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大東亜戦争

1 NAME :2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争

255 NAME :2017/02/07(火) 21:14:35
【銀幕裏の声】
ほとんど特攻、海面すれすれまで急降下…機首引き上げた瞬間に敵艦乗員と目が合った 爆撃グラマンを振り切った男(下)
2017.2.7 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170207/wst1702070006-n1.html

映画「永遠の0(ゼロ)」で岡田准一が演じた零戦パイロット、宮部久蔵は卓越した技術で敵艦の艦砲射撃を交わすアクロバチックな操縦を見せた。「零戦パイロットばかりが命を懸けて戦っていたわけではないですよ」と語る元海軍艦上爆撃機「彗(すい)星(せい)」パイロット、大野徳兵衛さん(90)は急降下爆撃の際、海面すれすれまで高度を落とし敵艦に近づき爆弾を投下、機首を引き上げた瞬間、「艦橋にいる敵乗員と目が合った」と言う。アクロバチックな操縦技術を誇ったのは宮部のような戦闘機パイロットだけではなかった。「爆撃機パイロットの腕も凄かったんですよ。私は10回も不時着していますが…」。米軍機も恐れた“高速艦爆”パイロット、大野さんが戦闘機の護衛なし、彗星だけの特攻の真実を明かした。(戸津井康之)

地面に衝突する! 初めて目にした急降下訓練に茫然

 ラバウルの航空部隊で、九九式艦上爆撃機のパイロットとして激戦をくぐり抜けてきた大野さんは、いったん日本へ帰国。昭和19年5月、鈴鹿の航空基地へ友人と2人で向かった。 日本が開発した最新型の高速艦上爆撃機「彗星」の操縦訓練を受けるためだった。 「基地近くの駅に降り立ち、田んぼのあぜ道に腰を下ろして休憩していたときでした…」 2人の目の前で、攻撃機の急降下訓練が始まった。 機体はほぼ垂直に降下、地面に衝突するぐらいの低高度で機首を引き起こし、猛スピードで駆け抜けていった。 「降下の際はエンジンを絞るので、音が小さいのですが、機首を引き上げるときにはパワーを上げるので、もの凄い轟(ごう)音(おん)が周囲に響きます。壮絶な訓練が何回も私たちの目の前で繰り返されたんです」

 この機体こそ、大野さんたちがこれから操縦訓練を受ける最新型の艦爆「彗星」だった。

256 NAME :2017/02/19(日) 14:32:55
【満州文化物語(43)】
やっと再訪できた故郷 引き揚げ者の苦悩
2017.2.19 12:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/170217/prm1702170012-n1.html

「親孝行な」妹の死

 「これでやっと中国に行けるねぇ」 日中の国交が回復、平和友好条約も結ばれた後、ちばてつや(78)はあるパーティーで赤塚不二夫(平成20年に72歳で死去)から声を掛けられた。 「え? なぜ中国?」 いぶかるちばに、赤塚は回りをそっと見渡しながらこうささやいた。

 「実はオレ、中国にいたのよ。満州の奉天なんだ」 「えっ、オレも奉天ですよ」 ちばは驚いた。これまで赤塚からそんな話をまったく聞いたことがなかったからである。 終戦時、奉天で消防署に勤務していた赤塚の父親はソ連軍(当時)によってシベリアへ抑留された。残された母親と10歳の赤塚、3人の幼い弟妹の5人は昭和21年6月、命からがら長崎・佐世保港へと引き揚げてくる。そして、母の実家である奈良・郡山に着いた直後、生後6カ月の末の妹は息を引き取ってしまう。

赤塚はその痛恨事を“親孝行”と書いた。《かあちゃんは泣かなかった…ここまで苦労してきたのは、ただ子供たちをどんなことがあってもこの家まで送り届けなければ、という必死な思いがあったからだ…引き揚げの途中で子供に死なれでもしたら、かあちゃんは半狂乱になったかもしれない…そういう意味では本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった、とぼくは思っている》(『赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ』)

 母子がいったん手を離せば、もう二度とは会えない。迷子は即座に「死」を意味する極限状態。トイレも屋根も食べ物もろくにない無蓋(むがい)列車に揺られ、いつ襲われるか分からない道なき道を歩き、1年もかけてやっと引き揚げ船が出る港町まで着いたのだ。その間におびただしい死を見てきた。「生きながらえることができるなら」とわずかなお金で中国人に幼子を託してしまった親は数知れない。

「余計者」へのいじめ

 引き揚げ者は内地(日本)に帰ってからも苦労が絶えなかった。日本中が廃虚になり、住む場所も食べる物もないところへ、“厄介者”が加わるのだ。赤塚の一家も2間しかない実家に大人5人、子供3人がひしめき合う貧乏生活。代表作『おそ松くん』の登場人物はその時代に地元の悪ガキらと遊んだ記憶がモチーフになったという。

257 NAME :2017/02/19(日) 14:45:24
ちばは、引き揚げ時7歳。奉天から両親と幼い弟3人で、父の実家の千葉県の田舎へ来たが、なかなかなじめなかった。地元の子供たちからからかわれ、いじめられる。「だって、食糧難の時代に引き揚げ者なんて余計者でしょ。内地の人からすれば今ごろ帰ってきて『向こうにいてくれたほうがよかった』という話ですよ。(その後も)引き揚げの話はできるだけしなかった」

 昭和20年12月に茨城・神栖(かみす)へ引き揚げた古谷三敏(ふるや・みつとし)も「“満州、満州”って言われ、半年間もいじめられた。僕にもプライドがあるので『何で田舎の人間にバカにされるのか』と毎日ケンカですよ」

 新京にいた北見けんいち(76)は、自宅の2階から緑色のソ連軍の大きな戦車がぞろぞろと入ってくるのを見た。印刷会社勤務の父親は終戦直前の20年8月10日に“根こそぎ動員”で招集され、そのままシベリアに抑留されてしまう。

 それまでは裕福な暮らしだった。母親が経営する食堂は日本の軍人らで大繁盛。2歳のときには満鉄の特急「あじあ」に乗って里帰りしたり、北見を世話する乳母が2人もいて、冬でも温室栽培のトマトを食べていた。結局、父親は4年間シベリアに抑留される。引き揚げは野球の水原茂と同じ船だったという。

 森田拳次(77)の父親はいったんシベリア行きの列車に乗せられながらも、隙を見て脱走。肥だめなどに身を隠しながら、命からがら家族のところへたどり着く。東京へ引き揚げた森田と北見は同じ中学の先輩後輩になった。

涙あふれた自宅再訪

 戦後、満州からの引き揚げ者は、その事実を“封印”して生きてきた人が少なくない。「侵略者の子供」などと謂(い)われなき指弾をされたり、就職や結婚で差別を受けることもあった。 満州や大陸育ちの漫画家たちが、やっと「故郷」を訪問できるようになったのも1980年代以降のことである。それから何度も訪問を重ねた。

 ちばが幼少期を過ごした奉天の自宅は高い塀に囲まれた印刷会社の社宅で、当初はそのまま残っていた。「幼い僕は放浪癖があったのか、塀を乗り越えて1人で街へ繰り出し、よく親を慌てさせた。おいしい食べ物や家畜、石炭の匂いが懐かしくってね」 終戦時4歳だった北見は「覚えているはずがない」新京の自宅付近を再訪したとき「この辺りだ!」と叫んで立ち止まり、泣き出した。近所のお年寄りに尋ねてみたらそこで間違いない。「やっぱり僕にとっては満州が故郷だよね。いとおしさを感じますよ」

やがて彼らは「中国引揚げ漫画家の会」などをつくり、体験を次世代の若者や海外へ伝える活動を始める。自らの体験を漫画に描き、中国でも漫画展をやった。 言い出しっぺは森田だ。「日本と中国は政府レベルでやると角が立つけど、実際に話してみると、中国の若い人たちも日本の漫画が大好き。(作品を見て)涙を流す女子大生もいたんだから。やってよかったと思いましたね」。古谷も「われわれも年齢を重ねて、エンターテインメントだけじゃなくて、そろそろこうした体験を残したいとね」。

 ちばが言う。「今中国とはギクシャクした関係だけど、庶民同士は仲がいい。僕も父に中国人の親友がいてその助けで帰って来られた。どうして国同士になるとうまくやっていけないのかな? 確かに日本人はひどいことをしたかもしれないけど鉄道や病院も残した。そろそろお互い昔のことは忘れて先(将来)のことを考えませんか」=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

 ●古谷三敏 昭和11年生まれ。奉天で育ち、後に北京、北戴河へ。代表作は「ダメおやじ」「寄席芸人伝」など。 ●ちばてつや 昭和14年東京生まれ。奉天で育つ。代表作は「あしたのジョー」「のたり松太郎」など。 ●森田拳次 昭和14年東京生まれ、生後間もなく奉天へ。代表作は「丸出だめ夫」「ロボタン」など。 ●北見けんいち 昭和15年新京生まれ。母親が食堂を経営。代表作は「釣りバカ日誌」など。

258 NAME :2017/04/17(月) 21:50:51

1943.11 カイロ会談 カイロ宣言 無条件降伏後の日本に対する処理方針についての宣言。
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-089.html
アメリカ大統領F=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席蔣介石が署名
会談の議題が対日戦争
同月初めに日本の東条英機内閣が、大東亜共栄圏に組み込んだアジア諸国の代表を東京に招集して大東亜会議を開催し、11月6日には「大東亜共同宣言」を発表して、戦争目的を「アジア解放」に置いたことに対抗する意図


1945.2 ヤルタ会談
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-101.html
アメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳による戦後処理に関する会談。
ヤルタはロシアのクリミア半島にある保養地として有名
この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成された

259 NAME :2017/05/21(日) 20:07:48
インパール作戦から73年「感無量です」 インド北東部で追悼式典、日本側から40人参加
2017.5.20 21:12更新
http://www.sankei.com/world/news/170520/wor1705200062-n1.html

第二次大戦中、旧日本軍がインド北東部の攻略を目指して惨敗した「インパール作戦」から73年となり、日英両軍が戦闘を交えたインド北東部マニプール州インパールで20日、犠牲者の追悼式典が行われた。

 式典は70年を迎えた2014年から毎年実施。今回は戦地の1つとなった隣接するナガランド州当局者も初めて参加、日本側からは平松賢司大使やインド進出の企業関係者ら約40人が訪れた。

 英国から現地を訪れたマクドナルド昭子さん(66)は、父が旧日本軍の陸軍中尉としてインパール作戦に参加した。「この地で多くの人たちが命を落としたことを考えると、感無量です」と、涙を浮かべた。

 マクドナルドさんは、日英の和解と理解を目指す在英の民間団体、ビルマ作戦協会の代表を務めており「戦争の現場を歩くことは戦争を考える上で重要。今後も訪れたい」と話した。(共同)

260 NAME :2017/05/21(日) 23:55:13
「インパール作戦」追悼式典…日本兵3万人死亡
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%ab%e4%bd%9c%e6%88%a6%e3%80%8d%e8%bf%bd%e6%82%bc%e5%bc%8f%e5%85%b8%e2%80%a6%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%ef%bc%93%e4%b8%87%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1/ar-BBBlKnm?ocid=iehp

【インパール(インド北東部)=田尾茂樹】第2次世界大戦中の「インパール作戦」で戦死した犠牲者の追悼式典が20日、インド・インパールで開かれた。日本企業関係者や地元住民ら約100人が参加し、平和への誓いを新たにした。 戦争の悲劇を後世に語り継ぐ活動を行う地元の住民グループ「第2次世界大戦インパールキャンペーン財団」などが主催した。同作戦から70年が過ぎた3年前から、この時期に実施されている。

日本軍は同作戦で連合軍の拠点攻略を目指して英軍と激戦を繰り広げ、日本兵3万人以上が死亡したとされる。インパール郊外には、地元住民らが慰霊碑を設けている。この日の式典では、出席者が慰霊碑に花を手向けて黙とうした。財団設立人の一人、ユムナム・ラジェシュワルさん(40)は「二度と悲惨な戦争を繰り返さないために多くの人に関心を持ってもらいたい」と話した。

261 NAME :2017/07/07(金) 23:36:16
【銀幕裏の声】
武器持たぬ米衛生兵は“恐ろしい日本兵”も救助した-壮絶な沖縄戦の真実描く米大作「ハクソー・リッジ」(上)
2017.6.30 10:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄を戦場に日米が最大かつ“最終決戦”ともいえる壮絶な戦闘を繰り広げている。ハリウッド大作「ハクソー・リッジ」は、この戦闘の記録を一人の米衛生兵、デズモンド・ドスの視点から描いた異色作だ。「ドスのような一兵卒の記録は近年になって明らかになるケースが多く、米戦史の第一級の史料になってきています」。こう語るのは米大統領研究者で「アメリカ人の物語」(悠書館)の著者である大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さん。「ドスのような良心的兵役拒否者は米国では少数派。米国といえば戦争ばかりしている国と思いがちですが、少数ながら非戦・反戦の信念を持つ人が昔からいたのです」。戦場で戦うことを拒否したドスが、なぜ映画化される英雄となったのか。戦史の裏に隠された真実とは…。(戸津井康之)

武器を持たない戦争

 「汝、殺すことなかれ」 この教えを忠実に守り、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として育ったドス(アンドリュー・ガーフィールド)は典型的な良心的兵役拒否者だった。だが、友人たちが次々と出征するなか、「自分は武器を持たず、衛生兵として国に尽くしたい」と、両親の反対を押し切り、志願兵として陸軍に入隊する。ところが射撃訓練中も銃を手にすることを拒んだため、上官や同僚たちと対立。命令違反者として何度も除隊するよう宣告されるが、ドスの決意は固かった…。

火炎放射器で焼き尽くす米兵…実際は、日本兵を恐れてた

「南北戦争の時代、良心的兵役拒否者はお金を払うか代役を見つければ兵役を免れることができましたが、それができない人は軍営に行かねばなりませんでした。銃を持つことを拒否し、銃剣で刺された人もいます。あくまで米国で良心的兵役拒否者は少数派で、彼らが権利を獲得する過程には長い戦いの歴史があるのです」と西川さんは説明する。

恐るべき日本兵!?

 1945年4月、ドスが所属する米第77師団は沖縄へ向かう。実戦を前に意気揚々と戦地に到着したはずの隊員たちだったが、先発部隊が6回も日本兵に撃退されている現実を知り愕然とする。 大勢の米負傷兵を荷台に乗せたトラックとすれ違う際、「俺たちは、これからこんな屈強で恐ろしい日本兵と戦うのか…」とドスの同僚らが交わす会話が印象的だ。

 日本でも沖縄戦を題材にした映画がこれまで何作も撮られているが、その中では米兵に島の端まで追われた沖縄の人たちが手榴弾で集団自決するシーンなどが描かれていた。塹壕の中に日本兵を閉じ込め、火炎放射器で焼き尽くす米兵たちの姿は衝撃的で、映画を見た多くの日本人が「米兵は恐ろしい」と感じたはずだ。実際、日本兵はそう思いながら戦っていただろう。

「すぐ腕章を外せ! 日本兵に狙撃されるぞ!」

262 NAME :2017/07/07(金) 23:40:58
だが、この見方とは逆に、「ハクソー・リッジ」では米兵たちがいかに日本兵を恐れていたかが描かれていて興味深い。

戦場で問われる勇気とは

 日本兵に撃退された先輩の衛生兵が、戦場に向かうドスにこうアドバイスする。「すぐに赤十字の腕章をはずせ。目立つから日本兵に狙撃されるぞ!」 この戦場では衛生兵であっても米兵に変わりはない-。武器を持たないドスが実戦の戦場で兵士として通用するかどうかが突き付けられる場面だ。

 「ドスは武器を取る以外の戦いがあることを示そうとした。それは、銃を持たない勇気もあるという教訓のようにも思います」と西川さんは解説し、こう続けた。「トランプ大統領はオバマ元大統領と比較すると銃規制に消極的です。だからこそこの映画が今、公開される意味があるのでしょう。戦争映画では、銃を持つ勇気が称賛されがちですが、銃を持たない勇気もあるということをメル・ギブソン監督は描きたかったのでしょう」

武器を持たない衛生兵、ドスの“戦争”が遂(つい)に始まる。彼がハクソー・リッジで見た生き地獄とは…。

263 NAME :2017/07/07(金) 23:53:44
【銀幕裏の声】
神様、あともう一人だけ命を救わせて-日本兵も救助した米衛生兵、弾が飛び交う戦場に留まり…「ハクソー・リッジ」(下)
2017.7.5 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄本島に米軍が上陸。日米は最大かつ“最終決戦”ともいえる沖縄戦を展開していた。映画「ハクソー・リッジ」の舞台は日本名「前田高地」。沖縄本島を死守するため、日本兵はこの地に塹壕を築き、米軍の攻撃を何度も撃退していた。そんな激戦地で、アンドリュー・ガーフィールド演じる主人公、米衛生兵のデズモンド・ドスは「戦争は命を奪うが、僕は命を救う」という信念に基づき、銃を手に持たず独自の戦いに挑もうとしていた。難攻不落のハクソー・リッジでドスが見た生き地獄とは…。(戸津井康之)

敵兵も救う信念

 高さ150メートルの断崖絶壁。その崖を登り切った頂上に日本の前線基地があった。のこぎり(ハクソー)の歯のようなギサギザの形状をした崖(リッジ)…。沖縄本島の激戦地となった前田高地を米兵たちはこう呼んで恐れた。 崖の上にロープをかけて、ドスたち米兵が次々とハクソー・リッジをかけ登っていく。

 日本兵はまだ攻撃してこない。米兵士全員が崖の上に登り、隊列を組んで前進を開始しようとした…。その瞬間、塹壕に潜んでいた日本兵が一気に攻撃をしかけてくる。 米兵たちはパニックを起こし、次々と敗走、崖の上から逃げるように降りていく。 だが、多くの味方が敗走していく中、戦場に踏みとどまる男がいた。衛生兵のドスだ。

 彼は、銃撃されて負傷し、身動きがとれなくなった米兵たちに救急処置を行い、一人ずつロープに身体をしばりつけて、安全な崖の下へと降ろしていく。 真夜中になってもドスは救助活動をやめなかった。その数は計75人にものぼった。驚くべきことに救助された兵士の中には日本兵もいた。ドスは戦場で苦しんでいた日本兵にも救急処置を行い、崖の下へ降ろしていたのだ。

ドスも嘆くであろう日本人ドライバーへの暴言

 先月28日、米国の人気自動車レース「インディ500」で日本人ドライバー、佐藤琢磨選手が優勝した。米国が世界に誇る伝統のレース。その長い歴史の中で、日本人選手として初の快挙だった。 この快挙に対し、米紙デンバー・ポストのベテラン記者がこんなツイートを投稿した。「個人的な批判をするつもりはないが、メモリアルデー(戦没者追悼記念日)の週末に日本人ドライバーがインディ500で優勝したことはとても不愉快」だと。 このツイートに対し、批判が殺到。同紙は翌日、この記者を解雇した。

 すぐに同記者は反省文を発表。自分の父が米兵士として日本軍と戦い、父の友人が沖縄戦で戦死したことを説明した上で、「第二次世界大戦での敵国のひとつ(日本)を引き合いに出したのはばかげていた」と謝罪した。 米大統領研究者で大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さんは「実際に日本軍と戦った米軍人のドス本人が沖縄の戦場で、敵兵である日本兵を助けていた事実を考えると、数十年後のこの発言は米国人としてあまりにも恥ずかしいですね」と苦言を呈し、こう続けた。「この記者は、ドスが沖縄戦で取った行動、勇気についてどう思うのでしょう? ぜひ『ハクソー・リッジ』を見てほしいですね」

問われる真の勇気

 「訓練中は銃も手に持てない臆病者だとばかにしていたが、戦場では彼が最も勇敢だった…」

264 NAME :2017/07/07(金) 23:54:30
サム・ワーシントンが演じた実在するドスの上官、グローヴァー大尉は後にドスをこう称(たた)えている。 訓練中から度々、ドスと対立し、兵士失格だとしてドスの異動を強く進言していたのがグローヴァー大尉だった。 「ドスが沖縄の戦場で僕の命を救ってくれたのです。皮肉ですね」。もし、彼の進言通りドスを異動させ、一緒に沖縄で戦っていなければ、彼は戦死していたかもしれない。そのことを彼は認め、ドスに感謝の言葉を送っている。 1945年10月、ドスは当時のトルーマン米大統領から名誉勲章を授与される。良心的兵役拒否者として初の表彰だった。

 「軍隊内の人種差別撤廃を大統領令で断行したのがトルーマンです。良心的兵役拒否者も長い間、軍隊内で不遇な扱いを受けており、ドスの表彰も米軍内部の風通しを良くする一環といえるでしょう。信仰や人種を問わず平等に扱うという考え方はアメリカをアメリカたらしめる理想ですから」と西川さんは言う。

 味方の兵士が姿を消し、いつ狙撃されるか分からない戦場に踏みとどったドスが、一人、また一人と次々と負傷兵をロープにしばり、崖の下へと降ろしていく。 75人を救助する間、ずっと彼は心の中でこうつぶやいていた。 「神様、あともう一人だけ。私に命を救わせてください…」 人間の真の勇気とは何か-を、見る者の胸に突き付けてくる、かつてない戦争映画の傑作が生まれた。


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