マザリネット
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
> 7人の姪たちはパリ宮廷に迎えられた時期もばらばらで、宮廷にやってきた時の年齢は7歳から13歳と、いずれも幼い少女のときだった。
>マザランが彼女たちを呼び寄せたのには、いくつかの理由があった。
>まず、マザランは信用出来ないフランスの貴族や宮廷人たちばかりに囲まれて暮らす生活に、精神的に疲弊していた。
>家族に囲まれて安心して暮らし、秘密を打ち明ける相手が必要だったのである。
> 2つ目の理由として、自分の甥や姪たちを利用して、フランスの社会・文化における自らの足跡をより強固に遺したいとの考えがあった。
>聖職者だった彼は嫡出子を持つことは出来ず、従って自らがフランスで築いた地位と威信を受け継ぐ血縁者は甥と姪だけだったのである。
> 姪たちはパリ宮廷に来ると、ルイ14世の母親アンヌ・ドートリッシュが住まう翼に引き取られて養育された。
>アンヌ王太后は何人かの娘たちに、パレ・ロワイヤルでルイ14世やその弟のオルレアン公(ムッシュー)と一緒に勉強することを許した。
>アンヌは寵愛の証として、マザランの姪たちを「プランセス・デュ・サン(Princesse du sang, フランス王族の娘たち)」と同じように扱った。
(中略)
>"Voil��� des petites demoiselles qui pr���sentement ne sont point riches,
>mais qui bient���t auront de beaux ch���teaux, de bonnes rentes, de belles pierreries,
>de bonne vaisselle d'argent, et peut-���tre de grandes dignit���s […]"
>「この令嬢たちは今でこそ金持ちではありませんが、すぐに華美な城の主となり、結構な収入や貴重な宝石、
>たくさんの銀製の皿、そしておそらく高貴な身分を手に入れることでしょう[…]」
>マザリネットたちはその容姿でもパリの人々の間で興奮を呼び起こした。
>青白い肌とふくよかな体型が理想的な美貌と捉えられていた当時のフランスにおいて、
>彼女たちのイタリア人に典型的な浅黒い肌と細い体型は、人々の注目を集めた。
>フロンドの乱(1648年 - 1653年)の際にマザランを中傷するために書かれたマザリナードと呼ばれる風刺文やパンフレット類の中で、
>マザランの姪たちは「煤けた姫君」だとか「悪臭を放つ蛇ども」などと罵られている。
> マザリネットたちは、庇護者たる伯父のマザラン枢機卿の政治的な浮沈にその生活を大きく左右された。
>フロンドの乱の最中は、2度もパリを離れることを余儀なくされた。
>しかし乱が終息した後は、マザランは姪たちに高貴な花婿を用意し、贅沢な結婚披露宴を主宰することで、彼女たちに何不自由のない生活を保証した。
メダム(Mesdames)とは、一般的にはフランス語で成人女性への敬称であるマダムの複数形であるが、
18世紀の欧州においては、フランス王ルイ15世の娘たちを指す呼称として使われた。
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%A0
> フランスの宮廷儀礼においては、血統親王(プランス・デュ・サン)や貴族の未婚の娘はいかに高貴な生まれでも「ドモワゼル(Demoiselles)」と称したのに対し、
>フランス王の嫡出の女子、いわゆる「フィーユ・ド・フランス(フランスの娘)」はより高位の「ダーム(Dame)」と称する特権を生まれながらに認められていた。
> それゆえフィーユ・ド・フランスは、マダムの敬称の後に、自分の洗礼名を名乗るか、
>何らかの称号を所有していればその称号を名乗るかした。
>これはフィーユ・ド・フランスのうち、最年長の者を除いて全員に共通する慣例だった。
> 最年長の者だけは洗礼名を付け加える必要が無く、単に「マダム(Madame)」と言えば彼女のことを指す慣わしになっていた。
>一方で、(ルイ15世時代にはいなかったが)国王の最年長の弟の妻も、単に「マダム」とだけ称する慣例であったため、
>重複を避けるべく、王の未婚の娘のうちの最年長者は、「マダム・ロワイヤル(王家のマダム)」と呼ばれたり、
>ルイ14世時代は「ラ・プティット・マダム(la Petite Madame、小さなマダム)」、
>ルイ16世時代は「マダム・フィーユ・ド・ロワ(Madame Fille du Roi、王の娘たるマダム)」と称したりした。