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悪液質。朝起き会。
245
:
NONAME
:2015/02/07(土) 12:21:18
>>122
では、神渡良平『一粒の麦』によって、倫理研究所の所長 丸山敏雄と実践倫理宏正会の
初代会長 上廣哲彦の関係について報告されていますが、
丸山敏雄の高弟であった青山一真の『丸山敏雄先生の生涯』では、次のように書かれています。
上廣は、丸山に師事し、友人を伴って上京しては、丸山にいろいろ指導をうけていた。
重要な布教手段として位置づけられている会誌頒布は、最初上野駅などで行っていた。
その後、アメリカのセールスマンのやり方を模倣して、戸別訪問売りをするようになったが、
上廣が自分の銀行に勤めていた頃の預金勧誘の体験を語ったりして、この方向に進むことが
定まったりする場面もあった。
(上廣は銀行に勤めていたときには預金の勧誘で日本一の成績を上げたという実績を持ち、
人の心を把握する生来の才能を有していた)
上廣の北陸における信望は次第にまして、さながら一つの団体を構成するところまでになっていた。
・・・・・・その勢いは志友協議会に反映して当るべからざる勢となり、協議会の空気は次第に緊張の度を加えていた。
それは丸山が死ぬ一年前の昭和25年のある日のこと。
上廣はかねがね北陸における活動ぶりが華々しく伝えられ、丸山も大変信任していたが、
いつのまにか丸山と異なった意見をもつようになり、ついに8月7日の夜、所員の教育指導の一切を、
丸山の手よりことごとく我に委ねられたしと要求するにいたった。
・・・・・・丸山は、この上廣の申出を、静かに、しかしはっきりと、学道の順逆を説いてしりぞけた。
ここにいつの間にか上廣の気持ちが、丸山を離れていることが明らかになった。
・・・・・・丸山は懸命に師弟の道を説いた。
『順』はそれ自体が弟子の唯一道であると共に、その極点が、真の倫理者となる
唯一道でもあるからであった。
論文『学道』は『倫理者の態度』は、いずれもこの弟子を思う熱涙をふるって書かれたものであった。
しかし・・・・・・ついに悲しむべき別れを見るに至ったのである。
かくして又、大きな期待をかけた弟子の一人は、師辺を去ってしまった。
上廣は、商人的な才能に富み、人の下に立つのがなにより嫌いな男であった。
宏正会は、初代会長が「ひとのみち」の教師であったことは勿論、倫理研究所の所員であったことも
いっさい言及せず、このことについて会員が言及することについて圧力をかけているようです。
このような事情からしても、倫理研究所側の言っていることに信憑性があるのではないでしょうか。
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