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【過去ログ倉庫】三光作戦関連
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:
鷹嘴
:2011/04/22(金) 00:34:13
しかし・・・・軍人に対して「放火すんな!」「強姦すんな!」「民間人を殺すな!捕虜も勝手に殺すな!ゲリラらしき者もむやみに殺すな!」と、こんな当たり前のことを戒告しなければならないとは実に嘆かわしい限りだったでしょう。
まるで自動車免許更新のときに「運転するときは免許証を持ちなさい、赤信号では止まりなさい」と講釈たれるが如きです。このような戒告が行なわれたこと自体、「殺つくし、焼きつくし、奪いつくし、犯しつくす」状態であったことを如実に示していると言えます。
また岡村大将の戦後の弁によると、日中共産党が自分の訓戒を「岡村の可焼、可犯、可殺の三光政策」とパロって宣伝し、「驚くべきことに日本の『進歩的学者』までがそれに便乗している」ということです。
しかし、岡村着任後に日本軍の北支戦略が変更されたわけではありませんし、また前任の多田駿司令官の下で既に「三光政策」は実行されていました。(ちなみに17745で紹介した「満州国」の実情や、「日満議定書」発布と同時に起きた平頂山虐殺事件も立派な「三光作戦」と言えます)
それに前出の城野宏さんという人によると、岡村大将は1931年から34年にかけて蒋介石軍が紅軍(共産党軍)を包囲殲滅せんとした「瑞金討伐作戦」を、「観戦武官のような形で」観察していたそうです。
「瑞金地区に根拠地をおく中国紅軍に対し、蒋の軍隊は、軍事顧問だったドイツ軍人・フォン・ゼークトの進言で、独自の包囲戦術でいどんだ。
百万の大軍で根拠地をとりかこみ、村落から紅軍協力者を探しだして皆殺しを行い、穀物も家も焼き、あらかじめ共産軍への補給源を断って、それから、軍そのものをじわりじわりと攻めていくというやりかたです」(潮出版社「日本人は中国で何をしたか・中国人大量虐殺の記録」平岡正明・著より)
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