に等しく
暗で見る夢は、あなたに等しい───
「やめて、やめてよ!」
ヤヤが叫ぶ。恐怖とも、怒りとも取れない叫び。
震えていた。抱きかかえる自分の体の震えが伝わる。いや、あるいは震えているのは心か?
恐怖が五感を過敏にしていた。
膨大な体感覚が体中に満ち、最早何もかも分からなくなっていた。
ただ、ここは寒かった。
───哀れでかわいい盲目の生贄
でも、もう夢はおしまいよ
だって今は現実の中
夜のとばりは落ちきって
それでもあなたが望むのならば───
がちがち、がちがち。
歯の鳴る音が、頭蓋の中に響く。
「訳の分からないこと言わないで! 私は……」
震えながら叫ぶ。怯え、怒り、恐怖、困惑。
それらをないまぜにしながらも、ヤヤは振り絞るように。
「私は、そんなの望まない! アンタが言う全部、知らないし知りたくもない!
私は、今、ここにいるんだからぁ!」
それを聞いて。
少女は、やはり笑うだけで。
───そう、だったら……
───喜べ■■。お前の願いは……
少女が、ふっ、と顔を上げ。
ぷつり、
と、街灯の明かりが消えた。
暗黒。
ヤヤの意識が、暗闇の底に落ちた。
◆
目が覚めると、そこは暗い通学路だった。
「……あれ?」
一瞬、意識を失っていたのだろうか。なんだか視界がぼやけ、頭が重い。
「うーん、寝不足ってわけでもないんだけどなぁ」
不思議そうに呟き、とりあえず歩みを再開する。
でもまあ、よさこいで色々疲れているのかもしれない。
一応運動はしてるしバンドで結構体力もつけたけど、ダンスで使う体力はまた別のものかもしれないし。
とりあえずゆっくりお風呂に入って、今日は早めに寝ようかな、なんて。
「だって明日も……みんな一緒に、だもんね」
そんなことを考えながら、少女は家路につく。
先ほどの悪夢も、些細な違和感も、既に彼女の中から喪われていた。
◆
《喜べ英雄。お前の願いは確かに果たされた》
《笹目ヤヤは只人と同じくして、当たり前に生き、当たり前に死ぬだろう。
彼女は最早何も思い出しはしまい。痴れた音色に包まれた阿片窟での凄惨な記憶も、そしてお前のことすらも》
歩き行くヤヤの後ろ姿を見つめて。
少女がそこに立っていた。赤い頭巾をかぶった少女。街灯の光、その少しだけ外の闇。そんな位置に立つ少女は、上からの明かりに照らされて静かに笑っている。
少女は微笑んでいた。
少女は歓喜していた。
一体何に。ああ、ヤヤの発した答えにか。
ただの少女であるように佇んで。
気配も在り、息遣いも在る赤ずきんの少女。
見る者が見れば、容易に分かっただろう。
少女は、およそ人の身ならざるものだ。
肌の下には血潮を感じる。人だ。
息遣いには肉体を感じる。人だ。
よもや、夢幻や影の類ではないはずのもの。
だが正しく人ではない。
見た目通りのものでは。
《世界の嘘を暴くことはない。彼女は既に舞台から退場した。
故に、彼女の物語はもう終わり。誰にも語られることはなく、誰にも観測されることもなく》
少女は笑う。ヤヤの後ろ姿から目を外して。
《人の世はあまりに儚く移り行く。一切は空》
《わたしも、あなたたちも。存在しないのよ》
そして───
赤ずきんの少女は、もう、どこにもいなかった。
ひとを食らう狼である少女は消えていく。
異境で神と讃えられる少女は消えていく。
まるで、初めからいなかったように。
消えていく。
消えていく。
やがて、路地に残るは無機的な灯りと静寂のみ。
ああ。それと。
黒猫が一匹だけ、足元にいただろうか。
それだけのことだった。
それが例えどんなに不可思議なことであっても。どれだけ重大な意味を孕んでいたことであっても。
それはただひたすらに、それだけのことだった。
▼ ▼ ▼
【黒衣の男】
「聞こえているか。あるいは、見ているか」
「私は今、アティ・クストスの右目を通じ、虚空黄金瞳を介してお前に語りかけている」
「第一がここに在る以上、これを見ているのは第二か第三か。ともあれ、顕象された事実を嬉しく思う」
「端的に言う。この歴史的間隙、すなわち聖杯戦争と呼ばれる魔術儀式において降誕する"聖杯"こそが、お前たちの追ってきたものだ」
「立ち入れずとも心配はいらない。何故なら」
「私たちが今より、この世界そのものを破壊する」
◆
サーヴァントとは、人々の信仰によって形作られた現身であり、厳密には当人ではない。
当然の話だ。死者蘇生の奇蹟がこの世に存在しない以上、既に死した英霊はどう足掻いてもコピーでしかなく、人理から生まれ落ちた影にすぎない。
だが、それを指して偽物と呼ぶのは果たして適当であるのか。
例えば今この場にいるアーチャー・ストラウスを指して、お前はローズレッド・ストラウスなどではないと言う者がいれば、それは度を越した愚か者だろう。
彼は確かに亡霊たるサーヴァントではあるが、同時に確かにローズレッド・ストラウスという個人なのだ。
例え始まりが何であろうとも。目覚め、己を認識した瞬間に、その者は唯一の独立性を獲得する。
それを指して偽物と嘲笑できる者など、この世のどこにも存在しない。
同じように。
あの"笹目ヤヤ"を「お前は笹目ヤヤではない」などと言える者もまた、この世のどこにも居はしない。
「そう、どこにも存在しないのだ」
腕の中で、アティが目を覚ます。焦点の合ってない瞳を、ゆっくりとこちらへ向ける。
「アーチャー……あたし、は……」
「すまないが」
彼女の額を、とん、と軽く押す。
それだけで、アティの意識は霧が如き夢幻の中に落ちた。
今の彼女にはもう、ストラウスの姿など映ってはいまい。
彼の背後に映る、煌々とした満月の光も。
視界の端で去りゆく、見覚えのない無関係な中学生くらいの少女の姿も。
「最早、体裁を気にしていられる段ではなくなってしまった。しかし……
それでも私は、君には君だけの願いの果てへと至って欲しいと、そう祈っている」
「あ……」
「行くがいい。アティ・クストスの本懐は、かの異形都市を発つ白猫こそが果たすだろうけど。
アティ・クストスの名を持つ君の本懐は、君自身こそが果たすべきなのだから」
そして、ストラウスの腕から降り、アティはふらふらと小道の向こうへと歩き去っていく。
空に蠢く星屑たちは、その姿に見向きもしない。極めて強力な暗示迷彩だ。例えサーヴァントであろうとも、高位の術式看破能力を持たねば認識できまい。
「アストルフォ。お前の願いは確かに果たした。私にできたのはここまでだ。そして」
彼方を見遣る。
激発する膨大な魔力が、ここからでも見える。
都合三つ、最低でもそれだけの数の暴威が、今この瞬間にも解き放たれようとしている。
それを前に、ストラウスは。
「次はお前の番だ、英雄王。私はお前との盟約を果たし、そしてお前もまた───」
瞬間。
ストラウスの総身は消え失せ、そこには静寂だけが残された。
そこに誰かがいた痕跡は、そこで誰かが戦った痕跡は。
今や何一つ、ありはしないのだった。
【笹目ヤヤ@ハナヤマタ 帰還?】
『C-3/鎌倉市街地跡/一日目・禍時』
【アティ・クストス@赫炎のインガノック- what a beautiful people -】
[令呪] 三画
[状態] 正体不明の記憶(進度:小)、忘我、認識阻害、誘導暗示
[装備] なし
[道具] なし
[所持金] アーチャーにより纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:抱く願いはある。けれどそれを聖杯に望む気はない。
0:───行くべき場所へ行く。
1:自分にできることをしたい。
[備考]
鎌倉市街の報道をいくらか知りました。
ライダー(アストルフォ)陣営と同盟を結びました。
アーチャー(ストラウス)の持ち込んだ資料の一部に目を通しました。それに伴い思い出せない記憶が脳裏に浮かびつつあります。が、そのままでは完全に思い出すのは困難を極めるでしょう。
認識阻害の術式をかけられています。真実暴露に相当する能力がない限り彼女を如何なる手段でも認識することはできません。
ヤヤとアストルフォの脱落を知りません。
【アーチャー(ローズレッド・ストラウス)@ヴァンパイア十字界】
[状態] 魔力消費(小)
[装備] 魔力で造られた黒剣
[道具] なし
[所持金] 纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:マスターを守護し、導く。
0:───遂にこの時が来たか。
1:最善の道を歩む。
[備考]
鎌倉市中央図書館の書庫にあった資料(主に歴史関連)を大凡把握しました。
鎌倉市街の電子通信網を支配する何者かの存在に気付きました。
如月の情報を得ました。
笹目ヤヤ&ライダー(アストルフォ)と同盟を結びました。
廃校の校庭にある死体(直樹美紀)を確認しました。
B-1,D-1,D-3で行われた破壊行為を認識しました。
『幸福』を確認しました。
廃校の資料室に安置されていた資料を紐解きました。
確認済みのサーヴァント:
ランサー(No.101 S・H・Ark Knight)、アーチャー(東郷美森)
真名を把握したサーヴァント:
アーチャー(エレオノーレ)、ライダー(マキナ)、ライダー(アストルフォ)、アサシン(スカルマン)、バーサーカー(シュライバー)、ランサー(レミリア)
▼ ▼ ▼
【星を宿す少女】
……ああ。
この目に見えます。今も。
暗き夜空の彼方にあって、輝くもの。
見えます。わたしにも。
例え盲いた両目であったとしても。今は。
夜空に輝くもの。瞬くもの。
それは、星々。
人々が拓く物語と同じく、無数に。
世に充ちて在るもの。
ならば、ならば。
そこから、今はひとつを紡ぎましょう。
それは少女。
プレアデスの星々を渡るもの。
アルデバランの傍らにあって、
今もずっと見つめ続けている人。
名は、すばる。
すばる。
すばる。
その胸に可能性の結晶を宿す少女。
ようこそここへ。
物語の狭間。
時の狭間。
星々と太陽の園へ。
ここは空。
ここは海。
異邦の偉大な碩学さまは言いました。
すべてのひとの奥底に、
揺蕩う無意識の深淵を。
さあ、わたしは紡ぎましょう。
あなたの想うままに。
あなたの動くままに。
輝きを。
煌めきを。
あなたの生きる物語を。
聞かせてください。
あなたのことば。
聞かせてください。
あなたが、どこかへ刻む想いを───
「……わたしは」
「わたしの想いは……」
◆
夜の街を駆け抜けるその少女に、およそ余裕などというものは存在しなかった。
「しくじった……私は、こんなところで……!」
外布を必死に操作し街路を駆ける小さな影。少女───東郷美森があの戦場を生存できた理由は、単にその幸運の発露という他なかった。
ヒポグリフの次元跳躍、自分に向かってくるそれを、美森は己が最大の魔力を持つ巨大物を盾とすることで何とかその場を逃れることができた。
すなわち、満開の力の源である巨大浮遊砲台を犠牲にすることで。
自分への敵意を感じ取った瞬間、美森は砲台の上から飛び降りた。次瞬、激突する衝撃が砲台を微塵に破壊し、大量の魔力をまき散らして爆散したのだ。
結果、今の美森は身一つで街を駆ける羽目になっている。
命は拾えた。だが代償に満開が解除されてしまった。
kろえでは、我が願いを叶える道程が更に厳しいものになってしまう。
とんでもない不覚である。けれど。
「それでも、私は諦めない……!」
それでも執着する一念がある。既にどうしようもなく諦めているはずの彼女は、そんな自分を認めようともせず、できもしない諦観の打破を謳って標的を探すのだ。
殺すべき相手を、ビルの合間に落ちていった二人を。
探すのだ。
◆
路地裏に倒れる少女。
大きな杖を片手に握って、倒れてもなお手放すことなく。
地面に落ちて弾かれて、気を失った少女。
そんなすばるのすぐ横に、呆然と座り込むのは結城友奈と呼ばれる少女だった。
結城友奈と呼ばれていた。
けれど、それは果たして本当だったのだろうか。
本来友奈では決してあり得ぬ所業を為してしまったこの少女は、果たして。
勇者と呼ばれるに相応しい英霊であるのか。
それは分からない。けれど。
確かなことがひとつだけ。
「私、は……」
今まで一度も動かなかったはずの口。
それが微かに動き、何事かを呟く。
それは、目の前で倒れる仮初の主に何かを想ったのか。
それとも、今もなお近づいてくる"何者か"を感じたせいか。
今はまだ分からない。
けれど邂逅の時は、確かに刻一刻と迫っているのだった。
▼ ▼ ▼
【喪失者】
「父を返せと慟哭する女の子の声が聞こえる」
「母を返せと石を握る男の子の声が聞こえる」
「我が子を返せと亡骸に縋りつく男女の声が聞こえる」
「友を返せと血だまりで叫ぶ誰かの声が聞こえる」
「恋人を返せと、屍食鬼に群がられながらも轟く怨嗟の声が聞こえる」
「……全部」
「……全部、私のせい」
「私がマスターを止めなかったから。
私が何もすることができなかったから」
「だから、私は」
「私は、全てを失っ
………。
………。
………。
「───」
「心よりの想い。そして、願い」
「それを語る資格が、お前にあるとでも思ったか」
「結城友奈。愚鈍で無価値な肉人形め」
「何をも為せない【喪失者】め。お前の祈りは誰にも届かない」
『C-3/鎌倉市街地跡/一日目・禍時』
【アーチャー(東郷美森[オルタ])@結城友奈は勇者である】
[状態] 《奪われた者》、単独行動、精神汚染、全身にダメージ、魔力消費(中)、満開解除、ステータス大幅低下
[装備] シロガネ、刑部狸の短銃、不知火の拳銃、《安らかなる死の吐息》
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:皆殺し
0:追撃を避けるため退避、尚且つ撃墜した参加者の元へ行き確実に息の根を止める。
1:聖杯の力で世界を破壊し、二度と悲劇が繰り返さないようにする。
2:バーテックスの侵攻を以て鎌倉市を滅ぼす。
[備考]
浮遊砲台を損失。
すばる、ロストマン(結城友奈)の姿を判別できていません。あくまでそこに参加者がいたことしか分かりません。
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 深い悲しみ、疲労(大)、昏倒
[装備] ドライブシャフト
[道具] 折り紙の星
[所持金] 子どものお小遣い程度。
[思考・状況]
基本行動方針: 聖杯戦争から脱出し、みんなと“彼”のところへ帰る……そのつもりだった。
0:……
1:生きることを諦めない。
[備考]
C-2/廃校の校庭で起こった戦闘をほとんど確認できていません。
D-2/廃植物園の存在を確認しました。
ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
ロストマン(結城友奈)と再契約しました。
【ロストマン(結城友奈)@結城友奈は勇者である】
[状態]魔力消費(超々極大・枯渇寸前)、疲労(極大)、精神疲労(超々極大)、精神崩壊寸前、呆然自失、神性消失、霊基変動。
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:……。
1:私は……。
[備考]
神性消失に伴いサーヴァントとしての戦闘力の一切を失い、また霊基が変動しました。
クラススキル、固有スキル、宝具を消失した代わりに「無力の殻:A」のスキルを取得しました。現在サーヴァントとしての気配を発していません。現在のステータスは以下の通りです。
筋力:E(常人並み) 耐久:E(常人並み) 敏捷:E(常人並み) 魔力:- 幸運:- 宝具:-
すばると再契約しました。
投下を終了します
イリヤ、ギル、ドフラミンゴ、針目、ザミエル、ストラウス予約します
投下します
幼い日の記憶。
それは今や遠く、手の届かない場所へと落ちていった想いの欠片。
幼かったあの日、私は何も知らなかった。
無知だからこそ、幸せな日々を謳歌できた。
自分という存在が何であったのか。
父と呼び慕っていた男が誰であったのか。
それさえ知らずにいた愚かな子供は、だからこそ醜い真実を見ずにすんでいたのだ。
雪の降る白亜の森の奥、永遠を求めた一族の名を冠した城の中で。
告げられたのは父の裏切りと、母の死だった。
何もかも失いひとりで生きることを余儀なくされ、それでも大丈夫と私は私を騙し続けた。
その果てに知った真実は、アインツベルンの抱える闇そのもの。
役目役目と押し付けられて、みんなバカみたいにひとつへ向かって動き続けた。
千年間も飽きもせず、人間的な感情など何も持たずに、定められた製造目的だけを糧として。
ああ、なんて無価値な人形たち。
結局のところ、私たちには最初から、「自分」なんてものはなかったのだ。
───だから。
───だから、私は。
………。
……。
…。
────────────。
「邯鄲の枕というものがある」
またしても突然のことだった。
金髪の男と銀髪の少女。夜半に仁王立ちて、その周囲に散らばるは斬滅された星屑たちの亡骸か。
いきなり語り出した男は、傍にいる聴衆のことなど微塵も気にすることなく、自分勝手に話を続けた。
「元は唐代の故事でな。趙の時代に盧生という名の小僧が趙の都である邯鄲へと赴き、老翁の道士と出会い己が身の不平を語るというものだ。
道士より願望成就の枕を受け取った盧生は、それまでの農奴の生など嘘であるかのように立身出世しこの世の栄華を極め、されどある時は冤罪で投獄されあるいは己が不明を恥じて自害しようとし、艱難辛苦の果てに国王として世に君臨し寿命によって死んだという」
「知ってるわ。でもそれって夢だったのよね」
イリヤの言葉に、彼は微かに含み笑った。話が早いとでも言いたそうな笑いだった。
「その通りだ。己が死に目を閉じた盧生が次の瞬間目にしたのは、枕を手渡した道士の姿。つまり彼奴が辿った栄枯盛衰の人生とは束の間の夢であり、現実には僅かな時間も経っていなかったというわけだな。
故事において、盧生は人生の無常と真理を悟り、我欲を捨て帰郷したという。何とも諦めが早く、往生際の良い奴ではあるが……」
そこで彼は、ふと何かを考え込むようにして。
「光栄に思え、王の問いに答えることを赦す。
貴様、死にたくないと願ったことはあるか」
突然、そんなことを問いかけられた。
有無を言わさぬ口調だった。イリヤは物を見ることができないが、声の主はさぞや面白味のない表情をしてるんだろうなと思った。
「あるわ。一回だけ」
「ほう?」
嘘ではない。イリヤは確かに一度だけ、死にたくないと願ったことがある。
それはいつかの冬の日。暖かなバーサーカーの手を離れ、寒さに身を打ち震わせたあの瞬間。
自分が、この目から光を失くしたあの時。
「ならば、生きたいと願ったことは?」
どうなのだろう。
よく分からない。だって私たちは、「生きる」ことなんて誰もしたことがなかったから。
ただそこに在って、最初から決められたことだけをする人形。
アインツベルンはみんなそういうもので、生きることを望むなどアハト翁ですらなかったのだろうけど。
「あるわ。多分、ずっと」
それでも解釈するならば、私はずっと生きたかったのだろう。
切嗣のような、人間らしい矛盾に満ちた「生きる理由」というものを、多分私はずっと欲していたのだと思う。
「なるほどな。如何にアインツベルンの傑作と言えど、所詮は造花……などと見くびっていたのは我のほうであったか。
存外に鋭いではないか。いや無垢な造り物であるからこそか? いや僥倖僥倖、我は実に良い拾い物をしたらしい」
「馬鹿にしてる?」
「そう怒るな。我としては珍しく純粋な褒め言葉なのだぞ?
市井の凡俗共は元より、世を渡り歩く賢人でさえ真に両者の違いを知る者は少ない。その点貴様は中々のものよ。
言葉ではなくその心身で思い知ったか。なるほど道理よな、心胆を寒からしめる経験は万の書物なぞ歯牙にもかけぬ。
誇れ、貴様は確かに世の真理を垣間見たのだ」
くくく、と彼は笑う。それは哄笑にも近い、諧謔の笑いだった。
それは何かを嘲笑った笑みであるのか。
分からない。見たいものを見ることもできず、信じたいものすらをも失ったイリヤには。
「だが、なればこそ不運よな。間が悪いと言い換えてもいい。
此度の催し、己が存在意義を賭け命を燃やし尽くす阿呆であれば、幾ばくかの救いを得ることもあろうが。
しかし貴様はその先を見据えている。死を忌避するのではなく生をこそ求める渇望は、常ならば見応えもあるが此処では哀れなだけよ」
「煙に巻く言い方、そろそろいい加減にしてくれない?」
「ならば言い換えようか。つまるところ、我らは囲われているのだ」
彼が答え、金色の外套を打ち鳴らす。
「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれず死んでいく。
雛は貴様、卵は世界だ。
世界の殻を破らねば、貴様は生まれず死んでいく。
故に我はこう言うのだ、世界の殻を破壊せよと」
「……それ、あなたはどうなの?」
「たわけ。我は既に死した者、今ここに在る我は現世界に投射された影に過ぎぬと弁えよ」
嘆息して続ける。
「だが貴様の言も理解できる。我は所詮骸ではあるが、貴様らと同じく殻へと閉じ込められた身であるために。
全く、第四にも呆れたものよ。願い持つ個人であれば生死も時間軸すらも無視して取り込むか。その普遍性の高さこそが奴の盧生たる証なのだろうが、その内腑はやはり醜悪の極みよ」
イリヤは首を傾げ、
彼はただ笑うのみ。
「やっぱりあなたの話は意味が分からないわ」
「はは、拗ねるな拗ねるな。貴様の頭が不出来なのではない、分からぬよう我が意図的に言っているのだ。
これは己で気付かねば意味がない、どころか他人からの教唆では害にしかならぬもの故な」
「初めて聞いたんだけど」
「初めて言ったのだから当然だな」
呆れた、とばかりに顔を背ける。彼は変わらず笑っていたが、それは諧謔とかではなく単純に面白がってるだけだと分かった。
「でも、卵の殻だっけ。さっきの例え」
「然り」
「それってもしかして、"アレ"のこと?」
真っ直ぐに空を指差すイリヤ、それを追って上を見上げる彼。
その遥か上空では、幾つもの白い線が空を覆い、まるで巨大な牢獄を形成しているかのようだった。
「いや、あれは違う」
「そう?」
「うむ。都市を囲むという意味では間違ってはいないが、所詮は鳥かご。あやとりの域を出るものではない」
呆れたように息を吐き、一言。
「とはいえ愉快な見世物であるのは確かだな。故に、物が見えぬのであれば肌に焼き付けておけよイリヤスフィール」
その笑みは、果たして───
▼ ▼ ▼
───その時、誰もが夜空を見上げた。
───聖杯戦争に集う者すべてが、遥か上空にて発生した異常を目撃した。
ただ真っ直ぐに空へと伸びる、一条の白線。
漆黒の天蓋を二分する白線は中空の一点に辿りつくと、そこから弾けるように四方八方へとその白を飛散させた。
都市そのものを覆うように、流星と化した無数の白が地に落ちていく。
流れ星と違うのは二点。
尾を引く白い軌跡はいつまでも消えることなく、実体を持って展開されているということ。
そして、それは隕石の類ではなく、ドフラミンゴの異能によって形作られた"糸"であるということ。
『絶望の鳥籠(ドレスローザ)』
ドンキホーテ・ドフラミンゴの持つ最大最後の宝具であり、かつて一国を長きに渡り恐怖の底へと沈ませ続けた絶望の象徴。
難攻不落にして脱出不可能、鏖殺の理を具現する悪夢が鎌倉に顕現した。
「あァあァ、俺に使わせやがったな、"こいつ"を……!」
積み上げられた瓦礫の山の頂上で、顔を手のひらで覆ったドフラミンゴが情念をため込むかのように含み笑いを浮かべる。
巨大な鳥カゴを背に笑う彼の姿は一言"支配的"。今や北鎌倉から南は由比ヶ浜・材木座海岸までをも射程内に収めた鳥カゴの半径は、比喩抜きで鎌倉そのものを閉じ込めるまでに至っている。
故に、彼の支配者然とした態度は何ら虚実のものではない。確かな現実として、ドンキホーテ・ドフラミンゴは今、鎌倉市内に存在する全存在の生死を握っているのだ。
「ほう、これは……」
「──────」
そして、彼を見上げるのは二人の女。
見定めるような目つきの赤い軍服の女と、武骨な義手と刃を携えた異形の女。
内のひとり、異形の女───針目縫は、その理性なき瞳を殺意で満たし、次いで聞くも悍ましい咆哮を上げた。
「■■■……■■ゥゥゥアアアアアアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアア──────ッ!!」
そして、振りかぶるは暗紫色の片太刀バサミ!
圧倒的膂力により投擲された刃は初速から音速を突破し、大気を切り裂いてドフラミンゴに殺到する。
奇襲めいた不意の一撃。しかしドフラミンゴは特段驚く様子もなく、首を逸らすだけでその刃を回避。斬首すべき相手を見失った片太刀バサミはそれでも猛烈な勢いを落とすこともなく、射線上を浮遊する星屑の幾つかを回転する刃で引き裂きながら、一秒とかからず鳥カゴの"外縁部"まで到達し───
「■■───!?」
しかし───カゴを構築する糸の一本さえ断ち切ることができずに、硬質の音と共に弾かれた。
無傷。鳥カゴには傷のひとつも付いていない。視界の彼方で敢え無く落下する片太刀バサミを目に、今や破壊衝動以外のあらゆる思考能力を失った針目は、それでも驚愕めいた感情をその声と瞳に乗せる。
「馬鹿が、効くかよ」
瞬間、針目の背後より放たれる声と衝撃。いつの間にか彼女の背後に"出現"した新たなドフラミンゴが、振り上げた踵を針目の肩に落としたのだ。
分身能力・影騎糸(ブラックナイト)からの足剃糸(アスリート)。糸による斬撃効果を伴った蹴りは、下手な刀剣による斬撃すら上回る威力を誇る。生身のサーヴァントなら手足程度は容易に切断され、武具ないし防護の上からですら判定次第では総身を両断される一撃だ。
しかし何ということか、足剃糸の直撃を肩で受け止めて、針目の肉体は切断どころか血の一滴さえ流していない! 肩越しに唸る針目の凶眼が、極大の殺意を以てドフラミンゴに向けられた。
防御の暇もない無防備な状態への一撃、本来致命となるべきそれを無傷でやり過ごした絡繰りは彼女の持つ宝具にある。
『生命戦維の怪物(カヴァー・モンスター)』は生命繊維の申し子としてその生を受けた針目の特異性、並びに生来の頑強さを保証するもの。宝具の領域にまで昇華された防御能は凄まじく、Bランク未満の攻撃を一律で無効化するほどである。
「■■■ァ───!」
故に、高ランクの攻性宝具を持たないドフラミンゴに針目を害する手段はない。しかし。
猛然と掴みかかる針目を前に飛び退いて、けれど彼の表情は翳りを見せず。
「単純すぎて欠伸が出らァな」
「■、ィイ!?」
後方より飛来した片太刀バサミが、針目の腹部を貫いた。
大量にまき散らされる喀血、驚愕に見開かれる目は自分の身に何が起きたかを全く把握できていない。
突き出された針目の掌底はドフラミンゴに届くその直前で押し留められ、やがて力を失って全身ごと地に落ちた。
針目は知らない。ドフラミンゴは投擲された片太刀バサミを避けたその時点で、細く視認の難しい、しかし伸縮性と粘着性に富んだ"蜘蛛の糸"をその柄に張り付けていたということを。
そしてこの一瞬で糸を手繰り、引き寄せられた刃が彼の誘導する通りに針目を貫いたのだと。
彼は力任せしか能のない猪武者では断じてない。戦士として以前に全ての存在の上に立つ"支配者"たる彼は、当然としてあらゆる強さを習得している。
「なるほどなァ。切れ味が良いにしてもあり得ねェ鋭さで俺の糸を切るもんだから、何かしらの特効性でもあるんじゃねェかと踏んじゃいたが……」
うつ伏せに倒れる針目を地に縫い付ける片太刀バサミ。それを躊躇なく引き抜き、声にもならぬ悲鳴をバックにドフラミンゴは語る。
「見立て通りお前も俺と同じ"全身イト人間"だったみてェだな。そしてこいつは同族へのカウンターってとこか。
だがアテが外れたな。この程度じゃ俺は殺れねェし、まして鳥カゴを斬るなんざ百年早ェよ」
鳥カゴを構築する格子状の糸は、イトイトの実が作りだすものの中でも飛び抜けた強度を持つ。
史実においてこの技を物理的に破壊できた者は存在しない。ドフラミンゴファミリー最高幹部たるピーカの"巨大岩石人形"が誇る巨人族すら越える体躯も、海軍大将イッショウが繰り出す宇宙空間よりの小惑星衝突も、ドフラミンゴと同等以上の力量を持ち合わせた覇気使いの"武装色"による斬撃すらも、鳥カゴを斬ることはおろか傷のひとつも付けることはできなかった。
そしてその切断力や、国一つを土台から切り崩し、国内に存在するあらゆる建築・あらゆる生命を一切の区別なく両断するものであった。
その事実は一体何を意味するのか。
それは。
「よォく分かっただろうが。やろうと思えば最初から、こうしててめェら全員皆殺しにできたんだよ俺は……!
だが郷に入りては何とやら、聖杯戦争の流儀に則り正々堂々尋常に勝負してやってたんだ。それを俺の苦労を知りもせず好き勝手してくれやがって、あァ!?」
つまりはそういうこと。
ドフラミンゴはやろうと思えば、本戦どころか予選の段階でも他陣営を纏めて相手取ることができたのだ。しかし彼は力づくの殲滅を善しとせず、現地民の支配と人海戦術を用いた策謀、他のサーヴァントすら利用する暗躍の道を進んだ。
無論、そこには戦闘に巻き込まれるであろう一般市民への情けなど微塵も存在しない。彼はただ人々の恐怖や怒りを煽り絶望させるやり方を好むだけ、単なる利害の一致である。
だがそれでも、彼が聖杯戦争における神秘の秘匿を遵守していたことは確かだ。そして後先を考えぬ愚者の群れによって全てを台無しにされたという事実も、また。
故に彼は激怒しているのだ。地上を這いずる人間(ゴミ)の足掻きを高みより睥睨するはずだった高貴なる己を、同じ地上へ引きずり落とした下手人たちに。
その怒りを表すように、彼は倒れる針目の背を力の限り踏みつけながら。
「別に初めからお前らを、"恐怖"で蹴落としても良かったんだ……!
だがお前らは俺を引きずり出し、あまつさえ糞汚ェ手で殴りかかってきやがった……!
もう一度言ってやるよ。俺が最も嫌うのは見下されることだ……!
盤面の勝負で勝てねえから、拳なら勝てると思い上がったか糞餓鬼共! あの薄汚ェ麦わらのように!」
「それで」
言葉と共に、不意に二人を巨大な影が覆った。
唸る大気の鳴動に視線を上げれば、そこには視界を埋め尽くすほどの巨大さを持った何かが、今にも彼らを押し潰さんと凄まじい速度で墜落してきたのである!
───都市そのものを揺るがさんばかりの、轟音と地響き。巻き起こる粉塵と紙のように吹き散らされる建築群。
───周囲のビルの残骸すらも軽く飛び越える巨体が、針目とドフラミンゴを下敷きに地に沈んだ。
全長50mは下らないであろうそれは、天秤のような細長い形をしていた。およそ生物ではあり得ず、しかし高層建築とも言い難い歪な構造。
それは空に蠢く星屑たちと由来を同じくしたバーテックス。名を、天秤座のリブラ・バーテックスと言った。
「無駄口は終いか?
茶番は飽いたと言ったはずだがな。聞こえていなかったのならば今一度言ってやろう」
陽炎のように揺らめく影を映し出して、赤い女が静かに歩み出る。
瞬間、荒廃した街並みを圧し潰すリブラ・バーテックスの巨体が突如発火。鋼鉄の沸点すら越える業火が内側から突き破るように溢れ、蛇のようにうねりバーテックスの巨大な体躯を舐めつくす。白亜の天秤は一瞬にして大量の黒炭と化し、女───ザミエルはただ無言で睥睨するのみ。
口からは煙草を咥え、紫煙を吐き出す。そして億劫気な瞳を向け、断ずるが如く言い放つ。
「幕だ。貴様らの生きる意味、存在する意義はとうに尽き果てた。故、潔く散るならば灰も残さず蒸発させてやろうという私の気遣いだったのだがね」
万色の煙を燻らせ、尋常ならざる戦場にあって尚平常を保ち続けるこの女傑は一体何を仕出かしたというのか。
針目が最初に動いた瞬間彼女は後方へと飛び退き、数多の星屑たちが瞬時に黒煤と散る炎熱の領域に触れて、なお燃え尽きることなく侵入を果たそうとしていたリブラ・バーテックスの突起を掴み上げた。
重さにして数百tは下らない、あらゆる生物の頂点に君臨する巨躯を片腕で持ち上げ、バーテックス自身の必死の抵抗すらねじ伏せる膂力で以て、音速にも迫る速度で投擲したのだ!
永劫破壊・基本術理───魔力放出。
その身に吸奪した幾万もの魂の結晶により文字通りの一騎当千と化したザミエルは、白兵に特化したサーヴァントの中にあってなお常軌を逸した身体性能を発揮できる。
規格外の出力を誇るエイヴィヒカイトの術式を以てすれば、ステータス情報に記載されたカタログスペックなど全く意味を為さない。
「しかしその様子を見れば、貴様に往生際の良さを講釈してやる意味はないらしい。いやはや、随分と増えたものではないか」
「抜かせやクソが。考えなしの放火魔の分際でエラく調子こいたことほざくじゃねェか……!」
現出するドフラミンゴ"たち"に、ザミエルは呆れと僅かながらの驚愕を交えた声を出す。
その視線の先には、そこらじゅうから湧き出るかのように大量のドフラミンゴたちが声も顔かたちも霊基の構造までも同じくして出現し、一帯を取り囲んでいるのだった。
「だがそれも聞き納めと思えば心地いいもんだぜ……!
鳥カゴは既に起動した、お前らじゃ止めることも俺を殺すこともできやしねェ……!
あとは高見の見物と洒落込んでりゃてめェら全員くたばるたァ、俺にとっちゃ窮地どころか逆に喜劇だったかもなァ!」
視界の隅で瓦礫を押しのけ這い上がる針目を横目に、ドフラミンゴたちは勝ち誇るかのように哄笑を上げる。なるほど確かに、高位の探知能力を持たないザミエルでは本物を的確に探り当てるのは難しいし、手当たり次第に攻撃したとしても逃走は容易。更に言えばザミエルたちには時間制限が設けられ、手をこまねいていれば彼女らどころか檻に囚われた全員が脱落する。
現状の鳥カゴが覆うのは大地のみであるからして、遠洋に浮かぶ漆黒の軍艦までは射程圏内に収めてないものの、それも他の者らを殲滅した後に第二波の鳥カゴを放つことで無理やりに殺害してしまえば問題はないとドフラミンゴは語る。
あまりに強引な手段故に優雅さには欠けるが、それもまた良し。心を砕かれ絶望する人間は傑作だが、体を砕かれ泣き叫ぶ人間もまた痛快である。
だから、震えろ。喚け、泣いて許しを請うがいい。
どの道破滅は不可避だが、天竜人たる己に楯突いた愚行を悔やみながら死に晒せ。
所詮お前ら人間は、神にも等しい己を楽しませる悲鳴の楽器でしかないのだから───!
「……そういえば、先ほどの貴様の言にひとつだけ同意しておこうか」
けれど。
けれど、ザミエルの不自然なまでの落ち着き様は何なのだ。
既に鳥カゴの侵攻は始まり、地の果ての全方位から大地を切り裂く音が轟いているというのに。
「私も同じだよ。やろうと思えば最初からできたのだ。
故に今、枷を外してやろう」
泰然と構える赤騎士は、その"祝詞"を口にした。
『彼ほど真実に誓いを守った者はなく
彼ほど誠実に契約を守った者もなく
彼ほど純粋に人を愛した者はいない』
瞬間、膨張する大気の圧力が槌となり、一帯を占めるドフラミンゴの軍団を打ちのめす。
流れてくるのは、焼けた鋼鉄と油の臭い。英雄ならばその身に沁み込んでいるであろう戦場の熱風。
───なんだ、これは。
理解不能の感情が内より湧き出でる。瓦礫すら溶解させながらも吹き付ける熱風に幾人もの影騎糸が弾き飛ばされ、それでも不吉な呪言を止めようとするも、弾糸の狙いがつかない。
『だが彼ほど総ての誓いと総ての契約
総ての愛を裏切った者もまたいない
汝らそれが理解できるか?』
此度の聖杯戦争に際して、ザミエルは己が聖遺物の力を十全な形で揮ったことはなかった。
大抵の者は炎の純魔力たる活動の一撃で死に絶え、更に低劣な者に至っては宝具ですらないサーベルの剣戟により命を散らした。
ドーラ列車砲の形成は赤薔薇王と死線の蒼に対する二度しか使わず、遥か海洋上に居を構える規格外の騎乗英霊たる者に対しても"形成と創造の中間"までしか開帳していない。
そう、"爆心地が無限に広がり最終的には地球表面そのものを呑みこむ爆撃の究極"すら、彼女にとっては戦争用に枷を嵌めた未完成品に過ぎない。
ならば今、彼女が解き放とうとしているものは何であるというのか。
『我を焦がすこの炎が総ての穢れと総ての不浄を祓い清める
祓いを及ぼし穢れを流し、溶かし解放して尊きものへ
至高の黄金として輝かせよう』
赤化(ルベド)とは黄金を生む最終形態。故に最も獣に近く、最も彼を信奉し、その敵たる不純物を撃滅する焦熱の剣。
『既に神々の黄昏は始まった故に
我はこの荘厳なるヴァルハラを燃やし尽くす者となる』
圧倒され、針目もドフラミンゴもまともに身動きの取れなかったのはほんの数秒。身体がよろけ、しかし体勢を立て直し飛びかからんとするほんの数秒に過ぎない。
しかしそれで、最早全ては手遅れになった。
『創造───』
間に合わない。
手が届かない。
抜刀が起きる。何が何でも抜かせてはならなかった神(スルト)の杖が、今ここに鞘走る。
絶対に逃げられず、絶対に命中し、総てを焼き尽くす炎が凝縮した世界。
その銘は───
『焦熱世界・激痛の剣(ムスペルヘイム・レーヴァテイン)』
「───ッ!?」
───周囲の風景が一変する。
廃墟と化した鎌倉の街並み、瓦礫と剥き出しの土だけが覆っていたはずの景観は一変し、対峙する三者を残して周囲は赤き灼熱の世界へと変じていた。
───赤い。ここはなんと赤いのだ。
ここはまるで溶鉱炉。あらゆるものが溶けて消え、沸騰して灼熱と化す。
出口などない。避難場所もない。地平線すら揺らぐ広大な空間であるにも関わらず、まるで双方向を塞がれたトンネルのような閉塞感がある。
事実、蟻が地下鉄の線路に立たされたならば同じ感覚を味わうだろう。
ドーラ列車砲、狩りの魔王ザミエル。膨大な魔力により極限まで拡大・増幅された砲身内部こそが、この異世界の正体である。
絶対に逃げられないということ。絶対に当たるということ。その究極系とはなんなのか?
対象を追尾する弾頭か。無限に広がる爆心か。
否───そんなものは児戯に過ぎない。
最初からどこにも逃げ場などない世界を構築すること。そしてその世界内全てを諸共に焼き尽くすということ。
業火のみが存在する大焦熱地獄。一部の隙間なく埋め尽くし、永遠の熱が支配する世界創形型の覇道創造。
彼女の忠誠、彼女の誓い、彼女の愛を体現する心象世界の具現であった。
「こいつ、は……」
最初、ドフラミンゴはそれを"自分とバーサークセイバーの二人に向けたもの"だと思っていた。
しかし違う。これはそんな小さなものではない。
地に足つけて感じられる魔力の多寡で理解できる───この異世界は都市そのものを覆っている。
鎌倉を閉じ込めたドフラミンゴの鳥カゴを、更に外側から閉じ込めるように。規格外の巨大さを誇る赤熱の魔法陣は文字通り"世界"を囲う檻となっているのだ。
それはつまり、聖杯戦争参加者の全員を取り込んでいるということであり。
「初めから、貴様ら全員を"激痛の剣"たる我が世界で焼き尽くしても良かった」
滔々と語られるザミエルの言。戦闘に際しているとは思えないほどに静かな言葉。
「だが私はそうしなかった。その理由が、貴様に分かるか?」
分からない───選んだ行動は自分と同じでも、そこに至るまでの思考回路があまりにも違い過ぎる。
「不相応なのだよ。我が"剣"を抜くには、貴様らはあまりに弱く、醜い。
垂れ流された糞便の処理に剣を抜く騎士が何処にいる? 誇り高き我が"創造"は、故に相応しい相手にのみ使われる。
私が本気で戦うに値すると認めた、真の勇者にこそ手向けられるべきなのだ」
肥大化した自意識と高すぎる理想が言葉となって現れる。そう、全てはドフラミンゴと同じなのだ。
やろうと思えば最初から皆殺しにできた。聖杯戦争の舞台そのものを覆い、呑み込み、焼き尽くす"世界"。マスターもサーヴァントも関係なく、内からも外からも決して破壊不可能な死の領域。
それを向けなかったのは偏にその大きすぎるプライドが故だった。剣を抜くに値する強者にのみ開帳するという、それは確かにある意味では騎士道にも通じる理念なのかもしれないが。
ならば何故、この局面に至って彼女はその"剣"を抜いたのか。
ドフラミンゴや針目を、そうするに値する者と認めたからか───いいや違う。
「この創造は貴様らに向けたものではない。この地に今もなお生存している強者たち、私が認めた真の英雄に対する宣戦布告である」
射程内に収めるは会場全域、取り込まれるは舞台に上がる全ての役者。
ならばその中には、かの騎士王や赤薔薇王もまた存在するということであり。
「───ぐぅあ!?」
突如、何の脈絡もなく世界が揺れた。
攻撃が始まったか、そう思ったがどうも違う。その衝撃は世界内ではなく、その外から聞こえてきたようにも思えて。
「そして、誤解なきよう言っておこうか。
ドンキホーテ・ドフラミンゴ。私がこの世界を創造しなければ、貴様は鳥カゴごとあの戦艦の主に消し飛ばされていたよ。
曰く、ヒロシマの炎だったか。かつてはグラズヘイムに退去していた故に実物を見ることはできなんだが、なるほど確かに凄まじい。瞬間的な火力だけならば、我が創造の一欠片にも手を届かせるか」
ザミエルの言葉に、ドフラミンゴは知らず驚愕に身を固めた。ヒロシマの炎が指すものといえばただ一つ、遥か遠き事象世界において広大な国土を焼き払った鏖殺の焔に他ならない。
彼女の言が真実だとすれば、仮にあのまま鳥カゴの展開を続けていればどうなっていたか。根本的な相性の悪さは元より、そもそも基準となる出力が違い過ぎる。
そしてそれは、今目の前に広がっている焦熱の世界にも同じことが言えた。
「さて、では終わりとしよう。
騎士王に赤薔薇王、あるいは未だ姿を見せぬ英雄たちよ。貴様らが我が炎を止められぬというならば、それもまた善し。
我が炎は虚構たる世界の縛鎖を千切り、第一盧生との対峙を以て月の裁定者への鉄槌となるだろう。
それを厭うというならば───」
その相貌を、凄絶に歪ませて。
「各位、死にもの狂いで足掻くがいい」
───その時、誰もが赫の空を見上げた。
───聖杯戦争に集う者すべてが、遥か上空にて顕現した天変地異を目撃した。
殺到する星屑の全てを討滅した藤井蓮と、それを見守るキーアも。
遥か彼方に飛び去ったすばるを追いかける、アーサーとアイも。
不毛な殺し合いを続ける藤四郎と學峯も。
既にその素顔を髑髏の面に覆い隠してしまった叢だった何者かも。
失くしてしまった想いをなぞる様に誰かを見つめるロストマンも。
全てを俯瞰する目線のままに彼方を見据えるギルガメッシュとその主たるイリヤも。
三人の奪われた者であるレミリアと東郷と針目も。
何処とも知れぬ深淵で産声を上げるシュライバーも。
そして当然、ドフラミンゴもまたその光景を見上げる。
今や紅蓮の熱量に置き換わってしまった赫炎の空。
赤に染まる"天"そのものが、凄まじいまでの圧力と共に墜落を開始した。
「──────」
空が落ちる。
天が堕ちる。
眩しいまでの輝きを放ち、街並みの全てを赤く照らすこの光は正しく"炎"そのものか。
その圧倒的な光景を前に、ドフラミンゴは動けない。体は頭頂から足先までもが痛いほどに硬直し、全く言うことをきかない。
あれは駄目だ。あれは絶望的に過ぎる。
けれど、それでも。
それでも、叫ばないわけにはいかなかった。
「───ふざけろォ! 今ここで鳥カゴをヤラレるわけにはいかねェェエエエエエエエエエエッ!!!!」
そう、あの炎を阻めるのは今や自分の鳥カゴしかないのだから、それを破られるわけにはいかないのだ。
何故なら防がねば自分が死ぬ。完全無欠に楽観の余地なく、あの炎に晒されては死ぬしかない。
逃げることは不可能。避けることは不可能。防ぐことも耐えることも不可能となれば、あとは自らが最強の技を以て相殺する他になし。
敵を殺し尽くすはずの鳥カゴは、皮肉なことにドフラミンゴを含めた全員を守るための防御結界へとその機能をすり替えられていた。
果たして墜落する紅蓮の天は鳥カゴへと接触し───僅かな抵抗の気配すら見せず、その頭頂から糸の格子を真っ黒な炭へと変えながら墜落を続行させた。
火に入る蛾のように、並み居る星屑とバーテックスたちが次々と焼かれていく。
絶望が、ドフラミンゴの顔を満たした。
最早打つ手は何もない。
今ここに、聖杯戦争の勝者が決まった。
「邪魔だ」
───声が。
響いたかと思った瞬間、"世界"が切り裂かれた。
文字通り地平の彼方から天空に至るまで、"世界"そのものが真っ二つに割れた。
今にも落ちてくるはずだった紅蓮の空は蝋燭の火が吹き消されるかのように色を失い、かつて赫の天であった破片が残滓となって舞い散る。黒色に割れ敷き詰められた地平線は中空に浮かぶように剥離し粒子となって溶けていく。
断割された空間の先、舞い散る紅蓮の残滓の向こうには、変わらぬ静寂を湛える漆黒の天蓋が広がっていた。そして次の瞬間には、赤い空も黒い大地もそれら破片の一切すらもが、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せ、元の鎌倉の光景が戻ったのだった。
「……は?」
あまりにも間抜けな声が、ドフラミンゴの口から漏れる。
彼は果たして、その視界の端に影のような黒衣の男が現れたことに気付けただろうか。
「───■■■■ァアアアアアアアアアアアッ!!!」
突如叫ばれる針目の咆哮。片太刀バサミを失い右の鉄腕だけで何某かに飛びかかる彼女に、ドフラミンゴはようやく気付いて。
「お前に用はない」
横薙ぎに振るわれた男の裏拳が、針目の頬を的確に撃ち抜いた。
瞬間、右方向に殴り飛ばされた針目の姿が掻き消え、同時に爆ぜた衝撃波が一直線に地を穿ち、吹き飛ばされた針目はその2㎞先にある源氏山の中腹に激突して凄まじい高さまで土砂を噴き上げた。
衝突の轟音が、遅れて耳に届く。
からり、と石ころが足元に崩れる音が、寒々しかった。
「て、てめェは───」
何事かを叫ぼうとして、しかし次の瞬間ドフラミンゴの視界は高速で回転していた。
───何が……
あったのかを推察しようとして、けれど鈍る思考がそれを許さない。ドフラミンゴは次々と入れ替わる夜空と地上とを視界に収めるばかり。
ああそういえば、地上の街並みがやけに遠い。
まるで航空撮影のように、鎌倉全体を見渡せるような位置に、今自分はいるのではないか。
そんなことを考えて───上空3000mまで殴り飛ばされたドフラミンゴは、薄れる意識と共に何処かへと墜落していった。
「我がマスターの通る道だ。大事を為す前に、少しばかり掃除しておかねばと思い立ってな」
一帯を埋め尽くしていたはずの影騎糸さえ、一瞬以下の時間で全てを霧散させて。
軽い調子で語る男を前に、ザミエルは無言で向かい合うことを強いられていた。
言葉など出せるはずもない。己にとって最大最強の、まさしくアイデンティティそのものと言える"創造"を破壊されて、意思が力の根幹を成す聖遺物の使徒が無事でいられるわけもない。
けれどそれでも、ザミエルは不屈の意志力で以て相対する。言葉、絞り出すようにして。
「貴様は……」
言葉尻が僅かに震える。このようなことなど、彼女の人生においてそれこそ数えるほどしかなかった。
出そうとしているのはあまりにも無意味な問いだ。だがそれでも、彼女はその問いを封じることができない。
無意味でも、それ以外の可能性が絶無だとしても、それは絶対的にあり得ないことなのだから。
「貴様、今、何を」
「"斬った"」
返すのは男だ。吹き付ける風の音が、酷く遠い。
今この瞬間だけ、この無謬の世界に存在するのはザミエルとその男の二人だけとすら思えた。それだけの静寂が場を包み、風の微かな音は余りにも遠かった。
「お前の"世界"を切断した。それだけのことだ」
何てことはない、そう男の口調は物語る。
独立した一個の異界。魔力強化された核兵器のの直撃すら無傷で耐える空間障壁。文字通り現世界を塗りつぶし作り変える世界改変の業。
それら一切悉くを、物理接触し干渉すらできないはずの空間諸共、この男は単なる魔力と技量だけで切断してみせたのだと。
それすら、この男にとっては出来て当たり前な児戯の範疇であるのだと。
それは───
それは、赤騎士の火力どころか、あるいは黒騎士の万物終焉にすら手をかける領域にある業なのではないかと───
「そういえば、昼刻は無様な姿を見せてしまったな」
一歩を進み出る男に、ザミエルは辛うじて戦闘の構えを取る。己が最強を打ち破られて、それでも戦う意思だけは絶やすことなく。
けれど、けれど。
それでも、この男は何であるというのか。
かつて自分が垣間見た、己と五分の戦いを繰り広げられるであろう好敵手たる彼。
だが今見せた実力は、その想定からは二段も三段もかけ離れたものであり───
「これが、私の本気だよ」
黒衣の男───ローズレッド・ストラウスは、右手に現出させた剣を、真っ直ぐにザミエルへと突きつけるのだった。
『C-3/鎌倉市街地跡/一日目・禍時』
【アーチャー(ローズレッド・ストラウス)@ヴァンパイア十字界】
[状態] 魔力消費(小)
[装備] 魔力で造られた黒剣
[道具] なし
[所持金] 纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:終わらせる。
1:最善の道を歩む。
[備考]
鎌倉市中央図書館の書庫にあった資料(主に歴史関連)を大凡把握しました。
鎌倉市街の電子通信網を支配する何者かの存在に気付きました。
如月の情報を得ました。
笹目ヤヤ&ライダー(アストルフォ)と同盟を結びました。
廃校の校庭にある死体(直樹美紀)を確認しました。
B-1,D-1,D-3で行われた破壊行為を認識しました。
『幸福』を確認しました。
廃校の資料室に安置されていた資料を紐解きました。
確認済みのサーヴァント:
ランサー(No.101 S・H・Ark Knight)、アーチャー(東郷美森)、バーサークセイバー(針目縫)、ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)
真名を把握したサーヴァント:
アーチャー(エレオノーレ)、ライダー(マキナ)、ライダー(アストルフォ)、アサシン(スカルマン)、バーサーカー(シュライバー)、ランサー(レミリア)
【アーチャー(エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ)@Dies irae】
[状態]魔力消費(中)、令呪『真実を暴き立てよ』、強い動揺
[装備]軍式サーベル
[道具]なし
[所持金]なし
[思考・状況]
基本行動方針:終わりにする。
0:この男は……
1:黒円卓の誉れ高き騎士として、この聖杯戦争に亀裂を刻み込む。
2:戦うに値しない弱者を淘汰する。
3:セイバー(アーサー・ペンドラゴン)とアーチャー(ストラウス)は次に会った時、殺す
[備考]
ライダー(アストルフォ)、ランサー(No.101 S・H・Ark Knight)、アーチャー(ローズレッド・ストラウス)と交戦しました。
No.101 S・H・Ark Knight、ローズレッド・ストラウスの真名を把握しました。
バーサーカー(玖渚友)から『聖杯戦争の真実』について聞きました。真偽の程は後の話に準拠します。
乱藤四郎と契約しました。
【ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)@ONE PIECE】
[状態]全身火傷、魔力消費(大)、腹部に大ダメージ、空中遊泳、意識朦朧
[装備]燃えてボロボロの服
[道具]
[所持金]燃えた
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を獲得する。
0:どいつもこいつもいい加減にしやがれテメエらあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!
1:ランサーと屍食鬼を利用して聖杯戦争を有利に進める。が、ランサーはもう用済みだ。
2:軍艦のライダーに強い危惧。
[備考]
浅野學峯とコネクションを持ちました。
元村組地下で屍食鬼を使った実験をしています。
鎌倉市内に複数の影騎糸を放っています。
如月&ランサー(アークナイト)、及びアサシン(スカルマン)の情報を取得しています。
※影騎糸(ブラックナイト)について
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)の宝具『傀儡悪魔の苦瓜(イトイトの実)』によって生み出された分身です。
ドフラミンゴと同一の外見・人格を有しサーヴァントとして認識されますが、個々の持つ能力はオリジナルと比べて劣化しています。
本体とパスが繋がっているため、本体分身間ではほぼ無制限に念話が可能。生成にかかる魔力消費もそれほど多くないため量産も可能。
『B-2/源氏山/一日目・禍時』
【バーサークセイバー(針目縫)@キルラキル】
[状態]《奪われた者》、理性剥奪、顔面と全身に大ダメージ、山の斜面に突き刺さってる
[装備]《打ち砕く王の右手》
[道具]なし
[所持金]なし
[思考・状況]
基本行動方針:皆殺し
0:■■……
1:■■■■■───!!!
[備考]
片太刀バサミはC-3鎌倉市街跡地に取り残されてます。
『D-3/鎌倉跡地/一日目・禍時』
【イリヤスフィール・フォン・アインツベルン@Fate/stay night】
[令呪]二画、魔力消費(中)、疲労(中)
[状態]健康、盲目
[装備]
[道具]
[所持金]黄金律により纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を手にし、失った未来(さき)を取り戻す。
0:なにこれ
1:ある程度はアーチャーの好きにやらせる。
[備考]
両目に刻まれた傷により視力を失っています。肉体ではなく心的な問題が根強いため、治癒魔術の類を用いても現状での治療は難しいです。
【ギルガメッシュ@Fate/Prototype】
[状態]健康
[装備]
[道具]現代風の装い
[所持金]黄金律により纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争を勝ち抜き、自分こそが最強の英霊であることを示す。
0:?????
1:我、片腹大激痛。
2:自らが戦うに値する英霊を探す。
3:時が来たならば戦艦の主へと決闘を挑む。
4:人ならぬ獣に興味はないが、再び見えることがあれば王の責務として討伐する。
[備考]
叢、乱藤四郎がマスターであると認識しました。
如月の姿を捕捉しました。
バーサーカー(ウォルフガング・シュライバー)を確認しました。
投下を終了します
wikiのほうですばる及び結城友奈の現在位置を修正しました。C-3→D-2になります
すばる、友奈、東郷、ドフラミンゴ予約します
投下します
例題です。
いいえ、是は御伽噺です。
ただの御伽噺です。
現実であるはずがありません。
……………………。
世界の果て。
世界の果ての彼方にて。漂う、ひとつの意識の残滓があったとする。
それは《世界の敵》ともなり得た少年だ。
消え去るべき幻想として在りながら、生まれ得ぬ可能性たちと共に世界に留まり、自らの導を探し求めた愚者だ。
何をも為せない愚者だ。
それはあるいは、少女を守ることもできただろう。
だが、残せたのはほんの一欠片の力だけだ。
果たして、あれだけで守れたかどうか。
"それ"には、彼には、自信がない。
最早知り得る手段もない。
世界の外に、彼はいた。
世界の果て。嘆きの壁の向こう側に。
現世界において存在する場所のすべてを奪われた彼は、
冥漠回廊を循環することも叶わず、純粋空間の崩壊と共に世界に弾きだされていた。
そして。
今、まさに消えゆく……
その意識に満ちるのは、なにか。
その意識の果てにあるものは、なにか。
けれど、それを確かめる術はどこにもない。
これはあくまで御伽噺。決して現実には存在し得ぬ虚構でしかないのだから。
彼はただ消えゆくのみ。
けれど。
けれど、もしも、あなたが───
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.1】
「───」
「……また」
「また、ここに来たのかい?」
「ここは……」
「……」
「えーと、そうだな」
「君の名前を、教えてくれないか?」
「……」
「そう。
そうだったね」
「うん、白々しいと思われるかもしれないけどさ」
「君にとっては、あまり意味のないことだけど。
僕たちにとっては、とても意味のあることだから」
「これでも、ずっと待っていたんだ」
「ずっと」
「ずっと、僕たちは」
「完膚なきまでに否定されることも、
大空を見上げることもできたけど」
「それでも君の隣にいたいって、そう思ったんだ」
「……君はどうなんだろうね」
「そういう気持ち。受け入れて欲しいとは言わないけど、
それでも、僕が抱くことを許してくれるなら、とても嬉しい」
「だから、今は」
「アルトタスの心の声の世界でもなく、
廃神として望まれた役割からでもなく」
「僕の意思からでもなく」
「君の、意思で───」
「…………。
……なんて」
「言ってみただけだよ」
▼ ▼ ▼
ひとまず、この少女を落ち着ける場所まで運ぶことにした。
脇から腕を差し込み、体勢を整え腰に乗せ、一気に立ち上がる。
気を失った少女をおんぶして、結城友奈は辺りを見回した。
「……ぅ」
お腹に力を込めたせいか、意図せず漏れる呻き声。
背に負ぶった少女を落とさないよう気を付けながら、目の前にある廃墟へと足を向ける。
かつては綺麗な白に塗られていただろう壁面は、いたる所で塗装が剥がれ落ち、足元には『■■植物園へようこそ!』と掠れた文字で書かれた看板が、錆に塗れて転がっている。
入口は今にも崩れてきそうで危ないが、それでも外にいるよりはマシだ。今は小康状態に落ち着いているけど、いつまたバーテックスが襲ってくるか分からない。
少しでも身を隠せる場所へ、少しでも急場を凌げる場所へ。
灯りもなく暗い通路を進むこと数分と少し。
友奈たちは、開けた場所に辿りついた。
「……」
そこは、巨大なドームの内部だった。
陽射しを入れるためのガラス張りの天井は無残に砕けている。まるで割れた卵の殻を、内側から見上げているかのようだった。
罅割れ軋むコンクリ壁に、足元に落ちた大量のガラス片。元々は植物園だったというのに、今はもう草木の緑はひとつも見当たらない。
そこは、かつてあった楽園の残骸だった。
こんな自分が迷いこむにはお似合いだな、なんてことを思った。
「……」
近くに未だ無事なままのベンチを見つけた友奈は、負ぶった少女をゆっくりと寝かせた。そして自分もその隣に、ちょこんと遠慮がちに腰かける。
静寂が広がった。
友奈も少女も、誰も声を出さない。鎌倉の街に今も広がる戦火の音も、今はどこか遠い世界のように感じた。
そして。
そして、友奈は少女を見つめて。
「だい、じょうぶ……かな……」
それは恐らく、友奈が喪失者となってから発した、初めての意味ある言葉だった。
伏せる少女を見下ろし、その髪を静かな手つきで撫ぜる。その寝顔は穏やかなもので、少なくとも命に関わる状態ではないことだけが分かった。
自分がこの少女を助けようと思ったのは、なんでだろうか。
あの出来事があって、すべてを失って、もう自分は何もできないのだと思っていた。
外の世界があまりにも遠かった。現実に絶望した自分は内罰することだけに夢中で、外界に目を向けようとはしなかった。
だから、そんな自分を誰が殺そうがどうしようが構わないと、そう思っていた。
はっ、と我に返ったのは、ついさっきのことだ。
全身に強い衝撃が走って、気が付いてみたら目の前にこの少女が倒れていた。見たことのない、今の自分よりほんの少しだけ年下に見える女の子。
自分が救えなかった、あの少女と同じ年頃の子。
そう考えたら、居ても立ってもいられなくなった。
「わたし、この子を……」
助けられたのかな、と呟く。
気を失い完全に力の抜けた人体というのは、見た目以上に重い。
そもそも人体が運搬に全く適していない構造をしているのに加え、手足がてんでばらばらに動くからバランスを取りずらいし落ちやすいのだ。
ともあれ、今回は東郷さんのお手伝いや介護施設でのボランティアの経験が活きたな、と思う。
まさか英霊になった後にまで、そんな経験が役に立つとは思ってもみなかったけど。
「……えいれい。
……ゆうしゃ……か」
英霊。
英雄。
つまるところ、勇者。
自分で言っておいて、なんだか虚しくなってくる。
勇者。勇気ある者。人々のためになることを勇んで実行する者。
かつて自分が憧れた存在や、勇者部で共に活動した友人たちは、確かにその通りの人たちだった。
うぬぼれかもしれないけど、その時の自分もまた、そういう存在であれたのなら嬉しい。
けど今は?
こんなにも無様で、こんなにも何もできなくて。
ばかりか、悪戯に誰かの死を煽った、今の自分は。
果たして、そう呼ばれるに相応しい存在であるのか。
───そんなわけがない。勇者などと、笑わせる。
───結城友奈は勇者ではない。そんなことはとっくに分かっているはずだろう。
「……」
心の中に木霊する声を否定できないまま、友奈は空を見上げた。
今は穏やかな夜空だった。つい先ほどまで、牢獄のような白い格子が走ったり、この世の終わりみたいな赤い空が現れたりして、それを見るたびに少女をおぶる友奈は強い恐怖に駆られたけど。
それでも今は、綺麗な星空が満天下に広がっていた。まるで聖杯戦争なんて、最初からこの街には無かったように思えてならないほどに。
それは、涙が出るくらいに遠くて、澄み切った空だった。
けれど友奈は知っている。
いくら現在が穏やかな夜の帳に覆われていようとも、起きた事実は覆せない。
多くの者が戦った。多くの者が命を懸けた。
そしてその果てに、聖杯戦争の参加者もそれ以外も、本当に多くの人間がその命を散らした。
自分のマスターもそうだった。
いや、彼女は命を散らせる側か。
どちらにせよ、もう取り返しのつかないことだった。
マスターは死に、マスターが殺した者も死に、今はその死が厳然たる数字と共に目の前に横たわっている。
それは言い訳のできない事実だった。
結城友奈の行動で、多くの人間が死んでいった。
けれど、けれど。
「それでも……」
それでも、この手に届く誰かを助けたいのだと。
そう思う気持ちは、間違っているのだろうか。
───ああ、なんて恥知らず。今さらそんなことを言うなんて。
───そんな資格あるはずがない。本気で言っているのなら、馬鹿を通り越して人の尊厳に対する冒涜だ。
ああ、きっとその通りなのだと思う。最初から何もかも間違っていた自分には、贖罪すら許されない。
そんなことは分かっている。けど、それでも……
「……え?」
ふと。
何か音が聞こえた。それは誰かが走ってくるかのような、ジャンプするかのような。
それは植物園の外から聞こえて、次いで壁面に降り立つように。
割れたガラス天井の縁、僅かな面積を足掛かりにして。
そこに、立っていたのは……
「あなた、は……」
「うそ、まさか……」
月光を真後ろに浴びるその黒髪も。
今は憂いを帯びた、本当は優しげな眼差しも。
かつて見た青空のような、綺麗な青色の勇者服も。
忘れるはずがない。その姿は、友奈の一番大切だった親友のもので。
「東郷、さん……?」
この日、この瞬間。
此度の聖杯戦争において最も多くの人命を奪った二人が、出会うべくして出会った。
二人を観測するは、夜の静けさと満月の輝きのみ。
───ああ。それと。
───小さな紫色の花が一輪だけ、足元に咲いていただろうか。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.2】
「日常的でありふれた、意味のない会話」
「僕はそういうものに憧憬を抱く」
「今日の空の色とか。
イチゴ牛乳の味とか。
ラベンダーの香りとか。
その日限りの刹那的な、どうでもいい話題」
「そこに表れるのは、
共通の認識を持って無意識下で繋がったままの、人の精神」
「その繋がりを強く感じていられるから、
誰かと話をすることは好きだよ」
「反発したり、
糾弾されたり、
髪を結ってもらったり、
土をいじってみたり、
傷つけあったり」
「そうやって僕は、可能性と思索の無機質さのなかで、
生きている青さに触れていたかった」
「僕は、生きている青さを縛ろうとは思ってはなかった」
「だから引き出したくて……」
「……」
「人間ってものは、目的を達成するためには手段を選ばない生き物だけど。
それ以上に不合理に囚われてしまう生き物でもある」
「人の青さは不合理のなかにしか表れてくれない」
「知能と知性と理性。
感情と感性。
思考と思想と悟性。
意識と認識」
「スペキュレイティヴなロマンスと、
花と蝶々と楽園と、
煩雑な想いと言動と、
10KB以下の思考領域。
ほしのそらとはれもよう」
「僕達にあるのはこれだけ」
「でも、君の記憶があるから、僕達は瞬間ごとの断面に自我を現し、不合理に囚われることができる」
「君が僕達を生かすんだ」
「青い、人間としての僕達を……」
▼ ▼ ▼
原初の記憶。
それは、私が私であることを形作った、一番最初の思い出。
小さいころ、私は色々な史跡に連れていってもらい、歴史や国に興味を持った。
母によると、私たち東郷の家にも大赦で働く一族の血が入っているとか。
もしかしたら、私にも神樹様にお仕えできる力があるかもしれない。
もしそうなら嬉しいと、私の母は微笑んだ。
目を開けると、そこは暗闇に包まれた夜の病室だった。
私は呼吸器とたくさんのチューブに繋がれて、どうしてそうなったのかも分からないままにベッドに横たわっていた。
ただ、下半身の感覚が無くなっていることと、
右手に見覚えのないリボンが結ばれていることだけが、その時は分かった。
医者が言うには、事故でここ二年ほどの記憶と足の機能が失われてしまったらしい。
記憶が戻ることはなかったが、その二年間もしっかり生きていたと、自慢の娘だと、母は言ってくれた。
「わあ、おっきい……」
車いすでの生活が慣れてきた頃、親の仕事の都合で引っ越しが決まった。
いざ目にした新しい家はとても立派で、うちってこんなにお金持ちだっけ? なんてことを思ったりした。
目に見えるすべてが真新しくて、自分の忘れてしまった世界はとても大きくて、寒々しくて。
言い知れない不安が胸に過っていた。
そんな時だった。
「───こんにちは」
あなたが、私に出会ってくれたのは。
────────────────────────────────────。
「……」
言葉なく、廃墟と化した夜の街を少女は駆ける。
いや、厳密にはその表現は正しくない。彼女の足は僅かも動いてはおらず、その周囲に展開された白布を稼働させることで疑似的な歩行と跳躍を可能にしているからだ。
少女は───
およそ、異質なものを感じさせなかった。
およそ、人倫から外れた気配を持たなかった。
その手には銃を持ち、せわしなく駆動させる白布を含め奇抜な衣服を身に纏ってはいるものの。
およそ市井の少女と変わりない外見と気配を湛えていた。まさか、異形化生の類であるとは。
だがそうではない。彼女は確かに非日常を跋扈する、およそ市井の婦女足り得ぬ存在だった。
超人、あるいは魔人。根源の現象数式により形作られたというその成り立ちを鑑みれば怪物とさえ言っていい。
一般人と彼女を分かつもの。それは殺意だ。
目に映る者すべてを殺し尽くすという意思の現れだ。それがために、今彼女は街を駆けている。
それは奇跡を手に入れるための勝利への渇望か。いいや違う。
彼女にあるのは嘆きだけだ。己が唯一を失おうとして、故に世界のすべてを道連れにしようとする者だ。
「……使えない」
呪詛の如く吐き捨てるは、自らが呼び出した侵略者への失望だった。
少女───東郷美森の持つ第三宝具、『その願いが、世界を導く(ラグナロッカー・バーテックス)』によって召喚された無数のバーテックス。空を覆いつくし、鎌倉市民の悉くを食らい尽くした、美森にとって何よりも憎むべき「敵」は、今や一匹残らず屠られ消滅していた。
文字通りの全滅だ。沖合に鎮座する戦艦の主が放った爆撃と、何某かの用いた炎熱の固有結界の二重攻撃により、滞空していたバーテックスは火に晒される薄紙よりも呆気なく消し炭となった。召喚元として繋がれたパスを通じて、美森はそれを知った。
そればかりか、サーヴァントの掃討に当たった美森自身も予想外の反撃により、満開によって得た兵装を失っている。
戦力の大半が削られたこの状況。それでも美森には抗わねばならないだけの理由があった。
現世界の破壊という、大願を果たすという理由が。
「やっぱりどこまで行ってもバーテックスはバーテックス、せめて私の役に立つならと思ったけど……。
まさか、こんなに早く全滅するなんて」
結局のところ、邪魔をするか役立たずかの二択。存在そのものに価値のない害虫共。
そもそも元を辿れば、奴らが現れたせいで自分たちは地獄に放り込まれる羽目になったのだ。使い潰されようが恨みはともかく感慨の一つも浮かんではこない。それにしたって、あまりにも役に立たなすぎて溜息が出るけれど。
「それでも、私は……」
続けるべき言葉を口の中だけで噛みしめて、美森は疾走を続ける。
どれだけ絶望的な状況に陥ろうとも、前進を諦めることだけはしない。それこそが勇者としての在り方であり、自分が持つ最大の力に他ならないと、彼女は知っているからだ。
───美森は理解しない。勇者システムの一件についても、同じように諦めなければ、その果てに道は拓いたのだということを。
既に諦めきったその身で、彼女は諦観の打破を謳っているのだと。
反転した彼女は、気付けるはずもなく。
「見つけた」
その視界の先に、先刻取り逃がした獲物の気配を捉えたのだった。
行く手に見える廃墟と化した建築物、崩れ半球形となったドーム型の建物の中。
そこに敵はいる。先刻撃墜し、けれど仕留めるまでには至らなかった残りの二人だ。サーヴァントの気配を感知できなかったことから、恐らくは飛行魔術を備えたマスターか。サーヴァントと戦うことなく二陣営を脱落させる好機である、見逃す手はなかった。
美森は一息に跳躍し、壁面を駆けあがって縁に着地、射抜くように眼下の敵を見下ろす。
「──────」
瞬間、美森は思わず目を見開いた。
果たして、確かにそこには美森の追い求めていた"敵"の姿があった。
数は二人。どちらも今の自分と大して変わらない年頃の少女。快活そうな顔を失意に沈める少女と、その横で眠りに落ちる純朴そうな少女。
そのどちらもが殺すべき敵で、
そのどちらもがこちらを害する手段を持たない弱者であった。
それはいい。いいはずだ。だが。
だが、この感覚は、なんだ?
その二人を見た瞬間、美森は頭の中が真っ白になった。
訳が分からなかった。自分は彼女らと"会ったことも見たこともない"というのに。
ショックを受けるような要素が、一体どこにあるというのか。
「あなた、は……」
誰だ、と問おうとして唇が動かなかった。
驚いたように、こちらを真っ直ぐ見上げる少女。
魔力は感じられない。眠る少女は魔術師ほどの魔力を持っているが所詮その程度で、こちらを見上げる少女に至っては完全皆無だ。
サーヴァントの気配は感じられない。二人ともただの人間だ。神秘も何も持ち合わせない、ただの人間であるはずだ。
「うそ、まさか……」
けれど。
けれど、信じられないといった表情で見上げる少女は、サーヴァントだった。
魔力も気配も感じさせず、その存在はあまりにも矮小に過ぎたけれど。
見てとれる霊基は確かにサーヴァントのもので、そして次瞬に放たれた言葉が、美森を更に混乱の坩堝に叩き落した。
「東郷、さん……?」
──────…………。
今、こいつは、何と言った?
「ッ、動かな……!」
「東郷さん!」
反射的に銃を向けようとして、けれどその声に腕が止まる。突然の美森の挙動に、友奈はびくりと震え、怖々と見つめ返してくる。
そして、恐る恐る手を伸ばそうとして、中途半端な位置まで持ち上げながら、友奈は問うた。
「東郷さん、だよね……?」
「……」
「あ、あはは……なんでだろ。おかしいね、こんなところで、私たち……」
縋るようにこちらを見つめる少女に、何も言葉を返せない。
返さないのではない。思考が絡まり上手く言葉を紡げないのだ。
構えようとした右手が正体不明の感情に震える。これでは照準合わせなどできるはずがない。魔力の粒子に変換して消滅させる。そのまま美森は体ごと少女へと向き合い、真っ直ぐに見下ろした。
「あなた、何を……」
「ち、違うの……東郷さん、これは違って……」
探るような美森の言葉に、身も心も疲れ果てたとさえ見える少女は言う。
見られた、大変だ、誤魔化さなきゃ……しかし必死で何かを言おうとしたが頭は回らず、言葉も見つからず、目を泳がせるばかり。
所作と態度が、言葉よりも雄弁に少女の思考を物語っていた。人間観察など門外漢な美森ですら分かるほどに。
彼女は何かを見られたくなくて、それを誤魔化そうとしているのか。
自分は彼女のことなどこれっぽっちも知らないというのに。
「私、今までいろいろあって……で、でも違うよ、私は大丈夫だから……それより、東郷さんの話を聞かせて?
せっかく会えたんだもん、私は、平気だから……」
東郷さん、と彼女は言った。
自分のことを、彼女は知っていた。
どうして、と思う。諜報に優れたサーヴァントでもいるのか、けれど黄金螺旋階段を下った自分を捕捉できる者など何処にいよう。
疑問符が脳内に木霊する。考えが纏まらず上手く動けない。
分からない。何故、彼女は自分を知っている?
分からない。何故、彼女たちを見ると思考にノイズがかかる?
殺せばいい。相手の言うことなど聞く耳持たず、今すぐ撃ち殺してしまえばそれで終わりなのに。
そうしてしまえば"本当にお終い"であるのだと、理屈ではない直感が警鐘を鳴らして頭が痛かった。
「ね……?」
「……」
だから。
だから、東郷美森は───
「……え?」
銃器を構える重い音が、友奈にも聞こえるように鳴らされる。
その黒い銃口がぴったりと自分の額を照準しているのだということに気付き、友奈は呆けた声を上げた。
なんで、どうしてと尋ねる声の代わりに呆然と見上げる友奈の視線の先、友奈の親友であるはずの東郷美森は、ぞっとするほど冷たい声で。
「黙りなさい。私はあなたなんか知らない」
そんな、信じられないようなことを言ってのけた。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.3】
「あの頃の僕達は、永遠の向こう側にある明日をずっと望んでいた」
「雨が伝うばかりの天蓋を見つめ、
庭園から、
星海から、
病室から」
「憧憬のまなざしで、誰かが扉を開くのを待っていた。
哀切のまなざしで、誰かが来ないことを待っていた」
「偽物の自分で、本物の君と会って話すことに、後ろめたさと切なさを感じて」
「何も知らないままに、君に恋焦がれていた」
「消え去りたいと思っていた、僕。
何をも知らないままだった、僕」
「世界の残酷さばかりに目を取られていた僕と、
無限の可能性たちと眠りについていた僕と、
世界に疑問を持つことを役割とされた今の僕」
「あるいは、元の世界に残された、未だ物語の途中にある僕」
「果たしてどれが本物の僕なんだろうね」
「君は───」
「───────────────」
「……うん、やっぱり駄目か。特定の文字列は弾かれてしまう」
「けれど、僕は」
「それでも君に、伝えたいと」
「そう、願っている」
▼ ▼ ▼
「え?」
一瞬、美森の言っていることが理解できなかった。
信じられないものを見る目で、美森を仰ぎ見た。
「うそ……冗談、だよね?」
「嘘をついてどうするの」
冷たい笑みが口許に浮かんだ。
自分の言葉に支えをへし折られたみたいな顔をする少女を見て、嗜虐的な喜びを得る。
塗り潰す。塗り潰す。得体の知れない思考のノイズなど、このどす黒い感情で塗り潰してやる。
まともに動かない頭で、唯一考えられるのはそれだけだった。
「どうして……私、東郷さんになにか───」
───闇夜に鳴り響く、一発の銃声。
よろよろと駆け寄ろうとしたその脚を、銃弾が貫く。
突然の凶行に悲鳴を上げることもできず、友奈は引き攣った声と共に前のめりに倒れ込む。
人体が倒れる重い音と、微かな呻き声。
地面に飛び降りそれを見下ろす、美森の視線。
「別に何も。私は最初からこういう人間。そして」
更に一発の銃声が轟く。
友奈の肩口から血が飛沫となって弾け、悲痛な叫びが漏れる。
「あなたたちはここで死ぬの。それだけのことよ」
それは、美森自身すらも呆れるほどの、優しい口調。
痛みに白む思考でそれを聞いて、それでも友奈は「どうして?」と考える。
どうして、彼女は自分のことを忘却しているのか。
どうして、彼女はこんなにも冷酷に誰かを殺せるのか。
理由があるとすれば、それはなんだ?
誰よりも優しくて、誰よりも涙もろかった彼女が人殺しに手を染める───思い当たるものといえば、それはひとつしかない。
「東郷さん、もしかして……」
まさかと思う心が、けどそれしかないと冷静に結論を導き出す。
友奈は一度だけ、美森が破滅的な感情に身を任せた瞬間を見たことがある。
それは───
「"壁"を壊した時みたいに、なっちゃったの……?」
逸話的な再現。
あるいは、ある特定の時期の人格を模倣しての現界。
サーヴァントの召喚システムにはそういうものが存在していると聞き及んでいる。
ならば、この有り様の原因とは。
「……あなた、そんなことまで知っているのね」
ふっ、と浮かべられる、儚げな微笑み。
それを見ただけで、友奈は全てを理解できてしまった。
彼女がどういう状態にあるのかも。
突如として出現したバーテックスの正体も。
そう、全ては……
「東郷さん……!」
それでも、友奈には分からない。
彼女が誰かを手にかけるという、その事実を。
分かりたくなかったし、認めたくもなかった。
「そうね。あなたが誰かは知らないけど、でも私達のことを表面的にでも知っているというなら。
聞かせてあげるわ。そして、問わせてちょうだい」
そして、彼女の浮かべた笑みは、どこまでも酷薄なものだった。
「あの世界には、一体何の意味があったの?」
友奈は、答えられなかった。
「勇者システムを運用する大赦は世界を守るという大義名分を掲げて、それを正しいと言っていたわ。
でも、あなたはそれを"救い"と呼ぶの?
死ぬことも許されず、生の鎖に繋がれて。
未来を失った体を、苦しみと喪失で焼かれ続けて。
戦ってきた理由さえも、理不尽に奪われ続けて。
それでも、あなたたちは言えるの?
それが、正しいと」
その切実な問いに、かつての友奈は確かに自分の答えを言うことができた。
世界を守るということ。それは自分たちを傷つけた者だけでなく、何も知らずに暮らしている大勢の人たちも守るということ。
勇者は何をも諦めないのだから、見知らぬ誰かを守ることだって諦めないのだと。
そう言うことも、できたけど。
「だから、東郷さんはこんなことをしたの……?」
彼女がこちらを見ている。
不審と疑念と、もう一つ。よく分からない感情に染まった目。
それを真っ向から見つめ返そうとして、けれど叶わずほんの少し横にずらして、友奈は問う。
「バーテックスを呼び出して、この街をぐちゃぐちゃにして、そうまでしてその願いを叶えたかったの?
ねえ、東郷さん!」
「その通りよ!」
悲鳴混じりに叫び返して、その手は刑部狸の短銃と不知火の拳銃を構える。
ピンと伸ばされた腕はカタカタと揺れ、その狙いは定まらず。
爆発した感情のままに、東郷美森は叫ぶのだ。
「棄てられるために私は生かされた!
棄てられるために私達は選ばれた!
勇者という名の生贄、世界を存続させるためだけの使い捨ての道具に!
でも今は死ぬことさえ許されずに、塵になるまで生かされる!
それだけならまだ良かった。みんなと一緒なら怖くなかった。
なのにあいつらは私達の"願い"まで奪おうとする! みんなと笑い合った、あの思い出さえも……!」
それは、かつて耳にした嘆きだった。
友奈自身も、その身を冒され一度は抱いた悲しみだった。
満開は使用者の"輝き"を永遠に奪い去る。もう二度と、何をしても、奪われた大切なものは帰ってこない。
「ねえ、あなたに何が分かるの?
名前も知らないあなた。私を知ってるどこかの誰か。
私には分からない。
もう何も、この涙の理由さえ、私は分からないの……」
そして、友奈は見た。
美森の頬を流れる、ひと筋の水滴を。
それは悲しみの涙であるのか。彼女は何を悲しんでいるのか。
美森自身にさえ、もうそれを知ることはできない。
ただ。
ただ、何故か。
目の前にいるこの少女を見ていると、どうしようもなく涙が溢れ、悲しみが胸を締め付けるのだ。
この感情を消し去るために、この感情の根源を討滅するために、美森は今すぐにでも二人を殺さなければならないというのに。
腕が、指が、そして正体不明の情動が、それを許してはくれない。
「それでも、勇者部のみんなは諦めなかった」
だから。
名も知らぬ少女がそう言った時。
美森は驚愕と困惑と、そして得も知れぬ怒りに見舞われた。
「そのはずだよ。だってみんなは勇者だったから。
みんな最後まで諦めなかった! 東郷さんだって知ってるはずだよ!」
「黙れぇッ!」
半ば反射的に引き絞った引き金が魔力弾を放つ。
それは少女の頭蓋を破壊することなく、見当違いの場所を穿つに終わった。
湧き上がるのは尽きせぬ怒りと拭い難い悔恨と。
そして、この少女を見ていると訳も分からず溢れ出す、悲しみと遣る瀬無さだった。
「黙らない! だって私は知ってる、勇者部のみんなは本当に勇者だったって!
東郷さんはそれを知ってるって私知ってるから、だから言い続ける!」
「あなたが何を知っているというの! いいえ知っていたとしても私を止めることはできない!
みんな傷つきみんなが泣いた! 私はもう、みんなを失いたくない……!」
「確かにみんな傷ついたよ! 涙だって枯れるくらい流した!
だからだよ! だから私達は、傷つき泣いても掴み取ったあの世界を、絶対に壊しちゃいけないんだ!」
───何を今さら正義ぶってるんだ。その資格もないくせに。
頭の中に反響する声に、何も反論できなくて。
いいや、できたとしてもやってはいけない。それは確かな友奈の罪だからだ。
自分のことを棚に上げているのは分かっている。自分がこんなことを言える立場にないのも、また。
けど、それでも。
それでも私は今この場で、大切な友達を助けたいから。
「それでも、今の私はこうせずにはいられない!
筋違いだろうとなんだろうと、世界に銃口を突きつけずにはいられない!
なんで!? 私たちが一体何をしたというの!?
なんでこんな過酷な運命を背負わせる!
私たちに全てを押し付けた連中がのうのうと生き残り、直向きに戦った勇者たちが非業の死を遂げる世界が正しいとでも!?
ふざけるのもいい加減にしてよぉ!」
ああ、溢れる感情が止まらない。鼻の奥につんと刺激が走り、それはたちまち涙腺にまで及んだ。声がうるみ、嗚咽の様相を呈する。
なんでだろう、と美森は思う。
なんで私は見も知らぬ相手にここまでムキになっているんだろう。本当に不思議でならない。
けど、"前にもこんなことをした憶えがあるなぁ"という、ぼんやりとした既知感が、頭を満たして仕方がない。
私は、この少女を知っている?
頭が痛い。
頭が痛い。
思い出そうとすると途端に痛み出す。まるで、私の記憶が戻らないようにしているかのように。
ああ、私はそれに疑問を持つことができないけれど。
そうだけど、でも。
私は、あなたを……
「なんなのよぉ! あなたが私のなんだっていうの、会ったこともないくせに!
分からない、もう分かんないよぉ……! 私、一体何を……」
「例え東郷さんが私を忘れても、私は東郷さんを忘れない!
ずっとずっと忘れない! だってそう約束したから!
私は東郷さんの一番の友達だから、何があってもずっと一緒にいるって!」
深い銃創を足に負い、それでも友奈は一歩を踏み出す。
途端に、美森の顔に緊張と怯えが走った。
「こないで!」
「心配ないよ」
安心させようと、できるだけ柔らかい笑みを浮かべる。
その努力をする。
痛みで頭はいっぱいだし、脂汗が浮き出てそれどころではないけれど。
「私の名前は結城友奈」
それでも。
「東郷さんを助ける、勇者の名前だ!」
それでも。
東郷さんの前では、私は格好良い勇者だから。
今、助けに行く。もう何もできないのは嫌だ!
───助けに行く? 何もできないのは嫌だ?
───まだそんなことを言っているのか。
───そうやってお前が動いたから、みんな死んだんだ。
───分かっているはずだ結城友奈。自分を正当化するな。
───最初から何もしなければ良かったんだ。お前は、最初から何も。
「分かってるよ、そんなこと」
頭に響く声に、けれどもう反発はしない。
あるがままを受け止める。犯した罪は消えないし失われた命は戻ってこない。
───なら何故まだ動く。何を支えに立ち上がる!?
───浅はかな信念とやらか。所詮は耳障りのいい戯言、ただの自己正当化に過ぎない!
───なのに何故立ち上がれる! お前が間違っているということはお前が一番知っているはずだ、だからお前はもうその右手を伸ばすな!
───諦めろ、お前はもう何も為せはしない! 大人しく生きながらに死んでいればそれでいいんだ!
「そんなの決まってる」
意識が目覚めたその時から、脳内で囁きかけてきた何者かの声を、友奈は振り払う。
死んだ者は生き返らない。失ったものは戻らない。
例えこの先、友奈がどれほどの偉業を成し遂げても、どれだけの人を救おうとも。
私の罪は決して消えない。この心に刻まれた痛みもなくならない。
けど、それでも。
それでも、罪も痛みも全て背負って、私は私に助けられる人を助けに行く。
罪を償うためじゃない。その死を無駄にしないだなどと、悟った風なことのためでもない。
ただ、心を痛ませ、目に涙を浮かべる友達一人助けられずに諦めるだなんて。
そんなのは勇者なんかじゃないと、そう思った。
それだけなのだ。
「東郷さん、私は……!」
「いやぁ!」
右頬のすぐ近くを、青い魔力の光条が掠める。
構わず、二歩目を刻む。
今度は、左足の傍。
それでも、足を止めない。
「来ないで!」
悲鳴混じりの攻撃が右腕を浅く薙ぎ、手首の少し上あたりが真っ赤に爛れる。
痛い。
痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い───!
本当に痛くて、泣き出しそうになって、今すぐその場に蹲ってしまいたかった。
……ダメだ。
東郷さんが苦しんでいるのに、自分だけ痛がるなんて、そんなの絶対ダメだ。
痛みのあまり、悲鳴を上げそうになる。
それでも、歯を食いしばって、歩き続けた。
彼女の銃弾が当たるわけないと、思ったわけではない。
彼女に自分を殺せるはずがない、なんて都合の良いことを考えたわけでもない。
ただ。
友達が苦しんでいるなら、それを助けたいと思った。
自分と同じグチャグチャの霊基になった彼女。
そんな彼女が、仮に自分を殺すことで救われるというなら、それでもいいと思った。
それは、自分が助けてあげられなかった彼女の持つ、正当な権利だと思った。
一歩、また一歩、友奈は歩き続け。
気が付けば、東郷美森のすぐ目の前まで辿りついていた。
「あ……」
弱弱しい、彼女の声。
静かに振り上げられた友奈の手に、彼女は反射的に目を瞑る。
けれど、予想していた衝撃がいつまでも来ないことに戸惑い、そっと瞼を開けて。
「……ごめんね」
そっと、頭を抱き寄せられた。
小さく呟かれるのは、東郷と同じくらい弱弱しい、謝罪の声。
「こんなはずじゃ、なかったんだ……」
それだけのことが、ようやく言えた。
「……え?」
呆けたように友奈の顔を見上げる東郷。
「東郷さん、私もね……。取り返しのつかないことをしちゃったんだ。
大勢の人を死なせて……馬鹿だね、私……」
美森がバーテックスを呼び寄せ鎌倉市民を虐殺したのと同じように。
友奈もまた、屍食鬼と化したマスターを放置し感染を拡大させた。
だから友奈には、美森を否定し殴りつける権利などない。それは誰かが行わなければならない罰ではあったが、少なくとも友奈の役目ではない。
だから、かつての時とは違い。
友奈はただ、美森を抱きしめることしかできなかった。
「だから私は何もできない。東郷さんを"めっ"てしてあげることも、東郷さんを許してあげることも、私には……
でも、でもね……」
抱きしめるその手に、力がこもり。
「それでも東郷さんには、こんな私みたいになんか、なってほしくなかったんだ……」
それはたったひとつの、心よりの想い。
美森の体がふわりと崩れ、友奈にもたれる格好になる。小さな両腕が友奈の背中に回され、顔が胸に押し当てられる。
そのまま暫く、二人とも動けなかった。
「わた、し……」
そして、高みにて嘲笑う者の目論みは、ここに外れを見る。
「わたし、は……」
彼らは忘却していた。如何にその魂を玩弄し、心を改変し、時系列を入れ替えようとも。
東郷美森は既に、"世界より与えられた宿業を乗り越えている"のだということを。
故にこれは───
「───友奈、ちゃん……」
「……うん」
……目の前が、くしゃりと歪んだ。
瞳の奥から涙が溢れだし、それはたちまち頬を伝って流れ落ちた。
友奈も、美森も、二人は共にその目に雫を浮かべていた。
そして友奈は、その小さな背中を優しく抱き寄せる。
「友奈ちゃん……友奈ちゃん、友奈ちゃん、友奈ちゃん!」
「うん、うん! 私はここにいるよ。だからもう大丈夫、もう全部終わったから……」
「ごめ、ごめんなさい……! わたし、あなたのことを忘れて……こんな、こんなひどいこと……!
あぁ、うぁ、ぁぁああああああ……!」
「ううん、いいの。東郷さんが私のことを思い出してくれた、今はそれだけで十分」
頬を涙でぐちゃぐちゃに濡らしたまま、二人は互いの存在を確かめるように、その体をかき抱いた。
英雄でも勇者でもなく、ただの二人の少女として。
東郷美森と結城友奈は、溢れ出る感情が尽きるまで、ただ涙を流し続けるのだった。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.4】
「あ、これは……」
「……」
「……特定の記憶を呼び覚ましてくれる、そういうものってあると思う」
「たとえば、音や香りとか」
「もっと具体的に言うなら。
シューマンと消毒液の香り。
白い部屋、大きな図鑑、ゆりかご。
くすんだぬいぐるみ。
色褪せた絵本」
「シューマンを聞けば、消毒液のツンとした匂いが蘇るし、
白く清潔な病室のイメージを呼び起こす」
「消毒液の香りを嗅ぐ時はその逆。
この二つは僕の中で密接している」
「それは単に、僕が幼いころ入院していた病院の待合室や病室が、そういう内装をしていた。
それだけの話だけど」
「けれど。
なんだかそれが、それを思い起こされることが。
ひどく尊いものに思えて仕方がないんだ」
「そして、例えば君が。
何かを聞いて、何かを嗅いで、もし僕達のことを思い出すことがあれば」
「それはとても幸せなことだと」
「今、そう思ったんだ」
▼ ▼ ▼
見るも痛々しい傷口にそっと手のひらをあて、少しずつ魔力を流し込んでいく。全神経を手先に集中させ、間違っても皮や肉を引き攣らせないように。慎重に、慎重に、そぉっと、そぉ──────っと……
「あの……東郷さん、そんなに丁寧にしなくても」
「友奈ちゃんは動いちゃダメ!」
友奈の言葉をぴしゃりと遮り、美森は過剰にも過少にもならない適切な量を調整しながら魔力の注入を続ける。大体これくらいかな、というところで恐る恐る手をどけてみると、その下には透き通るくらい白い肌。あれほど深かった銃創はすっかり治っている。傷もなければ赤痣にもなっていない。
「良かった……これで治らなかったら腹を召して詫びるしかなかったわ」
いやそこまでは、と返す友奈を後目にほっと一息。柔らかな二の腕を指先でぷにぷにと突っつく。
「でも、綺麗に治せて本当に良かったわ。サーヴァントの体の便利さに助けられたというのはあるけど……」
そこで、美森は一旦言いよどみ。
「友奈ちゃんの自力じゃ治せないのは、ちょっと……ううん、大分困るわね」
「そう、だね……」
友奈は頷き、元通りになった腕を撫でて。
「今の私は、魔力を全然使えないから……その分、少ない魔力でもこうして元通りにできるんだけど」
「そうね……」
呟き、肌から手を離す。改めて友奈と真っ直ぐ向き合うと、自然と顔が俯き加減になってしまう。
「……本当に、ごめんなさい」
もう何度目かも分からない謝罪の言葉。銃で撃ってしまったことだけじゃない。彼女には、いくら謝っても謝りきれない。
「東郷さん……」
困ったかのような友奈の声。上目使いに顔色をうかがうと、友奈は優しい笑みを浮かべている。
さっきまでは「謝らないで」「私が悪いの」といちいち反論していたのだが、それでもひたすら謝り続ける美森にとうとう根負けしたのか、今は大人しく謝られてくれてる。
見るも痛々しい傷口にそっと手のひらをあて、少しずつ魔力を流し込んでいく。全神経を手先に集中させ、間違っても皮や肉を引き攣らせないように。慎重に、慎重に、そぉっと、そぉ──────っと……
「あの……東郷さん、そんなに丁寧にしなくても」
「友奈ちゃんは動いちゃダメ!」
友奈の言葉をぴしゃりと遮り、美森は過剰にも過少にもならない適切な量を調整しながら魔力の注入を続ける。大体これくらいかな、というところで恐る恐る手をどけてみると、その下には透き通るくらい白い肌。あれほど深かった銃創はすっかり治っている。傷もなければ赤痣にもなっていない。
「良かった……これで治らなかったら腹を召して詫びるしかなかったわ」
いやそこまでは、と返す友奈を後目にほっと一息。柔らかな二の腕を指先でぷにぷにと突っつく。
「でも、綺麗に治せて本当に良かったわ。サーヴァントの体の便利さに助けられたというのはあるけど……」
そこで、美森は一旦言いよどみ。
「友奈ちゃんの自力じゃ治せないのは、ちょっと……ううん、大分困るわね」
「そう、だね……」
友奈は頷き、元通りになった腕を撫でて。
「今の私は、魔力を全然使えないから……その分、少ない魔力でもこうして元通りにできるんだけど」
「そうね……」
呟き、肌から手を離す。改めて友奈と真っ直ぐ向き合うと、自然と顔が俯き加減になってしまう。
「……本当に、ごめんなさい」
もう何度目かも分からない謝罪の言葉。銃で撃ってしまったことだけじゃない。彼女には、いくら謝っても謝りきれない。
「東郷さん……」
困ったかのような友奈の声。上目使いに顔色をうかがうと、友奈は優しい笑みを浮かべている。
さっきまでは「謝らないで」「私が悪いの」といちいち反論していたのだが、それでもひたすら謝り続ける美森にとうとう根負けしたのか、今は大人しく謝られてくれてる。
「ほら、東郷さん。私はいいから……ね?」
「……うん」
頷いた勢いで顔を上げ、ぎこちなく笑ってみせる。そして友奈の脇に眠る、もう一人の少女へと顔を向ける。
「すばるちゃんも、無事で良かった」
愛おしげな、美森の笑み。
本当に心から安堵しているその表情を見て、友奈もまた心が暖かくなるようだった。
すばるという名の少女は、驚くべきことに元々は美森のマスターだったらしい。
彼女は聖杯戦争への参加を拒み、人殺しを厭い、誰も傷つけることなく元の居場所に帰ることを望む心優しい女の子だと、美森は我が事のように嬉しげに語ってくれた。
何の因果か運命のいたずらか、こうして三人は一つ所に集うことができて。
「……ねえ、友奈ちゃん。聞いてくれる?」
「うん」
「私……私ね、すばるちゃんを帰してあげたい。
この子の大切な男の子は死んでしまって、それでも生きることを諦めなかったすばるちゃんを……
私は、死なせたくない……!」
「うん……うん」
「おかしいわよね、今さら私がこんなこと言うなんて。
言える資格、ないのに……こんな私が……」
「それは違うよ、東郷さん」
それは断定的な否定の言葉。
伏せがちであった美森の顔が上げられ、そこには力強い意思の込められた友奈の瞳が見えた。
「私思うんだ、誰かを助けることに理由なんかいらないって。
だから私は東郷さんを助けようと思ったし、それは東郷さんだって同じなんだよ。
資格や理由がどうとか、そんなの全然関係ない」
そこで、友奈は朗らかに微笑んで。
「だって、それが勇者部だったでしょ?」
そう言ってのけた。
「……そうね。ええ、確かにその通りよ」
美森は一旦目を伏せ、しかし何かを決意したように顔を上げる。
そこにはもう、暗い影は少しも落ちてはいなくて。
「私はすばるちゃんを救いたい。私を友達と言ってくれた、この子を絶対死なせない。
だから友奈ちゃん───お願いします、あなたと一緒に戦わせてちょうだい」
「もちろんだよ! ありがとう、東郷さん!」
手と手を取り合い、どちらからともなく笑い合う。そこには何のわだかまりも無かった。
ああ、ようやく自分はこの笑顔を取り戻せたのだ。
心の中だけで、彼女らは互いにそう噛みしめていた。
「でも、最後にはきちんと責任を取るつもりよ。操られていたとはいえ、これだけのことを仕出かしてしまったのは事実。
聖杯戦争が終わればどの道消えるしかないサーヴァントの身で、どこまで償えるかは分からないけれど」
「そう、だね。私も東郷さんと同じ心算。でもそれまでは……」
「それまでは、できるだけみんなを助けたい。ええ、分かってる」
そうと決まった以上ぐずぐずしていられない。二人は立ち上がり、すばるの体を抱える。
「まず仲間が欲しいわね……私に一人心当たりがあるのだけど、友奈ちゃんは?」
「……私も何人かは。でも私、酷いことして、もう一度協力してくれるかは……」
「構わないから言ってちょうだい。この状況で協力者は少しでも欲しいから。
それで、私の心当たりは……」
そうして二人は情報交換し、アイ・アスティンとセイバーの主従が互いの知己であったことに驚き、またキーアと騎士のセイバーや辰宮百合香というマスターの存在を確認した。
「推定ではあるけど、残存主従から言ってこれだけ味方がいれば心強いという他ないけど……」
「ご、ごめんね。私が余計なことしちゃったせいで、合流できないかもしれなくて」
「ううん、大丈夫。アイちゃんとセイバーには、私からも謝っておくから。そうね、あとは」
と、そこで言葉を切り、美森は難しい顔をして。
「友奈ちゃん、歩きながらでもいいから聞いてほしいの。
私が再召喚された理由、それを行った人物について」
「東郷さん、それって……」
「私にも詳しいことは分からない。分からないままに心を縛られ、鎌倉の街に降ろされたから。
けど、これはきっと彼らを打ち破るための鍵になるはず。どれだけ微かな手がかりでも、その中核を担っているのは間違いない」
彼女が何を言わんとしているのか、友奈にも理解できた。
一度は霊核を破壊され退場したという美森、そんな彼女が何故再召喚されたのかという疑問。
失っていた記憶、反転した性質、マスターもなしに現界を続けていられる理由。
それだけの規格外と異常性を発揮できる者など、想像ですら限られる。
つまり、彼女は───
「私を使役していたのは、裁定者」
彼女の有り様とは。
「未だ舞台に姿を見せないルーラーのサーヴァント、そのマスターよ」
その事実が、友奈に告げられた。
その瞬間だった。
最後の最期まで、二人は"それ"に気付かなかった。
夜闇の向こうに、こちらを伺うかのような視線があることに気付かなかった。
その瞳が殺意に塗れていることにも気付かなかったし、伸ばされた蜘蛛糸が鎌首をもたげ三人を狙っていることにも気付かなかった。
何もかもが突然だった。
美森が「友奈ちゃん!」と叫んだ。
体当たりするようにして、友奈と彼女が抱きかかえたすばるの体を突き飛ばした。
友奈が呆けた顔で、地面に倒れ込んだ。
転げるすばるに気を取られて、ようやく事態に気付いた時には全てが遅かった。
───細い刃の糸が、美森の霊核を正確に貫いていた。
投下を終了します。後編はそのうち投下します
後編を投下します
【青空の詩編:Chapter.5】
「【止まない雨の中】
【翳りゆく世界はどうしようもなく】
【進路も退路も塞がれた道の中で】」
「【時間稼ぎと消費された時間】
【積もりゆく感情】
【神の死に絶えた背徳の地】
【あるいは我が愛の終焉たる、封印都市の境界にて】」
「……」
「そうやって創り出された諦めのような結末は、
退廃的でとても美しいものだった」
「そう。
それ以下でも、
それ以上でもなく、
ただ美しかった」
「……。
それが幸せかどうかは、人次第だけど」
「無限が有限になる喜びは、
無限を経たものにしかわからない。
ある種当然なのだろうけど」
「少なくとも、そう少なくとも。
彼女にとって、それは一つの救いだったんだろう」
「もう、すぐに……」
「【晴れわたる空の中】
【光溢れる世界はどうしようもなく】
【進路も退路も塞がれた道の中で】」
「【時間稼ぎと消費された時間】
【積もりゆく感情】
【始原の海と黄昏の渚】
【あるいは我が愛の終焉たる、遥かな時の残骸にて】」
「それらが、結末を創り出す」
「……僕が見たい空は、どんな……」
▼ ▼ ▼
「貴方たちにオススメの部活は他にあるわ」
それは中学校に上がったばかりの頃。入部する部活を決めようと色々見学している時のことだった。
チアリーディング部の勧誘はどうするの? 押し花部があったら入ったんだけどなー、そんなのあるわけないでしょ、そういう東郷さんは?
そんなことを話しながら廊下を歩いている時、突然話し掛けられて振り返れば、そこにはやたら得意げな表情をした女の子がひとり。胸を張り堂々とした姿勢で、チラシ片手にふんぞり返っていた。
はて。
会ったことない人だが、どこのどちら様だろう?
「貴方たちにオススメの部活は他にあるわ!」
「な、何故二回も……」
しかもドヤ顔である。
「どちらの勧誘なんですか?」
「私は2年の犬吠崎風。勇者部の部長よ」
「勇者部……?」
突然自己紹介をしてきたこの先輩は、どうやら勇者部という部活の勧誘に来たらしい。
うん、聞いたことも見たこともない名前だ。有体に言って胡散臭い。
「なんですかそれ……
とってもワクワクする響きです!」
「えぇ!?」
と思ってたのは自分だけだったらしい。
友奈ちゃんはそれはもうキラキラした目で食い付いて、あれ、こんな友奈ちゃん今まで見たことがないかも。
あれ……あれぇ?
「あっ分かる? フィーリング合うねぇ。
勇者部の活動は世の為人の為になることをやっていくこと。各種部活の助っ人とか、ボランティア活動とか」
「世の為人の為になることー」
「うん、神樹様の素敵な教えよね。と言ってもあたしらの年ごろはなんかそういうことしたいけど恥ずかしいって気持ちあるじゃない?
そこを恥ずかしがらず勇んでやってくから勇者部!」
「……なるほど。敢えて勇者という外連味のある言葉を使いみんなの興味を引くことで存在感を確立しているのね」
「あ、いや、そこまで深く考えてないって」
初見のインパクトは強いけど、つまりボランティア部に近い活動内容……と納得したところで、隣の友奈ちゃんが「ほわー」という表情になってるのに気付いた。
「私憧れてたんですよね、勇者って言葉の響きに。格好良いなぁって……!」
「その気持ちがあれば、君も勇者だ!」
「おぉー! 勇者ー!」
「凄いところに食いつくのね……けど」
手渡されたチラシを見る。そこに書かれた内容は、どれも人の為となる暖かなもので。
「なんだか友奈ちゃんらしい」
そんなことを、思ったのだ。
…………。
そう、始まりはそんな小さな出来事だった。
私たちは子供たちのためにお芝居をしてみたり、老人ホームにお手伝いに入ったり、川辺のゴミ拾いをしたり、迷子になった飼い猫を探したりと勇者部の日々を送った。
それはなんてことないありふれた日常の風景で、何ら特別なことなどなかったとしても。
私にとって大切な、一番の思い出だった。
そうだ。
私たちにとって勇者とは、剣を携え戦場を往く武士や英雄などではなく、
人のためになることを勇んでやっていく、そんなごく普通の人間としての在り方だった。
何の因果か本当に神樹の勇者としての力を得て、世界を犯すバーテックスと戦うことになっても、それだけは変わらなかった。
友奈ちゃんは何も変わらない。誰かのために、みんなのために、ほんの少しだけ勇敢になれる優しくて暖かい友奈ちゃんは。
彼女は最後まで、本当の勇者だった。
………。
……。
…。
────────────────────────────────────。
「東郷さん!」
美森の体をすばるごと抱きかかえて、友奈は思い切り横合いへ転がり込んだ。
勢い余ってバランスを崩し、腕の中の二人を庇う形で、背中を地面に強かに打ち付けてしまう。痛みを堪えて起き上がり、固まる表情のまま周囲に目を凝らす。
隣には美森の荒い吐息。誰もいないはずの夜の闇、そして静寂。
だが違う。襲撃者は確かに存在する。今まさに友奈たちを狙い、そして美森を傷つけた誰か。
そして友奈には覚えがあった。遠距離を駆け抜ける攻撃、白い糸、卑劣な行いも良しとする精神性。
それは……
「良いところにいやがったなァ、ガキども」
忘れるはずもない、その声。
およそ英雄のものとは思えない我欲と悪徳の気配に満ちた声。
品定めするように睨め回し、こちらの怒りや焦燥を掻き立てるかのように響く。
それは───
それは、紛れもなく───
「天夜叉の、ライダー……!」
恐慌と焦燥と、そして負に属するあらゆる感情が入り混じった視線で見上げる先。
そこには見るも無残に焼け爛れて、それでも覇気を失わない瞳を湛えた大男が、不敵な笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇
「フフフッ、フッフッフ……!
随分とまあ見物なザマァしてるじゃねェかランサー、いや今は"ロストマン"かァ?
悪運の強い女だなてめェは! ───しかし」
せせら笑う大男はライダー・ドフラミンゴのものだ。彼は悠然と、余裕の表情で三人を見下ろしている。
その指先から煌めく白糸が美森の胸に向かって真っすぐに伸びている。それこそがたった今友奈たちを狙い、そして二人を庇った美森を貫いた致死の攻撃であるのか。
今この場に戦える者は美森ひとりしかいない。故に彼女を無力化した現在、抗し得る者はなしと余裕の笑みを浮かべているのだ。
そしてその嘲笑は更に深みを増して。
「まさかてめェが生きてるとはなァ! 見たところそいつはてめェのご同輩か、揃いも揃って単純で助かるぜ。
てめェもそいつも"自分以外"を狙われると途端にでけェ隙晒しやがる! 俺としちゃァ楽でいいが拍子抜けもいいトコだよなァ!?」
嘲笑が夜空に響き渡る。それを前に、友奈は無言で立ち上がり、
静かに、美森たちを庇うように、前へと歩み出た。
「行かせない」
「ほう?」
「東郷さんたちは、絶対に死なせない!」
「フ───フフッ、フフフッ! おいおいてめェそれはマジで言ってんのか!?
何の力もねェてめェが!? 俺を阻むと!? フフフフフッ、泣かせる話じゃねェかよ!
弱者共が群れ合って、お涙頂戴の友情ゴッコと洒落込むわけか!
この危機感のなさ! くだらねェ、てめェら揃ってよくここまで生きてこられたなァ!」
心底から愉快と言うように、大仰に膝を叩き哄笑する。
対照的に、友奈は真剣そのものな瞳で、両手を大きく広げ立ちふさがる。
「なァロストマンよ、てめェのことはこれでも結構買ってるんだ。
今までどれだけの危機があった? 誰もがてめェを敵と認識し、誰もがてめェを潰そうとしてきた。その状況でよく多くの仲間を得たものだ、ああ素直に褒めてやるよ。
その"悪運"と"特殊な力"には一目置いていた。マスターを失ってなお生き延びた今は尚更な……!」
だが、と彼は続けて。
「とうの本人はこの間抜けさだ! あるいは卓越した演技詐術の類かとも考えた時期があったが、てめェは芯から能天気な阿呆だったらしい!
とんだ腑抜けだ、くだらねェ! だからこんなつまらねェ死に方をする!」
瞬間、脇腹に奔る凄まじい衝撃、次いで熱量。
カハッ、と苦悶の吐息を漏らせば、そこには少なくない喀血がまき散らされる。
見なくても分かる、今自分は脇腹を射抜かれたのだ。
まるで動きが見えなかった。これがサーヴァントと常人の反応差なのかと、そんな考えが痛みに煙る頭に過る。
けれど、そんなことはどうでもよくて。
友奈は激痛にもつれる舌を、それでも懸命に動かした。
「ま、マスターを……」
「あァ?」
「マスターを、殺したのは……やっぱり」
「あァそうさ! むしろ俺以外に誰がいるんだ、あんなチンケな死にぞこないをぶっ殺してやるのは!
感謝しろよロストマン! この街に巣食う病原を、てめェの代わりに俺が駆除してやったんだ!
節操なしにビョーキをばら撒く人型の汚物! この街の連中を殺しまわった薄汚ェ化け物を、何もしなかったてめェの代わりに俺がな!」
だから、と言葉は続く。
「礼代わりだ、てめェらの魂を俺に食わせろ……!
どうせ先のねェてめェらだ、未来あるこの俺の糧になれるなら本望だろ。なァロストマンよ!」
ああ、そうかと理解する。確かに言われてみれば、哄笑するライダーの身なりは酷いものだ。
全身が焼け爛れ、かつては豪奢だった服もボロボロ。至るところから煙が噴き出し、赤く染まった肌は血によるものか火傷なのか分からないくらい。それでも全く痛みや苦しみを出さないところに妄執めいた執念を感じさせた。
つまり彼は、そうした損傷を補うための魔力を欲しているのだ。恐らくマスター……あの綺麗な少年から供給される魔力も令呪の行使も期待できないのだろう。あるいは強敵を前に一時撤退したのか、その先に自分達はいたというわけだ。
なんて分かりやすい。治癒に必要な活力を得るために弱肉を食らう強者、自分たちはその餌。前口上がやたら長いのは、絶対に負けないという自負の現れか。
悔しいがそれは的を射ている。彼を撃退するための方策は何も残されていない。
けど、それでも。
「そんなの、絶対お断り!」
それでも、私はもう逃げないと決めた。
東郷さんも、すばるちゃんも。友達もマスターも、もう二度とその手を離さないと誓ったから!
「絶対に退かない! だって私は、今度こそ勇者になるんだから!」
「だったらその幼稚な考えと一緒に死ね!」
振り上げられる右手。その指に煌めく糸の刃。
目前に迫る死の具現に、それでも目を閉じてやるもんかと必死に睨めつけて───
「───ぐ、うぅ」
弾ける銃声が、闇夜を切り裂いた。
ライダーの動きが止まる。彼は腹を抑えるようにして、そのまま前のめりに地面に倒れた。
しぃーん……と辺りが静かになる。友奈はまさかと、後ろを振り返り。
「……東郷、さん」
「友奈ちゃん……大丈夫、だった……?」
そこには、這う這うの体で拳銃を構える美森の姿があった。
御幣でようやく体勢を整え、必死に銃を構えたであろう彼女。今は腕からも力が抜け、荒い息だけがそこらに木霊している。
「東郷さん!」
「友奈ちゃん、すばるちゃんを連れて逃げて……私は……」
「ううん、そうじゃなくて!}
友奈は美森の肩を抱きかかえ、その体を支えるようにして。
「油断しちゃダメ! まだあいつは倒れてない!」
「ご明察」
突如として背後から聞こえた声に、美森は何とか反応する。
銃弾で貫かれ掻き消える影、しかし次々と出現する気配が友奈たちを取り囲む。
遠巻きにぐるりと囲むサーヴァント、およそ32体。その全てがライダーであり、彼の操る精巧な分身。
「影騎糸(ブラックナイト)───フフフ、どうやら覚えていてくれたようだな。
こいつら全部が俺であり、てめェらサーヴァントを殺傷できる尖兵たる存在。魔力消費も少ねェから殺しきることはほぼ不可能!
そして」
「ッ!」
抜き打ちで放った拳銃弾が、影騎糸の一体に直撃した。
はずだったのだが。
「"武装色"。もうてめェの攻撃は通用しねェよ。霊核に罅入って劣化でもしたか?
まァ少なくともその3倍程度は持ってこねェとな、話にならねェよ」
黒色化した腕に阻まれ、蒼白の魔力弾が弾かれ霧散する。
友奈の表情に、僅かに浮かぶ絶望の色。
「東郷さん……」
「友奈ちゃん、もう……」
「"逃げて"」
え、と思った時には、既に友奈は立ち上がっていた。
脇腹に深い傷を負い、もう立っていられないであろう量の出血まであって。
「もう分かっただろう」「だから早く逃げて」と言おうとした美森に先んじて、彼女はその言葉を言ったのだ。
「ここは、私が何とかするから」
「何とかって……そんな」
「無茶だよね。分かってるよ。でも、そうしないといけないって、私思うんだ」
友奈の手は、震えていた。
出血と痛みと、そして恐怖に。彼女は決して死を恐れぬ勇敢で無謀な戦士などではなく、本当にちっぽけな見た目通りの女の子でしかなくて。
「───友奈ちゃん」
だからこそ、彼女は誰より強い"勇者"なのだと。
そう、思ったから。
「下がって。そこにいると危ないから」
「東郷……」
さん、と言いかけた友奈の目の前で、美森の背が文字通りに弾けた。
言葉を失う友奈を後目に、歪な肉の触手めいたものがずるりと伸び上がっていく。
それは剥き出しの筋線維そのままに、先端にはギロチンめいた大振りの刃を備えて。
「《安らかなる死の吐息》。今はありがたく使わせてもらうわ、いいでしょう《西方の魔女》!」
そのまま、移動補助の御幣が地を蹴り上げたのだった。
◇ ◇ ◇
闇を引き裂くかのように、暗緑色の刃が虚空を寸断して奔った。
決意と共に煌めく一閃───吹き荒ぶは死の颶風。
音と殺意すら完全に追い越し影騎糸へと迫る鎌鼬は美森が現出させた"第三の腕"によるもの。そこだけが独立して駆動する全く別種の存在であるかのように、サーヴァントとしての美森の敏捷など何倍も凌駕する速度で振るわれた刃が影騎糸たちを纏めて断割する。
「これは───!」
視認不可能。捕捉不可能。故に当然、対応は不可能。
刃が仮初の肉へと食い込み、切り裂き、白き糸の血華を中空に咲かせる。
周囲の影騎糸たちが驚愕の声を上げられたことさえ、両者の敏捷差を鑑みれば奇跡に等しい。現状、美森から生える第三の腕はサーヴァントステータスにしてA++に相当する速度を有している。ドフラミンゴが反応できたのは条件反射の賜物、遥か遠きグランドラインで培った経験則によるものか。
「しッ!」
更に振るわれる三連撃。鞭のようにしなる腕が周囲を薙ぎ、その度に切断された影騎糸が空中を舞う。
繰り出されるは我武者羅な連撃。そこに技の妙もなく、ただ必死な少女の叫びと祈りだけが込められる。
だが内包する力の総量が圧倒的だ。これはただの一本だけで、勇者システムにおける満開にも匹敵する魔力を有する。幾重にも展開される死の旋風が、触れるもの全てを切り裂き塵と散らす。
これこそは《奪われた者》として唯一与えられた欺瞞なりし殺戮の権能《安らかなる死の吐息》。
失血死を司る鋼の力であり、遍く生者を死に至らしめる安らぎの息吹なれば。
不条理の具現なれどもその中の条理に縛られたサーヴァントでは抵抗すら叶うまい。事実として見るがいい、この一方的な殺戮を。
ドフラミンゴが一度反応する間に、美森の腕は五つ以上の斬撃を見舞っている。あれほど存在した影騎糸の数々、今やその数を急速に減らして。
「死に晒せ!」
瞬間、影騎糸の影に紛れるように無拍子で放たれた弾糸が、音速に迫る勢いで飛来した。
その数およそ73、一人ではなく全方位から包み込むようにして飛来する。
「くっ!」
だがしかし、旋回する腕はそれすら悉くを弾き飛ばす。射程圏に侵入した弾丸の全て、円形上に火花を散らし撃ち落とされる。
それはまるで刃による結界であった。僅かでもその領域に立ち入れば、即座に切り裂かれる死の結界。
けれど。
「おおよそ見えたぜ」
「ッ!?」
全方位射撃を切り抜けたその瞬間、美森は身を屈めて背後からの一閃を辛うじて回避する。
最初の包囲網は囮であり二の太刀であるこれが本命。極限まで圧縮された斬閃の波濤が刃の腕をすり抜けて美森に迫る。
今は何とか切り抜けはした。だが、それでも。
「てめェの手品の種は割れた。その気色悪ィ腕、どうもてめェ自身が操ってるわけじゃねェらしい。つまり」
「うぁ!?」
斜めに描かれた袈裟の一閃と、十字に重ねる糸の軌跡。全くの別方向から繰り出されたその攻撃に、刃の腕は自動的に反応して迎撃する。
だがそれは影騎糸による目晦まし。どれだけやられようとドフラミンゴの手は傷まず、ただ悪戯に行動を浪費したのみ。
つまりは意図的に射線をこじ開けられた。如何な敏捷性を持てど、どのような軌跡を描くか最初から分かっているならいくらでも対処が可能。
全くの無防備となった懐にドフラミンゴの体がするりと滑り込み、蹴り上げた膝が的確に美森の顎を跳ね上げた。
瞬間、横合いからの斬撃を受けるがもう遅い。足を振り上げた姿勢のまま切り裂かれる影騎糸に続き、左右から挟撃する二人のドフラミンゴが糸に光る手のひらを鉤爪のように閃かせた。
五色糸(ゴシキート)。ドフラミンゴが専ら使用する近接戦闘用の術技。身を屈め滑り込んだ左右の二人は逆手の銀爪を奔らせて、一瞬にして美森の全身を切り刻む。
「が、ハァッ!?」
手首足首頭部に心臓、それだけの急所だけを避けて、けれどそれ以外の全身に多大な傷を刻みながら、美森は鮮血と共に吹き飛ぶ。
中空にて何とか姿勢を整え、辛うじて着地に成功。戦闘開始当初の位置である友奈の傍まで戻されながら、油断なくドフラミンゴを見据える。
「結局のところ、思考がてんでバラバラで連携も糞もねェ。ついでに言えばてめェ自身はとんだノロマ、となればその腕さえ押さえこめばあとはこっちのもの。
分かりやすいなァおい! その秘策とやらにゃ驚いたが、てめェが弱けりゃ詮無ェわな!」
ドフラミンゴの言葉に美森は臍を噛む。彼の言葉が正しいというのもあるが、そもそも今の美森は全く全力を出すことができていない。
忘却の呪詛というスキルがある。
それは美森が性質を反転され《奪われた者》としての宿業を刻まれた時に与えられたスキルであり、Aランクのスキル付与がなければ反転した彼女はその状態で十全な戦闘能力を確保できない。
翻って現状はどうか。彼女に課された忘却の呪詛は既に解かれている。在りし日の約束、大切な友誼、その全てを美森は思い出し、その輝きを守らんとするために戦っている。
勇者としての強さを思い出した美森は、皮肉にもそれが故に十全の戦闘能力を発揮することができない。身のこなしは元より単純な出力に至るまで低下している。先ほど影騎糸の武装色を貫通できなかったのはそれが理由だ。
唯一、美森由来の力ではない《安らかなる死の吐息》だけはその力を十分に揮うことができるのだが。
「この程度!」
その程度だと美森自身自覚しながら───しかし同時に戦況を覆すべく刃を揮う。
四方八方より繰り出されるドフラミンゴの波状攻撃。閃光の檻をこじ開け、弾糸の雨を弾き飛ばす。
少しでも活路を拓こうと前進し、背後の友奈たちを狙った攻撃に転換を余儀なくされる。
非戦闘員を標的にした攻撃。手癖の悪さを活かした卑劣とも言うべき戦法だが、しかし戦場たるこの場所で不平不満を言える立場にはない。
最大速度で放たれる数多の攻撃、その中に混じるフェイントめいてタイミングがずらされた急制動の攻撃。錯覚の誘導を引き起こされ、集団戦に慣れ始めたこちらの感覚を狂わされる。直線と円を交えた動きが撹乱となって、こちらのミスを誘発させる。
一つ、しくじれば腕が斬りつけられ。
二つ、しくじれば盛大に肌を削がれる。
ひたすらこちらの心が乱れるように、手間取るように、苦しむように。
そんな声が聞こえてくるかのような、身を削ぐ嫌らしい攻撃の数々。
一合ごとにどこかが斬られる。
更に一合交われば、大量の鮮血が宙を舞う。
今や美森は死に体も同然であった。彼女の刃は的確に敵の軍勢を駆逐しつつあるも、影騎糸は無尽蔵に湧き出でる。そのどれが本体かも判別する術はなく、美森は悪戯に消耗を繰り返すのみ。
活路は見えない。
限界は近い。
既に意識は朦朧とし、霞む視界は碌に物を映してはくれない。
「それでも!」
それでも、美森は倒れない。
霊核は傷つき、致死量にも近い血を失い、それでも彼女は膝を屈しない。
何故か?
後ろに守るべき誰かがいるから。その通りだ。
けれどそれ以上に、いやそもそも小難しい理屈とかを全部無視して言うならば。
「それでも、私は勇者だから!」
東郷美森は勇者であるから。
「友達を、絶対死なせはしない!」
それは友奈がドフラミンゴに言ってのけたことと、全く同じことで。
「いい加減ウザッテェんだよ、てめェは」
だからこそ、その次に起こることもまた、友奈と全く同じだった。
振るわれる刃の腕が、無数の糸により雁字搦めに捕縛される。動きを止められたその瞬間、四方より襲い来るドフラミンゴの五色糸が、今度こそ致命的に美森の全身を引き裂いた。
悲鳴はなかった。
ただ、肉を裂く音と血の臭いだけが辺りを満たした。
ただ、力及ばず倒れる無念と。
こちらを見て泣き叫ぶ友達の姿が、なんだか妙に悲しかった。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.6】
「もう終わりの時間だ」
「すばる。君の持つ物語が再び紡がれる時だ」
「星宙を駆ける君の物語と、君が付き添うべき勇者の章」
「たとえその先に待ち受けるものが何であろうとも」
「君は───」
▼ ▼ ▼
真横になった地面が、視界の半分を埋め尽くす。
既に遠い耳が、下品な高笑いを鼓膜に伝える。
ああ、私は───
負けたのか。あの男に。
負けたくはなかった。自分がいなくなれば、戦う力を持たない友奈たちは抗せず死んでしまうから。
この期に及んで、自分は奇跡など信じていない。それがあれば自分も友奈も、こうして英霊になどなってはいないから。
どれだけ真摯に祈っても、その声は届かない。
奇跡は起きない。
神さまなんてどこにもいない。
目に映るのは、血だまりに沈む自分と、無力なだけの腕と。
そして───
「……え?」
ざっ、と。
隣に歩み寄る誰かがいた。誰だ、分からない。この状況でここまで歩ける者、いるはずなど。
いや、いいや。いた。ひとりだけ。けれどそんなの、あり得るはずが。
戦う力を持たない彼女が、すばるを連れて逃げていなくてはならない彼女が、こんな近くに来ていいわけが。
あるはずないと、いうのに。
「友奈、ちゃん……」
「大丈夫」
そっと手を握ってくれる彼女は、泣きたくなるほど暖かくて、どうしようもなく優しかった。
見上げた視界に彼女の笑顔が映る。怖いはずなのに、戦う力もないのに、それでも友奈ちゃんは大丈夫だよと言うように笑顔でいて。
「駄目……!」
だから私は、そう叫ぶ。
駄目、駄目なのだ。ここで立ち向かっては死んでしまう。
それが現実なのだ。勇気や希望などという精神論で覆せるような実力差ではない。
逃げてほしいと心が叫ぶ。けれど現実に口は震えるばかりで、僅かな力で手が伸ばされるけど。
その手は決して、届くことはなく───
「大丈夫」
恐れを見せない笑みで言って、けれどそれが嘘であることは自分が一番分かっている。
駄目と叫ぶ東郷さんの気持ちが分かる。彼女と同じ立場なら、きっと自分もそう言ってるから。
でも駄目なのだ。ここは完全にライダーの分身に囲まれて、今の自分たちでは逃げることはできない。
だから選ぶべきは立ち向かうこと。全員生きて帰るためには、もうこの道しか残されていなかった。
勝てる可能性がどれだけ0に近くても。
いいや、例え完全に0だったとしても。
死にゆく友達を見捨て、マスターを死なせることはできない。少なくとも歩ける足があるのに途中で諦めることはできない。
どんなに怖くても。
どんなに不安でも。
この背に守るべき誰かがいる限り、私はこの見栄を張り続けなきゃいけないから。
「みんなは、私が守るから!」
振り上げられるは五色の指、放たれるは鉄槌の腕。
回避すべき死の剛腕を阻めるものはどこにも存在しない。空気という薄い壁を突き抜けながら、嘲笑と共に落とされる腕は真っ直ぐに友奈の心臓を目指し───
そして、敗北に終わるはずだった少女たちの物語は。
◇ ◇ ◇
「──────」
……血の雫が頬を濡らす。
誰か───友奈以外の誰かが、迫る魔手をその体で食いとめて、いて。
「───ああ」
それは───
「怪我は、なかった……?」
その姿は───
「友奈ちゃん……」
いつかと同じ、守りたかった女の子が───
私の目の前で、血の色の華を胸に咲かせていた。
「──────」
薄く微笑む表情に向けた呼び声は、言葉にならない。喉すら今は感情に潰されて、愛しいその名を声に乗せられなくて。
「───ぁ、んで……」
そして、ああ何故だ。
なんであなたは、そんなふうに笑っているのか。
なんであなたは、そんなふうに笑えるのか。
天夜叉の腕は心臓を貫いている。糸の刃には耐えられても、これではサーヴァントの肉体を維持できない。
傷口から発する肉の焦げる悪臭は、彼女の体を魔力の粒子と散らせるだろう。あの、物言わぬ死体へと。
私なんていう大馬鹿のために、未来のない無力な私なんかのために、東郷さんはまた滅びてしまう。
そう気付いた瞬間───動かなくてはと思った。ここで死んではならない、こんな死など認めてはならない。
「死にぞこないが死にぞこないを庇ったか。チンケなガキが自己陶酔してチンケな友情ゴッコのつもりとはな」
されど、天夜叉に油断はない。動きだそうともがく友奈を見遣りながら、胸を貫かれた美森の体躯を興味深そうに観察している。
「霊基の構成情報の著しい乱れ、ついでに言えば属性反転、っつートコか。クラスはアーチャーのままだが、壊れ具合で言えばそっちと大して変わらねェな」
「だがそっちと話が合ってるトコを見るに、後天的な精神汚染が近いか? マスター不在なことといい、その気色悪ィ腕といい、てめェアレだな、死人返りか傀儡人形の類だろ?」
「俺の寄生糸(パラサイト)の同類か。あるいは死体を操る能力者ってのもいるらしいからなァ。屍食鬼のお仲間にしちゃとんだ伏兵だとは思ったが」
「まァそいつもここまで、無駄な足掻きご苦労さん」
そして、と彼は続ける。
「悲しいかなこりゃ戦争だ。弱い奴ァ食われ、強ェ奴が生き残る。前にも言ったよな? 弱い奴は死に方すら選べねェ」
手のひらが強く握りしめられる。心臓を握りつぶされ、魂ごと融解して食い尽くす「魂喰い」の所業が、美森の総身を一瞬にして崩壊させた。
やめろという友奈の叫びは、同時に掴まれる首元で掻き消される。吸奪されていく魔力、美森と共に燃え尽きながら、ライダーへ吸収されていくのを感じた。
両手が風化した。
両足が崩壊する。
内臓が無機物となり、
心さえも形を失っていく。
怖い。心も肉体と共に削られて塵となる感覚───個我たる精神すら食い尽くされる他にない。
そして意識は、真っ白に薄れていって───
「───いいえ」
その中で響いたのは声。
強く確かな否定の意思と、見つめ慈しむ青い瞳。
「あなたの魂が本当に諦めていないのならば」
「聞こえるはずよ。廃神としてのあなたではない、真実のあなたの渇望が」
真っ白な視界に映る誰かの姿。
微笑み、伸ばされた手がこの頬へ触れた刹那───
「友奈ちゃん。私はどう言い訳しても償いきれない罪を背負ってしまったけれど」
「それでも、最期にあなたと共にいれて、本当に嬉しかったの」
「だから……」
……何かが、自分の中へ流れ込んできた。
暖かく、柔らかな何かが。懐かしい桜の薫りと共に。
………。
……。
…。
────────────────────────────────────。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.7】
「こんにちは、すばる」
「ああ、一度言ってみたかったんだ。
当たり前の挨拶というのも、僕はしたことがなかったから」
「そろそろ終わりの時間だけど」
「気分はどうだい?
僕は、とても良い気分だよ」
「この感情だけを胸に、今にも溶け去ってもいいくらいに」
「……なんて」
「冗談だよ。
うん、冗談」
「これは冗談だから。
この言葉が届いているなら、ただ、笑ってほしい」
「僕は枠組みから外れてしまったから、
この先のことを、
遠い現実を、
赤い凋落を、
痴れた渾沌を、知っている」
「知っているだけ」
「止まっているだけ」
「でも」
「でも、君は優しく受け止めてくれた」
「だから。
今はただ、
君に傍にいてほしい」
「これは冗談じゃないから……」
「だから」
「一緒に」
「…………」
「ごめん、これは僕の我儘だ」
「君ともう少しだけ話したい、それが僕の願いだった」
「それももう叶えられた。
だから、そろそろ本題に入ろう」
「そうだね、何から話そうか」
「そもそも僕達聖杯戦争参加者の、『本来想定された用途』自体が既に真っ当じゃなかった。
どう推論を重ねても馬鹿げた結論しか出ず、それは馬鹿げた効率で実行された」
「考案したのは裁定者のマスターだ。
僕はそれを、アルトタスの心の声の世界より辿り、時計仕掛けの大階差機関《アーカーシャ》に触れて知った」
「掴みとれたのは、ほんの末端でしかなかったけれど」
「それでも、これくらいの助言ならすり抜けられるはず」
「この虚構世界の中では沈黙は肯定となり、否定はどこにも存在しない」
「嘘の世界の中に君の意志はどうやっても介入できない」
「そういう制約だけれど。でも、どんなところにも抜け穴はあるものだ」
「"右手を伸ばす"」
「それこそが、君の否定意思となる」
「何かを奪おうとする理不尽に対する、唯一にして最大の対抗手段」
「虚構を切り裂く赤き真実の刃。あるいは黄金の真実にさえも届き得るもの」
「使いどころを誤ってはいけない。下手をすれば何もかもが壊れてしまう。
その機会はもっと先のこと、君が真に夢から醒めた後の話になるけれど」
「けど、きっと君は立ち向かえるはずだ」
「嘘で塗り固められたあの都市。
もう何もかもが手遅れで、何もかもが叶えられたあの世界で」
「それでも君は、
あらかじめ決定された役割ではなく、君自身の意思によって、
導無き道を歩まなければ。
そうしなければならない」
「願わくば、いつかこの忌まわしき暗き空が晴れる日を、僕達は待っています」
「…………」
「……すばる。
僕はあまり、人として褒められた奴じゃなかったけど」
「それでも、君がここまで来てくれたことが、とても嬉しいんだ」
「だから」
「さよなら」
………。
……。
…。
────────────────────────。
告げられたサヨナラの言葉。
遠ざかっていく姿。
掴むことなく離れていく手のひら。
彼の声は震えていた。
きっと涙のために。
涙。そう、涙。
彼はそれを失っていない。
だからわたしは生きている。
だから彼らは傷ついている。
あの時と同じように。
あなたは、それを自分では気付かないままに。
ずっと、ずっと泣いていたんだ。
だったら。
だったら、わたしは。
わたしは、あなたを───
…………。
例題です:あなたの前に二つの道が指し示されました。
《星宙の物語》で《世界(かれ)》のカタチを再構築してください。
《青空の物語》で《世界(あなた)》のカタチを再定義してください。
物語を紡ぐための詩編は、既にあなたの手の中に。
生まれ行く命を繋ぐ星は、既にあなたの胸の中に。
今ならばまだ引き返すことも可能です。
何も選ばないという選択もあなたには許されています。
それでもあなたは───
Answer1:目を閉じる
Answer2:語りかける
Answer3:手を伸ばす
………。
……。
…。
────────────────────────。
「みなとくん!」
───聞こえる。
───見える。
少女の声が響く。
少女の手が見える。
愛しい者の輝きが、少年へと届く。
沈黙しか許されぬはずの、この場所で。
右手を伸ばし、"否"を唱える少女の声。
自分の名を呼ぶ、彼女の声。
振り返り、少年は小さく名を囁く。
届くだろうか。
身体も、意識さえも消失する我が身が。
響くだろうか。
幻の、現実ではない脆弱たるこの身が。
輝くだろうか。
既に黄金たる資格を失った、この僕が。
彼は呟く。
唇ではなく、舌ではなく、ただ。
こころで。名を囁く。
「───すばる」
───右手が。
彼へと伸ばされた手が、少年の腕を掴む。
しっかりと、もう手放さないと言うかのように。
そして彼は抱きしめられる。そして彼は、抱きしめ返す。
愛しい者を抱きしめる。ただひとつ、かけがえのないものを。
「君が僕を救うのか、すばる」
「助けるとか、よく分かんないよ」
瞳、見つめ返す。
赤い瞳が自分を見ていた。
真っ直ぐに。
僅かも逸らすことなく───
「会いに来たの。もう一度、みなとくんに。
言ったでしょ、私がみなとくんを幸せにしてあげるんだって」
声が、確かに届く。
瞳を、確かに見つめ返す。
少女は確かにそこにいた。
世界の果て、無謬の白光だけが満ちるこの空間。
可能性の粒子となって消えゆく、この身を。それでもしっかりと抱きしめて。
そう、彼女が彼を抱きしめているのだ。
引き上げられた。基底現実に、見事釣り上げられた形だ。
「本当に、君ってやつは……」
信じられない、と苦笑してみせる。
それに返すは、目元にいっぱいの涙を浮かべた、満面の笑み。
「たとえみなとくんがこの宇宙から消えようとしても。
それでもわたしは、何度でもみなとくんの扉を開けるよ」
「もうあの世界に、僕の居場所がないとしても?」
「だったらわたしが世界を変える!
おっきいものは無理でも、みなとくんの分くらいはわたしにだって変えられるもん!」
例えば、今この時のように。
現世界に留まることしかできない《世界(すばる)》を再定義し、事象の境界を飛び越えた。
現世界から放逐されるしかなかった《世界(みなと)》を再構築し、その手を掴むことができた。
すばるにできることは、所詮は自分とあとひとりくらいの見るものを変える程度だけど。
自分が変われば世界も変わる。
世界(じぶん)の形は、自分が決める。
だから───
「帰ろう。もう一度、わたしと一緒に」
彼はおずおずと、一度は途中で躊躇って、けれど所在なさ気に。差し出されたすばるの手を取る。
そして、少女の胸に宿る《星》と、少年から手渡された折り紙の《星》とが輝きを放ち───
二人は、百億の茨から解き放たれた。
◇ ◇ ◇
「使命、大義、誰かを守る勇者の役目」
「誰かのために、何かのために。私はそうやって頑張ってきたけど、でもそれって一体"誰"なんだろう」
「ずっとそう考えて、今はほんの少しだけ分かったような気がする」
「私にあったのは、多分物凄く個人的な感情だけだったんだ。勇者部のみんなや大事な家族、見知った人たちと彼らが暮らすあの世界」
「そういうのを守りたかった。私は、私の手の届く人たちのことを」
だから、と友奈は続ける。
「私はマスターに笑って欲しかった。あの人はもう死んでいて、どうしようもなく災厄しか招かないのだとしても。
それでも、私は私を呼んでまで何かを願ったマスターに、一度でいいから笑って欲しかったんだ」
真実はたったそれだけ。
決意がどうだ、覚悟がどうだのと、さも英雄が好みそうな高潔な概念ではない。
人ならば誰しもが抱く、当たり前の感情だ。
近くにいる相手のことを、自分と等しく大切に思うこと。
己を取り巻く環境に対して、真摯に向き合うということ。
その果てに、誰かを愛おしいと感じること。
世界や人類の行く末とか、人類を代表して何かを決めるとか、そんな大それたものではなく。
人の幸福とはまず、そんな他愛もない営みから育まれていくのだろう。
「私は強くなんかない。臆病者で、泣き虫で、一人きりじゃ寂しくてとても笑っていられない。
だから助けてと縋りついたし、助けられるならそうしたいと願う。大切な誰かなら、なおさらに」
愛情があった。友情があった。
自分が生まれ育ったあの世界、その過程で触れ合った多くの人々。
その全員が大切で、だからこそ命を懸ける価値がある。
これはただそれだけのことで、何も難しいことではない。
「おかしいね。勇者なんて大仰なものを目指しておいて、本当はこんなに自分勝手で。
戦っても戦っても、何かを壊すことしかできなかったけど」
「でもそれが私の"願い"。心より希う、何にも譲れない私の"想い"」
『故にこそ、この展開は必定であるのだろう』
少女の想いを祝福しながら、痴れた何かがタクトを揮う。
『一度目の死で止まっていた時計が、今ようやく動き出す。
そして私は告げよう、君は確かに生きていると』
『そして乙女の涙が条理を覆し得るのだとすれば、
今この瞬間こそが君の福音となるべきなのだから』
それは神か、あるいは悪魔か。どれでもあってどれでもない。
満悦の相で、白痴のように、心からの祝福と愛を込めて。
"それ"は高々に宣言した
『Disce libens.』
▼ ▼ ▼
そして彼女らは、共に右手を前へと伸ばす。
少女たちの"逆襲"は、今ここに。
▼ ▼ ▼
───純白の威容───
───姿を顕して───
───星の如く煌めいて───
───花の如くに閃光が弾ける───
眩い光と共に───
大気が叫び、暗闇と共に空間が裂ける。
閃光が奔り、轟音と共に世界が砕ける。
光纏う者が顕れる。
それは、白銀色をした輝きだった。
それは、異空の果ての輝きだった。
空の彼方を目指す者。
地の奥底より叫ぶ者。
神たる身を棄て、人として生きるため歩みを進める者。
それはあらゆる力を我が物としながら。
姿を見せる、無垢なる白色の少女。
その四肢は神技であり。
その四肢は白色であり。
その四肢は人の想いの輝きそのものである。
そして揺るぎない決意が盾となり、
貫く意思が拳と握る。
白色の───
偉大なる、勇者の姿───
「何だとォ!?」
驚愕の叫ぶライダーの手を振り払う。
腹部に拳を当て、気合裂帛。ただそれだけで轟音が鳴り響き、強大であるはずの巨躯がはじけ飛ぶ。
無力であったはずの、右手。
何をも為せなかったはずの、その手。
けれど今は何よりも力強く、確かな感慨と共に握りしめる。
そう、これは───
「勇者は不屈」
これは、少女たちの想いの結晶たる───
「私は、何度でも立ち上がる!」
それでも、今はただ!
災い為す悪漢を排撃するために、この力を揮うのみ!
「拡大変容(パラディグム)だと!?」
そこは紫影の塔の果て。黄金螺旋ではあり得ぬ影の連なり。
何もかもが手遅れで、何もかもが叶えられた世界の果ての塔。
《王》の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。
今もなお嗤い続けるはずの少女は、しかしその貌を嚇怒に染めて。
「あり得ない! そんなはずがあるものか!
異宙の顕現体は天も地も滅ぼされた、接続も因果もこの手で断ち切ったというのに!
心は確かに折り砕いたはずだ! 願いを反転させ本質は歪み、もう勇者たるあいつらは何処にも存在しないはずなのに!」
黒の中、少女は当惑の声を上げ続ける。今も、今も。
己の為し得た愚行を振り返って。
己の為し得なかった希望を仰ぎ見て。
故に彼女は気付かないのだ。今も、今も。
永遠の今日を求め奇跡に囚われた哀れな者は。
束縛たる今日を乗り越え、人として明日を目指した勇者のことなど。
理解できるはずもなく───
「言葉を返すぜ。こんなこと、最初から分かり切っていたはずだろ?」
それは声。
黄金螺旋階段を上り続ける、世界の救済者たる少年の声。
一歩、一歩と踏みしめて。彼は頂上を目指すのだ。今も、今も。
「結城友奈は勇者のままだ。今のあいつはその名を持つだけの廃神だけど、それでも奴の殻を与えられたことは確か。
だったら、いくら表層を捻じ曲げても、その根源を曲げることはできねえだろ」
「そんなはずがあるものか! ボクは根源の現象数式を得た、この都市でボクに為せないことなど何もないのに……!
ッ、チクタクマンか!? 時計人間め、あの邪神がボクのことを嵌めたんだろ!?」
「んなわけあるか。今のあいつは腐ってもルーラー、そそのかして半端な力を与えることはあっても、殻破りの代行なんざするわけないだろ。
だから、な」
少年はにんまりと、"してやったり"とでも言うかのように笑って。
「これは全部あいつらの功績だ。お前とは違う、あいつら自身が為し得たことだ」
「ふざけろ。そんなのあってたまるか。ボクは絶対に認めない!」
そして少女は、嚇怒の声を上げて手を伸ばすけれど。
決して、その手は動かない。
黒の中、その手は蠢くだけ。
───彼女の左手は。
───蠢くだけで。
───勇者の右手が
───暗闇を断つ
───白い羽衣に包まれて
───鋭く輝く、瞳はふたつ。
「……たとえ、戦うことで壊すことしか、私にはできなくても」
「犠牲を強いるなんていう、そんなバカげた現実を壊すことができるなら」
「絶望を、悲しみを! 壊すことができるなら!」
「まず斃すべきは……誰かに死を強いるあなただ!」
静かに右手を前に伸ばす。
無尽蔵に湧き出でる力の奔流が、指向性を持って前を向いた。
動く。そう、動くのだ。
自在に。友奈の思う通りに。
何故ならこれは少女の力。
遍く万象を打ち倒す、世界を救うべき御伽噺の勇者の力。
───友奈ひとりだけではない。それは、肉体を崩壊させた東郷美森の霊基でもある。
───喪失者たる空洞の"殻"に込められた、それは二人の力の証にして逸話の再現。
勇者システム最終戦闘形態・大満開。
その力の一端が、今こそ此処に開帳された。
「黙りやがれェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!!!!」
応じて、嚇怒の絶叫が迸る。
殺意の塊たる男が動く。その手から、背後から、無数の光条が放たれる。
死を振りまくものが空一面を覆い尽くす。
友奈は既に捉えている。数えるのも億劫なほど無数の"糸"、触れるもの全てを切り裂く致死の刃を。
五色糸、超過鞭糸、降無頼糸、弾糸───周囲を取り巻く影騎糸たちの支援も含め、彼の為し得る全力の波状攻撃。
防御は不能、回避も不能。一分の隙もなく押し寄せる攻撃の雨は圧倒的で、如何な速度を以てしても無傷で凌ぐことなどできない。
故に───
「勇者ァ───パァァァァアアアアアアアアアアアンチッ!!!」
友奈はその波濤に向けて、力強く拳を突き上げた。
一歩も後ずさることなく、一瞬も怯えることなく、真正面から馬鹿正直に、ただその拳を振り上げる。
───そして僅かの拮抗もなく、衝撃と共に弾き飛ばされる糸の奔流。
視界を埋め尽くす攻撃の波を掻き消され、中空で丸裸となったドフラミンゴは、怒りの形相も露わに叫ぶ。
「てめェが、てめェは何してるか分かってンのか!?
いいか! おれァ世界一気高い血族"天竜人"だぞ!? 生まれただけでも偉い、そのおれに向かって薄汚ェ手で触ってんじゃねェぞ!
てめェ如き糞下らねェ虫ケラが思い上がるんじゃねェェェエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!」
泡を食って絶叫するドフラミンゴを見て───友奈はただ、憐れむような目で見つめ返す。
天竜人。ドンキホーテ・ドフラミンゴ。多くの部下の上に立ち、多くの民を支配下に置き、マスターさえも自分の下に従えて。
けれど彼はどこまでも一人だった。数えきれない軍勢を誇れど、それは全て彼自身の分身体。
今はマスターさえも引き連れず、こうしてたった一人で戦って。
「おれは齢十歳でこの世の天国と地獄を見た。おれを隷属させた世界をいつか必ずぶっ壊してやると誓った!
勇者ァ!? 友達ィ!? 糞生温ィことほざいてんじゃねェ! 甘ったれた糞餓鬼が調子に乗りやがって……!
てめェの生きてきた人生とはレベルが違う!! 勝たなきゃいけねェ理由があるんだ俺には!!!」
「もう何も言わないよ、あなたには」
何も言えない。言ったところで意味などない。
きっとこの人は他者を理解するつもりがなくて、自分のことを理解させるつもりもないのだ。
どこまで行っても平行線。如何な説法、馬耳東風。
ならばこそ、物理的に討たなければ止まらない。愚かさ故の恐ろしさ、性根がくだらない者ほど力を得た時にはおぞましい。その危険性は万人に共通のものであったから。
「さよなら。わたしは、あなたを踏み越えて行く」
少なくとも、言えることは一つだけ。
このような暴君に立ち上がらなければ、勇者どころか人ですらないだろう。
「ほざけよ糞餓鬼ィイイイイイイイイイ!!!!」
次々と襲い来る影騎糸を、片端から捌いては打ち砕く。
上空より降りる三体をアッパーカットで諸共に粉砕し、四足獣のように疾駆する五体を旋回させた右脚で薙ぎ払う。更に四方より飛びかかる無数の彼らを、体ごと振り上げた足が寸断し、遥か上空に飛びあがった友奈が眼下の群れに拳を照準する。
墜落する勇者の拳。
そして弾ける、ひとりぼっちの軍勢たち。
ただの一撃も、友奈の体に触れることなく。
ただの一瞬も、友奈を退かせることはなく。
その実力差を彼も承知していたのだろう。無数の影騎糸の影より出でて、疾風の速度で駆ける一体がそこにはあった。
目指す先は未だ眠りに落ちたままのすばる。マスターを狙うは聖杯戦争の常套手段。
ほくそ笑む彼は、ただ自らの我欲にのみ従ってその命を奪おうとするも。
「───させない」
瞬時に追いついた友奈が殴り飛ばす。指一本足りとて、彼女に触れさせるものか。
「舐めんじゃねェぞ塵屑がよォォォオオオオオオオオオ!!!!」
そして群がるように押し寄せるドフラミンゴの群れ、群れ、群れ!
手数によって押し切りマスターを殺害せんとする、あまりにも醜悪な執念の形。
負けるものかと拳を構え、友奈はこの戦局を乗り切らんと───
「───散って」
爆轟する光の奔流が、影騎糸たちを焼き尽くした。
友奈ではない、それは彼女が守らんとした背後から。
伸び上がるものがあった。それは、天へと昇る光の柱であるかのように。
その只中で、すばるは言葉なく立ち上がる。
それに従うように、すばるの寄りそう"何か"も立ち上がった。
右手が前へと伸ばされる。
すばるの右手は動かない。けれどそれは伸ばされた。
───鋼でできた手。
───それは、すばるの想いに応えるように。
蠢くように伸ばされていく。
自由に。その手は、暗闇が満ちる空間を切り裂いて。
虚空へと伸びていく。
鋼色が、五本の指を蠢かして現出する。
指関節が、擦れて、音を、鳴らしている。
それはリュートの弦をかき鳴らすように、金属音を生み出す。
これは───
なんだ───
誰かがいる。何かがいる。
それはすばるではなく、その背後から。
誰かが───
すばるの背後から、鋼の手を───!
「トート・ヘルメスの名を以て。
来たれ、我が影、我がカタチ」
すばるの影が揺らめく。
すばるの影が、宙へと伸び上がっていく。
言葉に応じるかのように。
意思に応じるかのように。
それは影だ。光に照らされ浮かび上がる、ただの影であるはずのものだ。
現実には在らぬもの。
ただの御伽噺であるはずのもの。
カタチを得ていくものがある。
声、言葉を道標として。
それは輝き。
それは可能性。
それは、無垢なる魂の顕現として。
天夜叉から今も放たれる異能を、
触れるものすべてを打ち砕く暴威を、
受け止め、その右手で引き裂きながらも立ち上がる。
砕かれることなく現れる。
崩されることなく現れる。
それは、無形の、彼と彼女の力のカタチ。
すばるの足元から浮かび上がる───
影、鋼、かつて"みなと"と呼ばれた彼女の刃。
「生まれ落ちることなき可能性の結晶」
───鋼の音と共にそれは立つ。
───すばるの背後へと。
「決して目覚めることなき命の奔流」
───大きな鋼と共にそれは立つ。
───すばるの影の中から。
「来たれ、奇械アルデバラン。衝撃死の権能《忌まわしき暗き空》よ!
───それでもわたしたちは、あの青空を目指す!」
───そして瞬く、一条の紫電。
すばるの背後より降り立った鋼の影が、咆哮と共にそれを放つ。
穿ち貫く閃光。
地より出でて空へと奔る稲妻。
遍く物体を発振させる雷の槍。
衝撃死の権能───《忌まわしき暗き空》。
それは一直線に遥か空まで伸び上がって、射線上にあるドフラミンゴの全てを打ち砕く。
一切の抵抗を許さず、一切の迎撃さえも許さず。
吹き散らされていく。弱者を屠る暴虐の象徴たる天夜叉の悉くを、その槍で。
「さあ、行こうみなとくん。わたしたちの生きる意味を仮設するために。
今度こそ、わたしたち自身になるために」
立ち上がる、少女が二人。
共に明日を奪われて、共に一度は膝を屈しかけた幼子である二人。
不条理によりて心を、未来を害された者たち。
そして全ては約束のあの日へと還る。
定められた結末を砕いたのは、たった一つ、小さく儚く、散り逝く想い。
運命は今、最後の氷解を迎える。
じっと息を潜めていた最後の意志が、遂に遥か空を目指す。
「マスター! 詳しい話は後でするから、今はそいつを!」
「うん、分かってる! これからよろしくね───」
すばるはにっこりと、友奈に向けて笑いかけ。
「勇者(ブレイバー)!」
力強い笑みで以て、友奈はその声に応えた。
「行こう、ブレイバー!」
「今度こそ、みんな一緒に!」
そして今こそ、少女(すばる)は未誕の殻を打ち破る。
そして今こそ、少女(ゆうな)は無力の殻を打ち破る。
生命の荒々しい脈動が、卵の殻を破り今まさに生まれていくかのように。
強く、強く!
その右手を、前に伸ばす───!
「黙れ黙れ黙れ黙れェェェェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!!!」
絶叫して、遂に残った最後の一人の、その腕が解け糸の剛槍となって抜き放つ。
瞬時に放たれる紫電の槍がそれを砕く。
「くそ、糞が糞が糞が糞が糞がァ!!!」
散らされてなお蠢いて、怒濤の勢いで降り注ぐ降無頼糸を、勇者の拳が砕く。
前に進み鋼の体で当たるだけで、奇械が糸を砕く。
地面も建物も糸となり津波と押し寄せる白亜の奔流を、二人が砕く。
悉く、砕いて。砕き尽くしてしまって。
「糞餓鬼共が───調子に乗るんじゃないえええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!」
追い詰められ、なおも他者を見下すことしかできないドフラミンゴを。
「さよなら」
拳と槍の二つが、貫いた。
───細い、細い閃光が、夜闇を一瞬明るく照らす。
───誰しもの瞳を、白く白く染め上げて。
轟音が、響き渡った。
▼ ▼ ▼
すっかり静まり返った植物園。
その地面に今もなお咲き誇る、一輪の薄紫の花。
それはかつて、すばるが目にしたものと同じだった。
少年が世界に在ったことを指し示す、それはただ一つの存在証明であったから。
「多分、わたしの星とこの花が、みなとくんを繋ぎとめてくれたんだ」
人の想い、そして願い。
記憶と感情と追憶と、そして物体としてそこに在るもの。
それが瞬間ごとの断面に自我を残し、世界の果てからすらも意識を引き上げることを可能とした。
屈みこむすばるに、歩み寄る少女の影。
多くの言葉はいらなかった。ただ二人は共にそこにいるだけで、相手が信じるに足る存在だということが分かっていた。
「東郷さんから聞いたよ。東郷さんの大切なマスターが、まだここにはいるんだって」
「アーチャーさんから聞きました。アーチャーさんには大切な、とってもすごい友達がいるんだって」
それはきっと、共通の友達がいるということもあるけれど。
意識を失っていてもなお、心に響く何かを感じ取ることができたからだと、理屈ではない部分で分かっていた。
ロストマンとして心を閉ざしていてもなお、すばるは友奈に語りかけた。
世界の果てに飛ばされてなお、友奈はすばるを命がけで守ろうとした。
だからこれは、ただそれだけの話。
自らを革命した少女たちの、今から踏み出す第一歩の物語。
【アーチャー(東郷美森[オルタ])@結城友奈は勇者である 統合】
【ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)@ONE PIACE 消滅】
『D-2/廃植物園/一日目・禍時』
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(大)、神経負荷(極小)、《奇械》憑き
[装備] ドライブシャフト
[道具] 折り紙の星
[所持金] 子どものお小遣い程度。
[思考・状況]
基本行動方針: 聖杯戦争から脱出し、みんなのもとへ“彼”と一緒に帰る。
1:生きることを諦めない。
2:わたしたちは、青空を目指す。
[備考]
C-2/廃校の校庭で起こった戦闘をほとんど確認できていません。
D-2/廃植物園の存在を確認しました。
ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
ブレイバー(結城友奈)と再契約しました。
奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
・衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
・《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
・《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
・心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
・?????
詳細不明。
【ブレイバー(結城友奈)@結城友奈は勇者である】
[状態]魔力消費(極大)、疲労(極大)、精神疲労(極大)、神性復活、霊基変動。
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:"みんな"を守り抜く。例えそれが醜悪な偽善でしかなくても。
1:東郷さん……
[備考]
すばると再契約しました。
勇者(ブレイバー)へと霊基が変動しました。東郷美森の分も含め、サーヴァント二体分の霊基総量を有しています。
投下を終了します。なおブレイバーのクラス名は「Maxwell's equations」の◆Z6nxUk8IDQ氏作「一条蛍&ブレイバー」から引用させていただきました。この場を借りてお礼いたします。ありがとうございました。
投下乙です
友奈と東郷さんの再会と別れ、そして復活からのドフラ撃破と鎌倉聖杯のゆゆゆ要素が詰まった最高の回でした
投下お疲れ様です!
とにかく不遇な目に遭い続けてきたゆゆゆ勢が一気に昇華されたお話でした。
前編の東郷さんとロストマン友奈の会話からドフラミンゴの乱入、そして大満開と見所揃いで息つく暇もなかったです。
この企画のドフラミンゴは堅実な手を打ち続けて場の掌握に腐心していた印象ですが、しかし完全に参加する場所を間違えましたね。
神秘の秘匿なんざ知ったことかとドッタンバッタン大騒ぎしてくる奴ら盛り沢山な鎌倉聖杯では、特撮でいう破壊用のセットをせっせと作って満足してるようなもので……
最後に天竜人口調が戻るところはニヤリとしましたね。また友奈はもちろん、さらっとドフラの攻撃に対抗しているすばるも凄い。
すばるは本編かな?ってくらい丁寧に描写されてきたキャラだと思うので、それが一気に爆発する瞬間は爽快ですらありました。
いよいよ終盤に入った聖杯戦争で、この主人公力とものすごい力を兼ね備えた主従の誕生はすごく頼もしいですね!
叢、レミリア、シュライバー予約します
投下します
時刻は夜の九時。
月だけが見下ろす、闇に閉ざされ半ば倒壊したビルの屋上。
「かふっ」
その縁に立つレミリアの胸から、唐突に刃が生えた。
音もなく、気配もなく、するりと貫く白銀の刃。
背から突き入れられた刃は心臓の位置を正確に通り抜け、切っ先からは濡れ滴る鮮血が雫となって垂れている。
為したのは長身の黒い影だ。かつて叢と呼ばれ、しかし今はその自我を揺らがせてまでスカルマンとして在る女。
彼女はレミリアの背後、一瞬前まで何もなかった空間に突如として出現し、反応する暇も与えず致命の一撃を与えた。
熟練の技である。膂力や技巧の妙ではなく、他者の意識を余所へ向かせたまま戦闘の以前に決着を付ける人心掌握の腕が卓抜しているのだ。
故にこれは暗殺者たる影の勝利であり、静かなれども確かな運命の決着であった。
「───なんて、驚いた?」
「ッ、!?」
"レミリアが心臓を穿たれてなお意に介さぬ不条理の化身でなければ"、の話ではあるが。
刃に貫かれ全身を硬直させていたはずの少女は、次の瞬間には影の背後へと降り立ち、体が反応するよりも早く関節を取って地面に組み敷いた。胸には未だに穴が空き、決して少なくない量の血が流れているにも関わらず、その表情には惨痛や焦燥といった類の感情は微塵も浮かんではいない。
これは、なんだ……?
拭い難い困惑が叢の思考を占める。関節を極められる激痛に苦悶の声を上げ、辛うじて首を逸らし背後を垣間見て。
「……何故」
「なぜ、って言われてもね。まあ簡単に言うと今の私には心臓がないのよ。前に下手打って潰されちゃってさぁ。
そういやあの時戦ったのもお前みたいなアサシンだったわね、まだ一日も経ってないのに随分と懐かしい……」
「そんなことは聞いていない。私を殺さない理由を話せ」
「命握られてるのに無駄に余裕ねお前」
苦笑するような軽い口調。
レミリアはそのまま続ける。
「まあ簡単に言うと協力者が欲しいのよ。で、お前はちょうど良さそうだなーって思ったわけ」
「ならば内容と最終目的を言え」
「うわ、話早すぎるでしょお前」
「この混沌とした状況で少しでも戦力が欲しいのは私も同じだ。その点については吝かではない。
しかし共に聖杯を求める以上、全面的な共闘など不可能だ。だからこその契約内容を」
「ああ、それなんだけどさ」
まるで変わらない口調のまま、スカルマンの言葉を途中で遮り。
「私、別に聖杯とか手に入れたいわけじゃないのよね」
「……なに?」
「むしろぶっ壊したいって思ってるのよ」
「気でも狂ったか?」
「だからなんでお前はそう遠慮ない物言いするかなー」
「無駄口は好かない。早く続けろ」
あーはいはい、とレミリア。腕を極められたスカルマンは抵抗を止め、静観の構えだ。
「私の目的以前の話として、お前の言う聖杯獲得についてだけどさ。現実的に考えて、それかなり厳しくない?って思うのよね」
「論点がズレているぞフリークス」
「それを言うならノスフェラトゥよ。いいから黙って聞きなさいな。
例えばお前はアサシンだけど、お前の常套手段っていうとさっきみたいな不意打ちとかマスター暗殺とかじゃない?」
「愚問だな」
「それを踏まえてだけど」
そこでレミリアは会話するスカルマンから視線を外し、どこか遠くを見遣って。
「お前、あれとかどう対処するつもりなわけ?」
そんなことを、言った。
その瞬間のことだった。
『───────────────』
───空が震える。
───咆哮が迸る。
おぞましい気配。
肌の灼ける感覚。
恐怖を失った脳髄になお滲む、抗い難い恐怖の感情。
悲鳴を漏らさなかったのはただの偶然か。
白き仮面に覆い尽くされ、それでも彼女は目を見張る。
視線の先、そこには確かな"異常"があった。
理解の外にある、恐ろしいまでの異形が。
▼ ▼ ▼
夜天の空に、白く輝く巨いなるもの。
ひとつは月だ。煌々と照らすヴェールが如き白光を放つ、真円なる巨大な月。
どこか冷ややかな"気配"を纏った月だ。
もうひとつは"影"だ。
それは這い寄る白色だ。
暗がりに浮かぶ、この世に非ざる幻であるはずのもの。
それは立ちあがる怪物だ。
廃墟と化した街の中心で、巨躯を顕す白色の巨影。
───それは、あるいは白狼にも見えた。
───それは、あるいは白骨にも見えた。
どちらも当たりだ。そしてどちらも間違っている。
それは白骨なる巨狼の姿をした、巨大な物質ならざる歪みの極致。
体長はおよそ300mを上回る。肉でも鋼でもない無形の体躯を備え、影のように地面から伸びあがる、蠢く白狼。
確かにそこに存在するのに、影でもあるかのように揺らめき、不確かな存在として立ち上がる。
それは地に降り立ち、しかし空に浮かぶ月さえも覆い隠してしまうほどの巨躯。
天に向かって頭を突き上げ、高らかに咆哮をあげる。
最早、人の耳では受け止めることもできないほどの波濤。
叫びに合わせるように、次々とめくれあがっていく周囲の地面。
そして文字通り雲を衝く巨狼の、その穏やかとさえ言えるような表情は何であるのか。
ぞっとするほど透明な、赤い眼球。
それは、濃縮した感情が荒れ狂った果ての、凪となった貌であって───
「あれは……」
凍りつく、とはこのことであろうか。
レミリアによる外的な拘束以上に、精神が凍りつくことによって、スカルマンはその動きを止めていた。
「サーヴァント……と言いたいところだけど、あれは単なるパワービジョンね。
保有する魂を具象化した、けれど武装化までは至っていない純魔力の集合体。
いわば気迫や威圧感そのものが実体化した存在と言い換えても良いかもしれないわ。そんなのでさえあの規模って言うんだから呆れるしかないけど」
その声に応えるように、巨狼は僅かに身じろぎすると、その脚を一歩前へと踏み出した。
大地の鳴動を感じ取り、自然と黙り込む二人。そんな彼女らに気付くことなく、巨狼は二人とは逆方向へとその体を向けた。
「で、さっきの続きなんだけどさ」
「……」
「あれ、もうマスター死んでるみたいなのよね」
「……………………なんだと?」
「嘘じゃないわよ。私も一応あの後経過観察してたんだけど、あいつ自分で自分のマスター殺してたし。
首落とされて私の霧で全身粉々にされて、駄目押しに自壊法則叩きつけて存在否定の咒を上乗せしてやって、挙句の果てにマスターまで失って、なのになんで平然と生きてんのよアレ」
心底から嫌そうな表情で、レミリアは重い溜息をつく。
しかしスカルマンには、そんなレミリアに反応していられるほどの余裕はなかった。
「ここまで言えば分かるでしょ。暗殺メインのお前じゃあいつへの対処は不可能、もうどうしようもないって」
「……」
「言っておくけど、残存戦力をぶつけて総力戦させて良いトコ取りの漁夫の利とか考えてるならやめといたほうが賢明ね。
お前、私相手ですらこんなザマ晒してるのよ? 私、あくまでか弱くて病弱な深窓の令嬢であって戦士でも策士でも何でもないってのに」
「……何をすればいい?」
「うん?」
「私は何をすればいいと聞いている」
苦々しく吐き捨てられた言葉に、レミリアは満足げな表情をして。
「話が早くて助かるわ。さっきも言ったけどお前には少しばかり協力してほしいんだ。最終目的は……まあ、アレみたいな連中の皆殺しって感じかなぁ。
そのためにも、お前がやろうとしていた通り人員を集めたいと考えてる。協力関係を築くつもりはないけど、共闘の状態に持ち込みたいってとこね」
「不明瞭極まりないな」
「それでもお前は従うしかない、違うかしら?」
「……どけ」
「うん?」
「貴様の拙い頭では話にならん。これなら私が先導を切ったほうが遥かにマシだ。
貴様は戦士でも策士でもないのだろう? ならば精々矢面に立って私の役に立つがいい、"深窓のお嬢様"」
解かれた腕を回し、スカルマンはレミリアをどけるとうんざりしたように立ち上がる。
レミリアもまた、そんな彼女を傍目に笑みを浮かべ。
「ならお手並み拝見と行きましょうか。ねえ、アサシン?」
「ほざけ。アレの討滅が貴様の終わりと心しておけフリークス」
夜の闇に生きる二人は、共にビルの影に溶け込むように、その姿を消したのだった。
▼ ▼ ▼
「一応聞いておくぞ、フリークス」
「何かしら?」
「貴様はあの白狼について仔細を知っていたな。死の経過を目撃したとは言っていたが、それにしても不可解な点が多い。
情報の正誤ではなく、何故お前が知っているかという点だ」
「……」
「答えるつもりはないと?」
「……月が」
「なに?」
「こんなにも月が明るいから。見たくなくても見えてしまうものがあるってことさ。
全く、これなら朔のままだったほうがずっとマシだったのに」
「意味不明だ。馬鹿か、それともやはり気狂いだったか」
「言いたくても言えないことだってあるのよ。察しなさいアサシン」
「ま、空に月と星しか見たことのない汚れた生き物だからね」
「月に変化があれば、嫌でも目につくのさ」
『D-3/廃墟/一日目・禍時』
【ランサー(レミリア・スカーレット)@東方project】
[状態] 《奪われた者》、単独行動
[装備] スピア・ザ・グングニル、《この胸を苛む痛み》
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:玩弄されるがままに動かざるを得ない。しかし───
1:強制の綻びを利用し、少しでも自分の思うように動きたい。
2:『現戦力では太刀打ちできない敵性存在に対抗するため協力者を確保する』、これで誤魔化せるあたり結構チョロかったりするのかしら?
3:このアサシンについては、まあ何とかなるでしょ
[備考]
【叢@閃乱カグラ SHINOVI VERSUS -少女達の証明-】
[令呪]三画
[状態]スカルマスク着用、デミ・サーヴァント化。精神汚染、視界の端で黒い秒針が廻っている。
[装備]包丁、槍(破損)、秘伝忍法書
[道具]スカルマンのコート
[所持金]極端に少ない
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を手にし黒影様を蘇らせる……?
1:最適行動で以て聖杯戦争を勝ち抜く。
2:ランサー(レミリア・スカーレット)を利用し、厄介な敵陣営を排除したい。
3:聖杯を求めないというレミリアの言葉に疑念。
[備考]
イリヤの姿を確認しました。マスターであると認識しています。
アーチャー(ギルガメッシュ)を確認しました。
エミリー・レッドハンズをマスターと認識しました。
※スカルマンと霊基融合しデミ・サーヴァントとなりました。叢固有の自我が薄れつつあります。
ランサー(レミリア・スカーレット)と一時的な協力関係を結びました。
【バーサーカー(ウォルフガング・シュライバー)@Dies irae】
[状態]
真なる創造発動、以て獣の目醒めと為す。
[装備][道具][所持金][思考]
一切必要なし。此処に在るはただ殺戮するのみの厄災である。
[備考]
彼が狂乱の檻に囚われ続ける限り、何者もその生を断つことはできない。
※D-3にエイヴィヒカイトの生み出す巨大な随神相が顕現。
投下を終了します
投下乙
ほっときゃ魔力切れで死ぬんじゃないかなー。やっぱり無理か
レミリア&スカルマン頑張れ超頑張れ
キーア、蓮、針目、アティ予約します
投下します
暗闇占める禍時の中で。都市は四度、自らの体を揺さぶった。
都市全体が鳴動するかの如き地震。震度そのものは大した規模ではない。特に一度目と二度目の揺れなど、感知できた者は都市の10%にも満たないはずだ。
そしてその揺れが何を意味するか、理解できた者は皆無と言っていいだろう。
それらを人は正しく理解できない。
けれど、何かを感じたかもしれない。
たとえば、虫の報せであるとか。
たとえば、悪寒であるとか。
恐るべきものを感じ取った者。多くは、悪夢としてそれを捉えたであろう。
何故ならそれは、確かに悪夢の具現であるから。
一度目の揺れが意味したもの。
一度目の地響きが生んだもの。
───それは巨大。
───それは恐怖。
───それは、人類種を滅亡させる新たな生態系の形であるのか。
天神の頂点種・バーテックス。それを呼び寄せるための空間振。
それこそが一度目の揺れの正体であり、亜種平行世界を経て顕現した巨大な悪夢であり現象であった。
それを多くの人々は目にした。故に、彼らは二度目以降の揺れを感じ取ることができない。
恐怖に身を駆られてか、あるいは文字通りに食い殺されてしまって。
二度目───鳥カゴ発動に際する地鳴りを。
三度目───相模湾沖合にて投下された、ヒロシマの炎そのものである原子爆弾を。
四度目───都市そのものを覆う、焦熱世界たる激痛の剣を。
見た者はいない。呼び出された超常種たるバーテックスすら、リトルボーイと焦熱世界の炎によって悉くが焼き尽くされてしまったこの鎌倉で。
正しく現実を認識できているのは、最早聖杯戦争参加者のみであると断言して良かった。
───いや。
───そもそも未だ生存している者が、果たしているかどうかさえ。
「ひどい……」
源氏山の山頂近くから街を見下ろすキーアの言葉に、蓮は何も返すことができなかった。
彼女の言葉そのままだ。この惨状を表現するには、酷いの一言があれば事足りる。それほどの有り様である。
今や鎌倉の街は綺麗さっぱり消滅していた。見渡せどもあるのは廃墟と呼ぶことすら烏滸がましいほどに崩壊したかつての街並みだけだ。
一面が赤く炎と熱に晒され、至るところで赤茶けた地面が露出している。まともに形を保っている建築物自体が稀で、ほとんどは根こそぎ瓦礫となっているか良くて半ばから倒壊しているかである。
焦熱世界の炎熱が地表に到達する前に消滅した以上、中には形を保ったものもあるが……果たして生存者の姿をそこに求めていいものか。
動く影は皆無、人はおろかバーテックスさえ死に絶えた大地がそこには広がっていた。
「……」
蓮は押し黙る。キーアがこの街に来てからの経緯を、騎士王から聞いているからだ。
この少女は孤児院の院長に拾われ、そこで今日までを過ごしてきた。孤児や職員たちとの仲はすこぶる良かったと、そう聞いている。
場所は確か笛田方面、ここからずっと西のほうだ。鎌倉市街の中心地よりは被害も少ないだろうが、彼らが無事でいるかは分からない。この惨状を前にしては、下手な希望を持たせるほうが酷とさえ言えるだろう。
この齢十にも満たないであろう少女にそのことを伝えるのは、正直蓮としても心が重かった。平時であるなら、言葉を濁すくらいのことはしたかもしれない。
だが今は一刻を争う事態である。騎士王が傍にいる以上大事には至らないと信じたいが、蓮のマスターであるアイも今この場を離れてしまっているのだ。
だから今は非情なれども言葉を偽る時ではないと、蓮はキーアに声をかけようとして。
「……行きましょう。アイと、すばるのところへ」
「お前……」
告げられた言葉に、伸ばしかけた手が止まる。
振り返ったキーアは屹然とした表情をしていた。口を真一文字に結び、しっかりとこちらを見据え、何ら弱気なところは見られない。
それは、覚悟を決めた人間の顔だった。
「……本当にそれでいいんだな?」
「ええ。だってそれが、あたしにできることだから」
「我儘を言う権利くらい、お前にだってあるぞ」
「ならそれがあたしの我儘なんだわ。大切なものを天秤にかけて、"可能性が高いから"なんて理由でどっちか一つを選ぶ、それがあたしの我儘。
あたしね、アイやすばるには、梨花みたいになってほしくないの」
微かに笑って言うキーアの言葉は、確かにその通りだ。
仮に今彼女と自分が孤児院なり他の場所なりに行ったとして、そこで行えることなど何もない。治癒の術も蘇生術もなく、大勢を一度に安全圏へ避難させることも叶わない。自分達の行動は単なる時間の浪費と堕する。そもそも彼らが今もなお生きているのかさえ分からないのだ。
だがアイやすばるといった面々の下へ行けばどうか。蓮という戦力を適切に投入することも叶うし、マスターたるキーアが物理的近距離にいるというだけで騎士王の霊基も補完強化される。そして何より、今も確実に生きているだろう彼女らを救うこともできる。
理屈だけで考えれば、どちらを選ぶべきかなど子供でも分かる。
だが人とは理性だけの生き物ではない。"それでも"と思ってしまう感情を、人はなくすことができない。
けれどキーアは、理性と感情の双方で選ぶべきを選んだ。
優しい子だ。そして聡明な子でもある。
何もかもを抱えるのではなく、何かを選んで何かを選ばず、そのことに葛藤を覚えども決意を揺らがせることのない。
ごく普通の強く優しい子だ。
「なるほど、な」
だからこそ眩しく思う。
狂気からではなく、諦観からでもなく。無知や愚かさや自棄の感情からでもなく。
健やかな成長の結果として、その心を持つことのできるこの少女を。
願わくば、我がマスターもこのようにあってほしいとさえ、蓮は思いながら。
「騎士王みたいなのが召喚されるわけだ。人のこと言える立場じゃないけど、縁召喚ってのもつくづく馬鹿にできないよな」
「……セイバー?」
「こっちの話。それと悪いな、変に引き止めちまって」
「ううん、いいの。あなたはあたしを気遣ってくれたんでしょう? なら、謝るのはあたしのほうだわ」
そう言って微笑みかけられ、思わず目を逸らしてしまう。
何もかもお見通しといったような眼差しだ。やはり人間、慣れないことはするべきじゃないなと改めて思う。
「……じゃあ、行こうか。この有り様だから移動は相当荒っぽくなっちまうけど、そこは勘弁してくれよ」
「ええ。よろしくお願いしますね、セイバー」
閑話休題。
彼らの行うべきは戦場への帰還であり、目的は同胞らの救援と敵の排除にある。
すなわち、聖杯を求めぬ輩の救援と、聖杯を求める者の殲滅。
それは聖杯戦争の意義に反する行いだ。
許されるわけがない。そう、少なくとも。
少なくとも、高みに坐し都市を見下ろす者は、それを赦しはしまい。
───ゆえに、それはやってくるのだ。
「───、ッ!?」
「え、なに……?」
突如、轟音が響く。
地面が鳴動し、周りの木々が衝撃に揺れる。
何かが───
何かが、激突した音だ。
高速で飛来した何かが、すぐ近くに。
キーアはそれを認識しない。目も耳も、それが何であるのか判別することはできない。
蓮も同じだ。だが、彼は五感とは別個の感覚により、それが何であるのか瞬時に察することができた。
サーヴァントの気配。
肌に突き刺さるその感覚を、蓮は覚えていたから。
「……キーア」
「セイバー? これ、何が……」
「逃げろ。できるだけ早く、遠くに」
キーアを降ろし、蓮は自分の背後へと逃避を促す。
不安そうに見上げる先、蓮の表情は強張って、轟音の出所を一直線に見つめている。
重苦しいまでの静寂の中、にわかに鳴り響く虚ろな足音。
木々の影から現れたその女は、酷く奇矯な姿をしていた。
戦場にはおよそ場違いなゴシックロリータ、左目を覆う眼帯。そして右手そのものを接ぎ代えたと思しき、華奢な少女の体とは不釣り合いな巨大鋼鉄義手。
武骨で無機的なその右手がゆっくりと持ち上げられ、軋むような金属音と共に指が握られる。踏みしめられた足が足元の草花を潰し、砂利の擦れる音が反響した。
その手は少女自身の持つ見た目の奇矯さなどよりも遥かに不吉なイメージを見る者に叩きつけて、白銀色の鋼鉄は夜闇になお不気味に光を放ち、物々しい音はまさしく敵手撃滅のための駆動音に他ならない。
女は、バーサークセイバー針目縫は、今や正気の色さえ失った瞳で蓮を見つめ。
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇!!」
歪な叫びと共に、猛烈な勢いで地を蹴ったのだった。
▼ ▼ ▼
バーサークセイバー。そのクラスが示すものは何か?
およそ通常のサーヴァントではあり得ないほどに破損した霊基、他のクラスにバーサーカーの固有スキルを上書きする外法めいた術式。
幾人もの死体を継ぎ接ぎすることで作りだされた怪物、フランケンシュタインの残骸が如き有り様。
外付けの右腕と合わせ、文字通りの繋ぎ合わせた死体としか形容のできないその姿。
令呪による狂化の強制だけではここまではならない。
二重召喚による属性付与でも考えられない。
ならばこそ、これが意味するのは───
◆
轟音、爆砕───周囲の木々を破壊しながら疾走する二つの影。
幾重にも繰り出される斬撃と拳打が地面と周辺物を抉り、瓦礫が二人へ嵐の如く降り注ぐ。
瞬く間に爆心地めいた廃墟と化した周辺一帯を、火花と閃光が染め上げていく。
その中で明暗はすぐさま分かたれた。当然の結果が訪れる。
「が、ッ……!」
放たれる鋼の拳が掠った瞬間、総身を襲う悪寒と共に肉片が爆散した。花火のようにはじけ飛ぶ血肉、そして襲う不可解なまでの激痛。
抉られたのは膵臓近く、幸いにも致死のものではなかったが、鋼の右手の脅威は僅か数合にして蓮を劣勢に追い込んでいく。
それも然り、彼女の拳打は触れれば終わり。一直線的な破壊だけでなく命中対象を全方位から圧壊させる。今の一撃にしても、仮に女に歴戦の戦闘技術が備わっていれば命は潰えていただろう。
針目の高ぶりは狂化を受けてなお最高潮。ただ破壊と迅速に特化した暴威が蓮の反撃を許さない。
喪失した理性は繰り出す攻撃を獣の乱雑さに貶めているが、彼我のスペック差を鑑みればさしたる問題にはならないだろう。
今の針目は純粋なステータス値で、蓮を遥か圧倒した領域に到達し、恐ろしくも今もなお上昇を続けている。
バーサーク化によって塗り潰された自我が、中途半端に人間だった針目の有する属性を一気に人外のものへ傾けていく。
今も尚跳ね上がる狂化ランク、比例して上昇する身体スペック。
文字通りに怪物的だ。それは、かつて垣間見た黒円卓の魔人たちと同じように。
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇!!」
穿ち打ち砕かんとする連撃が怒濤となって襲い来る。呼吸を読むも糞もなく、隙だらけの挙動を強引に踏み躙りながら接近してくる力任せの戦法。
無論それとてある程度までなら対処も可能である。事実として、蓮は午前の段階で己よりもステータスの高いバーサーカー二騎を同時に相手してもなお互角に渡り合うことに成功している。つまり逆を言えば、"ある程度"を超越した相手ではどうにもならないということ。
眼前の相手は、間違いなく異形と鉄塊のバーサーカーたちの総力すら上回る戦力を持っている。狂化の度合いもそうだが、単純に素体となった英霊の格が彼らよりも上なのだろう。彼女は今も己の優位を自覚し頭ごなしに踏み躙ろうとしてくる。その様はまるで常人では抗えない津波のようで、蓮はただその暴威を逸らし続ける他にない。
救いがあるとすれば、当然の話だが挙動の全てが子供のチャンバラよりも尚酷い単純極まりないものとなっていることか。少なくともマキナや騎士王のような、力と技を完全一致させてくる手合いよりはやりやすい。
その僅かな隙をか細い希望と手繰りながら、疾走しつつ互いに撃を流星のように放ちあう。
しかし趨勢は取り戻せない。針目が押し込み、蓮が凌ぐ。
それが最早戦闘の始まって以来、覆せない構図になっていた。
その理由は三つある。一つは言うまでもなく身体スペックの差、そして二つ目は針目が元来より保有する宝具によるものだ。
生命繊維の怪物(カヴァー・モンスター)。それは同ランク未満の攻撃に対し強い耐性を持つという防御型の常時発動宝具。
極限まで高まった耐久性と相まって、今の針目が持つ防御能は圧倒的だ。剣閃も雷撃も、先程から幾度も針目に直撃しているが何ら効果を発揮していない。
そして三つ目は、まさに彼女の繰り出す攻撃そのものにあった。
一撃圧壊の究極と化した針目は最早圧倒的で、蓮はただ避け続けて戦っている。刃を中空でぶつけることさえ、入念に回避していた。
圧死の権能───《打ち砕く王の右手》。
触れるものを全方位より空間的に圧壊させ、粒子の単位まで粉砕する打撃の究極。
蓮がその性質を看破できたのは周辺環境に因るものが大きい。木々の密生したこの戦場において障害物は多く、針目が拳を振るう毎にそれが飛び火を受けるように次から次へと砕けていた。
そのおかげで相手の能力を察知し、かつ永劫破壊による第六勘で常に相手の挙動をいち早く感じ取ることで事前の回避を可能としていた。
彼は知らないことではあるが、針目がこうして鋼の右手を多用しているのは使い慣れた片太刀バサミを失ったことに起因している。理性を失くしても己が半身とも言うべき武器は手に馴染むのか、先ほどまでの彼女は頑なにあの武器の使用に固執していた。仮の話だが、針目が最初から片太刀バサミではなく王の右手を使っていたならば、少なくともドフラミンゴ程度ならば簡単に勝ちを拾うことができただろう。
そのような一撃必殺を無数に連打しながら、針目はバーサーカーが故の圧倒的な身体能力を駆使して高速移動を行っている。高レベルの攻撃と速度を入り混ぜた戦法は単純だがそれ故に隙がなく、確実に蓮の体力を削りつつあった。
それはまるで、あの廃校舎での一戦であるかのように。
「──────」
そう、何もかもが同じ。
バーサーカーの相手をするのも、そいつらが自分よりも優れた能力を持ち合わせているのも。
ただ腕を振り回し、叩きつけるだけの粗暴な拳。
同じだ。あの鉄塊と光剣と何もかも。
だから。
「馬鹿かお前たちは」
悪態を吐きながら、放たれた鉄拳を刹那で躱す。
立ち昇る煙から視界が阻まれ、そこを貫いて機関砲の如き洗礼が襲い掛かってきた状況に舌打ちを漏らしながら、しかし言葉は止まらない。
「まるで怪物そのものだ。わざわざセイバークラスの優位性を捨ててまで取ったのがその獣性かよ」
持ち味の棄却、人間性の放棄。それをなんて馬鹿なのだろうと心底思う。
最初からバーサーカーとして召喚されたならともかく、これに関しては完全な後付だ。一度は完成した英霊を無粋なもので塗り潰している。
それは確かに数値上は多大な戦力向上をもたらしているが、それだけだ。英霊のバーサーク化など、真っ当に考えて愚行もいいところだろう。
一体誰の差し金か、おおよそ見当はつく。このバーサークセイバーにしろ先程の異形たちの襲来にしろ、あまりにもタイミングが良すぎるのだ。
八幡宮に巣食う『幸福』の討伐、すなわちこの街を繋ぎとめる楔とやらの消失のタイミングに。
「どこの誰だか知らねえけど、とりあえず一つだけ分かることがある。
こいつを作り出した奴は戦闘の素人だ。見かけの強さに目を取られて、それ以外の何も見えちゃいない」
自身へと向けられた拳打は視界を覆わんばかりの大数で、だが舐めるなと蓮はそれらを回避する。回避しながら怒りを抱く。
これだけ素直ならば地力で劣っていようが回避は間に合う。
マキナや騎士王と違ってあまりに稚拙なこの軌跡、廃校舎で見えたバーサーカーたちと同じだ。なんて素直なのだろう。
故にこいつのみならず、その後ろにいるであろう連中の魂胆も透けて見える。
それだけ焦ったのか? それだけ力づくで何もかも破壊したくなったか?
なんて分かりやすい。こいつの拳打よりもなお稚拙な思考。黒幕気取りが聞いて呆れる。
自らの後方で起こった爆発を推進の力として、蓮は前へと駆ける。
もうこれ以上見ていられない。
よっていざ、哀れな敵手との決着をという一念に、迷いは心に一切なかった。
「止めてやるよ。お前もいい加減付き合いきれないだろ」
迫りくる狂人を仕留めるべく総身に更なる力をこめる。
まるで舞い踊っているかのように、追いかけっこをしているかのように、両者の疾走は止まらない。
互いの致命に至らない破壊を繰り返し、今や源氏山の全てが戦場と化していた。
サーヴァントの上限にまで到達した筋力から繰り出される疾走動作により、ただ走るだけで針目の通過した地点は爆撃めいて破裂し地形そのものが倒壊していく。
足場を変え、舞台を変え、ただひたすらに疾駆しながら───そして。
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇!!」
刹那、躱した拳が管理棟の壁面へと突き刺さり、轟音が響き渡って攻防の衝撃に耐えられなかった建築物一棟、またも大きく傾き始めた。
二人は隣のビルディング壁面に飛び移り、垂直に駆けあがる。屋上へ向かい走る蓮に追う針目。背後から迫る狩人へ、しかし蓮は一切の脅威を抱かない。
それを理解してか否か、どちらにせよ変わらないと叫ぶように、吼える針目は蓮を殴滅するべく轟閃をより滾らせる。彼女は最早止められない。
そして、屋上へと到達したと同時───
流れ星のように上空へ飛びあがり、墜落して来る針目。バーサークサーヴァントの暴威そのままに、蓮の防御を一直線かつ力任せに撃ち抜こうと飛翔する。
技で劣ろうが生来の圧倒的能力で蹂躙する。それこそが人外の在りようであり、人間如き矮小な存在に抗う術はなく。
「ッ、──────」
直撃の瞬間、寸でのところで回避した拳が、すぐ目前を薙ぎ穿つ。
凄まじい衝撃に視界が明滅しながら、しかし動じることなく至近距離より相手と目が合う。
獰猛な目つき、殺意一色の瞳。
ああ、分かっていたことだけど。
「やっぱりどうしようもないよ、お前」
敵意ではなく純粋な哀れみからそれだけを告げて、刃の魔力を充填させビルの一角を切り裂いた。
着地すべき足場そのものを切断され、二人はそのまま揃って地面へ落ちていく。
自由落下の浮遊感に襲われながらそこで初めて、針目は言いようのない危機感を抱く。
理屈ではない。それを考えるだけの理性は存在しない。それでも感じられる正体不明の悪寒。
だが───それでも構わないと狂女は咆哮する。今の二人は共に中空、足場のない虚空で身動きは取れず、ちょこまかと小賢しい小蠅を討ち取る好機に他ならない。
「▅▆▆▆▅▆▇▇▇▂▅▅▆▇▇▅▆▆▅!!」
咆哮一轟、渾身の力で放たれた拳は一直線に、蓮の無防備な胴体へと吸い込まれるようにして着弾。
総身を貫いた衝撃に、蓮の体はくの字を描き、重力方向とは全くの逆、すなわち上空へと跳ね上げられた。
ぐらりとよろける蓮。獰猛な笑みを勝利への確信に歪める針目。
打ち砕く王の巨腕に穿てぬものはなく、故にこの勝負は針目の勝利に終わったのだと───
「そうだ、それを待っていた」
そのはずであるのに。
跳ね上げられた蓮の表情に、痛苦の色は皆無。
ばかりかその顔には不敵な笑みを浮かべてすらいた。
胴体を貫いたはずの鉄の腕。
蓮の右手はそれを受け止めるように、鉄の腕を鷲掴みにしている。
だがおかしい。理屈が通らない。たかが手のひらの一つや二つ、その程度で阻めるような威力ではなかった。
ガードに腕を置いたならその腕ごと、王の巨腕は蓮の総身を微塵にできたはずなのに。
何故、藤井蓮は一切のダメージを負っていないのか。
「真名解放───疑似宝具展開」
至極当然の理屈である。
神造宝具『超越する人の理(ツァラトゥストラ・ユーヴァーメンシュ)』、それは遍く神秘を自らのものとする支配権強奪の権能なれば。
自らに向けて放たれた鉄の腕さえも、片端から触れた瞬間に所有権を上書きすることも可能である。
今までの攻防は、いわばその見極めのためにあった。継ぎ接ぎの歪な霊基構造、明らかに後付された鉄の腕、ならばそれは英霊の肉体そのものではなく取り換えられた武装の類なのではないかと。
そして鉄の王の一撃を確実に無力化し、かつ返しの一撃を確実に相手に叩き込むにはどうすればいいか。
全てはこの瞬間のためにあった。中空で身動きが取れないのは針目も同じ。故に今この時、蓮によって簒奪された破壊の腕を避けることは彼女には叶わず。
「▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆!」
事態を悟って叫ぶがもう遅い。
振り上げられた拳は何も変わらず、しかして簒奪した破壊の概念が込められた一撃であればこそ。
狂気以外の何もかもを失った針目に、今さら防げる道理もなく。
「王の巨腕よ、打ち砕け───!」
─────────────!
───打ち砕き、粉々に消し飛ばす。
───鋼鉄を纏う王の右手。
───それは、虚影をも破壊する巨大な塊。
───おとぎ話の、鉄の王の腕。
蓮の腕より導き出された巨王の力は、高密度の質量を伴って針目に激突した。瞬時に破壊する。
叫び声を上げる暇もなく、超質量に圧された針目は崩壊した。
全身のあらゆる場所を、あらゆる部位を。
ばらばらに、粉々に、打ち砕かれて。
けれど。
「▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆!」
それでも、これは圧死により命を失った可能性たちの慟哭に非ず。願いに狂った哀れな女に宿った偽王の力なれば。
肥大化した霊基を持つ針目を完全に打ち砕くことあたわず。未だ命を繋ぐ針目は、尽きせぬ殺意を以て喉を震わすけれど。
「▅▆▆▆▅▆▇▇▇▂▅▅▆▇▇▅▆▆▅!!」
衝撃と爆轟の向こう側から、
突き出される一条の光。
細く鋭い蒼白の光が、叫ぶ針目の口腔を貫いたかに見えた。
だが、それは本来彼の右手にあるべき物が現界したというだけのこと。
───長大な剣が、針目の喉を貫いて。
───無慈悲に、地面へと縫い付ける。
「言ったろ、止めてやるってな」
貫く勢いのまま、剣と共に降り立って。蓮は柄を強く握り感慨なく魔力を充填する。
瞬時、放出される多量の雷撃が、漆黒の夜空を裂いて空へと駆け抜けた。
今度こそ、何の声もなかった。
音を出すべき声帯ごと焼き切られて、針目の総身は無慈悲に炭化していく。
声もなく、音もなく。
歪められた命が、刈り取られて───
………。
……。
…。
▼ ▼ ▼
「あれは間違いなく、真っ当なサーヴァントじゃなかった」
源氏山の麓、既に全てが崩壊しきった都市を歩く影が二人。
蓮はキーアを連れ立って、気持ち急ぐように足を進めている。
「この聖杯戦争自体ハナから異常しかなかったが、あれは特級の例外だな。まともな部分が何一つとしてない。
見た感じはすばるのロストマンと似通ってるけど、根本的に別物だった。ある一点に特化してる分、分かりやすくはあるけど」
「え、えと、つまり?」
「俺達みたいな真っ当な参加者とは違うってことだよ。お前の目から見て、クラス名とかどうなってた?」
「セイバー……だったはず。けど、あんなの……」
「そうだな。言いたくなる気持ちも分かる。
あれは確かにセイバーだったけど、同時にバーサーカーでもあった。二重召喚の類じゃない、霊基そのものにバグが生じた類の代物だ。
普通の手段じゃあれは生み出せない。しかもあいつ、マスターとの魔力パスすら通じている気配がなかった。
サーヴァントなのにだぜ? 明らかにおかしいだろ」
「でも、それじゃ誰が……」
「断定はできないけど推察はできる。けど俺達だけじゃ早計だから話を持ち寄って情報共有しましょうってとこ。
まあ騎士王たちと早いとこ合流しなきゃならない理由が増えたってだけだな。あんま深く考える必要はない」
「うーん……」
キーアは難しい顔で黙り込むが、実のところ蓮も詳しいことが分かるわけではないのだ。
彼女に言った通り、まずはアーサーたちと合流する必要がある。戦力的にも情報的にも、今の状況は些か拙いのだから。
と、
「───あれ?」
ふと。
キーアはその足を止め、どこか虚空を見遣る。
「どうかしたのか?」
「……ごめんなさい。今、何かが」
目を凝らすキーアの見つめる先、何かが見えたという場所。
けれど、そこには何もない。
何もないはずの虚空だ。誰も、何の気配さえもありはしない。
ただ崩れた瓦礫と無人の空間が広がっているだけだ。
そのはずの空白である。
少なくとも、蓮にはそうとしか見えなかった。
けれど。
「ねえ、誰か───」
問いかける声は真剣そのもので。
そこに冗談の類は微塵も含まれていなかったから。
「誰か、そこにいるの……?」
投げかけられるキーアの声に。
今この時だけは、蓮は何も言うことができずに。
「───キーア?」
───茫洋と囁かれるその返答に。
ただ、身を構えることしかできなかったのだ。
『B-2/源氏山公園/一日目・禍時』
【キーア@赫炎のインガノック-What a beautiful people-】
[令呪]三画
[状態]魔力消費(中)、決意、赫眼発動?
[装備]なし
[道具]なし
[所持金]子供のお小遣い程度
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争からの脱出。
0:あなたは……
1:もう迷わない。止まることもしない。
[備考]
現在セイバー(藤井蓮)と行動を共にしています。
【セイバー(藤井蓮)@Dies Irae】
[状態] 右半身を中心に諧謔による身体破壊(中・修復中)、疲労(大)、魔力消費(中)
[装備] 戦雷の聖剣、《打ち砕く王の右手》
[道具] なし
[所持金] マスターに同じく
[思考・状況]
基本行動方針:アイを"救う"。世界を救う化け物になど、させない。
0:目の前にあるのは一体なんだ?
1:聖杯戦争の裏に潜む何者かに対する干渉手段の模索。アーサー王と合流してこの異常事態への情報を共有したい。
2:悪戯に殺す趣味はないが、襲ってくるなら容赦はしない。
3:ゆきの使役するアサシンを強く警戒。だがこの段階においては……
4:ロストマン(結城友奈)に対する極めて強い疑念。
[備考]
バーサーカー(アンガ・ファンダージ)、バーサーカー(式岸軋騎)を確認しました。
すばる&アーチャー(東郷美森)、キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)とコンタクトを取りました。
アサシン(ハサン・サッバーハ)と一時交戦しました。その正体についてはある程度の予測はついてますが確信には至っていません。
C-3とD-1で起きた破壊音を遠方より確認しました。
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を無差別殺人を繰り返すヤクザと関係があると推測しています。
ライダー(ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン)及びアサシン(アカメ)と交戦しました。
ランサー(結城友奈)の変質を確認しました。
セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と情報を共有しました。
針目縫から《打ち砕く王の右手》の概念を簒奪しました。超越する人の理により無理やり支配下に置いています。
【アティ・クストス@赫炎のインガノック- what a beautiful people -】
[令呪] 三画
[状態] 正体不明の記憶(進度:小)、忘我、認識阻害、誘導暗示
[装備] なし
[道具] なし
[所持金] アーチャーにより纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:抱く願いはある。けれどそれを聖杯に望む気はない。
0:───あたしは、あなたと……
[備考]
鎌倉市街の報道をいくらか知りました。
ライダー(アストルフォ)陣営と同盟を結びました。
アーチャー(ストラウス)の持ち込んだ資料の一部に目を通しました。それに伴い思い出せない記憶が脳裏に浮かびつつあります。が、そのままでは完全に思い出すのは困難を極めるでしょう。
認識阻害の術式をかけられています。真実暴露に相当する能力がない限り彼女を如何なる手段でも認識することはできません。
ヤヤとアストルフォの脱落を知りません。
▼ ▼ ▼
……痛い。
痛い、痛い……
そこには声はなく。
そこには音もなく。
けれど確かな叫びがあった。
そして確かに嘆きがあった。
黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。
黒い塊が爆ぜている。まるで、粘菌が流動するかのように。
焼け焦げた地面と、横たわる黒い塊。酷く戯画化された人間のような、醜く焼け崩れた四肢を持つ黒い炭塊。
動きはなく、声もなく、しかしそれは未だ意識を保ったまま、それにしか分からない嘆きを上げ続けていた。
痛い、痛い、痛い、
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い───!
皮が焼きつく、内臓は腐食を始める。
肺は汚れた空気を飲み込む、髪は根本からこそげ落ちる。
目からは血の涙が止まらない、
鼻から出るのは血? 何か腐った臭いのモノが混じっている、
鼓膜は否が応にも振動し続ける。嗚呼、指が腐り落ちた。
脚からは骨が見えている。
消えていく。世界から私が消えていく。
母の夢が消えていく。
私の願いが、消えていく。
───さあ、願いを果たす時だ。彼の救済たる微睡みを受け入れた者よ。
───さあ、諦める時だ。死してなお願いのために、我が《ルフラン》を受け入れた者よ。
……嫌だ。
嫌だ、それだけは嫌だ!
嫌、消えたくない!
無価値な人生だけは嫌だ!
現実ならぬ幻想として生まれ落ち!
ただ為す術もなく蹂躙され!
操り人形として使役され!
生命繊維たる私の尊厳は地に堕ちる!
そして最期は下等な人間に敗れ去り、中身をぶちまけながら、カラスに荒らされたゴミのように死ぬ。
ならば、そうだというのなら……
私は一体、なんだったというの……
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>>138 、>>139 の一部内容を修正します
……痛い。
痛い、痛い……
そこには声はなく。
そこには音もなく。
けれど確かな叫びがあった。
そして確かに嘆きがあった。
黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。
黒い塊が爆ぜている。まるで、粘菌が流動するかのように。
焼け焦げた地面と、横たわる黒い塊。酷く戯画化された人間のような、醜く焼け崩れた四肢を持つ黒い炭塊。
動きはなく、声もなく、しかしそれは未だ意識を保ったまま、それにしか分からない嘆きを上げ続けていた。
痛い、痛い、痛い、
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い───!
皮が焼きつく、内臓は腐食を始める。
肺は汚れた空気を飲み込む、髪は根本からこそげ落ちる。
目からは血の涙が止まらない、
鼻から出るのは血? 何か腐った臭いのモノが混じっている、
鼓膜は否が応にも振動し続ける。嗚呼、指が腐り落ちた。
脚からは骨が見えている。
消えていく。世界からボクが消えていく。
母の夢が消えていく。
ボクの願いが、消えていく。
───さあ、願いを果たす時だ。彼の救済たる微睡みを受け入れた者よ。
───さあ、諦める時だ。死してなお願いのために、我が《ルフラン》を受け入れた者よ。
……嫌だ。
嫌だ、それだけは嫌だ!
嫌、消えたくない!
無価値な人生だけは嫌だ!
現実ならぬ幻想として生まれ落ち!
ただ為す術もなく蹂躙され!
操り人形として使役され!
生命繊維たるボクの尊厳は地に堕ちる!
そして最期は下等な人間に敗れ去り、中身をぶちまけながら、カラスに荒らされたゴミのように死ぬ。
ならば、そうだというのなら……
ボクは一体、なんだったというの……
────────────────────────。
『塵屑、不良品、失敗作、ガラクタ、廃棄物、糸くず』
『何がいいかしら? 最期の呼び名くらいは貴女に決めさせてあげるわよ』
『ねえ、愛しく哀れなお人形さん?』
そして───
そして、暗い月夜の中、ばら撒かれた黒の向こう側から訪れる。
夜闇の鬱屈した気配が一人の人間の形へと集約する。
針目の残骸を見下ろすように佇む女。
鉄錆色のドレスと、フィルムと回転盤の顔が、形を取る。
『───あらあら』
それは確かに女だったが、
それは針目の望むような女(はは)ではなかった。
それは、ひどく、鉄の臭いがした。
機械の女。
鉄錆の臭いを纏わせて、夢のように、幻のように、現実味も伴わぬままに彼女は現れる。
月の向こうから、女は来る。
何処とも知れぬ場所から、女は来た。
そして、その女は告げるのだ。
人間め、忘却の奴隷よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
月の見ている場所ならどこにでも。
『あらあら。あらあら』
『これ、どういうこと?
なんで貴女が死んでるのよ』
『貴女に貸し与えた力でサーヴァントを殺すようにって、
彼女、言ってたわよねぇ?』
……声が。
声が、出ない。
何か反論をと思っても、焼け焦げた声帯は音を発してくれない。
知ったことか、と、言おうとしても。
ひりつく喉は蠢くだけ。
それでも、眼前の女は何かを聞いたようで。
『あらそう。そういうこと言う。
そんなお人形、いらないんだけどなぁ』
『西の魔女にも困ったものね。
《根源存在》気取りでお人形ごっこなんて。
あの御方が聞いたらどう思うかしら』
『駄目な子……』
『悪い子ね、針目縫。
悪い子には罰を与えないと』
『さあ、御覧なさい。
貴女の大切なものを見せてあげる』
『チクタク、刻む。
チクタク、刻む。
イアイア、喚ぶの……!』
その身に纏ったものを、女は見せる。
その身に纏うフィルムと回転板。
そこには映るだろう。
メモリーが。
そこには蘇るだろう。
メモリーが。
耐えきれない現実と共に、
耐えきれない過去と共に、
見せる。見せつける。目を逸らせない。
生命繊維の申し子たる針目でも、逸らせない。
ただ、見つめて───
『メモリーはここに。
あらゆるメモリーはここに』
『廃せる"願い"は、今ここに』
『だって、人間には無理でしょう?
メモリーをしまっておく場所なんて、
どこにもないでしょう?』
『頭の中にしまっておいても、
すぐに歪んで、ねじれて、劣化する』
『さあさ、覗いてごらんなさいな。
何が見える? 貴女、何が見たい?』
問いかける声は残酷に。
問いかける声は冷酷に。
針目の望みを女は叶えるだろう。
四象に広がる万仙陣の御力で。
針目の潰れた瞳に映りこむのは、何か。
それは神だ。
それは赤だ。
神。それは母の求めた願いの果て。
神。映り込むそれは、赤であって白きものではなく。
神。針目が求め、地に降り立たせんとしたもの。
原初生命繊維。
その光景が、瞳の中に映りこんで……
────────────────────────。
『さようなら。最期の呼び名すら決められなかった哀れな女』
『貴女を選んだのは失敗だったわ。
まったく、役立たずの人間の糸くずだわ』
声が響いて。
針目の視界が───
黒いものに───
刹那、埋められて───
───そして───
「──────」
声なき叫びだけが。
無限再生される過去の中、揺らめいた。
【バーサークセイバー(針目縫)@キルラキル! 消滅】
投下を終了します
アイ、アーサー、エレオノーレ、ストラウス、レミリア、叢、イリヤ、ギル、シュライバーを予約します
投下します
月明かりの照らす崩壊都市。
可視化されるほどに濃密な、鋼の如き圧迫感。
その地は、この都市において最も重厚な威圧感に満ちた一角だ。
その地は、この鎌倉市において最も死の冷たさに満ちた一面だ。
そんな只中にあって、彼方を見つめ屹然と立つ女が一人。
穢れ無きシルクのドレスに身を包み、紅き瞳だけが夜闇に茫洋と浮かんで。
瓦礫の塔より見下ろす荒廃都市。白く輝く、月さえも覆い隠す巨影。
その輪郭が揺らめいた刹那に。
「───どうやら仕込みは終わったようね、アサシン」
口を開くと同時に。
女の隣に出現する、高い痩身の影があった。
白き髑髏面の、赤い瞳だけが夜に輝く黒衣の影だ。
それは直前まで何の姿も気配もなく、しかし今は確かな実像を伴って女の隣に立っていた。
微かに笑みの気配を湛えた女の口調とは裏腹に、その影はどこまでも徹底した無感情の声のまま。
「如何に肥大化しようとも、獣の思考は東西を問わず同じもの。まして本能さえ狂わされた畜生ならば尚のこと。
機械的な思考回路を誘導するだけの些末事、忍であれば下忍であろうと容易かろうよ」
その言葉に、女は───レミリア・スカーレットは満足気に頷く。実に、愉快そうに。
「適材適所、やっぱりお前を引き入れて正解だったわね。
ほら、私ってば貴人でしょう? だからこの手の細かい作業は苦手でねぇ」
「クラスの違いによる得手不得手なら認識している。自虐か皮肉かは知らんが詰まらん冗談はその霊基だけにしておけ」
「うわ、酷い。これ半ば本気の忠告だけど、お前はもうちょっと他人を立てるということを知ったほうがいいわね。それじゃ忍者の雇用先にも困るでしょ」
「生憎、誰かに使役される立場に甘んじるつもりはないのでな」
二人の会話の間にも、周囲には鉄の強度を持った威圧そのものが重くのしかかっている。
それは二人がもたらす敵意の具現───ではない。
少なくともアサシンの側にそれだけの質量を持った殺意など出せないし、レミリアはそもそも敵意に類した感情を一切表に出していない。
この圧を放出している者は、彼方に。
二人が見つめる視線の先、最早誰もが死に絶えた大地に聳え立つ、正体不明の巨影に他ならなかった。
「それで、お前が言っていた方針だけれど。本気なの?」
「何を今さら」
逡巡の欠片も見せず、アサシンが返す。
「我ら二人であれの討伐は根本的に不可能。弱体化の目途もなく、そもそも近寄ることさえ困難至極。
我としては魔力切れによる消滅を待ちたかったのだがな」
「もう言ったはずだけど、それは下策中の下策よ。確かにマスターが存在しない以上いつかは消え去るでしょうけど、それまでにこの都市は百度も千度も滅びるでしょうね。
いいえ、あるいは幾万幾億? そもそもアレの保有する性質からして、数日どころか数年単位で現界し続ける可能性だってあり得る」
「故に物理的に討たねば止まらない。ああ、既に聞き及んでいる。ならば」
アサシンは表情の伺えぬ仮面の下、何かを思うかのように。
「導かれる答えは一つしかあるまい。貴様はこれを不可能と断じたが、現状最も可能性があるのはこの方策なのだから」
彼方を、都市を二度覆った規格外の魔力爆発が発生した都市中心核を見つめ、赤い瞳が輝いて。
「化け物には、化け物をぶつけてやればいい」
………。
……。
…。
────────────────────────────────────。
▼ ▼ ▼
そこには既に、戦場の波乱など微塵も存在してはいなかった。
静寂だけが辺りを満たしていた。開戦の号砲も銃火の轟きも、剣を交える甲高い金属音も全く存在しない。
周囲に見えるのは夥しい数のクレーターと、焼かれ切り裂かれた無残な建物の残骸だけだった。それだけが、まるで無人の廃墟に取り残された石榑であるかのように、ただ静かに転がっているだけなのだった。
無音の舞台に上がるのは、一際巨大なクレーターの底で跪く赤騎士・エレオノーレと、
ただそれを睥睨する、剣を構えた赤薔薇王・ストラウス。
そのような風景の中、二人の戦いは続いていた。
そう、"戦いはまだ終わってなどいない"。
ここには一切の音が存在しないというのに、未だ戦いは終わらず、信じがたいことにむしろ熾烈極まる様相を呈しているのだった。
「──────ッ」
膝をつく赤騎士は、今や凄惨たる有り様だった。
体中が血に塗れ、負った傷は数えきれないほど。既に左腕と右脚はまともに動かず、右手の挙動も怪しいものだ。数多の敵を切り裂いてきた軍式サーベルはとうの昔に根本から叩き折られ、用を為さずにそこらへ打ち捨てられている。
これまでの戦いにおいて、損傷どころか纏う軍服にさえ一切の傷をつけずに戦ってきたこの炎魔が、今や瀕死の状態にまで追い込まれていた。
付けられた傷の数は百や二百では利かないほどであり……翻って、それだけの攻撃を許しておきながら未だに致命傷を回避しているという事実が、紅蓮の赤騎士の持つ技量と戦術眼の凄まじさを物語ってはいるのだが。
「おのれ───」
そのような気休めが一体何になるというのか。
見上げる視線の先、静謐のままに直立不動を貫く男の影は、まるで損耗の気配を見せない。射抜くような瞳は、まるでこちらの動きをつぶさに観察しているかのような無感動さで。
敵手に対して傷一つ負わせられないという、今までとは真逆の立場に置かれた。あまつさえ自分を脅威とすら思われず弄ばれた。
許せぬ、許せるわけがないだろう。
故にザミエルは渾身の力を振り絞り───これまでと全く同じ、戦いが始まってから一度として通じなかった攻撃を敢行するのだった。
「図に乗るなァッ!!」
叫びと共に腕が振るわれて、背後の空間が激震する。
空間が揺れ、捻じ曲がり、赤熱する砲塔が中空より現れる。それが次々と連鎖していき、見上げる限りの広大な空間全てに口が開いては無数の魔力弾がストラウスを照準した。
シュマイザー、パンツァーファウスト、至近距離で爆ぜる銃火の嵐に炸裂弾の槍衾。
溢れだす凄まじいまでの熱量が大気を歪める。地表を溶かし、空気を灼熱させ、なおも上昇を続ける熱は天井知らずに火力を増大させていく。
そして放たれる、怒涛なまでの鉄火の雨。
ドーラ列車砲を運用するために戦った数千もの英霊たち。その魂が寄り集まり、軍団規模の群体英霊として機能しているのがこの絨毯爆撃の正体だ。
その一つ一つが、サーヴァントの一撃に匹敵する弾幕である。通常の英霊ならば相対した時点で詰みも同然であり、例え同格に至ろうともこの奔流を凌ぐのは至難の技であるはずだというのに。
「ぬるい」
世界を埋め尽くさんばかりに放たれた、音速を遥か超過する大火力の噴流は───しかし、羽虫を払うかのように振るわれた腕の前で全てが掻き消された。
文字通りに、何の衝撃もなく、最初から存在しなかったかのように。
都市を壊滅させるに足るほどの爆撃は、しかしストラウスの髪を揺らすことさえできずに。
「ぐ、おおおおおおォォッ!?」
次瞬、無拍子で放たれたストラウスの斬撃がザミエルを襲う。
間合いも何もあったものではない遠間からの一撃。しかしそれは当然であるかのように、空間的に離れているはずのザミエルを一切のタイムラグもなく切り裂かんと迫る。
咄嗟に展開する炎熱障壁───摂氏数万度にも及び、生半な相手ならば触れた側が即座に蒸発する規模の防御壁である───が三十二層まで何の抵抗もなく断割され、寸での回避に成功したザミエルの肩口を抉る。
宙に舞う、血と肉片。
あまりに一方的な攻防ではあるが、しかし致命傷を避けたというだけで超絶の技量であり、彼女であるからこそ"この程度"で済んだと言うべきだろう。
秒毎に訪れる致死の一撃を回避し続け、肩で息をするザミエルにストラウスが語りかける。
「なるほど、存外にしぶとい」
「ぐ、あぁ!?」
再度放たれる斬撃に、ザミエルは左方向へと咄嗟のステップを踏んで───その瞬間には、いつの間にか傍まで移動を終えたストラウスの右手が、ザミエルの首を鷲掴みにしていた。
ぎり、と絞められる握力に苦悶の声が漏れる。今この瞬間もザミエルの総身は赤熱し、九千度を超える極熱を身体に纏わせているにも関わらず、その腕は蒸発は愚か溶けもせず、振り払おうと必死の抵抗を見せるザミエルの尋常ならざる怪力を以てしても微動だにしない。
持ち上げられる体、抵抗すら許されない体勢。
だが、この状態ならば───刹那に思考したザミエルは瞬時に聖遺物を起動、自分ごとストラウスを覆い包むように無数の砲塔を展開して釣瓶撃つ。
これまでと同じ変わり映えのしない攻撃だ。着弾して爆発するという、何ともありふれた攻撃手段。ただしその爆発には、「地球表面そのものを呑みこむまでに成長し得る疑似創造の力が付与された」という枕詞が付く。
世界に亀裂が生じ、そこから目も潰れんばかりの極光が溢れ出た。数瞬遅れて解き放たれたドーラ列車砲の一撃が空間さえも圧壊させながら熱量を放出したのだ。白色の光が視界を覆いつくし、鼓膜が破れるどころか人体程度ならそれだけで粉砕されるだろうほどの轟音が響き渡った。
それは、この戦いが始まって以来初となる、戦闘で生じた爆音だった。
ザミエルは遂に、ストラウスの想定を上回る攻撃を成し遂げたのだ。
けれど。
「なん……だと……?」
視覚と聴覚が狂わされる大破壊が収まって───そこには先と何も変わらない、首を掴まれ吊るされるザミエルと右手だけを伸ばすストラウスという構図が継続していた。
何も、何も変わっていない。自爆も覚悟で放った起死回生の一撃でさえ、この男には通用しないというのか。
「やられたな。できる限り被害は抑えたが、それでもこの区画は消し飛ばされたか」
流石は黄金の近衛か、という声に、ザミエルは半ば無自覚に畏怖の感情を覚えた。
ストラウスの言う通り、確かに周囲一帯は先の一撃により吹き散らかされている。既に壊滅的な破壊を受けてはいたが、その上から更に大破壊を受け地面は融点を迎えて液状化し、散らばる瓦礫すら残っていない。
だがそれだけだ。肝心要たるこの男に対して一切の有効打を与えられていない。いくら他のものを消し飛ばそうと、この男を殺せなければ意味はない。
けれど、それでも。
「貴様、は……。
貴様は、何を、考えている……?」
指で押し潰される気管で無理やりに言葉を発する。対する男は、無言。
腑に落ちない疑念があった。それは、"何故この男は早く自分を殺さないのか"、ということ。
これまでの戦闘で嫌というほど理解させられた。今の自分とこの男では、圧倒的な戦力差が存在すると。曲がりなりにも自分は格上を相手に生き延びてきたが、それもストラウスが間断なく攻め立てることがなかったが故のことである。つまりは本気を出されなかったということであり、その事実が不可解に過ぎて同時に腹立たしい。
愚弄しているのか、とさえ考える。騎士の尋常なる決闘を汚す愚か者、まさかこの赤薔薇王がと疑ってしまうほどに。
「逆に問おうか。お前はいつまで、こんなところで遊んでいるつもりだ?」
しかし、問い返されたのは全く予想もしていなかった事柄で。
怪訝に細められる目が、掴み上げるストラウスを見下ろした。
「お前が死線の蒼と接触したことは既に聞き及んでいる。夕刻における由比ヶ浜のタワーマンション崩落はお前の仕業だろう。
そこで何を吹き込まれ何を選択したか。そして真実を聞かされて尚、未だに"お前という個我"を保ち続けたその強度と理由を、私は見極めようと考えていたのだがな」
心底より呆れ果てたと言わんばかりに頭を振る。
その視線は崩壊し尽くした周囲を睥睨して。
「その結果がこれか。死線の蒼は貴様を死神と呼んでいたが、このザマでは過大評価も良いところだな。
そこらを這いずる屍食鬼と何ら変わるまい。あの白化(アルベド)と良い勝負だ。
破壊のみを願われ顕象された死線の蒼でさえ己が最善を尽くしたというのに、お前のその体たらくは一体何だというのだ赤騎士。ムスペルヘイムの忌み名が泣くぞ」
「誰に……何を……ッ!
説法している気だ貴様……!」
じっとこちらを見据えるストラウスに、しかしザミエルが返すは殺意と敵意の感情のみ。
それは如何な窮地においても衰えを知らず、そもそもザミエル自身がそうした理屈を許せなかった。
「遊びだと……!? この地を覆う桃園の正体を知った上で尚もそのような世迷言を吐けるなら、巫山戯ているのは貴様のほうだ……!
現実に向き合うことさえ諦めた塵屑共の集う痴れた阿片窟、彼奴らはよりにもよって我らを斯様な吐き溜まりへ投げ落とした!
これで何も感じぬようであれば、其奴は英霊どころか人間ですらない。生かす価値もない下賤な塵芥に過ぎない……!」
「その激情の帰結こそが、この大破壊であるのだと?」
「言うまでもない! 我が身は聖杯戦争への勝利という事実を以て黄金螺旋階段へと至り、頂上にて一切を睥睨する第四盧生を討ち果たそう!
それがための闘争だ! 私のやるべきことは何も変わらない、そして貴様らのすべきこととて何も変わるまい!
勝ち残った一人だけが栄光の高みへと手をかける。我らを愚弄した運命に決着を付けることができる!
故に私は───!」
「万仙の王を討ち果たすため、聖杯へと至ろうとしていたのか。鎌倉に集った全てのマスター、全てのサーヴァントをお前の炎にくべることで」
それは赤騎士が持つ極大の自負。
己は黄金以外の何者にも負けはしないという、世界そのものを見下すに等しい傲慢極まる自尊の念。
そして事実、そう確信するに相応しいだけの実力を有するザミエルの宣誓を前にして。
「不可能だ。お前に奴は倒せまい」
至極単純な、そして絶対的に揺るがすことのできない事実を言い放った。
「何……だと……?」
「聞こえなかったか? ならばもう一度言ってやろう。お前は、奴には、敵わない。
お前だけではない。狂乱なりし白騎士も、万物一切に終焉の幕を下ろす黒騎士も、彼方に坐する第一盧生も、そしてこの私も。どう足掻いても奴に傷一つ付けることなどできはしまい」
「……語るに落ちたか赤薔薇王。まさか貴様が、知った顔で諦めを口にするとはな。
ならばその魂を私に明け渡せ。エイヴィヒカイトの術式をまさか知らぬとはほざくまい……!」
「知っているとも。殺した者の魂を吸い上げ、その質量分己が力を増大させる魔術式。
なるほど確かに、お前が私の魂を貪れば相応の強化には繋がるだろうな。あるいはこの聖杯戦争において、文字通りの最強となれる程度には」
エイヴィヒカイトによる強化の上限は、サーヴァントとしての霊基総量ではなく本人の格に依存する。
故にザミエルがストラウスを殺害し、その魂を取り込むことに成功したならば、爆発的な強化が見込めるはずだ。
黒幕への反抗を諦め戦いを放棄するならば、せめて我が糧となって現状打破の役に立て───ザミエルが言っているのはつまりそういうことであり、そのどこまでも勝利しか見ていない姿勢はある意味では尊敬さえ覚えるほどのものだけど。
「訂正しようか。二つだ」
しかしこの場合、的が外れていると言わざるを得ない。
戦うだの戦わないだの、勝つだの負けるだの、そのようなものを論ずる段階はとうの昔に過ぎ去っているのだから。
「一つ目。何度も繰り返すがお前は決して第四盧生を倒すことができない。
強さや魔力の問題ではない。そもそもこの聖杯戦争に召喚されたという"強制協力"が成立している時点で、勝敗という概念は消えている。
奴を物理的に打倒できる可能性が僅かでもあるならば、最初からこの都市において廃神として顕現などしないのだ。
そして二つ目だが……」
一旦目を伏せ、そして。
「そもそも、私は一度も"諦めた"などとは言っていない」
これまでに倍するほどの覇気と共に、決然と言い放った。
その瞬間だった。
落雷のように空気が哭いた。
ザミエルの眼前を、膨大な熱量そのものが横薙ぎに通過した。
それが地表を通過しただけで、溶解した地面は直下の地殻ごと粉砕された。
「な───ぐぁッ!?」
首を絞めつけていた万力が如し拘束から解放され、後方へ弾き飛ばされたザミエルは衝撃に揺れる視界の中で"それ"を目撃した。
それは、"砲弾"だった。
だが、果たしてそれを砲弾と呼んでいいものか。
今しがた眼前を駆け抜けた砲弾は直径5mを優に超えた大きさだった。通常、弩級戦艦で運用される主砲ですら40〜50cm程度のものでしかなく、ザミエルが使用する歴史上最大規模たるドーラ列車砲でさえ砲口径は80cmしか存在しない。
明らかに人類史において使用された兵器ではあり得なかった。そのような巨大物を、極超音速で射出する技術が存在するかどうかさえ。
そしてザミエルは、その攻撃に見覚えがあった。
忘れるはずもない。それは、先刻他ならぬ自分こそが殺し合った対敵であるのだから。
すなわち。
「第一盧生……甘粕、正彦……!」
その強さを己は知っている。
その愚かさを己は知っている。
意志の魔人、遍く光を追い求める人類賛歌の狂人。
否応なく高まる戦火の気配に、とうとう堪えきれず自らも手を出したか。
「流石に、相殺しきれないか」
おもむろに声が響く。
咄嗟に振り返れば、そこには今しがたの砲撃で付いたと思しき凄惨たる崩壊の痕。
刻まれた溝は荒廃した地平線までを綺麗な直線を描いていて、金属で形作られた砲弾が大地や赤薔薇王という障害にも軌道を乱さず破壊を刻んだことを意味している。
だがしかし、その軌跡は途中で綺麗に二股に分かれ、まさにその地点より彼の声は届けられた。
声は静かに、されどその姿は凄絶さを伴って。
悠然と歩いてくる。その身は凶弾の直撃を受けて、微かな疲弊の色こそあれど、しかし傷の一つもなく。
いいや、もしくは"斬った"のか。あの刹那に行われた破壊を見切って、砲弾の直撃に体ごと押し込まれても尚、両断してみせたのか。
何という不条理。何という非常識であるのか。
ザミエルが一度殺し合った時ですら、あの砲弾の直撃は自身の死を想起させた。その時でさえ放たれた砲弾の大きさ自体は極めて常識的な代物であったことを鑑みれば、先の一撃はかつての数十倍ですら利かぬ威力を誇っていたに違いない。
そして単純な事実として、ザミエルの見立ては正しかった。
エイヴィヒカイトに位階が存在するように、彼方の戦艦の主・甘粕正彦が扱う邯鄲法にもまた術法としての階梯が存在する。階梯が一つ上がれば扱える力の総量は次元違いに増大し、同じ術者の技であっても低位から放たれた術と高位から放たれた術では雲泥の差が生じる。
先の砲弾は序詠破急終の五つに分類される熟練深度のうち急段、すなわち終段を除けば最も高位に位置する階梯から放たれた一撃である。
創法の形により砲弾を創形し、解法の崩による物質崩壊の理を乗せ、咒法の射で高速射出する。このように三つ以上の力を複合するのは急段以降でなくば不可能であり、その意味であれば先の一撃は範囲こそ絞られているものの今聖杯戦争において甘粕が放ったどの攻撃よりも強力な代物であった。例えば先刻彼がリトルボーイでさえ創法の形と咒法の散の二つしか組み合わせない詠段、すなわち下から数えて二つ目の極めて低位の力による攻撃であり、それですら一都市を壊滅させて余りある威力を誇っていたと言えば、ストラウスが行った所業が如何に度外れているかが理解できるはずだ。彼が咄嗟に創形と相反する性質の力場へと魔力を転化させ物理エネルギーそのものを消失させていなかったら、極限まで圧縮・集束された一撃は地殻など薄紙のように貫き星の中心核にまで巨大な穴を穿っていたかもしれない。
「形成───極大火砲・狩猟の魔王(デア・フライシュッツェ・ザミエル)!!」
だが、それが一体どうしたという?
戦力差は理解した。己が武装が奴には通じないということも、純然たる力の多寡で敗北を喫しているのだということも分かる。
だが狂おしく希求する我が渇望の深度において道を譲るなどありえない。
挑めば死ぬ? ならば潔く死ねば良かろう。
黄金に侍る不敗の戦鬼が臆病風に吹かれて逃亡したなどと、それこそ笑えぬ冗談だ。恥を晒すくらいなら死に晒せという矜持は、配下のみならず己にもまた適用される。
そして───ああそもそも。
「どこを見ている───我が忠義の焔を甘く見るなァ!!」
そもそも、自分は未だ敗北を認めてなどいない。
気勢に振り向くストラウスの総身を、漆黒に染まった炎が瞬時に包み込んだ。完璧なタイミング、完璧な入りの一撃であった。事実として一切の防御行動を取れなかったストラウスの全身は現在進行形で炎上を続けている。対魔力スキルを持たなければ如何なサーヴァントであれど即死する威力の焔を受けて、これはある種当然の結果ではあった。
そのはずなのだが。
「どうも語弊があったようだが」
それは最早、人の形を取った燃焼という形容が最も相応しい有り様だった。
万象焼き尽くす領域に手をかけた超高熱による消滅と、夜の一族において尚魔人と称されたストラウスの強靭に過ぎる再生力とが拮抗したがために生み出された光景である。
今や数百万度という常軌を逸した温度の炎に巻かれ、赤そのものを身に纏ったストラウスは落ち着いた、けれどもそれが故に底冷えのする声で語りかける。
「私としてはお前を侮ったことなど一瞬足りとてないのだがな。ああ、実のところお前の相手をするのも結構ぎりぎりなんだ。
油断をすればすぐこの有り様と来た。ああ、今なら私を倒せるかもしれんな? 少なくとも可能性は零ではないぞ」
「ならば───!」
「だから」
ふっ、とストラウスを構成する魔力が急激に薄まっていく。
それはまるで炎が明滅するように、今まさに眼前で燃えているはずのストラウスの存在が不確かに薄らいでいくのだ。
何故か───決まっている。
「お前と奴、同時に二人を相手にしては流石に私も命が危うい。
無意味に生を繋げるつもりはないが、だからと言って無駄死にする趣味もないのでね。ここは退かせてもらおう」
「貴様、逃げるつもりか……ッ!
この私を侮辱し、あまつさえ情をかけ尻尾を巻くなど許すとでも……!」
「その理由はお前こそが熟知しているはずだ。
死線の蒼よりもたらされた真実、この都市を覆う桃園の姿。その事実を以て何を選択すべきか、今一度よく考えておくといい」
その言葉を最後に。
蝋燭の火が吹き散らされるように、纏わりついた炎ごとストラウスの姿は消失した。
光が乱舞するでも、大地を揺らす鳴動が起こるでもなく。
何の音も動きもなく、最初からそこには何もいなかったかのように、ストラウスは消えてなくなってしまった。
後に残されるのは、静寂。
己一人が残されたという、ザミエルにとってはこれ以上ない屈辱であり。
「……逃げ遂せられると思ったか。この私を前にして!」
到底、許せるはずなどなかった。
「真実、選択、ああ知ったことかよ、そのような些末事。
貴様にどのような思惑があろうとも関係ない。薄汚いその思想諸共、蒸発して失せるがいい!」
そして宙に刻まれる、炎で構成されたルーン文字。
それは今まで彼女が行使してきた輪郭不確かな魔法陣ではない。幾万の魂によって構成された、確かな形を持つ一軍の砲塔だった。
それが証拠に、見るがいい。ただ出現したというだけで吹き荒れる炎熱の嵐。ザミエルを中心とした周囲数百メートルが、泡立つように溶解して物質としての形を失っていく。
逃がすつもりなどない、何としても彼奴を戦場へと引き摺り戻す。そして名誉を賭けた決闘の果てに、我が誇りを取り戻すのだ。
頭を占めるはそれ一つきり。最早聖杯戦争の行く末も、何もかもが彼女にとっては些末事だった。
何しろ、どのような道を辿ろうとも最後に行き着く結末など決まりきっている。ザミエルにしろ赤薔薇王にしろ、最後に立っていた一人だけが黄金螺旋階段の果てへと辿り着き、否応なく己が真実を突きつけられるのだ。
ならば今、この都市がどうなろうとも構うことはなし。ストラウスがどこに隠れ潜んでいようとも関係ないよう、ザミエルは鎌倉そのものを覆い尽くす域の炎を、未だ避難の勧告すらマスターに行うことなく行使しようとして。
中空に刻まれた空間の断裂から、凄まじいまでの熱量を顔を出し──────
「───風よ、吹き荒べ!」
声が───
響いた瞬間、ザミエルは己が肉体を狙い墜落した風の鉄槌を横へ飛ぶことで回避した。次瞬、打ち砕かれる直下の地面。飛び散る瓦礫と穿たれる穴隙の深さが、その一撃の威力の程を物語っていた。
危うげなく着地するザミエルと同時に、静かに降り立つ一人の影。
それは清廉なる気配を露わに、輝き放つ白光なる鎧を身に纏って。
───騎士王、アーサー・ペンドラゴンの真名も明らかに。
───悠然と、屹然と、その戦意を口にする。
「ザミエル・ツェンタウァ。三騎士が一角、炎熱の恐怖。
お前が何を望むのか、私は知らない」
「けれど、その炎を以て我が盟友たちを殺そうと言うならば」
聖剣を携え現れる、蒼銀なりし騎士の王。
既に風王の戒めは解き放たれ、右手に構えるは眩き黄金の光剣なれば。
「無辜の民を、幼子を、無慈悲に焼き尽くさんとするならば」
「いざ、星の輝きを以て───私は、お前を討ち果たそう」
都市滅ぼす炎魔の化身に、その切っ先を突きつける。
迷いはなく、恐れもなく。
ただ、勇猛なる騎士の誓いの下に。
「……久しいな。騎士のセイバーよ」
一瞬だけ面食らい、次いで苦笑して、ザミエルは感慨深く呟く。
それは、かつて一度目にした姿だった。
聖杯戦争の本戦が開始し、最初に出会ったサーヴァントだった。
我が"剣"を振るうに値すると確信できるほどの格を持つ英霊、その最初の一人。
故にこれは、あの時の再演に他ならず。
「最早因縁も守るべきものも朽ち果てた。この都市は死に体だ、今や貴様の守護など何の意味も為しはしまい。
それでも尚、私に剣を突き立てるか、蒼銀の騎士王よ」
「無論、言われるまでもなく」
そして彼らは真っ向から対峙し、各々の武装を構える。
アーサー・ペンドラゴンは己が伝説の具現たる聖剣を。
エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは黄金への憧憬たる煉獄の炎を。
共に宝具として顕現し、敵手を食らう刃として相対する。
これが解き放たれる時とは、すなわちどちらか一方が地に伏せる瞬間に他ならず。
アーサーとエレオノーレは、今この時だけは一切のしがらみを忘れ、共に二人の"騎士"として対峙する。
───そして。
───そして、なお、彼らの物語は紡がれる。
星々が空にあろうとも、
太陽が消え去ろうとも、
誰かの"願い"を誰かの元へ届けるだろう。
既に終わった物語。
今に語られる物語。
それは、今はただ英雄たちの賛歌として紡がれる。
これは、英霊たちの物語。
これは、人間たちの物語。
故に、都市に"それ"は顕現する。
故に、異形の叫びは都市全土を震撼させる。
空に月はあれども───
それは決して、無垢なる白色の女王などではなく───
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!」
空を───
空を、覆い尽くすものがある。
それは影だ。
それは這い寄る白色だ。
暗がりにだけ在るはずの、見えぬはずの。
天にまします巨いなる月の光さえも遮って、
其は、暗がりの異形と現れる。
其は、忌まわしき白と現れる。
あらゆる音が消えていた。
赤騎士と蒼銀の騎士が対峙する烈風が如き怒気の発露も。
彼方より駆動を続ける漆黒の威容誇る戦艦の機械音も
終末の様相を呈する都市全域の喧騒も、何もかも。
全てが消えた。
その時が来た瞬間に、忽然と。
沈黙の時は一秒、それとも二秒。
誰も知る者はいなかったけれど、時は来た。
誰も止めることはできず、その意思もなく。
───約束された時が来たのか。
───誰が、誰に対して、どんな約束をした?
……誰も。
誰もいない。答える者はこの都市にはいない。
だから、その時は訪れる。
チク・タク。
無音は、静かに告げる。
チク・タク。
足掻くのをやめろと嗤いながら。
チク・タク。
それは、まるで"神"のように。
故に、その時は来た。
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!』
それは這い寄る白色だ。
暗がりにだけあるはずの、見えぬはずの。
それは立ちあがる怪物だ。
荒廃した大地にて、巨躯を顕す白色の巨影。
その真実を知る者はいない。
禁じられた忌み名、狂乱の果てに至る者。
全てを置き去り、全てを忘れ去り、呪わしき記憶を欺瞞の檻に閉じ込めた者。
三騎士たる鋼鉄と炎魔ですら、この姿を知りはすまい。
死を具現する世界において、なお凶兆たる災禍の獣と称された魔軍の長。
ある意味で最も弱く、最も脆きその身を砕かれることで再誕する、現世界において求道の神に近き最たる器。
───禁じられた名。
───それは、殺戮の王たるフェンリス・ヴォルフ。
────────────────────────。
───それは、巨いなるもの。
───それは、恐怖そのもの。
恐怖をもたらす者。
万物一切の区別なく、
あらゆるものへとその咢を振るう白狼。
幾年月の果てにヴェルトールよりこの都市へと顕現した、
それは、巨大な物質ならざる歪みの極致。
頭頂まで300mは下らない、夜天の月さえ覆い隠す埒外の巨体。
巨大にして恐怖と畏怖を湛える者。
あまりの威容を前にして「黙示録の青ざめた騎士」と声を発した聖職者は、ベルリンの崩落と共に姿を消した。
恐怖の白。
星輝く夜よりなお眩く、しかして不浄たる白骨の戦奴よりなお昏い異形の影よ。
お前は何だ。お前は誰だ。
神の如き威容を湛える巨いなるものよ。
うねり、歪み、這い寄る超大な狼骨よ。
外殻に刻み込まれた紋様は古なるルーンの秘蹟か、あるいは何かの魔術式か。
それを読み解いた者は既に生きてはいない。挑んだフィラデルフィアの魔女は発狂し、哀れな死者と化した。
その姿は人狼にも似て、
その姿は人狼とは異なり、
ああ、これは何だ。この影を構成するものは。
───それは恐怖だ。
───恐怖と共に簒奪された、数多の魂によって織り成す白影だ。
第二次大戦の終結時、ベルリンそのものを錬成陣として魂を吸い上げ、黄金へと至る魔術儀式が存在した。
墓の王は世界の果てへ去り、随伴した三人の騎士もまた不死不滅たる黄金の鬣と化した。
今や英霊の座にさえ存在を刻まれ、絶大な畏れを以て世界を震撼させたその者を、こう呼んだ。
白騎士。最速たる殺意の波濤。
ウォルフガング・シュライバー。魔名においてはフローズ・ヴィトニルとだけ。
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!』
空が震える。
大音量の咆哮が迸る。
地から影のように滲みだして朧の巨体を形成したシュライバーは、殺戮の王は、叫ぶ。
呪うように。呪うように。
鳴り響く咆哮。都市を揺るがす、音ならざる絶叫。
それは鼓膜ではなく、魂そのものを揺さぶる振動だった。魔性の存在領域に到達した聖遺物の使徒は、呼気や視線でさえ他者の魂を打ち砕く。
轟音は、その身が風を切る音なのか。
それとも、怪物の咆哮そのものが風となるのか───
「これは、まさか……!」
焦燥の色さえ滲ませて、アーサー・ペンドラゴンが危急の声を上げる。
今や全ての音が消えてしまった戦場の只中で、厳かに、聖剣を構えたままに。
その声音は、明らかに、現れ出でた巨影を知っていて。
───今この場所に、このタイミングで顕現した、だと?
───お前は、何を破壊するつもりなのだ。
───僕達全員をか。哀れなる狂した獣よ、お前は。
───同胞の姿さえ見えてはいないのか。それとも、同胞さえ手にかけるのがお前のやり方とでも言うつもりか。
彼は既に聞き及んでいる。大隊長たる三騎士の一角、白騎士のシュライバーを。
それは致命的に思考が破綻していて、あらゆる道理をそこに求めることが叶わない。
ならば、と納得するものがある。セオリーさえ通じはしないなら、この瞬間に顕れることもまた、奴にとっては当然の結果なのではないかと。
───不可解なる影なる者よ。殺意にのみ塗れる狂戦士よ。
───それでも、僕は、お前に屈するわけにはいかないのだ。
───僕には、それが許されてはいない。
───例え、万象立ち塞がろうとも。
「よもやこのような渾沌の坩堝にまで迷い出たか、シュライバー」
その声に、一瞬の忘我より引き戻されて。アーサーは不遜に佇むザミエルを振り返る。
先ほどまでは凄惨たる傷痕を晒していた四肢はいつの間にかその強靭さを取り戻し、全身に刻まれた損傷が秒単位で治癒していく。無論、そこには相応の魔力消費があるだろうが、サーヴァントの基準に照らし合わせても明らかに異常な回復速度である。
長期戦は不利、対敵に時間を与えてはいけない。
その理屈は、思考以前の経験として容易に導き出すことができたのだけれど。
「随分と見苦しいな。それが貴様の真の姿かよ。
肥大化した外殻など見せかけに過ぎん。内に閉じこもりひたすらに接触を拒むその様、醜くはあるがなるほど確かに強力ではある。
それはそれでハイドリヒ卿の御前に舞う戦奴として相応しいか。しかし騎士としてはあまりに救いようがない」
「……」
存在圧がもたらす空間振さえ抑え込む、鉛が如き重圧が降り立ったこの地にて。
ザミエルはただ静かに、呆れたような苦笑するかのような口調で呟きを漏らす。
それは何かを諦めたように、あるいは何かを受け入れたようにも見えて。
あるいはその所作さえもが、内なる畏怖の震えを覆い隠すためのものだったのかもしれない。
「動くなよ。念のため言っておくが、私は貴様を逃がすつもりなど毛頭ない。
例えこの場で奴が暴れまわろうともだ。それで死ぬならそれまでの器、我が黄金に捧げる忠義の一端としてせめて華々しく散るがいい」
「……それは此方の台詞だ。いざ、死力を尽くして来るがいい!」
そして舞台は元の光景へと還る。
そこにあったのは先程と寸分たがわぬ状況だけ。騎士王は聖剣を突きつけ、赤騎士は紅蓮の業火を纏い。
次瞬、掻き消えるは両者の姿。
白き巨影見下ろす死地にて、今こそ二人の騎士は雌雄を決するべく刃を交えたのだった。
………。
……。
…。
──────────────────────────────。
「……そんな、馬鹿な……」
アサシンは、スカルマンは、その仮面を被った叢は。
白き死の仮面を被ってさえいなければ、きっと顔面を蒼白にさせていただろう。
その精神を汚染されてさえいなければ、きっと全身を恐怖に震えさせただろう。
そして今も、顔と心さえ失ってしまった彼女はそれでも、
わずかに残った自我を恐怖に侵食されて。
「あれは、何故あれほどのものが……我が見たものでさえ小康状態の産物であったと……?
それでも、この上昇率は……道理としてあり得るはずが……」
彼女は見てしまった。
あれは、何だ。
この都市の中心部にまで続く街路に、粛々と時限式の魔力罠を設置して。
その爆破によって巨影をここまで導いた叢は、彼奴を脅威と認識しながらも、それでもどこか心の中で軽んじていた節があったのかもしれない。
攻撃の意思を見せた瞬間、あの巨影は真なる暴威を露わとして。
ああ、あれを前にしては、叢が恐れ戦いを避けた蹲る影など、文字通りの影でしかなくて。
今なら分かる。否応なく、肌に突き刺さる質量さえ獲得した殺意の波濤を前にして。
常人ならばそれだけで致死に相当するであろう思念の嵐を一身に受けて、心失ったはずの精神さえも恐怖に支配されたまま。
「ランサー……あれは、貴様は最初から、これを知って……
……ランサー……? どこへ……行った……?」
………。
……。
…。
──────────────────────────────。
「……ようやく」
「ようやく分かったわ。あなた、そもそも最初から"聖杯戦争なんてするつもりがなかった"のね」
銀光に照らされて。
同じく、銀糸のような髪を僅かにたなびかせた少女がひとり。
それはひとり、荒野が如し路地に立ち尽くして。
それはひとり、今まさに去りゆく誰かの背中を見送っていた。
誰か。決まっている。
少女が従えるサーヴァントひとり、黄金の気配だけを此処に残して。
彼は去った。何のためか?
彼は行った。誰の下へか?
遍く人類種が手にした輝きを収める箱庭を携えて。
彼は───
「冷酷無慈悲な王。苛烈なりし暴君。慈悲持たぬ人類の裁定者。
けれど、あなたはそれほどに冷たくはあっても、決して嘘は吐かなかった」
「なら、私は……」
少女は───イリヤスフィールはただ、もう姿さえ見えない彼を見送って。
彼方にて顕現するであろう"神"を、待ち続けて───
………。
……。
…。
──────────────────────────────。
───昏き星々の下。
───盲いた月の瞳に見下ろされし都市にて。
現出した1000フィートもの巨影に、崩壊都市の全域が恐怖に揺れていた。
あらゆる者たちが動きを止めた。
人とサーヴァントの区別なく、誰も彼もが彼方を見上げ、心弱き者に至っては震えあがりさえして。
誰も彼もが声を失った。
誰も彼もが表情を消し去った。
ただ、ただ、巨いなるものが立つのを見て。
許されざる呪詛の眼光は届かずとも、
嘆くが如き、叫ぶが如き咆哮は耳に届き。
しかし。
しかし、それら廃せる者たちの只中にあって。
瓦礫の塔にただひとり。
際限なき恐怖渦巻く最中にあって、
ただひとり、表情少なげに空を見つめる少女がいた。
ただひとり、何も変わらず高みへ降り立つ女がいた。
───レミリア。
───レミリア・スカーレットが彼女の名だった。
もしも彼女を見る者があれば、
四肢から伸びて歪む黒影を目にしただろう。
もしも彼女を見る者があれば、
その黒影が白狼の"手"に酷似して、
煽動し、這いうねることに気付いただろう。
しかし、気付く者はいない。
誰も彼もが死に絶えて、既にこの地には誰もいないのだから。
レミリアが誰を見つめているのかさえ、気付く者はここにはいない。
「……はじまり、おしまい」
「これではじまり。
これでおしまい。
貴方たちが選んでしまうのは、果たしてどちら?」
レミリア・スカーレットは静かに告げる。
恐怖に縛られ恐怖が具現した都市の中で、僅かも表情を崩すことなく。
静かに、静かに。
揺らめく巨影へと。違う。
咆哮する怪物へと。違う。
彼女が語りかけるは、その目前へと顕現するであろう"神"に対して。
「英雄王。
貴方は、人形劇でも始めるのかしら?」
「赤薔薇王。
貴方は、この世界でも終わらせるのかしら?」
「万能なりし、けれども全能に非ざる貴方たち。
そんな玩具で何をするの。
貴方たちの前に、神さまなんていないのに」
「血潮満ちた尊き彼らの物語さえ終わらせる、大きな人形ひとつの踊り。
ああそれとも、彼らは実存に非ざる廃せる者なのだと、貴方たちは嘲笑うのかしら?」
表情が変わる。
静かなそれは、今、確かに微笑んで。
言葉も同じ。
静かなそれは、今、確かに柔らかく。
「いいえ。いいえ。
そうではない。だって彼らの物語はまだ紡がれるのだから。
これは、彼らの物語。
これは、人間の物語。
時に惑い、時に怯えて、それでも立ち止まることのない人々の。
蒼天と星空の下で繰り広げられる物語」
「神も怪物も、時代遅れの英霊(わたしたち)も、何もかもを必要としない。
それは、今を生きる人間たちの、希望に溢れた物語」
「既に終わった物語の残骸から、それでも生まれる命たちの賛歌なのだから」
故に、"それ"は来るだろう。
神ならぬ人の身で、それでも彼は《巨神》を駆って。
───二つ目の巨いなるものが。
───再び、この都市へと。
異形の都市───
月を覆い隠され暗く染まる空。
そして、鮮血の如く染まった赫色の大地。
そして、時を忘れて白光をもたらす星々。
都市に投げかけられる二つの光。
星々の白と、燃え盛る大地の赫。
月の白光は既に都市から消えて、
入れ替わりに細む天眼は煌々と。
ああ、来る、来る。月の瞳たる赫眼はそれを呼ぶ。
それは深淵の黒だ。
それは恒星の蒼だ。
夜の色とも空の色とも異なる色を纏って。
───もう一つの巨いなるものが。
───黄金の意志に導かれて。
───来る。来る。来る。
───誰にも、止めることはできない。
二つ目の時が来た。
白狼とは違い、誰も導いていないのに。
……誰も。
誰も導いてなどいない。浅慮にも白狼を誘導した髑髏面を騙る少女でも、
穢れた奇跡を追い求める、世界の果てにおいてタタリを導いた者ですらなく。
それは一人の自由意思だ。
廃せる駒の一つと成り果て、けれども尽きせぬ人の意思だけは絶やさずにいた一人の王だ。
故に、その時は訪れる。
白狼の巨影に引き続いて、二体目の巨いなる影として。
『───────────────』
都市全土が凍る。
既に誰もが動きを止めていて、では何を、次なる者は凍りつかせているのか。
時か。物質か。
否、それが凍らせるのは"こころ"だ。
恐怖さえをも呑みこんで"こころ"を。
凍りつかせるが故に、人々は恐怖に支配された肉体を再駆動させることが叶う。
『───────────────』
それは立ちあがる巨人だ。
現実に在り得ざる体躯を備えた蒼黒の鋼。
それは巨影の前に顕れる。
恐怖もたらす殺戮の王、フローズ・ヴィトニルの眼前へと。
揺れる大気を引き裂いて。
震える大地を踏み砕いて。
ああ、何もかも終わらせるものが来る。
破壊もたらすもう一柱の神よ。
恐れさえも打ち砕く強き神よ。
其は、何をも赦しはしないだろう。
それは誰かのための物語さえ終わらせてしまう。
終焉の黒。夜の如く。
断罪の蒼。神の如く。
───崩れた都市中心区域をなおも砕いて。
───それは、姿を見せる。
声と共に。
『▅▆▆▆▅▆▇▇▇▂▅▅▆▇▇▅▆▆▅──────!!』
星々が揺れる。
大音量の咆哮が迸る。
それは虚ろに響く声なき声。
巨影たるシュライバーの咆哮と同じもの。
巨いなるものが来た。
人類種を殺し尽くす死世界の獣、強大なるその者さえも滅ぼす神、ひとつ。
それは巨大───
それは異形───
蒼色を纏う、蠢く黒い鋼。
それは確かに質量を持って、虚空から。
────────────。
───黒鋼の巨躯が。
───星々の白光さえも吸って。
───蠢く黒鋼の中心に。
───燃える都市と同じ、赫の瞳がふたつ。
それは巨人だった。
それは影ではない。
確かに、圧倒的なまでの質量が伴っていた。白狼にさえ匹敵するほどの巨大な異形。
大きく前へ踏み出して、ひとつ。
咆哮の振動や揺らぎではなく超質量で以て、
地上に在るあらゆるものを、踏み潰すのだ。
砕く。砕く。
砕く。圧壊させ、破壊し尽くす蒼黒の巨人。
白影を前に怯むことなく、見る者に。
万象一切を破壊し得るとさえ思わせる巨人。
放たれる音は咆哮の他にも無数に、無数に。
軋み擦れる金属音は異邦の交響曲にも似て。
───泣き叫ぶがいい小さき者共よ。今夜、此処に神はいない。
───けれど、今、この都市に巨いなる神はいた。
蠢き流れる黒鋼を肉として。
蒼色に瞬く燐光を鎧として。
それは、儚く揺れる白影よりも遥かに人型を思わせる。
頭部から広げられた両腕にまで渡り上半身を覆うのは、鋭く尖った黒棘の群れ。
幾百の剣を突き立てられた巨人の如き威容。
鋭き黒棘はひとつひとつが風を裂き、空間を切断していく。
見よ。それが証に、巨人が進む跡には───
夜の色が───
白色に削り取られていく───
巨大な脚が振り上げられる。
一歩、再びそれは前へと進む。巨影へと。
蠢く影の凶獣へと向けて。
その巨躯を進めるのだ。前へ、ただ前へと。
何のためか。
砕くためだ。
白き巨影たる殺戮の王を、砕くため。
『幻想、夢、願い。それは時に人を惑わす』
『しかし、虚ろに落ちぬまま歩みを進める者もいる』
『その理由と根源が、貴様に理解できるか?』
何処からか声が聞こえる。
それは誰の声であるのか。
それは蒼色の燐光纏う黒鋼の巨人から響く。
声。それは声だ。
声。それは人の身から放たれるもの。
悠然と、泰然と。
何もかもを冷ややかに見つめる者の声だ。
自らの万能たるを知る者の声だ。
遍く千里、人の紡ぐ遍く未来を見通す賢王が如き英雄の声だ。
けれど、ひとの身から放たれる声に似て。
しかし、巨人の内に誰が在るというのか。
ならば聞くがいい。
巨人の裡の奥深くに響くものが何であるのか。
音。音。
響き渡った男の声以外にも───
数限りなく突き立つ黒の剣軋む音以外にも。
ああ、聞こえる。ああ、確かに。
機関のもたらす駆動音が微かに。
『万仙にうち沈む夢は、逆しまに浮かぶ永遠の黒の城とはなるまい』
『貴様の慟哭は、決して』
『愛などではないのだから』
───黒鋼の左手が───
───巨影へと伸びる───
『故にこそ、貴様は我が討ち果たそう』
『ウォルフガング・シュライバー。斯くも哀れな逃避者よ』
『その影諸共、いざや砕ける時が来たのだ』
───────────────!!
………。
……。
…。
そして彼らは此処に降り立つ。
骸の体躯は嘆きを湛え、
鋼の体躯は賛歌を奏で。
慟哭は崩壊する都市へと降り注ぐ。
狼が如き影の異形と、人が如き鋼の異形が並び立つ。
人なる身から比類なき不死英雄へと拡大変容を果たし、あるいは万能なる者が数億の日々の果てに生み出した機関文明の果てを手に。
異なる二つの窮極を携え、彼らは都市に降り立った。
何かもが相反し、白光と漆黒の両極となりて対峙する巨大異形。
両者に共通する性質はただ一つ。
───無敵。
───物理破壊は不可能。
『C-3/鎌倉市街地跡/一日目・禍時』
【アーチャー(エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ)@Dies irae】
[状態]魔力消費(大)、令呪『真実を暴き立てよ』、全身に極めて大きなダメージ、左腕と右脚に深刻なダメージ、右腕に強いダメージ、それら一切が急速修復中。
[装備]軍式サーベル
[道具]なし
[所持金]なし
[思考・状況]
基本行動方針:終わりにする。
0:例え誰が立ちはだかろうと、黄金に捧げた忠を曲げはしない。
1:黒円卓の誉れ高き騎士として、この聖杯戦争に亀裂を刻み込む。
2:戦うに値しない弱者を淘汰する。
3:シュライバー……これが貴様の秘された真の姿か。
[備考]
ライダー(アストルフォ)、ランサー(No.101 S・H・Ark Knight)、アーチャー(ローズレッド・ストラウス)と交戦しました。
No.101 S・H・Ark Knight、ローズレッド・ストラウスの真名を把握しました。
バーサーカー(玖渚友)から『聖杯戦争の真実』について聞きました。真偽の程は後の話に準拠します。
乱藤四郎と契約しました。
【セイバー(アーサー・ペンドラゴン)@Fate/Prototype 蒼銀のフラグメンツ】
[状態]魔力消費(大)、全身にダメージ、疲労(大)
[装備]風王結界
[道具]なし
[所持金]なし
[思考・状況]
基本行動方針:キーアを聖杯戦争より脱出させる。
0:すばるの身の安全の確保も含め、都市そのものを消そうとするアーチャー(エレオノーレ)を討滅する。
1:キャスターの言を信じ成すべきことを成す。
2:巨人と巨狼にも適時対処したいところだが……
[備考]
衛宮士郎、アサシン(アカメ)を確認。その能力を大凡知りました。
キャスター(壇狩摩)から何かを聞きました。
傾城反魂香にはかかっていません。
セイバー(藤井蓮)と情報を共有しました。
【ランサー(レミリア・スカーレット)@東方project】
[状態] 《奪われた者》、単独行動、胸に貫通傷(大)
[装備] スピア・ザ・グングニル、《この胸を苛む痛み》
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:玩弄されるがままに動かざるを得ない。しかし───
0:あーあーやっちゃったやっちゃった、どうなんのよこれ。
1:強制の綻びを利用し、少しでも自分の思うように動きたい。
2:『現戦力では太刀打ちできない敵性存在に対抗するため協力者を確保する』、これで誤魔化せるあたり結構チョロかったりするのかしら?
3:このアサシンについては、まあ何とかなるでしょ
[備考]
【叢@閃乱カグラ SHINOVI VERSUS -少女達の証明-】
[令呪]三画
[状態]スカルマスク着用、デミ・サーヴァント化。精神汚染、視界の端で黒い秒針が廻っている。
[装備]包丁、槍(破損)、秘伝忍法書
[道具]スカルマンのコート
[所持金]極端に少ない
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を手にし黒影様を蘇らせる……?
0:は?
1:最適行動で以て聖杯戦争を勝ち抜く。
2:ランサー(レミリア・スカーレット)を利用し、厄介な敵陣営を排除したい。
3:聖杯を求めないというレミリアの言葉に疑念。
[備考]
イリヤの姿を確認しました。マスターであると認識しています。
アーチャー(ギルガメッシュ)を確認しました。
エミリー・レッドハンズをマスターと認識しました。
※スカルマンと霊基融合しデミ・サーヴァントとなりました。叢固有の自我が薄れつつあります。
ランサー(レミリア・スカーレット)と一時的な協力関係を結びました。
【イリヤスフィール・フォン・アインツベルン@Fate/stay night】
[令呪]二画、魔力消費(中)、疲労(中)
[状態]健康、盲目
[装備]
[道具]
[所持金]黄金律により纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を手にし、失った未来(さき)を取り戻す。
0:もう何もツッコまないわよ
1:ある程度はアーチャーの好きにやらせる。
[備考]
両目に刻まれた傷により視力を失っています。肉体ではなく心的な問題が根強いため、治癒魔術の類を用いても現状での治療は難しいです。
【ギルガメッシュ@Fate/Prototype】
[状態]健康、《巨神》搭乗。
[装備]《巨神》
[道具]
[所持金]黄金律により纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争を勝ち抜き、自分こそが最強の英霊であることを示す。
0:?????
1:赤薔薇王との盟により、人の生み出した神威によって鉄槌を下す。
2:世界を救うべきは誰か、己も含め真贋を見極める。
[備考]
叢、乱藤四郎がマスターであると認識しました。
如月の姿を捕捉しました。
バーサーカー(ウォルフガング・シュライバー)を確認しました。
【バーサーカー(ウォルフガング・シュライバー)@Dies irae】
[状態]
真なる創造発動、以て獣の目醒めと為す。
[装備][道具][所持金][思考]
一切必要なし。此処に在るはただ殺戮するのみの厄災である。
[備考]
彼が狂乱の檻に囚われ続ける限り、何者もその生を断つことはできない。
※エイヴィヒカイトの生み出す巨大な随神相が顕現。
▼ ▼ ▼
恐怖を振りまいてなお蠢動を続ける白影と、
砕けた大地を割って新たに出現した巨人と、
その中間、地上に立って───
アイは見上げていた。鋭く。
呆然と、否、確かに意思の光を瞳に湛えて。
───見上げていた。
───私は、その、蒼と黒の巨人の姿を。
こんなにも巨大なものが実在する。
疑問、不可解、少女の内側にある違和感が膨れ上がっていく。
見つめる視線は険しく───
けれど、それは不可解なる感情によるものではない。
それは、己が抱える渇望によるものだった。
「私は……」
呟く、呆然と。少女の意思は確かにあって、けれど圧倒的な質量が理屈を無視した畏怖を叩き込んでくるために。
思考は鈍麻していた。その有り様は白痴か夢遊病者の如く、不確かになって。
それでも。
それでも、アイは自らが定義した"夢"に従って動こうとする。
この場を訪れたのは、すばるを助けるという目的のためだ。
そのための出奔だった。その最中、都市そのものを消し去ろうとする赤騎士の姿を認め、故に騎士のセイバーは彼女を討ちに行った。
アイが行かせたのだ。今この瞬間、サーヴァントの守りを欠くというこれ以上にない危険な状態になることも構わずに。
何故なら彼女を放っておけば、すばる諸共全員が殺されてしまうから。
それはダメだ。それはいけない。自分の安全などよりも、ずっとずっと優先されねばならないことだった。
そうしてアイはセイバーを出撃させ、そして今。
見上げていた。巨大な影と、それに立ち向かう巨人の姿を。
巨いなる神。
神。アイの住まう世界にその概念はない。
神は十五年前に死に絶えた。故に、これはアイ個人の記憶から呟かれた言葉だ。幼き頃、寝物語に聞かされた絵本に描かれた神さまのお話。
神。輝けるもの。遥かな空の高みに在って人を赦すもの。尊きものか。
───神。
───目に見えない尊いもの。
───それは、人智及ばぬ業を揮うもの。
───そして罰を与えるものでもある。
そう少女に言ったのは誰だったか。
今はもう思い出せない。
蒼黒の巨人。
これが、その"神"なのか───
『▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆──────!!』
咆哮は再び。
空が裂ける。
巨大な二つの怪物が接近していくのが見える。
歩いているからだ。
進んでいるからだ。
それは今まさに、戦いを始めようとするかのように。
「待ってください!
暴れられたら困るんです! 今、この辺りにはすばるさんが……!」
声は、咆哮と軋む金属音の中に消える。
それでも、ただ、ただ、叫ぶ。
「声が出せるなら! きっと耳だってあるはずです、そうでしょう!?」
轟音。
轟音。
巨人の歩行によって周辺は無差別に砕かれていく。
進むだけで大規模な土石流が発生する。
立っていられないほどの破壊の嵐の中、アイは動いた。
声が出たからには、そう。自分は何かができるはず。
恐怖は消えていた。
巨影を目にして硬直した意識と体は、この蒼黒の巨人を前に霧散して。
───そう、動く。この体は動くのだ。
───ならばすべきことがある。自分には、成し遂げなければならないことが。
故に動く。何ができるのだとか、方法論とか、今はそんなことを考えている場合ではない。
ただ助けるのだ。
そのためにこそ自分は在って、誰かを助けられない自分に存在価値などないのだから。
そう、決意を固めた。
その瞬間だった。
「いや、そこは拙い」
え、と思った瞬間には誰かに抱えられて。
目に見える景色が急速に遠のいたかと思ったその時には、一瞬前まで自分のいた場所に巨大な瓦礫が降り注いでいた。
そして私はその人を見る。
今、私を抱えて飛翔する、柔らかな表情を浮かべた誰かを。
「えと、あなたは……」
「私に敵対の意志はない。手短に話そうか、いつ次弾が来てもおかしくないのでね」
その人は少し離れたところに降り立つと、丁寧に手を離して降ろしてくれた。
噂に聞く地震とさえ思える振動の中、私は何とか立ち上がると、その人を見上げる。
「君のことは知っている。先刻、八幡宮で起こった戦闘、そこに私も介入させてもらった」
「ハチマングウ……もしかして、セイバーさんたちと」
「直接は顔を会せなかったけどね。けれど、だからこそ君達のスタンスもある程度は分かっているつもりだ」
そして、その人は。
何でもない風に。まるでちょっとしたお使いでも頼むような気軽さで。
「頼みたいことがある。なに、簡単なことだよ」
そんなことを、私に言ってきたのだ。
「君にはこれから、世界を救ってもらいたい」
私の"夢"そのものである、奇跡の具現を。
『C-3/鎌倉市街地跡/一日目・禍時』
【アーチャー(ローズレッド・ストラウス)@ヴァンパイア十字界】
[状態] 魔力消費(小)
[装備] 魔力で造られた黒剣
[道具] なし
[所持金] 纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:終わらせる。
1:最善の道を歩む。
[備考]
鎌倉市中央図書館の書庫にあった資料(主に歴史関連)を大凡把握しました。
鎌倉市街の電子通信網を支配する何者かの存在に気付きました。
如月の情報を得ました。
笹目ヤヤ&ライダー(アストルフォ)と同盟を結びました。
廃校の校庭にある死体(直樹美紀)を確認しました。
B-1,D-1,D-3で行われた破壊行為を認識しました。
『幸福』を確認しました。
廃校の資料室に安置されていた資料を紐解きました。
確認済みのサーヴァント:
ランサー(No.101 S・H・Ark Knight)、アーチャー(東郷美森)、バーサークセイバー(針目縫)、ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)
真名を把握したサーヴァント:
アーチャー(エレオノーレ)、ライダー(マキナ)、ライダー(アストルフォ)、アサシン(スカルマン)、バーサーカー(シュライバー)、ランサー(レミリア)
【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(中)、魔力消費(大)
[装備] 銀製ショベル
[道具] 現代服(収納済み)
[所持金] 寂しい(他主従から奪った分はほとんど使用済み)
[思考・状況]
基本行動方針:脱出の方法を探りつつ、できれば他の人たちも助けたい。
0:騎士さんと一緒にすばるを追いかける……はずだったんですけど。
1:"みんな"を助けたかった。多分、そういうことなんだと思う。
2:ゆきの捜索をしたいところだが……
3:生き残り、絶対に夢を叶える。 例え誰を埋めようと。
4:ゆきさん大丈夫なんですかね? ちゃんと生き残ってるんですかね?
5:ゆき、すばる、キーアとは仲良くしたい。アーチャー(東郷美森)とは、仲良くなれたのだろうか……?
[備考]
キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と邂逅しました。
現在セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と行動を共にしています。
投下を終了します
キーア、蓮、アティ、すばる、友奈、藤四郎、市長を予約します
投下します
月が、見ていた。
これは記憶。
これは残滓。
白光と漆黒が都市に刻んだ、恐怖の痕。
それは記憶。
それは過去。
現在を進む時計の針を戻す、少しだけ。
「それは記憶。巨いなるものが都市を訪れるより前」
「それは過去。彼の者らが刃を交えるよりも少し前」
「そして小さき者らが戦いに呑まれ行く前の、三編の断章」
「ならば空に尋ねましょう。そう、月は、すべてを見ているのだから」
都市を揺らす巨影と巨神が激突する、ほんの少し前のこと。夜。星空の下。
瞬く星明りの下で、交わされる三つの幕間が存在した。
定められた破滅を前に、尚も生き足掻く二人の男。
定められた真実を前に、運命と再会する一人の女。
定められた終焉を前に、己が器を塗り替えた二人の少女。
この聖杯戦争において最大最悪の戦いが起こる前の、戦いにすらならなかった三つの物語である。
▼ ▼ ▼
命題です。
そう、これは切実な問いです。
人ならば誰しも、例外なく追い求めるもの。
人生の意義、努力の終局、行動の応報。
すなわち人が生きる意味そのもの。あなたたちが目指す"果て"。
命題です。
"勝利"とは、何か。
────────────────────────。
Answer:勝利とは、無限に積み重ねるもの。
────────────────────────。
戦え。
戦って、戦って、戦って、戦って、その果てに勝利を掴んで死ね。
定義した存在価値に命じられた勝利の亡者は、忠実に己の意義を実行する。その命が尽きるまで止まることは許されず、自らの意思で止めることも叶わない。浅野學峯のアイデンティティとは敵が存在する限り終わらず、その終着点は須らく敵対者の敗北によって締め括られねばならない。
そして敗北とは、すなわち死そのものである。
少なくとも、彼はずっとそう信仰していた。ならば負けた時点で自分は死なねばならないし、そうなってはならぬから自分は永遠に勝利を重ねなければならない。
それ以外の道はないと思っていた。自分という存在は無数の勝利の果てに死を迎えるのだと確信していた───だが。
敗残の事実が色濃くこびり付いた今、浅野は、それでもまだ生きている。
短刀と素手。
その勝負は短刀を持つ藤四郎のほうが、リーチにしろ殺傷力にしろ圧倒的優位であるように思える。しかしこと武術の世界において、多少の武装の差異が如何程の意味があるハンデになり得るか。
得意とする距離は双方共に密着しての超至近距離。つまりこの時点でリーチの優位性に意味などなく、長刀の抜き打ちに代表される中距離の牽制などは選択肢としてあり得ず、同時に懐に潜り込んでの優位性とて浅野には確約されはしない。
五分と五分。条件は対等。故にこれは公平公正な尋常なる決闘である。
地を蹴ったのは同時、されど先んじたのは藤四郎の側だ。数mの相対距離を一瞬以下で0に貶め、彼は左手に構えた白刃を閃かせる。
速い。
正面から振り下ろされた刃は、浅野の反応速度を以てしても尚速く、その影さえ捉えることができない。強い、そして異常だ。サーヴァントという特例がまかり通っているこの都市では感覚が麻痺してしまうが、今浅野が相対している相手は明らかに"異常"というべき存在だった。
浅野は類稀なる分析能力を持つ。相手の筋肉の付き方、ちょっとした動作、思考の傾向、それらの情報から彼は行動パターンを的確に読む。教育者たる者、常に学び糧とせよという矜持のもと、彼は敵の動きさえ「学習」を可能とする頭脳を持つのだ。
事前の戦闘予測に脳内シミュレート、半ば予知の域まで達したそれらを組み合わせれば相手が多少格上であったとしても容易に対処は可能となる。そして浅野自身も、既に常人においては屈指の技量と身体能力を持ち合わせるため、およそ格闘の分野においても彼は世界最高峰と称しても構わない人物だ。
そんな彼の予測さえ飛び越えて迫る圧倒的速度。それはすなわち、"人類の限界点"を逸脱した迅速であることを意味している。
華奢な体躯とそこに含まれる筋肉量、姿勢の運びに体重移動。それらを総合して導き出される仮定の身体能力を、眼前の少年は二倍も三倍も上回っている。それは少年が尋常な物理法則の枠外にあるという証左であり、単純なカタログスペックにおいて浅野では絶対的に及ばないという現実でもあった。
自分ではこの少年には敵わない。
故に、浅野は脳内の基準点を上方修正することにした。
今にも頭頂を斬り割ろうとしていた刃を、浅野は最小限の動きで避け、返す刃で手刀を首に叩き込む。
加速された視界の中、驚愕に歪む敵手の顔が間抜けなほどにゆっくりと映る。絶死となるその一撃を、藤四郎は無理やりに身を捻ることで何とか回避するも、代償としてその姿勢を不安定なものとした。崩れた体勢のまま地に手をついて後退する。
距離を離した両者は再度地を蹴る。全く同時のタイミング、時間にして千分の一秒も誤差はない。偶然ではなく、浅野の読み故である。剣術において三つのタイミングの基本、先の先、対の先、後の先のいずれにも該当しない呼吸の妙。さらに行動を読んだことを端的に解らせる、二重の意味で心の虚を突く呼吸外しの術だ。
初撃の心的ショックも併せ、藤四郎の心に迷いが生まれたか、あるいは動揺に陰ったか。下段から跳ねるように飛びあがった剣先は、ミリ単位の距離を残して浅野には届かなかった。否、先と同じ全力の走法と見せかけて速度を落とした浅野が届かせなかったのだ。スーツの切れ端と数本の髪が宙を舞い、両者の走りが生み出す烈風に吹き散らされる。
天をついた短刀の切っ先が翻り、懐へ飛び込もうとする浅野を両断せんと迫る。しかし最後の発条を残していた浅野はそこから尚加速し、一歩早く剣の内へ飛び込んだ。
容赦のない一撃が、藤四郎の腹部に叩き込まれる。吹き飛んだ藤四郎の体は二転三転し、しかし地に伏すことなくそのまま跳ね上がって立ち上がる。
「なるほど。ウェイトは見た目通りらしい。それとも自ら後ろに飛んだかな?」
拳の感触に不満げな声を漏らす。手応えが明らかに浅い。浅野の言う通り、藤四郎は咄嗟に後ろへ飛び、拳打の威力のほとんどを殺した。それだけではない。つうと浅野の額を割るように、ひと筋の血が頭から流れる。藤四郎の斬り返しの二撃目は、読みより速く皮膚を浅く裂いていた。
それでも浅野の優位は変わらない。故に藤四郎は言葉を放つ。
「何を……」
「?」
「あなたは、何がしたいんだ」
淡々とした、興奮や激情の類は見られない口調だった。しかし彼が問うているのは、字面通りの疑問ではない。
「何がしたい、と?」
語る浅野の顔は幽鬼めいて、くつくつと漏れる嗤いは陰鬱に、まるで殺意の影など感じさせず。
「"勝ちたい"のだよ」
それこそが、藤四郎の知りたがるモノの正体だ。
「勝って、勝って、ただひたすらに勝ち続ける。無限の勝利を重ねた果てに私の人生は光を見る。
それだけのことだ。ただそれだけのこと。なにも難しいことはない」
先ほどまでの浅野は、まるで理性の欠片も感じさせない獣のような有様だった。あるのはただ、殺意と敵意のみ。口から漏れ出る言葉すら獣の唸り声に堕して、およそ人とは思えなかった。
今はどうか。
そこに感情の翳りこそ見せれど、今の浅野は極めて理知的な回答を可能としていた。動から静、躁鬱じみた心の変動。藤四郎にとって、それこそが何よりも恐ろしいし理解できない。
今も浅野から語られる言葉に本質的な意味はない。そんなものはどうでもいいし、藤四郎が知りたいのはそこではないのだから。
「故に」
故に───
「君もまた、私の勝利の踏み台となってくれ」
浅野がゆらりと動いた。その瞬間には既に、彼の拳打はすぐ目の前にあった。
踏み込みが一瞬なら、抜手はゼロタイムに等しい。藤四郎が気付いたのは、振るわれた腕の軌跡、一瞬覆い隠された月影の翳りのみ。
反応はできず、肩を強かに打ち付けられ、そのまま地面を転がった。激痛に顔が歪む。不覚にも、この一撃で肩の関節を外されてしまった。
速いのではなく、早い。単純な身体能力では負けているのに、見と読みの速度が藤四郎を圧倒しているがための現状だ。己の弱さを殺す術を、浅野は十も百も知り尽くしている。
「立ちたまえ。カウンター狙いの待ちの姿勢であることは分かっている」
冷やかに見下ろして浅野が言う。彼の足もとでは、コンクリートから煙が出ていた。超速に耐えきれず、擦り切れた靴が溶けた痕だ。
怪我の痛みを殺し、藤四郎は何とか立ち上がった。左肩を動かし無理やりに関節を嵌める。痛みを我慢すれば動きに支障がないことを確認し、浅野を見た。
両者は三度目の対峙をする。
「つまるところ」
藤四郎が語りかける。顔は伏せたまま、声だけを届ける。
「特に理由はないわけだ。勝つために勝つ、勝った後はまた勝ち続ける。聖杯を手に入れるのだって、それが聖杯戦争での"勝利"だから。
手段が目的に入れ替わる、手段のためなら目的を選ばない。つまりそういうこと」
「……?」
構える浅野の表情は、平静とした、見ようによっては「ぽかん」としたようにも思えるものだった。
言ってる意味が分からないと、本気で思っている顔だ。
"勝つ"以上に目的として必要なものが存在するのか、と。
心底から疑うことなく信仰していなければ浮かべられない顔だ。
「安心したよ。その凶念、その妄執。
計り知れないものと勝手に恐れていたけれど、蓋を開けてみればなんて分かりやすい。
あなたはただの人間だ。何の異常性も特別もないただの人間」
故に恐れることなど何もない。
対敵を呑みこむ異常なまでの精神、意思力のみで現実を歪める心の怪物。そんなものでは断じてない。
物理的な力において瞑目すべきものはあるが、それとてサーヴァントと比べれば何ということはなし。彼ら超常の存在と向き合うことがないだけ、自分は恵まれているだろう。
「なんてくだらない。あのライダーと良い勝負だ」
「……弱者(きみ)の声などただの音でしかない。言葉を通したいならば力で示すがいい」
少年は睨みつけ、男は無感の面持ちのまま。されど心に浮かべるは、共に侮蔑の一語のみ。
共通する情感のまま、彼らは再度の交錯を経ようとした、その瞬間だった。
「ぐ、うぅ!?」
「がは、ぁ……!」
対峙する二人が、共に苦悶の響きを漏らす。
蛇のように地に這い構える藤四郎も、ボクサーのように半歩で地を踏みしめる浅野も、突如として激痛に血反吐をぶちまけた。同時、彼らを覆う世界が文字通りに塗り替わった。
世界を覆う、白と赤。
それは、彼らの従えるサーヴァントの宝具が発動した瞬間であった。
「どこまでも……邪魔をするか、ドンキホーテ・ドフラミンゴ……!」
苦悶の中に隠しきれない憤りを滲ませ、浅野が呻く。
彼はライダー・ドフラミンゴの能力を把握している。無論のこと、今こうして自身を魔力消費で蝕み、鎌倉全体に展開されているものが何であるのかも。
鳥カゴ。一国をも包み滅ぼす対国の宝具。
ドフラミンゴ以外の全員を鏖殺する無尽の結界。
それはすなわち、浅野さえも殺害の対象に含まれているという事実に他ならず。
「ならばいいだろう、彼方で見ているがいい……!
お前の助けなど借りず、お前のもたらす滅びすら構わず、私は私の力によって私の勝利を証明してみせる……!
そうだ、私は負けない、私は強者だ。二度と膝など屈するものか……!
勝つのは、私だァッ!!」
なりふり構わぬ憤激すら伴って、彼を激怒させるなど余人では到底不可能であるというのに。
それほどまでに、聖杯戦争の趨勢は彼を追い詰めていたのか。先の一時的な平静など文字通りの見せかけでしかなかったのだ。元より彼は勝利の亡者、その栄光を得られぬ以上は狂うより他になかったのだから。
文字通りの獣であるかのように飛びかかる浅野を前に、藤四郎は痛みを堪えた表情で短刀を構え直すのだった。
▼ ▼ ▼
Answer:勝利とは、大切な誰かと共に在るもの。
────────────────────────。
『あなたたちのしたことは許されないと思います』
全てが終わった後のこと。
友奈の言葉を聞き終えたすばるは、まず第一にそんなことを言った。
おどおどした気弱な印象とは真逆の、屹然とした面持ちで、彼女はそう言い切ったのだ。
『理由がどうとか関係ありません。わたしはゾンビ騒動で大切な誰かを失うことはなかったけど……でも、あなたたちのしたことでたくさんの人が傷つきました』
事実だ。すばるの言うことは全くその通りで、何も言い返すことができない。
美森は友奈とは違い、外部から精神汚染の類が仕掛けられていたためある程度言い訳の余地はあるが、それもあくまで"言い訳"でしかない。
多くの人が死んだ。
その原因は自分達にある。
重要なのはそれだけ。故にこそ、ここですばるに全否定され、令呪で自害を命じられても甘んじて受け入れようと思っていた。
『けど』
けれど。
『それでも……わたしは、東郷さんが信じたあなたを、信じてみたいと思います』
────────────────────────。
「令呪であなたにお願いします……これで魔力を元通りにしてください」
「ん……」
その言葉と同時、すばるの右手に輝く赤光がほんのわずかに嵩を減らして、友奈の全身が暖かな光に包まれる。
それは発光ではなく、外から内に沁み込んでいく類のものだった。すばるより与えられた莫大量の魔力が、文字通りに友奈の体に吸い込まれていく。
刻まれた傷が、消えかけた手足の末端が、青ざめた顔色が、時間を巻き戻すかのように癒え、活力を取り戻していく。
令呪とは使役するサーヴァントに対する絶対的な命令権だ。だが厳密に言えば、その実情は些か異なる。
現界するサーヴァントが交換条件として背負わされる三画の魔術結晶。その一画一画が膨大な魔力を秘めた魔力の結晶体であり、使い方次第では単純な命令だけでなく純粋な魔力に還元することで物的な付加とすることもできる。
すばるが行ったのはまさしくそれだ。損耗した霊基の修復、並びに底が尽きかけた魔力の補填としての令呪行使。肉体さえ魔力によって編まれているサーヴァントにとってこうした純魔力の塊は血肉にも活力にもなる万能の治癒薬なのだ。
「……やっぱり、ダメみたい」
とはいえ、それにも限度がある。
光が収まり見てみれば、友奈の魔力は確かに癒えてはいたが、完全回復とは程遠い状態にあった。
顔に色濃く残る、重い疲労の痕跡。
ならもう一回、と焦るすばるに、友奈はそっと手で押さえて、
「多分これで大丈夫。元々無理のある霊基構造だったから……それに、もしものためにこれ以上令呪を無くすわけにはいかないよ」
友奈の言う通り、彼女の魔力自体は相当量が回復している。仮に今この場で戦闘になっても、補給なしで連戦が可能な程度には。
令呪でも回復が追いつかないのは、大満開を果たした友奈の霊基総量が膨大なせいだ。中途半端な今の状態でも、並みのサーヴァントなら複数騎従えられるほどの魔力が存在する。
つまり何も問題はない。その点において、友奈の言に間違いはなかったのだが。
「でも、まだつらそうだよ」
「それは……」
否定できなかった。事実、友奈の顔色は悪く、まるで憔悴したように目元が落ち窪んでいる。
肉体的にもだが、精神的な疲労が重く圧し掛かっていた。それほどまでに友奈の味わってきた苦難は数多く、重い。
「少しだけ休んでいこう? あの気持ち悪いの……星屑だったっけ、あれもいないみたいだし」
星屑───バーテックスの軍勢は、友奈が美森と再会を果たすよりも以前に壊滅していた。鳥籠のような格子結界や赤色の炎が一瞬現れては消えていったことを除けば、友奈たちのいる周辺は酷く静かで、穏やかだった。
「でも、マスターの仲間が……」
「アイちゃんもキーアちゃんも心配だよ。でも、ブレイバーがそんなんじゃ、大丈夫なものも大丈夫じゃなくなるよ」
だから、ね? と念押し。そこまで言われては、友奈としても断る道理はなかった。
「……うん。でもほんの少しだけで大丈夫だから」
そういうことになった。
◆
唯一そこだけは原型を保っていた噴水の脇に腰掛けて、崩れた天蓋から見える星空を見上げ、友奈はふぅと一息ついた。
「マスターの……すばるちゃんの言う通りだったかな」
全身を襲う、ずっしりとした疲労感。自覚してしまうと途端に重く圧し掛かる。
「確かにこれじゃ、どうしようもないよね」
たはは、と小さく笑う。自分でもどうかと思うくらい弱々しい。一旦気が抜けてしまったせいか、暫くはこうしていたい気分だった。
すばるは今、席を外している。一人でいる時間も必要だと気を使ってくれたのだろうか。何にせよ、その気遣いはありがたかった。
「東郷さん……」
何も言うつもりはなかったのに、自然とその名前が漏れてしまう。
東郷美森。すばるが召喚したサーヴァントで、彼女のために最後まで戦った勇気ある人で、
自分の目の前で消えてしまった、大切だったはずの親友だ。
一度は愛に狂ってしまって、それでも目を覚ましてくれた。
希望を、私に託してくれた。
美森の遺していった想い。残していった少女。それこそが東郷美森という幻想の生きた証なのだと、友奈はそう強く思う。
「……あれ?」
同時、意図せず涙がほんの少しだけ目尻からこぼれるのを感じた。
涙。ほんの僅かな水滴が、頬をなぞって落ちていく。
あれ、と思った時には止め処なく溢れ出でて、友奈は自分でも訳も分からず、ただ流れるがままに涙の雫をこぼれ落としていた。
「わた、わたしは……」
目頭と鼻の奥がつんと熱く、声も自然と震えてしまう。
ああ、本当に───
本当にどうしようもない。目の前で親友を失ってしまった事実は、いくら覚悟しても平気でいられるはずもなかった。
すばるがここにいなくて良かったと思う。情けないなんて今更だけど、こんな姿を彼女に見せたくはなかったから。
「それでも───私は勇者だから。
諦めない。だから、東郷さん……」
きっと見ててね、という言葉は胸の奥にしまって。
今しばらく胸の裡から湧き出る感情に、友奈は身を任せるのだった。
◆
「みなとくん……」
誰もいない暗い廊下、冷たく無機質な壁に体重を預けて、すばるは一人呟く。
あれから、彼の声は一切聞こえてこない。
すばるが確かにその手を取ったはずの彼。一度は死に別れ、けれどもう一度再会することのできた少年。
みなと。今は《奇械》アルデバランとなった個我。
結局のところ、みなとがどうなったのか、すばるは何をしたのか、すばる自身でさえ詳しくは理解していない。
すばるはただ、必死にその手を伸ばしただけだ。
諦めたくなくて、もう一度会いたくて、ただその一心で走り続けた。
その結果としての今があるけれど、何がどうなってこうなったのか、説明しろと言われても正直困ってしまう。
一つだけ確かなことは、彼はすばると共に在るということ。
そしてすばるの声に応えてくれたということ。
その証拠に、もう声は聞こえてこないけれど。
彼の暖かな気配は、今も確かにすばるの背後に存在する。
「みなとくん。きっとこの声が届いてるって信じるから……だから、聞いてね。
わたし、諦めないよ。みなとくんと一緒に帰るって、みんなにみなとくんを紹介したいって、その気持ちはずっと変わってないから」
だから、とすばるは続ける。
「だから───これからも、一緒にがんばろうね」
姿が見えなくても、構わない。
声が聞こえなくても、構わない。
これから先、もう二度と交わることがなくても、それでも二人は共に在る。
その事実だけで、自分はきっと歩いていける。
今や、万象立ち塞がろうとも。この手を阻める者など、どこにも居はしないのだ。
▼ ▼ ▼
Answer:勝利とは───
────────────────────────。
「アティ」には、そうと成り果てるより前にもう一つの名前があった。
《黒猫》として最古の、人として最期の記憶が、脳の片隅に存在する。
記憶は、肌に感じる熱から始まる。それからぬるりとした血の感触と、目に焼き付く炎の色と、変わり果てた都市の景色。
その都市は少女の原風景であった。彼女にも人並に両親がいた頃があり、友がいた頃があり、一端の若者として機関工場で計算手として働いていた頃もあった。十八年かそこらだったように思う。
人であった最期の時───その日、少女は声の限りに絶叫しながら、それでも生きていた。
誰も彼もが恐怖に呑まれた、あの《復活》の時。異形と変わる都市の中で、少女はこの世の地獄を見た。
父母が死んだ。友が死んだ。そこらじゅうを駆けずり回っても、生きてる人は誰もいなかった。目の前でうわごとのように「熱い」と繰り返した、見知らぬ幼児の声が耳にこびり付いている。幼いころに遊んだ公園も、母の使いで歩いた雑踏街も、全てが滅びに晒されていた。
何故彼らが死ななくてはならなかったのか。
何故自分は未だに生き永らえているのか。
這うよりも遅い速度で壁伝いに歩き、喉を灼くほどの叫びを空に上げながら、傷だらけの体を引きずっていた。口腔から血が溢れ、その感触さえ分からなかった。
都市を歩く最中に、いくらか記憶の欠落が見られた。要所要所の映像だけは脳に残っていたが、それらがどのように繋がっているのかが分からない。どの道をどのように歩いたのかも、どれほどの時間そうしていたのかも曖昧だ。
ただはっきりと覚えているのは、「死にたくない」と願ったこと。
ひたすらに、ただひたすらに、それだけを願って。ああけれど、変貌していく都市はそれさえ許すこともなく。
───そして。
そして、あたしは出会ったのだ。
うらびれた阿片窟、異形と化した人々がそれでも生きることを諦めなかった都市の一角で。
あたしは、あなたと───
◆
そこには今まで、誰もいなかったはずだ。
狂した剣士の残骸を打ち倒して、はぐれてしまった同盟者のもとへと向かおうとしたその矢先のことだ。
「───キーア?」
崩れた街の片隅で、そこは確かに無人であったはずなのに。
どこからか声がする。それは問いかけるように、あるいは信じられないものを見たかのように。
忘我と驚愕の色が混じる。聞き覚えがないと断言できる女の声。
そして。
「……アティ?」
返される声もまた、一つ。
それは傍らの少女の声だ。キーア、騎士の主。赫い瞳を持つ子。
蓮の見下ろすその横で、少女はその目を驚くほどに見開いて。
───赤く、仄かに燐光を放って。
───それはまるで、太陽であるかのように。
(魔眼か……いや、これは)
魔眼。外界からの情報を得る為の物である眼球を、外界に働きかける事が出来るように作り変えた物。独立した魔術回路、血筋に関係なく発動できる魔術刻印にも近きもの。
キーアの瞳に浮かんだ赤い燐光を見て、咄嗟にそれが思い浮かんだが、しかしどうにも様子がおかしい。
視覚を通して対象に働きかける類のものではない。これはどちらかというと、
(浄眼、妖精眼の類か)
曰く、通常の位相とは焦点が「ズレ」ている視覚。
超常の気配・魔力・実体を持つ前の幻想を可視化する眼であるものか。
蓮の目には何も見えてはいない。エイヴィヒカイトの使徒が持つ鋭敏な視覚と第六感すら錯誤させる域にあるそれは、上位級のキャスターに匹敵する隠行である。
少女の赫眼はそれすら見通すというのか。ならば頷けるものがある。しかし、だとすれば一体何が、キーアの目に映っているというのか。
それは───
「これは……」
輪郭が、徐々に浮き彫りになる。
何もなかったはずの空間から、まるで水底から水面に浮かび上がってくるかのように。
"それ"は現れる。声の通りに、その場所に。
アティと呼ばれた女が、茫洋と手を伸ばして───
◆
───見覚えのない女の人だった。
───けれど、あたしは確かにその人を知っていた。
───見覚えのない女の子だった。
───けれど、あたしは確かにその子を知っていた。
頭が痛い。頭が痛い。この都市に来る前からずっとあった痛みが、彼女を見た瞬間に急激に大きくなる。
アーチャーに何かを言われて、気付けばここにいた。今がどういう状況なのか、なんで自分がここにいるのか、それすら分からないけれど。でも分かるとすれば一つだけ。
あたしは、この少女を、知っている。
「ぐ、うぅ……!」
ずきりと痛む頭を抑え、それでもあたしは前を見る。
あたしは痛みに強いほうじゃない、そういう自覚はある。怪我をしたらすぐ泣く子だったから。でも、あたしは、歯を食いしばって、頭の奥の痛みと胸の奥の嫌な塊に耐えながら、彼女を見て。
初めて……ううん、以前会った時と同じ妙な感覚を味わっている。
はっきりとした見覚えはない。やっぱり、ない。可愛らしい子、金髪と赤い瞳の女の子。キーア、と何故だか名前が口をついて出た。それでも、心当たりはやっぱりない。
沸き上がる記憶も、ああそうかという実感も何ひとつないというのに。
あたしはきっと知っていた。
彼女の声。
彼女の姿。
白衣の彼と共にいた、小さな影。覚えている。
記憶を失うよりも前に会っていた? そう、そうだと思う。そうでなければ───
「アティ!」
倒れそうになるあたしを見て、女の子が駆けてくる。
恐いだなんて思わない。
昨日までは、マスターかもというだけであんなにも他人を怖がって取り乱していたのに。
あたしは、
この子のことを知っていると思うから。
───思い出せなくても。
───今にも嘔吐しそうなくらい、胸が詰まっていても。
胸が高鳴っている。
同じ。あの時と同じ。初めて彼女と会った時と同じだ。緊張、恐怖、警戒心、ううん、違うわ。不安。そうかも知れない。でも、そうだという確信は湧いてこない。確かにあたしの心臓はひどく早く脈打って、彼女は信用できるのだと叫んでいる。
頭が痛い。
頭が痛い。
けれど、そうだとしても、あたしはもう一度思い出すと決めたのだから。
もう一度会うのだと信じていたのだから。
「……大丈夫」
駆け寄る彼女をそっと抱きしめ、呟くのだ。
ふわりと、包み込むように。少女の小さな体を両腕で抱き寄せる。
濡れる赤の瞳が、じっとあたしを見つめていた。
「アティ、どうして……あなたはもう、増殖する過去の全てを奪われたはずなのに」
「何言ってるのか、全然分からないよ」
本当に、何がなんだか分からない。
けれど、何故だか知らないけど、胸に広がるものがあった。
暖かい。
それは多分、安堵なのだろう。
頭の奥がひときわ強く痛むけれど。
けど、こんなにも安心できるってことは、きっと悪いことじゃないから。
「でも、いいの。うん、いいんだ。色んなことがあったけど、それでもあたしは、あなたに会えた」
その時、あたしはもう、ほとんど何も考えられなかったのだと思う。歩いて、歩いて、頭が痛くて。もう体は疲れ果てて、心は薄らいで。うわごとに近いあたしの呟きが何であるのかとか、周りに誰がいるのかとか、そういうことは一切考えてなくて。
だから、
あたしは、
「覚えているの、アティ」
きれいな声。知らないのに、聞き覚えのある声。
そう、覚えている。
「キーア……」
自然と、あたしは手を伸ばしていた。
キーアと呼ばれた彼女の、柔らかな頬に触れる。
「アティ」
その子はあたしを呼んだ。
そして、言った。
「あなたは」
あたしと同じ瓦礫の中に在って。
頬に触れたあたしの手を取って。
「何を願うの」
───あたしが、何を、願う?
「あたしは……あたし、は……」
───あたしは。
───痛み。
───空白。
───そして、胸が張り裂けそうなほどの不安。
「あたしは……」
───あたしを、アティ・クストスを苛むものすべて。
───すべて、消え去ってしまばいいと。
「……あたし、は……」
「願えるの。全てを奪われても、あなたは。
それでも、想いの果てに至ることができるはずだから」
「……あたし、の……願い、は……」
あたしは告げる。
それは、言葉になったかどうか定かではないけれど。
「………………」
あたしは瞼を閉じる。
この頬を伝って流れて落ちるものがあった。暖かな。
そして。
───そして。
───あたしは、あなたを───
◆
───そして。
───そして、あなたは瞼を開ける。
かつて、真紅の右手に触れられて、それでも尚消えることのなかった、黄金色の瞳を。
あなたが願うなら、あなたが求めるなら、あなたの心に"それ"はあるから。
ほんのささやかなもの。けれども、何よりも、この都市よりも、広がる灰色雲よりも、まだ見ぬ蒼天の空よりも、もっともっと大きくて、尊いもの。
あなたは、瞼を開くの。
あなたがそう望む限り、あなたが忘れたくないと願う限り、誰かを愛することを、愛していることを忘れない限り。
どんな力でも、どんな奇械でも消せないものがあるって、あたしは信じます。
だから。
言ってほしい。あなたの願いを。
呼んでほしい。あなたが、一番呼びたい名を。
「名前……名前、誰の、名前……」
思い出せるわ。アティ、思い出せる。
「巡回、医師の……いっつも、寝不足で……食べなくて……馬鹿ばっかやってる……」
───それは過去。
あなたの記憶。あたしの記憶。
「そう、あなた……あなたの、名前……」
それは何よりも求めたもの。
この聖杯戦争に来るよりも前、ずっと前から願っていたもの。
「知ってるよ、知ってるさ。きみの、名前は……」
きっと、自分はこのためにいたのだ。
所以も知らずこの都市に顕れ、願いも持たず戦いに巻き込まれ。
それでも、あたしはここにいた。
だから。
「───ギー……」
それが異形都市を旅立つ白猫の、かつて黒猫だった彼女の願いの果てだというのなら。
この名を呼ぶのが、きっとあたしの存在証明だったのだ。
そしてあたしは真実に辿り着く。
記憶と想いと姿とを取り戻して。
だからこそ、分かることが一つだけ。
自身の存在価値を証明し、故に形を再定義する。
───あたしは、アティ・クストスでは、ない。
▼ ▼ ▼
Answer:勝利とは、唯一を掴み取ること。
────────────────────────。
鎌倉市全体を巻き込んだ戦場の趨勢は幾度も塗り替わり、勝者と敗者は幾度も入れ替わり、時間を経るごとにその様相を異のものとした。
それだけの時間を経過させながら、しかし二人は一切を変えることなく、未だその闘争を継続させていた。
それは男が攻め、あるいは捌き、少年が防戦一方となるある種一方的な代物。
されどその勝負に未だ決着はつかず、泥沼のような戦いは惰性の如くに継続する。
そのはず、だった。
血化粧に塗り潰された橙の長髪が、舞い散る黒煤の中に躍った。
浅野は表情を無としながら、けれど砕けるほど強く奥歯を噛みしめ、迫りくる少年の姿を真っ直ぐに見据えた。
「はぁッ!」
上段から振り下ろされる刃に、強く握りこまれた拳を胸の前で構える。ボクシングスタイルの迎撃姿勢は、一撃の殺傷力よりも一瞬の素早さを重視した構えである。
半身を傾ける最小限の動きで刃を躱し、少年の喉元目掛け踏み込みざまに右の突きを叩き込む。相手の運動エネルギーも利用した、人体破壊を旨とする急所狙いの一撃。
しかし。
これまで数多の敵を葬り去ってきた、尋常の人間では如何な達人であろうとも殺せると自負するその拳は、更なる不条理によって呆気なく蹂躙された。
「ッ!?」
今までは難なく視界に捉えることのできた剣閃、それが急激に速度を増す。神速で繰り出された浅野のジャブは敢え無く空を切り、鈍く光る短刀の刃が浅野の右鎖骨へと叩き落された。
骨肉が断割される、硬質と湿りが混じった音。
苦悶の表情と共に後ろへ飛んだ浅野の右肩から胸にかけて大量の血飛沫が噴出し、向かい合う乱の頭を更なる赤色に染めた。理性よりも先に本能的に退避することができたため致命傷は回避できたものの、肩の筋肉と鎖骨、肋骨上部の数本を叩き斬られた。肺に損傷がないことだけが幸いだが、これで浅野は右手を封じられたも同然。ばかりか、この出血量では遠からず意識を失い、命の危険さえ招くだろう。
そして鋭敏化した思考さえ途切れさせかねないほどの、耐えがたい激痛。
赤く染め上げられた視界の端、音もなく少年の左手が動いた。
「くっ!」
少年の掌が閃き、切っ先が下段から一直線に胴を狙う。その速度はやはり迅速、元より人体の限界を逸脱した超速ではあったが、それを加味しても尚、これはあまりにも速すぎる。危険を感じた浅野は咄嗟に体を大きく傾け、刃の軌道から自身を逃がす。
弧を描く白銀が空を切り、裂かれた衣服の破片が宙を舞う。
何とか体勢を立て直そうとして、それより早く乱の胴廻し回転蹴りによる踵が浅野の腹へ突き刺さった。
「が、ぁあ───!」
大質量の丸太で打たれたが如き衝撃に、浅野は苦悶の呻きをこぼす。体がくの字に折れ、骨格そのものが軋む音が木霊した。破られた血管と筋肉は浅野の体の内側に鮮血を溢れさせ、許容量を逸脱した破壊は口からの大量の喀血という形で現れる。
苦痛を堪えて右脚を振り上げ、乱の体を蹴り飛ばして距離を取る。
砂地の上に二転してゆらりと起き上がる乱を前に、浅野は荒い息を吐いた。
───この少年は……
最早疑念を挟む余地はない。この人外の少年は、明らかに戦闘の中で身体性能を飛躍的に向上させている。既に死に体、満身創痍であるはずの体は機能を低下させることはあれど、その逆は断じてないはずなのに。
だとすれば、その原理は一体何だ。気合だ根性だというのはあり得ない、そんな精神論で現実の物理法則が変えられるはずもなし。ならば一体何が、この少年の体を突き動かしているというのか。
「負ける、ものかぁ……!」
浅野の見立て通り、その成長は決して精神的な代物ではなく、極めて論理的に構築されている。
刀剣男士としてこの世に現界した付喪神たちは、その刃形によっていくつかの刀種に分類される。乱が属する短刀は平時の能力値こそ凡百のそれではあるが、特定の状況下においてその性能を如何なく発揮することが可能な、トリッキーな性質を保有する。
現刻の時間帯は、深夜。
今や鳥かごの縛も炎熱の結界も消え果てた。その間すらも浅野は形振り構わず敵手の打倒のみを目指し、周囲の如何なる変化をもその目に捉えることはなかった。仮の話だが、焦熱世界の眩き光が占める間、乱が未だ浅野の技量に翻弄されている間に勝負を決めることができていたならば、命運は浅野の側に傾いていた可能性が高い。
だがそうはならなかった。既に灼熱の爆光は無明に果て、暗所に届くは昼光に遠く及ばぬ月の光のみ。霞が如き浅野の技量さえ既に刀剣男士の眼光は捉えきった。刃の煌めきが奔る月下において、乱が敗残する道理は何一つとして存在しない。
短刀。それは、夜戦において最大の適性を保有する刀剣である。
「真剣、必殺……!」
そして浅野の仕損じはそれだけではない。
無駄に戦いを長引かせてしまった事実は、つまり乱に軽くない傷を与えることと同義である。
中傷以上の損傷、並びに刀剣そのものにダメージを受けていること。
それら条件が達成された今、奥秘を繰り出すことに否やはなく。
踏み込んだ乱の体が、一瞬にして消失する。
文字通り消えたとしか思えぬ超速で駆け抜けた先、反応すらできず棒立ちとなった浅野の体に、巨大な血の華が咲いた。
一瞬にして静まり返った戦場の中に、人体の倒れる重い音が木霊した。
◆
「はぁ……あ、ぐぅ……」
苦悶の声と共に、体を引きずる音が耳に届いた。
それが、たった今自分を打ち倒した少年が、トドメを刺しに近づいてくる音だと、薄れゆく意識の中で浅野は理解した。
(わたしは……)
負けたのだろうか、と思う。
身体は倒れ、指一本とて動かせる気がしない。思考すら白み、前後左右の平衡感覚さえ途切れてしまった。
負けた。
それは変えようのない事実だ。私人として私闘に挑んだ浅野學峯は言い訳の余地なく敗北した。情けなく地を這い、起き上がる力もなく、襤褸雑巾のように嬲られて転がっている。
(だが……!)
だが───聖杯戦争のマスターとしての浅野は、未だ敗北していない。
眼前の少年、乱藤四郎についての簡単な来歴はドフラミンゴから聞き及んでいる。仕込みにかかる時間の都合と死人であるという誤報から詳細までは詰められていないが、それでも今の浅野にとっては十分すぎる情報は手に入れてある。
乱藤四郎は、令呪を保有していない。彼に与えられた令呪は、今は他ならぬ浅野が簒奪している。
それは何を意味するのか、決まっている。彼は自分と違って、サーヴァントを呼び出すことができないのだ。
「令呪を、以て……命ずる……!」
そこまで声を絞り出して、不意に止まる。
壊れた痛覚がスパークする脳内に、先刻の光景が浮かび上がる。
───ならばいいだろう、彼方で見ているがいい……!
───お前の助けなど借りず、お前のもたらす滅びすら構わず、私は私の力によって私の勝利を証明してみせる……!
それは他ならぬ自分が吐き捨てた、なけなしのプライドがこぼした宣誓だった。
私はこの期に及んで、あの小物極まるライダーに助けを請うのか。
殴り合いで負けた己は、今度は誓いさえ裏切るというのか。
それは、あまりにも、無様に過ぎるのではないか?
「それがどうした……!」
己が欲しいのは尊厳や自意識などという絵に描いた餅ではない、"勝利"という唯一無二の存在価値だ!
勝利の役に立たないプライドなど犬に食わせてしまえ。勝つためならば私は何でもやってやる!
卑怯? 知ったことか。卑怯などという言葉は弱者が敗北の言い訳に使う弱い言葉だ。戦場に、生存競争に正々堂々などあるわけがない!
「令呪を以て命じる……! ライダーよ、今すぐこの小僧を殺せぇ……ッ!」
右腕に宿る令呪が赤く輝く。瀕死の肉体はそれでも、勝利への執念のみで最期の命令を完遂した。
これで私が敗北したという事実は無くなる。私は再び勝者へと返り咲けるのだ!
さあ、来い! ドンキホーテ・ドフラミンゴ!
……。
……。
……。
────────────。
「……な、に?」
無音が、辺りを包み込む。
浅野の絶叫は虚しく立ち消えて、けれどそれ以外の変化が起こる気配はない。
ドンキホーテ・ドフラミンゴが、現れない。
「なにが、どうして……!」
「それ」
無感動な乱の声が、ある一点を指す。
浅野の右腕。先程まで令呪が光り輝いていたはずの場所。
「もうとっくに消えてるよ。命令するよりずっと前に」
「なん……だと……?」
絶句の響きと共に腕を掲げる。そこには、既に光は消え失せた醜い赤痣だけが残されていた。
最初の一言、浅野が令呪を使おうとした瞬間に乱はその意図するところを察し、命じさせまいと足に力を込めた。が、次の瞬間には光が立ち消え、浅野は何の力も残されていない令呪に命令を叫んだのだ。
令呪の力の喪失とは、つまり魔力パスの断絶。
それが意味するところは───
「死んだかライダー。できればこの目で死に様を見てやりたかったけど、贅沢ばかり言ってられないよね。
ボクにはまだやるべきことがある。こんなところで立ち止まってなんかいられるか」
平静と、何の感情も伺えない平坦な声。それは既に先のことを見据えていて、浅野のことなど微塵も視界に入れていない。
それは、勝者が敗者に向ける当たり前の無関心。
今までは浅野が持っていた、今は浅野に向けられている、何より冷たく何より鋭い致死の猛毒であった。
負けた。
今度こそ完璧に、一切の復帰の可能性すら封じられた上で、これ以上なく圧倒的に何もかもを潰された状態で、負けた。
浅野學峯ともあろう男が、二度と負けぬと誓ったはずのこの私が、何度も何度も恥を知らずに負け続けた!
一度も勝てなかった。一度も、たった一度たりともだ!
何度も負けて地に這いつくばって、なおも惨めに足掻いて無様を晒し、それでも何も掴めなかった。
敗北、敗北、敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北───!!
引き際を弁え孤高に誇り高く死ぬでもない! 叶わぬ希望に手を伸ばして見苦しい姿だけを晒したそのザマはまさしく浅ましい敗者そのもの!
なんて醜い。犬畜生にも劣る。生きてて恥ずかしくならないのか。ああそんな自嘲さえも愚かしくて醜悪極まる。
侍従であるはずのサーヴァントに無意識に負けを認め、
反感として抱いた殺意は歯牙にもかけられず、
幾度も幾度も魔力を吸い上げられては血反吐をぶちまけ、
それすら何の戦果にも繋がらず、
己は戦うことすら許されないまま聖杯戦争を敗退し、
救いようのない人として最底辺の愚物に見え見えの媚を売り、
多くの時間と手間と人員を費やして築き上げた一夜城は塵のように崩され、
幼い子供に殴りかかった挙句腕力で捻じ伏せられ、
サーヴァントに頼らないというなけなしの矜持さえ自分の手で踏み躙り、
プライドさえ売り払ったその行いも、既に遅きに失した。
そして私は二度もサーヴァントを失い、これだけの敗北を重ねて、それでもおめおめと生き恥を晒している。
塵だ。こんなものは人間じゃない。生きているというそれだけで、浅野學峯という存在への冒涜だ。
ふと、何か光るものが目に入った。
懐から零れ落ちたそれは、クヌギの葉を模ったネクタイピン。
安物の、なんてことない、武器でも礼装でもない単なる小物。
池田くんたちから貰ったプレゼント。
私の弱さ、私の敗北の、象徴だった。
「……はは」
何もかもを奪われて、
最期に残ったのがこれだった。最初に手に入れたもの、それでは何も変わらないと思ったもの。
私は全てを失った。
けれど、それでも最期に残ったこれだけは。
「私は、負けない」
私の、この命だけは。
「私の命運は、私が決める」
私以外の何者にも、奪われてたまるものか。
そして次瞬───ネクタイピンを握りこんだ浅野は、その先端を力いっぱいに己の首に突き刺し、思い切り横へとねじ切った。
どれだけの絶望を原動力にしたのだろう。刃物ですらないピンの鈍い切っ先が押しこまれ、薄い肉と硬い骨が押し切られる。そして口のようにばっくりと、黒い空洞が晒け出された。
単一の肉ではなく、いくつもの線や管を力づくで引き千切る"ぶちぶち"という鈍い音。骨を削られ、薄い肉と組織と神経を切り潰された断面から、一瞬遅れて大量の血が溢れだす。ホースから飛んだ水のように、大量の血飛沫が大地を赤く染めた。
咽返るほどの臭気が一瞬にして広がる。喉と肺にへばり付く、血と脂と体液の濃密な臭気だ。戦場で繰り返し嗅いだ嫌な匂い。ただただ、臭い。
面白いくらいにぴゅーぴゅーと血を噴き出し、言葉無く倒れたままの浅野を見る。
死んでいた。
ほぼ即死だった。
光彩を失った瞳が、ガランドウとなって虚空を見つめている。
乱が殺してやるまでもなく、さっさと死んでしまった。
「……馬鹿な人」
自分から勝負を投げ出して、最低最悪の敗北(おわり)を迎えた哀れな男。
ライダー共々消えたなら、これからの戦いにおいて考慮する必要もなくなった。
「できれば、令呪を回収しておきたかったけど」
自分にその類のスキルはないし、そもそも彼は死んでしまった。回収の可能性は絶望的だろう。
仕方ないと思考を切り替える。やらねばならないことは分かり切っているのだから、今はそのために行動しよう。
そう考え、重い体を引きずるように歩こうとした。
その瞬間だった。
「───な、うぐっ!?」
突如、足元が揺れた。
地震そのものではない。ドフラミンゴの鳥かごやアーチャーの結界のような大規模な魔力行使ともまた違う。
もっと歪でおぞましい、荒唐無稽な何かだ。
理屈ではなく直感で、乱はその存在を確信し、そして───
そして、見た。
彼方に立ち上がる、白き巨大な狼の姿を。
まともに見て、見てしまって、その全貌を視界に収めてしまって。
「な、あ、ぁあ、あ……」
文字通りに言葉を失った。
身体が、動きを止めた。
その根源は何だ。彼の体と心を止めるものは。
決まりきっている。凍りつかせるものは、恐怖。
心まで砕かんとする絶対的な恐怖が、乱を襲って。
そして───
▼ ▼ ▼
そして、絶対の恐怖を前にしても尚、二人は立ち向かうことを決めた。
友奈とすばるは赫色の大地を固く踏みしめて、咒波嵐の彼方に霞む巨人たちを見上げた。
細く、しなやかで、けれど万象一切を砕くとさえ思わせる力強いフォルム。物質でもあり影でもあるかのようなそれらを覆う色は、黒と白。
文字通り天を衝く巨人の、空へと咆哮する姿は、現実ではない神話や御伽噺であるかのようで。
「アイちゃんとキーアちゃんは、あの近くにいます」
ぎゅっと、スカートの裾を握りしめる。
震える声とは裏腹に、指にはいっそうの力が込められる。
「わたし、生きて帰ります。生きて、みんなと一緒に……みなとくんと一緒に、元の居場所に戻ります」
「うん、分かってる」
躊躇いなく、友奈が答える。
「その時まで、私があなたを守るよ」
罪も痛みも背負って進む。
守れる人がまだいるなら、私はまだ戦っていける。
それが、結城友奈の選んだ道。
「……行こう。サーヴァントが近くにいるなら、私は探すことができるから」
こくん、とすばるが頷く。
地を踏みしめる足に力を入れる。隣では、自動車のエンジン音にも似た振動が発せられる。
そして二人は、戦場の気風満ちる大空へ、その身を躍らせるのだった。
▼ ▼ ▼
「何が、あった……?」
呆然と、あるいは釈然としない様子で、蓮が呟く。
何かが起こった、というわけではない。劇的な出来事も不測の事態も一切起きていないし、彼ら"二人"に特筆するような異常は見当たらなかった。
逆だ。
"何もない"ということが、異常なのだ。
「今、俺達は何をしていた? 足を止める理由なんてなかった、ここには誰もいないし何もない、そのはず……なのに」
キーアが突然、誰かを見つけた。
蓮はそれを認識することができなかった。
そして数分の時が流れ、結局は何も起こらずに───
いや、いいや、違う。
何かが起きたはずだ。見えない誰かが現れるような、そんなことがあったはずだ。
「誰かが、いたはずだ。男か女か、顔は……どんな格好を、どんな声をしていた……?」
記憶の欠落。
認識の阻害。
ここには、キーアと蓮以外にもう一人、誰かがいなくてはならなかったはずだ。
だが誰もいない。
何も覚えていない。
ぽっかりと、雑多な絵に空いた空白のように、そこだけが記憶から抜け落ちている。
「……ギー」
ぺたりと座り込んで、キーアが呟く。
茫洋と空を見上げるその頬に、一筋の涙が伝った。
訳も分からず、涙を向ける相手さえ知らず、それでも流れる雫だ。
「あたしは、きっと、これで良かったの……?」
その言葉の意味さえ、今はもう分からない。
座り込むキーアの前には、ほんの少し前まで彼女を抱きしめる誰かがいたかのように、誰もいない空間がぽっかりと空いているのだった。
【浅野學峯@暗殺教室 死亡】
【アティ・クストス@赫炎のインガノック-What a beautiful people- 真実看破】
『B-2/源氏山麓/一日目・禍時』
【キーア@赫炎のインガノック-What a beautiful people-】
[令呪]三画
[状態]魔力消費(中)、決意、原因不明の悲しみ(大)
[装備]なし
[道具]なし
[所持金]子供のお小遣い程度
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争からの脱出。
0:なんで……
1:もう迷わない。止まることもしない。
[備考]
現在セイバー(藤井蓮)と行動を共にしています。
【セイバー(藤井蓮)@Dies Irae】
[状態] 右半身を中心に諧謔による身体破壊(中・修復中)、疲労(大)、魔力消費(中)、困惑
[装備] 戦雷の聖剣、《打ち砕く王の右手》
[道具] なし
[所持金] マスターに同じく
[思考・状況]
基本行動方針:アイを"救う"。世界を救う化け物になど、させない。
0:どういう……ことだ?
1:聖杯戦争の裏に潜む何者かに対する干渉手段の模索。アーサー王と合流してこの異常事態への情報を共有したい。
2:悪戯に殺す趣味はないが、襲ってくるなら容赦はしない。
3:ゆきの使役するアサシンを強く警戒。だがこの段階においては……
4:ロストマン(結城友奈)に対する極めて強い疑念。
[備考]
バーサーカー(アンガ・ファンダージ)、バーサーカー(式岸軋騎)を確認しました。
すばる&アーチャー(東郷美森)、キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)とコンタクトを取りました。
アサシン(ハサン・サッバーハ)と一時交戦しました。その正体についてはある程度の予測はついてますが確信には至っていません。
C-3とD-1で起きた破壊音を遠方より確認しました。
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を無差別殺人を繰り返すヤクザと関係があると推測しています。
ライダー(ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン)及びアサシン(アカメ)と交戦しました。
ランサー(結城友奈)の変質を確認しました。
セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と情報を共有しました。
針目縫から《打ち砕く王の右手》の概念を簒奪しました。超越する人の理により無理やり支配下に置いています。
※アティ・クストスに関する全ての記憶と認識が消失しました。キーアと藤井蓮のみならず、鎌倉市に存在する全人物に共通します。
『D-2/廃植物園/一日目・禍時』
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(大)、神経負荷(極小)、《奇械》憑き
[装備] ドライブシャフト
[道具] 折り紙の星
[所持金] 子どものお小遣い程度。
[思考・状況]
基本行動方針: 聖杯戦争から脱出し、みんなのもとへ“彼”と一緒に帰る。
1:生きることを諦めない。
2:わたしたちは、青空を目指す。
[備考]
C-2/廃校の校庭で起こった戦闘をほとんど確認できていません。
D-2/廃植物園の存在を確認しました。
ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
ブレイバー(結城友奈)と再契約しました。
奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
?????
詳細不明。
【ブレイバー(結城友奈)@結城友奈は勇者である】
[状態]魔力消費(中)、疲労(大)、精神疲労(大)、神性復活、霊基変動。
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:"みんな"を守り抜く。例えそれが醜悪な偽善でしかなくても。
1:立ち向かう。
[備考]
すばると再契約しました。
勇者(ブレイバー)へと霊基が変動しました。東郷美森の分も含め、サーヴァント二体分の霊基総量を有しています。
大満開の権能:限りなく虚空に近きシューニャター
『C-3/鎌倉市役所跡地/一日目・禍時』
【乱藤四郎@刀剣乱舞】
[令呪]0画
[状態]右腕欠損、大量失血、疲労(極大)、全身にダメージ、精神疲労(大)、思考速度低下、令呪全喪失、右腕断面を焼灼止血、反動による肉体負荷(大)、恐慌状態(大)、呆然自失
[装備]短刀『乱藤四郎』@刀剣乱舞
[道具]なし
[所持金]燃えた
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯の力で、いち兄を蘇らせる
1:あ……
2:ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を殺す。
3:ランサー(結城友奈)の姿に思うところはある。しかし仮に出会ったならばもう容赦はしない。
[備考]
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)との主従契約を破棄されました。
現在はアーチャー(エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ)と契約しています。
投下を終了します
キーア、蓮、アーサー、ザミエル、ギル、シュライバーを予約します
投下します
壊滅した都市を背後に───
暗がりの海に聳える巨いなる《巨神》
対するは、しろがねの魔狼。
互いに、世界に在らざるもの。
互いに、現実ならぬ幻想。
互いに、存在することを許されない異形。
人型であったものが崩れた虚狼。
人型を目指して形作られた偽神。
無言の時間。
それは、僅かな刹那。
虚狼には、今なお燃え滾る憤怒と狂気があった。
偽神には、証明すべき人の想いと願いがあった。
故に、相容れることはない。
狼骨からもたらされる凶の視線と、黄金王の視線が交わる。
そして、始まる。止める者は、誰もいないのだから。
始まる。始まってしまう。無形の太極、そのきざはしにすら手をかけんとする者たちの戦い。
───巨大異形戦闘(ギガンティック・ストーム)が!
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!』
その咆哮は嚇怒か、狂乱か、それとも恐怖であるのか。
あるいは、生きとし生けるもの総てに向けた呪いであるのか。
だが言葉を発さない。
言語さえ失って、ただ、ただ、咆哮を。
音に弾かれた大気が震動する。しかし巨人は身動ぐことさえなく、悠然と。
宙に浮き上がりかけるほどに締め上げられても、巨人は止まらない。漆黒の体と燐光の蒼鎧には傷の一つさえなく。
轟音。轟音。衝撃がまたも都市を揺らす───
地上へ質量を預け直した巨人の足元で、円形の粉塵が瓦礫ごと吹き飛ばされる。轟音。何度かすれば都市は崩れるだろう。
圧倒的質量を備えた《巨神》の動作ごとに、砕かれていく退廃都市。最早、そこに見る影はなく。
『────────────!!』
《巨神》の右腕が唸りを上げる。瞬時に、右腕全体が白い輝きに覆われ、凄まじいまでの雷光が迸る。
漆黒の体表と蒼の燐光の更に外、眩いまでの白光が弾け飛び、繰り出される拳を覆う。
紫電の絶叫が、大気を揺らす。
それは字義通りの雷であって、同時に尋常なる雷ではあり得ない。人の文明が興るよりも以前、太古の世界において地上を穿った神々の裁きそのもの。神霊級の魔力行使と化し、今や如何なる対魔力であろうとも軽減すら絶対不可能な領域にまで押し上げられた雷電が虚狼へと迫る!
幻想の雷電、それは現実ならぬ幻想の存在であればこそ、偉大なる新大陸の祖霊《サンダーバード》の祝福と同じくして。
空間と時間の制約さえ意味を為さず、襲い来る。襲い掛かる!
故に一切の抵抗は無意味。防御も回避も、須らく無為と帰すべし。必中必滅の絶対的な権能。アルスターの魔槍にすら酷似する、時間軸すら凌駕する神代における異界法則の具現である。
既に、拳の振り上げられた先では、進行上の空間が消失し、腕の軌跡をなぞるように朝焼けの如き無色が夜空に線を描いている。その原理、その威力は異なれど、かつて数式領域を打ち砕いた鉄の王の腕と同じく。万象引き裂く雷電たる剛腕。
名を、《蒼天覆う雷の腕》
夜の帳さえも照らし出す眩き輝きが、虚狼を打ち砕くべく、迫る。迫る。迫る───!
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!』
その威容を前に───虚狼は真正面から立ち向かう。
回避はしない。防御もしない。そのどちらもが無意味であるなら道は一つ。かつて不完全なる偽神の一撃を無力化した身ではあれど、あれと対した時と今は違う。元が神の宿るための水塊たる《虚神》と、人の身が操る偽神たる《巨神》では話が違う!
故に、逃げた先には死が待つのみと狂した戦闘論理が解を弾きだす。ウォルフガング・シュライバーは随神相にもなりつつある外殻を纏って───
一足、前へ。
一手、叩き込む。
求道の理に手をかけんとする渇望により、偽なる神を打ち砕く!
しかし。
『──────!?』
まさに雷と影の拳が触れようとした瞬間、虚狼の姿が掻き消える。
獣が如き敏捷性が、この巨大なる虚狼には存在したのか。身じろぎするだけでも都市が瓦解しかねない巨体を、末端速度は宇宙速度などとうに超過しているであろうほどの速度で動かすなどという不条理を引き起こし、虚狼はkm単位の距離を後退する。その移動に合わせて極大規模の衝撃波と時間軸変調による空間震が発生し、周辺一帯が紙屑のように吹き散らされた。
そして虚狼の判断は正しい。それが証拠に、《巨神》の瞳は戯画的なまでに見開かれ、搭載された機能が破滅的な振動を発している!
次瞬、彼らの視界を覆ったのは、夜という漆黒よりも尚昏き『黒』そのものだった。泥が奔る、闇が奔る。二柱の巨体さえ覆い尽くすほどの広範囲が瞬時に汚泥の海へと変わった。地上の一切を攫う津波さながら、進行方向に存在するあらゆるものを呑みこんで、虚狼の知覚領域さえ凌駕しかねない速度で広がり続ける。
それは言うなれば、混沌という概念そのものだった。現行の世界が形作られるよりも昔、原初の海を構成していた侵食の海洋。触れた物は悉く、土も木々も石くれさえも、魂まで分解されて霊子の粒より小さき虚無まで砕かれる。
名を《漆黒なる王の瞳》。この惑星に起源を持つ生命体であるならば何者であろうと抗えぬ原初の混沌が、世界さえも塗り潰しながらシュライバーへと押し迫る。
『──────!!』
決して逃れ得ぬ完全包囲網、されど狂した獣はそれさえをも回避する。
創造位階───死世界・凶獣変生。それは自己の内的宇宙を書き換えることによる、独自法則で編まれた等身大の異界へと己を変じさせる術式。原理上は固有結界にも匹敵する大禁咒であり、性質と存在強度だけを見れば魔法の域にまで手をかける。
故の回避、故の成功。シュライバーを構築する影の巨体は今や上空1500mの別空間に、自己の構成情報を転送することで回避する。そのまま体勢を立て直し───
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!』
幻想の剛腕を振るい、眼下の《巨神》へと落下しながら打ち落とす!
叩き込まれる摧滅の拳は無尽の凶爪。創造で編まれる異界法則が防御寄りであるため、性質としての破壊能力では三騎士で最も脆弱なれど、内に有する質量が桁違いであるためその威力はザミエルの焦熱世界にさえ匹敵する!
だが、是さえも───
『────────────!!』
世界が破断される響きと共に、振動によって構成された"界"そのものが虚狼へと叩きつけられる。大気と空間に奔る一閃の残響が、万象打ち砕く無窮の崩壊現象として具現した。
不可視の震動結界に阻まれて、虚狼の牙が崩れていく。のみならず頭頂も、前腕も、胴体も、総身さえも、異界の獣がその顎で食らい尽くしていくかのように、凄まじい勢いで存在を分解していく!
是なるは生まれることのなかった非実存たちの叫び。あらゆる物体を消滅させ、あらゆる存在を無明の彼方へ放逐する命なき可能性たちの慟哭。
名を《赫炎穿つ命の声》。それはかつてシュライバーへ向けたものと同一であり、そしてかつての一撃さえ遥かに上回る。
その咒力、その内界に込められた絶対必中の概念強度は強大無比。それが証に、見るがいい。指向性さえ与えられて虚狼たるシュライバーのみを狙い撃ちにしてもなお、雷の腕と王の瞳さえすり抜ける絶対回避の権能に守られた白き総身を違い無く撃ち貫くその様を。
『▅▆▆▆▅▆▇▇▇▂▅▅▆▇▇▅▆▆▅──────!!』
だが、それでも。
それでも殺戮の化身たる虚狼を完全消滅させるまでには至らない。殺意の咆哮が鳴り響き、応じて今にも削られ行く白色の体が解け、無数の触腕が全身を突き破って現出する!
不可視の波濤に引き千切られる先から次々再生し、尚も尽きぬ底なしの魔力と共に、瘴気纏う無数の手が破壊を巻き起こす。その手は総てが歪な白骨、死者の魂によって構築された疑似形成だ。
白骨の腕、それは歪にも巨大なる人の腕に酷似して、それが硬質の鞭となって巨人へと叩きつけられる。
万物一切を粉砕せしめる崩壊の連撃。聖遺物の使徒たる者の攻撃には、物理のみならず精神と魂さえも打ち砕く機能が付与される。
見上げる空の一面さえも覆い尽くす無数の白腕。応じて巨人がその左手を掲げる。
白雷覆う右腕ではない、何の力も宿っていない左腕を。
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!』
次瞬、虚狼の殺意に応じるように、巨人が動く。猛りながら、それは獣が獲物を襲うが如き速さ。
すぐそこまで迫った無数の触腕が、突如弾けて宙を舞う。皆残らず打ち砕かれて、暗い異形の空へと吸い込まれて消えていく。
通じない。通じない。ただ一つの武器であると思しき白影の多腕、その爪も牙も何もかも、巨人の速度に巻き込まれ、消える。
───では、何がこれを破壊する?
───では、何が巨人を殺し得る?
答えはない。答えはない。
何故なら、これそのものが破壊であるから。
虚狼が恐怖そのものであるのと同じように。
巨人が動く。無駄一つなく。
それは、剣が敵を引き裂くが如き鋭さ───
巨人が動く。余裕さえ讃えて。
それは、銃弾が敵を穿つが如き無常さ───
『脆い』
『そして遅いな、喚く者よ』
何処からか声が聞こえる。
それは誰の声であるのか。
それは蒼色の燐光纏う黒鋼の巨人から響く。
声。それは声だ。
声。それは人の身から放たれるもの。
悠然と、泰然と。
何もかもを冷ややかに見つめる者の声だ。
自らの万能たるを知る者の声だ。
遍く千里、人の紡ぐ遍く未来を見通す賢王が如き英雄の声だ。
けれど、ひとの身から放たれる声に似て。
しかし、巨人の内に誰が在るというのか。
ならば聞くがいい。
巨人の裡の奥深くに響くものが何であるのか。
音。音。
響き渡った男の声以外にも───
数限りなく突き立つ黒の剣軋む音以外にも。
ああ、聞こえる。ああ、確かに。
機関のもたらす駆動音が微かに。
───蒼黒の巨人。
───時に、神とさえ呼ばれるもの。
───もしも、機関の生み出す巨躯であれば。
───内に、誰かの姿も在るだろう。
───人の生み出した、機械仕掛けの神ならば。
───王なりし者の蔵に在っても、おかしくはないだろう。
『脆くもなろう。遅くもなろう。
それが貴様の渇望であり、それが貴様の外装に過ぎぬというのであれば』
『疑似形成。内に喰い溜めた魂を露出し、際限なく肥大化させたか』
『猥雑な名も無き魂を用いて群れを成したか。それのみで巨大異形にまで成り遂せるのは、確かに驚嘆の一語ではある』
───巨大異形戦闘(ギガンティック・ストーム)
幻想同士の戦闘は、中でも巨大異形戦闘の名を冠する激突は、互いの存在の"削り合い"を意味する。
必中必殺の攻撃を撃ち合い、己の存在が削り負けた時が敗北となる。
必中の概念を持つ攻撃は如何なる回避行動も意味を成さず、威力は高くとも必中の概念が薄い攻撃は機動性や能力で回避されてしまう。逆に必殺の攻撃を当てさえすれば、どれだけの再生力を持とうとも一撃で崩れ去るのみ。
無論、中には例外も存在する。その最たるものが白騎士の死世界であるが、今回の戦闘に限ってはその例外たる強制回避の効力も薄い。
何故なら、今まさに《巨神》の内に潜む彼が言った通り───
表面に現出したこの巨大な影たる虚狼は、中核を成す本体の創造効果が付与されてはいても、あくまで"疑似形成でしかないのだから"。
『だが、遊びはここまでだ。我が右手は悪にあらず、我が左手は善にあらず。されど我が《巨神》の諸手は比類なき消却の光であればこそ』
そして───
巨人の左手が、影なるものへと伸ばされて───
『その本体を抉り抜く!』
────────────────────────!!
───貫き、白の輪郭を粉砕しながら。
───燐光纏う黒鋼の左手。
───それは、かたちなきものをも破壊する。
繰り出されたのは拳でさえなかった。左手。
掴み砕くための動作でさえなかった。左手。
ただ、黒色の手が巨影へと伸ばされて。
《蒼天覆う雷の腕》でさえ、巨影を捉えることはできなかったはずだ。
けれど、これは。
けれど、左手は。
慈悲も赦しもそこにはなく、
咆哮に開け放たれた、虚狼の咢へと伸ばされて。
ずぶりと。何の抵抗もなく虚狼の内へと潜り込む。
かたちなきはずの影へ、
恐怖であるはずの影へ、
黒鋼の質量が瞬時に注ぎ込まれる。
『フェンリルを騙る哀れな者よ。浅薄にも黄金を成す不死英雄を気取る者よ』
『たとえ幾億の欺瞞を纏おうとも。貴様の嘆きは誰にも届かない』
声と共に───
白色の影は一度だけ大きく波打って、刹那の後に白光を放つ───
白光が───
白光が充ちていく。
それは、破壊する巨人がもたらすものか。
それは、消えゆく虚狼がもたらすものか。
どちらにせよ、呑みこまれた影は砕けて、破片のひとつも遺すことなく。
白色の消却光(アムネシアライト)に包まれて、消える。消える。
どちらの巨いなるものも、共に───
▼ ▼ ▼
そして、時計の針を少しだけ戻す。
◆
流れる閃光、弾ける絶剣。時すら微塵に切り裂きながら刃の嵐が弾け飛び、時に空間さえ焼却させながら無数の炎が宙を舞う。
焔纏う赤騎士と光翳す蒼銀の騎士が、絢爛なるも苛烈なまでの勢いで死出の剣戟を繰り広げていた。
戦闘開始より僅か数十秒、既に二人は二柱の巨いなるもの達の勢力圏内から脱出し、疾駆しながら戦闘を続行している。交わした剣と砲の激突はとうに二百を突破し、三百の大台を突破して今や四百に至らんと超高速で殺陣を刻み、尚も激しく加速する。息もつかせぬ連剣と連射を幾度も幾度も放ち合う。
繰り出される攻撃は互いに等しく洗練された武の結晶だ。効果的な理合の下に構築された戦闘術は、まるで定められた演武のように流麗な動きを以て刃と砲弾を引き合わせていた。
回転剣舞の横薙ぎ、からの跳ね上げるように右肩へ抜ける斬閃の後、離脱しながらの刺突三連───などという騎士王が見せたお手本のような流れる連携さえも。
ザミエルは焦らず対処を下し、躱し、弾き、いなして捌く。対表面の数ミリ先を超高速で旋回する黄金光の騎士剣。その洗礼を正確に見切りながら最適な行動を逐一選び対処する。そのため剣の切っ先は一度も赤騎士の身体を掠めていないが、同時に彼女の放つ致死の魔弾すら騎士王の体を直撃してはいない。最低限の動きのみで正確に射線をずらし、あるいはその手に持つ輝き放つ聖剣に打ち砕かれ、必殺であるはずの炎熱は赤色の煤となって吹き散らされるのみ。殺気だけが互いの身体を打ち据えて、血肉を気合で切り刻む。
傍から見れば両者共に数秒先を知らせ合っているかのように、彼らは刃と炎の嵐となって剣と砲を無限に交差させていた。
「シィィ───ッ!」
「ふッ───!」
止まらない。止まらない。鋭く速くもっともっと───
加速を果たす殺戮舞踏。音と風を断ちながら尚激しく、剣砲の舞は続行する。
それがあまりに激しいためか、生まれる余波で疾走上の進路は今や無残なものとなっていた。既に荒らされ尽くした廃墟の道が、爆心地めいて更なる破壊に晒される。地面も柱も砕かれ斬られ、辛うじて形を保っていた周辺のビルディングは次々と瓦礫に解体されていく。
崩れたコンクリの巨塊が中空にばら撒かれる。その間を縫うように、黄金と灼赤の二条の光となって駆ける二人の攻撃は止まず、爆轟の音と光が木霊する。
焔光、奔りて爆砕と為し、
星光、振るいて閃きと為す。
虚狼と巨神の戦いが神話のものであるならば───
二人の戦いはまさしく英雄譚。人の身で至れる最上の力を手に、いっそ美しささえ感じさせる舞闘を繰り広げるのだ。
「辰宮百合香が死んだ」
声の主は騎士王、アーサー・ペンドラゴンだ。彼は激しくも鮮烈な剣戟の手を休めることなく、ザミエルへと語りかける。
戦闘の最中に言葉を交わす愚の骨頂、されど彼に付け入る隙など皆無だ。その目は尽きせぬ戦意に充ち、その四肢は溢れんばかりの力に満ている。戦略的な死角などあるはずもなく、仮に今この場で全方位から掃射を受けようとも容易く切り抜けてみせるだろう。
「分かるか、お前のマスターだった女性だ。最後の瞬間まで己が使命を忘れなかった者だ。
彼女の戦う理由と末期の意思を私は聞き届けている。お前に掛けられた一画の令呪についてもだ。
その上で問おう、《赤騎士》エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ」
虚言の類は許さないと言外に滲ませて、彼は問いかける。
「お前はそれでも、殺戮の腕を止めようとはしないのか」
「……」
無言。そして無表情。
ザミエルは何をも返すことなく、ただ沈黙のみを湛える。
「主を見捨て、主を変え、尚も生き足掻いた上で聖杯を目指すか。ならばその願いとは何だ?
黄金への忠義故にと言うならば、私はもはや何も言うまい。だが令呪の縛りを受けて尚、無為にその手を血に染める理由が解せない。まさかそれがお前の真実とでも言うつもりはあるまい」
「何を言うかと思えば」
苦笑の響きを漏らす。それは侮蔑や挑発の類ではなく、ひたすらに自らの境遇に諧謔的な感情を抱いているかのような。
「貴様も赤薔薇と同じことを言ってのけるか。何を選び何のために戦うかなどと、欠伸の出るような御託をベラベラと。
だが貴様は何を見た? 何を聞いた? 辰宮の売女から何を吹きこまれたかは知らんが、その様子では碌な理解を得られていまい。
大上段から物を言うのは王族に共通した悪癖か。全く、彼奴もそして貴様も……」
声が、僅かな震えを帯びて。
「どこまで私を苛立たせれば気が済むという……!」
次瞬、臨界まで込められた情念の多寡が、裂帛の意志力となって伝播した。
「私から言葉を引き出したくば! 問答ではなく力を示せ! 奪い、勝ち取り、捻じ伏せろ!
闘争こそ我が本懐、覇道こそ我らが総意! 星の聖剣がその名に違わぬ王道の証だと言うならば、いざやこの心の臓を貫いてみせるがいい!」
「それがお前の返答ならば」
言って、アーサーは静かに剣を構え直す。
それはアサシンと剣製のマスターに見せた小兵を払うためのものでも、『幸福』のキャスターに見せた巨獣へ立ち向かうかのようなものでもなく。
ただ一人の強大な戦士へと立ち向かうための、対人を想定した騎士としての構えであった。
「いいだろう。ここから先は全力だ」
声に呼応して、アーサーの身体から沸き立つ膨大な魔力の粒子が鳴動を始め、可視化されるほどの密度と強度を以て総身を包む。
それはまさしく全霊の発露、彼が持ち得る全力の行使であることに疑いはない───はずなのだが。
荒ぶる戦意と気迫に反比例するかのように、その反応は穏やかだった。本来ジェット噴射のように爆発的な効力を現出させる魔力放出は、しかしあまりに静かで何の危険性もないかのように使用者の四肢へと染み渡り、循環する。
だからこそ、恐ろしいのは"そこ"だった。つまりこれが示すのは、外界への干渉に使えば宝具の一撃にさえ匹敵するほどの力を用いた、完全な内界強化であるのだから。
風の奔流でもなく、光の奔流でもなく、己一つを押し上げてアーサー・ペンドラゴンという一個の人間兵器が高性能化を達成する。
後手に回れば即座に潰される。
直感したザミエルが後退と同時に数十の灼熱を虚空より現出させるが、遅い。
「いざ───戦鬼、断つべし!」
刹那、訪れた変化はまさしく一目瞭然。等身大の肉体へと極限圧縮された魔力の放出は、騎士王を真の姿へと変貌させる。
掻き消える敵手の姿、標的を見失った灼弾が次々と爆散し周囲一帯を赤く染めるも騎士王の影すら捕えられない。積み重ねた研鑚により辛うじて防御姿勢を取ったザミエルの眼前に、残光としか見えぬ速度で飛来した光剣が撃滅の意志も露わに弧を描く。
鈴鳴りのような透き通った金属音が反響する。
一瞬のうちに近接したアーサーの剣が、文字通りの剣嵐となって顕現した。
「ぐうぅぅ、オオオオオオオオオォォォォッ───!?」
斬撃、斬撃、薙払、斬撃、斬撃、斬撃、刺突、防御、薙払、斬撃、刺突──────
斬撃斬撃、回避薙払刺突刺突、切払斬撃防御斬撃斬撃斬撃斬撃斬撃斬撃──────
斬斬斬斬斬斬刺切斬斬斬、追撃刺刺斬斬回避、斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬払斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬──────驚異的な刃の颶風が雪崩のように吹き荒ぶ。
乱れ狂う剣戟の乱舞を前にザミエルは言うまでもなく防戦一方に陥っていた。何という圧倒的な回転速度の上昇だろう、跳ねあがった凄まじい攻勢を前に攻撃を仕掛ける余裕が根こそぎ消し飛ばされていく。
それはアーサー・ペンドラゴンという一個人の動作速度そのものの劇的な向上に他ならない。手足の動作、関節の駆動、切っ先の旋回に重心移動のリズム、筋線維の稼働に神経伝達の速度、総てが驚異的なまでの加速を果たしている。
単純な魔力放出による推進力の確保ではない、純粋な身体能力それ自体の強化。魔力の放出という技能をこれ以上なく緻密に、最適の形で肉体に適用させていた。更に肉体の加速に合わせて、磨き抜かれた"直感"によって知覚領域までもが進化を果たし、判断力と先読みさえも常軌を逸した速度領域に突入している。
反撃を仕掛けようとした瞬間に、その初動から潰される。
跳躍を試みようとすれば、神速の切っ先が進行方向に飛来した。攻勢に転じようと奮起すれば、動く腕を穿たんと刃が弧を描く。
あらゆる行動が完封されて、何もさせてもらえない。
攻撃、防御、回避のどれもが騎士王の剣嵐に追いつかない。まさに嵌め殺しと言う他なく、未来予知めいた制圧力にザミエルは急速に追い込まれていく。
「凄まじいな、当たりもせぬ天変地異の一撃などより余程恐ろしい……!」
卓抜した剣の技量に、高精度の未来予測に到達した直感、そこに爆発的な性能強化を加えればここまでの脅威になるというのか。
威力だけならば、この剣閃を超えるものなどいくらでもある。山を崩し海を断ち、文字通り天を衝く豪咆さえ幾度も目にし、戦ってきた。
だがそのいずれも、この剣士と比べれば余程容易い敵手であった。人としての技術の粋、積み重ねた武技を前に、ただ規模だけを追求した稚拙な破壊などどれほどのモノとなるだろうか。
騎士王の技量は赤薔薇王や黒騎士マキナに勝るとも劣らない、しかし終始見の姿勢にあった赤薔薇王や終ぞ死合うことのなかったマキナとは違い、眼前の彼は文字通りの本気。一切の手抜かりなく自分を殺そうと剣を振るっているのだ。
五感に身体性能という人間として当たり前の機能をサーヴァントでさえも及びもつかないほどに強化させたアーサー・ペンドラゴンには、まるで隙など見当たらない。
派手さがなく面白味のない力とは、言いかえれば堅実で瑕疵もないということ。順当かつ分かり切った結果を出すという代物で、それ故に気持ちのいい逆転劇など絶対的に発生しない───!
「おおおおおおおォォォォ──────ッ!!」
咆哮と共に叩き込まれる疾風怒濤の絶対先制───それは現実的な理合であればこそ、超常的な能力とは違って安定した見返りを常時発揮し続けた。
結果として、ザミエルは追い詰められていく。
脱出不可能、抵抗不可能。少しずつ裂傷を受けながら終わりなき刃の波濤に翻弄されて末端から削られるのみ。彼女の持つ戦士としての技量も隔絶したものがあったが、こと剣の領分にあって眼前の騎士は更なる高みに達していた。
純粋な力と技による近接戦。異能として必殺性があるものではない反面、これは実に厄介な相手と言える。精度が違う、完成度が違う。あるいは彼女の知る最高峰の剣士であるベアトリス・キルヒアイゼンですら、この境地には至っていないかもしれない。
人間とは繊細な生物だ。感覚器官や肉体の各部が何か一つでも突出してしまえば、すぐさま全体のバランスが崩れてしまうようにできている。
耳が良くなれば自然と視覚情報が鈍ってしまうものであり、その逆もまた然り。どこか一点を強化すれば、途端にプラスが見込めるほど生命は単純な構造をしていない。
仮に千里眼を手に入れてもそれを十全に活用できず、逆に目に頼る癖がついてしまえば総合的にはマイナスだろう。
重要なのは強化された感覚や身体能力を適切に活かせるかということであり、だからこそアーサー・ペンドラゴンは桁外れの戦闘者だった。不和や綻びはどこにもなく、練磨された宝石の如く総てが高次元で纏まっている。
つまりは隙のない万能型───それも近接戦の総合値において明らかにザミエルを上回っている。格下や同格には安定した戦果を期待できる反面、格上への対抗手段に乏しい万能型同士の戦闘において、地力で上回られてしまっては勝ちの目は限りなくゼロに近しい。
そう、それは確かなのだが。
「その剣を抜かせはしない───このまま押し斬らせてもらうッ!」
現状圧倒しているのは間違いなくアーサーの側、しかし彼に油断や慢心などあり得ず───むしろ焦りのようなものさえ感じさせる。
離れては駄目だ、退かせてはいけない。この間合い、接近戦で、触れあうほどの距離を維持する。機を図り生じるはずのない隙を窺う戦法など愚の骨頂、ひたすらに攻めて攻めて圧し切るのみ。
何故なら彼女は使用を許せば即死に繋がる牙を持つ敵。待ちや受けに回れば如何な騎士王であろうともその瞬間に殺される。三人の大隊長とは皆がそういう存在だ。
火口に飛び込む決意と覚悟、それなくして対峙できる相手ではない。果敢に攻め込み己が身を晒し、その上で魔砲の門を開けさせない。それこそがザミエル卿を打倒する上でクリアすべき当然の大前提である。
連続する剣は閃光のように。苛烈で容赦なくされど優美な剣舞の業。弛まぬ練磨と積み上げた技巧、加えて戦場の修羅場を潜り抜けてきたことによる経験則がプラスされることにより、その剣は殺人の技として芸術の域にある。
故に、本来であるならば彼の剣技の悉くを受け切れる者などそうはいるはずもなく……
「然り。私に抜かせれば貴様は終わる」
ならば、今を以て生存するこの敵は一体何であるというのか。
振るわれる斬撃の総てが虚しく宙を斬る。先ほどから防戦一方で後退するのみであったザミエルは間違いなく劣勢であるにも関わらず、しかし致命の一撃は未だに受けていない。
一瞬の閃光にしか見えない剣筋を、総て捕捉しているわけではないだろう。神速に至るスピードを凌駕しているわけでも、純粋な剣の技量において彼を上回っているわけでもない。
だが躱す。当たらない、当たらない、当たらない───
「貴様の剣は賞賛に値する。領分こそ違えど、その完成度はマキナにも引けを取るまい」
言葉と同時、硬質の激突というあり得ざる金属音が反響した。
アーサーの剣撃の手が止まる。彼の剣、その振るわれた先には、赤熱に輝く長大な剣がザミエルに握られ、今まさに彼女を斬り伏せんとする聖剣の行く手を阻んでいた。
それはザミエルが持つ軍式のサーベル、ではない。赤薔薇王の手で根本から砕かれたその剣を触媒に、熱核プラズマの火柱が刀身の形を取り疑似的な炎剣となったのだ。
今に至る瞬間まで虚空からの射撃・砲撃に徹してきたザミエルの、恐らくは初めて剣を抜いた瞬間だ。しかし最も理不尽なのは、本来物質としての形を持たないはずの炎熱で以て聖剣の一撃を受け止めるという不条理にこそあるだろう。今の聖剣は風の戒めを解かれ黄金の幻想としての姿を露わにしている。剣としての威力だけでも、風王結界に覆われた状態を80〜90とすれば、今の黄金の状態は1000にも届かんとする規格外の代物なのだ。生半な得物であれば例え宝具であろうとも一合のもとに粉砕するであろう光剣を、ザミエルは己が渇望の具現たる炎のみで受け切った。それはすなわち、想いの強さこそが力となって現れるエイヴィヒカイトにおいて、彼女の有する忠義の重さがどれほどのものかを端的に示していた。
ならばこれこそが、アーサーが頑なに抜かせようとしなかった彼女の剣であるのか───いいや違う。
「だが見誤ったな。かの城ではほぼ毎日、この程度の速さは目にしていたよ」
ヴァルハラはヴェヴェルスブルグ城。ラインハルトに吸収された戦奴たちの楽園。生まれ変わっては戦い死んでいく黄金冠す第五宇宙。
元々ヴァルハラとはそういう場所で、エインフェリアとはそういうものだ。朝から互いに殺し合い、夕方になれば生き返る。そんな日々を六十年、かの最速たるシュライバーとも戦った事実を踏まえれば、今さら神速など何ほどのものでもない。
「所詮彼奴と私とでは、千日手で碌に勝負もつかなかったが」
絶対命中と絶対回避、矛盾すぎてまともに勝負にならない分───
「おかげで余技も随分と増えたぞ。そら、このようにな」
瞬間、危機を告げる直感により反射的に退いたアーサーの眼前を、巨大な熱量が貫いた。正体不明のその攻撃によって路面を構築するコンクリートが数mに渡って赤熱、衝撃音を表す空気振動と共に爆散する。
その攻撃の正体を、アーサーは確かに目撃した。それは灼熱に発光する赤い光の帯だ。熱量を行使するという性質自体は何ら変わってはいないが、その集束率と弾速の桁がこれまでとはあまりに違い過ぎる。
今までの炎が曖昧に揺らめく陽炎の如きものだとすれば、この一撃はまるで───
「炎の集束……これは、レーザー光線か!」
「陳腐な表現だが、正解だ」
攻撃の予兆をあらかじめ目に捉えたアーサーは反射的に動いた。地を蹴った肉体は音速を凌駕するスピードで世界を流れ、同時に一瞬前まで彼のいた空間を熱量の槍が貫く。数ミリ秒で20m近い距離を移動したアーサーの目に映るは、ザミエルの背後に発生した空間の変調であった。
それは水面から大量の何かが突き出すように、本来揺らがぬはずの空間に無数の波紋を浮かべている。その一つ一つがたった今アーサーを追い詰めた熱核のジャベリンを発射する銃口であることを、理屈ではない直感で悟る。
「──────!!」
声にならない畏怖の叫びすら置き去りにして、アーサーの身体が掻き消える。疾走を開始すると同時、見渡す視界の全てを爆光が埋め尽くした。
正面、上、左右、下方、他にも他にも他にも……格子状に展開される熱線の波濤が空間を席巻する。疾駆するアーサーの後を追い、地面に突き刺さる無数の光条が足跡のようにケロイド状の穴を穿った。
極超高熱による気体の変化は構成原子の電離を誘発させる。
陽子、電子、重イオン。それら電荷を帯びた粒子はローレンツ力を生じさせる。局所的に展開される閉鎖空間内において加速された粒子は空間の解除と同時に射出され、膨大な熱量を以て敵を貫く。
仮想名称、荷電粒子砲。
それは未だサイエンスフィクションの中にしか存在し得ない、全く架空の兵器の名である。
騎士の剣が舞う。頭蓋を狙う三条の槍を光剣の一撃で粉砕し、側方からの槍衾を瞬時の加速で置き去りにする。尚も追い縋る後方からの追撃を躱し、その間も間断なく迫る光条の嵐を掻い潜り、顔を上げたその先には今まさに炎剣を振り上げるザミエルの姿があった。
反響する澄んだ金属音。共に半円軌道を描いた炎熱と閃光が対となって激突し、凄絶なまでの衝撃波が周囲に伝播する。
ぎりぎりと鍔競る二刀。膂力は互いに互角、魔力放出による強化の度合いすら甲乙付け難く、しかし空を裂く灼光の槍の飛来により剣戟は中断を余儀なくされた。
厄介な、と心の裡のみで吐き捨てる。ザミエルの放つ光槍は決してただの炎ではない。一つ一つが一都市をも撃ち貫く魔弾を極限まで集束・圧縮した代物故に、同じく星の祈りが集束したエクスカリバーの刀身でしか受けることができない───という要項すらこの技の本質ではない。
最も厄介なのは、速度。
陽子加速された荷電粒子の槍は理論上限りなく光速に近づけることが可能であり、無論のことザミエルの行使する力とて例外ではない。この世に光より早く伝達する情報が存在し得ない以上、あの槍は視認と同時に着弾する。故に目視しての回避は物理的に絶対不可能。撃たせた時点で致命となる最悪の一撃だ。
例外となる無効化手段の一つに、攻撃の予兆を察知しての事前回避があり、事実として直感による連続回避を成功させているアーサーはある意味でこの技との相性は良いが、それでさえ現状は不利のまま。アーサーだからこそ不利に陥る程度で済んでいるのであり、これが凡百のセイバーならばとうの昔に死んでいることは語るまでもない。
絶死の波濤を繰り出すザミエルは文字通りの魔弾の射手。されど彼女はただの射手に非ず。
紅蓮の赤騎士は高みの見物を決め込むような指揮官ではない。剣と砲の二重螺旋、それこそが炎魔たる彼女の万能たる所以であれば。
「だが、それでも───」
閃光と共に射抜く殺意に応えるように、粉塵を突き破って騎士王が駆ける。風切るプラチナブロンドは血と黒煤に汚れながらも、未だ輝きを損なわない。
斃れてなるかと、負けてなるかと、決意を湛えた不退転。光輝を宿した翠瞳は、一直線にザミエルを見据えている。
豪雨の如く降りかかるレーザーの速射すら、彼の疾走を止められない。最小限の動きで攻撃を躱し、弾き、再び道を切り拓いて肉迫していく。
そう、彼は敗北することを許されてはいないから。
「我が剣は敗れない、騎士の誓いと同じくして!」
「そうだ、それでいい───来い!」
振り翳される光剣を、狂笑を以て迎え入れる。
そうだ、それでいい。我が身は闘争の理に捧げた戦奴の一角であればこそ、語るべきは言葉ではなく戦である。
ザミエルが剣閃を避けると同時、鼻先を落雷のような斬り下ろしが凄まじい速度で掠めた。
速度のみならず、破壊規模も落雷に等しかった。砕けた地面が空に逆巻き、コンクリートには常識を疑うほどの地割れ。剣気に押し飛ばされて、ザミエルは顔の中心に痛みを感じる。血の臭い、気付けば風圧だけで額から鼻先にかけて浅く割れていた。
破壊の中心から蒼の外套が飛び立つ。アーサーにとってその一閃は渾身でもなんでもなく、外せばすぐさま次の行動へ移れる普通の斬撃に過ぎない。
半弧を描く一対の閃光が尾を引いてぶつかり合う。中空にて何度も何度も激突しては弾かれて、二人を中心とした周囲には半円を描く残光が数えきれないほどに刻み込まれた。
互いに跳ね飛ばし合って間合いを外し、全く同じタイミングで追撃を敢行する。アーサーは駆け出し、ザミエルは灼光を放つ。再度具現するは紫電槍の弾幕であり、そこはまさしく飛び道具の間合い。迫る弾速はいっそ冗談めいた域で、刃を衝角のように前に突き出し、アーサーは退くことなく逆に加速する。
直感と経験と研鑚の結実たる剣技で以て弾幕の隙を見出し、点から点を繋ぐ線をイメージ。頭のすぐ横を過ぎる灼熱に長く耳鳴りの尾を引いて、曳光弾のようなジグザグの軌跡を描き、アーサーは弾幕を真正面から駆け抜けた。
再び剣の間合いへ。
紅蓮の砦を乗り越えた先のザミエルは、右に炎剣、左に炎砲の二刀流で両翼を広げて待ち受ける。
鼓動が高鳴る。加速するたび、光剣の回転数が際限もなく上がり続ける。
アーサーが速度と剣技の質で圧倒する側であるなら、ザミエルは手数と火力の量で圧倒する側にある。彼女は純粋な速さでアーサーに劣るものの、繰り出す砲の鋭さは彼と比べても遜色ない。時に巧みな防御から後の先を取り、時に恐るべき圧力で攻めてに回る繊細かつ豪胆な戦闘技量は今、剣と砲の合一により間違いなく100%の力を発揮している。
右に守りの剣、左に必殺の砲。渦巻く炎が旋回し、超高速の一刀で猛追するアーサーに対し、無数の光槍と致死の熱量で一歩も引くことがない。
回りこんで荷電粒子の雨を避ける。聖剣で以て攻め、防御に展開された炎熱障壁を一撃で斬り砕く。刹那に炎が新たな障壁を形成し、反撃の炎剣は塊のような豪風を生んでアーサーに肉迫する。
気を抜けば死角から飛来する光槍の狙撃。タイミングと角度の計算され尽くした無数の刺突に、アーサーはたった一人の英霊と対峙しているはずが、万は下らぬ砲兵師団を相手取っているかのような錯覚を味わう。
今、黒い闇夜の廃墟の一角を、赤い影が包み込んでいた。その中で眩いばかりの黄金の熱風が吹き荒れる。
赤熱の刃風に晒された者は遍く破壊されるべき空間の中で、アーサーとザミエルただ二人のみが破壊の法則に抗い、原型を保っていた。戦いの中でいくつもの亀裂とクレーターが周囲に刻まれ、かつて人の行き交った痕跡など最早どこにも見当たらない。アーサーの縦斬りの余波が奇跡のように地面を割り開き、果ての中層ビルディングが真っ二つに断割された。
「……ああ、そうだな。これだけは聞いておかねばなるまい。
問おう、アーサー・ペンドラゴン。戦う理由を貴様は説いたが、ならば貴様は何を願った」
告げられる真名に、しかしアーサーは微塵も揺らがない。その程度、聖剣を覆う風の戒めを解いた瞬間より覚悟していた。
故に、論じるべきはそこではなく。
「語るべきは言葉ではなく戦ではなかったのか」
「なに、貴様がそれだけの力を示してみせたというだけだ。誇れよ、ハイドリヒ卿を除けば私がここまで認めたのは貴様で二人目だ」
言葉を交わす瞬間にも、彼らは戦いの手を止めはしない。薙ぎ払い、斬り上げて、刺突へと移行する。攻撃は止まらず一瞬たりとて油断もない。
「円卓の伝説、誉れ高き騎士たちの王。最早滅びゆく他にない王国に最後の平和と繁栄をもたらし、束の間とはいえ望外の救いを与えた者よ。
見事だ、天晴だよ騎士王。亡国の主であれど、最後の瞬間まで戦い抜いた貴様は紛れもなく英雄だ。誰もが貴様の勇気と覚悟、何より偉業の数々を讃えるだろう。私とて例外ではない」
その声に虚実の要素は含まれない。ザミエルは心底より、騎士王アーサー・ペンドラゴンの所業を讃えている。一介の騎士として畏敬を払い、見事なりと賞賛している。
だが同時に。
「それだけならばな」
振り下ろされる剣を掻い潜るようにして、ザミエルはアーサーの横をすり抜けた。その際に髪留めが切り飛ばされ、真紅の長髪がざんばらに乱れ落ちる。
「……」
追撃は……
追撃は、何故か、することができなかった。そしてザミエルもまた、その隙を突くことはしなかった。
彼女は振り返る。その身に幾筋もの斬痕を刻み付け、朱に染まった紅蓮の赤騎士。打倒すべき敵であるにも関わらず、その姿はひたすらに荘厳で、美しかった。
「問題はその後だ、アーサー・ペンドラゴン。
貴様、聖杯に何を願った?」
最早何もかもが過去となった男が。
戦争が終わり国も民も滅び、1500年以上も経った異国の地で。
聖杯戦争などという殺戮儀式に加担していた不可思議。
「戦禍に消えた民草の蘇生、もしくは潰えた国家の再興……と、まず思い浮かぶのは大方そのあたりだがね。
しかし違う。言ったように貴様は英雄、一角の戦士だ。死のなんたるか、骨身に沁みて分かっているはず。
すなわち、立ち上がれぬ者は捨てていけ、だ」
終わったものは取り戻せない。後ろを見ていては前に進めない。
それは戦場の、兵士たちの、大前提であり絶対のルール。
「死者蘇生など戯けている。そんなものは戦場を知らぬ輩が抱く、甘ったれた願望だ。
恥ずかしながら黒円卓にも少なからずそういった蒙昧共がいてね。所詮奴らは民間の似非兵士もどきがお似合いではあるが、貴様はそうではあるまい。
では我らのように不死や永劫の闘争を望むかと言えば、それもまた違う。事実今このように、貴様は私を否定している。
分からぬ。解せんよ騎士王。貴様いった、何を成そうとしているのだ」
問いに、アーサーは即答しない。だが、ややあって。
「確かに、私は死者を蘇らせようとは考えていない」
重く、厳かに。決然とした口調で返す。
「結果として私は国を守れなかった。多くを殺し、それでも人々を救うことができなかった愚昧な王だ。
悔いはあるが、どだい戦争とはそういうもの。そこはお前に同意するとも」
一騎当千の力を得ても、所詮は一個人であり万能ではあり得ない。少なくとも、アーサーだけの力ではどうしようもない現実は数えきれないほどあったし、結局は殺人という手段でしか物事を成せなかった人種である。
「そう、我々は殺すのが商売だ。死なせないようにする術と、死なせる術に長けている。生き返らせる術などは、我ら騎士の領分ではない。
分かっているではないか騎士王」
己は死なずに相手を殺す。それを突き詰める存在が、死人を生き返らせるようでは矛盾が残る。
故に、と彼は続けた。
「"だから"だ、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ。生き返らせるのではなく、死なせたくない者がいるだけのこと。
私の望みは、ただそれだけ」
それは例えば、金糸の髪を持ち控えめに笑う、命がけで友に助けられた赤い瞳の少女であるとか。
それは例えば、銀のショベルを持って自らの信仰に殉じる、若き墓守の少女であるとか。
それは例えば、遠き異国の地において生まれ落ちた、星に願いを託す気弱な少女であるとか。
それは例えば、愛によって遺された庭園で出会った、この身に答えをくれた少女であるとか。
「求めた場所は此処にある。求めた明日は彼女らに違いない。
たとえ、巨大な事象の前に崩れ去ったブリテンという過去が、現代にまで至る人類史の中で定められてしまった結果が血塗られていようとも」
過程と結果はワンセットじゃない。
過程も成果も、それぞれが独立した人間の意志だ。
たとえ我が生涯が血塗られた最期であろうとも、駆け抜けた人生は決して無駄ではなかった。
その一瞬の積み重ねが、永遠となって現代に続いているのだとすれば。
「私は過去を生きた英霊として、今を生きる人々を救けよう。
それこそが、我が二度目の生涯において掴んだ唯一無二の光なれば」
時には選ぶこと自体が答えになることもある。
故に彼は、世界を守り、かつて見た綾香の生きる世を救うのだと決めた。
「成る程」
王でありながら、亡国と民草の救済を望まず。
英霊でありながら、過去と聖杯に縛られず。
故にこそ、彼はその剣を振るうことに迷いはないだろう。
彼の返答、彼の瞳、共に凄烈な気配を伴った刃の如く。
「見上げた大言壮語だ。まるで御伽噺の騎士ではないか。いや、事実そうであったか」
ゆっくりとザミエルは頷く。
最大の好敵手から最高の解答を得た騎士であるかのように。今や無知蒙昧たる衆愚の妄念によって形作られたるこの身が。
待ち詫びていたのだ、この瞬間を。
極東の言葉で言えばまさしく一日千秋か。
実時間にすればほんの数時間。大した期間でもあるまいに、まるで幾百年も過ごしていたような感覚があった。現実ならぬ夢の狭間であるかのように、およそ現実感の伴わぬ虜囚の日々だった。
あらゆる正道から逸れて廃神と化し、愚昧なる妄想に身を堕して白痴を害し、それすらもが偽物でしかない世界に従わされる時間は、異様なまでに緩慢とした流れの中にあって、一分一秒を過ごすごとに濃密な実感が全身を苛むのだ。熱せられた泥炭の中をゆるゆると泳ぎながら、大きく口を開けて汚濁を飲み下し続ける様にも似た───屈辱のままに生かされる実感。
ならばこそと現世界に亀裂を刻み、汚辱を強いた者らへの反逆をこそ彼女は望んだ。個としての自我と誇りのみを携えて、己が信奉する覇道のままに総ての根絶をこそ願った。
「聖杯戦争。貴様が輝きのままに道を歩んだであろう日々は、私には、堕落の汚泥を浴び続けるに等しい日々だった。痴れた阿片窟に落とされ、尊厳と魂までをも陵辱され、信じた理想さえもが穢らわしくも醜悪に堕した」
語りながら、彼女の総身より紅蓮の炎が沸々と噴き立つ。それは猛る魔力の発露であり、同時に戦争の再開を示す予兆でもあった。
言いようのない不気味な剣呑。死の気配。相対する者を屠るだけの自信、実力を備えているのだという確信から来る、肉食獣の獰猛さ。それを如実に示している。
「私に残ったのは怒りだけだ。この盤面を整えた者への尽きせぬ怒り、ただそれだけ。貴様のような輝きなど何もない」
それは、黄金へ捧げたはずの忠義ですら。
今もこの胸の裡にこそあれど、それすら万仙によって形作られたものであるならば。
総身が赤熱し、罅割れるかのような閃光が放たれ始める。
過剰供給に伴う激痛が全身を軋ませるが、どうということはない。
そうだ、この怒りに比べれば。
万象、如何なる痛苦さえ塵屑にも値しない。
「それはお前の不忠を吐露するものであるのか」
「否、断じて否! 私の魂は今もハイドリヒ卿のお傍に在る! 私は今や闘争の獣そのものであり、およそ人界を喰らい尽くす炎魔に他ならない!
己が不義を曝け出す? いいや否、私はただ純粋な怒りを抱くに過ぎない。何故、我らグラズヘイムの戦鬼がこのような茶番に堕とされたというのか……!」
魔力充填、渇望の高まりは今や最高潮に達する。
宝具の発動条件は整った。既に焦熱の世界は、必勝の状態で解放が叶う。
しかし、それはアーサーとて同様であるだろう。風の鞘が取り払われた黄金の刀身は、ただの横薙ぎであろうとも対人の宝具など及びもつかない威力を誇ることは、既にこの身を以て知っている。更に真名解放が伴えば、人類史でも屈指の偉業、星の光による万象の破壊が成し遂げられるに違いない。
「私だ。私こそが世界の敵だ! 今も、今も、今も……!
この都市の最果てにあるものを貴様は見るだろう! 意志もなく、道理もなく、爛れた白痴の宇宙に坐する渾沌の具現を!
ならばこそ、これは選定だ。私か貴様か、あるいは他のいずれの者であるのか。一体誰が、この世界の行く末を決める資格を持つのかの!!」
絶叫しながらの真名解放。
───焦熱世界・激痛の剣(ムスペルヘイム・レーヴァテイン)。
魔力放射。夜闇を貫いて疾走するエーテル光が、廃墟群を取り囲んで円形の結界と為す。
覇道創造とは自己の世界の構築。すなわち固有結界に代表される心象風景の具象化にも等しい大禁咒であり、超々高密度の異界法則をこの世に顕現させる文字通りの"世界創造"の所業である。
これこそが彼女の持つ唯一無二の"剣"。抜かせてはならぬはずの切り札が、しかし此処に開帳される。
一瞬にして周囲の光景が、紅蓮一色に染め上げられた。空気は焼け、地面は黒く焦がされ、内界に存在するあらゆる物質が沸騰蒸発を超過し細かな粒子へと分解される。
焔を行使するという一点において、それは今までのザミエルの異能と何ら変わりない。しかしこれは込められた魔力と威力の多寡が桁違いであり、それさえ焦熱世界の本質から程遠い。
それは、逃げ場のない封鎖された世界であるということ。
すなわち絶対必中の具現。最初から回避の余地が失われた別世界という、それは命中という概念に対する一つの解答の形でもある。
それが証に、見るがいい。
見上げるアーサーの頭上からは、焔になり変わった空そのものが地表を目指して墜落しようとしている!
核熱に匹敵する熱量はサーヴァントであっても耐えきれるものではなく、業火と化した天の崩落は三騎士クラスのサーヴァントであろうとも確実に崩壊に導くであろう。
逃げ場はない。回避は不可能、どう足掻いても正面より受けて立つ他になし。
つまり───何の問題もない。
アーサーに逃げる気などないし、真正面からの勝負を避けるつもりもなかった。この敵手は正攻法でなくば打倒すること叶わず、小手先に頼るようでは即座に叩き潰されるが条理である故に。
その手に握るは星の聖剣。例え"世界"そのものが相手であろうと、星の祈りたる輝きの剣が劣る道理は一切なし!
「十三拘束解放───円卓議決開始」
かつて統べた円卓の議決を告げる声と共に、風の鞘の更に最奥に施された封印の枷が解けていく。
《是は、一対一の戦いである》───バロミデス承認。
《是は、人道に背かぬ戦いである》───ガヘリス承認。
《是は、真実のための戦いである》───アグラヴェイン承認。
《是は、精霊との戦いではない》───ランスロット承認。
《是は、邪悪との戦いである》───モードレッド承認。
《是は、私欲なき戦いである》───ギャラハッド承認。
此処に顕現するのは過重星光(オーバーロード)、完全承認には足りずとも顕現する紛うことなき星の光なればこそ。
聖剣(エクスカリバー)は、魔剣(レーヴァテイン)による極大規模の魔力放射を盾のように防ぎきる!
上方より迫る熱放射の悉く、翳された聖剣に弾かれ、滑り、アーサーを中心に放射状に周囲へ受け流される!
「防御能力! だが聖剣の真の力はそんなものではあるまい!」
「どうかな」
瞬間、振るわれる閃光が炎塊を両断し、蒼銀の鎧が翻る。それはまさしくレーヴァテインの炎に聖剣の光が打ち勝った証左であり、一挙動に跳躍したアーサーの剣は既にザミエルの眼前にまで迫っていた。
この一合、この勝負の結末は単に両者の相性によるものが大きい。
エクスカリバーは光の集束、つまりは一点集中であるのに対し、レーヴァテインは広域殲滅、つまりは威力が分散するのだ。面に対する線と言うべきか、聖剣はまるで薄布の膜を切り裂くかのように炎を切断する。
「お前の悪は、同じく英霊として在る我が悪に等しく。我が罪に等しく」
言葉と共に。
聖剣、一閃。
星光。一閃。
「故に、これは引導である!」
光が、炎を引き裂く。
此処に二者の決着は成り、勝敗は決した。
だが───
だが、仮の話として。
分散する炎の全てが、一極に集中することがあれば、どうか。
いやそもそもの話として、有象無象を焼き払う広域殲滅の形態が、一対一の決闘に用いられる剣と呼べるのかどうか。
故に、これは。
「甘いぞ、騎士王!」
突如、ザミエルの背後より振るわれるものがあった。
それは巨大。それは威容。人がその手に持つものとは思えぬほどに大きな、それは一振りの巨大な剣であった。
焔の剣。それは、かつてザミエルが手にしたものなど比較にならぬ魔力を以て。
新たに現出した魔剣の一撃が、今まさにザミエルを切り裂かんとする聖剣の一撃を食い止める!
圧倒的なまでの魔力。
非常識なまでの威力。
星と人々の営みの結晶たる聖剣の光を、たかが一個人の渇望の具現たる魔剣の炎が食いとめるのか。両者は正しく拮抗し、鍔迫り合いの余波が爆砕の衝撃波となって周囲を抉り取る。舞い上がる炎の残滓が、幻想の赤いヴェールであるかのように辺りに拡散する。
「舐めるなよ。我が忠義の炎が、たかがその程度で終わると思ったか!」
既にこの身は至高の黄金を垣間見た。
払いを及ぼし穢れを流し、溶かし解放して尊きものへ。至高の黄金として輝かせよう。
ならばこそ、例え星光の剣であろうとも───
二番煎じの黄金に、この胸を焦がす炎が負ける道理などない!
「私すら滅ぼせぬ者に! 黄金螺旋階段の果てに坐す人類悪を両断することは叶わない!」
「ぐぅ、おお……オオオオォォォオオオオオオオオオオオ──────ッ!!」
両者の表情を彩るは、共に凄絶なる戦意の顕れ。歯を食いしばり過剰魔力により血涙すらその目に浮かべて、されど尽きせぬ撃滅の意志だけは絶やすことなく。
けれど悲しいかな。拮抗の趨勢はすぐさま、アーサーの不利となって現れる。
それは相性は両者の力量の差などではなく、酷く単純な話。エクスカリバーはそもそも真名の解放を伴っていない。
オーバーロードはあくまで余技、聖剣の本質などでは断じてない。風王鉄槌の一撃などは遥かに超えているものの、星の聖剣の真なる解放には遠く及ばないのだ。
その一撃でさえ三騎士が一角の創造にすら匹敵するというのだから、文字通りの規格外ではあるのだが、この場合は力不足という他にない。
形勢が、徐々に傾いていく。ザミエルに斬り込まんとする刃、徐々に力を失って。
自分は、負けてしまうのか。
否応なく心に浮かぶ、敗残の疑念。
いいや否、負けるわけにはいかぬのだと感情は叫ぶけれど、戦士として磨き抜かれた冷徹な思考は目の前の戦況を的確に判断する。
出力不足、範囲不足、敵を打ち倒すにはあと一手が足りない。
『幸福』の時もそうだった。あの場面においては奇跡のような救けが三度舞い降りたが、しかしそれは望外の救援であり常態として頼みにできるものではない。
つまり、アーサー・ペンドラゴン一人では敗北する。それは絶対的な現実として目の前に立ち塞がった。
奇しくも、彼がザミエルに語った言葉と全く同じに。
所詮は一個人であり万能ではないのだと、自分一人では抗えぬ現実は無数にあるのだと。
一瞬でも心を過れば、すぐさまそれは現実の弱さとして具現する。
物理的な拮抗を保っている以上、勝負を決めるのは精神の強さであればこそ、アーサー・ペンドラゴンは敗残するのみであるのだと───
「諦めるんじゃねえッ!!」
声が響いた瞬間、
世界を隔てる赫炎の結界が、文字通り粉々に砕け散った。
「なん、だとォ……!?」
衝撃と轟音、そして何より"焦熱結界を砕かれたことによるフォードバックダメージ"により振り返ったザミエルの頭上に、舞い散る紅の破片と共に躍る人影が一つ。
ステンドグラスを砕いたかのように光り輝く世界の欠片を纏いながら、剣を携え舞い降りるのは男だった。青年とも、未だ少年とさえ形容できる顔立ちの男。その正体に、ザミエルの表情が驚愕に染まる。
そしてこの時、不意を打たれて刹那動きを止めて接近を許してしまうという、ザミエルにとってあるまじきミスを彼女は犯してしまった。
その要因は、三つ。
一つにレーヴァテインの性質変化。本来世界全体を覆い尽くす炎の波濤は不意を打たれようが容易に乱入者を撃滅できたであろうが、聖剣の迎撃に全てを一極集中している現状ではそうはいかない。
一つに男の正体。彼はザミエルにとって見知った者であり、いずれ刃を交えるべき宿敵でもあった。
一つに男の持つ武装。彼の武装をザミエルは知っている。罪姫・正義の柱(マルグリッド・ボワ・ジュスティス)、不死さえも殺す万物即死の刃。人器融合の形として現れるそれは確かな脅威であれど、それだけならば何も驚愕には値しない。
だが違う。男───藤井蓮が持つのは、剣。
戦雷の聖剣(スルーズ・ワルキューレ)。それは本来、彼ではなくベアトリス・キルヒアイゼンが持つべきの───
「カールクラフトの代替……! 貴様、何を───!?」
言葉の代わりに振り下ろされる斬撃、それをザミエルは辛うじてサーベルの残骸で受け止める。
甲高い反響音と共に、跳ね返された戦雷の聖剣が慣性の法則に従って空中を回転した。重心を中心に、円を描くように。
ザミエルは、目を疑った。
騎士剣の柄を握っているべき手が、藤井蓮の姿が、視界から消え失せていた。
騎士剣を手放した蓮の身体は、滑り込むようにザミエルの背後へと回りこんでいた。
その時になって初めて、ザミエルは敵手の姿ではなく"亡き部下の形見である騎士剣"の姿をこそ追っていたことを悟った。
無理からぬ話である。エイヴィヒカイトの使い手は聖遺物なしには異能を行使することが叶わず、ましてこの聖遺物は部下の形見。それを無意識に追ってしまうことも、まさか敵手がそれを手放してしまうなどと考えが及ばないことも、仕方のない話ではあった。
───そしてそれが、ザミエルの死を決定づける要因になった。
「真名解放───打ち砕く王の右手よ!」
次の瞬間、無防備な背中に凄まじい衝撃。咄嗟に展開した魔力障壁すら容易く貫通し、文字通り背を折り砕くほどの威力をまともに受けて、呼吸が止まり視界が反転する。
焔の魔剣が霧散する。聖剣との力の均衡が崩れ、ザミエルは舞い上がる大量の炎風に包まれながら吹き飛ばされた。
声にもならず、叫びも出ず、空中で何とか身を捻り着地しようとした瞬間には、目の前に迫る光の斬撃。
不自然なほどゆっくりと流れる視界の中で、ザミエルはそれを目にして。
「───見事だ」
己が心臓ごと総身を両断する剣閃に、曇りなき賞賛を贈ったのだった。
◆
「貴公は尋常ならざる強さを持っていた。その自負心、その名誉、その忠義は一片たりとも崩れず、落ちもしなかった。
私一人では、きっと……勝ちを拾うことはできなかっただろう」
語る口調は穏やかに、それは敬うに足る誰かを看取るかのように。
「だが私はこの結果を誇ろう。マスターがいて、守るべき少女がいて、心強き戦友もいた。
たったそれだけのことで、私は間違ってなどいないのだと信じることができる」
「ふん、貴様はどこまでも……」
斃れる赤騎士は、その総身を真紅の血に染め上げて。既に気管は断たれ血液が逆流し、まともに言葉も紡げぬ身であるはずなのに。
「私はそんなものなど知らん。私が望むのはただ一つ、ハイドリヒ卿の駒であることのみ。
救いなど請わん、助けなど求めん。私は私である限り、ただ一人だけで遍く敵を殺し尽くそう。
それこそが、彼の傍に侍るべき騎士の姿。脆弱など許されるはずもない」
その姿はどこまでも孤高。他者の救けを借りず、求めず、どこまでも己一人で修羅の道を歩まんとする戦鬼がそこには在った。既に手足の末端は黄金の粒子と溶けつつあり、総身が文字通り透けて見えるほどの瀕死であるにも関わらず、その姿は覇気に満ちて。
それはある側面から見れば確かに人としての強さを思わせ、故に一介の戦士として憧れる部分もあるけれど。
そんな二人の視線を知ってか知らずか、僅かに苦笑すると言葉を続ける。
「故にだ。私の屍を踏み越える以上、その敗北は許されんと知れ。騎士王、そして貴様もだ、ツァラトゥストラ。
是なる現界、是なる衆愚蔓延る世界に最早愛想も尽き果てた。故に私は一足先に退場するとしよう。不本意だが、後の始末は貴様らに預けるものとする」
傲岸不遜の極みのようなことを言い放ち、「ああそういえば」と思い出したように。
「騎士王、貴様との約束を果たそう」
「それは……」
「聞け。私の戦った理由、尚も生き足掻き無様を晒した理由。それは"聖杯戦争を破壊するため"だ」
その言葉に、アーサーと蓮は共に気色ばんだ。それは彼らが戦う理由でもあり、糸口を探しているまさにその最中の事柄であったからだ。
「そして私は真実の一端を手に入れた。その上で結論だけを言おう。騎士王、貴様はその聖剣を解き放て。然るべき時、然るべき相手を前に、星の光を引き出すのだ」
「どういうことだ。貴公は何を知っている!」
「二度は言わん。まったく赤薔薇め、まさかここまで予想していたわけではあるまいが……いや、奴のことだからあるいは……」
遂に声までもが翳りを見せ、ザミエルの総身が消えていく。
もう、時間は残されていない。
「行け、そして倒せ。何が立ち塞がろうとも、貴様らは……
勝者としての責務を全うし、その果てに……」
「待て!」
叫んだのは、アーサーと蓮のどちらであったか。彼らは共に手を伸ばし。
それを前に、ザミエルは相も変らぬ不遜な表情のまま。
「世界を救え。貴様らにできるのは、所詮その程度なのだから」
最期の瞬間まで、憎まれ口を止めることなく。
グラズヘイムの炎魔は、二度目の生涯に幕を閉じたのだった。
………。
……。
…。
────────────────────────。
返答は聞こえなかった。
私の言葉に彼らが何を返したのか、あるいは無言のままだったのか、それも分からない。
だから、寄り道は終わりだ。
私は、私がすべきことを為そう。
ザミエル・ツェンタウァの魔名を持つ不死英雄(エインフェリア)として、相応しい最期を遂げるのだ。
因果なことだと思う。赤薔薇の言を聞き入れ、後継に全てを託すなど、常の私ならば考えられないことではあるが。
なに、万仙の醜悪さを消し去るためならば全ては些末事だ。
それを目にすることが叶わないのは、素直に悔いが残るが……
私は、魔弾の射手として死のう。
託した願いを魔弾として、高みで見下ろす不埒な輩を撃ち貫くと信じよう。
この命失おうとも、天然自然一切の理に反そうとも、幾億万の悪鬼が阻もうとも、死の門を必ずや潜り抜け、きっと、あなたの覇道を貫こう。
そうだ、あなたのために。
尊き我が主。
誰よりもまばゆい、あなた。
誰よりも恐ろしい、あなた。
私が、荘厳なるヴァルハラへと至るきっかけをくれた───
この世の誰よりも大きな愛を抱いた、誰かを愛するあなた。
ハイドリヒ卿───
【アーチャー(エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ)@Dies Irae 消滅】
▼ ▼ ▼
「君に命を救われるのは、これで二度目になるな」
「気にするな、アンタが戦ってなきゃ死んでいたのは俺だ」
焔も轟音も赤色も何もかもが消え去り、元の闇色が戻った廃墟群にて。
二人の男がそこにはいた。共にボロボロで大小様々な損傷を負い、見るも痛々しい有り様ではあったが。
勝ち残ったのは彼らだ。生き残ったのは彼らだ。
生存に優劣はなく、生きる意志に貴賤はない。故にこそ、どれだけの泥に塗れどれだけの傷を負おうと、生き残った彼らこそが勝者であることに疑いはない。
「すばるは……見つかってないみたいだな。手がかりは?」
「いや、掴む前に戦闘に入った。都市そのものを消し飛ばそうとする彼女を放置してはおけなかった」
「そうか。けどおかげで魔力反応を辿って俺も駆けつけることはできた。ああ、それと……」
「セイバー!」
二人に向かってかけられる声が一つ。振り向けば、そこには駆け寄ってくる一人の少女の姿。
キーアが、足場の悪さに悪戦苦闘しながらも、息を切らせて走り寄ってきた。
無事だった。見たところ怪我もなく、これほどまでに揺れる都市の中にあって尚も壮健な姿のままで。
「この通り、アンタのマスターは五体無事だよ。これからは……」
ぐらり、と蓮の身体が揺れる。
それは一瞬のことだったが、キーアを抱き止めるアーサーの目は、それを見逃さなかった。
「力の反動か」
「……まあ、あいつの創造をぶっ壊すにはそれしかなかったからな。むしろアンタにまで影響が出てなくてほっとしてるよ」
先程の場面、ザミエルの焦熱世界が砕けたのには絡繰りがある。
事は至って単純、外側に到達した蓮が同じく創造を発動し、その効力を以てして結界を粉砕したのだ。
対象は空間それ自体なれど、死者たるサーヴァントの能力に変わりはなし。生者のキーアには何ら影響を及ぼさず、内部のアーサーは当の結界が空間ごと断絶させているため届かず、罅割れた瞬間に発動を停止させ力づくでの突破に踏み切った。
「改めて感謝を。君の助力があってこそ、僕は彼女を倒すことができた。君がいなければ、今頃僕は……」
「やめてくれ。何はどうあれ結果はこうだ。俺はアンタを頼ってアンタは俺を使う、適材適所って奴だろ。それよりアイはどうしたんだ?」
……一瞬、場の空気が固まったように思えたのは、きっとキーアの勘違いではあるまい。
そんなことを、アーサーの外套の裾を掴みながら、あれ?という表情でキーアは思った。
「なあ、まさか……」
「……すまない。ザミエル卿の凶行を前に僕を送り出して、その後は」
「いや大体分かったアンタは別に悪くない、あいつのことだきっと勝手にすばるを助けにどっか行ったな絶対そうだなあの莫迦野郎は!」
実際のところアーサーに非はないだろう。ザミエルとは完全な遭遇戦だったのだろうし、戦場に無力なマスターを引き連れていけるわけもなし。事実として蓮もザミエルに突貫した時は都市中大地震であったにも関わらずキーアを置いてきぼりにしてしまったし、そもそもあいつの性分からして安全地帯で大人しく待ってるなどできっこないだろう。
「騎士王、話したいことは山ほどあるけど俺はアイを探しに行く! 悪いがすばるのほうはよろしく頼む!」
「あ、待って! だったら私達も一緒に行ったほうが……」
「いや、キーア。これでいいんだ。レン、幸運を祈る」
頷きだけで返して、蓮は一挙動に地を蹴り廃ビルの向こう側へと姿を消した。それを見送ると、不安げに見上げるキーアにアーサーは答える。
「マスターの君を連れ立ったままだと、行動と速度に制限が出る。それだと間に合わない可能性もあるし、素早く動ける彼が単独で探しに行ったほうがいい。それにアイとすばるが近くにいる保証もないから、手分けしたほうが確実だ」
「でも、レンは体が……」
「そこは僕も心配だけど、でも大丈夫。彼は強いからね、きっとまた会えるさ」
それも事実だ。少なくとも、騎士王アーサー・ペンドラゴンが信を置ける程度には。彼の実力には一定の信頼がある。
「ともかく、僕達は僕達にできることをしよう。すばるのことも気にかかるし、それに……」
と、そこまで言った。
その瞬間だった。
「───え?」
都市そのものを揺らす轟音が、一つ、また一つと鳴り響いて。
遠方で刃を交える巨大な影、それらが特に大きく腕を交差するのが、遠目にも見えて。
そこまではいい。けれど、次の瞬間、狼を貫いた巨人の手から、白い光が漏れだして───
一瞬、ほんの一瞬だけ、とても眩しくて目を開けていられなくなって。
翳した手をのけてから、もう一度見ると、そこにはもう何の姿もなくて。
「セイバー、これって……」
「ああ。これは……」
いつの間にか固くなった声を、交わし合う。
聖杯戦争の執着は、既にその尾を見せ始めつつあるのだと。
誰に言われるでもなく、二人はそう直感するのだった。
【二柱の巨神、一時消滅】
『C-3/鎌倉市街地跡/一日目・禍時』
【キーア@赫炎のインガノック-What a beautiful people-】
[令呪]三画
[状態]魔力消費(中)、決意、原因不明の悲しみ(大)
[装備]なし
[道具]なし
[所持金]子供のお小遣い程度
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争からの脱出。
1:もう迷わない。止まることもしない。
[備考]
現在セイバー(藤井蓮)と行動を共にしています。
【セイバー(アーサー・ペンドラゴン)@Fate/Prototype 蒼銀のフラグメンツ】
[状態]魔力消費(大)、全身にダメージ、疲労(大)
[装備]風王結界
[道具]なし
[所持金]なし
[思考・状況]
基本行動方針:キーアを聖杯戦争より脱出させる。
0:状況に対処する。しかしアーチャーの言は……
1:キャスターの言を信じ成すべきことを成す。
2:消滅した巨影と砲撃を敢行する戦艦、どちらに向かうべきか。
[備考]
衛宮士郎、アサシン(アカメ)を確認。その能力を大凡知りました。
キャスター(壇狩摩)から何かを聞きました。
傾城反魂香にはかかっていません。
セイバー(藤井蓮)と情報を共有しました。
【セイバー(藤井蓮)@Dies Irae】
[状態] 右半身を中心に諧謔による身体破壊(中・修復中)、疲労(大)、魔力消費(中)、困惑
[装備] 戦雷の聖剣、《打ち砕く王の右手》
[道具] なし
[所持金] マスターに同じく
[思考・状況]
基本行動方針:アイを"救う"。世界を救う化け物になど、させない。
0:何やってんだあの莫迦は!
1:聖杯戦争の裏に潜む何者かに対する干渉手段の模索。アーサー王と合流してこの異常事態への情報を共有したい。
2:悪戯に殺す趣味はないが、襲ってくるなら容赦はしない。
3:ゆきの使役するアサシンを強く警戒。だがこの段階においては……
4:ロストマン(結城友奈)に対する極めて強い疑念。
[備考]
バーサーカー(アンガ・ファンダージ)、バーサーカー(式岸軋騎)を確認しました。
すばる&アーチャー(東郷美森)、キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)とコンタクトを取りました。
アサシン(ハサン・サッバーハ)と一時交戦しました。その正体についてはある程度の予測はついてますが確信には至っていません。
C-3とD-1で起きた破壊音を遠方より確認しました。
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を無差別殺人を繰り返すヤクザと関係があると推測しています。
ライダー(ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン)及びアサシン(アカメ)と交戦しました。
ランサー(結城友奈)の変質を確認しました。
セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と情報を共有しました。
針目縫から《打ち砕く王の右手》の概念を簒奪しました。超越する人の理により無理やり支配下に置いています。
投下を終了します
投下乙です
氏の圧倒的な筆力から繰り出される戦闘描写というこの企画の魅力が最大限に発揮されたお話だったように思います。
前半の巨神対虚狼の戦いはまさにスケールの違う激しさで、いい意味で「????」となりながら読んでいました。
巨大クリーチャー決戦はひとまず決着したようですが、シュライバーもギルも未だ退場はしていない様子ですので今後が楽しみですね。
そしてアーサー対ザミエル卿、此処はもう凄まじいの一言に尽きました。
技とスペックで勝るアーサー、手数と出力で上を行くザミエル。逆転、逆転、また逆転と目まぐるしく変わる形勢は手に汗握るものでした。
荷電粒子砲や炎の剣といったオリジナル技も説得力のある描写に裏打ちされ、いやどうやって倒すんだよこれ……となってしまいました。
最終的にはアーサーに軍配が上がりましたが、空回りしかけているように見えた赤騎士がきちんと狙った所に事を落とし込めたのは良かったですね。
おぞましい地獄のような状況で奮戦するというのにはKKKの某キャラを思い出しました。曙の光か星の光かの違いはありますが。
最後にもう一度、投下お疲れ様でした。いいものを読ませていただきました!
ストラウス、甘粕、トワイス予約します
投下します
──────────────────。
"盧生"が扉を開けば、世界は真実を投射する。
たった一つのスポットライトが当たった、薄暗い舞台の中。
無人の観客席を、古めいた軍服を羽織った男が茫洋とした足取りで進む。
足音はない。無人の空間にあって、靴が床を叩く音すら響くことはなく。
無音。
けれど、その空間には音が響いていた。
光の当たる舞台の上。
顔のない影法師が何かを演じている。
周囲に響くは虚空から奏でられる器楽合奏と、荘厳なる歌唱と。
今にも果ててしまいそうな、影たちの叫び声。
「観客のいない舞台での一人芝居」
誰もいない。男以外の誰も。
舞台で何かを演じている誰かがいるではないかという者もいるだろう。
だが、誰もいないのだ。
この空間には、男以外の誰一人として。
「今は……神と人が決別した異聞の戦いが演じられているのか」
中央の席に腰掛け、舞台で繰り広げられる一人芝居を見る。
人として歩むことを決意した少女が、清廉なる決意と共に天の星に「否」を告げる場面だ。
「───ありがとう、さよなら……」
赤髪の少女の体が薄桃色の光に包まれ、天から地に帰っていく。
「人の想念が集う渾沌の中、未だ微睡み続ける仙王。
神ならぬ人の身でありながら、もう一柱の《月の王》とさえなり得る者よ」
世界を覆う幻想は開かれ、
異空に現出した諸王の顕現体が消滅していく。
「《破邪の剣》は未来のために」
ひらひらと、目の前を落ちていくものがあった。
指でそれを摘み上げてると、
瑞々しさを失った一枚の花弁が、所在なさげに宙を揺蕩う。
「雪麗封神榜は、既に羽化登仙の時を待っている」
男は立ち上がる。中央の席から。
その席はかつて、王の命の残滓が座った場所だ。33の命を朽ちた体に括りつけ、しかして真に生きることはなかった第一の奪われた者が坐した場所。
けれど今は誰もいない。
主を失った影たちが、誰もいない暗闇の中で一人芝居を続けるだけだ。
「死にゆく世界の走馬灯。あるいは狂える世界機械が映し出す、ナコトの幻燈結界(ファンタズマゴリア)か」
世界を守った神々の樹が、祈りにも似た叫びと共に消えていく。
「だが、人なる者の意志は、決して───」
─────────。
夜天に浮かぶ満月の、煌々たる白い輝きを目の前に。
海岸端に立つ男がいた。今や月光を受け入れるかのように灯りの悉くを消し去った街の残骸を背にして、遠く水平線の彼方を見つめる一人の男。
現界に際し賜った仮の名をアーチャー、真名をローズレッド・ストラウスとする男だ。
柔らかな夜風に揺れる蒼髪と同じくして、凪のように静まり返った海原を前に彼は在った。その背後では未だ聖杯を巡る闘争は続いており、この世の終わりであるかのようなおぞましい轟音が今もなお間断なく響いているというのに、月明かりを映す水面鏡はそんなことなど露とも知らぬままに、ただ波の揺れるがままの静穏さを保つばかりであった。
静と動。
海岸線を境界として対極の様相を呈するまさにその狭間に立って、彼は文字通りの凪であるかのように微動だにせぬまま、言葉なく傍らに立つ者もなく、ただ一人きりで何事かを思っていた。
思索の海に埋没しているのか。それとも無感のままに時を過ごすばかりであるのか。
いいや。いいや、違う。
彼が浮かべるのは祈りだ。
それは、最早顔も名前すら思い出せぬ誰かに捧げる、鎮魂と安寧の祈りだった。
「逝ったか、我がマスター」
無感にも聞こえる淡々とした声と裏腹に、彼が胸の裡に覚えたのは拭い難い虚無感だった。
何かがぽっかりと無くなってしまった、先ほどまであったはずの熱が根こそぎ失せて冷たく無機質な伽藍堂だけが空いてしまったかのような。
一見すれば原因も正体も不明な感覚だ。事実として、彼以外の者が味わっていたならば、きっと何もかもが分からぬままに大した時間も経たぬうちに忘れ去ってしまうであろう。ささやかな違和感。
しかし、彼は。
ローズレッド・ストラウスは、それが何かを知っている。
「マスター。最早顔も名前も思い出せず、その名残すら消え去ってしまった誰かよ。
貴方はきっと、貴方自身の願いの果てに行き着いたのだろう。この胸に去来する喪失感という事実を以て、私は確信と共にそう言うことができる」
マスター。サーヴァントである以上絶対に存在する片割れ。
ストラウスは既に、その者の姿も名前も、何もかもを思い出すことができない。
彼自身がそうしたのだ。間接的にではあるが、今このような状況になるように、彼自身が仕向けた。
何を思ってそうしたのかさえ、今の彼に思い出すことは許されないが、しかし。逆説的に思考することはできる。
「私がこの段階で想念を崩壊させたというならば、きっと貴方は良き主だったのだろう。
生きることを諦めず、確たる願いを以て、されど万仙の支配を抜け出すこと叶わぬ者か。
それはきっと、人として最上の在り方なのだろうな」
人としての意思を絶やさず、輝きを持ち続け。
しかし仙王の夢から逃れることができない程度に"まとも"であったのだろう。
それは只人として誇るべき善性と普遍性だ。けれどそれでは、この先に進んではただ不幸になるばかりであると分かっていたから。
「さらばだ。貴方は貴方の現実の中で、より善き未来を歩むがいい。
夢を叶えるには、まず夢から醒めねばならない。それは万人に共通した通過儀礼であるのだから」
万感込めた思いと共に、ストラウスは何かを噛みしめるかのように呟く。
唯一の気がかりであった主の帰還という事実をもって、今やストラウスには思い残すことなど何もなかった。
彼には、為し遂げるべき事柄がいくつもあった。
世界を救うべき者たちを見つけなければならなかった。だからそれまで、街を破壊させるわけにはいかなかった。
我が主には願いの果てに至ってもらいたかった。だからこそ、そこまでの道のりを整える必要があった。
自分以外の誰も「真実」に辿りつくことがなければ、自分一人で全てを終えるまで死ぬわけにはいかなかった。
けれど、もうその必要はなくなった。
聖剣持つ二人の騎士、御伽噺の勇者は此処に成った。
マスターがこの状況下における最大限の幸福を結末として迎えた事実は、胸に去来する喪失感と共に知った。
夢界を壊し現実へと浮上させる最後の使命すら、盟を結び後を託すに足る英傑と巡り合うことができた。
故にもういいのだ。
かつての時と同じく、この身は十分に報われた。
だから、たった一つ残された役目を果たすとしよう。
「オープンプロセス、Ox29FからC1:28E/1xOFFへ。
EXEC_SEEK_EXTERNAL_SECTOR/.アクセス」
声と共に空間が変質していく。
ここではないどこかへと繋がっていく。
虚空に現れる黒面があった。それは彼の眼前の遥か彼方に鎮座する、漆黒の戦艦の内部に繋がるものだ。
そして、その向こうに佇む男の気配を確かめると、ストラウスは一つ頷く。
「では、答え合わせを始めようか」
発する声はどこまでも穏やかに。
表情一つ変えることなく、ストラウスは黒面へと語りかけるのだった。
▼ ▼ ▼
「まず最初に、この鎌倉市はある種の頸木によって無理やりに縫い付けられた代物だということを明言しておこう」
決然とした口調でストラウスは断じる。
黒面の向こう側の男───トワイスもまた、同意するように頷く気配があった。
「次に前提としてだが、現行世界……"人理"の成り立ちについて君はどの程度知っているかな。トワイス・H・ピースマン」
『僕はそのあたり、魔術も神秘学も専門じゃないから詳しい原理には疎いが、聞いたことはあるよ。曰く世界とは惑星上に貼られたテクスチャのようなものであると』
「然り」
魔術の分野において、世界とは惑星という球体の表面に貼られた薄い薄紙のようなものであると定義される。
現在の人間が住む世界とは、惑星の地表に薄く広がる薄紙で、その下に「地球」という惑星が存在する。
そして薄紙は、現行世界の一枚だけではない。
人間が住む以前の世界、すなわち幻想種たちが闊歩していた神代における"薄紙"。かつて地球表面を包んでいた世界が存在し、現在の物理法則が支配する世界とはその上に重ねられた別の薄紙に過ぎない。
「テクスチャ、敷物、膜、薄紙。表現は何でも良いが、つまりは性質として世界とは重ね合わせが可能な代物なのだ。上に重ねられたテクスチャが現行の世界となり、下に埋没したテクスチャは世界としての在り方を失う。現在の世界を否定し次なる世界を創る方法としては、なるほど確かに安上がりではある」
仮に、世界という薄紙を一枚の絵と表現してみよう。
白紙の画布が基底となる世界であり、絵具は物理法則や物質そのもの。画布の上に描かれる絵は、さしづめ世界に生きる数多の命たちや、それらが織り成す無数の営みと表現できる。
世界を構築する絵具は存在として非常に強固であり、並大抵のことでは塗り替えることができない。数少ない例外、覇道創造や固有結界などの術法ならば自分の"色"を用いて周囲を塗り潰すことができるが、それも極めて限定的なもの。僅かの時間も経たないうちに世界から"二度塗り"されることで元の景色に戻ってしまう。
だが、ここにもう一枚別の画布を用意してみればどうか?
既に描かれた画布を作りかえるのは難事だが、新たな白紙の画布をぴったり重ね貼りしてしまえば、疑似的に世界を創り変えるに等しい結果が生じる。
とはいえ、これにも少なからず問題があり。
「この場合重要なのは、旧世界のテクスチャはあくまで埋没するだけであり消えるわけではないということだ」
張り替えられ新たな絵図が描かれたとして、しかしその下には旧世界の画布が変わらず存在している。
ふとした拍子に上の画布が外れてしまえば、今の世界が崩壊し旧世界に逆戻りしてしまいかねない。
それを防ぐにはどうするべきか。
『だから、世界を繋ぎとめるための"楔"が必要となるわけだね』
「そう。そしてそれは、この都市にも確かに存在していた」
楔、錨、頸木。先の表現に照らし合わせれば、画布を縫いつけるための画鋲のようなものか。
世界を縫い止め、繋ぎ止める世界維持の固定化現象。それは曲がりなりにも安定を示す世界ならば存在して然るべきものだ。
ブリテンは世界の最果てにおいて塔として在る聖槍ロンゴミニアド。
チトールにて幻獣ア・バオ・ア・クゥーの伏す勝利の塔。
人類守護の要として在る古き地の神々の集積体たる神樹。
惑星の中心核へと突き刺さり風の王の力をもって水の王を目覚めさせる大機関時計。
人々の願いを以て天を支える世界塔。
善悪や姿かたち、付属する機能まで様々で、それらに唯一共通するのは生み出される世界の安定化。
そして、この都市においては。
「虚空より来たりて根を張る空想樹『幸福』。それこそがこの都市世界における楔の名だ」
トワイスにも聞き覚えがある名だった。それは、この鎌倉において一つの都市伝説として語られる存在であったがために。
『楔そのものがサーヴァントとして召喚されていたというわけか。だが解せないな、君の話ではアレを討滅したのは聖剣使いのセイバーということだが、事が分かれば君か英雄王でも十分対処できたのではないのかい?』
「無論。だが話はこれに留まらなくてね、アレは空想樹であると同時に第八等として顕象された廃神でもあり、そして人類悪のモデルケースそのものでもある」
鏖殺の人類愛、その体現。
サーヴァントとして矮化されているとはいえ、彼の者は月の中枢で眠る獣の起源であり、またその太源であればこそ。
「私は彼の者たちに対抗できる者を求めていた。その点、《仙王》と極めて近似した性質を持つ『幸福』は有用だった。アレのもたらす幸福程度、跳ね返せないようでは万仙陣に対抗できるはずもない」
つまりはその試金石。そこで倒れるようであればそれまでのこと。耐えられぬ者はむしろ無意識の海へと還り、起源となったオリジナルへ還元されたほうがよほど幸せとさえ言えた。それは例えば、ストラウスとアストルフォのマスターだった何某かのように。
そしてこの場合、重要なのは精神力の強さや絶対値ではない。大事なのは方向性。黄金螺旋階段を昇るに足るかどうかという点にある。
『君の言う通りだ。単に心の強さだけが問われるならば、適格者など他にいくらでも存在する。だからこそ、私が解せないと言ったのはそこだ』
「つまり?」
『その要件を加味したとしても、君や英雄王のほうがよほど適格だろう。少なくとも僕にはそうとしか思えない』
前途ある未だ幼い少女たち。
確かにその輝きは斯くも眩いものであろうが、幼く人として未熟にも程があるという事実にも変わりはない。
英霊として歴史に名を残すに至った数多の英傑たちとは比べるまでもないだろう。まして世に名高き赤薔薇王や英雄王などとは、それこそ比較対象として仮定すること自体が間違っている。
『サーヴァントとマスターという違いさえ、今回に限っては何の意味も持たない。何故ならこの聖杯戦争に招かれた者らは全て、等しく廃神でしかないからだ。
夢想の産物、本物ならざる贋作、朝が来れば消え去る一夜の夢に過ぎない。ならば彼女たちと君の間に何の違いがあるというのか』
「なるほど。当然の疑問ではあるが」
トワイスの言葉は尤もで、けれど根底のところで勘違いをしている。
違いならばある。例えこの世が胡蝶の夢に過ぎずとも、我らを構成する自我が仮初のものに過ぎずとも。
何時の世にも等しく存在する輝きは、今もこの都市に在る。
「簡単なことだ。それでも我らは我らであり、故に独立した意思とパーソナルを持つのだとすれば。
私は死者であり物語の終局に行き着いた者であり、だが彼女たちは未だ物語の途上にある。
分かるか、この違いが」
端的に言うなら「生きる意思」。神々の白色さえ凌駕する黄金の力。
どれだけ未熟で、心さえ不確かな弱き者であろうとも。
未来を形作るのは、いつだとて今を生きる者たちだ。
それはかつて、ストラウスを討った末代の黒き白鳥の少女であるように。
それはいずれ、トワイスの妄執さえ断ち切る若きマスターであるように。
願いの果てに至る者とはそうした輝きを持つ者たちだ。そも、過去の亡霊が今更になって何かを願うということ自体が矛盾しているに等しい。
「勝利の塔の伝説において、影の怪物ア・バオ・ア・クゥーは螺旋階段を昇る人間の踵を捉え、その影に付き添って共に昇っていくという。
透明であったその姿は一段昇るごとに色と輝きを増し、最上段に至った時ア・バオ・ア・クゥーは完全な姿を顕す。
しかし勝利の塔を昇りきった人間は涅槃に達することができるとされ、そうなればその者は如何なる影も落とすことはない。最上段に至ること叶わないア・バオ・ア・クゥーは苦痛に苛まれ色も輝きも衰えて、階段の最下層まで一気に突き落とされてしまう。
同じことだ。私達も所詮は人類史に落とされた影の一つに過ぎない。霊格を上げれば輝きもしようが、仮初のものでしかない」
影ではない人こそが鍵となる。だがこの都市に残ったマスターは僅か七人。うちの一人は既に精神を侵食され、トワイスは死してなお抱いた妄執に憑りつかれ、赤騎士と契約した少年は願いと手段を致命的なまでに見誤ってしまった。
彼らに黄金螺旋階段を昇る資格など、あるはずもない。
「その意味で言うなら、君のサーヴァントも条件に合致してしまうのだけどね。
ライダー甘粕正彦、第一盧生にして裁きの神格召喚者。彼はその特異な参戦事由によって迷い込んだ、この都市において唯一の廃神ならざる者故に」
歴史の間隙を利用した意識のみの時間跳躍。盧生としての権能により疑似的なサーヴァントとなった彼は、過去の時代とはいえ今も存命している。
本来的にはマスターでもサーヴァントでもない特異な存在。それがライダーとしてのクラスを得た甘粕正彦の真実なれば。
『種を明かしてみればとんだお笑い草だったというわけだ。裁定者のマスターはとても笑えたものじゃないだろうが』
「あるいはそれさえ、とうの裁定者が用意した隙の一つなのかもしれないがね」
どちらにせよ、彼の者のマスターにとっては堪ったものではなかろうが。
ストラウスは話に一区切りついたと言わんばかりに、改めて遠洋の戦艦を睥睨する。その気配は未だ剣呑で、見れば鼻先に砲を突きつけられているかのような重圧があった。
『さて、結局こちらに来るのは君ということでいいのかな』
「そうだな。この都市に残った大敵は最早甘粕正彦と黒円卓の白騎士のみとなったわけだが。私と白騎士では相性が悪い。何とかアレのマスターを排除する方向に誘導して弱体化を図ったが、できたのはそこまでだ。
対して甘粕と英雄王だが、こちらも酷く相性が悪い。いや、むしろ良すぎるのかな? 能力ではなく性格の部分で、彼らは同じ方向を見定めている。人類の審判者とはよく言ったものだ。正直、直接会わせてしまえばどうなるか、私にも予測がつかない」
つまりその時点で、ストラウスが相対すべき者は決まりきっていた。
次瞬、黒衣のストラウスは蝙蝠が如き二対の巨大な翼をはためかせ、大きな羽ばたき一つと共に満天下の星空にその身を躍らせていた。
漆黒の夜空をただ真っ直ぐに飛翔していく。風を切る音が耳に届く。冷たい夜気が肌に心地よい。
それは彼にとって、死出の旅路にも等しい一幕であった。
けれど彼にとって、最早未練など何一つとしてなかった。
ものの一分とかからずに目標地点までの飛行を終えたストラウスは、眼下に聳える威容を見下ろす。
視界のほとんどを占めるほどに巨大な戦艦、伊吹。そしてその艦首に仁王立つ男の姿が一つ。
遠く大正時代の憲兵服を身に纏い、腰に差すは軍式のサーベルが一つ。その顔は不遜なまでの覇気に満ち溢れ、ただそこに在るだけで全てを焼き払ってしまうのではと錯覚するほどの気配を湛える偉丈夫。
「ようこそ。歓迎するぞ、異邦の英霊よ」
その口許は、凄絶なまでの笑みに彩られて。
慇懃無礼に、されど最大級の歓待の念を以て、甘粕正彦はローズレッド・ストラウスという客人を迎え入れたのだった。
【E-2/相良湾沖/1日目・禍時】
【アーチャー(ローズレッド・ストラウス)@ヴァンパイア十字界】
[状態] マスター喪失、単独行動。
[装備] 魔力で造られた黒剣
[道具] なし
[所持金] 纏まった金額を所持
[思考・状況]
基本行動方針:終わらせる。
1:最善の道を歩む。
【トワイス・H・ピースマン@Fate/EXTRA】
[令呪] 三画
[状態] 健康
[装備] なし
[道具] なし
[所持金] 不要
[思考・状況]
基本行動方針:この聖杯戦争を───
1:ならば私がすべきことは……
【ライダー(甘粕正彦)@相州戦神館學園 八命陣】
[状態] 魔力消費(大)
[装備] 軍刀
[道具] 『戦艦伊吹』
[所持金] 不要
[思考・状況]
基本行動方針:魔王として君臨する
1:よっしゃ久々の来客ゥゥゥウウウウウウウウ!!!!
[備考]
こいつ何も分かってません。
投下を終了します
アイ、蓮、すばる、友奈を予約します
投下します
一切は移り行き、とどまるところなし
死者を埋葬した者も、やがては埋葬される。
▼ ▼ ▼
すばると友奈がアイを見つけたのは、半ば偶然の産物だった。
真っ赤な光に照らされて燃える街並み、対照的に穏やかな星の光を湛える漆黒の夜空。頬を切る風の生暖かさに、否応なく肌に突き刺さる戦場の剣呑な気配。
それら異常の悉くが広がる視界の中にあって、尚も特級の異常を誇るのは、並び立つ二柱の巨大異形の姿であった。
おぞましき異形、魔の如く。
巨いなりし威容、神の如く。
それはあまりにも圧倒的で、彼らが有する質量と見比べれば自分達は文字通りに地を這う虫でしかあり得なかった。
見上げなければ頭頂を視界に収めることすらできない魁偉を前にして、果たして自分達に何ができるのだろうかと───そう思ってしまう心も否めなかったのだが。
「っ! マスター、あれ!」
赤く染まる薄闇の街を大きく跳躍し、夜空にその姿を浮かばせていた友奈が、足取りも荒く急停止して彼方を指差す。
同じくドライブシャフトの飛行に待ったをかけたすばるは、その指の向こう、遥か遠くで相争っていた二柱の巨神が諸共に消滅する光景を目撃した。
それは直前まで行われていた極大規模の戦闘とは裏腹の、あまりにも呆気ない幕切れ。
音もなく、振動もなく、最初からそこには何もなかったのだと錯覚してしまうほどに静かな、文字通りの消滅。
「もしかして……戦い、終わったの?」
と、そう言うすばるの気持ちは友奈にもよく分かった。
あまりにも暴力的かつ圧倒的な戦闘の気配は、当事者ですらない遠く離れた自分達ですら、直視するのに心魂を突き刺されるに等しい痛苦を伴った。どれだけの覚悟を決めようとも、あれを前にして一切の怯えを持たず戦場に飛びこめるのは文字通りの英雄だけであろう。
一応は座に登録された英霊であるところの友奈でさえ、震えとなって訪れる恐怖や畏怖の感情を拭いきれなかったのだ。如何に修羅場を潜り抜けたとてすばるは未だ幼い子供でしかない。脅威の消失を前に楽観を抱くのも無理はなく、友奈とて徒に不安を煽るようなことは言いたくないのだが。
「ううん。多分だけど、それは違うと思う。魔力がまだ渦みたいに立ち昇ってるし……嫌な予感も、全然無くなってない」
ここに他のサーヴァントや、あるいは魔術師がいたならば、二柱の巨神が消失したその場から竜巻めいて渦を巻く膨大な魔力嵐を視認することができただろう。
可視化されるほどの濃密な魔力は最早瘴気と言っても過言ではなく、あれに触れたならば魔術的な加護を持たない常人では意識を保つことすらできはしまい。
つまり、何も終わってなどいない。彼処には未だ狂気の源泉たる何者かが潜んでおり、ふとしたきっかけで再び常識を外れた域の闘争が行われても不思議ではないのだ。
「……急ごう。さっきより大分危険は少ないと思うけど、嵐の前の静けさみたいに思えて仕方ないんだ」
「うん、あそこにアイちゃんやキーアちゃんがいるなら、放っておけない!」
暴性がすっかり鳴りを潜めた静穏さは逆に禍々しく、重苦しく口を開けた虎穴にも等しい。
しかし果敢に入り込まねば、虎児を得られないのもまた事実。
仮にあれが動き出すようなことがあるなら、尚更立ち止まってはいられない。
そう意を決して渦中へ飛び込もうとした、その瞬間であった。
「お〜〜〜〜〜〜〜い! すばるさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!」
と、何とも間延びした大声が、すばるたちの耳に飛び込んできた。
声のほうに振り向けば、そこにはブンブンと大きく手を振りながら、満面の笑みで走り寄ってくるアイの姿があった。
◆
「取り除くべき楔は二つある」
「一つは幸福の空想樹。もう一つはある種の起源となった学び舎、そこに眠る"核"と思しきもの」
「……これは君にしかできないことだ」
「アイ・アスティン。聖杯戦争のマスターではなく、"墓守"としての君にこそ頼みたい」
「どうかその者を、丁重に埋葬してやってほしい」
◆
「ああ、無事で本当に良かったです! あのでっかいのが暴れてるところにお二人ともいなかったので、どこか違う場所に逃げてたんだろうなって思ってたんですけど、でも万が一がって思うと心配で心配で……!」
とまあこんな感じで、地面に降りたすばるの手を取ってぶんぶん振り回しマシンガンの如く言葉を放ってくるアイを何とか宥めすかし、ひとまず腰を落ち着けることができたのは邂逅から数分経ってのことであった。
話を聞くにアイには行かなきゃいけない場所があって、そこに移動している時にすばるたちとばったり再会したらしい。「まず最初に言っておきますと、キーアさんは無事です」と言って目的地に向けて歩みを進めるアイに並びながら、すばるたちは話を続けていた。
「なるほど、そんなことがあったんですね」
すばると友奈、そして蘇ったアーチャー・東郷美森と来襲した天夜叉のライダーに関する一連の出来事。
それを最後まで聞き届けたアイは真剣に、何か感慨深いように頷いた。
「それでランサーさん……今はブレイバーさんですか、ともかくブレイバーさんはその姿になったわけですね」
「うん。アーチャー……東郷さんが一生懸命頑張ってくれて、必死に私達を助けようとしてくれて、そのおかげで今の私があるんだ。
そしてマスターも」
「もう一度みなとくんと会うことができた。守られるだけじゃない、自分でも何かができるように、もう一度手を伸ばすことができた。
全部全部、アーチャーさんとブレイバーのおかげだよ」
結果として希望を掴むことができた二人は、けれど安穏とした道を歩んだわけでは決してない。
共に大切な誰かを失い、共にその者の手を一度は掴むことができず、それでも尚諦めることなく立ち上がり続けた。
「お二人とも、とても頑張ったのですね」
アイもそのことが良く分かったから、ただそれだけを二人に返した。
すばると友奈は、どこか照れくさそうに目を細めた。
「ところで、アイちゃんはどうしてここに? キーアちゃんは無事って言ってたけど、セイバーさんたちはどうしたの?」
「はい、そのことなんですが」
そう疑問符を打つすばるに、今度はアイが話し始める。
突如として発生した白い異形の群れ、はぐれたすばるを追うために駆ける騎士のセイバー。アイとキーアも自分のサーヴァントからはぐれてしまって、アイは騎士のセイバーと共に中心市街地まで突き進み、キーアは青年のセイバーに守られる形でその場に留まった。
「でも街のほうには物凄く危険なサーヴァントがいて、騎士さんはその人を止めに行きました。私はすばるさんを探そうとしたんですけど……」
「あの、大きなのが出てきた?」
「はい、その通りです。危うく踏みつぶされるところでした」
暴れられちゃ困るから戦うのをやめろー、と言ったところで聞くわけもなくあわやペシャンコになる寸前、アイは真っ黒なサーヴァントに間一髪助け出されたらしい。
それでその人が言うにはアイたちのことは以前から知っていて、だからこそアイにしかできないことをやってもらいたくて助けたとのことで、今まさにその頼まれごとを果たすためにアイは走っていたのだという。
「……それ、すごく怪しくない?」
「まあ、あからさまに胡散臭いですね。けど結局すばるさんたちを探すため方々を駆けずり回らなきゃいけないことに変わりはありませんでしたし、結果的にこうして合流できたので無問題です」
そういう問題なのかなぁ、とすばる。アイの話に出てくる真っ黒サーヴァントとやら、怪しくないところが何一つとして存在しない。怪しいと知って尚もホイホイ頼まれてしまうアイもアイだが、怪しさを隠そうともしない真っ黒も真っ黒だ。いや、アイのこういう性格を知っていたからこそ、むしろ何も隠し立てしなかったのかもしれないけど。
「というわけで、キーアさんにはセイバーさんが付いていますし、私はこうして五体満足なわけです。そこでブレイバーさんにお願いがあるのですが」
「私に?」
「はい。騎士さんに加勢してほしいんです」
それを聞いた瞬間、友奈ではなくすばるのほうが何やら難しい顔になった。
アイの目指している場所と、戦場となる市街地は正反対に位置している。つまりこの場合、どちらか一方は一旦置いていかなければならないのだが。
「ねえアイちゃん」
「? はい、なんでしょうすばるさん」
「それって当然、アイちゃんもわたしたちと一緒に来るんだよね?」
すばるの問いに、アイは当然のような顔をして。
「いいえ。私はここに残ります」
そんなことを言ってのけた。
「……え?」
「まだやることがありますからね。状況も切迫していますし、あまり時間を無駄にはしたくありません」
唖然とする友奈に、気付いていないのか気にしていないのか淡々とアイは続ける。隣のすばるは、無言。
「そ、そういう問題じゃないよ! セイバーさんたちもいないんだし、みんな一緒にいないと!」
「身の安全なら大丈夫です。私には令呪がありますし、いざとなったらセイバーさんを呼ぶこともできます。それよりも騎士さんのほうがずっと危ないので、早く助けに行ってあげてください」
「論点がズレてるよ! アイちゃんも一緒に来てくれたら全部解決するのに、なんで……」
「ブレイバー」
ぴしゃりと、すばるが声を放ち、あわや口論になりかけた二人は共に押し黙った。
「もういいよ。ブレイバーはセイバーのところに行って」
「でも、マスター」
「大丈夫」
そしてすばるは、一言。
「アイちゃんには、わたしが一緒についていくから」
それは、決然とした声だった。
「マスター、それは……」
「駄目です! 何を言ってるんですかすばるさん! サーヴァントから離れて行動なんて馬鹿げてますよ!」
「アイちゃんがそれ言ったらおしまいだよ」
あはは、と力なく笑う。先ほどとは対照的に、感情的に声を荒げるアイと落ち着いた友奈。
「ブレイバーなら分かるよね? わたしならある程度戦えるし、なるべく危ない真似もしないから」
「すばるさん!」
「アイちゃんは黙ってて」
有無を言わせぬ口調。普段の気弱なすばるとは思えない。
「アイちゃんにはわたしが付いていく。それが嫌ならアイちゃんがわたしたちと一緒に来て。どっちかしか認めない」
「でも、それは」
「これ以上我儘は言わないで」
うぅ、とたまらず口ごもる。そして数秒の間「あー……」だの「うぅん……」だの散々唸った挙句、やがてアイは観念したように呟いた。
「分かりました。すばるさんは私と一緒に来てください」
そういうことになった。
▼ ▼ ▼
危なくなったら必ず令呪を使うように。
そう何度も厳命してから、ようやく街のほうに飛び去っていった友奈を見送って、アイとすばるは二人並んで瓦礫まみれの道を歩いていた。
少しだけアイが先に立って、二人は山間に向かう細々とした道を、黙々と歩く。
すばるは、アイから改めて詳しい説明を受けていた。
巨大なサーヴァント同士の対決に巻き込まれたアイを救け、その代わりに頼みごとをした黒衣のサーヴァント。
彼はアーチャーのクラスだったという。自分が知る限り、弓兵のクラスはこれで三騎目だ。他ならぬすばる自身のサーヴァントだった東郷美森、騎士のセイバーが出会ったという炎使いの砲兵。
彼は確かに「アイにしかできないことだ」と言ったらしい。だからこそアイはここまで強情になったのか。アイの性格を知った上でなら、確かに上手い一言だと思う。
そして同時にこうも思う。そのアーチャーは、何故そんなことを知っていたのだろう。
アイの性格も、性質も、そして彼女にしかできないという何某かも。こうして考えていても不思議になるくらいに色んなことを知られている。
千里眼。以前美森が教えてくれたことを思い出す。遠くの景色を見るのみならず、高ランクのものともなれば未来や心さえも見通すという規格外スキル。そういうものがあれば、もしかすればこのことにも説明がつくのかもしれない。
それともあるいは、アイのことを逐一知覚していたならば。
騎士のセイバーが言っていた、八幡宮で加勢した謎の攻撃は、もしかするとそのアーチャーのものだったのかもしれない。
そうだとすれば、真っ黒さんは自分たちの味方なのかもしれないが、それでもアイを一人で行動させるのは流石に酷いと思うのだ。
運よくこうして合流することができたけど、でも結果を見ればサーヴァントなしの二人っきりでいるわけだし……いや、それはわたしも悪いんだけど。それはそれとして。
今のわたしには戦えるだけの力がある。みなとくん……いや、かつてみなとくんだったもの。鋼の影。比類なき《奇械》アルデバラン。
彼がわたしの影から現れた時、頭の中に浮かんだ名前がそれだった。名前すら知らないはずの彼。それでもわたしは万感の思いと共に右手を伸ばして。
魔力総量だけを言うならサーヴァントにだって負けはしない。実際にあの口が悪いライダーと戦った時も、相手からはまるで脅威を感じなかったくらい。それくらいに背後の【彼】は強大だ。
ずっと無言で話してくれないけれど。油断大敵で調子に乗っちゃダメだって分かってるけれど。
でも、わたしとアイの二人くらいなら守れるだろうと、そう思う。
……今だって心細いことに変わりはないのだけど。
そう、心細い。どうしたってわたしは何も知らない子供のままで、戦ったり殺し合ったりなんて怖くてたまらない。
ちらりと横を見る。隣を歩くアイは毅然としていて、まるで自分の踏んでる地面に絶対の自信を持っているかのよう。
そういうところを、ほんのちょっとだけ羨ましいと思う。何が待ち受けているかも分からない先を見据えて、なのにその目はまるで怯えを知らない。
強い子。不思議な子。そして少しだけ危うい子。何者にもなれないわたしでは、どうあってもなれっこないと思わせる。そんな子。アイ。
目を離すとすぐどこかへ行ってしまいそうで、だからこうして手を繋いでいないと安心できない。彼女のそういうところが、美点であり欠点なのだと思う。
今だって見ず知らずの人から頼まれたというだけで危険な場所に飛び込もうとして、たった一人で立ち向かおうとして。
結局のところを言えば。
すばるが今、一番気になっているのは、自分達が向かう先に在るのは一体何であるのかということ。
真っ黒のアーチャーは、アイに何をさせたがっているのか。
と、そんな益体のない思考を続けているうちに、二人は目的の場所までたどり着いていた。
「アイちゃん、本当にここなんだよね?」
「はい。あの人はそう言っていました」
不安を滲ませるすばるに、アイは決然と答えて。
「旧戦真館學園校舎。そこに眠る死者を埋葬してほしいと、彼はそう言っていました」
朽ち果てた木造、そして樹木が混在する夜の校舎。昼間見た時とはまるで雰囲気が変わってしまった風景。
数時間前までもう一人の少女と共に過ごしたその場所に、アイとすばるはたった二人で帰ってきたのだった。
◆
廃校舎───戦真館學園の敷地は広い。
昼間の時は校舎の一部にしか立ち入らなかったから実感はなかったろうが、有数の敷地面積は伊達ではない。
戦真館學園。現在では千信館学園と改名されているこの学校は、鎌倉では名門として知られる私学校だ。
百年以上前の創立当初においては軍学校として数多の若者を招き入れ、故に当然そうした目的の設備も多数現存している。
と、そんな事実などアイとすばるが知るわけもなく。
「静か……」
ぽつりと、すばるが漏らした呟きが風に乗って夜の空へと消えていった。
学校は静かだ。
年季の入った木造と煉瓦の建造物、そして鬱蒼とした樹木が生い茂る夜の学校。その風景は月に照らされ、廃墟そのものの静謐さで広がっている。
探し物の"何者か"の姿は見えない。それどころか動くものすら、自分たち以外には何一つとして見えない。
そこはただ、別世界のように横たわる静かな静かな領域だ。
どこまで見渡しても、その青白い闇は広がっている。
月明かりの、青い闇は広がっている。
「お待たせしました、すばるさん」
声のほうへすばるは振り向く。
肩口にショベルを掛けたアイが、たった今来たようにちょこんと立っていた。
「もう終わったの?」
その言葉には二つの疑問があった。あまりにも拍子抜けであるということと、物理的にこの短時間で終わらせることが可能なのかということ。
「はい。私は墓守なので、つつがなく」
そう言って笑うアイの声には、嘘の一切含まれない無機質さが湛えてあった。
戦真館學園の校門をくぐって十数分、たったそれだけの間にアイは所用を済ませてしまっていた。
墓守としての所用。死者の埋葬。
元からあった女性のミイラと、昼ごろ自分たちを襲ったマスターの女の子の成れの果て。都合二体の死体をアイは丁寧に埋葬し、即席の墓標を立てて彼女たちの終の棲家とした。
「お二人とも、お名前が分からないのが心残りですが」
そう言って、どこからか摘んできた花を手向けるアイの言葉は、幼い容姿にそぐわない神妙なものだった。
「こちらの方はともかく、もう一方はユキさんのお知り合いだったのでしょう。よく似た服を召していましたから」
「同じ学校の友達だったのかな……由紀ちゃん、思い詰めてないといいんだけど」
由紀の友達。彼女と同じく聖杯戦争のマスターだった名も知らぬ少女。
せめて人相だけでも、というすばるの言葉に、アイはただ黙って首を振るのみで。たったそれだけで、少女がどのような末路を迎えてしまったのかをすばるは察した。
だからこそ、どうしても考えてしまうのだ。もしかすると由紀までもが、"同じように"なっているのではないのか、と。
「私も、そうはなっていないことを祈るばかりです」
深く憂いたような面持ちで、アイが答える。
「心の傷ならば問題ありません。どれほど傷ついたとしても、いずれ人は立っていけます。その時まで、私が傍に寄り添ってあげられます。
けれど死はどうすることもできません。例え一度目の死を否定し起き上がっても、私にできるのは墓守として埋葬することだけです」
人は生に寄り添うことができるが、墓守は死に寄り添うことしかできない。
だからこそ死は尊く、重い。それは本来的な意味で永遠に死を失ってしまったアイの世界でも変わることはない。
「生きてもう一度会えたなら、その時はきっと最後までユキさんを救けると約束しましょう。
ですからどうか、あなたたちは安らかに……」
そうして手を組み祈られて、ようやく埋葬は完了した。
無言の夜は一層静かに思えて、劈くような耳鳴りが聞こえてくるようだった。
◆
「本当に、これだけでいいのかな」
埋葬が終わってから幾ばくか。
太目の木の枝でこしらえた簡素な十字架。地面に突き刺さる二つの墓標を見下ろして、そう呟くのはすばるだった。
「拍子抜けでしたか?」
「うーん、そう言うと不謹慎だってことは分かるんだけど……」
でも、確かにアイの言う通りだった。
いかにも意味ありげにわざわざここまで戻ってきて、やったことと言えば一マスターの弔いだけ。その行為自体は立派なものかもしれないけど、でも状況を鑑みれば明らかに時と場にそぐわない。少なくとも、わざわざ他陣営のマスターに頼んでまでやるようなことではないだろう。
「そうですね。真っ黒なアーチャーさんは、これを"核となる楔の除去"と言っていました」
「楔って、八幡宮の時みたいな?」
「ユリカさんの言ってることが本当なら、ですが」
それと、百合香とアーチャーの指し示す事象が同一のものであれば、の話だが。
でも、だとすれば尚更おかしい。こう言ってはなんだが、たかが一マスターの死体がそんな大それたものとは思えない。
つまり、これは。
「他にもっと別の"何か"があるということでしょう」
それ以外に考えられない。話の筋が通らないのだ。
だからこの場所には、まだ別の何かがあるのだと───それは稚児であっても理解できる簡単な道理。
分かりきったことであり誰もが共有する当然の考え。故にそれは全員の合意として成立した。
認めた、故に"そう"なる。何もかもが不確かな夢の中にあって、それは如何なる道理よりも優先される唯一の真実であるから。
強制協力、条件達成。
だがそれは一体誰のものだ?
アイとすばるの二人によるものか───いいや違う。
もうひとり存在するのだ。二人の少女に合意して、"いいぞよくやった"と笑う者がただ一人。
何故ならそれは、『幸福』の理に支配された八幡宮と同じくして。ただ一人の少年の遺志眠る領域で行われたが故に。
そして。
「え───うあっ!?」
「これは、すばるさん!」
突如として、二人を襲うものがあった。
地面が揺れる。世界が揺れる。断続的な衝撃に軋む木々の悲鳴が耳に煩く、宙に舞いあげられる木の葉が視界の端に映った。
それは少女らの小さな体ごとを揺さぶり跳ね上げるほどの力を以て。
朽ちかけた校舎ごと"ぐらぐら"と。二人には直感するものがあった。
地震。それもあまりに巨大な、今まで経験したことがないくらいの。
アイとすばるはとても立ってはいられなくて、思わず膝をついて何とか耐え凌ごうとするけれど。
それすらも許さないと言うかのように、突如、地面に亀裂が奔って。
あっ、と思った時には、全てが遅かった。
アイを支える地面が無くなり、その小さな体が宙に浮いた。
咄嗟に伸ばした手は、何を掴むこともできずに。
「アイちゃん───!」
必死の形相で手を伸ばすすばるの叫びが、段々と遠くなっていった。
落ちていく。アイの身体が落ちていく。
どこか現実味のない空虚な思考で、アイはすばるを見つめていた。
(……あれ?)
その刹那。走馬灯のように引き伸ばされた視界の中、アイはそれを見た。
誰かが立っていた。
すばるではない、そのすぐ後ろ隣りの位置に、誰かが。
月明かりに煙る誰かの人影。
そこにいるはずのない誰か。
もちろんそんなものは幻で、アイの勘違いに過ぎないと分かりきっているけど。
けれど、確かにアイは見たのだ。
未だ年若い、赤い髪をした少年の姿を。
▼ ▼ ▼
手を伸ばせば掴める未来が、目の前に───
◆
諦めずに手を伸ばせば、そこには青空が広がる。
一人では何もできなくても、手を伸ばせば掴んでくれる誰かがいる。
そうして手と手を取り合って、みんなと共に一つの道を往けたならばきっと何も怖くない。
そう、結城友奈は信じていた。
けれど。
「───え?」
宙を駆けていたはずの私の身体は、突如として強い衝撃に打ち据えられ、墜落した。
───信じていても、それで救われるとは限らない。
何が起こったのか理解できなかった。
目の前に、黒い影の誰かがいた。
青みがかった髪に、鍛え上げられた痩身。
白いマフラーを翻し、その目は隠し切れない敵意と疑念に満ち満ちて。
「あ……」
呆然とした友奈の呟きに応えるように、彼は無言で友奈の関節を捩じり上げた。
墜落。衝撃。そして、痛み。うつ伏せに倒れ伏した友奈を拘束する男がひとり。
動けない。手足も首も腰も肩も、主要な関節駆動域は全て完璧に極められている。ほんの少し動かそうと力を入れるだけで尋常でない痛みが全身を駆け抜け、身じろぎひとつ取ることすらできない。
圧倒的なまでの技量の差だった。単純な筋力値では友奈が勝っているはずなのに、それさえ拘束に利用されている。抜け出そうと足掻くけれど、その全てが無為に帰すばかり。
「おい」
言うと同時、友奈の関節にかかる負荷が増した。痛みに堪えきれず、苦悶の声を上げる。
「すばるはどうした」
その声には聞き覚えがあった。そして、その質問内容にも合点が行った。
そうだ、この人は。
「セイ、バー……?」
「答えろ」
ぎり、と軋む嫌な音。痛みと呻きが更に大きくなる。
「お前の霊基はこの際どうでもいい。だが何故単独行動を取っている。すばるは今どこにいる?」
「なに、を……」
「答えろ。なんでお前だけがここにいる」
セイバー。アイ・アスティンのサーヴァント。本当なら手と手を取り合って協力できていたはずの彼。
彼の声には隠し切れない疑念が滲んでいて、どう考えても友好的などではない剣呑な気配が背後に湛えられている。
「最初に言っておくが、俺はお前を一切信用していない。
一度マスターを裏切ったサーヴァントが二度目を躊躇うか? 私利私欲に溺れて行動しないと誰が証明できる?
何よりお前は理由なき大量殺戮者だ。少しでも妙な真似をしたらその瞬間に殺す。だからさっさと俺の質問に答えろ」
有無を言わさぬ口調。冗談では済まないと分かりきっている敵意の嵐。
最初から吐くつもりはないが、嘘を吐いた時点で友奈は文字通りに殺されてしまうだろう。
痛みと苦しみに満ちる喉を、友奈はようやく動かす。
「マス、ターは……廃校に……」
「なんでそんなところに置いてきた」
でまかせじゃないだろうな、と暗に言ってくる。軋む腕が悲鳴を上げる。
「ア、アイちゃんが……いて、マスターと一緒に……信じて、私は嘘なんか……!」
「へえ」
元から低いセイバーの声音が、一気に冷たいものに変化した。
ぐい、と体重をかけられた肺から、苦悶の息が漏れだした。圧迫感から来る苦痛が友奈を苛む。
「答えになってないな。それが事実だとして、お前はサーヴァントのいないマスターを二人も放置してきたってのか。
のうのうと、お前一人だけ。逃げ出してきたか見捨てたか、どっちにしろどのツラ下げてここまで来た」
「違う!」
友奈は叫んだ。苦痛や恐怖からではない、それは本心のままに。
「私、は……託された! 助けてって、キーアちゃんとセイバーを、助けに行って欲しいって! 私にしかできないことだから!
だから私は……!」
「だから答えになってねえっての」
言って離されたセイバーの右手に、収束する魔力があった。
それは剣だ。蒼白の騎士剣の刃が、そっと友奈の首に添えられる。伝わってくる鋼の冷たさが、それを持つ彼の心を表しているかのようだった。
「つまりお前はこう言うのか?
現状最大戦力のお前が碌に戦えない子供二人を放置して呑気に道草食ってました、自分のやらかしたことを棚に上げて誰も証人を連れ立つことなくみんなに信用してもらうつもりでしたと?
意味分かんねえよ、何考えてんだ。そこらのガキでも少しはマシな言い訳を作れるだろ」
言い訳ではない、本当のことなのだ。心はそう叫びたがっているけれど。
でも駄目だ。言い分に筋が通っていないしそれを説明するだけの時間も余裕もない。それを受け入れて貰えるだけの前提としての信用すら友奈には存在しない。悠長に喋りつづければ彼はそれを時間稼ぎだと解釈するだろう。
そもそも彼や騎士のセイバーが友奈の存在を許容していたのは、ロストマンとなった彼女が戦力と思考能力を欠いていたからということが大きい。
サーヴァントを失ったすばるが消えてしまわないようにするための楔、それがロストマンだった友奈に求められていた存在理由だ。だがそれは必ずしも友奈である必要はなく、むしろ自意識を───屍食鬼を街中にばら撒いて無数の死をもたらし続けたランサー・結城友奈としての意識を───取り戻してしまったならば、もう生かしておく理由はどこにもない。また災厄を振りまくかも分からない爆弾を保持し続けるなど、普通ならば考えられるはずもない。
「証拠を出せとは言わない。どうせお前が持ってるはずがない。
だからせめて理屈を示せ。俺がお前を信じるに足る理屈を」
彼の対応が間違ったものではないということは、他ならぬ友奈自身が一番分かっていた。
何故なら友奈は大罪人だから。何度も死なせて何度も裏切り、目の前の彼をも裏切り騙して傷つけた。
そんな自分が、今さら信用されるわけもなく。出会いがしらに殺されなかっただけマシな境遇だと分かっているけれど。
「アイちゃんに託された。黒いアーチャーに廃校の探索を頼まれて、マスターはアイちゃんを守るために残った。私だけが、ここまで来た」
それでも。
それでも、私はもう一度手を伸ばすと決めたのだから。
「お願い、信じて……」
必死の思いを込めて、どうか私の気持ちが伝わってほしいと願うけれど。
「お前の戯言なんざ誰が信じるか」
返ってきたのは、鋭い斬光ひとつだけ。
手を伸ばせば掴める未来が、目の前にあるさと嘘を吐いた。
これはきっと、その罪の履行。
自業自得の、どう足掻いても言い訳することなんかできない、結城友奈の罰のカタチ。
投下を終了します。後編はそのうち投げます
後編を投下します
後編を投下します
「だって、夢って根っこじゃないですか」
それは記憶。
私の記憶。かつての記憶。
私と彼の間に交わされた、他愛もない会話。
隣を歩く彼の顔は陽射しの下で黒い影になっていて、見上げる私の視点からはよく見えなかったけれど。
多分、その時は怪訝な表情をしていたのだと、そう思う。
「根っこ?」
「行動や判断って『こうなりたい』っていう夢があって初めて行われるものじゃないですか。夢があるから努力して、夢があるから前に進む。
突き詰めると、パンを食べるのだって夢のためですよね?」
「前から思っちゃいたけど、お前ほんっとに極端だな」
はぁ、と生返事を一つ。
「じゃあお前、パンだの菓子だの、まあともかくそういう食事の度にそんなこと考えてたのか?」
「はい、そうですが何か?」
こっわ、怖えよお前きっしょという有難い返事をもらった。
とりあえず蹴っておいた。
「……言われてみれば、確かにそうですね。このパンを食べるのは夢のため、私が息を吸えるのは夢があるから。だから私は生きている。そう考えてます」
「やたら息苦しい考えだな。その理屈でいくと、お前は夢破れたら食事も満足に取れないじゃねえか」
「なんというか、セイバーさんには言われたくないって思うのは間違ってないと思うんですが、どうでしょうか」
「いや、俺でも流石にそこまで人間やめた完璧主義はしてねーよ」
そこまで言われると、流石にむっとしてしまう。
自分の考えを曲げない頑固者なのはお互い様だと思うのだ。
「世の中算数じゃないんだ。百回やって百回同じ答えになるわけねえし、そんなことで完璧求めるなんざアホらしいだろ。
崇高な信念とやらも、一歩間違えりゃただの意固地でしかないんだからさ」
なんというか、とても実感のこもった言葉だ。
でも、セイバーさんの言葉には一つ、重大な欠点がある。
「でも私の夢は完璧じゃなきゃいけないんです。失敗で救えない人がいる前提で他の人を救うだなんて、嘘じゃないですか」
「夢が完璧じゃないから断食して死にますってか? 本末転倒って言葉知ってるかお前」
……それは、まあ、確かに。
私が倒れては助けられるはずだった人も助けられないのだから、それは間違っていない。まあ倒れそうになっても倒れなきゃいいだけの話ではあるけど。
けれど、それでも解せないものがあるとすれば。
「貴方はどうなんですか、セイバーさん。貴方の逸話は"完璧"でなければ至れないものです。それでは話の辻褄が合わないじゃないですか」
私の夢を単なる頑固者の我儘と言うなら。
死者の生を認めず、その渇望を永遠不変の理にまで変えた貴方は、それをどう考えているのかと。
貴方がそれを否定するのは、矛盾や二重規範なのではないのかと。
「そんなの決まってる。こんなものは完璧でも何でもないってだけだ」
嘆願にも近い響きで尋ねられたアイの言葉は。
他ならぬ彼によって、何とも呆気なく否定された。
「さっきも言ったろ。この世に絶対の解答なんかない。百回やれば百回違う答えが出るし、俺はそのへん臨機応変がモットーだからな」
あー、と彼は困ったようにガシガシと頭を掻きながら。
「要するに、美味い飯なら何度だって食えばいいし不味い飯なら二度と食わねえってこと」
一度や二度殺人メニューに当たったからって、食事そのものをやめるようなネガティブさは持ち合わせちゃいない、と。
そう言う彼は、苦笑するかのような響きで。
「そこらへんアバウトにしとかないと、そのうち人生詰むぞお前」
▼ ▼ ▼
アイは世界を救う夢を見た。世界を捨てた神の代わりに、荒廃した世界を背負う者になりたかった。
アイは、神さまになりたかった。
…………。
薄桃色の光にぼんやりと照らし出された洞窟を、二人の少女が進んでいた。
光の出所はすばるの持つ機械的な杖──ドライブシャフト──の星型エンジンだ。子供の胴体ほどもある大きさの星型には、そんな不可思議で暖かな光が灯り、暗く無機質な洞窟の壁を照らしている。
前方に掲げられた杖の先の光だけを頼りに、おっかなびっくり歩く二人。すばるは不安げな顔で、アイは小生意気なくらいの無表情だった。
「アイちゃん、絶対はぐれないように気を付けてね」
気弱な声はすばるのものだった。ドライブシャフトの光は懐中電灯よりも強かったが、それでも届かないほどに行く手を遮る闇は深く、どこまでも続いているかのようだった。
アイとすばるが落ちた穴の先にあったのは、自然にできたのかも分からない巨大な地下洞窟だった。
冷たく湿った土の中にできた、3mはあるかと思われるほどの高さを持つ地下洞窟。無論のこと一切の光源はなく、すばるのドライブシャフトがなければ穴の向こうの月明かりさえここには届かなかっただろう。
穴自体は底のほうがスロープ状態になっていたため、不幸中の幸いというべきか、二人は命が助かったのは勿論骨折やそれに類する大けがもしていない。とはいえ喜んでばかりもいられなかった。全体として危険な状態にあることに変わりはないし、変身したすばるがアイを抱えて穴を駆けあがっていくこともできなかった。入り組んだ構造の穴は長大なドライブシャフトを機動させるには余りにも狭い。すばるの力は航行速度や環境適応には目を見張るものがあったが、単純な出力、それも破壊に類する力には乏しい。
そういうわけで、二人は目下先に続いていると思しき洞窟を進んでいるのだった。脱出を目指すという意味もあったが、アイの探している"何か"がこの向こうにある可能性もあるからだ。どちらにせよ、最初の場所から動かないほうがいいという定石は助けなど期待できない状況では適用できるはずもなく、二人は否応なく動くしかないのだが。
「ここに来てからどれくらい経ったんでしょう。数分、ということはないと思いますが」
「わたし、聞いたことある。こういうところだと時間の感覚って上手く働かなくなるんだって。目も耳もほとんど使われないから、五感もほとんど麻痺しちゃうとかって」
「なるほど。だとすると人の体とは何とも不便なものですね。こういう時こそ上手いこと働いてもらいたいものなのに、情けないことです」
「わたしは情けないより先に怖いよ……」
などと軽口を叩きあいながら進んではいたが、なるほど確かにこの状況は如何ともし難い。
五分、十分。何度も折れ曲がり、分かれ道に行き当たり、時には下り、また上り。依然として変わらない闇の中、想像よりも遥かに広かったらしい空間に舌を巻く。
「どこまで続いてるんだろ、この洞窟……というか、なんで街の下にこんなのがあるのかなぁ」
「多分これは風穴でしょう。すばるさんにはなじみがないかもしれませんが、風の動きが結構速いですから。まあお山だけじゃなく、人の住んでる街にまであるとは思いもしませんでしたが」
「風穴……ってことは、どこか出口に通じてるってことなのかな」
「そこまでは確証が持てませんが、恐らくは」
「そっか」
と、ほんの少しだけ意気揚々と跳ね上がったすばるの声音とは対照的に、アイの顔は若干伏せられたままだった。
それに気付いたすばるが尋ねると、「いえ」とアイの若干沈んだような声。
「改めて申し訳ありません、すばるさん」
「? いきなりどうしたの、アイちゃん」
「いえ、何にせよ私がすばるさんを巻き込んでしまったことは事実なので。ブレイバーさんもいらっしゃいませんし、さぞ不安なんだろうなと」
「へ? ううん、そんなことないよ」
アイの予想と反して、返ってきたのは本当に何でもないと言うかのようなすばるの言葉。
「アイちゃんと一緒にいるって選んだのはわたしだし、それに前にも言ったけど魔法使いの力って凄いんだから。もしも生き埋めになっても、アイちゃんと二人くらいならどうってことないよ」
すばるの持つドライブシャフトの力は、単純な飛行速度だけでなく環境適応能力に関しても比重が重く取られている。
何せブーストを行えば深海から宇宙空間、果ては太陽表面であろうとも何の問題もなく活動できてしまうほどなのだ。現状のすばるにはエンジンのかけらによる補助はないにしろ、土の中に埋められた程度ではどうということもない。
「それにいざとなったら、みなとくんにお願いして……」
「すばるさん?」
「え? ううん、何でもないの」
あはは、と笑って誤魔化される。
何だろう、と首をかしげて、まあいいかと納得した瞬間だった。
ドライブシャフトの光が示す一角に、アイはある物を発見した。
「ちょっと待ってください。すばるさん、あれ……」
駆けより、拾い上げて確認する。間違いない。
「これ、拳銃……ですよね」
ずっしりと手に圧し掛かる重さ。鼻に刺さる鉄の匂い。ざらついた錆の感触。
それは放置され朽ち果てた、一丁の拳銃の残骸だった。
「なんでこんなものがここに……」
訝しげにアイが呟く。
色々と検分して分かったがこれはどうやらリボルバー式のようで、本当ならカチカチと回転するはずのシリンダーはすっかり錆びついて碌に動かすことができなかった。
「わたしたちの他にも、誰かがいた……?」
「それにしてもこの錆びつきっぷりは凄いですよ。確かにここは湿っぽいところですけど、一日二日ではこうはなりません。となると……」
アイは手許の拳銃から顔を上げ、ドライブシャフトの照らす闇の向こうを見つめた。
「誰かがここに来たのは間違いありません。問題はそれが誰で、どこにいて、私たちにとってどのような意味を持つかにあります」
「意味って、さっき言ってた……?」
「ともかく先を急ぎましょう」
アイは再び頷き、すばると連れ立って歩みを再開した。
闇は依然深く色濃いままで、歩いても歩いても同じ景色ばかりが連続する。果たしてこのままでいいのだろうか、探し物は見つかるのだろうかという思いがちらりと頭を過った。
(まずいですね)
アイは自分の思考に危機感を覚える。これは予想以上に精神が参っているのかもしれない。
一般に、人は暗闇の閉鎖空間において単独でいると半日も精神が保たない。光源があり、二人連れのアイたちはその点で恵まれているが、それでも気力と体力を削られているのは明らかだった。
そして、アイでさえそうなのだから、すばるはきっと更なる疲労を強いられているのだろう。
一瞬、葛藤が頭をもたげた。この状況で最悪のパターンは、ミイラ取りがミイラになること。
ならばひとまず自分達の脱出を……最悪はすばるだけでも地上に返し、そこから探索を再開するべきなのではないか?
時には諦めや妥協というのも必要で、臨機応変に対処する賢さが大事なのではないか、と。
「いいえ」
誰にともなく、アイは自分に言い聞かせるつもりで呟いた。
理屈ではそうかもしれない。けれど状況を形作るのはあくまで人であり、自分自身なのだ。
世の中算数じゃない。そんな理屈で人を推し量ることはできないセイバーの言っていた通りだとも。
アイは世界を救うと決めた。ならばその夢に反する行いなどできるはずもないし、やってしまったらきっと自分は心を失って下手を打つだろう。
そういう危うさことが人の業というべきものであり、逆を言えば自分が自分を見失わなければ十全以上の力を発揮できるということでもある。
かつて天国を創り上げた母のように。
かつて地獄を遠ざけた父のように。
そう思い、強く信じて、負けるものかと前方の闇を睨み見据えた。
その時だった。
「──────」
奇妙な感覚があった。
それは、何かを訴えかけるような……
「アイちゃん……今のって」
すばるがアイの顔を覗き込むようにして訪ねてくる。どうやら彼女も同じものを感じ取ったらしい。
「ええ、突然のことで驚きましたが。すばるさんも?」
「うん。上手く言えないけど、呼び声みたいなのが……」
「声?」
そこで、アイは一瞬言いよどんでしまう。だって、アイが感じ取ったのは。
「いえ、私が感じ取ったのは匂いなんですが」
「匂い? 匂いって、何の……」
今度はすばるがぽかんとして、けれどアイは言いよどむことなく。
「死臭です」
この先に何かの、あるいは誰かの死体があるのだと、そう断言するのだった。
▼ ▼ ▼
果たして、辿り着いた先に"それ"は鎮座していた。
「ひっ……!」
「これは」
ドライブシャフトの明かりに照らし出された一つの人影。
幾つもの鎖で雁字搦めに磔にされた、人型をした者の身体。
服は経年でボロボロになり、赤色の髪はくすんで色褪せ、胸のあたりに赤色の書物を抱えた状態で縛り付けられた骸。
それは───
「ミイラ、ですかね?」
呟かれるアイの言葉通り、それは土気色に落ち窪んだ、痩せ細った死体だった。
旱魃に罅割れた大地に転がる捻くれた枯れ木。喩えるならそのようなものであり、まさしくミイラでしかありえない。
「あ、アイちゃん……これって……」
怯えと困惑の入り混じったか細い声が、アイの耳朶を打つ。恐怖に身を竦ませるすばるが手元を震わせる度、ドライブシャフトの光が揺れて暗い洞窟に映される影の輪郭が乱れた。
無理もない話だった。何故ならこの聖杯戦争において、すばるが明確に死体を目撃したのはこれが初めてなのだから。
これまで多くの戦いと危機、そして別れを経験してきたすばるは、しかし人の死を明確に目撃したことはなかった。みなとの死の現場を見ることはなく、バーテックスの凶行において遥か上空を飛行していたために惨事を見ることはなく。ドフラミンゴをその手にかけた事実はあるが、死体も残らずそもそも生きてすらいないサーヴァントを数に入れることはできないだろう。
考えてみればアイとすばるが出会った最初の時、すなわちこの廃校舎でゆきの仮初の友達となっていた女性の遺体すら、すばるは目にしていなかったのだ。それがこの異様な状況を前にしては怯えも戸惑いもするだろう。
事実として、確かにこれは気味が悪い。死体に囲まれて育てられてきたアイにはあまりピンとこない感覚だが、一般的な感性と比較して考えることはできる。
アイはすばるの恐怖を助長しないよう、できるだけいつもの調子を崩さないよう気を付けながら言葉を返す。
「はい。死体ですね。ミイラです。ホトケ様です」
言いながらアイは目の前の死体を検分する。
やはりというべきか、紛うことなき人の死体だった。偽物という線はまずあるまい。今はもう枯れ木のように渇き果てて物となっているが、かつてあったはずの生命の残滓を墓守としての習性によってかアイは感じ取ることができた。
推測でしかないが、多分この人は男性だ。それも若い、恐らくアイやすばるより多少年上な程度の男の子。まばらに残った髪の毛は色褪せた赤色で、身に纏ったシャツとジャケットは年月と砂に塗れ擦り切れているものの、かつては男の子好みな格好良い奴だと分かる。
そこまで考えて、当然出てくる疑問がひとつ。
「この人、どなたなのでしょう?」
聖杯戦争の参加者、というのは考えづらい。死体の状況と衣服の損耗を見るに、少なくとも数か月単位の時間が経過しているはずだ。
ならば黒衣のアーチャーが言っていた二つ目の楔なる者かと考えても、そもそもの話としてそれが意味するところは一体何だ?
アイに約束を違えるつもりはないし、この死体が誰であろうとも丁重に埋葬するつもりではあるが、それとはまた別の話として意味が分からない。
この人は一体誰で、何でこんなところに縛り付けられていて、楔だとすればその楔とは一体何であるというのか。
「やっぱり、これが手がかりなんでしょうか」
否応にも真っ先に目に入る、胸に抱かれた赤色の書物。
ここに何かしらの手がかりが記されているのではないか。そう考えたアイが触れようとした。
その瞬間だった。
「■■世界が■■ろ■とも■■れでも■は■■■■を■けたか■た」
「こんな■ずじゃ■なか■たんだ」
慟哭が───
確かに、聞こえた気がした。
「今、声が……」
それは声───なのだろうか。声帯など遥か昔に朽ち果てたはずのミイラが軋み、哭いている。
二人が、特にすばるの反応が一瞬遅れてしまったのも無理はないだろう。何故ならこれは完全な死体であり、屍食鬼でもなければアイの世界を彷徨う死者でもない。
耳朶を震わせる渇いた呻きに気を取られたその一瞬。
どろっ、
と振り返った瞬間、完全に干からびたはずのミイラの顔から、嘔吐するように大量の血が溢れだして直下の地面を真っ赤に染め上げた。
「!?」
「え……?」
硬直するアイとすばるの前で、喀血の勢いによってかミイラの首がぐるりと傾げる。
尚も溢れ出す大量の血液が滝のように流れだし、びちゃびちゃと汚らしい粘質の水音を上げ続けている。
ミイラが、顔を上げる。
血濡れの顔を。そこには───ぽっかりと血に塗れて開いた眼窩と口腔の中に、潰れて変形した無数の人体のパーツが産みつけられた昆虫の卵のようにぎっしりと詰まって、そして圧力で次々と潰れながら外へと押し出されている異様な光景だった。
「きゃああああああああああああああああああああ!!!」
直後、すばるの口から凄まじい絶叫が迸った。
後ずさるすばる、反対にミイラに向かって駆け出すアイ。両者の違いは辿ってきた半生の現れた結果であり、このような異様な状況への対応力の違いでもあった。
生まれてからずっと死者の谷で育ってきたアイにとって、この程度は恐れることではない。故に彼女はすばるを庇護せんと、そしてこの哀れな死者を止めようと、銀のショベルを一閃する。
その瞬間であった。
《干キ萎ミ病ミ枯セ。盈チ乾ルガ如、沈ミ臥セ》
《■段、顕象───》
地獄の亡者を思わせる多重奏の叫喚が、暗闇の虚空に災禍の形を紡ぎあげた。
瘴気が噴き出す。肉塊が湧き出す。アイとすばるの視界いっぱいに、ミイラの穴という穴から溢れ出した異形の骨肉と臓腑が、煙霧のように"ぶわり"と広がった。
「これは……!」
化け物、そんなありきたりな言葉しか思い浮かばない。それはまさしく、アイの拙い語彙ではそうと形容する他にない異形の群れであった。
血と肉と骨と内臓によって織り成される不浄のコントラスト。小腸で表情を作り、筋繊維の髪を揺らし、腐液の涙を垂れ流しては腐敗によるアンモニアとメタンのガスを吐息として笑い続けている。
そんな異形の顔面が、臓腑の海のそこかしこに無数に浮かび上がっている。最早ミイラの体内に収まりきるはずもない体積を持つそれらは、今や洞窟全体を覆うほどに広がりを見せていた。
哄笑。
怒号。
悲鳴。
慟哭。
耳を塞いでも入ってくる、心を削るようなそれらの音に囲まれて、アイはほんの一瞬動きを止めてしまった。
これはなんだ? 一体何が?
あまりにも常識を破壊する光景に一歩も動くことができない。猛烈な勢いで押し寄せる異形の瘴気に呑みこまれ、それが体をすり抜けたと感じた途端。
「ぎッ───」
意識が万華鏡の如く、極彩色にばらけながら爆発した。
「ぎッ、あッ、ァァ───ガアアアアアアァァァッッ!!」
激痛。
激痛。
激痛。
そんな概念すら分からなくなるほどの痛み。痛み。狂乱する痛いという心のハレーション。
これはなんだ。幻覚なのだろうか? 『幸福』の時のように、今度は悪夢でも見せられているのか。
いいや違う、これはそんな思い込みの類なんかじゃありえない。
「ごッ───ぐばあァッ」
アイはその場でのたうち回り、もんどり打ちながら嘔吐する。腹を抑え、胸を掻き毟り、頭を地面に叩きつけて何とか苦痛を逸らそうとする。
そんな抵抗が虚しくなるほどに、その激痛は重篤の極みであった。悪魔が身体に憑りついて、内部から破壊を繰り返しているかのようなこの激痛、とてもじゃないが常人の耐えられる代物ではない。
だからこそ、これは幻覚ではあり得なかった。アイは認識や精神だけじゃなく、現実に肉体の重要器官を穴だらけにされていた。腐らせ、抉り、一瞬で末期に至る重篤汚染。およそ人が罹患し得るあらゆる病魔に現在進行形で蝕まれている。
アイの口からぶち撒けられた血反吐からは糞便の臭いがした。腹が爛れる、脳が壊死する。血の一滴までもが強酸性の毒に変わる。
死んでしまう。
もう助からない。
頭の隅に描いたイメージが、心に実像を結びかけた。
その時だった。
「アイちゃん、下がって───!」
地を這うアイを飛び越えて、決死の表情ですばるが凶源へと疾走していた。
駆けていく後ろ姿が、腐り萎んだアイの眼球に辛うじて映りこむ。駄目だ、逃げて、そう叫ぼうとするけれど。文字通りに張り裂けた喉からは声の代わりに血と腐液と蛆しか出てこない。
例えドライブシャフトの力を用いても、根本的にこれらに干渉することは不可能なのだ。実体を持たない彼らは粘性の気体のようなもので、仮にアイがショベルの一撃を振るうことができていたとしても何の効果も得ることはできなかっただろう。
それは実際に身体をすり抜けられたアイだからこそ分かった。だから逃げてと、そう願ったアイの目の前で。
「来て、我が《奇械》アルデバラン!」
新たな獲物に異形たちが群がろうとするその刹那、すばるの叫びに応えるように莫大量の"影"が奔流となって噴き出した。
それは影。
それは鋼。
それはすばるの足元から、彼女を《守護》するかのように現れる。
すばるを中心に突風が巻き起こり、周囲の異形は風に散らされるが如く吹き飛ばされた。
それは場に溜まる汚れを大量の水で押し流すかのように。すばるのみならず、骨と筋に浸透していくかのようなアイの異常も、力の余波で半分以上が叩き出されている。
原理は何か───それは他ならぬ"鋼の影"こそが知っている。
《守護》。それは宿主に対するあらゆる害的干渉を跳ね除ける、概念装甲にも等しい《奇械》の機能。単純な物理攻撃から、今のような病巣めいた非実体の干渉に至るまであらゆる例外は存在しない。これを打ち破るには同格以上の幻想が必須であり、例えサーヴァントを相手にしようとも並みの英霊ではこの防御を突破することは叶わないだろう。
それは例えば、彼女がブレイバーと共に打ち砕いたドンキホーテ・ドフラミンゴのように。
最低限、彼以上の霊格の持ち主でなければ今のすばるを害することはできない。そしてその力を応用し、広範囲に適用させることでアイへの被害すらも強引に取り除いていた。
そして、すばるの反撃はこれだけに終わらない。
「鋼のあなた、我が《奇械》アルデバラン。わたしは、あなたにお願いします」
右手が前に伸ばされる。
応じるように、影の右手も伸ばされた。
───鋼でできた手。
───それは、すばるの想いに応えるように。
蠢くように伸ばされていく。
自由に。その手は不浄の瘴気満ちる空間を切り裂いて。
リュートの如く掻き鳴らされるは鋼の関節の駆動音か。それとも鋼の彼の言葉そのものであるのか。
想いと共に掌を重ねて、二人は右手を前へと伸ばす。
現実には在らぬ鋼の手を。それでも、確かな意思によって───!
「黄雷の如く、貫け!」
────────────────────────!
引き裂き、虚空を撃ち貫く紫電の槍。
御伽噺の、忌まわしき暗き空より来たるもの。
───幻想の旧き雷電。
一直線に放たれた紫電の閃光は、超高密度の穂先を以て異形達の海を穿つ。瞬時に破壊する。
雷に打たれて燃え尽きる小枝のように、閃光の通り抜けていった異形の全てはバラバラに、粉々に砕け散る。一瞬で燃やされ、灰となって崩れ去るのみ。
けれど。
「まだ!」
そう、まだだ。雷の槍が貫いたのは周囲の魍魎のみであり、本体のミイラにはほんの僅か届いていない。
漂う瘴気を切り裂きながら突進し、遂には正体不明の死者へと切っ先を突きつけんとすばるは迫る。例えこの死体がアイの探し物であったとしても、この状況で攻撃を躊躇う理由はないし、アイの状態を見れば一刻も早くこの場を脱出したかった。
それに。
「わたしが、あなたを」
すばるは聞いていた。
この空間へと足を踏み入れる前。アイが死臭を嗅ぎ取ったのと時を同じくして。
すばるは確かに、誰かの声を聞いていたのだ。
───終わらせてくれ。
───誰か。
───俺を破壊してくれ。
「すぐにそこから出してあげるから!」
微かな哀れみの色を滲ませて、すばるが叫ぶ。
鋼の右手が、紫電纏って振り下ろされた。
その瞬間だった。
「哀れんだな、ボクらを」
「──────ッ」
───右手が、止まった。
今まさに死体の頭蓋を破壊しようとしていた右手が、
あと数センチで死者の眉間に届くはずだった鋼の右手が、動かない。
ぴくりとも、微塵たりとも、そこに見えない壁があるかのように。
夢と現実の境を分かつように。
瞑目するすばるの目の前で、骸が抱いていた謎の書物がゆらりと宙に浮かび上がった。同時、破壊的なまでに膨張していく恨みと嫉妬と怨嗟の奔流。
虚空にバラバラと解けながら、闇に消えていく書物の頁。《赤色の秘本》とも言うべきそれが消えるのと重なる形で声が響いた。
「許さない」
そして、今までとは比較にならない真の悪夢が訪れる。
「うッ、づあァッ!?」
それは一見すれば、今までと全く同じだった。
病を帯びた魍魎が突進してきた、ただそれだけ。《奇械》の《守護》により容易く弾き飛ばせるはずのそれが、しかし今回は抵抗すらすることができなかった。
正面からまともに直撃を受け、腹の中心を貫かれたすばるがくの字に吹き飛ぶ。加え、致命的な齟齬は直後に訪れた。
「……、がはッ」
ごろごろと後転し、何とか勢いを殺した時には全てが遅かった。すばるは地に手をつけて大きく咽込み、バケツ一杯に近い量の血膿を吐き出した。びちゃびちゃと汚らしい水音が反響し、新たな血海の中で大量の蛆虫がぴちぴちと跳ねまわっている。それはアイに発病した穢れと全く同じであり、しかし濃度が桁違いであった。《守護》による干渉無効化さえすり抜けて、しかも祓うことすらできない。《奇械》による可能性分岐の取捨選択を用いても、単身でこれを除ける未来が全く見えないのだ。
それは夢幻であるかのように、しかし別階層の法理として深く心身に食いこんでいる。手に負えない。
絡繰りを紐解けばそれは当然の理屈ではある。この術法は邯鄲法における急段に分類されており、つまりは相手だけでなくすばる自身の力さえも攻撃に転用されている状態なのだ。
相手と自分の合体技、両者の渾身が乗せられている故に単身ではどう足掻いても抵抗は不可能。そうした理不尽の分、急段とは成立が非常に難しいものではあるが、すばるは既に急段の成立条件を満たしている。
すなわち、相手を哀れむこと。
過去に存在した玻璃爛宮の逸話の昇華、哀れみを受けることで互いの輝きと澱みを等価交換するという簒奪の理。
だがここで疑問が一つ。ならばこの骸は玻璃爛宮の残骸であるというのか?
いいや違う。彼はそんなものではあり得ない。玻璃爛宮の疑似急段など所詮は邯鄲より汲み出された自動発動の防衛装置に過ぎず、彼の真実は更に別の場所にある。
だがすばるがそんなことを、ましてや邯鄲法の術理さえ知るはずもなく。
「ぎィ、ぐ、あァ……! がふッ……」
すばるは顔面を壮絶に歪めて、何の抵抗もできないままに地面をもんどりうっていた。
今、彼女の胃の七割以上がステージ4の癌に冒されている。どころか肥大化した脳腫瘍、悪性黒色腫、重度の白血病までもが併発し、最早まともに行動するどころか常人では正気を保つことさえ不可能なほどの激痛に苛まれている。
意志や根性が云々という問題ではない。人体という物理構造と動物生理学によって構築された機構は、精神などという神経パルスではどうすることもできない。《奇械》の加護もあってか生存だけはしているが、それもこの状態では悪戯に苦しみを増やすばかりでしかない。
倒れ伏す少女、消えていく鋼の影。
それを他ならぬ""彼""こそが、哀れみの目で見下ろして。
「すばるさん!」
けれど。
それでも、諦めない者がここにはいた。
襲い掛かる魍魎の一体にあろうことかショベル片手に挑みかかって、案の定何の意味もなく重病に冒されながら、それでも崩れることなく顔を歪めて立ち上がる少女がひとり。
すばるのすぐ目の前に立って、その背に庇うように。
「何をやってるんですかあなたは!」
そう叫んだ。
「私は……あなたを助けに来たんです!」
星屑の群れに追われたすばるを助けるために奔走した。その果てに無事を喜んだ。
アイはただ、それだけで良かったはずなのに。
「それなのにどうして私が救われてるんですか! こんなの、こんなのあべこべです! 違います! 私は世界を救う側で!」
アイは、魍魎ではなくすばるに、殺されるような顔をして。
「私はもう、救われる側じゃないんですよ!」
そう言って、
アイは我武者羅にショベルを振り回した。
「私は世界を救います。すばるさんも、この人のことも、絶対に」
勇ましく立ち上がるアイは、けれど。
その姿は本当に小さくて、痛ましかった。
「私は絶対に、私の夢を諦めません!」
そして無謀な、結果の見え切った突撃を敢行しようとして。
「何また馬鹿やってんだ、お前は」
耳を劈く轟音と共に、
蒼白の雷電が、天井を突き破って墜落したのだった。
▼ ▼ ▼
首筋を走る微かな痛みの後に、友奈は後ろ手の拘束を外され解放された。
「……え?」
「穢れを断っておいた。廃校が云々はともかく、結構ヤバいとこにいたのは事実らしいな。小さいのが首んとこに張り付いてたぞ」
「え……え?」
何がなんだか分からないと言った風情で立ち上がる。だって、彼は今までずっと友奈のことを敵視して。
「信じてくれるの……?」
「パスが繋がってることは確認した。俺のほうも健在で、ついでに言えば騎士王だけが窮地に陥ってると知ってるのはアイだけ。となると、まあお前の言ってることは本当なんだろうよ」
「で、でも戯言なんか信じるかって……」
「念のための鎌かけだ、悪かったな」
えぇ……と困惑した声に蓮は続ける。
「それと、騎士のセイバーのほうはもう大丈夫だ。相手してた赤騎士はもういない。キーアもちゃんと無事だよ」
「そっか。うん、それは本当に……本当に、良かった」
心底からほっと息を吐く。本当に本当に、全てが報われたような心地だった。
アイとは良好な関係を築き、すばるにもサーヴァントと認められた。そして今、セイバーからも信を得ることができた。
友奈が犯した罪は消えないが、それでも築けるものは確かにある。確かな感慨と共に、友奈は改めてそれを自覚した。
「それじゃあ、一緒にマスターたちを迎えに行こう。どこも酷いことになっちゃったけど、でもまだ……」
間に合うはずだから、今から改めて仲間になろうと、友奈は手を差し伸べて。
「駄目だ。それは認めない」
当然のように払いのけられた。
「え……」
「言っておくが、俺はお前を信用していない。さっきお前が言ったことに嘘はないと判断したが、それとこれとは話が別だ」
冗談を言っているようには見えなかった。セイバーの目は最初から一貫してどこまでも冷たく、およそ暖かみなど感じられない。
「で、でも!」
「屍食鬼」
ぴたり、と友奈の言葉が止まる。畳み掛けるように蓮が続けた
「別にそのことを今問いただす気はない。だがその様子じゃ自分が信用されない理由は自覚してるみたいだな。
話を通したのはこれ以上お前と揉める暇がないからだよ。邪魔さえしてくれなきゃそれでいいんだ」
それだけ言うと蓮は友奈から興味を失ったように目を外す。その視線の向こうにあるのは、彼が午前中に訪れ、そしてたった今友奈が走ってきた場所、廃校のある方向。
「……行くの?」
「ああ。屍食鬼が出ようが街が滅びようが、俺はまだ手遅れだなんて思っちゃいない」
どれほど多くの命が失われ、どれほど多くの破壊が巻き起ころうとも、生きている限りは終わりじゃないと言外に語る。
「本気でやってきたからな。このままお陀仏なんてオチに納得できるか」
そして蓮は、首だけで振り向いて。
「それはお前も一緒じゃないのか、《ブレイバー》」
友奈のことを、恐らくは初めてそう呼んだ。
友奈の顔が、ほんの僅かな驚愕に染まる。そしてそれは、今までのとは少しだけ意味合いが異なっていて。
「お前のことは嫌いだけど、お前が本気だったってことくらい、俺だって分かってるんだよ」
「セイバー……」
「もう行け。お前が過去に後悔しているんなら、せめて今と未来くらいは思う通りに進めばいい」
そうして蓮は、最後まで笑みを浮かべることもなく。
「キーアたちを頼んだ。俺もすぐに合流する」
そう言って、一挙動に跳躍し夜闇の向こうへと消えていったのだった。
◆
そして今、蓮はアイの下へ降り立っていた。
地盤ごと雷電でぶち抜いて、辺りに漂う魍魎の悉くを蓮は焼却していた。そして返す刃でアイたちのほうへ腕をやり、裂帛の覇気を以て二人の肉体に憑りつく魍魎を吹き飛ばす。
それは死者が生者を冒すべからずという死想の念。あらゆる死者の力を打ち消す浄化の祈りは、ただの一振りであろうとも単なる魍魎程度ならば問題なく消滅させることが叶う。
そして、二人は互いに目を合わせて。
「よう。さっきぶりだな」
「セイバー、さん……」
何でもないふうに言葉を交わして、それだけで相手が何を思ってここまで来たのかを理解した。
「セイバーさん、その、私は……」
「お前のことだ。詳しい経緯は知らないけど、どうせ誰かを助けるとかなんとか言ってここに来たんだろ」
返答を聞くより速くに剣を一閃、新たに現出する魍魎を寸断する。
「毒素……いや、これは咒病か。実体を持たないとこを見るに類感呪術、けど受肉すらしていない死霊が引き起こすには流石に度が過ぎてる。ってことは」
何かに気付いてか顔を顰めて。
「これが邯鄲法か。それも他人の力を利用する類の、急段だったか。どうも俺は発動条件に合致しないみたいだけど」
「セイバーさん!」
ぎゅっと袖を引かれる感触。下を見れば嘆願するかのようにアイがこちらを見上げている。
「すばるさんが、すばるさんが!」
「心配しなくてもお前らはもう大丈夫だよ。痛み、もう取れてるだろ。それよりも」
くい、と顎で指し示し。
「今度の救済対象は、この死体か?」
「……」
アイは無言で首肯する。
すばるを案じていた目を上げ、口許を一文字に引き締め、前を向く。
目の前の死体は今や、先刻に比して尚凄惨たる様相を呈していた。
げっそりと痩せこけた頬には生前の面影を見ることなど叶わず、濃緑色に変色した皮膚の下では今もなお蠢く肉がドロドロと腐り、かつて臓腑だったであろう黒いヘドロが口や破れた腹腔から溢れ返っている。せり上がる内容物の流動によってか首を中心としたそこかしこがギシギシと軋み、砕けた皮膚がぽろぽろと剥がれ落ちていった。
一度はアイとすばるを殺しかけた恐るべき死者は、そんな悪辣さは見る影もなく、今はただ腐敗と劣化に翳るだけの哀れな骸と化していた。
「壊すにしろ浄化するにしろやってやれるが、どうする?」
「……私がやります」
即答だった。ぎゅっとショベルを握り、一歩前に出る。
死体の崩壊は留まるところを知らなかった。ガクガクと揺れる骸は末端が泥のように崩れ落ち、辛うじて人であったと分かる程度の輪郭しか保っていない。放っておけば、アイの手を借りるまでもなく土に還ってしまうだろう。
「それではダメなんです」
死者は埋葬されない限り死ぬことができない。灰になろうと塵になろうと、墓守の手で埋められなくば本当の意味で眠りにつくことができない。
それはアイの役目であって、存在意義と同義でもあった。これだけは、蓮であろうと譲れなかった。
アイはショベルを地面に突き立てる。そして手のひら一杯分の土を掬うと、それを死体へと放り投げた。
「私は、墓守です」
放物線を描く一握の土くれ。ぶわりと広がって飛んでいく。
「死者の安寧を司るのが、私の役目です」
としゃり、
死体の肌にぶつかった土はそのまま落ちて、後には何も、誰も、動くものはなかった。
▼ ▼ ▼
大きく穿たれた穴の底から、アイとすばるを抱えた蓮が飛び上がった。
校庭の砂地を踏み拉きながら見上げた夜空は、今までの喧騒など嘘であるかのように穏やかだった。
「何かが変です」
アイは、蓮の腕から降りながら言った。
「それは最初から分かってる」
「いいえ、セイバーさんは何も分かっていません」
アイはするりと地面に立つと、蓮に抱えられたままのすばるに手を伸ばす。病苦から解放されて痛々しさの失せた意識のない顔をそっと撫でると、その無事を手のひらから実感した。
「……お前、何見たんだ」
「よくは分かりません。あれは結局何だったのか、あの死者は誰だったというのか」
それきりアイは、自分の考えに没頭して沈黙する。時折眠るすばるの頬をぺちぺちとしながら。
蓮はよく分からないままアイの好きにさせていたが、30秒もするとそろそろ動くぞと言わんばかりに小突こうとして。
「セイバーさん」
瞬間、いきなりアイが顔を上げた。
「あなたは、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だけど」
アイはじっと、蓮のほうを見ている。
「私も大丈夫です」
「……お前さ、何の話をしてるんだよ」
アイがすっと思考の海から浮かび上がって蓮を見る。
「セイバーさんは、あれを"邯鄲法"と言いましたね」
「ああ」
「ダンカルマさんやユリカさんが使ったという、あの?」
「だから、それがどうした」
「具体的なところは分かりません。ですが、共通点は見えてきました」
アイは歯痒そうに爪を噛んだ。
「"楔"と呼ばれた人たちは、みんな"夢を叶える"力を持っています」
「どういうことだ?」
「邯鄲法というのは、つまり自分の夢を現実に持ってくる力のことですよね?
望むことであれ望まないことであれ、少なくとも強く思い描いた願いが形を作る……それが邯鄲法の説明だったはずです」
確かにその通りではある。下級においては夢の強度が低いため共通した基礎能力しか扱えないものの、破段においては術者の精神的特色、急段においては人生を象徴する哲学が現れる。扱う力の根源が根源であるため、確かにアイの言うこともあながち間違いではない。
「そして、思い出してください。ハチマングウでセイバーさんたちが戦ったのは誰ですか? それに楔と一緒に言われていた盧生というのも、邯鄲法の使い手なんですよね?」
「……つまりどういうことだ」
「セイバーさんの夢も、"叶えられてしまうかもしれない"……そういうことですよ」
そう言って、アイが言葉を締めた。
蓮の、夢。
どうしても叶えたい、願い事。
アイは確かに、それを聞いていたはずであった。
「セイバーさん。あなたは大丈夫ですか?」
「……大丈夫もクソもないさ。お前の言うことが割と当たっていたとして、俺に夢なんかもうない。強いて言うならお前を帰すことくらいだ。それに八幡宮の『幸福』だって耐えてみせたんだ、なら問題ないだろ」
あくまで何でもないように、わざと軽薄な態度を取っているのは見え見えだった。
まただ。またこの人は私に隠し事をしている。それがアイには痛いほどよく分かった。
だから。
「セイバーさん。私、今まであなたに意図して聞いてこなかったことがあるんです。分かりますよね?」
「……さあな」
蓮はこの期に及んで誤魔化そうとした。
「本戦が始まる前、二人で海を見た時のことです。セイバーさんはあの時、私を助けると言ってくれましたね」
それは夕暮れの海辺をバイクでひた走ったあの日、あの時。
ただ自分が助かることだけを考えろ、俺のことはどうでもいいのだと、確かに彼はそう言った。
「……ああ、そうだな」
「それは、何故?」
「なんでも何もないだろ。俺はサーヴァントで、マスターを助けるのは当然―――」
「そういうのはいいです」
アイは、ただ切って捨てた。
少しの遠慮もなかった。声にも、顔にも、笑みはなかった。
「セイバーさんは死にたくて、死んじゃった人のことなんかどうでも良くて、だからまだ生きている私のことを助けてくれるんだって、そう言いましたね。
そして、サーヴァントっていうのは元々"そういう"ものなんだ、とも」
例えどのような人格や思想、願いを抱いていようが、サーヴァントとはマスターに従う存在である。
アイはそれを知識として知ってはいたが、しかし実感としてはどうしても感じることができなかった。
「確かに、セイバーさんの言うことも理解できます。でも、そうは思ってもどこか釈然としなかったんです。
だってそうじゃないですか。お父様は確かにルールを曲げて一日だけ"埋葬"されるのを待ってくれましたけど、それは私がお父様の子供だったからです。でも、セイバーさんにとって、私はただの他人でしかありません」
だから、そんな見ず知らずの小娘のために自分の大切なルールを破ってまで、どうして貴方は戦ってくれるのかと。
そう思ってしまう気持ちは、いつまでも心の隅に存在し続けた。
「そういう風に思ってたのか」
「はい、そういう風に思っていました。悪い子、ですので」
たはは、と笑う。誤魔化すように、笑う。
「海辺でも、学校でも、八幡宮でも、お山でも、そして今でも。私は『この人はどこまで付いてきてくれるんだろう?』って考えてます」
「…………」
「ねえ、セイバーさん。あなたはどこまで、私に付いてきてくれますか?」
「お前を元の場所に返すまで……いや」
セイバーは、そこで一旦言葉を切って。
「お前が夢を諦めるまでだ」
「ああ、やっぱり」
そこで初めて、アイの顔に表情が浮かんだ。薄い笑みだった。
どこまでも酷薄で、寒々しいまでに熱のない、白々しい嗤いだった。
「やっぱりそっかぁ。セイバーさんは、私が世界を救えるだなんて、全く信じていなかったんですね」
「……当然だろ。言ったはずだぞ、お前の願いは狂ってるってな」
「はい、そういえばそうでしたね」
アイの嗤いは止まらない。何かを誤魔化すように、底から溢れて止め処なく漏れ出してくる。
「セイバーさんは私の夢は絶対に叶いなんてしないんだって考えてて、私がいつか夢を諦めるはずだって思ってて、私が夢を諦めても大丈夫なようにって考えてくれていたんですね」
「…………」
「セイバーさんは私の夢なんてどうでも良くて、ただ私に幸せになってほしかっただけなんですね」
「…………」
「……セイバーさんは、やっぱり優しい人です」
何を馬鹿な、蓮は咄嗟にそう言おうとした。
けれど開いた口からは何も言葉が出てこなくて、所在なさげに閉じると、苦虫を潰したような渋面を作ることしかできなかった。
「あの、勘違いしてほしくないんですが。責めてるわけじゃないですからね? 今はそんなことしてる場合じゃありませんし、ただ聞きたいことがあって」
「分かってるよ。けど、きついな」
「すいません……でも」
「いや、質問のことじゃなくてさ」
蓮はいつの間にか笑みを浮かべていて。けどいつもの呆れたようなものじゃなく、苦み切った笑み。
「子供に『お前は大人だ』って言われるのは、存外堪える」
「? それはよく分かりませんが……」
「そりゃそうだろうさ」
彼はどこか吹っ切れたかのように笑っている。
「あ、あの。セイバーさん? あの、違うんです。まだ聞きたいことがあるんです。大事なことなんです。あなたにとって私の願いはどうでも良かった、ならあなたにはもう一つ叶えたい夢があるじゃないですか」
「もう一つ?」
「誤魔化さないで、くださいよ」
アイは更に身を硬くする。まるで放り出されることに耐えているかのように。
「死んじゃう、ってことです」
アイはぎゅっと、服の裾を掴んだ。
「セイバーさんが私を助けてくれるのは嬉しいです。私の夢に賛同してくれなくても、いつか別れなくちゃいけなくても、それは本当の本当に嬉しかったんです」
「…………」
「でも、セイバーさんには、まだその夢があるじゃないですか……」
アイはそっと、蓮の手を握る。その感触は確かに暖かかったのに、アイはその温度を信用できずに、硬く、冷たくなっている。
「そういう願いは、仕掛ける側にとっても都合がいいです。きっと完璧な形で叶えてくれるでしょう」
「……アイ」
「勘違いしないでください。それが悪いことだと言ってるわけじゃないんです。ただ、もしそれが本当になってしまったらって、そう思うんです。それで」
「アイ」
蓮はすばるを片手で抱きかかえたまま、もう片方を繊細に使って、アイを撫でた。
「俺は、いかないよ」
「……でも」
「お前を置いて、いったりしない」
その言葉を、蓮は何度も繰り返す。今まで言わなかった分を、今まで言ってきた分を、それでも信じられなかったであろう分を、彼女を不安にさせ続けた日々を補うかのように。繰り返す。
しかし、アイは。
「信用できません」
その言葉と共に、ついには涙が溢れだす。
「わ、私は、やっぱり、その言葉を、信用できません……すみません、私、本当にどうしようもない、子なんです。そういう言葉を、信じられない、子供なんです」
緑の瞳が涙に沈む。涙滴が伝わって地面に注ぐ。ぽたりぽたりと光の粒が瞬いた。
「だって!」
顔が上がる。涙の飛沫がぱっと散る。
「だってあなたは! いっぱい! いっぱい! 隠し事をしてきたじゃないですか!」
今度こそ本当に、蓮は何も言い返せなかった。
しゃくりあげるアイの言葉は堰を切ったように溢れ、自分でも止めることができなかった。
「全部自分一人で抱え込んで! 大丈夫だから心配するなって! 私が何度もお見通しだって言っても懲りないで! 何度も何度も、何度も何度も何度も!
あなたは、私に何一つだって……」
喉が鳴った。アイは暗い瞳で見上げ続けた。
「私はあなたのマスターなんですよ! 弱くても、ちっぽけでも、頼りなくても、それでも私はあなたと一緒にここまで来たんですから!
一つくらい抱え込ませてくださいよ! 我儘くらい言ってください! わ、私は……!」
そうしてアイは、感極まったように。
「私のいる意味が、ないみたいじゃないですか……」
蓮は、
自分がその時、どんな顔をしたのか覚えていない。
ただ、よっぽど酷い顔をしていたのだろう。
それを一目見たアイは、「とんでもないことをした」という顔で俯いた。
「……ごめんなさい」
そしてぽろぽろと涙をこぼし、
「ごめんなさい……私、だから……こうなんです……」
顔を覆い、震えた。
「ああ! もう! ほんっとうに仕方ない奴だなお前は!」
突如蓮が叫んだ。突然のことにびっくりして、アイは濡れる瞳を見開いた。
「確かにお前の言う通りだ。俺はお前を部外者にして、できるだけ事態に関わらせないようにしてきた。それが当然だと思ってたし特に深く考えてもなかった。それでお前が思い悩んでも、まあ、ガキの癇癪くらいにしか思わないようにしてきたし、抱え込むのも必要経費にしか思ってなかった。だってお前、俺以上に無茶しやがるからな!」
それは誤魔化しの言葉ではなく、蓮はアイの瞳をしっかりと見据えた。
「それでも。俺はお前が生きていてくれるほうが、よっぽど嬉しいんだよ」
「……それは、私も同じですよ」
「ばーか。まだ生きてるお前が死人の心配なんざすんな。これを言うのも何回目だったかな」
全く、と苦笑めいた響きを湛えて。
「何回も何回も、同じ話題をループさせるのは疲れた。実はそういうのも嫌いじゃないんだが」
いつも同じ毎日で、劇的な幸も不幸もない陽だまりの停滞……俺はそういうのが好きだけど。
「お前絡みの話は、色々と重すぎる。何度も繰り返したいとは思わない」
「……それはつまり、もう"これ"と決めたから話す必要はないってことですか?」
「そうだな。お前はまだ話したいのか?」
「どう、なんでしょう。なんとも言えません」
ただ、と少しだけ間を開けて。ぐしぐしと目元を拭いながら、アイは言う。
「どんな結果になるとしても、それを後で知るだけなのはもう嫌なんです。私は傍観者じゃなくて、当事者になりたいんです」
「そうか」
そうして、蓮は何やら覚悟を決めた表情をした。
「お前は本当に曲がらないな」
「当然です。だって私は」
「世界を救うから、か。なら俺もそうさせてもらう」
「えっ?」
「お前がお前を貫くように、俺もアイ・アスティンを絶対に見捨てない。
信じなくてもいい、お前がどう思っていようが構わない。それでも俺はそうする。
お前が夢を諦めないのと同じようにな」
「……っ!」
アイはその言葉を聞いて、勢いよく顔を上げた。涙の飛沫が月明かりを吸って、七色に光ながら中空に散った。
「俺は死なないよ。そういう夢にも落ちない」
「……約束ですよ」
「ああ。まあ、善処する」
「そこで日和っちゃうからセイバーさんはセイバーさんなんですよ」
「すまんすまん」
それでもアイは僅かに笑みを浮かべ、ショベルをくるんと回して肩に担ぐ。
「急ぎましょう。キーアさんたちが待っています」
夜は未だ深く、先の見えぬ闇が続いていた。
◆
「そういや当事者意識ついでにだけどさ」
「え、はい。なんでしょう?」
「お前、これ知ってるか?」
ぽい、と投げ寄越された銀色の小さなプレート。
あわわと慌てて掴み取る。これは、ネックレス?
「ドッグタグって奴だな。兵隊とかが身に着けてる認識票で、自分の名前とかを書いてたりする」
「はぁ。話の流れからするに、これってもしかして」
「あの死体の持ち物だ。くすねておいた」
「手癖の悪さも相変わらずですね」
とはいえナイスだ。これで何かしらの手がかりが……
「で、どうだ?」
「……うーん、これは、ちょっと」
「まあ、そりゃ知らねえよな」
「はい、申し訳ありませんが」
仕方ないさ、と返す蓮に答えながら、アイは小さなタグをそっとポケットの中に仕舞い込んだ。
ドッグタグには、『Alice Color』という文字が刻んであった。
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(極大)、神経負荷(極小)、《奇械》憑き、全身に病症転移による重度の激痛(根治済み)、気絶
[装備] ドライブシャフト
[道具] 折り紙の星
[所持金] 子どものお小遣い程度。
[思考・状況]
基本行動方針: 聖杯戦争から脱出し、みんなのもとへ“彼”と一緒に帰る。
0:……
1:生きることを諦めない。
2:わたしたちは、青空を目指す。
[備考]
C-2/廃校の校庭で起こった戦闘をほとんど確認できていません。
D-2/廃植物園の存在を確認しました。
ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
ブレイバー(結城友奈)と再契約しました。
奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
?????
詳細不明。
【ブレイバー(結城友奈)@結城友奈は勇者である】
[状態]魔力消費(中)、疲労(大)、精神疲労(大)、全身にダメージ、神性復活、霊基変動。
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:"みんな"を守り抜く。例えそれが醜悪な偽善でしかなくても。
0:キーアとセイバー(アーサー・ペンドラゴン)に合流し彼らの力となる。
1:立ち向かう。
2:たとえ誰の信頼を得ることができなくても。
[備考]
すばると再契約しました。
勇者(ブレイバー)へと霊基が変動しました。東郷美森の分も含め、サーヴァント二体分の霊基総量を有しています。
大満開の権能:限りなく虚空に近きシューニャター
【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(大)、精神疲労(大)、魔力消費(大)、全身に病症転移による重度の激痛(根治済み)
[装備] 銀製ショベル
[道具] 現代服(収納済み)
[所持金] 寂しい(他主従から奪った分はほとんど使用済み)
[思考・状況]
基本行動方針:脱出の方法を探りつつ、できれば他の人たちも助けたい。
0:アリス・カラー……えっと、誰?
1:"みんな"を助けたかった。多分、そういうことなんだと思う。
2:生き残り、絶対に夢を叶える。 例え誰を埋めようと。
3:ゆきさん大丈夫なんですかね? ちゃんと生き残ってるんですかね?
4:ゆき、すばる、キーアとは仲良くしたい。アーチャー(東郷美森)とは、仲良くなれたのだろうか……?
5:
[備考]
キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と邂逅しました。
すばるから一連の情報を取得しました。
【セイバー(藤井蓮)@Dies Irae】
[状態] 右半身を中心に諧謔による身体破壊(中・修復中)、疲労(大)、魔力消費(中)
[装備] 戦雷の聖剣、《打ち砕く王の右手》
[道具] なし
[所持金] マスターに同じく
[思考・状況]
基本行動方針:アイを"救う"。世界を救う化け物になど、させない。
1:聖杯戦争の裏に潜む何者かに対する干渉手段の模索。アーサー王と合流してこの異常事態への情報を共有したい。
2:悪戯に殺す趣味はないが、襲ってくるなら容赦はしない。
3:ゆきの使役するアサシンを強く警戒。だがこの段階においては……
4:ブレイバー(結城友奈)に対する極めて強い疑念。信用?できるわけないだろ。
5:いざとなれば適当な優勝者を仕立ててマスター陣だけでも帰還させる。
[備考]
バーサーカー(アンガ・ファンダージ)、バーサーカー(式岸軋騎)を確認しました。
すばる&アーチャー(東郷美森)、キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)とコンタクトを取りました。
アサシン(ハサン・サッバーハ)と一時交戦しました。その正体についてはある程度の予測はついてますが確信には至っていません。
C-3とD-1で起きた破壊音を遠方より確認しました。
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を無差別殺人を繰り返すヤクザと関係があると推測しています。
ライダー(ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン)及びアサシン(アカメ)と交戦しました。
ランサー(結城友奈)の変質を確認しました。
セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と情報を共有しました。
針目縫から《打ち砕く王の右手》の概念を簒奪しました。超越する人の理により無理やり支配下に置いています。
投下を終了します
甘粕、トワイス、ストラウスで予約します
投下します
時に、人界を喰らう炎魔が姿を消した頃。
時に、二柱の巨神が諸共に姿を消した頃。
寄せては返す波の音だけが、白き月光照らす静寂の中に木霊していた。鋼鉄の黒き断崖に打ち付ける、大洋の一部が砕ける音を聞く。
相模湾沖、戦艦伊吹が甲板の上。
荘厳にして巨大なる漆黒の異形戦艦の擁せし奇怪なる表微の只中にあって、二つの人影が屹立していた。
幻想そのものである二人。
神秘が形を成したる二人。
神話によって生み出された伝説を糧として成立し得る壮麗なる生物、その再現だ。
一人は男。
夜の静寂こそが似合う男であり、今や、夜そのものに身を浸す者であった。
優に自らの半身さえも超える漆黒の長剣を携え、黒衣を纏うその姿はまさしく夜魔そのもの。しかし見るがいい、夜に這い出たる魔性が如き姿とは裏腹に、総身より否応なく感じられる覇気の清廉なるを。
一人は男。
恒星が如き意思の滾りを瞳に宿す男であり、愉悦とも諧謔ともつかぬ笑みを口許に湛える者であった。
彼は慈愛と善性のみを心の裡に秘めて、しかしだとすれば、彼の身から放たれたる悍ましきは一体何であるというのか。およそ人は彼を目の前にして正気を保てまい。人類種の理想を体現する意志の燃焼は熱となって、他者の心を等しく燃やし尽くすからだ。
名を、ローズレッド・ストラウス。赤薔薇王、夜闇の魔人、万能の叡智持つ貴種。
名を、甘粕正彦。原初の盧生、審判者、光輝の魔王、神をも嘲笑う楽園の統治者。
いずれも劣らぬ輝きを持つ両者であった。英霊という超越者の基準に照らし合わせても尚、規格外としか形容のしようがない二人だ。あまりに度外れた存在の質量によって、二人の立つ空間が捩じれ狂っていく様は、きっと幻視などではあるまい。
古くも尊き神々の威光を冒涜し、陵辱せしめたるが如くして相模湾沖十数キロメートルに聳え立つ、鋼鉄の威容。その永い生涯において数多の神秘を目にしてきたストラウスにとっても、それは異形の光景であった。一見して正統なる教会にも見えるそれは、伴天連の意匠を基礎として有象無象の雑多な信仰が入り混じった異形の宗教設備。涜神そのものである代わり、その主である甘粕の揺るぎないまでの輝きが仄かに垣間見える。それは神々など人の作りし道具であると豪語してやまない彼の誇りと自負こそが形となったものであるのか。
視界の中央に甘粕とその背後に聳える異形尖塔を捉え、ストラウスは小さく息を吐く。
これだ。これこそが最後の敵だ。
焔魔でもなく、鋼鉄でもなく、白狼でもなく。ましてや英雄王や第四たる人類悪ですらなく。
これこそがストラウスの行き着く最後の敵手であった。いいやあるいは、これすらもが通過点に過ぎぬと彼は言うだろうが。
「ようこそ我が城へ。聖杯戦争の勝利者足り得る強者よ。お前の到来を待ちわびていた」
口火を切ったのは甘粕の側だった。
彼の口調に敵意はない。むしろ場違いとも言うべき友愛の情に満ち溢れていた。
だが、友好の意を示す彼の前にあって、気を緩め安堵する者が果たしてこの世に存在し得るであろうか。
現に今、ストラウスの精神は最大級の畏怖を感じていた。黄金の三騎士とさえも渡り合い、『幸福』の災禍すら意に介さない赤薔薇が、まさか畏怖などと!
だがそれも致し方なきこと。何故ならば───
ストラウスが星を砕く者であるならば、甘粕は星を背負う者。
生きとし生ける人類種の代表者、隔絶なりし盧生の器なれば。
「海洋には焦熱の華が咲き、空には滅びの使徒が降り、地には巨いなる二柱の神が相争う涜神の都市にて。
よくぞ生き延びた。その健闘を讃えさせてくれ。俺はお前の強さを心から尊敬している」
「よく言う。お前が積極的に事態へ介入していたならば、この都市は更なる混沌の様相を呈しただろうに。
支配者気取りで高みより見下ろすはお前の趣味ではあるまい。それとも、これが得意の裁定とやらか?」
「手厳しいな。年長者から青さを指摘されるのはいつも耳が痛いものだ。
だが一つ訂正させてもらおうか。確かに俺は支配者を気取るつもりはないが、同時に裁定者も趣味ではないのだ」
嘯き笑みを深める甘粕とは対照的に、ストラウスは訝しげな気配を濃くする。
「この身に得たる盧生としての属性は『裁き』ではあるがね。しかし俺は己一人が大上段より人々を睥睨することを好みはせん。
我も人、彼も人。故に対等、基本であろう。
人の世とは、そこに生きる全ての個人が作り上げるもの。上から強制された意思などに一体どれほどの価値があるという」
「ならばお前は、一人の人間としてこの舞台に関わったと?」
「その通り。審判者でも魔王でも、ましてや盧生やサーヴァントでもない。世を生きる一人の男として、俺はこの聖杯戦争に臨んだ。
力の有無を俺は問わん。善悪正邪の違いさえ俺は咎めん。必要なのは心であり、己が願いにかける精神の多寡であればこそ。
絶望の底より示される人の愛を、俺は対等の立場で寿ぎたかった」
つまるところ、甘粕はこの都市の誰しもに価値と機会を見出していたのだ。
奮起せよ、勇気を示せ、受け入れがたい現実があるならいざ立ち上がり戦うのだ、と。彼は鎌倉の全てに向けて必死に叫び続けていた。
無論、マスターやサーヴァントは最初から戦う覚悟を持って赴いた者ら故に、相応の期待は抱いていたが。勇気を示したのが名もなき一般市民であろうとも、その意思が本物であるならば彼は本心より喝采して迎え入れただろう。
「そう、願っていたのだがな」
しかし現実はどうか。
幾度も繰り返される破壊と絶望にあって、この都市に生きる人々はどうなったのか。
戦艦に立つのが甘粕とストラウスの二人だけであるというこの状況こそが、総てを物語っていた。
「彼らのことは残念だった。ああ、心の底から悔しく思う。万人の持つ素晴らしさは決してその程度ではないのだと、彼らに代わり俺こそが叫んでやりたかった。
彼らは勇気無きがために死に絶えた。だがその代わりに───」
「代わりに、我々のような者が生き残った」
「その通りだ!」
憂いに翳っていた甘粕の面が、突如として喜悦に歪んで上げられた。
「神話もかくやという地獄の日々を、どうあれ生き抜いた者たちがいる。俺は言ったな、お前の強さを尊敬していると。その言葉に嘘はない。俺はお前を、お前たちを、心より愛しているのだと満天下に謳い上げよう!
現に今こうして俺と向かい合っているお前という男の、何と勇敢で雄々しいことか。そしてお前と同様に、戦場を駆け抜けた英傑たちの何と輝かしく美しいことか!」
明らかな興奮状態に移行して、声も高らかに叫ぶ甘粕の顔はこれまで以上の喜悦に歪んでいた。それはまさしく狂喜乱舞という他なく、明快に豪胆に熱く雄々しく滾りながら叫ばれる彼の"願い"そのものでもあった。
「このような素晴らしい人間性を、命の燃やす輝きを、失わせるなど断じてあってなるものか。劣化などさせはしない。
だが人はひとたび安寧に身を浸せばどうなる? 生来抱えた惰性のために、その美徳を自ら手放してしまう。この鎌倉の住人たちのようにな。
彼らとて本来はお前たちに勝るとも劣らない素晴らしき人間だったろうに。何が彼らを堕落させた? 何が彼らを衆愚にまで貶めた───決まっている。
ならば結構、必要とされているのは試練である。立ち向かい、乗り越え、克服すべき高い壁に違いない!
希求されるのは即ち、それらを掲げ、人々に授ける魔王のごとき存在であるのだと!」
甘粕は喝破する。最早誰もいなくなってしまった、月の見下ろす鎌倉の空に向けて。
「俺は今この時より魔王として君臨しよう!
この都市に集う全ての者を鏖殺し、聖杯の寄る辺の果てに遍く人が救われる楽園をこそ築き上げよう!
無論阻止したくば立ち塞がるがいい。俺を否と弾劾し滅ぼさんとするならば、存分にその刃を向けるがいい。振り絞られる勇気と戦意、なんと素晴らしく輝いていることか!
俺に抗い、立ち向かおうとする雄々しい者たち。その命が放つ輝きを未来永劫、愛していたい! 慈しんで、尊びたいのだ。守り抜きたいと切に願う!
人間賛歌を謳わせてくれ、喉が枯れ果てるほどに!」
甘粕は今や両腕を大きく広げ、哄笑とも絶叫ともつかないほどの大喝采を上げている。それは今この瞬間より、ストラウスを含めた全てのマスターとサーヴァントを虐殺するという宣言に他ならない。
それに対し、ストラウスは無言。眉の一つも動かさぬまま、ただ凄然と言葉を紡ぐ。
「実のところ、お前とは話し合いで決着がつくならそれでいいと考えていた」
冷たく呟かれたその声から、感情の色を推し量ることはできなかった。
「私の役目は外界からの介入の動機付け。すなわちこの都市唯一の稀人なるお前への忠言なれば、言葉だけで解決する可能性もあるいは、と。
お前以外の脅威も依然として存在する以上、既に死に体とはいえ私という戦力が存命するに越したことはないと、頭の隅で考えてはいたのだがな。
しかしこうして話してみて実感したよ。お前は根本的に他者の話を聞き入れない。文字列として解し意味を咀嚼できても、真の意味で受け入れることはないのだ。そもそも口では大層なことを言っているが、お前は別に人類の行く末を真に憂いているわけではあるまい。
人の勇気が好きなのだろう? それ以外のあらゆる感情的行動が嫌いでならないのだろう? 結局のところ、お前は自分の好きなものだけをずっと眺めていたいなどという、稚児めいた我儘を喚き散らしているに過ぎない。
なるほど確かに、盧生とは人類悪の別側面であるという事実にも頷ける」
試練を以て人の勇気を喚起させる甘粕の世界は、仮に愛と勇気と希望を以て試練を乗り越えたとしてまた新たな試練を課すだけの代物である。
乗り越えた先に得られるものは何もなく、人類は悪戯に輝きを摩耗させられ、いずれは耐えきれず一人また一人と死んでいく。
休みなく動かし続ければどんな人間だって倒れてしまうと、そんなことは誰だって簡単に分かる自明の理であるはずなのに、甘粕にそんな理屈は通用しない。
勇気を見せた、ならばもっとだ。次の勇気を更なる勇気を、もっともっとお前の素晴らしきを見せて俺を満足させてくれと───そうした果てに人類は一人残らず甘粕の手で皆殺しにされ、後には何も残らない。
それこそが楽園(ぱらいそ)。生きる者の誰もいない、文字通りの失楽園。
端的に言って、それは煌びやかな地獄だろう。誰もが胸に迫る輝きを発露して、その果てに誰もが無為に死んでいく。ドラマチックでヒロイックで、遠くから見ている分には面白可笑しいだけの代物。
つまるところ、甘粕は人類を娯楽消費の道具としか見ていない。自分を気持ちよくさせるためだけに存在する70億の大衆娯楽、それが彼の人類に対する認識だ。
「お前は私を尊敬に値すると言ったな。だが実際のところ、お前は私のことなど"見込みがある側"のその他大勢にしか捉えていまい。
故に私が何を言おうと、お前の芯には届かない。どんな理屈も訴えも、お前に対して何の意味を為しはしない」
「そうか───ならばどうする?」
「決まっている」
黒剣が俄かに蠢動を開始する。滾る魔力が形となり、総身を覆う鎧となる。
ストラウスの影より立ち昇る黒の全て、剣呑なる気配を以て敵を滅ぼす暴威と為す。
「力づくでお前を打ち倒し、地に這いつくばったその耳に情報を叩き込むとする。
言って聞かぬ子供には仕置きが必要だと、それは万国に共通の概念だろうよ」
「ふ、はは、ふはははははははははははははは!!
いいだろう、来るがいい! 先にも言ったが信念と主張の是非を俺は問わん。掲げるに足る意思の強ささえあれば、俺はお前を善し哉と認めよう!」
天井知らずに膨れ上がるは両者の闘気か。今や可視化されるまでに濃度を増した魔力は海面すら微塵に砕き、荒れる潮を背景に周囲一帯へと降り注ぐ。
ストラウスは剣を取り、甘粕は印を結ぶ。両者の相対距離は僅か5m、されど万夫不当の英傑ですら踏破は困難となる絶死の間合いに他ならない。
そして二人は、共に至上の戦意を湛えて。
「ライダーのサーヴァント、真名甘粕正彦が参る!」
「アーチャーのサーヴァント、真名ローズレッド・ストラウス。
今この時を以て、お前と相対する」
次の瞬間、周辺海域そのものを吹き飛ばす極大の光と衝撃が、戦端の火蓋を切って落としたのだった。
▼ ▼ ▼
世界が光に満たされた。
視界を覆う白光は大海原の悉くを埋め尽くして、次いで伝播する破砕音の大残響が夜気に沈む大気を揺るがす。
「散」の咒法。
それは射程拡大を促す邯鄲法の中にあって、無差別の大規模拡散を得手とする咒法である。そして今甘粕が放った散の一撃には、更に解法の「崩」と「透」が重ねられており、これに触れたら最期、爆発の衝撃自体が体内へ100%浸透し内側より原子核レベルで分解作用が生じるのだ。
紛れもない防御無視の一撃。例え不死不滅を謳う英霊であろうとも、肉体を構成する魔力ごと原子分解されては霊核の再構築は叶うまい。
しかし。
「──────」
白光満つる爆散の只中より、自身も巻き込まれたはずであろうに当然のように無傷のまま姿を現した甘粕は、忘我にも近い表情で彼方を見上げた。
その貌には憧憬とも賛美とも取れる感情が滲み出て、ならばこれは勝利者による敗者への弔いであるのか。光の中に消えていった赤薔薇を礼賛する心の動きなのか。
いいや違う。彼はこの程度で死になどしない。
赤い彩が躍る。血の真紅が。
あたかも漆黒の夜空を呪うかのように。
見上げた先の中天、白銀の大月の中心に縁どられる影が一つ。
清廉なる大翼。
鋭凶なる刀刃。
目にするだけでも心臓が騒ぐほどの、力満つ気配。
具象化した武。天より降りた神、あるいは地より這い出た鬼なるものか。
影なる黒の中、開かれた真紅の双眸が違い無く甘粕を射貫く。
其は、何か。何者か。
それは在るべくもなく、見誤るべくもなく。
然して今、其処に在るもの。
其は───
真なる祖に連なる───
「笑っているのか、甘粕正彦」
低く、低く。それは血の視線と同じく零下にも等しい声。
彼の言い示す通り、今の甘粕は戦闘前と何も変わることなく喜悦の狂笑を湛え続けていた。
「なに、気を悪くしないでくれよ。何しろこの聖杯戦争が始まって以来、俺の前に初めて勇者が現れたのだからな。少々興奮を抑えきれん」
「お前の気質云々に最早言うべきことはない。それがお前の本性だ、などと吹聴する気もない。
お前が抱くは歪みきってはいれど確かな愛、それも人類ごと世界を滅ぼす七つの災害そのものなれば」
「それはそれは、お褒めに預かり恐懼感激の極みなり」
しかし、と甘粕は続ける。
「一つ訂正させてもらおうか。俺は何も殺しが好きなわけではない。血に愉悦する獣性は持っておらんし、無辜の民が穏やかに安らげる日々を心から願っている」
甘粕は心より、そうした輝ける未来が訪れることを祈っている。
彼は血も戦争も善しとしない。幼子が犬のように打ち殺され、前途ある若人が戦いの消耗品となって潰されていく世の中など断じて認めはしない。
確かな事実として、甘粕正彦は人類を愛している。そして、だからこそ───
「例えば、このような未来は何があろうと肯定するわけにはいくまい。
それはお前も同じ気概であったはずだ。なあ、民のため罪を背負い、幾億の憎悪と共に世界を放浪した者よ」
声と同時、甘粕の背後の空間に変調が発生する。
大気、魔力、あるいは空間そのものか。それらが突如として入り乱れ、変容を起こし、全く異なる姿へと強制的に変質させられていった。
物質が組み上がる。構成元素が組成される。
何もないはずの虚空より、冷たい鋼鉄の種子が現れる。
そう、これは───
「リトルボォォォォイ!!」
哄笑響く大喝破と共に、巨大なる弾頭がストラウス目掛けて射出された。押し迫る鋼鉄がまるで壁のように眼前へと飛来し、風切る音は大気ごとストラウスの頭髪を揺らす。
次瞬、爆轟する熱と光が誰しもの視界を真っ白に染め上げ、凄まじいまでの黒雲が海上一帯に波及した。
リトルボーイ。通称広島型原爆。
全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約5t。搭載されたウラン量は140ポンドにも及び、計測された核出力はTNT換算で5.5×10^13ジュールにも迫る大型の原子爆弾。
爆心点の温度は数百万度に達し、致命的熱傷は中心点より1.2㎞地点にまで到達する。
すなわち、これを放たれたというその時点で逃れる術はどこにもない。
秒速にして280mに達する爆風より速く熱傷範囲外に逃れたとて、ガンマ線と中性子による放射線の重被爆には耐えきれまい。まず間違いなく即死、そうでなくとも重篤汚染による二次被害によりどう足掻こうと死に至る。
事実として、この科学と魔道の融合とも言うべき滅びの火の直撃を受けて、生き残れるサーヴァントは今聖杯戦争においても片手の指で数えられる程度しかいなかった。
「随分と舐められたものだな」
そしてもう一つの事実として、ストラウスは"生き残れる側"のサーヴァントである。
自爆同然の形で火を放ち、背後の礼拝堂部分さえも余波で吹き飛ばして、熱線の只中に立つ甘粕は驚愕と感嘆に目を見開いた。
拡散する光と熱量が、周囲を乱れ飛ぶ陽子と電子と中性子の奔流が、大渦のように流れを作ってストラウスの両掌に収束していく。それは空間的に穴を作り熱量を逃がしているのではなく、都市崩壊級の威力の全てを完全に制御した上で己の手許に凝縮させているのだ。
それが証に、見るがいい。今やストラウスの掌中にて輝ける赤色の火球は、一切の乱れなく完全な球体状に極限圧縮されている!
「その一撃は既にムスペルヘイムの檻に敗れた。そして私は、かの焦熱世界を一刀の下に斬り伏せている」
故に不足。この程度では我が首を取るどころか、薄皮一枚焼き払うこともできまい。
「受け取れ。自分の仕出かした暴挙は自らの身を以て贖うがいい」
言葉と同時、掲げられた腕より放たれるは赤色に織り成す極大熱量の光帯であった。
膨大な光熱が一直線に駆け抜けていく。万象焼き尽くす光槍はしかし周囲の一切に影響を与えることもなく、それはつまり鏖殺の炎が完全な形で集束されていることを意味していた。
広域破壊の核熱による一点集中、更にストラウス自身の力も上乗せされているために、単純な威力で言えば甘粕が放った時の十倍にも匹敵する代物と化している。
故に当然、甘粕は受け切れない。自らの渾身に耐える鎧を作り上げることはできても、それに十倍する威力に耐えることは道理として不可能であり───
「ああ、やはりお前は素晴らしい」
"その程度のことはきっとやり遂げてくれるだろう"と、最初から確信していた甘粕は何ら臆することなく腕を振るった。
「ならば、これならどうだ!」
雷霆をも凌駕する速度の熱線にさえ先んじる速度で組み上げられる組成式。極低温下における超伝導体及び電磁石、臨界プラズマ条件、リチウム、トリチウム、デューテリウム。核融合反応を閉じ込める原子炉が構築され、内界に非常識なまでの熱核エネルギーが凝縮されていく。
ストラウスが魅せた所業を前に、負けてなるものかと甘粕が吼え猛る。
渾身の一撃が十倍になって叩き返された?
ならばよかろう、六千倍だ。
「ツァーリ・ボンバァァァァ!!」
それはまさしく悪夢の具現。先の一撃と同じく巨大な鋼鉄の弾頭が組み上がる。
それはリトルボーイにも似て、しかし基準となる威力の桁が根本的に違い過ぎる。
ツァーリ・ボンバ。皇帝の名を冠する人類史上最大の水素爆弾。
単一兵器としての威力は間違いなく既知科学最強であり、その出力はTNT換算で優に100メガトンを超える。リトルボーイの6600倍にも及び、第二次世界大戦中に使用された総爆薬量の10倍にも匹敵するこの爆弾は、唯一の大気圏内核実験において爆心地から2000㎞離れた地点からも爆発が確認され、その衝撃は地球を三周したという。
───言語を絶する大音響が迸り、周辺海域全体を黙示録さながらの光が染め上げた。
ストラウスの放った熱線など煙のように掻き消される。連鎖的に発生する小規模の爆発群は蒸発した海水による水蒸気爆発か、大地震もかくやという激震は果たして爆発による余波だけによるものなのか。それさえ衝撃波の嵐に撹拌される知覚領域では確認することも許されない。
甘粕、二度目の自爆である。過去の実験においてさえ高度4000mにて起爆したこの兵器を、鼻先1mにも満たない地点で起動させればどうなるか。結果など火を見るよりも明らかであり、しかし甘粕はそんな常識などまるで意に介さない。
信じている。信じている。己が相対するに相応しいと認めた勇者は、この程度の花火など造作もなく無力化するに違いないのだと。
信じるが故に躊躇うことなく、そして彼の思う通りに事態は進行する。
「───!」
爆発の余剰として周囲一帯に拡散するキノコ雲。灰燼さながらに黒く染め上げるそれらを切り裂いて、一閃の斬光が甘粕へと飛来した。
黒煙を突き抜ける一弾の影、それは身を沈めて駆ける一人の男の姿であった。右脚を蹴って首を落とし、左足を踏んで背を屈む。地を這う長虫のように砂を舐める心地で、自らの頭を甘粕の足元へと投げ込むが如く。
月光と己を敵影が遮る。影の中で体躯を跳ね起こし、刃を送る。
切り上げ───
「フッ!」
その先を制して。
待ち構えていた、正中を抜ける一閃。
腰元より抜き放たれた旧日本軍の軍刀は正確に滑り込む影の頭頂を狙撃した。
甘粕は創形に優れたる至上の射手であり物質創造者であるが、しかしそれは近接における手練手管の未熟を意味するものではない。戟法の剛と迅、膂力と速度をも人外の域に押し上げたる一撃は文字通り雲耀の太刀が如き一閃となりて敵手を薙ぎ払う。
───予測通り。
切り上げと見せかけた剣を手許に引き込み、かち上げる。
軍刀の打ち下ろしと激突し、反発し、最終的に受け流す。方向を逸らされた刃が流れ、肩を掠めて行き過ぐ。
然して影の眼前には、甘粕の脇腹が無防備に晒されて在り。
手首を返しての一斬。据え物も同然の隙所を狙い澄ました剣閃にて割り切る。
鳴り響く、金属音。
「くっ、ふは、はははははは───!」
真横の一閃を返す刃で受け止めて、甘粕は歓喜の哄笑を上げる。
影なる者、ストラウス。黒剣振り翳すその姿には手傷の一つも見当たらない。
ローズレッド・ストラウス、甘粕正彦、共に健在。無辺無尽なる光の直撃を受けてなお微塵の翳りもなく。
人類が作り出し給う史上最強の火力でさえ、彼らには届かないというのか。
「核兵器の創形。神秘としてのランクこそ低いものの、生じる魔力総量と効果範囲は対国宝具と大差あるまい。単純威力ならば対城宝具にも比肩し得るか」
それは例えば大海を割る聖者の奇跡ならざりし、大地を割る弓兵の聖なる献身にも酷似した性質。
近現代に作り出された純科学の産物なれば神秘としての格こそ最底辺に近いものの、広域破壊に特化されているため純粋な火力ならば高ランク宝具の真名解放をすら上回る。
だが彼の流星一条との違いを挙げるならば。
これは壊れた幻想に類する自壊の必要さえなく、そもそも宝具の一撃ですらないということか。
「見事なものだ。異能による火力向上の咒さえ使うことなく、物質形成のみでここまでの破壊をもたらすとは」
「それを言うなら、二重の意味で俺の攻撃を防ぎきったお前こそ流石だよ」
笑う甘粕の言葉通り、ストラウスが先の一撃を無力化した事実には絡繰りがある。
鍔迫り合う黒衣の男の総身からは、その気配と同じくして漆黒なる魔力の瘴気が奔流の域となって放出されている。
物質を跡形もなく消滅させる魔力の波動。分子間結合崩壊能力。無機物有機物を問わず触れたもの悉くを崩壊させる魔業である。
それはかつて甘粕が見せた解法の「崩」に似て、しかし根源的な部分で性質を異とするものだ。解法の「崩」とは純粋な破壊エネルギーを叩きつけることで無理やりに物質を崩壊させる、いわばプラスの力であるが、ストラウスの纏う波動はただただ物質の持つエネルギーを吸奪・消失させるマイナスの力なのだ。
物理魔力の区別なく、有形無形すらをも問うことなく破壊せしめるそれは、あまりの分解速度に消滅したと錯覚させるほど。
巨大質量も熱量も、爆風や放射線による汚染さえ、この世という画布から消しゴムで削り取られでもしたかのように、形を失い霧散する。
漆黒の瘴気に接触すれば、ただ幻のように溶けて消える。
甘粕がストラウスの持つ黒剣と曲がりなりにも剣戟を行えているのは、彼が同質かつ同等の力を行使しているため相殺に成功しているからである。そうでなくばこの状態のストラウスには如何なる攻撃も如何なる防御も無意味であり、剣が振るわれたその時点で決着はついていただろう。
そして彼の遥か後方、戦艦伊吹の坐する海洋より直線距離で20㎞地点にある由比ヶ浜の海岸線には、ある異常が見受けられた。
ツァーリ・ボンバによる黒煙が、その地点より先に進んでいない。まるで見えない壁に遮られているかのように、その手前までしか充満することができず一種異様な光景を形作っているのだ。
そしてその印象は正しい。実際その場所には、ストラウスが作り上げた「見えない壁」が存在する。
相転移式次元断層二十四層、上空三万mにまで多重展開された不可視の空間障壁はツァーリ・ボンバのもたらす破壊の全てを柳のように受け止めて、衝撃そのものを相転移させることで内部にある鎌倉市に一切の運動力を伝えることなく完璧に遮断してみせたのだ。
衝撃さえ防いでしまえば、水素爆弾という性質上放射能汚染の少ないツァーリ・ボンバは完全に無力化したと言っていい。背後に守るべきものがあるストラウスにとって、皇帝の一撃はむしろリトルボーイよりも対処が容易な代物とさえ言うことができた。
「守るべきを守るため立ち上がり、背負うべきを背負うため俺の前に立ち塞がるか。いいぞ、勇者とはそうでなくてはならん。
愛のため友のため誓いのため、雄々しくも立ち向かう意思こそが事を為す。人の持つ未来への躍動を前にすれば、如何なる道理も意味を為さぬのだから」
語る甘粕の周囲では、軋み炎上する息吹の甲板が崩壊を始め、バラバラと中空にばらけて行っては不穏な音を立てている。
既に全壊同然、沈没し始めている伊吹の上にあってなお、甘粕の泰然さは崩れない。そも彼の邯鄲法行使者としての属性は射手。咒法の射と創法の形に異常特化しているからこそ、本来騎乗物の扱いなど余技のまた余技でしかないのだ。
ライダーとして召喚されたということ自体が、彼にとってはこれ以上ない足枷となって機能する。
そして。
「故に、これは"サーヴァントとしての"俺の全力だ。
防がせなどせんよ、先とは出力の桁が違う」
そして、仮にアーチャーとして現界していればどうなるか。
その答えがここにある。防ぎなどさせないと宣言する甘粕の言う通り、彼は「透」による解析によりストラウスの力の粗方を理解している。分子結合崩壊の波動も位相空間による障壁も、その性質を看破した上でなお貫けると確信しているのだ。
させじと放たれるストラウスの左掌。拳ではなく掌底による螺旋の一撃だ。曲線になぞられた軌跡がどこか歪曲して見えたのは、それが空間さえ捻じ曲げる規模の振動を纏っているがためである。
その速度は音速の十倍程度とストラウスが放つにはあまりにも鈍足に過ぎたが、しかし渾身の力を込める甘粕の隙を突いて放たれたるがために回避も防御も間に合わない。
喝采する甘粕の胸に突き刺さる掌底は、彼を打倒するにはあまりにもか弱い一撃だった。まるで手弱女の張り手の如く、しかしそう思えたのは接触直後より1ナノ秒あるかないかであり、異常はすぐさま現れる。
ストラウスの与えた衝撃の干渉力が、時間経過と共に累乗倍となって甘粕の体内に炸裂した。最初は蚊に刺された程度の痛痒しか与えなかったそれが、次の瞬間には大剣で突き刺されるに等しい痛みに、更に次の瞬間には巨人に圧し潰されるに等しい衝撃となって全身を伝播した。
最終的には小惑星衝突に匹敵する超絶規模の衝撃が体内にて膨張・撹拌し、弾かれるように吹き飛ばされた甘粕の身体は中空にて柘榴のように弾け飛んだ。それはまさしく血肉の華が咲き誇るが如く、内臓や骨格に筋線維、脳髄や心臓に至るまでを悉く圧壊させる内部破壊に晒されて生存し得る人類は存在しない。
そのはずであるというのに、ああそれは見間違いなどではなく。
甘粕は、笑った。
「神鳴る裁きよ、降れい雷───」
瞬間、訪れたのは鳴動する大気の悲鳴であった。
空間が震える。世界が揺れる。まるで地球そのものを包み込む銃口が地上に突きつけられているが如く、あまりにも剣呑に過ぎる気配が夜空の向こうに描かれ始めた。
改変されていく既存物理法則、圧し潰される大気の層。見る者が見たならば、遥か天空の彼方において何万通りもの物理方程式が組み上げられていくに等しい光景を目にすることができただろう。
惑星の自転と公転、月と太陽の周回軌道にGPSナビゲーションと重力加速エネルギー。それはまさしく、この星が持つ力そのもの。
ああ、太陽の代わりに、月の代わりに、空へと浮かぶ黒円がある。
かつて都市を覆った焦熱の天蓋よりもなお広大に、見渡す限りの空の果てまでをも埋め尽くす。
宇宙の理さえも捻じ伏せて、光り輝く終末の破壊が空より来たる。
その名を───
「ロッズ・フロム・ゴォォォォォッド!!」
そして今、残響すら置き去りにして放たれた破壊の鉄槌が、術者の坐す戦艦さえも真っ二つにへし折って地上に穿たれたのだった。
投下を終了します。続きはそのうち投下します
続きを投下します
かつて、私はひとつの命題を定めた。
それは、絶望と破壊とがひしめく戦場で、力なき誰かの嘆きを耳にしたからなのかもしれない。
それは、嘆きのみを湛える彼らを救った者の、果て無き希望と輝きを垣間見たからなのかもしれない。
あるいは、NPCとして再現されたが故に発生した、壊れた思考が算出する論理のエラーからくるものなのかもしれない。
即ち───
かつてそうであったように、人間の全ては、絶望の中で光を見出せるのか。
認めよう。殺し合う事は避けられない。
肉親でさえ、隣人でさえ、競い合う相手なのだと。それが人間の本質だ。
動物を絶命させ、資源を食い荒らし、消費するだけの命。
しかし、ならば――
彼らの争いには、何の意味があったのか
確かめねばなるまい。私は、確かめなければ、ならないだろう。
我が命題に解答を。人よ、その価値を証明せよ。
幾百、幾千、幾億万の月日を重ねようとも。たとえ無限にも等しい繰り返しを積み上げようとも。
そう、全ては。
嘆きの果てに消えぬ願い。恐怖の果てに消えぬ望みを求めて。
私は───
◆
「私は、どちらでも良かったんだ」
轟音が聞こえる。
轟音が聞こえる。
かつては青白い月の光だけが差し込む静謐な空間であっただろう、異形なるも厳かなる聖堂は、今や爆撃すら超過する域の衝撃と灼光に晒されて、余人では立ち上がれぬほどの揺れに襲われて。
それでも彼は、トワイス・H・ピースマンは微塵の揺らぎもなく座し続ける。その肉体に瑕疵はなく、その表情に激情はなく、ただ在るがままの姿のままに。
「私はこの停滞に耽る世界を認めることはできない。だが現世界の否定だけを考えるならば、勝ち残るのは甘粕正彦の側でも問題はなかった。
ローズレッド・ストラウスが勝てば裁定者のマスターが敷いた世界の理が一つ外され、甘粕正彦が勝てばあらゆる目論見は力づくで破壊される。
だから、この局面に誘導できたその時点で、結末は最早どちらでも良かったのだ」
単純化した状況下で取れる行動は少ない。策謀や計略、暗躍といった類のものは複雑怪奇な状況でしか成立せず、状況が単純であれば単純に正面から戦う他にない。今やこの聖杯戦争において、そんな小手先が入り込める隙間など完全皆無と言えるだろう。そのくらい赤薔薇は最初から承知しているだろうし、甘粕はそもそも頭を使わない。
外の戦いは佳境に入りつつあるのだろう。吸い取られていく魔力と、否応なく感じられる剣呑な気配の高まりがそう思わせる。
今や、甘粕はトワイスのことなど頓着しないだろう。思考の隅に残っているかどうか。あれは極端な刹那主義者である故に、自分の好きなものが目の前に現れてはそれ以外が眼中から外れてしまう。
人類を救うと言った口で"ついうっかり"人類を滅ぼしかける、そのどちらもが本心から出た言葉と行動であるというのだから始末に負えない。
だから今この瞬間も、サーヴァントの不文律など忘却の彼方に追いやって、トワイスごと赤薔薇を攻撃してもおかしくないのだ。
「未練も後悔も尽き果てた。今や私には全てが既知であり、故に廃神たるこの身は幾ばくの猶予もなく崩壊し消え去るだろう」
真実を知った者は去らねばならない。世界は滅びた、救済者は死んだ、そして神も死ぬ。
「だが、それでも。君の顕現を、私は今まで観測することができなかった。遺憾ではあるが嬉しくもある」
そして───
呟くトワイスの目前で、十字架の上よりそれは舞い降りる。
誰もいないはずなのに。機械の女が、トワイスの前に現れる。
それは確かに女であったが、
それは確かに人間ではないようにも見えた。
それは、酷く鉄錆の匂いがした。
教会に、女が舞い降りる。
十字架の上から、女がその姿を顕して。
ふわり、と。
トワイスの前に降りて。
激しく揺れる聖堂が、その瞬間だけは何故か、一切が静止したようにも感じた。
その女はトワイスに告げる。
人間め、孤独の動物よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
神の観測する場所ならどこへでも。
『───ひとりなのね』
『かわいそうに。ひとりで何度も繰り返して。
誰かと分かち合うこともできないの?』
「ああ。そうか、君が……」
分かることがあった。トワイスにはひとつだけ。
仮にこの聖杯戦争が"そう"だとするならば、きっといるであろう存在。
それこそがこの女であるのか。高みにて見下ろす者、まさか本人ではなかろうが。
使者か、あるいは端末か。それでも女は舞い降りて。
『その声だけで十分。
すべて、わたしはすべて分かるの』
『あなた、もう諦めてもよくてよ?』
『声こそが、言葉こそがメモリー。
我が主もそう仰るに違いないのだから』
その身に備わるものを、女は動かす。
その身に備わる蓄音機。発声器。
そこには響くだろう。
メモリーが。
そこには蘇るだろう。
メモリーが。
姿を映すことはなく。
ただ、声、言葉のみを響かせて。
耐えきれない現実と共に。
耐えきれない過去と共に。
聞かせる。聞かせて、決して逃がさない。
聞かせて───
脳髄、揺らして───
心、軋ませて───
『さあ、聞こえるかしら?』
『戦火の音。
銃火の音。
そうよ、あなたは聞いてしまうの』
『ずっと聞いていればよいの。
ね、ずっと。ずっと、ずっと』
『あなた自身のメモリーが消えてしまうまで。
ずっと、ずっと』
『過去に縋りついても構わなくてよ?
ほうら、聞こえる───』
優美な声は残酷に。
優美な声は冷酷に。
トワイスの望みを女は叶えるだろう。
残酷に、冷酷に、無慈悲に。
たとえば───
欠落から生まれるはずの成果であるとか。
たとえば───
躍動より生まれるはずの可能性であるとか。
擦り減らして取り込んで、
両耳に擦り込んで取り込んで、
そして、人間を消してしまう。
『愛しい人々の声。言葉
あなただけに聞こえる希望の声。
ほら、聞こえるでしょう?』
『メモリーなんて簡単に歪む。
ほらほら、望むままに変えてしまっていいの』
『都合の悪いものなんて。
なかったことにして、それでいい』
『気持ちよくしましょう? 諦めてしまいましょう?
それが、一番、あなたのため』
「何を勘違いしているかは知らないが」
強い意思と共に右手を振るう。邪魔者を退かすように。たったそれだけで女の姿は掻き消された。
煙のように払われて消える。所詮、鉄の女は幻に過ぎない。
「諦める? 何を今さら。人間は始めから諦めている。
全能ではないのだから。我々は諦めながらでしか生きられない生物だ。
そんなことを、まさか、神の代弁者たる君が?」
嗤う。それは文字通りの嘲笑であって、彼が人類に捧げる畏敬の念など微塵も見当たらない。
彼は神を嗤っているのだから。そんなものはどこにもない。
「だとすれば、神の言葉なるモノのなんと浅薄で愚鈍なものであることか。
この舞台において得られるものなど何一つないと思っていたが、それだけは僥倖だったな。どうやら、覚者(ひと)は君(かみ)より多くを思慮することができるらしい」
そして彼は右手を掲げる。
幻を払いのけた手、そこに刻まれた赤い紋様を天に翳して。
「証明は為された。故にこそ、令呪を以て我らが希望へと提言しよう」
「悔い無き戦いを」
「全霊の境地を」
「そして戦いの果てに負けを認めることがあったなら、その時くらいは他者の話を聞いてみるといい」
三度、彼の手が輝いて。そして一切の光を失う。
全てを成し遂げたと腕を下げるトワイスは、どこか疲れ果てた老人のような面持ちで呟く。
「終わりだ。願わくば、この都市に集いし廃神の諸々よ。どうか倒れてくれるな。
全ては自我という奇跡を与えられて再誕した、その責務のため」
「喝采はない。喝采はない。
私も君達も存在しない。あるのは純粋な願いだけだ。
されど私は祝福しよう。君達は確かに、各々が譲れぬ想いを持っていたのだから」
「すべての想いに巡り来る祝福を。
そしてそれこそが、この都市の真実である」
そして、彼が聞いたメモリーそのままに。
戦火の音が、銃火の音が、爆光と共に聖堂ごとを貫いて───
▼ ▼ ▼
神の杖。
あるいはロッズ・フロム・ゴッドと呼称される兵器がある。
タングステン、ウラン、チタンから成る全長6mあまりの金属棒に小型推進ロケットを取りつけ、高度1000㎞の衛星軌道上より射出、地上へと投下するというものだ。
運動エネルギー弾、つまりは規模こそ巨大なれど単純な落下物に過ぎないのだが、そこに含まれる破壊力は見た目から来る印象とは程遠いまでに桁外れである。
落下中の速度は11,587㎞/hにも達し、激突による破壊力は核爆発に匹敵するのみならず、地下数百mの目標を狙って破壊することさえ可能であるとされている。
この兵器の有用性は即応性や命中性、そして電磁波を放出しないことによる隠密性にあり、単純な破壊力では現行の核兵器と大して差は存在しない。翻って現状、甘粕が切り札として使用するには些か不足であることは否めないようにも思える。
端的に言おう。
この時、この局面において、やはり甘粕正彦は"やらかして"しまったのだ。
創形とは術者のイメージを現実に投影することで生み出される代物であり、つまりは実物と全く同じものが作られるとは限らない。食べたことのない食材は形を真似ることはできても味を再現することはできず、銃の内部構造を知らなければ忠実に再現することは不可能だ。それは逆に言えば、イメージさえしっかり持つことができるならば誇大に作成することも可能であるということだ。
大きさ、重量、推進機構の肥大強化。「崩」から来る単純物理エネルギーの増大に重力キャンセルによる加速度の累乗倍化。導かれる速度は音速どころか第三宇宙速度さえ遥か凌駕し、断熱圧縮による電離は摂氏数十万度にまで上昇。発生する熱量を一切外部に漏らさぬまま接触した敵手のみを貫く断熱機構すら瞬時に創形した。
加えて言うなら甘粕正彦は「審判」の盧生。神の裁きを体現するこの宝具の使用に際し、聖四文字の権能たる光の裁きを属性付与することにより概念的な破壊強度は更に跳ね上がる。
故にこれは文字通りの神の杖。人類鏖殺の審判に相応しい一撃であると言えるだろう。
そんなものが落とされてしまえばどうなるか。最早火を見るよりも明らかだった。
──────!!
光そのものとしか言いようがない鉄槌が降り注いだ瞬間、その一瞬だけ漆黒の海上に巨大な大穴が穿たれた。
同時に発生する大規模震動は相模湾という大洋そのものを、いいや鎌倉が存在する大地までをも、弾け飛ぶ蒴果の如くに揺らした。激突に伴う大轟音は存在しなかった。音が伝播するために必要な大気の悉くは一帯から消し飛ばされたのだ。代わりに周辺海域に伝わるものは、瀑布としか形容できない域の衝撃と、網膜を焼き尽くす大光量の波濤であった。
天までを衝く柱が如き大爆熱が地上に降りた瞬間、光の柱を中心に海面を押し上げるように消滅させ、そのまま海中へと消えていき───
そうして生まれたのが、先ほどまで二人が相争っていた地点に刻まれた大穴だった。直径は百数十m、深さは優に数千mを超えているであろう、海中どころか海底の地盤さえ削岩したかのように削り取られた大穴は黒く空虚な伽藍堂を晒している。
そして一瞬の静寂の後、巻き起こるのは空白となった空間に雪崩れ込む海水と大気の大流入であった。今度こそ大轟音となってまともに震えることを許された大気の只中、甘粕はただひとり茫洋と虚空を眺めていた。
「──────」
既に、彼の足もとからは戦艦伊吹は喪われていた。他ならぬ彼自身の攻撃が、最早足場とする戦艦など不必要とばかりに諸共ストラウスを射抜いたのだ。マスターたるトワイスの無事すら頓着せず、今の彼は重力を拒絶することにより、何もない虚空を踏みしめるが如く中空にて佇んでいるのだ。
甘粕は、無言。舞い上げられた大量の海水が降りしきる中、その表情はうかがえず、故に彼の思考を垣間見ることもまた不可能。
だがしかし、あれほどまでの大喝采を上げていたはずの彼が、何故今になって無言の体となっているのか。
───ならば見るがいい。此処に顕れたる不条理の権化を。
甘粕正彦が文字通りの理不尽の体現者であるというならば、対峙する強者もまた、同じくして不条理を体現するものでなくてはならないのだから。
「終わりか、甘粕正彦」
影が───
ローズレッド・ストラウスが、片手を頭上に持ち上げた姿勢のまま、中空に屹立していた。
その背には二対の巨大黒翼。一切の羽ばたきを行わないながらも、その存在自体が尋常の物理法則を超越しているが故に、空中にて静止していることに否やはない。
だが、最も信じがたいのは、彼が持ち上げる片手が支える巨大物質。
ああ、そこにはまさに───
「この威力、この精度。およそサーヴァントが持ち得る霊基総量の限界点に近いか。
なるほど確かに、坦々たる英霊ではお前に何もできないだろう」
神の杖の弾頭を真正面より受け止めるストラウスの姿が、そこにはあった。
尋常なるサーヴァントが受け得る質量ではなかったはずだ。
尋常なるサーヴァントが耐え得る熱量ではなかったはずだ。
肥大強化されたロッズ・フロム・ゴッドは、間違いなく星を貫く一撃であっただろう。北欧の大神なる権能が如き一刺し。大洋に穿たれた巨大黒穴は、神の杖の直撃ではなく墜落による余波のみで形成された代物だったのだ。
ならばその破壊と熱の全てを受け止めて、尚も砕かれることなく在り続ける黒衣の男は、一体何であるというのか。
「だが見誤ったな。我が身は既に《月落とし》を知っている」
言葉と同時に放たれる剣閃。違わず首を狙ったその一斬に、甘粕は最早為す術もない。
何故なら彼は完膚無きまでに敗北したのだから。サーヴァントとして持ち得る攻撃手段の全てを無力化され、もうこれ以上の引き出しは存在しない。
創形は破壊を為さず、戦艦伊吹は藻屑となり、神の杖は無為に帰した。聖四文字の急段は対象となる無辜の民を失い、輝きのままに剣を振るうこの男には尚更通じるはずもない。
証明は此処に成った。ライダー・甘粕正彦ではローズレッド・ストラウスに決して勝てない。
聖杯戦争に紛れ込んだ異物の盧生は、何も為せないままに排除される他にない。
「ふ───」
ならば。
「ふ、は、はは」
敗残の際に追いやられ、今まさに命を刈られんとしているこの男は。
「はは───ふはははははははははははははははははは!!!」
何故笑っている。
その哄笑の意味はなんだ、甘粕正彦!
「無論、知れたこと」
脳内に囁きかける何者かの声に応え、甘粕はサーベルで以て飛来する黒剣を受け止める。
その顔に絶望の色は皆無であり、彼はどこまでも人類種の想念を寿いでいる。
「我が同胞たる男が命を賭して俺に命じた。戦えと、全霊を振り絞れと、負けた程度で諦めるなと!
ならばそれに応えん道理はあるまい。元より俺は人の想いに応える者なれば」
最早戦闘の趨勢は決した。甘粕はストラウスに勝てない。霊基という厳然たる数値が致命的に足りず、単純な足し算の域で逆転は決して不可能であると。
ならばどうすればいい? ───決まっている。
「トワイスよ、俺はお前を誇ろう。その意思を、執念を、人類救済に懸けた願いの重さを俺は知っている。ああ分かっているとも、誰にも笑わせなどせん! 故に!」
サーヴァントとしての力量で届かないというのなら。
今この場で、サーヴァントを超越すればいいだけのこと!
「過去は此処に! 現在もまた等しく、未来もまた此処に在り!
嵐よ来たれ、雷よ来たれ! 明けの明星輝く時も! 太陽もまた、彼方にて輝くと知るがいい!」
力が溢れる。異界への門が開く。ここではないどこか別次元より、流れ込む膨大な魔力の奔流がある。
虚空に刻まれる幾何学的な巨大紋様。霊子で構成された実体なき光の線が次々と空へと奔り、得体の知れない巨大構造体を積み上げていく。
それは古代神話における権能の具現。中央には大地たるトラルテクトリ、四方には風雨水獣の四つの時代、トナルポワリを体現する二十の暦を記し外殻の八つの方位は世界そのものを映し出す。
第五の時代の創世。火の蛇シウコアトルの象徴にして現在過去未来の全てを示すもの。
その名を───
「終段・顕象───太陽遍歴(ピエドラ・デル・ソル)!!」
そして。
聖杯戦争という舞台には在り得ないはずの祝詞が、満天下に叫ばれて。
天そのものの崩落が、世界を揺るがした。
◆
阿頼耶識───仏教における唯識論では客観的実在としての外界の事物・現象の存在を否定し、この世界に存在する全てのものは心の機能、すなわち「識」が生み出したのだという基本認識を持っている。
唯識の識は八つあり、これを「八識」というが、この世界に在るあらゆる事物を生み出す原因となった識を阿頼耶識と呼ぶ。この世界の過去から未来に至る全ての因果が収められている座とも言われる。
心が望むままに形を変える、けれど永劫不変なる星海。
全ての人々の奥底に、揺蕩う無意識の大海原。
それこそが阿頼耶識───夢界第八層の根源にして人類種の精神結合体。
盧生が行使する邯鄲法とは、つまるところこの領域への到達を意味する。序段・詠段においては夢の表層、統一された規格の力を扱いに留まり、破段・急段では個々人の深層意識の具現。そして終段においては根源たるアラヤへの接続を為す。
本来水滴の一つでしかない個人が阿頼耶識という海に接続すれば、当然として意識は最小単位まで希釈され自我など残るはずもない。故に盧生にはそれに耐え得るだけの意思力が求められる。深層に辿りつける力を持つから盧生なのではなく、深層に耐えるからこそそこに辿り着く力が現れるのであり、順序が逆なのだ。
そこで大洋そのものを飲み下す大口となるか、水底でもなお輝きを失わない一粒の宝石となるかは、その盧生の性質が現れるところではあるが───
甘粕正彦は前者。
すなわち阿頼耶識そのものを掌握し、蓄積された膨大量の海から無尽蔵に力を引き出す、暴性において最も完成された盧生に他ならない。
故に───
◆
「ぐ、お、おおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
見渡す世界の全てが黎明の赫に染まる中、ストラウスは苦悶の絶叫を迸らせた。
燃え上がる。燃え盛る。明けに染まった天より降り注ぐ紅蓮の光柱、ストラウスの強靭なる五体諸共周辺海域を燃やして溶かし尽くす。
沸騰し弾けた眼球は莫大量の海水が目に見える速度で蒸発していくのを捉えていた。彼が操る核の爆発ですらそうはなるまい。ならば一体、何がこの状況を作り上げているというのか。
「ははははははははははは!! ふははははははははははははははははははははァ───ッ!!!」
喝采する甘粕の頭上に、真円と浮かぶ巨岩が浮かんでいた。直径にして3.75m、不可思議な紋様の刻まれた表面は神性を彷彿とさせる清廉さを湛え、しかして巻き起こすは神威そのものである破壊の嵐であった。
巨岩の周囲は蜃気楼の如く揺らめいて、ここではない別位相へと繋がる門の役割を果たしていることが見受けられる。そして事実、巨岩は現世界に留まれない巨いなるものの御許へ通じる門として、彼方におわす力の一部を此処に顕象させているのだ。
太陽遍歴ピエドラ・デル・ソル。古代アステカにおいて現在過去未来を記す、西享のアカシア記録《赫の石》の一つ、善神ケツァルコアトルの第三宝具でもある大いなる御業の一欠片である。
此れによる巻き起こるは太陽神の裁き。すなわち第三の時代において人々を滅ぼせし、遥か中天より吹き付ける呪(とこ)いの神風。
それを、人は"太陽風"と呼称する。
「……ッ」
崩れていく。崩れていく。神の杖にも焦熱世界にも揺らがなかったストラウスの総身が、氷雪を溶かすかのように末端から崩れ落ちていく。
津波のように押し寄せる大熱波はまさに月をも呑みこむ暴食の太陽さながらに、信じがたい域の範囲と質量を以てストラウスを押し潰す鉄槌となっていた。
広大な射程範囲内において爆縮され電離した水素イオンとヘリウムイオン及びその同位体の電子が毎秒100万tという膨大な質量を伴って殺到、秒速450㎞という爆発的な速度で炸裂するその現象は太陽面フレアに匹敵する超絶規模の大爆発である。
強固な相転移式次元断層結界と相模湾全域の大気を揺らす極大の重低音が間断なく響き渡る。間を置かず閃光が放電、甘粕とストラウスが対峙する周囲一帯はまさしく小さな太陽の如き橙色の大火球に覆われているのだった。
これこそが太陽風───コロナ質量放出にも類似する空前絶後の爆発現象である。膨大な質量と音速の千数百倍という度外れた速度の前ではストラウスでさえも回避する術はない。更に言えば「太陽」という属性が付加されているため、如何に陽光を克服しようとも未だ弱点としてあるストラウスにとっては微風一つでさえも致命となってしまう。彼を相手取るにはまさにうってつけの代物であり、しかし何故甘粕がこの宝具を使える意味が分からない。
ならば知るがいい。これこそが《第六法》。これこそが《五常・終ノ段》。
盧生のみが可能とする、集合無意識の海より神霊級の想念を汲み上げる《神降ろし》の術法。
神格召喚に相当する大偉業をたかがサーヴァントの身で行使するなど不可能───などという条理すらこの男には意味を為さない。
何故なら、盧生たる資格とは力ではなく心にあればこそ───
どれほど力を矮化させたところで意味などなく、人類の総意さえ凌駕する域の意思力こそが神威の顕現を現実のものとする。
つまるところ、甘粕が規格外の力を振るっている理由など呆れるほどに単純明快。
"気合と根性"。
誰しもが持つたったそれだけのことで、甘粕は限界など二つも三つも踏み越えて新たな伝説を築き上げるのだ。
「大いなる成長には大敵を乗り越える必要がある。吸血鬼に太陽はよく効くかね? だがこれで終わるお前ではあるまい!」
これだけの試練を課しながらも相手の奮起を信じて止まない甘粕の言葉は、光に溢れながらも無理難題と言う他にないだろう。
神霊───世界の伝説に数多語られる神々なるもの。天上に在りて奇跡の御手を揮うもの。当たり前だが、尋常なる生物は愚か英霊と比してもなお次元の外れた存在であることは語るまでもない。
地上において神霊規模の奇跡を起こせる生物がいるならば、その者にとって聖杯など不要であろう。神霊とは、聖杯という万能の願望器を用いてようやく呼び出せるかどうかという、それほどの存在であるからだ。
よって当然、英霊では神霊には決して勝てない。人が英霊に勝てないのと同じように、両者の間に隔てられた差は隔絶して余りある。そのようなものをけし掛けて、尚も「終わるな」と叱咤する甘粕の所業は傲慢極まるものであり───
「……愚問を言うか。たかが、崩れ行く土くれひとつ!」
それに真っ向から応えるストラウスもまた、常識外れにも程があった。
言葉と同時、ストラウスの総身より常軌を逸した量の魔力が迸った。
大熱波の嵐の中で、更なる嵐が巻き起こる。さながら等身大の事象境界面が如く、太陽遍歴を中心に蒸発し尽くしたはずの海水がストラウスを中心に次々と流れ込む。
「第三の時代を滅ぼす火の落涙を気取るならば、創世される新時代を滅ぼすモノもまた然り。
この海洋を戦場に選んだことがお前の失策だ、甘粕正彦!」
雪崩れ込む莫大量の海水。太陽風の只中にあって尚蒸発することなく形を保ち、ストラウスの掌中に怒濤の如く吸い込まれ直径10㎝の球体を形作る。
不可解なのは、水で構成されるその球体が"どれだけの海水を吸いこんでもまるで大きさが変わらない"という点だ。まさか異次元に繋がっているわけではあるまい、空間的に別位相へ転移させているわけでもあるまい。彼が吸い寄せた質量の全て、確かにそこにあるはずなのに、ならばこれは何だというのか。
答えは単純。"圧縮されている"のだ。吸い込むごとに圧力が増し、質量が増大するごとに構成密度が次元違いに跳ね上がっていく。不純物を取り除き、超臨界領域すら遥か振り切って、しかし内界に存在するはずの熱量だけは極限まで排され、等価の運動エネルギーが一足飛びに蓄積されていく。
次瞬、圧縮球体から流星の如き一条の軌跡が放たれた。糸のように細く、長く、そして分子単位の乱れもなく緊密に構成された直径1㎝という極小の漆黒の槍が、摂氏10万度もの劫火吹き荒れる嵐の中でも蒸発することなく、一直線に太陽の巨岩を刺し貫いたのだ!
それはストラウスが持つ瘴気にも似た魔力の結晶体であるのか───いいや違う。
槍の正体は「氷」だ。地球法則下では成り立たない代物ではあったが、確かにH2Oの化学式から成る常識の物体であるのだ。
水の氷は圧力変化によって様々な相変化を起こし、多様な高圧相氷になる。温度130K圧力1Gpaという臨界圧力を超過した環境下において、氷相の水素原子はプロトン秩序化し熱力学第三法則の破れたる既存法則(アイスルール)を覆す。
氷相第十五相。地球上ではあり得ない高密度の氷の槍こそが、神をも穿つ死線の正体なのだ。
巨岩を貫く黒の線はあまりに静かで、音も動きもなく。けれど次の瞬間に巻き起こったのは、そんな「静」とは正反対の「動」そのものの挙動であった。
高密度に形成された氷の槍から、突如として膨大な質量が噴出した。それは内側から爆散するかのように、まるでぎちぎちに詰め込まれた大量の「何か」が内の圧力に押し負けて一気にぶち撒けられるかのように、文字通りの爆発的な威力で以て炸裂する。
常態・氷1hにおいて体積5000立方メートル、総量125テラリットルという膨大極まる質量の第十五相氷が強大な圧力もそのままに超臨界状態───液体と気体双方の特質を持つ、固相・液相・気相及びプラズマに続く第五の状態を形成し、125000000000000000倍の体積変化による沸騰液体蒸気拡散爆発を誘発、太陽遍歴の巨岩を内側から爆散せしめたのだ!
弾け飛ぶ海域、白光に染まる世界。波濤が如き重低音が水平線の彼方にまで伝播する。中天の太陽が撃墜され、物皆焼き尽くす業火の波濤が衝撃に吹き散らされる。
如何なサーヴァントとて、例えそれが盧生だとして、この大激震の最中に感覚の一切を乱されない者などいるはずもなく。故に、剣を構え全速力で肉迫するストラウスに、甘粕は反応できない。
破壊の余波に満ちる地上から天高くに飛びあがるストラウスに、既に損傷の痕は欠片も見当たらない。再生、再構築、共に完了。焼け落ち溶け崩れた欠損など影も残さず消滅している。
「旧約の大洪水の再現とは、流石に行かないがな」
古代アステカ神話における第三の太陽の時代、雷雨の神トラロックの治める世界を劫火の雨によって滅ぼしたケツァルコアトルは第四の時代を打ち立てる。しかしその平穏の時代は悪神テスカトリポカが引き起こした大洪水によって破壊され、世界は現行の宇宙である第五の太陽の時代に移行したとされている。
逸話の再現。人の想念により形作られた神話級の強制協力。神霊は強大な概念存在であればこそ、型を嵌められてしまえばそれに逆らうことができない。
「マスター亡き身でこれ以上の神格召喚は叶うまい。その意思を此処で断つ!」
狙うは首筋、振るうは黒剣。それは神を従える盧生なる身においてさえ致命となる一撃。
ストラウスの言葉は真実だ。第六法を操る盧生なれど、神格の召喚などという大奇跡を無条件で行えるはずがない。召喚だけで凄まじい精神力の消耗を伴うのが常であり、連続的な召喚などまず普通では考えられない。そもそも常人ならば陽炎めいた実体のない小妖ひとつに触れただけで脳が沸騰してしまうものであり、翻って自然法則の具現たる神格を召喚・使役できる盧生の意志力がどれほど桁外れであるのかが理解できるだろう。
だがその奇跡もここまでだ。前述したように連続召喚は無謀の極み。まず大抵は一度の召喚で前後不覚に陥り、仮に二度目の召喚に手をつけたところで過負荷に脳が焼き切れる。ましてや土地神程度ならともかく神話の主神級を呼び出しなどすれば、当然のように発狂死するのが道理であり───
「いいや否、ここで斃れる終わりなど認めんよ。お前が雄々しく立ち上がるならば尚更に」
しかし、そんな道理はこの勇者(おおばか)には通じない。
"この男ならば仕方ない"などという、あまりに荒唐無稽極まる理由によって物理法則を超越するのだ。
「故にこそ、俺も同じ場所で立ち止まってはいられないと痛感した。
更なる領域へ至るとしよう、さもなくばお前の敵に値する資格なしと断言する───!」
覚醒、覚醒、限界突破───不条理が巻き起こる。
甘粕の総身より放たれる魔力量が爆発的に膨れ上がる。流出する強大な神気が一帯を震わせて、飛来する剣諸共ストラウスの肉体を彼方へと弾き飛ばした。道理も理屈も地球上の法則さえも踏み躙って、召喚にかける動きが極限まで研ぎ澄まされる。
眼前の敵手は見事我が奥義を乗り越えてみせた。流石である、やはりお前は素晴らしいと心震わせる。
故に、負けてはいられない。己もまた相手に相応しい覚悟を見せなければと、相乗効果で甘粕もまた更なる進化を果たすのだ。
「城よりこぼれた欠片の一つ。クルーシュチャの名を以て方程式を導き出さん───終段・顕象」
何故なら甘粕正彦は「光」に属する英雄だから。
未来に翔ける意志力の燃焼、尊き者への畏敬の念は文字通りに桁が外れている。
残存魔力量、マスター不在による霊基損耗、神格との同調係数、サーヴァントでは決して不可能なキャパシティオーバーの召喚術式───あらゆる前提を"そんなものか"と一笑に付し突破して、不可能をそれでも無理やりに踏破する。
「出でい終宵! 夜明けを目指しひた走れ、明けぬ空に光輝の星を求めし者!
来たれ、贖う全てを一とする者、喰らう牙───幽麗なりし《闇(メトシェラ)》よ!!」
運命の車輪が回る。
人間賛歌の叫びが轟く。
遥か満天下に掲げられた腕の先、夜闇の奥底より"それ"はやってくるのだ。
「不滅の薔薇はどこにもない。縛血(ブラインド)の幻想は闇へと溶けた。
されど至高の赤薔薇は此処に在る───煌めく真価を魅せてくれッ!!」
同時、天空から墜ちてきたのは夜空全てが凝縮したとさえ思しき濃淡の"闇"そのものだった。黒き汚泥の崩落さながらに、本来"光がない状態"であるからして物体として存在できるはずもない闇が、暗海の大津波が如く甘粕ごとストラウスを呑みこんだのである!
そして次瞬、ストラウスを襲ったのは感覚の喪失だった。重力が失われた、前後左右上下の区別がつかない。視覚も聴覚も五感の全てが剥奪され、そもそも目玉があるという当たり魔の感覚さえ失われてしまった。目を開けているのか、そもそも眼球が無くなっているのか、判別しない漆黒の視界。思考さえおぼつかない虚無の領域。
───ここは、どこだ?
―――何故、私はここにいる?
意識さえ、曖昧な水面のよう。
自分が誰なのかすら忘れてしまいかねない薄弱さで、何を感じることもなく闇の中を流される。
あの瞬間から記憶がない。
そこから裁断でもされたかのように、頭に靄がかかっている。
刺激が何一つないために、自我が希釈されていく。
無限に続く無感の世界は、意思を水で薄めるように、彼そのものを暗闇の一部として溶かしていった。
(いや、これは……!)
そして気付く───違う、これこそが奴の術中だ。
「物質ではなく精神を溶かす闇か、しかし私は……ッ!?」
猛然と瞼を開き、沈殿する闇の底より飛翔を果たして───気付く。"溶かされていたのは心だけではない"。
二対の翼を以て飛翔するストラウス。その体には、決して少なくない量の闇が纏わりつき、"四肢を含む末端を捕食していた"。さながら魔獣の顎の如く、その神秘と事象を構成する密度と威力は極めて剣呑。強固な神秘防壁を有するストラウスの肉体が嘘のように崩されていく。
何より厄介なのは、これが破壊ではなく"同化"という点だ。ストラウスという夜半に生きる"闇"を、メトシェラという極大の"闇"が取り込み、同化しているのだ。それが証に削り取られていくストラウスの肉体は何ら再生の兆候を見出さない。どれほど肉体が闇に消えていこうと、周囲の闇そのものが毟り取られたストラウスの一部であるために総体として見れば何も失われた箇所などない。最終的にストラウスという自我そのものが希釈し消滅しようとも、"闇"にとっては最初から何も変わることなく正常な状態であるため、そもそも再生などできる余地がないのだ。
つまり早期にメトシェラという神格を排除しなければストラウスに未来はないのだが、そもそも非実体が相手であるためそれも難しい。猛る甘粕の眼前に闇色の人型が立っているのが見えるが、あれとてメトシェラの本体ではあるまい。《闇》にとってこの星に存在する闇そのものが己であり、手足も同然。人間に見えている部分も本質は人型の模様があるというだけにすぎず、闇という体を持つ大巨人というのが正しい。 夜はもちろん、日中でも、人工の照明下でも、光を遮る物さえあればそこは彼の体。洞窟の中、深い森、建造物の裏はもちろん、人間を含む全生物の足元に這う影さえも。
故に根本的な討伐は不可能であり、ならばストラウスはただ座して死を待つのみであるというのか。
「───否」
否、否。その程度で斃れるようであるならば、彼は放浪の千年の間に容易く討ち取られていただろう。
闇は本質的に存在しない事象であり、故に非存在に干渉する手段はない? ───いいや否。
確かな干渉能力を持って同じ三次元空間内に在る以上、対抗策は必ず存在するのだ。
ストラウスの欠損した部位から、突如として闇が湧き出でる。正確には闇のような姿をした魔力の凝縮体であり、疑似的な損傷部位となって修復され通常の機能を取り戻す。靭帯の半分を切断された左の手首が仮想体組織で繋ぎ合わされる。捕食された右の眼球が新たな球体を作り上げ赤い眼光を放つ。両の足に食い荒らされた内臓の大部分、脊椎に骨格に主要な神経と血管網。全てが劇的な復活を果たす。
次瞬、唸りを上げる魔力が、気密の集うように一箇所へと凝縮し形を成していった。それは今までストラウスが行使してきたものとは正反対の"純白"を湛えて、周囲の闇そのものを取り込むかのように。
それは一辺が15メートルほどもある純白の立方体だった。遥か事象世界の住人がそれを見れば、あるいは「ムーンセル・オートマトン」と口にするかもしれない。しかしこれはそれほど大した代物ではない。見た目以上の性能など何も存在しないただの立方体に過ぎず、けれど無為に終わるはずもない。
純白立方体に無数の穴が穿たれる。それは一つの例外もない自己相似形であり、瞬時にフラクタル図形を構築する。立方体のフラクタル次元はlog20/log3=2.7268…次元であり、その面は2次元的なカントール集合を構築する。
更に繰り返される自己相似形の構成。繰り返す度に表面積は1/3ずつ増大し、体積は1/27ずつ減少していき、最終的に無限大への発散と0への収束の両立という矛盾を実現する。
自己相似図形は相似次元で位相次元を上回り、対数三を分母とする対数二十次元となって、2.7268と以下延々と次元が続いていくが、三次元に到達することは永遠にない。
するとどうなるか。それは今まさに立方体に取り込まれ、急速に姿を消していく"闇"が物語っていた。暗黒が晴れる、世界が光を取り戻す。《メンガーのスポンジ》に巻き込まれた存在は二次元と三次元の間の存在となってしまい、最終的に三次元世界からは観測が不可能となってしまう。
異次元への放逐、存在次元そのものの位相転移。如何な非実存といえ同じ三次元空間に存在していた以上、この法則から逃れる手段はない。
存在しないと豪語するならば、本当に存在させなくしてしまえばいい。前提となる論理展開が大仰すぎて機動力を持つ相手には無用の長物と化すが、《闇》のように"ただそこにあるだけ"のものを相手にするには都合がいい。
「私は千年の夜を越えて此処に在る。この身は元より闇に生きる者、ならば夜闇の何を恐れることがあろうや」
闇とは本来善も悪もない事象。ただ在るがままそこに横たわるだけのものであり、恐れることなど何もない。
《闇》が人を貪る悪性現象として具現したのは、人間が長い年月の果てに「闇は忌まわしく、おぞましいもの」と定義したからに他ならない。だがストラウスは人ではなく、昼光に生きる存在でもない以上は必ず打破の階が残されている。
ああ、そもそも。
《夜闇の王》と誉れ高き我が身を前に、夜闇そのものをぶつけるとは何たる皮肉であることか。
「自壊衝動何するものぞ。いざや朽ち果てろ《審判者(ラダマンテュス)》!」
そして放たれるは魔力光の大集束。掲げられた掌から超高速で放出される純粋魔力の光条は、文字通りに光の如き速度で猛然と甘粕へと迫る!
螺旋を描いて抉り穿つ。A++という規格外規模の魔力値から放たれるは超高ランクの攻性宝具の真名解放に匹敵する一撃である。それは遥か高みから見下ろす甘粕へと向けて、天へと立ち昇るかのように凄まじい勢いで殺到する!
神話を滅ぼされ単騎となった甘粕にそれを防ぐ手立てはない。サーヴァントとしての純粋な力量であればストラウスに大きく劣る以上は自明の理であり、神格召喚が多大な精神消耗を強いると分かっている以上は一気呵成に攻め続ければいずれ限界を迎え次の一手を封殺できる。
無論それはストラウスとて同じであり、先の攻防を経て残存魔力は半分を下回ってしまったのも事実であるが、基準となる魔力保有量においてストラウスは甘粕を圧倒している。単純な消耗戦ならば分があるのはこちらであり、故に攻め手を強める道理に否やはなく。
「然り。たかが曖昧な幻如き、現実に生きる者を害すること能わず。
故に、お前を倒すならばこちらのほうが都合が良かろうよ」
だが渾身の一矢は甘粕の眼前に降り立った白き巨体によって掻き消された。並みのサーヴァントが相手であるなら防性宝具ごとを容易く撃ち貫く純粋魔力の破壊は、表皮に掠り傷一つ付けること叶わず弾かれ、霧散する。
大きい。その威容はあまりに巨大で、すぐ足元に立つストラウスでは下から上までを見渡さなければ全容を視界内に捉えることすらできない。
未だ喚び出される前の影の状態であるにも関わらず、これほどの存在規模を有するこれは一体何であるというのか。
巨大なる質量、それは天を衝き空間を埋め尽くして。
城塞をも超える堅牢。
猛炎をも超える灼熱。
狂獣をも超える凶猛。
幻想種が如き神秘の威を全身に湛えながら、胸部で明滅する魔力光は血の真紅。それは体内の奥深くで極めて大型の魔力炉心が駆動していることを意味している。
身の丈およそ50m。
けれど、未だ現出していない部分も含めるならば、恐らくはそれ以上の───
「英雄ならば魔性退治と洒落込めよ。古今、それがお前たちの武勇伝というものだろう。そして何より"この者"もそれを望んでいる」
返答の代わりであるとばかりに放たれる数十条の光、巨体を避けて全方位360度より殺到する致命の連撃を躱す術もなくその身に受けて、しかし「透」により全身を透過させた甘粕は一切のダメージもないままに剣指を一閃。大きく空間を断割する。
そして膨れ上がる悪夢の気配。それは呼び出されるモノが魔神の類であり、加えて死と暴力の具現であることを示している。
甘粕は審判者であるがために裁きの神と相性が良いが、同時に災禍に代表される破壊の神とも酷く親和性が高い。
それは例えば、神話に登場する邪龍であるとか。
「朝は来ない。朝は来ない。黄金の夜明けは喪われた。真鍮の鍍金は剥げ落ち、阿片の毒の夢は朽ちた。喉は潰れ歌は途絶えた。英雄は間に合わない。
───お前の恋は実らない。終段・顕象」
そして具現するは黒白なる巨竜そのもの。
タイプ:ドラゴン、零落したる白。叡智たる肉色。浪漫なき世界に生まれ落ちた哀れな竜。忘れられた神話個体。
───恋を知らぬ少女にして、愛に狂った悪竜現象(ファブニール)。
開かれた咢に集束するものがある。それは超々高密度の魔力結晶となりて、収束する光と熱の全てを破壊の力へと変換する。最早地上には存在し得ないとさえ言われる域の圧壊法則。それが鏖殺の焔となって眼下へと放出される!
すなわち、超々規模の光速度多重展開型なるドラゴンブレス!
大規模儀式魔術級の神秘の即時行使!
理論上は対城宝具の一撃にも匹敵する魔力は光の形態を帯び、三騎士級のサーヴァントであろうとも一撃の下に微塵とする威力を誇る。自然現象の具象化にも等しい神代に連なる古龍を由来として持つ神話個体故に、放たれる破壊の吐息は超級規模の高熱火炎、大真空、金剛石塊、高圧水塊、等々の神秘を備えた物理的衝撃となってストラウスへと襲い来る!
が、しかし。
「その程度、今さら通じるとでも思ったか」
闇が───
光を、切り裂く。
黒剣によって描かれた漆黒の軌跡が、竜の吐息たる破壊の嵐を鮮やかに両断していた。
圧倒的なまでの魔力。
非常識なまでの魔力。
今なお彼の宝具は真名を解放されていないというのに、ただの一振りで、並み居るサーヴァントならば十も二十も屠るであろう波濤を完全に無効化したのだ。それどころか、狙い澄ましたカウンターの性質をも併せ持ち、終段とドラゴンブレスの行使により完全な無防備状態となった甘粕の霊核へと一撃を加える!
弾け飛ぶ半身、千切れて宙を舞う右腕。右肺の大部分を含む胸部を大きく抉られて、透の解法による存在確率改変防御すら貫通する一撃は間違いなく甘粕の命脈を断ち切った。
真名解放ならず、常態の一撃。それでいて、こうも必殺の威力とは。
「無論、俺とてそうは思っておらんとも」
だが、しかし。
喝采する甘粕の表情に、一切の痛痒はなし。
霊核ごとを吹き飛ばされ、尚も哄笑するは最早精神力が云々の次元ではあり得ない。余人ならばとうに即死していなければ辻褄が合わず、されど「この素晴らしい情景を目にしていたい」という情念のみで生存を可能とするのはまさしく理不尽の権化と言わざるを得ないだろう。
そして、甘粕は言葉の通り、何の考えもなしに子供騙しの攻撃を放ったわけでは断じてない。
次瞬、暴風が如く蒼光の炎吹き荒れる海上から飛び立つものがあった。一対の巨大な翼を広げ、流線型へと形態変化したそれは、紛うことなき悪竜の姿。一直線に空を目指し、雲を突き抜け、星々を睥睨し、成層圏を超えても尚上昇を続けていく。
甘粕と悪竜が攻撃により動きを停止したように、ストラウスもまた必殺の一撃を放ったことにより一瞬の隙が生まれたのだ。甘粕の狙いは最初からそれであり、自分の命が削られることなどまるで頓着していない。
然るに、この悪竜が持ち得る攻撃手段の中で最強と言えるのは一体何であろうか。
神代の真エーテルによる四属性内包ドラゴンブレス───確かにそれも強力ではあるだろう。しかし違う、既に太陽遍歴もツァーリの一撃も耐え抜いたストラウスに対し、そんなものが決定打になるとは今更誰も思うまい。
正答は、巨体を用いた大質量攻撃!
上空約80㎞地点、中間圏電離層より50mの質量が繰り出す極超音速の特攻破壊。すなわち隕星衝撃(メテオインパクト)!
地球最大の隕石孔であるデリンジャークレーターは直径およそ30mの隕石によって形成されたと言われている。最早神の杖など比較にもならない大破壊。しかも悪竜の出せる最大速度は彗星の約7倍にも相当し、運動エネルギーは速度の二乗に比例することを考えれば巻き起こる破壊の規模は想像に難くない。
欠点があるとすれば、それは一度上昇し急降下するという攻撃準備にかかる時間だ。それさえ数秒で済んでしまう程度のものだが、この領域の戦闘においては致命的な隙と言わざるを得ないだろう。
「滅びの火は満ちた。人の越えたる日曜の日に、お前の居場所は存在しない───終段・顕象」
故に、その間隙を埋めるべく甘粕は更なる神格召喚を成し遂げる。
湧き上がるものがあった。それは海洋に在らざる巨大な炎の渦であり、逆巻く火柱は伸縮を繰り返し、空を目指すように伸び上がった。
それは腕だ。炎によって形作られた巨大な人の腕。あまりに巨大すぎて感覚が狂ってしまいそうになるが、それはおよそ数百mにもなる大きさだった。
腕は遥か空の月を掴むかのように伸び続け、やがては肩にあたる部分が姿を顕す。肩に続いて丸い卵型の物体が、たなびく炎の奔流を頭髪として現出。最早誰が見ても疑う余地もない巨大な人間の頭部。仮にこの場に見上げる者があったならば、きっと誰もが言葉を失っていただろう。
這い出る者、炎の巨人。
身の丈およそ500m。
生まれたばかりの巨人は、まるで己の誕生を祝うかのように、漆黒の天蓋に向かって長く、高い咆哮を轟かせたのだった。
「かつて、お前以外にも俺に立ち向かった英傑がいた。彼の者は輝かしく、そして誰しもの胸を焦がすような熱情を湛えていた。
これは奴への返礼であり、そして我が尊敬の炎だ。お前にこそ受け取ってほしい、世界には素晴らしき英霊が我ら以外にもいたのだという証を!」
そして掲げられる、長大なる炎の魔剣。
世界を終わらせる巨人の王が持つ、絶対なる滅びの具現。
時が来た。
焔の剣、その切っ先が天を貫く。
収束するものがある。それは純粋魔力のみで形作られた、およそ地球上ではあり得ぬ熱量を誇る"破壊"そのもののカタチであるものか。
故に、人は巨人に何もできない。神代の大洪水も、存在を消し去る白の立方体も、フォトニック結晶から成る大規模魔術式であろうとも、アレの体表に届くより先に蒸発して消滅する。
ああ、墜ちる。異なる二種の滅びが、世界を死に導く赫き終焉の焔が来る。天から、地から、終末装置たる破壊の具現が、ローズレッド・ストラウスただ一人に向けられて。
「《太陽を超えて耀け、炎の剣(ロプトル・ レーギャルン)》!!」
──────────────────!
世界そのものの絶叫であるかのような大轟音が鳴り響く。
見上げる空の全てが炎に覆われた。絶対の破壊が振り下ろされるのが見える。
あれこそが死だ。死の集合体。触れる者全てを消滅させる終末の焔。真実の《焦熱世界・激痛の剣(ムスペルヘイム・レーヴァテイン)》。
人は絶望と諦観の中に落とされる。神々であっても生存の余地があるかどうか。
故に、誰もその刃からは逃れられない。もしも刃を避けたとしても、拡散する致死の熱量に殺される。
だからこそ、ストラウスは逃げず立ち向かうことを選択した。
視界を覆い尽くさんばかりの剣に対して漆黒剣が向けられていた。剣の腹でもなく、刃でもなく、1/100ミリにも満たない切っ先を巨大な剣の刃に合わせる。
刃渡り300mあまりの巨大な剣の全運動量を剣先の一点に受け止め、熱量が伝播するよりも負荷が肉体を破壊するよりも速く受け流す。
巨大な剣の切っ先がストラウスの右後方10mに凄まじい破壊を穿った時には、ストラウスの肉体は既に400m上空、巨人の肩の寸前に在った。
「赤騎士ならば知っているさ。ああ、どちらも色恋に狂った哀れな者だ」
炎の魔剣の直撃を受けることは、さしものストラウスとて叶わない。
生命に対する絶対的な優先権を持つ魔剣は、形ある生物であれば神代の神ですら滅ぼし尽くす。
故にその熱はストラウスに耐えられるものではなく、しかしほんの一瞬、コンマ一秒にすら満たない極々短い時間であるならば、全霊の魔力を込めた剣でのみ接触することも叶う。
そして、彼が反撃に移るための時間は一瞬以下でも構わない。
「アクセス誰(た)が《罪(シン)》───全ての瞳統べ給う君へ魔眼の譲渡を嘆願する」
次元干渉虚数術式。アルトタスの心の声の世界に干渉した時と同じく、遥か高次の存在に限定的な接続を開始する。
サーヴァントという矮化した霊基で受け取れる情報量は極めて少ない。故に余分なリソースは不用。最適な力のみを羅列・選択し、たった一つを掴み取る。
「モード:A.Z.T.Tより遷延の魔眼を発動。《私はそれが輝くさまを見ない》」
事象・照準固定。無限分岐する可能性世界の中で任意の一つを選びとり固定化する、事象遅延の魔業である。
当然のことながら神霊、それも自身の別存在を許さぬほどに精神が固定化された巨人王に対して、この魔眼は一切の効力を発揮しない。だがそれでいい。「遷延の魔眼がここにあり」、「使用者が撃滅の意思を持っている」というだけで強制協力は成立する。
巨人の動きが止まる。業火の如き魔力の噴出が弱まる。その隙を逃がすことなく、巨人の肩に着地したストラウスは足元一面を覆うルーン魔術式に剣の切っ先を突き立て、200mの距離を駆け抜ける!
ストラウスが再びその身を空に躍らせた瞬間、巨人の肉体の至るところに亀裂が発生、論理構造に致命的な損傷をきたした総身がバラバラに崩れて墜落していく。
叫ばれる慟哭は憤怒であるのか、それとも誰かの名前であるのか。余人には聞き届けること叶わない嘆きは宙に溶け消えて、スルトの肉体もまた諸共に消えていく。
巨人王スルトに死の逸話は存在しない。
神々の滅亡が明確に描かれたる北欧のラグナロクにおいてさえ、彼の者は最終戦争の終末まで生存し世界の全てを焼き尽くしたとされる。
つまるところ彼を逸話的な状況再現で打倒することは不可能であり、故に他の弱点を新たに作ってやる必要があった。
平行世界の観測機構、剪定の果てに消え去るはずの異聞に遺されたとある記述。
ストラウス自身が見聞きしたものではないが、月の瞳たる単眼はあらゆる空を見つめている。
「そして」
焔の残骸が滝のように流れ落ちていく光景の中、尚も形を失わずに在る巨大なる炎の剣を掴むものがあった。
それは一見すると"光"に見えた。数えきれないほどの無数の光条が、幾重にも折り重なって五本の指と掌を形作っている。それはまるで人間の手首から先のようにも見えて、しかし基準となる大きさが明らかに違っていた。
巨人王スルトの手にすら匹敵する巨大な光掌。それは何者も触れられぬはずの無限熱量たる炎剣を確りと握りしめて。その掌の根本に腕を掲げるストラウスの意思のままに動く。
プラズマとは非常に強い圧力を持つ上に、あらゆる物質を破壊してしまうほどの熱量を併せ持つため、高密度の状態で封密しておくことは非常に困難である。
二つの同じ向きの電磁場を発生させると磁場が絞られて細くなる。この高密度の磁力線を螺旋状の輪にすると磁力線の端がなくなり、メビウスの輪のように内側と外側の区別が無い構造、つまりプラズマが逃げ出す場所の無い構造になる。
とある事象世界において、超高密度のプラズマを作り出すことによって核融合を起こす方式の核融合炉が発案されたが、プラズマの速度が螺旋速度を一定以上超えると、鏡状態の磁場で反射しきれずに崩壊してしまう。この問題が解決出来なかったために他の方式に取って代わられた。
この方式の数万倍という超磁場を限定空間内に発生させることにより、超々高密度のプラズマの壁を作り出すことが出来る。
超々磁場とプラズマの壁の前では、例え摂氏数千万度の熱量や放射線であっても完全に遮断されてしまう。炎剣を掴むためだけに編み上げた、それは光輝なる巨大籠手であった。
「悪なる竜よ。呪いの如くに死を撒き散らし、しかして祝いの如くに死することのなかったモノよ。
来るがいい、クロスカウンターを決めてやる」
天墜する崩落の星が見える。常軌を逸した速度で地上を目指す、体長50mの彗星がストラウス目掛けて墜ちてくる。
その姿は未だ空遠く、遥か彼方の光にしか見えないものの。これより僅か二秒も経過すれば容易く地表を貫通し大絶滅にも匹敵する凄まじいまでの破壊が巻き起こるだろう。
無論のことストラウスはそれを認めるわけにはいかないし、この地上で迎え撃っては勝敗がどうあれ周辺地域の全ては灰燼に帰してしまう。
ならばどうするか。簡単なことだ、地上に落とさなければいい。
偽なる巨腕が大きく撓む。力を溜め、彼方にある星へ照準を定める。
そして放たれるは、炎剣の大投擲!
眩き流星と化して空へと駆ける、旋回する赫き劫刃の一矢!
海を断ち、雲を断ち、空を断ち、そして次なるは竜をも断たんと刃が唸りを上げる。
ストラウスは巨大籠手に握りし炎剣を振り抜くでもなく翳すでもなく、ただ一心に高々度へと投げ打ったのだ。投擲速度はおよそマッハ数百にもなるか、天墜する巨竜の隕星とほぼ同等かそれ以上。それは狙い違わず巨竜へと殺到し、そして巨竜もまた一切の軌道を変えることなく、むしろ歓喜にも似た感情と共に真っ向から衝突して───
光が、溢れた。
空前の宝具と生命体が激突する遥か雲の彼方にて。
例えば夜に暗がりが音もなく充ちるようにして、天然自然の理であるかの如くして、空間の隅々にまで光は行き渡り充ち満ちて、溢れて、溢れて。留まることなく漆黒の天蓋を呑みこんで、黒き海洋を照らし出す。
破壊を齎す絶対の魔力。
星も滅ぼす絶死の神秘。
それが証拠に巨竜の外殻は悉く融解し、炎剣は砕け、絶対の破壊であるはずの二柱は諸共に崩壊していった。
それらは破壊もたらす灼熱であって、同時に何かを得た輝きでもあった。
黒の鎧を身に纏い、
長大なる剣を携え、
英雄が邪竜を討つ。
それは忘れられたはずの神話個体なる伝説、その再現。世界に定められた運命なるものか。
竜は今、取りこぼしたはずの何かを、その目に焼き付けて───
「イイーキルス───ルリム・シャイコォォォォスッ!!」
地上をも揺るがす大衝突の衝撃が吹き荒れる中、喜悦を含んだ大喝破と共に、裂帛たる勢いで迫る白光がストラウスを貫いた。
それは水平線の彼方までを一直線に貫いて、万物一切を貫通する光の槍。
神格級の攻撃の数々に耐えてきたストラウスの五体が微塵に消滅する。胴体を直撃した光の槍は、文字通りに彼の肉体を四散させて。
「───が、はァッ!?」
溢れる血すら瞬時に蒸発して、ストラウスは苦悶に揺れる息を吐き出された。
胴体及び内臓の八割、右半身と頭蓋の一部、霊核の4割がその一撃で消失した。間違いなく致命の一打であり、吸血鬼たるストラウスと相反する浄化の属性故に再生が追いつかない。
ルリム・シャイコース───《光の剣能》。
北央大陸の北方辺境に伝わる御伽噺。かつて極北の果てには《巨神》なるものが在り、その白銀の甲冑纏う騎士が如き威容は地上から遥か暗雲の空にまで届き、剣の一振りだけでも山や大地が裂けたのだという。現在も彼の地で見ることのできる海の流氷は、この《巨神》なるものが砕いた大氷山の欠片であるとさえ。
白の神体。イイーキルスの白き《巨神》伝説。
彼の神が持つ剣なるものの正体こそが、この光だ。量子に作用して切り裂くため魔性も物質も関係なく切断する。空高くより睥睨する地平線までをも両断する間合いであり、およそ耐え得る物質は存在しない。
二柱の迎撃に回らざるを得ず、故にその間手つかずの状態にあった甘粕が、まさか攻撃の手を休めるはずもなかった。対敵は見事に世界の危機を救ってみせ、間断なく迫る滅びを二度も回避してみせたのだから、"三度目もきっとやり遂げてくれるだろう"という根拠のない押し付けがましい信頼の下に全力全霊の攻撃を敢行したのだ。
今、この場で最も歓喜に打ち震えているのは甘粕である。ストラウスが為したのは紛うことなき竜殺しの所業であり、最も新しい伝説の誕生に他ならない。現代の神話を目の当りにして甘粕は涙を流さんばかりに感動し、心底よりストラウスを尊敬して、だからこそ次の英雄譚も見せてほしいと際限なく奇跡を要求してくるのだ。
立ち上がれと。
負けるんじゃないと。
俺はお前を信じている、この程度で斃れる男ではない、だからどうか愛と勇気と希望で以て剣を執り大悪たるこの俺を倒してくれ、と。
願う情念は哄笑となって現れ、砕け散るストラウスを眼前にしても止まることはない。自分で相手を殺しておいて、死んだ程度で斃れるなと叱咤する姿はまさしく狂人の有り様であり、しかしそれこそが甘粕正彦という男の本質なのだ。
人は醜い。生まれた時は誰もが悪であり、輝かしいものなどあるはずもない。
だからどうか、見せてほしい。人が愚かしいまま終わる存在ではないという証を。煌めく希望を、他を呑みこむ絶望を、人類には確かに価値があるのだという証明を。
見せられないというならば、なるほど、お前に価値はない。無価値なるまま無意味に死んでいけ。
甘粕の思想とはつまりそういうこと。彼は人の醜さを嫌悪しているがために、自らは"そう"ならないよう奮起し続けている。その結果がこれまでに起きた幾多もの逆転劇であり、死地からの復帰であり、非常識なまでの往生際の悪さだった。心の力があれば人に不可能はないと豪語する甘粕は、故に如何な致命傷を負おうと心の力だけで何度も何度も立ち上がってくるのだ。
なんという諦めの悪さ、頭の悪さであろうか。つまるところ彼を完全に殺しきるには肉体よりも先に精神を殺す必要があり、けれどこれほどまでの死地と絶望に晒されても尚彼の心は微塵の痛痒すら感じてはいない。その様はまさしく理不尽と不条理の体現であるかのように。
だが、しかし。
「精神論の権化たるお前がいくら覚醒を果たそうとも、これが詰みの一手だ」
ストラウスが叫ぶ。
「その愚かしい思想と共に消え去れ!」
瞬間、ストラウスを貫く光槍が"ぐるり"と捻じ曲がり、180度方向を転換して甘粕へとその穂先を旋回させた。
それはまるで真っ直ぐな針金を丸く折り曲げたかのように。急激な半円形を描いた白光の軌跡は凄まじい旋回速度で甘粕へと迫る!
在り得ぬ光景。光とは通常直進するものであり、意図的にその軌道を捻じ曲げることはできない。ならばこれは一体何が起きているというのか。
アインシュタイン方程式において、万有引力とはニュートン力学的な力ではなく重力場という時空の歪みであると説明されるようになった。また重力の作用は瞬時ではなく光速度、すなわち光の速さにさえ対応できるとも。
時間と空間の幾何学構造、その曲率を表す幾何学量とは物質場の分布量に比例する。つまりは質量が巨大になるほど時空の歪みは顕著となり、曲がった空間の中を直進しようとすれば、その軌道は必然的に捻じ曲げられ、重力を受けた運動として観測される。
時空の歪曲、すなわち重力=空間曲率制御。光速で運動する光量子の集束体すら軌道を捻じ曲げる、高密度の天体に匹敵する重力場。
甘粕の解法による重力キャンセルなど問題にならないほどの、圧倒的な空間制御!
光が天地を一閃する。それによって甘粕ごとに両断されるは、彼の内界に在る霊子回路。阿頼耶識と接続し神威を呼び出す霊的なレイライン!
ストラウスは甘粕を順当に評価している。多少の苦境やダメージはむしろ彼にとっては起爆剤であり、乗り越えるべき壁にしかならず覚醒と力量向上を促してしまう。肉体をいくら破壊しても意味はなく、故に嵌めるなら何重にも徹底的に枷をかけなければならない。
気合と根性などという精神論で打破できる状況をまずは消す。その一手がこの一撃である。
「なるほど───いいぞ面白い!」
よって彼は真正面よりストラウスの返し手を迎え撃つ。彼に逃げるなどという選択肢は存在せず、戦術的な回避や防御の概念も今や頭の中から消し飛んでいた。
小細工など最早不用、そんなものが入り込める余地などこの戦場には完全皆無。例え相手が神威そのものであろうとも、臆することなど何もないというその覚悟。ああ確かに、それも勇気の発露と言って間違いない。奴はそうした男であると、ストラウスでさえ理屈ではない部分で信頼してしまっているのだろう。
だがその勇気と気概は───神格の攻撃すら直接受け止めようなどという自負は、あまりに巨大に過ぎると知れ。
「が、ああああああああああああああああ──────ッ!!」
爆散する光の渦。幾度繰り出されたか分からないほどの破壊の連鎖に世界が揺れる。
《光の剣能》の直撃に晒されて───当然のように甘粕の体は耐えきれない。
盧生とは人類の代表者であり神格召喚者の名。邯鄲法の練度は極限まで研ぎ澄まされているものの、あくまで人間の域を逸脱してはおらず、単純なステータスで神格を凌駕しているわけではない。
人理の観測範囲内において確認された四人の盧生の中では最も攻性に特化している甘粕でさえそれは変わらない。彼本体が持つ霊基総量は精々が召喚される神格の1割程度。個人としての力では、神格に及ばないほどに矮化したストラウスにさえ劣る。
必然、甘粕の体は飴のように溶け崩れ、急速に原型を失っていった。盾法による回復蘇生が働いているためか完全な崩壊こそ免れてはいるものの、それが致命傷であることに疑いはない。
「ぐッ───は、ははは……!
実に……実に奇妙な心地だ。しかしおい、俺はまだ生きているぞ? まさかこれを詰みの一手であるなどと言わんだろうな」
「それはそのまま、丸裸の状態で噛みしめろ」
この規模の攻撃をまともに受けて、尚も生存する様は驚嘆に値する。しかし、言ったように真の狙いはそこではない。
阿頼耶識との断絶、神格召喚の無効化。
今の甘粕は英霊召喚で言うところのパスを切断された状態にある。ならば余程の特例でもない限りは単身で神格の現界を維持できるはずもなく。
「耐えきれるものならば!」
叫びと同時、裂帛の気合と共にストラウスはその手より怒濤の奔流を放出した。
それは周囲の景色が歪むことで間接的な視認が可能となる不可視の大波濤であった。空間が捩じれ、歪み、膨大な圧力が視界内の全域を覆う規模で発生し甘粕へと殺到する!
重力場の形成───時空間歪曲による無質量の大津波。
重力子は角運動量が二で質量と電荷を持たず、重力波を媒介して重力相互作用を発生させる。重力波という振動は空間そのものを媒介として進み、次元すら越えて作用するため理論上存在し得る全ての防壁が無意味と化す。巻き込まれたものは原子単位まで分解され、およそ物質としての形を保てない。
あらゆる景色が歪んで見える中、周辺一帯に無数の光が乱反射して煌めいていた。重力波は不可視であるが、質量を持たない光子が重力との相互作用で曲がって輝いて見えるのだ。
不可視の波濤が甘粕ごとを呑みこんだその一瞬で、彼の肉体は消滅寸前まで破壊された。
身に着ける衣服と武装、そして頭の先から足先までの全身が重力波に呑まれ、原子レベルで分解されて空中で再結晶、歪な黒い塊へと成り果てる。剥き出しの肉体は表面から噴き出した血と体液で真っ赤に染まり、粘性の赤い肉塊と崩れ去った。体組織の5割以上が一瞬以下の時間で壊死。損傷を度外視した痛覚のみでも、常人であるならば10度は狂死してもおかしくはない激痛が奔っているだろう。
解法による自動防御など抵抗の一助にさえならないほどの圧倒的な力量差。文字通りに桁が違い過ぎて何の抵抗も許されない。
神格封じに怒濤の攻勢による足止め、枷を何重にもかけてそもそも何の行動も取らせない。
現状、ストラウスは完全な優勢を獲得していた。手足をもがれたに等しい甘粕にとってこの劣勢は押し返せるものではなく、故にこのまま押し切れるものであるのだと。
「これで最後だ。終われ、甘粕正彦ッ!」
そして具現するは、長大なりし漆黒剣。
最も扱い慣れたストラウスの代名詞にして基本形。それに膨大な魔力を注ぎ込むことで刃渡り20m長にまで拡大変化させる。
終わりを告げる声の下、振り下ろされるは全霊の一撃だった。間違いなく今のストラウスに行使可能な最大威力の斬撃であり、極限まで弱体化した甘粕に受け切れるものではなく───
「くく、くくく、ふははははは……!」
甘粕はそれを、またしても真っ向から受け止めていた。勿論威力の無効化などできてはいないし、今も全身から血の霧を噴き出しながら、魂ごと砕かれそうな痛みの中にいるのだと証明している。
だというのに、ああ、何故彼は今も笑っていられる。
いやそもそも、例え一瞬とて耐えきれるものではないはずなのだ。魔力抵抗に筋力差、まともに立ちあがることすら不可能なほどに損傷した骨格など、そんなことは物理的に在り得ないはずなのに。
「お前の手札、存分に見せてもらった。ああ、実際に追い詰められたよ。かつてないほどに死を感じた。
今もまた、な。地力でこれは跳ね返せん……」
そうだ。今の甘粕は完全に単騎。《光の剣能》により神格へのアクセスを断たれ、物理的にも身動きの取れない全方位圧縮の重力波を受けているはずだ。
にも関わらず、何故抵抗ができている。いくら死を待つばかりのギリギリの状態とはいえ、意味不明としか言いようのない話だろう。
「が、諦めん。諦めんぞ見るがいい、俺の辞書にそんな言葉は存在せん!
何故なら誰でも、諦めなければ夢は必ず叶うと信じているのだァッ!}
この不条理を紐解く真実は至って単純明快。馬鹿らしすぎるほどの呆れた理屈。
「そうか。お前個人の意思力が、遂には神格のそれすら凌駕しつつあるというか」
すなわち気合と根性、心の力に他ならない。
驚嘆すべき事実と絶対の優勢を崩される危機の中にあって、ストラウスから漏れ出たのは呆れたような声だった。今まで散々死地より復活と覚醒を果たしてきた理不尽極まる敵ではあったが、これはもう笑うしかないだろう。
肥大化する勇気、勇気、勇気勇気勇気勇気勇気勇気勇気勇気勇気勇気勇気───誰も甘粕を止められない。
「づッ、ぐうううううおおおおおおおおおおおおおおおおおォォォォォオオオッ!!」
次の瞬間、七孔噴血すら厭わず轟き渡る甘粕の咆哮。そして、何たることか───ルリム・シャイコースによって断たれていたラインが無理やり再結合される気配が感じ取られた。
在り得ない、不可能だ。それは単身で英霊の座や根源たる波動現象に繋ぐに等しい蛮行であり、如何に阿頼耶識の接続に耐える盧生であろうとも自我が耐え得る保障はない。
だがこいつはそれを成してしまう男なのだ。甘粕正彦、意思の魔人、原初の盧生。ああこいつはどこまで出鱈目な男なのだと───ストラウスでさえも半ば感嘆めいた感情を浮かばせて。
「憎悪の空より来たりて正しき怒りを胸に、我は魔を断つ剣を執る───終段顕象!」
しかしそんな感慨に耽っていられる時間などない。強引に繋ぎ直したラインは言うまでもなく滅茶苦茶であり、アクセスに掛かる負荷は尋常ではなく跳ね上がっているはずだが甘粕は微塵も怯まない。
加えて、甘粕が今まさに召喚しようとしているモノは、これまでをも遥かに凌駕する桁外れの神威だということが分かってしまった。
「汝、無垢なる翼───■■■■■■ッ!!」
───その名は忌避され失われた。
其は、悪魔の時代(カリ・ユガ)に降臨したる裁きの神。遍く邪神を滅ぼし尽くす、(∞-1)個の宇宙を破壊した神殺しの破壊神。
時の氏神(デウス・エクス・マキナ)。全てを台無しにする機械仕掛けの神なるもの。
それはただ一言、こう呼ばれる。
「"D"の右腕……渦動破壊神の断片を呼び寄せたか!」
ああ、それはなんて荒唐無稽。世界に在り得ざるモノまで呼び出してしまうのか。
甘粕に召喚されたのは、巨大な機械の右腕だった。純白の腕躯に光輝の掌。放たれる神気の渦は清廉そのもので、けれど隠し切れない憎悪の気配が如実に湛えられている。
その欠けた体躯に秘められた力の総量は筆舌に尽くしがたく───けれど重要なのはそこではない。
問題は、この神格の存在規模は明らかに人類の総体たる阿頼耶識すら超越して余りあるということ。
つまりは終段で呼び出せるような代物ではなく……ならば考えられる帰結として、この右腕は阿頼耶識ではなく甘粕個人の意思力で以て呼び出されたということになってしまう。
なんだそれは、理解不能だ。掟破りも大概にしろと叫びだしたくなる。
何故ならその右腕は、破壊神という括りの中では最上位に位置するもの。
邪神に冒された宇宙を滅ぼす極大の破壊(カタストロフ)そのもの。
本来破壊神の為す「破壊」とは、後の再生を兼ねた創造の御業であるものだが、この神に限っては全く違う。破壊した宇宙を新生させることもなく、無限数に近い世界をただ滅ぼしてきた正真正銘の邪悪。邪神より尚おぞましい殺戮の化身であるのだから。
「ヴ―アの無敵の印において力を与えよ、バルザイの偃月刀!
さあ見せてくれ、吼えてくれ。お前たちの譲れぬ願いを! そしてその果てに───」
次瞬、機械の右腕に宿る巨大な偃月刀。剣呑なる切っ先が鎌首をもたげた大蛇の如くに振りかぶられる。
ストラウスは、そこに共鳴するかのように刃が哭いているのを感じ取った。そしてそこに込められた、途轍もない破壊力をも。
あの一振りは天地を分かち、世界を破断する処刑刀に他ならない。
「俺にお前たちを、愛させてくれェッ!!」
振り抜かれる、刃の一撃。
視認など絶対不可能な速度で放たれた一閃。恒星が爆発したかのような光と共に、斬撃そのものが巨大化して振り下ろされた。
爆轟する世界。光に覆われる視界。地が割れ空が裂け、引き裂かれた天が真っ二つに割れて放射状に亀裂を広げていく。超越の速度を誇るため聴覚による判断が一切利かない。
鳴り響いたガラスが割るような破砕音は、鎌倉守護のために展開した相転移式次元断層の空間障壁が斬り割られた音だ。あらゆる衝撃を無効化する結界は力づくで砕かれ、その背後の鎌倉市さえ走り抜けて横浜までをも途上に聳える山脈ごと断ち切り、粉砕した。遥か後方より響く切断音は、日本列島そのものが割られた音かもしれない。
だが、それでも。
それでも立ち塞がった者がいる。肉体はその大半が砕け散り、今や漆黒の形なき魔力で欠損を補っている有り様ではあれど。
ローズレッド・ストラウス、未だ斃れることはなく。
天地乖離す極大の破壊さえも遥か後方に置き去って、ただ一振りの剣となって甘粕へと刺し迫る!
「事此処に至り、最早お前に投げかける言葉はない。故に」
迫る。迫る。止まることはない。
ただ一直線に、ひたすら愚直に。
何の策も小細工も、一手後の生存すら考慮せず。
馬鹿正直なまでに、正面から道を切り拓く!
「受けてもらうぞ、我が挑戦を!
私の最後の力を!」
「いいだろう───来い!」
そして甘粕も、諸手を挙げた喝采で以て受け入れて。超至近距離で両者が向かい合う。
今此処に最大最後の、残された力を振り絞った全霊の激突が開始された。
「ぬ、ぐぅ……オオォ───!」
最大出力で奏でられる魔力の奔流。
そう───ここに来て、戦況は一方へ激しい傾きを見せ始めた。
無論それは言わずもがな、甘粕の不利という形を取って現れる。
機神の腕という規格外の権能を携えたはずの第一盧生は、開戦以来最大の劣勢に追い込まれていた。
魔力と神威による超至近距離のせめぎ合いは互角の均衡を見せながら、されど勝負の振り子をストラウスの側へと今も激しく揺り動かす。
趨勢を決定づけているのは単純に"距離"という概念だろう。
機神の腕はあまりに巨大すぎるが故に、この距離においては甘粕個人の力で拮抗を見せなければならない。何度も言うように単騎性能で言えば甘粕はストラウスに大敗を喫しており、如何に権能の欠片を自身に適用させようともその力量差は変わらない。
ならば間合いを離すのが定石ではあるが、ここで甘粕の気質が邪魔をする。馬鹿正直に申し込まれた決闘に彼の心は浮足立っており、それを放棄して卑怯にも持ち場を離れることを彼は善しとしないだろう。自分の命の危機に際しても頑として譲らない姿勢はある種の潔さも感じさせるが、ここまで来ると単なる頑固者だろう。
挽回不能、逆転不能。よって現状打つ手なし。
ストラウスの出力は優に甘粕の数十倍に到達していた。それは逆説的にそれだけの開きがなければサーヴァントの身で神威に伍することはできないという証左であり、盧生という存在がどれほど優れたものであるかを示すものであったが、今この場では何の慰めにもなりはしない。
ならば小規模の神格を召喚するという手段もあるが、その程度の小神程度ではストラウスに対して焼石に水にもならないだろう。決めるべきは必殺であり、渾身たる全身全霊の力なれば、そのようなつまらない小細工を労した時点でその者の敗北は決定する。
故に迫る斬首の刃。接近を機に赤薔薇王の魔力嵐を受けて減衰していく神威。魂を削り取られる感触は死神の宣告に等しく、次の瞬間にも昏い闇の底へと呑みこまれるかの如き未来を甘粕に幻視させて止まない。
見せかけの均衡は決壊寸前。
紛れもなく、このままでは甘粕正彦は敗北する。
人間賛歌は謳われない。楽園の夢は破綻する。
後は足掻き散るのみかと、聡明な頭脳が未来予測を弾きだし───
「───まだだッ!」
刹那、甘粕から湧き上がる光の波動───意思力が大暴走を開始する。
そう、甘粕は光の属性を持つ英雄だ。どんな時でも諦めないという物語の主役めいた精神が、逆境において勇壮に駆動し始める。
現実? 常識? 言い訳はよせ。そんなものは捻じ伏せればいい。
苦難とはすなわち試練、光にとっては闇を討ち取る起爆剤として機能する。
追い詰められるほどやがて雄々しく覚醒してみせよう。
最後は必ず勝つという英雄譚のお約束が、因果さえ殴り飛ばして夜闇の王へと炸裂した。
出力上昇、出力上昇、出力上昇───大熱暴走(オーバーヒート)。
あまりの過負荷に内臓骨格筋線維が弾け飛び、脳が灼熱する感触を覚えるが何のその。
これで敵手を上回ったと狂喜しながら神格召喚を繰り返す。
大地の化身、星神、月神、太陽神、星座の主に銀河を統べる者───力の多寡や権能など頓着せず、ただひたすら"大きい"神だけを選んで召喚、即座に分解して一点に集中圧縮していく。
甘粕にとって神など人が生み出した発明でしかなく、ただ己が力を揮うための道具という認識でしかない。故に敬いの精神など欠片も存在せず、このように罰当たり極まりない使い方にも躊躇などなかった。
神よ、人を見下ろす超越者を気取るならば文字通りに全てを超えるため使われろ、と。
アラヤに渦巻く廃神、戦神、魔神、主神、皆々全て───無限に引き摺りだせるのが盧生の特権。
それこそが戟・楯・咒・解・創の枠を超えた第六法に他ならない。
邯鄲の最高位たる終ノ段。
急段(けつまつ)を超える終段(しゅうまつ)の物語。
今彼は、神格の数百体同時召喚という不条理を成し遂げる。
いざ、我が愛を括目して見よ、赤薔薇王───俺の夢は決して譲りはしない。
「崩界(コラプサー)───事象暗黒境界面(イベントホライズン)!」
中点に向け圧縮される諸物質、高密度にして大出力の熱核エネルギー。
プラズマ熱運動や電気的な反発力すら無視して押し進められる重力収縮。中性子核の縮退圧すら超過する自己質量は重力崩壊を引き起こし、星の終末点たる次元の孔を形成。突き抜けたエネルギーは三次元上に亀裂を刻み虚無へと反転する。
圧倒的なその熱情に、最早空間は耐えられない。
それは神々を素体として作り上げられたマイクロブラックホール。膨張を停止し収縮へと振り切った恒星が、遂には夜闇の王とはまた別個の闇を体得する。
甘粕を蝕む大出力の魔力群が堰を切ったように重力崩壊の魔手に囚われ、光さえも抜け出せない無明の彼方に消えていく。光速を超える手段が存在しない以上、ストラウスでさえこの黒天には抵抗不可能。如何に全力を振り絞ろうと、片端から異次元空間に抹消されていくために両者の均衡は徐々に揺らぎ始めていく。
ブラックホール創造自体が相当な力を要する上に、相性的な有利までをも獲得するに至った。今度は一転、ストラウスが甘粕へと追い縋る構図に変わる。
「───まだだァッ!」
そして更なる領域へとすかさず踏み込み手を伸ばす。
掟破りの二重覚醒。限界という壁をもう一つ、渾身の力でぶち破り意思力を暴走させる。
何故そんな暴挙が可能であるかと言えば、理由はもちろん気合と根性。心の力以外にない。
常識はずれの多大な過負荷で最早肉体は微塵と化しつつあるが、それがどうした。例え最微塵(クォーク)と化そうとも、諦めない意思さえあるなら体を再結合して戦うことが叶うだろう。
まさしく神の雷霆が如く、罅割れる全身から光と熱を放出させて、文字通りの炎となりつつ"圧勝"の二文字を求めて尚も激しく燃え盛った。
───暗黒天体如きで、ローズレッド・ストラウスが敗れるはずがないだろう。
油断しない、敵を評価する。あまりに苛烈な判断の下、明らかに過剰である殲滅力を希求する。
一点に集中したエネルギー反応が更なる高まりを示し始める。
歪み凝縮する暗黒天球。異常な数値の縮退圧と重力の間で釣り合いを見せながら、更に上昇する質量。天上知らず、止まらない。
どこまでも大雑把に、歓喜の笑みを浮かべながら地球の法を軽く突破。
創生、収縮、融合、装填───いざ、光が闇を撃ち滅ぼす。
「お前の愛を俺に見せろォ───霆光・天御柱神ッ!」
創造───ガンマ線バースト。天霆が如き金色の光柱が、一直線に遥か空へと伸びあがった。
巨星の終焉時に発生する超新星爆発、及び中心核の重力崩壊による相対論的ジェット放出。ガンマ線バーストとは、すなわち星そのものを素体とした高エネルギー放射線の大放出に他ならない。
太陽が解放できるエネルギーの最大値は理論上E=Mc^2より10^54erg程度であり、実際にはこの内の1%程度を100億年の寿命をかけて光やニュートリノとして放出しているに過ぎない。一方ガンマ線バーストは10^52-10^54ergのエネルギーを僅か数十秒の間に0.1-1MeV光子として放つ、人類の観測史上最大規模の爆発現象である。
射程およそ数千光年。範囲内の全生命を放射線で根絶する鏖殺の宇宙現象。最早サーヴァントは愚か神霊の類ですら秤に収まらない空前絶後の大衝撃。しかしこの一撃の最も不可解な点は、放たれたガンマ線には魔力による反応が一切感じられないということだ。
つまりこれは、宝具による疑似や終段の神格召喚による権能などでは断じてない、真実の宇宙現象であるということ。
指向性は持たせてあるし、極限まで集束・圧縮した一撃はストラウスのみを狙い撃っている、などという一切は言い訳にしかならない。
なにせ、余波だけで周囲一帯の時空間が崩壊し、罅割れている。オゾン層を貫通した爆光はやがて、射線上にある星の悉くを苦も無く呑みこみ削り欠けさせてしまうだろう。
異次元空間への出力抹消に加えて、最早比較にならないほどの大出力。
如何な赤薔薇王でもこれに比することは不可能であり、事実として対敵たる彼の姿は金色の光の中へと消えていった。
勝負の決定打がここに成る。勝者は甘粕正彦であると、誰もがそう確信し。
「───まだ、まだァァッ!」
だが、まだだ。まだ足りない。
覚醒の連発程度で、果たして得られる勝利であるだろうか。
いいや否、驕るな甘粕正彦───我が宿敵はそんな容易い相手ではない。
俺が認め、尊敬した英雄ならば、光年単位の破壊程度で死ぬはずがない。例え五体が微塵と化そうとも両の足で立ち上がり、星の質量をもその背に背負うことができなければ、勇者などと名乗れるはずがない。
俺は勝つ。必ず勝つ。絶対に、絶対に、絶対絶対何があっても負けられないという一念が、理性の制止を捻じ伏せて明日へと向かい超疾走を開始した。
止まらない。止まらない。愛と勇気の前進を誰も止めることができない。
甘粕は今や、長年の夢であった楽園の創造すらも慮外に投げ出している。彼は人類の根絶も地球の滅亡も望んでいなかったし、そもそも人類を滅ぼせば彼の好きなものは永遠に見られなくなってしまう。
それくらいの損得、一桁の足し算よりも分かりやすい理屈がこの男には通じないのだ。目先の男があまりにも素晴らしすぎたから、その勇気をもっと見たいという一念のみで自身の夢も人類の存亡も頭の中から吹っ飛んでしまっている。
最早馬鹿という言葉すら、馬鹿に対する冒涜にしかならない域の大馬鹿者だろう。愛も勇気も傲慢も、その我儘具合も。どこまでも青く未熟以下の子供そのままであり、だからこそ全てが桁外れているのだ。
そして紡がれるランゲージは、文字通りに世界終焉にも相当する力が込められたものであり。
世界の崩壊と引き換えに、今こそ甘粕正彦は完全なる勝利をその手に掴んだ。
「いいや。お前の出番は終わりだよ、甘粕正彦」
「が、はァ……ッ!?」
甘粕の胸から突き出るものがあった。それは黒く塗りつぶされた、剣の切っ先。
背後より刺し貫いた剣の一撃が、違うことなく甘粕の霊核を貫通していた。
それはある種、至極当然の話ではあったのだろう。
終段の解禁以来、自己を顧みず繰り返してきた覚醒と限界突破と致命傷よりの復活。それらは異能や特殊能力の類ではなく全て甘粕個人の精神力によるものであり、故に当然として反動ダメージが蓄積されていく。刻まれた無数の斬傷は今もなお癒えることはなく、音を立てて崩壊していく甘粕の肉体。当たり前の結末として彼の命は潰えていく。
サーヴァントとは生身の肉体ではなく魔力で構築された模造品。そして機械は製造時の性能評価を越えられない。
できるのはリミッターを外して酷使することだけである。それにしても、本体にかかる負担は耐久寿命を大きく削る羽目になるのは自明の理。
よって意思力による快挙など霊基の欠陥、単なるエラーに過ぎず……
「いいや……まだだ、まだだ、まだ俺は……!」
「違う。ここで幕だ。お前の聖杯戦争は終わりを迎えた」
それでもサーヴァントの規格すらをも超越するのが英雄たる者ではあるが、しかしストラウスは更なる意思力で以て捻じ伏せる。放出する魔力が甘粕の全身を侵食する。
それもまた当然の話だ。「光」は甘粕だけの専売特許ではない。誰しもが持つ勇気の顕れがそれだとすれば、かつて彼が語った通り、万人が持って然るべき代物であるのだから。
ローズレッド・ストラウスの所有宝具「月の恩寵は斯く在れかし(THE RECORD OF FALLEN VAMPIRE)」の真名解放は生前における全盛、すなわち異星の原初存在としての権能を十全に発揮できる状態に一時的に移行するというものだ。
堕ちたる吸血鬼の記録(THE RECORD OF FALLEN VAMPIRE)。それはストラウスが歩んできた人生そのものの歴史。
人と吸血鬼の両種族の未来を案じ、己一人を礎に全てを救った男の逸話が、まさか「光」でないわけがない。
気合と根性による覚醒など、彼にもまた可能な行いなのであって……
「死に体であるのは、私も同じなのだがね」
高ランクの単独行動はマスター不在での戦闘までをも保障するが、宝具発動による魔力行使までカバーできるわけではない。
残存魔力のほぼ全てを使い切ってしまったストラウスの体は、末梢から粒子となって空中へと溶け消えていく。最早長くはあるまい。
「ようやく互いに落ち着ける時が来た。約定の時だ。今こそお前に……」
そうして、ストラウスの口から二言三言、何かの文言が紡がれて。
抵抗に全力が注がれていた甘粕の体から、ふっ、と気力の糸が途切れたかのように、あらゆる暴性が消失した。
ストラウスから語られた真実。第四盧生の逸話の具現。
この世界そのものに掛けられた、桃源なりし急段の強制協力。
だとすれば、我が愛の終焉たるは、既に。
「そうか、お前は……いや、お前たちは。
この世全てが廃せる地獄に成り果てようとも、それでも尚足掻き続けて……」
目に見えるものの全ては現実でしかない。
目に見えることのない現実の全てなどは、ただの障害でしかない。
けれどこの都市は、この世界は。
誰もが夢に堕ちようとも、誰もが万仙の檻に囚われようとも。
ある者は願いのため、ある者は信念のため、ある者は黒き欲求ため。
聖杯を求め聖杯を否定し、戦い、抗い、命を賭して。生き抜き果てていったというならば。
「誰も……誰一人として……
この世界に、諦めた者などいなかったのだ……」
そして甘粕は、何か一つを納得したかのように面を伏せた。その姿は静かな感慨に耽っているかのようで。
最早自分にできることなど残されていないのだと、満足げに、あるいは自嘲するように。
「ならば俺の役割はもう、この世界には存在しない。真なるは是より先、世界の壁が破られた後のことになるというわけか」
「然り。結局のところ、この戦いはお前にその事実を伝えるためのものだった。それにしては、些か大仰な結果になってしまったが」
「だがそれで正しかったのだろうさ。確かにお前の言う通り、事実のみを口頭で伝えられたところで、俺は納得などしなかっただろうからな」
言葉も暴力も、まずは値する意思を示してからでなくば認めない。
それは甘粕の譲れない人生哲学であり、人類に対する基本姿勢であればこそ。
「認めよう。お前こそはまさしく俺の認めた英雄であると。
如何な廃神、如何な英霊の偶像であろうとも。甘粕正彦はローズレッド・ストラウスという個人に最大の敬意を払おう。
一人の男として、俺はお前に出会えて本当に良かった」
「変わった男だ。そも、私は人間などではないというのに」
「それこそ愚問。俺は全ての生きとし生ける者たちを見守る者なれば。
俺の元いた世界において、魔性とはアラヤに作り出された幻でしかなかったために勘定には入れなかったが、そうでない純然たる異人種ならば話は別だとも」
人を成したるは心であり、何かを成し遂げようとする強い意思の現れである。
所詮この世の全ては先達者の手で作られるもの。自然発生するのは魂のみ。
それこそが人と生命が持つ唯一無二の"己"であるのだろう。体が作り物であろうとも、その始まりが何かの写しであろうとも。
人の想念が作り出した偽りの廃神などではなく、
確たる一個の存在として、母の胎内より生まれ出でた者であるならば。
「俺が尊ぶは自らの裡より湧き出でし意思の強さ。それが真である以上、生まれの如何を俺は問わん。
吸血種? 人獣? そんなものは所詮誤差に過ぎんよ。少なくとも、俺は人種差別主義に目覚めた覚えはないのでな」
「く、ふ、はは」
思わず苦笑が漏れ出てしまうのを、ストラウスは止めることができなかった。
甘粕正彦は光の属性を持つ者である。彼は確かにどうしようもない大馬鹿で、勘違いした愛の持ち主で、性悪説の権化で人類のことなど何一つとして信用していない絶望の徒ではあれど。
それでも確かに、盧生に選ばれる人類愛の持ち主でもあるのだ。人類悪とは、すなわち愛情の裏返し。両者は表裏一体であり、どちらか一方を切り離して語ることなどできはしない。
「故にこそ、我が戦いに悔いはなし! 認めよう、俺の負けだ!」
辛気臭く終わりを迎える趣味は持たない。人は泣きながら生まれる以上、終わりは豪笑を以て閉じるべきだと決めている。
例えこの世界が虚構でしかなく、ここでの敗北が甘粕本体の死に繋がるようなものではないのだとしても。
刻まれた。これこそ我が生涯における初めての敗北であり、その事実を以て我が憧れの光と証明されたのだから。
「そして安心するがいい。お前たちの希望は確かに俺が受け取った!
その意思を無駄にはすまい───喝采せよ! 喝采せよ! これこそ、我が愛の終焉である!」
そうして。
甘粕の体が、光の中に溶けていって。
───全てが、白の中に消えていく。
▼ ▼ ▼
───墜ちていく。
墜ちていく。白い光の中、無数の残骸と共に、力を失ったストラウスは真っ逆さまに。
既に霊基を構築するだけの魔力さえも失って、数瞬後には完全に消え去る運命の彼は、ただ無感のままに墜落していく。
「私は……」
それ以上は最早言葉に出す力もなく、彼は心中のみで呟く。
───私は、何かを為せただろうか。
───私は、今度こそ道を過たず歩むことができただろうか。
答えはない。答えはない。ここには彼以外の誰もおらず、応える者などいない。
ふと、彼方を見遣る。
鎌倉市、聖杯戦争の舞台となった都市。
その中心部が、空間的な揺らぎに包まれて、砕かれ虚無が如き空洞を晒す地下に沈降していっているのが見えた。
一定範囲の特異点化、虚数空間への潜航。
それは、あの場でも同じく決戦が繰り広げられていることを意味していた。
───すまない。
ただ一言、それだけを思う。
サーヴァントのみならず、未だ幼いマスターたちもあの場にはいるのだろう。
幼いその者たちに、つらい役目を押しつけてしまった。
だが安心してもほしいのだ。この先更につらい"現実"が待ち受けてはいるだろうけれど。それより後に、この都市での出来事以上につらいものなど待ってはいまい。
ならばあるのはいいことばかりに決まっている。
きっとお前たちは、幸せになれる。
私や、アストルフォのマスターのように。
最早顔も名前も思い出せない、彼ら彼女らのように。
きっと───
「こ、の、世界が……」
崩れ行く声帯で、それでも彼は声を出す。
何かを残すように、自らの足掻いた証が少しでも刻まれるように。
ここではないどこかへ、ただ一心に手を伸ばして。
届かぬ星を掴むかのように。
「この選択が、辛さばかりを運ぶわけではないと、信じている」
声と共に、伸ばした手が金色の粒子と消えて。
今度こそ、空白の世界から誰しもが消えて無くなった。
◆
そして盤面は最終局面へと移行する。
聖杯戦争の終結は近い。全ての鍵は、特異点と化した都市の中心部に───
【トワイス・H・ピースマン@Fate/EXTRA 死亡】
【ライダー(甘粕正彦)@相州戦神館學園八命陣 強制退去】
【アーチャー(ローズレッド・ストラウス)@ヴァンパイア十字界 消滅】
※エリアD1〜D3、E1〜E4の時空間が崩壊、通常の手段では立ち入りができなくなります。
※エリアD3、D4、C4、C5、B4、B5、A5が完全消滅。射線上の山々及び横浜、東京及びその向こうにまで甚大な亀裂が刻まれました。
※エリアC3の特異点化及び虚数空間への沈降を確認。この一帯のみ甘粕とストラウスの戦闘の影響を受けていません。
───墜ちていく。
墜ちていく。白い光の中、無数の残骸と共に、力を失ったストラウスは真っ逆さまに。
既に霊基を構築するだけの魔力さえも失って、数瞬後には完全に消え去る運命の彼は、ただ無感のままに墜落していく。
「私は……」
それ以上は最早言葉に出す力もなく、彼は心中のみで呟く。
───私は、何かを為せただろうか。
───私は、今度こそ道を過たず歩むことができただろうか。
答えはない。答えはない。ここには彼以外の誰もおらず、応える者などいない。
ふと、彼方を見遣る。
鎌倉市、聖杯戦争の舞台となった都市。
その中心部が、空間的な揺らぎに包まれて、砕かれ虚無が如き空洞を晒す地下に沈降していっているのが見えた。
一定範囲の特異点化、虚数空間への潜航。
それは、あの場でも同じく決戦が繰り広げられていることを意味していた。
───すまない。
ただ一言、それだけを思う。
サーヴァントのみならず、未だ幼いマスターたちもあの場にはいるのだろう。
幼いその者たちに、つらい役目を押しつけてしまった。
だが安心してもほしいのだ。この先更につらい"現実"が待ち受けてはいるだろうけれど。それより後に、この都市での出来事以上につらいものなど待ってはいまい。
ならばあるのはいいことばかりに決まっている。
きっとお前たちは、幸せになれる。
私や、アストルフォのマスターのように。
最早顔も名前も思い出せない、彼ら彼女らのように。
きっと───
「こ、の、世界が……」
崩れ行く声帯で、それでも彼は声を出す。
何かを残すように、自らの足掻いた証が少しでも刻まれるように。
ここではないどこかへ、ただ一心に手を伸ばして。
届かぬ星を掴むかのように。
「この選択が、辛さばかりを運ぶわけではないと、信じている」
声と共に、伸ばした手が金色の粒子と消えて。
今度こそ、空白の世界から誰しもが消えて無くなった。
◆
>>341 は投下ミスです
そして盤面は最終局面へと移行する。
聖杯戦争の終結は近い。全ての鍵は、特異点と化した都市の中心部に───
【トワイス・H・ピースマン@Fate/EXTRA 死亡】
【ライダー(甘粕正彦)@相州戦神館學園八命陣 強制退去】
【アーチャー(ローズレッド・ストラウス)@ヴァンパイア十字界 消滅】
※エリアD1〜D3、E1〜E4の時空間が崩壊、通常の手段では立ち入りができなくなります。
※エリアD3、D4、C4、C5、B4、B5、A5が完全消滅。射線上の山々及び横浜、東京及びその向こうにまで甚大な亀裂が刻まれました。
※エリアC3の特異点化及び虚数空間への沈降を確認。この一帯のみ甘粕とストラウスの戦闘の影響を受けていません。
投下を終了します
投下乙
鎌倉がまだ残ってるだけで草
投下お疲れ様です。
凄い! あらゆる意味で凄い熱量のバトル回!
核兵器や超未来兵器をポンポン投げてくるということは知っていましたが、まさかこんな真髄があろうとは。
コアトルさん本体や系列作品(一瞬無関係とも思いましたけどがっこうぐらし系列でニトロも出てきてるのだろうか)の大物まで投げ付けていくのは最早壮観という言葉では足りないほど凄まじい。
しかし立ち向かうストラウスも、そうした普通ならどんなサーヴァントも一撃で倒してしまうような攻撃の数々を地力のみで突破していく規格外。本当、何でこれで鎌倉が残ってるんだ???と首を傾げまくってしまいました。
個人的にはスルト+恋するドラゴンのコンボが攻撃としてもえげつなく、打開のされ方もとても綺麗だったので好きでした。
それにしてもこの甘粕という男、てっきりギルやストラウスのような何でも知ってる組だと思ってたんですけれど、本当に何も分かってなかったんですね……(困惑)
そんな傍迷惑な魔王も対聖杯の要だったストラウスも去り、いよいよ残りの面子もごくわずか。そろそろ終わりが見えてきましたね。
次はどんな作品が投下されるのかとても楽しみです。力作の投下本当にお疲れ様でした。
番外編投下します
恋をした。
誰よりも幸せな恋をした。
でも、ボクは灰かぶり姫ではなく───
ハッピーエンドは失われた。
▼ ▼ ▼
崩れた螺旋階段を昇る。昇る。昇る。この先に「愛のかたち」があると誰かが言った。
息を切らせ足取りは重く、疲労の色は濃いけれど諦めの意思を持つことなく。
暗闇に染まる世界。眼下に広がるのは漆黒の雲海。空気が薄く呼吸が苦しい。
未だ見えぬ螺旋の果てをそれでも見上げ、少女は一歩また一歩と階段を昇る。
頂上を目指して。
いと高きに在るものを、目指して。
何のためか。
それは願いのためだ。
少女にはささやかな願いがあった。きっと、それは口に出すことはないと思っていたけれど。
もしも奇跡を掴むことができたらと、考えていた願いは確かにあった。
けれど今は違う。
そんな夢想よりも何よりも、今まさに求める奇跡はただひとつ。
それは───
「もう少しだよ、アリス……!」
肩を貸して懸命に呼びかける。それは、少女に寄りかかるようにして瞼を閉じる少年の姿。
その事実を認めたくなかったから、何度も何度も呼びかけ続けるのだ。
「きっと、あそこに行けば全部大丈夫だから」
応えはない。彼はただ瞼を閉じるばかり。
「全部全部、無かったことになるんだから」
応えはない。彼はただ血を流すばかり。
「そうだよ。こんなに頑張ったアリスが報われないなんて、そんなことあっていいはずがない。
アリスはずっとみんなのために戦ってきたんだから、今度はアリスが願いを叶えるべきなんだ」
声が掠れ、途切れがちになる。喉はとっくに枯れ果てて、疲労と渇きでべったりと張り付いている。
重い。ずしんと芯に来る重さは少年のもの。華奢で小柄な少女では引きずるだけでも一苦労だろう、そんな彼をここまで連れてきたのだから体はもう限界を訴えて悲鳴を上げている。
それでも、少女は懸命に進み続ける。
それでも、少女は誰かに助けを求めることはしない。
だって、助けてくれる誰かなんて、もうどこにもいないと知っているから。
少年のサーヴァント、数多の英霊を屠った雷電の王は、拡大変容を起こした最後の敵を道連れに果てた。
少女のサーヴァント、囁きかける水銀の影は、今も少女の足元を這いうねるだけだ。
ここにはもう、少女以外の誰ひとりとして存在しない。
だから、少女がひとりでやり遂げなくてはならないのだ。
「二人で帰るんだ。元の場所へ、三年四組のあった世界へ。だからさ……」
そんなことは、分かっているけれど。
「死んじゃ嫌だよ、アリス……!」
その事実だけは認めたくなくて。
すぐ横にある現実から目を逸らしたまま、少女は螺旋の果てを目指し続けるのだ。
『では、諦めるときだ』
───ああ。
───視界の端で水銀の影が嗤っている。
そこは黄金螺旋階段の果て。
万能の奇跡が降り立つ、世界の最果ての場所。
彼はどこにでも在ってどこにもいない。だからきっと、その声も姿も幻であるはずなのに。少女の耳に届く暗鬱な響き。
その声は少年にも老人にも似て。そのどちらでもなく、どちらでもあった。
しかし支配者の響きはない。
たとえて言えば、すべてを嘲笑する響き。
涙を流して笑いながら、心から焦れて願う声。
───たとえて言えば。
───狂った無貌が何かを囁くような、声。
『ディー・エンジー・ストラトミットス』
『魔女に成り損なった哀れな子』
『すでに、お前は諦めているはずだ』
『……それ故に』
『それ故に、お前は想いの果てに至ることがないだろう』
「うるさい黙れ!」
叫ぶ。
堪えきれずに、我慢がならずに。
ありったけの感情を込めて、今すぐ消えろと言わんばかりに。
叫んで、そして唸るように。
「ボクたちを導いた、姿なきヘルメス=トリスメギストス。
ボクはキミを絶対に許さない」
『ならば話は簡単だ』
『見せるがいい。お前たちの《渇望》を』
『封印された都市に訪れた15年の意味。
お前がその手を赤色に染め続ける意味。
如何なる理由と願いとが、その根源か』
「……黙ってよ」
少女の声には嗚咽があった。
対する影は、ただただ無言。
「影法師。たとえキミが、ボクたちのア・バオ・ア・クーだったとしても。
結末を決めるのはボクたちだ。キミなんかじゃない」
『ならば、《美しいもの》を見るがいい』
『お前たちのための"それ"が、用意されている』
螺旋階段の最後の一段。
それを今、昇りきる。
………。
……。
…。
────────────────────────。
◆
何もなかった。
そこには、何も、無かった。
「…………え?」
そこは黄金螺旋階段の果て。
万能の奇跡が降り立つ、世界の最果ての場所。
そのはずだ。昇りきった者は永遠が手に入るのだと。
愛のかたちまでもが、その場所にはあるとさえ。
「なん……なの、これ……」
何もない。
誰もいない。
伽藍堂の、石榑と暗闇だけが虚しく転がっているばかり。
風化し崩れた玉座が、主さえも失って寂しく佇むばかり。
「こんなもののために、ボクたちは今まで……
命を賭して、苦しんで、痛めつけられてきたっていうの……?」
こんなものが、約束された《美しいもの》か。
こんなもののために、階段を昇らされたのか。
数多の願いを踏み躙り、時には人さえ殺めてきた。
すべては、ただひとつの願いのために。
───命すら手にかけた願いの果てが。
───これだと言うのか。
「何とか言ってよキャスター!
こんな茶番のために、ボクたちは今まで……!」
誰もいない。
嘲笑う水銀の影は、既に、どこにもいなかった。
いいや。もしかすると、そんなものは最初からいなかったのかもしれない。
「───ぁ」
そこでもう、気力も何もかも尽き果てて、少女は膝から崩れた。
心も体も限界だった。少女の意思を繋ぎ止めていた最後の一線が、ぷっつりと断ち切られてしまった。
あらゆるものに意味はなかった。
自分達の戦いも、覚悟も、願いも、苦しみも悲しみも、愛も夢も憧憬も何もかも。それらが実を結んだ結果として、「何もなかった」という終わりだけがもたらされた。
命を奪った意味は。
命を喪った意味は。
もう、どこにもなかったのだ。
少女の体が冷たい石榑の床へと投げ出された。張り付いた頬から石榑のひんやりとした感触が伝わってきて、熱に火照った体に気持ちが良い。
なんだかもうそれだけで、何もかもどうでもいいやと思えてしまって。ふと、隣に目をやった。
そこには、同じく倒れるアリスがいた。
アリスと横並びだ、と思った。
今までずっと後ろ姿を追いかけるばかりで、懸命に走っても追いつけなくて。
でも今は、今だけは同じ場所に来れたんだって思ったら。
なんだか、少しだけ嬉しかった。
「……ねぇ、アリス。この場所に来て、ほんのちょっとだけ分かったことがあるんだ。
きっとね、美しい思い出を持ってる人だけが、願うことを許されるんだ。あの頃が永遠に続いたなら、今もあの頃のままだったらって」
ううん、それは嘘。だってそんなことは最初から分かっていたことなんだから。
道筋は最初から決められていて、結末は最初から必然でしかなくて、ボクたちは単にそれをなぞらされていただけだった。
でも、ここにたどり着いたのがボクなんかじゃなく、アリスだったなら。
きっと何もかもが上手くいって、ふたりで笑いながら「良かったね」って言える未来があったんだろうなって。
そう思う心は、止められなかった。
ごろんと仰向けに転がって、空を見上げた。雲を突き抜けてきたはずなのに、空は一面が真っ黒に染まって。まるで雨の中にいるみたいだった。
そっとアリスの手を握る。今までどんなに勇気を振り絞ってもできなかったそれが簡単にできてしまう事実が、なんだか無性に悲しかった。
「好きな人と二人きりなら、どこにいても暖かいって、ホントなのかな。
……きっと嘘だよ。だってボクの手、こんなにかじかんで」
───崩落の音が耳に届く。
きっとこの場所も、長くはないのだろう。少女にはその資格がなかったのだから。
断続的な震動に視界が揺れて、でも立ち上がる力すら残されていない。少女はただ、穏やかな顔で空を見上げるばかりで。
「ね、アリス。
最後くらい、ふたりで空を……」
終わりまで言うことはできなかった。
倒れるふたりを引き裂くように、螺旋階段の崩落が襲って。
繋いだ手は解かれる。離れた体は、ガラガラと崩れ落ちる瓦礫の向こうに消えていった。
そうして、ボクの意識は闇に墜ちて───
…………。
…………。
…………。
そうして俺は墜ちていく。
死者に生者は掴めない。死者は所詮、生者の足元に掴まる影でしかなく。
ア・バオ・ア・クーになれなかった俺は、色も輝きも何もかもを失って。
ただ、ただ、真っ逆さまに墜ちていくんだ。
▼ ▼ ▼
「夢の終わりだよ」
「悪い奴らは全員死んで、世界に平和が戻った。これでお話はおしまい」
「全部全部、嘘っぱちだったのさ」
▼ ▼ ▼
───欠けた夢を見ていた。
「……」
玉座にひじかけ凭れていた頭を、億劫気に持ち上げる。
そこは黄金ならざる影の連なり、その最果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。
元は黄金だったのだろう。けれど資格なき者が坐する故に、その者の観測下において黄金の輝きは放たれない。
かつて少女であった魔女はたった一人玉座に腰掛けて、眼下の全てを睥睨しているのだ。今も、今も。
「くだらない感傷だ」
夢は、所詮夢だ。
目を覚ましてしまえば輪郭はぼやけ、すぐに忘れて無くなる。
聖杯戦争の趨勢を見ようとして、やめる。
これも所詮は夢でしかない。たとえどのような変遷を辿ろうとも、最後にひとりだけが残ればそれでいい。
聖杯に捧げられる《願い》を呼び水として、月に眠る《仙王》は真に降り立つだろう。
「必然(フェイト)なんてない。この世の全ては偶然(フェイク)の産物。
全て、そう全て。あらゆるものは意味を持たない」
『ならば君が抱く心よりの願いもまた、無意味であるということになるね』
声。それは、まるで鉄のような響きを湛えて。
水銀の影にも似た響き。けれど根底の部分では真逆の性質を持つ声。
現れる人影があった。背の高い、仕立ての良い白色のスーツに身を包んだ男。
全身を白の服装で固めているというのに、印象は、ただ、黒。
男の膚は黒かった。
けれども、アフリカ系の人種が有する膚の色とは異なるように見える。
それは深淵の黒だろうか。
髪は白い。白髪。
そして、瞳は赫い。昏く、澱んだ、けれども夜闇の中で浮かび上がる輝きの赫。
ルーラーのサーヴァント、ロード・アヴァン・エジソン。
彼の有名な発明王の名を、この男は冠していた。そして事実、彼は人々より讃えられる者ではあった。
『愛なるものを形にすること。それが君の願いだったはずだ。
ならば君は、その愛さえも裏切るつもりでいるのか』
「黙れ。心の何たるかも知らないお前が、賢しげに口を開くな」
返答はない。黒い男は、ただ笑みを顔に張り付けていた。
黒い男には感情の類がない。
およそ彼は人間ではなく、祝福された者であると讃える人々もあるという。だが、それが致命的な誤りであることを魔女は知っていた。
祝福。神の祝福。何とも笑える話だ。そういった言葉が最も似つかわしくない、どころか、皮肉にすらならないことを魔女は知っていた。かの黒い男、ロードたる彼に対して、神などと!
感情などある筈がない。
表情などある筈がない。
時計仕掛けの機械がチク・タクと鳴り響くさまに、心など見出すものか。
『ではひとつだけ尋ねよう。
君は永劫の狂いを受け入れてまでして、彼という偶像に縋るのかな?』
「黙れ」
魔女の声には怒気が含まれていた。
黒い男の貌には、ただただ嗤いが張り付けられているばかり。
「狂っているのは世界だ。
だからボクが狂うことも許される」
『良い返答だ』
偽物の微笑を貼り付けたまま、黒い男が言った。
怯える子供をあやすよう、牙を剥いて唸る獣をなだめるよう、静かに。穏やかに。
まるで“機械仕掛けであるかのような”奇妙な声だった。
チク・タク。
チク・タク。
『君の願いは叶うだろう。ディー・エンジー・ストラトミットス、《西方の魔女》として囁きかける者よ。
ただし。そうとも、ただし───』
ただし───
残酷な神は告げる。
声に、感情の色を混ぜることなく。
冷酷な神は告げる。
声に、凄絶なまでの傲慢を込めて。
無慈悲な神は告げる。
声を、断罪が如く少女へと。
『愛なるものが夢幻ではなく。本当に、実在すればの話だが』
…………。
…………。
…………。
▼ ▼ ▼
セピア色の空間。
もう誰もいなくなってしまったその場所に、打ち捨てられた道化の仮面があった。
死を連想させる白い仮面。それは笑みの形を張り付けて。
聞き届ける者など、もういないというのに。
どこからか声を響かせて───
「哀れ西方の魔女。死と断絶の明日に絶望し、永遠の今日を求め、かの神に祈ってしまった」
「それでは何も救われないというのに。恋はなんて残酷なのかしら」
「しかし大きな違和感。神はもう死んでいる」
「これはすべて計画通り。神の死んだ日曜の日に、彼は近づいてきた」
「ロード・アヴァン・エジソンという名で、彼に、彼女に」
「干渉してきた」
「 這い寄って
きた 」
投下を終了します
全員予約します
クライマックスだ
投下します
それは忘却だ。否定するものだ。そんなものはありえないと、夜が明ければ霞み消えるただの夢に過ぎないのだと。
彼女は、いいや我々は、最初からいないのと同じだった。
それだけ。ただそれだけなのだ。
▼ ▼ ▼
「忘れていることがあるの」
滅びに満ちた夜の街を、風を切って翔ける影がひとつ。
月の銀光に輝く鎧を身に纏う騎士と、その腕に抱かれた幼い少女がひとり。
騎士が超人的な脚力で路地の痕を駆けるに合わせて、その胸元で身を竦ませる少女が言葉を紡ぐ。
「……」
少女の声に、駆けるアーサーは無言で耳を傾ける。
キーアもそれを分かってか、静かに言葉を続けた。
「セイバーと……レンと一緒にいたとき。山から街に降りてきたとき、あたしは誰かと会ったはずなの。
それはきっと本当なの。あたしは確かに誰かと会って、そして涙を流して……
でもあたしも、レンもそれを覚えてなかった。気付いたらあたしたち以外誰もいなくて、そこに誰がいたのか、声も顔も名前もすっかり分からなくなってしまって。
そんなことが、あったの」
そこまで言って、キーアはハーネスを掴む手にぎゅっと力を入れて、不安げに顔を寄せる。
アーサーは言葉なく、しかし真摯に、少女の言葉を聞いていた。
アーサーとキーアが離ればなれになっていた一時、彼女が狂化したセイバーに襲撃されたことは聞き及んでいる。
それを藤井蓮───今はアーサー側の不備もあって、碌に会話することもできず別れてしまったが───が迎撃し、退けたとも。
キーアの話はその直後、バーサークセイバーの魔の手から逃れ中心市街地に移動しようとしていた時のこと、らしい。
何とも奇妙な話だと思う。何者かがキーアと藤井蓮に接触し、しかし出会った事実以外のあらゆる痕跡を消していったというのだから。
真っ先に思いつく可能性としては幻覚系の魔術だが、最高ランクの対魔力を持つ藤井蓮まで騙し通すのは難しい。ならばアサシンの気配遮断に相当するスキルかとも考えたが、そんなアサシンがいるなど寡聞にして聞かないし、そもそもそうまでして二人を無事に帰す意味が分からない。
まさか本当に誰かが消えてしまって───それこそ肉体だけでなく存在ごと消えてしまって───二人は偶然そのタイミングに当たってしまったのでは、とすら考えてしまう。
だが、重要なのは事態の絡繰りではなく。
「涙を流した」という言葉の通り、消えてしまった誰かがキーアの知己である可能性にあった。
(何とも酷なことだ。ここに来て知人の死を見てしまったかもしれないとは)
アーサーは思う。キーアの心は、もう限界に近いのではないのかと。
彼女は元より市井の少女に過ぎない。年の割にしっかりしていて芯の強い少女ではあるが、戦いや人の死に身を置く戦士などではない。知り合って間もない友人の死に際して脇目も振らず泣きじゃくっていたのがいい証拠だ。
それでもキーアがここまで強く心を保ってこれたのは、人の死を目の当りにする機会が少なかったからだ。
無論、その機会が皆無だったわけではないが、古手梨花の一件のみであったことも事実。その一度をキーアは乗り越えられたが、ならば二度目もと期待するのは流石に酷である。
近しい者の死は、耐えがたい悲しみか空虚な喪失か、あるいは双方をもたらす。
アーサーはそれを分かっていたし、だからこそ深く踏み込めない。
悪戯に追及して少女の心に傷をつければ、きっとこの先の戦いには耐えられまい。
(私は人の心が分からない、か。卿の忠言は耳に痛いことばかりだな、トリスタン卿)
数えきれないほどの偉業と難業を成し遂げ、地を穿つ魔の巨竜すら打ち倒した騎士王が、市井の少女ひとりすら扱い兼ねるとは。
道化のように笑わせることも、慈母のように包み込んでやることもできはしない。気の利いた詩のひとつすら紡げぬこの口が、今は無性に恨めしかった。
「……マスター。キーア。僕は君の剣となり、そして盾になると誓った」
「セイバー……」
「その誓いに嘘はない。これより先、例え何が立ち塞がろうとも、その言葉だけは違えない」
「……」
「僕は、君を、決して見捨てない」
結局のところ、返せたのはそんな言葉だけだった。
何とも不確かな、吹けば飛ぶような気休め。しかしそれでも、キーアはそっと微笑んでくれた。
「……ええ。ありがとうセイバー、とっても素敵な騎士様」
その呟きは、銀光の煙る夜半の街に溶けていったのだった。
◆
アーサーたちが疾駆する先は、二柱の《巨神》が相争っていた場所だ。
都市全体を揺らすほどの脅威、正体も出自も分からぬ威容。ともすれば遥か海洋の漆黒戦艦すら凌駕しかねないほどの存在圧。
放置しておけるわけもない。その傍にすばるたちがいるかもしれないと考えれば尚更に。
無論のこと、近づこうと考えられるのは《巨神》の姿が消え去ったがためだ。あのまま戦闘が続行されていたら、流石のアーサーでも容易には接近できない。ましてマスターを連れ立ってなどと。
現状まともに動けるのが自分たちと藤井蓮だけである以上、これは誰かが為さねばならないことだった。
あるいは、ザミエル卿の言う通りに聖剣を揮う敵手を探し求めたがためか。
彼女は何を知ったのか。
末期に言い残した「赤薔薇」こそが、その知識の出所か。だがしかし、アーサーは既に「赤薔薇」と出会うことはないだろうと予感していた。
理屈ではない。それは、単なる"直感"である。
だがしかし、同時に聖杯戦争の終結が近づいているという予感さえもあった。
元より事態が切迫している以上、悠長に探し回っていられる時間もない。
そうした理由から、アーサーたちは巨いなる戦場跡に赴いたのだが。
「これは……」
見下ろすアーサーの口から瞠目の声が漏れた。キーアに至っては、完全に言葉を失っている。それだけの光景が、彼らの目の前には広がっていた。
それは、あまりにも巨大な円形だった。
それは、地平線までをも覆うかのような魔法陣だった。
銀色の光条が、幾重にも折り重なって紋様を描いている。何重にも円形を形作る陣は対称的に回転し、それ自体がひとつの巨大な機械であるかのように精微な幾何学構造を成している。
地を穿った巨大な破壊痕を覆うように、それは展開されているのだ。
直径およそ500m。アーサーたちは知る由もなかったが、その陣はルーン文字において「狼」を意味するものだった。
「儀式魔術の一種……いや、それにしては砲塔めいた力の圧力を感じない。これはむしろ、内に向かって収縮する類のものか」
地面に降り立ったアーサーは、キーアを下ろすと眼前の遥か頭上に浮かぶルーンを睥睨する。地に足つけたキーアは、「っと、と」と少しだけよろけると、すぐにアーサーに倣って魔法陣を見上げた。
地上から数十mの位置に展開された光の円は、アーサーたちが下方から覗きこんでもまるで威圧的な気配を感じさせない。ほのかに灯る白色の光が、ぼんやりと一帯を照らし出す。まるで凪のような静穏さだが、規模の巨大さや先程までここに何があったかを鑑みれば、その静けさは何か不穏なものを感じさせた。
「内に向かうもの。閉じ込めるもの。あるいは広域に対して封印を施すもの。かの狼と巨人とを封じている……という可能性もある」
考えられるのはそれだろう。二柱の巨神が諸共に消滅した場面を目撃したとはいえ、文字通りに消えてなくなったと考えるほどアーサーは短絡ではない。想定すべき未来として、まず間違いなくあの神威は健在であり、ならば消失した後の行く先として一時的な封印を想起するのは極めて順当と言える。
この魔法陣に内在する力の総量が、そう思わせられるほどに膨大かつ強大であることも、その思考に拍車をかけていた。英霊として在るアーサーですら、滲むように放たれる力の波動に身が震える程である。キーアが忘我に近い状態に陥っているのはむしろ僥倖か、眼前の存在があまりに巨大に過ぎて、逆に現実感が伴っていないのだ。これがあと少し脆弱───キーアのような少女でも理解可能な程度の存在───であったならば、きっと我を失い狂乱していただろう。
ともあれ、ここに留まるのは危険であったし、同時に放置しておける道理もなかった。いざ眼前の脅威を討滅せんと聖剣を抜き放とうとして───
「少しばかり違うな。これは封じるものではなく、再誕するものだ」
声が───
吐き捨てられる、声があった。
天上より響くが如き、荘厳にして絶対の宣告であった。
冥府より届くが如き、無常にして冷酷の断言であった。
振り返るアーサーとキーアの視線の先、断崖が如く切り立った瓦礫の彼方に佇みながら、眩いばかりの王の気配を纏う───人の形をした黄金、恒星の輝きを瞳とした男からもたらされた声。
忠告と表現するには些か異なるだろう。この男、強靭なる精神の燃焼を表すが如き黄金を身に纏った人物にとって、あらゆる者は自らに比肩し得る存在ではなく、慮ってやる道理も何もない。
それは単なる事実の再認識。
自らが討伐せんとする悪逆への、厳然たる評価に過ぎない。
「君は……」
アーサーは、その男に見覚えがあった。
会ったことはないはずだ。その顔も姿も初見で間違いない。にも関わらず、彼はその男を確かに知っていた。
いいやあるいは、これより先に出会うはずだったのではないか、などと。
そんな益体もない想像さえ、頭の隅に浮かんでしまうほどに。
「───」
キーアは、ただただ圧倒されていた。
黄金の男は、まるで太陽のような人物だった。見る者の瞳を焦がす、光り輝く炎の男。
ある種の王気、そして剣気には慣れているはずである。キーアの従えるアーサーとて比類なき王であり、比肩し得る者のいない騎士であればこそ。
だがこれは、この輝きは。
余人に対してあまりにも遠慮がない。まさしく天上にて在る神々の如く、それすら凌駕する王であるかの如く、地を這う小さき人など意にも介さぬ尊大ぶりであるとさえ。
いいやあるいは───
余人を気に掛ける余裕さえないのか───
「久しいな聖剣使い。その心底より殺したくなる相貌、我が好敵手に相応しい気質は未だ健在であるか。
とはいえ相も変わらず間の悪い男よ。よりにもよってこの地、この時を以て足を踏み入れるか。これが廃神として望まれたる筋書に非ざるというのであれば、最早生来の宿業とも言うべきものよ」
闊達かつ冷やかに、男は諧謔味を滲ませて冷笑する。
腕を組み仁王立つその背には、文字通りの黄金光が空間を引き裂いて現出していた。それこそは人類種の叡智なるものが結実せし大宝具『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』に繋がる門であり、独立した異界にも匹敵するその空間から今まさに巨いなるものを呼び出そうとしているに他ならない。
取り出し口の空間孔から感じられる力の総量は、恐らく彼方の魔法陣に勝るとも劣らない。あまりに巨大に過ぎる「何か」がその奥からまろび出ようとしているのだと、アーサーは直感に頼らずとも理解することができた。
「……君に、いくつか聞きたいことがある」
「言わずとも好い。
白き駄犬と鋼の巨人、眼前にあるルーン秘蹟の意味。そして我は如何なる立ち位置に属する者か。大方そのようなところだろう」
冷やかに。
光輝を纏いながら、黄金の男は続ける。
「無論知れたこと。魔狼なるは白き騎士の成れの果てであり、そして砕け散った力の断片をかき集め真に求道なる凶獣へと変貌するのであれば。
我はそれを滅ぼしに来た。鋼の《巨神》などはそのための手段であり、道具に過ぎん」
男は告げる。自らは大悪を討つ者であり、眼前の巨大魔法陣こそがその悪逆そのものであるのだと。
絶対的なまでの死の宣告。
窮極的なまでの自負の念。
この男の話す全ては真実であり、そして真理である。言外にそう納得させ得るだけの圧がその声には含まれており、ならばこそこの場にアーサーたちが訪れることになったその運命とは如何なるものであるのか。
───それは剣だ。
───それは敵を討滅する、断罪の剣であるものだ。
仮に黄金の男ひとりで白き狼を斃すことができるならば。
きっと、アーサー王がこの場を訪れることはなかっただろう。あるいは、訪れた時には全てが決していたはずだ。
誰が決めた?
……誰も。
誰も決めてなどいない。けれど厳然たる事実としてその法は布かれているのだ。
「ともあれ、貴様が来たのは僥倖であった。なにせこの通り、我は"動くことができん"」
「……なんだと?」
訝しげな声を発した、
その瞬間だった。
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!』
光が───
衝撃と共に───
世界そのものを覆い尽くして───
………。
……。
…。
────────────────────────。
▼ ▼ ▼
───それは、どこまでも真っ白な姿をしていた。
夜半に沈んだ街の中心部。かつて建築物だった瓦礫と剥き出しになった地肌が銀光の月明かりに照らされる、青みがかった夜闇の中。
光と衝撃と共に突如として降り立った少女を、一体何と形容すれば良いのだろう。それは確かに少女であったが、しかし果たして人間と呼んでいいものか。
それは、美しかった。
他の比喩など頭から消え去るほどに、それはどこまでもただひたすらに、余りにも美しすぎる存在だった。
その肌を何と言おう。同じ人間とは思えない、全く異質の穢れなき何かで作られているのではないかと見紛うばかりの白磁。髪も、気配も、何もかもが清廉なまでに白く、僅かに細められた左の瞳だけが煌々と青く輝いている。
祈る神さえ失った異形都市の闇の中、白の陣が凝縮し人型となって現出した少女は、まるで世界という画布に空けられた人型の空白のようでもあった。
酷く眩く瞳に映るものだった。
もしも、色だけを見るならば。
白。綺麗な色をした純粋なものを想う。
白。無垢な色をした清浄なものを想う。
白きもの。その体躯の周囲を舞う、輝く純白は何か。それは翼の如くして広がる、純白の長髪。
その時のキーアは分からなかった。正確に記憶していないし、思い出したくもない。
けれど、けれども。
脳裏に浮かぶ言葉があった。
白きもの。威容なまでの両翼にさえ映るものを伴って。
輝く輪を持ったもの。天より出ずるもの。
それを、人は、なんと呼ぶだろう。
例えばそれは───
「天使……?」
呟くキーアに飛来するものがあった。
轟、と押し寄せる不可視の圧。何事かと目を瞑る暇もなく、それは眼前に割って入ったセイバーの手で斬滅される。
鳴り響く金属音、破壊される周辺地形。凄まじいまでの衝撃が伴い大地が揺れる。正体も知れない何かが、キーアのすぐ横の地面を軽々と削り取っていった。
「……無事かい、マスター」
「セイ、バー……?」
窮地を救われたキーアはしかし、目の前の光景を一瞬理解することができなかった。
セイバー。騎士たちの王。比類なき聖剣の担い手であり、蒼銀なる絶対の騎士。
そんな彼は、今まで如何なる敵をも打ち払ってきた彼は。
左手を、失っていた。
「……ぐっ」
「セイバー!」
力を失い膝をつくアーサーに、自失から立ち直ったキーアが駆けよる。そして余りの惨状に目を見開いた。
苦悶の表情に喘ぐアーサーの左腕は、肩口から完全に抉り取られていた。見るも無残な傷痕が、砕かれた鎧の隙間から垣間見える。噴き出る大量の鮮血と、まばらに見える肉色の断面。痛々しいどころではない、これは明らかな致命傷だ。
キーアには分かる。何故なら、それはかつてキーアこそが───
「令呪を以て命じます! 死なないで、セイバー!」
躊躇なしの絶叫に、暖かな光がセイバーを包み込む。多大な損傷は時間が巻き戻るかのように治癒していき、元の肌色を取り戻した断面からは流血が消え去った。
だが、失われた腕はそのままだ。
ただの一合で腕一本を取られてしまった。そしてキーアは知る由もないが、彼の腕を奪った一撃と自身に降りかかった一撃とは、実のところ攻撃でも何でもないのだ。
《天使》はただ、意識を向けただけだ。
地を這う虫にも等しい小さき者へ、「何かがいるなぁ」と意識を向けた、ただそれだけ。
身体は一切動かしていない。攻撃動作も何も行っていないし、そもそも攻撃の意図さえなかっただろう。
そんな、ほんの些細な気の動きが、ここまでの破壊を成したのだ。
キーアとアーサーの周囲を見るがいい。今や二人のいる地点以外は、悉くが破壊の限りを尽くされ無惨なクレーターとなっている。破壊の痕は視認できる彼方まで続き、およそ地平線までを抉り抜いたに相違ない。
《天使》が現出したというそれだけで、彼らのいる鎌倉中心市街地から横浜横須賀までを繋ぐ一帯が文字通りに消されてしまった。一刻前までは鎌倉の街を三方より囲んでいた山々が、今や見る影もなく抉られ、崩壊している。音速を遥かに超えた大質量が如き波濤が、目に見える範囲内全てを薙ぎ払ったのだ。
風の鞘の放出、並びに黄金光の全力解放。それだけのことをして見事キーアを守り抜いたアーサーの手際は流石の一語ではあったが、それですら完璧とはいかず片腕を失う結果に陥った。
端的に、絶望的なまでの戦力差と言うべきだろう。一太刀浴びせられるか、とか、一矢報いられるか、などといった次元の話ではない。
まず戦い殺し合う相手として、同じ土俵に上がることができるかどうか。
そのレベルの話だった。果たしてあれは、サーヴァントという枠に収まる存在なのか。星の聖剣を解き放ったとて、それで傷をつけることができるのか。首を刎ねることができたとして、それで殺すことができるのか。
分からない。何も、彼我の力量差が開きすぎて推察さえままならない。未だ中空にふよふよと浮いている彼女は、此処には在らぬ何処かを眺めて、けれどその意識が今一度こちらへ向いたならどうなってしまうのか。
見られたら終わる。
認識されたら終わる。
けれど、一切身動きの取れぬ二人を余所に、浮かぶ《天使》の少女はこちらに視線を───
向けようとした瞬間、
天より墜落した黒く巨大なものが、《天使》ごとを押し潰したのだった。
轟音と衝撃が、世界を揺らした。
◆
黒く巨大な物体が、地上を貫いていた。
それは塔のようでもあって、柱のようにも見えた。先端には長く、丸みを帯びた五本の何かがついている。
指だ、キーアが呟いた。
五本の指は固く握りこまれ、文字通りの鉄拳となって《天使》がいた場所を貫いていた。そこでようやく、キーアは目の前の黒い柱が巨大な腕であることに気付いた。
視線を上げる。腕には肘があり、肩があり、その先の全身が存在した。
キーアは最早言葉なく、その『巨人』を見上げていた。
身の丈およそ500m。
まるで王侯貴族であるかのような外套を纏った巨大な鉄人形は、その憤激も露に渾身の一撃を地に振りかざしているのだった。
「護国鬼神シコウテイザー。擬似拡大変容による質量増大に加え、我と接続した刻鋼式心装永久機関三機による平行励起を施してある。
所詮神体はおろか偽神にすら及ばぬ神の模造品ではあるが、質量の巨大さだけならば我の宝物でも屈指の品よ」
声は、キーアたちの頭上近くから出ていた。振り返れば、そこにはやはり断崖の如く切り立った瓦礫の山があり、その上に決然と屹立する男の姿があった。
「造り物の巨人、か……先刻の巨大狼と争っていたのも、やはり」
「我だ。とはいえあれは偽神の中でも至高の一、万能なる者が作り上げた最奥の秘術であるために、我でさえそう易々と顕現できるものではない」
それは至極単純な理屈。"大きなものを取り出すには時間と手間がかかる"という、当たり前の一般論。
ここで言う大きさとは質量の多寡ではなく、存在規模のことだ。魔狼ウォルフガング・シュライバーを討滅可能な武装は限られており、その悉くが黄金の男ギルガメッシュでさえも容易には扱いかねる至上至高の宝具である。
先ほどの《巨神》はその数少ない例外であったが、外装たる疑似形成を打ち砕くまでが限界であった。そしてシュライバーは肥大化させ砕かれた力を凝縮するために一時的な休眠状態に入り、ギルガメッシュはシュライバーを滅ぼせる第二の矢を放つため王の財宝を限界稼働させた。
つまるところ、両者の対峙とは「どちらがより早く真の力を発揮できるようになるか」という競争であり、
その結果は、目の前の光景を見れば一目瞭然であった。
「故に、貴様らが来た。口惜しいが、我単独ではどう足掻いてもアレの覚醒には間に合わん。確殺の一矢を放つまでの間、精々時間を稼げるならばそれで善し……と。そう考えていたのだがな」
ギルガメッシュの言葉を遮るように、凄まじいまでの爆音が辺りに轟いた。
視線を向けるまでもなかった。地に振り下ろされた鬼神の拳が、その先の腕ごと一直線に不可視の圧に貫かれ、粉砕されたのだ。
弾かれる巨体、伝播する衝撃。そして木霊する、獣性を露わにした哄笑。
煙が視界を覆い、爆ぜる音が聴覚を塞ぐ中、それでも確りと認識できる姿と声。
───爆炎の向こう側にて立つ、天使が如き白の人型。
天使は今や、聖性の欠片さえ感じさせない悪鬼めいた相貌へと姿を変えていた。
獣の如く裂けた口許、ざんばらと振り乱されるは夜叉が如き白の髪。奈落めいて口を空けた右の眼窩からは夥しい量の血液が堰を切ったように溢れ出し、致死レベルの悪臭を渦を巻く怨念とが周囲の空間さえ侵食して文字通りに地獄のような光景を生み出している。
そして、残る左の眼球に宿るのは、悪意も敵意も消え失せた、純正の殺意の塊であり。
「───シコウテイザー、粛清モード!」
それすらをも凌駕する喝破と共に、巨人の状態が急激に変化する。
ギルガメッシュの声に応え、肩口まで失った右腕を胸の前に掲げる。次瞬、眼下の大地が隆起し、巨人の動きに呼応して噴出した。
爆轟をも掻き消す瀑布の如き重低音。全ての物質を呑みこんで、地から天へと流れ落ちる様は、空を目指して降り注ぐ巨大な滝のよう。
奔流は右肩を基点に氷柱のように成長し、幾ばくの時間をかけることもなく新たな右腕として形成された。
『─────────!!』
多量の土煙に塞がれる視界が唐突に晴れる。
周囲の瓦礫、粉塵、その他巻き上げられた物質が円形に吹き飛んだ。それは急激な風圧であり、頭上より落とされるシコウテイザーの拳だった。
たったひとりに向けて落とされる、等身大の存在が対処するにはあまりに巨大すぎる質量に───フ、と掻き消えるシュライバーの姿。それが足音すら立たぬ超高速の疾走であると、この場の誰もが理屈ではなく直感として知る。
影すら残さぬその突進に、眩い光が煌めいた。
空気と何かが焼けるおぞましい音までもが続いた。
次瞬、再び砕け散る巨人の右腕。何の兆候も前触れもなく、堅牢たる巨大な質量が微塵となった。
それは、徒手空拳であったのだろうか。
人の姿をした獣に拳打の機能が備わっていたのだとして、そしてその拳に比類なき力が込められていたのだとして。その小さな拳が、小指の先でさえ太さ5mを超える巨拳を真っ向から捉え、逆に粉砕するという不条理が果たして現実の光景であるのだろうか。
『Und Sie berühren mich』
そして再び掻き消えたシュライバーは、その絶速を以て巨人の肩へと駆け上がる。
機械の歯車が一つ進むより早く、発条の一つが弾けるよりも速く。
額の紅玉より放たれる熱線、肩口より無数に放たれるレーザー光、その悉くは間に合わず、僅かに間に合ったものも一瞬の手刀の閃きの前に切断された。
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!』
低い狂騒のような咆哮が、再び世界を揺らした。
大きく跳躍したシュライバーが、およそ数百mもの距離を一瞬以下でゼロに貶め、旋回する右脚で以て巨人の胸元を蹴り上げる。
───地の底から轟くような、あまりに低い衝撃音。
巨人の胴体が、まるで冗談であるかのように抉り取られた。鎖骨から腹部にかけての100mあまりが、一瞬にして消滅したのだ。粉砕などという生易しい表現では足りない、文字通りの消滅。人としてはむしろ小柄な体躯を持つ、華奢な少女の蹴りひとつで、これほどの破壊が為されると言うのか。
『─────────!!』
しかし、護国の鬼神は未だ健在。
よろめく体躯を両の脚で踏みとどまり、無限にも等しい再生能力で以て胴体を再構築し再び攻勢に移ろうと───するよりも遥かに速く、シュライバーの第二撃が頭頂へと突き刺さった。
消し飛ぶ頭部、再び傾げる巨人の総身。
そうして───次瞬、全身の至る箇所を一斉に抉り取られた巨人が、とうとう人型を維持することができずにバラバラと崩壊した。
「分かってはいたが、時間稼ぎすら覚束ぬか。しかし」
降り注ぐ瓦礫の雨の中、轟音響く最中においてギルガメッシュの総身が発光する。
それは精神の高揚。接続した永久機関の駆動であり、巨人に施された自己修復能力の発露でもある。
今や総身の8割近くを喪失した巨人が、しかし時間を巻き戻すかのように欠損を修復し、元の姿を取り戻していく。光を失ったはずの双眸が赤く閃き、次いで現出するのは漆黒に包まれた光球。直撃すれば三騎士級のサーヴァントであろうとも無事ではすまない破壊力を秘めたエネルギー弾が、シュライバー目掛けて放たれる。
その破壊を目の前に、中空にて滞空するシュライバーは獣でしかない凄絶な笑みを口許に浮かべ───
再びの轟音が、巻き起こった。
◆
「素粒子生成能力。永久機関の基礎にして深奥、単純であるが故に極めれば強大無比な代物よ。
それもあの狂犬めを前にしては、さほどの時間を稼ぐこともままならぬであろうが」
彼方にて非常識な攻防を続ける巨人たちを後目に、ギルガメッシュは嘆息するように呟く。
「状況は見ての通りだ聖剣使い。あの者を此処で倒さねば、我らどころか聖杯戦争に集った全ての者が死に果てる。
無論、この我の一矢が成ればそれで終いよ。我が最奥の一手に耐えられる者などこの世におるまい」
「けれど、そのための時間が必要、か。令呪による魔力補助は……」
「とっくの昔にしてるわよ」
ギルガメッシュの背後から新たな声が響く。何時の間にいたのだろう、そこには銀糸の髪を揺らす儚げな少女が、見るも痛々しい目元を露わに立っているのだった。
「令呪三画、以て王の財宝の発動補助に費やしてるわ。それでも間に合わないの。悔しいけれど、"速度"の領分でアレに勝てるのはそういないのでしょうね」
「そう、か……」
呟いて、アーサーは膝から崩れる。懸命に呼びかけるキーアの言葉に返す余力さえなく、見下ろすギルガメッシュは心底から詰まらなさ気に。
「無様だな聖剣使い。彼方のサーヴァント階梯第一位が聞いて呆れる。果たしてそのザマで世界を救うに値する英雄たるのか」
「なに、を……」
「だが、しかし喜べよ聖剣使い、そしてその主たる娘よ。我らの命運は未だ尽きてはおらんようだ」
言葉に続くように───
アーサーたちの眼前に舞い降りる者があった。
その影は三つ。文字通りの影であるかのような黒衣纏う者と、少女のような姿をした刀剣携える少年と、そして。
「───少し、待たせてしまったかしら?」
不敵な笑みを口許に浮かべた、永遠に幼き赫眼の少女が、ひとり。
ひとまずの投下を終了します。今回は6分割になると思います
投下乙
カッスなら時間に関する神格呼びつけてどうにかしてくれそうだったけど今となってはもう魔力切れ祈るしか思いつかねえ
続きを投下します
走る。走る。黒煤と排煙に塗れた黒い大地に、燃え盛る炎の赤を影として、固い靴音を響かせて。暗い、何も見えない。息は上がって心は焦燥に支配される。黒い、黒い、ああ、ここはなんと暗いのだ。
最早そこに少年以外の誰もなく、すれ違う者のひとりもなく、散らばるは死体になり損なった肉塊ばかり。それすら今や恐怖と酸欠に陥った視界に映ることはなく。
───いない。ここにはもう、誰もいないのだ。
まるで浩渺たる世界の只中に取り残されてしまったかのような。一寸先も見えない深海の底に放り出されてしまったかのような。
そんな漠然とした恐怖が、ただでさえ虚狼と巨神への恐怖に駆り立てられた少年の心を縛り付ける。漆黒の荊であるように。
「…………ッ!」
声はない。声はない。
喉は張り付き思考は磨滅した。考えられるのは、ただここではないどこかへと逃げるという一念のみ。
だから、その声に少年は反応することができなかった。
「待て、そこな童」
あっ、
と思った時には、既に少年の足はもつれていた。煤けた大地に体ごと倒れ込む。この光景を見たならば、本丸の仲間たちはきっと驚愕にその顔を染めるだろう。仮にも一角の刀剣男士たる彼が、まさか無様に転げるなどと。
幸いなことに、倒れ込んだ手足や顔に擦り傷の類はできなかったけど。けれどそんなこと、今考えるべきことではなくて。
「貴様、市井の民ではないな」
見上げた先にあったのは、真っ白な髑髏の面だった。
漆黒の夜空にぽっかりと浮かぶ白い骸骨と、妖しげに開かれる真紅の双眸。ああそれは、文字通りにこの世のものとは思えなくて。
死霊か屍鬼か、あるいは死神の類であるのかと。そんなことまで思い浮かべた藤四郎に、それは、彼女は。
「ならば聞け。私は貴様の敵ではない」
浴びせられた言葉は、滲み出る気配のおぞましさとは裏腹のもので。
倒れる少年の思考は、今度こそ真っ白になったのだった。
◆
結論として、その出会いは二人にとって幸運なものだったのだろう。
サーヴァントを失ったマスターに、マスターを持たないサーヴァント。厳密にはアサシン───スカルマンとなった叢はデミ・サーヴァントなのだが、それでも魔力供給源たるマスターがいるに越したことはない。
事ここに至って相争うほど無意味なことはなく、晴れて二人は主従契約を結ぶことになった。
のは、いいのだけれど。
「それで、何故ここに貴様がいるのだランサー」
嘆息か、あるいは呆れの感情か。ともあれアサシンのあまり好意的ではない言葉が投げかけられ、視線の先の"少女"は笑う。
「なんでも何も、元々そういう契約でしょうが。それとも何? 私が死んだとでも思った?」
「貴様のような悪童が死ぬものか。あの白狼を前に逃げ遂せた腑抜けの口はよく回るようだな。アレを滅ぼすと言った貴様の言は空音だったか」
「それはこっちの台詞よ。あれを前にして恐怖に怯えていたのは誰だったかしら? まさか腰抜かして逃げるようなことはないかって、そう心配してたんだけどねぇ」
二人はぐちぐちと嫌味の言い合いを続けている。少女がいつの間にか現れてからずっとこの調子だ。
これは、なに?
「……ああ、お前はアサシンのマスターか。私は一応お前たちの協力者みたいなもんだけど、まあ別に気にしなくていいわ。そこらへんの影みたく思ってくれたら結構よ」
くるり、と振り返ったその少女は乱にそう言ってきたけど。でも気にするなって言うほうが難しい。
なにせ、その少女はアサシンと同じサーヴァントであるのだから。
クラスは……多分、ランサー。小さな女の子の外見とは裏腹に、ステータス値は結構高い。でも霊基構造がところどころ壊れていて、正確に情報を読み取ることができない。見た目は綺麗なものだけど、霊的な視界から覗いてみれば、そこにいるのは腐乱死体のようなおぞましい何かだ。今この時ばかりは、霊視の類が不得手だったことを乱は天に感謝した。
何もかもがあべこべで、怪しさしかない少女ではあるけど。その中でも一番不可解なのは、彼女には既にマスターがいないということだった。
なんだそれは、理解不能だ。このアサシンのような受肉した存在というならまだしも、アーチャーのような単独行動のスキルを持ち合わせない限りそんなことはあり得ない。
もしあり得るとしたら、それは聖杯戦争の前提そのものの破綻だった。これは戦争ではあるが同時に公正公平な競い合いであり、だからこそ不正の類があってはならない。
ああ、けれど。
そんな出鱈目な存在だからこそ、これほどまでに出鱈目な有り様になっているのかもしれないな、なんて。
「こいつのことは放っておけ。所詮、願いを叶える気もない腰抜けだ」
そんな思考に耽りそうになっていた乱を、アサシンの声が引き戻す。
アサシンは、彼か彼女かも分からない黒衣のサーヴァントは、侮蔑の様相も露わに表情なき顔を歪めているようだった。
「まるで自分は違うと言っているかのようね」
「当然だ。私はあらゆる悪を滅ぼし尽くす。無論、かの白狼をもだ」
アサシンは、恐怖を更なる憤怒で押さえつけるようにして、吐き捨てる。
「間近で見て理解した。あれは屑だ。己以外を見れば殺さねば気が済まない生粋の下劣畜生。この世に生まれてきたこと自体が過ちである類の塵屑だ。最早殺すことでしか帳尻の合わせようがない害獣だ。
ならば、誰かが殺さねばならないだろう。そうしなくては、ならぬだろう」
「アサシン……?」
我知らず尋ねた声は、自分でも思いがけないほどに不安と困惑に満ちていた。
アサシン、感情なき暗殺者。冷徹な機械のように、冷酷な機構のように、敵対する者を殺すだけの存在。
そう思っていた。乱を押し倒した時も、主従契約を結ぶ時も、情報を交換する時も、およそ感情的な熱量をこの影は見せなかったはずだ。
今はどうか。沸々と湧き上がってくるかのような熱情は、まさしく敵意や憎悪に相当する感情の色だ。
ここまでの情念を、この影は抱いていたのか。
ならばその根源とは一体何だ? 自分は、一体何と契約を交わしたというのだ。
ライダー、ドフラミンゴは単なる我欲だけの俗物だった。
アーチャー、赤色の砲兵は不遜な態度のままに敵勢の殲滅を願っていた。
そうしてドフラミンゴも赤騎士も、どちらもが乱の知らぬ場所でいつの間にか消え失せて。
ああそういえば、赤騎士には真名も願いも聞いていなかったな、なんて。
(だったら、サーヴァントのことを何も知らないのはずっと同じか)
ドフラミンゴにしろ、赤騎士にしろ、影にしろ。
結局のところ、乱は誰とも心を通わすことはなかった。ただ盲目のままに従い、あるいは従わせ、今にして思えば同じ道を歩んでいたかさえ。
だったら、別にいい。
この影が何を思っていようと、自分に危害を加えず道を違えることもないなら、どうでもいい。
所詮は、聖杯を手に入れるまでの仮初の関係だ。
従僕として存分に動き、邪魔な敵を排除してくれるなら何でもいい。
「行くぞマスター。殺さねばならぬ敵があり、それを乗り越えなくては我らの願いが叶わぬというならば。最早是非もなし、いざや存分にこの刃を振るおう。
そして貴様もだ、ランサー。一度我らに組すると宣言した以上、その約定は果たしてもらう」
「言われるまでもなく、よ。マスターの坊やも頑張りなさいな。叶えたい願いがあるのならね」
くすくすと妖しげに笑うランサーを後目に、乱は言葉なく、視線を向けることさえなく足を踏み出した。
こちらこそ言われるまでもなく、己が願いのために全員を鏖殺する気概は最初から持ち合わせているのだと。
言外にそう語るように、ただ一歩を。
そうして───彼らは致命的に踏み間違えてしまった。
今回だけでなく最初から、ずっとずっと、彼は。彼女は。
「大切な者を取り戻したい」という願いだけを共通させたまま、それでも彼らは最初から間違えてしまって。
だから、彼らの前に黄金螺旋階段が顕れることなど未来永劫存在しないのだ。
ずっと、ずっと。
▼ ▼ ▼
「少し、待たせてしまったかしら」
「思い上がるなよ吸血鬼。我は貴様らを待ち人にした覚えなどない」
それは戦場。天を衝く鉄の巨人と、影ならぬ実体を持った等身大の凶獣が相争う血華の地。
不敵な笑みを浮かべる少女に対し、黄金の王は不遜の体を崩すことはなく。
「故に、遅れて参じたその不遜を咎めはせん。貴様らが持つその刃、思うままに振り翳すがいい」
「……」
互いに大上段からの会話を交わす男と少女を振り返ることなく、アサシンは務めて冷静に戦場を俯瞰する。
現状、敵手は鉄人形と戦闘中。こちらにいるのは自陣三人と、セイバーとアーチャーが一騎ずつ。そのマスターと思しき少女らは放置しても構わない。しかしそのサーヴァント二騎の状態が思わしくない。
セイバーは片腕を失い、瀕死の状態で膝をついている。対してアーチャーは無傷のままだが、こちらもどうして動こうとはしない。恐らくは鉄人形の主が彼なのだろう、操作と維持に手一杯なのだろうか。ともあれどちらも戦力としては期待できそうになかった。
「……やはり、我々がやるしかないか」
面倒ではあるが、同時に好都合でもある。
呟き、跳躍したアサシンは最前線に着地すると、その手に印を刻み始める。
瞬時に組み立てられる起動印の数々、その向こう側では遂に鉄の巨人が崩れ落ち、凄まじいまでの衝撃に地面が揺れ、視界が大きくぶれる。
遅れて届く鼓膜を突き破らんばかりの轟音に、しかしアサシンは何ら頓着しない。
五感に作用する類の術への対抗手段は文字通り心身に叩き込まれているし、いざとなれば聴覚自体をシャットアウトすることも可能である。
遥か中空にて身を翻す白い人影が見えたが、しかし遅い。術式は既に完成している。
「出でよ、血華咲き誇る我らが極地!
流れ出る血を取り込み食らう屍山血河の死合舞台!」
爆轟する気炎と共に、アサシンを基点として走る光の線があった。
それは円形に取り囲むように、大きく広がってシュライバーを包囲する。そこに攻撃に代表される剣呑な気配は皆無であり、故に凶獣はその発動に反応しない。
奔った線から、揺らめき明滅する陽炎が如き不可視の壁が現出する。それは彼方と此方を断絶する境界であるように、シュライバーとそれ以外を完全に遮断した。
忍結界。
それは結界術の一種であり、発動した主を倒さねば脱出すること叶わない不可侵の障壁である。
元来は忍同士の決闘に使われるものであり、無論のこと叢とて習得している術式である。スカルマンの霊基を得て霊的に内界強化された今の叢ならば、km単位で結界を広げることも可能であり。
「我が刃の忌名、アサシン・スカルマン。
我が骸の真名、叢」
故にこそ、この手の獣を相手取るには相応しい。
「いざ───鎮魂の夢に沈め」
アサシンの言葉に続くように───次瞬、結界内を埋め尽くさんばかりの大量に血飛沫が氾濫した。
◆
「これは、一体……」
困惑に濡れる声はアーサーのものだ。
傷口を庇いながらもキーアを守らんと構える彼は、眼前の光景が何であるのかを未だに呑みこめていない様子だった。
突如として見知らぬ三人が援軍に駆け付けた───理解できる。
内の一人が広範囲の結界術を行使した───理解できる。
だが、しかし。
その次の瞬間に訪れた"これ"は、一体何であるというのか。
結界術が完成した瞬間、現出したのは濁流の如き大量の血液と、そこから立ち上がる無数の怪物たちであった。
怪物───そうとしか形容ができない。蛆が出てきた。百足が出てきた。蛇が、蜘蛛が、白骨が、その他正体不明の臓物めいたモノたちが、身を震わせて暴れながらまるで血の海を母胎として次々生まれてくるかのようにして這い出してくる。
大きなものは30m近く、小さなものでも優に人間の数倍はあろうかという個体が、無数に、無数に。悪鬼羅刹の軍勢という意味ならば先刻の白き星屑の群れを想起させられるが、これは明らかに種類の統一性が存在しなかった。
ひたすら不浄で、ただ不気味。人類種に対して害しか為さぬ異形の群れだということしか分からない。
「妖魔。なるほど、疑似的な凶将陣というわけか」
ギルガメッシュの呟きに、深窓の貴種めいた少女が続く。
「そうね。忍結界に流入した血を媒介に妖魔を無尽蔵に湧き出させている。あいつ、何か秘策があるような口ぶりだったけど、まさかこう来るとはね」
忍結界とは対外的に忍同士の決闘に使われるものと喧伝されているが、その本質は全く別のところにある。
「妖魔」の討滅。元来忍とはそのために存続する存在であり、忍結界とは妖魔を逃がさぬため、忍術とは妖魔を討滅するためにこそ在るのだ。
だが時として、結界内で流された血は一定の量を超えるとそれ自体が妖魔を呼び寄せる触媒となる。
シュライバーの右眼窩から際限なく漏れだす犠牲者たちの血と肉と魂は、常世から妖魔を招致するに十分すぎるほどの量を持っていた。数多の戦いと犠牲なくしては一匹とて呼び出すこと叶わぬ妖魔の類を、まさかそこに立つだけで無数に手繰り寄せるとは。
そして次瞬───湧き出た妖魔の悉くが、皆一斉に結界の境界に向けて疾走を開始した。
皆、暴れている。喚いている。後ろを気にし、慌て、焦り、全身全霊を振り絞りながら逃げ出したのだ。そして当然、結界に阻まれてそれ以上の遁走は許されない。
恐怖───不浄さと人間への怨念以外に共通点がないように思われた雑多な妖魔の群れに共通する、もう一つの事項。その背に負った絶望的すぎる死への恐怖、それこそが妖魔の群れに共通する第三の要項なのだ。
大百足が何とか這い出ようと、結界の不可視の壁に蠢きながらも張り付いた。続くのは腐乱した山犬であり、首のない武者がそれらを踏み越えようとして失敗する。白骨化した馬が恐怖に嘶き、際限なく連続する怒涛の嵐が結界内に殺到した。
恐怖。それは当然、妖魔たちを呼び寄せたシュライバーの存在に他ならず……
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!』
意味も読み取れない凶獣の咆哮と共に、シュライバーは逃げ惑う妖魔たちを片端から潰していく。
引き裂き、踏み砕き、ばら撒く。
一瞬以下の時間で30を超える妖魔が粉砕された。多種多様な異形が皆悉く醜悪な血と肉と臓物の汚泥と成り果て、それを糧に更なる妖魔が召喚される。新たな妖魔の産声と、恐怖に怯える絶叫と、シュライバーの哄笑が鳴り響く。それは最早この世の地獄としか言いようがなく、魔性の血泥に塗れた広大な結界は大規模な屠殺場と化しているのだった。
「そうか、これは……この光景の全てが、白騎士の魔力リソースで為されているのだとすれば……」
事ここに至り、アーサーは眼前の光景が何を意味しているのかを理解した。
狂乱したシュライバーとは、常に膨大な魔力を垂れ流した状態にある。
右眼窩から流れ出すのは彼が殺害した犠牲者たちの血肉であり、その魂。溢れる大量の魂は圧倒的な物量に任せることにより疑似的な魔力放出にも似た性質を持ち合わせ、その不浄により致死レベルの悪臭と瘴気さえ纏うが、その実態は燃料を漏れ出させながら疾駆する暴走列車に等しい。
対して忍結界は漏れ出た燃料───シュライバーが持つ魂を吸い取り、妖魔を呼び出す触媒とする。無数の妖魔は当然の如くシュライバーの殺害対象であり、更にばら撒かれる血肉とシュライバー自身の魔力によって次々と新しい妖魔が呼び出され、それをまた殺害し新たな妖魔が……という無限循環。
そうしてシュライバーが保有する魔力残量は加速度的に減少し、いずれは底を尽き消滅するだろう。
つまるところ、これは魔力切れを狙いとした対シュライバー用の捕縛結界。
理性ある敵にはまるで通用しないが、こと狂乱した獣にはうってつけの策であると言えるだろう。
「この場合、最悪の展開は殺害の対象が妖魔から我々に移ることだが」
結界を貼っていた間も絶えず印を結んでいたアサシンは、抑揚のない声で続ける。
「この場にいる全員に隠行の術をかけた。私自身の気配遮断並みとはいかんが、これだけの妖魔を相手にしながらではまず気付かれまい」
言われ、そして気付く。あれだけ狂乱の様相を呈している妖魔たちが、自分達の方をまるで見ていないということに。
見遣れば、脇のほうでは長髪の少年が結界維持の補助に魔力を注いでいるのが見えた。彼がリソースの一部を負担していたからこそ、複数の術を同時に行使できたということか。
唯一とも言える懸念さえ解消した今の状況は、シュライバーを完全に封じたと言っても過言ではない。アーサーはそれを理解できたし、恐らくはギルガメッシュや闖入者の少女も同じであるのだろう。
「そこでだ。次は交渉の時間としようか」
だからこそ。
アサシンが言ってのけたその言葉は、十分に予想の範疇であったと言えるだろう。
「交渉だと? たかが卑賤の暗殺者如きが、随分と思い上がったものだな」
「黙れ、余計な口は利くな。この場の主導権が誰にあるかは瞭然だろう」
アサシンの言葉は、大上段からの物言いであること以外は確かな事実であった。シュライバーを抑え込んでいるのはアサシンの術式であり、自分達の姿が隠蔽されているのもまた然り。更に言えば一度発動すれば半永続する類の術でない以上、もう用済みとアサシンを切り捨てることはできず、またアサシンの意思で術式を解除されたら皆諸共に死ぬしか道はない。
対してアサシンは己の意思一つで術式を反故にできる上、やろうと思えば自分だけは気配遮断で逃げ遂せることも可能である。つまりこの場の全員の命はアサシンに握られているも同然であり、故に彼女に逆らうことはできない。
この状況下において、全ての主導権はアサシンにある。
それは確かな事実であり───
「ならば問おう。貴様が抱きし願い、貴様が聖杯へと託す想いとは何であるのか」
「愚問なり。ならば答えよう。私の願いは……」
そこで、言葉は止まった。
場に、静寂が下りた。
「いや待て、それは明瞭なはずだ。私の願い……願い、は……あるはずだ。そのために私は、聖杯を得るために命さえこの手にかけて……」
呟きが、文章にさえなっていない雑多な単語の群れが、アサシンの口を突いて出る。アサシンが混乱状態にあることが、傍目からもよく分かった。
「ま、これが半端者の限界ってところなんでしょうね」
「然り。着眼点は悪くなかったが、しかしそれまでの器よ。あるいはこれが元のマスターとサーヴァントで分離したままであったならば、話は別であったのだろうが」
嘯く男と少女の目は、無感と哀れみに満ちていた。それは決して、自分たちを脅す敵に向けられるものではなく、無理をして壊れた子供を見るかのようで。
「人間と英霊の融合なんて、いくら宝具の補助があっても真っ当に行えるわけがない。まず間違いなく人格は汚染されるし、抱いた願いが歪んでしまうのも道理よ」
「どちらか一方に性質が寄れば救われるがな。しかしこのような中途半端な状態こそが最も厄介なのだろうよ。行動原理に矛盾が生じ、己が何者かすら見失う。そこまでして叶わぬ願いに手を伸ばす愚直は嫌うところではないが、しかし身の丈に合わぬならば行き着く先は破滅以外になかろうさ」
少女と男の睥睨する声にも頓着せず、アサシンは尚もぶつぶつと言葉を繰り返す。それは自問であり、自答であり、その悉くが矛盾に塗れたものであった。
聖杯を望んだにも関わらず、大悪たる白狼の討伐を優先した。
悪滅を掲げたにも関わらず、願いのために無辜の少女を殺害した。
それはなんて片手落ち。二兎を追いかけず諸共に逃がすに等しい背理。
叢でもありスカルマンでもあり、どちらでもありどちらでもない彼女にとっての真実とは、何か。
「そうだ、私は……」
そして気付く。相反する二人に共通する、原初の願いを。
それは───
「私は……我は、悪を滅する善になりたかった」
その想いに至った、その瞬間。
背後の結界が、凄まじいまでの音を立てて崩壊した。
怒濤の血の濁流が、叢を呑みこんで───
………。
……。
…。
────────────────────────。
▼ ▼ ▼
私は───
我は、悪忍を滅する善忍になりたかった。
大好きだった両親が死んだと聞かされたあの日、あの時。胸に去来したのは怒りでも憎悪でもなく、ただただ巨大な悲しみと、何もかもが無くなってしまったかのような喪失感だった。
悲しくて、遣る瀬無くて、世界が色褪せたようにも思えて。
だからこそ、そんな思いをする者がいなくなるようにと、我は悪の根絶をこそ願ったのだ。
そう思えたのは、全て黒影様のおかげだった。
だから我は黒影様の蘇生を聖杯に託そうと願ったけれど。でも最初に抱いた"願い"は、きっとそれだけのことだった。
我欲のために他者を手にかける我は、もう善忍ではなく悪忍と同じだと思っていたけれど。
でも最期に、歪んだ形とはいえ悪を滅する者に戻れたというならば。
それは、きっと……
「……悪くない」
そんな感慨と共に───スカルマンの仮面を被った叢の意識は闇へと溶けた。
悪を滅する善忍という存在自体が、黒影の望んだものとはまるでかけ離れた代物であるという事実に、最後まで気付くことなく。
欺瞞に満ちた救いの中で、叢という善にも悪にもなれなかった半端者は、何者にもなれないまま無意味に死んだのだ。
◆
「あ、あぁ……ぁぁあぁ……」
刀剣男士としての能力から結界維持へのリソースを割いていた乱は、その光景を前にただ震えるしかなかった。
一瞬のことだった。妖魔と白い人型を封じていた結界は、ほんの一瞬でガラスのように砕け散った。そして内部に溜めこまれた血肉の諸々が、言葉を発する暇もなくアサシンを呑みこんだのである。
妖魔は、一体とて生きてはいなかった。
全てが無惨な惨殺体と成り果てていた。
しかしそれは何の救いにもなるはずはなく。
ただ一人這い出た白き者が、乱の眼前に立っていた。
それは───
『Sterben』
綺麗、だった。
言葉も忘れてしまうほどに、それはあまりにも綺麗だった。
およそ人とは思えず。
およそ獣とも思えず。
けれど、ああ、けれど。
この者が何を仕出かし、何を行えるかを知っているからこそ、その美しさがあまりにも恐ろしくて。
「あ……」
そして。
"それ"が視線を向けた瞬間に、乱藤四郎の意識が掻き消えた。
忘我の状態になったとか、そういうのではなく。
文字通りに、脳の活動が停止したのだ。
それは、端的に言ってしまえば凶念とも言うべきものなのだろう。
あまりにも強すぎる精神の波動、心の動きは時として人を蝕む。
怒気や気迫、あるいは殺気と呼ばれるものが人の動きを縛るように。
許容量を遥かに超えたその凶念は、ただそれだけで致死の猛毒となって乱を冒したのだ。
呪殺。
それが、乱の命を奪ったものの正体である。
───振り返ってみれば、乱藤四郎が己の手で何かを為したことなど、一度もなかった。
聖杯戦争の大半を、彼はドフラミンゴの虜囚として流されるままに過ごした。
そうして順当に切り捨てられ、赤騎士を得ての復讐でさえ、ただ力を手に入れて舞い上がっただけであり、彼はドフラミンゴの名を告げただけで実行の全ては丸投げだった。
赤騎士とドフラミンゴが争う戦場を、戦いの行く末を見守るでもなく逃げ遂せて、その果てに降りかかった火の粉を鬱陶しげに振り払った。
浅野という男を退けたという事実さえ、単に浅野が襲い掛かり、浅野自身が決着をつけたというだけで、乱は何も意思を示さなかった。
戦わなければ生き残れない。仮に自身が弱くとも、大事なのは気概の有無。弱者たる自身を認め、現状の最善を実行できるかという胆力にこそあり……
その観点から言えば、乱藤四郎は最初から完全な落第だった。願いばかりを口にして、それを実現するための行動は何も起こさず、他人に頼り他人に文句を言い、それで自分だけは幸せを掴みたいと妄想に耽る白痴の愚昧。利他を謳いながらも自己のことしか考えない唯我の理。
万仙陣という愚劣の坩堝には相応しいが、聖杯戦争という意思の競い合いに彼という存在は相応しいはずもなく。
極めて順当に、真っ当に。
乱藤四郎の肉体は、全ての力を失い人形のように崩れ落ちたのだった。
▼ ▼ ▼
死んだ───
そうキーアが認識するまで、大した時間はかからなかった。
新たに戦場へ飛び込んできた、白い仮面の人と少女のような少年。
結界を張って白いものを封じ込めた彼らは、けれどその力及ばずに。
キーアの目の前で、無惨に、無意味に、死んだ。
死んだ───
「いや……」
絶叫しそうになるのを堪える。
口許を手で押さえて声を我慢する。涙もそう。
どちらもダメ、ダメだと内心で何度も叫ぶ。
それは意味のないことであったし、どんなに追い詰められても動きと思考を止めてはならないのだと知っていたから。
けれど、けれど。
この恐怖は、決して、耐えられるものではなく。
僅かな時間も与えられぬまま、自分たちは殺されてしまうのだと。
そう思う心は止められるはずもなく。
「……マスター」
そんなキーアの視界を、遮るように前へと進む影がひとつ。
それは眩いばかりの蒼銀の色をして。それは雄々しいまでの決意に満ちた表情を湛えて。
セイバー。騎士の王。
彼は、キーアを庇い立てるように、一歩を進める。
「君は逃げろ。ここは、僕が食い止める」
「セイバー……」
その姿に、今度こそ涙が出そうになった。
逃げたかった。逃げたかった。けれど、その前に、足は動かず心も凍ったままで。
「ダメ、よ……」
怖い。怖い、もう。駄目。駄目。
「こわ、い……」
悲鳴を上げる以外に、何ができるというの。
「ギー……」
白いものの手が、こちらへ向かって伸ばされる。
「リカ……」
暗がりの果てで、あたしは死ぬの?
「いや……」
ここで、いいの?
「まだ、よ」
あたしは、諦めるの?
「いや……」
───違う。違う。違う!
「……ダメ、ダメ、ダメ……
あたし、それだけは、しない……!」
絶望だけが充ちる中、それでもただひとり諦めることのなかった人を、あたしは知っているから。
「いや、いやよ……!
諦めない……諦めない、諦めない……!」
だから、いつかきっとあなたに問うの。
どうしてあなただけが、絶望と死の中で諦めることがなかったのか。
だったら、だったらあたしは……
「……諦めない!」
白きものの指が、セイバーごとキーアを抉ろうとした、
その刹那。
黒い沼のように沈んだ地面が、視界の端に。
何かがきらりと煌めいて、同時に影も動いたかのように。
それは銀の光であり、黒い、黒い、深み。
深み。それは淀みか。濁った闇の中に───
突き刺さった短刀が、そこにはあって。
弾き飛ばされた少年の刀。乱藤四郎の銘を持つ剣か。
───そこへ───
───手を、指先を、伸ばして───
───掴み───
───強く、引き抜く───
「来ないで……!」
困惑と疑問よりも先に振るわれる、その黒い剣閃は。
空間を易々と裂いて、シュライバーとの彼我の距離を無尽蔵に押し上げて。
───視界が、黒一色に染まった。
2/6を投下終了します。続きはそのうち投下します
投下乙です
ひたすら振り回されてばかりだった乱の末路はこうなったか、納得
今回の犠牲者二人はシュライバーと激しい戦いを繰り広げるでもなく、どちらも己のせいで命を落としてるのが皮肉だ
投下乙です
理屈でいうなら妖魔が生まれるスピードを超越する速度で殺しまくれば居なくなる罠
続きを投下します
───空間を切り裂く刃。
───それは、黒色をした剣。
黒色の淀みの奥深くから引き抜かれた長剣。
疑問や困惑より先に振るわれた刃は空間を易々と裂いて、その手応えは吐き気にも似た嫌悪感を伴って全身へ回る。
キーアは、小さく、呻きながら剣を振るっていた。
剣先は───
白きものの鼻先に向いて───
ごく近距離だったはずの間の空間が広がる。
平衡感覚がぐらりと揺れて、漆黒が急激に拡張される。キーアは自分が背後へ後ずさったのではないと知る。
空間が広がる。
白きものとキーアたちとの間の距離が、ひとりでに。
来ないでと言ったキーアの言葉通りに。
黒い空間が、僅かに歪み、両者の距離を開けていた。
「止まっ、た……?」
呆然と呟かれるキーアの言葉は、まさしく眼前の光景を端的に言い表していた。
剣の切っ先は、白きものの顔の寸前で止まっている。そこから一歩でも進めば、剣は貫くだろう。そのような位置で、剣と白きものは止まっていた。
いいや、厳密には───
白きものは今もずっと動き続けていた。キーアたちへその腕を振り下ろさんと、今も尚極大の殺意を以てその爪で引き裂こうとしている。
彼の動きは止まっていない。けれど、傍目から見ればそれは静止しているようにしか思えず───
「《黒の剣能》」
声。それは高みにて一切を睥睨するギルガメッシュのもの。
「其れなるは人の祈りが鍛えし剣能。未来を、過去を、他者を、想いを拒み断ち切る荊の棘───拒絶の魔剣なるものか」
分からない。
男の言葉を、キーアは理解することができなかった。
ただ、アレに来ないでほしいと願っただけだ。
キーアを、セイバーを、そして他の者たちを、傷つけ殺す厄災に遠ざかってほしい。ただその一念で振るったに過ぎず、そこにある理屈など分かるはずもなく───
認識が追いつくよりも先に、眼前の空間に無数の刃が突き立った。
瞬時、掻き消える白きものの姿、それを追うかのように次々と突き立てられる多種多様な武器武装の数々。一瞬にして刀山剣樹と化した光景を前に、キーアは二重の衝撃に足をよろけさせ、
「っと、大丈夫だったかしら?」
「あ、えっ、と……」
後ろに倒れかけた肩をふわりと支えられ、今までとは別種の驚きに目を丸くする。
肩口に振り返った先には、嫋やかに微笑む少女の顔があった。キーアと大して背の変わらない、ともすればどこぞのお嬢様と言っても通じるような柔らかな気配。
「大事はないみたいね、それによくやってくれたわ。あなたが展開したのはアキレスと亀のパラドックス、連鎖する回数無限の論理構造は単純な加速では決して追い抜けない。とはいえ……」
少女の、ランサーの顔が焦燥に歪む。
「それも長くは続かない、か」
え、と思うまでもなく。
剣を持つ手に痛みが奔っていた。痛み、鋭く刺されるかのような。
目を向ければ、剣は幾つかの茨を作り出していた。黒色の、薔薇の蔓であるかのように。それがキーアの手に絡んで、刺さる。
痛み。針で刺されるよりも遥かに痛い。
それは物理的な痛覚だけではなく───
肌、肉、そのもっと奥底にある"何か"ごと刺されるような痛み。
それは、魂を削られる痛みだった。
「あっ、ぐぅ……!」
───黒い剣が蠢いて。
───幾つも、幾つも。
───棘を備えた茨が、湧き上がる。
時間を経るごとに数を増していく棘。それが次々とキーアの手に絡み、突き刺さる。
ひとつ刺さるごとに、ひとつの吐き気。
ひとつ刺さるごとに、ひとつの嫌悪感。
耐えられない。苦悶の声が、我知らず漏れ出る。
棘の痛み、魂を削られる寒気もそうだが。
それ以上に、こんなものを誰かに向けなければならないという事実が、あまりにも痛々しくて。
「接触拒絶、傷つけるもの同士を引き離す心象具現。同質の存在だからこそアレ相手にも効果があったのでしょうけど、もうこれ以上は厳しいわね。
ちょっとそこの金ぴか! いい加減もったいつけてないで何とかならないの!?」
「既にやっておるわたわけ! 我は溜めこむ男だが、それはそれとして出し惜しみはせん!
我が放ちたるはその全てが至高の財、慢心とはすなわち戦場に対する不敬と心得よ!」
声と共に更なる剣嵐が巻き起こる。視界を埋め尽くさんばかりに開かれる黄金光から、最早数えることすら不可能に近いほどの武具が今もなお間断なく射出され続けているけれど。
当たらない。当たらない。地を穿ち土煙と破断音が猛然と轟く中、、今や刃の森とさえ形容できるほどの有り様に大地が変わり果ててしまっても。
それでもただの一撃すら、白きものの影を捉えることなく。むしろ移動に際する衝撃波が辺りに吹き荒れ、剣群も地殻も何もかもが木っ端に散らされていく。
土と瓦礫と金属とが土石流のように乱舞する視界の中、血濡れたキーアの手が掲げる剣先の空間がバリバリと鳴り響く。諸々の破壊の余波すらこの剣は防ぎきっているのだが、それさえいつまで保つものか。
今や少女の手を覆う漆黒の茨は肩口にまで押し迫っていて、これがもし首か心臓にまで到達したならばと、そんな恐怖までもが湧き上がってきて。
ああ、あたしは、ここで終わってしまうのか、と。
「……大丈夫だ」
そんな不安を取り除くかのように、差し伸べられる手がひとつ。
背後からキーアの手を掴むように伸ばされて、ああそれだけで、少女の手を覆う茨が次々とそちらへ移っていき。
「セイ、バー……」
「君の腕は我が腕。君の痛み、あらゆる痛苦は我が痛み。
それに心配はいらないさ。僕達は決して"二人きり"ではないのだから」
ほんの少しの間に右腕の大半を茨に覆われて、それでも彼は痛苦を表情に浮かべないままに微笑む。安心させるように、暖かな笑みを。
彼にはもうそれしか残っていないのに。左の手は失われてしまったのに。それでも、まるで何でもないかのように。
痛みの大半から解放され、強張る体から力が抜けていくキーアは、それに返す言葉もないままに、振り返って。
そして。
「勇者───」
遥か頭上より聞こえる、鬨の声ひとつ。
「パァァァァァァンチッ!!」
騎士たる彼の言った通りに、
決して二人きりではなかった彼らに救いの手が訪れる。
───爆轟する衝撃と熱波が、あらゆる不浄を焼き払った。
◆
爆発的な燃焼が収まり、圧縮空気が破壊された地点の大気を歪める。
陽炎の如く揺らめく空間に、人型の揺らぎが二つ存在することを、その場の者らはすぐさま知った。
それは、清廉の輝きだった。
この地球上の何処に、それほどの光輝を誇る白色があるのだと思わずにはいられないほどに、神性不可侵の光を纏った者だった。
白。それは狂える白騎士と全く同じに。
けれど、内在する性質は完全な逆位置。
白。綺麗な色をした純粋なものだ。
白。無垢な色をした清浄なものだ。
白きもの。その体躯の周囲を舞う、輝く純白は何か。それは翼の如くして舞い踊る花弁の散華なるものだ。
その瞳は赫翠の金剛石たる輝きを湛え、万象立ち塞がるとも挫けぬ意思を垣間見せる。
これは───
なんだ───
「クラス、ブレイバー……」
我知らずアーサーは呟く。
読み取れる霊基情報は、基本七クラスに収まらない文字通りの規格外であることを示していた。
ブレイバー。勇気ある者。勇ましき気力を携えて道を歩む者。
その姿、その神性、何よりそのクラスを持つというならば、該当する者など一握りしかいまい。
「天神の災厄襲う世界の中心、人類領域の守護たる神樹の少女たち。神霊の加護より人類種を脱却させた転換期の担い手たる者」
少女は───勇者は凶眼と睨みつけられるシュライバーの邪視なる不可視の破壊を受け止め、弾く。
人間を呪殺する凶念。
物質を破壊する凶波。
その悉くを凪と払い、受け流す。凡百の英霊ならばそれだけで絶命するであろう常態の圧力。それはつまり、この少女がシュライバーを前に戦う資格を持っていることの証左であり。
「勇者、結城友奈。それが君の真名か……!」
アーサーの声に、友奈は半顔で振り向き、頷く。
その瞳に迷いはなく、その表情に偽りはなく。
どこまでも崇高な想いを込めて、少女は力強く拳を握る。
「助けに来ました。迷惑をおかけした分、今度は私が頑張る番だから」
少女には覚悟があった。
聖杯戦争が始まって以来、ずっと胸に燻り続けた巨大な感情だった。義憤、罪悪感、そして何より大悪への憤りと、守るべき者らへの義侠心。その身の内に渦巻く激しいそれらは少女の心を時には凍らせ、そして、今はこうして炎となって胸の裡を熱く熱く焦がしている。少女は功罪問わず過去の様々な出来事をその心に刻み、その背に負っていた。故にこそ、今眼前に在る白い獣を見逃す訳にはいかなかった。
そして。
その拳は、高々と掲げられて。
「私は結城友奈───"みんな"を守る勇者の名前だ!」
───右手を、前に。
▼ ▼ ▼
雷鳴にも似た轟音が、間断なくその場の全員の鼓膜を叩いていた。
そこは最早、戦場とさえ思えないほどの有り様を晒していた。激震する大気は空間の安定さえ許さず、捻じ曲げられる空間震の中で両者の相争う姿をまともに視認することさえ難しい。
大音響の爆発と共に、狂乱する嵐は世界という檻を跳ね回って周囲の全てを微塵と砕きながら疾走する。
波濤が如き裂帛の気勢と共に、猛る勇者は万象打ち砕く凶獣を拳ひとつを以て迎え撃つ。
世界が絶叫を上げ、殺戮の権能が現世へと顕現していた。起きるは破壊。起こすは絶望。吹き荒れるは最速の殺意であり、これ即ち大気の為す瀑布である。
両者の衝突により巻き起こる不可視の大津波は音など遥か彼方に置き去った爆轟そのものであり、吹き荒れる破壊の嵐に巻き込まれて無事で済むものなど何一つとして存在しない。
暴風、強風、颶風───果たして戦場に巻き起こるその風を人はなんと呼ぶか。
旋風、疾風、烈風───そのどれもが否である。
これこそは太刀風。魔剣の一閃であるかのように、それはウォルフガング・シュライバーという一個の終末装置が疾走を開始した証左であった。
「Gib deine Hand,du schon und zart Gebild!」
今のシュライバーに意識はない。自我などとうに吹き飛んで、ただ無尽蔵の殺戮を発生させる死の嵐と己が身を変じていた。
その暴嵐───猛り狂う凶獣を相手取り、台風の目とも言える中心に在るのはたったひとりの少女の姿。
「──────!!」
大満開とは、勇者たる神性存在の力の根源「神樹」の満開、すなわち神霊群の権能そのものに他ならない。
英霊として顕現した以上、当然としてそのスケールは聖杯によって再現し得る規模にまで矮化させられるものの、サーヴァントとして獲得し得るスペックの限界値に到達していることは疑う余地もない。
そう───今の友奈は相性や当人の技量等を差し引いた純粋な霊基総量だけを言うならば、間違いなく本聖杯戦争において最強の存在であると言えるだろう。
その証左こそが、今この瞬間における経戦の事実であり、余人の立ち入れぬ絶死の地獄においてさえ翳りのない姿は、絶望にさえ屈さぬ勇者そのものと言えるのだろうが。
しかし、しかし。
だとすれば何故───
「ッ、ァァ……!」
空気の失せたその空白に、叫びを上げる余地などなく。
いやそもそも、何故"最強であるはずの友奈は悲鳴を上げなければならない"のだという。
戦闘は継続している。彼女は必殺に値する拳を振り上げ、決死の覚悟で撃ち貫こうとしている。何度も、何度も、それこそ数えることすら億劫になるほどの回数を、彼女は繰り返していた。
そう、"並みの英霊ならばそれだけで終わるであろう拳撃を何度も放つ必要が友奈にはあった"。
それは何故か。
単純な話だ。"当たらない"のだ。
颶風めいて飛び回るシュライバーもまた、今を以て健在。その身に傷のひとつもなく、すなわちこれまでに放たれた友奈の拳はただの一つとして当たっていない。
今もそうだ。完璧なタイミング、完璧な動作で以て穿たれる拳打は、しかし何故か掠りもしない。言ったように性能は極限、覚悟も至高。速さにおいては通常時の数十倍にも相当し、魔力の放出による上昇値は留まるところを知らない。先程蓮に不意を打たれたのはあくまで神殺しのスキルあればこそであり、現時点の友奈は時の体感速度をも遅らせる域での超疾走を可能としている。極限まで強化された霊基を持つ友奈にとって、全てのものは止まって見えるはずなのに。
「なんで───」
シュライバーの速さを追い切れない。停止同然に遅まった世界の中で、白騎士だけが超速の流星と化している。
「Und ruhe mich nicht an───Und ruhe mich nicht an!!」
空を爆砕する衝撃波を纏いながら、空間を震撼させる凶獣の咆哮───理性は欠片も残さず消し飛んで、なお口にするその文言は一体何であるのか。
わたしに触れるな。わたしに触れるな。近寄るな、去れ死神。消えろ消えろわたしに触れるな。皆諸共死に絶えろ。
「触れない───!?」
つまり、これはそういうこと。
ウォルフガング・シュライバーは肉体の接触を狂気の域で忌避している。その渇望を満たすために選んだのが、誰にも追いつかせず誰にも触らせないという禁断の魔高速。故に彼が発揮可能な速度に限界というものは存在しない。
通常時はおろか満開時すらも遥か凌駕する霊基総量を有する友奈を、シュライバーは悉く上回った。その事実に彼女は恐怖し、愕然とする。
死世界・凶獣変生、その効果とは「誰よりも速く動き、そして誰にも触れられない」という絶対的な先制と回避の具現。
そう、例えどれほどの刃であろうとも、当たらなければ意味がない。触れないことには、神々の権能の結実たる大満開の拳であろうとも敵を打ち砕くことはできないのだ。
最悪の事実であり、最悪の相性であり、そして最悪の状況であると言えるだろう。友奈とシュライバーは共に単純性能の急激な上昇を発揮する能力を持っているが、技の前提が異なっている。
純粋に速く強くなる者と、誰よりも速くなる者。
この競い合いで友奈が光速に到達しようとも、シュライバーはそれすら上回るに違いない。理論上、彼は相手が速ければ速いほどに加速するのだ。
なまじ友奈が優れていることが仇になる。今までの彼は相対した敵が脆弱だったからこそ"あの程度"で済んでいたのだ。しかし今の友奈は紛れもない強者であり、だからこそ眼前の狂戦士を最強へと押し上げてしまう。
振り抜いた友奈の右脚の一撃は、残像を両断しただけで空を切る。同時に、側頭部が爆発したかのような衝撃を味わった。
「あッ───きゃあッ」
頭蓋を走り抜ける衝撃───貫通した不可視の圧が射線上の大地を諸共に打ち砕き、向こう側にある地平線の彼方までもが抉られるかのように爆砕した。
蹴りか、それとも拳か肘か? 最早それすら判別できない。だが視界に混じる血の霧は、互いの身体から噴出した代物だろう。
シュライバーは接触を忌む。にも関わらず攻撃手段は徒手空拳による肉弾だ。それは異常を兆倍した矛盾に他ならない。
過去の確かな事実として、活動から形成、そして創造位階においてさえシュライバーは徒手による格闘は一切使ってこなかった。両手に握った拳銃か、あるいは跨る軍用バイクか。相手に直接接触しない武装による攻撃が、彼の持ち得る殺傷手段であったはずなのに。
己の渇望、己の世界、その理を発揮しながら破壊している。
何だこれは、なんなのだ?
「速いだけじゃない……当たらないのは、きっと」
触れられない世界を求めた以上、触れられたならば崩壊する。故に本来シュライバーは、高速機動する紙細工であるべきだろう。渇望を壊されるとは死と同義であるのだから、触れた瞬間に崩れ去るのが道理というもの。事実、友奈を攻撃し接触した箇所は鮮血を噴いて粉砕しているというのに───
「Ich bin noch jung,geh,Lieber!」
今の彼はそんなことすら忘れている。地獄の底まで破綻した魂が、自身の矛盾を認めていない。
触れれば壊れる。触れれば死ぬ。かつてその刃で断頭したストラウスの一撃であるように。
しかし己は今や死の世界そのものなれば、断崖の果てで永劫の殺戮に酔う不死不滅の英霊に他ならない。
その狂信が、世界の崩壊を認めない。壊れようが破綻しようが、一切意に介さない。
悪鬼の理とはこのことか。矛盾の狂気とはこのことか。
殴った腕が崩れようと、シュライバーは気付かないのだ。接触の事実すら認識することができない以上、致命崩壊は起こりえない。魔性の法理に従って傷の超速再生が始まるのみ。
すなわち、より多く殺した者が強くなるというエイヴィヒカイトの基本原理が具現する。
接触拒絶という渇望を持つ故に、シュライバーは肉体的頑強さを持ち得ない。代わりに、彼が食らい続けた犠牲者たちの魂が再生燃料として機能するのだ。
今この時、この一点───白騎士が真実の凶獣と化した状態でのみ、まさしく超速の再生を可能としていた。
狂う狂う狂気の殺意。壊れて壊れて渦を巻く。
我は暴嵐、絶速の獣。天地を喰らうフローズ・ヴィトニル。
絶対先制、絶対回避。そして唯一の亀裂であった接触崩壊すら狂乱の彼方へと追いやった彼は、まさしく付け入る隙など見当たらぬ最悪の魔人であり。
「Gib deine Hand,du schon und zart Gebild!」
友奈がどれだけ覚悟を決めて、どれだけの想いと力をその拳に込めようとも、今のシュライバーを斃すことは日を西から昇らせるよりも不可能なことだった。
無論、曲がりなりにも戦闘を続行できているのは大満開の権能を持つ友奈だからこそ成り立つ膠着状態だ。これが他の英霊であったならば、移動にかかる衝撃波のみで打ち砕かれ、耐えたとしても天を衝く巨人すら屠る一打で以て微塵となるだろう。
呪殺の域にある凶念を耐えるは至大の覚悟であり、世界を揺らがせる拳を耐えるは至高の肉体であれば。現存するサーヴァントの中で、この凶獣と正面から相対し得る者は友奈以外に存在しないと言える。
しかしそれら頑強さ以外の全てが、シュライバーを相手にしてはあまりに相性が悪すぎた。今の友奈が持ち得る攻撃手段は徒手空拳しかなく、厳然たる法理としてそれらを当てることは叶わない。技量が云々の問題ではなく、仮にここに立っているのがマキナやストラウスといった超絶の技を持つ者であったとしても結果は同じであろう。
その点で言うならば、叢が行った封鎖結界への放逐は理に叶った対抗手段ではあった。本来黒円卓の三騎士は相性の面から三すくみとなっており、白騎士たるシュライバーに有利を取れるのは逃げ場のない世界を構築する赤騎士の創造であるからだ。
だがしかし、それすらも白騎士が狂乱の淵に立つことを想定しない場合の話であり───
この状態の彼にとって、別位相の異空間ですらその身を縛る枷とは成り得ない。事実、叢が展開した忍結界はシュライバーの有する霊的質量のみで粉砕され、仮にそれに耐え得る強度があったとしても、シュライバーはその爪で空間そのものを打ち砕いて脱出を図っていただろう。
よって現状、打つ手なし。
開戦より僅か十数秒、たったそれだけの間に友奈が受けた攻撃の数は数千にも届かんばかりに膨れ上がっている。
それほどの攻撃を無防備に受けて、尚も原型を保っている友奈の頑強さは驚嘆に値するが、しかしそれだけだ。
視界を駆ける一瞬の影に、起死回生とばかりに決死の一撃を見舞う。当然の如く空振りし、中空にて伸びきった体が側方より蹴り砕かれた。
天を支える巨人が癇癪を起こして拳を叩き付けたかの如く、友奈の肉体が地面へと叩きつけられた。衝撃さえも追い越して幾度も地面をバウンドし、幾つもの赤土の覗く更地と化した衝突点と立ち昇る土煙に、吹き飛ばされた友奈は悲鳴に成り損ねた苦悶の息を漏らす。
当然のことだが、大満開は決して不死身でもなければ無敵でもない。
有する霊基総量は確かに莫大そのものであるが、攻撃そのものを無効化する特性や死の淵からも舞い戻る不死性を表しているわけでは断じてない。
すなわち、当然の理屈としてダメージを負い続ければいつか必ず限界が来るし、そしてその時は決して遠いものではなかった。
何故ならシュライバーもまた、その特性や相性を差し引いても尚、純粋な霊基総量で大満開に極めて近い数値を叩き出している規格外の存在であるのだから。
「あなたは……」
端的に言って絶望そのものである状況───しかし友奈は同時に、眼前の敵に対し釈然としないものを感じていた。
彼の持つ性質は、何となくだが理解できた。こちらを上回る速さに決して当たらない回避性能。そして何より「触れれば砕ける」その脆さ。
サーヴァントとは人々の祈りが形となった存在である。「こうあってほしい」という願いが英霊を形作り、その通りに仮初の肉体を伴って現界する。
故にこそ、心の在りようが存在としての在りようを形成することもあるのだと、友奈は理解している。そしてその意味で言うならば、この狂した白騎士はまさしく矛盾と背理の塊であり、だからこそ理解できない。
だってそうだろう。友奈の直感が正しければ、眼前のこの敵は───
「あなたは───何より自分を消したいの……?」
忘我と呟かれたその言葉に、しかし凶獣は言語として成立しない叫びのみを返して。
その魔手が友奈の心臓を狙い撃った、
その瞬間だった。
「───ブレイバー!}
飛び込んでくる声があった。
それは友奈が絶対に守り抜くと誓った、小さな少女の声だった。
先ほど別れ、そしてすぐ合流すると約束した少女の叫びだった。
少女は───すばるは、ドライブシャフトを全力で疾駆させて、真っ直ぐに友奈のいるところへと。
咄嗟に来るなと言おうとして、けれど、けれど。
「……マスター!」
───キラキラとは、人の心より弾きだされた可能性の結晶である。
人は己の未来を確定させていない状態において、無限の可能性という揺らぎの中にあり、やがて可能性を一つに収束させると選択されなかった可能性は結晶として弾きだされる。
それがキラキラ。みなとの集めていた宝石の正体であり、すばるが過去に受け取った星の正体であり、そしてとある異形都市において生まれることなく死んでいった嬰児たちを《復活》させるために使われたものと同質の存在なのだ。
《奇械》、それは生まれることなき可能性存在であればこそ───
あらゆる可能性を内包し、故にあらゆる存在を打倒し得る。
例えば、シュライバーが駆けだしたタイミングにおいてその衝撃波から逃れ得る座標位置にするりと潜り込んだり。
例えば、絶対なる回避の権能から逃れ得る極小確率の可能性を引き当てたり。
そしてそれは、ただ一度の奇跡ではあれど。
かの《奇跡の魔女》の御業と同じくして、凶獣の顔面へと吸い込まれるようにして。
「───ぁ」
パシン、と。
鳴り響くものがあった。それは乾いた響きを持って、小さな小さな音を立てる。
すばるの手は、シュライバーの頬を平手で叩いていた。
それは攻撃ですらなかった。サーヴァントは愚か市井の民草であろうとも傷つけるどころか碌な痛みも与えられないであろう些細な接触でしかなかった。
単なる手弱女の張り手でしかなく、戦略的な意味も攻撃としての価値もまるで存在しない。
そのはずなのに。
「あ、あぁ、ぁあぁぁああぁぁぁ……」
死世界の破壊を潜り抜けた。
死世界の回避を無力化した。
そして第三の奇跡として、その接触を、シュライバーに認識させた。
それは全てキラキラ───《奇械》の権能あったればこそ、今この瞬間のみただ一度だけ行使可能な代物であり。
だからこそ、それはシュライバーに対して特効にも等しい効力を発揮する。
「ああ、ぁ、あ───ああああああああああぁぁぁぁああああああああああぁぁぁああああああああああ!?」
シュライバーの体が崩れる。
最初は頬に走った亀裂だった。そしてそれは頭部と首にまで侵食し、やがては体の節々が罅割れ、砂が崩れるように崩壊していく。
止まらない。止まらない。接触を忌むガラス細工の獣は、故にこそ触れられたと認識した瞬間死ぬより他に運命はなく。
あまりに呆気なく、その肉体を砂塵と変えたのだった。
投下を終了します。
これでようやく半分ですね、戦いはまだまだ続きます。続きはまたそのうち投下します
投下乙
ルーラーが言っていた
「時の猟犬振り切れても、常に前に在る死からは逃れられない」
此処までやらなきゃ始末出来ない白騎士に、それすら越える御使か
これにギルガメッシュが何を以って打ち倒すか
続きを投下します
「敵がいる。多分、この気配はシュライバーだ」
彼方を見据える蓮がぽつりと言った。
えっ、と返すことしか、二人はできなかった。
「シュライバー……確かセイバーさんと戦った黒いライダーのご同類、でしたっけ」
今も記憶に新しい光景を、アイは思い返す。
夕暮れの市街地、その一角。周囲を瓦礫の山と変えながら行われた蓮と黒色の偉丈夫との果し合い。
この世のものとは思えない、凄絶極まる破壊の嵐。
聞けば、かの黒騎士は既にマスターを失い、かつ三騎士としての力をほぼ喪失した状態だったという。それでさえあの規模の大崩壊が巻き起こったという事実が、純粋な畏怖としてアイの心の裡に叩き込まれていた。
あれの、同類。
しかも弱体化など一切していないであろう、真実の姿。
想起するだけでも恐ろしく、感情ではない本能の部分が「今すぐ逃げろ」と警鐘を鳴らして止まない。
「……いいえ」
アイ・アスティンが聖杯戦争に際して掲げてきたスタンスは、一つきりである。
すなわち、闘争の否定。殺戮の拒絶。助けられる者を救け、失われる人命を少しでも救う。
世界を救う一貫としての、聖杯戦争の破綻。
最初から今まで、アイが目指し努めてきたのは、そうした想いだった。
「行きましょう。キーアさんと騎士さんが、ブレイバーさんが、そしてもしかすると他の人たちも、謂れなき死の恐怖に苛まれているかもしれません」
だったら、取るべき道は一つだろう。
救いを求める人がいるならば、アイは必ずその手を掴む。
助ける。絶対に見捨てない。
あの日、あの時、父の眠る墓標の前でそう誓ったのだから。
「最初からそのつもりだよ。揃いも揃って殺しが好きな人でなしだからなアイツら。どんなスタンスを取るにしても、全員倒さなきゃ俺達に未来はない」
「はい……いえ、でもその前に一つだけお願いが」
「なんだよいきなり」
蓮は訝しげな顔でこちらを見つめてくる。
分かってないのだろうか。それとも分からないフリをしている?
「無理だけはしないでください。どうしてもダメな時は、連れられるだけの人を連れて逃げちゃいましょう」
「……なんか、お前らしくないな。俺としちゃそっちのほうがありがたいけどさ」
なんて言って、彼は何でもない風に返してくる。
分かっているのだろうか。分かっていてほしい。
その言葉が自分らしくないことは、アイが一番分かっている。
ここにいるのがアイひとりなら、きっとそんなことは言わないに決まっているのだ。
だから……
「あの……」
と。
蓮の抱える腕の中から声がひとつ。控えめに発せられる。
声の主───目を覚ましたすばるはおずおずと、こちらに視線を向けて。
「だったら、わたしが最初に行くよ。多分、それが一番良いと思う」
そんなことを、提案してきたのだった。
▼ ▼ ▼
《奇械》とは生まれることなき命たちの"可能性"そのもの。
故にこそ、その手は万物に届き得る。そして可能性そのものであるがため、現実に在るあらゆる干渉を受け付けない。
それは背後に立つ影のみならず、影を宿す本体さえも。顕現する《奇械》の機能は、宿主さえも一時的に超常のものへと変革させる。
攻撃の作用など二種しかない。徒手も剣も銃砲火器も、幻想に位置する神秘の数々でさえも。その法理は変わらない。
すなわち、上手く当てる力か、当てて殺す力。そのどちらか、あるいは両方。
その点で言えば、すばるの一手はまさしく天啓とも言える一打だった。可能性分岐する無限の未来から「当たる」世界線を掴み取り、その一撃は致命崩壊を引き起こした。
ただ一度だけの奇跡。すばるは間違いなく、ウォルフガング・シュライバーという不落の砦を打ち崩すことに成功したのだ。
ただし。
「Und ruhe mich nicht an!!」
それは"一度"だけの話だ。
次瞬、砂像のように崩壊したはずのシュライバーが完全な再生を果たして飛びかかってきた事実に、すばると友奈は反応することができなかった。
二人は虚を突かれた表情をして、しかし認識よりも早く肉体が動くことはない。眼前のあまりの不条理に、"そんなこと"があり得るはずがないとしか思えなかったのだ。
死んだはずだ。
すばるは、確かに、その手でシュライバーを殺した。
それは確かな事実であり、ならばこの事態は一体何であるのか。
───シュライバーの持つ超速再生とは、内に溜めこんだ魂を消費することによる無理やりな肉体補填である。
エイヴィヒカイトの基本原理、殺した数だけ強くなる。千人を殺しその魂を喰らったならば、千人分の膂力と生命力を獲得する文字通りの一騎当千。
この状態のシュライバーにおいて、肉体の完全消滅であろうとも魂の一つを消費すれば容易く復帰可能な損傷でしかない。
彼の持つ魂の総量は、18万5731。
更に聖杯戦争で殲滅した二十余の英霊たちに、虐殺された市井の民。その総数を合わせれば、およそ30万にも相当する霊的質量に膨れ上がっている。
今のシュライバーにとって、死すら己が身を縛る枷とは成り得ない。
すばるは確かにシュライバーを殺した。
だが真に彼を打ち負かしたくば、それをあと30万回繰り返さなければならない。
その事実を思い知るよりも圧倒的に速く、シュライバーの魔手はすばるへと振り下ろされ───
「やらせるわけ、ねえだろうが……ッ!」
振るわれる死の斬閃を、迎え撃つ剣がひとつ。
先端に備わった五本の鋭利な爪と纏わりつく死の黒色、こびりついた血肉が放つ饐えた悪臭の悉くさえも。
白雷纏う長剣が防ぐ。不浄の瘴気を祓うかのように、曇りない澄んだ白光が盾となって。
「こっちです、すばるさん!」
その光景に我知らず見入っていたすばるの首元を、強い力が"ぐい"と引っ張った。
何事かと振り返れば、そこには自分を引きずって走るアイの姿があった。
突然のことで声も出ないまま、あれよという間に数十m近い距離を駆け抜けた二人は、そのままキーアやもっとたくさんの人たちのいる場所までたどり着くと「ずしゃー」と滑り込んだのだった。
「あの、えっと……ありがとう、アイちゃん。それにごめんね……」
「いえ、それはいいです。結局は私も認めたことですし、それにすばるさんってば大人しそうに見えて実は相当無茶する人だって分かってましたからね」
若干拗ねてるように言うアイは、すばるの先行に最後まで異を唱えていたのだった。駄目ですせめてセイバーさんを付けてください何なら私が行きますとまで言ってセイバーにゲンコツを落とされて、そこでようやくアイはすばるの提案に折れたのだ。
───まあ確かに、自分でも驚くくらい無茶やってるなぁ。
なんて、そんなことを思いつつ。けれど現実問題としてアレを倒せなかったという事実が心に圧し掛かる。
あとは、ブレイバーたちに任せるしかない。
我が身の無力さが今は憎らしい。だからせめて、どうかブレイバーたちが無事に勝利できることを、と心の裡で祈って。
「アイ、スバル! 無事だったのね」
「そうか、彼はやってくれたのか……」
キーアや騎士のセイバーがそこにはいて、他にも金ぴかの人や妖精さんみたいな女の子、赤い瞳のお姫様みたいな子がいて。
知らない人、たくさんいる……一瞬ちょっとだけ驚いてしまったけれど。
「心配はいらない。彼らは、味方だ」
「貴様を朋友に迎えた覚えはないのだがな、聖剣使い。とはいえ一時休戦であることは確かではあろう。あのケダモノを前にして、婦女子に要らぬ手をかけるつもりなどない故に安心して見守っているがいい」
アーチャー───背中の後ろのほうから凄く眩しい光を出している。宝具か何かだろうか───に合わせて、隣の瞼を閉じた女の子も同意するように頷いている。
共同戦線、ということなのだろうか。さっきはブレイバーを助けたい一心で周りがよく見えていなかった。よく見れば、キーアはいつの間にか黒い剣を持っていて。サーヴァントだけじゃなくマスターのキーアも含めて、みんな激しい戦いを乗り越えてきたんだな、と。
「だからこそ、そろそろ僕も出陣しなくてはならないだろう」
声と共に、鎧姿の騎士が立ち上がる音があった。
「でもセイバー、傷がまだ……」
「君の令呪のおかげで、傷口自体は既に癒えている。隻腕でも戦えるだけの修練は積んでいるから、足手纏いにはならないさ。
───ランサー」
「ええ、言われるまでもなく。こっちの茨はあなたの代わりに私が何とかしておくから、心置きなく行ってらっしゃいな」
ランサー───赤い目の女の子と、何よりキーアに応えるように、セイバーは決意を湛えた横顔で頷き、駆けだした。
一陣の颶風となって消えるセイバーの姿。それを見送るキーアを支えるように立つ、ランサーの少女。
「でも、不思議なこともあったものね。こうして直に触れるまで、私も気付かなかったけれど」
「え?」
ランサーは感慨深げに、あるいは我が身にあきれ返っているかのように、そんなことを言って。
何のことだか分からないふうなキーアに構うことなく言葉を続ける。
「この都市には四人の《奪われた者》がいる。"いた"と言うほうが正しいか。バーサークセイバーにオルタナティブのアーチャー、それに私。あと一人は、あのいけ好かない魔女気取りの小娘だとばかり思っていたのだけど」
そうして、ランサーは告げる。
傍にいたすばるもアイも分からぬその言葉を。キーアとギルガメッシュはきっと理解できたであろうその言葉を。
残酷でもなく、冷酷でもなく。
ただそうであるがままに、呟いて。
「四人目って、あなただったのね。キーア」
二人は同じ赫色の目を、合わせて───
▼ ▼ ▼
そして戦場は再びの動乱に陥る。
一度目の死に身を窶した狂乱の獣が、冥府の底より尚蘇り更なる強化を自身に強いて無限の加速を果たすのだ。
「Sie verblassen」
軋みを上げ、殺戮兵器が再起動を遂げる。
愛を注ごうと、悪意を浴びせようと関係なく。ただ食い荒らすことしかできない暴虐の獣が、その隻眼で覗き込む。
妄執、情熱、狂愛がぐるぐるとその眼球の奥でかき混ぜられていく。逆側に空いた空洞の孔は、腐臭と共に暴嵐の再動を告げていた。
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!」
そして次瞬、動作する全てへの殺意を叩きつけるかの如く、鞭のようにしなる長腕が地面へと振るわれた。
大地を伝播する衝撃が、地盤ごとその場の全員を揺り動かしてよろけさせる。だがそれは牽制や足止めの類にあらず、もっと根源的な"何か"への明確な攻撃であった。
震動するものがあった。それは大地そのものであり、都市そのものであり、そして世界そのものでもあった。
体勢を立て直した蓮は、友奈は、アーサーは気付く。"空が遠くなっていく"。
天が遠ざかっているのではない。自分たちが落下しているのだ。両足で踏みしめる大地ごと、シュライバーを中心とした広範囲が徐々に降下を始めている。
「地盤沈下……いや、これは!」
そして気付く。これは地盤沈下などという物理的な破壊ではない。見れば沈降の境界面は不定形の揺らぎに覆われて、向こう側の風景は蜃気楼のように揺らめいている。
外界と隔絶した位相次元の確立、次いで虚数空間へと沈降していく球形状の揺らぎ。
そう、シュライバーは単独の魔力のみで、小規模とはいえ独立した特異点を構築したのだ。
「そこまでして、俺達を逃がさないってことかよ」
叩いても叩いても死なず、あろうことか次々と数を増やしていく敵性サーヴァントに業を煮やしたのか。
この都市に残る生存者を決して逃しはしないと言わんばかりに、そして厳然たる事実として最早彼らは逃げられない。
シュライバーを殺すか、全員死ぬか。
既に、二つに一つの道しか彼らには残されていないのだ。
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!」
雄叫びと共に疾走し、シュライバーが最初に狙ったのは蓮だった。その選別に理由はなく、単純に一番近くにいたからというただそれだけ。
今や彼にとってこの場の全員は等しく殺害する対象に変わりなく、故に個々人の認識など必要ない。
「ッ、クソ、がァ───ッ!」
絶叫と共に、極大の衝撃で弾け飛ぶ肉体。千切れ飛んだ肉片、蓮の二の腕が骨を残して噛み千切られていた。
交差の瞬間放ったのは幻想の雷電。
人間一人が避け得る場所も時間もないはずの視界を埋め尽くす紫電の波濤は、しかし敵影を捕えることなく夜を切り裂くのみ。決して目標には命中しない。
「てぇ───りゃああああああああっ!!」
白光の隙間を縫うようにして飛来するは友奈の拳打であり、しかしその瞬間には少女の背後に移動を完了したシュライバーが鉤爪を振り下ろしている。
弾ける衝撃、悲鳴すら追い抜いて叩きつけられる友奈を後目に、未だ中空に在るシュライバーを照準して周囲一帯ごとを吹き散らす風の刃が放たれた。
それは後衛より刃を翳すアーサーの一撃であり、故にこそ避けようのない致命のタイミングであった。誰しも全力の攻撃を敢行しては一瞬の隙は生まれるものであり、まして翼持たぬ人の身で空中を自由に行き来できるはずもなく。例えどれほどの絶速を持とうが回避の余地など微塵もなかった。
はずなのだが。
「Ich bin noch jung,geh,Lieber!」
何ということか───シュライバーはそれすら蛇のように旋回して掻い潜る。
彼は飛行に類する技能を有しているわけではない。そうした魔術の薫陶を受けたわけでもない。
これは至極単純な話。空気を蹴り上げて空中を移動したという、あまりに荒唐無稽な理屈なのだ。
世界が静止したに等しい速度を持つシュライバーにとって、舞い上げられた木の葉や砂礫は愚か、ただそこに充満する大気ですら移動を補助する足場となる。
「────────────!!」
そして自然、向けられた殺意に攻撃の矛先がアーサーへと照準され───その間に飛び込んだ蓮が凶獣の一撃をその身に受ける。
「ぐ、ぁ、アアアァァァ……!」
地に足がつくより暴狂の嵐が腕を、足を、胴体を四方から打ちのめす。中空で踊る蓮は竜巻に弄ばれる木の葉、否、それより尚酷い。
繰り返される特攻は神速の具現だ。音速など五桁は超えている最速の連撃が、衝撃波を伴って肉体を引き千切りながら切り刻んでいく。
更に、最悪なのが意図せずして聴覚を無用のものへと変えた、この───
「──────────────────!!!」
耳を掠めた風切音───咆哮が攻撃の後に辿りつく。
軽く十度は打ち据えた後になってから、ようやく初撃の絶叫が届くのだ。
伝導体として不足になった空気が、使い手の理性どころか言葉すら剥奪してシュライバーの利へと働く。
繰り出される攻撃に暇はない。
もはや銃などという触らないための武装を必要とする精神など、次元の彼方に吹っ飛んでしまっている。
暴走状態にあるシュライバーに技はなく、全てがただ全力を込めた突撃だ。相手に向かって激突と離脱を繰り返す反復運動でしかない。
思い切り殴る。蹴る。引き裂く。
獣のように上下の咢で噛み砕く。
積み上げてきた超常的な殺しの技を捨て去り、原始の闘争まで遡った姿は神話に棲息する魔獣そのもの。
最大にして唯一の武装、比するものなき最速の理論のみを引き連れて、戦場を疾駆し続ける。
敵より速く、何より速く、速く、速く、誰からも触られないように。
それのみを願い、形にした最速の渇望。
誰にも捕えられない、当然だ。ずっとずっとそれだけを、生涯心より願って奔走してきたのだから。
触れるな貴様ら、汚らわしい止めろ寄るな触れるんじゃない。
薄汚い劣等愚物皆々総て、我が暴嵐で消し飛ぶがいい。
求めたのはそれだけ。真実たったの一つきり。
他には何も求めていない。理性も実感も差し出した。全てを対価に払ってでも、求めたのは万物届かぬ速度域。
故に───それが自己の肉体を無視した祈りであるのも、当然の結果と言えるだろう。
「───づォッ」
激突した双方の血肉が乱れ飛ぶ。
蓮は腹部を丸ごと粉砕され、攻撃を加えたシュライバーは腕と指が爆発したように砕け散った。
砲弾のように弾き飛ばされて、竜巻のような攻撃嵐から解放された蓮の肉体は赤色の骨格に崩れた肉片が付着しているに等しい有り様と化していたが、目に見える速度で治癒が発動。次々と生まれる肉の線が欠損部位に絡みつき、急速な再生を果たしていく。
それはシュライバーとは比較にならない程度の力でしかなかったが、確かに彼の再生と全く同質の代物だった。すなわちエイヴィヒカイトに備わる肉体組成機能。創造位階にまで零落した蓮ではシュライバーほどの力を発揮することは叶わないが、それでも時間回帰級の再生を施すことは可能である。
「させない……ッ!」
それでも一瞬生じる隙をシュライバーが見逃すはずもなく───二人へ続く道を阻むように友奈が立ちふさがり、攻性行動へと転換する。
強大無比な蹴撃と、それを背後よりアシストする風の鉄槌。更に続く宝剣と光弾の乱舞が空一面を覆い尽くして驟雨のように降り注ぐ。
当然のように回避して踵を振り下ろすシュライバー。爆轟する衝撃と共に、再び彼の脚は砕け散った。
これだ。この繰り返し。戦端が開かれてから今までの間、ずっとこの光景が繰り広げられていた。
頑強さで優れる友奈と再生力で優れる蓮が前衛を務め、重傷を負ったアーサーはしかし将としての才と騎士としての剣腕により戦況を把握し、適時有効な一手を指し続ける。
全員が近接型という偏りこそあれど、中々に悪くないチームプレイ。並大抵の相手なら、この三人が結託したというその時点で勝敗は決したも同然であっただろう。
だがしかし、それでも届かない。
戦闘が開始されてから彼らが試行した攻撃回数は数限りなく、破壊に晒された大地は元の姿を失うまでに崩壊しているというのに。
彼らは未だ、只の一度たりとてシュライバーに攻撃を当てることができないでいた。
「Und ruhe mich nicht an───Und ruhe mich nicht an!!」
壊れた再生機のように、彼の手足は砕け続ける。
接触した部位を捨て去る様は蜥蜴の尻尾か。
破壊と新生を高速で繰り返す狂った嵐は、なお激しく疾走の波濤となった。
それは禊なのかもしれない。
触れなければ殺せない。しかし触れれば穢れる。その背反。
汚いのは嫌だ。汚いままでいたくない。それでも殺したい。ならばどうすればいい。何を以てすれば己は穢れずに死を振りまけるのか。
子供じみた矛盾の果てに達した答えは、互いの崩壊。
諸共無くなれば、触れられようと構うものか。
砕けた後に再生し、再び壊して、また生まれる。
穢れてしまった己の末端を捨て去って、入れ替えることで生まれ変わるというその理屈。
暴狂の域にある今ゆえに、シュライバーは壊れた理論を現実のものとする。
総計数十万を超える黒円卓最大の犠牲者たちが、燃料として右眼窩から迸っているのが何よりの証拠だろう。
「いい、加減……くたばりやがれ……ッ!」
痛苦と憤激にばら撒かれた激情が降り注ぐ殺意を乗せて爆発する。
全方位、間隙なく空間を削る雷電は既に結界だ。
視界の全ては蒼白の雷光に占領され、万の戦意が電流の一つ一つに宿っている。
最大規模で発動した雷電による空間の蹂躙。逃げ場を掻き消す雷の檻は、呑みこんだ異物を許さない。
───躱せる空間の消去。
それは赤騎士の創造と全く同じ理屈であり、規模こそ違えど回避の余地を奪うということに変わりはない。
更に。
「風よ、吹き荒べ!」
「王の財宝、その一端をくれてやる」
「我が声に応えて出でよ自壊の黒霧───夜闇の如く蹂躙せよ!」
次瞬、咆哮と裂帛の叫びと共に、爆発的なまでの破壊が波濤となって押し寄せた。
風王鉄槌、ゲート・オブ・バビロンの波状連射、充満する《この胸を苛む痛み》。諸共打ち砕く風王の裁き、剣嵐刀雨の光条弾雨(レイストーム)、触れた者全てを崩壊させる無質量の大津波はまさしく逃げ場などない破壊の結界を構築し、最早この格子より逃れられる者などあるはずもなく。
そのはずではあったのだが。
「おおおおおおぉぉォォァァァァァァァァ!!」
文字通りに咆哮ひとつで掻き消され、同時に"奇妙に歪んだ空間"の変調によりシュライバーの姿が消え失せる。
「な、んだと……!?」
衝撃、そして背後に流れゆく視界の中、蓮は眼前の敵手が何を行ったのかを正確に理解した。
ああ、それはなんて理不尽。この世に在り得ざる不条理の権化であることか。
シュライバーは、空間を裂いたのだ。
森羅万象という土台からぶち壊せば解決すると、狂気的な理論を壊れた脳髄で思考しながら、蠢く爪が空間を虚無や虚空ごと切り裂いた。
界がズレる───位相がズレる。まるで分厚い岩盤を切り抜くように、声なき宣言に従うかのように世界を両断したシュライバーはあろうことか次元そのものの盾を形成。それを瞬時に蹴り飛ばし、強引に周囲を覆う光と風と剣嵐と自壊法則を破壊しながら押し通ったのだ。
抉られた世界の断片はまさしく不壊の防御壁。瓦礫のように吹き飛びながら進行方向の攻性存在を一方的に圧し潰し、凶獣の進撃する道を作る。
その光景を前に、湧き上がるのは呆れと恐れと納得だ。真なる創造へと至ったシュライバーは、三騎士の相互相性さえも凌駕し黒円卓にて最強の存在となる。赤騎士の創造さえも打ち破るというそれは、まさしく眼前の不条理をこそ言っていたのだ。
ウォルフガング・シュライバーは人界を喰らう魔獣であり、現世界の否定者だ。黄金の獣が布く新法則を真実とするために、既存法則を破壊する殺戮の機械獣。
それは言い換えれば界の破壊者、空間破壊の御業さえも可能とすることを示していた。狂した獣となった彼にとって己を縛る鎖とは墓の王以外になく、故にこそ世界にも死にも縛られない。
「強い……けど!」
シュライバーの欠点とは、その脆弱に加えてもう一つ、純粋な攻撃性能で他に後れを取っていたことだ。
元来の彼が有していた攻撃手段は銃撃と轢殺。対し赤騎士と黒騎士はまさしく世界ごと滅却し世界そのものを滅ぼすに等しい幕引きを与えるという規格外存在であり、絶対先制と絶対回避の権能に守られた状態とはいえシュライバーでさえも劣勢、あるいは千日手に陥るような力量差の二人であった。
今はどうか。
現状の彼は、文字通りに世界を削り取るほどの膂力と概念破壊能力を有している。エイヴィヒカイトの術式は物質と魂の双方を抉り抜く。そこに加えて、彼は空間と世界さえもその手にかける領域へと足を踏み入れているのだ。
超人さえも超えた魔人の巣窟たる黒円卓にあって、その異常性は最早怪物と呼称する他にないだろう。理性のある状態では取り除けなかった瑕疵の全てを排されて、今の彼はもう誰にも手のつけようがない。
故に勝てない。故に手の打ちようがない。
それは分かっていたが、けれど。
「みんなのところには、行かせない……!」
爆縮した力の全てを込めて、結城友奈は地を蹴り上げ、ミサイルの射出が如き勢いで炎を纏い飛翔した。
単なる突撃───というわけではない。この敵手が誰にも触れようのない存在だと、こちらが速くなればなるほどに加速する異常存在であるということは痛いほどに理解している。
故にこれは考えなしの特攻などでは断じてなく、その証拠に。
「星々の欠片を宿し、いざや顕現せよエルナトの星剣!
今こそ天駆し飛翔するがいい花結の勇者。我が豊饒を与えし拳、止められる者などこの世におるまい!」
これぞ不死殺しの天駆翔。《可能性》の力を込めた一撃に他ならない。
それはすばるとみなとの力と同じくして、友奈に不可能を踏破する比類なき力を与える。
少女は天へ、獣は地へ。切断され崩落する空間の壁を縫いながら、炎に燃える彗星と化して正面衝突を敢行する。
「うわあああああああああああああああああああああああ!!!」
そしてぶつかる拳と拳は───当然のように、友奈が競り勝ち粉砕する。
如何に欠点を穴埋めしたとはいえ、性質としてシュライバーは高速機動するガラス細工であり、霊基総量が互角であれば友奈が押し勝つのは当然と言えた。そのまま体躯ごとを貫き、爆散するシュライバーの総体。しかしそこで終わらない。
「まだ、まだァ!」
一度殺した程度では、すぐに復帰されて終わってしまう。
そんなことは百も承知だったから、残された僅かな時間で更なる攻勢を展開する。
絶対回避さえ凌駕する可能性存在の権能、それが顕現できる時間は極めて限られる。すばるたちのそれは一個人の願いであるため一撃の間しか持たず、ギルガメッシュのそれでさえ"召喚のためのリソースを数十秒割いてようやく顕現可能"な代物であり、効果のほどはすばるたちのそれと大して変わらない。
故にこそ、この僅かな時間で殺しきる。一度で駄目なら十度、百度、千でも万でもこの心折れるまで永遠に繰り返してやろうと拳を振るい───
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!」
反撃として空間切断の魔手が脇腹を削り、友奈は呆気なく地へ落とされた。
彼女は何度、凶獣を殺せただろうか。十か百か、それは確かにこれまでと比して凄まじい戦果ではあったが、しかし。
「これでも、駄目、なの……!?」
それでも届かない。数十万の魂を持つシュライバーを殺しきること叶わない。
なんという圧倒的な差だろうか。死は一度きりという不文律すらこの獣には通じず、殺されても尚襲い来る暴威はいっそ冗談の域であり。
「立ち止まってるんじゃないの! 諦めないのが勇者なら、その通りに貫き通しなさい!」
友奈の頭蓋を握り砕こうと迫るシュライバーを阻むように、飛来した数百の光の弾幕が眼前の空間と地表を穿ち、同時に掻き消えたシュライバーが残影と衝撃波だけを置き土産に疾走を再開した。
次瞬、吹き荒れるは怒濤の暴風。ただ全速力で駆け抜けたというだけで、巻き起こるのは極超音速突破による不可視の大圧力。
それらは体躯に突き立てんとする宝剣、光弾の数々を小枝のように吹き散らす。届かない、届かない、届かない───
「▅▆▆▆▅▆▇▇▇▂▅▅▆▇▇▅▆▆▅──────!!」
だがそれでも、いつまでも抵抗を止めない獲物たちの足掻きは狂える獣の琴線に触れたのか。明らかな嚇怒の絶叫を以て満天下へと叫ばれる。
魂を燃やした烈火の叫びが、世界そのものを揺るがした。比喩ではなく、今や彼の視線吐息にさえ空間破壊の圧が宿っているのだ。
絶速による認識不可能域の連続打撃、罅割れる空間を微塵に切り刻み、そこから更に素手で空間断層を毟り取り、超強大な不可視の鈍器として群れるサーヴァントらへの鉄槌と叩きつけた。
数十mを優に超す空間そのものの打撃に晒されては、最早耐えられる物質など存在しない。
その光景に、友奈は最早唖然とする他になかった。理屈が通らない、意味が分からない。理不尽という言葉さえ底を尽き、正常な感覚はとっくの昔に麻痺してしまって。
「それでも……!」
それでも、彼女は立ち向かう。
現状戦えるのは自分ひとり、ならば逃げる道理などあるはずもなく、正面より立ち向かう他に道はないだろう。
無論、大満開とてその一撃には耐えられまい。この世の摂理の窮極たる権能を保持する肉体も、しかし突き詰めればこの世の内側で発生した現象だ。
よって摂理という土台から破壊する反則行為を前にしては、ガラスのように砕け散るのみであると。
「君を、殺させはしない」
故にこそ、その助けが来るのは必然であると言えた。
構える友奈の背後から、振り翳される光の一閃があった。それは過去最大の殲滅光であり、そして人々の祈りを込めた清廉なる救世の刃でもあった。
エクスカリバー、十三拘束解放。
本来ならば光の奔流として放つべき究極の一撃だが、そのような大振りな攻撃がシュライバーを相手に功を奏すとは思えない。オーバーロードたる星の力の片鱗を露わにして、しかしこの一時は人の手が握る刃の一振りとして使用する。
視界一面を埋め尽くす極大の斬閃は、崩落する界の断層ごとを断ち切り、その果ての空間塊を迎え撃った。
果たして、聖剣の光は世界ごとを押し潰す空間塊の質量と拮抗するけれど。
「ぐ、ぅッ……!」
しかし、剣はともかく使い手のほうが耐えられない。
アーサーは間違いなく最上級のサーヴァントであり、その強壮と勇猛さは語るまでもないが、しかし左腕を欠き瀕死の状態となった今、凶獣を単身で相手取るのはあまりにも酷な話であった。
界と界が鬩ぎ合う硝子の破断めいた金切音が木霊する中、黄金剣を掲げるアーサーは徐々にその体勢を崩していき───
「それは私の台詞だよ、セイバー」
押し負けようとするその剣に、添えられる手がひとつ。
苦悶に歪むアーサーの隣にて、友奈はエクスカリバーを支えんと渾身の力を込めて界の大質量へと立ち向かっていた。
無論、それで友奈が無事に済むはずがない。エクスカリバーは既に黄金の刀身を露わにして、それに触れるとはすなわち万象滅却する星の祈りを直に食らってしまうということでもある。
如何な大満開とて、如何に友奈へ向けた破壊ではないとはいえ。あまりにも無謀極まる暴挙。
今も友奈の手は肉の焦げるおぞましい音と共に焼け付き、溢れ出る鮮血が蒸発しては異臭が立ち込めている。常人が溶岩に手を突き入れるに等しい蛮行に、アーサーは今や言葉も出ない喉で「やめろ」と叫ぶけれど。
「みんながみんな、死んでいった。痛み、苦しみ、他にもいっぱい……そういう思いをして死んでいった人たちがたくさんいた」
そしてその一端を担っていたのは間違いなく自分だった。深く刻まれた悔恨に友奈の膝も一度は屈しかけた。
けれど、いいやだからこそ。
もう二度とそのような光景を生み出すまいと誓ったその決意に嘘はなく、ならばこの程度の痛みに負ける勇者などでは断じてない。
「勇者は、根性……!」
持ち出すのは稚児めいた根性論。けれどそれこそが、心の清廉さこそが、勇者たる彼女の証であるのだから。
「負けて……たまるかぁぁぁアアアアアアアアアアアアア!!」
そして当然、戦っているのは彼ら二人だけではない。
「形成、戦雷の聖剣───調子に乗るのもいい加減にしやがれ、ケダモノ野郎……ッ!」
瞬間、放たれた雷光が斬閃となってシュライバーへと飛来した。
崩壊し墜落する界の残骸、その諸々を針の目を潜り抜けるかのように歪曲・突破し、文字通りの雷速で迫るは紫電の殲滅光。
尋常なるサーヴァントに躱せる速度では断じてないが、しかし相手は無限加速のシュライバー。翻るその身は容易く雷光を回避してのけるが、しかし蓮の狙いはそこにはない。
「今だッ! 押し返せアーサー王!」
「ぐ、ぬ……おおおォォォォオオオオオオオオオオオオオッ!!」
誰よりも速く駆け抜け、如何なる攻撃すらも回避するシュライバー。それは裏を返せば、迅速の攻撃を前にしては回避のために誰よりも速くその場を離脱するということに他ならない。
シュライバーという使い手が失せた空間塊の一撃など、単なる巨大な瓦礫に過ぎない。喝破と共に解き放たれた星光は呆気ないほど簡単に絶死の巨塊を弾き飛ばし、次いで飛び出す友奈が撃滅の意志も露わに拳を振るった。
「勇者ァ───パァァァァァァァンチ!」
刹那、壊震する世界。爆発しながら弾け合う魔力と炎熱が地表を満たす。焦熱世界の一撃にも匹敵する極大熱量が嵐のように吹き荒れた。
凄まじいまでの魔力の波濤。圧倒的なまでの保有質量。是なるはまさしくサーヴァントという霊基が発揮し得る最大級の破壊であるのだろう。
しかしそれさえ、絶速のシュライバーを捉えることはできないのだろう。彼は万象を避け、万物の先を行くのだから。きっと痛痒の一つも与えられないのだと、半ば確信の域でそう思考し───
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!」
ああ、だがしかし───白光が炎熱を切り裂く。苦もなく、苛烈に、圧倒的に。
まるで霞か何かの如く、疾駆する純白の流星が炎の壁を貫いた。友奈の一撃は文字通りに神々の裁きそのものであり、今や聖杯戦争に属する尋常なるサーヴァントでは誰しもが葬り去られるであろう莫大量の魔力を有しているにも関わらず。遂には絶対的な鏖殺の突撃で穿たれたのだ。
そして次瞬、連続する三連撃の衝撃がこれも等しく炎華の波濤を突破する。偶さか掴んだ奇跡でも、それどころか技巧ですらない。それこそが我が求道であるのだと、猛るシュライバーの咆哮が物語っていた。
だからこそ、不可解なのはそこだった。何度も言った通り、純粋な攻性存在としての完成度では「シュライバーは友奈に及ばない」。極めて近似値であること、シュライバーが持つ特異性と相性故に両者の戦闘は一方的な様相を見せてはいるが、単純な攻防の性能でシュライバーが友奈を下回っていることもまた事実だ。
だが彼は、炎熱の壁を"回避"するのではなく正面から"突破"したのだ。力量としての面からも、性質としての面からも、それは明らかにおかしな話だ。
焔の突破にその身を晒し、言うまでもなくシュライバーの全身は一度は塵となって消滅するも、認識外の超速により瞬時の再生を果たす。
シュライバーの力とは無限の加速。しかしその権能は今や、単純なスピードだけに留まるものではなくなりつつあった。
意味が分からない。理屈が通らない。創造とは現世界を否定する理ではあるけれど、その出力にも範囲にも上限という概念は存在するはずなのに。
そう、創造位階のシュライバーでは神霊規模の存在に及ばない。
ならば話は簡単だ。更にその上を目指せばいい。
その瞬間、総てを悟ったのは藤井蓮ただ一人だった。何故なら彼は"元々そういう存在だった"のだから、同質のモノを感知するなど造作もなく。
「テメェ───まさか……ッ!」
シュライバーの内部に渦巻く凝縮された魔力群。文字通りに"人間大の入れ物へ宇宙を押し込めた"ような空前絶後の密度を知覚し、彼は心底より怖気立つ。
集束、集束、集束、集束───中心核へ圧縮された接触拒絶の渇望は、まさしく憤怒と憎悪の結晶そのもの。
ならばあとは暗黒天体と同じこと。内側を奔り続ける渇望と魔力の大噴火を世界が支えきれないのだ、絶対であるはずの物理法則さえもがシュライバーの質量に全く耐えられていない。
等身大の宇宙を駆け巡る絶対加速の渇望は、遂には光速すら超越完了。
敗北する特殊相対性理論。今や因果律さえ彼を縛る枷にはならない。
限界を超えて駆動する破綻した権能が、その現象の何たるかを蓮へと伝える。
「求道太極……渇望を元にした自己の特異点化」
考えられる可能性はそれ一つきり。そして何よりも外れてほしかったその仮説は、総身より放たれる夥しい神気によって完膚無きまでに否定された。
世界が歪む。歪む。歪む。中天へと現出した白騎士はまさしく宙域を捻じ曲げるブラックホールに他ならず、故に周囲の光景の何もかもが歪んでいく。
事此処に至り、友奈とアーサーもその異常に気が付く。だが遅い、もう手遅れだ。全ては遅きに失した。何もかもが間に合わない。
これこそが太極。これこそがエイヴィヒカイト第四位階。その片鱗。
己が渇望というたったそれだけの事象で、既存宇宙の悉くを塗り替え凌駕する"世界創造"の御業。
現状のシュライバーは求道神そのものではなく、あくまでそのきざはしに手を掛けたという程度であり、第六の天が具現する事象世界に顕現した《無形》は愚か、戦奴の城を永久展開したラインハルトにさえ遠く及ばない程度。純粋な力量で言えば《闇(メトシェラ)》の本体に比肩し得るかという程度でしかない。
だがそれでも、サーヴァントという括りで見るならどうしようもない過剰戦力だ。惑星の生気から発生した有象無象の神霊など及びもつくまい。アラヤのカウンターガーディアンとして登録された三人の盧生でさえ、完成した求道の器を前にしては如何程の戦力になることか。
彼が「死ね」と吼える限り、ものみなすべて木っ端微塵に砕かれながら無明の彼方に消え去るだろう。
まさに活動する不触の宇宙。最早誰も、何者も、その進撃を止められない。
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!」
そして次瞬、彼らが心底危惧したように鳴り響く破砕音。まるで空間を削るかのように、疾駆したシュライバーの軌跡から次元の位相に亀裂が走る。
それはまさしく、現世界がこの魔人に敗北したという証明だった。彼を編み上げる魔力は内界で無限加速を果たしながら、今も激しく混沌のように渦巻いている。
実現された大質量と超速度に、世界は最早耐えきれない。
薄氷へ鉄球を乗せたかのように界そのものが砕け、傷つく。
活動する異界法則―――いや、剥き出しの特異点そのものと化した今のシュライバーは、時空間を蝕みながら旧世界の終焉を告げる災禍の獣と化していた。
相対する諸々は咄嗟に全力の攻撃を放ったが、無論のこと全てが無意味だ。ありとあらゆる破壊の力が滾る白の流星に片端から粉砕されていく。
全方位干渉展開、神霊の加護に星の祈り、何もかもが通じない。
聖剣の光を氷柱を砕くかのように蹴り飛ばして蓄えた熱量ごと粉砕された。迫る数百の光弾は四肢の末端を動かす余波だけで諸共消滅した。
剛拳の一撃が空間ごと神気の炎を叩き壊した。乱れ狂う無数の宝剣宝刀の悉くが噛み砕かれた。その際にどれほどの致命傷を負ってもその事実ごと粉砕し───ああ最早何がなんだか分からない。
不条理そのものとしか言いようがない光景。何より恐ろしいのは、これがあくまで真なる獣の産声であり、更なる成長を果たす可能性が存在するということだ。
倒さなければならない。奴をここで殺さねば、比喩ではなく地球上の全人類が一人残らず殺し尽くされてしまうだろう。いやその前に、地球という小さな土台そのものが粉砕されてしまうだろうか。
「どっちにしろ、私達に未来はないってことね」
必死の顔で黒剣を掲げ、迫る危険の悉くを"遠ざけて"いるキーアの肩を支えながら、レミリアが呟く。
その顔に今や冷笑の類はなく、無感に近い真剣味さえ湛えて。
「運命は私の手の中にはない。全ては偶然の積み重ねたる必然が在るだけ。けれど、それでも私は……」
何かを決意したかのような声の下、キーアはそれを聞き届けるだけの余裕さえ失っていて。
「……!」
剣を握る右手の光が、一瞬だけ強くなる。
赤い光。それは彼女の瞳の色と同じくして。
想い。強く、強く抱いて。
───死にたくなんて、なかった。
───痛いのが平気なわけ、なかった。
だからこそ、自分は絶望満ちるあの場所で、尚も希望を捨てなかった彼と出会って。
ならば、ならば。
自分もそうしなくてはならないだろう。だって、ここに彼がいたならば、きっと。
『諦めない』
『君は絶対に』
『僕が助ける』
「───セイバー……ッ!」
叫ぶ。
渾身の力を込めて、万感の思いを込めて。
最早周囲の何も見えず、何も聞こえず、それでも。
それでも、胸の裡の祈りを届けるかのように。
「みんなを───あたしたちを、助けて……!」
そして。
赤い光、腕に灯って。
(流出位階それ自体じゃない。奴は未だサーヴァントの枠内に在る……付け入る隙はどこかあるはずだ)
混沌の坩堝と化した戦場の中で、誰も彼もが狂乱に陥る只中で、それでも蓮は未だに正気を保っていた。
それは彼がこの現象を知っているからであり、かつてはそうした存在であったからだ。
神域の渇望と精神力は、サーヴァントとしての矮化に伴って"そうなる前"に戻されてしまったけれど。
しかし術理を見破ることはできる。そして対抗策を思考することも。
(だがどうする? 白騎士は力押しで突破できるような存在じゃない。明確に攻略法が提示されている以上、それ以外の方策は一切が無意味だ)
一点を特化すれば他の分野が脆くなるという事象は、欠点においても同じことが言える。
触れれば死ぬという致命の弱点。シュライバーはそれに特化している以上、他の急所を持つことはない。
故に彼を倒すには、物理にしろ概念にしろ必中の存在が大前提として要求されるのだが。
(使うか……!? 今、ここで……!)
蓮はそれを一つだけ保持し、しかし必殺となる状況は未だに整っていない。
彼の右手は、そのために伸ばされようと───
そして。
あらゆる戦況を俯瞰しながら。あらゆる厄災をその目に映しながら。
一切を睥睨する王がいた。その御手は強大なる宝物の具現に費やされ、此度の戦場においては後衛に下がることを余儀なくされてはいたが。
不動の心と強靭なる胆力で以て白騎士に向き合い続けた黄金の王は、仁王立つその身を僅かに揺らし。
「準備が整った。王律鍵バヴ=イルを使用する」
───背後の空間が。
───脈打つように、鼓動して。
投下を終了します。続きはそのうち投下します
投下します
太陽が傾ぐ。
空気が一気に変わって全ての光が赤くなる。畑が黄金色に輝いてどこかでヒグラシが鳴く。
それは、いつかどこかで見たはずの、あの日の記憶の風景。
「何故、世界を救いたいか……ですか?」
あの日、あの夕暮れ。座り込んだ土の冷たさ、仄かに灯る一番星。
夕陽を背にした少女は、黄金の光に染められいっそ幻想的なまでの姿になって、訥々と言葉を返す。
「私にはもう、叶えるべき"願い"なんて、ないのですよ」
アイの一番大切な人は、ようやく巡り合えた父親だった。
「その願いは、お父様と一緒に埋葬しました」
アイの一番大切な願いは、父と一緒にいたいというものだった。
「お父様がそれを願いましたから。墓守の私は、人の願いを無碍にできません」
父は死者の生を願わなかった。
死後硬直の眠りの果てに起き上がった死者(かれ)。誰よりも人間を愛し、死者を憎んだ正義は己にも適用された。
それでも彼は娘のために、一晩だけ無様を晒した。
それが父───キヅナ・アスティンにとってどれほど例外的なことか、アイは知っていた。だから一番の願いは言わなかった。
ずっと一緒にいてほしいとは、言えなかった。
それでも良いと決めた。だから笑った。
笑って、彼を見送った。
「でしたらほら、もう世界を救うしかないじゃないですか」
一番大切な人のために、一番大切な願いを捨てた。
だからもう、アイには他の願いを叶える資格などありはしないのだ。
だってそうだろう。今さら自分の願いを叶えてしまったら、父の死はどうなってしまうのだ。願いを捨てたその選択はどうなってしまうのだ。
他の願いを叶えてしまったら、父への愛と捨て去った願いが"一番大切"ではないことになってしまうではないか。
他人(キヅナ)のために自分を捨てたアイは、もうその在り方をずっと貫くしかなかった。
自分を殺して他人を救って、救って、救い続けて。その果てに世界を救うしか、道は残されていなかった。
「私は世界を救います。その"夢"だけは、絶対に譲りません」
アイは自分の中の父への愛を嘘にしたくないというたった一つの想いのために、自分が救われる可能性を、自分の中から捨て去ったのだ。
アイ・アスティン。人の死に寄り添う墓守の少女。願いを失って夢(のろい)を受け取った世界の守り人。
彼女は、アイは───
もう決して、本当の意味で、未来永劫、救われることはないのだ。
▼ ▼ ▼
瞬間、だった。
瞬間、全てに裁定をと腕を揮うギルガメッシュの視界が、鮮血の如き赤で染まった。
何を、と思うまでもない。英雄王が裁定を下すのと全く同時に、いや"それよりも一手速くに"霊核を抉る位置へと殺到した空拳の一撃が、衝撃となって彼の全身を叩いていた。
それは二重の意味でありえないはずの光景だった。
まず第一にその攻撃が成立すること自体がおかしい。ギルガメッシュの行動はシュライバーに完璧な形で先んじており、全ての攻撃動作が完了した事実を認識していた。
シュライバーの力とは万物の先を行くもの。しかしそれは、既に結果の出てしまった事象を覆すことではない。
いくら速度を上げようとも、辿りつけるのは現在か未来だけであり、既に終わってしまった過去にはどうしても戻ることはできないのだから。
過去には戻れない。失ったものは戻らない。それは絶対の不文律であり、しかしシュライバーはその事実さえをも粉砕した。
時間軸逆行による過去への先制。
シュライバーが為した所業とはつまりそういうことであり、発動すれば必殺であるはずの英雄王の一撃を"発動するより前まで遡り無効化"したのだ。
それは誰にも追いつかせないという狂おしいまでの渇望の具現。取りこぼしてしまった過去さえも、必ず追いつきこの手で殺してみせるのだという矛盾した狂信だった。
その理屈と渇望を、英雄王は明晰なるその頭脳で以て瞬時に理解した。
故にそれはどうでもいい。想定を超えて敵が強大であったなど、戦場においては些事にも及ばぬ茶飯事である。致命傷とて何するものか、心臓を抉られようともこの身は害獣の悉くを討滅してみせるのだと滾る気勢は微塵もその熱量を減じてはいない。
だが。
何ということだろう。彼は今、呆気にとられている。
仮に心身掌握の術に長ける者がこの場にいたならば、変わらぬ無感の表情に、抑えきれない感情に揺らめく細部を見ていただろう。あり得ぬ不可思議、どのような不測が起ころうとも、例え自身の命が危機に陥ろうとも、決して揺らがぬはずであった英雄王の相貌が、今や驚愕と困惑に支配されている。
「───こふっ」
視界が真っ赤に染まっている。生温い血の感触が頬を伝って落ちていく。
殺戮の腕を伸ばしたシュライバー、噴き出る鮮血、血に染められた風景。
ああ、けれど。その血は英雄王のものではなく。
それは───
「……まあ、ね……こうなるってことくらい、最初から分かってたわ」
震える声で"彼女"が呟く。
それは失血による寒さから来るものか。それとも否応なく揺れ動いてしまう心の動きであるのか。
胸を抉られ、口の端から大量の血を流し、見えない瞳で英雄王を振り返る銀糸の少女。
英雄王を致死の攻撃から庇ったイリヤスフィールは、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
シュライバーの性質は自他相殺。触れれば砕ける身故に、敵を一人殺すたびにシュライバーもまた一つ命を失う。
だからこそ、イリヤの体を貫いたシュライバーの腕は微塵に砕けてその先に届くことはなく。
ことシュライバーに限って言えば、か細い少女の体であろうとも肉盾となるには十分だった。
代わりに、その攻撃を受けた少女の体は、今このように鮮血に染まって。
「……失せろ獣、それは貴様が触れていいものではない!」
瞬間、叩きつけられる極大の覇気と共に黄金の弾雨が降り注いだ。
敵皆逃がさないという意思の現れた絨毯爆撃を前にして、それでもシュライバーは悉くを回避してのけるけれど。
彼の姿は彼方へと追いやられ、残るは倒れる少女と、未だ無傷の男がひとり。
「口を開くなとは言わん。その瞳、その言葉、貴様は我の施しさえ受けるつもりはないのだろう」
「ええ……やっぱり全部お見通しね……」
ギルガメッシュの見下ろす先、倒れ伏す少女の瞼は、開いていた。
今まで開くことのなかった、瞼。
光を失ったはずの、瞳。
それが今、確かに真紅の双眸を垣間見せて。血のように赤く濡れた瞳、そこから血ではない雫をこぼれさせて。
「私、最初に言ったでしょう……? 私は未来が欲しかった……でも、それはちょっとだけ違っていたの」
殺されるためだけに生み出された命。アインツベルンの悲願という単一の目的に消費される数多のホムンクルス。
顔も姿も声も思考も何もかもが同じ彼ら彼女ら、ありもしない理想を追い求めて使い潰される意思なき人形たちの掃き溜め。
ああ、私は、きっと。
「私は、"自分"が欲しかった」
願ったのはきっとそれだけ。無意味に生まれて無関係に生きて、けれど無価値に死ぬことはしたくなかった。
誰かに求められたかった。
生きた証を残したかった。
私は、"わたし"になりたかった。
「あなた、言ったでしょう……? この世界は卵の殻、私たちはそれに囚われたヒナ鳥だって。
ずっと考えてた。ずっと、ずっと、私たちは……
偽物でしかないこの世界で……仮にも生を受けたのなら、一体何ができるんだろうって……」
「そうか。貴様、既に」
「分かってたわよ。だってあなた、ずっとそう言ってきたじゃない」
笑う。微笑む。何かを面白がるように、年相応の少女であるかのように。
「きっとね、元の私は無価値に死んでいったんだと思う。
でも、それでも、後に続くものまで価値がないとは思いたくないの」
誰が死に、誰が生きようとも。それでも世界は続いていく。
それはきっと誰もが同じで、目の前のこの男だって例外ではないのだろう。
「私が生きる意味は私が決める。けど、私が生きた意味は、私以外の誰かが決めること」
だったら。だとしたら。
「あなたを救った私は、きっと、世界を救った唯一無二の"わたし"でしょう……?」
彼なら、この黄金の英雄ならば、きっとそうするのだろうと。できるのだろうと。
確信を込めて言うイリヤに、ギルガメッシュは鉄の表情で。
「……認めよう。我は暴君ではあるが人を裁定する者でもある故に、その者の価値を計り違えることはない」
目を瞑る。それは何かを想ってか、遠い彼方を想起するが如くに呟いて。
「生道、大義である。長き生きる難苦、貴様は見事やり遂せてみせたのだ」
「ふ、ふふ……」
笑う。笑う。笑みがこぼれて止まらない。
「後悔がなかった、なんて。そんなこと言ったら嘘だけど」
現実に翻弄されながら手さぐりで選択してきた道。
こんなはずではなかったと、決して拭うことのできない後悔と未練。
自分を殺した相手を、今度は救ってしまうという矛盾。
浮かぶのはそればかりで、決して"良かった"なんて言えないけれど。
「でもせめて笑って逝くわ。私は確かに、私の物語を生きた」
宣言通りに、少女は最期までその笑みを崩すことはなく。
そして、もう二度と、動くことはなかった。
……静寂の帳が下りる。
その時になってようやく、蓄えられた膨大な力が完成を見せた。
ゲート・オブ・バビロン、展開準備完了。
シュライバーによって起こされた時間軸の変調により、未完成状態まで後退させられた奥秘が、再度の装填を見せて。
「故に、我は貴様へ語った言を違えなどしない。
滅びの刻は来た───異形十字の裁きを此処に!」
───波濤、世界を揺らして。
▼ ▼ ▼
それは、少女の祈りが起こした奇跡であったのだろうか。
戦闘は今や一方的な様相を呈していた。
彼方に閃く残影の銀光を認識した瞬間には、既に己の腕から剣が弾かれていた。
シュライバーの接近速度は既に光速を超えている。それほどの速度域に達しながら未だ致命的な重力崩壊が起きていないのは、彼自身が独自法則で編まれた一個の異界である故だろう。だがそれでもこの超速、細切れに刻まれる大地と同じくして時間と因果さえもその糸を断ち切り、何に縛られることもなく飛翔するはまさしく死そのもの。銀の流星が揺らめく夜空を一直線に貫き、巻き起こる衝撃波が周辺の空間を諸共に粉砕した。
アーサーの手から離れ、くるくると舞う騎士剣が暴風に巻き込まれ、彼方の大地へ突き刺さる。
それを認識する暇もなく───圧倒的なまでの衝撃が、彼の全身を叩いていた。
速すぎる。
銀の嵐に晒される。最早自分の身に何が起こっているのかすらはっきりと分からない。ただ、耐えた。致命となる傷だけを庇って、ひたすらに。失った左腕の傷口が更に抉られ、鮮血が迸る。顔面など腫れ上がってまともに視界を確保できない。最早立っていられること自体が奇跡であり、両の脚は機能を失ってただ嬲られるがままに舞っているから倒れていないというだけのことだ。気を抜いたら死ぬことは分かっている。アーサーは耐える。耐え続ける。
神速の凶獣の一閃は、無音だった。
交錯に光が閃き、それに何手も遅れて、轟音が衝撃と共に大気へ轟いた。
────────────
手は尽きた。剣は離れ光も斬撃も放つことなく、我が身では彼奴に追い縋ることさえできない。
膝が崩れる。思考が磨滅する。視界は黒一色に染まり、感覚は痛みすら知覚することができなくて。
それでも。
『セイバー……っ!』
───聞こえた。
自分を求める、少女の声が。
聞こえたから。
僕は、君を……
君達を……
『みんなを───あたしたちを、助けて……!』
「───ああ……ッ!」
視界が一気に開けた。
充足するものがある。それは全身を駆け巡る魔力の奔流か。
いいや違う。もっともっと純粋なものだ。
尊きものだ。眩くも輝かしい、そうした類のものだ。
それは今やアーサーの足を支える大地そのものであり、そして彼が背負うべき太陽の輝きそのものでもある。
ならば今、この瞬間、例え万象が立ち塞がろうとも!
我が身、我が決意を打ち砕くものなどありえるはずもない!
「宝具解放……! 少女の令呪に応えて出でよ、我が権能───我らが目指した理想の最果てよ!」
復元を超え生まれ変わる肉体。積層した数多の想いが、少女の祈りが、人々の想いが、等しくあり得ざる奇跡を体現させる。
発露する真名解放。其は勝利の剣にあらず。
敵を打ち砕く剣ではなく、それは人々を守る盾。
万象守護の結界なり。
遍く人を救わんとする、其の名は───!
「全て遠き理想郷(アヴァロン)!」
───光、世界を照らし出して。
▼ ▼ ▼
ずっと疑問だった。
なんで、この人は自分を傷つけたがるんだろう、と。
誰も追いつけない絶速、触れれば砕ける脆弱さ。
殺意に狂えるかつて人だった獣が何と言っているのか、それは友奈にもおおよそ察することができた。
私に触れるな。
私は負けない。
逃げたのではない、誰も追いつけなかっただけだ。
だから私は、最速の獣となろう。
何が彼をそこまで駆り立てる? 何故そうまでして他者の温もりを拒絶する?
分からない。分からない。ずっと考え続けたけれど、友奈にはそこにある真実を看破することができない。
友奈は人と繋がってきた英雄だ。
誰かのために戦って、その誰かに救われた。彼女がこれまで戦ってこれたのは偏に他者という存在あってのことで、ひとりきりじゃとても怖くて立ち向かえない。
シュライバーは違った。彼の在り方は、友奈と完全な対称だった。
他者の温もりを拒絶する。光から自ら遠ざかる。得られるものは氷のような冷たさだけで、けれど彼はそれを善しとしている。
それは、何故?
生まれながらにそうした人間だったからか───いいや違う。
先天的な精神異常ではここまでの渇望には至るまい。何某かの経験があり、それ故に接触を拒絶したからこそ異界創造の域にまで渇望を高めるに至ったのだ。
「……ああ、そっか」
ふとそこで思い至る。もしかしたら前提そのものが間違っているのではないかと。
シュライバーの真なる創造とは、彼が発狂することにより発動する。つまり正気を保っている状態の彼は"真実"の姿ではなく、ある種の欺瞞に満ちているということであり……
ならばこれすらも、本当の渇望に至る"途中"だったとしたら?
「誰かに触られて砕けるのは、触られるのが嫌だからじゃなく、自分から切り捨てているから」
自分から接触を拒絶するのは、誰からも愛されていないのではなく、愛されて尚自分がそれを拒絶しているに過ぎないと偽っているから。
彼が持つ拒絶の渇望とはすなわち、そうした現実逃避の一種なのだとしたら。
彼が真に狂乱の檻へと追いやったのは、思考や正気ではなくそうした"真実"なのだとしたら。
「その気持ちは、少しだけ分かるよ」
何故なら友奈も、現実から目を背けていたから。
マスターのためと偽って大勢の犠牲が出る現実を無視した。その果てに消えない罪を刻まれて、一度は狂気の淵へと落ちた。
同じだ。友奈は一度、この獣と全く同じ道を辿った。
故に理解できる。友奈は今、この理解し難い獣を前にある種の共感さえ抱いていた。
「あなたはきっと、悪くなかったんだと思う。少なくとも最初だけは。
あなたはひたすらに弱かっただけ。壊れて目を背けるしか選べないほどに、弱かっただけ」
それは眼前の獣だけではなく、自分自身にも向けられた言葉であり。
そして友奈の考えることが本当だったとすれば、この少年が持つ真実の渇望とは───
「私が、あなたを止めてみせる」
───慈悲、穢れた魂を引き上げて。
▼ ▼ ▼
最初から、そいつはムカつく奴だった。
見てるとどうにもイライラした。身の丈に合わない夢を語り、どう考えたって無茶苦茶な理論を振りかざし、それを疑うことなく盲信している。
その行き着く先は地獄しかなくて、それでも良いとあいつは笑って、いくら「やめろ」と叫んでも決して止まろうとはしない。
救えない馬鹿だった。
だから、蓮は彼女を見捨てることができなかった。
「クソ……が……」
既に、蓮の肉体は満身創痍を通り越していた。
何故生きているのか分からない。悪態の声が出せたというそれだけで、最早奇跡とさえ言える領域だ。
全身はボロボロで無事な部位など何一つとしてなく、食い荒らされた惨殺死体かと思えるほどの惨状の只中に、彼の体はあった。
終わりは、刻一刻と近づいていた。
限界以上の肉体の酷使と、諧謔の使用により積り重なった負債。それは確実に蓮の存在を蝕んでいる。
瞳が閉じていく―――命の栓が閉じていく―――
瞳孔が光を感知しない。静かに迫りくる死の足音、それさえ朧にしか感じ取れなかった。
四肢の感覚は途絶した。痛覚は麻痺し、激痛を通り越してとうの昔に無痛となっている。
身体が死体に戻っていくのが分かる。器が罅割れ、そこから魂が雫となって零れ落ちている。
破滅の足音だけが響く。俺の最期を読み上げるカウントダウンであるかのように。
―――もはや、握る柄の感触すら曖昧で。
―――もはや、この身に残るのは不確かな感情だけで。
「ア……イ……」
だからだろうか。何もかもを無くして、残っていたのは誓いだった。
仮に、壊れる瞬間にこそ其の者の真実が垣間見えるのだとすれば、それこそが藤井蓮という個人の本性だった。
問われる真価に、選択した答えは理想の具現。死者の願いなど意味をもたず、故に生者たる彼女の未来(さき)をと希って。
誓いがあった。繋がりがあった。夢があった。願いがあった。
ならば、さあ―――立ち上がらなければ。
生きていてほしいのだ。先を見てほしいのだ。狂った妄執ではなく、ただひとりの人間として日々を過ごしてもらいたいという、どうしようもなく我欲に穢れた願いがそこにある。
ならばこのようなところで、自分だけ眠っているわけにもいかないだろう。失ったかつての愛に謝るには、まだ早いのだと知ったのだから。
「そう、だよな……くたばるにはまだ早ぇって、あいつならきっと笑って言うんだろうな……」
脳裏に浮かんだ親友の馬鹿面に思わず笑みがこぼれて、そのやせ我慢と共に立ち上がる。
限界だ。終わりは近い。"そんなことはとっくの昔に分かっている"
死は確定している、そう決めているんだ。
決意がある、覚悟がある。決めたのならば、あとはそのために邁進するのみだろう。
自らの決断に従い、実行する。
「ここまで来たら根競べだ。俺とお前、どっちが先にくたばるかのな……!」
そうして───清廉の気配と共に詠唱(ランゲージ)が紡がれる。
異界の言語が如き声は死者の生を否定する祝詞であり、同時に凄絶なまでの自己否定の呪いだった。
同じ死者でありながら、人がましさを死人に説く矛盾。自分自身でさえも嗤いたくなる滑稽。
しかしそれが彼の宝具であり、彼にとっての現実だった。何者にも譲れない矜持、死者は死に還れという渇望。
藤井蓮は死者の生を認めない。
故に彼は、今もなお自分自身を呪い続け、その存在を否定している。
その理由は何か───語るまでもない。
「なあ、アイ」
視界の果てに収束するものが見えた。シュライバーが駆ける銀色の軌跡が縦横無尽に刻み込まれる世界の中、極大規模の魔力が激発する予兆が見える。
白濁した意識の中で、蓮は笑った。
ビシリ。ビシリ。渇いた亀裂の音が聞こえる。
罅割れていく顔で、それでも笑った。
「お前は本当にどうしようもない大馬鹿で、見ててイライラする奴だったけどさ。
それでも俺は、お前に会えて本当に良かったよ」
だから生きろ。人として。
これが自己満足だということは分かっている。それでも願わずにはいられない。
できるとも、お前ならきっと。
そんなにも人の死に心を狂わせられるお前なら、必ず前を向いて歩いて行ける。
生きろ。生きて、そして笑え。
アイ。お前は優しい子だ。
剣を抜き放つ。
鋼の刃は我が身、我が意。今こそ疾れ、見敵を殲滅せよ。
そして―――あの娘が生きる美しき世を、この手で切り拓く!
「創、造……ッ!」
───死想、遍く世界に満ち満ちて。
▼ ▼ ▼
そして、次の瞬間にいくつかのことが起きた。
少女たちの瞳には、まるでそれが奇跡にも見えた。
突如、揺らめく空を割って巨大な漆黒の十字架が墜落した。それは迅速を以て飛来し、誰にも追いつけぬはずのシュライバーを突き刺すかのように正確に白騎士ごとを貫通、凄まじい轟音を響かせながら大地へと突き立った。
間近にして威容なる巨大十字。見上げんばかりに空の彼方までを貫く果てのない黒色。
それはまるで、一幅の宗教画に描かれる世界終焉の一幕のようにも見えて。
幻想大槍───アルファ・クロス。
世界を繋ぎ止める槍。幻想すらも殺し尽くす憤怒王の一刺。それは最果てにて世界を繋ぐ聖槍と全く同じくして、独立した等身大の異界と化したシュライバーを影の如くに張り付けた。
"世界"への特効。
それは奇しくも、疑似流出位階へと押し上げることで一個の世界となったシュライバーに対し、常以上の効力を発揮する結果となる。
空間固定。事象固定。"そこから動くことを許さない"という莫大規模の概念干渉がシュライバーという一個の存在ごとを縛り付けるけれど。
「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!」
だが、それでも。
止められない。絶叫と共に自分の体を食いちぎり、空間的に固定されたはずのシュライバーは尚も追い縋る。
既に彼は四肢と胴体の8割以上を喪失し、残っているのは頭部を除けば肺と心臓とそれを覆う少量の骨肉しかない。アルファ・クロスがもたらす膨大な質量に弾かれる形で、最早肉片とさえ形容できる有り様のシュライバーが吹き飛ばされる。
吹き飛ばされながらも、その瞳に殺意の色は未だ濃く。
何という執念、何という妄念の多寡であることか。だがそれすらも。
「ギィッ!?」
末端の四肢と胴体を存在形質ごと抉り取られ、再生もできないままの襤褸屑と化したシュライバーの視界を、突如として光の粒子が覆った。
それは世界ごとを包む光の結界だった。シュライバーを閉じ込める檻のように、彼ごとを覆って隔離する封鎖結界だ。
全て遠き理想郷(アヴァロン)。それは究極の守りの銘。理に属する以上不可侵であり、世界を歪める光塵により世の理すべてを反射する。
あらゆる物理干渉、平行世界からのトランスライナー、六次元までの多次元行使すらもシャットアウトする隔絶の宝具。
それはシュライバーと、そして"残る二人"ごとを覆い、閉じ込めた。
二人。聖剣使いのツァラトゥストラと、いくら殴っても死ななかった鬱陶しい白色。
両者等しく殺意を以て認識するシュライバーは、例え彼らが何をしてこようと何も揺らがなかっただろう。それが攻撃であれ、防御であれ、闘争に直結する行動ならばそこに何の疑問を挟む余地はないからだ。
───ああ、それでも彼は見てしまった。
その頭蓋を叩き潰そうと咢を軋らせて、吹き飛ばされるままに接近したその相手。
何かを決めたような顔をした少女の姿。
そいつは、何故か、攻撃でも防御でもなく、ただ腕を広げて。
そこには何の戦術的な価値もなかった。命乞いや逃走の類ですらなかった。
それは、まるで抱きしめようとしている風にも見えた。
殺意に狂ったはずの獣は、その一瞬、確かに忘我の状態に陥った。
動きが、止まる。
「ゲェァ……!?」
「ぐ、あぁ、……ッ!」
凄まじいまでの衝撃に晒されて、シュライバーの突撃を甘んじて受けた友奈が後方へと吹き飛ばされる。何度も地面にバウンドし、大地をその身で削りながらも勢いを殺して停止する。
その胸には、四肢を失ったシュライバーが、しっかりと抱き止められていた。
───何故、何故だ。
───何故自分はこんなにも弱々しく抱き止められている。
誰よりも何よりも、困惑に囚われたのはシュライバー自身だった。世界も時間も因果律さえも縛ることのできない彼を、今まさに縛っていたのは友奈の二本の腕であった。
あり得ぬ不可思議。我が最速の肉体は誰にも触れられないはずなのに。例え捕縛を受けようとも、力づくでその拘束を解いて然るべきはずなのに。
そんな自分が、どうして───
「あなたは、自分の想いを誤魔化していた」
語られる言葉は、理性なきシュライバーの耳にさえ届いた。
「自分に触るな、自分は一人でいい……よく聞いたよ、幼稚園や小学校でボランティアしてた時も、そういう子は何人もいたから。
でもそういう子って、半分くらいは本当は誰かに甘えたい強がりな子だったんだ」
触れ合いたいけど突き放す。優しくしたいのに棘のある言葉を使ってしまう。本当は平気じゃないのに平気と強がってしまう。
───愛されたいと願ったのに、愛される必要はないと嘘を吐く。
「ずっと不思議だったんだ。触られるのが嫌なだけなら、別に避けるだけでいい。誰かを追い越すことも、触られたところを切り離すことも、本当は必要ないはずなのに。どうしてあなたはそんなことをするんだろうって」
万物を追い越す絶対先制は、自分は誰にも構われなかったのではなく誰も追いつけなかっただけと思いこむため。
触れれば砕ける脆弱性は、自分は愛されなかったのではなく自分を愛する者を自ら切り捨てただけと嘘を吐くため。
そう、シュライバーの本当の渇望とは。
「抱きしめられたい。あなたが願ったのは、多分そういうこと」
囁くような友奈の言葉に、最早シュライバーは呻くこともできずに。
ただ、ただ、見た目相応の子供のように、力なく受け入れる。
故に、この状況は合意を以て成立する。
本来ならこの展開はありえなかっただろう。周囲を認識する思考すら吹き飛んだ凶獣の瞳には、抱き止める誰かの姿すら満足に映るはずもないからだ。
けれど、彼はかつて一度だけ"認識させられた"。
すばるの放った一撃、何の意味もなかったように見えたあの一瞬。
シュライバーは確かに、すばるという他者の存在を……誰かが自分に触れたのだという事実を心に刻まれてしまった。
よって引き起こされるのは、強制協力の成立であり渇望の反転だった。
シュライバーは妖精郷(アヴァロン)にて、死世界(ニブルヘイム)から妖精界(アルフヘイム)へと渇望深度を押し上げられる。
フェンリスヴォルフの権能は半壊する。今や涙さえ流す哀れな子供と堕したシュライバーは、絶対回避の異能さえ消失していた。
抱きしめられたいと願った。愛されたいと願った。
けれど両親も周囲も何もかもがシュライバーを疎んじ、嘲笑い、誰にも愛されることはなく。
その事実を見たくなかったから、彼は誰にも触れられない絶対の孤独を体現したのに。
「なんで、ぼくは……」
───その言葉を掻き消すように、シュライバーの体内から湧き上がるものがあった。
「がッ、ギィ!?」
縫い付けられる。張り付けられる。内腑から突き出る幾本もの刃が、シュライバーの肉体を友奈へと縫い止めた。
それはナイフだ。アンティーク調の無数のナイフ、その銀色の刃。それらが一斉にシュライバーから突き出して、絶対に逃がさないとでも言うかのように動きを封じる。
狂せる獣に喰らわれて、それでも魂の一欠片を潜ませた、それは矮小な少女の小さな復讐。
殺しきることは不可能な、小さな小さな嫌がらせのような逆襲。だがそれは、一刻も早くこの場から逃れたいシュライバーにとっては致命の隙に他ならず。
「一緒に逝こう。私があなたを抱きしめるから」
慈悲そのものであり、同時に死刑宣告にも等しい友奈の言葉が告げられると同時。
シュライバーに遺された一つの瞳は、彼方において剣を振りかざす少年の姿を捉えた。
紡がれる詠唱が聞こえる。放たれる死者殺しの狂念が木霊する。
ああ、それはシュライバーにとっての最悪であり、そして蓄積された魂ごとを強制昇天させる諧謔の理に他ならず。
───世界を満たす死想の波濤と共に、シュライバーの肉体が泡のように弾け飛んだ。
「アァァアアアアアアアアァァァアアアアアァァアアアッ!!!」
「ぐ、オォ、おおおおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおッ!!」
比喩ではなく喉が張り裂ける絶叫轟く中、シュライバーはまるで浮いては弾ける無数の泡のように凄まじい速度で崩壊と再生を繰り返した。
一瞬で総体が消滅し、超級規模の再生能力により瞬時の蘇生を果たすも、一瞬の間もなく更に消滅させられる。
その繰り返し。秒間にして百か、それとも千か。生き返っては殺される死と再生の円環の中で、シュライバーは極限の苦痛を体現する悲鳴を木霊させた。
根競べと言った蓮の言葉通り、それは見るも泥臭い消耗戦だった。
世界を満たす静謐の気配の中、蓮の体は罅割れ、シュライバーは無限にも等しい再殺を繰り返される。
死想清浄・諧謔。それは死者を眠りに還す絶対的な静謐の具現。
範囲内にある全ての死者を、あらゆる特性を無視して必ず殺すという不死殺しの力。
空間的に広がるこの創造は言わずもがな回避不可能な代物だが、しかし悪戯に放ってはシュライバーに限れば回避の余地を残してしまう。
空間に間隙を空ける、射程範囲外まで一瞬で退避される、展開された理そのものを破壊される。それを為すだけの力がシュライバーにはあったし、だからこそ今の今まで蓮はこれを発動することがなかった。
けれど、今ならば。
アルファ・クロスによって存在を削られた今ならば。
アヴァロンという究極の結界が自分たちを包み込んでいる今ならば。
どこにも逃げられる場所はない。原理としてはザミエルの焦熱世界そのままに、不死であるはずの英雄は不死殺しによって敗残の淵へと追い込まれていた。
よって全ての因果はここに結実する。
叢の策が無ければ、容量を削りきれずアルファ・クロスは白騎士を捉えることがなかっただろう。
イリヤの献身が無ければ、幻想の大槍は放たれずアヴァロンの展開は間に合わなかった。
乱藤四郎がいなければ、キーアは黒の剣能を発現することはなかったはずだ。
すばるの一撃が無ければ、きっと友奈の行いは意味を為さなかった。
今は死した残影すらもが彼を縛り付けて。
そしてこの一瞬、全ての運命を手繰ったのは、奪われた少女の肩を抱く一人の吸血鬼に他ならず。
誰か一人でも欠けていたならば、きっとこの結末はあり得なかったはずだ。
この場に集った全ての者が、この獣を打倒する道を作った。
故にこれは特定一人の勝利に非ず。かつて災厄であったはずの少年は、自身を抱き止める腕ごと思念の嵐に焼き尽くされて。
「……どうして……ぼくは、ただ……」
「あいされたかった、だけなのに……」
とうの昔に手遅れと成り果てた哀絶の声は、最早誰にも届くことなく。
そしてあらゆる音が消え去った戦場で、眩いばかりの光が乱舞して───
▼ ▼ ▼
赫炎と漆黒だけが充ちる闇の空に、光が爆ぜた。
あらゆる者がその光景を見遣った。
アヴァロン───大きな光の球体がその動きを止め、まるで卵の殻が割れるようにして膨大な光を放出したのだ。
崩れ行く結界から、光が立ち昇る。黄金の粒子が空へと昇り、その輝きに照らされて辺りは満天の星空であるかのように煌めいた。
それは、奇跡のような光景だった。
アイは、ずっとその光景を見ていた。
遠くから、蚊帳の外から、ずっと見ていた。
戦いの行く末を? 確かにそれもだけど。
それ以上に、アイは蓮がどうしているのかを見たかった。
だから綺麗な光が彼らを覆ったあとも、ずっと凝視し続けた。
見守って、見守って、彼らが出てくるのを待った。
無事に帰ってくるのを待った。
そして。
「セイバーさん!」
光の結界が解除された瞬間、そこにたった一人立ち尽くす彼を見て。
アイはいてもたってもいられず、駆け出した。
それはアイにしかできないことだった。
未だ清浄の念が充ちるその場所に、立ち入れるのは彼女だけだった。
サーヴァントは死者故に。
すばるはみなとという死者を宿す故に。
キーアは第四であるがために。
純粋な生者であるアイしか、その領域に足を踏み入れることはできなかった。
そしてアイは駆け寄って、背を向けて立つ彼の姿を見上げて。
「セイバー、さん……?」
朽ち木が音を立てて傾ぐように、彼の体が力なく倒れた。
慌てて彼を抱き起して、言葉を失う。
蓮の体は、崩壊していた。
全身の至るところが罅割れて、なんでまだ人の形を保ってるんだろうって、そう思えた。
崩壊は止まらない。
諧謔の流出は止まることなく、今もなお蓮の体を蝕んでいた。無事なところがどんどん罅割れていって、罅割れたところすら更なる亀裂が刻まれて、崩れて砂になっていく。
暴走した死想の正義は、自身の存在すらも否と拒絶していた。
「だ、大丈夫ですよ。体が崩れても、私の魔力がありますから。いざとなれば令呪だって……」
嘯くアイの言葉は、どこまでも白々しかった。
どう見ても手遅れなことは、アイでも分かった。
それでも、蓮が生きる意思さえ見せてくれたなら、アイはきっと蓮を助けるのだと誓っていた。どんなに可能性が低くとも、どんなに不可能に思えても、きっと彼を助けるのだと。
だから、アイは蓮を見た。身を乗り出してその表情を覗きこんだ。そこに迷いや恐れがあることを期待して見つめていた。
あの時、夢で見たかつてのように、ただひたすらに生を尊び生きたいと叫んでいた17歳の少年を探してずっと表情を見ていた。
だから今もきっと、あーあやっちまったなぁみたいにバツの悪い顔をして、きっとまた誤魔化すみたいに顔を歪めているのだと信じていた。
その後で一緒になって笑い合える未来があるのだと、信じたかった。
蓮は、
「いや、俺はもうここまでだよ」
わらっていた。
まるで、百年も生きた老人であるかのように。
まるで、天寿を全うした人であるかのように。
その表情は、穏やかなものだった。
「……なんで、笑ってるんですか」
それは、アイにはどうすることもできない笑みだった。死には死を、生には生を、それがアイのルールだった。蓮の笑みは、アイにはどうすることもできない死の微笑みだった。
どうしようもなくそれが分かってしまったから。
もう全部終わって納得したかのような顔なんて、そんなの見たくなかったから。
「嬉しいからに決まってんだろ。お前が無事で本当に良かった」
「ぁ……」
その言葉に、アイは何を返せば良かったのだろう。
お前が無事で良かったという言葉は、つまるところ、アイのせいで彼が死んでしまうということの証明でもあった。
アイのせいで、彼は死ぬ。
彼が死ぬところを、アイはもう一度、目の当りにしなくてはならない。
父のように。笑って死んだ、あの人のように。
もう一度、アイは───
「あ、ぁあ、ぁ……」
絶望が、アイの心を支配した。
藤井蓮は死ぬ。
その現実は、最初から分かりきっていたことだった。
藤井蓮は死ぬ。
それは変えることのできない事実。
藤井蓮は死ぬ。
ハンプニー・ハンバートのように。埋めることしかできなかった父のように。
藤井蓮は死ぬ。
それは鎌倉の街を訪れたその時から決まっていた、宣言通りのラストシーン
アイ・アスティンに、
藤井蓮を、救うことは───
「あああああああああああああああああああああああ!!」
アイは叫んだ。体が泡となって消えてしまいそうだった。心が消え、想いが消え、肉体さえも消えていくような喪失感が全身を叩いていた。
「セイバーさん!」
全ての視線が集まっていた。誰も彼も、全ての者がアイを見ていた。
藤井蓮も。
アイを見ていた。
「セイバーさん!」
「……なんだよ」
「セイバーさん! セイバーさん! セイバーさん!」
「だから、なんだっていうんだよ、アイ・アスティン」
名前を呼んだ。あなたはまだここにいるのだということを確かめたくて、必死で叫んだ。
「いかないでください!」
そうして、アイの腕の赤い光が一つ消えた。
現実は何も変わらなかった。
「死なないでください! もう、やめてください!」
また一つ光が消える。現実は変わらない。
「どうして! どうしてあなたはそんなのなんですか! どうしてそんなにボロボロになって、自分のエゴを優先させるんですか!」
変わらない。アイ・アスティンに藤井蓮は救えない。
「何が死者の生を認めないですか! 何が渇望ですか、信念ですか! そんなの自分勝手な"夢"でしかないじゃないですか!
そんな下らないことより、私は……!」
最後の光が、アイの腕に輝く。
「私と一緒に、いてくださいよ」
それでも、現実は何も変わらなかった。
蓮はただ、少しだけ驚いたような顔をして。
「悪いな」
たったそれだけを言った。
「けどまあ、俺の役割はここで終いだ。どうせ力不足だったのを無理やり誤魔化してただけだしな。あとはアーサー王についていけばいい。
ここまで脱落が進行すれば、まあ、万能の願望器は無理でもお前らの帰還くらいはリソースが残るだろうさ」
「違います! そういう話をしてるんじゃありません!」
叫ぶ。あらん限りの力を込めて。
「事前に言ってくれたら良かったんです! そうすればもっと違う道もあって、あなたは……!」
「違う。これしかなかった。こうでもしなけりゃ、俺達は全員死んでいた」
素気無く否定される。当たり前だった。自分でも信じていない言葉で、他人を説得できるはずがない。
「だったら! 結局私は邪魔者だったんですか!? 私を守るためにあなたは傷ついて、それで最期はこんなことに……」
「お前、まだそんなことを考えていたのか」
蓮は笑う。それは末期の笑みであり、アイにそれを変えることはできない。
「さっきお前も言ってたろ。これは単に俺のエゴだ。だからお前は何も気にするな。
全部俺の自業自得で、馬鹿な男が勝手に一人で死ぬってだけの話だよ」
「セイバーさん……」
なんて不器用な人なんだろう、と思った。
もう消えてしまうのに、なんでまだこんなことを言ってるんだろうって。
今、ものすごく、酷い言葉が浮かんでしまった。
全部ひとりで抱え込もうとして。
───違う。
人に頼ろうとか考えようともしないくせに。
───違う、そうじゃない。
人恋しいだとか、誰かの温もりを求めて。
───私の言いたいことは。
馬鹿じゃないのか、そんなんだからあなたは。
───この人に言ってやりたいのはそんな残酷な言葉じゃない。
そんなんだからずっと。
───もっと救いのある……
ずっと、ひとりきりなんじゃないの?
「あのですね、セイバーさん」
アイは、まるで泣きつくかのように。
「あなたはもう、ひとりぼっちじゃないんですよ!」
それは。
どのような思いで、叫ばれたものだったのか。
蓮には一瞬だけ理解することができなかった。次いで、もしかして手向けの言葉だったりするのだろうかと思い当たり、思わず笑ってしまった。
死者の笑みではない。純粋に面白おかしな笑みだった。
「そっか。俺はひとりじゃないのか」
「そうですよ……私はずっと、あなたと"二人"でここまで来ました。
セイバーさんは、そう思いませんか……?」
さあ……どうだっただろうか。
擦れ違いばかりだった気もするし、分かり合えたことだってあるように思う。
ただ、大切だったことだけは間違いない。あの瞬間に感じていた俺たちの想いは、確かに一つで、本物だった。
「俺には、さ。本当は一つだけ願い事があったんだ」
ぽつり、と。
滔々と呟きを漏らす。それは蓮が心情の最奥を吐露した、恐らくはアイが初めて見る光景だった。
「死にたいって最初に言ったのは本当だ。聖杯に託すようなものなんてないし、そこに群がるサーヴァントが気に入らないってのも本当だ。けどさ」
彼はまるで、眠りの淵で夢を見ているかのように、呟く。
「そんなことよりも、俺は、お前を助けたかったんだ。
神なんてものになろうとする、お前を」
聖杯の破壊も。
敵性サーヴァントの殲滅も。
巻き込まれた無辜の人間の救出も。
あるいは、アイの持つ夢そのものも。
そんなことよりも何よりも、藤井蓮という個人は最初から、アイ・アスティンただひとりを救うために行動していた。
「……なんですかそれ。そんなの」
最初から分かっていた。
ずっとずっと、アイは"そうなんじゃないか"って思い続けていた。
けれど確信はなくて、尋ねる勇気もなくて、それに世界を救う自分が救われるわけにはいかないからと、そう思っていたから。
「そんなの、他人事じゃないですか。あなたにとって、私は関係ない赤の他人なんですよ……
なのに、なんで……」
「だけど、俺にとっては他人事じゃないんだ。自分勝手な言い分だけどな」
思い出すのはかつての自分。運命に抗い、修羅に抗い、神と成り果ててかの者らを討った記憶。
「俺は確かにそうなった。神になって、それを受け入れた。だけど、それはあくまで結果としてそうなったってだけだ」
かつて相対した黒円卓、その魔人共。彼らの中には自ら力を求めて人を止めた者がそれこそ掃いて捨てるほどいた。たまさか授かった運命とやらを、嬉々として受け入れる者もいた。
だが、少なくとも"俺はそうではなかった"。
「足掻きも、抗いも、憎悪だってしたさ。運命を受け入れたなんて言えば聞こえはいいけど、要は敗北したってだけの話だ」
聖遺物の使徒、神格、ゲットーを破壊する新たな理。それらはつまり、人以外の物に成り果て、人であるということの責務を放棄した負け犬の総称だ。
俺もそうなった。なってしまった。不可抗力だとか、必要なことだったとか、言い訳をしようと思えばいくらだってできるけれど。
それでもこれは、ある一側面から見れば疑いようもなく、俺が負けたのだというただそれだけのことなのだろう。
「俺は、世界を救うお前を……都合のいい神さまになろうとするお前を止めることで、そんなふざけた運命とやらに一矢報いたかっただけなのかもしれないな」
ただ、過ちで始まってしまった物語を。
かつて辿ってしまったふざけた運命を。
この手で破壊するが―――"神さま"など何処にもいないのだと証明することこそが。
もしかしたら、自分の抱いた夢なのではないのかと。
「酷い、ですよ……」
アイの答えは、嗚咽混じりのもので。
「やっぱりあなたは酷い人です。もうあなたは消えてしまうのに、今さらそんなことを言うなんて……
私に"みんな"を救うな、なんて。それがあなたの救いだなんて……」
かつて彼が言ったことを、唐突に思い出す。
『だったら、お前が誰かを助けたいってのと同じように、お前を助けたい誰かがいたらどうするんだよ』
それはアイの抱える矛盾だった。どうしても両立できない背反だった。その現実が今、目の前に叩きつけられていた。
彼が言っていた、アイを助けたい誰かとは。
他ならぬ彼自身だったのだと、今さらになってようやく思い至ることができたから。
「でも、いいです。私はみんなを助けます。だから今この瞬間、あなたを助けることに迷いはありません」
「……そっか」
そして、蓮は瞼を閉じた。
浄化の祈りが充ちる、二人だけしかいない世界の中で。
今にも消えゆく運命を、思って。
「……なあアイ。お前が"そう"言ってくれるなら、もう一つだけ願い事を言ってもいいよな」
「はい、なんでしょう」
そう言って、泣き笑うかのように覗き込んでくるアイの顔を見て、蓮は思う。
アイの夢を、その矛盾を。それが今まさに致命的な破綻を起こしていることを。
かつてアイは言った。私と一緒にいてくれと。蓮はこう返した。お前が夢を諦めるまで一緒にいると。
その帰結を、今まさに蓮は目の当りにしていた。嬉しく思うと同時に、哀れにも思えた。二律背反の感情は止め処なく、そうと決めていたはずなのに自分が消えてしまうことが惜しくなってしまう。
だからこそ。願わくば、この喪失が彼女にとって人として歩めるきっかけになりますように。
でも、できるだけ重荷にはなりませんようにと。
そう願って。
「一緒にいてくれ。俺が消える、その瞬間まで」
そう言った、蓮の手を。
「勿論です。ずっとずっと、私はここにいます」
罅割れた手を、慈しむように握る。
ぽたり、ぽたりと落ちる熱い雫。それはアイの頬を伝って。
「だって墓守は、死者(あなた)の安寧を祈りモノなのですから」
泣き腫らした顔で、それでもぎこちなく表情を形作ってみせる。
───それは。
───果たして、笑顔になっただろうか。
投下を終了します。続きはそのうち投下します
投下します
伸ばした手はきっと、あの蒼天へ届くだろう。
▼ ▼ ▼
「……ここまで、ね」
寂静の空に、物憂げな呟きが響き、溶けていった。
広々と開け放たれた天は寒々しく、無機質な星の光だけを暗闇に湛えているのだった。
特異点の主たるシュライバーが崩壊し、外界とを隔てていた空間の揺らぎが解除された今、外の世界は凄惨たる有り様を露わにしていた。
元より再三の破壊に晒された都市ではあった。しかし今や鎌倉の街は、最早そこに人の営みがあったなどと到底信じられないほどに、壊れ、罅割れ、崩壊していた。
黒く変色した異形の砂漠めいた大地が、ただどこまでも広がっている。
周囲一帯、あるいは千里の向こうまで同じ景色が続いているのではないかと思えるほどの無謬。地面には人工物の残骸はおろか、生物の死骸の一欠片すら見当たらない。
ただただ単調に、黒い土石が敷き詰められた光景が、世界の果てまでも広がっているかのよう。砂塵の舞う微かな音すら聞こえない。ここでは既に風すら死んでいるらしい。
「元より我が身に未来はなく、元より世界に希望はなく。
辿る運命さえ予め確定されたものであるならば、それこそを崩すのが私の報復だと考えていたけれど」
崩れてしまった世界と同じように。
語る少女の体もまた、砂像が崩れるように形を失っていく。
先の一瞬、全ての因果が結実した瞬間。
それら全てを手繰ったのは、この幼い少女だった。
アルファ・クロスの墜落、アヴァロンの展開、結城友奈の献身に死想清浄の顕現。
かの流れは綱渡りの危うさで進行していた。どれか一つが少しでもタイミングをずらしていたならその時点で全ては破綻していただろう。
そして、シュライバーが持つ絶対回避の権能すらも。
あらゆる罪業を避ける絶対の運命に守られた白騎士を、ただ一瞬だけ"条理に引き戻して"やったのも。
それが故に巨大十字の一撃はシュライバーの身を貫き、以て殲滅の幕引きとなった根源こそが、この少女だった。
───あるいは。
───そうした諸々がこの場に集った運命全て、この少女による手引きなのかもしれないが。
「でも慣れないことをするもんじゃないわね。ちょっと無理をするだけでこれだもの。
ま、操り人形の死人にしては良くやったほうかしら」
「ランサー……」
息も絶え絶えで、虚ろな目をした少女が、声の主を見上げる。
その視線に、ランサーと呼ばれた少女はバツの悪そうな苦笑を浮かべた。
ランサー───レミリア・スカーレットの体を崩すもの。それは単純な過負荷だ。
因果を捻じ曲げる域の超級宝具、剥き出しの異界法則、神霊級のサーヴァント。それら事象にかかる運命を、例え一瞬であったとて操った事実は、矮小な吸血鬼であるレミリアの存在を隅から隅まで蹂躙した。
こうなることは最初から分かっていた。分かった上で、躊躇いなく実行した。
これはその結果に過ぎない。
「なんて顔してるの」
だから、自分を見つめる少女の顔を見て、レミリアは思わず笑ってしまった。
少女は目元に雫を溜めて。今にも溢れ出してしまいそうで。
自分なんかにそんな表情をする必要なんてないじゃない、と。それが少しだけ可笑しかったのだけど。
「……死んでしまったわ。レンも、ブレイバーも、妖精みたいな女の子も。
あたしには何もできなかった……この剣を引き抜いても、何も……」
「そうね。多くの人間が死んでいった。こんなにも近くで。あなたはそれが悲しいのね」
藤井蓮に結城友奈、それはキーアの仲間だったサーヴァントの名だ。
イリヤスフィールもまた一時とはいえ戦いを共にした者であるし、言わずもがなレミリアだってそうだろう。
あるいは、叢や乱といった人間にさえも、彼女は悲哀を抱いているのかもしれない。
とはいえ。
「バカねぇ」
この場合、度を越えた自罰主義としか言いようがない。
それはある種の優しさの証かもしれないが、過ぎれば自分を蝕む毒でしかない。
「こういう時は、半分を取りこぼしたのではなく半分を守り抜けたと考えなさいな。
胸を張りなさい。あなたは間違いなく、私達の勝利の一翼を担ったんですもの。
ねえ? 金ぴかの王様」
「愚問を言うな。しかしな、我はこの娘が抱く傲慢をいたく気に入っているぞ?
視界に入る全てを手に入れんとするその欲望、結構ではないか。その身は所詮造花ではあるが、しかし相応の愛で方というものもある」
あーはいはい、と手を払う。その間にも、レミリアの体は砂のように崩れ落ちていって。
「今回は私たちの勝利───でもきっと、それさえあいつらにとっては計画の内。
聖杯戦争の進行そのものが目的なら、何がどう転ぼうと奴らに損はないのだもの。
だから」
そこで一旦、言葉を切って。
「気を付けなさい。そして心を強く持ちなさい。
自分の世界を強く信じて、胸の誓いを確かにすれば、きっと地獄でも踏破できる」
「ランサー、なんで、そんなことを……」
会ったばかりの自分のために、なんでそこまで気をかけてくれるのかと。
そう問うたキーアに、レミリアは静かに微笑んで。
「私が"私"であれたのが、あなたのおかげだからよ」
そんなことを、言った。
「《奪われた者》として私は蘇らされた。けれどね、こうして確かな自我を維持できたのは、私と呼応した原初の四人があなただったから。
四人の中で、あなただけが尊くも輝かしいものを持ち続けた。だからこそ、私は心の何もかもを凌辱されずに済んだ」
狂気に堕ちた大公爵は、糸鬼のセイバーを狂気に陥れた。
反転した少年王は、勇者だったはずのアーチャーさえもオルタナティブとして創り変えた。
過去に縋る無限再生者は、その思念の多くを西方の魔女へと影響させた。
しかし、この少女は。
第四の《奪われた者》である、この少女だけは。
「だからいきなさい。その善良さを失わずに、その気高さも優しさもそのままに。謂れなき悪意に負けることなく。
私の為せた全ての事は、あなたのそうした強さが導いたのだから」
言葉と共に、柔らかな微笑を浮かべて。
そのまま、レミリア・スカーレットは形を失い、砂となって風に散った。
最後の最期まで恐れを抱くことなく。小さな少女に思いを託して。
◆
瞼を閉じればすぐにでも、英霊たちの最期の姿が浮かび上がる。
セイバー、死を想った少年は、遂には怨敵たる大悪を下し果てた。
ブレイバー、かつてランサーだった勇者の少女は最期まで死の運命に諦めることはなかった。
キャスター、盲打ちの奇術師は事態の行く末を左右するに足る情報をアーサーへ遺した。
辰宮百合香は、己が身を賭して我が剣に未来を託してくれた。
彼らは、皆。それぞれの願いを秘めながら。
一様にして。願いを捨てて、尊きもののために死したのではないか。
断言はできない。鋭き直感もそこまでは見通せない。だがそれでも、聖杯という虚像を打ち砕き無辜の少女らを明日へ帰そうとする意思に迷いはなく。
「ブレイバーは……友奈さんは、決して許されないことをしました」
隣に立つ少女があった。今やアヴァロンの顕現により傷の悉くを治癒させて、弾かれた聖剣を手にしたアーサーの隣に並び立つ、幼い少女の姿。
少女、すばるは空色の目を細めて。灰色の空、遠き日の記憶を思うかのように。
「きっとそれは事実です。でも、友奈さんがみんなのために戦ってくれたことも本当なんだと思います。ですから、セイバーさん」
すばるの瞳がアーサーへと向けられる。
そこには翳りの類は皆無であり、ただ真っ直ぐなものが湛えられていた。
「友奈さんは勇者になれたんでしょうか。みんなのために、誰かのために戦える、そんな暖かい人に」
「なれたさ。彼女は最初から、優しい少女だった」
アーサーは数多の英雄を知っている。円卓に誇る壮麗な騎士たち、ブリテンに抗し戦った敵国の英雄たち。遥か東の都市で邂逅した六人の英霊。そして、今生における多くのサーヴァントたち。
その誰もが輝きを有していた。譲れぬものを、誇りを、優しさを、そのいずれかあるいは全て。彼らは皆一様に輝かしいものを胸に宿して。
幾年を経ても色褪せることのない心、運命、業……いいや、いいや違う。
それを"愛"と人は呼ぶのだろう。
ならば、その定義に彼女を当てはめるとするならば。
「結城友奈は勇者である。例えどのような反証があろうとも、それでも僕はそう叫ぼう。心からの敬意を以て、僕は彼女を一角の英雄であると保証する」
それを聞いて、すばるは安心するかのように笑った。ふにゃり、と聞こえてきそうなほどに表情を崩して、アーサーに笑いかける。
「良かったです。ほんのちょっとだけ安心しました。友奈さんも多分……ううん、きっと喜んでくれると思います」
「僕の言葉程度がその一助になれるというなら、僕のほうこそ嬉しい。そして」
佇まいを正す。幼い少女に語りかける年長者としてではなく、それは守るべき民へと向かい合う騎士のように。
「彼女と、そして藤井蓮が命をかけて守った君達を、これより僕は全霊を以て守護しよう。それこそが彼と彼女に贈ることのできる最大の手向けだ。安心してほしい、例え天届く巨竜顕れようとも、我が剣に敗北に二字はない」
「……うん、うん。ありがとうございます」
すばるは気恥ずかしげに頷いて、それからちょっと俯いた。
気まずさのない沈黙が、二人の間に降りた。
…………。
…………。
…………。
「あ、ごめんなさい。ちょっとアイちゃんの様子を見てきます」
「アイの?」
数十秒か、あるいは数分か。その後に放たれた言葉に、アーサーが怪訝に思う。
「はい。アイちゃん、ちょっと様子がおかしいっていうか、よく分からないんですけど……」
「いや、確かにそうか」
当たり前の話だ。彼女は自分のサーヴァントを失っている。彼女たちの間にどのような絆があったのか、アーサーには窺い知ることはできないが、それ如何によっては嘆き悲しみもするだろう。
特に彼女は幼い。別離の喪失に涙一つなく耐えろというのは酷だろう。
「いえ、違うんです。悲しんでる、というよりは……」
すばるは何と言っていいものか迷って、そしてこう結論付けた。
「離れようとしないんです。セイバーさんの消えた、あの場所から」
▼ ▼ ▼
───本当に?
▼ ▼ ▼
そこはまるで、墓場のような場所だった。
何もかもが崩壊した都市の中で、ほぼ唯一の瓦礫が残っている場所だ。
雑多な石榑はまるで墓標のようにも見えて。そんなこじんまりとした墓の前で、アイはぽつんと座り込んでいる。
「ねえ、セイバーさん」
全身を脱力させて、呆然とへたり込んで。
いじけたような態度のまま、アイは呟く。
「きっと、あなたは最期に怒っていたんでしょうね。あなたを救おうとしなかった、私のことを」
あの時。
笑っていた蓮を見た瞬間、アイは思った。ただ一人、蓮を見ながら思った。
いかないでほしい。
死なないでほしい。
生きていてほしい。
そう思って、強く願って───三画の令呪までをも使用した。
連れ帰りたいと、願ってしまった。
死者を、蘇らせようとした。
「私は、あなたを、救わなかった」
救えなかったのではない。
救わなかったのだ。
アイは蓮を救えたはずだった。蓮にとっての救いとは死であるのだから、それを肯定し笑顔で見送ってやればそれで良かった。
だが、アイはそうしなかった。
アイは世界を救えなかった。情に負けて、絆されて、藤井蓮を救わなかった。味方だから、大切な人だから、救わなかった。
"みんな"を救うはずのアイは、そのみんなを分けて、例外を作ってしまった。救う相手を区別してしまった。
それは、アイが抱いた夢に対する、最悪の裏切りだった。
「それでも、私は……生きてて欲しかったんです。ずっとずっと、あなたに……
それは、いけないことだったんでしょうか……?」
身を焼くような言葉と共に、アイはとうとう力尽きて顔を俯かせた。それでも、現実は容赦なくアイの心を抉った。
それが蓮の狙いだった。
彼は、アイの夢を壊すために行動していた。
仮にこの場に藤井蓮がいたならば、きっと怒りも恨みも何もなく、ただアイを哀れんで隣に座っていただろう。自分がそうしたくせに、自分でそう誘導したくせに、それでもアイを哀れんで一緒にいたはずだ。
けれど彼はもういない。
アイが夢を裏切ってまで生き返らせようとした少年は、もう、どこにもいない。
後に残ったのは、夢の残骸だけだ。
それしか、アイには遺されていなかった。
生きていて欲しかった。
死者であっても、信念に背こうとも、それでも生きてて欲しかった。
それは、ハンプニー・ハンバートの時も同じことを思ったはずだ。
だったら。
『だったら、お前は最初から間違っていれば良かったんだ』
声が聞こえる。
声が聞こえる。
それは決して現実ではなく、アイの心から出る幻聴でしかない。
だが、それでも、アイを責める声は確かに聞こえた。
『最初から間違っていれば良かったんだ』
「……」
『ハンプニー・ハンバートを救ったりなんか、しなけりゃ良かったんだ』
「……」
『最初からちゃんと間違えて、父親を救ったりなんかせず、二人で幸せになれば良かったんだ』
「…………あ、ああ……あ……」
最早、言葉も無かった。
夢を壊され、
父への愛の証明までを壊され、
世界を救う化け物だったはずの少女は、今やただの小娘であるかのように弱々しく、震えるばかりだった。
『なあ。なんでお前、今さら俺なんか助けようとしたんだよ』
答えはもう、どこにもなかった。
そして世界(レン)はアイを救(のろ)った。
【乱藤四郎@刀剣乱舞! 死亡】
【叢@閃乱カグラ 死亡】
【イリヤスフィール・フォン・アインツベルン@Fate/stay night 死亡】
【ブレイバー(結城友奈)@結城友奈は勇者である 消滅】
【バーサーカー(ウォルフガング・シュライバー)@Dies Irae 消滅】
【セイバー(藤井蓮)@Dies Irae 消滅】
【ランサー(レミリア・スカーレット)@東方project 消滅】
『C-3/更地/一日目・禍時』
【キーア@赫炎のインガノック-What a beautiful people-】
[令呪]二画
[状態]疲労(大)、精神疲労(大)、魔力消費(極大)、決意、原因不明の悲しみ、黒の剣能を発現。
[装備]乱藤四郎@刀剣乱舞
[道具]なし
[所持金]子供のお小遣い程度
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争からの脱出。
1:分かっていた。最初から、例えこの身が骸だとしても。
2:それでも、あたしは───
[備考]
黒の剣能:タタールの門を開く鍵の一つ。誰しもが持つ拒絶の顕れ。互いに傷つけ自滅し合うための道具。この剣のような争いの道具を捨てられないが故に、人はシャルノスを求める。
【セイバー(アーサー・ペンドラゴン)@Fate/Prototype 蒼銀のフラグメンツ】
[状態]疲労(極大)、魔力消費(極大)
[装備]風王結界
[道具]なし
[所持金]なし
[思考・状況]
基本行動方針:キーアを聖杯戦争より脱出させる。
0:この状況は、最早……
1:キャスターの言を信じ成すべきことを成す。
[備考]
衛宮士郎、アサシン(アカメ)を確認。その能力を大凡知りました。
キャスター(壇狩摩)から何かを聞きました。
傾城反魂香にはかかっていません。
セイバー(藤井蓮)と情報を共有しました。
アヴァロンの展開により外傷が完治しました。以降アヴァロンの再使用は令呪の行使により可能となります。
【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日】
[令呪] 全画喪失
[状態] 疲労(大)、精神疲労(極大)、魔力消費(極大)、呆然自失、精神崩壊寸前。
[装備] 銀製ショベル
[道具] 現代服(収納済み)
[所持金] 寂しい(他主従から奪った分はほとんど使用済み)
[思考・状況]
基本行動方針:────────────。
0:……セイバーさん。
1:"みんな"を助けたかった───本当に?
2:生き残り、絶対に夢を叶える───ただ自分が救われたかっただけだろう。
3:ゆきさんは……───もういない。お前は徒に時間を浪費した。
4:キーア、すばるとは仲良くしたい。それだけは本当のはずなのだ───きっと、お前がお前であるならの話だけど。
[備考]
その手は決して伸ばされない。少なくとも、今のままでは。
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(極大)、魔力消費(大)、神経負荷(極小)、《奇械》憑き
[装備] ドライブシャフト
[道具] 折り紙の星
[所持金] 子どものお小遣い程度。
[思考・状況]
基本行動方針: 聖杯戦争から脱出し、みんなのもとへ“彼”と一緒に帰る。
1:生きることを諦めない。
2:わたしたちは、青空を目指す。
[備考]
C-2/廃校の校庭で起こった戦闘をほとんど確認できていません。
D-2/廃植物園の存在を確認しました。
ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
ブレイバー(結城友奈)と再契約しました。
奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
?????
詳細不明。
【ギルガメッシュ@Fate/Prototype】
[状態]魔力消費(極大)、単独行動。
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争を勝ち抜き、自分こそが最強の英霊であることを示す。全ては人の意思の証明のために。
0:時は来た。
1:赤薔薇王との盟により、明日ある者らへの裁定を下す。
2:世界を救うべきは誰か、己も含め真贋を見極める。
[備考]
投下を終了します
投下乙
いよいよ大詰めか…
たった一日でこれか…………………。恐ろしいな
番外編投下します
「───さて」
男は言った。
それは、黒衣を纏った男だった。
影の如き姿であるが、生気を感じさせない枯れ木の如き気配でもある。
奇妙な人物。
気配と服装は彼をそう思わせる。
彼は決して自らの名を口にすることはない。
見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに奇妙な男であった。
文字通りの影にして水銀。
それがこの男の今の名だ。
すなわち、今や男はその名を失っている。
その身はサーヴァントそのものなるが、しかし聖杯戦争に関与する権利は剥奪された。
故に、彼は《水銀の影》とだけ呼称される。
───もっとも。
───彼を呼ぶ者など多くはあるまい。
例えば、
漆黒の玉座に座す西方の魔なる少女であるとか。
階段を昇りつづける救済者たる少年であるとか。
不用意にその名を呼んではいけない。
命が惜しければ。
彼の嘲笑の奥を想像してはいけない。
命が惜しければ。
永劫の時を繰り返すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。
既に輝きを失った黄金螺旋の最奥。王の夢の残滓が眠る暗闇の幽閉の間。
影の如くに佇む彼と、もうひとりの"誰か"がそこにいた。
軍帽を目深に被り、奥より知性の結晶たるレンズの輝きが見える。
将兵にも見える若い男は、射抜くような視線だけを水銀の影に投げかけている。
「では、私はここに宣言するだろう」
───偉大なる聖戦の開始と。
───愚かなる願いの終焉を。
───そして、大いなる正午への到達を。
「実存なりしはこの世にただひとつ、黄金たる意思の顕れ」
「すなわち、神なる白色さえ塗り潰すオルゴンの輝き」
「されど、黄金の獣の威光をも凌ぐものが、
欺瞞と醜悪に堕した都市に降り立つのであろうや」
男の声には蔑みが含まれている。
対する何者かは無言。
「成る程」
「そういうこともあるだろうが、そうでないこともあるのだろう」
「では、皆さまどうか彼女の歌劇をご観覧あれ」
「───全ては、ここから始まるのだ」
▼ ▼ ▼
そして異形の都は終局を迎える。
希望、諦観、妄念、決意、黄金、人の想いが螺旋となって都を包み込む。
そして今、生き残ったのは僅かに5人。
一人は変わらぬ希望を抱き、
一人は救済に夢を壊され、
一人は己が真実に向き合い、
一人は騎士の誓いを胸に、
一人はただ未来だけを見据えている。
果たして誰がその螺旋を抜け出すのか、あるいは全て等しく振り落とされるのか。
最も強き者が螺旋を抜け出すとは限らない。
最も飢えた者が螺旋を抜け出すとは限らない。
最も気高き者が螺旋を抜け出すとは限らない。
多くの人は、自分が螺旋に囚われていることにさえ気づかないのだから。
しかし、気づかずとも螺旋の中を突き進み、如何な困難を前にしても歩みを止めないのであれば、
果てに少女らを待つものは、ありとあらゆる想いを見下ろす螺旋の玉座に他ならない。
その玉座こそ、人が生きるに値するものの筈だ。
これは幕間の物語。
セピア色に彩られた、現実ならぬ心象の物語。
悠然と浮かぶ五つの憶録が語る、束の間の真実である。
◆
【鋼鉄の腕】
───都市すべての狂気とは。
聖杯戦争のため都市に誘われた者のすべて。
マスターもサーヴァントも死したる者も本戦に勝ち残った者も一切の区別なく、
老人も幼子も常人も魔術師も、皆すべて。
すべての聖杯戦争参加者には、ある一点において共通したものがある。
意識の大小は当然あるけれど。
彼らのすべては、あることを自覚している。
すべての聖杯戦争参加者が共通して自覚するもの。
それは、自己の狂気である。
子供でさえもが幾らかの自覚があるのだ。自分の狂気について。
誘われたすべての人々が、
一度はこう思考するのだ。
───自分は、自分ではないんじゃないか、と。
誰もがそれを口にしない。
周囲の誰にも、闘争を生き抜くパートナーにさえ。
口を閉ざして話さない。多くの場合はそのまま忘れてしまう。
気にしなければいいだけの話。益体もない、あり得ない仮定の話など。
だが。
それを明確に意識してしまった時。
人は───
◆
【星渡りの少女】
「わたしは、自分が恵まれているんだと自覚している」
「鈍くさくて、口下手で、体育も勉強もできなくて。自分に自信なんて持てない」
「そんなわたしが生き残ってこれたのは、周りにいたみんなのおかげだ」
「東郷さん。素敵で綺麗な、まるでお姉ちゃんみたいだった人。
最後の最期までわたしを守ってくれて。二回目もそうしてくれたって、友奈さんに聞いたよ」
「友奈さん。何かを間違えてしまった、けどそれでも諦めなかった人。
あなたの勇気をわたしは忘れません。きっと、あなたは本当の勇者だったんだって、そう信じてる」
「おばさん。わたしを店に住まわせてくれたあなた。
ありがとう、そしてごめんなさい。結局わたしは、恩返しどころかあなたを助けることもできずに……」
「セイバーさん。アイちゃんを守って死んでしまったあなた。
ぶっきらぼうだったけど、あなたがずっとアイちゃんを案じていたことは、何となく分かりました。それでもわたしたちのことも助けてくれて、ありがとう」
「キーアちゃん、アイちゃん。わたしと同じ、巻き込まれてしまった女の子。
キーアちゃんみたいに、わたしもお淑やかで芯の強い子でありたかった。
アイちゃんみたいに、わたしも確かな夢を持って、それを諦めない子でありたかった」
「みなとくん。もう会えないと思っていたあなた。
死んでしまって、お別れをして、それでもわたしの傍にいてくれた。
本当にありがとう。こんなに情けないわたしで、ごめんなさい。
今まできちんと言ったことがなかったけど、あなたのことが大好きです」
「他にもいっぱい、いっぱい。
騎士さんにゆきちゃんに金ぴかさんに赤い目の女の子に、他にもわたしの知らない場所で戦っていた誰かだって」
「みんながいなかったら、きっとわたしはとっくに死んでいた」
「ありがとう」
「……ごめんなさい」
◆
【赫眼の少女】
「自分が"そういうもの"であることを、あたしは自覚している」
「視界の端で踊る道化師。あたしたちをこうした根源。
そこから逃れることは、決してできないはずなのだから」
「こうしてあたしが外の世界にいること。
本当は、それ自体があり得ないこと」
「それでもいいと、思っていた」
「あの人に伝えたいという願いは、きっと元のあたしが叶えてくれる」
「そして、もう一つの願いは……」
「あたしは、青空を見たかった」
「それは絶対に叶わないと思っていたから。
この街にやってきて、それが叶って」
「だから、それでもいいと、あたしは思っていた」
「そのはずなのに……」
「……ああ。
……視界の端で誰かが笑っている」
「その時が来たのだと、叫んで……
時計のような、影のような、誰かが嗤う」
「あたしたちをこうした誰か。
グリム=グリムではないはずなのに、すべての人たちの耳元で囁く影」
「綺麗だけど恐ろしい赤い瞳で……嗤い続ける」
「そして、告げるの。
すべての人々に」
「……あらゆる願いを」
「……あきらめてしまえ、と」
◆
【騎士王】
「多くの戦いがあった。多くの死を見た。
この都市に、僕達以外で生き残っている者はいないだろう」
「……あくまで、僕の"直感"を信じるならばの話だけど」
「皮肉なことだ。
かつてはあれだけ求め焦れた聖杯が、今や手を伸ばせば届きそうなところまで来てしまった」
「最早僕には聖杯に託す願いはなく、キーアと無辜の幼子を帰すことができればそれでいいと思っていた」
「……そのために出してしまった犠牲は、数限りがない」
「この都市に暮らす人々を、僕は守ることができなかった」
「リソースが残るならばあるいは、と、そう考えることもあったけれど」
「聖杯が叶えられる願いは条理の内に限られる。あれはあくまで過程を無視するだけのものであり、決して不可能なことを実現できるわけではない」
「死者の蘇生は叶わない。そしてきっと、仮にできたとしても、それはやってはいけないことなのだろう」
「……亡国の救済を願った僕に言える義理はないが」
「それでも、今、僕は僕にできることを成し遂げよう」
「アーチャー。英雄王、ギルガメッシュ」
「主を失った彼に、最早戦う力はない───などと思うことはない」
「今や僕達の間に戦う理由はない、などと気を抜くことも許されない」
「彼は紛うことなき強敵であるし、そして何より」
「事と次第によっては、彼は僕達全員を殺しに来るだろう」
「直感ではなく確信と共に、僕はそう断言することができる」
「願わくば、例えこの身潰えようとも。
幼き少女らの歩む道を、切り拓かれんことを」
◆
【墓守だった少女】
「……分からないんです」
「分かんない、んですよ……
もうぜんぜん、何もかも、分かんなく、なっちゃったんです」
「ちょっと前までは、分からなくても出来ていたことが、できなくなっちゃったんです。
私だけに見えていた夢が、無くなっちゃったんです……」
「私にはもう何も見えません。
私の胸にあった炎が……あの丘で誓った瞬間から、確かに燃えていたはずの火が、最初から無かったみたいに見えないんです」
「……ねえ、セイバーさん。
あなたは、私に、何を望んでいたんですか?」
「もう何も見えない。聞こえない。
あなたの声を、私はどうあったって聞くことができないから」
「だからせめて、あなたには怒っていて欲しい」
「最後にあなたを救わなかった、私を恨んでいて欲しい」
「こんなに酷いことをした私を、裏切った私を、あなたに嘘を吐いて振り回した、それどころかとても許されないことをした娘だと、そう思っていてほしい」
「ずっと忘れないでいて欲しい」
「そして、あなたはきっと許してくれるだろうと確信してこんなことを言っているひどい私を、それでも許して欲しい」
「……ねえ、セイバーさん」
「こんなことを思ってしまう自分が、自分でもよく分かんないんです」
「失敗、してしまったからでしょうか」
「今更、あなたを助けたいなんて願ったからでしょうか」
「でもですね、セイバーさん。最初から間違っていれば良かったんだって、理屈の上で理解することはできるんです」
「でも、だとしたら……」
「今まで私がやってきた全ては、夢のために行ってきた全ては、
ぜんぶぜんぶ、無駄なことだったんでしょうか」
「そこに意味は、なかったんでしょうか」
「……それさえ、今の私には分からないんです」
◆
【英雄王】
「……はッ」
「生意気にも、我が心理領域に足を踏み入れるか」
「夢見の亜種か。随分と酔狂なものだ」
「失せろよ新鋭。貴様、仮にも《英雄》の属性を背負って立つならば相応の礼儀を心得よ」
「……だが、そうだな。ただ一つだけ答えてやるとすれば」
「そう急くこともあるまいて。貴様の出番はすぐそこだ」
「なあ、第二の盧生とやら」
◆
END
▼ ▼ ▼
我が愛しき英雄たちよ。
たとえ桃源の理想郷があなたたちを惑わそうとも。
たとえ悪しき神が顕れようとも。
尊きものは
決して消えぬ。
あなたたちのうちのひとりでも構わない。
世界を、どうか───
◆
「───少女たちよ」
男は言う。
光差さぬ場所だった。
其処は、紛うことなき暗黒によってのみ形作られていた。
そこは世界の最果て。無謬の白き石榑だけが敷き詰められた永劫不変の地。
すなわち、万能の願望器が眠る場所。それは未だ中天より地に降り立つことなく、揺籃の夢に微睡んでいる。これこそが彼の都市にて行われる聖杯戦争の中心となる存在であるというが、暗がりの底に立つ男にとっては異なる意味を持っていた。
決して、是が聖なる杯であるものか。
人類史に刻まれながらもサーヴァントとして呼び出された英霊たちの血───数多の強大な魂を受けて稼働し、真に尊き唯一の願いを呼び水として奇跡を行使するモノの正体を、既に、男は見抜いていた。悪しき神に啓示を受けたわけでない。それはかつて、彼がやり残した役割の一つであるのだから。
聖杯。聖なる杯。奇跡を以て遍く人を救い給う万能の願望器。
皮肉な話だ。目を閉じ眠り続ける仙王を指して、救済の奇跡たる聖杯などと!
故に、男はやってきた。
彼は今や、自らの立場を変えはしない。在りし日の残影に過ぎぬと理解しているからこそ、遺された唯一を違えることはない。
自分が何をすべきか、何を奉ずるべきか、男は明確に自己の依って立つべき場所を規定していた。
「数多の英霊が失われ、数多の涙が流された」
聖杯の名を冠する獣の脈動を前にしながら、男は───厳密には廃神として形作られたる身である、かつて黄昏の守護者であった残骸は、静かに瞑目する。
多くが是の糧として捧げられた。
そして、今、聖杯ならざる地獄の大釜は最期に祈られる願いを以て地上に降り立とうとしている。
「墓守であった少女よ。お前を守り抜いた刹那ならざる我が身は死した」
藤井蓮がこの光景を見たならば、すぐさまにでもその宝具の神秘を露わにしただろう。
だが、既に彼はいない。
残された少女は残骸の墓の上で咽び泣くのみ。最早、何の力もありはしない。
「《勇者》となった少女よ。お前の掲げた勇気は、果たして何かに届き得たのか」
世界を救った勇者たちであれば、やはり、全てを捨ててでも偽りの聖杯に立ち向かっただろう。
だが、既に彼女らも死した。
主人たる星渡りの少女は可能性存在たるエンブリオを宿してはいるものの、真実は遥か遠く。
「赫眼宿す第四の《奪われた者》よ。お前の願いは未だ果たされない」
尊き願いを持つはずの彼女ですら、既に黄金瞳の少女を覚えてはいまい。
彼女は消え失せた。そしてその従僕であった赤薔薇王も同じく。彼らもまた、既にこの世にはいない。
遺された少女はただ一人、漆黒の茨に苛まれてその身を削るのみ。
英雄たちは死した。
残されたのは少女の涙ばかり。
最早、この異形なる都市は呪わしくも恐ろしき運命を待つばかり。
「……未だ」
───世界を救わんとする真なりし英雄、未だ。
───此処へは至らず。
───ただ、世界を喰らう獣の脈動が暗黒を揺らすばかり。
「けれど」
暗黒の底で、男は顔を上げる。
鮮血に濡れたが如き朱き視線は、黒色に染め上げられた空間に消えゆくばかりだが。その果てには、多くの人々が営みを続ける世界の姿があった。
太陽の代わりに、月の代わりに、黒だけが占める中天に浮かぶ青き真円の世界。
今や痴れた陶酔の煙に包まれてはいるが、それでも青き清浄の世界は面影を残している。
其処にはいるのだろうか。
未だ、絶望の果てたる此処に至らずとも?
「彼は、彼女たちは、往くのだろう」
───いるのだ。
いると信じている。
第六天に非ざる世界ならば、奉ずべき輝きも、きっと。
男は言う。何らかの願いを込めて。
朱き髪と朱き眼を暗がりに浮かばせ、漆黒の肌を湛える男は、遥か遠き月面の地上にて。
「邪悪のすべてを振りほどき、尊き願いを携えて、きっと、この最果ての地へ」
男は言う。ひとつの思いを込めて。
「───世界を、救うために」
投下を終了します
全員予約して投下します。wiki収録の際には前後編に分けます
「聖杯戦争の趨勢は決した」
どこか遠い場所を見通すかのような瞳を湛えて、英雄王はあらん限りの侮蔑と慙愧を込めて吐き捨てた。
侮蔑。醜悪に堕した世界と人々、そしてそれに踊らされた英霊たちへの。
慙愧。最初からそれを分かっていながら、しかし予め定められた通りにしか動けなかった自らへの。
全てが規定事項だったとは言わない。聖杯戦争に際する闘争とその結果に関しては、戦った者たちの力と覚悟が為したものであり、あるいは英雄王ですら命を落としていた可能性は充分に存在する。
故にその侮蔑は、本来我が眼前に立つ騎士王に向けるべきではないということも、十分に承知している。
此処に立つは二人だけ。最期に遺された対の英霊、二騎。
少女たちは既にこの場にいない。彼らのみで語ることがあると、安全圏に退避させてある。故にここにはいないし、声も聞こえない。
尤も、どこにいようと変わり映えのする世界ではなくなってしまったのだが。
荒廃した大地。
抉れ、消滅し、窪んだ地面。
見渡す限りに続いている。風は吹かない。砂埃すら、空中には見当たらず。
遺されたものはあまりに少ない。
アーサーとギルガメッシュと、そして生き延びた少女たちを除けば、死体が僅かに二つだけ。
未だ幼い少女と少年のものだ。それ以外の全ては最初から無かったかのように消え失せていた。
最凶が刻み付けた爪痕は周囲一帯に消えない被害を残していた。
癒えることは、恐らく永劫ないのだろう。
英雄王が、赤薔薇王が、死線の蒼が、そして盲打ちが考える通りの世界であるならば。
永劫変わらぬ世界で白痴と盲目を弾劾しようと、誰が救われるものか。
「この地に残された英霊は我と貴様のみ。どちらかの消滅を以てして、この魔術儀式は終わりを迎えるだろう」
眼前に立つ騎士王は、言葉もなくこちらを見据えていた。
彼にも分かっているのだろう。今や鎌倉の街に自分達以外の生存者が存在しないことを。
暗殺者は影すらなく、魔術師の隠匿すら残されず。
文字通りに全てが死に絶えた。生き残ったのは僅かに5人だけ。
これが聖杯戦争の結末。
これが願いを求めた者たちの末路なのだと。
「……私は聖杯の恩寵を求めるつもりはない。しかし君は、彼女らを次なるマスターとするつもりはないのか」
「はっ」
鼻で笑う。見当違いも甚だしい言説だった。
「侮るな。彼奴が道化にもなれぬ屑であったならば、あるいはその選択も一興としたであろうが」
しかし事実は異なる。
白き雪の少女は確かに生を全うした。万仙陣に廃されるまでもなく造花としての生まれではあったが、己という一存在を完結させたモノに野暮を向けるほど、彼は空気を読めない男ではない。
「それはかの少女らも同様だ。未だ世の道理も心得ぬ幼子の身であればこそ、我は思想信条の別なく現した黄金の精神をこそ寿ごう。異形なる都市の最果てに至るに必要なのは、力の強弱でもなければ理外の権能でもない。確かな己を保持し受け容れ、その上で諦めぬ意思の強さこそが肝要なれば」
故にこそ、ギルガメッシュは三人の少女たちが聖杯戦争を生き残ったその事実を認めていた。
闘争を勝ち残るに相応しいのは強者であるというのが彼の持論ではあるが、この場合は強弱の軸という前提そのものが違っているということなのだろう。
そして、その上で彼に言わせるならば。
「だが貴様は駄目だ、聖剣使い」
「……手厳しいな、アーチャー」
「否、我は最大の恩赦を貴様に与えている。この我は民を導く賢王である以前に、戦いと勇名を統べる"全ての英雄たちの王"の名を戴いているが、しかし斯様なまでに優しくも在る。何せ……」
常の笑みは翳りを見せ、透徹した無表情で見下ろし、言う。
「貴様が命在ることを許している」
「……」
アーサーは、無言。
ギルガメッシュは構うことなく続ける。
「かつての聖剣使い───そう、貴様は未だ聖剣を携えているな?
ならば貴様は聖剣使いなのだ。かつての偉業を奉ずる人類史の偶像であろうとも、万仙に投射された妄念の凝集であろうとも、それは今の貴様にとっては一側面に過ぎぬ。他の何者であるものか」
未来を現在と等価値に見通すが故の奇妙な文法で、彼は言葉を続ける。
「そのような貴様が、まさか。
そう、まさか未だに悪相の兆しにすら気づいていないとはな!」
瞬間、凪のように抑えられていたギルガメッシュの相貌より、極大の怒気が放たれる。
空間が軋む様を幻視するほど圧倒的な意思の嵐。それを前に、アーサーはただ不動の姿勢を保って。
「貴様はこの都市の何を見てきた? 何を知った?
盲打ちと言葉を交わし、赤騎士を斃し、数多の犠牲を伴ってこの時を迎えて尚、その目を盲目に閉ざしたままか。なんとも……」
最早彼は、侮蔑の感情を隠し立てることもなく。
「不甲斐ない。何だというのだそのザマは、貴様。
よもや怖気づいたか、この期に及んで聖剣の持ち腐れとは!
ならば最早足を止め妖精郷へと至るがいい! 貴様が歩みし艱難辛苦の旅、此処で終わらせてくれる!」
「……その言葉、宣戦布告と解釈する。残念ではあるが」
静かに、携えられた剣柄を握り直す。
「先にも言った通り、私は聖杯の恩寵を必要としない。しかし。
それが彼女らの、キーアたちの帰還に至る最短の道だというならば。それすら、私は迷いはしない」
「そうか───ならばどうする」
「決まっている」
すらりと剣を抜き放つ。風の魔力を纏った不可視の刃、未だ欠けることなく。
「私はお前という最後の敵を討ち果たし、我が身に託された願いを成就させる。
全ては私という愚昧な王に、それでも希望を見出した人々のために」
言葉と同時、開戦の口上すらないままに戦闘は開始された。
あるいは、それは不都合な事実から目を背けた、その結果なのかもしれない。
音速を遥か超える初速の、更には不可視なる風の波濤を、ギルガメッシュは"見てから"避けた。
ほぼ同じタイミングでアーサーは飛び込んだ。放った風王鉄槌を追う形で踏み込み、死角から接近。それを回避するタイミングで切っ先を翻し、放たれたる刃が月の光さえ透過して電撃的な速度で相手の首を狙う。
甲高い、金属音。
刃の軌道に当然の如く置かれていた手が、いとも容易く斬撃を受け止めていた。ギルガメッシュの掌は黄金に輝く金属質の手甲に覆われて、鋭い刃を全く通さない。
次瞬、肩口の空間より波紋する黄金孔から剣先が現出する。
「……っ!?」
アーサーは刃を引いた。退いて更に身を翻し、別の角度から斬り込む。
ギルガメッシュは徒手だった。その両手を緩く開いたまま、誘うように一歩を後退してアーサーを見据えている。
───剣さえ構える価値がないということか。
アーサーの体躯が視認すら難しい速度で機動する。刃を振るいギルガメッシュを追い、時には横に、時には背後に周り、標的の全ての急所を狙い致命の斬撃を雨あられと見舞う。月光の煌めきに煙る陽炎が如き揺らめきによってしか刃の存在を認識できない剣速。既に魔力放出を全身に適用させ、今のアーサーは比喩抜きの全力。一切の手加減を排し、ただ攻めて攻めて攻め続けた。
だが、その全てがギルガメッシュには当たらない。煙か幽霊に斬りつけているかのような感覚さえ覚える。刃の辿る軌道を何から何まで認識し、ギルガメッシュは紙一重の正確さで攻撃を回避し、時には蚊でも払うかのような動作で受け流す。
「おォッ!」
短く吼え、魔力を再燃。
ほぼゼロ距離から目を狙って刺突を繰り出す。ギルガメッシュはそれさえ見切り、首を傾けるだけの動作で回避。標的を外した刃が背後に流れた時には、既にアーサーは剣を翻し中空に跳躍していた。
体を旋転させて上段に振りかぶられる刃には、ありったけの運動エネルギーが乗せられている。耳を衝く大気の絶叫と共に縦一文字の一撃が放たれ、ギルガメッシュの頭に襲い掛かった。
だが、英雄王はそれさえ簡単に受けた。
またも甲高い金属音が鳴り響く。黄金鎧に包まれた左腕が刃を止めていた。アーサーの両手にビリビリとした衝撃が伝わり、
「鈍い。月さえ映さぬ曇った刃で何を斬るつもりでいる」
───!!
見えなかった。
直後、アーサーの腹部に、ギルガメッシュの右の掌打が叩き込まれていた。
火砲の直撃にも匹敵する凄まじい衝撃。捩じ込まれた掌底はただの一撃でアーサーを吹き飛ばし、その体を冗談のように真上に舞わせた。飛ぶアーサーの視界に回転する月が見えた。たまらずに苦悶の叫びをあげ、夜闇に虚しく溶けていく。
それだけでは終わらない。ギルガメッシュは何も動かないまま、しかし変調する空間から圧倒的なまでの物量がアーサーの身に降り注ぐ。それは全てが宝具であり、いずれの時代に名を馳せた名剣名刀の数々。辛うじて不可視剣で致命の数打を弾くことに成功するも、その衝撃は何一つ容赦することなくアーサーの体を直下の地面へと叩きつけた。
「……か……ッ!」
ただの二撃で、アーサーが受けられるダメージの許容量を超えた。
威力自体はさほどでもないはずだ。これまで彼が戦ってきた数多の敵、炎熱の赤騎士や暴嵐の白騎士などは、これとは比較にならない凄まじいまでの破壊を成してきたし、その悉くをアーサーは乗り越えてきた。
だが違う。これはそういうものではない。必要最低限の威力によって確実に敵を仕留めるという技の極致。無差別な破壊の嵐ではない、人の手による人体破壊の技術だ。
倒れたアーサーの思考を無数の痛覚が襲った。ギルガメッシュは倒れ伏すアーサーに歩み寄り、眉一つ動かさないまま黙って見下ろす。
「……諧謔神のほうが、よほど優れた剣筋をしていた」
そして語られるのは、彼が出会った英霊との比較、そして隠すことのないアーサーへの失望だった。
「赤薔薇王のほうが流麗だ」
類稀なる意思力と覚悟のもとに振るわれた剣は、英雄王をして美しいと思わせるものだった。
「勇者に比べてその決意は軽い」
死地より舞い戻った勇者の少女。彼女はごく普通の子供であり、故にその復活に際する勇気の程は計り知れない。
「第一盧生の人間賛歌には程遠い」
奉ずべきものを見誤ったその姿、とてもじゃないが彼の掲げる理想にはまるで届かない。
「読めすぎる。盲目的だな。その程度の太刀筋では掠ってもやれん」
「何、を……ッ!」
「その目はなんだ。憎しみか? それとも万仙に施された人格付与機能によるお仕着せの敵意か?
それすら、永遠に赤い幼き月のほうがよほど苛烈であった」
こちらを見下ろす視線には、一点の揺らぎもない。アーサーは砕けんばかりに歯を噛みしめ、極大の戦意を眼前の彼に向けていた。四肢はいくつもの刀剣によって縫い付けられ、動かすこと叶わない。握る騎士剣はその感覚さえ覚束ず、的確な攻撃による痛覚は脳髄を駆け巡って止まらない。
それでも、戦いを止めるという選択はアーサーには存在しなかった。
「立て。その無様さは癪に障る」
次瞬、爆轟する空間が無数の刃によって埋め尽くされた。
莫大な光量の中から後退するようにアーサーの姿が飛び出す。寸でのところで魔力を解放、束縛を排し難を逃れたのだ。しかしギルガメッシュはそれさえ読んでいたのか、飛来する剣群はただ一つの例外もなく退避したアーサーへと殺到、その視界を覆い隠す。
刃と刃が衝突する金属音が間断なく響き渡った。機関銃めいて連続する刃の嵐を光剣一つで弾き出し、しかし跳ね返し切れず徐々に後ろへ押しやられる。その様を、ギルガメッシュはただ無感の表情で見つめていた。
「怠惰が此処に極まったな。盲目の生贄とは言い得て妙か。まさしく何も見えていない」
「何を、言っている……!」
「貴様の在り方の問題だ。善良なるものを善しとし悪逆なるものを糾する、それが貴様だ。ああ、確かにそれは騎士として理想の有り様であろうな。誰もが子供心に貴様のような者を夢見るだろう。今もまた、な。悪と私欲を滅する王道、確かにそれも悪くはない」
清廉潔白、滅私奉公。弱きを助け強きを挫く非の打ちどころのない高潔漢。
英雄王は、そうした騎士王の在り方を正確に見抜いているし、根本的に否定しているわけでもない。民を統べる王政としてそれもまた善し哉と、己に及ばずとも道の一つとして肯定さえしている。
英雄として誇り高き気質を持つギルガメッシュは、故に勇者に対しては真摯な態度を以て臨む。己が最強であるという自負に微塵の疑いも持ってはいないが、その事実を以て他者を軽んじる真似を彼はしない。
「だがそれすら、自覚と予見が無ければただの片道燃料だ。断崖に受け走っているとも知らぬまま、狂喜して回転率を上げ続ける道化に過ぎん。都合が良い、万仙を拡大させる痴れ者としてはこれ以上の逸材はあるまい」
言葉と同時、密度と勢いを増す剣群に遂にはアーサーの身が弾かれ、更に後方への退避を余儀なくされる。
堪えきれずに膝をつき、荒れる息で英雄王を見上げる彼は、ただ戦意に霞む視線を向けるのみ。
「貴様は言ったな。貴様の主……あの幼子を帰す、と。
守る、生かす、傷つけさせない。耳心地の良い戯言だな。中身のない、薄紙のような美辞麗句だ」
「詭弁だな。薄かろうが軽かろうが、お前を倒すに手を抜く理由にはならない」
「あくまで盲信を貫くか。ならば貴様の言葉の真意はどこにある? その庇護の念はどこから湧き出た?
お仕着せの騎士道が故か、生前果たせなかった王道の代償行為か。あるいは今さら貫く信念も意地もないために、"そうしたほうが楽だったから"か?」
言い終わるよりも先んじて、アーサーの肉体が残影と消える。
それは超速の疾走であり、完成された剣理の結実でもあった。
振りかぶられる剣撃は熟達を通り越して理外の領域にあり、故にこれを受けられる者など居はしない。
尤も。
「言ったであろう。その怒りすら、今は軽薄に過ぎるのだと」
「……ッ!?」
騎士王と同等以上の技量を持つ彼ならば、話は違ってくる。
超越の剣を当然であるかのように受け止めて、軋む金属音すら意に介さずギルガメッシュは語る。動かされたのは僅かに右手一つ、それ以外には重心も踏込も移動は為されず、閉じられた瞼は視線の一つも騎士王に向けてはいない。
「軽いのだ。貴様の言葉の悉く、他者に依存した脆弱な理念しか感じられん」
次瞬、アーサーの首筋を衝撃が打ち貫く。その正体がギルガメッシュの放った掌底であるという事実に気付いた時には、既にアーサーの体は地に打ち付けられた後だった。
「自分の言葉(エゴ)を吐いてみせろ。
聖杯を否定して尚も戦い、満天下に掲げるべき想いがあるというならば証明しろ。それすら、万仙陣の支配を越えられないというならば」
ギルガメッシュが歩み寄り、アーサーを見下ろす。
いいや、それは本当に彼を見据えていたのだろうか。
ギルガメッシュは此処ではない、どこか遠くを睨むかのようにして、叫ぶ。
「その時は是非もなし。第四盧生、並びに悪逆なりしチクタクマンよ。例え現世界の総てを地獄に変えようとも、この英雄王が貴様らを斃してくれよう!」
「何処を見、誰に物を言っている……!」
虚勢を吐き、全身に力を込める。激痛に苛まれる四肢をみしりと軋ませ、無理やりに立ち上がろうとした。
勝ち目は、恐らくゼロに近い。だがそんなことは問題ではない。
己が死ねば、少女らも死ぬ。
厳然たる事実として、それを噛みしめるが故に倒れない。
「お前の言葉の多くを、恐らく私は理解できていないのだろう」
事実だ。アーサーは今この瞬間に至るまで、彼の語る言葉の意味を咀嚼できていない。
感じるものは、ある。取っ掛かりとして疑念に思うことも、また。
例えば盲打ちが語った真実の一端。そこから導き出された鎌倉という街に巣食う違和感の形。
誰もが痴れていた。己の見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じる盲目白痴の衆愚たち。
その歪さをアーサーは知っている。決して軽んじてなどいない。
しかし。
「それでも。お前がその手を我が主の血で汚そうと言うならば」
けれど、けれど。
これはそれ以前の話なのだ。
現実として少女らを殺そうとする脅威が目の前にあり、言葉で止まらぬと分かっている以上、真っ先に打つべき手など決まっている。
これはそれだけの話であり、故にアーサーは止まらない。
否、止まれない。
「何度でも……何度でも!
私はこの剣を揮うだけだ、我が誓いを果たすまで!」
「ならば何故、貴様はこの程度を前に屈している。
貴様は───」
その時、初めてギルガメッシュの声音が揺れた。
それは抑えきれない感情によってか。堪えきれない憤激によってか。
"何をいつまで呆けている"と言わんばかりに、叫ぶ。
「───世界を、救った者であろう!」
そして両対の刃が共に振るわれる。
結末の見えきった最後の激突が、ここに為されようとして。
「───だめ!」
突然の事態に、アーサーは対応できなかった。
声と同時に、静止する手を振りきってこちらへ駆け出す小さな影が見えた。
ギルガメッシュの対応は迅速にして完璧だった。アッと言う間もなく一条の光が影の眼前に飛来し、それ以上の移動を阻んだ。
「───っ」
それでも彼女は諦めなかった。目の前に突き立つ剣に怯えることなく、手に握った短刀を振り上げようとする。それは初心者ですらない、構えの一つすら取れていない稚拙な動きだった。けれど様にはなっていた。戦いはおろか碌な訓練も受けたことのない少女としては上出来な、涙ぐましい抵抗。
だが、次元が違い過ぎる。
虚空から伸びた鎖が旋風のように動く。流体めいた動きの鎖は手の短刀を叩き落とし、即座に少女の足を払う。
「あっ!」
少女の体が宙に泳ぎ、乾いた地面に顔から落ちた。
「キーアちゃん!」
ぺしゃ、と倒れ伏すキーアに、一拍遅れてすばるの悲痛な叫びが届く。
ここに至り、ギルガメッシュはアーサーから目を離してそちらを向く。飛び出した少女が一人、地面に倒れている。月光が彼女を照らす。更にその背後には、彼女を止めようと手を伸ばし、しかし間に合わなかったすばるの姿が見える。
キーアの体が動いた。取り落とした短刀を右手で必死に探し、上体をもたもたと起こし、下半身に必死に力を入れようとする。
だが、それを新たな刃が止めた。
飛来する剣が再度地面に突き刺さり、鋭利な刃が容赦なく突きつけられる。
「立てば殺す」
空気が凍る。
無様に這いつくばる少女に、ギルガメッシュは厳然と宣言した。
これより先、なおも自らに立ち向かおうとするならば、以降は敵として対処する。ギルガメッシュはそう言っているのだ。あくまで分け隔てのない、冷然とした視線が少女に向けられた。
びくりとキーアが震える。立ち上がろうとした足から力が抜ける。
「……っく、ぁ、っはぁ、はあ……っ!」
肩を大きく上下さえ喘ぐ。俯いたままの顔から、血が数滴落ちた。顔面を強打して鼻から血が出ているのだと分かる。
それを見下ろしながら、ギルガメッシュが呟く。
「《奪われた者》の小娘か。そういえばこの男のマスターであったな。しかし今この場に飛び出すのは感心せんぞ」
キーアのことをギルガメッシュは知っている。
表層的に、ということではなく、彼女の真実さえも見抜いている。
キーアの体が震えている。心臓が激しく脈打っていることが分かる。
「……ぃ、バー、に」
うわごとのように、キーア。
「セイバーに、何をするつもりなの」
ギルガメッシュの目が細まる。
キーアのような小娘なら、その視線の圧力だけで心臓が竦み上がる思いだろう。ぶるぶる震える喉から掠れた声が漏れた。
ギルガメッシュは試すような視線をキーアに注いだ。
「闘争において勝敗が決した時、行われるものなど決まっていよう。
すなわち、敗者は死ぬ」
「……っ!」
キーアの背に、何かの決意が湧いた。
アーサーを含めた全員が、それを呆然としたまま見つめていた。
「許さない、わ」
やめろ。
危険だ。
意味がない。
膝を屈したままのアーサーは頭の中で幾度もそう叫んだ。だが思考はダメージによる激痛のハレーションばかりが埋め、最早まともに働かない。ここで動けばキーアは即座に蜂の巣にされるだろうし、それより速くに敵手を打倒できるだけの力はアーサーにはない。あまりにも無力なアーサーは、英雄王と少女の対峙をただ見ているしかできない。
キーアの両手が、持ち上がる。
ギルガメッシュは眉一つ動かすことなくそれを見つめている。
小さな手が、今この瞬間だけは恐怖を忘れて、我が身を阻む刃を掴み取った。
薄汚れた顔がぱっと上げられる。したたかに地面にぶつけた顔は赤くなって、鼻血も出ている。鋭利な刃を掴む手からは鮮血が流れ、刀身を伝う。ギルガメッシュが少しでもその意思を込めれば、少女の細い手は容易く両断されてしまうだろう。
その全てが、今のキーアにはどうでもいいことだった。
ただキーアは、真っ直ぐにギルガメッシュを睨みつけた。
「その人にひどいことをしたら……あたしが、貴方を許さないわ」
力の差など、今の彼女に考えられるわけがない。ただアーサーを放っておけないと、それだけで頭が一杯なキーアの双眸は、その奥に強い意思の光があった。単純な戦いの力ではない、説明のつかない不思議な凄味があった。
強い、曲がったところのない視線が、ギルガメッシュただ一人に焦点を結ぶ。切れ切れに放たれた言葉は弱々しい姿とは裏腹に、一言一句を確かめるかのようにはっきりと発音された。
ギルガメッシュはその瞳を身じろぎせず受け止め、そして見返した。
アーサーは彼の赤い双眸に、ある種の熱があることを感じ取った。それは自分との闘いでは発せられなかった、しかし最後の最期に一瞬だけ垣間見えたものだと分かる。赫眼の中に灯る小さな火、彼はアーサーには見出さなかった何かをキーアに見て取ったのだと、理屈ではない直感でそう悟る。
彼は最早アーサーのことなど一瞥もくれなかった。英雄王の瞳は、その赫に敬意と憧憬めいた色さえ込めて、真っ直ぐに少女を射た。
それはきっと、同じ立場であればアーサーとて同じ視線を送ったであろう。
だがしかし、しかし。
奴はそこに何を見た? アーサーのような、善良をこそ良しとする精神性故では断じてあるまい。あれに事の善悪や道理など意味を為さないと知っている。ならば何を、奴は少女の行動に見たのか。
「───良いだろう」
不意に、地に突き立った剣が粒子状に解ける。
掴み取られた魔力の一つ一つから、ひたと据えられた視線から、そして明確な意思を持って放たれた言葉から、ギルガメッシュはキーアの何事かを理解したようだった。赫い瞳はしばし彼女を見つめ、そして場の全員を見渡した。すなわち、アーサーとすばるさえも。
「己が領分さえ超えた願いに手を伸ばすその所業、愚か極まるが悪くはない。
小娘の願いに免じてこの場を収めるとしよう。我としても、このような決着は不本意なのでな」
【何度でも剣を揮う、だと? 今の貴様が思い上がったものだな】
少女への発声とアーサーへの念話が同時に放たれる。自分の頭にだけ響く冷たい声に、アーサーは自然と顔を固まらせた。
「お前、は……!」
【この小娘のほうがよほど見込みがある。無様を晒す今の貴様に黄金螺旋階段を昇る資格などあるまい。
全く、何故よりにもよって貴様のような愚昧が最期に残ってしまったのか】
あるいは他の誰かであったならば、と隠すことのない失望を向ける。
ギルガメッシュは全員に目を向けた。右から左へゆっくりと顔を動かし、三人全員を見た。
「だが肝に命じておけ。この都市における決着は、我か貴様らの死を以てのみ為されるという事実を。
己の真実を知った上で、己の在り方を決めねばならない。それすらできぬ蒙昧は、生きることさえ許されない」
くるりと背を向け、歩き出す。この場で為すべきことは総て終わったと言うかのように。
そして、背中越しに鋭い声が飛ぶ。
「忘れるな。その未来は決して覆らない」
そして黄金の男は、夜闇に溶けて消えるように、その姿を消した。
焼けた地面に膝をつくアーサーに、キーアが、そして数瞬の間を置いてすばるが駆け寄ってくる。少女らは何事かを叫んで、自分だって怪我をしているだろうに、それに全く頓着せずに。だがその叫びはアーサーの頭に全く入ってこなかった。アーサーは、泣きそうな顔の上に広がる夜空を、何も言わずに見据えていた。
最後の瞬間、ギルガメッシュはこう言った。
【思考しろ。死した貴様が尚も生きて、その上で戦わんとするのは何故だ。
貴様自身の"願い"とは、なんだ】
▼ ▼ ▼
───記憶。
それは私の記憶。彼方の記憶。
あの、新緑の瑞々しさが広がる、月の銀光が照らすガーデンの夜。
そこには二つの影があった。未だ幼い少女と、男の姿だ。彼は幼い時分に養父がしてくれたように腰を屈め、視線の高さを少女に合わせて、何かを語り合っていた。
間違いなく夜中であったのに、まるで朝焼けの輝きを見るかのような錯覚があったと、今になって思う。
「騎士さん、お名前は何というの?」
「僕は……」
その時、自分は逡巡したのだろう。しかし迷いはいらなかった。必要はないし、告げるべきだと魂の何処かで何かが叫んでいた。
「アーサーが僕の名だ。御嬢さん、きみの名前を尋ねても?」
「わたし、沙条綾香」
ああ、知っている。良い名だとも思う。
その想いは今でも変わらない。きっと遥かな未来世までも変わることはないだろう。
「それから、ここはガーデンね」
気恥ずかしそうに、綾香は周囲の緑の木々を指し示す。
まるで我が事のように。
「あのね、わたし、ガーデンってお勉強をする場所だと思ってたんだけど……本当は違ったの。お父さんが教えてくれて……」
「隠された秘密があるのかい?」
「うん」
頷いたものの、そのまま綾香は俯いてしまう。
辛抱強く待機する。一秒、二秒。
五秒が過ぎた頃、ようやく顔を上げて。やはりどこか照れたように。
「ガーデンは、わたしなの」
何らかの理由で同一視しているのだろう。そう思いかけた刹那。
「───お母さんが遺してくれたものだから、どっちも同じなの」
風が吹いていた。
硝子戸を閉めているにも関わらず、それは間違いなく吹き抜けたのだ。
アーサー・ペンドラゴンの肉体と精神にそっと触れながら。
それは───
優しさと、尊ぶべき暖かさと、輝きに満ちた言葉だった。
子のために遺された緑の園。
子のためにと紡がれた想い。
"愛"なるものと、人に呼ばれる思いの形。
▼ ▼ ▼
───欠けた夢を見たような気がした。
それは、彼が己の在り方を決めた瞬間の光景だった。
「……」
ギルガメッシュという脅威が去り幾ばくか。アーサーは損害を癒すため、暫しの休息を余儀なくされていた。
魔力を循環させ治癒と効率化を図り、消費される魔力の低減にも努める。その間は動けないため頭は思考の海に浸かり、無言の時を過ごしていた。
そうして目を開いた時、アーサーは何か奇妙なものを見た。
「あ……」
小さく声を上げて、硬直してこちらを見る少女の姿。
つい今しがた来たのだろう。様子見にと思ったのか、しかし目覚めたところにバッタリ出くわすとは思わなかったのだろう。「あ」と「う」の中間みたいな声を漏らして、アイ・アスティンは曖昧な表情を浮かべていた。
「あ、その、えっと……」
要領を得ない声。
見れば、胸元に当てられた手には何かを携えている。これは……
「携帯食料か」
「……あ、はい」
ぽつりと、それだけを辛うじて返される。
覇気が欠片も感じられない、沈んだ声音だった。
「セイバーさんが……レンさんが用意してくれたものなんです。いざって時もあるだろうから、最低限の備えはしておけって」
「そうか、彼が」
言われ、藤井蓮の姿を思い出す。
揺れることなき真っ直ぐな瞳。己が命題を見定めていたであろう迷いなき姿勢。それはかつてアーサーが得た解答によって定めた姿と同じであり、ならばこそ願いもまた同一であった。
すなわち、生者の存命。
死者たる我が身を礎とし、少女たちの明日を切り拓くこと。
その想いの果てに彼は消え去り、そして自分は。
自分は、未だ仮初の生に縋り、惨めを晒し続けている。
「ならば、それは君が食べるといい。戦いはもう終わるけれど、体の調子を整えておくに越したことはないから」
「……」
言った途端にアイは顔を背け、俯かせて。何かを言い淀んでいるような、そんな気配を纏って。
そして。
「……よかったら、これ、いかがですか?」
手の中のものを差し出した。
「……アイ、それは」
訝しげな目つきをしてしまったのだろうか。
自分の顔を見たアイはびくりと立ち竦んでいた。
「それは、君のものだ」
「分かってますよ」
「君のために用意されたものだ。それを、何故僕に?」
「……食欲がないので。それと、少しでも魔力の足しになってくれたら、と」
ああ、と納得するものがあった。サーヴァントは食事の必要こそないが、摂食である程度魔力を回復することができる。
無論、誤差でしかない微量なものでしかないが。
アイの言葉には、一応の理屈が通っていた。
「そうか。けど遠慮しておくよ、それはやはり君が持っているといい」
「……そうですか」
それだけを言って、黙り込む。
アイは俯き、地面だけが見える視界の中、座り込んだアーサーのつま先を視界の端に捉えていた。
何も考えていなかった。
何も感じていなかった。
食欲だけでなく、あらゆる欲望が消えてしまったような感覚を、アイは覚えていた。
「……あの、セイバーさん。先ほどは申し訳ありませんでした。
結局最後まで何も気づかずに……」
「ああ」
アイの言わんとしていることは、アーサーにも分かった。
先ほどの顛末、ギルガメッシュとの戦闘とも呼べない諍いの時、アイはその事実にすら気づくことなく、藤井蓮の消えた場所に居続けた。
彼女はそれを引け目に感じていたのだろうか。とはいえ、場所を離して「そのように」したのはアーサーだし、そもそもすばるとキーアがあの場にやってきてしまったこと自体がアーサーにとっては不測の事態であったのだ。だからアイが罪悪感を覚える必要はない。
「気にすることはないさ。君は、ただ君たちが無事であることに努めてくれたらそれでいい」
「そういうことでは、ないんです……」
しかし。
アイが言ってるのは、ほんの少しだけ意味合いが異なっていて。
「分からない、んですよ……私は、私のことが……」
アイは、絞り出すように言う。
「分からないんです……もし仮にセイバーさんが戦ってることに気付いたとして、その時私はどう動いたのか……」
「それは……」
アーサーはどう答えていいか分からない。
アイの瞳から涙は流れていなかった。悲しいのか悲しくないのかすら、彼女は分からなくなってしまったのだ。
「少し前までの私なら、きっと貴方を助けようと動いていたはずです。でも、今は……どうしていたのか、どうしたいのかすら、全然、分からなく、なってしまったんです」
他者を救うこと。それはアイにとっての存在意義と同義だった。
少なくとも、以前までは。
自分の身など度外視して動いていたであろうことは、彼女と付き合いの浅いアーサーでも良く分かる。だが今はそれすら分からないのだと、小さな少女は涙なき無感の顔で嘆いていた。
「ちょっと前までは、分からなくても出来ていたことが、出来なくなってしまったんです……
私だけに見えていた夢が、なくなってしまったんです……」
声は、いつの間にか嗚咽の響きを湛えていた。
それでも、涙は出なかった。
「ねえ、セイバーさん。ここに、何がありますか?」
アイは両手の掌を重ね、アーサーの前に差し出す。
「……何も。僕には、見えない」
「ええ、そうですね。なんにもないですね……でも私には、私にだけはここに、なにかが見えていたんです。炎のように確かなものが、ここにあったはずなんです……」
父を埋めたその瞬間から、あの丘で誓ったその瞬間から、確かに燃えていた火が、そこにはあったはずなのに。
「でも、それも、私にはもう見えません……最初から無かったみたいに……もう見えないんです……」
アイはゆっくりと両手を握り、まるで心臓を戻すかのように胸に埋めた。
「キーアさんもすばるさんも、みなさんとても優しかったです。何も言わずに笑いかけてくれて、慰めもしてくれて……
みんな私の決断を待ってくれているのに、私はそれすら出来ないんです……」
アイは俯く。それでも涙はこぼれない。代わりに、言葉の数々がこぼれ落ちて二人の間に転がった。
「ごめんなさい……私、自分のことばっかりですね。本当は、ここにはセイバーさんの助けになれることがあるんじゃないかって、そう思って来たのに。それさえ私は……」
「アイ」
アーサーは、努めて穏やかな口調で。
「見えるとも」
「え?」
「僕にも、見える」
アーサーはアイの掌を指し示して。
「そこに、君の炎が燃えているのが、僕にも見えるよ」
「そう、でしょうか……」
アイには血と傷と欺瞞に塗れた心臓しか見えなかった。
「ああ。君には見えないかもしれないけど、今の話を聞いて分かった。君の心はまだ燃えている。ただ少しだけ見えづらいだけさ」
「……そう……でしょうか……」
アイの声音は変わらず、それでもアーサーは自信を持って言う。
「そうだとも。何故なら、君は藤井蓮の願いを叶えようとしている」
「え……?」
思いもよらなかった、と言わんばかりに、アイの目が見開かれた。
「君が生き続けること、それが彼の願いだ。ならば君は、誰かの願いを叶えようとする君は、きっとまだ本当の意味で諦めてはいないのだろう」
「それは、でも……」
尚も否定しようとするアイを、アーサーは宥めるように制して。
「僕に言えるのはこれだけだ。そして、僕にできるのもここまでだ。後はキーアやすばると同じく、君を待とう。待ち続けよう。
どれだけ時間がかかっても構わない。選ばないという選択さえ許されている。そんな君の決断を、ずっと」
◆
「あ、セイバーさん」
少し進んだその先で、すばるは夜空を見上げていた視線をアーサーへと向けた。
「あの、アイちゃんはどうでしたか……?」
「ああ。きっと、彼女は大丈夫だよ」
心配げに聞いてくるすばるに、アーサーは笑みを浮かべて返す。
アイの異常に最初に気付いたのはすばるだ。
この中でより長く接してきたからであろうか、それとも天性の素質であるのか。すばるは、他者の心を慮ることに長けていた。
あるいは、自分が身を以て経験していることだから、なのかもしれない。
「けれど、やはり僕は不甲斐ないな。こういう時に気の利いた詩の一つでも紡ぐことができたなら、少しは話が違っていたのかもしれないけど」
「セイバーさん?」
「ああ、いや、こちらの話だ」
きょとんとするすばる、彼女の元いた土地と時代では、恐らく縁が薄い代物なのだろう。
「けれど、しかし」
それにしても、と思う。
「僕としては君のことも心配だ。君の事情は聞き及んでいる。サーヴァントのこともそうだが、しかし君は……」
そこでアーサーは言いよどむ。
すばるが経験した離別は、こういう言い方は好ましくないが、恐らくアイのものよりも重いものであるだろう。
最初から離別が約束されたサーヴァントは元より、彼女が失ったのは生者、それも恋焦がれた相手であったというのだから。
悲劇だ。そう言う他あるまい。それは今この時も気丈に振る舞うすばるの姿さえ、痛々しく思えてしまうほどに。
しかし。
「平気です」
すばるは気遣いや強がりの類ではなく、本心からそう言ってのけた。
「あ、えっと、本当は全然平気じゃないんですけど……
でも、セイバーさんが思ってるみたいな、すごく思いつめた人みたいなことにはなってません。だから大丈夫です」
それは、 ああそうか、と受け止めるには、あまりにも重い言葉だった。
そしてこうも思う。二度に渡ってサーヴァントを喪った彼女は、それをどう感じているのか。
己もまた、その道を歩まなければならないと考えていたがために。
「……すばる、聞かせてほしい。君は二度に渡ってサーヴァントを失った。その事実をどう受け止めているのか。
僕は戦わなければならない。決して負けることの許されぬ身であれど、勝つばかりとも限らないこの戦場において、それがもたらした結果を」
「それは……」
すばるは言葉に詰まり、表情を崩し、何かを言いかけて、そして。
「悲しい、ですよ」
ぽつり、と。
まずはそれだけを呟いた。
「悲しいです。本当に、本当に、胸が張り裂けそうなくらい悲しい……今だって泣いちゃいたいくらいつらくて、寂しくて、なんでもう会えないんだろうって。ずっとそれだけを考えちゃいそうで……」
それは、聞くまでもない当たり前の事実だった。
近しい人間に死なれて悲しまない人間など、それこそ希少種という他ないだろう。それは人間的な感情においては至極当然の心の動きであり、古今東西を問わない普遍的な情動だった。
「アーチャーさんは……東郷さんは、優しいお姉ちゃんみたいな人でした。迷ってばっかりなわたしをそれでも助けてくれて……叶えたい願いが、あったはずなのに」
語るすばるの声音は震えに満ちて。その悲しみが本物であるのだと如実に伝えてくる。
「ブレイバーは、友奈さんは、やっぱり暖かい人でした。東郷さんの大切な友達で、東郷さんと同じくらい優しい人で……わたしも、友奈さんと友達になりたかった」
当然のことなのだ。人の死に悲しむということは。
例えそれがサーヴァントであったとしても。遠からず別れることが最初から確約された影法師であったとしても。
交わした言葉と心は本物であり、ならばこそ別れは惜しまれる。
「分かってるんです。サーヴァントはそういうもので、だから本当は笑って見送ってあげなきゃいけないのに……でも、それでもわたしは……」
「いや、いい。もういいんだすばる。君の思いは理解した。
だからもう、それ以上思い詰める必要はない」
故にこそ、アーサーは思い至る。全ては同じであったのだと。
アイが抱く不安と恐れ、すばるの抱く悲しみ。そして、キーアの抱いているであろう感情。
それらは全て同一のものであり、だからこそアーサーはそれに向き合わなければならない。
「ありがとう。君のおかげで、僕は僕のやるべきことが見えたかもしれない」
顔を上げるすばるに、アーサーは微笑む。
彼女の吐露した心の裡を慰めるように、できるだけ不安を抱かせないように。
「僕は、キーアと話をしなくてはならない」
視線を彼方へと向ける。最後に行くべき場所は、決まりきっていた。
◆
キーアは、空を見上げるのが好きだった。
青空もそうだし、夕焼け空もそう。当然夜空だって大好きだ。
星を眺めていたかった。それは、かつていた場所では決して見られないものだったから。
「キーア」
そんな彼女に、後ろから声がかかる。
振り返ってちょっと驚いて、次いで微笑んだ。そこにはアーサーがいたからだ。
「セイバー。そんなところにいたのね」
「すまない。少しだけアイやすばると話をしていた」
別にいいのに、と言うキーアは何が面白いのかころころと笑っている。
そんな少女を前に、アーサーは話の切り出し方が分からなかった。
そも、円卓においては非情に徹していたアーサーだ。人の心が分からないなどと糾弾されてしまうほどに、その治世は温度というものが存在しなかった。騎士としての在り方はともかくとして、実のところ市井の子供への接し方は未だによく分かっていないのだ。我ながら、なんとも情けない気分になる。
結果、場には無言の時間が流れることとなった。アーサーは自分の中の情報を整理しながら、ようやく口を開く。
「キーア。僕は今から、最後の戦いに赴く」
「……ええ。そう、ね」
キーアの声が沈んだものになる。その理由を、アーサーは理解していた。
敵はあまりに強大だ。その上、先の一戦において彼は一矢報いることもできないまま地に伏せた。現実的な勝算は皆無に等しく、さりとて正面からぶつかるより他に道はない───
というのもある。けれど、それ以外にも少女の声音を沈ませる要因があるのだと、今のアーサーには分かった。
「厳しい戦いになるだろう。だがそれでも僕は往く。この身命を賭して、ただ一心に剣を振るおう」
「……」
「と、そう思っていたのだけどね」
思いがけぬ言葉に、キーアの顔が上げられる。そこにあったのは疑問の色。それを見て、アーサーは自嘲めいて笑った。
「戦いの果てに死ぬこと、それが自分の使命だと考えていた。僕は僕自身の死を、さして重要だとは考えていなかった。
ついさっきまでは、だけど」
サーヴァントとは一種の魔導的な兵器だ。聖杯戦争という闘争における戦闘の手段の権化であり、つまりは道具であり、使命を果たせば用済みとなるだけの存在だ。聖杯に託す願いがある英霊ならばともかく、そうでない自分はまさしくそうした存在だと考えていた。それでいいと思っていた。少女たちの帰還という命題を得て、ただそれだけのために奔走する。兵器である己に安住し、本当の意味で自分で考えることもないまま戦い続けてきた。
だから、意思を以て生きることを「選択」した生者を、少女たちを、キーアたちを、アーサーは気高く尊いものとして見ていた。
アーサーは目線を正し、キーアと正面から向き合った。キーアは俯き、服の裾を両手で掴んでじっとしている。
「アイ・アスティンは藤井蓮の死を悼み、引き摺っている。すばるもまた、二人の勇者を失い悲しみに暮れていた。
だから、僕は君に尋ねよう」
真剣な表情で、一切の遊びもなく、少女を庇護する対象ではなく対等な人間として向き合う。
「この最後の戦いにおいて、キーア。君の願いを聞かせてくれ」
「あたし、は……」
そうしてキーアは俯く顔を上げ、何かを言いそうになって、言い淀み、考え、そして言った。
「セイバー。あなたはあたしの憧れよ。あんなに強くて、優しくて、しっかりしてて、あたしの命だって助けてくれた。本当に、お話の中の英雄のようで」
キーアがアーサーを見る目には、眩しいものを見るかのような憧憬の念がある。自分では決して届かない場所を見る目だった。
「あたしはみんなが好き。アイもすばるも、梨花もレンも、孤児院の人たちだって大好き。でもね、セイバー。そのみんなの中には、あなただって入ってるの。だから……」
そこで言葉に詰まる。キーアの喉が少しだけ鳴る。だが、アーサーは決して目を逸らさなかった。息を吸い込み、キーアは言った。
「だから、絶対に生きて帰ってください。これ以上誰かを失うのは、もう嫌だから」
「承知した」
大股で一歩を踏み出し、キーアとの僅かな距離を飛ばした。間近に見据えられ、キーアは目を丸くする。その目を見ながら、アーサーは宣言した。
「私は君のために、君達のために戦おう。そして必ず君の下へ帰還する。騎士としてではなく、サーヴァントだからでもなく、私という一人の人間の意思に基づき、ただのアーサー・ペンドラゴンとして君に誓おう」
キーアと、彼女の好きな全ての人のために。
キーアは、両目をこぼれそうなくらい大きく見開いたまま、アーサーを見つめた。石のように硬直した体に徐々にアーサーの言葉の意味が浸透し、少女はぽろりと涙をこぼす。
───もしかして、僕はまた間違ったのか?
と、少し不安になったアーサーだが、しかしすぐに安心する。
キーアが笑っていたからだ。
「───ええ」
きっと、「どうするべきか」ではなく「どうしたいのか」なのだろう。
そして、「どうして」ではなく「何の為に」なのだとも思う。
戦うために戦うのではない。サーヴァントという兵器だから戦うのでも、騎士として使命に殉じるのでもない。
少女らを守るために戦うことを、一人の人間としてアーサーは「選択」する。
▼ ▼ ▼
頭上の天空には夜気を増した漆黒の気配のみが湛えられている。厳かな銀光に照らされた雲が朧に揺らめき、その輪郭を闇へと溶かしていた。それらが見下ろす地上、あらゆる全てから取り残された不毛の大地を包むのは、開戦以来何も変わらない廃せる気配ただひとつ。
セイバーは───騎士王アーサー・ペンドラゴンは無謬の地に仁王立ち、そんな空を見上げながら、静かに目を閉じていた。
ただ、無言。極限まで研ぎ澄ませた感覚が周囲を克明に伝えてくる。
月光に照らし出される蒼銀の騎士。清廉なるは鎧の秀麗さや見目の麗しさなどではなく、その総身より放たれたる一振りの剣が如き顕れである。
『答えを見出したか』
唐突に頭に飛び込んできた魔力による念話を、アーサーは驚くことなく受け止めた。
「……全て、最初から見ていたのか」
アーチャーとは弓兵、すなわち射手のクラス。特に優れたる使い手ならば千里眼、あるいは鷹の目といった遠方視認のスキルが顕現するが、しかし常態としてアーチャーのクラスとはそうした技能に秀でている。
英雄王ギルガメッシュ。誉れ高き英雄たちの王。世界の全てを背負う人類種の代表者。
ああ、ならば。最初からこちらの全てを見通していたとしても、何ら不思議はあるまい。
その上で、彼は生存者に手を出さなかった。アーサーたちの動向を手に取るように察知しながら、曇天の果てでただ何もせずにいた。
「私を待っていたのか」
念話の向こうの沈黙は、すなわち肯定だった。
ギルガメッシュは、強い。
単純な性能の話ではなく、心と信念こそが彼を最強足らしめているのだ。英雄とは人の想いを受けて立つ者であり、その王とはすなわち人界の全てを背負うに値する偉業を課せられている。
人類の裁定者にして代表者。人の想いを掲げる者。ならばこそ、彼は孤高にして絶対の強さを体現しているのであり、その威光を前にしては脆弱な想いの数々など微塵と消え去る他にない。
"負けるつもりで敵に挑む戦士など殺す価値すらない"。アーサーが確固たる理由と意思とで戦いを選択し、自らの死を礎とした他者の救済ではなく勝利をこそ望む「敵」となる時を、彼はただ待っていた。
見定めるために。
全身全霊の境地の果てに、アーサーと少女たちの、そして彼自身の"強さ"を見定め、最後に残るべき者を選定する。
それこそがこの聖杯戦争でギルガメッシュが定めた、虚像として現界した己に課した存在意義の全てであればこそ。
「不本意ではあるが、確かにお前の言う通りだったのだろう。私は人類史に落ちた影、かつて乱世を生きたアーサー・ペンドラゴンの現身でしかない。最早この身に命はなく、最早この身に願いはなく、ならばこそ遺された騎士の道に従い無辜の少女らを生かして帰す。ただそれのみを願っていた。そのためならば、所詮は偽物でしかない我が身を犠牲にしても構わないとさえ」
自己犠牲による礎。敵と相打つことによる他者の救済。
それ自体は決して非難されるべきではない、見ようによっては正しく騎士の道に通じる美しい死に様ではあるのだろう。
だが、それはあくまで死に様であり、生き様ではない。
自身の死を前提とした戦いなどただの逃げでしかない。時にはそれが最適解ともなろうが、少なくとも今は違う。
ここでアーサーが死ねば、残された三人の少女たちが聖杯に至る道は閉ざされる。
サーヴァントを失った元マスターだけで大聖杯に行き着けるとは断言できない以上、アーサーの死はすなわち彼女たちの死。自己犠牲の精神など、そもそも前提からして間違っているのだ。
故にこそ。
「しかし今は違う。私は、負けない。我が背には守るべき人がおり、想いがあり、失われた朋友たちとの誓いがあり。そして何より私自身の願いがある」
ギルガメッシュは、無言。
構わない。こちらの意思を伝えられるならそれでいい。全身に緊張が充ちる。これこそまさしく最後の戦いであり、そして相対するは正しく全英霊の中でも最強の一角たる黄金の英雄王。
覚悟を決め、アーサーは宣言する。
「私は私自身の意思に基づき、この身が持つ全ての武力を以て、お前を討滅する」
その時、
アーサーとギルガメッシュを隔てていた大気の壁が、念話を媒介していた魔力的なラインが、一斉に爆轟した。
『戦闘に値する』
声。
何憚ることなき凄まじい強度。感覚器がショートし物理的な衝撃までをも伴った意思の波濤が、アーサーの脳髄に叩き込まれた。一言で十分だった。冷水が一瞬で沸騰するような熱量の膨張。大気が打ち震える圧の中で、アーサーは正真正銘最強の英霊の本気を見た。
「決着を付けよう」
剣の柄に手がかけられる。一息で抜き放たれたる刀身は清らかな烈風の流れを纏い、風すらもが死に果てた世界を嵐の如くに揺らした。
「我が誓いはアーチャー・英雄王ギルガメッシュの撃破。マスターたちとの約束は私自身の生還。
今この時より、我が身はただ一振りの剣と化し、少女らの道を阻む悪鬼の悉くを撃ち払うだろう」
言葉と同時、アーサーの全身に魔力が充ちていく。それは全てが戦闘のための身体効率の最適化作業であり、彼という一個の肉体を真に最優の剣士として生まれ変わらせる淡い燐光でもあった。
剣を携える。腰を落とし、地に足を踏み込む。
極限まで高まった魔力の波濤が光となり、その双眸が青く輝く。
そして、アーサーがギルガメッシュを見た。彼方にて待つ、最強最後の敵の姿を。
「───かつてのサーヴァント階梯第一位、セイバー!
───真名アーサー・ペンドラゴン!
聖剣を以て、今、私はお前と対峙する!」
『───彼方のサーヴァント階梯第三位、アーチャー。
───真名ギルガメッシュ。
貴様が手にした聖剣で以て、いざ、世界に蔓延る悪意の悉くを払ってみせるがいい』
戦闘動作の開始は、奇しくも同時だった。
静止状態から一瞬にして最高速へと至る。その身を一陣の颶風に変えた騎士王の疾走が銀の閃光となり、それを阻むように放たれる無数の金の光条が、夜闇を一直線に切り裂いた。
▼ ▼ ▼
戦闘は、彼方に煌めく互いの閃光を認識した瞬間に幕を開けた。
天を覆う無数の黄金光、放たれたるは宝具級の武具の一斉掃射。ゲート・オブ・バビロンが及ぼす絶対の即死圏は、ギルガメッシュを中心とした球状にざっと半径500m。顕現させる武装や適応させる宝具効果を鑑みれば最大射程など想像もつかないが、少なくともそれより狭いということは絶対ない。
光条の投擲速度は音など遥か超越し、文字通りの光の如くに飛来した。均等に均された死の大地を悉く粉砕し、膨大な粉塵を発生させる。金の残像が流星のように大地に墜ち、鼓膜を震わす爆音轟く中から一陣の銀光が一直線に駆け抜ける。
それは疾走する騎士王の姿だ。破壊と粉塵と爆轟が占める世界の中を、しかし一切の傷を負わないままに駆ける。巻き起こる衝撃波が大地を削り、土煙を切り裂き、バビロンの宝具群さえも弾き返し、月光を反射して光るそれらの只中を蒼銀の影が突き抜けた。
速い。圧倒的なまでの速度。それはかつてこの地で斃れたシュライバーには及ばずとも、彼にはなかった堅牢さをも備えて。風の加護を纏い迫る破壊を打ち払う騎士王の疾走は、最早等身大の嵐と形容できた。
数百mの相対距離が、コンマ秒以下でゼロと化す。
初手、正面会敵。
黄金と蒼の視線が、至近距離でかち合う。
アーサーは何も言わずに仕掛けた。疾走の速度もそのままに振るわれる聖剣の一閃。それはかつて元素魔剣の真名解放たる真エーテル光さえも切り裂いた一撃であり、およそ受け得る盾などありえない斬撃だった。一直線に首を狙い澄ました剣閃は、超越の速度を以て襲い掛かる。
瞬間、ギルガメッシュの手許より黄金の剣閃が翻った。
嘘のような斬撃の逢瀬。いつの間にか英雄王の手に握られていた黄金双剣が、聖剣の行く手を阻んでいた。尋常の膂力、尋常の技量で受けられる一撃ではなかったはずだ。アーサーは間違いなく最高峰の剣士であり、そして今まさに振るわれたのは間違いなく最高の一撃だった。赤騎士でさえこうも完璧に阻めるかどうか、単純な技量でこれを凌げるサーヴァントは赤薔薇王か黒騎士を除いて他にはおるまい。つまりこれは、英雄王の持つ剣腕が彼らにさえ匹敵するものだという証明であり。
「ふッ……!」
そんなことは最初から分かっていた。
如何に弱り、如何に消沈しようとも騎士王の間合いに滑り込み一撃を加えたその手腕、断じて弱兵のそれではない。あの時点で既に、アーサーはギルガメッシュの力量を見抜いていた。
故に油断はしないし驚愕もしない。ただ厳然たる事実と受け止め、更なる連撃を叩き込むのみ。
英雄王の総身がある座標を、情け容赦のない次撃が滑る。半円を描く切断面が空気を斬って真空を作り、絞るような音と共に薄い蒸気が散った。半瞬前に回避行動に移ったはずの英雄王の頬を切り裂いた聖剣が、飛び散る血さえも熱量で蒸発させた音だ。振り抜かれた聖剣の軌跡は、その向こうの大地までをも一直線に切り裂き、轟音と共におよそ数十mにも及ぶ巨大な亀裂を刻み込んだ。
「魔力放出、剣身加速───風の鉄槌よ!」
アーサーは即座に反転。未だ回避行動に在るギルガメッシュの側方に向けて、最大加速を果たした斬撃を叩き込む。魔力によるジェット噴射はおよそ尋常の身体構造には不能の、真に必殺の斬撃を放つことができる。
大気が割れる。空間が断割される。世界ごとを切り裂く究極の一閃。それを、ギルガメッシュは何もかも読んでいた。
両者を隔てるように墜落した壁は白銀の盾。アーサーが振るった剣の運動座標に寸分違わず合わせ、超高密度の幻想装甲がその場に現出する。大岩が弾けるかの如き重低音が木霊し、超加速された剣閃は運動エネルギーの全てを受け止められ、静止する。
直後、大盾を回り込むように左右から黄金の軌跡がアーサーを挟撃した。
咄嗟に後方へ飛び退った騎士王の残像を、盾ごと切り裂くは英雄王の一閃である。流体金属であるかのように形を変える幻想装甲は騎士王の一撃を受け止め、逆に英雄王の一撃を透過したのだ。空気に真一文字の真空を発生させながら、凄まじい轟音と共に振り抜かれる双剣。踏み込まれる震脚が大地を揺らし、未だ中空に在る騎士王へと迫る第二撃。
攻守が入れ替わる。被照準。
───ッ
竜巻のように渦をまく黄金光が、その全てに必殺の威力を乗せて騎士王を狙った。アーサーは魔力の一切を惜しむことなく風の戒めを解放、死にもの狂いの抵抗で以てバビロンの掃射を耐え、更に襲い来る双剣の軌跡を受け止める。防御に腰を落とすアーサーの背後では、巻き込まれた大地が地平線までをも爆砕され、雲まで届くかのような巨大な粉塵を巻き上げていた。
アーサーの勝機は剣を用いた近接戦以外になく、しかしその土俵ですらギルガメッシュは騎士王に匹敵する剣腕を見せていた。更にはバビロンによる援護射撃に面制圧。仮にその他宝具の行使までをも可能としていたなら、きっとその時点でアーサーは一切の勝機を失っていただろう。
最優先事項は彼に必殺を撃たせないこと。次に距離を離さないこと。敗北は許されず、勝たねばならないアーサーは、勝つために一手のミスも犯してはならなかった。
鍔競る刃の向こうから、蒼の輝きを湛えた視線を対敵に向ける。
その瞳に、諦めの意思は見えなかった。
───何故君は戦うのか。
そう尋ねたアーサーに、彼は何の臆面もなく即答した。
「アイと、俺自身のためだ」
それはある種、予想のできた回答だった。
藤井蓮はエゴイストだ。混沌というアライメントはまさしく秩序性からの隔たりを意味し、彼の優先順位は極めて個人的かつ狭量な代物ではあった。
「世界のためとか、そういうことが言えたら格好良かったんだろうけどな」
しかし、それは利己のみを追求しているのとは違う。
彼は彼の大切なもののために戦っていたに過ぎない。それは自分と何ら変わりなく、誰にも否定できない真実でもあるのだろう。
「俺は弱いし、そんな器じゃない。英雄なんてガラじゃないのも分かってる。それでも俺は、俺のできる範囲で最善を尽くしたい」
その結果が先の解答なのだと、言葉にするまでもなく彼は語っていた。
「だから、悪いな。俺はアンタみたいに正しく戦えない。自分達のためにしか戦えない俺は、きっとどこかで自分の命を軽く見る」
「……それでは、君のマスターが悲しむ」
「そうしてくれるなら可愛いもんだけどな」
彼は苦笑も露わに、しかし次瞬には真剣な顔つきで。
「万が一の時は、あいつのことを頼む。アンタならきっと、世界のついでにあいつも助けてやれるだろうしさ」
……きっと、その時には既に答えは決まっていたのだろう。
彼が辿る結末。そして自分の中の結論も。
託された希望はこの手の中にある。遍く絶望を越えられる。他のどの宝具にも、どの力にもできない、アーサー自身の手だ。
何物も障害物にはならず、一時の目晦ましにしかならなかった。
轟音。
鍔競り合いで弾き飛ばされたアーサーは、黒く染まった死の大地をソニックウェーブで削りながら再度の接近を試みていた。刃を押し込んでの近接戦で、しかし有効打は一撃足りとて与えることはできず、今や騎士王はすぐ背後に迫る無数の宝具群を必死の思いで振りきろうとしている。
地を舐めるほどの前斜体勢で疾走する。駆ける先の地点が狙撃され、大量の粉塵と瓦礫が舞い、螺旋と切り裂かれる衝撃によって接地点としての機能を喪失した。
押し込む斬撃は回避されるか受け止められ、かつて屹立していたビル群を諸共に粉砕できたであろう風の鉄槌さえも同様の末路を辿った。対人宝具にも相当する聖剣の黄金刀身すら容易く受け止めた様はまさしく絶望そのもので、しかしその域の力が無ければ聖杯戦争をこの局面まで生き残ることはできないのだという証左なのだろう。散弾とばら撒かれる黄金の軌跡はまさしく驟雨が如く、天より地を舐めつくさんばかりの勢いで降り注ぎ、常軌を逸した破壊の嵐を此処に具現していた。
「ぐうッ!」
一条の閃光が斜めに走り、アーサーの装甲を斬る。浅手だ。回避には成功した。だがダメージは着実にアーサーの身を蝕んでいた。
ギルガメッシュの刃は一つ交錯する毎に鋭さを増していった。疾走するアーサーに、圧倒的な戦意と確実な死を纏う黄金王の剣戟が迫る。バビロンの一斉射は開戦当初の優に十倍の密度と圧力を有し、今や魔力放出の余波だけで吹き散らせる脆弱さなど微塵も見られなかった。
やはりというべきか、間合いを離した中・遠距離戦においてアーサーが勝ち得る可能性はまるで存在しない。
元々が剣しか知らない身であることもそうだが、対敵たるギルガメッシュは明らかに地を駆ける獲物の狩り方を熟知していた。追い込み、弱らせ、確実に仕留める。バビロンによる死の制空圏はまさしく絶対そのもので、しかしそれを抜けさえすれば勝てるのかと言えばそうではない。先程のアーサー然り、バビロンを突破しても尚、そこに待ち受けているのは熟達の技量を併せ持った最高峰の戦士の姿。ギルガメッシュは圧倒的な物量から高見の見物を決め込む無能では断じてなく、その本質はアーサーに匹敵あるいは上回る域の純粋な戦士なのだ。
聖剣すらも受け止める剣腕は、恐らくマキナ卿を正面から相手取ってもひけを取らないレベルだろう。つまりはアーサーとほぼ同等。既にこの段階で、戦闘を左右する諸要素として騎士王は敗北を喫している。
だが、それで実際の勝敗が決定されるほど、戦いというのは単純でもなければ甘くもない。
「剣身加速、風の加護よ!」
自身に命じるかのような声と共に、総身に疾風を纏わせての超加速。アーサーは慣性の法則さえ捻じ伏せて鋭角へと疾走軌道を強引に修正、速度はそのままにバビロンの掃射を遥か後方に置き去り、前方より迫る弾幕の悉くをその剣で以て打ち払った。
刃と刃の交錯が、虚空に無数の火花を咲かせる。
迎撃の成功、故に生まれる複数の選択肢。この一瞬だけ逃げるも撃つも撹乱するも思いのままであり、しかしアーサーは迷わない。
選択はただ一つ。一心不乱の接近のみ。
元よりこの身は剣しか能がなく、ならば刃の届く間合いに入らなければそもそも敵を倒すことすらできやしない。故に躊躇も迷いも一切不要、ただ駆けただ斬るのみ。
瞬時に加速する肉体。疾走に掻き消える姿。遥か頭上より迫るは視界全てを覆い尽くさんばかりの剣の波状であり、されどこの速度ならば着弾より先に掻い潜ることが叶うだろう。
「おおおおおォォォォォォォォっ!!」
咆哮が喉より迸る。見渡す大地の全てに突き立つ黄金の光条を潜り抜け、いざ対敵の下へと踏み込まんとした。
その刹那。
ずん、と全く予想外の角度から、何かが突き刺さる。胴体左側面、背面に近い脇腹。何故、バビロンの掃射は悉く視界に収め、斬り伏せたはずなのに。
宝剣宝刀よりもずっと細く短い、それは矢だ。
理解した瞬間、見誤っていたことに気付く。アーサーは確かにバビロンの無数の弾道を見据えていたが、逆に言えばそれだけだ。近接するその一瞬だけ、視界と注意はギルガメッシュより離れてしまった。
優れたる戦士の彼が、今まで剣しか使わなかったからといって"それだけ"であるなどと誰が言ったか。
それはこの都市に生きる誰もが初めて認識した事実であったに違いない。
圧倒的にして絶対の物量は遍く敵を粉砕し、この世の神秘の悉くを行使する彼は、ただそれだけで敵の全てを退けてきた。
彼から純粋な剣の技量を引き出したのさえ、アーサーが初めてであった。
故に誰もが想像さえしなかった。
ギルガメッシュは、弓の技さえ達人であるということを。
その一瞬、アーサーの虚を突く最適のタイミングで、バビロンを凌ぐ騎士王でさえ反応の叶わない超精密の射撃を行ったなどと。
「づぁッ……!」
度し難い隙だった。
肉体的な損傷よりも、精神面に生まれた一瞬の思考停滞こそが致命だった。100分の1秒にさえ遠く及ばない僅かな隙は、しかし熟達同士の戦闘において最悪の空白と化す。
両者の相対距離は既に十メートルを切っていた。慣性に従って流れるアーサーの肉体。その先より飛来するは黄金の重弾幕。
死ぬ、と思った。
思った瞬間、風の魔力を暴走させた。今までのような指向性を持たせたものではない、自爆同然の乱反射。衝撃に全身を軋ませ、中空に投げ出された姿勢を崩してスピンしながらアーサーは致命の一撃より逃れる。
それはまさしく、寸毫の差だった。
アーサーが離れたその刹那、地に突き立った刀山剣樹は悉くを砕き、貫いた。
音よりも早く衝撃となって浸透するその感触に、焦燥が穴だらけとなって思考の底へ落ちていく。あと一瞬だけ行動が遅れていたなら、アーサーの身は紙より容易く切り裂かれていただろうことは想像に難くない。
そして安堵する暇もなく、その時既に、ギルガメッシュが間合いに飛び込んできた。
心底より戦慄する。バビロンは布石、狙撃も布石、追撃も布石。ただひとえに、体勢を崩したアーサーを射程に入れるために。そしてこの距離、手にした刃の届く超至近距離において、超越の技量を有した英雄王が黄金の剣筋を閃かせる。
「その首を落とす」
一閃、二閃、四閃、八に十六に三十二に六十四に百二十八。一秒もなく展開された全ての斬撃は一つ一つに必殺の威力を乗せる。
速すぎる。
その身はシュライバーのような加速の加護を持たず、アーサーのような魔力放出すら叶わず、しかしならばこの速度は一体何であるというのか。
まさしく多重次元に屈折してるかの如き黄金の嵐に晒される。最早自分の身に何が起きているのかさえ判別がつかなかった。懸命に剣を掲げ、致命となる部位への攻撃だけは何とか回避するので精一杯だ。風の魔力を再度暴発させ、逃げた。吹き飛んで逃げた。
それさえ、死までのリミットを僅かに引き延ばすだけだと理解していた。
無音の斬撃が、天より降り注ぐ黄金の驟雨が、終わりであるとばかりに放たれる。
交錯に光が閃き、それに何手も遅れて、轟音が衝撃波と共に大気に轟いた。
アーサーは覚えている。
いつかマスターやアイ、すばるらと共に行動していた時、傍らで立つ藤井蓮の言葉を。
それは「速さ」の話だ。かつて彼が持っていたという創造の渇望であり、勝負を決める最重要要素でもあり、古の武術による知識でもあった。
───まず一刻を八十四に分割する。
分割したうちの一つを、分と呼ぶ。これは人間の呼吸一度分に等しい。
分の八分の一を、秒と呼ぶ。
秒の十分の一は絲。
絲の十分の一は忽。
忽の十分の一は毫。
そして毫の十分の一に領域を、雲耀という。雷光を意味する言葉だ。勝負は全て、この雲耀の域で決まる。神経を研ぎ澄ませ、全ての機を見逃すな。
「その点、実際に時間を分割して加速してた昔の俺は、割と反則だったんだろうけどさ」
苦笑う彼の顔が、今は遠い。
恐らく、ギルガメッシュとはそうした視点を持つ英雄なのだろう。
遍く世を見つめ、遍く人を見つめ、故にこそ何者も見逃さない。射手たるアーチャーの本領であり、その基本形。
彼に打ち勝つためには、自分もその領域に達しなければならない。
「魔力充填、最大加速……!」
魔力放出、最大出力。
まず第一の関門、その雲耀へと至る。
過剰な魔力を流し込むは敵手でも聖剣でもなく己自身であった。痛覚も嫌悪感も何もかもを押し込め、過負荷で崩壊する内部にも一切頓着しない。あらゆるリスクは厭わない。ただこの一戦に全てを賭けられるならそれでいい。
全神経が荒れ狂う。感覚が殺人的なほどに暴走する。自壊に至るまでの無謀な刺激。全知覚が電流の如く暴走し、そしてアーサーは「そこ」に至った。
無数の刃がアーサーに襲い掛かる。
既に、見えていた。
───絶対に、生きて帰ってください。
キーアはあの時そう言った。令呪なきその言葉は、アーサーにとって何の強制力も持ち合わせていない。命令でも何でもない、ただの言葉だ。
だが、言葉でもいいのだ。それが理由になるなら。
魂を振り絞り、騎士王は叫んだ。
「いざ───英雄、断つべし!」
疑似神経加速。
肉体動作のみならず、知覚領域にさえ適用させた魔力の大暴走。
赤騎士との戦いで行使したものとは比べものにならない、安全性を度外視した故の一時的なオーバーフロー。
主観時間が無限のように引き伸ばされる。一瞬が永遠のように感じられる。
時が灼熱する。
永遠の刹那の中、アーサーは一切を置き去ってギルガメッシュへと翔けた。
ほぼゼロの時間差で放たれた三百二十七閃の斬撃及び五百八十三撃の掃射のうち三百五十五が牽制で百九十三が罠で残り全てが必殺の本命でありそのうち七十五閃と七十六閃の間に隙間が【稼働率低下、効率上昇を急げ】抜けた先のもう一閃を紙一重で潜り更に距離を詰め【加速しろ】思考が灼熱し脳が沸騰する感触を覚えるが最早構うことなく【限界は既に超えた】刃の嵐の抜け道を奇妙にゆっくりした知覚で見切り【鎧は砕け鮮血が舞う】酷使した片眼が限界域の充血と共に破裂し【視界不良、しかし直感で補えば問題なし】体中の全ての細胞が燃えて燃え尽きる感覚【筋線維断裂】それでもいい【内臓損傷】届け【骨格破損】届け届け届け【片腕は最早使い物にならず】まだだ【もう何も見えない】一撃でいい【聞こえない】血煙が刃のような筋を引いて【体が動かない】無数の傷を受け尚も自身が止まることを許さず【耐久不可能】空と地が逆転【再照準】ただ雷光のように突き進め【魔力再充填】闇を塗り固めた色の【神経断裂】眼前にて待ち構える男の気配【危険領域超過】視えた【最早生存の余地はなし】刃と刃の狭間【危険】刻まれた時と時の間に【危険】英雄王の姿が【逃げろ】撃【死ぬぞ】「ぅうううううおおぉぉおおおおお【いいや、いいや】ぉおおおおぉおぉぉぉおおおお【最早逃げ場などなく】おぉぉおぉおおおぁあああぁぁあああああああ【此処こそが死地であれば】ああああああああああ【最後まで戦い抜くのみ】ああああああああああああああああああああああああああッ!!」
そして、接敵。
技ではなかった。
異能でも、宝具の力でもなかった。
それは、どこまでも愚直なただ一振りの剣であり、純粋な破壊そのものであった。
アーサーは全推進力をその背と柄握る右手にかけ、旋回する一陣の颶風となってギルガメッシュへと押し迫った。
ただ一度きり、渾身の一太刀さえ浴びせられるならそれでいいという、捨て身にして己そのものを刃と化す一撃。
形振りなど構っていられない。ただ速さと強さだけを追求した獣の刃。
だがそれさえ、ギルガメッシュは一枚も二枚も上手を行った。
彼は周囲を舞うバビロンの全てを放棄し、己もまたただ一振りの刃と見立てて一閃を放つ。
真っ向迎撃。両腕に握られた双剣はその柄を結合させ、それ自体が巨大な剣となってアーサーを迎え撃つ。
技なき獣と堕したアーサーを前に、挑むは技の極致たる一撃だった。それは速く、巧く、何より圧倒的なまでの強さで以て振るわれる斬撃。アーサーのようなまがい物ではない、真実の雲耀の一太刀。
避けられず、耐えきれない。必殺にして完璧なタイミングで為されたその攻撃を前に、防御も何もかも捨て去った我が身は一切の抵抗を許されない。
だが、それでいい。それを待っていたのだから。
ギルガメッシュの剣がアーサーの身に滑るその刹那、聖剣の刀身を包む黄金の光がその激しさを増した。
耳を劈く轟音が大気を揺らし、目を焼く強烈な閃光が夜闇を真昼のように照らした。
光が収束する時。ギルガメッシュを守るあらゆる防御が切り裂かれていた。
過重星光(オーバーロード)。
アーサーが暴走させていたのは己が身だけではない。極限まで集束された光の一閃は結界も鎧も何もかもを砕き、黄金剣すらその軌道を弾いた上で真っ直ぐに振り下ろされる。
永遠のように遠かったギルガメッシュの制空圏、半径およそ500m。その全てを踏破して、今こそアーサーはあらゆる足掻きを結実させる。
一撃でいい。
刃の嵐を潜り抜け、渾身の一撃を放たせ、防御も何もかもを剥ぎ取り、こちらの全身全霊を叩き込む。
これだけが勝利への道だった。ここまでしなければ、眼前の英雄王は倒せなかった。
しかし、同時にアーサーも耐えきれるはずもなかった。
目から光が失せる。
知覚がエラーめいてショートする。
目の前がブラックアウトし、全ての力がその一瞬で失われ、死の予感が全身を絡め取る。
それでも止まらない。
死ぬための戦いではない。
使命でも憎悪でも本能でもない。
ただ、勝ちたい。それだけが全てとなり、意思が最後の熱量を発した。
そして今、ただひとりの騎士が英雄王を切り裂いた。
振り抜かれた黄金騎士剣が、同じく黄金の男を斜めに裂く。
勢いを殺せないままに転がっていくアーサーを後ろに、ギルガメッシュはただ、凄まじい噴血を迸らせて。
明らかな致命傷。決着が此処に成る。
全ての力を出し切ったアーサーは、最早機能を失った目の代わりに、直感で以てそれを感じた。
最後の勝者が、ここに決まる。
「───舐めるな、たかが"致命傷"だ!」
ああ、だが、だが。
笑みを浮かべる英雄王、未だ斃れず。
致命傷のはずだ。その身は肩口から脇腹下までを切り裂かれて、ともすれば骨格内臓ごとを断ち切られているはずなのに。
「だが、その啖呵は良し。今のお前はまさしく、我が相対した中でも屈指の英霊に相違ない」
望外のものを得たと言わんばかりの英雄王は、傲岸のままに破顔し天高く跳躍する。
そして足場となるものもないままに、翼持たぬはずの彼は遥か高みの虚空へと着地し。
「故に、心して受け取るが良い!」
そして此処に、再度の絶望が姿を現した。
それは、弓、なのだろうか。
柄の部分が連結した黄金の双剣。かつては大剣として使用された"それ"が、今は一つの大弓として。
魔力線たる弦が形作られる。同じく黄金に輝く矢が番えられ、引き絞られる一矢が確かにアーサーを照準する。
次瞬、風切る黄金矢がアーサーの頭蓋を狙い放たれた。その一矢自体は僅かに首を傾けることで辛うじて回避に成功するも、しかし肌に突き刺さる脅威の気配は微塵も減じてはいない。彼の弓撃の本命はこれではない。
───ならば真に放たれるべきは一体何だ。
───それは"矢"だ。英雄王の手にはなく、しかし確かに其処に在るもの。
天を見よ。空の彼方を見よ。今こそ此処に顕現する、それは巨大なる天の裁きそのものである。
───終末剣エンキ。
それは剣であり、弓矢であり、そして水を呼ぶ錨でもある。
漆黒の天蓋に見えるものがある。それは衛星軌道上より耀く巨大発光体であり、地を滅ぼす神威の流星であり、文字通りの星の一矢でもあった。
七条の光が一点に収束していくのが地上からでも分かる。膨大な圧力が今にも降り注がんとし、巨大な質量に最早空は耐えられない。
「滅びの火は満ちた、来たれナピュシュテムの大波よ!
其は一切の不浄と罪業を濯ぐ波濤なれば、退廃の地たる異形都市の終末にこそ相応しい!」
あるいは、相応しいのは二人の決着にこそか。
暴風と吹き荒れる咒波嵐の中、高らかに哄笑するギルガメッシュの狂想が語るのは、溢れ出んばかりの諧謔の念だった。
終末剣エンキはノアの大洪水の原典たる大海嘯を発生させる規格外宝具だが、代償にと言うべきか様々な制約が施されている。
内の一つが発動時間であり、エンキは起動から一日を経るごとに破壊力を増し、七日を迎えたその瞬間に最大の力、すなわち神代の大破壊そのものを発現させることが叶う。
今まさに放たれようとしている一撃はまさしくエンキの最大起動であり、それはつまり"彼がこの時の到来を予め予測していた"という事実に他ならない。
彼は最初から全てを見通していた。
決着の時、その舞台、自らが相対すべきは何者であるというのか。
そして今この時この瞬間を以て、彼の見た未来は現実のものとなる。
「いざ、下らぬ因果に終焉を!」
───────────────!
───恒星が如き衝撃と光を伴った大爆発が、遥か頭上にて炸裂する。
───朱き魔力の紋様が奔り、見上げる空の悉くが罅割れていく。
大空にて凝縮し渦を巻く膨大な魔力群。天を覆う神威の嵐。
見上げる双眸が光を喪う。力の抜けた手から剣が滑り落ちる。
刃の届く距離ではない。届かせる力もない。
既に死に体となった騎士王に、抗える力は残されていない。
───伸ばした手は、届かない。
「セイバーさん!」
───それが、たった一人の手であったなら。
「すば、る……」
アーサーの目の前に立つ者が在る。
それは懸命に右手を伸ばして、同じく伸ばされる鋼の右手と共に。
迫りくる大波の余波の悉くを受け止めて、アーサーに届かせまいと踏みとどまる少女の姿。
「ぐ、ぅあ、ぁぁあああ……!」
その光景を前に、腱も骨格も損壊した膝が崩れようとして───
「大丈夫です、あなたは私が支えます」
その足を、小さな誰かが力強く支えた。
「……アイ、君は」
「正直、自分が何をすればいいのか、今もよく分かってません。やりたいことさえ、私の中から消えてしまって」
それでも、とアイは断言する。
「それでも、セイバーさんが生きていたなら。きっと同じことをしたんだと思います。
私はそう信じます。ですから───」
「だから、あたしたちはあなたに願うの」
アイの言葉を引き継ぐように、横から歩み出てくる者がひとり。
見なくても分かる。その声、その言葉、力強い意思の輝き。
「これはあたしだけの言葉じゃない。アイとすばると、そしてきっと、他にも大勢いた誰かの総意。これを願ったのがあたしたちだけじゃないと、きっとそうなのだと信じるから」
掲げられるものがある。それは赤い輝きを宿し、暖かな魔力の感触を湛えて。
そして、紡がれる言葉がひとつ。
「令呪を以てあなたにお願いします。セイバー」
誰もが、アーサーを見ていた。
余波を受け止めるすばるも。
足を支えるアイも。
そしてキーアも。
誰もが、意思と願いをその目に託して。
「どうか、世界を救ってください」
眩い光が、アーサーの視界を埋め尽くして───
───さあ、手を伸ばせ。
.
剣を握り返した瞬間、視界が開けた。
恐怖は消え、迷いは失せ、代わりに己の為すべきことが脳裏を満たす。
「ああ、ようやく目が覚めたよ」
英雄王が何をしようとするかが分かる。
双剣を繋ぎ合わせた大弓の照準は確かにこちらを向いている。
顕現するは人類史が為したる偉業の極致。今なお神威高き創造維持神の大権能。
かつて世界を滅ぼした大海嘯ナピュシュティムの大波。嵐よりも尚荒ぶる全地上の終末機構。その手に番えられた金色の鏃が呼び覚ます、断空にして呼び水の力。
これこそが死だ。決して抗えぬ死の運命の具現。あらゆる者は絶望と諦観の中に落とされる。何者も、そこから逃れることはできない。
「真名解放───聖剣よ、光を束ねろ……!」
なるほど。この力、常理に生きる者では抗えまい。
その波濤を前にしては、如何なる神威も叡智も薄紙と成り果てるだろう。
だが、しかし。
「十三拘束解放(シール・サーティーン)───円卓議決開始(デシジョン・スタート)!」
曰く、星の聖剣はただひとりの英雄のみが使用を決めるに非ず。
星の外敵を両断せしめる聖剣。世界を救うために振るわれるべき最強の剣は、個人が手にする武装としてはあまりに強力すぎるが故に、かの古き国の騎士王とその配下たる十二の騎士たちは厳格な法を聖剣そのものに定め、施したという。
それこそ、聖剣の真なる刀身を覆い隠す第二の鞘。十三拘束。
複数の誇りと使命を成し遂げられるであろう事態でのみ、聖剣は解放される。
完全解放に必要な議決数は七つ。
騎士王と十二の騎士たちが地上より消え去っても、この拘束は永遠に働く。
当代の聖剣使いがその解放を望めば、自動的に、円卓議決が開始されるのである。
《是は、勇者なる者と共する戦いである》───ガレス承認
《是は、誉れ高き戦いである》───ガウェイン承認
《是は、生きるための戦いである》───ケイ承認
《是は、己より強大な者との戦いである》───ベディヴィエール承認
《是は、人道に背かぬ戦いである》───ガヘリス承認
《是は、真実のための戦いである》───アグラヴェイン承認
《是は、精霊との戦いではない》───ランスロット承認
《是は、私欲なき戦いである》───ギャラハッド承認
決して、剣を手にした所有者ではなく。
聖剣に込められた英雄たちの魂の欠片がすべてを裁定する。
故に彼は単騎にあらず。ひとりきりの孤独な王では断じてなく。
此処に在るは人々の、そして遍く抗い戦ってきた英雄たちの総意として立つ者なれば。
「是は───」
故に、これこそ理外の力。
道理も条理も飛び越えた、耀く世界の希望。
「───世界を救う戦いである!」
───アーサー、承認。
聖剣の重みを、右腕に。
願いの重みを、左腕に。
どちらも等しく尊いものであると、刹那、アーサーは信じながら剣を振りかぶる。
遍く波濤が空より墜ちてくるのが見える。しかし、遅い。
「約束された(エクス)───勝利の剣(カリバー)ァァァァアアアアアアアアアアアアっ!!」
聖剣九拘束解放!
完全なる真名の解放、それは光となって放たれる。絶大な威力を秘めた対城宝具、黄金の斬撃として。
視界の全てが白光に包まれる。音も感覚も遠ざかり、ただ一色の光だけに満ちた世界が目の前に広がる。
それはアーサーの限界点を示していた。この聖杯戦争で不完全のものを含めて真名を解放したのは三度目。一度目は『幸福』に、二度目は《赤騎士》に。二度に渡る解放は五体満足な状態であったが、しかし今回はどうか。強靭な英霊の肉体を以てしても、両腕で剣を構え、両脚で大地を踏みしめずに扱うのは至難の業だろう。
解放の反動に耐えきらねば、斬撃を放つよりも先にアーサーの体が砕け散る。
ああ、見ろ。蒼と白銀の鎧に亀裂が奔る。霊核の割れる音がする。
「……!」
ならば、此処までか。
運命の騎士は世界を覆う暗海を払えず、屈し、聖剣の威に殺されて終わるのか。
違う。そうではない。そんな幕引きであるものか!
「去れ、いと旧き神代の裁定者よ!
その手に何も奪わせない、例え御身が《王》であろうと!
我が名は騎士王アーサー・ペンドラゴン、救世たる聖剣の担い手なれば!
此処に誉れ高き円卓の騎士達、その総意を代行する!」
不具の身でも十分だ。
何故なら我が身は単騎にあらず。
これだけの祈り、これだけの願いを共にして、誰も見ることはないが奇跡は成る。
落とした硝子玉にも似て縦に割れたアーサーの眼球が、最早何をも映さないのだとしても。
それでも、眼前の奇跡は光となって具現する。
「かの魂の黄金に誓って───我は世界を救う者なり!」
───世界は救われる。
───その身に致命の傷を負おうとも、運命の騎士は誓いを果たし、聖剣を振るう。
この世全ての悪を斃し、
この世全ての欲に抗い、
この世全ての明日を切り拓くために。
───黄金の刀身から。
───眩き星の光が、今こそ放たれて。
世界を満たしていく。
夜闇の全て、埋め尽くしていく。
数秒の後、闇も波も何もかもが消え失せて。
黄金の光に呑まれて。全てが消え去っていく。
◆
そして世界は輝きを取り戻す。
渾沌の坩堝はもう、何処にもない。
◆
「───ああ」
光が、溢れていた。
空前の宝具たる終末剣の波濤すらも貫いて、ただ、ただ、光が。
それは世界の全てを覆うかのように。空間の隅々にまで行き渡り充ち溢れて、留まることなく何もかもを呑みこんでいく。
破壊をもたらす絶対の魔力ではあった。
それが証拠として大海嘯は悉くが蒸発し、空間は砕け、あらゆる全てが崩壊していく。
けれど灼熱ではなかった。
英雄王ギルガメッシュは其を"耀き"とのみ捉えた。
神の白色さえ塗り潰す、黄金の輝きと。
「それでいい。此処に全ての条件は出揃った」
曰く。
この虚構世界を打ち崩すには三つの条件が必要である。
第一に、表層テクスチャである異形都市を縫いつける楔、空想樹たる『幸福』の討滅。
第二に、夢界と現世を繋ぎ朔たる現世界に介入を可能とする《盧生》への協力要請。
第三に、楔を外されたことによる崩壊を進行させ、その間隙を突いて虚構世界そのものを破壊すること。
第一条件は既に騎士王と諧謔神が成し遂げた。
第二条件は赤薔薇王がその命を対価に提言した。
そして、第三条件は今まさに───
「かつて、我はこの輝きを目にした。
是なるものと同じくして眩きものを、是なるものと同じくして尊きものを。
第六の獣を打ち倒せしもの、其は紛うことなき星の光なる」
赤薔薇王と第一盧生の戦いで、既に界は傷つき、揺らいでいる。
ならば世界崩壊の逸話を持つ終末剣と、それすらをも凌駕する星の聖剣を相放てばどうなるか。
語るまでもない。今まさに目の前で起きていることが全てであり、すなわち彼らはやり遂げたのだ。
全ては今、この時のために。
「故に、当世においては貴様らこそが───この我に代わり世界を救う者なのだ」
彼方を見よ。
耀ける希望をこそ、時に人は奇跡と呼ぶ。
そして、何もかもが消え去って。
世界は静寂を取り戻していき───
▼ ▼ ▼
『領域支配(ドメイン)を解除します』
『永劫休眠状態(ルルイエ・モード)からの浮上を確認』
『■■への負荷はあるはずもなく』
『何故なら最初から、人は現実を認識していない』
『これより先は、あなたたちの時間』
『そして、世界は目を覚ます』
▼ ▼ ▼
そして───
そして、誰もが空を見上げていた。
終末の波濤を退け、星の光たる黄金が放たれた空。双方が消え失せ、故に射線上の全てが消え去った、まっさらな空。
何もかもがなくなって、けれどそれでも浮かぶものがひとつ。
「月……」
それは月。
見上げた全員の視線の先には、ぎんと凍るような満月が少女たちを見下ろしている。
ただそれだけ。本当にそれだけなのに、何故か全身の毛孔が開く。呼吸が止まり心臓が止まり、総ての音が消えていく。
「なんだ……?」
アーサーたちは勝利した───実感として分かるのに、しかし喜ぶ気には全くなれない。
後に残ったのは月光照らす夜空が一つ。本当にただそれだけなのに。
悪寒が止まらない。自分たちは何かとんでもないことを仕出かしてしまったのではないかと、そんな理屈ではない恐怖が全身を満たしていく。
「……新月」
呟いたのは誰だったか。
そしてその一言で、理解できるものがあった。
暦の上において、今日は新月───つまり月のない夜だったはず。
けれど、だとしたら。
今まさに夜天に浮かぶこの"満月"は。
今まで自分たちが戦い、駆けてきた都市に浮かんでいたあの月は、なんだというのか。
そして気付いた───違う、あれは月じゃない。
あれは───
『太極より両義に別れ、四象に広がれ万仙の陣───終段顕象』
月が歪む。
月が煽動する。
まるで巨大な眼球が"ぐるり"と動くかのように、"ぬらり"とした光沢を伴って。
文字通りに、月がこちらを見下ろして。
『四凶渾沌───鴻鈞道人』
そして現実が罅割れた。
格が違う。次元が違う。この地に喚ばれた英霊たち一人一人が身に宿し、些細な異常を起こす程度の宝具などとは比較にならない。極大の異能がそこにある。
それは形を持ったひとつの宇宙───主たる者の人間賛歌を以て他の既存法則を塗り潰す覇道の理であり、万象をすら凌駕する第六法の具現そのもの。
世界が歪む。森羅の法が叫喚しながら捻じ曲げられ、紙屑同然に崩れていく。魂ごと握りつぶされるような凄まじい咒波嵐に、鳥肌どころでない怖気が走った。
妖麗夢幻と顕現する大異常の源泉は、文字通り鎌倉を覆い尽くし見下ろしている何某か───天に浮かぶ太陰すらアレにとっては瞳に過ぎず、その巨大さに比べればこの都市すら石榑の域にも届かないのだ。
天を揺るがしながら紡がれる神咒の羅列は、言語として認識できない別位相からの妖言だった。仮に宇宙が意思を持つならば、それを一生物が解することなど不可能なのだろう。
意味は分からず、理解もできず……しかし何故か、そこに込められた想いだけは感じ取れた。
底抜けの悦楽。狂わんばかりの哄笑。そして───
『救ってやろう、お前たちすべて。
ああ俺は、皆が幸せになればいいと願っている』
遍く人よ救われてくれという、曇りなき愛情と慈しみに他ならなかった。
【ギルガメッシュ@Fate/prototype 消滅】
【アーサー・ペンドラゴン@Fate/prototype 思念崩壊】
【キーア@赫炎のインガノック 思念崩壊】
【すばる@放課後のプレアデス 思念崩壊】
【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日 思念崩壊】
【夢界領域崩壊 世界滅亡】
【第二次聖杯戦争 破綻・聖杯顕現ならず】
【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 強制終了】
「あはははははははははははははははははははははは!」
───聞こえるか。空の果てより響く、この音が。
───聞こえるか。地の奥底にて呻く、この音が。
響き───
それは終焉を知らせる鐘の音だった。
原初の調べに近しい音だ。歓喜の響きだ。
時の終わりを告げる音だ。裁定の響きだ。
───すなわち。
───それは。
「とうとう何も為し得なかったか!
はははははははははは! どこぞの莫迦共が!」
「───最期の《願い》すら無駄にして」
「く、ふふふふふふ」
この世ならざる音響をもたらす鐘の音の中にあって。
暗闇の玉座に座す魔女は高らかに哂い続ける。
そこに含まれるのは歓喜か、哀絶か、それとも憎悪か。
余人には窺い知ることすらできず、あるいは魔女自身すら知ることなく。
「じゃあ、次の盤面を始めようか」
夢界領域収束
夢界領域拡大
夢界領域変容
規定数の挑戦を確認
規定数の願いを確認
お前たちは失敗した
潰える願いが我が身を成す
成長条件を達成
ナコトの幻燈は紡がれる
───されど
───真なる《願い》の顕現、叶わず
「構わないさ」
「なにせ、時間だけは腐るほどあるんだ」
「それこそ、永遠に」
哄笑と共に左手が蠢くけれど。
決して、その手は伸ばされない。
───彼女の左手は。
───蠢くだけで。
「だが俺は否定する」
欺瞞なる世界の再誕を。
虚構なる少女の敗北を。
愚かなる願いの終焉を。
「失ったものは戻らない。死んだ人間は生き返らない。
お前のやっていることは、結局何をどう突き詰めようと、単なる子供の我儘でしかない」
黄金なりし螺旋の階段を昇りつづける少年は、吐き捨てるように高みへ呟く。
その声は魔女に届いているのだろうか。
届いてなどいまい。届かなかったからこそ、この茶番は今まで続いているのだから。
「俺は諦めない。そして、あいつらも、きっと」
少年は既に世界の異変に気が付いている。
止まっている。世界の何もかもが停止しているのだ。
それでも、例え止まった世界の中でも、彼の意志は変わらず。
全ての過ちにケリをつける。ただそれだけを目指して昇りつづけるのだ。
「───俺は諦めない。俺の世界を救うまでは」
決意と共に右手が蠢くけれど。
決して、その手を伸ばすことは許されない。
───彼の右手は。
───蠢くだけで。
どちらも、世界を救う者にあたわず。
◆
※現時刻において世界の時間が止まっています。全ては次なる舞台の再誕まで。
※愛なんて、どこにもありません。
◆
「はい終わり。茶番も飽きたけぇ、そろそろ話ィ先に進めようでよ」
「えっ?」
ぱちり、と目を覚ます。
いつの間にか眠っていた少女は、ただひとり体を起こす。
いいや、ひとりではない。
目の前にはニヤニヤと笑う男の姿。それは確かに見覚えのある顔で、しかし何故彼がここにいるのか分からない。
それは───
「キャスター……ダン、カルマ」
「正解。いやぁよう覚えとったのぅジャリん子。厳密にゃぁ俺とアレとでは違うんじゃが、まあどうでもええことじゃ。
やれんたいぎぃ役掴まされおったが、如何せん大将に比べりゃいくらかマシじゃけぇ。消えるよりか儲けモン思って大人しゅう俺の話を聞いてけや」
男の胡乱な言葉に困惑し、周囲を見渡す。そこは幾本もの柱が乱立した、まるで碁盤の目のように建築された和の邸宅。
西享の、それも極東の極限られた様式故に、それが何であるのかを少女が理解することはなかったが、どこか趣ある屋敷なのだと感じた。
「一切合財のネタバラシじゃ。ここは《世界の外側》じゃけぇ、あの街の中じゃできんかったこともやり放題っちゅう寸法よ」
そして、その中央で不遜に立つ男を前に。
少女は───キーアはただひとり、心の裡で何某かの覚悟を決めるのだった。
【キーア@赫炎のインガノック 思念再構築】
【第二次聖杯戦争 空費時間突入】
投下を終了します
本戦はこれで終了です。次回からは主催戦その他諸々になります
<削除>
すごいの一言しか言えません!普通の人にはこんな文章は絶対に書けないと思います!
投下乙です
いよいよ大詰め。果たして彼等は明日の日の出を見る事ができるのか
投下します
少女たちよ。歪んでしまった魔女の想い綴られし物語を
優しい手でもって在りし日の夢のつどう地に横たえておくれ
封印された都市に訪れた十五年の中
彼方の地でつみとられた
巡礼たちのしおれた花輪のように
▼ ▼ ▼
───落ちていく。
落ちていく。現実には存在しない、幻想たちが眠る大海を。
アイは揺蕩い、舞い落ちるように、深海が如き深奥へと潜航していく。
ああ、周囲に輝くのは星だろうか。周囲を埋め尽くす虹色の虚無、その只中に漂いアイを取り巻く幾千幾万もの祈り、願い、誓い、夢見る物語。
アイの意識は短い安らぎの中を漂い、不可思議な浮遊感と現実味のない曖昧な多幸感を伴って。
その感覚を、一体何と言おう。
アイは知っていた。それは、夜と共に現れて、朝が来れば忘れてしまうもの。現実の楔から外されて、一時だけ羽ばたくもの。
アイは、夢に墜ちているのだ。
───竜を見た。
永い永い時をかけて誰かを待ち続けるモノ。孤高なりし優しき竜を。
「綺麗な竜……」
アイは言う。
竜は言葉に応えることなく、ただ世界の果てを見つめていた。
───光を見た。
それは黄金に輝く薔薇の魔女。吸い込まれそうな蒼い瞳が覗きこむ。
「綺麗なお姫様……」
アイは言う。
黄金の魔女は驚いたように手を伸ばすけれど、その手を掴むより先に、アイの意識は更なる深みに沈んでいく。
───嘆きを見た。
そこは血涙の湖のようでもあって、宇宙の暗黒のようでもあって、輝きの窮極のような場所でもあった。
その中心で、見覚えのある、けれど決して見たことのない赤い髪の男の人が、暗褐色の肌と血濡れた瞳の顔を向けて。
「いや、ここは駄目だ」
瞬間、微睡みからの波濤がアイの意識を押し流して。
「お前はまだ、ここに来るべきじゃない」
どこまでも深い───
嘆きを湛えた朱い瞳を、私は見た。
混沌に揺蕩う白いキラキラの星たちに触れるたび、ここではないどこかの記憶と光景が、アイの意識に流れ込んでくる。
だからきっと、そう、きっと。これは虚構などではない、現実にあったモノなのだろう。
ここがどこなのか、アイは知らない。
気付いたらここにいた。というよりは、落ちていた。
何があって、自分は今どうなっているのか。キーアやすばるはどうなったのか。
それすら分からず、けれどどうすることもできず。
アイはただ、無数に揺蕩う星たちの間を漂いながら、その記憶に触れることしかできなかった。
そして、アイは"それ"を見つけた。
無数の星たちの一つ、渾沌の奥底に沈んだ白い輝き。
そこから、何故か懐かしい気配が感じられて。
「……これ、あの時の」
あの時。
アイが意識を閉ざす、その直前。
騎士王が英雄王を打倒し、月を見上げた時のこと。
あの時自分たちを見下ろした瞳と、そこにあった狂おしいまでの慈しみの情念。
それと同じものが、この星から感じられたから。
───渾沌を見た。
それは名状しがたい暗黒の渦。桃色の煙に包まれた宇宙の中心。
冒涜的な太鼓とフルートの音色に包まれて、神の如き何者かが沸騰する渾沌の中心で眠り蠢いている。
「きっと、これが、聖杯戦争の……」
真実の一端がそこにはある。
そう確信し、アイはそっと手を伸ばす。
今までと同じように、光へと。
包むように、撫でるように、ふわりと触れて。
そして───
『そして無数の星空で彼への傾慕を吐き散らし沸き還る
最愛の這い寄る最愛の無尽蔵の恋慕に他ならぬすなわち愛を
超越した想像もおよばぬ渾沌の阿片窟で下劣な嬌声の
くぐもった狂おしき情愛と芳晴らしきアガペーのか弱い
単調な愛言葉の只中餓えて貪り続けるはあえてその名を
告げた者とておらぬ愛しき我が世界救済者アリス・カラーと呼ぶならば
アリスフィリアを見逃してはならないそれは想像を超えて
繰り返す世界は我が死を契機としてされど不要とそしられるなら
白の凋落に意味はなく愛しかしゾーエーはなくシューニャは遥か遠く
性的倒錯の脳髄の裏に記述されている大慈大悲を司る我ら
慈しみを奏でる調音ノイズと忌避されし背徳地へと至る少女と
燻られた想ひ出綴る亡霊は我がアリスのみ恋い慕うあるべき物語
願いの果てへ行き着くは41の命と41の願いをくべてされど月に降り立つ
我が救いの奇跡は未だ都市になくぼくはそれだけを求めて
たったひとつだけを求めて永遠が欲しくて欲しくて欲しくて
愛してほしくてそれが叶わぬならせめて二人だけでいようと
殺し合え盲目の生贄共お前たちにそれ以外の価値はないだってお前たちは
そのためだけに生まれてぼくは愛を得て愛して愛されて愛されて
キラキラキラキラお星さまぼくは間違ってない神さまどうかお願いします
ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにはアリスしかいないん
だ。ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにはアリスしかいな
いんだ。ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにはアリスしか
いないんだ。ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにアリスし
かいないアリスだけを愛しているアリスと愛し合うアリスと愛
し合うアリスと愛し合うアリスと愛し合うアリスとアリスとア
リスと愛し合う愛し愛し愛し愛し愛し愛し愛死愛死愛死愛死愛
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
ア
イ
死
て アリス 』
「───……ッ!?」
流れ込む凶念に思わず手をひっこめようとして、けれど体が動かない。
いいや、そもそもアイに体なんてなく、だから抵抗なんてできるはずもなくて。
そして次々と流れ込む感情と光景がアイの意識を埋め尽くして。
そして、見える。
月としてアイたちを見下ろしていた、あの瞳の真実が。
◆
彼にとって最古の記憶は、桃色に染まる煙に包まれた光景だった。
香を吸えば愉快痛快。苦痛は剥がれて揮発する。
この楽園は絶対だ。何故なら誰もが閉じている。
因果? 理屈? 人格? 善悪? 知らん知らん、それを決めるのは己だけ。他我の交わらぬ心の中で好きに世界を思い描けばいいと、あらゆる者が酔いに酔い痴れ謡いながら霞の中で踊っていた。
それは万人に分け隔てなく解放された完全無欠の桃源郷。無償かつ永遠に酒池肉林が広がり続ける楽に満ちた仙境は、夢の主を語る上で外せぬ原風景に他ならない。
上海に深く根付いた、中華最大規模の阿片窟。
大戦から派生して生み出された巨大な堕落の桃源郷で、後に第四盧生となる男は幼少の日々を堪能していた。
いつから自分がそこにいたのか、どうしてそんな場所にいたのか、それは彼自身も分からない。
捨てられたのか、自ら進んで入ったのか、もしくはここで産み落とされたのか、あるいは特に意味などないのか。正確な部分は最早誰も覚えていないし、調べようもなかった。何より本人がそれを大した問題だと全く思っていなかった。
母を名乗る人物が一応傍にいたものの、それが本当に血の繋がった身内であるかという点さえ、やはり同時にどうでもいいことだった。何せ煙を吸いさえすれば世界は幸せなのだから疑問に思うことすらない。
彼自身、そして彼の母親すらも重度の阿片中毒者。
当時の中華は騒乱の只中にあり、日々の絶望を紛らわすため阿片に縋る者は大勢いた。その意味で、彼らはありふれた人間であったと言えるのかもしれない。
ともあれ彼は人界から切り離されたこの場で育ち、彼にとっての世界はただひたすらに幸福で満ちたまま宴のように進行していく。
母はいつも幸せそうに笑っている人だった。女手一つで幼児の彼を育てている現実に泣き言など僅かもこぼさず、常に笑顔を崩さない。
阿片窟にいる他の者たちも同様で、皆が皆、例外なく至福の夢に包まれている。
それもそうだろう。何せ互いにコミュニケーションが取れないからこそ彼らは激突しないのだ。
常に焚かれて蔓延している阿片の煙は互いの世界をそれぞれ綺麗に遮断して、二分したままぶつからせない。
実際に他者と直に遭遇しても、決して両者を統一された意識のもとで鉢合わせたりはしなかった。
自己の世界に入り込み完結している。都合のいい一人芝居がそこかしこで繰り広げられている。
よって母もそうだったし、本当のところ彼を息子と正確に認識していたのかさえ分からない。実は娘と、いいや父と、あるいはかつての恋人と思っていたかもしれないが、しかしそれでも構わなかった。
ああ何せ、"人間とはそういうもの"だから。
阿片窟という環境で育った少年にとって他者とは常にそういう反応を返すことが正常なのだと当たり前に認識する。
意志疎通? なんだそれは、概念さえ分からない。
普通より大分遅れて一応言葉も覚えたが、会話の本質は今に至るも掴めていない。そんな状態で健やかに、正常な観点ではとても歪に愛を注がれながら成長していく。
阿片に染まった空気を吸い、阿片が沁みた乳を飲み、阿片に揺蕩う人の中で文字通り夢に包まれ育った。
故に自然と彼も中毒者となったのだが、しかし彼の場合は何故か、生まれつき阿片毒への耐性を身につけていたのが他の者との大きな違いだった。
そしてそれは、通常の免疫なり抵抗力とは少々趣が違う形となって現れた。
酔っているのが常態となっているため永遠に中毒症状が醒めない反面、阿片の毒で衰弱することもない。
要は身体や生命活動に一切の害を受けないまま、精神高揚の恩恵だけを受け取れるという特異体質。そういう意味では、彼は最初から夢の住人だったし、生涯通して素面の状態を経験したことがなく、その意味するところも知らなければ不都合を感じることもなかった。
そうだとも。ここは万事、永遠の幸福が約束された桃源郷。困ることなど何もなく、ならば各々好きにすればいい。
母は稀に彼を間違え、打ち捨てられた人形なり死体なりを優しい笑みで愛玩している。いいことだ。
向かいの男はいつも女へ愛を語り、蛆と蛭の湧いた腐肉へ猛然と股ぐらを突っ込みながら絶頂している。仲睦まじくて素晴らしい。
隣の老婆は毎日欠かさず、神仙の桃と名付けた馬糞を飽きもせず独り占めしながら貪り食らっている。満足するまで食べるがいいさ。
不老長寿の小便売りは大繁盛で、通りに座る大将軍は蠅を相手に明日の軍議を説いている。酸で水浴びする女は永遠の美の探求に忙しく、子供は姉の内臓調理に炎で父を洗いながら犬の頭蓋を鍋にしつつ、至高の演奏を披露するは僵屍の群れを前にして、導師が平和を守っているため老人は両目を蠱毒に捧げたのだ。なんて感動的なのだろう。
あなたの、君の、お前の、きっとたぶん、活躍と勇気と幸運で世界は救われたのだ。
素晴らしい。今日も世は泰平である。
何もおかしいことはない。ここには笑顔が溢れていた。
中でもとりわけ、母の愛情に対しては感謝の一言しかないだろうと彼は考えていた。
休みなく錯誤している事実を除けば、彼女はまさしく親として一点の曇りもない愛情を彼に注いでくれたのだ。
そこを疑う気持ちは微塵もない。白痴とは見方を変えれば聖性の顕れでもあるのだから。
優しい親と、幸せそうな周囲の人々。彼から見て、この世界は紛れもなく完璧だった。
そんな日々が、ある日突然終わりを迎えた。
誰かが火を用いたのか、それとも外部から持ち込まれたのか。阿片窟全域を包む火災が前触れもなく発生。
結果として、彼以外の全員がそこで焼け死ぬことになる。皆幸せそうに、例外なく夢見心地で。
いつもと同じ一人芝居を続けながら、誰しも笑顔で、動く火柱と化したのだ。
彼一人が生き残ったのは母親に抱きしめられていたがためであったが、それは炎から守ってくれたという意味での母性では当然ない。
別にただ、いつも通りに、彼女は阿片にやられた頭で彼を慈しんでいた、その結果である。
命を捨てても我が子のためにか、いつものように我が子のためにか、理由としてはどちらであっても結果は同じこと。
ならば論ずることなど無粋だろう。母が真に彼を愛していた点は間違いなく真実だと言っていい。
そしてその後、ともあれ一人生き残った彼は、今までと全く異なる別種の価値観が横行する世界で生きていくことになる。
燃え落ちた阿片窟を取り仕切っていた青幇、いわゆる中華のマフィアであり、そこの頭目である黄金栄という男がわざわざ彼を引き取り育てたのだ。
しかし言わずもがな、そこに母のような愛情は全くない。
どの界隈でも験を担ぐのはよくあることだが、危険の伴う生業に手を染めている人間はとりわけその傾向が強かった。
兵士が戦場でジンクスを気にするように、黄金栄もまた彼なりの理由で少年を引き取った。
すなわち、大火事から無傷で生き延びた彼は奇跡的な星を持っていると解釈し、その加護を自身の統べる青幇にもたらそうと思ったからこそ、手許に置いたのだ。
伝統的な中華思想において、生まれ持った宿星を重要視し、その恩恵を得ようという発想はさして珍しくない。
つまりは彼の保護者となった男は親としての愛情を全くと言っていいほど持ち合わせておらず、ただ我欲のために行動するという、端的に言って屑と呼ぶに相応しい存在だったことは確かな事実なのだろう。
死んだ母とは大違い───彼がそうした認識を正確に持つことはなかったが、この新しい父親が母とは違う属性の持ち主であることは感覚的に理解していた。
何故なら、母が自分に与えてくれた環境は素晴らしい桃源郷だったが。
父が与えた環境は、まさしくそれとは正反対のものだったのだから。
期せず阿片窟を出た折に、彼は"正しい外界"とやらを初めて目にすることになったが、しかしこれは一体どうしたものなのだ?
皆が皆、常に何事か激し、あるいは涙を振りまいて互いに触れ合って交わっている。この理解しがたい行動はなんなのだ?
激することを「怒り」、嘆きを「悲しみ」、そうした感情を以て交わることを「争い」であると彼が学んだのは更に先のことであったが、しかし初見の段階からして彼は感覚的にそれらの行いに疑問を持った。
何故この者らは、このような不毛な行いに終始しているのだろう。
金銭や尊厳、理由は多々あれど共通しているのは一つきり。他者にわざわざ自分の理屈をねじ込んで、必死に手間暇かけながら、実際に血まで流しつつ思考を統一しようとしているその理屈がまず分からない。
「こいつら人間ではないのか?」
何故他者に承認を求める。
何故自分の中の真実だけで善しとしない。
何故わざわざ他人がどう考えているのかを知りたがり、知って自分を曝け出し、言葉を交わらせた挙句に傷つき傷つけ合うのだろう。
それはまるで、せっかく作り上げた芸術品二つを、諸共にぶつけて壊してしまうかのような所業。彼が生きた価値観、その美しさに比べるとあまりに異質で哀れな有り様だった。
阿片窟の人々のように、世界を自分の形に閉じてしまえばみんな幸せになれるだろうに。それこそが人間だろうに。
結局みんな、見たいものしか見ようとしないのに。自分の中の真実しか信じていないし大切などと感じていないのに。
分かり合う? 仁義? 絆? なんだ、お前たちにはそれが必要なのか? 何故閉じないのかまるで分からない。本当はみんなそうして生きたいはずなのに。
際限なく彼の中で噴出する疑問の嵐。そんな懊悩に囚われながら幇会の一員として育った彼は、やがて阿片に関する驚異的な才覚を発揮して青幇を掌握していくことになる。
その過程で、育ての父である黄金栄も流れるように阿片中毒者へ落とすのだった。
それを見て、彼は満足そうに笑う。これでいい。ようやくこの怒ってばかりだった可哀相な父を、母のような笑顔にできた。
だから、ああ、そうだ。次は"みんな"を救ってやらねば。
彼は迷わない。これが世界のあるべき姿であると信じているから。
この美しさ、この完成された夢を掛け値なしに愛している。
幸福に包まれた環境で育まれた優しさが、衆生の悩みを取り除かんと今も切に訴えている。
お前たちは盲目だ。等しく何も見ていない。
他者も、世界も、夢も、現も、いつも真実とはお前たちそれぞれの中にしかないのだろう? 見たいものしか見ないのだろう?
愛い、愛い、実にすばらしい。
その桃源郷こそ絶対だ。その否定こそ幸福だ。お前たちが気持ちよく嵌れるなら己は何も望まない。此処に夢を描いてくれ。
「お前がそう思うのならお前の中ではそうなのだから。
誰に憚ることがある。さあ、奏でろ。痴れた音色を聴かせてくれ。人間賛歌を謳うがいい」
◆
「……」
映像の途絶と共に弾き出されて、アイは言葉なく微睡みの淵に浮かんでいた。
これは、なんだ?
語られたことの意味は分かる。しかしそれがここで語られる意味が分からない。
この人物、曰く"彼"が特異な精神と出自を持ち合わせていることは理解した。しかし、それでも彼はあくまでただの人間でしかない。
アイたちを見下ろした、巨大な月の瞳持つ神の如き者であるとは、とても……
それに一番最初、あの時に流れ込んできた思念に至ってはその正体すら分からない。
得体の知れない不安感が、アイの胸を締め付ける。今まで夢見心地に白んでいた思考が、急にはっきりと形を持つようになってきた。
理屈ではない。しかし感覚的な部分で、何か大きな不安が鎌首をもたげる。
まるで致命的な見落としがあるかのように、胸を苛んで止まらない。
自分は今まで懸命に抗ってきた。戦い、歩み、ここまで来た。そのつもりだ。
しかし、進んでいるように見えてその実"全く進んでいなかった"かのような。
そんな言い知れない焦燥感が、心を支配して。
瞬間───
世界が、ひっくり返った。
急に全身に現実感が戻った。ぐるりと景色が回転し、今まで見えていた虹色の虚無と星々が捻じ曲がるかのように遠のいていく。
心臓はまだ早鐘のように鳴っていたが、それは全てが過ぎ去った後のことだった。震えも鼓動も、すぐに収まる。
アイはその感覚を知っていた。その現実離れした異常な感覚は、アイにとって酷く遠く、そして同時にとても馴染んだものだった。
それは、つい先ほどまでと全く同じに。
アイは息をつく。その感覚を味わったものが、同じくそうするように。
そう、それは───
それは、夢の目覚め。
投下を終了します
投下します
あの時。
そうだ、あの瞬間。あたしは確かに覚えている。
セイバーの握る聖剣の光が、暗雲立ち込める世界を両断した時のこと。
全てが晴らされた空の向こうで、月そのものの瞳がこちらを向いた時のこと。
夜天の太陰が意識を向けたその瞬間、全ては忘我の彼方に追いやられた。
代わりに全身を包むのは、言いようのない安楽の感触、そして意思までも蕩けさせる慈愛の念。
事の次第に成り立ち、理屈。正常な状態において優先すべき諸々がこの一瞬だけ、彼女の中で確かに浮遊し剥離しながら都合の良い幻想を生んだ。
まさしく、キーアがそう思うならそうであれ、と。
束の間体感する桃源郷に包まれながら、現と夢の曖昧な境界をどこか茫洋と彷徨いつつ幸福の霧をかき分ける。
だからこそ、キーアはその時逆説的に知覚した。
朝が来るたび、夢の中で確かに感じていたはずの熱と現実感が"本当は無いもの"だと自覚していく感覚と全く同種の喪失感に愕然として目を見開く。
「セイバー……?」
罅割れ色を失っていく世界の中で、呟いた声音はどうしようもなく怯えていた。
顕象した夢が砕け霧散したような、彼そのものが陽炎めいて消えた感覚に思わず大きく身震いする。
アーサー・ペンドラゴンが、いいや当然、彼だけでなく───
「アイ……スバル……?」
アイ・アスティンが、すばるが。
自分の隣にいたはずの仲間たちが、この時連座で消失した恐るべき絶望を、キーアは疑いない真実として誰より深く察知したのだ。
ああだって、"今の自分はマスターですらない"と感じている。
令呪の有無やパスの繋がり以前として、彼と繋がっていたという確かな実感が跡形もなく消え失せているのだ。
月の瞳に見つめられた瞬間、泡のように消えていったのを自覚している。
ああ、だから。だから───
「だから、お前は最初から知っちょったんじゃろう?」
小馬鹿にするような男の声が、景色ごと懊悩を吹き飛ばして現れた。
「とまあ、これが後の《第四盧生》黄錦龍の生い立ちゆうことじゃな」
一息つくように言葉を止める狩摩。傾けられた煙管から細い紫煙が零れる。
「盧生の条件は人類愛。その意味じゃあ奴も確かに人間ゆうもンを愛しちゃおった。
無論、それが他人にとって有益であるとは限らんちゅうことじゃが」
怪訝な表情のキーアに、しかし返ってくるのは意味深な笑みだけだ。
面白い見世物を観覧しているかのように、狩摩は少女を見つめている。
彼が何故このタイミングで現れたのか、その真意はどこにあるのか。いいやそもそも、この壇狩摩自体が己の見る都合の良い■■ではないのか───と。
話を聞いている間にもずっと巡らされていた少女の疑念を、彼は飄々とした態度であしらいながら、大した問題ではないと含み笑っていた。
「盧生……それは、甘粕正彦と同じ」
「そう、邯鄲の最奥に行き着いた夢の覇者っちゅうことよ。
じゃが奴の場合はそれこそ規格外。何せ青幇の部下と奴自身が堕とした三百万の阿片中毒者を眷属に、甘粕でさえ十年をかけた夢界の踏破を"たった数時間で"成し遂げたんじゃからの」
それは……
基準となる物差しこそ未だに分からないが、しかし規格外という彼の言葉が事実であることは理解できる。
そしてキーアは知らないことだが、盧生としての夢界踏破の適性が高いということは、ある一つの事実をも意味していた。
「抱える眷属の数は、盧生資格者の掲げる夢がどれほど支持されやすいかの指標にすることもできる。
無限の試練を課す甘粕は論外としても、メメント・モリのクリームヒルトは愚か、受け継いだ誇りを次代に繋いでいくゆう大将の夢ですら、最終的な支持者は大しておらんかった。
まあそれも仕方のないことよ。何せ錦龍以前の盧生は全員、方向性はともかくとして『輝くために努力せよ』と説くことは共通しておったんじゃからの」
苦難を乗り越え成長しろ。
自らを誇れる自分でありつづけろ。
死を想えばこそ輝ける生を築け。
歴代の盧生が掲げた人類賛歌の夢とはそういうもので、それは傍目から見ればどれも輝かしいものには違いないが、しかしそれを実践できる人間は果たしてどれほどいるものか。
人間とは怠惰な生き物だ。頭でどれほど正しきを分かっていたとしても、それを行動に移すには多大な労力と覚悟が必要となってしまう。
正しいことは痛いもので、間違いや自堕落のほうが遥かに楽で気持ちがいい。
やるべきをやらず、努力を怠り、目先の楽に飛びつき、成長もしないままただ何となく人生を謳歌する。どれも間違っているけれど、本当に気持ちのいい不正解。
だからこそ、歴代盧生が掲げる夢に心底から同意できる人間は希少種だった。盧生とは結局、一般人類の平均値から逸脱した異常者に他ならず、人間賛歌の形も強者の理屈でしかない。
しかし。
「対して錦龍の掲げる夢はこうじゃ。『良い夢を見ろ』、ただそれだけよ」
それは恐らく、人間という知性体に対する最も普遍的な願望の顕れと言えるだろう。
「まあ大概の人間は"夢"っちゅうもんを持っちょる。それを叶えるために努力しちょる奴もおれば、諦めて足を止めた奴もおる。ただ何となく生きとる奴だとて、幸せになりたいだの金が欲しいだの楽がしたいだの欲求はあるわけじゃろ?
錦龍の万仙陣はそうした人間の欲を無差別に取り込み、実現させるのよ。当人の望むまま、望むだけの夢を」
「ちょ、ちょっと待って」
含み笑いながら語られる狩摩の言葉に、しかしキーアは納得しきれず反論する。
「無理よ、だっておかしいわ。みんなの願いを叶えるって、そんなこと……」
「矛盾ばかりで破綻する、言いたいのは大方そんなところじゃろうが」
煙を吐きだし、喜悦を湛えた気だるげな態度で狩摩が答える。
そうだ、その理屈はあまりにも矛盾が多すぎる。
単純に考えて、人の多様な願いをそのまま実現させることは不可能だ。願望実現に対するリソースの話ではなく、問題は両立ができないという点にある。
例えば世界の救済を望む者と、世界の滅亡を望む者がいたとしたらどうだろう。生きたいと願う者と、その者を殺したいと願う者がいればどうなる?
世界中全ての人間と手を取りたいと願う者と、永遠の孤独を願う者ならどうだ? そして例えば、願いなどいらないということが願いである者だっているだろう。
人が複数人集まれば、そこに必ず衝突があるように。
狩摩が言う錦龍の理もまた、そうした矛盾と不可能性に満ちているのだ。
だが、しかし。
「そこは問題にはならんよ。さっきも言うたじゃろ、『良い夢を見ろ』と」
「それって、つまり……」
そこまで言われ、キーアにも狩摩が言わんとしていることが段々と分かってきた。
矛盾に満ちた願いの実現、そして夢を見ろという人間賛歌の形。そこから導き出されるのは至って単純な解答。
すなわち。
「錦龍の理は全人類を覚めない眠りに誘う。そしてその夢の中で、各々思い描く理想を実現させるゆうことじゃな」
「そんなのって……」
「空虚に過ぎる、そう言いたいんか?」
虚を突かれ、思わず口ごもんでしまう。
狩摩は全く表情を変えず、薄く笑ったままで続ける。
「じゃが、それが普遍的な人間の在り方っちゅうもんよ。
事実として錦龍の夢は人類種に対する親和性があまりに高すぎてなぁ、これに対抗できる人間なんぞそうおらん。
仮に万仙陣の真実を知ってそれを否定できたとしても、奴はその否定すら願いと捉えて叶える始末よ。
黄錦龍に勝ちたいと願えば、夢の中で錦龍との戦いを具現し夢の中で勝利させる。苦難の道を、自分はこんなもの望んどらん、死にたい、それらも一切合財が同じじゃ。
怖い、怖いのう万仙陣は。気持ちよく願う限りどいつもコロリと堕ちよるでよ、そりゃたまらんわ。無茶ぶりにも程があろうや!」
一転、何が楽しいのか破顔一笑する狩摩。キーアの懊悩を知らん知らんと吹き飛ばし、膝をついて歌舞伎のように口角を釣り上げた。
「とまあ、これがお前らの殺し合ってまで欲しい欲しいと手ェ伸ばした聖杯の正体よ。
ところで、何かおかしいとは思わんか?」
おかしい、とは。
おかしなところなど、それこそ掃いて捨てるほど存在する。
あの月の瞳は何だったのか。
自分は今、何故ここにいるのか。
セイバーやアイたちが消えた理由は。
そもそも目の前にいるお前はなんだ。
聖杯の正体? 夢を見させる夢? なんだそれは荒唐無稽すぎて理解が追いつかない。
けれど。
「憧れて、夢を見て、生きたいと祈り続けて。
なあ、もう分かっちょるんじゃろ? 事の次第と真実を」
容赦なく突きつけられた言葉は、キーアの中からそれ以上の問いかけに対する意思を奪い去った。
ざっくりと、容赦なく言葉の鉈が心に食い込む。息が詰まった。体の震えが再発して止まらない。
だから、さあ、それでも言えや。気付いた真を此処に晒せ。
生者たる他の二人ではなく、《奪われた者》であったお前だからこそ気付けたものがあるのだろうと、語りかける盲打ちに意を決して、キーアは小さく口を開いた。
そう、自分はもう半ばまでそれを自覚した。
聖杯戦争に起こった最初にして最大のご都合主義を。
己が何より見たがっていた幻想。
現実的に考えればまずあり得ない、始まりの阿片窟とは、すなわち。
「あたしが……
あたしという存在が、誰かの見た夢だった」
その言葉に、狩摩はただ笑みを深めるのみだった。
◆
「理屈としてはサーヴァントと本質的には同じよ。夢か信仰か、ともあれ人の想念が形となった虚像。俺らは"タタリ"と呼んじょるが、まあそこはどうでもええじゃろ」
泣き出しそうになる喪失感に堪えながら、血を吐くような思いで己が真実を口にしたキーアに、狩摩はどこまでも軽薄なまま首肯する。
「聖杯……まあ実際には万仙陣そのものが聖杯と偽られておったんじゃが、ともかく高次元の位相から投射された影たる"聖杯"いうんは、結局のところ優れた魔力リソースでしかない。万能の願望器いうんは、結局のところ金があれば何でもできると言っちょるんと大して変わらん。簡単に言やあ人間にできんことはどう足掻いてもできんのよ」
それは……どこかで聞いたことがある。
聖杯とはあくまで時間を短縮するものであり、あるいはそこにかかる費用等を捻出するものでしかない。
建物を作る。都市を作る。時代を作る。
そういった、人が着実に築き上げるものを、膨大な魔力資源によって前倒しにするのが聖杯だ。
「それを踏まえて、この鎌倉でやっちょった聖杯戦争はどういう有り様だったか。
異なる世界から何十人もの人間を呼び寄せ? 既に死んどる奴も無理やり生き返らせ? 挙句は時系列すら無視した招集具合と来た。あり得んじゃろ、そんなものは」
異世界への渡航も、死者蘇生も、時間逆行も未だ人類が手にかけることの叶わない領域に存在する。
そんなものは聖杯が完成しても実現不可能な代物であり、ならば聖杯を完成させる前段階に行使するような機能では断じてない。
ましてキーアは、自分こそがこの都市に降り立つことの叶わない存在であることを誰よりも自覚している。
《奪われた者》、十年前に死した人間、無貌の道化に運命線を握られた者。
そんな自分が、あらゆる束縛を乗り越えて異形都市の外に立っていたという事実。
それら不条理の数々を、たかが聖杯戦争のマスターに仕立てるためだけに行ったというのか。
その疑問に対する答えがこれだ。薄闇へ隠され続けた真実が、ついに白日へと引きずり出された。
「その辺纏めて、朔の日というものの趣旨よ。歴史に空いた風穴に各々が都合のいいものを見たがった。
例えば、お前もそうじゃったが聖杯戦争を拒絶する人間も中にはおったが、そいつらは揃いも揃って"鎌倉の外に逃げる"っちゅう思考を持たんかった。あるいは令呪を破棄し、教会側に助けを求めるっちゅうこともな。実際のところ教会の監督役として顕象された"タタリ"は早々に消えてしまったんじゃが、誰もが一度も考えなかったいうんはおかしな話と思わんか?」
無論のこと、サーヴァントを失えば半日で消滅するという縛りがあればこそ、思いついたとしても実行に移すのは不可能に近いことではある。
しかし明確な戦意や元の世界に帰りたいという願いがなく、純粋に生きたいだけの者であれば監督役に縋りつくという道もあっただろう。前相談もなくいきなり連れてこられたのならば尚更に。
いいや、そもそも。
サーヴァントを失えば消えてしまうというルール自体、マスターという存在が夢のような希薄さしか持っていないということの証左ではないのか。
「思い出してみぃや。お前が出会った"聖杯戦争参加者以外"の民衆はどんな様子じゃった?
どいつもこいつも熱に浮かれたように、異常事態に狂喜する連中じゃあなかったか?
口では恐怖し忌避しながらも、心の底では面白おかしく事態を眺めてる様子じゃなかったか?
夢を見ているような連中じゃあなかったか?」
その違和感はキーアも持っていた。そして彼女のサーヴァントであるセイバーも、また。
この都市の人間は病んでいる。連続殺人鬼に暴力組織の台頭、度重なる破壊に正体不明の戦艦の鎮座。ここまでくれば普通なら避難なりの安全策を取るものだろうに、しかし彼らは逃げるどころか普通の日常を続行さえしていた。
危機意識が欠けているのではない。彼らはちゃんとそうしたものを持っていて、しかしそれを上回る好奇心と探求心を抱えていた。
つまるところ、彼らは非日常を楽しんでいた。
まるで夢の中に微睡むように。
「なら、孤児院であなたが言ってたことは……」
「おうとも、実は瀬戸際じゃったぞありゃあ。なんせ蓋を開けてみれば、ハナから死ぬつもりの死線を除けば黄金王と赤薔薇王しか事の次第に気付いちょるもんがおらんかったでよ。
あまりに手が足らんかったけぇ、魔女の呪いを押してまでお前の騎士様に忠言しちょったんじゃからのう。実際役に立ったじゃろう? 俺の言葉は」
指摘はまさにその通り。孤児院での戦闘を乗り越えた後のキーアたちは、まさに狩摩の助言通りに事を進ませ、その結果として今に至る。
辰宮百合香との合流も、『幸福』の討伐も、あるいは英雄王との対峙すらも。全てはこの男が言った通りに進行していった。
そもそもの話、今となってみれば『幸福』などはまさしく"夢を見させる"怪物という、あまりにも酷似した存在なのだ。気付ける要素は最初から存在した、符号的なものはそこかしこに点在していたのだ。
「なら、だったら」
だったら。
そんな不可思議な状況を、この荒唐無稽に過ぎる舞台を目論んだのは。
「この聖杯戦争を仕組んだのは、一体誰?」
狩摩は、笑った。
「さもありなんよ。決まっちょろうがい。
聖杯たる黄錦龍を除けば、この都市を俯瞰できる立場に在るんは一人しかおらん」
たった一人。
たった一人だけ、それができる者がいた。
「鎌倉市民に夢界を通じて夢を見せ、
その共通思念を利用して数多の世界の人間をタタリとして顕象し、
錦龍から零れ落ちた欠片の一つを第八等の空想樹として楔とし、
鎌倉という都市そのものを夢界第三層へと墜落させ、
タタリという幻想にサーヴァントという幻想を宛がい、
最後に残った《願い》を呼び水として第四盧生の真なる降誕を目論んだ者」
それは、すなわち。
「裁定者───ルーラーのマスター。そいつが全ての元凶よ」
キーアには、聞き覚えがあった。
それはすばるから聞いたことだ。ウォルフガング・シュライバーの襲撃から逃れ、一時の休息を得た時に聞いた、それは確か。
「アーチャー……スバルのサーヴァントを生き返らせた」
ブレイバーに曰く、一度消滅したはずのアーチャー・東郷美森は精神汚染を付与された上で再召喚され、ルーラーのマスターなる者の手で使役されていたという。
それは聖杯戦争の不文律にあるまじき事態であり、ならばこそ。
「ついでに言えば、お前を襲ってきた狂化したセイバーや、《奪われた者》のことを知っちょった吸血鬼のランサーも同じ立場じゃった。
狂化、精神汚染、運命線による束縛。それぞれ違うが連中はお上に逆らえんよう二重三重の枷をかけられちょった。それは同じく《奪われた者》のお前なら分かることじゃあないか?」
その通りだ。《奪われた者》は自由意思こそあれど、その行動の全ては裁定者の都合が良い結果に収束してしまう。
更にそこへ狂化や精神汚染の付与などと、どこまでも用意周到なことではあるが。
「なんで、そこまでして……」
「知らんよ。そいつが何を考え、何を目的に錦龍を利用したかなんぞ。俺ぁあくまで安全装置の一種じゃからの。
大将と本来の俺とて夢界に刻んだ、舞台が崩落しかけた時にお前みたいなんを掬うだけの機能じゃて。まあ出てきた時になんぞ思い出した気もするが、上手いこと嵌ったんならよかろうが。うははははははははは!」
つまりは黄錦龍やそれ以降の盧生が現れ、アラヤに危機が迫った時に導く者として狩摩が現れるよう仕組まれた一種のプログラム。後催眠暗示のようなものなのだと彼は語る。
「じゃがまあ、勘違いせんで欲しいんは俺はお前に目をかけちょるってことよ。期待しとるんじゃ。
なんせ黄錦龍は純粋な暴力じゃどうしようもないけぇの、そこは甘粕じゃろうと大将じゃろうと叶わんわい。
黄の最も恐ろしいところは、その精神性故にあらゆる攻撃が永遠に到達できんという点よ。相互理解を端から放り投げちょるせいで、切った張ったが意味を為さん。
都合の良い捉え方を片っ端からされちょるわけじゃな。昔のお嬢どころじゃないけぇ、こっちとしては手が出せんわ」
殴られた───ああお前、そんなに俺が好きなのか。
貶された───おいおい、そんなに俺を讃えるかね。
どんな否定や攻撃も、彼は彼の閉じきった現実の中で一人芝居に変えてしまう。
疑う余地なく描き出されたその妄想は、盧生の力で現実と化し、どのような敵意であっても黄の肥やしに塗り潰されて反転する。
まさに無敵だ。かつて第二盧生───柊四四八も認めた通り、黄錦龍こそ盧生という器においては甘粕さえも凌駕する怪物なのだと言っていい。
故に本来、誰がどのような干渉をしようと彼を脅かすことはできない───はずなのだが。
「まあ、黄が単体じゃったら正真正銘の詰みだったんじゃがの。
他ならんルーラーの影響で此処には黄金螺旋階段が現出しちょる。じゃから、可能性があるとすればお前らよ」
「あたしたち……?」
怪訝な表情を形作る。
事態に精通する狩摩や他の盧生、あるいは数多のサーヴァントたちなら話は分かる。だが、キーアたちは単なる無力な子供に過ぎない。何をも為せない子供だ。
「言うたじゃろうが。奴に単純な暴力は通用せん。
なら逆説的に、アレを討滅し得るんは同種の人間のみよ。そこに力がどうとかは関係ない」
心の海に揺蕩う仙王、内側に閉じ外界を認識しないが故の無敵の盧生。
ならばそれを打ち破るには外界を認識させる必要があり、そのチャンネルと成り得るのはまさしく。
「心配せんでええ。お前以外の二人もきっちり現存しちょる。消え失せてはおらんよ。
じゃからほれ、気合入れんかい。ここがお前の正念場じゃけぇ。信じちょるから、俺もお前らに後を託したんじゃろがい」
そうだ。キーアは今も忘れていない。
この狩摩はともかくとして、アーサー・ペンドラゴンや藤井蓮、立ち上がったブレイバーに他にもたくさんの英霊たち。それに何よりアイやすばるといった面々。
彼ら彼女らの健闘あったればこそ、今ここに自分は存在している。
その誇らしさも、その感謝も、消えず胸に残っている。
ならば、それを形にしないと。
多くの人に託されたならば、今を生きる人として前を向かねばなるまい。
例え、この身が骸であろうとも。
「切った張ったが意味を為さんジャンル違いなのはチクタクマンも同じことよ。グリム=グリムを知っちょるお前にゃ、今さらな話じゃあるがの。
どうあれ見込まれたんなら、応えにゃあならんのう」
言うべきを終えたのか、それを機に狩摩の姿が消えていく。
あと幾ばくもないと分かったから、その前にこれだけは聞いておかなければならない。
「待って、一つだけ教えて!
誰かの夢から作られたあたしたちは、その夢が覚めてしまえば、もう……」
「消えるしかなかろうが。ハナから存在しちょらん夢の残滓、朝が来れば消えるが定めよ」
「───、ッ」
分かっていた。分かっていたつもりだった。それでもキーアは絶句して拳を握る。
当然の結末だと芯のところでは分かっていた。でもやはり、突きつけられた真実が棘となって突き刺さった。
既に死した自分はいい。
けれど、他の二人は。
まだ生きているアイとすばるは。
そんな運命を背負わせるのは、あまりに酷であろうと。
そんなキーアに対して、狩摩はどこか感慨深そうに含み笑って。
「青いのう、迷えや餓鬼んちょ。そしてさっさと片付けい。
他の連中ならいざ知らず、自己の世界を確立させたお前らなら、あるいは───」
突き放すような、健闘を祈るような、判別つかない台詞を残し、彼はそのまま消えていった。
そして。
そして、キーアの視界が白一色に包まれて。
投下を終了します
投下します
「そうして僕たちは、あの世界に形作られた」
その声は、濃淡の海にぽたりと落ちた。
寄せては返す波の音を聞きながら、すばるはただ、傍らの少年と共に白磁の浜辺に座り込んでいた。
「前にも言ったはずだ。僕達聖杯戦争参加者の、本来想定された用途自体が既に真っ当じゃなかった。
どう推論を重ねても馬鹿げた結論しか出てこない。だって前提そのものが間違っていたんだから」
「それを、みなとくんは知っていたの?」
「ああ。あの街で君と最初に出会った……そう、確か君のアーチャーが消滅した時だったか。
あの後、君の前から僕が消えようとしたその瞬間に、純粋空間の崩落と共に手が届いたんだ。とは言っても、知り得たことは大して多くはなかったけど」
自嘲めいた笑みを浮かべるみなとに、すばるは何も返すことができなかった。
言葉なく、続きを促す。
「タタリ……僕たちを構成するのは物質ではなく思念だ。人の想像、無意識の海から生まれた人の夢そのもの。
だからその存在や輪郭は常に不安定だし、ちょっとしたことですぐに揺らいでしまう。
例えば、そうだな。すばる、君は"自分が自分でない"と考えたことはないかい?」
「えっと、それは……」
押し黙ってしまう。みなとの言葉は詩的に過ぎてよく分からない。
彼の言葉は荒唐無稽で、けれど否定しかねる要素が含まれているのもまた事実。
そう、その想像は、確かに───
「僕がまだ"僕"として形を保っていた頃、つまりはマスターとして戦っていた頃の話だけど。
僕が戦ったマスターの一人に、君より少し年上の女の子がいてね。僕は問いかけたんだよ」
みなとはまるで、謳うように。
「"きみは誰?"、ってね」
そんなことを、言った。
「その時の僕は理解していなかったけど、彼女にとって……いいや、僕達全員にとってその言葉は致命のものだったんだ。
自分は特定の一個人であるという強い指向性を有して初めて成立するタタリは、だからこそ否定の言葉には呆気ないほど脆い」
みなとと相対したマスターの少女───直樹美紀───は、そんな些細な疑問の声一つで、途端に存在が揺らぎ致命崩壊を引き起こす寸前まで追い込まれた。
早期に真実に到達した赤薔薇王や英雄王が他者にその事実を伝えられなかったことには、そういった事情がある。彼らほどの意思と魂の強度が無ければ、そもそも事実の一端を理解した時点で構成思念が崩壊してしまう。
彼らはそれを承知していたし、伝え聞いた赤騎士も同じこと。その全てを知った上で、死線の蒼はこの舞台を茶番と断じたのだ。
「真実を理解した上で尚、自我を保っていられた人間も中にはいた。きみが知ってる中では、《英雄王》ギルガメッシュに《盲打ち》壇狩摩が該当するね。
他には《赤薔薇王》ローズレッド・ストラウスに《死線の蒼》玖渚友、《赤騎士》エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグやトワイス・H・ピースマン。そういえば甘粕正彦も名前だけは知っているんだっけ? まあともかくとしてだ」
みなとは向き直り。
「けど当然、そんなの耐えられない人間のほうが遥かに多い。僕が会った女の子……直樹美紀もそうだけど、実際にこれが原因で消滅したマスターもいる。
きみたちとは直接面識はなかったろうけど、笹目ヤヤはその典型だね。アティ・クストスは、確かキーアという少女の知己だったかな」
みなとは訥々と語る。その口調はあまりに静かで、無感にさえ思えて。
けれど、何も感じてないなんて、そんなことはあり得ない。何故なら語るみなと自身、そうした矛盾と自己の否定を乗り越えられるような精神的強者ではないのだから。
「彼女らだって決して弱い人間じゃなかった。しっかりとした自意識や、強い目的意思を携えていた。
それでも耐えられなかったんだ。人は、人が思うほど強くはなれない」
それは、耐え得た者の大半がサーヴァント、すなわち英霊の側にあるという事実が端的に指し示している。
どれだけ崇高な覚悟を持とうとも、一朝一夕で人の心は変わらない。
ある日何かの決意をしようとも、それで体が歴戦の兵になるなどあり得ない。強さを得るには弛まぬ鍛錬と努力が必要であるし、そうでない者はそもそも生まれつきから強さを持ち合わせている。
心とて同じだ。悲劇的な出来事や心を砕く痛苦があり、それを受け容れ乗り越えようと決意すること。それ自体は確かに尊ばれることだが、しかしそれだけで強い心が得られるかと言えば全くそうではない。
「でも、だったら……」
「なんできみは今も自我を保っていられるか、なんて。そんなことは簡単だよ。
きみは二度もシャルノスの束縛を打ち破った。それはきみが可能性の狭間で揺れる不確定の存在であり、同時にカケラ集めの旅を経て生を知り愛を知り老いを知り死を知り虚無を経て《空》への収束を目指す、ある意味では《奇械》と同質の存在だからだ。
キーアはそもそもが《奪われた者》であり、その運命を十年に渡って自覚していた。アイ・アスティンは……そうだね。彼女が抱いた夢もまた、それだけの重さを持っていたんだろう」
それは決して一朝一夕の代物ではなかった。
すばる自身が誰よりも分かる。仲間と共にカケラ集めをしていたあの日々は、決して軽くも薄くもない。
それは事実……なのだけれど。
「だけどこれで分かっただろう。"すばる"は別の時空に今も存在して、すばるという個我を持つきみは顕象された夢のカタチでしかない。
けれど、僕はあえて"すばる"と呼ぼう。きみは……」
みなとは振り向き、笑った。
儚くも強い意思が込められた、それが最上の答えなのだと確信した笑みで。
「きみはもう、"ここ"から出ないほうがいい」
そんなことを、言ったのだった。
◆
ここは、瑕疵なき完璧な世界だった。
どこか南国を思わせる美しい砂浜に、青々とした葉を揺らす木々。その向こうには森。空はもう間もなく日の出を迎えようとしている。水平線が銀色に輝き、雲は薔薇色。まだ群青色の天空には星が煌めき、薄い三日月が浮かんでいる。波は穏やかに浜へ打ち寄せ、その規則正しい音が耳に心地よかった。
まるで絵葉書のような世界。気が付けばすばるはここにいて、隣には何故かみなともいて。そうして今までぽつり、ぽつりと話してきて。
綺麗なところだと思う。けれど、ここから出ないほうがいいとは、一体。
「ここは何もない世界だ」
みなとが言う。感慨も無さそうな声音だった。
「ここはね、これだけの世界なんだ。今、僕達が見ている景色が、この世界の全てだ。これ以外には何もない。どこにも行けない。時間もない」
「これだけ……?」
「ああ。これだけの光景が、ずっとこのまま続くだけの世界だ。月は空に浮かんで日は昇らず、波は静かに寄せるまま」
すばるは呆然とした。なんて美しい、箱庭のような永遠。
「亜種異聞帯《無間大紅蓮地獄》。諧謔の理ならぬ永遠の刹那たる者が第六の天を握った事象世界、いずれ剪定されゆく可能性なき宇宙の姿だよ」
呟くみなとの言葉は、いっそ自虐めいた響きさえ伴って。
「ここには時間さえ存在しない。だから外の世界ではどうやったって近く消えるしかない君も、ここでならずっと生きていける。
僕達は永遠だ。この世界が何も変わらないように、ここにいる僕達も何も変わらない。
歳は取らないしお腹も空かない。怪我もしないし死にもしない、心だって摩耗しない。ずっと今の僕達のまま、同じ自我と感性のまま過ごしていける。
ここでは、それが叶ってしまう」
みなとは語る。それだけが、すばるの生き永らえる唯一の方法であるのだと。
「みなとくん……本当に、それしかないの?」
「ないね」
一瞬の間もなく断言される。
「君達は最初から"存在しなかった"人間だ。だから生きるか死ぬかとか、そんなこと以前の問題なんだよ。
何をどうしたって君は消える。ルーラーのマスターの思惑が叶おうが叶うまいが、彼らを倒そうが倒すまいが、いずれにせよ消滅する運命は変わらない。
聖杯が通常の大聖杯ならリソースを使って受肉することも叶うだろうけど、実物がアレでは僅かな余命を夢に沈められるだけだ」
もっと生きたい? ならば生きればよかろう。お前はお前の世界の中で、お前の世界が消え去るまで存分に人生を謳歌できるのだ。
そう嘯かれ夢に落とされる未来が見えるかのようだ。慈愛に満ちた月の瞳に見つめられ、すばるという名の廃神はその存在を断たれるに相違ない。
「でもここは違う。ここなら、君は消えない。
泡沫のように消えてしまう定めだろうと、時間が進まなければその終わりに辿りつくこともない。
停滞したモラトリアムだ。何も得ることはないけど、何も失うことがない。
だから、すばる。お"願い"だ」
みなとは、顔を上げて。
「僕と、このまま一緒に……」
最後まで言うことは、できなかった。
「みなとくん」
すばるの表情は、何も変わってはいなくて。
「ありがとう。みなとくんはずっと、わたしのことを心配してくれてたんだね」
けれど、尽きせぬ想いがそこには一つ。
「……すばる」
「確かに、みなとくんの言ってることは分かるよ。わたしだって消えたくない。まだ、生きていたい。
だから、もしもここにあおいちゃんやいつきちゃん、ひかるちゃんにななこちゃんに会長や、パパとママや、アイちゃんやキーアちゃんや他にもいっぱいいたなら、きっとここを出たくないって泣いちゃってたと思う」
けれどそうではない。ここには、何もない。
何もないからこそ美しい世界であり、永遠なのだろう。あるいは都合の良い夢もあるのかもしれないが、少なくともこの都市に在る「都合の良い夢」は人を破滅にしか導かない。
「あの街には……現実には、まだアイちゃんとキーアちゃんがいる。やれることも、動ける足も、わたしにはまだある。
それにね。全部が嘘だったとしても、あそこでわたしが感じたことは、わたしだけが持ってるわたしの真実なんだと思うんだ」
例え始まりが偽物だったとしても、その自分が見聞きし考え、感じたものは嘘ではない。
それだけは全ての個我が持つたった一つの真実であり、確かな一つの世界に他ならない。
そしてそれは、少年こそが理解しているものだったから。
「……そうだね。きっと君はそう言うだろうと思ってた」
この世界は永遠だ。時間という概念がないから、心も体も変化することがない。
そう、だからこそ、すばるが心変わりをすることは、もう永遠にないと分かっている。
分かっているからこそ、そして最初から分かっていたからこそ、みなとは笑った。
「人は永遠を生きられない。誰もがそれを望むけれど、叶うことは決してない。
神でさえも、自壊衝動の発露として自滅因子を生み出してしまう。世界だとて、永遠を望んでしまえば剪定事象として消滅する。
それが幸福なのか、それとも不幸なのかは、僕には分からないけれど」
それでも今、小さな選択の結果として、外の世界へ行くことを決意したすばるがいる。
何もかもが嘘で形作られたあの世界で、きっとそれだけが本物なのだろう。
「行こう、すばる。どこまでも一緒に。
僕は君を愛している」
「うん、一緒に行こう、みなとくん。
わたしも───」
そこで、すばるは満面の笑みを浮かべて。
「わたしも、みなとくんが大好きだよ」
そして、二人は光に包まれた。
▼ ▼ ▼
そうして三人は都市へ降り立つ。
最も強き者が勝ち残ったわけではない。
最も飢えた者が生き残ったわけではない。
最も気高き者が選ばれたわけではない。
少女らは弱く、狂してもおらず、そして市井の幼子でしかあり得ない。
それでも、彼女らはここに来た。
誰しもが眠りにつき、誰しもが夢に溺れたこの背徳の都にて。
それでも理想に否を突きつけ、己が想いと共に万仙陣の反逆者として立ち上がった。
チク・タクと、時を奏でる音はもう必要ない。
螺旋の果ては、すぐそこにあるのだから。
▼ ▼ ▼
そして───
───黄金螺旋階段。
───最後の一段を、昇りきる。
「……」
そこは螺旋階段の果て。暗闇の幽閉の間。
そこにはただ玉座だけがある。石榑の、時の王が座るただひとつの座。
チク・タクと、時を奏でる響きがする。
大公爵も少年王もそこにはなく、ただ、無貌の王が嘲笑を浮かべるばかり。
見るがいい、この空の果てを。
見るがいい、空より遠く失われた、太陽が如き赫の光を。
双眸を───
虚空に浮かぶ三眼、すなわち。
月の、瞳を───
『よろしい』
『足掻いてみせたか』
『アリス・カラー。《魔弾》の魔名を持つ者よ』
『世界の敵、最後の希望』
夢界領域収束
夢界領域拡大
夢界領域変容
■の不在証明を確認
お前たちは失敗した
その《願い》は叶わない
制限時間内に消去する
制限時間内に鏖殺する
「……ここに来れたのは、お前の差し金あってか」
少年は吐き捨てた。
奇妙な鋭さを持つ少年だった。
それは刃にも似て、銃弾にも似て、何もかもを貫通する鋭さを持つ気配だった。
仮面を脱ぎ捨てた男だ。
自らの世界を救おうと、笑みの仮面の張り付けていた世界救済者の姿はどこにもない。
今はただ、尽きせぬ憤怒の結果として一周した無感を表情とする少年が、そこにいるだけ。
「お前は終わりにするつもりか。
人の希望とやらを、打ち砕いたか」
『無論』
『今や英霊は砕け散った』
『世界の果てで消えゆくのみ』
「へえ……」
言葉とは裏腹に一切の表情を動かさず、少年は答えてみせた。
話はまだ終わっていないと、言葉なく告げていた。
「気付いているか。鎌倉に三人、マスターだった連中が再顕現したぜ」
気付いていないはずなどない。月の瞳は全てを見ている。
太陰の中心で眠りにつく仙王と全く同じに。
「あの日の続きだ。ディーがお前と契約を成したのと同じく、俺だってお前と誓約を結んだんだぜ。
俺が階段を昇りきり、第三等廃神たるあいつらの内の誰かが二度目の顕現を果たした時、ディーと交わした契約の全てを取り消す。まさか反故にするつもりじゃねえだろうな」
返答はない。
ただ、赫の双眸は無言。
その意味するところを少年は理解できる。なるほど、無言。傲慢なまでの沈黙は、どんな言葉よりも雄弁に物語っていた。
契約の破棄を。
少女らを含めた現世界の廃棄を。
利用価値を見出さない。
存在意義を見出さない。
ただ、観察の終わった実験体を捨て去るのみであると。
可能性の一片たりとも残さず、すべて、ここで終わらせるという意思。
言葉なく。
双眸は、そう物語っていた。
「……だろうな。死人の俺に黄金螺旋階段は昇れない。ここにたどり着いたのも、結局はお前がそう仕組んだからだろうが」
しかし、と少年は続ける。
「だがそうだとしても、終わりにするにはまだ早いだろう。
お前の目的は■の不在証明。だったらあの三人はうってつけの観察対象だろ。違うか?」
『さて』
「……脈なしか。まあそうだろうさ。お前は本物だ。東方より来たる賢者、虚空より降り立つ数理の神に他ならない。
俺みたいな半端な異能使いとは違う。不確定要素の恐ろしさなんざ、嫌というほど分かってる」
そこで完全に、諧謔の色を消し去って。
「潰す気だろ、あいつらを」
『言葉にするまでもない』
『既に証明は為された』
『生も、死も』
『さして代わり映えはしない』
『花が枯れるように、人は死ぬ』
『すべて。そう、すべて』
『あらゆるものは意味を持たないのだから』
「流石。他人の生死と、花が朽ちて墜ちる様を区別しない。
ロードと言われるのも、まあ納得ってもんだぜ」
『ならば、どうする?』
「こうするだけだ」
少年の右腕が───
怪奇なる光を纏い、奇矯なる鋼を身に纏っていた。
ある種の数式を演算する際に発せられる、それはクラッキング光と呼ばれるもの。
そして───
鋼を駆ける、白き雷電がひとつ───
それは通常の現象数式とは異なり、そして少年が持つ異能の顕現とも違う。
それはただひとりの雷電王が作り上げた、人の身をもって神の座に上がる禁忌の機関。
インガノックテクノロジーとは異なり、《結社》の回路技術とも異なり、虚空の黄金瞳にさえ関与せず。それは雷の鳳が遺した永劫の呪詛の一欠片。
その、名は───
『雷電装神(テスラ・マシン)』
『そうか。君のサーヴァントが遺したものか』
「できれば使うなって言われちゃいたんだけどな。こうなったら仕方ねえだろ」
少年の右手を覆う武骨な鋼。そして握られるのは長径50cmを超える巨大な銃だった。
蒼の内蔵機関が垣間見えるその鋼は、今や膨大な雷電を放出し、暗がりの周囲を白く染め上げている。
幾万の怒りを込めて。
幾万の憤怒を負って。
少年の持つ巨大銃は、その内実を象徴するかのような白雷を伴って。
「精神破壊(ゲーティア)じゃ無理だろうな。
現実歪曲(ソロモン)でも届かない。
確率操作(アリス)は……さて、本当に《魔弾》になれば話は別だが」
少年は、今や雷そのものと化していた。
影の連なりたる紫影の頂上には、溢れ出る無数の雷電が迸るばかり。少年の戦意に呼応するが如く、それは光放つ希望の弾丸として降り立つ。此処に星の輝きはなく、ティシュトリアの星剣もなく、故に彼が手にするは勇壮なりしペルクナスの遺物であるものか。
魔弾アリス、モード《神殺―殺戮のマトリクス・エッジ―》。拡大変容展開、仮想名《天使銃(Angel Bullet)》。
それはたった五発の弾丸。かつて遺された彼自身の遺骸から、西方の魔女に見つからぬよう掘り出した、それは彼の《起源》を埋め込んだ銃弾。
神が賽子を振らないのだとしても。それでも人は、自らが望む結果となるまで賽を投げ続けることができるから。
「俺達の世界を、願いを、日常を。お前の戯れの餌食にされてたまるもんかよ。
禍々しきもの、冷酷なるアルヴァ=アヴァン・エジソン。
その悪逆、魔手、悪意と侮蔑の悉く。俺が今、ここで」
『ほう。今、ここで?』
「食い止める」
───右手を、前へ。
投下を終了します
投下します
そこは暗がりだ。静寂と無言の祈りだけが充ちた、黒い影に包まれた塔の果てだ。誰もが知りながら、誰も知り得ない。漆黒と暗雲に閉ざされた、世界の果てだ。
黄金螺旋階段ではあり得ない影の連なり。蠱毒の坩堝の最果てだ。今は王の玉座だけが在り、少年王も大公爵も姿を消して久しく、そこはオルゴンに届かぬ者が行き着く地獄の様相だ。
ならば、そこにいる"彼女"は、最早人でも、まして神や悪魔ですらない。
『あるじ。我が仮初のあるじ。時が来た、御言葉を賜りたい』
声が響いている。機械仕掛けの声が。無限に広がるかの如き黒い闇の中に、全てを覆い尽くす虚構の無の中に。
「────────────」
闇に閉ざされた広間、最奥の玉座に腰掛ける者がひとり。盲目に、白痴に狂ったままに。もはや都市の渾沌そのものと化した魔女は、従うことのない従者に目線を合わせることもなく、微睡むように。
「ボクは───」
その瞳に映るのは愛憎か、それとも悔恨か。
人であった過去に縋るように、けれど、魔女となった現在を受け入れるかのように。
叫ぶ。
「───祝福せよ、祝福せよ! 嗚呼、素晴らしきかな!
ボクの望んだその時だ。都市は生まれ変わるだろう、我が昔日の願いを叶えるため!」
それは魔女だ。それは人ではなく、神でも悪魔でもなく、しかして都市に降り立つ渾沌そのものである。
『くすくすくす。愚かな愚かな《西方の魔女》』
『くすくすくす。オルタスの死者は彼ひとりなのに』
『くすくすくす。声こそがすべて、言葉は偽らないのに』
玉座に坐す魔女の周囲を、玉座に侍る時計仕掛けの従者の周囲を、三人の娘たちが踊る。
チクタク、チクタク。時計の針のように正確に、鉄錆の香りを持つ機械の女たちが踊る。
「ボクの時計は動かない! アリス・カラー、きみの時間は動かない!
初めからそんなものは存在しないのだから!
───故にこそ、すべてボクの糧となり!
───矮小なる身を知り!
───永遠の何たるかを知るがいい!」
───それが、この物語の始まり。
───終わりのプロローグにして、始まりのエピローグ。
───既に終わった物語。
───どこにでもいるありふれた少女の、ありふれた恋の終わり。
「くっ、ハハハハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
その全てを嘲笑って。
ディー・エンジ―・ストラトミットスは笑い続けて───
「───すべて。そう、すべて」
その、割れんばかりの哀絶を湛えた瞳───
「すべては、ただ。我が愛しき理想郷(アリス)のために」
赫い瞳を、揺らしながら───
───そして。
そして。
赫く変わり果てた月を中心に、都市の空は歪み果てていくのか。
その日、鎌倉の街に住まう全ての人々は見た。
各々の生活の、各々の時間を過ごす彼らは、皆一様に空を見上げていた。
暗き清浄の空に浮かぶはずの星々が消えた。
真の夜に於いて美しさ湛えるはずの白光は、
すべて、消え失せる。
白光が消える。
その時が来た瞬間に、忽然と。
けれど暗闇とは呼べないだろう。
星々と太陽とが姿を隠していたとしても、
空には、血の赤朱を湛える赫い月がある。
先刻までは銀の光を放っていたそれは、今や歪み、鮮血の赤だけを湛えて。
そして気付く───違う、あれは月じゃない。
───さあ、時が来た。
約束された時か。誰が、誰に対して、どんな約束をした?
───誰も。
誰もいない。約束した者はいない。
だからその時は訪れる。
それは願いを叶えるものか。
狂気なりし雷電王が存在すればどう言うか。
けれど、既に、雷鳴纏う白き男は消えた。
その時。それを知る者はただひとり。
西方の魔女と成り果てた少女ではなく、
世界を救えなかった骸の少年でもなく、
かたちを保ってそれを知る者はただひとり。
けれど、彼は、その時、暗き渾沌の中心に座して。
止める者はいない。
嘆き続ける少女の想いだけが残る。
───その時。
───都市鎌倉は震えた。
───歪む、歪む、歪み果てる───
───都市の空が変わっていく───
───星も、太陽も消え果てて───
───睨め見下ろすは赫の月か───
月が───いいや、"赫き虚空の三眼"が見下ろす都市は、今まさに。
歪んでいく。無数の視線に晒されて、無数の恐怖に晒されて。
夢の坩堝へと落ちていく。誰も止められる者はいないから。
止められる者はただひとり。
黄金螺旋階段の麓で崩れる魔弾の少年ただひとり。
黄金螺旋階段を昇ること叶わぬ救済者ただひとり。
ならば、止める者はいないのでしょう。
だからこそ空は歪み果てて。
都市に在る全ての人々がそれを見る。
都市に在る全ての双眸がそれを見る。
空、覆う新たなものを。
空は暗がり全てに覆われてしまう。
新たなる、虚空の眼球によって。
空に浮かぶ太陰さえ瞳に過ぎぬ"それ"と比しては、鎌倉の都市でさえ石榑にもならないのだ。
瞳。微睡み慈しむ者。
終焉の恐怖。
終焉の嘆き。
それは、物語の終わりを告げてしまう。
あらゆる想いを呑みこんで。
あらゆる願いを呑みこんで。
ああ、星を包む慈愛の主となって人々を呑んで。
かつて異郷の御伽噺に残された、
空覆いつくし、竜さえも食らう巨人が如く。
空埋め尽くし、命すべて食らう黒色が如く。
暗黒の空がそこには在って、
ああ、太陽の代わり、月の代わりに。
浮かぶものは───
『救われてくれお前たち。俺はお前の幸せを、いつ如何なる時も願っている』
───それは、時を遡った"かつて"の話。
───一度目の聖杯戦争が終わりを迎えた頃。アイの、キーアの、すばるの聖杯戦争がはじまりを告げるよりも前。
───少女の愛が砕け散った時の話である。
▼ ▼ ▼
これで、何もかも終わったはずだった。
そのはずなのに。
◆
「───さて」
男は言った。
それは、黒衣を纏った男だった。
影の如き姿であるが、生気を感じさせない枯れ木の如き気配でもある。
奇妙な人物。
気配と服装は彼をそう思わせる。
彼は決して自らの名を口にすることはない。
見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに奇妙な男であった。
偉大にして光輝なる三位一体。
それがこの男の今の名だ。
すなわち、男の名は《メルクリウス》
カールエルンスト・クラフト、あるいはヘルメス・トリスメギストスと人は呼ぶ。
───もっとも。
───彼を呼ぶ者など多くはあるまい。
例えば、
至高天に坐す墓の王たる黄金獣であるとか。
既に何かを諦めて涙を流す少女であるとか。
世界塔の果てで嗤い続ける無貌であるとか。
不用意にその名を呼んではいけない。
命が惜しければ。
彼の嘲笑の奥を想像してはいけない。
命が惜しければ。
永劫の時を繰り返すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。
既に輝きを失った黄金螺旋の最奥。王の夢の残滓が眠る暗闇の幽閉の間。
影の如くに佇む彼と、もうひとりの"誰か"がそこにいた。
「さて、愛すべき者たちよ」
───嘘だ。彼は誰をも愛していない。
───嘘だ。彼は心の何たるかさえ知らない。
───彼の両眼に映るのは黄金と黄昏のみ。
───彼は、影なる面の下に顔すら持たないのだ。
「至高なりしはこの世にただひとつ、永遠を形とする揺籃の夢なりし阿片窟」
「すなわち。漆黒のシャルノス」
「そうと嘯く我が仮初の主ではあるが。しかしかの王が立ち去りし伽藍の玉座は、
第四のあり得ざる盧生すら無き異形都市に願いの果てを齎すのであろうや」
男の声には蔑みが含まれている。
対する何者かは無言。
「喝采すべきことに、お前たちの回転悲劇は此処に終わりを迎えるだろう」
「《英雄王》はかの地に斃れ、《勇者》はその手の光を失い、《審判者》は現身を手放し。
《赤薔薇王》は何をも掴むことなく、《刹那ならざる諧謔》さえその姿を消した」
「愚かな魔女の願いは意味を持たず」
「世界の救済者足り得なかった少年は《美しいもの》に至ること能わず」
「哀れなる少女たちは真実を見ることなく」
「清廉なる《騎士王》は既に月の王が狂気の中」
男の声には嘲りが含まれている。
対する何者かは無言。
「さあ、皆さまどうか喝采を」
「けれど私はこう叫ぶだろう」
「───滑稽かな! 滑稽かな!」
▼ ▼ ▼
───暖かい。温かい。
それはまるで、家族皆で布団に包まるような。
それはまるで、両親に祝福され産湯に浸かるような。そんな、幸福な感情を想起させる。
───暖かい。温かい。
それはまるで、在りし日の残照のようで。
胸を擦る優しさがある。胸を苛む痛みがある。
だから。
『すばる』
影。鋼。わたしの背後に佇む、白い手のあなた。
人。星。わたしを助けてくれた、黒い魔法使い。
『おやすみ。そして』
そして───
『目覚める時間だ』
………。
……。
…。
ぱちり、と瞼を開いた。寝起きに特有の倦怠感はない。ただ、暖かい幸せの残滓が胸にある。
「……そんなの、嘘だよ」
嘘だ。その幸せは、幸福感は、きっと与えられた偽物でしかない。幸せのカタチをしているだけの何かに過ぎない。
だって、それが本当に"幸せ"なのだとしたら。
世界は何故、ここまで異様に歪み果てているというのか。
「桃色の、煙……」
───世界は、桃の香に埋め尽くされていた。
視界の一面が、全く同じ色で覆われていた。流動する桃の煙、あまりに濃すぎて数m先さえ見通せない。
まるで、生き物の体内に入ったかのようだ。ピンクはすばるも好くところだが、しかしこれは果実と純粋性の色ではなく、臓腑と欲望の色だ。甘く重いむせ返るような煙が充満し、呼吸するのも苦しいほどだった。
これが、世界の本当の姿だ。
ついさっき切り替わったのではない。世界は最初からこの姿をしていたのだ。
ただ、すばるたちが気付かなかっただけ。気付かないようにされていただけ。
あるいは───
この世界の片隅で、今までずっと夢を見ていたのかもしれない。
「それでも、わたしにはまだ、やれることが残っている」
遠くを見据える。
一寸先も見通せぬ霧の中にあって、しかし、どうしてか"それ"は克明に浮かび上がった。
遥か彼方、地平の向こうにそびえる摩天楼。
遠く月にまで届きそうなほどに高い、世界の果ての塔。
───世界塔。
それが、朱に染まった空を綺麗に真っ二つにするかのように、一直線に伸びている。
すばるは何も理解できていない。
理解できるだけの頭脳も経験もなく、心の強さもなく、二転三転する状況についていくことさえできずにいるのが現状だ。
けれど、それでも分かることがある。
理由はわからない。何があるのか、誰がいるのか。なぜ、そう自分が思うのかも。
それでも、たったひとつだけ。
「桃源の向こう、紫影の果て」
「あそこに。わたしは、ううん、わたしたちは、行かなきゃいけない」
───そして少女は一歩を踏み出す。
───想い残した人々の影に触れながら。我知らず、涙を流しながら。
『退廃夢想都市鎌倉/第三層エリコ/午前零時』
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 差し伸べた手は届かず、
喪った愛は痛みを呼ぶけれど、
砕け散った輝きを拾い上げ、
痴れた祝福が星剣を形作る。
雛鳥は卵を割って詩編を紡ぎ、
赫黒に染まりしは比類なき悪なる右手。
共に歩むは輝かりし可能性の嬰児、
奇械アルデバラン。
プレアデスの星々はイリジアを砕いて《空》を目指す。
[思考・状況]
基本行動方針:青空を目指す。
1:諦めない。
[備考]
※ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
※奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
?????
詳細不明。
投下を終了します
おおいつのまにか投下が
投下乙です
この聖杯戦争の黒幕強力過ぎるんよ本当に
まず聖杯戦争に応じるサーヴァントじゃ勝てないってのがもうね
投下します
音───
響き。
呻き。
鐘の音。
鳴り響くは、異形の鐘。
鳴り響くは、最果ての塔。
世界の果ての塔、その最奥で鳴り響く。
天、空さえも覆い尽くす巨大な塔の最果てか。
異形の空にそびえる塔。
誰がこれを見るだろう。
何をも知らず、退廃の夢に沈む十万の鎌倉市民たち?
全てを嗤い、邪悪な企みを抱く時計人間?
それとも、全てを諦めた故に唯一を求める儚き少女?
ただ、ただ、塔だけがあった。
遥かな頂上より鐘の音を響かせて。
天を貫く、空の彼方まで続く塔が───
夢界領域集束。
夢界領域拡大。
夢界領域変容。
規定数の英霊を確認。
規定数の願いを確認。
お前たちは失敗した。
潰える願いが我が身を成す。
成長条件を達成。
ナコトの幻燈は紡がれる。
───そして。
───真なる《願い》は、今ここに。
▼ ▼ ▼
手を伸ばせば掴める未来が、目の前にあるさと嘘を吐いた。
これはきっとその罪の履行。陶酔を願う余り性命双修を怠った外法者へ下される、幸福というカタチの罰である。
痴れた音色に包まれた地球上に蠢くは、只覚めない極楽の夢に酔う───夢想の成れの果て、だけ。
「始まった……」
悠然とした少女が言った。物憂げに、静かに。
「止められなかった。あたしは、結局、何もできないまま」
双眸を僅かに瞬かせて。その赫色の瞳を、僅かに瞼で覆う。
刹那、少女の足元より湧き上がるものがあった。
それは黒く、不確かで、されど蒼銀に輝く確かなカタチ。
───シャドウサーヴァント。
───彼女が使役した騎士の残留霊基。
「……セイバー。あなたもこんなになってしまったのね」
セイバー、アーサー・ペンドラゴンであったモノ。
しかし今は、顔の上より半分を煙のように揺らめかせて。文字通りの影であるかのようにして立ち尽くすのみ。
これに今や意思はない。力だけを抽出して形を得た、抜け殻のような存在。
「そして、この街の人たちも」
視線を逸らし、眼下の街を見渡す少女の先には、路上も建物も埋め尽くさんばかりの"何か"があった。
それは、異形だった。
見る者に嫌悪感を与える異形だった。
それはおぞましくも大量の触手を生やし、まるで幾匹ものミミズや蛇が絡み合って出来上がった肉玉のように触手を戦慄かせ、蠢いていた。
大きさはおよそ人間大か。汚らしい粘液と水音を撒き散らしながら、緩慢な動きで街を埋め尽くしている。
見るも怖気が走る光景だった。
けれど、少女は。
キーアは、それを悍ましいとは思えなかった。
「これは……この"人"たちは、人間だったもの」
否、現在も未だ人間で在る者たちだ。
万仙陣により夢を見せられ、夢に浸り、そして現実においては斯様な異形へと姿を変じられてしまった人間たちだ。
今までキーアが、アイが、すばるが目にしてきた鎌倉市民の、それが今の本当の姿なのだ。
だからこそ思う。何故。
何故───聖杯戦争は起きた。
誰が、聖杯戦争を開いたのか。
何故、聖杯戦争は開かれたのか。
今や都市は解放された。
ならば何故、聖杯戦争などが起きたのか。
───誰もが。
───理由を探すことさえしなかった。
───変異し異形と化していく都市。
───時に美しいそれは酷く残酷で。
───それが厳然と在る現実だからこそ。
───理由など無意味だった。
「けど」
けれど。
静かに、けれども確かな強い意思を持って。
「夢はまだ終わっていないわ」
見上げる。桃と朱の煙に汚染された空を。
そこには、茫洋と燻る蜃気楼のように、天を衝く巨大な塔の影が聳えていた。
「紫影の果て。世界の果て。あたしたちは、そこに行かなくちゃいけない」
そして。
力強く足を踏み出し、右手を前へ。
▼ ▼ ▼
自分が何をすべきなのか、アイは全く分からなかった。
目が覚めて、世界がこんなことになって、人々は異形に姿を変えて、キーアもすばるもどこにもいなくて。
そんな状況なのに、足を一歩も動かすことができなかった。
以前の自分ならきっと、こんな状況だろうと知ったこっちゃなくて、誰かを救うために奔走して何もできないくせに空回っていたに違いない。
助けるのだと。生かすのだと。既に死んでしまった人たちの思いを背負って、救えなかった分他の誰かを救うのだと。
たとえできなくても、できると信じて、走り出せたはずなのに。
けれど今は。
心が走ることを拒んでいた。
「もう、分からないんですよ……」
泣くのかと思った。
でも涙は流れなかった。
夢の中ではいくらでも泣けるのに、現実では泣けないらしい。
本当にひどい生き物だった。
「もう……本当に分からないんですよ。自分がどうやって生きてきたのか。どうやって夢を見ていたのか。どうやって息をして、走って、歩いてきたのか……そういうの全部、ぜんぶ……分からなくなっちゃったんですよ……」
返ってくる声は、なかった。
「まるで自分が泡みたいなんです……魂がどっか行っちゃったみたいで……心がここにないんです……探しても探しても……どこにも見当たらないんです……ねえ、セイバーさん」
アイは聞いた。
「私の心を知りませんか」
言っていて、自分で今さら思い知った。
自分の夢は、ここまで大きなものだったのか。
誰の声もしなかったけど、けれど尋ねる声が聞こえたように思えた。
『お前はこれからどうやって生きていくんだよ』
「そんなの……分からないですよ……」
また、聞かれた。
それでお前はどうするんだ?
どうやって生きていくんだ?
来年、来月、来週、明日。どこで何をしていくんだ?
"お前はどうやって生きていくんだ?"
以前、そう聞いた人がいた。その人はそのあと、墓守であるという偽りの指針を得た自分をボコボコに蹴り飛ばしてその夢を諦めろと言った。
アイはふと、唐突に、人食い玩具(ハンプニー・ハンバート)がどうしてそんなことをしたのか思い知った。
彼は、アイの父親は、『これ』がしたかったのだ。アイの夢を蹴って殴ってへし折って、『普通の人』になってもらいたかったのだ。
あんなもの。
『これ』に比べれば、全然やさしいことだったのだ。
「普通の……幸せになる人というのはこんな世界で生きているのですか? こんな、息も吸えない厳しい世界で、普通に生きていると、いうのですか」
世界を救うという夢を持たない普通の人は。
今やアイがそうなってしまった普通の人は。
こんなつらく苦しい世界を、それでも生きているというのか。
「セイバーさんは……レンさんはどうなんですか? 私と同じように、夢を失ったあなたは……こんな世界でどうやって、生きてきたっていうんですか」
答えはどこからも返ってこなかった。
それはとても当たり前で、悲しいことで、けれどアイは涙の一つさえ流せなかった。
だって心がないんだもの。
仕方のないことだった。
「仕方ないなんてありません!」
叫んだ。
耐えきれずに上げた叫びだった。
我慢の限界で上げた叫びだった。
意思の強さではない。不屈の闘志なんかじゃない。諦めない精神の輝きなんかじゃない。
理不尽に耐えきれず癇癪を起すような、自分でも何故そうするのか分からない、子供じみた叫びだった。
「何が仕方ないんですか! それが夢だから!? 不可能だから!? だから諦めろって言うんですか!」
言葉一つ一つを口走る度に、体が真っ二つに裂けていくようだった。
骨が砕け、肉が裂け、皮膚が泡となって消えていった。
アイ・アスティンの生きた世界は、仕方のないことばかりだった。
人が死ぬのも、
人が生まれないのも、
誰もが諦めてしまうのも、
大切な人と別れてしまうのも、
全部全部、仕方のないことだらけだった。
けれど。
「そんな風にかっこつけて、物分りが良いみたいに諦めて! そりゃ楽でいいですよ、見て見ぬフリをすればいいんですから!
でも残された人たちは! 私たちは! 私は! どういう気持ちになると思ってるんですか!」
アイには救える誰かはいない。
墓守と人間のハーフ。死を失った人間でも、死を与える墓守でもない。中途半端でなり損ないの、世界に一人しかいないはぐれ者の名前。
どう足掻いても生まれ持った資質は変えられない。運命は変えられない。
嘘を重ねたって、
恋をしたって、
自分をいくら騙したって、
人は絶対に変われない。
誰だって本当は気付いている。取り繕ってみたり、良い人ぶってみたり。自分を律することを"変わる"というならば、確かに人は変われるだろう。
だけど人は鳥になれないし、アイ・アスティンは神にはなれない。
私は誰かになれない。私は私だ。
夢に向かって奔走する時、誰しもが諦めてしまうそんな時。
心のどこかで「本当にできるんだろうか」と思ってしまって、けれど必死に押し殺した私の本質。
どう足掻いても盲信すらできない、救えないほど"普通"な私の本性。
「なんで誰も救われないんですか! どう考えてもおかしいですよ! 世界はこんなになって、誰も彼も変なウネウネになって、キーアさんやすばるさんだってこんなこと願ってたはずじゃないのに!」
いつだったか、なんで人は救われないんだと話した覚えがある。
人は救われない。世界は救われない。哀しみも憎しみも取り除けない。世の中は理不尽で満ちている。
考えてみれば当たり前の話。だって私が救われてないんだもの。
私は私のことが一番どうでもよくて、私は私なんか救われなくてもいいんだって思ってて。
そんな私から見た世界が救われてないなんて、そんなの当然の話だった。
だから私は世界を救えない。ヒーローになんかなれない。
「それでも───」
それでも。
自分がどうしようもなく間違っていて、そんな資格がないことなんて分かりきっている。
私はただの普通の人間で、何度だって立ち上がれる勇者なんかじゃない。
でも。それでも。
「立ち上がらなきゃいけない理由なんて、何もないけど」
世の中は仕方のないことだらけで、アイに救えるものは一つだってなくて。
それでも、仕方のないことを『仕方ない』で片づけたくなかったから、アイは夢を抱いたのだ。
だから。
「立ち上がりたい理由なら―――譲れないものが、私にはたくさんあるから」
せめて今だけは、胸を張って立ち上がろう。
取り戻せるものが、たった一つでも残されているならば。
嘘でもいい。あと少しだけ踏ん張ってみよう。
だからこれは使命でも決意でもなんでもない、単なる子供の我儘なのだ。
『退廃夢想都市鎌倉/第三層エリコ/午前零時』
【キーア@赫炎のインガノック-What a beautiful people-】
[令呪]一画
[状態]骸の体は願いと赫き瞳で保たれ、
奪われた可能性を取り戻し、
胸に抱くは在りし日の遠い約束。
手に取りしは絶望たるを拒絶する魔剣、
巨いなりし黒の剣能。
視界の端の道化師は既になく、
そして少女は右手を前へ───
[思考・状況]
基本行動方針:諦めない。
1:もう迷わない。止まることもしない。
[備考]
【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日】
[令呪] 三画
[状態]幾億の怨嗟と嘆きに塗れ、
この手は真っ赤に染まってしまったけれど、
捨て去った想いを今一度拾い上げ、
神を目指した墓守は人へと回帰する。
雛鳥は未だ殻を破ることはなく、
けれど抱くは父母の描きし夢想の理。
故に彼女は人でなしの超人にはあらず、
此処に立ち上がりしは───
[思考・状況]
基本行動方針:生きることを諦めない。
1:救う。
[備考]
投下を終了します
当企画のまとめwikiが閲覧できなくなっていたので再建しました。今後はこちらに投下作品を収録していきたいと思います
ttps://www65.atwiki.jp/crackingeffect/pages/1.html
お疲れ様です
投下します
夢より覚めて見渡す世界。
朱に染まる空、桃霧に煙る街、這いうねる異形に満ちた都市。彼方に聳える巨大な塔。
生き残ったのは僅かに三人。幻想の剣たるサーヴァントもなく、空より来たりて魔を断つ翼も、世界の果ての八雷もなく。
塔の最奥に坐すものがある。それは虚空の赫き三眼であり、燃える炎が如き光でもある。
それは未だ都市へ向けられてはいない。鏖殺は始まっていない。
一瞥すれば鎌倉の都市は終わるだろう。だが、まだ終わっていない。三人の少女も、異形と成り果てた住人たちも生き残っている。
白き塔の最果てで、黄金螺旋階段の果てで何かが起こっている。
それはなんだ?
世界の救済者足り得なかった少年にとって、それは決死の反乱だろう。
時に這い寄る月の王にとって、それは児戯にも等しいものだ。
だが事実として、まだ鏖殺は始まっていない。
代わりに───
地を踏み出す墓守の足音が、
空を駆け出す放課後の魔法使いの風切り音が、
影なる侍従と共に疾駆する第四の奪われた少女の息遣いが、
語る者なき異形都市に、反旗の音を伝えていた。
◆
夢より覚めて見渡す世界。
朱に染まる空、桃霧に煙る街、這いうねる異形に満ちた都市。彼方に聳える巨大な塔。
生き残ったのは僅かに三人。幻想の剣たるサーヴァントもなく、空より来たりて魔を断つ翼も、世界の果ての八雷もなく。
塔の最奥に坐すものがある。それは虚空の赫き三眼であり、燃える炎が如き光でもある。
それは未だ都市へ向けられてはいない。鏖殺は始まっていない。
一瞥すれば鎌倉の都市は終わるだろう。だが、まだ終わっていない。三人の少女も、異形と成り果てた住人たちも生き残っている。
白き塔の最果てで、黄金螺旋階段の果てで何かが起こっている。
それはなんだ?
世界の救済者足り得なかった少年にとって、それは決死の反乱だろう。
時に這い寄る月の王にとって、それは児戯にも等しいものだ。
だが事実として、まだ鏖殺は始まっていない。
代わりに───
地を踏み出す墓守の足音が、
空を駆け出す放課後の魔法使いの風切り音が、
影なる侍従と共に疾駆する第四の奪われた少女の息遣いが、
語る者なき異形都市に、反旗の音を伝えていた。
◆
走る───
ひとりの少女が走っていた。
暗く、奇妙な色に歪んでしまった空の下で。
アイ・アスティンは走っていた。もう見慣れたと感じ始めていた鎌倉の道を。もう、何度も二人で歩いた道を。
夢から醒めて、抱えきれない鬱屈を叫びながら、もう、こうして走ることは決めていた。
まだ頬は濡れている。完全に乾く前に、アイの体は表通りに躍り出ていた。
そしてこうやって、走り始めた。
空の色も街の様子も、そして辺りに蠢く"ひと"たちもおかしいことには、勿論言うまでもなく気付いていたけど。
今さら、そんなことに驚いて足を止めてはいられない。
だって───
"これ"は知っている。夢で見た記憶と同じだ。実感は全く湧かないけれど。
万仙陣と呼ばれた異能、遍く人を夢へと落とし、それぞれの理想世界を体現させる救済の御業。
きっと、周囲の異形はその成れの果てなのだ。夢に落とされた人の末路。夢に沈み幸福になる代わり、現実では術者の眷属となって異形の触手と成り代わる。
自分も、さっきまでは彼らの一員だったのだろうか。
自分も、さっきまではこんな姿をしていたのだろうか。
少し、気になった。
でも、気にはしない。
今、自分にできることはひとつしかない。
だから走る。
目指すべき場所は決まっている。
"願いを叶える"、聖杯とはその器。聖杯戦争の最果てに降りるもの。
だから───
空の色がどうなっていようとも、都市そのものが異形に変貌していようとも、気にしない。気にしないようにする。
見上げて、怯えて、立ち止まったりなんかしない。
見上げるのは空ではなくて、あの塔。どこまでも高い、あの真っ白な塔。
ただ、直感と、確信だけを胸に秘めて。
ただ、走る。
そのはずだったけれど。
───万仙陣。
───願いを叶えるもの。
───遍く世界を救うもの。
───こんなもののために。
───ユキも、すばるも、キーアも、他の誰も彼も。
───……藤井蓮も。
───あなたが。
───あたなが、これを、呼び出すために!
内心で叫ぶ。
声は出てこなかった。
憤りではない。
怒りではない。
ただ、ただ。"何故"という疑問と。
消えていった人々への想いが、強く。強く。
アイの意識を揺らして止まらなかった。
意識へ飛び込んでくる、否応のない黒色。
その全てを拒絶して、走る。
下唇を噛んで。前へ、前へ。
絶対に、立ち止まらない。
『諦めたまえ』
声が聞こえた。
それは耳にではなく。
頭に響く声。どこから。
「この声……」
『ここが果てだ』
声。
声。
声。
「……セイバー、さん」
いいや違う。
確かに、その声は藤井蓮と同じだったけど。
決定的に、彼とは存在を異とした誰かの声だった。
それはまるで泥のように。
それはまるで水銀のように。
腐敗した粘性と揮発する毒性を併せ持った液体であるかのように、アイの意識へとまとわりつく。
『剣、願い、希望』
『シャルノスに至ってなお、人はそれを捨てられぬ』
『滑稽だ。滑稽だ。実にお前たちは滑稽だ』
『こんなものが約束された《美しいもの》か。
こんなもののために、私を喚び出したのか』
声。
声。
声。
頭の中に響く声。
アイは涙を堪える。
「セイバーさん……」
声を聞きたいと思わなかったはずがない。
また、聞きたいと、思った。
「セイバーさんの声じゃ、ない……」
『諦めたまえ』
『墓守になれなかった子よ。お前の祈りに意味はない』
『人になれなかった子よ。お前の生誕に意味はない』
『この都市、この世界、この夢に生まれ落ちた者すべて』
『最初から、意味など、なかったのだから』
「私は……」
声。
声。
声。
嘲り嗤う声。涙を流して笑い転がりながら、何かを望むような声。
「私は……それでも、いきます。
諦めたく、ありませんから」
叫ぶ。
涙が、零れていた。
刹那───
懐かしい声が聞こえた。
もう聞こえるはずのない、母の声。
夢を見た。
夢だ。きっと、そうとしか思えない。
5歳の頃の自分が、母と一緒に家の屋根へ昇っていた。
「ぎゃはははははははははははは!」
「あははははははははははははは!」
母が秘密兵器を披露する時の悪党みたいな声で笑う。真似してアイも高笑い。
「ごらん、アイ! 私の村だ!」
母が村を指差した。記憶の中の村は随分と若い気がして、その中を変わらないみんなが歩き回っている。
季節は秋だ。アイの大好きな季節だ。みんな藁を組んだり鶏を追ったり大忙しだ。ユートとダイゴも、村に来たばかりの頃のヨーキとアンナも、誰も欠けることなく笑っていた。
それを見て、アイは一瞬涙ぐんだ。
「どうした、なんで泣く?」
母が涙を拭ってくれる。アイはなんでもないと呟く。ここにいるのは5歳の自分なのだから泣くのはおかしい。
この夢が、夢と気付いた瞬間に消えてしまいそうで、12歳のアイは急いで悲しさを遠ざけた。
「なんでもないんです、お母様」
「ぎゃっはっは、なんでもないのに泣くのか。お前は本当によく泣く子だな」
そう言ってほほ笑む、母がいた。
自分と同じ金の髪を太陽の光に輝かせ、緑の瞳をおかしそうに歪ませている。背は低く、肉付きは薄くて小娘のよう。
16歳のアイがそこにいた。それほどまでによく似た親子であり、それほどまでに若く見える母だった。
ただ二人の中身はまるで違う。アイの喜怒哀楽はいつもしょぼしょぼと混ざり合って混沌としているが、母のそれはスイッチを切り替えるようにハッキリとしている。
今も何が面白いのか、ぎゃはぎゃはと品の無い笑い声を上げている。
「ほら、泣いちゃ見えないぞ。もうすぐ時間だ」
「泣いてませんよ!」
母がハンカチを取り出して無理やりにアイの顔を拭う。12歳の自分は恥ずかしくて逃げ出したかったが、そこにいるのが5歳の自分だと気付いて、されるがままにした。柔らかいタオルの向こうで細い指がぐいぐい動くのが心地よかった。
「時間て何のことですか」
「この村が一番綺麗になる時間のことだよ」
それを聞いてすぐに思い出した。母が好きだった光景を。
太陽が傾ぐ。
空気が一気に変わって全ての光が赤くなる。畑が黄金色に輝いてヒグラシが鳴く。
「うわぁ……」
轟、と風が吹いて一番屋根の風見鶏を慌てさせた。二人は同じ所作で髪を抑えて感嘆の吐息を漏らす。
夕焼け空を帰る鳥。家路に急ぐ村の人。仄かに灯る一番星。
「きれい……」
村は平和で、あたたかく、思い出のように完璧だった。
「そうだろうそうだろう」
母は笑って、自慢げに呟く。
「まるで天国みたいだって思わないか?」
「天国?」
アイは昔に、そうしたふうに聞いた。
「ああ、死者が向かう天の国だ。そこは友愛と幸福が溢れる夢のような場所だそうだ」
母は微笑みながら眼下に広がる光景を見ていた。
「私はこの村を天国のような場所にしたいのさ。この地獄のような時代で希望となれるような、そんな場所を作りたいのさ」
この村を作ったのは母だった。
その母の、決意にも似た独白を聞いて、5歳の自分は大喜びで言った。
「じゃあ、アイがそれ、手伝ってあげる!」
「あんたが?」
「うん!」
その頃の自分は、母の言うことならなんだってやりたがった。
「ありがとう、アイ。でもこれはお母さんの仕事だから。あんたはあんたで、自分のしたいことを見つけなきゃならないよ」
「え〜……」
「その上で手伝いたいってんなら歓迎するけどさ。
……何も分かんないまま生きてちゃいけないよ。これ、忠告だからね」
母が人差し指を立てて、かわいらしく言う。12歳のアイには少し耳の痛い言葉だった。でも5歳のアイは物凄く鈍感に言う。
「分かった! それで何すればいい?」
「あんたは本当に人の言うことを聞かない子だねぇ」
最近は自分でもそう思う。
5歳の自分と、12歳の自分が段々分かれ始めた。夢の光景が絵の中の出来事のように離れ、遠くに流れていく。ながれていってしまう。
「今のあんたの仕事は、いっぱい食べていっぱい遊んで、たっぷり可愛がってもらうことだよ。
……大きくなりな、私のかわいいアイ」
そう言って母は自分を抱き上げる。
「よっと……随分重たくなったな」
「また背ぇ伸びたんだよ」
「よくやった。続けて励めよ」
「うん!」
……本当に大きくなったんですよ、お母様。
そう伝えたいと思った瞬間に、夢はうすぼんやりと、夕陽の赤に沈んでいった。
それは過去。かつての記憶、私の記憶。
母が死ぬほんの数日前の、今は薄れた過去の記憶だ。
「……え?」
立ち止まっていた。
ひとりでに。
足が動かない。
前へと進もうとしていた意思が揺らぐ。
今。確かに見えた。
黄金の瞳ならざる目に映った黄昏。
ひとりの女性と、
七年前の自分と、
思い返すことはすまいと誓った、記憶───
「何、これ……何を……」
『大きくなりな』
『私のかわいいアイ』
目に浮かぶ。
瞼を閉じても見えてしまう、過去の像。
繰り返される。
繰り返される。
母の言葉。別れの、理解したあの瞬間。
『大きくなりな』
「いや……」
『私のかわいいアイ』
「やめて、ください……!
嫌、嫌です、やめて……見せないで……!」
───ひとりにしないで。
───ひとりは嫌。怖い、寂しい。
───お願い。お願いしますお母様。
───ひとりに、しないで。
───お願い。
───置いていかないで。
───私も連れていって。
───ひとりに、しないで。私を。
「私は……」
───ひとりに、
「ひとりじゃ、ないですから……」
───しないで。
「だから……」
───お母様。
「こんなもの……
見せられても、私は。立ち止まったり、しません」
声はかすれて、叫ぶことができなかった。
それでも、アイの足は進んでいた。一歩、倒れることもなく進んで。踏み出す。
これが万仙陣か。
これがシャルノスか。
『幸福』と同じだ。いや、彼の者の源泉こそが万仙陣であり、シャルノスの片鱗なのか。
今更だ。何もかもが今更の話だ。何の意味もない、二度と戻ることのない光景だ。
父のように。セイバーのように。失われたものは二度と戻らない。
歩き続ける。何も考えず、無心のままに。何かに耐えるように。
どれだけ時間が経っただろう。一分? 一時間? 感覚だけなら一日経ったようにさえ感じた。
あれだけ遠くにあったように思えた塔も、いつの間にかすぐそばに近づいて。真っ白な壁、どこまでも続くかのように広がっている。
アイは目の前の塔を見上げる。あまりに大きすぎて遠近感が狂い、めまいがするようだった。
そんな現実感の伴わない白の中、一角に黒いものが見える。それが扉だと頭で理解するより早く、アイはその取っ手に指をかけ、静かに開く。
ぎぃ、と音が鳴る。そこはホールのように開けた空間で、石造りの吹き抜けたエントランスの向こうに大きな階段があるのが見えた。
誰もいない。
アイ以外、誰一人として。
歩みを進める。恐れの感情はなかった。心は硬直し、それに伴って肉体的な疲労も重なっていた。こつり、こつりと靴音が鳴る。
そして気付く、"ひとりではない"。
「……ようやく」
気付く。階段の向こう、小さな扉の前には人影があって。
座り込んだその人は、疲れ切った顔を上げ、静かにアイを見つめていた。
「ようやく、ここまで来たな。アイ・アスティン」
その人は、赤い髪と、赤い目をした少年だった。
少年からは、腐り落ちた果実の匂いがした。
投下を終了します
投下します
そして、時を少しだけ巻き戻す。
▼ ▼ ▼
最も大切な言葉とは、何か。
それは決して特別ではなく、固有の意味すら持たない。
夢と微睡みの霧の向こうから、少女/少女が落ちてくる。一帯は無音であり、杖/侍従より降りる彼女らの足が起こす大気の振動が辺りに小さく響き渡った。目の前には世界塔の白い威容が立ち、その巨大な門は既に開かれ、あたかも少女らを歓待しているようにも思えた。
すばる/キーアは、小さく息を吐く。周囲には誰もいない、真実たった一人きりだと二人は思った。意を決し、扉の中へと押し入る。そこに迷いの色はなかった。
「……」
酷く寂しい場所だった。
そこは広く、高く、そして冷たかった。大理石の床や壁面は綺麗なものではあったけど、およそ暖かみというものを感じさせない。吹き抜けの天井はどこまでも続いているかのようで、上を見上げても先の見えない暗闇しかそこにはなかった。
ホールの左右には大人数人がかりでなければ囲えないほど巨大な柱が、見渡す限り無数に続いていた。それは巡礼の列のように、物言わずただじっと誰かを待っているようにも思えた。
すばる/キーアは、その先に何があるかを知っていた。
そして一人/一人は声をかける。
投げかけたのはどこまでも普通の問い。世界中にありふれていて、常に人々や言葉と共にある。そういう類のものだ。
だが、あるいは、世界を滅ぼす言葉にもなる。
すなわち。
「あなたの名前は何ですか?」
「くひ、は、はははっ、あはっははははははは! ひゃは、けひゃはははははあはははははは!」
いつからそこにいたのか。
あるいは最初からずっといたのか。
彼女は口を弦月に歪めて答える。
「……今さらそれを問うのか」
朱い瞳の少女は、すばる/キーアと一対一で対峙し、そして二人のどちらをも同時に観測していた。
此処は塔、世界の最果て。あらゆる可能性が折り重なる「重ね合わせ」の地。
「もう何もかもが手遅れで、何もかもが叶えられたこの都市で。今さら、そんなことを聞くのか」
その言葉は愚弄であり、その響きは嘲笑であった。彼女は眼前のすばる/キーアに対して、一切の情と呼ばれるものを持ち合わせてはいなかった。
「西方の魔女、囁く者、世界の破壊者、幽霊、根源の無貌存在、裁定者のマスター。
けれどもし、最も本質的かつ無意味な名でボクを呼ぶならば───」
順列に明かりが灯るように、周囲一帯を光が照らしていく。
すばる/キーアは、思わず目を細め……
「ボクの名前はディー・エンジー・ストラトミットスという」
───少女の影が映し出される。
そう、少女だ。すばる、キーア、アイよりも少しだけ年上に見える、おそらくは14歳程度の少女の姿がそこにはある。
色素の薄い髪、肌、瞳。どこかの学園の制服を身に纏い、薄っすらとした笑みを湛える顔は未だ幼さを隠せていない。
ならば、この少女こそが世界の敵か。
すばるを、キーアを、アイを。東郷美森と結城友奈を、藤井蓮を、丈槍由紀を、古手梨花を、みなとを、イリヤスフィールを、辰宮百合香を弄んだ。我らの仇敵であるというのか。
倒すべき、最後の敵なのか。
「実のところ、その問いに正確に答えることはできないんだ。
そもそもキミたち、どうしてボクを倒そうなんて発想に至ったのかな?」
何が面白いのか、くすくすと笑いながら魔女は、ディーは答える。
「キミたちがどうして復活したのか、廃神として付与された人格をどうして未だに維持できているのか。キミたちは分からないことだらけだ。
だからね、答えるのは正直難しいんだよ。ボクを倒そうなんてまるで無意味なことをしようとしているキミたちにとって、ボクが敵と定義されるかどうかなんてことはさ」
魔女は手を振るう。いくつもの幻影が、幻想が、光が現れ、何かの光景を映し出す。
それはこの聖杯戦争で散っていった者たちの記憶であり、魂であり、願いであり、苦痛であった。それら全てを掌中に収め、魔女はただ笑っている。
「ああ、この聖杯戦争を始めた理由? 簡単なことだよ、黄錦龍の完全顕現のためさ。
一度目の聖杯戦争で降誕した聖杯だけじゃリソースが足りなくってね、虚空の果てから呼び出した《彼》を衛星軌道上までしか引っ張ってくることができなかったんだ。
だから彼は今も月で眠りについてるし、それを起こしてやる必要があったんだ。
……"願い"を呼び水にしてさ」
ふと、魔女の語気が強まった。
今までの軽薄なそれではない。譲りがたい、耐えがたい何かに直面したかのような、そんな変化。
許せないものを目の前にした時、当たり前の人間の怒り。
「願いなんてなんでもいい。金が欲しいでも元の場所に帰りたいでも、誰か生き返らせたいでも誰か殺したいでも、世界を救うでも滅ぼすでも何でもいい!
完成した聖杯に願いを告げさえすれば、それに呼応して"アレ"が顕象されるはずだったのに!」
魔女は両手を広げ、唇を歪める。
それはどこまでも狂気に満ち、止まることのできないディー・エンジー・ストラトミットスだった成れの果て。
たった一人の少年と共に在るために全てを捨てた狂神。
歪み捩じれた意思の波濤を前に、すばるは、キーアは、思わず後ずさる。
「ボクは資格がないから黄金螺旋階段を昇りきることができないからさ。わざわざキミたちを"造る"必要があったんだ。
今こうしてとんだ邪魔が入ったけどね、でも何度だってやり直せばいいのさ。なにせ時間は無限にあるんだ。
キミたちを消し去って、ボクは三度目の聖杯戦争を開くことにするよ」
「……させると、思ってるんですか」
すばるが答えた。その右手は前へと伸ばされ、重なるように鋼の右手が顕現を始めている。
「わたしは……わたしとみなとくんは、あなたを止めるためにここまで来ました。
もう二度と悲劇は起こさせない。哀しみも、涙も、犠牲も、誰一人出させはしない」
「ボクを殺したとして滅びた世界は何も変わらないのだとしても?」
「それでも、あたしはあなたを止めるの」
キーアが答えた。
既に彼女の傍に侍る蒼銀の騎士は黄金剣の輝きを露わにし、その切っ先を魔女へと向けている。
「起きた悲劇は覆せない。失った命は戻らない。そんなのは当たり前で、誰もが分かっていること。
あなたを止めたところで壊れてしまった世界は元に戻らないかもしれないけど、あなたが未だ新たな悲劇を生もうとしているなら」
「……わたし、この街で色んな人と出会ったよ。見ず知らずのわたしを助けてくれたおばさんがいた。学校で明るく笑ってるゆきちゃんと会った。
アーサーさんはすごく格好良くて王子様って感じだったし、蓮さんはちょっとぶっきらぼうだけど優しい人で、もっと話したかったって思う。
百合香さんは頼りになる人で、わたしもこういうふうになりたいなって思えた。アイちゃんもキーアちゃんもみんな怖くて大変なはずなのに、自分より誰かのことを考えることができて、本当に凄いなって思ったよ。
東郷さんは誰より優しくて、暖かくて、なんだかお姉ちゃんみたいだなって、そう思った。それになにより、みなとくんと仲直りだってできたんだ」
「梨花は最期に自分の願いを見つけて、あたしを助けてくれた。それは本当に綺麗で尊いこと。あたしはそれに応えなきゃいけないと感じた。
あなたは"願い"を求めていたけど、でも本当にそれがなんなのか理解できているの? 梨花が願ったこと、取り戻したいと思ったこと、こんな殺し合いに乗ってでも叶えたかった何か。それがどういう意味を持つか、本当に分かっているの?」
「意味がないとあなたは言った。けど、わたしはわたしの選んだ道を信じる。この街で出会った人たちと、その暖かさを信じる」
「梨花の願いを信じる。託されたものをあたしは信じる。例えその先に意味なんかないのだとしても」
「わたし/あたしは、希望を持って前に進む」
「……。
そうか。不完全とはいえ万仙陣の縛鎖を打ち破ったのは、それのためか」
魔女は目を伏せる。
それは、眩いものを見る瞳か。
それは、尊いものを見る瞳か。
いいや違う。それは、何より耐えがたいものを前にしての、激情。
憤怒と侮蔑の色。
「けどね、何か勘違いをしていないかい?
キミに宿る御伽噺の《奇械》の力、星の聖剣を携える最優の剣士の力、別に侮っているわけじゃないんだ。
その暴威が、ご都合主義の力が、正しく発揮されたならボクなんてひとたまりもない。そう理解してるんだよ」
魔女は支配者としての強権を持ってはいるが、物理的な強さに関しては脆弱そのものだ。
無尽蔵の権能を駆使しようとも、恐らく真正面からの戦いとなれば近接型の英霊ならば瞬時に勝ちを拾うことができるだろう。
何故なら彼女は少女でしかないから。運動が苦手で、人と争うなんて生まれてこの方一度もしたことがない、鈍くさく不器用な14歳の少女の体でしかないからだ。
「そんな相手を前にして、どうして長々と無意味な話を続けたと思う?
そりゃボクもキミたちの意味不明な在りかたとかを見たかったってのはあるけどさ」
アルデバランの右手が、聖剣の輝きが、ディーに迫る。
魔女はそれに反応できない。基礎的な反射速度があまりにも違い過ぎて、十度は殺された後でなければディーはその動きに気付くことはできないだろう。
けれど。
「急段顕象、《雲笈七籤・墜落の逆さ磔》」
どぷん、
という音と共に、すばるは、キーアは、姿を消した。
何の予兆もなかった。二人は自身の足元に伸びる影に、まるでそこが突如として水面に変わってしまったかのようにして、水に沈むように消えてしまったのだ。
黒に呑まれた二人。
残ったのは僅かに、ディーただひとりだけ。
「ボクの前で希望を謳ったよな。だからお前たちは何も掴むことができない」
急段とは術者と相手、双方の合意が成立することで初めて効果が発揮される異能。
勝負の内容をゲームと合意することで命がけの遊戯盤を顕現させる狩摩と同じく、"夢"を見たいと願う人間を実際に夢の世界に引きずり込む万仙陣と同じく。
雲笈七籤・墜落の逆さ磔。協力強制の条件は「希望を抱く」こと。顕現する能力内容は「無限深の深淵へと墜落する」。
希望とはすなわち夢想。より良いものを求めるが故の意思であり、裏を返せば目の前の現実は"そうではない"ことを前提とした感情だ。
『お前の抱く都合の良い希望は実在しない。おまえ自身それを認めただろう。だから現実に呑まれて消え失せろ』
相手は希望とは現実に在らぬものと認め、術者たるディーは希望など実在しないと思考する。その瞬間、両者の間で合意が成立するのだ。
"現実"はそんなに甘くないのだ、と。
「僅かでも夢見る心が残っていれば、その者は万仙陣を抜け出すことは叶わない。
金が欲しいアレが欲しい、生きたい死にたくない何かをしたい何かをしたくない。その全てを万仙陣は叶えてしまう。
ならそれを打ち破る者はさぞや崇高で気高い心を持ってるんだろうね。きっと『希望』なんていう身の程知らずのものを後生大事に抱え込んでさ」
故にこそ、キーアとすばるは決して勝てない。
万仙陣を乗り越えてしまったその時点で、ディーとの協力強制は成立してしまっているのだから。
「さあ、残るはたった一人だ。アイ・アスティン、墓守の夢を抱いた哀れな娘よ」
「どっちの願いが強いのか、ここではっきりさせようじゃないか」
【すばる@放課後のプレアデス 魂魄封神】
【キーア@赫炎のインガノック 魂魄封神】
▼ ▼ ▼
「結局、お前に全部押し付けちまう形になっちまったな」
赤い髪の少年。
知らないはずの人だった。今まで一度も会ったことがない、そう断言できる。
けれど何故か、見覚えのあるような気がして。
何故か、謝らなければならないような気もした。
「お前には謝ることが多いんだ。ドッグタグも拾ってもらったしな」
ドッグタグ。セイバー、蓮に教えてもらったこと。
旧校舎の地下で拾った銀色の小さな札。
ああ、なるほどとアイは思う。
そっくりなのだ。あの場所に埋もれていた、封じられていた誰かと。
「この先は怪物の棲家だ。お前のサーヴァントだって、生きてりゃ絶対行くなって言ってるはずさ。
命の保証はできない。あいつはこの都市を、お前らを本気で消すつもりだ」
少年の顔が歪む。やりきれず、何かを為せなかった。そんな顔だ。
自分もそうだったから、よく分かる。
「お前一人なら俺が逃がしてやれる。それでも、行くのか?」
「ありがとうございます。でも、私は行かなきゃならないんです。
……そうですよね、アリスさん」
「───ああ、そうだったな」
虚を突かれたように、けれど次の瞬間にはほんのわずかに微笑んで、少年は───アリスは答えた。
「なんだ、いい顔しやがって。結局俺がいなくても平気じゃねえか。
ほんとはさ、行くなって言いたいんだよ。なにせ初恋の相手だったんだぜ?」
「会うのはここが初めてですよ」
「ま、お前にとっては未来の話さ」
「未来、ですか。気の遠くなる話です。今の私には尚更」
「信じられないか?」
「いいえ。私はきっと、そこに行かなければなりませんから」
アイは言う。断言する。そうしなければならない。
未来を、希望を、光を、勇気を。信じることこそ、夢を失った彼女に課せられた重圧なのだから。
「後悔はしないな」
「はい」
「諦めないよな」
「勿論」
「立ち止まるなよ」
「ええ」
ぴん、と何かを弾く音。自分の顔面目掛けて飛んでくるそれをアイは掴む。
指に取ってまじまじと見つめる。それは一発の、銀の銃弾。
投げ渡した格好のアリスは、にやりと不敵な笑みを浮かべて。
「なら行け、走れ。
行ってあいつをひっぱたいてこい」
「ええ。あなたの分まで、きっと」
そして二人は擦れ違う。
アリスの横を通り過ぎ、アイは走り出した。
後ろはもう振り向かない。
だって希望は託されたのだから。
「……ったく、やっぱ無軌道暴走列車だな、あいつ」
アイの背中が見えなくなるまで見送って、呆れたように呟き、アリスは後ろに倒れ込んだ。
大きな水音と共に広がる血飛沫。それは明らかな致死量であり、誰の目から見ても生きていられるものではない。
「そんであの時計野郎、ざまあみやがれ。何が足止めは二秒が限度だ、だよ。10分は粘ってやったぜこんちくしょう」
アリスの顔は晴れやかだった。
何も為せなかったなどと、何を馬鹿な。自分はここまでやってやった。
そう信じることができたなら、どれほど幸せだったことだろう。
「ディー。お前が何を見て何に絶望したのか、正直俺には分かんねえよ」
気付いた時には、既に彼は《奪われた者》と成り果てていた。
死者に黄金螺旋階段を昇ることは叶わない。故にこそ、二度目の聖杯戦争が始まって以降"片時も止まることなく"階段を昇りつづけた彼は、しかして頂上に辿りつくことがなかった。
自分が意識を失っていたあの時、ディーが何を見て、何を選択したのか。それを彼は知らない。
どうせろくなことじゃないんだと思う。あいつのことだから、何か体よく騙されてたりするんじゃないかとも思う。
けれど。
「それでも、お前がそこまで真剣に何かを叫んでるなら……きっと本当は、俺が止めてやらなきゃいけなかったんだよな」
それだけが……
それだけが、悔いだった。
「悪いな。俺、お前に……」
続きは、言葉にはできなかった。
視界が闇に覆われ、意識が急速に消えていく。
アリスは彼方を見上げ続けた。螺旋の果てを、黄金螺旋の頂上を見上げ続けた。
見えない目で、見上げ続けた。
投下を終了します
投下おつ
うむ。うむ。うむ!
投下します
『《魔弾》の力が消える』
『ならば、終わりを始めよう』
『我が手を阻む最後の世界救済者が砕けた』
『すなわち』
『シャルノスの理に抗う者は、既にただ一人となったのだから』
『───ああ』
『アイ・アスティン』
『ディー・エンジー・ストラトミットス』
『おめでとう』
『きみに、きみたちに』
『心からの祝福を』
▼ ▼ ▼
───私は。
───私は、私の世界を歩いていく。
───階段、昇って。
階段。どこまでも果てしなく続く螺旋階段。
それは周囲を紫影に覆われて、足元は乱れない漆黒の様相。
アイは昇る。無言で昇る。涙を拭い、どれだけ足が悲鳴をあげようとも。
「私には、まだ、やるべきことが残っていますから」
答える誰かはいない。
もう、消えてしまったから。
それでも呟く。
会話としてではなく、自分への確認として。
帰ってくる声はない。
言葉も、視線も何もかも。
隣にいてくれたはずの、もしくは影となってずっと一緒にいてくれた彼。もう、いない。
消えてしまった。アイの目の前で、アイの腕の中で。
消えてしまったから。
この、虚無と化す世界と同じに。
この、紫影と化す夢界と同じに。
アイは歩く。
アイは昇る。
紫影の塔、螺旋階段の果てへ。
夢と消えていく世界で、ひとり。
擦り切れていく世界で、ひとり。
最早、何もかもが手遅れなここで。
幾人もの顔を思い出しながら。
幾つもの感情を、胸に抱いて。
唇、噛んで。
彼の瞳を、思い浮かべながら。
視線、真っ直ぐに見上げて。
最果てをにらんで。
空の果て、階段の向こうを。
虚無の中をただ一人、アイは歩く。
関節が軋んでも。
足の感覚が、とうに無くなっても。
何度躓いても。
何度転んでも。
転げて、虚無に落ちかけても。
何度でもよじ登る。
何度でも、何度でも。
何度でも───
……どれくらい。
どれくらい、時間が経っただろうか。
何度も転んで、諦めかけて。
時間の感覚がなくなるくらい、昇りつづけて。
ようやく───
───ようやく、見えてきた。
───私の、私達の目指した場所。
───紫影の塔の、てっぺん。
───視界はまだ、霞んでいるけれど。
───それでも見える。目指すべき先が。
「……もう、すぐ……」
囁いて───
そして───
そして、進むアイの眼前で、渦巻く螺旋階段の向こうから現れる。
誰もいないはずなのに、もう誰もが消えてしまったはずなのに。
機械の女が、アイの前に顕れる。
それは確かに女であったが、
アイと同じ女ではなかった。
それは、酷く、鉄の臭いがした。
階段の裏側から、女が来る。
階段の裏側から、女が姿を現して。
逆さまになっているのに、不思議と、落ちることもせずに。
くるりと、アイの目の前に降り立って。
その女はアイに告げる。
人間め、忘却の奴隷よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
神の見ている場所ならどこへでも。
『……こんなところまで』
『こんなところまで来て。
ねえ、アイ・アスティン。あなた何なの?』
『諦めなさいな。
お止めなさいな。
愚かな子、ひとりぼっちのアイ』
『そんなに傷ついて。
そんなに転んで、怪我をして』
『痛いでしょう?
なら、もう終わりにすればいいのに』
「嫌、です」
『なら、終わらせてあげる』
その身に纏ったものを、女は見せる。
その身に纏うフィルムと回転盤。
そこには映るだろう、メモリーが。
そこには蘇るだろう、メモリーが。
耐えきれない現実と共に、
耐えきれない過去と共に、
見せる。見せつける。目を逸らせない。
ただ、見つめて───
『メモリーはここに。
あらゆるメモリーはここに』
『だって人間には無理でしょう?
メモリーをしまっておく場所なんて、どこにもないでしょう?』
『頭の中にしまっておいても、すぐに歪んで、捩じれて、劣化する』
『さあさ、覗いてごらんなさいな。
何が見える? あなた、何を見たい?』
問いかける声は残酷に。
問いかける声は冷酷に。
アイの願いを女は叶えるだろう。
残酷に、冷酷に、無慈悲に。
たとえば───出会った人々との過去であるとか。
たとえば───別れた家族達との過去であるとか。
刻み付けて取り込んで、両目に焼き付けて取り込んで。
そして、人間を消してしまう。
けれど───
「うるさい!」
言葉、声。
アイの言葉は否定に満ちて。
過去を───
嘲笑う誘惑を───
跳ね除け、女の姿は幻と消え去って。
そして───
そして。
再び、アイの前に、罅割れた壁の隙間から訪れる。
一人目の女は消え去って、別の女がアイの前に顕れる。
それは確かに女であったが、
それは前の機械の女によく似ていた。
それは、酷く、鉄の臭いがした。
壁の隙間から、女が来る。
壁の虚無から、女が姿を顕して。
その女は告げるのだ。
人間め、恐怖の生贄よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
神の眺める場所ならどこにでも。
『───可哀相』
『あなた、ひとりだなんて。
そんなのひどい。可哀相だわ』
『ひとりなのがいけないの?
ねぇ、ねぇ。アイ。アイ?』
『痛い思いまでして。
悲しくて辛い思いまでして』
『そんなになってどうするの?
あなた、どこへ、いきたいの?』
『明るくしましょうよ。
ねぇ、もっともっと明るく!』
「……うるさい」
『暗い顔して!』
その身に灯るものを、女は見せる。
その身に灯る白熱電球。
それは照らすだろう。
恐怖を、長い長い影としながら。
それは呼び起こすだろう。
恐怖を、メモリーに繋ぎながら。
耐えきれない現実と共に、
耐えきれない過去と共に、
刻み付ける、影を際限なく伸ばして。
何の力もないアイでは、光は、避けられない───
ただ、浴びて───
『照らしてあげるわ、なにもかも!
アイ、お邪魔虫のアイ・アスティン!』
『あなたの道も照らしてあげる!
真っ白に、全部見えなくなるくらい!』
『あはははは!
何するの、ねえ何をするつもりなの?
あなた一人なのに! ひとりっきりで何をするの?』
『照らしてあげてもひとりきり!
明るくしてもひとりきり!』
『ひとりじゃなんにもできない!
臆病者、役立たずのアイ・アスティン!』
『明るくなりなさい。
暗いのも怖いのも全部忘れ去って!
もっと、もっと、明るく、忘れてしまえ!』
「……退いてください。
私は、あなたなんか、知りません」
言葉。声。
アイの言葉は否定に満ちて。
明かりを───
恐怖の導きを───
払いのけて。
そして。
三度、アイの前で螺旋階段のすぐ真上から訪れる。
誰もいないはずなのに。機械の女が、アイの前に顕れる。
それは確かに女だったが、
それはこれまでの女とよく似ていた。
それは、酷く、鉄の臭いがした。
階段の真上から、女が来る。
階段の真上から、その女が顕れて。
ふわり、と。
アイの目の前に降り立って。
その女はアイに告げる。
人間め、孤独の動物よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
神の認識する場所ならどこにでも。
『止まりなさい』
『これより先は神の座。
これより先は人間の領域ではないの』
『残念だけれど。
ここで、終わりにしませんこと?』
『あなたはよくやった。
そう、彼も言っていたでしょう?』
『あなたの大好きな彼。
あなたに付き添った彼。
不快な彼。水銀の影によく似て』
『そう言われたのだから。
あなた、もう諦めてよくてよ?』
「……やめてください」
『残念だわ』
その身に備わるものを、女は動かす。
その身に備わる蓄音機、発声装置。
そこには響くだろう、メモリーが。
そこには蘇るだろう、メモリーが。
姿を映すことはなく、
ただ、声、言葉のみを響かせて。
耐えきれない現実と共に、
耐えきれない過去と共に、
聞かせる。聞かせて、決して逃がさない。
『さあ、聞こえるかしら』
『あなたの愛しい人の声。
あなたの愛しい家族の声。
そうよ、あなたは聞いてしまうの』
『キヅナ・アスティン。
ハナ・アスティン。
あなたの大切な人の声』
『悦びなさい、アイ。
あなたのために聞かせてあげますわ』
『ずっと聞いていればよいの。
ね、ずっと。ずっと。ずっと』
『あなた自身のメモリーが消え去るまで。
ずっと、ずっと』
『過去に縋りついてもよろしくてよ?
ほうら、聞こえる───』
優美な声は残酷に。
優美な声は冷酷に。
アイの望みを女は叶えるだろう。
残酷に、冷酷に、無慈悲に。
すり減らして取り込んで、
両耳に擦り込んで取り込んで、
そして、人間を消してしまう。
「……なんで、笑っているんですか」
顔が、ないのに。
女は笑っているのだと分かる。
嘲笑っているのだ。アイを、皆を、すべてを。
『声こそ、言葉こそメモリー。
言葉あるものは我がしもべ。踊るがいい、まがいものたち』
「そんなに、私の邪魔をして。
私の、何が怖いんですか。どうして止めるの」
『恐れ……?』
『恐れなど!
恐れなど、私にあるはずもない!』
『私は恐れている。恐れている……?
いいえ、そんなことあるはずがないわ!』
『私は言葉を操るのだから!
人間などに、恐れるはずもない!』
『あなた如きが!
我らが神の御前に立とうなど!』
『どうせすぐ死ぬ生き物の癖に!
いいえ、あなたは生きてさえいない!』
『アイ・アスティン! 紛い物の《廃神(タタリ)》!
たったひとつ歩き始めた御伽噺!』
『あなただけは許さない!
はやく、消えてしまいなさい!』
「私は止まりません。
そうセイバーさんに、アリスさんに言いました」
「私は"私"をやり遂げます。
だから邪魔をしないでください。顔のない人、私を嗤う人」
『認めない!
果てに何があるかも分からぬ人間が、残像程度が!』
「ええ、そうです。私は誰かの影なんです。
でもあなたは知らないんですね。私は誰かの影ですけど……」
アイは、笑った。
「エゴイスト、なんですよ」
『───ッ!』
「私は影。私は夢。私は人の集合無意識から凝り固まった廃神の一柱。
アイ・アスティンという今も確かに生きる誰かから零れ落ちた、まがいものの命。
でも、それでも、私はまだここにいます。だから……」
言葉。声。
アイの声は静かに響いて。
「だから、私は!
果てへ行くまで! 辿り着くまで!
───この、"私"です!」
▼ ▼ ▼
「アイ」
「キミはやっぱり諦めないんだね」
「アイ・アスティン。愛しい子、ガラスの向こうを知る人」
「だから、ボクは」
「キミを……」
▼ ▼ ▼
───ようこそ、と。
アイを呼ぶ声がする。
アイの知らない、誰かの声。
それは確かに聞き覚えのない声だったけれど。
それは確かに、アリスと同じく何故か耳によく馴染んだ。
アリスは言っていた。自分たちが出会うのは未来の話だと。
未来。気の遠い話だ。未来のない偽物のアイには特にそう思える。
けど、それが真実なら。いつか自分がアリスと出会う運命ならば。
「こんにちは。アイ」
目の前で静かに微笑むこの少女も、
あるいは、アイが本来未来で出会うべき誰かなのだろうか。
紫影の階段、その最後の一段を昇りきった時だった。
影に覆われた大広間。踊り場ですらないその広大な空間に、少女がひとり立っているのをアイは見た。
アイよりも少しだけ年上だろうか。
朱い瞳。紫の髪。どこかの学校の制服を身に纏って、薄っすらと微笑みを浮かべている。
そこに、悪意と呼べる感情は見えなかった。
鉄の女たちと違って、それは嘲笑ではなく単なる微笑みだった。
友人を迎えるような笑顔だった。
少女は笑う。ゆったりと、力を抜いて、自然体で。
全ての元凶であるはずなのに。悲劇、惨劇、死と苦痛。それら全てをもたらした根源であるはずなのに。
まるで、どこにでもいる普通の少女であるかのように。
「ようこそ、歓迎するよ。アイ・アスティン、ボクのただひとりの友達。
初めまして。ボクの名前は……」
「ディー・エンジー・ストラトミットス」
少女の、ディーの言葉を遮るようにアイが答える。
「そうですよね、ディーさん」
「? ……ああそっか、キミも下を通ってきたんだもんね。なら垣間見えてもおかしくないか」
世界塔は重ね合わせの場所。可能性も時間も、ここでは通常の意味を為さない。
すばるやキーアと対峙していた時の光景を、アイも見ていたのか。
「ならボクの目的とか、この世界の絡繰りとか、そういうのもキミはもう知っているわけだ。
困ったなぁ。そこらへんを取っ掛かりにして色々話そうと思ってたんだけど」
「大丈夫ですよ。聞きたいことはたくさんありますから」
例えば、そう。
「何故、あなたは私に敵意を持っていないんですか?」
まず最初に気になったのはそれだ。
ディーはすばるとキーアに激しい敵意を向けていた。憎悪、と言ってもいいかもしれない。それはこの聖杯戦争を企てた黒幕として、己の意に反したイレギュラーを認められないという観点からも当然だとは思っていたけど。
なら、何故アイにその激情を向けていないのか。
「さっきも言っただろう?
キミはボクのたったひとりの友達なんだよ。未来の、とか、オスティアの人以外で、って枕詞は付くけどね」
「また未来の話ですか。世界を救うと決めた私は、どうも波乱万丈な人生を送るようで」
「全くだよ。キミの破天荒さは出会ったこっちが驚いたくらいだ。ま、ボクのそれもあくまで垣間見た記録であって、経験ではないんだけどさ」
くすくすとディーは笑う。その姿だけを見れば、本当に、単なる14歳の少女にしか見えなかった。
「キミとユリーとスカー、あとキミはまだ知らないだろうけどセリカって赤ん坊も一緒でね。学園の放送室乗っ取って演説ぶち上げたり、一緒にクソ長い塔を昇ったり、キャンプしたり誕生会したり、ゴーラ学園の時なんかユリーがロケットランチャー持ち出してきてさ。いやぁ、あれは笑ったなぁ。アリスも一緒に爆笑してたっけ」
「……随分と」
「うん?」
「随分と、普通にお話するんですね」
「もっと悪どくて人を人とも思わない悪者だと思ってた?」
「はい、正直言うとそう思ってました」
悪くて、
強くて、
おぞましくて、
なんかこう、自分の目的のためならお前なんか死んでしまえー、みたいなのを想像してた。
「だって世界を終わらせようとする人なんですよ?
殺し合いを開いて、みんなを巻き込んで、たくさんの悲劇を生み出した。そりゃとんでもない悪人を想像します。
でもあなたは……」
「そんなふうには見えない? もし本心からそう言ってくれるなら、結構嬉しいかも」
アイの声は震えていた。低く、涙も混じっていたかもしれない。
対するディーは、どこまでも平常であるように、事もなげに。
「ディーさん。あなたの願いはなんですか」
「もう言ったはずだよアイ。ボクの願いは世界を滅ぼすことだ」
「そうではありません。何のために、世界を滅ぼすかです」
「……」
「復讐ではありません。あなたに憎悪の色は見えない。
破滅ではありません。あなたに狂気の影は見えない。
再誕ではありません。あなたに希望の光は見えない。
なら、あなたは、何のために世界を滅ぼすのですか」
────────────────────────。
Q.人の願いとは?
────────────────────────。
「キミはもう、アリスと会ってるんだったよね」
はぐらかすように言ったディーは、アイへと向き直る。
「おさらいをしようか、アイ。
第四盧生『黄錦龍』が掲げる人類愛は救済、遍く人の理想の体現だ。
万仙陣は各々が求める救いの形を夢の中で叶えるけれど、現実はと言えば黄の眷属と成り果てて触手の異形に創り変えられる。
そのことについての是非はひとまず置いておくよ。これは事実の確認だからね。
彼は本当の意味で全人類を救済するが、同時に全人類を滅ぼす悪性でもある。ここまではいいかい?」
ピン、とディーはコインを弾く。
何時の間に持ち出したのだろう。コインはくるくると宙を舞い、ディーの掌に収まった。
けれど、彼女はその結果を見ない。
裏表を確認せず、ただ無意味にコイントスを繰り返す。
「そして、あなたはそれを呼び出そうとした」
「厳密には呼び出そうとしてる最中だけどね。
でもまあキミの言う通り、世界を滅ぼすだけだったら他にいくらでも手段はあるよ。乱暴な言い方をしてしまえば、大量の核爆弾でもぶっ放してやればそれで済む話だしね。
実のところ、ボクも万仙陣じゃなく本当はシャルノスが良かったんだ。でも100年も前に黒の王は玉座を去っていたからさ。今でも残滓程度の力は揮えるけど、それじゃボクの願いは叶わない」
つまり、ディーはわざわざ万仙陣を選んで世界を滅ぼそうとした。
目的はあくまで万仙陣によってもたらされる何かであり、世界の滅亡は副次的なものに過ぎない。
「本当に、どこまでもキミの言う通りだよ。
復讐なんてする気もない。ボクは誰も恨んでないから。破滅のつもりもない。ボクに自殺願望なんかないから。
世界を滅ぼし新たな世界を、なんて心底どうでもいい。ボクが願いを遂げたあとの世界なんてもう知らない。猿がタイプライターに打ち込む不確定要素に任せて勝手に流れていけばいいんだ」
コイントスは終わらない。
何の目的もなく、ディーはそれを続ける。
「話が長くなっちゃったね。だからもう結論だけを言おうか。
ボクの願いは"アリス"とずっと一緒にいる。ただそれだけだよ」
「それだけの、ために」
「そう、それだけのためにボクは世界を滅ぼすんだ。
人の認識によって生み出されたオスティアの世界、そこで出会ったボクとアリスはあの世界でしか生きられない。
世界よ停滞せよ! 人を永遠の鳥籠に捕えたまえ!」
「そん、なの」
そんなもの───
「意味が分かりません! あなたがアリスさんとずっと一緒にいたいという願いと、だから世界を滅ぼすという結論と、そのために万仙陣が必要だということが、まるで繋がりません!
私をからかっているのですか、それとも似合わない狂人の真似事でも……!」
「ボクは誰よりも正気だよ。それは彼、アリスが一番よく知っているはずさ」
ディーは笑う。嘲笑でも張り付けた笑みでもなく、ただただ笑う。
「ボクはアリスとずっと一緒にいたかった。それだけなら、万仙陣どころか聖杯だって必要ない。彼がどんなに叶わない夢を追いかけていようと、ボクは傍にいられるならそれで良かったんだ。
でも駄目なんだよ。アリスの願いが故郷オスティアという閉鎖空間の破壊であり、ボクがそこに囚われている以上は決して叶わない」
何故なら、とディーは続ける。
「アリスはまだ生きてるけど、ボクはもう死んでいるんだから」
そう、締め括った。
◆
「あれは、ね。文化祭の前日のことだったんだ。あの日ボクらは準備に追われて、全員参加で居残りをしてたんだ。ホントみんなギリギリまで動き出さないんだから、まったくしょうがない奴らだよ。当日は大混乱。やれ機材が足りない、看板の字間違えた、領収書貰ってこなかった、こらーお前ら放課後の活動申請出してないだろって先生に怒られたり。こうなりゃ徹夜で作業するぞって散々に盛り上がってさ。ボクは調理場作りで大変だった。ガス管配置してバーナー用意して、食材の手配にてんてこ舞いだった。アリスもその頃はブザービーターのせいで凹んでたけど、その時はそんな暇もないみたいで結構笑ってた。あれ見た時ボク、嬉しかったなぁ……だから、よそ見してたんだよね、ボク。悪いのは、全部ボク」
「……」
「内装がさ、結構凝ってて、ボクたち電装まで取り替えて中を宮殿風にしてたのね。その時ボクはカーテンを外す作業をしてたの。机の上に椅子を重ねて、ちょっと不安定だったけど、でも問題なかったから続けてた。二枚目も、三枚目もきちんと外せた。だけど四枚目でね」
「ディーさん……」
「四枚目だけ、窓が開いてたの。でもボク、それに気付かなくてさ。アホなことに窓に寄りかかって外そうとしたの。ホントアホだよね。それまでの窓が全部閉まってたから、そこもそうだと思い込んでた。びっくりしたよ、もう一段あると思ってた階段がなかった感じに似てるかな? 最初何が起きたか分からなかった。多分ボクきょとんとしてたと思うよ。だってアリスもそうだったもの。ああ、そうだ、あの時はアリスと一緒に作業してたんだ。悪いことしたなぁ……ボクはそこから先を覚えてないけど、アリスはばっちり見ちゃったろうしなぁ。かわいそうなことしちゃった」
「ディーさん!」
アイは叫んだ。
ディーは、自分が叫ばれるようなことを口走ったなどとは全く考えていない様子できょとんとしていた。たぶん、彼女が落ちたときも、このような表情をしていたのだろう。
「もう、いいですよ……」
「ん? ああ、うん。もういいって言うか、今ので終わりだけど」
ディーは発熱を確認するかのように、紅潮した頬を軽く抑えた。
「えっと、なんだっけ……そうそう、なんで世界を終わらせる必要があるかって奴。ボクが死んだ瞬間にさ、オスティアは一年で時間をループする閉鎖空間になったんだ。で、ボクは不完全な幽霊となった。多分、ボクが死んだとこを見たクラスメイトたちが『やり直したい』って願ってくれた結果だとは思うんだけど、実際はどうか知らない。嬉しいことではあるんだけどね、どうせなら『生き返ってほしい』って願って欲しかったかな。
ねぇアイ、ボクの立場で聖杯戦争を開くとして、一番の邪魔者って誰だと思う?」
「アリスさんです」
「うん正解。アリス邪魔だよねー、彼ってば本体がオスティアに囚われてるから何度死んでも復活してくるしさ。だからボクも無茶できたんだけど。
でもアリスを排除することはできないよ。だって彼、ボクがこんなことした一番大事な理由だし」
それはそうだろう。彼を消してしまえば本末転倒だ。
「それに、アリスには結局何もできないもの……ただ、彼はさ、"ガラスの向こうに行こうとする"でしょ?」
「え?」
最後の台詞は質問の形をしていたが質問ではなかった。ディーは急に独り言でも言っているかのように囁き出した。
「それで、ぼろぼろに、なるでしょ? だから、その時思ったの。ガラスの向こう、オスティアの外の世界を全部失くしちゃえば、流石にアリスも諦めるだろうって」
視線が合う。その時にはもう、ディーは西方の魔女に戻っていた。
「アリスの願いは囚われたオスティアの解放。ループする世界を壊して、中に閉じ込められたクラスメイトたちを外の世界に出してやること。でもさ、外の世界が無くなれば、解放もクソもないよね。
アリスは強い奴だよ。一度目の聖杯戦争でも一回だって負けなかった。どんな分厚い壁があっても絶対諦めなかった。そんな彼がさ、ボクが消えるってくらいで今さら諦めるはずがないだろ?
だからボクはボクとアリス以外の全員に死ねと告げる。世界を滅ぼすこと、そして死んでしまったボクがずっとアリスと一緒にいられること。その両方を叶えるには、万仙陣はうってつけだったんだ」
「そんな……」
衝撃が右脚の小指から頭の先まで走り抜けていった。
「そんな、そんなこと!」
「許されない?」
当然です! と叫びたかった。けれどアイはぐっとこらえ、寸前で抑えた。
「……ありがとアイ。今のキミなら、夢の喪失を知ったキミなら、そう軽々しく『当然だ』なんて言わないと思ってた。嫌だとは感じても、話くらいは聞いてくれると思ってたよ」
だから話したんだ、とディーは笑って言った。
「ボクだって、ね。最初からこんな風だったわけじゃないんだよ。あれは、そう、三番目のアリスの頃だ。オスティアが閉ざされてることを知ったアリスの言うことを信じて、なんとか外に出ようって頑張ってたんだ。あの頃は大変だったけど楽しかったなぁ。みんなで一致団結して、ここから出ようって張り切ってた。あの頃はボクもね、頑張って現実の世界に帰ろうって本気で思ってたよ。自分が死んでることも忘れてたしね」
「……」
「初めて外に出られて、その時からちょっとずつ考えが変わっていったんだ。今でも覚えてるよ。初めて外に出て、いきなりこんな殺し合いに巻き込まれて、『こんなところに戻るの?』って思ったよ」
「……」
「それでも、さ。ボクはまだ頑張れたよ。何よりアリスが諦めてなかったしさ。その頃のボクはまだ頑張れてたんだ。この街が本当の"外の世界"じゃなくても、本当の外の世界がどれだけ荒れ果てていても、そこに帰るのが当たり前だと思ってた。みんなだって解放されたがってると思ってた。だから頑張ったよ。殺されそうになっても、傷つけられても、怖くて死にそうになっても、ずっとずっと頑張ってきたよ。自分が死んでるって、気付くまではさ……」
「……」
「ねえ、アイ。ボクは、悪い子かなぁ」
ディーは、見捨てられたように言った。
「もちろん、さ。ボクは悪い子だよ。自分が消えたくないがためにアリスを縛って、関係ない人全員に早く死ねって押し付ける悪い子だよ。石投げられて首切り落とされて、100万回殺されたって文句言えない。悪い子だよね」
それでも。
「それでも、やっぱり、ボクが、悪いのかなぁ?」
ディーは淡々と、自分が死んだ時の話をするように喋った。
「死を受け入れられない。大切な人と離れたくない。ボクが、悪いのかなぁ……」
幽霊は、魔女は、泣いてはいなかった。泣くことを忘れてしまったかのように、言葉だけを吐いていた。
「……いいえ」
アイは答えた。
「あなたは……ディーさんは、悪くありません」
「はは。嘘ばっかり、慰めはいらないよ」
「本当です。あなたは、悪くありません。ただ、弱かっただけです」
「弱かった?」
「ええ。悪いよりも悪かったことに、弱かった。それだけのことです……」
「……そっか。ボクは悪よりも悪い奴なんだな」
まさしく化け物だ、とディーは言った。
アイは、そんなことを言いたかったわけではないのに。
「長々とこんなことを話したのはさ、ボクはキミに消えてほしくないんだよ。
キミはアイ・アスティンの殻を持つだけの廃神だけど、でもボクはキミのこと嫌いじゃない。むしろ好きだ。愛してると言ったっていい。
殺したいなんて思うわけない。ボクはキミに、死んでほしくない」
「ディーさん……」
「幸い万仙陣に定員って概念はないからね。キミが望むなら、キミが願う全てが叶う世界に行ってほしい。
ボクたちはもう二度と出会えないけれど……キミが幸せに生き続けてくれるなら、それはきっと救いだろう。
なんならボクと同じように、シャルノスの残滓を使って永遠無辺の……」
「ディーさん、それはできません」
きっぱりと断る。そこには否定の意思だけが込められていた。
「あなたの事情は分かりました。既に死んでしまったあなたが消えたくないということ、アリスさんと一緒にいたいということ、アリスさんの願いが叶えばあなたが消えてしまうということ、だからアリスさんを諦めさせるために世界を滅ぼすということ。すべて」
万仙陣は悦楽の夢、全人類の安楽死装置。そこで苦痛を味わう者は誰もいない。
世界を滅ぼすという目的のために選んだ手段がそれだったのは、あるいはディーに残った最期の人としての心だったのだろうか。
たとえ、その夢に沈め永遠性を獲得するという性質が必要だったからという一点を差し引いたのだとしても。
「その上で私は言います。私は、それを、受け入れられません」
「……そっか」
その言葉こそが決定的だった。
それだけで、全ての道が決定した。
「万仙陣は夢見る者を突き落す。
そこから這い上がってきた者を、ボクの逆十字は希望の反転として突き落とす。
本来ならこの二つだけで間に合うはず、なんだけど……どうやらキミは逆十字には嵌らないらしい」
夢を失い、万仙陣を抜け出した。
夢を失ったからこそ、今や希望すら持たずここまで来た。
本来なら中途で朽ち果てるべき弱者の魂、それがアイだ。何の因果かここまで来てしまった、今この瞬間においては万仙陣も逆十字にも嵌らないジョーカーカード。
笑えないイレギュラーだ。想定外としか言いようがない。けれど。
「だからこそ、キミは物理的に潰すしかないようだ。
『来たれ外なるもの、発狂の時空。アクセス我がシン───モード・A.Z.T.Tより《幻燈結界(ファンタズマゴリア)》を発動』」
空が、震えた。
ここからは何も見えないはずなのに、それでも否応なく感じることができた。空が、世界が、震えていた。
それは絶対の黄金でありながら黄金ならぬ輝き。人の営みとして灯る無数の星々すらも吸奪して余りある、それは真なる「外なるもの」。
紫影の空を覆う何かがあった。それはディーの背後を、上空を、覆うようにして広がる黒い何かだった。絶望の空。ただそれを視認するだけで、アイの脳髄が軋みを上げているのはきっと幻覚の類ではあるまい。
あれは、あれの名は───
「狂える世界機械ナコト・ファンタズマゴリア。世界に在らざるもの、在ってはならぬもの。
その暴威においては《万能王》の巨神すら上回る。この聖杯戦争において呼び出されたあらゆる者はナコトの魔に太刀打つこと叶わない!」
───さあ、時は来た。
空を覆うものが見える。未だ全容の片鱗すら視界に収められぬほど巨大な何かが。
魔術。英霊。宝具。何もかもが意味を為さない。アイの手は決して届かない。
何故なら、これはそう定められているから。
誰が決めた? それは人ではなく。獣でもなく。
ただ一人の何者かが決めたこと。ただ一柱のいと高き者が決めたこと。
時間だ。時が、突然、来てしまった。誰にもそれは止められない。
「キミを殺すのはボクだ」
高みより睥睨し、ディーは嘯く。既にその身は魔女と成り果て、オスティアの少女の姿はどこにもない。
「大切な人を殺したのはボクだった。
友達になれそうな子を殺したのもボクだった。
キミの知る二人、すばるとキーアを殺したのもボクだ。
敵を殺した、味方を殺した。友達を殺し、一番大事だったアリスすら黄金螺旋の彼方に突き落とした。
それでもアリスとだけは離れたくない。
だから、これでいいんだ」
そして。
巨大なものが、アイに向かって振り下ろされ。
「全てがどうでもいい。
創世はボクがやる、世界に光はボクが与える。
だからキミは、死んでアイ・アスティンのイドに還れ!」
視界が、闇に───
「いいえ。そうはなりません」
全てが───
全てが、消え去っていた。
空を覆うものも、
巨大な影も、
アイを押し潰さんとした何かも、
全てが、消え去って。
後に残ったのは、アイとディーのただ二人。
「……な、にが」
消えていた。
ディーの持つ力、アイを消さんとしていた力。
全てが。
「っ、ボクの───」
「させません」
何かをしようとするディーの腕を、アイが掴む。
それだけで、ディーは痛みに呻くしかできなかった。墓守と人間では根本的な筋力が違う。それだけで、既にディーの動きは封じられた。
「何を……したんだ、アイ・アスティン! ボクは根源の現象数式を手に入れた、ボクに為せないこと何も……!」
「私は一つの仮説を立てました」
ディーの言葉を遮って、アイが言う。有無を言わさぬ何かが、そこにはあった。
「聖杯戦争、英霊、鎌倉という街。全ては夢界の産物であり、万仙陣という急段によって形作られた代物。
つまりは夢、そしてあなたの力も源はそこから来ているのだと」
この聖杯戦争の裏側に潜む黒幕が何者だとしても、強大な力には何かしらの絡繰りが存在する。
そして舞台を構成する力、聖杯それ自体が万仙陣であると知ったアイは、一つを想起した。
すなわち、邯鄲法と呼ばれる術法。夢を統べる術。
「邯鄲法は夢を操るもの。急段より上にならなければ基本的な術理は変わりません。
つまり、心の強さが術者の強さとなる」
つまるところ、アイが言いたいのは単純至極の事実に他ならない。
「精神力で、ボクの術式を抑え込んだと……?」
そんな、考えるのも馬鹿らしい理屈。
「ありえない、そんなことがあるものか!
破段の顕現ですら常人は愚か特殊な精神修行を積んだ者ですら耐えきれない負荷がかかる、英霊の具現たるサーヴァントでもなければそんな暴挙は叶わない!
アイ・アスティン、自らの夢すら満足に持てないお前如きが!」
「ええ、その通りです。私だけでは、きっとそんな偉業は成し得ないでしょう」
そう、アイだけならば。
ひとりきりじゃ何もできない、アイだけでは、きっと。
「以前、セイバーさんに聞いたことがあるんです。エイヴィヒカイト……えっと、詳しい説明はいりませんよね? ともかくそれも自分の信仰が揺らいだりすると、高レベルの術でも結構あっさり破壊されちゃうって」
エイヴィヒカイト、ひいては創造位階における力の源流は自らの信仰だ。
渇望、こうあってほしいという願い。すなわち心の力こそが現実の強さとなる。
逆に言えば、そこが揺らげば現実の強さも揺らぐということ。
自らの渇望を信じられないエイヴィヒカイトの使徒は、容易くその理を破壊され既存兵器ですら傷つく脆弱な存在と成り果てるだろう。
「ディーさん。あなたは、本当に自分の願いを信じているんですか?」
致命的な、一言だった。
ディーは信じられないものを聞いたかのように、きょとんとした顔をこちらに向けた。
「なにを、言って」
「私がアリスさんと会っていると知った時、あなたの表情がこれ見よがしに変わったのを見ました。
最初は嫉妬とかかなって思ってたんですけど。でもやっぱり違ったんですね」
強張っていくディーに構わず続ける。
「その時あなたが感じたのは恐怖だった」
「……やめろ」
「アリスさんに何かを知られるとか、そういうのではありませんね。多分ですけど、私を通じてアリスさんの何かを知るのが怖かったんでしょうか」
「やめろ! やめて、お願いだから……」
ディーの目は絶望と恐怖に染まっていた。
アイを殺そうとした魔女とは、思えなかった。
「アリスは知らないはずなんだ。ボクが死んでるってこと……知らないで、あれだけ頑張ってたんだ。
ううん、もしかしたら全部知ってるのかもしれない。ボクが死んでるってことに気付いてて、オスティアを消したらボクも消えるって分かってるのかもしれない。でも、それでもいい。もし本当にそうだとしても、ボクは構わない。ボクが"知らなければ"、それでいい。でも……」
「……」
「でも、もし、それが分かっちゃったら。"お前が消えてでも俺は解放されたい"って、アリスが思ってるの、分かっちゃったら……」
ディーは嗤った。自分を嗤った。
「ボク、結構凄い奴なんだよ。自分のためなら誰だって殺せるし……世界一つだって滅ぼしてみせるよ……そのためだったら、なんだってできるよ。でも……」
「アリスに"いらない"って、言われたら……」
そこから先は、言葉にならなかった。
アイはかける言葉を失って立ち尽くした。ディーは低い位置からそれを見上げ。
「ねえ。じゃあキミはどうするの?」
「どうするって……何がですか?」
「ボクをこれからどうするの、ってことだよ」
ゆらり、とディーの纏う空気が変わった。
「キミはここに決着をつけに来たんでしょ?
なら、ボクを埋めるの。消えたくないって泣くボクを、そのショベルで、埋めるの?」
ディー・エンジー・ストラトミットスは囁く。悪霊のように囁く。
しかしその囁きも、今のアイには通用しなかった。
「そんなわけないでしょう」
「えっ」
「まったく、何を言うかと思えばそんなこと。いいですかディーさん。
人のことを敵だ敵だと言うのは構いませんが───いえ、本当は駄目なんですけど───だからって、相手も自分を敵だと思ってるとは思わないでください。私は何度も言ってきたんですよ、みんなを助けたいんだって」
「え、いや、でもキミの夢は……」
「夢破れましたがそれがなにか? 私の夢と、今目の前で困ってる人を助けるかどうかなんて関係ありませんからね。
そりゃアリスさん……というか、この聖杯戦争のあれこれを片づけたいってのはありますけど、それは別にディーさんの夢を踏み躙るという意味ではありません。そもそも解放されたいと消えたくないって願いは競合しないじゃないですか」
「で、でも、キミたちはきっとボクを許すわけが……」
「ええ、今だって怒ってますし許せない気持ちもあります。でもそれはあなたを助けて、みんなにごめんなさいするまでは保留です。
詭弁だろうがなんだろうが構いません。とにかく、可能性が残されてるうちから勝手に諦めないでください」
そしてアイは手を差し伸べる。
それは何の力もない、何の指針も夢もない、他ならぬアイ自身の手だった。
幽霊を、魔女を、ディーを助けるために差し伸べられた、ただの人間の手だった。
それを見て、ディーは思う。
本当に、それでいいんだろうか。
自分が、今さら取っていいものなんだろうか。
迷って、迷って、逡巡して。
そして───
『残念だよ、ディー・エンジー・ストラトミットス』
『今、希望を抱いたな』
「ッ、うぁ、わあ!?」
「ディーさん!?」
突然のことだった。
ディーの足元の影が蠢き、まるでそこが水面に変わったかのように、ディーを呑みこんだのだ。
どぽん、とディーが影に落ちて。
寸でのところで、アイがその手を掴んだ。
「な、なんですかこれ……強い力で、引っ張られて……!」
「アイ……!」
───雲笈七籤・墜落の逆さ磔
それは元々、ディーが有する異能では断じてない。
集合無意識より組み揚げた術式を疑似的に使用していたにすぎず、ならばこそ彼女自身の思想哲学を体現するわけでもなく完全な制御下に置かれていたわけでもない。
それはつまり、ディー自身も効果の対象になり得ることを示す。
希望を抱き、相対した相手が希望を否定する。それさえ成立してしまえば、ディー自身であろうとも無間の闇に墜落する。
ディーは自分が許されるかもしれないという希望を抱いた。
そしてアイは、元々希望など失った形でここまで来た。
そう、アイは既に、本当の意味で、希望などというものを信じることはできなかったのだ。
故に。
「い、いやだ! いやだ! 落ちたくない、落ちたくない!」
「ディーさん! 大丈夫です、私が……!」
「落ちたくない、ひとりは嫌だ!」
嫌だ。一人で落ちるのは嫌だ。たった一人をシャルノスで過ごすのは。
だって、それじゃ───幸せになってしまう。
たった一人なのに、アリスはいないのに、それなのに幸せになってしまう。本当に捧げるべき愛を、失ってしまう。
シャルノスに落ちて、希望の世界を目の前に出されて。きっと、最初のうちは拒絶するだろう。
これは本物じゃない。アリスもみんなも本当はどこにもいない。そう言って、差し伸べられる手を振り払ってしまうのだ。
でも、それも長くは続かない。
きっと、偽物のアリスたちはしつこくボクを追いかけてくるだろう。本気で心配して、本気で向き合ってくれる。そして顔をあちらに向ければ、満面の笑みを浮かべてくれる。
そんなもの、本当はどこにもないのに。
そうしたらボクは、きっとほだされてしまう。
偽物のアリスに、偽物のみんなに、きっと手を伸ばしてしまう。
そうしてずるずると取り込まれて、幸せになって、まあこれはこれでいいのかな、なんて思ってしまう。
本物のアリスに向けるべきものを、全部虚空に向けてしまう。
それはディーが抱いた愛への、殺し合いを開いてまで証明しようとした想いへの、何よりの裏切りだ。
なんだそれは、ふざけるな。
ボクはそんなこと、絶対に認めない。
認めたく、ないのに。
「なんで……どうしてこんなこと……ボクは、ボクはただ……」
ディーは叫んだ。掠れる声しか出ない喉で、それでも尚絶叫した。
「ボクは……幸せになりたかっただけなのに……」
アイの指が離れ、浮遊感と共に視界が闇に包まれた。
それでも叫び続けた。
誰の返事もなかった。
ただ、空疎な永遠だけがそこにはあった。
【ディー・エンジー・ストラトミットス@神さまのいない日曜日 観測不可能】
続けて投下します
こんなことがあった。
それはまだ、二度目の聖杯戦争が続いていた頃のこと。
喫茶店の中を、小さな蠅が「くわん」と舞っていた。
蠅は喫茶店の店員の頭を通り、客の鼻歌を突っ切り、誰もいないテーブルを旋回してディーのところへやってきた。
ディーは意識だけを鎌倉の街に送ることができた。他人の夢を覗き込むような感覚だった。聖杯戦争の行く末が云々ってのもあったけど、単純に暇つぶしってのもあった。
そんなディーの目の前で、蠅は窓ガラスにぶつかり始めた。
「……馬鹿な蠅」
微睡みの中で、ディーは蠅に囁いたりした。
「そこにはガラスがあるのに……キミには破れないものなのに……」
しかし蠅はそんな言葉など気にもせず、聞こえもせず、ぶつかり続ける。
「それでもキミは諦めないんだね。どんな犠牲を払っても」
何度目かの突撃の後に、蠅はころりと転げ落ちた。その右目は今の衝撃でか、はたまた以前からそうなのか、少し凹んで黒く澱み、羽根は歪んで、左の後ろ足が根本からぽっきりと折れ曲がっていた。
そんな姿になっても、蠅は止まろうとしなかった。
ディーはそんな蠅に、囁いたりする。
「多分キミは……自分でも、止まれないんだよね」
蠅は答えを返さない。ただ無言でぶつかり続ける。
「たとえそれが不可能事でも、ただ、傷つくだけだとして。止まることなんてできないんだよね……」
ディーは傷ついた蠅が哀れで、可哀相だった。
「だったらせめて……」
ゆっくりと右手を上げて力を込める。弓のように引き絞って、鞭のように振り下ろす。
パシリ、と幻の音が響いて、蠅は為す術なく右手とガラスの間に挟まれた。
けどそんなことに意味はなくて。
蠅はディーの掌を突っ切って、またなんでもないことのように飛び立った。
「……でもボクには、トドメを刺してあげることもできない、か」
ディーはひらひらと蠅を追った。傷ついた蠅と幽玄の手は何度も触れ合い、しかし一度も触れることなく、踊るように宙を舞った。
しかしそれもつかの間。
蠅はまた、ふっと手を離れて、ガラスの向こうに狙いを定めた。ディーは物憂げに、蠅がそちらに行かないよう掌で壁を作った。
だがやはり蠅は、そんなものすり抜けて、また窓に頭から───
ぶつからなかった。
その時一陣の風が吹き、蠅はふわりとそれに抱かれて店の外へと出ていった。
ディーは呆然と窓を見る。蠅を捉えて逃がさなかった窓ガラスは解き放たれて、街の風を呼びこんでいた。
「ふむ。元気そうで何よりです」
そう言って少女は、店の前で呼んでいる青年に応えると、さっさと小走りで去っていった。
ディーはそれを、ずっとずっと見つめていた。
ただぼうっと。
それは聖杯戦争が始まって七日目のこと。本戦が開始される前日のことだった。
ただ、それだけのことなのだ。
いつかこうなると、分かっていたことなのだ。
ディー・エンジーにアリス・カラーは理解できない。
どれだけ近づいても、一緒にいることなんてできない。
本当に、ただ、それだけの話だったのだ。
投下を終了します
投下します
誰もいない。
動くものなど誰一人としていない。アイ・アスティンを除いては。
そこは紫影の果て。黄金ならざる影連なりし大広間。
今や少年王も大公爵も姿なく、祈る神さえ失われた涜神の地。
月の瞳たる双眸は無慈悲に夜を睥睨し、少女は一人見えぬ空を見上げる。
『きみはどこへ行く?』
少女は、アイは、ふらふらとおぼつかない足取りで歩み始める。
たった一人で。彼女以外誰もいない世界で。言葉なく。
『物語は終わりを迎えた。永遠の今日を望みし魔女は偽りの夢へと消え、あらゆる全ては遅きに失した。都市は今や真なる異形へと姿を変じ、一切の希望など望むべくもない世界で。きみはどこへ行こうと言うのだね、今さら?』
「少し黙っててください」
言われるまでもない。
希望なんてあるはずがない。あったとしても既に奪われている。
アイ・アスティンは最早表情さえ尽き果てた顔で尚も突き進む。
願いはない。夢はとうに失われた。今は魔女から永遠を奪い去った、世界に受け入れざるべき《世界の敵》。
「私は行きます。いいえ、往かなくてはなりません」
『何処へ?』
「世界の果てです」
『行って何をしようと言うのだね。意味を持たぬきみが』
『倒すべき敵はなく』
『叶えるべき願いもなく』
『救うべき世界さえ失って』
『父を失い、母を失い、友を失い、夢を失い』
『生まれた意味も、生きる意味も持ち得ないきみが』
『この物語を、どう正すと?』
「何が正しいかなんて知りませんし分かりません。人の数だけ願いがあり、正義があるのと同じです」
全ては無意味。ハッピーエンドは失われた。
不条理だらけの物語。継ぎ接ぎで端々が朽ち果てた物語。
誰かの願いによって始まったその結末は、やはり誰かの自己満足によって終わるのだろう。
アイも、ディーも、誰も彼も。全員が自分の意思を押し通そうと戦ったのが、この聖杯戦争なのだから。
「私は誰も救えませんでした。この手に掴めるのだと思い上がった夢はただの傲慢で、誰もが私の前から消えていった。
死んで、消えて、いなくなった。そして私もまた、そう遠くないうちに消えてしまうでしょう。
ならそこに意味はないと言うんですか? 死ぬから、消えるから、そんなものは無意味だと」
アイの目の前に光が降りる。それは石材が重なるように、明確な質量を以てアイの眼前に積み重なっていく。
光を帯びた黄金の階段。長い、長い、果ての見えない螺旋階段。
紫影の果ての更に先に、未だ続く黄金螺旋階段。
「最後に死んでしまうから、今を生きることに意味はない。
私は決して、そうとは思いません。
私はこれまで、ずっと楽しかったです。つらくて、苦しくて、どうにもならないこともたくさんあったけど。それでも一瞬一瞬が楽しかった。
いつか失われるとしても、その事実が無かったことになるわけじゃありません。
たとえ誰一人覚えていなくても、記録一つ残らなくても。
今この瞬間、確かに私が存在していることに変わりはない。
なら、意味は、それだけで、きっとあるはずです」
誰一人と欠けることのない幸せの物語は、もう失われてしまったけれど。
希望はなく、さりとて諦観もなく。流されるがままに流離っているだけかもしれないけれど。
「それにですね。
何をしても結果が同じなら、その過程はできるだけ楽しいものにしたいじゃないですか」
それでも私は、この右手を伸ばそう。
私を支える何かと共に、必死で前を向いていこう。
……いつかそうして歩いていくのだと、生きた彼に誓いたかった。
「というかあなたは誰なんですか。さっきから人の頭の中でペラペラと」
『私はとうに名を失った者だ。あるいは、ディー・エンジーは私のことをキャスターと呼んでいたが。
その仮初の名が示す通り、私は前回の聖杯戦争において魔術師のクラスとして召喚されたものだよ。既に、意味はないがね』
「はあ。で、そのキャスターさんが何の用ですか」
『なに。舞台を降ろされた影法師からささやかな忠告だよ。きみが今向かおうとしている場所について』
相も変わらず脳内で反響する声。声質だけを聞くなら藤井蓮とそっくりなのに、なんというか粘度が高すぎる、そんな声。
『根源、王冠、ジュデッカ、太極座、至高天、純粋空間、自由の岸辺、涅槃。
魂の生まれ、還る渦。事象の中心、宇宙の核。すなわち夢界八層、世界の果て』
「なんか色々と大仰な名前ばかりありますね」
『然り。そしてきみはそこへ辿り着くことができない』
アイは押し黙る。足を止めることなく、ただ無言。
『むしろ何故辿りつけると思っていた?
大公爵、アリス・カラー、カルシェール降り立つ世界に遺された最後の人類。その全てすら黄金螺旋の果てに行き着くこと能わず、《美しいもの》を見ることは叶わなかった。
ならば、何故、きみ如きが?』
「だから意味なんかないとでも?」
『違うとも。私はきみの意思を尊重しよう。何故なら、そう。有体に言えば感動したのだよ。この胸の高鳴りさえ嘘ではない。
ならばこそ、きみにその資格がないことだけが酷く残念だ。きみは階段を昇りきることができない。それは変えることのできない純然たる事実なのだから』
「……」
『二度目の聖杯戦争において、黄金螺旋階段を昇りきれる参加者は都合2人だけ。
すばる、衛宮士郎。当初においてはこの2人だけが階段を昇る資格を得ていた。あるいは聖杯戦争を通じての躍進を以て資格を得た者もいたが、きみはそのどちらでもない』
「……」
『きみは過程をこそ重視すると言っていたが、このままではきみは永遠の過程へと突入する。
それはきみとて本意ではあるまい? 無論私とてそうだとも。故に』
故に、と彼は告げる。
『これより八層試練を開始する』
そして───
アイの目の前に二冊の本が顕れる。赤と緑、本は勝手にめくれあがり、バラバラとページが進められる。
それは不思議と、リュートのような金属の軋む音をアイに届ける。
やがて本はとあるページを指して止まると、影の如き声は高々と「宣言」するのだ。
『それは運命の奔流に生まれ落ちた一人の"人間"の物語。
時計が如き不撓の歩みを刻みし足持ちて、この星海総てを踏み拉かんとした者の、
均衡を、双翼を、幻装を、円環を。悉く凌駕せし世界調律の輝き。
大地を満たす総ての答えに与えられた、無数に訪れる明日の一つ。
現世界へ語る超越の物語、パーソナル・アタラクシア』
アイの眼前に新たな光が降り立つ。
それは黄金の階段と同じように、何かの形を成していって。
『水銀の王の名において。来たれ誰が影、境界記録帯。
汝が腕は我が腕。汝が罪、あらゆる総ては我が罪』
はじめに肉体が形作られる。
人の腕、足、胴体、そして頭部。その均整は彫刻にも似て、その眼差しは薄く開く微かなアルカイック・スマイル。
肉体に相応しい武具、防具、鋼が顕象し、総身を覆っていく。
鋼の彼。その右手は刃の如く切り裂いて、その左手は王の巨腕と打ち砕く。
秘めたる熱情は太陽の如く万象を溶かし、あらゆる総てを光の如く引き裂いて。
『その名、《熱力学の悪魔(デビル・オブ・マクスウェル)》。
新しきもの、大自在の境地を知るもの、生まれながらに菩提樹の悟りに達せし人類のイデア、調律者、万象の王。
世界のメモリーに記された、紛れもない《無敵》のひとり。
今や彼こそが世界そのもの。
彼が"人"であり続ける限り、何者もその存在を脅かすことはできない』
歯車が軋む。
時計の針が進む。
運命の車輪が回り始める。
膨大な光が濁流となって周囲全てを押し流していく。
アイの見る世界が日が落ちるように変わっていく。
『八層試練、それはきみにとって最大の難関。きみ自身が不可能と定義するもの。では───』
『神の不在を証明せよ』
そこは秋の実りに満ちた黄昏の世界。
黄金の午後が訪れた、止まった時間の終末譚。
現在時刻を記録せよ。
それこそが彼の意思。時間こそ我が無間の領土なれば。
Q.例題です。いいえ、これは御伽噺です。
もはや何を語るまでもありません。ただ一つの切なる願いを除いては。
この世界を救ってください。生命の営みを諦めないでください。
「言われるまでもありません。あまりにも、今さらな話なのですから」
右手を伸ばす。ただ、前へ。
無為でもいい。それでも構わない。
今さら意味など求めない。
止まってしまった明日がそこにあるならば。
永遠の今日に対して、アイは、何度でも手を伸ばそう。
「苦しいから願った。悲しいから求めた。生きてて欲しかったから縋った。ただのエゴの塊だった。
こんな夢で誰かが、救えるはずがないのだと分かっていても。
だけど私は、誰かを救える神さまになりたかった───失われたその夢の残骸を以て」
瞳、前を見据えて。
「私は、あなたを乗り越えます」
【会場:永劫隔絶楽土・無間神無月】
【八層試練───神さまのいない日曜日】
投下を終了します
投下します
かつての記憶。
それは、アイが幼かった頃の記憶。
ある日、村と麓までを繋ぐ道に大きな木が倒れてきたことがあった。
幸いけが人はいなかったのだけど。一本しかなかった道は完全に塞がれてしまって。
歩くだけなら脇に逸れればいいのだけど。荷車や馬車は当然立ち往生。みんなほとほと困ってしまった。
切るのも運ぶのも難しいって話で、みんなでうんうん悩んで、最後には燃やすことに決まった。
生木を燃やすのは大変で、道を開くのは結局三日後になってしまった。
それを見て、幼かった頃のアイは思ったのだ。
───私がたくさん火を出せたら、みんな困ることはなかったのに、と。
───そのアイは、見るも凄まじいまでの業火を身に纏っていた。
手を振るうごとに極彩色の炎が流れ、ただ歩くだけで足元の地面が沸騰した。
熱量に空間は歪み、陽炎の如くにアイの姿が揺れ動く。
これこそが死だ。死、炎熱の恐怖。
アイの操る炎は、かつて幼き彼女が望んだその通りに動き、眼前に立つ《鋼鉄の悪魔》へと殺到した。
速い。目では追えない。生身も体では避けられまい。
もしも炎を避けたとしても、拡散する致死の熱量が必ず殺す。
文字通りの必殺。鋼鉄さえも鎔かす、アイの望んだ『渇望』の炎。それが微笑み浮かべる何者かに迫り───
そして、消えた。
蝋燭の火が掻き消されるように。炎は、熱量は、何の轟音も破壊もなく、あっさりと消え去ってしまった。
焔のアイは、それを砕け散る総身と脳髄で自覚した。
かつての記憶。
それは、アイが幼かった頃の記憶。
ある日、村で土砂崩れが起きた。
直撃はしなかったし巻き込まれた人もいなかったのだけど。家畜や備蓄への被害は甚大で、後片付けも凄く大変だったことを覚えている。
土砂はとにかく多くて、村中の人が総出で作業してもまるで減る様子を見せなかった。
それを見て、幼かった頃のアイは思ったのだ。
───私の手がこれ全部を掬えるくらい大きかったら、みんな困ることはなかったのに、と。
───そのアイは、ただひたすらに大きかった。
山を越え、空を越え、ついには星すら握りつぶせるほどの体躯まで、アイは変容した。
指先が触れるだけで空が揺れ、圧し潰される大気の層は文字通りに大地を砕いた。
これこそが死だ。死、星を滅ぼす巨大質量。
巨いなる者と成り果てたアイの拳は、かつて幼き彼女が望んだ通りに動き、地に立つ《鋼鉄の悪魔》へと振り下ろされた。
速い。目では追えない。生身も体では避けられまい。
もしも拳を避けたとしても、星ごとを打ち砕かれて生物の生存できる余地はなくなる。
文字通りの必殺。鋼鉄さえも粉砕する、アイが望んだ『渇望』の一撃。それが微笑み浮かべる何者かに迫り───
そして、消えた。
巨大な質量が、彼に近づくにつれバラバラと崩壊し、やがては灰となるように崩れて消えた。
後には何も、破壊や痕跡すらも残らず、あれほど巨大であったはずのアイはばらけて散って。
巨大なアイは、それを消滅する総身と脳髄で自覚した。
様々なアイがいた。
それは皆すべて、かつてアイ自身が望んだ何かを基点として分岐した、無数の可能性としてのアイだった。
風を操るアイがいた。
冷気を操るアイがいた。
光の体を持つアイがいた。
物質を発振させ、崩壊させるアイがいた。
空間を支配し、あらゆる事象を屈服させるアイがいた。
アイ自身が理解できるものもあった。
アイ自身が覚えているものもあった。
そして同時に、アイでは理解できない、知覚すらできない遥か高次のものまでもが、そこにはあった。
巨大なアイがいた。
小人のアイがいた。
二つの心臓を持つ、三面六臂の勇壮たる鬼神が如き者がいた。
人型ですらない、鋼鉄の体を持つ、獣の形をした、形すらないアイがいた。
液体の、気体の、幽体の、電離体のアイがいた。
真に墓守として完成に至ったアイがいた。神となったアイがいた。魔道に堕ちたアイがいた。
可能性が無限に収束する中で、あり得たかもしれないアイが、そしてあり得なかったはずのアイが、文字通りに無限の数ほど存在した。
無双の武人と至ったアイが、神速の宝剣を投げ穿つ。
森羅万象を制御する術に至ったアイが、絶大なる破壊光を射出する。
機械兵器に乗り込むアイの無数の弾丸は、壁のように全視界を覆う。
あるいは墓守として世界を救う夢を叶えた幼きアイが、その命の全てを懸けて埋葬の刃で斬りかかる。
《彼》はただそれらを見つめる。
起こる事象は酷く簡単だった。何も起こらないのだ。
眩い光が乱舞することなく、
大地が逆巻き割れることもなく、
空が乱れ終末の火が墜ちることもなく、
ただ電灯の火が切れるように、ぷっつりと。
無数にいたアイたちは、もう、どこにも残っていない。
それをアイは、ただひとりの"アイ・アスティン"は、じっと見つめていた。
ただ、じっと。微睡みの内に見る夢のように、アイはそれを見つめた。
無敗の強さがあれば、長き時の研鑚があれば、人の版図を越えた規模の概念さえあれば。
あるいは、悠久なる時代の流れこそが。そのどれでもない精神の輝きが起こす奇跡であれば、きっと。
この試練を、《熱力学の悪魔》を超えられるのだと、そう信じて。
無数のアイがいた。その全てが無力だった。
虚しく潰えていった無数のアイは、その全てが今ここにいるただひとりのアイ・アスティンよりも強く、賢く、万能の存在であった。
にも関わらず、無限数の試みはたった一つの回答しか弾き出すことができない。
アイ・アスティンでは、この試練を乗り越えることは、不可能なのだと。
『かつて四人目の盧生が八層試練に敗れ、アカシャの海に溺れ果てたことがあった。それが一つの世界を歪ませ、歪みが時代の特異点を形作った』
どこかで影が嗤っていた。
どこまでも続く可能性の海の中で、影が嗤っている。
『かつて、という表現は本来ここでは相応しくない。時とは因果の一次元的な定義に過ぎない。
この言葉は過去であり、現在であり、未来であり、同時にその全てに平行して存在し、あるいは何物でもなく存在すらしていない。
その上で私はきみに語りかけている』
アイには何の力もない。
ただ八層試練と黄金螺旋が生み出す"重ね合わせ"の状態を知覚することにより、在り得たかもしれないものを可能性の渦として観測しているに過ぎない。
『きみは実に多くの可能性を目にしたね。
今ここに立つきみが、"もしこういう力を持っていたら"という可能性だ。
そしてそれらを用い、かの鋼鉄の悪魔と相対する。その結果も既に知っているはずだ』
知っている。
百億の試みが為され、千億の結果が流れた。
全ては同じだった。あらゆる行いは無意味、アイには何の意味もない。
『違うとも。八層の試練において"絶対に不可能"なことだけは課されることはない。
何故だか分かるかね? アラヤとは人の意思の総体、きみはその一部。
アラヤが課す試練とはきみ自身の裡より湧き出でたものに他ならない』
それはかつての言葉。
影が語った、アイが聞いた、不可能と断ぜられる試練の名。
『人が観測する全能とは、人自身の想像力という限界を持つ型に嵌められることで全能性を失い、概念的万能性にまで貶められる。
そう、人は人が理解できるものしか知覚できない。それはきみ、アイ・アスティンもまた同じことだ。
きみ自身が定義した"不可能"が、まさかあらゆる因果と可能性ですら打破できぬ不可能という概念そのものであると?』
さあ、どうなのだろう。
アイの頭では理解できない。言葉の切れ端すら咀嚼できるかどうか。
けれど、思い出す。
言葉。この戦いが始まる前、アイにかけられた言葉を。
すなわち、神の不在を証明せよ。
『きみに起因する試練において、不可能という定義もまた、きみ自身が定義したものに他ならない。
ならば思い出すといい。そこに在る矛盾を、きみが自覚すべき歪みを。
何が、きみ自身の神を殺すのかということを』
───俺は。
アイは静かに瞼を閉じた。
まるで生まれて初めてそうするかのように、瞼の裏で瞳を舐めて、世界を締め出して自分に潜った。
───俺は、結構さ。
浮かぶものがある。
もう失ってしまったもの。もう会えないもの。
アイが、二度と、触れられないもの。
───俺は、結構さ。■■のこと……
アイの中で、何かが弾けた。
「俺は割と嫌いじゃないな、神様ってやつ」
「……神様否定の権化みたいな人がそれを言うなんて。セイバーさん、さては変なものでも食べましたね?」
「お前じゃねえんだからするわけないだろンなこと」
あー、と彼は少し考えるそぶりを見せて。
「まあ、実際にいた連中も一概に悪い奴ばかりじゃなかったってのもあるけどさ。
アイ、お前そもそも神さまって何のこと言ってると思う?」
「立派なお髭で天罰ぶっ放してくるお爺ちゃんですかね」
「お前のアホさ加減は置いとくとしてだ」
何を失礼なーと喚くアイを後目に彼は続ける。
「人間って案外弱くてもろいからさ、"神様"がいなきゃやってらんないんだよ。
ある人間は米を神と呼んだ。
ある人間は空疎な観念を神と呼んだ。
ある人間は学歴や見識、金や女を神と呼んだ」
言う彼の目は真剣そのものだった。アイはそれを覚えている。
「きっと神さまって奴も、"神"がなきゃ生きていけないんだろうさ」
「その理屈だと、さしづめ私の神さまは夢になるんでしょうか」
「そうなんじゃねえの。相変わらずなことにな」
彼は、何故だか寂しそうな顔をしていた。普段は年上ぶっている癖に、そんな顔をすると二つも三つも幼く見えた。
アイは目を閉じた。隣に座る彼の肩に頭を預けて。そうしていると、頬を撫でる風や木々の隙間から差し込む日の光や、彼の体温が間近に感じられるような気がした。
「それでは、セイバーさんにとっての神さまとは何なんですか?」
「……ま、そこはおいおいな」
「ちょ、ズルいですよセイバーさん! あなたって人は──────」
アイは子供のように彼に手を伸ばして、きゃいきゃいと何かをはしゃぐようにして。
───彼は、笑っていた。
「結局のところ、私は弱いままだったんです」
アイは歩き出す。ゆっくりと、しかし一歩一歩を踏みしめて。
「私は私の中の神さまを捨てることができなかった。
夢破れても、口ではどれだけ決意を言葉にしても。人は一日じゃ何も変わらないから。私も、変わることができないから」
ある日何かの転機が訪れて、何かを決意した人がいたとしよう。
それまでの自分を悔い改めて、もっとよりよく前を目指そうという意思に目覚めること。それ自体は何も文句を言われるべきではない、とても立派なことだ。
しかしだからと言って、その瞬間に立派な人間に生まれ変われるのかというとそうではない。
人生とは小さな積み重ねの連続だ。生まれてから今日に至るまで、積み重ねた足跡は当人にとっては何より大きく、そして重いもの。
例えそれがどれだけ卑小で間違っているものだとしても、人は一朝一夕では変われない。自分の過去を捨て去ることは、できない。
「私は誰かの神さまになりたかった。誰かにとっての救いそのもの。そうしたものに、私はなりたかったんです。
救いたい"誰か"なんて、本当は誰なのか分からないなんてことすら知らないまま」
アイは鋼鉄の彼へと近づく。3m、2mと距離が縮まっていく。
そして、目の前まで近づいた。炎も、冷気も、光も、巨大な拳も何もかもが触れることなく崩れ去っていった死域。
そこに踏み込んで、しかしアイは何の痛痒も感じることはない。
鋼鉄の彼はただ、暖かな慈愛の笑みでアイを見つめるだけだった。
「私は、私です。墓守のハナ・アスティンと人間のキヅナ・アスティンから生まれた、ただのアイ・アスティン。
神さまになんかなれない、ちっぽけな私しか、ここにはいない」
人は誰しも、生きる上で神を求めている。
それはあるいは愛であったり、夢であったり、欲望であったり、物質的な何かだったりする。
けれど、その所在を現実にあらぬ幻想に求めたところで意味はない。
人は現実に生きている。良いこともあれば悪いこともあるし、満たされない夢を抱えて飢えてさえいる。
だけど、それこそが人なのだ。
叶わぬ夢を叶えるために幻想へと手を伸ばし、遂には人ではない何かに堕ちることはない。けれど、叶わぬ夢を諦め捨て去る必要だってない。
「私はこれからも、現実で足掻いては嘆き続けます。葛藤と煩悶に揺れ動き、"こんなはずじゃなかった"と涙を流すでしょう。
それでも私は、私として生きていたい」
苦しいと嘆く夢なき日常を、出来る限り愛してみよう。
受け入れがたい現実を、受け入れるために足掻いてみよう。
理想とはかけ離れた見栄えの悪い自分自身を、それでも肯定しよう。
少しずつでも、今この瞬間から始めていくために。
「だから……あなたの助けはもういりません。神さま、私を見守ってくれたあなた。
私は私の道を往きます。現実に翻弄されながら、取捨選択を積み重ねてきた、私の……
苦痛と、失敗と、後悔の道を!」
そうして───
そうして《熱力学の悪魔》は……いいや、《秋月凌駕》と呼ばれたひとりの人間は、私の前から姿を消した。
そのことが可能性の渦と共に私の中に流れ込んできた。それは、ひどく簡単なことだった。
《世へ在るがままに平穏なる調停を(パーソナル・アタラクシア)》
それはすなわち「事象の安定化」、更に言えば「人間にとって穏やかなる状態」という明確な定義に集中させた調律の力。
未来の人類が生きるべき世界の基準点を示す、彼が辿り着いた人類という存在への解答そのもの。
人類が存続するに最も適した環境へ、万象を調律する。暴風はそよ風に、業火は焚火に。それは数多の可能性世界を観測することによって割り出された世界が続く上での最適値。
彼が存在する限り、何者も星と人理の均衡を崩壊させることはできない。
「だからあなたは……私が"人間"としてあなたの前に立てるまで、ずっと見守ってくれていたんですね」
数多の可能性と数多の試み。アイが何度も失敗して、つまづいて、起き上がって。何度も何度もやり直す様を、彼はずっと見守ってくれていた。
たったひとつの正解、アイがあらゆる幻想を捨て去り、ただひとりの人として立ち上がれるその時まで。
『然り。そして道は開かれる』
声が告げる。周囲の景色は急速に巻き戻り、アイの眼前には果て無く続く黄金螺旋階段が戻っていた。
しかし今までとは違う。今まではとても果てに辿りつける気がしなかった。階段は永遠に続くのではないかと。
けれど今は。果てが見える。辿りつけるのだという確信がそこにはある。
『資格はここに。今やきみを阻むものは何もない。
行くがいい、明日へ。そこに待つものの意味も知らぬまま』
「言われるまでもありません」
アイは言う。断言する。前を向き、一歩を踏み出す。
そして強く、強く、右手を前へ───
◆
『ようこそ』
『アイ・アスティン』
『罪深き世界が終わる』
『私の遊戯が終わる』
───ようこそ、と。
アイを呼ぶ声がする。ディーとは違う、囁く影とも違う、誰かの声が。
罪深い者よ、幻よ消えてなくなれ、と。
何が───
何が、罪か。
何が、許されざるものか。
それは、ここの果てに在る者が決める。
それは、ここの高みに坐す者が決める。
それは、退廃都市世界の主が決める。
時計の音を響かせて。
秒針の音を響かせて。
決定する。選別する。見つめ、選び、そして嗤うのか。
崩れ去るものを決める。
消え果るものを決める。
それは、いと高きところに在るものが。
その一柱の名を知る者はいない。
いるとすれば、紫影の果ての玉座にいた魔女だけ。黄金螺旋の彼方に突き落とされた魔弾だけ。
しかし彼らはもういない。アイは、彼の名を知らない。
だから、ただ一柱の主は嗤う。
チクタク。チク・タク。
チクタク。チク・タク。
それは、主を讃える白きものの声。
この黄金螺旋の果てで。
呪われた世界塔の果てで。
残酷な神が───
嗤うのか───
───奇妙な場所。螺旋階段の果て。
───それは、私には祭壇に見えた。神さまのための場所に。
遥か高みの玉座にて。
今も、君臨するものは語る。
今も、君臨するものは囁く。
嗤い続ける月の瞳そのものの双眸で。
チクタクと、音を響かせて。
邪悪なるものは嗤う。
神聖なるものは嗤う。
すべて、戯れに過ぎぬと嘯いて。
すべて、愚かなものたちのすべて。
すべて、罪深きものたちのすべて。
その掌の上に見つめながら。
都市のすべてを、夢界のすべてを、遠く、この高みより見下ろして。
「誰……?」
そして、アイは見る。
都市の最果てを。世界の果てを。
すべてを嘲笑し嗤う誰か。月がそのまま人になったかのような。
玉座の黒い神。
そう、呼ぶ者もいる。
黒い神。この世ならざるもの。空を覆い尽くしたもの。
黒い神。その名、隠された名をアイは知らない。
窮極の中心たる虚空の死者にして、祭王。輝く黄金を導くもの。
黒い神。高みそのもの。
残酷な神は告げる。都市世界、消えゆくそれを目にして。
残酷な神は囁く。都市世界、偽りの幻を目にしながら。
『ここが、すべての元凶だ』
『この玉座こそが、都市世界すべての始まりの果てだ』
『この玉座こそが、都市世界すべての終わりの果てだ』
『ようこそ、此処へ。勇敢なアイ・アスティン』
黒い神───
それは黒い色をしていた。
それは白い色、纏っていても。
冷やかにそれは告げる。
けれど、どこかに笑みを混ぜて。
冷やかにそれは囁く。
けれど、どこかに蔑みを混ぜて。
螺旋階段を昇りきり、視線、強く叩きつけるアイへ。
ただひとりの少女へ。
機械のように、冷酷に微笑んで。
機械のように、正確に微笑んで。
造り物の、鉄の仮面であるかのようにして。
『ご苦労様、アイ・アスティン』
『とても楽しかったよ』
『きみも、きみに付き従った彼も、ここでは楽しんでもらえたかな?』
『すべては私の戯れに過ぎないが、そう。キャロルくんが言うところの点在と偏在と非在で例えるならば』
『アイ。きみは点在を通過して』
『きみは同時に、非在でもある』
『神ならぬ身には、やはり偏在などできようはずもない』
『私と偏在を交わすことは、やはりきみたちには不可能だ』
『アリス・カラーの言葉は偽りか? ああ、そうだ。そうだとも』
『実に興味深い結果だ。実験は成功したと言っていいだろう』
『人間は儚く、
人間は脆く、
人間は、やはり非在を扱い切ることはない』
「何、言ってるんですか……」
誰、そして何?
あなたは誰で、そして何を言っているの。
私に分かる言葉がない。何を、言っているのか。
そして分かる───ああ、この人は。玉座にいる黒い人は。
私に話していないのだ。きっと、ひとりごとなのだ。
『神は永遠だ』
『偏在を続けるものだ』
神は声のみで苦笑していた。
それは、自嘲の笑みではあったが。
苦笑の気配を声に混ぜ、僅かに、表情を変えながら。
『無論この私は、人間たちの奉ずる神ではない』
『だが、そう呼ばれもする。
人間、人間、脆弱なる者共よ』
『私は神を名乗りはしないが、
しかし、ここの創造主ではある』
悠然と歩みを進める、こちらを見下ろす神。
神は告げる。再度、アイに告げる。
神なる言葉によって、アイが何者であるのか。
『きみは影だ。アイ・アスティンの影を、仮初の形としただけのもの』
『サーヴァントと同じようなもの。あれは、過去を生きた英雄の経験の影だったが』
『きみは、アイ・アスティンの感情の影だ。そう、この都市世界とまさしく同じ』
『ここは私の箱庭だよ。そしてきみは、きみたちは、私の遊具に過ぎない』
黒い神の遊具。
黒い神の箱庭。
すべて、すべて、あらゆるもの。
世界にあったものすべて。アイも、藤井蓮も、ディー・エンジーもアリス・カラーも、出会ったものすべて。
すべては───
『都市世界。夢に沈む人々。
想い、メモリー。
すべて、すべては私の戯れだ』
『箱庭。遊具。
私は願いを叶える都市を再現してみせた』
『だが……』
『もう飽きた。だから消してしまおうと思ってね』
分からない。
何を言っているのか。
あなたが作ったのか、この世界を。
ディーの願いに応えて。やり直しをと願う彼女に応えて。
───どうして?
『無意味なことだ。アイ・アスティン、それを知って何になる?』
『すべては無価値。無意味。無形。
存在さえしない。ただの、私の戯れだ』
『アイ。きみも同じだ。私のソナーニルで踊る仔猫に過ぎない』
『けれど』
『とても、とても、楽しかったよ』
『きみの寂しさ。
きみの楽しさ。
きみの歓びたるもの』
『きみの悲しみ。
きみの怒り。
きみの後悔たるもの』
『そして、きみの愛さえも』
『あらゆるものに、意味などありはしないのに』
「意味……」
何を、いまさら。
何度も何度も言われてきたことを、いまさら。
『いい目だ』
『しかし、それさえ意味はない』
『ここに来ても、何もない』
『私が、虚空が、きみたちを見つめているだけだ』
『人間よ』
『滑稽なるものども』
『さあ、アイ。世界の終わりと共に消えるがいい』
ぐらり、と。
アイは平衡感覚を失った。どころか、意識さえもが虚ろになっていく。
なに、これは。
これは、私が。
消える……?
『苦悶するきみの物語に触れて、私は嬉しい。とても満足している』
『私はアリス・カラーの偏在を否定したが、だが同時に、酷く退屈もしていた』
『ただ消し去るだけではつまらないと、そう思っていたのだよ』
『だからアイ。きみが来てくれてとても嬉しい』
『さあ、アイ・アスティンに還るがいい』
『変わることなき厳然たる現実、喪失のもたらす絶望へと還るがいい』
神は嗤う。
どこまでも、人を認識することなき彼岸の知覚によって、嗤う。
『ここが、聖杯戦争の終わりだよ』
「黙って聞いてりゃ上から目線の屁理屈をぐちぐちとぉ……」
すべてを───
高みより見下ろす者を、掴んで。引きずり降ろして。
アイは叫んだ。こんなところで終わってたまるかと。
「知ったもんですか、そんなことーーーーーっ!!!」
私のいるところまで、落ちてきやがれと。
投下を終了します
投下乙
最後の啖呵がすんげえ生音声で脳内再生された
投下します
「それは墓守の詩。墓守の寓話」
「誰もが知る黄昏色の言葉。かつて人が失ってしまった詩篇の一つ」
「歪んでしまった世界の有り様」
「私は……」
「私は、何もできなかった。この街で、この世界で」
「世界を救う夢を見て、誰かを救う夢を見て」
「誰も救えず、世界を救えず」
「そのくせ自分だけ生き残った。ひどいエゴ。うん、エゴイストの女の子」
「みんな、みんな、消えてしまって」
「私はそれでも残ってしまったから、最果てを目指した」
「何のため? ううん、分からない」
「私には過去がないから。確かに生きた経験がないから」
「この街で生まれて、それからの記憶しかないから」
「何を言っても嘘になってしまう。嘘っぱち、みんなみんな」
「何もかもなくなって、私ひとりになって」
「辿り着いた先で、私は誰かに出会った」
「神さまみたいに偉そうで、神さまみたいに高いところにいる。
意地悪な神さま。黒くて、黒くて、嗤っている」
「そこでお終い。
アイは消えちゃった」
───おしまい?
───本当に、それでいいと?
「いいわけありません」
「私は、認めたくない」
「私はいいです。私はエゴイストで、馬鹿で、何もできない愚かな小娘に過ぎないのですから」
「けど」
「あの人は」
「みんなを、嗤っていた」
「それは、許せない……のだと、思います」
───ならば。
───ならば、此処に詩編は紡がれる。
詩編が組み上がる。言葉をより集めて、それはお前だけの物語。
アイ・アスティンの物語。たったひとりの、墓守ではない人間の御伽噺。
現在、今なお語られる御伽噺。
過去、騙られなかった御伽噺。
だからこそ。
それは、かたちを得るだろう。
かりそめだけれど。
編み上げられた言葉は意味を為す。
たとえ存在しなくても、
たとえ物質ではないのだとしても。
ここは夢界。
既に残骸なのだとしても。
想いが、ある。
創造、現象数式、固有結界。意思と認識で世界の在りかたを変える力。
俺の遺した《魔弾》がひとつ。
世界を変革するルールはここに。
お前の詩編を剣へと変える。
さあ、見るがいい。尊大なるロード・アヴァン・エジソン。
世界を───
「革命する、力を───」
▼ ▼ ▼
『知ったものか、ときたか』
黒い神───
神は、まだそこにいた。
嘲り嗤う神がいた。
アイ・アスティンの目の前に、再び、嗤う神の姿があった。
『まだかたちを保つか。
壇狩摩、いや。これはアリス・カラーか』
『その手に持つのは星剣か。フェルミの紋章すら無き身でありながら』
アイの手に握られるものがあった。
それは光。それは剣。幾重にも折り重なる光がカタチとなった剣であるものか。
《ティシュトリアの星剣》
荒い息を繰り返すアイを、今にも消え行こうとした彼女をこの場に連れ戻したるもの。
世界の境目を、切り裂いたもの。
『だがそれにも意味はない。
シリウスの光はかたちを失い、私の実験にも既に結果は導き出されている』
『アイ。哀れなるアイ・アスティン。
墓守になりきれぬ人間の影よ。
きみは、私に、言うことがあると?』
黒い神は静かに告げる。
焦燥、怒り、戸惑いのひとつもなく。
アイのことなど、何一つ興味に値しないとでも言うかのように。
事実として、今のアイは身一つ。
サーヴァントはなく、持ち得る武器のひとつもなく。星剣と呼ばれた光すら徐々に形を失っていく。
アイをここまで引き戻すのが精いっぱいだったのか。それでも良かった。
ここに戻りさえできたのならば。アイはそれでいい。
『きみの言葉、
きみの意思、
消えゆくものに意味などないのに』
『果てなきものなど、
尊くあるものなど、
すべて、すべて。
あらゆるものは意味を持たない』
『消えた過去は、二度と取り戻せないように』
『愛が、存在し得ぬように』
『きみにも何一つ意味はない。
そのきみが、私に、何を語るというのだ?』
……言葉が出ない。
唇を開いても、言葉が喉に詰まりそうになる。
喉が震えていた。
あの、消え行く感覚を思って。
あの、消え行く自分を思って。
喉、舌、震えて。
指先も、手も、足も。
……ああ。笑ってくださいセイバーさん。
自分の命なんてどうでもいいんだって、あんなに強がっていたけれど。
いざ自分の死を目の前にすると、結局こんなんになっちゃうみたいです。
怖い。とてつもなく。頭が真っ白になって、眠るように倒れてしまいたい気持ちでいっぱいだけど。
でも、それでも。
私は、ここまで来たのだから。
「……馬鹿にするのも、いい加減にしてください」
言葉を叩きつける。
声。決して大きなものではなかったけれど。
それでも叫んでいた。
それでも言っていた。
身体がどれだけ震えても、
観じないはずの恐怖に満ちていても、
我慢できずに。心、感じるままに。
偽りなくそう叫ぶ。
迷わず、惑わず、怯えずに。
「みんなはここで生きていました。
いい人も悪い人も、強い人も弱い人も、夢があった人もただ怖がっていただけの人も、みんながみんなここにいました。
それだけは変えようのない事実です。それを、意味がないなんて……!」
『いいや。きみたちに意味などないとも。
すべては夢だ。ただの夢。世界にこびりついた記憶の残像だ。
かの都市世界は消えた過去であり、きみはただの影だとも』
───違う。
違うとも。彼の言っていることは論点がズレている。
みんなはここにいた。確かに今を生きていた。
生まれや存在がどうとか、そういうことではない。
願って、誰かに寄り添って。望んで、誰かを想って。
それを私は、見てきたから。
「消えるものに意味なんかないと、あなたは言いました。
その答えはもう言ったはずです。いつか消えるから無意味だと、私はそうは思いません。
"私"だって、今ここにいるんですから」
『滑稽なりアイ・アスティン。現実を説く者、実存を叫ぶ者よ。
きみが今、そこにいる。それがきみたちの価値の証明だというのなら』
神は嗤う。無慈悲に、冷酷に、嘲りの色を湛えて。
『幻想を否定し、幻想を捨て去って、行き着いた果てが"奇跡"という名の幻想か』
お前が今そこに立っているという現実は、奇跡で成り立っているのだという事実を。
『鏡を覗くがいい。そこに映るのはきみときみの従者が何より厭んだ幻想そのものだ。
あり得ぬ奇跡を起こしたきみは、なるほど確かに、現世の住人ではあり得まい。
愛、希望、勇気───奇跡。光に属する不条理。それを以てきみは私と向き合っている』
理解できる。確かにそれは指摘の通りだ。
アイが今ここに立っていること。幾多の試練を乗り越えてきたこと。
それは紛れもなく、奇跡と呼び称されるべき事柄だ。
そしてそれを成してきたアイ・アスティンは、およそ尋常なる理の外にいる。
そうでなくてはならない。何故なら、普通の人間にそんなことは不能なのだから。
けれど。
『夢幻と相対するには、それを凌駕する幻想に成り果てるより他にない。
道理だ、しかしきみの支えとする矜持はどこに捨て置いた?』
「……ああ、そうですか」
けれど、この場合は的外れとしか言いようがない。
アイは笑った。この上なく、清々しく笑い飛ばした。
ああ、つまり、この黒い神は───
「話が噛み合わないわけです。あなたはこれを、奇跡と呼ぶんですね」
奇跡。
あり得ざるもの。
愛とか、希望とか、勇気とか。そんなもの……
「……ふざけるな!」
違う。違う、違う、違う!
奇跡や幻想などと、安売りの絵空事ではない。ただの帳尻合わせにしていいわけがない!
「私が───そんな綺麗なものに見えましたか?
正しい意思でここまで来れる、立派な人間に見えましたか?
愛や希望を胸に抱いて、立っているように見えましたか?」
そんなもので立ち上がれたなら、どれだけ良かったことか。
……今でも思う。これから先、何度でも思うだろう。あの時こうしていればよかったと。
母の死に目に何かを言えたなら。父の愚想に何かを言えたなら。
夢に真摯であれたなら、由紀を助けることができたなら、すばるやキーアと一緒に並んで歩けたなら。
手を伸ばすディーに応えることができたなら。藤井蓮を救うことができたなら。
後悔が重すぎる。精神に刻まれた傷が致命に近い。自分自身を怨み責め続け、事ある度に飽きもせず、私は自分を呪うだろう。
私はそういう人間だ。正しいものを信じることができなかった。卑小でちっぽけでどうしようもない、愚かな小娘でしかない。
けど、そうだけど。
「この痛みが、胸を掻き毟る後悔が!
僅か一つでも、私の人生から欠けていたならば!」
現実に翻弄されながら取捨選択を積み重ねた自らの道。
こんなはずじゃなかったと、未だ捨てきれない数多の未練と後悔の念。
けど、もしもそれがなかったら?
想像してみよう。自分が理想を叶えたIFを。
父がいて、母がいて、村のみんながそこにいる。
私は笑顔で何の不安もなく暮らして、訪れる日々を当たり前だと勘違いして生きていく。
世界を救う夢を持つこともなく、大切な人を失うこともなく、無病息災の生を送っていたならば。
永劫私を苛み続ける、荊の道を歩まなければ。
「ここまで来れなかった……来れるわけがない、あなたを前に」
そうだ。だから今この背中を押すのは、過去の痛苦。激痛へ転じた思い出、苦しみに成り代わった理想の残骸。
無数の後悔が、今私をここに立たせている。
「全てに、意味があったんです……!」
望んでいなかったとしても、肯定できないとしても。
あってよかったなんて、口が裂けても言えなかったとしても。
それでも───
「私の人生は、無意味じゃなかった。
無くし続けて、奪われ続けるだけのものなんかじゃ、なかった……!」
その想い。胸が張り裂けそうになる救いを抱いて、アイはただ叫び続けた。
確かな意味があった。愚かは愚かさだけではない。失敗しても命は続いていく。自分が望む望まざるにかかわらず、"生きる"ということに果てはない。
そんなことが、分からなかった。
それをようやく、分かることができた。
胸に残ったなけなしの誇りが、自嘲することしかできなかったちっぽけなそれが、初めて輝くように燃え上がる。
ああ───神さま。あなたにはきっと分かるまい。
悩み苦しむ私の心など、間違えてしまう人間の気持ちなど分からないだろう。
神よ。いと高き完璧なるものよ。
現実の息苦しさも、理不尽への恐ろしさも理解できぬものよ。
私はそれを誇りに思う。自分が矮小な人間であることに。痛みと付き合い続けていく"人"であることを、ようやく受け止めることができたから。
『そのことに、一体何の意味がある』
『きみがそこに立ち、ここまで来たという事実が』
『何の意味を持つ。
……何ができる、矮小な人間如きに』
「あなたを倒せる」
アイは───
何かを突きつけていた。右手に握るもの、真っ直ぐに。
銀のショベルか? いいや違う。
ティシュトリアの星剣か? いいや違う。
それは銃だ。黄金の、小さな一丁の拳銃だ。
声、言葉。叩きつけて。
瞳、視線。突き刺して。
右手、嘲笑う黒い神へ伸ばして。
影がかたちを成していた。
黄金が、手の中に。
疑問はあった。
しかし、確信があった。
全ての決着は、この一撃に。
『……黄金の真実。
馬鹿な、きみは魔女ではないというのに』
『薔薇の魔女か。そして、これは。
虚空の力。月が私を裏切るとでも』
「何を言っているのか分かりません。
けど、これは私達"みんな"の意思。この世界に集まった、あなたに玩弄された全ての人の総意です」
黄金なりしは人の意思。神の白色さえ塗り潰す絶対の輝き。
それがかたちを成して、銃となって。込められるのは白銀の弾丸。
───神殺しのマトリクス・エッジ。《魔弾》アリス。
「あなたは、私がひとりでここに来たと言っていましたが。
私がひとりに見えるようなら、あなたはきっと神さまではありません」
黒い神が……いいや、神に限りなく近い誰かが、腕を振るおうとしている。
けれど遅い。アイが引き金を引くほうが速い。
何故? そのように決められているから。
それを決めたのはアイではない。
それを決めたのは黒い者ではない。
それは、
アイの指の時間を早めて。
チクタクマンの時間を遅らせて。
「可哀相な人。でも、ありがとうございます。
神さま。意地悪で冷たい神さま。あなたがいなければ……」
もう一度───
アイは、最後に微笑んで。
「私は、みんなに会えませんでした」
後悔なく、笑って告げるのだ。
「だから、私が撃つのはこの一発だけにしてあげます」
銃声が、轟いた。
それが最後だった。
放たれた銃弾がどうなったのか、黒い人がどうなったのか。
それを見ることなく、アイは二歩三歩とよろけ、後ずさり、足を踏み外して。
アイの体は宙へ投げ出され、
黄金螺旋の果てより、一直線に落ちていく。
それが、聖杯の降りたる地にて交わされた、彼女の最後の行いだった。
▼ ▼ ▼
『下らない幕切れだ。何の意味もないことだ』
声が淡々と響いていた。
黒い神は両の足で直立し、ただ表情なく言葉を重ねていた。
その胸には大穴が開いて、暗い虚空を晒しながら。
『実験は既に成果を得ている。ここでこれ以上の問答に意味などない。
にも関わらず』
その声には僅かな乱れがあった。あるいは、黄金を目にしたが故のことか。
サーヴァントとして顕現した彼の体は、末端より粒子と解けていき。
『何故、私は斯様に無意味な行いを重ねたというのか』
「それが分からないからお前は負けたんだ」
二つ目の声がした。それは、奥底の暗がりから。
歩いてくるものがある。黒い肌はチクタクマンと全く同じに、白い服も全く同じに。
しかし、瞳が違った。それは血涙を流すにも等しい激した朱眼。
「既知感だ。あまり好きな言葉じゃないがな、お前のそれは黒の王の焼き直しに過ぎない。
オルゴンとやらがそんなにも愛しいか?」
『お前は……』
チクタクマンは嗤いを張りつける。それは己が境遇、運命、そうしたものへの嘲笑か。
永遠の刹那、無間の地獄、夜都賀波岐なる大天魔。第六の天に抗いし者、世界の希望。
それはただ、静謐の表情で歩み寄り。
「幕だ。お前の言う通りだよ。
その小賢しい悪辣で以て、彼女の最期を穢すことは許さない。お前は───」
その右手でチクタクマンの首を鷲掴む。全能の神であるはずのロードは、未だ"世界を消す"程度は造作もないほどの力を持つはずの悪神は、抵抗さえ許されずに。
「お前は、俺のマスターを舐めるな」
存在を手折られる音が、虚空に響き渡った。
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───落ちていく。
落ちていく。アイはただ、何もない真っ白な世界を堕ちていく。
全てが、消えていた。
空の紫影が消えていた。
大地が、空間が、階段が、世界塔が。
世界が消えていく。夢界、最後に残った塔と黄金螺旋さえも。
あらゆるものを失って。
最後に、神さえ失って。
消えていく。
落ちていく。
最初から、何もなかったかのように。
真っ白だ。そう、アイは思う。
落ちていく。落ちていく。そうして、止まることがない。
またか、なんて思ったりする。思えば自分は落ちてばっかりだ。
騎士のセイバー、アーサーさんが聖剣を抜き放った時もそうだった。あの時は真っ暗で星が輝いてる……宇宙とはああいうところを指すのだろうか? そんなところを落ちていった。
あの時と違うのは、もうやるべきことは何もないこと。
果たすべきものが何も残っていないこと。
そして、私にもう先がないということだ。
銃の引き金を絞って……そしたら、こんなところを落ちていた。
私は、何かできただろうか。あの人は、ちょっとは痛い思いをしただろうか。
私達が味わった思いを、少しでも理解してくれただろうか。
消えていきながら、落ちていきながら、私はそんなことを考える。
「アイ」
声が、聞こえた。
それは幻聴ではなく、それは幻覚でもなく。
浮遊感といった感覚さえ失った思考が見た、末期の夢でもなく。
それは確かに、そこから聞こえた。
「ありがとうな、アイ」
「……アリスさん」
少年の姿が、そこにはあった。
赤い髪の毛、意思の強い瞳。ちょっと皮肉げな笑顔まで。
どうして、とかそういうことは言わなかった。
そのことに意味はないし……さして重要とも思えなかった。
ただ、彼がそこにいる。その事実だけで十分だった。
「最後に一言、礼を言っておきたくてな。これで俺達は、ようやく終われる」
「そんなことをわざわざ?」
「そんなことだから、だぜ。お前にとって俺のことは"ついで"だったんだろうけど、俺にとっては全てだったんだからさ」
アリスは笑う。何の使命も負っていない、ただの年頃の少年であるかのように。
「だから、最後に聞かせてほしい」
「何をですか?」
「お前にとって、世界の救い方ってのはなんだったのか」
Q.人にとっての救いとは?
「人は、どうしてやれば救われるのか」
Q.世界とは、どのようにして救われるのか。
「それを、俺に教えてほしい」
……それは。
それは、アイにとって何よりも重い問いだった。
アイはずっとそれを求めてきた。世界を救おうと足掻き続けた。唯一絶対の答えがどこかにあるのだと信じて走り続けた。
そんなものはどこにもなかった。
アイ・アスティンは世界を救えない。
アイ・アスティンは自分を救えない。
アイ・アスティンは誰かを救えない。
それはとても当たり前のこと。救うという綺麗ごとばかりに目をやって、救われるべきものから目を背けていたのは、他ならぬアイ自身だったのだから。
けれど、それもおしまいだ。
やっと分かった。私にとってのとか、あなたにとってのとか、そういう個人の主観によって変わってしまう言葉ではなく。
誰にとっても同じ、普遍的な意味合いで"救い"とは何を指すのか。
極論、人が生きていく上で救われるとは一体何であるのか。
「救いとは……」
アイが掴んだ答え、それは。
「救いとは、受け容れること。自分が今まで生きた過去を、あるがままに受け止めてあげることだった」
救いとは、きっと誰もが最初から持っているものだ。何故なら、常に消え去らない過去(おもいで)として、自らの内側にずっと存在しているものだから。
どれだけ振り払おうとしても、空っぽになってしまわないよう何処にも行かず共に在ってくれた。
アイの言葉に、アリスはただ笑って答える。その真実に、いつか自分が与えることのできなかったアイの救いに、祝福するかのように。
「そうだな。過去は減るものじゃない。どれだけ振り払おうとしても、降り注ぐ雨のように内に溜まって増えていく。
傷も、痛みも、涙だって。お前は最初から何も失ってはいなかったんだ」
ああ───ああ、そうだとも。
傷があった。痛みがあった。涙も当然、流れていた。
虫けらのようにのたうち回って、私は無価値だと何度も思い知らされ、夢を失い空っぽの自分に絶望し、良いことなんてあまりに少なく、嫌なことはその数倍。
幸福よりも不幸のほうが、遥かに多かったけれど。
「悲しいなら、虚しいなら、それは受け止められないものなんですか?
自分はどうしようもない人間だから、身の程を弁えて泣き喚かなきゃいけなかったんですか。
……違います、そんなこと誰も望んでなんかいない」
母との死別、父との決別。出会った人々とはすぐに死に別れ、大切な想いは失われ、常に共にあった青年さえ弔ってやることすらできずに。
そのどれもが苦しみに満ちていた。けど、だからといって嘆かなければならない理由なんてどこにもない。
目を逸らさなければならない理由も、逆に見つめなければならない義務さえも同時になかった。私に苦しめとわざわざ命令する人なんて、最初からどこにもいなかった。
涙を流しながら笑うことさえ、否定されてはいなかった。
「誰にも見咎められてなんかいなかった。私だけが、私をずっと許せないと叫んでいただけ。そうしたほうが楽だから」
資格がない、相応しくない。夢が壊れたから私はもう何もできない。罪が、罰が、器がどうのと。口を開けばそればかり。
常に自分の間違いを責め続けた。満点を出せないから大した人間じゃないんだと、私が私を起き上がらせないように必死で罵倒を繰り返した。
自虐だと分かっていながらそうやって気付くことを遠ざけてきた愚かさ、その事実を我がことのようにアリスは笑って肯定する。
「私もあなたも、世界から見ればとてもちっぽけで、何を成そうと大差ない。だから、誰も私達のことを見咎めなかった。
許すも裁くもないんです。私達はどっちも、そんなことされるような大層な人間じゃない。そこらの人間と何も変わりはしないのですから」
世界を救う、みんなを救う───
そんな"大きな意味"を自分に課さなければ、息をすることもできなかったあの日、あの時。
その間違いを正すようにアリスは言う。
「そうさ。俺もお前も、何の変哲もないただの凡人。
ひ弱でか細く、儚く無価値で、無意味にこの世に生まれ落ちた───
誰かがいないと生きていけない、誰かがいるから生きていける、どこにでもいるただの人間なんだ」
何者にもならなくていい。生まれて、生きて、無様でいいから駆け抜けて、最期にそっと死んでいけ───彼はそんな、優しい言葉を告げていた。
生きるとは、それだけで十分なのだと。
私自身に意味はないけれど、それは意味がないというだけなのだ。求めることも探すことも、誰かに意味を与えることさえ、何も咎められていない。
そう、私は───何かをしてよかった。何の意味も理由もなく誰かを助けて、よかったねってみんなで笑い合ってよかった。
愛してほしいと子供のように叫んでよかった。世界が好きだと言ってよかった。
だって、そんな感情をぶつける相手もまた同じ。誰かがいないと生きていけない、誰かがいるから生きていけるちっぽけな人間なのだから。
無意味に生まれた私達は、無価値であっても生きていく。何の祝福を持たないままでも幸せになれる無常こそ、救いであり罰だった。
だから、救われるにはただ気付けばいい。自分が積み重ねてきた人生と、そこに刻まれた傷と恥。その価値を知るだけでいい。
どんな辛い記憶でも空っぽじゃない限り、人は気付けば簡単に救われてしまえる人間なのだと、ようやく受け止めることができた。
「駆け抜けて、駆け抜けて。躓いて転びかけて、這いずってでも前に進んで。
その果てに、ふと後ろを振り返ったその時に、"こんなこともあったな"って。そう笑えたなら、それだけで十分すぎる」
微笑みながら、はにかみながら、そんな言葉を口にできる。それこそが命の意味であり、人にとっての救いなのだと思うから。
自分の生きた足跡を受け止める───それは口で言うのは簡単でも、しかしとても難しいこと。
極論、痛みはどこまで行っても自分だけのものだから。それを肯定できなければ、傍目から見てどれだけ栄光に満ちた人生であろうとも空虚と傷を抱えて生きなければならない。
その錯覚から解き放たれたいならば、気付くしかない。自分の重ねてきた時間が生きてきただけで価値を秘めているものなのだと、思えたその時、人はどこへだって羽ばたいていける。
古い愚かさを笑って許せるようになれたら、それはもう救いなのだと……ああ、こんなにも簡単だった。
そのことが分かった以上、もうここにはいられない。
それはアイもアリスも承知していたから。アイはアリスに向き直り、尋ねる。
「アリスさん……あなたは、救われましたか?」
「ああ。俺は今日までずっと幸せだったよ」
アリスは、どこまでも笑顔のままだった。
「本物の俺はとっくの昔に死んでいて、その2年後には正式に墓守に埋葬されている。消えちまうはずの俺が死に際に見た、とても長い夢が今の俺だ。
辛いこと苦しいことばっかで、穏やかな日々とか夢のまた夢だったし、ガラスの向こうに辿りついた世界とやらも結局クソみたいなもんだったけどさ。
それでも俺は幸せだった。俺が俺として過ごした死後の一年は、俺の大切な宝物だ。そうとっくに受け入れてる」
最後にお前にも会えたしな、とアリスは締め括る。
その顔はずっと笑顔のままで、アイはどうしようもなく胸が苦しくなったけど。
「だから俺はもう消えるよ。ああ、墓守の介錯とかはいらねえぜ?
さっきも言ったけど本来俺はずっと前に死んじまってるし、お前らとは違うけど今の俺も原理的には幽霊とか残像とかそういうもんだからな。
俺を"見ている"のはもう、お前だけだ。お前が瞼を閉じれば、俺は消える」
もう限界なのだろう。アリスの体はところどころが黒いノイズに覆われて、ブラウン管に焼きついたゴーストイメージのように揺れていた。
「ディーは俺が連れていく。チクタクマンのクソ野郎も晴れてくたばってくれたおかげで、シャルノス自体の破壊は無理でもあいつ一人を引っ張り上げるくらいはできるからな。
だからもう、何も悔いはない」
「アリスさん……」
「"3年4組の亡霊は、誰も呪うことなく、誰も傷つけることなく消え去りました"ってな。
それってすげーかっこいいだろ? 怪談話の新機軸だと思わね?」
冗談めかして笑うアリスに、アイはもう、何も言うことができなかった。
あるいは、世界を救う夢を持っていた頃ならば。もしくは、本来の歴史の通りにアリスと共に旅を続けた果ての出来事だったならば。
もっと違うことを言えていたのかもしれない。けどそうはならなかった。ここにいるアイはアイではなく、目の前のアリスもまたアリスではないのだから。
だから、この話はここでおしまい。
悔いなく人生を生ききったアリスは、幸せのままにここで消える。
「さよなら、アイ」
「ええ……さようなら、アリスさん」
そして───
そして、アイは本当にひとりっきりになってしまった。
身体の末端から消えていく感覚がある。どこまでも真っ白な空間に、黄金の光が昇っていくのが見える。
だから、私も、ここで終わる。
瞼を閉じ、凪のような思考で何かを考える。
人は死ぬとあめ玉一つ分くらい軽くなるのだという。
それは魂の重さだとか、意思の力が失われるからだと言われている。
私はどうなのだろう。あめ玉一つ分くらい、軽くなったのだろうか。
それはすこしこまる、と思う。こんなことを言うと怒る人もいるかもしれないが、私は別にダイエットなどしたくないのだ。むしろもうちょっと体重が欲しいくらいだ。
具体的にはあと十キロくらい。それに背丈もぜんぜん足りない。あとは三十センチは伸びてほしい。
いや。
それももう、欲しかったと、過去形で言うのが正しいのだろう。
私の背はもう伸びず、私の体重はもう増えない。そもそも"そういう風"に形作られていた。
本物じゃないこの私は、最初からあめ玉一つ分軽くて、どこかにぽっかり穴が空いている。
けれど体は冷たく重く、骨が軋んで、肉が擦れる音がする。熱くも冷たくもない、つらくも悲しくもない。
でも、それでも。
無性に、わけもなく、申し訳なくなってしまう。
すみませんと、誰かに謝りたくなってしまう。
お父様。
お母様。
ごめんなさい。
貴方たちはきっと、こんな結末など望んでいなかったのに、私は止まることができませんでした。
ユリーさん。
スカーさん。
ごめんなさい。
私と一緒に行ってくれるという言葉は嬉しかったです。でも、もうその約束は果たせそうにありません。
……セイバー、さん。
ごめんなさい。
でも、後悔はしていないんです。
そのことが、一番、ごめんなさい。
………………。
…………。
……。
Q.人の救いとは?
「もう言いました。私はそれを、ようやく分かることができた」
Q.あなたの救いとは?
「私だって何も変わりはしません。私はどこにでもいる、ただのありきたりな人間なのですから」
Q.悔いはありませんか?
「ありません。私は、私にできる全てのことをやり終えた」
Q.幸せでしたか?
「はい。私は、とても幸せ者でした」
Q.ならば───
これは例題ではない。御伽噺でもない。
あなたの消滅は既に確定しています。
あなたの本当の想いを、
ただ一度だけ
私に教えてください。
やり直しはできません。
永劫回帰は存在しません。
あなたは、この結末を───
Answer1.目を閉じる。
Answer2.黙して語る。
Answer3.受け容れる。
「……いやだ」
罅割れる、音がした。
「いや、だ……」
仮面が罅割れるように、ひとしずくの涙をこぼした。
枯れ果てたと思っていたそれが、頬を伝った。
「わたし、は……」
罅割れが広がるのを恐れるようにアイは顔を覆った。
でもそれは許されなかった。手首より先は既に消えていて、アイは割れていく顔を隠せない。
「私は……」
言葉を呼び水として、アイは涙を流す。
もう、何も、取り繕えない。
「私は……死にたくない!」
叫んだ。
罅割れていく喉で、構うことなく叫んだ。
使命や夢や信念やそんなこと一切放り捨てて、ただの12歳のアイが叫んだ。
「生きたかった……私は、もっと生きていたかった……!」
涙を流すごとにアイの殻は壊れていった。
奥歯がカタカタと揺れ、恐怖の箍が外れた。全ての涙が流れた。
「消えたくなんかなかった! 当たり前です!」
アイは砕け散った。悟った風な仮面は剥がれ落ちて、その下の欲望がドロドロと流れた。
「生きたかった! そんなの当たりまえでしょう! 私は、もっと生きたかった! みんなと一緒に、誰かと一緒に、未来へいきたかった! 今日だって明日だって、ずっとずっと!」
心の井戸に縛って落とした欲望が涙と共に浮かび上がった。自分が偽物だと分かった時の恐怖が全て蘇った。
「だって私、まだ何もしてない! 楽しいことも嬉しいことも、まだ何もやってない!
学校に行ってみたい、お洒落だってしてみたい、美味しいものたくさん食べて、本だってたくさん読んで、私は……!
私は、13歳になりたかった……それなのに、それなのに……!」
救いとは受け入れること。自分の生きたありのままの人生を肯定し、笑って受け止めてやること。
でもそれは、生きる上での救いであり、死ぬ上での救いではない。
ましてアイにとっての救いではない。だって、アイはまだ"生きて"いないのだから。
なんという矛盾。自分で出した答えさえ受け入れられない滑稽。
アイは泣いた。泣いて、誰かに縋ろうとした。できなかった。だってここにはアイしかいないから。
Q.そんなものがお前の命の答えか。
そんなものが約束された《美しいもの》か。
誰もが抱く感情に過ぎない。誰もが祈り、そして叶うことなく死んでいく妄言に過ぎない。
これは例題ではない。お前に拒否権は存在しない。
己が存在の全てを焚べろ。生の極点を此処に示せ。
Answer1.死ね
Answer2.死ね
Answer3.死ね
Answer4.死ね
「いやだ……っ!」
けれど。
その声は届かない。だってもうアイは終わっているのだから。
生きることは許されない。アイ・アスティンの影である彼女は、ただ消えていくだけ。
そんな末路だけが、この聖杯戦争の真実なのだから。
【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日 消滅】
けれど。
もしも。
あなたが───
投下を終了します
投下します
これは物語。例題であり、御伽噺であり、少女が紡いだ黄昏の詩編でもある。
世界を夢見た少女がいた。あるいは、顔も知らぬ誰かを愛した少女でもあった。
遍く人々、遍く世界に穏やかなる平穏をと願う少女だった。
だがその時既にして地上の世界は、彼女が生まれるよりも遥か昔に滅び去り、
終わってしまった世界の果てで、人はゆっくりと死の時を待つのみであった。
地上は冥府。祈るべき神さえ死に絶えた、人という種に遺された世界の黄昏。
少女は、そこで世界を救う夢を見た。
天国を作り上げた母と、地獄を遠ざけた父との間に生まれた彼女は、
果て無きものを求め必死に手を伸ばし続けた。
そして、全てを失った。
……少女はどうなりますか?
夢を失い、愛を失い、命を失い、形を失い、
その果てに抱いた「生きたい」という願いすら叶うことなく、
救おうとした世界に殺される少女は、ただ諦める他にないというのか。
バルタザールたる私は愛の証明を望む。
メルキオールたる私は可能性の揺らぎを論じる。
カスパールたる私はただ愚かなる者を嘲笑う。
人の世の終わりまで永久に繰り返されるその問いに、
我らは唯一無二の絶対なる解答を探求する。
あなたの/きみの/お前の選ぶ答えを、
その全ては我らは赦そう。
Question:世界の何処にも居場所がない者は、果たしてどうなる?
▼ ▼ ▼
これは夢だ。
そうに決まっている。そうでなければ辻褄が合わない。
これは、言わば稚児の夢なのだ。
あの時こうしていたら、こんなことをしなかったら、あるいはもっと違う道があったのではないか。
そんなIFをどうしても考えてしまう、その夢がきっとこれなんだ。
「お前はこれを夢だと思うか?」
はい。
だって、そうじゃなきゃおかしいじゃないですか。
あなたはもうどこにもいないのに。夢でしか会えないのに。
なら、これは、きっと夢です。
「……まあ、お前がどう思おうが俺はどうでもいいけどな」
ああ、うん。
おかしいな、やっぱり涙が出てくるや。
「なに笑ってんだお前」
ああ、いえ。なんでもないんです。
あなたがあんまりにも記憶のままなので、我ながら都合の良い妄想を見てるんだなぁって。
「……」
……ね、妄想さん。
私はですね、実は結構泣くのが好きなんですよ。
「その割には、俺はお前が泣いてるとこ見たことないんだが」
見せつけるのは好きじゃありません。涙はどうしても、見ている人まで悲しくさせちゃいますから。
私が涙を好きなのは、それはいつも泣きやむことと一緒になっているからなんです。
どんなに悲しくてもつらくても、涙は悲しみと共に流れて心を少しだけ軽くしてくれる。
きっと、涙は泣きやむその時のために流れてくれるんだと思います。
「ずっと強がってたのか」
はい。ずっと我慢してました。
泣きたくなって、逃げたくなって。その度に我慢して、心の奥に押し込めて。
私は最初からずっと、こんなに弱い人間だったんですね。
……笑いますか?
「いいや。ようやく、本当のお前が見えたような気がするよ。
思えば俺達は、互いのことも大して理解してなかったんだろうな」
ええ、きっとそうなのでしょう。
私はあなたのことを、私が知らないことを知っている大人なんだと思ってました。
どんなことでも折れることがない、それがために英雄になった人なんだと。
「俺はお前を気狂いだと思っていた。
叶わない理想に人生全部投げ込んで、それを何とも思わず笑って破滅していくような馬鹿だと思っていた」
でも、あなたは本当は、結構単純で子供っぽくて、信念っぽく見えていた部分も頑固で分からず屋なだけだった。
「でもお前は、こんなに普通の人間で、ただ強がってるだけのガキだった」
おかしいですね。私達、ずっと互いのことしか見ていなかったのに。
「ああ。ずっとお前だけは助けるって思っていたのに」
こんなに相手のことすら見えてなかった。
話してみなきゃ分からない。そんなの言われてみれば当たり前のことなのに。
「そんなもんだ。相手のことを分かった気になって、実は違ったり衝突したり、裏切られたとか逆恨みしてみたり。
だから話がしたいんだ。俺もお前も、これでようやく本音で向き合えるようになったんだから」
今更ですよ。
手遅れとか、私が言えたものじゃないですけど。でも、やっぱり手遅れなんです。
「案外そうでもないさ。だから、な」
……。
「たった一言でいい。■■■■を言ってくれ。
男は馬鹿で単純だからさ。その一言さえあれば、誰だってそいつのヒーローになれるんだ。
前にも言ったろ? 主人公ってのは無敵なんだぜ」
……。
「強がりだったんだろ? ずっと我慢してたんだろ?
ならもうその必要はない。ガキならガキらしく、好きに我儘を言っていい。
俺はお前にそれを望む。お前にこそ、それを言ってほしい」
……私は。
私に、それが許されるのだろうか。
間違い続けて、彷徨い続けた。
どこまで行っても半端者で、何かを為すこともできなくて。
でも、それでも。
それでも、一つだけ我儘を言っていいのなら───
「さあ」
……どうか。
どうか、お願いします。
一度だけでいい。
夢でも構わない。それでもいい。
たった一度だけ、私にも願わせてほしい。
私を───
「私を、助けて……っ!」
「───ああ、任せろ!」
▼ ▼ ▼
Answer:知れたことさアルトタス。《世界の敵》が救うまでだ。
────────────────────────。
「命を求める叫びを聞いた」
ガラスの割れる音を聞いた。
そんなものはどこにもないのに。
世界を隔てる境目、そこが割れる音。
「世界が、お前を見捨てるなら」
誰かの影が降りてくる。
光だけが充ちるこの場所に差す、たった一つの影。
「喪失に、お前が涙を流すなら」
それはあまりにも眩しい、ひとりの男の姿。
「お前が生を渇望する限り。俺は、世界を裂いて顕れよう」
周囲の光景が霧散する。
地面に降り立った彼は、その腕の中に抱いた少女に視線をやり、語りかける。
「よく、頑張ったな」
「セイバー、さん……」
信じられない光景だった。
そこにいたのは、見間違うべくもない顔カタチ。
セイバー、藤井蓮。
死んでしまったはずのアイのサーヴァント。
その彼が、今確かにここにいて。
消えるはずだったアイを抱いて降り立っていた。
「言っとくが夢なんかじゃないぞ。これも今更な話だけど、お前に万仙陣は通じないからな。
れっきとした本物だよ。自分の頭疑うつもりならやめとけ」
アイの耳にはもう、何も入ってこなかった。
見えるはずのサーヴァントステータスがまるで見えないこととか、彼の言う「覇道神の触覚」がどうのとか、まるでどうでもよかった。
「……セイバーさん」
それ以上は何も言えなかった。
鼻の奥につんと刺激が走り、それはたちまち涙腺にまで及んで、喉からはひうと言葉にならない声が漏れ出た。
アイは肩を震わせ、頭をセイバーの───今やサーヴァントですらないただの藤井蓮の───胸に預けた。体中の水分を流し尽くしてしまいそうな勢いで、涙は後から後から溢れてきた。叫びすぎては肺を痛め、それでも嗚咽は止められず。激しくせき込んではまた泣き出した。
箍が外れてしまったように。
今まで我慢してきた分を、全て出してしまったように。
蓮は何を言うこともなく、ただそれをじっと見守っていた。
「私、何も分からないんです」
どれだけ時間が経った頃だろう。
未だ抑えきれない嗚咽の響きの中で、アイはぽつりとそんなことを言った。
「分からないままなんです。セイバーさんがいなくなった後、私はずっと考えてました。
世界を救うこと、誰かを救うこと、私のこと、みんなのこと。
でも分からなかった。これだって思える答えを出して、でも自分でそれを受け入れることもできなくて……迷って、戸惑って、そればかり」
「……」
「私、みんなのことが好きです。でも、私は止められなかった。手を握ってあげることもできなかった。
お母様は私に幸せになれって言ってくれて、お父様は私に生きろって言ってくれて……それなのに、私にはこんなことしかできない!」
アイは叫んだ。それは心の澱みだった。綺麗ごとでずっと蓋をしてきた、アイ自身にもどうにもできない鬱屈の群れだった。
「……生きるってなんですか?」
心が乱れて、声の震えを抑えることができない。
顔を上げ、涙をこぼした表情で蓮を見上げた。
「人間ってなんですか? 世界ってなんですか?
私はこの世界が好きで、みんなのことが好きで、誰にも泣いてほしくなくて、幸せになってほしくて……でも、それだけじゃ、何も変えられなかった!」
無様に迷って、答えを出すことすらできなくて。
その果てに「そうなのかも」と思った言葉すら、自分で実践することも認めることもできなくて。
何たる欺瞞。愚かで無知で何の価値もない塵屑。
そんな小娘の嘆きを、彼はただ黙って聞いてくれて。
そして。
「……やっぱ相変わらず馬鹿だな、お前は」
何とも軽い調子で笑い飛ばした。
アイはそれを見た。目の前にあったのは、強がるでも自嘲するでもなく、ただどこまでも明るくて、誇らしげな笑みだった。
「その場の決意は、その場の答え。一事が万事に通じるようなものじゃない。
その曖昧さこそが人間。お前はそこから間違えていたんだ」
迷っていい。定まらずとも構わない。
愚かで無知で自分に自信を何も持てず、己の瑕疵を認めることさえできずとも。
ご覧の通りだ。人は例え空虚になろうとも何かが起こってくれるのだと。
誇るように、あるいは見せつけるように。語るこの人は誰よりも眩しかった。
「だから、そうだな……お前はそれを探すといい」
穏やかに示したのは、正誤定まらぬ境界線の向こう側。
果て無き航路を往く旅人たれと告げながら、神様に成り果ててしまった"いつかの私(かれ)"は、羅針盤を授けるように無明の道を口にした。
「答えの貴賤に囚われるな。世界のどこにも居場所がないとしても、自分の立ったその場所こそお前の小さな居場所だよ」
それだけを言って、蓮はそっとアイから手を離す。まるで独り立ちする子供を見守るかのように。
アイも同じ気持ちだった。蓮の手から離れ、よろけながらも自分の足で立ち上がる。そして、彼と向かい合う。
「なあ、お前はこれからどうしたい?」
「……さあ。よく分かりません」
涙はいつの間にか止まっていた。
目頭はまだ熱いし声も震えたままだったけど。それでも。
「将来の夢とかよく分かりません。私はまだ村の外に出たばかりですし、世界のことなんかまるで分からないんですもの。
ですから、ええ」
アイは笑った。強がりでもなく、自嘲でもなく、誇らしげに笑顔を浮かべた。
「これから探してみようと思います。もう少しだけ自信を持って、もう少しだけ他人に頼ってみて」
「ああ」
「ですから私は───生きて、みたい」
「ああ。ああ、そうだな」
そこでようやく、周りの光景が見えてきた。
そこは暗がりだった。真っ白で凸凹した地面と、空の全てを覆う漆黒だけが存在する無明の世界。
空に星々が瞬き、しかし月の明かりはなく。遥か遠くに大きな青い星が見えた。
そして全てを包むかのように、大気の震えではない声が響き渡る。
───ああ、なんと哀れな。救ってやろう。
───怒って、悲しんで、傷ついて、我慢して。つらかろうよ、痛かろうよ。
───恐れることはない。お前たちは救われるべき人間なのだから。
「なら、こいつをさっさと片付けないとな」
蓮が静かに告げる。アイはその隣に並び立つ。
溢れ出るものが見える。それは物質ではない何かとして、夢ではない現実として。
空を覆い、世界を覆い、尚もアイたちへと迫りくる暴威として。
「夢を見たい。その気持ちは痛いほどに分かります。
でも夢を叶えられる場所は現実だけだから。まず夢から覚める必要があるんです」
なんという矛盾だろう。人はどこまでも不出来な代物で、彼の提示する救済を受け入れるにはあまりにも未熟すぎて。
だからこそ。
「私は生きます。生きて、そして明日へ行きます。
みんなが生きる世界を、私はこの目で見る! 美しくても、醜くても!
それが私の───命の答えだ!」
【空費時間終了。世界が目を覚まします】
【アラヤに情報が登録されました】
【クラス】
ビースト
【真名】
黄錦龍@相州戦神館學園万仙陣
【ステータス】
筋力E 耐久EX 敏捷E 魔力EX 幸運E 宝具EX
【属性】
混沌・善
【クラススキル】
獣の権能:A
対人類、とも呼ばれるビーストクラススキル。
英霊、神霊、人間なんであろうと、願いや欲望を持つ者に対して特効性能を発揮する。
単独顕現:A
ビーストクラスのスキル。単独行動のウルトラ上位版。
このスキルは“既にどの時空にも存在する”在り方を示しているため、時間旅行を用いたタイムパラドクス等の攻撃を無効にするばかりか、あらゆる即死系攻撃をキャンセルする。
根源接続:A
其れは人界から生じ、阿頼耶識を辿るもの。
太極より両儀に別れ、四象と廻し、八卦を束ね、世界の理を敷き詰めるもの。
即ち、万能の願望器の証。夢界八層を乗り越えたる衆生の救世主。
このスキルを持つ者にとって、通常のパラメーターは意味のないものとなる。
【保有スキル】
盧生:EX
ある種の"悟り"を開いた人間の証であり、人類の代表者とも称される「阿頼耶識を理解できる」資質を持つ者のこと。
邯鄲の夢から己の思想に沿った神仏・超常的存在を呼び出す「召喚術」の他、
普遍無意識と繋がった窓を介して全人類が無意識下で共有している心の海の過去・現在・未来すべての情報を閲覧する「千里眼」のスキルをも内包する。
後天的な根源接続者であり、阿頼耶識からの無制限のバックアップを得る。
このスキルを持つ者は悟りにより存在階梯を上位に置いているため、疑似的とはいえ同ランクの菩提樹の悟りに匹敵する対粛清防御を纏う。
邯鄲法:EX
夢界において発現する超常現象を制御する術。
大別すると五種、細分化して十種の夢に分類される。邯鄲法を極めた存在であり資質に限界は存在しないが、彼の場合闘争を旨とする戟法と盾法の資質は皆無に等しい。
桃園の殻:EX
彼の精神は彼自身の内的世界に閉じており、外界を認識することはない。
如何なる言葉、如何なる干渉すら彼には届かず、たった一人で自己完結した等身大の宇宙そのもの。
彼が自己以外を認識しない限り、どのような干渉も彼には意味を為さない。
領域支配:EX
陣地作成の上位互換スキル。
最早生態の域で展開される急段・万仙陣は秒で数十億の眷属を生み出し、三日とかからず全世界を己が影響下に置くだろう。
誰もが夢に酔い痴れる爛れた理想郷の創造。とうの黄自身も混じり気のない善意と絶大な人類愛で夢を具現している。
故にその夢は優しく、そして皮肉にも彼の救済の願いは世界を滅ぼすのだ。阿片が齎す幸福の中で焼け落ちた彼の故郷、黄錦龍の原風景のように。
ネガ・デザイア:EX
ビーストとしてのスキル。
あらゆる願いを叶える願望器として在る彼の前では、聖杯に託す願いを持つ者はあらゆる力も輝きも色彩も失ってしまう。
【宝具】
『桃源万仙陣』
ランク:EX 種別:対人理宝具 レンジ:1〜99999 最大捕捉:7200000000
第一宝具。原罪のⅤ。ビーストが有する五常・急ノ段。遍く人類を救済する大偉業。あるいは対冠宝具とも呼ぶべき代物。
「衆生よどうか救われてくれ」という人類賛歌に対し、「良い夢を見たい」と合意を示すことで発動条件が成立する。
人は自らの内的世界に沈みこみ、現実を消失することでやがては自我すら解きほぐされ、理性を蕩かされる。
どれほど屈強な肉体、防御装甲があろうと一度合意が成立してしまえば意味を為さず、生まれたばかりの生命であるかのように無力化し、文字通りの羽化登仙となる。
俯瞰的視点に立った場合、世界とは一人が諦めるたびにまた一つ消失していくものだが、この場合は全く別の新たな世界が構築されてしまう。
すなわち無限増殖する人造のシャルノス。苦界である現実から解放されるその末路は、見ようによっては救済と呼ぶこともできるだろう。
『四凶渾沌・鴻鈞道人』
ランク:EX 種別:奉神宝具 レンジ:1〜99 最大捕捉:1000
五常・終ノ段。封神演義において天地開闢以前の混沌の擬人化とされる仙人であり、同時に道(タオ)そのものとも言われる。
最上位の神仙すら意のままにする丹の持ち主であり霊宝天尊・元始天尊・道徳天尊の師であるとも言われているが、これらは後年の創作であり本来なら実在しない架空のもの。
つまりは非実存の存在であり、にも関わらず万民の支持を得て神格にまで昇華された。
その姿は目も、耳も、鼻も、口も存在せず数億もの触手で編みこまれた翼と獣毛の塊としか表現出来ない神格。
沸騰する無限の中核に潜む渾沌の如きおぞましさ。森羅万象、あらゆるものは彼が見た夢にすぎない。
万仙陣と接続し力の供給源となっており、そのため何ら破壊的な活動は行わない。万仙陣を地球全土に広げ、全人類を白痴の王の揺り篭へと誘うのみである。
しかしその神威は圧倒的であり、これに触れた者は同じく七穴を塞がれた盲目白痴の理へと絶頂しながら堕ちていく他に道はない。
永遠を欲し死を恐れ、美しき黄金の日々を求め、遠き日を夢見て果て無き無限に追い縋る。
それは誰もが追い求めてやまぬ場所、すなわち永遠なる今日の具現。
故にこの宝具に対抗できる人類は一切皆無。悟りに達した覚者のみが、この夢を否定し得る。
【人物背景】
人類史においては中華における20世紀最大のマフィア・ギャングスターであり、人理においては歴史より抹消された第四の盧生こそが彼である。
生まれながらに膨大な世界観を有しており、そのため他者と正常な意思疎通を取ることができなかった。幸か不幸か彼の生まれは精神が冒された者ばかりが集う阿片窟の底であり、彼はその場で"幸福"に満ちた幼少期を過ごす。
彼が「人間」という概念を理解した時、生まれたのは疑念だった。何故彼らは外界への感情行為を至上とするのだろう、そこに幸せは何もないのに、と。
元来自己の内にのみ閉じこもって完結するはずだった彼が、「他者」という外界へ意識を向けてしまったこと。それが全ての陥穽であり始まりでもあった。
他者を救うという彼にとって最大最悪の矛盾を至上命題としてしまったことにより、やがて彼は人類救済機構である夢界は八層試練へと到達し、近現代における偽りのセイヴァークラス「盧生」に至る資格を獲得する。
かくて彼は第四盧生として世界に降誕するが、前述したように彼の在りかたには大きな矛盾が存在した。
人は全て自己世界に完結すべきと断言しながら、彼の行動原理は他者を救うという外界へ発露したものとなっている。
万仙陣が真に彼にも適用されるならば、彼が見る彼だけの世界の中で人類は救済されるはずだが、彼は現実における人類の救済こそを望んでしまった。
その在りかたは万能の願望器───聖杯とも酷似したものとなり、第一の聖杯戦争によってもたらされた奇跡は彼という願望成就の器を第二の聖杯として月へと降誕させるに至った。
以上の本性を以て彼のクラスは決定された。
聖杯なぞ偽りの器。
其は個人が到達した、人類を最も端的に救う大災害。
その名をビーストⅤ。
七つの人類悪の一つ、【愛玩】の理を持つ獣である。
投下を終了します
投下乙です
最初から読み直すと改めてアイ&蓮のコンビが好きになり、感慨深い
現れたビーストの台詞を見てうわーこいつが来るかー…となったが、何とか勝ってほしい。
投下します
───そして、手を伸ばしたのはアイだけではない。
再度、境目が叩き割られる音が反響して。
白磁の大地に降り立つ影が三つ。
漆黒の天蓋に尚映える黒檀の影として、あるいは夜闇に奔る一陣の雷光たる輝きとして。
しかしそれは闇に在らず、光に在らず、確かな人型でアイの隣に並び立つ。
見紛うはずもない。先に敗れ、希望に落とされたはずの者たち。キーアとすばる、そして清廉なりし騎士王の姿!
「これが第四盧生の顕象したる神格、鴻鈞道人の御姿か。
我らが呼び出されし聖杯戦争の果てに降り立つ奇跡、"聖杯"の真なる姿か。
偽りの奇跡で人を惑わし、蠱毒の末に縁とした希望を夢へと落とす。卑劣な理だ」
「そんな、どうして……」
「アリスと名乗った男の人が助けてくれたわ。
"俺はディーを助けに行くから、お前たちはアイのとこに行け"って!」
アイの当惑に、アーサーに抱きかかえられたキーアが答える。
騎士王は既にシャドウサーヴァントではなく、その輪郭も意思も輝きも確かなものとして、己が倒すべき敵を見据えていた。
「わたしたちは黒の中に落とされたけど、でも別に死んだわけじゃなかったんだ。
何もできなかったし動けなかったけど、体は傷一つないし……
それに、ちゃんと見てたよ」
「ありがとう、アイ。貴方が諦めなかったから、あたしたちはこうして外に出ることができた」
すばるとキーアは爛漫に笑って応える。
アイはその言葉に何も言えなくなって、裾を掴みつま先に視線を落とした。
「そんな、私は何も……」
「礼は素直に受け取っておけ。資格や器がどうだのと、もう気にしないって言ったのはお前だろ?」
アイの頭に手を置いて、優しく髪を撫ぜ蓮が言う。彼はそのまま横に視線をやり、アーサーと向き合った。
「騎士王、アンタは今どれだけやれる?」
「聖杯の大本たるアレが顕象したおかげか、霊基構造はサーヴァントとしての最高値まで強化されている。
宝具も問題なく使用可能だ。けど、それだけかな。僕にアレを傷つけることはできそうにない」
「いや、それなら十分だ」
シャドウサーヴァント───残留霊基たる影にまで貶められたアーサーが、信仰の結晶たる宝具も健在に再臨された。
それはつまり、聖杯戦争にて散らされた魂までもが寄り添い、この場にいるという何よりの証。
蓮はそれだけを告げて、改めて倒すべきものへと向き直る。それは他の皆も同じだった。
混沌に酔い痴れる虚空が見える。空を覆うものが、此処に真なる顕現を果たそうとしていた。
『人皆七竅有りて、以って視聴食息す。此れ独り有ること無し』
それには目も耳も鼻も口も存在せず、故に唯我の何たるかも不明なまま。
常に己の尾を咥え、飽き果てることなく回り続け、空を見ながら痴れた笑いを垂れ流す。
『太極より両儀に別れ、四象に広がれ万仙の陣───終段・顕象』
そしてそれに触れた者は、同じく七穴を塞がれた盲目白痴の理へと絶頂しながら落ちていくのだ。
人類の知性では理解しきれない、同調すれば狂気どころか体構造の変容を招き、異次元の仕様へと組み替えられる他になし。
人の集合無意識(アラヤ)から呼び出されたものでありながら、人の生み出した神格ではありえない。それすなわち、降誕者(フォーリナー)の具現。
『四凶渾沌───鴻・鈞・道・人ィィン』
ここに顕象された汚怪なる神の姿は、幾億もの触手で編みこまれた翼と獣毛の塊だった。そうとしか形容ができない。
異界の法則として存在しているかのように、蠢き蠕動する巨躯の威容は今この時も変幻し続け、薄桃色の煙を纏い虚空の中心に揺蕩いながら微睡んでいた。
鴻鈞道人───その名はかつて黄錦龍に冠されていた呼び名であり、神話においては最上位の神仙すら意のままにする丹の持ち主であったとされる。
それはまさしく、中原を阿片に沈めた彼にとって相応しい威名ではあろう。しかしそれは、正式な教えの中に存在を認められていない。
あくまでも、中華道教の頂点に立つのは元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊の三清のみ。それを上回る鴻鈞などという仙道は後世の物語で誕生した架空の神格に過ぎない。
つまり幻、夢の産物だ。本来そこにあり得ざるもの。今のアイたちと全く同じ。
「これが最後の戦いだ」
誰ともなく、皆が皆に語りかけていた。
人理に落とされたゴーストなる騎士王、現身ならぬ触覚としてここに在る藤井蓮。
そして、今を生きる三人の少女たち。
神ならぬ身で神と相対するには、あまりに脆弱な5人の魂。
「私達は無意味にこの世界に生まれ落ち、無価値なままに戦い続けた。
そうすることしかできなかった。賢しげなフリをしても、私はちっぽけな小娘でしかなかったから」
伸ばした手は届かない。一人ではあまりにも遠かった。
マスターとサーヴァント、二人になっても駄目だった。
けれど、今は───
「"願い"はあまりに綺麗で、遠すぎて。命の答えなんて大層なもの、持ってるはずもなかった。
それでもですね、確かなものはあったんです」
「わたしたちは"生きたい"と願う。死にたくないと今日に留まって、永遠に膝を抱えて座り込むんじゃなく。
生きたいと、そう胸を張って。一世紀にも満たない生涯に後に続く想いを託して生きていく。長い歴史を紡ぐ、一筋の流星のように」
すばる。
差し伸べた手は届かず、
喪った愛は痛みを呼ぶけれど、
砕け散った輝きを拾い上げ、
痴れた祝福が星剣を形作る。
雛鳥は卵を割って詩編を紡ぎ、
赫黒に染まりしは比類なき悪なる右手。
共に歩むは輝かりし可能性の嬰児、
奇械アルデバラン。
プレアデスの星々はイリジアを砕いて《空》を目指す。
「何も分からなくても、手探りで歩んでいく。だから優しいだけの夢はもうお終い。
夢はいつか覚めてしまうけれど、物語は幸せになるためにあるのだから」
キーア。
骸の体は願いと赫き瞳で保たれ、
奪われた可能性を取り戻し、
胸に抱くは在りし日の遠い約束。
手に取りしは絶望たるを拒絶する魔剣、
巨いなりし黒の剣能。
視界の端の道化師は既になく、
そして少女は右手を前へと伸ばす。
「私達にあるのはたったそれだけ。
煩雑で無軌道な想いと、
お茶と砂糖菓子とぬいぐるみと、
めんどくさい御本と言動と、
たった数日の記憶と経験。
ちっぽけでありふれた、どこかで聞いたことのあるような言葉だけ」
アイ・アスティン。
幾億の怨嗟と嘆きに塗れ、
この手は真っ赤に染まってしまったけれど、
捨て去った想いを今一度拾い上げ、
神を目指した墓守は人へと回帰する。
雛鳥は未だ殻を破ることはなく、
けれど抱くは父母の描きし夢想の理。
故に彼女は人でなしの超人にはあらず。
此処に立ち上がりしは───ただありのままに生きる、アイ・アスティンという一人の人間。
「たったそれだけを胸に抱いて、私達は時計の針を進めます!
午前零時から時を進め、私達は大いなる正午を求める!
転んでも、躓いても、泥だらけになっても!
100万本の剣に刺し貫かれる最果てのイマを超えて、卵の殻を打ち破る!」
死と断絶に塗れた明日へと沈むべき魂が、今この瞬間に産声を上げる。
遂には皆等しく目を焼かんばかりの輝きを放ち、
抜き穿たれるは、世界を救うべき勇者の剣!
「十三拘束解放(シール・サーティーン)───円卓議決開始(デシジョン・スタート)!」
《是は、勇者なる者と共する戦いである》───ガレス承認
《是は、心善き者との戦いではない》───トリスタン承認
《是は、誉れ高き戦いである》───ガウェイン承認
《是は、生きるための戦いである》───ケイ承認
《是は、己より強大な者との戦いである》───ベディヴィエール承認
《是は、人道に背かぬ戦いである》───ガヘリス承認
《是は、真実のための戦いである》───アグラヴェイン承認
《是は、邪悪との戦いである》───モードレッド承認
《是は、精霊との戦いではない》───ランスロット承認
《是は、私欲なき戦いである》───ギャラハッド承認
次々と拘束が解かれ、その度に纏う光をより強大なものとしていく。
それは救世たる星の聖剣。閉ざされた世界を断割し、少女たちが生きるべき世界を切り拓く希望の光。
アーサーは思考する。思えば、そう。最期のために積み重ねた今生であった。
およそ現世においては異物でしかない、失われた神秘と聖蹟をも兼ね備えた自分が、この世界に現界したその意味。
そして今、その時は来たのだ。
これだけの祈り、これだけの願いを共にして。麗しき乙女を生かすために振るわれる剣が誉れなきものだと誰が謗るものか。
騎士の本懐は此処にある。故に。
「是は、世界を救う戦いである!」
───この言を否定できる者など、果たしてどこにいようか。
眩き流星と化した極光は、鴻鈞より溢れ出る無数のタタリを、闇を、化生を、悉く討滅せしめる。
実体なき妄念の産物でしかないお前たちよ、現実に生きる少女に触れることあたわず。
空を貫く光条よ、世界の殻を破る雛鳥の嘴たれ。
「みなとくん!」
『ああ、一緒に』
それでも尚撃ち漏らす数多のタタリを、空を舞うすばるが撃ち落とす。
その背には鋼鉄の影、傍らには愛する少年の姿。纏いし光は幻想を貫く紫電となれ。
「《奇械》アルデバラン、モード:《失楽園(パラダイス・ロスト)》よりクタニド実行!
白き衣を纏う者、来たれエリシアの統率者───《忌まわしき暗き空》よ、憎悪の空に尚笑う我らの叫びを此処に!」
伸ばされる手は落ちるのではなく、打ち据えるのではなく。
這い上がるように、絶望から、諦念から、失意から、地の底から。
今まさに生まれ落ちる命であるように、ただ真っ直ぐに上へと伸び上がる。
「さあ───行くぞ、アイ!」
「はい!」
そして、二つの影が勢いよく躍り出る。
聖剣の光を架け橋に、奇械の光を道しるべに、藤井蓮とアイ・アスティンはただ真っ直ぐに駆け抜ける。
虚空の先へ、夢に酔い痴れる渾沌へ。
列車のように、如何なる障害をも跳ね除けて。
少女たちが歌い、叫ぶその通りに。
昨日を抱き、今日を噛みしめ、明日を信じて進んでいく。
「微睡みの揺り籠で尚も嗤うか第四盧生!
視界の端で踊る道化師を気取り尚も夢に誘うか、滑稽なりし黄錦龍!
お前が望む幸福をいくら俺達に押し付けようと、その願いは叶わない!
救済を騙る哀れな者よ、お前の"悪"は人たる者が引き剥がす!
残念だったな、現実さえも知らない愚かな童よ!」
そして微睡み痴れる渾沌の中心へとたどり着く。
それは誰も触れられない、何者も介在できない錦龍だけの夢の裡。
蓮であっても───覇道の神格であろうとも、決して干渉できない絶対の揺り籠。
不可侵のそれを前にして、けれど蓮は笑う。
どこまでも明るく、真っ直ぐに。傍らの少女の明日を信じて。
「名前を呼んでくれって言ったよな。心配するな、覚えているぜ」
曰く───
封神榜演義において封神台とは、死した者の魂を輪廻の輪から外し、保管しておく塔であるという。
アーサーと同じように、魂は此処にある。ならばこそ、蓮が"それ"を振るうことにも矛盾はなかった。
そう、"彼"は───
「来い、ミハエル!」
───彼は本来刹那にこそ、己が終焉を託したのだから。
硝子の閾が叩き割られる。
世界の境目が破壊される。
絶対であるはずの、"自分"しかいない黄錦龍の世界が、外界に晒される。
天蓋の罅割れる光景の中で、アイは武骨な男が苦笑する様を見たような気がした。
「さあ行け、アイ。ここからはお前の時間だ」
「……ええ。ありがとうございます、皆さん」
それだけを言って、アイはゆっくりと歩き出す。
蓮の手から離れ、今や何の加護もない第四盧生の元へと。
───アイ・アスティンがやってきたことに意味はない。
それは唐突で。
何の脈絡もなく。
何の意味もない。
「初めまして……ですね、錦龍さん」
しかし。
しかし、それでも。
『悲しいなぁ』
黄錦龍はアイを前に───その結末を許容することができなかった。
何故か、どうしてか───お前がそう思うならそうだろうと、万仙陣を回すことができなかった。
欠けているもの、いや異物があって、歯車がよどみなく回転しない。
そんな己の瑕疵に気付かず、彼はどこまでも真摯に切実に……
『救われてくれよ。我が父のように、母のように。
少女よ……』
その存在を意識した時に、異物は更に拡大する。まるで投射された影絵のように、何処かで今も坐している女性の輪郭をなぞりながら、彼を覆い尽くす霧が薄く、薄く、点を穿つように晴れていき……
『お前は、幸せになるべきだ』
伸ばされた錦龍の腕が、距離を無視してアイに触れたその瞬間、全てが終わっていたのだ。
───この嘘の世界で。
アイ・アスティンがやってきたことに意味はある。
ゆっくりと、そして駆け足で。
確かに歩んだ道がある。
ささやかな、けれど決して消えない意味がある。
例え夢幻であろうとも、そこに感じた想いは現実に他ならない。
だから───
伸ばした手はきっと、あの青空に届くだろう。
「ええ、私もそのつもりですよ」
ぱしん、と乾いた音が鳴った。
アイの手のひらは振り抜かれて、錦龍の頬を力強く、されど確かな慈しみを持って張っていた。
錦龍は、何か信じられないことが起きたかのように、その茫洋とした双眸を困惑の色で満たして。
「これが、痛みです」
黄錦龍が真に無敵である理由は、外界を認識しないから。
世界には己しかなく、ならばこそ他者という存在は概念すら理解しない。そんな彼の世界観において、存在しない他者からの干渉など意味を成すわけもなく。
なら、何故彼は他者の救済などをお題目に掲げてしまったのか。
総ての陥穽はそこにある。
ならばこそ、この世界で唯一、アイ・アスティンだけが彼の絶対性を崩すことが叶う。
同じ"世界を救う夢"を見て、現実に在らぬ"己だけの愚想"に縋ったアイならば。
黄錦龍に対して唯一人、"強制協力"をかけることができる。
「これが痛みです。人が生きる上で絶対に避けては通れない、誰もが当たり前に経験する感覚です。
気持ち悪いですか? 受け入れがたいですか? ええ全くその通り。私だって、誰が好きでこんなものを味わいたいもんかって、そう思います」
血を吐くような、自分で臓腑を締め上げるような声だった。
アイは言う。この痛みは、決して生涯無くなることはないだろう。
折に触れ泣くだろうし、何度も後悔するに違いない。格好良いことをいくら言っても、所詮自分はその程度だ。ぶれて揺らいで、迷い続ける。
だからせめて、この痛みを誇りに変えたいとアイは願う。永遠になくならない苦しさは、それもまた真であることに違いはないのだから。
「だから……あなたも生きてください。
当たり前のことを知って、当たり前の人間として」
そして強制協力は成立する。
錦龍は手を伸ばした───お前は救われてくれと。
アイは応えた───そう願うならこちらに降りてこいと。
他者の存在を否定しながら他者へ手を伸ばした矛盾の徒は、かくして桃園の殻を破られる。
痛みを知らぬ無敵の盧生から、痛みを知った只人へと堕ちたる者。
その背後より、アイは三人の誰かが降りてくるのを見た。
一人は、眼鏡をかけた精悍な顔つきの青年。
一人は、金糸の髪を広げる鉄の笑みを浮かべた女性。
一人は、どこかで見たことがあるような、喝采を掲げる喜悦満面の男性。
アイは手を伸ばすけれど、視界は真っ白に薄れていき───
総てが、光で埋め尽くされた。
投下終了します。多分次で最終回です
投下します
アイがもう一度瞼を開けた時、そこには無明の闇があった。
一面の黒。何も見えない。
ただ、不思議と恐ろしくはなかった。
ここは真っ暗だけど、でも何もないわけじゃない。
何故だかそう感じることができた。
(ああ、これは……)
それまで心を圧迫していた恐怖や不安が、徐々に薄らいでいくのを自覚した。
多くの傷を受けたこの身には胸を破るような苦しみがあったけど、それこそが自分達の手で成し遂げた結末であることを知っていた。
「本当に、私達は勝ったんですね……」
多くの人の願いによって呼び出された黄錦龍の存在は、今や明滅のさなかにある。消えたのでもなく、死んだのでもなく、託されたのだ。
誰に? その明確な答えをアイは持たないけれど。
確かなことは、アイは彼を殺したりしたくなかったという、ただそれだけ。
何故なら彼はやはり、誰かの願いの末に至った夢なのだから。
願いは歪み、あるいは最初から歪んでいて、こうして多くの不幸を生み出してしまったけれど。
でも「世界を救う」という彼の願いに嘘はないと思うから。
それを踏みにじりたいなどと、アイは考えることはなかった。
ただ、気付いてほしかった。
未来を幸福を尊厳をと、ひたすらに人の光しか見ていなかった盲目の彼に。ふとした時に足元や後ろをほんの少しでも振り返ってもらいたいな、と。ただそれだけ。
だって、アイと彼は似た者同士だったから。
同じ夢を抱いた者同士、変わり者同士だったのだから。
(不思議ですね……)
つい今しがたまで意識は完全に闇に沈み、自我さえ崩落していたはずなのに。意識を取り戻した今は少しだけ、今度こそ間違いなく終わる自らの生を悲しいと感じる。
1%にさえ満たない可能性にかけた自分達の勝利を嬉しいと思う気持ちは確かにあるのに、素直に祝福することができないのは、今になって自分という存在を惜しんでいるからだ。
人の思い描く想念そのものであるアイは、厳密には死と呼べる現象は起こり得ない。
ただ、消える。
この世の理に溶けて消え、過ぎゆく時と共に流される総ての命に散らされる。
生きたいと願った。全てに決着をつけるためにこの命を投げ出そうとした。
そのどちらもが本当であり、嘘偽りのない真実だった。
生きたかった。体は衰え魂はやせ細り、自然と死の声音を聞く日がやってくるまで、誰もがその生を途絶えることなく続けていければ良いと考えていた。
その願いが偽りや欺瞞であったとは誰にも言わせない。
自分の命を惜しいと感じると同時に、この世に在る人々を、生にしがみついた彼らを、心から愛おしいと思った。アイ・アスティンという名と、人の体を得て触れたもの、感じたもの全てが、かつて廃神と呼ばれた自分に許された真実だった。
真っ暗闇の視界の中に、不意に光の線が走ったのを見た。それは窓を伝う雨だれのように曲がり、くねり、幾何学的な曲線を描いて左から右へと駆けていく。
アイは手を伸ばし、それに触れた。指先が触れると光は弾け、無数の白い粒子となって舞った。
パウダースノウのように降り注ぐその一つ一つがこの世界に生きる人々の記憶であり、魂の欠片であり、いつか必ず訪れる死の兆しであった。
生と死は決して同義語ではないが、この世に生まれ落ちた瞬間から死への旅路も始まる。この光の粒子は、そんな旅路の記録の欠片だった。
アイの肩に、目に、瞼に落ちる光の粒。その全てが、人の生の尊さを教えていた。
(ああ、なんて、綺麗な……)
いつしか苦しみは失せ、代わりに何か暖かいものがアイの胸にこみ上げてきた。
暖かく、懐かしいもの。それをアイは抱きしめ思う。
私の人生は、こんなはずじゃなかったことばっかりだったけど。
でも、最後にこんな気持ちになれたなら、それは……
「きっと、救いなんでしょうね……」
ただ、それだけを想った。
そして、アイは静かに瞼を閉じ、意識は二度と戻らぬ闇の底へ───
「いや、なに勝手に浸ってんだお前は」
「あだっ!?」
突然頭に衝撃が走って、思わず涙目で見上げた先にはチョップの形に右手を振り下ろした体勢の蓮がいた。
いや、なんで?
「むしろなんでいないと思ってたんだ。あそこにはきっちり6人全員いただろうが」
「いや、それはそうですけど……こんな意味深なことされたら"ああ、今度こそ終わりなんだろうなー"とか考えるじゃないですか普通は」
「思わねえよ。お前生きたいって言ったんならきっちり責任持ってもっと生き汚くなれよ、頼むから」
蓮の言葉にぶー垂れて、それにしたって暴力はもっと控えめにしてほしいとかそんなことを言ったりして、気付く。
え? 6人?
私と、セイバーさんと、キーアさんにすばるさん、そして騎士のセイバーさん。どう考えても5人しかいない。
えっと、あれ?
「初めまして……で、いいのかな」
声に振り向いた先には、小さく手を振るキーアとおろおろするすばる、微笑ましげに見守る騎士のセイバーさんと、それと。
見たことない男の子がそこにいた。
「えっと、誰?」
「こらこら、挨拶はきちんとしなくてはいけないよ」
「あ、はい」
騎士のセイバーさんが笑いながら窘めてくれる。
というわけで改めて。
「初めまして、アイ・アスティン。
僕の名前はみなと。すばるの……えっと、友達かな」
「とっても大切な人だよ」
「確か、以前お聞きしたことがあります。恋人でしたっけ」
遠慮がちなみなとに被さるように念押しするすばるの言、そしてそれら全てを台無しにするアイの反応であった。
なんというかもう色々と駄目だった。
「ともかく」
結局その場はキーアが全部とりなしてくれて、何とか全員落ち着くことができた。
全員というか、主にすばるが、だったけど。
「ミナト、話したいことがあるのよね」
「……ああ。これは僕達全員に関わることだ」
彼は吹っ切れたような顔をして、滔々と話しだす。
「既に聖杯戦争……夢界で行われた魔術儀式は完全に破綻した。聖杯の持ち主は消え、ルーラーは去り、黄錦龍は再度封神台へ送り返された。
もう僕達にできることも、やるべきこともない。だから本当はもう、僕達は消えてなくちゃいけない。そのはずなんだけど」
「なんだけど?」
「もう一つだけ、行かなきゃならないところがある」
行くとはどこへ?
その疑問が口をついて出るより早く、周囲の景色が一変した。
それは、例えるなら光の大河だった。
先ほどアイが見た光の線。それが何千何万、もっと多く無数の数が集まり、束となって絡み合っている姿だった。
無数の支流が合流した大河のようでもあり、無数の枝葉が寄り集まった大樹のようでもある。
それはアイたちより遥かに大きく、視界の端から端までを縦横に貫き、上を見上げれば限りなく、下を見下ろしても限りなく続いているのだった。
「光の、線?」
「これは宇宙に生まれたあらゆる運命線の形だ」
「どういうこと?」
「一つの弦が様々な音色を奏でるように、これもまた僕達の宇宙の一つの形なんだ。
あの光の一つ一つが誰かの命であり、何かの可能性でもある。人間、昆虫、魚、鳥、他にもたくさん……僕達の運命線もまた、この膨大な可能性の一部ということだ」
みなとの言は難しくて、アイにはよく分からなかった。ただ、単純に綺麗だと思った。
多くの命、多くの可能性が寄り集まり、一つの形を成している。それは目を焼きかねないほどの輝きに満ちて、眩く、そして暖かかった。
「急に太くなったり、細くなったり」
「あそこ、途中で終わってる……」
「枝分かれが減っていってる?」
みなとが指差し、先導するのは運命線の遥か下だった。下っていくにつれ、あれだけ膨大、巨大、煩雑だった運命線は徐々に細くなり、数を少なくしていった。
枝分かれが減り、無数に分岐していた線が一つに収束していくかのように。
「無数に枝を広げる運命線の連なりも、過去を辿るといつかは一つの点となる」
「それが行先?」
「そう、全ての可能性の源へ───」
振り返るみなとは笑顔で、アイたちを歓迎するかのように。
そして、長いトンネルを抜け出るかのように、彼方の光がアイたちを出迎えて───
───そこは、黄昏の浜辺だった。
後ろには陸地が、前には海が、果てしなく広がっている光景だった。地平線も水平線もそこにはあり、日が昇る間際の鮮やかな陽射しが世界を照らしている。
けれど、そこには命の気配は何もない。
魚は泳がず、空に鳥の姿はなく、大地に緑は何もない。
ひたすらに岩と水だけが占める惑星。ここが行くべき最果てなのか。
「あ、月……」
キーアが何かに気付いたように、空を指差す。
そこには確かに月があって、でもおかしい。それはあまりにも大きくて。
「大昔、月は地球のすぐ近くを回ってたから大きく見えたって言うけど……」
すばるが当惑の声で言う。
大昔。この、あまりにも原始的な光景。それが示すのは、すなわち。
「ここにはまだ、最初の一つの可能性すら生まれていない。
巨大な月が空を覆い、海はようやくできたばかり。まだ一片の命のカケラすらない、原初の惑星。
40億年前の、まだ何者でもない地球だ」
みなとは笑って告げる。その言葉の壮大さに、アイは最早理解の範疇を超えていた。
だから、ただあるがままを受け止めていた。
この光景を、ただ美しいものと受け止める。だってそうだろう。
朝焼けの眩しさも、肺に取り込む空気の涼やかさも、アイはようやく本物を体験しているのだから。
「だからこそ、今ここにはあらゆる生命の可能性がある。
此処からなら、どんな生き方だって選び直すことができるんだ。
何になってもいい、どこからやり直したっていい」
何になっても。
どこからでも。
「それが錦龍を連れていった、三人の盧生から君達への贈り物だ。
さあ、君達は何を選ぶ?」
アイは、すばるは、キーアは、何を返すこともできなかった。
ただ、少し振り返って、蓮やアーサーに振り向いてみた。
けれど彼らは少しだけ笑って、黙ってアイたちを送り出していた。何を選んでもいい、その選択を俺達は肯定する。そう言っているかのようだった。
「私は……」
「あたしは……」
「わたしは……」
ぎゅっと、服の裾を掴む。
あまりに身の丈を超えすぎて、何を言っていいのか分からない。
けど、考えてみよう。
なんでも叶う自分がいて、なら自分は何になりたいのか。
───無限の可能性なんて壮大過ぎて分からない。
───想像できるのは、自分とそんなに変わらない女の子。
───何の変哲もない、ありふれた女の子。
───キーアさんみたいに、お淑やかであれたらいいな、とか。
───アイちゃんみたいに、強くて真っ直ぐな気持ちであれたらいいな、とか。
───スバルみたいに、笑顔で素直になれたらいいな、とか。
───そういうふうに、思うけど。
───みんなを羨ましく思うのはきっと、困ったとき、道に嵌り込んだとき、手を差し伸べてもらったから。
「完璧な誰かになりたいってことじゃなくて」
「みんながみんなだったから、あたしがあたしだったから。一緒にいたあの時間が愛おしかった」
「だったら、わたしはわたしがいい。そしてその時傍にいる人の綺麗なところ、良いところをたくさん見つけてあげたい」
───私は/あたしは/わたしは。
きっと何者にもなれなくて、でも確かに此処にいる"わたし"なんだ。
だから、わたしはわたしになる。
自分は自分のまま生きていくんだと、胸を張って叫びたい。
「決めたようだね」
三人を見守っていたみなとが言う。それはどこか儚げな憂いを帯びて。
「盧生からの伝言だ。君達が君達自身の可能性を収斂させたら、各々のイドへと帰還する。
全ての記憶を失って、ね」
「そんな……」
キーアが惜しむように、悲しむように反応する。
そしてそれは、すばるもアイも同じことだった。
「思い出がなくなっちゃう……みんなと一緒にいた思い出が」
「心配はいらないさ」
涙さえ流しそうになるアイの肩を、蓮がぽんと叩く。
見上げれば、そこには変わらない笑顔があって。
「たとえ、記憶がなくなってしまったとしても。心を動かされた事実までは消えないさ」
「その通りだとも」
蓮の言葉をアーサーが引き継ぐ。迷いも未練もない、晴れきった顔で。
「過程と結果はワンセットじゃない。数多の苦難という過程を経て、今この瞬間という結果に行き着いたその事実は消えない。
大丈夫、君達は確かに此処にいた。それは誰にも消せない真実だ」
「残された時間は少ない。今は自分のことだけを考えるといい」
みなとの言葉に、三人は改めて向き直る。
ええと、なんてどもったりして。
「こういう時って、なんて言ったらいいのかな……?」
「きっと大丈夫。"あたし"に戻っても、みんなと出会って変われた"あたし"なのだもの」
「ええ、私も信じます。みんなと私を」
名残惜しむように、皆の口調が早くなる。
涙の気配も混じっていた。これが最後だと知っていたから。
「わたしたち、変われたかな?」
「きっと、絶対!」
「な、泣かないでくださいよ皆さん」
「アイ、あなただって」
三人は手を合わせる。
悲しみによってではなく、ただ嬉しさと誇らしさとして。
「ありがとう、さようなら」
「こういうときは"またね"って言うんだよ」
「それじゃあ、みんな───」
「良き青空を!」
それが最後だった。
気付けば、キーアは黄昏の浜辺にたった一人で立っていた。
三人と掌を重ねた姿勢のまま、自分以外の誰もが消えていた。
「……」
そっと、自分の右手を胸に当てる。
「まだ暖かい……」
それはもう、二度と触れられないと諦めていた感触。
「生きてるって、あったかいのね……」
そして堪えきれず、膝から蹲る。
その口からは、僅かな嗚咽が漏れだしていた。
「じゃあ、わたしたちも行こっか」
袖で涙を拭い、すばるは努めて快活に言う。
そこには、すばるの他にただ一人残っていたみなとが、黄昏の浜辺に腰掛けていた。
「すばる、それは……」
「言ったでしょ? わたしはみなとくんと一緒にいるって」
「僕はただの案内人だ。その役割も終わって……」
「わたし、約束したよ? みなとくんを幸せにするって」
すばるはみなとの手を取り、笑いかける。
「それがわたしの答え。わたしの生きる意味。
わたしがずっと、傍にいるから」
だから、あなたも生きることを諦めないで。
そう語りかけるすばるに、みなとは───
「……ありがとう、すばる」
「私、決めました」
誰もいなくなってしまった黄昏の浜辺で。
アイは高らかに宣言した。あるいは単なる子供のように、見果てぬ夢を語った。
「私は天国を作ろうと思います」
「それは、お前の母親のようにか?」
「ええ。お母様の夢を継ぐ、というわけではありませんが。ひとまずそれを目標にしてみたいと思います」
アイの言葉を聞く蓮の顔は、どこか穏やかなものだった。
最初に私の夢を聞いた時は凄く怒ってるっぽい顔だったのに、とアイは少しだけおかしな気持ちになってしまう。
「私の世界は死後の世界です。死んだ人が歩き回り、墓守が埋葬しなくては動くことをやめられない。
だから、私はそんな末期の世界で、死んでしまった人たちの寄る辺になれる場所を作りたいと思います。
お母様みたいに、一つの村を幸せにすることは難しくても……
一つの家族や、一人の大切な人くらいは、私でも幸せにできるかもしれません」
かつて、人は天国という場所があると説いた。
それは死んでしまった人が行く、幸せな場所だそうだ。
なら、私のやりたいことは決まった。
死んだ人が彷徨う世界で、私は誰かを幸せにしたい。
「結局、最初とあんまり変わってないかもしれませんが」
「いや、いい夢だと思うぜ。お前にしちゃ上出来だ」
「そ、そうでしょうか……えへへ、ちょっとだけ嬉しい」
照れたようにアイは言う。嬉しい、というのは紛うことなき本心だ。
「それで、なんですけど」
「どうした?」
「できれば、そこにあなたも来てほしいんです」
「……」
「……駄目、ですか?」
返事は聞こえなかった。
でも、それでいいと思った。
結局それは未練でしかなくて、夢ではないから叶える必要もなくて。
でも、ほんの少しだけ傷になってしまう。そういうものだから。
「40億年って、どれくらい長いんでしょう」
「何、大したことじゃない。ほんのひと眠りだよ」
「あんまり眠りたくないです。だって、ようやく落ち着いて話せるようになったじゃないですか」
「最後の最後だったけどな」
言って蓮は辺りを見渡す。
世界がゆっくりと動き始めていた。未だ命なき原始の海は静かな波の音だけを湛え、日は黄金の午後を迎えようとしている。
午前零時から動きだし、大いなる正午を越えて、それでも時計の針は進んでいく。
此処は黄昏の浜辺であって、時間なき無間の地獄ではないのだ。
「そろそろ時間だ。お前はお前の居場所に戻れ」
「……あなたはどうしても、私の作る天国に来てはくれないのですか?」
「ああ、そこはもういい。だってそこはもう、とっくの昔に行ってるからな」
「え?」
「天国ってのは、死んだ人間が行く幸せな場所なんだろ?
だったら俺にとっては、ここがそうだった。お前と一緒に歩いた道や、眺めた景色がそれだった。
永劫回帰に呑まれた俺が、サーヴァントとしてお前と一緒にいた時間。これが天国でなくてなんなんだよ?
だから俺は消えるだけさ。悪いな、アイ。やっぱり俺は、お前と一緒には行けない」
蓮は最後にやっぱり笑って、
アイの心にほんの少しの傷を残した。
「なら、最後に一つだけお願いしてもいいですか?」
「なんだ? 言ってみろ」
だから、アイは最後に一つだけ我儘を言ってみた。
微睡みつつある視界の中、彼の横顔を映して。
「一緒にいてください。私が眠りにつく、その瞬間まで」
「ああ、一緒にいてやるさ。お前が目を覚ますその時まで」
そして、アイの意識は消えた。
瞼は閉じられ、果てのない眠りについた。
最後に何かを言っていただろうか。
最後に、何かを言えただろうか。
それはもう、覚えていることはできないだろうけど。
きっとそれは私にとっての救いなのだと、そう思うことができた。
【第二次聖杯戦争封神陣 終結】
【次なる《月の王》の兆し 未だ現れず】
【自己確立対象:キーア、アイ・アスティン、すばる】
【次の目覚めまで 残り40億年】
ならばこそ、全てを見つめていた赤い瞳は、何か眩しいものを見たかのように目を細め、告げるのだ。
「待て、しかして希望せよ」と。
というわけで本編はこれで完結です。
個別エピローグはそのうち投下します
完結おめでとうございます
執筆お疲れさまでした
俺のマスターをなめるなとか、アイアリスの別れからの嫌だ任せろとか
本当に好きなシーンがいっぱいの最終局面でかつ、もっと読みたいと夢を見続けたいとこだったけど
その夢は早くも、或いは長くとも覚めるときが来たのかとすごく感慨深いです
怒涛の承認やミハエルも燃えたけど、アイと黄錦龍の決着と重ね合わせがすごく好き
あだっ!? には笑いました
彼女たちが次に目を開けるときを楽しみにしております
投下します
インガノック。それはすなわち、積層型完全環境都市。
解放都市。かつては異形都市とも呼ばれていた。
既に文明の灯りによって追いやられた《ふるきもの》たちが在った、41の声といくつもの想いが在った、閉ざされていた都市。
閉ざされていた10年という時間の中で、数多の機関機械、数秘機関、現象数式、等々の異形技術が開花せし暗がりの都。
今は違う。
───そう。
───そうだとも、諸君。
既にインガノックは解放された。
インガノック歴10年、連合歴であれば恐らく534年か535年に、41の声は解き放たれたのであるから、既にここは異形都市と呼ぶには相応しくない。
私は待とう。
私は待とう。
こうして穴を掘り進めながら、ああ、私は、今まさに時の訪れを待つばかりなのだから。
我が手がかき分けるものは土か瓦礫か暗闇か、その果てに行き着くもの。
見るがいい我が友バベッジ、見るがいい我が友バイロン、そして、ローラ。
見えるかい。
見えるはずだ。
私の手が、今まさに掘り当てたものが何であるのか。
黄金螺旋階段を昇った彼らが見たものは何であるのか。
伸ばされたその手の先にあったものが何であるのか。
空、であるとか。
色、であるとか。
既に私にはそれを呼ぶことはできない。
私はその言葉を失った。
見えるとも──
あの子のように、佇む彼か彼女のように、狂ってなどいなかった巡回医師のように。
さあ。
さあ。
だからこそ、最後は彼女たちに話してもらうとしよう。
かつて黒猫と呼ばれた彼女と、かつて赤き目を宿した少女に。
人は現実に生きるのだ。
記憶なるものがいかにあやふやで不確かで、私の狂気に劣らず歪んでいたのだとしても、目の前にあるものが日々であって現実であるのだから。
▼ ▼ ▼
───それは、『彼』が既に黄金の螺旋階段を昇った後のこと。
───それは、解放された異形都市でのこと。
インガノック歴13年、12月25日。
下層第10層。旧廃棄地区。
ここは、かつて瓦礫だけが横たわる、およそ命と呼べるものがない場所だったという。
正確な情報かは分からない。失われた10年あるいは2年の記憶を欠落させ、一部のみを取り戻した状態の、彼女には。
───アティ・クストスには、分からなかった。
「石の森、か。
そういう風に言われるのも、分からなくはないけど。
……もう、今では。本物の森になろうとしているのね」
旧廃棄地区の只中に立って、アティ・クストスは周りを見渡していた。
瓦礫だけがあったという石の森。けれど、解放された後の今ではこうして、ちらほらと木々の緑を見ることもできる。
上層階段公園から移植された木々は、ようやくこの廃墟にも根付いてきたという。
石の森は、そう、緑の森に変わりつつある。
けれど、実際に。
あまり実感は湧かない。
彼女───アティ・クストスにとって、都市の"失われた10年あるいは2年"は未だ、靄がかったおぼろげなものなのだから。
「どんな……場所、だったのかしら……
ああ、ううん。どんな場所だったのかね。
今では、こうして陽が、さ。
差すこともあるけど、昔は。
暗かったのかな。どうだったのかしら。
ああ、うん。
……どうだったのかね」
言い直してしまうのは癖だ。
口調を、かつてのものに変えてしまう。
断片的に浮かび上がる記憶で、アティ・クストスは過去の"自分"を知った。
自分が、荒事屋と呼ばれる職能者だったこと。
有体に言えば傭兵、戦士、兵士。戦闘以外のあらゆる工作も行う職能者。
きっと、人を殺したりもしたのだろう。
とはいえ、そんなことはもうできないはずだ。
記憶の断片を取り戻してみても、如何なる理由か変異の消えた肉体では、数秘機関の埋め込みさえない肉体では。
記憶の欠片に残るような、激しい戦闘など行えはしない。
取り戻したのは一つだけ。
おぼろげな過去だけ。
そう、過去の記憶の一部を、アティ・クストスは取り戻していた。
───あの日、あの時。
───第7層で"あの子"の声を聴いた刹那に。
「……何か、ないかな。
覚えているものがあればいいけど。
廃墟の石の森、あたし、ここには来たことなかったんだっけ」
結局のところ、取り戻したと言ってもそれは曖昧なままだ。
細かなこと、例えば自分がどこに行って何をしてきたとか。
そういうことは全然分からない。何月何日にどんなことをしただとか、全然。
「どう、かしら。
……ううん、どうだったかね」
言い直して───
僅かに吐く息は白い。
都市の12月は冷え込むから。
実感は湧いてこなかった。
かつての無人廃墟だと記録されていた、都市管理部の公開情報を目にした時も。
隣の住人から話を聞いた時も、あまり思うことはなかった。
それでも。
実感がなくても。
あたしは見ておこうと思ったんだ。
だから、すぐ帰ったりなんかしないよ。
「すべてを見るんだ」
都市のすべての層を、この目に映しておこうと決めた。
旅立つ前に、すべて見ておこうと決めたから。
解放都市と呼ばれるインガノックを、
失われた時過ごしたインガノックを、
アティ・クストスは発とうと決めていた。
都市再生委員会の就職支援プログラムに従って、都市第2層の機関工場の専属計算士として勤め続けたおかげで、旅費は大丈夫。
結構な額が貯まっていたから、しばらくは旅ができる。
詳細不明の預金口座もあったけど、そっちは手をつける気にはなれなかった。
それはきっと"彼"がアティのために遺してくれたものだから。
手を、つける気にはなれなかった。
手をつけたら消えてしまう。
そんな、気がして。
「……もう少し。
もう少し、思い出しておきたかったんだけどな。
あいつや、あの子たちのこと以外に。
あたしが、どう生きたのか」
発つ───
旅立つ。そう、旅に出る。
別段、この都市が嫌になったわけではない。
たとえ記憶になかったとしても、未だほんの少ししか思い出せないとしても、
ここには自分の10年があるから。
寄り添い交わした人々との記憶が、
今も、在り続ける場所なのだから。
今も、残り続ける都市なのだから。
だから、きっと。
いつか、戻ってこようと思う。
それでも、旅立つことを決めた。
それは、あいつが───
「アティ」
「ん?」
自分の名を呼ばれ、アティは声のほうに向きなおる。
あの日、あの時の12月25日に、第7層28地区の瓦礫跡で出会った子へと。
あの子の声を聴くと心が揺れる。
いつも、そうだ。たった今もそう。
聞き覚えのあるような、ないような……
不思議な声をしたあの子。
ここへの案内も買って出てくれた。
「なに、ポルシオン。どうかした?」
「ああうん、ほら、アティ。そこになにかあるよ。
違う、そっちじゃなくて足元。あなたの足元に何か……ほら、そこ」
「ん……」
名前を呼ばれて、場所を示されて。
アティは"それ"を拾い上げていた。
それは瓦礫の間にあったもの。
あの子が見つけてくれたもの。
本当に、足元に、隠れるようにして。
誰かが見つけてくれるのを、ひっそりと待っていたかのよう。
「何……?」
それが何であるのか、見たままを口にすることしかできない。
綺麗なカタチだったと思う。お洒落、と言っていいのだろうか。どこか気品に満ちて、精緻な調度品のようで。
嫌いじゃない。好き、と言える。
随分古びているのに。どうしてか、そう、はっきりと思う。
「ペンダント、よね」
手のひらに収まってしまうほどの、小さなそれ。
細かな、綺麗な細工が施されているそれ。
ふと裏を覗けば、そこには一文が書かれていた。
手書きの文字で、あまりに場違いなそれは、けれどはっきりとその存在を明らかにして。
【Enjoy a carefree life!(気楽な人生を!)】
───瞬間。
脳裏に何か、閃いて。
「見たこと、ある。
これ、この……
形は……」
半ば朽ちたペンダント。
あたしはそれを拾い上げ、自然と、抱きしめて。
その瞬間、どこかで響いた声があった。
『行くがいい』
『アティ・クストスの本懐は、かの異形都市を発つ白猫こそが果たすだろうけど』
『アティ・クストスの名を持つ君の本懐は、君自身こそが果たすべきなのだから』
声、聞こえた気がして。
深く、深く、あたしは頷いていた。
誰の声かを思い出すまでに、2秒。
あたしの意識は少しだけ反応が遅れて。
だから、雫が。
黄金色に変わった右目に浮かんでいた。
あたしが、誰の声かを想うよりも先に。
嫌だな、2秒もかかった。
昔の都市摩天楼なら、死んでただろうね。
でも、分かった。
覚えていた? 今、伝えられた?
この声、聞こえた声、誰のものか───
『マスター』
『最早顔も名前も思い出せず、その名残すら消え去ってしまった誰かよ』
『貴方はきっと、貴方自身の願いの果てに行き着いたのだろう』
『さらばだ。貴方は貴方の現実の中で、より善き未来を歩むがいい』
『夢を叶えるには、まず夢から醒めねばならない。それは万人に共通した通過儀礼であるのだから』
「うん……」
胸に抱きしめ、言葉、自然と溢れてくる。
「覚えてる。ごめん、時間かかって。
でも、思い出した。思い出したよ。
……思い出した、あなたのことも」
それは、きっとここではないどこかの記憶。
あたしではないあたしが辿った軌跡。
最後に命脈を賭して、仮初のあたしをここまで送り返してくれた、彼のこと。
「……うん。
覚えているよ、アーチャー。ストラウス、赤薔薇のあなた」
「本懐は、あたしが果たすよ」
「もっともっと、良い未来を目指すよ」
「夢、きっと叶えるよ」
呟いて───
けれど、返答があるはずもない。
声、届きはしない。
聞こえたものも、本当は正しく空気を震わせる音声ではなくて、
きっと、あたしの耳にしか届かないものだ。
今は消えてしまった猫に似たあの耳に届き、だからこそ。聞こえて。
あたしは返事を待たなかった。
待っても、2秒で十分。
「あたしと、あの子と。そしてあいつと。
きっとあたしは、望んだ明日を手に入れるから」
だから、大切なものはここにある。
今はそう思うことができる。
あなたのように、立派な人に並び立てるようなものじゃないと思うけど。
でも、それでいいんだ。
そうでしょ、アーチャー。
アティは空を見上げる。
そこは永遠の灰色雲に覆われたはずの場所。二度と戻らない光が隠された場所。
けれど、今は、天蓋に開けられた裂け目から眩い太陽の光が降り注いで。
その眩さに目を細める。それでいいんだと、アティの旅路を祝福するかのように。
▼ ▼ ▼
遥かなる過去。
遠い日の記憶。
そして、つい先ほどまで目にしていたはずの青空の下。
血に染まった戦場を駆け抜けて、数えきれない骸を積み上げた後のことだった。
斜陽の大帝国との戦いの後、故国ブリテンへと戻った彼を待ちうけていたのは反逆の騎士にして僭主モードレッドの裏切りであり、地獄が如き内戦の再来だった。以前のそれよりも酷いと言えるかもしれない。栄光の円卓は影も形もなく、精強にして一騎当千の騎士たちは次々と姿を消した。命を失って、あるいは決別の言葉を残して。
辿り着いた先の森にて、大樹に身を預けながら彼は瞼を開ける。
セイバーは───
否、アーサー・ペンドラゴンは、過去に生きるただひとりの人間として目覚めていた。
苦痛と熱が酷い。反逆者との決戦で受けた一撃は致命傷であったと思しい。ばらばらになりそうな意識を繋ぎ止めながら、言葉を告げる。つい先刻にも似たようなことをした記憶がある。不思議なものだ。
「ベディヴィエール」
夢を見ていた。
そう、王たるアーサーは告げる。
遠い目をしながら語る王の言葉を、騎士は静かに控えて聞き届ける。
「夢の中でも、私は戦っていたよ。お前たちのいない遠い国の見知らぬ街で、私は愚かしくも惑いながら、やはりこの聖剣を振るっていた」
「愚かなどと、王を謗る者はおりません」
「ありがとう。ベディヴィエール、我が騎士」
ゆっくりと言ってから、大きく息を吸う。
血の味がする空気だった。
「では、騎士よ。お前に命ずる。この森を抜け、血塗られた丘を越えて湖へと赴け。
其処へ我が名剣を投げ入れるのだ」
「王、それは───」
名剣。湖の貴婦人よりもたらされた星の聖剣。
王権を示す最高の名剣であり、何者であっても打ち倒す最強の聖剣。
それを捨てよ、と王は言っているのだ。
それは、王としてのアーサーの終わりを意味するのではないか。
何故、と戸惑う騎士へ王は更に言葉を続ける。
「私は最早、王ではない。故国を救うことは遂に叶わなかったが……
今ひとたび、私は騎士として在ろうと思うのだ。ベディヴィエール」
「理由を、お尋ねしてもよろしいですか。我が王」
「無論だ」
瞼を閉じて、騎士王は静かにこう告げるのだ。
───ただひとり、僕には守らねばならない貴婦人がいるのだ、と。
そしてベディヴィエール卿は二度の逡巡の後、三度目にしてようやく王命を果たす。
王の永遠を願うあまり二度も引き返した彼であるが、とうとう湖へと聖剣を投げ入れたのであった。人の手に余る魔力を有した稀代の名剣は、こうして湖の貴婦人へと戻される。次に剣を手にする者は、時代によって選ばれた聖剣使いであるに違いない。
果たして、大樹の麓へ彼が戻った時、そこに王の姿はなかった。
「……王よ、何処に?」
遺されたのは。
痛々しげなまでの血だまりのみ。
王は、まさか、聖杯を得た騎士ギャラハッドのように───
尊き伝説に語られる救世主の如くして、肉体を伴ったまま天へと召されたのか。
あるいは、全て遠き理想郷へと旅立ったのか。
それとも。
もしくは。
◆
微睡みの内で、その夢を見ている。
流れて溶け行く過去と未来の残影の中で、彼はそれを見た。
たったひとりで歩むべき、旅路。
たったひとりしか許されぬ道程。
そのはずであった孤独の旅路に、
しかし、傍らに在る小さな気配。
───きみは、どうしてここに?
言葉はない。ただ、首を振る気配だけがそこにはあって。
けれど、けれど。
声ではなく、言葉ではなく。
ただ、意味として在る想いがひとつ。
───見ているの。
───見ているの、あなたを。
───世界を救うべきあなたの、光り輝く剣を執るあなたの手が。
───何に伸ばされるかを。
告げる少女が、そっと彼と手を重ねる。
蒼銀の甲冑纏う騎士の手に、重なり合う白い繊手。
何の力もない少女の手。命尽きたはずの騎士の手。
しかし、ある種の実感があるのだ。
この手にできることは、何か。
彼がすべきことは、何か。
分かる。あの時と同じように。
「ならば共に行こう。
私は往く。私は在ろう。この果てなき旅路に、決して諦めることなく。私は、救世の剣を揮おう」
それこそが我が答え。
それこそが我が辿るべき道。
そして、その果てに───
◆
「僕はセイバー。きみを守る───サーヴァントだ」
◆
そう───
そうだ。希望は潰えず、光も。恐るべき暗黒の大悪に呑まれぬものが、世界には在る。
時を超えて、蒼銀の騎士は世紀末の極東都市へと降り立つ。
輝ける聖剣を携えて。
きっと、聖杯を巡り新たなる六騎の英霊と死闘を繰り広げるだろう。
だが、やがて真なる決着の時は来る。
命を賭けて戦った二騎、古き英雄王と無双の猛犬に並び立ちながら。
そして、姿さえ見えぬ二つの瞳に見つめられながら。
かつて相争った黒き六騎の悉くを斃し尽くし、大いなる獣と相対し、世界を救う───
己が運命と定めたひとりの少女を、その手で、再び守るために。
救国の王者ではなく。
救世の聖者ではなく。
ただひとりの、
誓いを秘めた騎士として。
【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 赫炎のインガノック -Fin-】
投下を終了します。キーアの、というよりはインガノック世界のエピローグでした
他のはそのうち投下します
投下します
たった一言。
誰かが言ってくれればそれで良かった。
全ては夢だったんだと。
僕は、ここにいていいのだと。
▼ ▼ ▼
「あ……」
目覚めは唐突だった。
わたしはベッドに突っ伏していて、シーツにはよだれの跡。
寝ぼけ眼で周りを見渡せば、そこは見慣れたわたしの部屋。夜空と宇宙の写真立て、木造の簡素な机、大好きな小説、窓から差し込む暖かな光。
時計の針は、もうすぐ夕方になる時間を指し示している。
ああ、そうだ。わたしは。
「もうこんな時間……」
言葉を一つ、わたしは掛けてある着替えに手を伸ばした。
◆
寒空の下、とっくに通い慣れてしまった道をわたしは歩く。
吐く息は白い。新年が過ぎ学校が春休みを迎えても、この街の冬はもう暫く続く。
雪はもう、降っていないけど。ちょっと厚着をして正解だったなって、冷え込んだアスファルトを踏みしめわたしは思う。
日の傾きつつある午後。それでも通りに人の姿は少ない。
やっぱり寒いとみんな家に籠っちゃうのだろうか。
なんて、かく言うわたしも今までずっと家にいたわけで。
正午のあたりからベッドに突っ伏して、眠りこけていたわけでして。
「りーさーん、待ってぇー……」
人通りが少ないと言っても、暫く歩いていれば誰かと擦れ違うこともある。
自分よりも少し年上の、浅葱色の制服を着た4人の女の子たちが和気藹々と笑っている。ひとりはショベルを持っていて、多分園芸の帰りなんだろう。
通りの角を曲がったところでは、車椅子を押す女の子とばったり。ぶつかりそうになって軽く会釈して、明るい髪の女の子は笑って手を振ってくれた。
歩きながら、わたしは空を仰いだ。
わたしは、冬の午後が好きだ。
冬は日が傾くのが少しだけ早い。
夕方の真っ赤な空ではなくて、でもほんの少しだけその暖かな赤みを光の中に帯びていて。
冬の凍てついた空気を解きほぐしながら、ゆっくり、ゆっくり傾いた陽射しが窓辺から差し込んでくる。
ああ、もうそんな時間かって思いながら、ちょっとだけ息抜きに日向ぼっこ。
うとうとしながら、微睡みながら、そんな時間を過ごすこと。
わたしは、そういうのが好きだ。
今、この時も。
歩きながら見上げる空は、分厚い灰色の雲に覆われて。でもその向こうの光で白く染まって。
雲の裂け目から覗きこむ光が、茫洋と世界を照らし、温める。
見慣れてしまった日常の、ほんのちょっぴり好きな瞬間だ。
日々を過ごしていく中で、少しずつ「好き」が増えていく。
新しいものが見つかっていく。
だから、わたしはそれをあなたと共有したい。
教え合って、触れあって、一緒に笑いたい。
なんで、そう思うかは分からないけど。
「……こんにちは、みなとくん」
そうして───わたしは、今日も病室の扉を開くのだ。
▼ ▼ ▼
「扉が開かれることはない。物語はここでお終いだ」
少年の語る声。対する誰かは無言のまま。
ここは純粋の空間。光に満ち、あるいは何もない場所。
「あるいは、ここで停滞したままずっと続いていく。一歩を踏み出すことはない。
結局は、ここで可能性は途切れてなくなるんだ」
少年の声は続く。
対する誰かは、無言。
「最初から分かっていたことだ。僕も彼女も、ずっと分かりきっていたことだったんだ。
この世界に僕の可能性は残されていない。目覚めることはないんだって」
その声は何かに満ちて。
それは後悔? それとも、涙?
「だから、僕達の物語はここでお終いなのさ」
対する誰かは、口を開いて。
「……くだらん」
▼ ▼ ▼
「ふわーーーー、すっごい結露!
やっぱり外は寒いね、ここはとっても暖かいけど」
病室に入ったすばるは窓を見つめ、ベッドで眠る少年に話しかける。
返事は返ってこない。返ってきたことなど一度もない。
すばるは彼の、みなとの声を聴いたことがない。
起き上がった姿を見たこともない。
その瞳がどんな色をしているのかも知らない。
けれど覚えている。決して忘れない。
「冬は好きだけど、寒いのはつらいね。
ストーブもいいけど、わたしはこたつが欲しいなぁ。
ストーブだと、みんなその前でスカートぱたぱたするんだもん。はしたないよ」
交わすのは、意味のない言葉。
その日限り、その場限りの、日常的でありふれたどうでもいい会話。
それでもいい。というか、そういうのでいいんだと思う。
大きな意味なんて必要ない。
人生なんてきっとそんなものだ。
「ね、みなとくん。みなとくんは夏と冬どっちが好きかな。
わたしはどっちも好き……っていうのはちょっとずるいかな?」
えへへ、と笑って無意味な言葉を続ける。
「夏の日って、たまに涼しい風が吹くでしょ?
秋が近い頃かな。そのささやかに夏の残滓を掬い取ろうとしてる時が、わたしは好き。
暑いのはちょっと苦手かな。夏には悪いけど」
それでね、と会話は続く。
たとえ話しているのがすばるしかいないのだとしても。これは会話だと思いたい。
「冬もね、わたしは好きだよ。
こうやって曇ったガラスに指を這わせて、流れる水の脈を透き通った指先で受け止めて。
あんなに暖かかった手のひらが冷たく赤くなっていく。
こんなどうしようもなく幼稚で あたたかな冬のひとときが、わたしは好き」
すっとなぞった指先が、曇りガラスの湿気を纏って冷たく赤くなっている。
なんてことない、くだらないことだ。日常の中のほんの小さな出来事だ。
でも、そうした「好き」を、わたしは積み重ねたい。
だって、そうだ。わたしは。
「ね、みなとくん」
こうして、過ごす日々の中で見つけた小さなことや、
今隣にいる人の綺麗なところ、良いところを見つけたい。
世界は喜びで溢れているんだって、伝えたい。
「きっと、また、会えるよね」
わたしは、好きを諦めない。
▼ ▼ ▼
「まったくもって、くだらん」
声が響く。
それは少年の声ではなく、絶望と諦観に支配された声ではなく。
「何を……」
「聞こえなかったか、くだらんと言ったのだ。
お前の語るその全て、今さら何をほざいている」
巌のようなその声は、まるで鋼鉄であるかのように。
無機質に、あまりに重く。地の底から響いてくるかのように。
「終わりだと? 停滞だと? 自分はここで朽ちてそれでいいのだと?
よく吼えた。終焉を体現するこの俺の前で、二十も生きていないような小僧がよくも知った口を聞けたものだ。
その厚顔無恥ぶりは尊敬に値する。よくもまあ、ここまで思い上がることができたものだ」
「っ、僕を馬鹿に……!」
「するとも。ああ、俺はずっとお前に言ってやりたかったのだ。
サーヴァント、マスター。そんな主従関係はもう俺達には存在しない。
だから、言ってやる」
そして、鋼鉄の彼は告げる。
「お前は救いようがない」
その、絶対的な真実を。
「…………っ!」
「お前は何になったつもりでいる?
何かにつけては自分のせい、世を儚んでは自殺未遂、挙句の果てに自分は世界に拒絶された唯一無二だと?
誇大妄想もここまでくれば芸術だな。お前は神にでもなったつもりか」
「んな、ななななな……」
開いた口が塞がらない、とはこのことだろうか。
あまりにもあんまりすぎる言いぐさに、少年は思わず口澱んで。
「な、んで、そこまで言われなきゃいけないんだ!」
「むしろ何故言われないと思う。今一度自分を客観視してみるがいい。
いや、お前のことはどうでもいい。小奇麗に終わるお前はそれで満足かもしれないがな」
男はどこかを指し示して。
「遺されたものは、どうなる」
「……」
「あの場でお前を待ち続ける、あの娘はどうなる」
「それは……」
それは、少年とて思うところがある。
というか、それが一番大事だ。
申し訳ないと心から思っている。救われてほしいと、こんな自分のことなんてさっさと忘れてほしいとさえ。
でも、それは叶わない。
自分にはどうすることもできない。
ならば、綺麗に終わってしまうのがせめてもの。
「お前はかつて言ったな。俺達は同じなのだと。
終焉を求める俺と、消滅を願うお前。その根源は同一なのだとお前は言った」
「……ああ、そうさ。でもそれは少しだけ違うものなんだと」
「そこが一番の間違いだ。少しではない、俺達の願いは真逆のものだ」
原初の間違いを正すように、男は少年へと言葉を紡ぐ。
「死は一度きり。故に烈しく生きる価値がある。
それは俺の哲学であり、俺だけの価値観に他ならん。
その正否を他人に譲る気は更々ないが……しかしお前の願いは違うだろう」
その真実、少年の思いを確たる言葉として突きつける。
「現宇宙に生きる可能性が存在しないと切り捨てたお前は、だからこそ別の宇宙での可能性を模索した。
この宇宙より消え去りたいというお前の願いは、すなわち"生きたい"という渇望そのもの。
なあ、これのどこが似通っているというのだ。死にたいと願う俺と、生きたいと願うお前。そのどこに交わる余地があるという」
「そのことに、一体何の意味が」
「ないとは言わせん。ああ、俺は気に入らんのだよ。
生も死も一度きり、故生きることは尊いのだと……そう拝して止まないゆえに、生きることに真摯でない者は見るに堪えん」
言うが早いか、男は少年の手を鷲掴む。そのあまりに強い膂力に少年は身じろぎするが、しかし。
「これは……何をするつもりなんだ、マキナ!」
「俺に残された因果をお前に繋ぐ。お前を時間の流れから切り離し、世界から独立した存在へと切り替える。
この宇宙の運命線の影響を受けないようにな」
「そんなことが……」
「できる。俺の創造が何だったのかを忘れたか?
存在するなら運命だろうが因果だろうが、それこそ神だろうが殺してみせる。
俺の渇望はそんな、どうしようもなく救えないものなのだ。ならば触れてできない道理はあるまい」
違う、違うのだ。
少年が言いたいのはそんなことじゃない。
だって、そんなことをすれば、きみが。
「そんなことに残された力を使えば、きみは……!」
「消えるだろうな。今の俺は所詮残像、ツァラトゥストラに呼び出された最期の残滓に過ぎん。
そもそもここに意識を保って存在していること自体が間違いのようなものなのだ。なら選ぶべきは一つしかあるまい?
これを最後の蘇りとして、俺は永遠の安息に眠ることとする。俺の願いは、ようやく叶う」
少年は───みなとは、もう何も言えなかった。
それを見下ろして、マキナと呼ばれた男は苦笑する。
「なんだ、涙を流しているのか」
「……うん、そうだね。
でもこれは嬉し涙だ。悲しいから泣いてるんじゃない」
「それでいい。命を繋いだ者の責務は、その後の人生を謳歌すること。断じて過去に縋りつくことではない。
……過去しか見ることのできなかった男から、最後のアドバイスだ」
そうして彼は消えていく。
みなとに流れ込む、暖かなナニカと引き換えに。
「全ての想いに巡りくる祝福を。あらゆる祈りは綺麗ごとでは済まされない。
されども、みなと。我が束の間のマスターだった者よ」
そしてその時、彼は初めて明確に───
「俺はお前を誇りに思っているよ」
それは、錯覚だったのだろうか。
それとも、都合の良い思い込みだったのだろうか。
けれど、それでも。
「行くがいい。明日へ。
必ず誰かが、誰でもないお前自身を待っている」
それを目に焼き付けて。
みなとの意識は、深海から海面へと浮上するかのように───
▼ ▼ ▼
「あ……」
目覚めは突然だった。
何の予兆もそこにはなくて、何の因果もそこにはない。
ただ、そのようにして目が覚めた。
その時隣にいた少女は、目を覚ました僕を見つめ、まるで信じられないものを見たように。
「みなと、くん……」
ぼやけていた像が、はっきりと輪郭を結ぶ。
遠かった耳が、次第に戻ってくる。
モノクロだった世界に、鮮やかな色が宿っていく。
ああ、そうだ。僕は……
「おかえり、みなとくん」
「……ああ。ただいま、すばる」
全てが鮮やかによみがえっていく。
切なく、目尻に涙さえ浮かべて。二人は静かに微笑む。
「思い出したよ、みなとくん。みんなのこと」
「ああ……ああ、僕もだ」
「みんな、笑ってた。みんな、一生懸命生きて……」
「きみの言う通りだ。僕達も、確かにそこにいた」
因果が繋がる。思い出していく。
だから、きっと大丈夫。
「思い出せたよ。忘れたはずの思い出。
だから、きっと───」
きっと。
いつか、会える。みんなと。
だって、思い出せたから。
ありえないはずのそれが、起きたのだから。
みんなでまた、一緒に───
▼ ▼ ▼
夜空に浮かぶ星たちは、
ひとりぼっちの寂しさと、
巡り合う喜びを繰り返して、
長い時の中を擦れ違っていく。
今日の予報は流星雨。
星空を見上げていると、今はまだ出会えていないどこかの誰かのことを、ふと思ってしまいます。
その誰かも、同じようにこの星空を見上げていて。
星たちは夜空から、そんなわたしたちのことを、見守ってくれているはずです。
【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 放課後のプレアデス -To the next story!-】
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目を覚ました。
周りにはたくさんの瓦礫やらなんやらがあって、しかも驚いたことに地面がなかった。
で、凄い風。
つまり、今物凄い勢いで落ちてる。
「いいいいいいいいい嫌ああああああああああああああっ!?」
落ちる! 落ちてる!
風! 寒! 岩! 窓! 岩! 怖っ! 怖怖怖!?
足の下に何もない!手が引っ掛かるところが何処にもない!
身体を支えるのは薄い空気だけで、それもあんまりやる気がない!
地面どころか雲までもが遥か下を流れていて、見渡す限りの世界はなんだか丸い。地平線とか水平線とかが真っ直ぐじゃなく楕円を描いている。
あれ、なんでこんなことに?
私、今まで何をやってたんだっけ?
「あー……」
ぼんやりとした思考が徐々に形になっていく。
そうだ、確か私は……
「スカーさんを捜しに世界塔を昇ってたんでしたっけ」
で、今は塔の残骸諸共落ちてる、と。
周りには砕けた瓦礫がたくさん仲良く落ちていた。テーブル、ティーセット一式、色とりどりの雑誌の束、パーキングライトを点滅させた自家用車。将来はこんな感じの一軒家が欲しいなぁ……と思わせるいい感じの家が向こう二軒ご近所諸共!
物凄い速度が出ているはずなのに、遠くにある地面が近づく様子は微塵もない。
目の前いっぱいに緑色に輝く美しい星があった。
「うわーきれー」
「現実逃避してる場合か!?」
「したくもなりますよ!」
アイは器用に身体を捻って隣で同じく落下してる男に振り返った。
「馬鹿! アリスさんの馬鹿! 最低! 考えなし! こんな高さから飛び降りて助かるわけないでしょうが!」
「うわ痛ぇ!? こら馬鹿、やめろ!」
アイは即座に滑空術を覚えた。両腕の開きと足の角度で空気抵抗を変えて落下をコントロール、果敢にもアリスに空中戦を仕掛ける。
「バカ! バカバカバカ! アリスさんのバーカ!」
「こら! アホ! 言うこと聞け! こっち来い!」
「嫌です! 私、せめて最期はこのおバカさんのいないところで心安らかに墜落するんです……」
「いいからこっち来いっつーの!」
アリスがよっこらよっこら平泳ぎしていやいやするアイの両手を掴む。
二人、手を繋いでくるくる落ちる。アイは容赦しない。氷のような無表情で。
「ばーかばーか、アリスさんのばーか。あほ、どてかぼちゃ。お前の母ちゃんオオアリクイ」
「お前、極限状態だとそうなるのな」
「はああああああああああああああああああああああああ!?
……ああもう、最悪です」
アイは眼下に広がる星を見つめる。
「景色だけですよ、マシなのは」
「これぞまさに"絶"景だな」
チョップ。
「……まあ、最後に見る景色としてはいいんじゃないですかね……」
風が強い。顔を上下に並べて会話する。
「死んじゃうんですね、私」
ぽつりとアイが呟いた。
「なーんかさっきまでも散々死にそうな目に遭ってきたような気がするんですよ。
で、それが終わったらまたこんなことなって。私の人生どうなってるんですか?」
「いや、知らねえよ……流石にお前の人生まで責任持てねーからな」
「死んじゃうんだなー、死んじゃうんだなー。死んじゃうん、だ、なー」
死んじゃうんだなーの歌をしかめっ面で聞いていたアリスが呟く。
「お前、死んだらどうする?」
「……変な質問」
「いやいや、普通の質問だよ。お前将来どうする? みたいな」
なにせここは死んでも死ねない世界だし。
アイはまだまだ遠い、けどいつか確実に到達する地面を見つめて答える。
「……さあ、どうなるんでしょうね」
「およ? 意外だな。お前みたいなのがそういうの考えたことないのかよ」
「だって……」
アイはずっと遠くの地面を見つめている。現実感はあまりない。
「私、墓守と人間のハーフなんですよ」
「だから?」
「そんな私に死後なんてあると思いますか?」
「あー……」
墓守に死後はない。
壊れた彼らは二度と目を覚まさず、ただ土に還るだけだ。
「昔の私はそっちのほうがいいなぁって思ってました。無様を晒さず、土に還れたらなぁって思ってましたよ」
「……」
「でも今は……夢があるんです」
意外なことに、怖いのとかはあんまりない。
「死にたく……ないなぁ」
かといって、それほど生きたいわけでもないのだけど。
……うん?
本当にそうだろうか?
うーん、うーん……
どうなんだろ。
「まぁ、そうですね」
アイはちょっとだけ考えて、言う。
「もうちょっとだけ、生きていたいですね……」
しかしここは高度1000m、気温8度、東の風、風速20mの世界。
生き残れるわけもなかった。
「じゃあ尚更考えなきゃな、死後のこと」
「いや、もうそんな時間もありませんよ。もうすぐです」
「いいや」
アリスはにやりと笑った。
「そうでもないぜ?」
▼ ▼ ▼
そんでまあ、色々なことがあった。
アリスが周囲の瓦礫の中から都合よくパラシュートを引っ張り出して九死に一生を得たとか、落下地点にディーとその一行がいて一悶着あったとか(この時何故かアイはディーを一目見た途端涙をだばっと流して、一触即発だった雰囲気が崩れ去った)、まあそんなこんなで。
「終わりましたね、今回も」
「ああ、そうだな……」
アイとアリスは二人で寝っ転がって、共に空を見上げていた。
そこでは塔が崩れ落ち、墓守発生の雷がそこかしこで鳴り響いている。
一つの世界の終わりがそこにはあった。
「ねえ、アリスさん。私、夢を見ていたんですよ」
ぽつりとアイが呟く。
「色んなことが、そこではありました。そこの私はまだアリスさんと出会う前の私で、自分が救うべき人も分かっていないような未熟者でした。
だから、何も分からず突っ走っては失敗を繰り返しました」
「……」
「でも、だからなんでしょうかね。
怪我の功名と言うべきか、少しは良いこともあったみたいで。
もう、ほとんど覚えてないんですけどね」
アイはちょっと困ったように笑って。
「"生きたい"って、今はそう思います」
「そっか」
「はい。さっきまでの私は、別に生きていようが死んでいようがどうでもいいかなぁ、って思ってたんですけど。
でも今は、もう少しだけ生きていたいって思います。色んなものを見て、知って、愛したいと思うんです」
どうなんでしょうね、この気持ち。
そう嘯くアイに、アリスはただ笑って。
「そう思えるんならさ。それはきっといい夢だったんだろうな」
「……ええ、そうですね。つらいこと苦しいことばっかりで、良いことなんてもうほとんど思い出せませんけど」
それでも、今まで見ていた"それ"は、きっと。
「いい夢、だったんでしょうね」
心からそう思うことができた。
もう思い出せない、短いようでとても長かった日々の記憶。
見ていた時はあまりにも鮮明で、目が覚めてしまえば途端に色褪せる夢の情景。
それは本当に夢なんだろうかって思えるほど真に迫って、今も心に深く根付いてしまっているそれはあまりにも重いけれど。
うん、それはきっと、良い夢だったのだ。
「けど、私もそろそろ前を向いて歩いていかなきゃいけません」
夢は文字通り夢見心地で、とても気持ちの良いものだけど。
それでも人は現実に生きていく。夢はいつか覚めなきゃいけない。
それは必然であり世の道理だ。けれど、夢は所詮幻だと切り捨てなきゃならない道理はない。
そこで見た情景だって紛れもない本物で、明日を生きる活力となってくれることだってある。
逃げ込む必要はない。けど、無用と捨てる必要だってない。
だからアイは、今この胸にある熱情を抱いて、明日を生きていこうと思える。
「だったらさ、アイ。俺の頼みを聞いてくれるか?」
そして、日々を生きる以上は否応なく世界は動いていく。
アイの物語も、決して止まることはない。
「俺達を───3年4組を、助けてくれ」
世界救済の旅は、まだ始まったばかりだ。
【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 神さまのいない日曜日 -Next story "Ostia"-】
続けて投下します
「───以上」
男は言った。
それは、黒衣を纏った男だった。
影の如き姿であるが、生気を感じさせない枯れ木の如き気配でもある。
奇妙な人物。
気配と服装は彼をそう思わせる。
彼は決して自らの名を口にすることはない。
見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに奇妙な男であった。
偉大にして光輝なる三位一体。
それがこの男の今の名だ。
すなわち、男の名は《メルクリウス》
カールエルンスト・クラフト、あるいはヘルメス・トリスメギストスと人は呼ぶ。
───もっとも。
───彼を呼ぶ者など多くはあるまい。
例えば、
至高天に坐す墓の王たる黄金獣であるとか。
第六の天に抗いし無謬の神無月であるとか。
黄金瞳の少女と共に在る黒の王であるとか。
不用意にその名を呼んではいけない。
命が惜しければ。
彼の嘲笑の奥を想像してはいけない。
命が惜しければ。
永劫の時を繰り返すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。
既に輝きを失った黄金螺旋の最奥。王の夢の残滓が眠る暗闇の幽閉の間。
影の如くに佇む彼と、もうひとりの"誰か"がそこにいた。
「こうして、たったひとりの少女を陥れた我々は」
「かくして、たったひとりの少女に敗れたのだ」
故に、ここに宣言しよう。
偉大なる実験の終了を。
深淵なる認識の終了を。
───新たな時代の幕開けを。
「それでは、人間たちよ」
男の声には笑みが含まれていたが、
同時に、亀裂音が響き───
割れる。砕かれる。
あの虚構の世界と同じに。男の総身に罅が入って。
「それでは諸君」
「御機嫌よう。
果たして、これより訪れる"明日"は、
かの少女らが信じる光足り得るか」
「それとも……?」
「は……」
「は、は、は」
「ははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははは」
そして───
影は、あの世界と同じくして、砕け散って───
「さりげに物を知らねえな、メルクリウス。こんな時はこう言うもんだぜ」
「"めでたしめでたし"ってな!」
可可と笑う声が、全てを───
続けて投下します
かくてアイは世界を救い、
そして世界はアイを救った。
▼ ▼ ▼
「ふぅ……」
一息ついて、少女の姿をした影は手にしたショベルを放り、傍らの木陰に座り込んだ。まるで生きているかのように、真っ白な息を吐く。
こうしてショベルを握るのは、久しぶりのことだった。
墓守であることを捨てた彼女は、二度と手に取ることはないと思っていたけれど。それでもよく考えてみたら、"彼"をそうするのは自分しかいないのだから、これは当たり前のことだったのだろう。
それでも、この体に重労働は荷が重いと、そう思った。最早疲れなど感じない体ではあるけれど、節々が不穏な軋みをあげていて。ああこれは限界が近いのだなと否応なく感じさせた。
ずっと付き合ってきた自分の体だ。誰よりも自分がそのことを分かってやれる。
「なんというか、アリスさんも酷いですよね。最期にこんなことを、私に頼むんですから」
少女のような老女の影、あるいは枯れきった少女の影か。
影は、アイは黙った。他に言葉が出てこなかったからだ。
その言葉は、半分が本当で半分が嘘だった。酷いと思ってるし、それ以上にそうしたかったとも思っている。それをするのは、自分しかいないのだとも思う。
あべこべだった。やりたいしやりたくない。離れたくないのに、そうしなきゃいけないと感じている。結局のところ、この感情に答えなどないのだろう。
そのどれもがアイの本当の気持ちだった。彼の本当の気持ちだった。
だから、これはその結果の一つでしかないのだ。
茫洋と座り込んだアイの目の前には、真っ白な丘が広がっていた。
山の上にあって、全てが見渡せる場所だった。けれど今や色彩豊かな情景など何処にもない、そこはまるで墓場にするために生まれたような土地だった。
元は肥沃であっただろう丘は荒れ果て、化石のような切株が雪下ろしの風に鳴いている。丸裸になった斜面に生き物の姿はなく、死者は雪の下に埋もれて息さえしない。
懐かしくも、寂しい光景だった。48の墓がそこにはあって、今はもう一つ、新しい墓標がそこに立っていた。
木片を繋ぎ合わせたものに有り合わせの墓石を足した、簡素な墓標。墓を作ること自体久しぶりすぎて、こんなのしか作れなかった。
当の本人は、ただの目印にそんな気を遣う必要なんてないと言っていたけれど。やはり、せめて見栄えを良くしたいという気持ちはあった。
「本当に酷いです。私には散々生き返れとか、一緒にいてくれとか言ってたくせに。いざ自分がそうなったらこうですもの。潔すぎます」
乾いた木切れが擦れるような笑いを浮かべて、でもすぐに元に戻った。沈黙の時間だけが、刻々と過ぎて行った。
ただひたすらに、切ないだけの時間だった。悲しいような惑うような、眠いような痛いような、愛しいような、つらいような……
飄々とした木枯らしが頬を撫でる。乾いた音は空しく響き、辺りに寂しさだけをもたらす。
アリス・カラー。
それが、今ここに眠っている者の名だった。
死者は死なない。人は死んでも終わらない。そんなこの世の不文律は、世界を滅ぼす魔弾となった男でさえも例外ではなかった。
彼は死者の生を善しとすることはなかった。生き返るつもりも、彼にはなかった。
彼は奇跡を望まなかった。幾度も繰り返される生と死に慣れればそれは普通のことになってしまうと、生と死を同じものにはしたくないと。
そう彼は言って、笑顔で自身の終わりを告げた。
それは奇しくも、かつてアイがアリスに語った言葉そのままだった。
二人を分かつ"いつか"は、こんなにも簡単に訪れた。
「でも、別にいいです。私もすぐ、そちらに行きますから。ええ、逃がすつもりなんてありませんとも」
変わらぬ少女の顔に、しかし老いきった死の気配を漂わせて。
アイ・アスティンという老女は、悪戯っぽい笑みを、小さく小さく浮かべた。
全てを終えるのにこの地を選んだのは、やはりここがアイにとって始まりの場所だったからだ。
ここにはみんなが眠っていた。キズナ・アスティン、ハナ・アスティン、ヨーキにアンナにユート、ヨアンナ、ユキ、アベル、キヨン、カイン……
全てはここから始まった。
だから、最期もここで迎えたいと、アイはそう思ったのだ。
人生が閉じるその瞬間、最も思い出深い風景の中に身を置きたいというささやかな願い。
アリスを付き合せてしまったのは、まあ別にいいだろう。自分に看取らせた代金だと思えばいいのだ。精々あっちでネタにしてからかってやる。
「……ふふ。そう考えたら、なんだか楽しみになってきましたね」
雲の切れ間から差し込む夕日の中で、彼女はそっと目を閉じた。
その時が、何故か漠然とした確信となって去来するその瞬間が訪れる時を、心穏やかに待つために。
……何も。
何も、見えなくなった。
閉じた視界に映るのは一面の闇だけで、耳に聞こえるのは風と雪の音だけ。時折響く落雪だけが、黒の世界に一抹のコントラストを成していた。
どさ、どさ。耳に届く。
ずさ、ずさ。音が聞こえる。
凪の水面のように穏やかな静寂の中で、アイはとりとめなく、これまでを思い返していた。
あれから、色々なことがあった。
世界が救われて、世界に救われて。世界を救う男と世界を救う女神の対峙の果てに、自分の体は死者のそれとなって。
それから、本当に色々なことがあった。
アイは、アリスとたった二人で世界を旅した。見知らぬ光景、聞き覚えのない言葉、知りもしなかった人々の声。そうして二人は地平線から水平線まで隅から隅まで旅をして、荒野を奔り続けた。
世界は最早満杯だ。あの世も既に行き詰った。けれど人々はそれでも懸命に今日を生き、溢れんばかりの活力で明日を謳歌していた。
そしてそれはアイとアリスも同じく。死に絶えた世界の死ぬように生きる二人は、それでも笑顔と共に生きた。
春には二人でそよぐ風と満開の花を見つめ。
夏には涼やかな湖畔で透き通るような鏡の水面を眺め。
秋には紅が満ちる山岳をゆっくりと歩き。
冬には二人より添い過ごした。
十年、二十年と時を重ね。移りゆく季節に心を偲ばせた。時にはユリーやスカーたちと連絡を取り、セリカの成長を共に喜んだ。ディーは相変わらず素直じゃなくて、意地悪なちょっかいをかけてくることもあったけど。みんなみんな、笑顔を浮かべていた。
ウッラとキリコも相変わらずで、オルタスの街をより良いものにしていこうと頑張っていた。それはかつてアイが夢見た、天国に一番近い光景だった。
ライオンさんにも何度か会った。死者になった自分にはファッションとしてじゃなく礼儀として仮面が必要だったので、色々見繕ってもらったりした。アリスとライオンさんはやけに気が合ったようで、アイに対する小言とかで散々盛り上がっていたことを柱の影から見ていたアイは知っている。覚えていやがれ。
ターニャとは結局、あの後再会することはなかった。生者の世界、黒面の向こう側に行ったターニャは、死してこちらの世界に渡ってくるはずではある。けど、アイと再会することはなかった。今はどこにいるのだろう。もしかしたら、まだ生きているのかもしれない。そうだったらいいなって思う。
ルンが移り住んだ海底都市や、ヴォルラスとハーディの定住する村にも行った。冬眠に入ったギーギーとも、一度だけ会うことができた。
思い返せば思い返すほどに、末期の僅かな時間ではキリがないほどの思い出がそこにはあった。
思索を巡らせ、思い出に浸り、ひとりの時間をアイは楽しく過ごした。
だからだろうか。
このあたりで、ようやく。
アイは何かがおかしいと気付いた。
顔を上げる。瞼を開く、その瞬間に。
「―――久しぶりだな、アイ」
―――声が。
声が、聞こえた。
雪の落ちる音はいつの間にか足音へと変じていて、それはアイのすぐ傍まで近寄っていた。
声、まだ若い男の。
ああ、それは。
それは、なんて懐かしい―――
「あ―――」
―――信じられないものを、見た。
頭にかかっていたもやが、一瞬で消し飛んだ。
目の前のそれに勢いよく手を伸ばしかけ、すぐにその手を引っ込めた。こわごわと指先で触れ、何度も躊躇ってからそっと手のひらを当てる。
それを、アイの目の前に立つ男は苦笑の響きで見守っていた。
瞼を開け、困惑と郷愁に揺れる瞳の奥が、深紅の光を煌めかせたと見えた一瞬。
アイは、男が誰であるのかを思い出していた。
封じられていた記憶の扉が開き、そこから流れ込んでくるのは、怒涛の奔流。
突如として訪れた驚愕と懐古の感情に、老いた少女の瞳に消え入りかけた命の炎が再び輝く。
そして男は、蘇った記憶と寸分違わぬ綺麗な声で―――
「60年ぶり、になるのか」
「……62年ぶりですよ、セイバーさん」
62年―――その時間を隔てて。
変わらぬ姿の男と、枯れ木のように朽ちゆく少女は見つめ合った。
たった二人。
この、雪の降る丘の上で。
▼ ▼ ▼
「なんと言いますか、あなたは本当に何も変わらないんですね」
「お前に言われたくはないぞ、アイ。見てくれどころかその性格まで全然変わってねえじゃねえか」
「こっちこそ、あなたに言われたくありませんよ」
語る二人の姿は、あの日のままだった。
幻想の彼と、生きているように死んでいるアイの体。死者の肉体は育つことなく、ただ朽ちるのみでその原型を保っていた。
変わってなどいなかった。
何も、何一つとして。
桃の香りが揺蕩うあの街で出会ってから、ずっと、ずっと。
「不思議なこともあったものですね……今まですっかり忘れてたのに、あなたに会ったら全部思い出しちゃいました」
「そこはそれ、俺のお手並み拝見ってな。これでも一応は神格だったんだ、これくらい何てことないさ」
「それ、全然似合ってませんよ、セイバーさん」
「だな。言ってて自分で嫌になってくる」
一瞬にして去来する、忘却に埋葬されていた朱の記憶。
それはあまりに濃密に、老女の心をかき乱した。
「それで、俺が来た理由なんだけどな」
「ええ、分かってます。私のため、ですね」
男の言葉に、アイは一人満足げな頷きを返した。
潤んだ瞳が、年相応の少女を思わせて無邪気に微笑む。
「あなたがこうして私の元を訪れた理由。それは、私の人生がどうなったかを知るため」
「……」
「……ふふ。ちょっとだけ、身贔屓が過ぎる予想でしたか?」
「いや、その通りだよ」
黒い影を前にした独り語り、そんな風情のアイに、男は苦笑したような響きを返す。
ずっと心残りだったこと。自分がいなくなった後、果たして彼女はどのような生を歩んだのか。
呪いのような夢を抱いて、果ての無い願いを抱いて。世界を救う化け物として在らんと祈った少女が、どう生きたのか。
……人として生きることは叶ったのかを、彼は知りたかったのだ。
「だから、聞かせてくれないか。お前がどう生きたのかを」
「ええ、喜んで」
そしてアイは語り出した。
これまでの日々を、想いを、「諦めるまで諦めない」と語った夢の結末を、夢の中で喋り続けた。
誰と出会い、誰と別れ、何を思い、何を為し、何を手に入れ失ったかを。
名も無き丘で、アイは一つの夢を持った。
死者の国で、アイは反証と何より強い生きる意志を見た。
閉ざされた学園で、アイは幾人もの友人と夢の確たる形を得た。
世界に至る塔の果てで、アイは遍く夢の形を確かめた。
そして、最果ての封印都市で。
アイは何よりも、言葉にできないほどに大切な人と出会った。
抱いてしまった夢を捨て、人として共に歩みたいと願うほどに大切な人と。
同じ歩幅で、同じ方向に、相反する願いを抱いたまま。
いつかが二人を分かつまで、共に歩んだ人(アリス)と。
アイの辿った、生のすべて。
セイバーはまるで父か兄のように聞いてくれた。感想の一言すら返さず。
全てを聞き終えて、彼はただ「頑張ったんだな」とだけ、言ってくれた。
まるでシャボン玉でも吐いているような気分だった。
喋る度に、話す度に、命の残り香が泡となって舞い上がる。
夢色の泡は夕陽の光の中で七色に輝いていた。
「普通だな」
セイバーはアイの人生をそう評した。
「そう、ですかね」
なんだか照れた。その言葉は、彼にしてみれば最上級の褒め言葉だと分かったから。
「ああ、普通だよ。本当に頑張ったんだな、お前」
だってほら、彼がちょっと笑っているのが、目に見えなくても分かるくらいなんだもの。
なんだか私もおかしくなって、ほんの少し笑みが零れた。
普通なのだ、アイが送ってきた人生は。
誰しもが夢を持ち、誰しもが現実に折り合いをつけ、諦め、挑戦し、出会いと別れを繰り返す。
波乱万丈の人生だったけど、言葉にしてみればこんなに当たり前のことばかり。
ああつまり。
アイは確かに、"人"としての生を全うすることができたのだと。
この時ようやく、そのことを認めることが、自分にもできたから。
「……悪かったな」
「え、なんですかいきなり」
「いや、最期を一緒にするのが俺なんかで悪かったなって」
「何を言ってるんですか。別に悪くなんかありませんよ」
「つっても、お前にだって男の一人や二人はいただろ」
「私にだって、って失礼ですね。まあ確かに、アリスさんっていうセイバーさんなんかと比べものにならないくらい素敵な男性がいましたけど」
「私を"埋めて"くれるのはセイバーさんじゃなきゃ、私、嫌ですよ?」
「……」
「だから、別に悪いことなんてないです」
「……お前、恥ずかしいことさらっと言うなよ」
「何むくれた顔で言ってるんですか、本当は嬉しいくせに。やーいセイバーさんのツンデレー」
「どこで覚えたそんな言葉」
そこで二人は、互いに笑った。
花が咲くような微笑ではない。もっぱら悪童がするような、屈託のない笑顔。
にへら、と。おいおいお前馬鹿じゃねーかと。そんな他愛もない雑談に興じる友人同士がするような。
どこまでも似た者同士の二人が交わす、それは末期の世間話。
―――ああ、夢だ。
アイは再びそう思う。幻想的な夢の中で、更に夢の泡を吐く。
夢を見ている。永遠の刹那の中で見る夢。
ふっと胸に理解が落ちる。全ては夢物語だったのだ。
起きていても、寝ていても、死者は夢を見続ける。とてもとても綺麗な夢。
だけどどちらも口にしない。何故ならそう約束したから。
世界は留まることなく移り変わっていく。人の想いなどお構いなしに。だけどそれでも、自分たちは変わらずここに在った。
悲しさなんてないから、せめてただ微笑もう。この一瞬を魂に刻み込むために。
刹那に過ぎゆく、この時間を忘れないように。
「……ねえ、セイバーさん」
まどろみの気配。眠りが必要なわけでも眠いわけでもないのに瞼が重くなってくる。きっと安心がそうさせるのだろう。
「なんだよ」
「もう一度、あなたの顔をよく見せてはもらえませんか?」
「……」
あ、照れてる。
セイバーが何を考えているのか手に取るように分かった。最初に少し照れて、次に冗談でも言って逃げようとしてる。
彼の考えてることなんてお見通しなのだ。
「ね、セイバーさん」
でも今はそうしてほしくなかった。アイはどうしても、もう一度彼の顔が見たかった。
あの日の彼を、目にしたかった。
死者の傷んだ瞳では、その輪郭を茫としか捉えることができなかったから。
「……ほら、これならどうだ」
果たして、セイバーはそれに応えてくれた。
目の前には綺麗な彼の顔。くしゃりと頭を撫でる感触が伝わって、鼻の頭がくっつきそうなくらい近くに寄った。
一体自分の何が伝わったというのか、とても素直に聞いてくれた。
胸の奥がふわりと膨らむ。顔が勝手に笑顔になる。
「……こんなんでいいのかよ」
「ふふふ、ありがとうございます。あ、でも出来ればもう少し……」
「なんでだよ、もういいだろ」
「だって、セイバーさんってばぶっきらぼうなんですもん。せっかく綺麗なお顔をしてるんですから、もうちょっと優しい笑顔を浮かべてくれてもいいのに」
「あのな、男に綺麗は禁句なんだよ」
「もう、そんなこと言って」
思えば彼はいつもそうだった。
何が気に入らないのか仏頂面ばかり浮かべて、自分に笑いかけてくれたことなんて数えるほどしかない。
本当に惜しいものだ。
もう少し笑顔が素敵なところを見せてくれていたら、もしかしたら……
いいえ、いいえ。それは言わないでおこう。
全てはもう過ぎ去って、"もしも"なんて入り込む余地などないのだから。
だから今は、このままで。
「なあ、アイ」
「はい、なんでしょう」
「お前、幸せだったか?」
穏やかな声だった。
ふと問いかけるような、何気ない日常の語りかけ。
お互い答えが分かりきった、それはただの確認だった。
「はい」
だから、私は笑顔を返す。とびっきりの笑顔を。
これまで歩んできた人生の全て。その足跡を示すかのように、ほころぶような笑顔で。
「私は、とても、幸せでしたよ」
幸せだった。
命を失くし、夢を失くし、腐り行く肉体に縋って生きてきたのだとしても。
それでも幸せだと胸を張れた。反省はあっても後悔はなかった。
はにかんだ笑みで、胸をはってそう答える。
私は、今まで過ごしてきた人生の全てを、誇るのだ。
だから、どうか。
74年にも及んだ、この人生を。
62年にも及んだ、この想いを。
どうか、彼にも伝わってほしいと願って。
「……そうか」
万感の思いを噛みしめるようにセイバーは呟く。そして、立ち上がる気配がした。
「お前は……世界を救おうとしたお前は、それでも"お前"になることができたんだな」
「ええ。私は私に……"アイ・アスティン"になれました。そして、そう生きることも」
彼の手が伸ばされるのを、アイは衰えた感覚器官でそれでも確かに感じ取った。
暖かな手のひらが、頭に触れる。乱暴な手つきではない、慈しむような指先が、アイの髪を小さく梳いた。
くすぐったい。まだそう感じられることが、素直に嬉しかった。
閉じた瞳に哀愁はない。穏やかな少女のように笑みながら、同時に全てを終えた老女のように小さな昔日の思い出を抱えていた。
ここに、夢物語は幕を下ろす。
だから、その前に。
「ねえ、レンさん。最期にもう一つだけ、お願いしてもいいですか?」
「……ああ。言ってみろ」
「では、御言葉に甘えて」
その前に。
アイはなんでもない風に、世間話でもするかのように。
最後にぽつりと、ひとつだけ呟いた。
「一緒にいてください。私が消える、その瞬間まで」
セイバーは―――蓮は、答えることはなかった。
あとは、お互いに言葉もなかった。
言葉にする必要もなかった。それは、言わずと分かりきったことだったから。
夕陽に浮かぶ影のように、蓮はアイの前に立ち続けた。
それが、どうしようもなく暖かだと、アイは思った。
言葉はない。
ただ、慈しむ指先で、アイの頬を一度だけ撫でる。
そして、その身に宿った大きな大きな"力"を、ほんの少しだけ指先に籠めた。
眩い光が乱舞することはなかった。
大地を割るような轟音が響くこともなかった。
それは単に、電灯の火が落ちるように。
ただ、それだけのことだった。
それきりだった。アイは何も言わなかった。蓮にも言葉はなかった。
全てを見届けた彼は、静かに踵を返し、赤く染まる光の中へと分け入るように立ち去った。
遠ざかっていく足音。
小さくなっていく鼓動。
光となって消えていく姿。
共に脳裏に思い描く光景は、過ぎ去りし日の夕陽に染まっていた。
―――ありがとう。
それは、果たしてどちらが言ったのだろうか。
やがて、夜の帳が名も無き丘を包み込んだ時。
神さまの青年は既に消え去り。
ひとつの世界となった少女は、眠るように胸の鼓動を止めていた。
▼ ▼ ▼
神様は月曜に世界を作った。
神様は火曜に整頓と渾沌を極めた。
神様は水曜に細々とした数値をいじった。
神様は木曜に時間が流れるのを許した。
神様は金曜にこの世を隅々まで見た。
神様は土曜に休んだ。
そして、神様は日曜に世界を捨てた。
それでも神話を愛する人は、地に落とされて天を思った。
斯く在れかしと望まれて、「そんなものになりたくなかった」と涙を流す神を見て。
いつしか夢となった自分を捨て去り、ただ人たらんと地に足つけて歩き出す。
いずれ、人と神は袂を分かつだろう。
生と死とを切り離し、夢と人とを引き離し、世界は月曜を跨ぐだろう。
天球の果ては未だ遠く、栄光の日が訪れることはないけれど。
七曜を巡った最果ての場所で。
神さま(レン)は世界(アイ)を救ったのだ。
世界(ひと)が眠りについた、日曜の日に。
神さまはもう、どこにもいない。
【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣-/アイ・アスティン&藤井蓮 No Where】
投下を終了します。これで当企画は完結になります。
<削除>
投下乙
怒涛のエピローグラッシュおつ
マッキーだからこそ言える何いってんだお前めちゃくちゃ好きなんだけどさー
そこからのアイアリスでふふっとさせて
最後の話の最初の方で、このやろう、神ないの文字通りエピローグを書きやがったと思わせてからの
Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣を通した上での神ないの、Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣のアイとレンの最後を
書きやっがって……
アイのお願い、前の最終回も思い出させてにくい……
神様のいない日曜日。神様といた日曜日
うむ。うむ
完結お疲れ様でした。
企画主さんの音沙汰がなくなった企画を最後まで完走させるというのは並大抵のことではないですし、それを成し遂げた氏には尊敬の念しかないです。
少女たちの生き様とそれを導いた英雄たち、幻想的な世界観、どれも素晴らしかったです
エピローグも未来への希望だったり仄かな寂しさの残る終わりだったりとそれぞれの結末が描写されておりとても読み応えがありました。
また氏の作品にどこかでお目にかかれることを祈っております。
改めて、完結本当にお疲れ様でした。
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