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大東亜戦争

1 NAME :2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争

265 NAME :2017/08/11(金) 22:29:26
【戦争を考える】日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%82%92%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%80%91%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8b%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ae%e6%ae%ba%e5%ae%b3%e3%82%92%e8%a8%bc%e8%a8%80%e3%81%97%e3%81%9f98%e6%ad%b3%e3%80%8c%e3%82%84%e3%82%8a%e6%ae%8b%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%80%8d/ar-AApOuiY#page=2

沖縄戦経験者の元日本兵、飯田直次郎さん(98)は、昨年ごろから、住民に対し悪行を働いた海軍の軍曹を殺害したことを証言し始めた。日本兵による日本兵の殺害に関する証言は極めて珍しい。 © 週刊女性PRIME 教師になりたかったが徴兵され「人殺しの練習ばかり」で夢破れたと話す飯田さん

飯田さんは1944年、東部第六二師団下田部隊に入隊し、沖縄へ向かった。 それまでは教育部隊に所属、中国戦線に6年半、派兵された。いったん本土へ戻ったときに結婚。半年後に再び派遣されるが、このとき、妻は身ごもっていた。「いつ召集がくるかわからないから、妻も覚悟のうえだったはず。それが当たり前でした」 沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。飯田さんが沖縄に派遣されたのは、アメリカ軍の潜水艦攻撃が激しくなったためだ。「最初は台湾に行くはずでしたが、途中の下関で船が止まって、別の部隊が台湾へ。そのため、私たちの部隊は沖縄に行くことになったんです」

 このころ、すでに飯田さんは“日本が負ける”と思っていたという。なぜか。「最後に来た部隊は竹槍(たけやり)を持っていました。銃がないんです。“ああ、これはダメだな”とあきらめました」 11月末、飯田さんらは那覇に上陸した。識名の守備軍として配備されたが、那覇は10月10日の大空襲ですでに廃墟になっていた。 その後、飯田さんは沖縄戦最後の激戦地・摩文仁村(現在の糸満市)に移動。ここで「佐々木」という海軍の軍曹を殺害した。いったいどういうことか。

 ’45年6月ごろ、飯田さんは、一緒に逃げてきた日本海軍兵や周辺住民と過ごすなど交流があった。「食糧が少なく、餓死した人も多い。でも、住民とは仲よくやっていました。部隊には軍から鯨の缶詰の配給がありましたから、それを住民にも配った。私たちは住民からサツマイモなどをもらって。イモの葉っぱは常食でしたよ」 しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。

「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」 ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」 そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。

 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」 飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。 この佐々木殺害の件について、飯田さんは2年前から証言するようになった。 関係者がほとんど亡くなっているということもあるが、「やり残したこと」として、記録に残すことを決めた。

「本当は誰にも話さず、心に秘めて亡くなろうと思ったんです。日本人同士の争いは恥ではないかと。でも、そのことを知っている人はもう私しかいない」 飯田さんは戦後2年たって実家へ戻った。その後、これまでに37回、沖縄へ行き慰霊の旅を続けている。

 戦友から寄付を募り、部隊が全滅した場所に慰霊碑も建てた。 飯田さんはアメリカ軍から逃げる牧港付近で、背後から撃たれた。火炎放射器によって100人ほどいた兵隊はほとんど焼死。生き残った飯田さんは、そのときの銃弾がまだ身体の中にある。傷は、沖縄戦の悲劇を物語り、日本兵による日本兵の殺害は、貴重な証言となっている。「沖縄ではいろんなことをした。嫌な思い出は残っているけど、いい思い出は何もないよ。戦争は勝っても負けてもよくない」 取材・文/渋井哲也 ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)

266 NAME :2017/08/16(水) 00:13:03
【終戦の日】
「祖国のため命かけた大叔父の生きた証しを」インパール戦で戦病死したはずが実は特務機関に? 足跡追うも手がかりなく…
2017.8.15 16:30更新
http://www.sankei.com/west/news/170815/wst1708150055-n1.html

「大叔父は戦地でどんな最期を迎えたのか」。東京都練馬区の澤井園子さん(48)は、戦後72年がたった今もその足跡を追い続けている。大叔父の神居達(かみい・とおる)さんは、第二次大戦時にビルマ(現ミャンマー)で多大な犠牲者を出した「インパール作戦」で戦病死したとされたが、その後、別動隊にいた可能性が浮上し、最期の様子が不明となった。それから8年間にわたり調査を続けているが、真実は謎のまま。過ぎゆく時間を感じながら、大叔父の生きた証しを探している。

「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろすも…

 澤井さんの祖父の弟である神居さんは、軍歴を記した兵籍簿などによると、昭和16年に立命館大を中退し、18年4月に召集され、陸軍歩兵60連隊の機関銃中隊の一員としてインパール作戦に参加。19年5月にインド・アッサム州から約700キロ離れた軍司令部があるビルマ・メイミョーに搬送され、7月に26歳で戦病死したとされる。

 一方、平成16年12月、64歳で亡くなった澤井さんの母は生前、「大好きだった叔父さんが戦死したビルマへ慰霊に行きたい」と口癖のように語っていた。 「母には親孝行ができなかった。せめて代わりに供養しよう」。澤井さんは、育児に一段落ついた21年から大叔父の足取りを追い始め、22年2月に戦友会のメンバーとともにビルマを訪問。大叔父が亡くなったとされる地で手を合わせ、「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろした。

生還者の誰もが「知らない」と

 ところが、ここから大叔父の謎をめぐる“彷徨(ほうこう)”が始まった。 慰霊訪問後、澤井さんは大叔父が所属したとされた機関銃中隊の生還者2人と面会したが、いずれも大叔父のことを「知らない」と断言した。 その後、複数のビルマからの生還者にも会ったが、下士官だった大叔父が軍司令部がある地に運ばれて亡くなることは「あり得ない」と指摘された。軍医将校だった生還者には「別の支援ルートがあった特務機関に所属していたのならあり得る」と教えられた。

 調査を進めると、大学で大叔父の1年先輩だった人物が、日本軍の対インド工作を担った特務機関「光機関」に所属し、ビルマに派遣されていたことが判明。その人の日記に、光機関から大学の後輩を5人ほど選んで連れてくるよう要請を受けたとの記述があり、大叔父のビルマ入りの時期と重なっていた。 また、大叔父の死亡者調書を作成した人物が、光機関の将校だったこともわかった。光機関の生還者の手記には「敗戦時に全機関員の軍歴を改竄(かいざん)した」との記述があった。 大叔父は英語に堪能で、ビルマに赴く前、家族に「通訳をする」と話していた。澤井さんは、大叔父が光機関に所属し、日本軍とインド国民軍をつなぐ任務に就いていたのでは-という仮説を立てたが、確証は得られない。

手がかりが年々少なくなっていく中で

 調査を始めて8年。旧日本軍関係者や戦史の専門家ら100人以上に会ったが、大学の専門家に門前払いされるなど、調査は簡単には進まなかった。一方で「素人の私がここまで来れたのは、多くの方の優しさとご縁があったから」との思いもある。 澤井さんは大叔父の調査過程をブログ「ミャンマーに思いを寄せて」に公開してきたが、知り合った旧軍関係者もほとんどが亡くなり、手がかりは年々少なくなっている。 「大叔父は祖国のために命をかけたのに、『そんな人はいない』と存在すら認められていないことになっている。だから、何とか身内の私が大叔父の生きた証しを見つけたいんです」

267 NAME :2017/08/16(水) 00:15:43
【終戦の日】
反天連デモに抗議の声200人 「帰れ!」「つぶせ!」靖国神社近くで飛び交う罵声
2017.8.15 20:10更新
http://www.sankei.com/affairs/news/170815/afr1708150018-n1.html

72回目の「終戦の日」を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた東京都千代田区の日本武道館からほど近い九段下の交差点に、右派系団体のメンバーら約200人が集結した。毎年8月15日に靖国神社近くで「天皇制いらない」などとシュプレヒコールを上げてデモ行進する反天皇制運動連絡会(反天連)のメンバーに抗議する、いわゆる「カウンター」と呼ばれる人たち。英霊を慰める終戦の日、靖国神社近くではシュプレヒコールや怒号が飛び交った。 午後5時ごろ、九段下交差点を通りかかった反天連のデモ隊約80人は口々に「天皇制反対」「安倍はやめろ」とシュプレヒコールを繰り返しながら前進。これをかき消すように交差点そばの歩道に陣取った「行動する保守運動」のメンバーら約200人が「帰れ」「反天連つぶせ」「国賊」などと怒号を上げて抗議した。

 警視庁は一時、交通を遮断し、歩行者をくぎ付けにする方法でデモ隊を通過させた。デモ行進の際、所々で「行動する保守運動」以外の右翼団体の関係者らが怒号を浴びせる中、大きな混乱もなくデモ隊はデモを終えた。 日本第一党の桜井誠党首(45)は「数の問題ではないが、今回の反天連のデモ隊は前年より減って70〜80人ほどだった。私たち抗議運動は当初、数十人で始めたが、今はこれだけの人が抗議の声を上げるようになった」などと演説すると、沿道から「桜井」コールが起こった。(WEB編集チーム)

268 NAME :2017/09/02(土) 21:33:59
GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/ghq%e3%81%ab%e5%90%9b%e8%87%a8%e3%81%97%e3%81%9f%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%81%ae%e6%84%9a%e5%b0%86%e3%81%b6%e3%82%8a/ar-AAqKZFS?OCID=HPDHP

連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。

仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。 しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。 1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。 直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。 
この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。 一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。 10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。 “Where is Kim Buck Tooth?”(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)

269 NAME :2017/09/02(土) 21:34:46
ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。 中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。 マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。 1950年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。 体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。 このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。 マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。 度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。

宇山卓栄(うやま・たくえい) 1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。(写真=時事通信フォト)

270 NAME :2018/01/14(日) 00:49:22
私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなしに攻めて戦争を起こした」「日本は残虐な悪い国だ」ということを新聞でも、テレビでも繰り返し教わってきました。でも、今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の常識とは真逆とも言える証言が、47年公開を禁じられたフーヴァー元大統領の回顧録から次々と浮かび上がりました。

ハル・ノート、原爆投下、終戦…アメリカではこの証言をもとに、歴史の見方が、世界の見方が少しずつ変わり始めているのに、日本の大手メディアはいっこうにこの事実を大きく取り上げてくれません。太平洋戦争に隠されたその大嘘の数々とはどのようなものだったのか?
http://www.worldforecast.jp/lp/fukota/fb.html

271 NAME :2018/02/17(土) 01:27:40
チャーチル元英首相、見誤った日本観 マレー作戦を予測→日本軍を過小評価しシンガポール陥落
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%81%e3%83%ab%e5%85%83%e8%8b%b1%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%80%81%e8%a6%8b%e8%aa%a4%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%a6%b3-%e3%83%9e%e3%83%ac%e3%83%bc%e4%bd%9c%e6%88%a6%e3%82%92%e4%ba%88%e6%b8%ac%e2%86%92%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%bb%8d%e3%82%92%e9%81%8e%e5%b0%8f%e8%a9%95%e4%be%a1%e3%81%97%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%ab%e9%99%a5%e8%90%bd/ar-BBJbR1e?ocid=iehp#page=2

【ロンドン=岡部伸】日米開戦の発端となった1941年12月8日の真珠湾攻撃とほぼ同時にマレー半島に日本軍が上陸し、わずか55日間で南下した後、シンガポールを陥落させてから15日で76年を迎えた。当時のチャーチル英首相が、マレー作戦をはじめ日本の軍事作戦を予測する情報がありながら日本軍の実力を過小評価し、「大英帝国史上最大の悲劇であり、大惨事」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)を招いたことが、英国立公文書館所蔵の英内閣合同情報小委員会報告書などで示されていた。チャーチルの誤った日本観が英国による植民地支配の終焉の始まりとなったといえそうだ。

 同報告書によると、米ワシントンで日米交渉が佳境に入った1941年11月18日に同小委員会が開催され、「日本の意図」として、「日本政府は英米と戦火を交えるリスクを冒す決断に至っていないが、交渉が決裂すれば、英、米、オランダと戦端を開く進攻作戦を行う判断を迫られる」と日本の軍事作戦を予測した。

 進攻先として、「aタイbマレーc蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)dロシア(ソ連)沿海州」を挙げた上で、「日本は対英、おそらく対米開戦の予備的作戦として最初にタイに進駐する。タイ占領後、マレーさらに日本が最も不足している石油を求めて蘭印に進攻するだろう。日本の石油備蓄量は9カ月から12カ月分だからだ」と石油資源獲得目的で英領ボルネオから蘭印に進むと予測。一方、伝統的な敵であるロシア(ソ連)への進攻(北進)に対しては、「圧倒的な優位性がないため、極東ロシア軍が弱体化するまで据え置かれる」と否定した。

 さらに米国側が事実上の最後通告となるハル・ノートを出した2日後の同11月28日に開催した同小委員会では「日本軍が取る可能性のある軍事行動」と題して、「マレーと蘭印作戦を進めるため、タイへの進駐はほぼ確実。ワシントンでの交渉決裂直後に実行されるかもしれない」とタイ進駐が差し迫っていることを予測した。

272 NAME :2018/02/21(水) 02:42:41
なぜだ! 日本の侵略を受けた東南アジア諸国が日本を恨まない理由=中国メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%a0%ef%bc%81-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%be%b5%e7%95%a5%e3%82%92%e5%8f%97%e3%81%91%e3%81%9f%e6%9d%b1%e5%8d%97%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e8%ab%b8%e5%9b%bd%e3%81%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%82%92%e6%81%a8%e3%81%be%e3%81%aa%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBJlC3W?ocid=iehp#page=2

中国では歴史問題を理由に日本に対して反感を持つ人が数多く存在する。このような反日感情は中国や韓国で非常に根強く残っているが、東南アジア諸国では中韓ほどの反日感情は存在しないと言えるだろう。 中国メディアの今日頭条は18日、東南アジア諸国も中国と同じように日本に侵略されたというのに、なぜ日本を恨まないのかと疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、日本の閣僚が靖国神社に参拝したり、歴史教科書の内容を改定したりすると、中国や韓国では激しい反発の声があがると紹介する一方、反発の声は主に中韓からしかあがらず、東南アジア諸国からはほとんど聞こえてこないと指摘した。

 続けて、中国や韓国が日本による侵略に対して反発するのは当然のこととして、なぜ東南アジア諸国は反発しないのかと疑問を投げかけつつ、これは東南アジア諸国が当時置かれていた背景と大きな関係があると主張。そして、東南アジア諸国は日本による侵略を受けた時、欧米の植民地だったとし、「この点こそ中韓と大きく違っている点だ」と論じた。

 さらに記事は、日本は「欧米を追い出し、東南アジアを解放する」という名目で東南アジアに侵攻したがゆえに、当時の東南アジア諸国では日本が歓迎される存在となったと指摘。さらに、日本は欧米の植民地支配より東南アジアを上手に統治したため、恨みが生まれるどころかむしろ一種の感謝すら生じたと主張。これが東南アジア諸国で中韓ほどの反日感情は存在しない理由だと論じている。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

273 NAME :2018/04/18(水) 03:43:33
ヤルタ密約 チャーチル英首相、ソ連対日参戦1カ月前に情報漏らす ソ連への千島割譲、英連邦4カ国に
2018.4.17 22:51更新
http://www.sankei.com/world/news/180417/wor1804170043-n1.html

【ロンドン=岡部伸】ソ連に対日参戦の見返りに日本領土だった南樺太と千島列島を割譲するとした「ヤルタ密約」を3巨頭の一人として署名したチャーチル英首相がソ連侵攻1カ月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4カ国首脳に密約内容を極秘に明かしていたことが、英国立公文書館で見つかった英外交電報で分かった。

 同年2月に交わされたヤルタ密約は、ロシアがソ連時代から、日本固有の領土である北方領土の領有を主張する最有力根拠としてきたが、北方四島を含む千島列島のソ連領有に懸念を抱いたチャーチルが英連邦主要国に警戒を促したことをうかがわせる。 電報は1945年7月5日付。チャーチルから英自治領省(ドミニオン・オフィス)経由でカナダ、豪州、ニュージーランド、南アフリカ4カ国の首脳あてに送られた。

 駐重慶カナダ大使が中国政府筋から得たとする「ソ連は対日参戦の見返りに、クリール(千島)、南樺太、南満州鉄道、旅順、大連を得る」との情報について、カナダのキング首相が6月27日付で照会したものにチャーチル自らが回答した。電報は、ソ連の対日参戦の条件として(1)ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持(2)南樺太の「recovery」(回復)(3)千島列島の「acquisition」(獲得)-を明記。 そのうえで「われわれ3人はソ連の要求が日本が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した」などと米英ソ3首脳の密約を説明している。

 ヤルタ会談直後、チャーチルは、密約の流出を懸念して同年3月、英連邦諸国に伝えないように外務省に指示していた。しかし、戦後処理を話し合う同年7月17日〜8月2日のポツダム会談に向けて、トルーマン米大統領らが出発する直前に、英連邦主要国に、情報提供していたことになる。 チャーチルは当時からアジアでの共産主義浸透をもくろむソ連を警戒しており、豪州やニュージーランドに密約を事前説明することで、降伏勧告を含む対日政策で英連邦の結束を促したとみられる。 また電報原本には、千島列島の獲得が記述された左部分に赤線がひかれており、千島列島の扱いについて英政府内で重要な懸案として論議された形跡を示唆している。

カリフォルニア大学サンタバーバラ校の長谷川毅名誉教授(日露関係史)は、「英国は、日本に降伏を迫る上で、米国が主張する国体の否定(皇室解体)を和らげることを望んでいた。一方で、豪州やニュージーランドなどは過酷な和平条件を日本に要求しており、英連邦諸国をいかに説得するかの板挟みにあったのではないか」と指摘している。

【用語解説】ヤルタ密約 1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミア半島ヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相による連合国3カ国首脳会談が開かれた。ルーズベルトはソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられ、ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定、東西冷戦幕開けのきっかけにもなった。

274 NAME :2018/04/18(水) 03:45:53
ヤルタ密約 背景に透けるチャーチルの微妙な立場 戦後は一転「歴史的過ち」と批判
2018.4.17 22:52更新
http://www.sankei.com/world/news/180417/wor1804170044-n1.html

チャーチル英首相が英連邦主要国に、米英ソ3首脳によるヤルタ密約の内容を“漏らしていた”ことは、チャーチル自身の密約に対する微妙な立場をうかがわせている。実際、チャーチルは戦後、署名したものの自身を頭越しにした米ソ首脳の独断と釈明し、大西洋憲章とカイロ宣言で定めた「領土不拡大の原則」に反した歴史的“過ち”と認めている。

 密約をめぐって、英外務省は大戦終了約半年後の1946年2月、全在外公館に「ルーズベルトが米大統領の権限を越え、米議会の批准を得ずに署名しており、(南樺太と千島列島などの領土移転を決めた)合意の有効性について米国内で議論が起こるかもしれない」と疑問を呈し、「論議に巻き込まれないように注意すべきだ」と警告を発していたことが、英外交電報で判明している。

 また、米国内でも53年に当時のアイゼンハワー大統領らが、ルーズベルトが独断で決めたとして密約の無効を訴えたことで、同じく英政府にはからず独断で署名したチャーチルの責任を問う声も表面化した。 このため、チャーチルはイーデン外相あてに、「米ソ首脳が頭越しで決定した。自分はその場におらず、連合国の結束を乱したくなかったので署名した」と釈明する書簡を書いている。

英国はこれまで、ソ連・ロシアが北方四島を含む千島占有の根拠としてきた密約が米ソ主導で結ばれたこともあり、北方領土問題に対する立場も明瞭にしてこなかった。 日本の外務省は、こうした英国の姿勢について平成18(2006)年2月の国会答弁で、「わが国の認識を否定するものではない」とのみ答えている。 (ロンドン 岡部伸)


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