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悪液質。朝起き会。

790NONAME:2017/01/02(月) 17:26:20
朝起会で正月の三日間に渡って読まれる「年頭之辞」、今年は昨年の6月に
三代目会長に就任した上廣哲治が書いたものだ。
哲治は会長就任にあたって二代目会長(現名誉会長)である父親・榮治の説いた
教えの「学び直し」をすると述べていたが、会長に就任してから『倫風』に書いた
ものもそうだが、まさしくこの「年頭之辞」も父親・榮治の言ったことのただ言葉や
事例を変えただけのシロモノ。
どうも哲治は父親・榮治に比べて頭も悪いし、勉強家でもなさそうだ。
哲治は何が取り得なのか。
(上廣家の子供はみんな慶応出身らしいが、カネとコネを使った裏口入学
というのが当っているようだ)
会の改革に事寄せて高浜虚子の「去年今年 貫く棒の 如きもの」という句を
引用しているが、この句は前の会長が何度も引用した句のはずだ。
要するに会が以前から言っている「不易流行」の言葉を変えただけのもの。
さて、何をどう変えて行くのか。お手並み拝見としましょう。
哲治がこの「年頭之辞」で言いたいことは、「実践を楽しむ」「実践の喜び」
ということらしいが、どういう理屈を付けているのか。
まず「実践を楽しむ」ということだが、今年ノーベル賞をもらった大隈良典氏や
遺伝学のメンデルを例として出しているが、結局 禅語の「随所に主となれ」を
引用して「主体的に」ということらしい。
「主体的に」とは、他人から言われたり、命令されてするのではなく、自分から
するということだが、そのためには自分からする「自由」がなければならない。
さてこの「自由」だが、三つの観点から分析することができる。
第一は、好き放題、勝手気ままに振舞うことで、一般的には否定的に捉えられて
いるが「自由」の根底にはどうしてもこの意味の「自由」が存在するのではないだろうか。
第二は、何らかの拘束より解放されることを求める自由。何かからの自由である。
私達が自由になりたいとか、自由主義と言っているのはこの意味の「自由」で、
親から自由なりたいことから、フランス革命のような自由を求めて封建体制を覆す
ようなことまで含まれる。
そして第三は、自主的、創造的な自由である。それは、何かからの自由では
なくて、それみずから在ることの自由であり、個人として、自分の能力なり、
個性なりを、何ものにも拘束されずに、完全に発揮することの自由である。
第一と第二の自由は、世俗的な拘束を前提にするから、常に矛盾を含み、
相対的であるのに対して、第三の自由は絶対的であるということになる。
この自由を強調するのは東洋的であり、仏教的である。
そしてこの自由を前提とするのが仏教を取り入れている宏正会ということです。
問題はこの三つの自由が相互に関係しあって、それぞれの内部矛盾をあらわに
することである。
そして、この三つのどの自由を強調するかで個人の問題ではなく、国家の
あり方まで関係して来る。
第三の自由は絶対的だと個人みずかの信条とするのはいいとしても、国家が
民衆にこの自由を強要するとどうなるか。国家にとって第二の自由を制限し、
民衆を国家目的に強要することに対する民衆の不満を封じ込める教えとなる。
まさに戦前の日本の軍国主義のやり方がこの方法。
そして多くの仏教教団が政府に媚びて、政府に協力するために仏教の教えを
軍国主義に都合のいいように解釈して行った。
宏正会の教えの基本はこの流れにあるのは確かだ。
初代会長は戦前は民間会社の訓育の仕事をしていたようだが、訓育とは
まさしく国民を軍国主義、国家主義に洗脳することだ。
宏正会とは、戦前の国家主義を会の中で実現しようとしているもの。

まだ言いたいことがあるが長くなるのでこの位にしておく。


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