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気になる事件、事故ニュースから
272
:
住居費統制 奴隷システム
:2018/11/18(日) 13:15:20 ID:8KMmzeME
(続き)
他にも4人のクメール・ルージュ政権高官が裁判にかけられているが、カンボジアの
フン・セン首相はこの法廷が新たな裁判を始めることに反対を主張しており、
新しく裁判が開かれる可能性はほとんどない。
◆自身もクメール・ルージュ政権の中位メンバーだったフン・セン首相は、国民は
先に進むことを望んでおり、これ以上の訴追は暴力を引き起こす可能性があるとしている。
クメール・ルージュは政権を失った後に反政府運動を起こしたが、1990年代には
数千人が政府に投降。1999年に完全解散した。
カンボジアの一部地域では、かつての被害者と加害者が助け合って生活している村もある。
ただ、カンボジア人の多くは法廷にほとんど注意を払っておらず、特に若者層は、
「処刑場」としてよりも別の何かとして自国が知られたいと望んでいる。
(英語記事 Khmer Rouge surviving leaders guilty of genocide, tribunal finds)
https://www.bbc.com/news/world-asia-46217896
http://halmoni-haraboji.net/exhibit/report/200608kikigaki/hist007.html
川崎在日コリアン生活文化資料館 > 22名の語り手の方々のことばです >
九州に徴用された夫について来日
■夫が徴用されて(21歳)
イ・プンジョさん (女性 87歳) 足跡:韓国 慶尚北道→福岡→川崎→栃木に疎開→川崎
〈九州の炭鉱での仕事ぶりを聞かれて〉
九州は大きい会社があって、そこによく石炭を山盛りにした車が20台、30台
も連なってきた。石炭が落ちてきたら死ぬ、危ない仕事だった。石炭が落ちてできた傷
が今も残っている(足の傷を見せてくれた)。
石炭がくるくるくるっと落ちてきて、尖った部分が骨のあるところに刺さった。
日本人が赤ちんをつけてくれたが、その後もずっと仕事をさせられた。そうしたら、
また血が出てきたから、包帯を巻いて仕事をした。(略)朝鮮にいた時、
日本行きは急に決まった。
日本の人はみんな徴兵に行って、国内の仕事をする人がいないから たくさん朝鮮から
引っ張ってきた。炭鉱の仕事は朝鮮人ばっかりだった。男も女もいた。給料は少なくて
1円50銭だった。日本人はあまりいなくて、たまにいると、同じ仕事をしていても、
給料は朝鮮人より多かった。1円80銭だった。
〈終戦直後の川崎で〉
うちも朝鮮へ帰ろうと思ったけど、切符がなかなか取れなかった。その時はヤミでしか
手に入れられなかったから。川崎の駅のキング通りは終戦直後は、みんな焼け野原で
店は一軒しかなかった。
◆土地は誰のものでもなくて、みんな勝手に自分の土地にした。うちは韓国に帰るつもり
だったから、そういうことはしなかった。向こうのみんなが日本に帰ってきたから、
自分たちも帰るのをやめた。今ある川崎駅近くの店は、一軒残っていた呉服屋以外、
みんな戦後 勝手に振り分けた土地の所有者が代々継いできた店。
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