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聖書通読

1福音伝道:2023/03/14(火) 05:40:03 ID:0BUKU4Ck
聖書通読のスレッドです。

manna通読表に従って読んでいきましょう
https://wlpm.or.jp/manna/my-calendar/

2福音伝道:2023/03/14(火) 05:41:08 ID:0BUKU4Ck
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ18章です。

3福音伝道:2023/03/14(火) 06:46:24 ID:0BUKU4Ck
990:atheist:2023/03/14(火) 06:17:19 ID:???
病や障害あるいは死は、神が(イエス)が克服することによって神の栄光が現れるためにあるのだ
というような神学ですね
イエスはたしかに福音書の中で、病や障害を癒やし、またごく少数ですが死からの復活も行っています

しかしこれは裏を返せば、こういった奇跡を示すために、あの人は病になり、障害になり、死んだのだ、
ということになってしまいますね
しかもではイエスに癒やされなかった他の多くの人はどうなるのか、ということになり
ヨハネの説明では病や障害や死の一般的な理由とはならなくなってしまいます

教会的には信仰によって復活後に永遠の命を得ることになりますから
こういった病、障害、死も信仰によって将来的には克服されるということなのでしょうが

さてルカの17章ですが、罪の誘惑、悔い改めと赦し、信仰の力、7節からは僕と主人の感謝の喩え、
11節からはらい病患者の癒やし、20節は有名な神の国の話、あとは終わりの日の話という感じで
ここもまた盛りだくさんですね

今回気になったところは、まず主人と僕の喩えが語られている7-10節です
教訓としてはなすべきことをなし、感謝や見返りを求めるな、ということなのでしょうが
8節が主人の当然のセリフと言われると、いやちょっと待て、と言いたくなってしまいますw
これも僕というものが当然であった古代だから理解しやすい喩えとして語られたのかも知れません

それかららい病患者の癒やしですが、イエスの元に帰り感謝したのはサマリア人ひとりということになってます
ここでもユダヤ人に対する異邦人の信仰が強調されてます
善きサマリア人の喩えもそうでしたが、ここでも「ユダヤ人に対して」というのが強調されているようです

あとは例の20節ですね
神の国は「あなたがたの只中にあるのだ」の解釈ですが
「あなたがたの心のうちにある(within youあるいはin you)」なのか
「あなたがたの間にある(among you)」なのか、あるいは時間的なものとして
「すでにここにある(already here)」なのかなど、昔からいろいろと解釈が分かれてきた箇所です
先生はここをどのように解釈されますか?

4福音伝道:2023/03/14(火) 07:46:55 ID:0BUKU4Ck
>>3
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ18章です。

7-10節は、神への絶対的服従を説く箇所ですね。
指摘されてきづきましたが(当たり前のこととして刷り込まれています)
主イエースースが使徒たちに対して、神への絶対服従を説く箇所です。
神へ奉仕したからと言って神から感謝されるなどと思うな。
自分は「至らぬ者」「役に立たない者」だと常に謙虚に奉仕し続けなさいと
説かれています。

現実問題としては、古代の奴隷たちは屋外で働く奴隷と、屋内で働く奴隷は
別だったでしょうから、畑から帰って来て、料理して給仕もするというような
ことはなかったでしょうが、奴隷が主人から感謝されるということはなかった
のでしょう。わかりやすい譬えだったのかもです。

先の説教では、弟子たちに奉仕しても感謝を期待するなと言っているのに
らい病人の話では、癒された者の中で感謝しに帰ってきた者だけが讃えられている
矛盾であるがルカは平気です。

20節はentosという前置詞(本当は副詞だが、前置詞として代用)をどう解釈するかです
0.enという前置詞に-tosという強調/指示の語尾をつけたもので「中に、内に」という
 ことをやや強調した表現となっています。用法としては多様なので議論がわかれています
1.ラテン語intra(内側) ・・・心の内にある系統の訳
2.ラテン語inter(間に)・・・あなたがたの間に、只中に系統の訳
3.古代のテルトゥリアヌスが、「あなたがたの手のうち、あなた方の可能性のうちにある」と訳していて
原文はid est in manu,in potestate vestra
私は3の立場
あなた方の手の届くところに神の国はある。
と解釈しています

5atheist:2023/03/15(水) 01:48:54 ID:???
>>4
ここもルカの観点では、一方は主から従への感謝、他方は従から主への感謝なので非対称である、
という暗黙の価値判断があったのかもしれませんね
ユダヤキリスト教の創造主-被造物という非対称性がこういった価値判断の背後にあるのかも知れません
ところがイエスが説いた教えは、先のものが後になり、後のものが先になる、とか
主は仕えるものといった大きな価値の転換があったように思います
もちろんイエス自身は父(神)に対してこの非対称性を前提にしていたと思いますが
自身と民の間にはむしろ自身が積極的に民に仕えるという思想があったように思います

20節は英語で言えば within the reach of みたいな感じですかね
「あなたがたの心の中にある」とか「あなたがたの間にある」とか「すでにある」というのは
現代人にとっては自分の心さえ変えれば、あるいは人間関係を変えれば、もうすでに
そこは神の国なのである的な解釈というのは馴染みやすいのだと思います
しかしイエスは人々に悔い改めを求め、悔い改めて生きることが救いへとつながると説いているわけですし
神の国というのは単に個人や社会といった単位のことではなく、大げさに言えば宇宙的刷新といった
スケールのことを言っていたのかも知れませんから、差し迫った終末観とも合わせると
「手の届くところに」というのは適切な解釈のように思われます
ただ他の解釈もそれなりに納得できてしまいそうなので、これだけ長く議論が続いているのでしょうね

さて18章です

冒頭8節までがやもめと裁判官、次がパリサイ人と取税人の喩え、15節からは幼子の話、
18節からは例のらくだと針の穴を含む、神の国へ入ることの困難を説いた話、31節からは受難の予言と
盲の癒やしですね

最初の裁判官の話はやはり差し迫った終末観の元でルカが速やかに神の裁きが来ることを述べた話
だと思います
前半の裁判官は不義な人間でも民の叫びが耐えなければ重い腰を上げるのに
正しい神がすぐさま裁いてくれないことがあろうか、と言っているようです
30節でも神の国のために家族を捨てた者は「必ずこの時代に」その幾倍もを受け、と言っています
ルカも差し迫った終末観の元でこの福音書を書いていたのだという気がします

24-25節では裕福な人が神の国に入るのは難しいということを明確に述べていますが
ルカ版山上の垂訓でも「貧しい人は幸い」でした
この貧者の救いというのをルカは強調しているようです

6福音伝道:2023/03/15(水) 15:58:30 ID:0BUKU4Ck
>>5
atheistくん、こんにちは。本日の聖句はルカ19章です。

裁判官は律法学者らが務めたそうなのですが、原話は、
裁判官は、庶民が訴えてもなかなか裁判してくれないという話で
ルカがそれを元にドグマを展開しているわけです。

25節 針の穴。訳し同じですが、マルコをルカは言い換えています。
マルコの穴は、あまり使われてない単語なので、マタイとルカは普通の語に
言い換えているのですが、ルカは、針の方も言い換えています。
マルコの針は縫う動詞の名詞化。これも普通の針。
それをルカは「尖ったもの」を使用して「針」としています。
ルカはマルコを言い換えたいみたいです

7atheist:2023/03/16(木) 01:03:09 ID:???
>>6
裁判官の喩えは、原話を利用して腰の重い裁判官ですら
庶民がしつこく訴えれば裁きを行うのだから、正しい神であればすぐに裁きを行ってくれると
展開したものですね

ラクダと針の穴は和訳では同じだが、原文では違う単語を使ってるわけですね
ルカ的にはより分かりやすいギリシャ語に変えたという感じなんでしょうか

さて19章ですが、冒頭はいつだったか休日分として読んだ取税人の話、次は僕に預けたお金の喩え、
28節からはエルサレム入場ですね

11節から始まるこの喩えは、預かったお金(ここはイエスによって教えられたものくらいの意味でしょうか)を
ちゃんと有効活用(布教や奉仕?)したかどうかを問う喩えですかね
ただそうだとすると23節の「銀行に入れる」というのがよく分からなくなります
ともかくも結論としては26節の勤勉であった者はますます与えられ、怠惰であった者はますます失う
ということのようです
続く27節はずいぶんと不穏なセリフですねw

8福音伝道:2023/03/16(木) 06:32:35 ID:0BUKU4Ck
>>7
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ20章です。

ミナの譬えはマタイに平行記事があるが、単語も内容も違うので
原話は主イエースースに遡るが、それぞれマタイとルカによる脚色が
入っているようです。マタイはタラントの譬えです。

さて身分の高い人が王位を承認されるために遠方に出かけるのは、ローマ属国では
よくあった話でローマに出かけて運動をして承認を得る必要があった。
その際、奴隷(僕)が家の財産を管理したのですが、奴隷と言っても家令であって
かなりの権力があった。10人の家令(執事)に1ミナづつ10ミナを預けて出かけ
そして王位を得て返って来ると、優秀な家令は10ミナと10倍にしていたわけです。
1ミナは100万円程度ですので1000万円にしたのですね。そこで10都市の管理、
地方管理を委ねたのです。五倍にした執事には五都市の管理を任せたのですね。
しかし1ミナのままの執事は無能で、1ミナのままだったので、新王は怒ったのです。
銀行に預けておれば利子が期待できるからです。今はゼロ金利で利子がほぼありませんが
昔の郵貯6.33%の頃だと10年預けたら倍になってましたし、今でも外債を買えば
5.6%とかありますし、高配当の商船三株だと配当が約16%あります。
金持ちからすると、金は金を産んで当たり前。増えないというのは怠慢なのです。

無能執事は投資運用して失敗して損を出すよりはまし、損を恐れて大切に持っていた
わけですが、
マタイでは外の闇にほりだされて嘆きと歯ぎしりをすることになり
ルカでは王位に反対した者として殺されてしまいます。

ミナの譬えとまったく連続しない27節がルカの言いたかったことですね
ヘロデの死後、息子たちはローマに出かけ王位を承認されたのですが、
ルカはこの話を比喩して、主イエースースが王位に就くことに反対して
十字架で殺してしまったユダヤ人、キリスト教宣教に反対していた者たち
が、罰せられるよと言いたいわけです。
ただミナの譬えに強引に入れたのでうまくリンクしてないのですが

9atheist:2023/03/17(金) 01:32:34 ID:???
>>8
あーこれはタラントの喩えのルカバージョンなんですね
属州の王位候補者がローマに参じて王位の承認を得ようとする当時の実情を
下敷きにした話ってことですね
その際には家財を任された家令の財産管理・運用を喩えとして、与えられた物をどう活かすか
という教訓話になっているわけですね
27節はこの教訓とは連続しないユダヤ人への批判が結論部分に来てしまっているため
うまく例えがリンクしていないように感じるんですね

さて20章はイエスをはめようとするユダヤ人たちとそれを見事な答えで黙らせるイエスの話が
連続しています

ぶどう園の喩えはキリストの受難と神の裁きという神学をユダヤ人に対する痛烈な批判として
ルカは語っているようです

41節からは例の詩篇を用いてイエスが主であることを説いていますが
ここはそのことよりも、ユダヤ人が待望しているメシア(キリスト)が
ダビデの家系(子孫)であることをイエスが否定している側面が目に付きました
もちろんイエスはキリストはダビデの主である、つまりダビデより上の存在であるということを
言わんとしたのでしょうが、ダビデの子孫であることを否定するのはルカ自身の最初の系譜(3章)と
矛盾しませんか?
それとも3:23「人々の考えによれば」で暗示されているようにイエスは実質的にはヨセフではなく
神の子であるから、そこは問題ないと、ルカは考えているのでしょうか
だとしたらなぜルカはダビデの系譜をわざわざ挙げたのかという疑問が生じます

この章は全体的にみると
今までで最もユダヤ人に対する批判意識が全面に出ているような印象を受けました

10福音伝道:2023/03/17(金) 07:09:55 ID:0BUKU4Ck
>>9
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ21章です。

クリストスがダビデの子ではなくて、ダビデの主である
というのは、マルコ、マタイに共通しているのでルカは、その共通資料を
ここに挿入したのでしょう。
ルカはそもそも整合性を気にする人ではないので、ダビデの系譜と矛盾しても
気にならなかったと思います。

むしろ42節の「詩篇の中」 これはマルコ・マタイでは「聖霊によって」です。
ルカは聖霊を「詩篇」と言い換えています。
ダビデごときが聖霊によってものを言ったと言いたくなかったみたいですね

それとマタイの系図はユダヤ的ですが、ルカの系図は神まで遡っていますので
ユダヤを超えている感があります。

11暇人 A:2023/03/17(金) 11:27:41 ID:???
>>1
manna通読表って順番がランダムな感じがしますね。

12福音伝道:2023/03/17(金) 20:20:56 ID:0BUKU4Ck
3年で聖書を通読できる構成のはず

以下コピー
1)週日の聖書通読では、旧約と新約をバランスよく読んでいきます。
2)週日の聖書通読を続けていくと聖書を全巻読めるようになっています。
3)土日は、教会学校教案誌「成長」に準拠し、3年間で聖書全体を大づかみにすることができます。

13atheist:2023/03/17(金) 23:50:23 ID:???
>>10
キリストがダビデの子ではなくダビデの主であるというのはルカ独自ではないということですね
そのうえでルカの場合、あまり整合性を気にしていないわけですね

「詩篇の中で」はマルコ・マタイの「聖霊によって」をルカが独自に言い換えているのは
キリスト以前のダビデというユダヤ人に聖霊を適用するのを嫌ったということですか
もしかしたらこのへんもルカのユダヤ人批判の一環なのかも知れません

ルカの系図が神まで遡っているのは見落としていました
神まで遡ることでユダヤ人を超えた神、異邦人も含む全世界の神、ということを強調したかったの
かもしれません
マタイがたとえばカナンの女のエピソードで見られるようにユダヤ人優先主義の観点から
イエスを描いているのに対し、ルカは善きサマリア人や先日の癒やしの感謝の例のように
ユダヤ人に対する異邦人の卓越性を強調するきらいがあるように思います
全体的にルカはイエスや神からユダヤ色を削ぎ落として描こうとしているように感じます

さて21章はイエスの終末予言の箇所ですね

9節で「終わりはすぐには来ない」、10-12節、25-26節で世界規模の異変や迫害を語っているところから
ルカは終末を福音書執筆時よりも後においているように見えますが、20節では明らかに
70年のエルサレム包囲を念頭に置いて語っているように見えます
どっちなんだろうと思いましたが、32節で「これらのことが、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びない」
と書いているので、要は終末はエルサレム包囲戦あたりからすでに始まっていて
最終的には天変地異が起こりそのまま終末-再臨になだれ込む、というようなイメージを
ルカは持っていたのかなと思いました

パウロもそうでしたが、新約聖書の記者たちは、自分たちが生きている時代、そうでなくとも
そう遠くない未来に終末が訪れると確信していたようですね

むしろその後の教会教父たちがこの終末遅延問題をどのように捉えていたのかのほうが
気になります

14福音伝道:2023/03/18(土) 10:49:43 ID:0BUKU4Ck
>>13
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はヨハネ14:1-14です。

パウロ派のマルキオンは、完全にユダヤ要素を払拭した、修正ルカ+修正使徒を
編纂し、それにパウロの手紙をつけて最初の聖書を編纂しました。
正統派は、これを批判してヘブライ語聖書+無修正四福音書+使徒+手紙という
スタイルを確立していったのですが、福音書+手紙というアイデアは異端と排斥された
マルキオンのものですね。
これに比べるとルカは国際派でユダヤの事はあまり知らなかった。
マタイは堪能なギリシア語を喋りつつ、国際派の中でユダヤ要素の重要性を訴えている
一方、それは理念的なもので、実際の地理情報とか主イエースースの交友情報などは
ヨハネが知悉していたということが言えるかもです

15福音伝道:2023/03/18(土) 11:26:10 ID:0BUKU4Ck
5節 「ある人々」、ルカは神殿崩壊が起こった後に書いているので、本来は
使徒の発言であるが、使徒の名誉を守るために「ある人々」と婉曲に胡麻化している。
9節-11節 終末が来る前にいろんな前兆がありますよという俗説をルカは素直に信じ、
信ずるばかりか色々な俗説を収集して披瀝している。

20-24節 エルサレム陥落について知っているのだが、予言の形で書いてます。
25-28節 終末 人の子の来臨
29-33節 終末の時

神殿はすでに崩壊しているので、既に終末期間に入っているので常に警戒して
備えなさいよという本筋と
一方で遅延している間に、多くの偽預言者が現れて、終末詐欺を働くので
だまされないようにしなさいという脇筋の8節が混在しています。

結局ルカも終末危機を煽っている一人なのですが、現実には終末が来ないので
いろいろと言い訳しなければならいということですね

16atheist:2023/03/19(日) 01:45:26 ID:???
>>14-15
ヘブライ語聖書を嫌ったマルキオンが福音書としてルカのみを採択したのは頷ける気がします
教会的な理由ではありませんが、ユダヤ要素を重視したマタイや共観福音書とは一線を画すヨハネなど
視点の異なる福音書が正典に採択されたのは、イエスや原始キリスト教の実像を探る上で
ひとつの視点に囚われることなく考察できる余地が残ったという点で、良かったのだと思います

福音書に書かれることになった終末の前兆は福音書執筆当時の教会で流布していた俗説を
含んでいるということですね

ルカはエルサレム陥落からすでに終末が始まっていると考えていたものの
どうもそのあとが続く様子がないことから偽預言者への警戒というかたちで
いわば遅延の弁明をしているということですね

さて休日分はヨハネの、これは最後の晩餐時のイエスのことばの部分ですかね

簡単に言ってしまえば、子は父を体現している、という主張に尽きると思います

よく6節が引用されますが、わたしはこういったところにキリスト教の排他性を感じます
はたしてイエスは本当にこんなことを言ったのか
イエスはたしかに父に自分は遣わされたと考えていたとは思います
しかしここまで独善的に自身を考えていたのか、非常に疑問です
まあイエスを神とみなすヨハネが書いていることなので、ヨハネの文脈では違和感はないのでしょうが
冒頭の神学的叙述ではなく、イエスのことばとして書かれると、わたしには抵抗があります

17福音伝道:2023/03/19(日) 06:44:32 ID:0BUKU4Ck
>>6
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はルカ22章です。

ヨハネ14:2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。

原文の「多くの住まい」の「住まい」は、滞在するという動詞の名詞化である
モネーであるが、対応するラテン語がmansioで、現代語のmansionになった語です。
なので、原文は
「私の父の家には、多くのマンションがある」と書いています。
使徒たちや弟子たちの家のみならず、大勢の人たちの巨大マンションがあり、
わざわざ弟子たちのために主イエースースが住まいを準備しなくても十分な数の
マンションがあるので、心配するなと2節で言っています。

3節では逆に教会的編集者が、2節を否定して、弟子たちのために住まいを準備して
準備完了したら、再臨して迎えに来るという教会的編集者のドグマ「再臨待望」を
入れています。

さて6節は原著者の考え方です。
真理を知ろうとする者は主イエースースという道を辿りなさい。
どこへ行くための道か。主イエースースのちころへ至る道である
主イエースースは、道であり、真理であるのだという思想ですね

私は排他性をここに感じないですが、主イエースース自身がこれを
云ったかと言えば、そうではなくて原著者の典型的思想です

18atheist:2023/03/20(月) 01:59:58 ID:???
>>17
巨大マンションと言われると、急にありありとしたイメージが湧きますねw

6節は原著者の神学思想というか、信仰だと考えれば、そういう信仰なんだ、で済ませられるのですが
イエスのことばとして読むと、どうもイエスが言いそうにないことだと思えて排他的に感じるのかも
しれません

19福音伝道:2023/03/20(月) 05:53:13 ID:0BUKU4Ck
>>18
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ22章です。

超巨大マンション群が、延々と続いている神の国。。。
壮大な風景ですね

20atheist:2023/03/21(火) 01:10:20 ID:???
>>19
ルカもいよいよ終盤ですね
今回の章は最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、捕縛といった、これまたよく知られた流れです

今回気になったのは、まず3節の「ユダに、サタンがはいった。」という箇所です
ルカはイエスの物語を神話的に装飾しながら語りますが、ここでもサタンを持ち出すことで
ユダの裏切り行為に神話的な理由づけしています
マルコやマタイは単に金銭的な動機の記述にとどまっていたように思います

それからゲッセマネでの弟子たちの居眠りに関しては、マルコなどに比べると
弟子たちの精神の弱さやイエスの叱咤が非常にマイルドに表現されていて目立ちません

あとはマルコやマタイとの顕著な違いってありますかね?

ルカには他の福音書にはない重要な話もありますが
マルコやマタイに比べ、物語に切迫感がないというか、きれいに仕上げすぎている印象があります
絶命の場面でのイエスのことばがその典型と言ってもいいと思います
ユダヤ色が薄いという特徴とも合わせて、その分だけ非ユダヤ人には読みやすかったのかも知れませんね

21福音伝道:2023/03/21(火) 07:52:54 ID:0BUKU4Ck
>>20
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ23章です。

ルカ神学では、主イエースースの公活動期間はサタナスの活動が一時停止されて
ましたが3節で、停止されていたサタナスが動き始めるのでした。

14-23節 最後の晩餐の個所は、ルカは順番を入れ替えている。
聖餐式設定を先にし、裏切り予告を後に入れ替えた。
そしてマルコ・マタイではぶどう酒を飲まないだけであったものを
神の国が来るまでは過越しの食事をしないへと変えています。

またルカの聖餐式設定はパウロ系教会に通っていいため、
マルコ・マタイ系統の伝承とは違い1コリ11:23-25系統のものとなっています

22atheist:2023/03/22(水) 00:44:50 ID:???
>>21
> ルカ神学では、主イエースースの公活動期間はサタナスの活動が一時停止されて

ルカ的には神対サタンの闘いという構図が背景にあるわけですね

最後の晩餐の流れも、ルカは聖餐式→裏切り予告の順で記述し
神の国の到来までは、ぶどう酒のみならず食事もしない、となってるんですね
このあたりはパウロ教会の系統ってことですね

さて23章はピラト(とヘロデ)によるイエスの尋問、及び磔刑の場面ですね

今回感じたことは、まずこの場面はルカの反ユダヤ主義的傾向が最も顕著に表れている
箇所ではないか、ということです
といってもあからさまに反ユダヤ的記述をしているというよりも、ピラトと民衆を対照することで
ユダヤ人の頑なな姿勢を強調している、というような描き方ですが

それからルカではピラトのみならずヘロデによる尋問も追加されています
ピラトは一貫してイエスに同情的に書かれていますが、ヘロデは最終的にはイエスを侮辱したり
嘲笑したりしたと書かれています
それにもかかわらず13節ではヘロデとピラトが意気投合したかのような書かれ方をしています
この辺はルカがヘロデの尋問を物語に挿入してしまったため、ちぐはぐになっているような印象を
受けました

最後の十字架上での三人の会話は、マルコ・マタイと異なることもありますが
あまりにも予定調和的で、ほぼルカの創作だと思います

23福音伝道:2023/03/22(水) 05:49:45 ID:0BUKU4Ck
>>22
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ24章です。

ガリラヤはまだローマ直轄領で無くてヘロデ・アンティパスが支配していたので
ルカはガリラヤ人の裁判権はヘロデにあると思い込んで創作したのですが、
普通の庶民は逮捕された土地の支配者に裁かれるものなのでルカの誤解ですね

口語訳は
23:12ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。
と、意気投合したかのように訳されていますが、誤訳で原文は「友好的になった」

どういうことかというと、一方がAと言うと、他方はBを主張し、常に敵対しあって
いたが、こと主イエースースの裁判については「無罪放免」で意見が一致した
ということだけです。

十字架上での会話はルカの創作ですね。

24atheist:2023/03/23(木) 02:09:27 ID:???
>>23
もちろん近代的な史的記述の水準を古代のルカに求めるべきではないのですが
これだけいろいろと創作を付け加えられると、ルカの記述に史実としての信憑性を認めるのは
難しくなってきちゃいますね
宣教の書ですから、信仰として読む分にはいいとしても

12節の原文は「友好的になった」ということなんですね
ヘロデとピラトは敵対しあっていたがイエスを無罪とする点では一致していた、ということですね

さてルカもついに最終章ですね

空になった墓の場面はマルコ・マタイと共通していますが、細部は違いますね
マルコは「若者」、マタイは御使いですし、マルコは女たちが来たときはすでに石はどかされ
「若者」は花の中に座っていたのに、マタイは女たちが来たときに目の前で御使いが降ってきて
石をどかしたことになってます
それに対しルカはマルコ同様女たちが来たときにはすでに石はどかされていましたが
そこにいたのはふたりになっていますヨハネもふたりの御使いが出てきますね
またルカにはガリラヤに行けという示唆がないですね
(ヨハネに関しても細部は他3書とは異なってますね)
さらにそのあとにはエマオのエピソードが書かれてますが、これはルカ独自ですね
しかも復活したイエスと弟子たちは相当程度に言葉をかわしています
33節以下もイエスの復活が事実であったことを強調する話になっています

個人的には、おそらくイエスの墓が空になっていたのは史実であろうと思います
イエス在世当時にすでにパリサイ派の間では復活信仰があったので
この事実と復活信仰が結びついて、イエスの復活神話が原始キリスト教会のなかで
成立していったのだと思いますが、先生の見解はどのようなものでしょうか?
これは以前に何度かお尋ねしているとは思いますが、先生はアリマタヤのヨセフが怪しいということでした
墓の空白の原因はそれだとして、イエス復活神話の成立に関してはどのようにお考えですか?

25福音伝道:2023/03/23(木) 05:55:58 ID:0BUKU4Ck
>>24
atheistくん、おはようございます。本日聖句はエゼキエル1-2章です。
ルカ、ご苦労様でした。本日からはヘブライ語聖書2章づつです。
大変ですがどうぞよろしく。

4節二人になっているのは、ユダヤ教では証人は二人いないといけないと言われている
のでマルコの一人を二人に増員させたのでしょう。

復活信仰は、キリスト教のごく初期に生じたのであろうと思われます。
ただ原マルコには復活物語がなく、後世マルコに書き加えられていますので
復活信仰を持たないグループもあったと思います。
私はむしろ持たなかったグループの信仰に興味があります

マルこはガリラヤへ帰れというガリラヤ派。
ルカは使徒たちがエルサレム神殿の信仰を守ったと信じていたようです。

26atheist:2023/03/24(金) 00:54:07 ID:???
>>25
ルカやヨハネでふたりになっているのは、そういう理由だと考えられるのですね

復活物語を欠く原マルコから推察するに、ごく初期の信仰では復活信仰をもたない信仰集団も
いた可能性があるということですね
おそらくは復活がなければイエスの生涯は敗北として終わったことになると考えた人々が多かったので
最終的には復活信仰を持つグループの信仰が主流となっていったのかもしれませんね

マルコの「ガリラヤへ帰れ」というイエスのメッセージと、エルサレムに残存することを描いたルカの記述の
相違は面白いですね
ここは詰めていくと初期の信仰についてまた違った姿が見えてくるかもしれません

さて今日からはエゼキエルということですが、イザヤ、エレミヤがすでに終わっているので
エゼキエルを乗り切れば、いわゆる三大預言書コンプリートですね
また2章ずつという強行軍ですが

まず1章冒頭はエゼキエルが神の幻を見た経緯が書かれていますが、聖書には珍しく
具体的な日付が書かれています
エホヤキン王の捕囚時にエゼキエルも捕らえられたことになので第一回捕囚の5年後ということですね
そのあとは延々と神の幻について描かれていますが、わたしには単なるグロテスクでまとまりのない
マンガ的描写のようにしか思えません

2章はその幻の中で神がエゼキエルに語りかける場面です
神はこのなかでイスラエルを「反逆の民、反逆の家」と呼びます
このへんはエレミヤなどとも共通して、イスラエルが捕囚の憂き目にあったのは
彼ら自身が神に背いたからだ、ということですね

表現上目につくのは「人の子」です
新約聖書ではイエスの自称ですが、ここでは神がエゼキエルに対して呼びかけるときの呼称になっています
イエスも当然エゼキエル書は読んでいたでしょうから、なぜイエスも自分のことを「人の子」と読んだのか
気になります
イエスには自分がエゼキエル同様の預言者という自覚があったからなのか、あるいは単に
当時一人称の呼称として慣用的にこのような言い回しがあったからなのか、どうなんでしょうね

27福音伝道:2023/03/24(金) 06:11:37 ID:0BUKU4Ck
>>26
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル3-4章です。

マンガ的な四つの生きものの形ですが、意外に重要で、古代バビロニアの
神殿の守護神に由来するのですが、この「四」が「全体」を象徴するという
ところからエイレナイオスは四福音書論を展開しローマが支持し、我々の
聖書となりました。「人間」「獅子」「牛」「鷲」も神の力の象徴(黙4:7)との
理解から、「人間-マタイ、獅子-マルコ、牛-ルカ、鷲-ヨハネ」と類比的に解釈されてます。

人の子はベン・アダムですが、元々は永遠性を持つ神に対して朽ちてゆく人間のもろさ
を含んだ言葉です。(民23:19 ヨブ25:6 詩8:5  イザヤ51:12)
ところがエゼキエルでは「人の子」が94回使われていて、重要タームとなってます。
神が民へと遣わす予言者の呼び名が「人の子」となっています。
更にダニエル書では「人の子」は、雲に乗ってやつてくるメシアとなります。
黙示文学となり、更にギアアップするわけですね。
そして新約聖書ではマルコから「人の子」が使用されていますが
新約聖書88回の用例のうち80回が、主イエースースの自己の呼称だそうです。
典型的には二種で、自己の苦悩を表す時に用いられる場合と
終末的な審判者として再臨に関する言葉として用いらりる場合です

苦悩の場合の背景はイザヤ、再臨の際の審判の背景はダニエルです。

28atheist:2023/03/24(金) 22:37:31 ID:???
>>27
四福音書の正典化にエゼキエルのこの記述を利用したということですね
思いっきりこじつけに感じてしまいますが

「人の子」に関しては、基本は神に対置される死すべき人間というニュアンスで使われていた表現が
エゼキエルで預言者を指すようになっていき、ダニエルでは雲に乗ってやってくるメシアにまで
その「地位」が上昇して、ついにはイエス(マルコ)によって、メシアとしてのイエスを指すまでに
至った、という感じですかね
イエスに対して使われる場合は、イザヤ→苦悩、ダニエル→再臨という意味合いを含んで使われる
ということですね

さて3章は、まず巻物を食べるという象徴表現が使われていますが、重要なのは5-7節で書かれている
ように、異国人なら神の言葉を聞いたであろうが、イスラエルは聞くのを好まないとなっている部分だと
思いました
ともかくイスラエルの頑なさを強調しているようですね

そのあと神は自分に代わって民を戒めるようエゼキエルに言いますが、何度も「反逆の家」という
表現が出てくるように、ここでもまたイスラエルの頑なさが強調されてますね

たいしたことではないですが、15節に出てくるテルアビブは現在のイスラエルのテルアビブの由来に
なっているんでしょうかね

4章はエルサレムの包囲とユダの滅亡の象徴表現が中心になっているようですね
一応イスラエルの家とユダの家の両方が語られていますが、おそらく神の言葉の中心は
これから来るエルサレムの崩壊とユダの滅亡ということなのでしょう
それにしても両方の家の罪を負わされるエゼキエルはなんともかわいそうですw
しかも人糞で焼いたパンを食えとまで言われます
さすがにエゼキエルも必死に抵抗して人糞から牛糞に変えられますが、このへんはちょっと滑稽ですね

聖書では比喩や象徴表現がよく使われますが、エゼキエル書の表現は飛び抜けて奇妙ですw

29福音伝道:2023/03/25(土) 08:56:41 ID:0BUKU4Ck
>>28
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はヨハネ15:1-17です。

四福音書論はエイレナイオスによる完全なこじつけですね
でもただのグノーシス盛んな地方で成立したヨハネ書をうまく
正典に挿入できたのでした。まあローマが支持したからですが。

エゼキエルでは、「人の子」が予言者に対する呼び名となってますが
従来の「人類の成員の一人である者」という立場に変更はなく、
神の栄光との対比が特徴づけられていますので、「予言者」と言っても
「霊」が彼の足を踏むまでは立ち上がることもできなければ(2:2)
神が彼に入れた言葉しか語ることができないようにされます(3:27)
つまりまさしく神の言葉を預かって語るだけの「預言者」です。

テル・アビブはフランシスコ会訳注によると「穀物の穂の丘」という意味。
ここに捕囚民の中心集落があった。
新共同訳聖書辞典ではアッシリア語で「洪水の丘」という意味。
捕囚民が住んでいて、バビロンの近くというだけで詳細は不明とのこと
wikiでは、テルアビブの地名は、旧約聖書のエゼキエル書3:15に登場し、
捕囚のイスラエル人が共同居住地として住まわされた新バビロニア帝国の町の名に由来する。
テルとはヘブライ語で「遺跡・廃墟」、アヴィヴとはヘブライ語で「穀物の耳」(=穀物の穂)の意で、
転じて春のこと
20世紀になって入植したユダヤ人たちによって名付けられたみたいですね
元の町は古代港湾都市ヤーファー。

30福音伝道:2023/03/25(土) 10:54:11 ID:0BUKU4Ck
インどでは、牛糞で普通にパンを焼いていますね。
煙が出なくて調理によいそうです。牛糞の灰が料理にかかったりする
そうですが灰なので浄化されているみたいですね

31atheist:2023/03/26(日) 00:51:50 ID:???
>>29-30
イエスの神格化にとって、ヨハネ福音書が正典に入るかどうかは
のちのキリスト教にとって決定的ですから、こじつけでもなんでも四福音書を正典化する必要が
あったのでしょうね

たしかにエゼキエル書ではエゼキエルは神の言葉を受け取り、その命を実行するだけで
特段奇跡を起こしたり超人的な振る舞いをしたりするわけではないですね
ということはダニエル書の「人の子」というのが、福音書に与えた影響のほうが大きそうということですね

テルアビブはやっぱりエゼキエル書のこの箇所から来てるんですね

牛糞で普通にパンを焼くことがあるなら、人糞から牛糞への変更は
エゼキエルにとっては神様からかなりの譲歩を引き出したことになりますねw

さて休日分はヨハネのぶどうの木と枝の比喩のところです

ここではイエスにつながることが強調されてます
今回目についたのは15節です
弟子たちを僕ではなく友と言っています
弟子たちがイエスのしていることをちゃんと理解していることが友と呼びうる理由となっているようですね
僕は言われたことをただ遂行するだけ、友は理解し遂行する、という違いでしょうか

32福音伝道:2023/03/26(日) 16:39:48 ID:0BUKU4Ck
>>31
atheistくん、こんにちは。明日の聖句はエゼキエル5-6章です。

ヨハネ14:31で、「立て。さあ、ここから出かけて行こう。」
と言っているので、実は原ヨハネはここで終わり。
15-17章は教会的編集者のドグマが付け加えられている箇所です。

1-8節は、詰まるところ正統信仰にいない者は教会から排除しますよという脅しです。

さて15節。「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。」
ということは、論理的必然として、主イエースースが弟子たちを今までは
「しもべ」と呼んでいたことになるが、そんな事実はない。皆無である。

教会的編集者は、8:34-35か13:16の比喩を読み違えて、こういう与太話を
しているのである。
教会のドグマを守って遂行するカルト信者は「友」ということみたいですね
まじ馬鹿にした話ですね

33atheist:2023/03/26(日) 23:10:33 ID:???
>>32
そういえばイエスが弟子たちを僕と呼んでいる箇所はまったく思い当たりませんね
仕える者となれといった類いの発言はありますが、それはあくまでも弱き者や貧しきものに仕えるのであって
イエスに仕えよということではないですからね

34福音伝道:2023/03/27(月) 06:36:18 ID:0BUKU4Ck
>>33
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル5-6章です。

使徒では主イエースースが「神の僕」と呼ばれてますし
ロマ書ではパウロス先生が「クリストス・イエースースの僕」と自己紹介しています。

さてヨハネ書で実際に主イエースースから、友と呼ばれているのは
ラザロだけですね

35atheist:2023/03/27(月) 23:35:54 ID:???
>>34
ラザロはなんでそれほどまでに特別扱いされたんでしょうね
実際はイエスが友と読んだ人はもっとたくさんいたのかもしれませんが
少なくともラザロは「復活」までしてますし
もしかしたらヨハネ福音書の記者がラザロとなんらかの特別な関係(例えば血縁関係とか)に
あったんですかね

さてエゼキエルの5,6章です

5章はエルサレムの命運を、エゼキエルの髪の毛とひげを使って表すよう神がエゼキエルに命じます
想像すると相当奇矯な光景ですが、イスラエルの民にその命運をありありと見せようとしたのでしょう

「異邦人よりも狂暴」と言うくらいですから、捕囚前のエルサレムの状況は
ヤハウェ崇拝原理主義者たちにとっては目を覆うばかりに乱れていたのかもしれません

6章も前章のつづきですが、今度は具体的に異教の崇拝所にイスラエルの民の死体を置き、
骨を散らす、といったかなりグロテスクな描写になってますね
13節など異教に対する憎悪を感じさせるほど執拗な描写です

14節に出てくるリブラというのは文脈から荒野と並列されるような普通名詞のように読めますが
具体的にはなんのことを指しているのでしょうか?

36福音伝道:2023/03/28(火) 05:52:53 ID:0BUKU4Ck
>>35
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル7-8章です。

え? 私の推定では、ラザロと親友で、親友の姉妹であるマリアとパートナーになって
愛する弟子ヨハネを設けたと思っています。なので母マリアを愛する弟子ヨハネに
託したのであると、つまり愛する弟子ヨハネからすると祖母ですね
つまり、ヨハネ書の著者からするとラザロは叔父です。

5章で一番凶暴ですさまじいのは神の怒りですね。おののくひどさです。

「荒野からリブラまで」はフランシスコ会訳注によるとパレスティナの北端から
南端までを、つまりパレスティナ全体を指す慣用句のようです。
聖書辞典では、リブラはオロンテス川に沿った古代シリア都市となっています。
が、民数記34:11に出てくるリブラはパレスティナだが位置不明です

37atheist:2023/03/29(水) 01:48:13 ID:???
>>36
そういえばたしか先生はマグダラのマリアとイエスが結婚し、その子が弟子のヨハネと言ってましたね
そうするとラザロの姉妹のマリアとマグダラのマリアは同一人物ということですか?
さらにラザロはヨハネの叔父ということになりますから、あれだけ詳細な記述ができたということですね

リブラは一応古代シリアの都市名(固有名詞)と推測されているんですね

さてエゼキエルの7-8章です

7章はなんというか、イスラエルの民にとってはもうこれ以上ないくらいの絶望的な裁きのことばですね
まさに彼らにとっては終末そのものと言えるようなことばが滝のごとく押し寄せます

8章はエゼキエルがユダの長老たちの前に座しているときに見た幻視ですね
なぜかエゼキエルは髪の毛をつかまれてエルサレムに連れて行かれます
あれ?前の方でエゼキエルは神をすべて剃ってなかったっけ?と思いましたが
細かいことは置いておきますw

エゼキエルはエルサレムで行われていた異教崇拝の現場をまざまざと見せられます

11節に「シャパンの子ヤザニヤ」という人物が出てきますが、まったく記憶にありません
この人だけ名前が挙げられているということは、けっこう重要な人物なのだと思いますが
誰なのでしょうか?

38福音伝道:2023/03/29(水) 06:53:54 ID:0BUKU4Ck
>>37
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル9-10章です。

11節に「シャパンの子ヤザニヤ」の父の方は、列王記下22:3
父のシャパンについては
ヨシヤ王の第十八年に王はメシュラムの子アザリヤの子である書記官シャパン
と出てきます。
ヤザニヤは、その子としかわかってません。

同名の有名人は二人ほど聖書に出てきますが、こことは別人ですね

39atheist:2023/03/30(木) 01:50:26 ID:???
>>38
ということはシャパンはそれなりに名のある人物と言ってもいいのに対し
その子のヤザニヤはエゼキエルのこの箇所に出てくるくらいで
どんな人物かは分かっていないということですね

さて9-10章です

9章はさらに狂信的な残忍さがエスカレートしているようです
「老若男女をことごとく殺せ。」だの「死人で庭を満たせ。」だの
まるで殺戮狂かのようなことばが並びます

10章は9章の続きですが、主に幻視されたケルビムの様子について書かれていますね
またまたわたしには奇妙でグロテスクな描写にしか見えませんが、それにしてもまた4つの顔ですw
今回の4つの顔はケルブ、人、しし、わしの4つですが、これは何か意味があるんでしょうか?

40福音伝道:2023/03/30(木) 06:05:28 ID:0BUKU4Ck
>>39
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル11-12章です。

「ケルビムの四つの顔」のうち、牛の顔が「ケルブの顔」に置き換えられていますが
なぜ変わっているのか。その理由についても、また「ケルブの顔」が
どのような顔なのかも謎のようです。

フランシスコ会訳注は、牛がケルプに替わっているとだけ指摘。
ハーパーは1章で言われていたことを繰り返す。2,3の細かい違いはある。
福音派は、謎であると指摘しています。

41atheist:2023/03/31(金) 02:45:13 ID:???
>>40
1章と置き換えられていたのは牛でしたか
もしかしたら牛の顔と加工としたところ、ケルビムが頭にあったため勢いでケルブと
書いてしまったのかもしれませんね

さて11-12章です

11章もエルサレムに連れて行かれた幻視の続きですね

2節でヤザニヤと出てきたので、あれ?と思ってもう一度8章を調べてみたら
「シャパンの子」だったので、別人ですね

3節の「この町はなべであり、われわれは肉である」とはなんの比喩なんだろうと思ったら
なんと7節に書いてありました
凄まじい表現ですね

これまではずっと裁きの厳しい言葉が並んでましたが、16節あたりから
もう一度イスラエルの地に帰る希望が神の口から与えられたようです
といっても、異教に走った連中をことごとく取り除いてクレンジングしたあとということですが

12章は、まず神がまたまたエゼキエルに演じさせます
今度は捕囚を象徴的に演じるよう言ってますね

ここもまだ裁きのことばが続いているようです
いい加減、新しい展開がほしいところですw

ここでよくわからなかったのは22節の『日は延び、すべての幻はむなしくなった』ということわざです
これはどういう意味なんでしょうか?

42福音伝道:2023/03/31(金) 05:35:22 ID:0BUKU4Ck
>>41
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル13-14章です。

22節の『日は延び、すべての幻はむなしくなった』は、予言者の予言のことですね

予言はされても、いつまでも実現せず、民たちは
予言された事柄がまだ実現せず、日が伸びた。すべての予言者が見た幻は
むなしいものだとあざ笑う格言のようです。

それに対して主なる神は自分の預言は
「わたしの言葉はもはや延びない。わたしの語る言葉は成就する」と
警告しているのですね

43atheist:2023/04/01(土) 01:22:48 ID:???
>>42
ああなるほど、「日が延び」というのは予言の実現が遅延していっこうに現実にならないことを
揶揄した言い回しなんですね
わたしはてっきり「日が長くなること」と勘違いしてました

で、ヤハウェはもやはイスラエルの反逆は、裁きを遅らせ忍耐することはできない、言った通り
鉄槌を下す、ということなんですね
簡単に言うと、堪忍袋の緒が切れた、といったところでしょうか

さて13-14章です

13章は偽預言者に対する批判ですね
ということは前章の後半(「日が延び…」のあたり)からの続きという感じですね

ここで気になったのは、17節以下です
預言者と言えば、主に男性のイメージがありましたが、ここでは娘になっています
記述をみると、どうも街角の占い師のような記述で、これは異教の神霊を用いた占い
のようなものなんですかね?日本にも占いおばさんはいますから、預言者というより
そんなのに近いのかな、と思いました

14章は異教崇拝をしているイスラエルの長老に対するものですね

ここで目につくのは、なんといっても14節以下の「ノア、ダニエル、ヨブの三人」です
ノアとヨブはわかりますが、ダニエルはあのダニエルだとしたら捕囚期からペルシャ時代ということになって
これ、時代的にエゼキエルより後になってしまいそうなんですが、このへんはどうなっているのでしょうか?

44福音伝道:2023/04/01(土) 12:31:26 ID:0BUKU4Ck
>>43
atheistくん、こんにちは。本日と明日の聖句はマルコ15章です。

13章17節以下の娘さんは、ナービーですね。
語源的には「召された者」だそうですが、神がかり的なエクスタシー状態に
なって予言する人のことだそうです。
有名なのは大予言者たち男性陣ですが、実際は女性が大多数のだったのでしょう。

預言者と訳される語にはナービー以外にもローニー、ホーゼー、コーセームなどが
あるそうです。
ローニー、ホーゼー、は、先見者とも訳されますが、「見る」という動詞から
派生しているためと、預言者というより予言者的性格が強く、ナービーより古い呼び名です

で、この女のナービーらは呪術者として断罪されていますが、そもそもナービーなの
ですから、イスラエルの神の言葉を彼女らも語っていたわけですので異教の呪術者では
ありません。ただ、その神の言葉が偽りだと主なる神から非難され、特に集中的には
呪術者的行為を強調されて弾劾されていて、異教的印象を付与していいます。
客観的にはいいがかりに近いのではないかと思われます。

14章の「ノア、ダニエル、ヨブの三人」のダニエルは
ハーパーによると、ウガリツトのアクハト伝説の王ダンエルであろうとのこと。
あえてイスラエル人ではない三人の義人を起用しているそうです

フランシスコ会訳注は、あのダニエルとしています。
新共同訳聖書辞典は、エゼキエルによって義人の典型の一人とされるダニエルは③で
あのダニエルは④で別人ですね

45atheist:2023/04/02(日) 02:13:13 ID:???
>>44
「娘」の原語はおそらくユダヤ教のヘブライ語聖書の区分けで言うトーラー、ネヴィイーム、ケトゥビームの
ネヴィイームと同根ですね
エクスタシー状態になって、ということは実質的にはシャーマンに近いタイプだったのでしょうね
イタコなども女性ですから、そういったものに近かったのかもしれません

ダニエルは完全にあのダニエルだと思ってましたが、一応異説はあるんですね
時代的にあのダニエルと考えるとちょっとおかしなことになりますから、ハーパーの説が
正しいのかもしれません

さて休日分はマルコによるイエス受難場面ですね

ピラトはイエスに対して、決して同情的に描かれているわけではありませんが
それでも罪はないと確信しているように描かれています
その後の死に至るまで、マルコはイエスを徹底して苦難を受ける存在として描いています
37節の今際の絶叫はルカの描写とは対照的です

マルコに限ったことではないですが、イエスの受難の場面とその後の死体安置に到るまでは
男性の弟子たちが背景に退き、女性たちが全面に描かれています
もしかしたら看取りは古代ユダヤでは女性の役割であったということなのかもしれませんが
なによりも蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった男性の弟子たちとの対照が目立ちます

個人的には、神話的装飾を抑え受難を受難として描くマルコの描写が4福音書のなかでは
もっとも好きです

46福音伝道:2023/04/02(日) 08:22:23 ID:0BUKU4Ck
>>45
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はエゼキエル15-16章です。

単純な事実として、12使徒に代表される男性弟子たちは捕縛される危険性が
あったので、主イエースースの逮捕と同時に逃走したのでしょう。
ヨハネ伝では、ペトロは逮捕された後、大祭司の中庭までついて行きます。
大祭司の知り合いの弟子と共に行ったので入れてもらえたそうですが、
主イエースースの弟子とばれて三度否んでいます。
さてマルコ伝では高地位の議員のアリマタヤのヨセフが主イエースースの遺体の
引き取りを申し出て許可されて埋葬しています。

なので、男性弟子の高地位の議員のアリマタヤのヨセフは、処刑に立ち会っていた
のでしょう。対して女性弟子らは処刑の時、遠くから眺めていたとあります。
ヨセフは例外的で、女性弟子らだけが、主イエースースの刑死と埋葬まで共にした
というのが印象的です

47atheist:2023/04/03(月) 01:54:39 ID:???
>>46
男性の弟子たちは捕縛の危険性があったのに対し、女性はそうではなかったことが
処刑時の男女の行動に影響を与えてるということですね
そのなかではアリマタヤのヨセフは例外的存在だったと

さて15-16章ですが、15章が極端に短いのに対し、16章は極端に長くなってますね

15章はエルサレムを火に投げ入れられるぶどうの木に喩えています
新約聖書ではイエスと弟子たちをぶどうの木とその枝に喩えていますが
関連はあるんでしょうかね?

16章はエルサレムをひとりの女性に喩えて、その生まれから破滅に至る命運までを語っています

米国聖書考古学の重鎮であるWilliam Deverはこの章の3節を引いて、イスラエル人がもともと
カナンの出身であったこと、カナン人(イスラエル人)は複合的な民族構成であったことを述べています
もっともこの箇所を証拠としているのではなく、考古学的証拠によくマッチする出自の痕跡という意味で
引用しているだけですが

中盤からは異教崇拝に走ったエルサレムを姦淫の比喩で語ってますが、この比喩がエゼキエル以外でも
よく見かける気がします

26-29節はイスラエルが文化的影響を受けたり征服されたりした民族が並んでいて
当時のイスラエルの位置づけがよくわかりますね

48節ではソドム、51節でサマリアと比べ、それよりも酷かったと言ってますから
神(エゼキエルやユダヤ教保守派)から見れば、捕囚直前のエルサレムは
相当異教に侵食されていたのでしょうね

48福音伝道:2023/04/03(月) 06:10:39 ID:0BUKU4Ck
>>47
atheistくん、おはようございます。明日火曜日の聖句はエゼキエル17-18章です。
一晩早い返信ご苦労様です。

15章のぶどうの木の黙想は、曲がりくねっている葡萄の枝は、材木として家屋にも
使えないし、テーブルなど木工に材料にもならず、燃やすだけである。
燃やした後は無価値な灰となるだけであるとエゼキエル書は主張し、それはエルサレム
と同じだというわけですので、新約のぶどうの木の譬えとは真逆ですので関連性は皆無です。

実は、ぶどうのつるのリースとか、ぶどうのせん定枝の草木染とか利用価値があります
ので、我々の時代地域からすると聖書は間違っています。また灰には肥料としての利用価値があります。

16:3ハーパーはエルサレムの起源を比喩的表現で思い起こさせていると解釈しています。
つまりダビデの征服時のエルサレムはヘト人と深いかかわりのあるエブス人の町であった。
エブス人の前はアモリ人の手にあった、と。
なので、被征服者の両親からこの若い女は、拒絶されたと比喩されているわけです。
そこで神はこの若い女と結婚し、両親がすべき養いを神がしたと比喩されています。

ウィリアム・デバーは、申命記は宗教的理想であって、現実は混交宗教的、民俗宗教的
であったという主張のようですね。

49atheist:2023/04/04(火) 01:04:53 ID:???
>>48
ヨハネ(あるいはイエス)はなにか逆説的な意図があって、ぶどうの木を使ったのかと思いましたが
別にそういうわけではないのですね

エゼキエルの時代では、もしかするとまだあまりぶどう酒に価値がなかったか、あるいは酒そのものに
対する否定的なイメージがあったか、ともかく役に立たないものの例として取り上げられていますが
イエスの時代ではイエス自身がぶどう酒を飲みますし、最後の晩餐では自分の血の象徴にまで
なってますから、こういった背景的な認識の相違によってぶどうの木のもつイメージが
大きく異なっていたのかもしれませんね

16:3のハーパーの解釈は征服説に基づいてエブス人やヘテ人といった「異民族」との断絶を
表している、としているみたいですね

Deverらは考古学的知見がまず先にあって、そこから垣間見えるイスラエル人の由来を
ほのめかす聖書の箇所として取り上げているのが違いですね

Deverは学者らしくあまり神学的な解釈に立ち入りませんが
申命記的思想の拝一神、唯一神的記述は当時のイスラエルの宗教実態を表すものではなく
宗教的極右のイデオロギー、プロパガンダとまで言ってます
わたしもおおよそそうではないかと思います
ただ捕囚期から第二神殿期に至る過程で唯一神化されたヤハウェのなかに、これまでのさまざまな神々の
属性や特徴が統合され、矛盾をはらむ世の出来事を唯一神という枠組みのなかで思索することで
奥行きのある神学思想が形成されていったという側面もあるのだろうとわたしは考えます

さてさて17-18章ですが、前置きが長くなってしまったので簡潔にいきます

17章ではまたまたぶどうの木が出てきますがこれはイスラエルを表しているようですね
3節に出てくる大鷲はバビロニア、7節は別の大鷲は15節からこれをバビロニアに対抗するエジプトと考えると
ゼデキヤ王のとった行動を神は非難している、ということでしょうかね

18章はエゼキエルの神学の真骨頂の部分だと思います
というよりもこの章はダイレクトにイエスの教えや思想につながるものだと感じました
20節では義も悪もそれをなした個人に帰属することを、
21節では悪人であっても悔い改め義をなせば救われることを明確に宣言しています
最後の31-32節は、これまで散々「反逆の家」として口を極めて非難してきたイスラエルに対して
それでもなお神はその死を喜ばす悔い改めて生き直すことを求めています

50福音伝道:2023/04/04(火) 05:41:19 ID:0BUKU4Ck
>>49
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はエゼキエル19-20章です

18:2の
『父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』は、
よく知られた伝統的な因果応報観だそうです
捕囚民たちも、このことわざを口にして先祖の罪で自分たちは罰せられていると
考えたそうです。それに対して主なる神は論争的宣託をします。
「なたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない」と断言した上で
親の罪は、親にすべて帰し、そのために親は死ぬ。
しかし子が正しく生きれば、子は救われる。
なのでお前たちは悔い改め、正しく生きなさい、と。

51atheist:2023/04/05(水) 01:32:57 ID:???
>>50
あ、そういえばそのことわざの意味を聞こうとして忘れてましたw
あとに続く内容でおおまかには予想できたのですが、具体的にはわかりませんでした
因果応報は世代を超えて成り立つという伝統的な考えに、完全に決別する神の宣言というわけですね
そして今回神はイスラエルを罰するが、捕囚地で正しく生きた者は救われるという希望を表現している
ことになるわけですね

さて19-20章です

19章は雌獅子とぶどうの木の喩えでイスラエルの盛衰を表しているようです
雌獅子の喩えはエジプトでの隷属とバビロン捕囚だと思いますが
ぶどうの木は何の喩えなのでしょうか?具体的な出来事の喩えというよりは
せっかく神は民をイスラエルに植えたのに驕り高ぶり神を裏切っってきたイスラエルの
これまでの有様全体を表しているということでしょうか?

20章は出エジプトを題材に神の救いと民の裏切りを語っているようです

23節はカナンの地に入る前の荒野でのことだと思いますが
すでにこの時点で神はイスラエルの民を異邦の地に散らすと言ったことになってます
民数記でこのような神のことばってありましたっけ?

52福音伝道:2023/04/05(水) 06:02:09 ID:0BUKU4Ck
>>51
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はエゼキエル21-22章です。

19章の最初の若獅子はヨハアズ、二番目の若獅子はヨヤキンです。
で、二節の雌獅子はダビデ王家です。その母である雌獅子が10節で
ぶどうの木のようだと譬えられているのはユダ王国の繁栄を指しています。

神によって約束されたユダ王国の繁栄についてはサム下7:8-16にあります。
そして神の怒りを買い,枯れ燃やされ、荒れ地に植え替えられたというのが
「荒れ地への植え替え」が「捕囚」の比喩です

ハーパー曰く、20:5-26 エジプトから捕囚へ
三つのエピソードから構成されるが基本構造は同じで
神はイスラエルに恵みをもって行動するが、イスラエルは神の与えた法に従わず
他の神々を拝むことで答える。この罪ゆえ神は彼らを滅ぼそうと決意するが
一方で神の名の聖性を守るためにそうしない、と。
episode1 エジプトで神は民にその名を表し、エジプトから連れ出し土地を与えると
約束(出6:2-8)、しかし彼らは偶像崇拝した(聖書記載なし)
ただし荒れ野で金の子牛を拝んだので滅ぼそうとしたがモーセがとりなしたという
話はあります。

episode2 荒れ野で安息日などを与えたが守らなかった云々

episode3 荒れ野で異邦人の地に散らすと決意したのは詩篇106:26-27
106:26それゆえ、主はみ手をあげて、彼らに誓い、
彼らを荒野で倒れさせ、
106:27またその子孫を、もろもろの国民のうちに追い散らし、
もろもろの地に彼らをまき散らそうとされた。

53atheist:2023/04/06(木) 01:57:48 ID:???
>>52
19章はぶどうの木の部分の荒れ地への植え替えの部分が捕囚で
それまでの部分はユダ王国の繁栄を表しているということですね

20章は出エジプトだけではなく捕囚までが視野に入っているということですね
23節は民数記ではなく詩篇にその旨が書かれているんですね

エゼキエルだけではありませんが、イスラエルの民になにかあるときは
この出エジプトに言及して神の救いとイスラエルの民の裏切りが
反復して語られます
ユダヤ教にとって、いかに出エジプトのエピソードが大きな意味を持つか分かりますね

さて21-22章です

21章はこれまでの神のことばのなかでも最も容赦のないことばのように思えました
これまた執拗なまでにイスラエルを殺すためのつるぎを強調しています
特に3節では悪しき者だけでなく正しい者すら断つと宣言していますから
神の決意のほどは相当なものです

22章はかなかすと炉の比喩でエルサレムを滅ぼす意図を語ってますね
この章では社会的な不正についても言及されています

ちょっと気になったところは10節の「父の裸を現し」の部分です
創世記でもノアの裸を見たハムはなぜかノアに息子のカナンを呪われてしまいます
ハムが父の裸を知らせたセムとヤフェトは父の裸を見ないようにわざわざ後ろ向きで父の体を
覆います
ずいぶん奇妙なエピソードですが、このエピソードからも「父の裸を見ること」が禁忌に近い扱いを
受けていることがわかります
父の裸を見るという行為はなぜここまでいけないこととされているんでしょうか?

54福音伝道:2023/04/06(木) 05:36:37 ID:0BUKU4Ck
>>53
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はエゼキエル23-24章です。

聖書協会共同訳
エゼキエル書/ 22章 10節
あなたの中で、ある者は父を辱め、あなたの中で、ある者は月経中の女を汚した。

10節の「父の裸を現し」を「父を辱め」と意訳されています。
つまり、「父の裸を見る」という古代語表現は、「父とセクスする」という
意味のようです。

55atheist:2023/04/07(金) 05:14:06 ID:???
>>54
気づいたら電気をつけたまま、寝てましたw

22:10を調べてみたらNETの注で、レビ記18:6-8に言及して
父との性交ないしは父の妻(息子にとっての継母を含む)との性交を意味する慣用表現と書いてありました
父と息子の近親相姦はめったになさそうなので、母子相姦かもしれませんね

さて23-24章です

23章はサマリア(北イスラエル)とエルサレム(南ユダ)をそれぞれアホラとアホリバという姉妹に
喩えてその淫行を非難しています

アッシリア、バビロンはわかるとして、エジプトは出エジプト前の隷属状態にあった頃のことなのか
分裂王国時代にエジプトに政治的文化的影響を受けていたことを指しているのか、どちらなのでしょうね

24章は前半は前も出てきたような鍋の比喩でエルサレムの滅亡を表していますが
15節以下はエゼキエル本人の妻の死をイスラエルへの印とするよう神は言っています
これはエゼキエルにとってはかなり残酷なことですね

56福音伝道:2023/04/07(金) 06:11:03 ID:0BUKU4Ck
>>55
atheistくん、おはようございます。明日と明後日の聖句はルカ24:1-12,ローマ4:25です

例えば19節は、BC588に、ゼデキヤがエジプトと軍事同盟を結んだことのようです。
ハーパーによると、淫行をエジプトではじまったそうであるが、この淫行がなにを
意味するかはつきりしないと書かれています。エジプトから淫行がはじまったとする
ならば、それは出エジプト前の隷属状態で、それでも神はイスラエルと契約を結んだ
ということではないかと思いますが、ハーパーはそう断定しません。

23:35以下の淫行の中味は、外国との関係ではなくて、他の神々に対する礼拝に
なっているので、ハーバーは補足的な追加と解説しています。

エルサレムの陥落・捕囚の打撃の象徴として「妻の突然死」ですので
それほど「捕囚」の衝撃は大きかったということなのでしょう。
神に守られているエルサレムは永遠にの都と考えていたのでしょうから。

また私も最近肉親を突然に喪いましたが、葬儀が終わり焼き場に行きお骨となり
初七日、五七日法要をおえ、今度は七七日法要ですが、まだ亡くなった実感はあり
ません。突然すぎるとエゼキエルのように泣くことも嘆くこともできないのかもです
また信じがたいエルサレムの破滅も民にとって、あまりの衝撃で呆然とするばかりで
涙を流すこともできないほど異常にな心理状態なのかもしれません。

57atheist:2023/04/08(土) 02:23:29 ID:???
>>56
少なくとも19節がゼデキヤによるエジプトとの軍事同盟を指しているのであれば
一応分裂王国時代のことが主眼となっているのでしょうね
ただその始まりを出エジプト前と捉えるかどうかはあまり明確ではないということですね

エルサレム陥落の衝撃の大きさを表すためにエゼキエルの妻の突然死が象徴として使われた
ということですね

わたしは祖父や祖母の死は経験していますが直接看取ったわけではないし
かなり高齢で亡くなっているので、悲しみというよりは往生したという納得感のようなもののほうが
大きかったように思います
父親の死は数年前に経験しましたが、わたしが幼い頃に離婚してずっと疎遠であったこともあり
ほぼまったく何も感じませんでした

親しい肉親の突然死は経験していませんが、中学時代の部活の先輩の自殺や轢死は
やはり突然のことだったのでショックでした

おそらく心理的な親しさが悲しみの度合いに比例するのでしょうが
あまりにも突然だと、その死を心理的に受け入れる態勢が整っていないので
心が処理しきれないのでしょうね

変な例になりますが、もし明日の朝起きたら、東京が核攻撃で壊滅していた、となっても
おそらく現実感が湧かないと思います
エルサレムの陥落及び捕囚もユダヤ人にとってはそんな衝撃だったのでしょうね

さて休日分ですが、この前読んだばかりのルカによる空になった墓の場面ですね
パウロの箇所はそれを端的に贖罪死と復活という形でまとめています

ルカによると、使徒たちはマリヤたちょbn報告を聞いても「愚かな話(11節)と思ったわけですから
イエスが生前に言っていた復活を本当には信じていなかったようですね
もっともこのへんはルカがいろいろ脚色して書いているのでしょうから事実かどうかわかりませんが

58福音伝道:2023/04/08(土) 10:06:19 ID:0BUKU4Ck
>>57
atheistくん、おはようございます。明後日の月曜の聖句はエゼキエル25-26章です。

実は「愚かな話(11節)」を始めたのはペテロたちです。
主イエースースが復活した。我々は会った。証人だとしてエルサレム教会を形成
していた。それに対してマルコは墓は空だった。それを目撃した女性たちは
誰にも言わなかったと批判した上で、主イエースースはエルサレムではなく
ガリラヤへ行かれると書いた。
ルカは下巻の使徒行伝を書くほどに使徒信仰があり、主イエースースは復活されて
初代エルサレム教会を発足させたと考えています。
その上で、最初女性らから聞いた時、使徒たちは「愚かな話」と信じなかったという
ドラマを創作したわけです。盛り上げるための伏線ですね

12節が「」なのは、後代においてヨハネからの挿入と考えられているためですが
ここではペテロひとりが確認に行ったとなっています

59atheist:2023/04/09(日) 02:09:30 ID:???
>>58
遺体の消失までが事実だとして、そのあとの復活信仰はペテロら弟子たちによるものだとすれば
ルカはここで弟子たちですら信じられなかったイエスの復活が実際に起ったことを強調するために
こういった記述を入れたのでしょうね

いずれにしてもルカ自身もイエスの復活を信じていたからクリスチャンになり福音書や使徒行伝を
書いたわけですから、復活ありきの物語の筋立てになっているのでしょうね

60福音伝道:2023/04/09(日) 08:11:43 ID:0BUKU4Ck
>>59
恐らくはごく初期から復活信仰があったのかもですね。
その意味でルカは、主イエースース死後に成立したキリスト教の王道の
ひとつを担ったのかもです

61atheist:2023/04/09(日) 23:46:57 ID:???
>>60
イエスの復活信仰がなければ、おそらくこれほどまでにキリスト教が広がることもなかったのでしょうから
事実はともあれ、結果的にイエスの神格化-復活を軸とする一派がその後のキリスト教の主流に
なっていったのは、ある意味当然と言えば当然のようにも思えます

イエスの神格化-復活信仰がなければ、イエスは一預言者あるいはラビとして
ユダヤ教の一派に吸収されるか、グノーシス派のように大衆的支持を得られずに
歴史に埋没していくかしていったのだろうという気がします

62福音伝道:2023/04/10(月) 06:51:29 ID:0BUKU4Ck
>>61
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル25-26章です。

実際パウロス先生がダマスコでキリストの声を聴いたように
信者には奇跡体験を通して主イエースースに会ったりしますので
信仰的には復活は事実であったかもですね

63atheist:2023/04/11(火) 00:14:33 ID:???
>>62
キリスト教はイエスの復活を事実と信仰することによって成り立っていますからね
特に初期においてはパウロに見られるように極めて強い確信をもって事実と信じられていたようですね

さてエゼキエル25-26章ですが、25章はアンモン、モアブ、エドム、ペリシテというイスラエル・ユダの
周辺諸国の命運を、26章はツロの命運を述べた箇所ですね

25章はユダヤ人が歴史的に敵対してきた4民族の滅亡を予言した章ですね
この4民族は聖書にもよく出てきますし、考古学的にもしばしば言及されるものなので
まあ分かるのですが、16節のケレテびとの正体がよく分かりません
エゼキエルの文脈からはペリシテ人に関係した民族ないしは特定集団と読めますが
ケレテびとはたしか聖書の他の箇所でも傭兵か何かで言及されていたと思います

26章はフェニキアのツロ(ティルス)についての予言ですが
前章が周辺4民族をまとめて扱っていたのに対し、ツロは独立して扱われています
それほど当時のツロは強大であったということなのでしょうね
かのカルタゴの母市でもありますし、繁栄する異教徒都市の代表格のような
扱われ方をしていたため、特に独立してエゼキエルは取り上げているのかもしれません

64福音伝道:2023/04/11(火) 05:33:30 ID:0BUKU4Ck
>>63
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル27-28章です。

16節のケレテびとは、クレタ人のことです。あのギリシャのクレタ島の人々が
海の民となり、ペリシテ人の祖となったと聖書を考えていたみたいです。

考古学的にはイスラエルのアシュケロン(ペリシテ人の町)からBC12cの人骨が
発掘され、ヨーロッパ系統のDNA、古代クレタ島のDNAに近いと推測されているが
サンプル数が少ないため断定まではされてないそうです。

ハーパーによると
エゼキエルは、バビロニアが神の道具として用いられると考えたため
バビロニアの敵対者であるフェニキアも神の軍に逆らうと考えたそうです。

65atheist:2023/04/12(水) 01:28:04 ID:???
>>64
なるほどクレタ人ですね
言われてみれば発音が似てますね

ペリシテ人のDNA解析のニュースは6,7年前だったかに読んだことがあります
海の民は複合的な民族構成を持つと言われてきましたが、その一部がギリシャ系民族であったというのは
前々から推測されていたことなので、このニュースはそれを裏付けるひとつの証拠という感じですね

ユダヤ民族は自民族の盛衰の原因を、神に従うか離反するかという視点で捉えていますから
アッシリアやバビロニアによる征服はそういった異民族を用いたユダヤ民族に対する神の懲罰に
なるわけですよね
とすると神の道具として用いられているバビロニアの敵対者であったフェニキアの都市も
必然的に神に逆らうものと捉えられたわけですね

さて27-28章ですが、ここも前章に引き続いてツロを中心に書かれています

ここは如何にツロが諸国民との交易で繁栄を極めていたかが事細かに書かれていますが
その繁栄もバビロニアによって終止符が打たれるとされています
実際はしばらくツロは続きますから、これは誇張して書かれたものと思われますが
ともかくも3章費やして書かれるほど、ツロは当時栄華を誇ったということでしょうね

今回気になったのは28章12節以下です
ここでは神がツロの繁栄を備え、守護のケルブと一緒に置いたとまで言っています
これはツロが神に愛された都市としか言いようがないほど繁栄していたため
このように書かれた気がしますが、ユダヤ民族以外でケルブの加護があるというのはちょっと驚きです

28章の最後の方はイスラエルの希望が語られていますね

66福音伝道:2023/04/12(水) 05:26:37 ID:0BUKU4Ck
>>65
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル29-30章です。

ハーパーによると28章はティルスの支配者に対する二つの託宣が語られており
最初の預言28:1-10では、支配者が神の知恵を持つと自慢していることを告発し
その罪の故に、神の審判の対象となると予言されている。
二番目の預言11-19節では、没落が描かれている。
最初は支配者は神の国エデンに住んでおり、完璧な智恵と美しさを併せ持ち
警護のケルプに守護されていた。罪を犯すまでは事実上完璧であった。
しかし罪に関与して、神から追放された、ケルブがその保護の下から追いやり、
支配者は諸国民の前にさらされ、神の火によって燃やし尽くされる、と。

この託宣の背後に、宇宙的な山の楽園に住んでいた原初の王的人物が罪に関わった
故に、そこを追われ地下世界へ送られるという形のメソポタミアないしカナンの神話が
あると多くの学者は推定しているが、ハーパーによると聖書外の客観的証拠がないと
否定的である。なので創世記2-3章とイザヤ14:12-20がこの説の根拠とされるそうである

67福音伝道:2023/04/12(水) 05:33:41 ID:0BUKU4Ck
他方、フランシスコ会訳注は、「守護のケルブ」とは
周辺諸国の経済の守護者であったティルスの立場を述べる
とあります。

68atheist:2023/04/13(木) 01:06:16 ID:???
>>66-67
エデンってアダムとイブ以外にも人が住んでいたんですか?
ふたりが追放されたあとで住み着いたということでしょうか
ともかくもハーパーによると罪→追放というパターンがツロの支配者にも適用されているわけですね
フランシスコ会訳注はちょっと強引ですが、イスラエルの経済活動の守護ということにもなるので
一応それなりに筋は通っているようですね

さて29-30章ですが、今度はエジプトが主題になってますね

たしかにエジプトはカルケミシュの戦いでバビロニアに敗れてはいますが
滅ばされてはいませんし、本国を荒らされていもいないので、ここもまたかなり誇張があるようです
エジプトもバビロニアと敵対していたので、ツロ同様、神の軍に逆らうものとして
このような記述になっているのでしょうね

といっても前600年前後のシリア/パレスチナ地方の視点で観れば
バビロニアによってエジプト勢力は駆逐されているので、エゼキエル書が
このような記述をするのもわかるような気がします

ただ勢い余って30章19節のようにヤハウェがエジプトに裁きを行って彼らが
ヤハウェが主であることを知る、というのはまったく史実に反することなので
これはもう完全にユダヤ教視点によって事実が歪められているように思います
多かれ少なかれ宗教とはそういうものだと言ってしまえばそれまでのことなのですが

69福音伝道:2023/04/13(木) 06:07:59 ID:0BUKU4Ck
>>68
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル31-32節です。

エデンの園で名を挙げられているのは、ご質問とおり、アダムとイブだけですが
「28:13あなたは神の園エデンにあって、
もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。」
と、エゼキエルは、ティルスの君主が「神の国エデン」にかつて住んでいたと
描いています。これはいわば比喩的表現かもですが、そういう表象をしています。

エゼキエルの立場では、エジプトが悪の根源です。
第一に、イスラエルを捕囚した敵です
第二に、出エジプト後もイスラエルはたびたびエジプトと依存しましたが
エジプトとの依存がイスラエルに悪い結果をもたらしたと考えているようです。
エゼキエル自身の時代でも、エジプトの支援の約束を元にゼデキヤがネブカドネザル王へ
反乱を起こしますが、預言者はこれがエルサレムの破壊と導くであろうと予言するわけです。

実際にファラオ・ホフラはバビロニアに包囲されている都を救おうとするが
失敗に終わったわけです。なのでエゼキエルにとってエジプトは伝統的な敵であり、
頼りにならない同盟者なのです。そしてエルサレムを罰するという神の計画に
歯向かうことに熱心な者なので、エジプトに対する託宣は29:1-32:32までの
厳しいものとなっているそうです。

70atheist:2023/04/14(金) 01:13:16 ID:???
>>69
これはユダヤ教の預言者一般に言えることでしょうが、エゼキエルも異国の侵略を
神に背いたイスラエルに対する懲罰、裁きと捉えているため、捕囚前後のバビロニアの動きは
神の懲罰、裁きとして正当化されるわけですね

そのためそのバビロニアの動きと敵対し、イスラエルへの懲罰を妨げるエジプトに対して
エゼキエルは非常に厳しい立場を取ることになるということですね

さて31-32章ですが、ここも基本的にはエジプトに関しての神の言葉になってますね

31章は前半でエジプトをエデンの園にも優る壮麗さを誇る国として描いていますが
10節からは、それゆえの奢りをもって、神はエジプトを罰するという展開になっていきます
このへんは先のツロへの言葉と類似していますね

32章は前章後半の流れを引き継ぎ、エジプトに対するさらにエスカレートした呪いの言葉が書かれています
ここでもバビロンによってエジプトの人集は皆滅ぼされると書かれていますがまったく史実には反している
ので、誇張表現という感じですかね

22節からはエジプトをアッシリア、エラム、エドム、シドンなどとともに
「割礼を受けないで、剣で殺された者、下の国(穴)に下る者」と位置づけています
要は異教徒で滅び、陰府に下った民族のひとつとして描いています

こういった民族とともに26節でメセクとトバルという名が出てきますが
これはどの民族を指しているのでしょうか?他はイスラエルの周辺民族として
よく知られたものばかりなのに、このふたつはあまり名を聞きません
この章に挙げられていない民族としては、アンモン、モアブ、ペリシテあたりになりそうですが
それならそのように書いているでしょうから、ちょっとイスラエルからは離れてますが元ヒッタイト系の
印欧語族あたりなんでしょうかね

71福音伝道:2023/04/14(金) 05:20:04 ID:0BUKU4Ck
>>70
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル33-34章です。

26節でメセクとトバルについて
創世記
10:2ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。
歴代志上
1:5ヤペテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス。

とありますように、トバル、メセクはヤペテの子供たちです。
メセクはBCBC1000年頃にティルスと奴隷と青銅の貿易していたことが、
ティグラト・ピレセル1世の碑文にあるそうです。
「ムシュケ」と言う語形で、アッシリアの山岳民だそうです。
だけども次第に北方黒海の近くに追い詰められていったそうです。

歴史家ヘロドトスは「メセク」と共に「トバル」を黒海の南東の山岳地帯に
置いているそうです。

エゼキエル
27:13ヤワン、トバル、およびメセクはあなたと取引し、
彼らは人身と青銅の器とを、あなたの商品と交換した。

別系統ですが似た名前に
創世記
4:22チラもまたトバルカインを産んだ。
彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。
とあり、「トバル」の子孫あるいは民族トバルは古代の鉄工民、鍛冶屋として
知られていたようです。
トバルカインはケニ人系統で死海南部のアラバの谷に住んでいたそうです

72atheist:2023/04/14(金) 23:23:45 ID:???
>>71
ヤペテの息子たちだったんですね
と言っても実在した民族の名前をヤペテの息子にして諸民族の由来を神話的に解釈したものでしょうけど

聖書外資料があるということは、やはり実在の民族である可能性が高いですね
アッシリアの山岳民、あるいは黒海南東の山岳民であれば印欧語族系の可能性も十分ありそうですね

27章にも出てきていたのは見逃していました
エゼキエルにはけっこう周辺民族が出てきますから当時の歴史的民族状況を推察するための
史料としても重要なのかもしれませんね
もちろん、預言書という宗教書のひとつなので、そのまま額面通りに受け取れるわけではないですが

さて33-34章ですが、33章は18章と内容が酷似してますね
18章のときにも書いたと思いますが、ここは新薬というかイエスにダイレクトにつながっていく
神学思想だと思います

34章は牧者と羊の比喩でイスラエルの指導者・指導層の罪を非難してますが
後半23節ではそのイスラエルに一人の牧者(ダビデ)を立てると言ってます
ユダヤ教的にはこれは政治的な王のことでしょうが、キリスト教的にはイエスのこととして読むんでしょうね

新約でも牧者と羊の喩えは出てきますから、この章もイエスないしは新約記者たちに
大きな影響を与えた章なのかもしれません

73福音伝道:2023/04/15(土) 06:54:38 ID:0BUKU4Ck
>>72
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はルカ24:13-35です。
京都へ行きますが日曜夜には戻ります。

エルサレム陥落を起点として、預言が繰り返されているそうです。
陥落後、回復と言う希望が語られるわけですが
第一に預言者の召命があり33:1-9、これは3:17-21の繰り返しです。

第二に個人への処罰と報酬33:10-20が、18:21-32の繰り返し。
第三 エルサレム陥落33:21-22は3:22-27
第四 生き残った者の運命22:23-29は11:14-21
と言う感じのようです

キリスト教的には33:11の「神を立ち還れ」というメッセージがとても大切ですね
34:11-16の方は当然、主イエースース・クリストスとキリスト教は受け取りますね

74atheist:2023/04/15(土) 21:14:29 ID:???
>>73
例の法事関連ですね
気をつけて行ってらしてください

単に18章の繰り返しだけではなく、他の章も含めた繰り返しなのですね

まだエゼキエルの途中ですが、思いの外エゼキエルが新約に直結している印象を
今回読んでいて感じます

休日分は先週に続いて「空の墓」の後日談ですね
エマオへの道すがら、ふたりの弟子がそれとは気づかず復活したイエスと話すエピソードですが
これはルカ独自ですよね?
イエスは復活を信じきれていない弟子たちのことを嘆きますが、これは当時イエスの復活神話が
形成されていったころの弟子たちの間での確信の欠如を反映しているように思えます
ルカが福音書を書いた頃にはクレオパを含む主要な弟子たちはすでに他界していたでしょうから
こういった話を書くことができたのかもしれません

ルカは少年時代のイエスの逸話などもそうですが、まるで見てきたかのように
他の福音書にはない具体的な逸話を掲載しています
おそらくルカが創作したというよりも、このような伝承がイエスのフォロアーたちの一部にあって
それをルカが脚色して書いたのだろうと思います

75福音伝道:2023/04/17(月) 08:30:30 ID:0BUKU4Ck
>>74
atheisくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル35-36章です。

通称エマオ、原文エンマウースは平行記事がないルカ独自記事ですね
諸説あってどこか特定されてないです。

エルサレムら10km程度の似た地名の候補が数か所ですが
20km程度離れた場所がエウセビオス以来、一番有力です。
そうなるとルカの記事の距離は間違っていることになります。

こういう復活目撃譚は各種語られていたのかもですね

76atheist:2023/04/18(火) 01:00:03 ID:???
>>75
エマオの場所は特定されていないのですね
それは知りませんでした
そういえば聖書地図でエマオを見た記憶がありません

さてエゼキエルの35-36章です

35章はセイル山に向けての神の言葉ですが、肝心のセイル山がわかりませんw
文脈からイスラエルに敵対していた国の象徴かなにかということはわかるのですが

36章はイスラエル復興への希望が語られている箇所ですね
ただし22節や32節にあるとおり、その復興は民のためではなく
神自らの聖なる名のためだそうです

イスラエルが諸国民の間で辱めを受けるということは、その民の神であるヤハウェ自身が
辱めを受けるということで、それは我慢ならん、ということのようです
人が神の栄光のため云々、という文句はクリスチャンからよく聞きますが
神自身が自身の聖なる名のため云々、という言い回しはそれほど目にした記憶がありません

77福音伝道:2023/04/18(火) 05:40:50 ID:0BUKU4Ck
>>76
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル37-38章です。

創世記
36:8こうしてエサウはセイルの山地に住んだ。エサウはすなわちエドムである。
36:9セイルの山地におったエドムびとの先祖エサウの系図は次のとおりである。

セイルの山地は、死海南端の東から南に連なる山岳地帯の総称で、「エドム」の別称
だそうです。

イザヤ
48:9わが名のために、わたしは怒りをおそくする。
のように、「我が名のために」という用法はありますが、
レマアン・シェミー(私の名+〜ために)は、エゼキエルに特徴的なもので
36章20〜23節が、コアですね。

但し20:44にも
20:44イスラエルの家よ、わたしがあなたがたの悪しきおこないによらず、
またその腐れたわざによらず、わたしの名のために、あなたがたを扱う時、
あなたがたはわたしが主であることを知るのであると、主なる神は言われる」。
などとあります

78atheist:2023/04/19(水) 01:55:10 ID:???
>>77
なるほどエドムだったんですね

イザヤやエゼキエルの前の章にも類似表現があるのですね
今回の章でここに目が行ったのは、おそらく民のためではなく神の名のためという対比が
はっきり書かれていたからだと思います

さて37-38章ですが、37章は骨から復活する肉体の幻視、38章はゴグとマゴグで有名な箇所ですね

まず37章ですが、この「復活」は文脈上、捕囚後のイスラエルの復興を表しているのだと思いますが
特徴的なのは後半のエフライムの木とユダの木がひとつになるという箇所だと思います

これは復興後のイスラエルが以前の分裂王国ではなく統一王国になるという予言ですが
復興後のイスラエルは実質的に元南ユダ王国の復興で、エフライム(サマリア)は
ユダヤ人たちから蔑視された存在として、どちらかというと排除されたように思います
このへんはエゼキエルの理想と捕囚後のユダヤ人たちの現実が乖離しているということでしょうかね

38章は>>71で先生に解説してもらった「メセクとトバル」の大君がゴグで、ゴグのいる地がマゴグと
なってます

ということはゴグはアッシリアないしは黒海南東の山岳民の王ということになりそうですが
この38章で語られるほど大きな勢力がこの地にあって、その後イスラエルにやってきたことはなさそうです

ここは単純にエゼキエルの予言というか予想が外れている、ということなんでしょうか?

それからゴグとマゴグは黙示録にも出てきたと思います
黙示録ではサタンの軍勢ぐらいの勢いで書かれていたように思いますが
これはこのエゼキエルを受けて、さらに妄想膨らませていったという感じですかね

79福音伝道:2023/04/19(水) 05:50:49 ID:0BUKU4Ck
>>78
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル39-40章です。

37章の「骨」からの復活はイスラエルの復活と民の統一の予言ですね。
この復活を現代イスラエルと考えると、世界各地からユダヤ民族から
呼び集められたことになりますね

38章のマゴクの註(フランシスコ会訳注)によると、
黒海の南東に居住していたとされるが(創10:2)、
「ゴク」とともに実在しない民族。聖書では悪の象徴。とのことです。

福音派の解釈をマンガ的に書きますと
1.クリストスの再臨・・・全イスラエルの回復、千年王国時代 サタンは幽閉
2.第二の復活と最後の審判・・・サタン解放 ゴクとマゴクの来襲 新天地(永遠の都エルサレム)
だそうです。

その上で、
「メシェク」はモスクワ、「トバル」はロシアの主要都市、
「ゴグ」はコーカサス山脈の最も高い山の名称と解釈した上で
ロシアがイスラエルに侵攻すると考えているそうです
エゼキエル書と黙示録を結合して福音派風に妄想すると、ロシアになるようです

80atheist:2023/04/20(木) 00:48:54 ID:???
>>79
エゼキエル本人の意識としては、現代イスラエルまで視野に入れていないでしょうが
解釈する側からは現代イスラエルのこととして解釈することもできますね

ゴグ、マゴグともにサタン軍の象徴という感じですね
それにしてもロシアですか
昨今の国際情勢を鑑みれば、それらしく思えなくもないですが
この手の予言当てはめゲームはノストラダムスの大予言の解釈と大差ないように感じますw

さて39-40章です

39章は前章に引き続きゴグのことが書かれています
前章より具体的な表現が多くなったような気がします
特にゴグの墓地として名前が挙げられているハモン・ゴグの谷は
ずいぶん強調されていますが、この地がどこにあるのかは推定されているのでしょうかね?
というか、ここまでゴグを強調しているところを見ると、やはりエゼキエルの頭の中には
具体的な民族があったように思えます
フランシスコ会訳注では実在しない民族とのことですが、先生はどう思います?

40章はイスラエル復興後に再建される神殿のことですかね?
ともかく、ずっと寸法測ってますw
出エジプト記にもタバナクルの寸法を事細かに書き記した箇所があったと思います
それを思い出しました
と言っても読み飛ばしたんですがw

81福音伝道:2023/04/20(木) 06:10:37 ID:0BUKU4Ck
>>80
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル41-42章です。

旅びとの谷・・・アバリムの谷
ハモン・ゴグの谷・・・ゴクの軍勢の谷
のことですが、
ハーパーもフランシスコ会訳注も場所を特定してないですね
ハモナの町・・・ハモンの女性形 言葉遊びですね

さて同定するならば、推測ですが、海の東側の海とは、死海のことで死海北東の
ヨルダンマバダ県にあるアバリム連山にある渓谷のことだろうと思います。

82atheist:2023/04/20(木) 23:40:10 ID:???
>>81
そうすると聖書的にはだいたいイスラエル民族がヨルダン川を超えてカナンの地へ入っていく前の
あたりって感じですかね

さて41-42章ですが、40章に続いてエゼキエルが見た幻視のなかでの神殿の寸法の話ですね

ということでここも読み飛ばしましたw
それにしてもどうしてこんなに詳しく神殿の寸法を描写しているのでしょうか?
出エジプト記のときも感じましたが、やはり神聖な場所や祭司のように髪に使える人の服装などは
聖なるものとして徹底的に精確に作られなければならない、という意図があったのでしょうね
出エジプト記のタバナクルや祭司の服装の箇所は実際の祭司階級の人が書いたような気がしますが
エゼキエルのこの部分はどうなんでしょうか

83福音伝道:2023/04/21(金) 05:53:32 ID:0BUKU4Ck
>>82
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル43-44章です。

私たちにとっては読み飛ばすようなつまらない記事ですが、
エゼキエル自身は、この新神殿の青写真こそがもっとも書きたかったものだそうです

エゼキエルは祭司的伝統を熟知していたそうです。その上で律法の規定と違う点が
ありますので、その差異は伝統を改革しようとする意図があるそうです。

エゼキエルは祭司階級で実際捕囚以前は祭司としてエルサレムで働いていたそうです。
そして妻がいましたが陥落前に亡くなられたそうです。そしてバビロンではニップル
近くのテル・アビブに落ち着いたそうです。

84atheist:2023/04/21(金) 23:38:59 ID:???
>>83
エゼキエルは祭司だったんですか
おそらく帰還後のエルサレム神殿に思いを馳せて
今度こそ異教に汚されない神殿や祭祀体制を作り上げようとしたのかもしれませんね

さて43-44章ですが、一応ここも神殿の幻視の続きですね

43章では神の栄光が宮に入ってきますが、6節で「その人」「ひとりの人」というのが出てきます
これは誰なのでしょうか?あとの語り口からすると神そのもののように読めますが
さすがに神を「人」とは書かないようにも思えます

44章は主にレビ人(祭司)に対する戒めというか命令ですが
やはり22節のような純血性を重視する規定が目立ちます
このへんはエズラ/ネヘミヤなどと共通してますね

85福音伝道:2023/04/22(土) 07:00:00 ID:0BUKU4Ck
>>84
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はルカ24:36-49です。

6節の「その人」「ひとりの人」は
40:3神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。
その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた

の「青銅のような姿をした人」、すなわち「天上の人」を暗示しています。
いづれにせよ、エゼキエルの妄想の中であった普通の人ではない、青銅の人です。

神本体の方は43章では、大水のような響きや輝く栄光と「声」だけです。

で、このエゼキエルが見る幻の神は神殿に自分がすまうために色々指示するわけ
ですが、神殿祭儀自体を神が望んでいるわけではないでしょうから
祭司階級の人たちの理想の神像というか、妄想ですね

東の門だけを閉じたままにしておけ 神が通ったもんだからと44章にあるが
本願寺でバイトしている時に勅使門というのがあって開かずの門と聞いたことが
あります。天皇の行幸か、天皇の使いが来る場合以外は開けないそうです。
古代人感覚ですね。

祭司でもツァドク一族のみ偶像崇拝をしなかったので聖所で奉仕できるが
ほかの偶像崇拝をしたレビ人の子孫は門番や雑務で奉仕させるという差別の
固定化。こんな規定は神はしないですね

86atheist:2023/04/23(日) 01:19:43 ID:???
>>85
天上の人ではあっても、特定の名前があるわけではないのですね
神の意思を伝える人としてエゼキエルの幻視の中でだけ現れる人ということでしょうかね

こういった細かく厳格な祭祀規定というのは、まさに祭司階級が自らの存在理由や価値を
確立するために規定されたものであって、彼らの神像の表れですね

本願寺でも同じように開かずの門があるということは
宗教一般に存在するような聖性の観念なんでしょうね

厳格な祭祀規定はまず第一に祭司階級、もっと言ってしまえば祭祀に特別な利害を持つ人たちのための
規定なのでしょうが、それでも厳格であることによって、宗教の聖性を高めるというのは
あるのだろうと思います

さて休日分はまたまた先週の続きで、復活が霊ではなく肉体の蘇りであることを強調する場面と
イエスの復活が旧約の預言の成就であることを語る場面ですね

46節以降のことばって、トーラーや預言書、詩篇に書いてありましたっけ?
「苦しみを受けて」の部分はイザヤに書いてあるとしても三日目に蘇るとは書いてなかったような気がします
これはヨナの話ですかね
「悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」という箇所も
どこだか分かりません

87福音伝道:2023/04/23(日) 07:12:42 ID:0BUKU4Ck
>>86
atheistくん、おはようございます。明日月曜の聖句はエゼキエル45-46章です。

律法、預言、詩篇でヘブライ語聖書全体を言い表しているそうです。

三日目の復活は仰せの通り
ヨナ書/ 01章 17節
主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。
ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

かもですね

「悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」はどこか
例えば
エゼキエルの主題の一つにも悔い改めがあります
33:11あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。
わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。
あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。
イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

その悔い改めがエルサレムが世界へと拡散していくというイメージは
一神教の必然として、あったのかもですね

88ラピスラズリーKoD ◆oaI6xk.Wq6:2023/04/23(日) 07:27:17 ID:pOWGj3x6
エゼキエル書の真骨頂は、37章「枯れ骨の谷」だ。

あそこが、《死からのよみがえり》を象徴しており、
やがては新約の「死から復活したイエス」と、全イスラエルの再興へと、繋がってくる。

89福音伝道:2023/04/23(日) 09:06:45 ID:0BUKU4Ck
出エジプト
9:16しかし、わたしがあなたをながらえさせたのは、
あなたにわたしの力を見させるため、
そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない。

詩篇
9:11シオンに住まわれる主にむかってほめうたい、
そのみわざをもろもろの民のなかに宣べ伝えよ。

イザヤ
12:3あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。
12:4その日、あなたがたは言う、
「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。
そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。
そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。
12:5主をほめうたえ。
主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。
これを全地に宣べ伝えよ。
12:6シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。
イスラエルの聖者はあなたがたのうちで
大いなる者だから」。

というのもあります

90Kaori:2023/04/24(月) 00:29:03 ID:lomb7mQg
?????????


「マジの高齢者 福音」は何歳の爺婆ですか(雄雌どちら)
70代?60代後半?前半?
鹿野園さんより、ずっと高齢だよね?
5ch最高齢の福音

本名は?
家庭不和だから、人様を口撃するのか?
いつも突然の口撃

うざ絡みして5chから人を追い出すゲームは面白いか?
今まで多数の人が追い出されたらしいけれど
老害 福音
満足ですか?

91Kaori:2023/04/24(月) 00:43:26 ID:lomb7mQg
???


atheistというオッサンも
5chの害獣害虫 福音の他害を放任してないで
注意しないと

見て見ぬ振りは悪いことですよね

92atheist:2023/04/24(月) 01:43:20 ID:???
>>87

> 律法、預言、詩篇でヘブライ語聖書全体を言い表しているそうです。

そうなんですか、これは知りませんでした

たしかに33章を読んだときにも、この箇所はエゼキエルの真骨頂的な書き方をしたように思います
単に祭司的保守主義にと留まらず、こういった新約に通じる思想を持っていたことが
エゼキエルのひとつの特徴ですね

>>89
「エルサレムからはじまって」という直接的な表現にはなっていませんが
挙げてもらった箇所はシオン(エルサレム)に住まう神が全地に宣べ伝えられるように、という内容の
ことが書いてありますね

93福音伝道:2023/04/24(月) 05:35:21 ID:0BUKU4Ck
>>92
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル45-46章です。

> 律法、預言、詩篇でヘブライ語聖書全体を言い表しているそうです。
例えば、新共同訳スタディバイブルでは
「ユダヤ教聖書は三つの部分で構成されている。1.モーセの律法、2預言書、3.詩篇を含む諸書

>「エルサレムからはじまって」
スタディバイブルは
詩篇22、イザヤ53、ホセア6:2を挙げています。
ホセア
6:2主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、
三日目にわたしたちを立たせられる。
わたしたちはみ前で生きる。

しかし、「エルサレムからはじまって」箇所はないです。

岩波委員会訳註によると、
「このような具体的箇所は、旧約聖書には存在しない。
聖書の意志としての神の意志である、ほどの意味」とあります。

新共同訳略解は、諸書を詩篇に代表させている理由について註解しています。
曰く「ルカによればイエスの復活と高挙は詩篇の言葉の実現とされるから。
使2:25以下/詩16:8-11,使2:34-55/詩110:1,使4:11/詩118:22,使13:33/詩2:7,
使4:25-26/詩2:1-2)

94Kaori:2023/04/24(月) 19:16:11 ID:e6udkGyQ
?????????


発狂して口撃することで5chから人を追い出す
マジの高齢者 福音
5ch「異端教会牧師 福音」は毒学毒書して人を裁く老害
教会で神父から教えを学びもしない
黙想もしない瞑想もしない狂祖 福音
誤字脱字が多過ぎる爺婆福音

小さい目細い目を200%開いて
キリスト教用語 数珠繋ぎしなよ
掲示板お局 福音

実るほど頭の下がる稲穂かな

95Kaori:2023/04/24(月) 23:00:51 ID:e6udkGyQ
♢♢♢♢♢♢♢


嘘塗れ老翁老嫗福音は
大嘘も垂れ流して人を引き摺り下ろしたがる
人の年齢を引き上げたがるデマ製造機

醜い年寄り福音は嘘捏造機の大馬鹿

卑劣な老人 福音に信心はない

96atheist:2023/04/24(月) 23:52:59 ID:???
>>93
いわゆるトーラー、ネヴィイーム、ケトゥビームというやつですね
詩篇で諸書を代表しているというのはまったく気づきませんでした
タナハ(聖書)に書いてある、と言ってしまえば一言で済みそうなものですがw

ルカに限らないかもしれないですが、新約の記者たちはけっこう自由というか強引に
ヘブライ語聖書を解釈してイエスの物語に当てはめますから
あまり厳密にどこどこに書いてあると捉えないほうがいいのかもしれませんね

さてエゼキエルの45-46章です
残りわずかですね

ここもまた相変わらず寸法描写と祭祀規定ですね

キュビトとかシケルとかはよく聞きますが
エパとかバテとかホメルとかいった単位はあまり耳にしません

ユダヤ教徒ではない我々にとっては、えらくつまらない記述ですが
エゼキエルにとっては再生したエルサレムとイスラエルの青写真なわけですから
これだけ熱心かつ念入りに書くわけですよね
そんななかでも45章9節のように君主の暴虐と略奪を戒めることばを記しているところから察するに
捕囚に至るまでのユダの王政の腐敗ぶりがエゼキエルの脳裏に焼き付いているのでしょうね

97福音伝道:2023/04/25(火) 05:50:47 ID:0BUKU4Ck
>>96
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエゼキエル47-48章です。

聖書原文には、キュビットとはなく、長さ2万と五千などとあります。
なので口語訳が補っています。他の訳ではアンマが当てられています。

キュビット自体はBC6000頃から使われている古い単位で、
「肘から中指の先まで」です。この身体の単位は便利ですが、人によって差があります。
43 - 53cm程度なのですが、シュメールでは51.72cm メソポタミアでは49.6cm
エジプトでは52.35cm、ギリシアは47.4cm、ローマは44.46cmだったりします。
イスラエルでも時代によって違い第一神殿時代は42.8cm 第二神殿では44.5cmですが
宗教的な場合は43.7cmが採用されたそうで、アンマという単位が用いられました。

シェケルはBC3000年頃に生まれた小麦の重さを表す単位で、約1.5kgでしたが
古代ヘブライ人の重量単位としては9-17gと統一されてませんでした。
代表的な出土品の分銅の重さは11.42gだったそうです。

エパ(エファ升)は、エジプトの籠を意味して約23リットルです。
バテ(バト升)は、バトはヘブライ語で娘という意味で、井戸水を組むのが娘の仕事だった
        ことから来ていて、エファ升と同じく約23リットルで液体の容量を指します。
ホメルは、ヘブライ語の「ろば」です。ろば1駄の穀物量で約230リットルです。

98Kaori:2023/04/25(火) 07:44:20 ID:coqdaM6M
⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️


ハゲ福音ジャイ子はヅラBBA、福音の実姉たちもヅラ、

ヅラ爺婆一族!!

福音ジャイ子は陰湿な老嫗芸者
狂都の山猿BBA福音、おまえの陰口がデジタルタトゥー
になってることを知らないのか?

情弱老人 福音
小銭でゲットした波平ヅラ洗って頭を冷やせよ
罵詈雑言垂れ流し5ch最高齢 福音

99Kaori:2023/04/25(火) 08:39:16 ID:coqdaM6M
⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️



ワザト
人を年寄りみたいに
ハゲ福音老嫗は 人の年齢を引き上げたがるデマ製造機

麦さんのことも同年代みたいに年齢を引き上げて
鹿野園さんのことも高齢みたいに年齢を引き上げて
「レス数多過ぎ 福音」より若いのに
ずっと若いのに

「携帯も持ってない」5ch最年寄り福音は 嘘捏造の大罪で
キリストに裁かれる

100Kaori:2023/04/25(火) 10:59:03 ID:6Cx8JQJM
⬛️⬛️⬛️⬛️



キリストは嘘吐いたっけ?
イエスは嘘吐きだっけ?

デマ垂れ流し老人 福音

「詐欺宗教家 福音」爆誕!

「詐欺宗教家 福音」爆誕!

「詐欺宗教家 福音」爆誕!


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