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【過去ログ倉庫】三光作戦関連

1 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:12:02
7 返信 NC4歴史ボードより転載:ゲリラ掃討≒民族浄化 ノンポリ@実験的に転載 2005/03/06 23:52

ゲリラ掃討≒民族浄化

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投稿番号:18681 (2003/07/28 18:21)
投稿者:ノンポリ()
mail:



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内容
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みんぞくじょうか 【民族浄化】
複数の民族集団が共存する地域において一つの多数派民族集団が他の少数民族集団を同化・強制移住,また大量虐殺によって抑圧する行為。エスニック-クレンジング。
〔1990 年代前半,ボスニアの外務大臣の依頼により,セルビア非難の語としてアメリカの広告会社が造語。マスコミを通じて広く用いられ,コソボ空爆への道を開いた〕
(goo 辞書より)
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2002年5月2日、イスラエル軍はパレスチナ自治政府議長府を含むヨルダン川西岸ラマラ全域から撤退し、これによって同年3月29日から議長府に監禁状態にあったアラファト議長は解放されることになりました。
そのときの会見でアラファト議長は、
「この残虐な犯罪に、どうして世界は黙っていられるのか。
この部屋(議長府)が吹き飛ばされてもかまわないが、聖誕教会で起きていることの方が問題だ。
この犯罪は許せない」
と、口を歪め声を震わせて抗議し、さらにイスラエルに対して、
「やつらはナチスだ。テロリストだ。人種差別主義者だ」
と叫んだそうです。
イスラエルにとって「ナチス」呼ばわりされることは、考えられ得る最大限の侮辱でしょう。それほどアラファト議長は憤激していたのです。
しかし・・・・アラファト議長が「ナチス」と叫んだことは、アラファト議長自身が意識していたかどうかはわかりませんが、極めて示唆に富む発言だと思います。
イスラエル軍によるパレスチナ人に対するジェニン難民キャンプなど各所で行なった虐殺は、民間人への無差別虐殺という面でナチスドイツが行なったユダヤ人虐殺と同質であり、またそれは、ナチスドイツがユダヤ人絶滅を計画したように、イスラエルもこの問題の完全解決のためにパレスチナ人を絶滅するつもりでもあるのか?と思わせても当然だと言えます。そもそもイスラエルという国家自体、ナチスドイツのユダヤ人強制移住政策と同様、パレスチナ人を元々の居住地から追い払うことによって建国されたのです

ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺は、ユダヤ人絶滅という目的がありました。一方イスラエル軍によるパレスチナ人虐殺には、パレスチナ人絶滅という目的こそ掲げられていません。
しかしナチスがユダヤ人を排除したようにパレスチナ人を排除することで成立し排除し続けることで保たれているイスラエルという国家が、パレスチナ人の民間人に対する計画的な虐殺によって、ナチスと同じだと非難されるのは至極当然でしょう。

・・・・また、
アメリカがベトナムで、日本が中国や東南アジアなどで行なったゲリラ掃討作戦も、ある民族の絶滅計画ではないものの、ゲリラの掃討という目的のために民間人に対する計画的な大量虐殺を行なったという点に於いて、また、この目的を完全に達成するには占領地の民族を絶滅させる以外にないという迷宮にはまり込んでしまった点に於いて、ナチスドイツのユダヤ人大虐殺と同質のものであると言えるでしょう。


http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18681

2 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:17:26
8 返信 Re:NC4歴史ボードより転載:三光作戦 ノンポリ@実験的に転載 2005/03/06 23:54

三光作戦

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投稿番号:18682 (2003/07/28 18:23)
投稿者:ノンポリ(八路軍と民衆)
mail:



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内容
「中国語の『光」(guang)は、動詞のあとについて副詞的な機能をはたし、『〜しつくす』(あとに何も残らない)という意味を付加するという。たとえば『用光』は『使い果たす』の意」(教育社歴史新書135 黒羽清隆・著「日中15年戦争㊦」P-214より引用)

日本軍が中国大陸で計画的に行なった、民間人無差別殺戮・村落破壊+物資略奪・強制移住がセットになった作戦を、中国側は「殺しつくし(殺光)、焼きつくし(焼光)、奪いつくす(搶光)、『三光』作戦」と名づけて恐れました。これはその名の示す通り、中国人を殺しつくし、中国人の生活環境を破壊しつくし、中国人の生活の糧・生存の手段を奪いつくすまで、決して完結することはない作戦だったのです。


・・・・・・
日本は1931年に中国東北部を侵略して傀儡政権を打ち立て、そして1937年からは中国全土に対して本格的に侵略を開始し占領地を拡大しますが、蒋介石は重慶へ遷都して徹底抗戦を宣言し、停戦の道は固く閉ざされました。1940年3月には汪兆銘を首班に据えた「中華民国国民政府」という傀儡政権を成立させますが、それは日本軍の力が無ければひと時たりとも存在し得ない空中楼閣に過ぎませんでした。日本軍の力は広大な中国大陸の中で占領地を支配し続けるには余りにも微弱で、「点と線」(主要都市とそれをつなぐ主要幹線)の支配に止まりました。
また、蒋介石の国民党軍よりも、次第に中国共産党の八路軍・新四軍が大きな敵となって日本軍に立ちふさがってきたのです。民衆と一体化した彼らの抗戦によって、日本軍は「点と線」の支配さえ、危うくなったのです。

もちろん、いくら八路軍に民衆の支持があったといっても、兵器の質・個人の能力で遥かに勝る日本軍に真っ向から立ち向かっても勝ち目がありません。当然ゲリラ戦術にて抗戦することになったのです。
元八路軍兵士・歴史研究家の「陳平」という人によれば、民衆は日本軍を監視する連絡網を組織し、日本軍の移動に伴い手薄になった拠点があれば民兵が狙撃し、追撃を受ければ脱兎の如く行方をくらましたそうです。そして日本軍が進攻し確保した地点はとっくにもぬけの殻になっており、民兵は他の地点から狙撃を加え、このイタチゴッコが延々と続いたそうです。こうしたゲリラ戦術を八路軍側は「スズメ戦術」と称していました。(青木書店 姫田光義・陳平(丸田孝志訳)共著・「もうひとつの三光作戦」より)

3 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:18:14
北支那方面軍参謀部の「北支ニ於ケル共産軍ノ戦法ト特性」によると、日本軍側はこのようなゲリラ戦を「狐狸咬鶴戦法」(一撃後に速攻で撤退する)「臼引き戦法」(日本軍に対する包囲網を常に維持し、虚に乗じて攻撃する)「蝿戦法」(敵の大軍が攻めれば引き、引けば攻め、敵が小部隊なら包囲殲滅する)「爆弾戦法」(日本軍の協力者の中の内通者を利用して攪乱する、日章旗を掲げて傀儡軍を装い進入し襲撃する)と呼んで手を焼いていました。(朝雲新聞社・昭和46年10月発行 防衛庁防衛研修所・戦史室「戦史叢書50・北支の治安戦②」の、P-618〜619より引用しました。朝雲新聞社とは自衛隊の機関紙です)

こういった戦闘は、八路軍と中国民衆の強い結びつきと信頼によって初めて可能となるものでした。民衆は日本軍の動静をつぶさに観察し報告し、八路軍に物資を供給し、日本軍の物資強奪を不可能たらしめ、そして民兵として抗日戦に参加したのです。
このような民衆と八路軍の一体化を目撃したアメリカ人ジャーナリストは驚嘆を隠せなかったようです。

「中国人の抵抗の第一線は、諜者と地下工作員とで構成された。日本軍が掃蕩戦を開始するときには、中国軍はいつでも事前に、その情報を受け取っていた。そしてその兵力はすぐさま危険の迫っている地域から移動し、日本軍が立ち去ったばかりの鉄道線路や兵舎に攻撃をかけた。したがって双方の側がその位置を取りかえただけであった。日本軍は攻撃をかけた地域には一兵も見出さず、立ち去ったばかりの位置に攻撃が加えられているのを知った。
だが、これらの地域で採用されたもっとも有名な戦法は、“堅壁清野”の名で知られている方法だった。これは持久戦術と名づけることのできるものだった。日本軍が進撃してくるに先立って、家具や穀物や家畜や、およそ日本軍に役立つものを洞穴に移すか用意した隠匿場所に埋めてしまうし、住民は全部その地域から撤退してしまった。道案内一人見つけることができなかった。攻撃が山中で行なわれるときには、民兵があらゆる崖の上に陣取ったし、平原の場合には、地下トンネルに陣をかまえた。
日本軍が進攻すると、四方八方から狙撃兵の弾丸を浴びた。狙撃兵は、偶然にかきあつめられたものではなく、村単位に選び出されたえりぬきの射撃の名手で揃えられていた。日本軍は、分散されられるのをいつもおそれていた。一つの山からの銃声をきくと、かれは“八路軍がいるぞ”と言う。だが、彼らが臼砲や重火器をかついで山によじ登ってみると、もう一人の兵隊も見つからなかった。そこでまた前進する。するとまたもや、別の峰の上から狙撃される。そこで再びその山に掃射を加えて捜索するが、何の獲物もないのだった。
こういうことを二、三度繰り返して何も見つからないと、そこではじめて日本軍は安心を覚え、斥候を引っ込めて急速に前進する。だがまさにこの時、この目的のために伏せられていた正規兵の派遣軍が大挙してかれらを攻撃し、日本軍が立ち直らないうちに大打撃を与えた。日本軍がさらに山中に突入しようとすると、かれらは山の斜面一帯に植えつけられた手製の手榴弾に突っ込んだ。日本軍の兵力が相当に強力な時には、民兵は狙撃するだけで満足しそれ以上の攻撃は加えないが、もし本隊から分かれて小兵力の分遣隊が出れば、民衆は鳥銃や手製の臼砲やいろいろな獲物を手にして攻撃を加えた。
“堅壁清野”という言葉に暗黙裡にふくまれている持久戦は、社会のほとんど全成員の協力があってはじめて遂行できる種類の戦いである。こういう協力は工業化した西洋社会にはめったに見出されないし、中国の農村にあっても、のべつに見られることではなかった」(J・ヴェルデン「中国は世界をゆるがす㊤」―――黒羽清隆・著「日中15年戦争㊦」より)

4 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:19:41
また多くの場合、抗日戦・抗日情報戦は不正規兵――――つまり民兵、いわゆる「便衣兵」――――の活動によって行なわれていたようです。
「共産軍根拠地剔抉ノ参考」によると、
「敵情報員、工作員等は県民証を所持し皇軍分駐地附近に在りても公然良民を装ひあること多し」
「敵匪は我が攻撃、掃蕩、検索等に遭遇し逃走不能と判断せる場合は通常農夫に扮し所在農具を携行し労務中なる如く装う」(「北支の治安戦②」P-413より)

前出の「北支ニ於ケル共産軍ノ戦法ト特性」によると、
「(共産軍は)常に便衣隊、遊撃隊を交互に拠点附近に潜伏せしめ我が部隊出撃に際して其の小部隊を捕捉し各個撃破に出す」(同上P-618より)

このように不正規兵は大いに活躍し、日本軍は「匪民分離」(ゲリラと一般民衆の選別)に苦慮し、身体検査で銃を担いだらできる「タコ」を探したり、不意に軍隊式の号令をかけたり起床ラッパを吹いたりして反応を確かめたそうです。(これも同上P-419〜420より。笑っちゃうような話ですね)

また、朝枝第一軍参謀の回想によると、
「八路軍の抗戦意識は甚だ旺盛であり、共産地区の住民も女、子供が手榴弾を『ざる』に入れて運搬の手伝いをするなど民衆総がかりで八路軍に協力した」(これは昭和43年8月発行「北支の治安戦①」P-357より)
ということです。
このように中国の老若男女は八路軍と共に侵略者を排除しました。民衆から八路軍への多大な協力があったというよりも、中国民衆が侵略者を追い払うために八路軍という組織を利用し、共に戦ったと言えるでしょう。そして、このように民衆の信頼を得た八路軍だからこそ、日本軍に痛撃を加えることができたと言えるでしょう。

八路軍総司令・朱徳の遺した発言に、八路軍と民衆の分かちがたい結びつきを窺い知ることができます。
1940年7月に「延安幹部会議」の席上で「八路軍が華北の抗戦を堅持してきた三年間」と題した報告の中で「八路軍の勝利」の「10の原因」の一つとして、
「我々が真に『軍民一致』を達成し、大衆との間に水と魚、血と肉のような不可分の親密なつながりを結んだことによる」
と述べました。また1943年7月7日の「抗戦六周年記念日」の集会にて、次のように演説したそうです。
「・・・・我々の力と権力とは全て人民からくる。そして、我々の方策・手段は、全て人民が作り出したものである。人民の力を頼りにして、我々は敵を打ち負かし、あらゆる困難を克服した。我々はただひとつの秘密兵器をもっている――――それは、人民との完全な結合である。我々がもし、大衆から孤立していたとしたら、とっくに失敗していたに違いない」(黒羽清隆・著「日中15年戦争㊦」より)(しかしこのように民衆の支持を得て政権を獲得した中国共産党が、その後国民を弾圧し餓死に追いやり、現在に至るも思想言論の自由のない社会を作ってしまったことは残念の一言です)

日本軍はこのように民衆と一体化した中国共産党軍(八路軍・新四軍)を打ち破る為に、捕捉殲滅が殆ど不可能といえる共産軍ゲリラだけを直接追撃することをあきらめ、共産党軍が根拠地とする農村の破壊を思い立ったのです。
ゲリラ容疑者・ゲリラ協力容疑者を捕縛・殺害し、二度とゲリラの根拠地とならないために村落を焼き払って消滅させ、ゲリラに供給される恐れのある食糧を押収し、農民を強制移住させたのです。こうして日中戦争に於いて「三光作戦」と呼ばれた残虐な作戦が始まったのです。

http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18682

5 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:25:26
Re(1):三光作戦
投稿番号:18683 (2003/07/28 18:26)
投稿者:ノンポリ(殺戮作戦)

1940年8月20日、総司令・朱徳率いる華北の八路軍の「百団作戦」と称する大規模な攻勢が日本軍に大打撃を与えました。115団約40万人の軍勢が、一斉に日本軍の交通・通信網や拠点に対して奇襲攻撃を行い、鉄道線路・橋梁の爆破、電柱倒壊・電線の切断、小拠点の守備隊の襲撃、炭鉱設備の破壊など、日本軍に甚大な被害を与えたのです。

これは日本軍に、それまで軽視していた対八路軍戦略を一変させることになりました。民衆の厚い支援を受け縦横無尽に日本軍を翻弄する八路軍に対抗するために、八路軍と民衆の分断を狙いましたが、それは民衆に対する無差別虐殺に直結したのです。
北支那方面軍の第一軍参謀長田中隆吉少将は、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃討し、敵をして将来生存するに能わざるに至らしむ」ことを指示しました。そして北支那方面軍は「第一期晋中作戦復行実施要領」に於いて、八路軍ゲリラとそれを支援していると見られる村落、民衆に対して次のような「燼滅目標および方法」を掲げました。

一、敵および土民を仮装する敵・・・・・・・・・・・・・・殺戮
二、敵性ありと認むる住民中十五歳以上六十歳迄の男子・・・殺戮
三、敵の隠匿しある武器・弾薬・器具・爆薬等・・・・・・・押収携行、止むを得ざるときは焼却
四、敵の集積せりと認むる糧秣・・・・・・・・・・・・・・押収携行、止むを得ざるときは焼却
五、敵の使用する文書・・・・・・・・・・・・・・・・・・押収携行、止むを得ざるときは焼却
六、敵性部落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・焼却破壊
(青木書店「十五年戦争史②日中戦争」より引用)

これぞ、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」三光作戦以外の何物でも、ありません!
日本軍は八路軍に対抗するために、一般民衆に刃を向けることを決意したのです。
当初日中戦争は日本軍と蒋介石の国民党政権との戦いであったのですが、
この段階に於いて(侵略)国家と、(被侵略国の)民衆との戦いに転じたのです。

6 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:27:13
こうして北支那方面軍は三光作戦に没頭することになります。独立混成第四旅団「昭和十五年十月十九日――十一月十四日 第二期晋中作戦戦闘詳報」によると、「敵軍事施設ある部落の燼滅には特に徹底するものとす」「前進に方りては(あたりては)徒に速度を延長することなく、進路両側を成可(?)広範囲に亘り徹底的に燼滅するものとす」などの命令が下され、「十月二十五日 寺子岩――姚門口間東西約六粁に亘る間の村落を徹底的に燼滅」「十一月五日 燼滅部落 背庄――大有鎮沿道部落、大有鎮付近及其の付近部落十六ヶ所燼滅」(同上より)という連日の作戦によって、多くの村落を焼き払い、物資を強奪・破壊焼却し、「便衣化せる敵を剔抉剿滅」しました。
こういった作戦について「粛正討伐ノ参考」(昭和十八年5月 北支那方面軍司令部)は、
「討伐粛正の目的は地点の確保に非ずして敵を捕捉殲滅するを主眼とす 単に遺棄死体の数の増加は必ずしも敵の損害を意味するものに非ずして往々多数の住民を含むことあり 鹵獲兵器の数は真戦果の重要なる証査たることに留意するの要あり」(「北支の治安戦②」P-412より)
と注意を促しています。「討伐粛正」によって多数の民間人が殺害される場合も多かったのでしょう。

(ちなみに「現代史資料⑬ 日中戦争⑤」(みすず書房)P-643〜644の、
「戦時月報資料(四月分)昭和十七年五月二十五日 北支那方面軍甲集団参謀部 昭和十七年四月中に於ける総合戦果表」では、
北支那方面軍の「戌」「乙」「仁」「極」「鷲」「冑」という六つの「集団」ごとの戦果を分類していますが、
これらを総計すると「遺棄死体」1万1002人、「俘虜」1万4769人、合計2万5771人に対し、
「鹵獲品」のうち小銃9100丁、山砲2門、迫撃砲52門、「重機」8台、軽機65台、自動小銃90丁(その他)ということですが、
このなかの「戌集団」は、「遺棄死体」167人、「俘虜」48人に対し、小銃の鹵獲数が26丁、自動小銃2丁、その他は拳銃、手榴弾などです。
「冑集団」は、「遺棄死体」114人、「俘虜」56人に対し、小銃の鹵獲数が29丁、重機・軽機が一台ずつ、その他は同様です。
また、同年度「戦時月報資料(九月分)」の「主要討伐状況一覧表(八月分)」(同上P-650〜)によりますと、
「戌集団 柴山部隊」の8月3日、7日の二つの戦闘に於いて、「遺棄死体」19人、「俘虜」が12人、「主要鹵獲品」が小銃5丁。
「乙集団 井関部隊」の8月中の4回の戦闘に於いて、「遺棄死体」が91人、「俘虜」が21人、「主要鹵獲品」が小銃16丁。
このように数々の戦果報告の中から、「遺棄死体」+「俘虜」と、「鹵獲」した兵器数が不釣合いなケースを見出すことができます。<b>「往々多数の住民を含」んでいたことを示していると言えるでしょう)</b>

7 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:28:14
・・・・元山西野戦軍副司令官の城野宏さんという人の証言によると、1940年の北京の北支那方面軍司令部の会議」「兵団長会議」にて「燼滅作戦」についての命令を受け、
「“注意事項”には、敵性地区の食糧は全て押収するか焼却すること、とにかくその場に食糧を残さないこと、そして、『敵地区には人を残すな、敵と協力するおそれのある人間は治安地区に居住させる等の手段を講じて、その場に存在させないように』という意味のことが書いてあった」
そうです。

「・・・・命令はもちろん、そのまま実行された。敵地区を燼滅せよというわけだから、男は見つけ次第殺す。命令には女を殺せとは書いていないが、これは、わざわざ書くまでもないというだけのことで、部落を壊し、男を殺してしまえば、女、子供、老人が残るわけです。しかし、敵地区を無人化するのが目的だから、どこかへ連れていくのがたてまえなんだが、彼女らを養う食糧もあるわけじゃない。
慰みものに使ったあとは、殺してしまうのが普通でした。こうして、命令というものは、うけた者によって既定事実がつくられ、どんどんエスカレートしていくのです。しまいには、こんな論理がまかりとおっていました。
“女は子供を作る。子供は将来抗日分子となるであろう。殺すべし。子供は、成長したらこれまた八路になる。殺すべし”とね」

「1941年には、やはり“燼滅スベシ”を趣旨とした大岳作戦が、山西省中部地区泌水県を中心に実施されました。第一軍全体の作戦で、このときは第四十一師団本部へ、某軍参謀がきて、“訓示”をたれているんです。
要するに、“殺しかたが足りない”と、どなりつけただけですが、司令部で部隊全員を集めて、
“諸君らは、この作戦の重要性がわかっていない。八路軍は、根拠地そのものを無人化しない限り、生きかえってしまいしぶといものなんだ、小節にこだわらず、この際人情はすて、命令を忠実に実行せよ”
といっていました。自分は今日、燼滅したはずの村へ行ってみたが、村人がチラチラうごいていた、こんなことでどうするのか、というわけですな。
そして最後には、おきまりの“聖戦遂行”で話をしめくくるという寸法です。
ある兵長は、これを聞いて、“こりゃやらにゃいかん”とばかりに、その日に、その村で女子供を六人洞窟に放りこんで、たきぎを投げこんで焼き殺してしましましたよ」(潮出版社「日本人は中国で何をしたか・中国人大量虐殺の記録」平岡正明・著より)

こういった民間人殺害の証言には枚挙に暇がありません。

「師団命令は“敵の利用しうる一切のものを燼滅せよ”やった」「苦労したのはニイコ(中国人)や。“一切のもの”と言うんは物だけか、て師団司令部に問い合わせたら、“モノ”は者を含むて言う返事やったんやて。えらいこっちゃった、荷物運びの苦力に使うニイコ以外、皆殺しにせなならん」
「一々殺すの、面倒臭くてかなわんで、名案考えた。部落の風上から火イつけた。火に追われて風下へ、ジジイもガキも出て来よる。そこを軽機で待ち構えて、ダダダダダや。ビックリして部落の中に戻りよって、火に撒かれて死んでくれたわ」(第十一軍所属の第三十四師団の元将兵の証言・・・・阪本楠彦「湘桂公路1945年」―――青木書店「十五年戦争史②日中戦争」より引用)

・・・・日中戦争のような(侵略)国家と、(被侵略国の)民衆との戦いに於いては、女子供や老人も標的となることを免れず、民族絶滅作戦の様相を呈していったのは至極当然と言えます。

http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&amp;path=/board/&amp;startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&amp;mode=sel&amp;targetid=18683

8 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:31:49
Re(2):三光作戦
投稿番号:18684 (2003/07/28 18:28)
投稿者:ノンポリ(三戒?)
さらにゲリラにトコトン苦しめられている「第一線の末端」の兵士は、ゲリラを支援している中国民衆に対して激しい憎悪を抱き、この作戦をより凄惨なものにしました。第三十七師団歩兵第二百二十七連隊・連隊長の皆藤喜代志大佐は、次のように回想しています。

「戦陣における軍人の心の動向は、軍律とは関係なしに、統率の力ではにわかに左右できない奇妙な底流がある。第一線の末端になるほど敵愾心が強く『一般民衆と敵性分子との区別はつくものではない』という民衆に対する不信感や『民族感情の暗黙の対立』、『中国人に対する罪の意識の薄弱』等による粗暴なふるまいがあり、『民心把握の意図の徹底』ほど骨の折れることはなかった」(「北支の治安戦②」P-195)

強姦・個人的な略奪など、お決まりの犯罪も後を絶ちませんでした。「支那事変の経験に基づく無形戦力軍紀風紀関係資料(案)」(昭和十五年十一月 大本営陸軍部研究班調整)では、「特に環境を整理し慰安施設に関し周到なる考慮を払い殺伐なる感情を緩和抑制することに留意す」(同上P-322)と、「慰安施設」の充実の必要を訴えています。
ちなみに「軍紀上特ニ留意スヘキ犯罪」によって処刑された将兵は合計801名に達し、そのうち強姦が108名、「掠奪」が243名ということです。(「軍紀上特ニ留意スヘキ犯罪処刑人員表」(昭和14〜17・10)同上P-323)(その他「対上官犯」が171名、「辱職」が127名、逃亡が243名、その他「奔敵」「利敵」が11名。脱走し八路軍に投降し「日本人反戦同盟(日本人民解放連盟)」に加わった兵士も少なくなかったのでしょう)。
また「北支那方面軍処刑人員増減表」によると、1938年から1942年10月までに処刑された人数は2598名を数えるそうです(同上同ページ)。

9 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:33:13
ところで岡村寧次大将という人は、1941年の北支那方面軍司令官着任時に「滅共愛民」という理念の下に「焼くな、犯すな、殺すな」という「三戒」標語訓示を強調したそうで、実際に1942年4月に北支那方面軍が全将兵に配布し一般にも公開した「国民政府の参戦と北支派遣軍将兵」には、「焼かず、犯さず、殺さず」と強く戒められていました。

「『焼かず』とは、すなわち彼らの家を焼かないことである。いかなる理由があるにせよ一度家を焼かれた中国人の恨みは未来永劫絶対に消えるものではない。たとえ敵地区への進攻作戦といえども家屋の焼却は絶対に禁止せねばならぬ。
『犯さず』とは、すなわち財物を略奪せず、婦女を姦せざることである。わが将校中かくのごとき鬼畜の振る舞いある者は一人といえども存在しないことを確信するものであるが万一、物欲、情欲に駆られて中国人を犯すがごとき将兵ありとすれば、皇軍の面子にかけても断じて許してはおけない。
(こういうフレーズ、聞き覚えがありますね。「うちのクラスには学校のトイレでタバコを吸うような奴はいないと思うが・・・・」なんて先生が言うときに限って、男子の半数はヘビースモーカーだったりして)
『殺さず』とは、すなわち無辜の民はもちろん、捕虜といえどもこれを殺戮しないことである。もし当然殺すべきと思われる場合でも勝手に殺してはならぬ。必ず軍律によって処断すべきである。特に匪、民いずれとも判明しない者を、十分に取り調べも行なわずに匪なりと断じ、あるいは不良中国人の利己的発言に乗ぜられて、かえって善良な者を処刑し、あるいは共産軍と日本軍の板挟みとなって、そのいずれにも媚び得ない憐れな心情を解せず、直ちに通匪行為としてこれを殺害する等のことがあっては、ただに中国人の民生を害するのみならず民生を失い、遂には皇軍の威信を失墜する結果となるであろう」(「国民政府の参戦と北支派遣軍将兵」昭和17年「同盟旬報」・・・・「北支の治安戦②」P-333〜334)

これを南京で敗残兵(らしき者)を即断処刑した部隊全員に朗読させてやりたいほどです。ゲリラの疑いがあろうとも(いうまでもなく民間人に化けた敗残兵の疑いがあろうとも)、それをしっかり調べずに処刑していいわけがありません。こんなことは日中戦争当時の日本軍にとっても常識だったのです。「南京事件否定派」の論理が如何に下らないものかお分かりいただけると思います。

(ちなみに日本軍も、15年戦争中を通じて「便衣戦術」を活用していたことはよく耳にします。
↓こちらは最近出回っているコピペ。沖縄の日本軍も「便衣隊」を組織していたそうです。
http://mytown.asahi.com/okinawa/news02.asp?kiji=992
また、「昭和十七年度粛正計画 昭和十七年四月十五日 第三十六師団司令部」の「第三 粛正要領 其三 粛正討伐に関する事項」では、「便衣隊の利用」の検討も含めて各種の戦法を推奨しています。
「・・・・対共戦法は最近の情報に基く敵勢の動態を精察し且既往に於て自衛並びに他隊に於て得たる敵戦法を検討し奇襲、急襲、欺瞞、迎撃、誘致、反撃、便衣隊の利用、謡言の流布、支那側警備隊の利用等の適切なる活用により常に戦法に工夫を加へ寡少兵力を以て最大の効果を獲得する如く著意するものとす」(「現代史資料⑬ 日中戦争⑤」(みすず書房)P-576)
国民党軍や八路軍だけでなく当時の日本軍も、ハーグ陸戦法規がどうたらと悩んでいる余裕は(つーかそういう発想自体)無かったようです)

10 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:34:13
しかし・・・・軍人に対して「放火すんな!」「強姦すんな!」「民間人を殺すな!捕虜も勝手に殺すな!ゲリラらしき者もむやみに殺すな!」と、こんな当たり前のことを戒告しなければならないとは実に嘆かわしい限りだったでしょう。
まるで自動車免許更新のときに「運転するときは免許証を持ちなさい、赤信号では止まりなさい」と講釈たれるが如きです。このような戒告が行なわれたこと自体、「殺つくし、焼きつくし、奪いつくし、犯しつくす」状態であったことを如実に示していると言えます。

また岡村大将の戦後の弁によると、日中共産党が自分の訓戒を「岡村の可焼、可犯、可殺の三光政策」とパロって宣伝し、「驚くべきことに日本の『進歩的学者』までがそれに便乗している」ということです。
しかし、岡村着任後に日本軍の北支戦略が変更されたわけではありませんし、また前任の多田駿司令官の下で既に「三光政策」は実行されていました。(ちなみに17745で紹介した「満州国」の実情や、「日満議定書」発布と同時に起きた平頂山虐殺事件も立派な「三光作戦」と言えます)
それに前出の城野宏さんという人によると、岡村大将は1931年から34年にかけて蒋介石軍が紅軍(共産党軍)を包囲殲滅せんとした「瑞金討伐作戦」を、「観戦武官のような形で」観察していたそうです。

「瑞金地区に根拠地をおく中国紅軍に対し、蒋の軍隊は、軍事顧問だったドイツ軍人・フォン・ゼークトの進言で、独自の包囲戦術でいどんだ。
百万の大軍で根拠地をとりかこみ、村落から紅軍協力者を探しだして皆殺しを行い、穀物も家も焼き、あらかじめ共産軍への補給源を断って、それから、軍そのものをじわりじわりと攻めていくというやりかたです」(潮出版社「日本人は中国で何をしたか・中国人大量虐殺の記録」平岡正明・著より)

11 鷹嘴 :2011/04/22(金) 00:34:44
・・・・これも立派な三光作戦と言えるでしょう。もしかしたら「三光」という造語のルーツは国共内戦なのかも??しれません。
これを観察したはずの岡村大将は、ゲリラ対策の為に根拠地を掃討し物資を奪うという方針が、民衆への無差別虐殺、略奪、強姦などの事態を招いてしまうことを理解していなかったのでしょうか?ならば岡村サンはいったい何を見て来たのでしょうか?それとも蒋介石軍は極めて軍紀が良好だったんでしょうか??(それは絶対ない!)

ともかく岡村大将は、国共内戦での蒋介石軍の「共産軍への補給源を断」つという方針と同一の、対共産軍戦略を改めることはありませんでした。
たとえ岡村大将の訓示によって、個人的な略奪・強姦・行き当たりばったりの殺戮が根絶されようとも、
日本軍の対共産軍戦略の基本方針は、ゲリラ支援を絶つために、
●民衆から食糧など物資を奪い、
●国内の自由な物的・人的交流を阻害し、
●ゲリラ支援地区の生産力を破壊し、
●ゲリラと民衆の接触を絶つために、民衆を先祖伝来の土地を追い出し、強制移住させる
・・・・・・という、中国という国を根底から破壊し、民衆の生活・生存自体を脅かすことを主要な手段としていたのです。
ゲリラ活動が終息しない限りこの作戦を終わらせることはできず、中国民衆はどこまでもとことん衰弱し、中国の大地は荒廃していったでしょう。
つまりこれは民族を絶滅させることによってしか完結させることのできない、日中戦争に於いて三光作戦と呼ばれた作戦に他なりません。

そして岡村大将も他の将兵も意識していなかったのかもしれませんが、この段階に於いて日本軍の敵は蒋介石の国民党軍でも、毛沢東の共産党軍でもなく、中国の民衆そのものだったのですから、この作戦が実行されたのは当然でしょう。日本軍が中国大陸から駆逐されないためには、つまり敵(中国の民衆)と戦っていくには、中国の民衆を果てしなく殺し続けるか、または彼らの生活・生存自体にダメージを与え続ける以外、なかったのです。


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