したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | まとめる | |

大東亜戦争

1 NAME :2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争

260 NAME :2017/05/21(日) 23:55:13
「インパール作戦」追悼式典…日本兵3万人死亡
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%ab%e4%bd%9c%e6%88%a6%e3%80%8d%e8%bf%bd%e6%82%bc%e5%bc%8f%e5%85%b8%e2%80%a6%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%ef%bc%93%e4%b8%87%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1/ar-BBBlKnm?ocid=iehp

【インパール(インド北東部)=田尾茂樹】第2次世界大戦中の「インパール作戦」で戦死した犠牲者の追悼式典が20日、インド・インパールで開かれた。日本企業関係者や地元住民ら約100人が参加し、平和への誓いを新たにした。 戦争の悲劇を後世に語り継ぐ活動を行う地元の住民グループ「第2次世界大戦インパールキャンペーン財団」などが主催した。同作戦から70年が過ぎた3年前から、この時期に実施されている。

日本軍は同作戦で連合軍の拠点攻略を目指して英軍と激戦を繰り広げ、日本兵3万人以上が死亡したとされる。インパール郊外には、地元住民らが慰霊碑を設けている。この日の式典では、出席者が慰霊碑に花を手向けて黙とうした。財団設立人の一人、ユムナム・ラジェシュワルさん(40)は「二度と悲惨な戦争を繰り返さないために多くの人に関心を持ってもらいたい」と話した。

261 NAME :2017/07/07(金) 23:36:16
【銀幕裏の声】
武器持たぬ米衛生兵は“恐ろしい日本兵”も救助した-壮絶な沖縄戦の真実描く米大作「ハクソー・リッジ」(上)
2017.6.30 10:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄を戦場に日米が最大かつ“最終決戦”ともいえる壮絶な戦闘を繰り広げている。ハリウッド大作「ハクソー・リッジ」は、この戦闘の記録を一人の米衛生兵、デズモンド・ドスの視点から描いた異色作だ。「ドスのような一兵卒の記録は近年になって明らかになるケースが多く、米戦史の第一級の史料になってきています」。こう語るのは米大統領研究者で「アメリカ人の物語」(悠書館)の著者である大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さん。「ドスのような良心的兵役拒否者は米国では少数派。米国といえば戦争ばかりしている国と思いがちですが、少数ながら非戦・反戦の信念を持つ人が昔からいたのです」。戦場で戦うことを拒否したドスが、なぜ映画化される英雄となったのか。戦史の裏に隠された真実とは…。(戸津井康之)

武器を持たない戦争

 「汝、殺すことなかれ」 この教えを忠実に守り、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として育ったドス(アンドリュー・ガーフィールド)は典型的な良心的兵役拒否者だった。だが、友人たちが次々と出征するなか、「自分は武器を持たず、衛生兵として国に尽くしたい」と、両親の反対を押し切り、志願兵として陸軍に入隊する。ところが射撃訓練中も銃を手にすることを拒んだため、上官や同僚たちと対立。命令違反者として何度も除隊するよう宣告されるが、ドスの決意は固かった…。

火炎放射器で焼き尽くす米兵…実際は、日本兵を恐れてた

「南北戦争の時代、良心的兵役拒否者はお金を払うか代役を見つければ兵役を免れることができましたが、それができない人は軍営に行かねばなりませんでした。銃を持つことを拒否し、銃剣で刺された人もいます。あくまで米国で良心的兵役拒否者は少数派で、彼らが権利を獲得する過程には長い戦いの歴史があるのです」と西川さんは説明する。

恐るべき日本兵!?

 1945年4月、ドスが所属する米第77師団は沖縄へ向かう。実戦を前に意気揚々と戦地に到着したはずの隊員たちだったが、先発部隊が6回も日本兵に撃退されている現実を知り愕然とする。 大勢の米負傷兵を荷台に乗せたトラックとすれ違う際、「俺たちは、これからこんな屈強で恐ろしい日本兵と戦うのか…」とドスの同僚らが交わす会話が印象的だ。

 日本でも沖縄戦を題材にした映画がこれまで何作も撮られているが、その中では米兵に島の端まで追われた沖縄の人たちが手榴弾で集団自決するシーンなどが描かれていた。塹壕の中に日本兵を閉じ込め、火炎放射器で焼き尽くす米兵たちの姿は衝撃的で、映画を見た多くの日本人が「米兵は恐ろしい」と感じたはずだ。実際、日本兵はそう思いながら戦っていただろう。

「すぐ腕章を外せ! 日本兵に狙撃されるぞ!」

262 NAME :2017/07/07(金) 23:40:58
だが、この見方とは逆に、「ハクソー・リッジ」では米兵たちがいかに日本兵を恐れていたかが描かれていて興味深い。

戦場で問われる勇気とは

 日本兵に撃退された先輩の衛生兵が、戦場に向かうドスにこうアドバイスする。「すぐに赤十字の腕章をはずせ。目立つから日本兵に狙撃されるぞ!」 この戦場では衛生兵であっても米兵に変わりはない-。武器を持たないドスが実戦の戦場で兵士として通用するかどうかが突き付けられる場面だ。

 「ドスは武器を取る以外の戦いがあることを示そうとした。それは、銃を持たない勇気もあるという教訓のようにも思います」と西川さんは解説し、こう続けた。「トランプ大統領はオバマ元大統領と比較すると銃規制に消極的です。だからこそこの映画が今、公開される意味があるのでしょう。戦争映画では、銃を持つ勇気が称賛されがちですが、銃を持たない勇気もあるということをメル・ギブソン監督は描きたかったのでしょう」

武器を持たない衛生兵、ドスの“戦争”が遂(つい)に始まる。彼がハクソー・リッジで見た生き地獄とは…。

263 NAME :2017/07/07(金) 23:53:44
【銀幕裏の声】
神様、あともう一人だけ命を救わせて-日本兵も救助した米衛生兵、弾が飛び交う戦場に留まり…「ハクソー・リッジ」(下)
2017.7.5 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄本島に米軍が上陸。日米は最大かつ“最終決戦”ともいえる沖縄戦を展開していた。映画「ハクソー・リッジ」の舞台は日本名「前田高地」。沖縄本島を死守するため、日本兵はこの地に塹壕を築き、米軍の攻撃を何度も撃退していた。そんな激戦地で、アンドリュー・ガーフィールド演じる主人公、米衛生兵のデズモンド・ドスは「戦争は命を奪うが、僕は命を救う」という信念に基づき、銃を手に持たず独自の戦いに挑もうとしていた。難攻不落のハクソー・リッジでドスが見た生き地獄とは…。(戸津井康之)

敵兵も救う信念

 高さ150メートルの断崖絶壁。その崖を登り切った頂上に日本の前線基地があった。のこぎり(ハクソー)の歯のようなギサギザの形状をした崖(リッジ)…。沖縄本島の激戦地となった前田高地を米兵たちはこう呼んで恐れた。 崖の上にロープをかけて、ドスたち米兵が次々とハクソー・リッジをかけ登っていく。

 日本兵はまだ攻撃してこない。米兵士全員が崖の上に登り、隊列を組んで前進を開始しようとした…。その瞬間、塹壕に潜んでいた日本兵が一気に攻撃をしかけてくる。 米兵たちはパニックを起こし、次々と敗走、崖の上から逃げるように降りていく。 だが、多くの味方が敗走していく中、戦場に踏みとどまる男がいた。衛生兵のドスだ。

 彼は、銃撃されて負傷し、身動きがとれなくなった米兵たちに救急処置を行い、一人ずつロープに身体をしばりつけて、安全な崖の下へと降ろしていく。 真夜中になってもドスは救助活動をやめなかった。その数は計75人にものぼった。驚くべきことに救助された兵士の中には日本兵もいた。ドスは戦場で苦しんでいた日本兵にも救急処置を行い、崖の下へ降ろしていたのだ。

ドスも嘆くであろう日本人ドライバーへの暴言

 先月28日、米国の人気自動車レース「インディ500」で日本人ドライバー、佐藤琢磨選手が優勝した。米国が世界に誇る伝統のレース。その長い歴史の中で、日本人選手として初の快挙だった。 この快挙に対し、米紙デンバー・ポストのベテラン記者がこんなツイートを投稿した。「個人的な批判をするつもりはないが、メモリアルデー(戦没者追悼記念日)の週末に日本人ドライバーがインディ500で優勝したことはとても不愉快」だと。 このツイートに対し、批判が殺到。同紙は翌日、この記者を解雇した。

 すぐに同記者は反省文を発表。自分の父が米兵士として日本軍と戦い、父の友人が沖縄戦で戦死したことを説明した上で、「第二次世界大戦での敵国のひとつ(日本)を引き合いに出したのはばかげていた」と謝罪した。 米大統領研究者で大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さんは「実際に日本軍と戦った米軍人のドス本人が沖縄の戦場で、敵兵である日本兵を助けていた事実を考えると、数十年後のこの発言は米国人としてあまりにも恥ずかしいですね」と苦言を呈し、こう続けた。「この記者は、ドスが沖縄戦で取った行動、勇気についてどう思うのでしょう? ぜひ『ハクソー・リッジ』を見てほしいですね」

問われる真の勇気

 「訓練中は銃も手に持てない臆病者だとばかにしていたが、戦場では彼が最も勇敢だった…」

264 NAME :2017/07/07(金) 23:54:30
サム・ワーシントンが演じた実在するドスの上官、グローヴァー大尉は後にドスをこう称(たた)えている。 訓練中から度々、ドスと対立し、兵士失格だとしてドスの異動を強く進言していたのがグローヴァー大尉だった。 「ドスが沖縄の戦場で僕の命を救ってくれたのです。皮肉ですね」。もし、彼の進言通りドスを異動させ、一緒に沖縄で戦っていなければ、彼は戦死していたかもしれない。そのことを彼は認め、ドスに感謝の言葉を送っている。 1945年10月、ドスは当時のトルーマン米大統領から名誉勲章を授与される。良心的兵役拒否者として初の表彰だった。

 「軍隊内の人種差別撤廃を大統領令で断行したのがトルーマンです。良心的兵役拒否者も長い間、軍隊内で不遇な扱いを受けており、ドスの表彰も米軍内部の風通しを良くする一環といえるでしょう。信仰や人種を問わず平等に扱うという考え方はアメリカをアメリカたらしめる理想ですから」と西川さんは言う。

 味方の兵士が姿を消し、いつ狙撃されるか分からない戦場に踏みとどったドスが、一人、また一人と次々と負傷兵をロープにしばり、崖の下へと降ろしていく。 75人を救助する間、ずっと彼は心の中でこうつぶやいていた。 「神様、あともう一人だけ。私に命を救わせてください…」 人間の真の勇気とは何か-を、見る者の胸に突き付けてくる、かつてない戦争映画の傑作が生まれた。

265 NAME :2017/08/11(金) 22:29:26
【戦争を考える】日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%82%92%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%80%91%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8b%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ae%e6%ae%ba%e5%ae%b3%e3%82%92%e8%a8%bc%e8%a8%80%e3%81%97%e3%81%9f98%e6%ad%b3%e3%80%8c%e3%82%84%e3%82%8a%e6%ae%8b%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%80%8d/ar-AApOuiY#page=2

沖縄戦経験者の元日本兵、飯田直次郎さん(98)は、昨年ごろから、住民に対し悪行を働いた海軍の軍曹を殺害したことを証言し始めた。日本兵による日本兵の殺害に関する証言は極めて珍しい。 © 週刊女性PRIME 教師になりたかったが徴兵され「人殺しの練習ばかり」で夢破れたと話す飯田さん

飯田さんは1944年、東部第六二師団下田部隊に入隊し、沖縄へ向かった。 それまでは教育部隊に所属、中国戦線に6年半、派兵された。いったん本土へ戻ったときに結婚。半年後に再び派遣されるが、このとき、妻は身ごもっていた。「いつ召集がくるかわからないから、妻も覚悟のうえだったはず。それが当たり前でした」 沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。飯田さんが沖縄に派遣されたのは、アメリカ軍の潜水艦攻撃が激しくなったためだ。「最初は台湾に行くはずでしたが、途中の下関で船が止まって、別の部隊が台湾へ。そのため、私たちの部隊は沖縄に行くことになったんです」

 このころ、すでに飯田さんは“日本が負ける”と思っていたという。なぜか。「最後に来た部隊は竹槍(たけやり)を持っていました。銃がないんです。“ああ、これはダメだな”とあきらめました」 11月末、飯田さんらは那覇に上陸した。識名の守備軍として配備されたが、那覇は10月10日の大空襲ですでに廃墟になっていた。 その後、飯田さんは沖縄戦最後の激戦地・摩文仁村(現在の糸満市)に移動。ここで「佐々木」という海軍の軍曹を殺害した。いったいどういうことか。

 ’45年6月ごろ、飯田さんは、一緒に逃げてきた日本海軍兵や周辺住民と過ごすなど交流があった。「食糧が少なく、餓死した人も多い。でも、住民とは仲よくやっていました。部隊には軍から鯨の缶詰の配給がありましたから、それを住民にも配った。私たちは住民からサツマイモなどをもらって。イモの葉っぱは常食でしたよ」 しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。

「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」 ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」 そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。

 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」 飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。 この佐々木殺害の件について、飯田さんは2年前から証言するようになった。 関係者がほとんど亡くなっているということもあるが、「やり残したこと」として、記録に残すことを決めた。

「本当は誰にも話さず、心に秘めて亡くなろうと思ったんです。日本人同士の争いは恥ではないかと。でも、そのことを知っている人はもう私しかいない」 飯田さんは戦後2年たって実家へ戻った。その後、これまでに37回、沖縄へ行き慰霊の旅を続けている。

 戦友から寄付を募り、部隊が全滅した場所に慰霊碑も建てた。 飯田さんはアメリカ軍から逃げる牧港付近で、背後から撃たれた。火炎放射器によって100人ほどいた兵隊はほとんど焼死。生き残った飯田さんは、そのときの銃弾がまだ身体の中にある。傷は、沖縄戦の悲劇を物語り、日本兵による日本兵の殺害は、貴重な証言となっている。「沖縄ではいろんなことをした。嫌な思い出は残っているけど、いい思い出は何もないよ。戦争は勝っても負けてもよくない」 取材・文/渋井哲也 ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)

266 NAME :2017/08/16(水) 00:13:03
【終戦の日】
「祖国のため命かけた大叔父の生きた証しを」インパール戦で戦病死したはずが実は特務機関に? 足跡追うも手がかりなく…
2017.8.15 16:30更新
http://www.sankei.com/west/news/170815/wst1708150055-n1.html

「大叔父は戦地でどんな最期を迎えたのか」。東京都練馬区の澤井園子さん(48)は、戦後72年がたった今もその足跡を追い続けている。大叔父の神居達(かみい・とおる)さんは、第二次大戦時にビルマ(現ミャンマー)で多大な犠牲者を出した「インパール作戦」で戦病死したとされたが、その後、別動隊にいた可能性が浮上し、最期の様子が不明となった。それから8年間にわたり調査を続けているが、真実は謎のまま。過ぎゆく時間を感じながら、大叔父の生きた証しを探している。

「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろすも…

 澤井さんの祖父の弟である神居さんは、軍歴を記した兵籍簿などによると、昭和16年に立命館大を中退し、18年4月に召集され、陸軍歩兵60連隊の機関銃中隊の一員としてインパール作戦に参加。19年5月にインド・アッサム州から約700キロ離れた軍司令部があるビルマ・メイミョーに搬送され、7月に26歳で戦病死したとされる。

 一方、平成16年12月、64歳で亡くなった澤井さんの母は生前、「大好きだった叔父さんが戦死したビルマへ慰霊に行きたい」と口癖のように語っていた。 「母には親孝行ができなかった。せめて代わりに供養しよう」。澤井さんは、育児に一段落ついた21年から大叔父の足取りを追い始め、22年2月に戦友会のメンバーとともにビルマを訪問。大叔父が亡くなったとされる地で手を合わせ、「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろした。

生還者の誰もが「知らない」と

 ところが、ここから大叔父の謎をめぐる“彷徨(ほうこう)”が始まった。 慰霊訪問後、澤井さんは大叔父が所属したとされた機関銃中隊の生還者2人と面会したが、いずれも大叔父のことを「知らない」と断言した。 その後、複数のビルマからの生還者にも会ったが、下士官だった大叔父が軍司令部がある地に運ばれて亡くなることは「あり得ない」と指摘された。軍医将校だった生還者には「別の支援ルートがあった特務機関に所属していたのならあり得る」と教えられた。

 調査を進めると、大学で大叔父の1年先輩だった人物が、日本軍の対インド工作を担った特務機関「光機関」に所属し、ビルマに派遣されていたことが判明。その人の日記に、光機関から大学の後輩を5人ほど選んで連れてくるよう要請を受けたとの記述があり、大叔父のビルマ入りの時期と重なっていた。 また、大叔父の死亡者調書を作成した人物が、光機関の将校だったこともわかった。光機関の生還者の手記には「敗戦時に全機関員の軍歴を改竄(かいざん)した」との記述があった。 大叔父は英語に堪能で、ビルマに赴く前、家族に「通訳をする」と話していた。澤井さんは、大叔父が光機関に所属し、日本軍とインド国民軍をつなぐ任務に就いていたのでは-という仮説を立てたが、確証は得られない。

手がかりが年々少なくなっていく中で

 調査を始めて8年。旧日本軍関係者や戦史の専門家ら100人以上に会ったが、大学の専門家に門前払いされるなど、調査は簡単には進まなかった。一方で「素人の私がここまで来れたのは、多くの方の優しさとご縁があったから」との思いもある。 澤井さんは大叔父の調査過程をブログ「ミャンマーに思いを寄せて」に公開してきたが、知り合った旧軍関係者もほとんどが亡くなり、手がかりは年々少なくなっている。 「大叔父は祖国のために命をかけたのに、『そんな人はいない』と存在すら認められていないことになっている。だから、何とか身内の私が大叔父の生きた証しを見つけたいんです」

267 NAME :2017/08/16(水) 00:15:43
【終戦の日】
反天連デモに抗議の声200人 「帰れ!」「つぶせ!」靖国神社近くで飛び交う罵声
2017.8.15 20:10更新
http://www.sankei.com/affairs/news/170815/afr1708150018-n1.html

72回目の「終戦の日」を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた東京都千代田区の日本武道館からほど近い九段下の交差点に、右派系団体のメンバーら約200人が集結した。毎年8月15日に靖国神社近くで「天皇制いらない」などとシュプレヒコールを上げてデモ行進する反天皇制運動連絡会(反天連)のメンバーに抗議する、いわゆる「カウンター」と呼ばれる人たち。英霊を慰める終戦の日、靖国神社近くではシュプレヒコールや怒号が飛び交った。 午後5時ごろ、九段下交差点を通りかかった反天連のデモ隊約80人は口々に「天皇制反対」「安倍はやめろ」とシュプレヒコールを繰り返しながら前進。これをかき消すように交差点そばの歩道に陣取った「行動する保守運動」のメンバーら約200人が「帰れ」「反天連つぶせ」「国賊」などと怒号を上げて抗議した。

 警視庁は一時、交通を遮断し、歩行者をくぎ付けにする方法でデモ隊を通過させた。デモ行進の際、所々で「行動する保守運動」以外の右翼団体の関係者らが怒号を浴びせる中、大きな混乱もなくデモ隊はデモを終えた。 日本第一党の桜井誠党首(45)は「数の問題ではないが、今回の反天連のデモ隊は前年より減って70〜80人ほどだった。私たち抗議運動は当初、数十人で始めたが、今はこれだけの人が抗議の声を上げるようになった」などと演説すると、沿道から「桜井」コールが起こった。(WEB編集チーム)

268 NAME :2017/09/02(土) 21:33:59
GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/ghq%e3%81%ab%e5%90%9b%e8%87%a8%e3%81%97%e3%81%9f%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%81%ae%e6%84%9a%e5%b0%86%e3%81%b6%e3%82%8a/ar-AAqKZFS?OCID=HPDHP

連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。

仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。 しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。 1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。 直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。 
この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。 一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。 10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。 “Where is Kim Buck Tooth?”(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)

269 NAME :2017/09/02(土) 21:34:46
ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。 中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。 マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。 1950年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。 体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。 このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。 マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。 度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。

宇山卓栄(うやま・たくえい) 1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。(写真=時事通信フォト)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)


1/5000 SDF-1 マクロス ムービーカラーエディション / Wave



掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板 powered by Seesaa