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三国志Ⅸ 公孫度伝

121野に咲く一輪の花:2014/03/23(日) 15:25:22
☆☆☆☆飛翔4☆☆☆☆

公孫度軍が晋陽に進軍した。
この報に便乗した軍が存在する。
洛陽方面の曹操軍である。
この地方の曹操軍は何度か陽動も含めて上党へ攻略部隊を差し向けている。
今、上党は晋陽に援軍を送りわずかの兵しかいない。
この機にと大軍を送り込んだ。
一方で、公孫度軍はこの曹操軍の北上の情報を察知し、戦術の見直しを図った。
晋陽攻略を諦め、常山のみならずギョウへの撤退である。
『ギョウに曹操軍迫る』
これはもちろん虚報である。
だが、ギョウにもそれほど多くの兵がいたわけではなく、曹操軍の圧力が掛かっていたことは真実である。
幷州(ヘイシュウ)の袁紹軍はこの報を信じた。
ギョウ陥落に伴い、華北の情報網が分断されたことにより正確な情報収集力が落ちたことが要因に上げられる。
晋陽に集結した袁紹軍は、目下上党の危機回避の為、救援に走ったのである。
これにより、当初陥落必然と言われた上党がかろうじて曹操軍の猛攻から凌ぐ結果となる。
さらに公孫度軍は当初の戦略通りある計画を実行した。
壺関攻略である。
これは、陽動も兼ねた作戦であるのだが、この将には韓暹(カンセン)が選ばれた。
壺関は隘路に囲まれた要所の一つで、過去楚漢戦争時にもその近辺で戦いの舞台ともなった地である。
この時の韓暹(カンセン)は、公孫度らと出会うことによるかつての矜持を取り戻しており、先の鉅鹿(キョロク)陥落戦により自信も取り戻していた。
この隠密行動は、晋陽の監視網に引っかかり援軍を出させるのだが、速力を重視する韓暹(カンセン)の別働隊の動きによって難所である壺関を先に奪取した。
なお、晋陽の監視網に引っかかったのは、意図的である。
余談になるが、この行為は人々の記憶に残ったらしく、後代において白波を扱う喜劇など様々なジャンルに多く取り上げられた。
前述しているが、白波とはかつて韓暹(カンセン)が山賊時代に拠点にした地名を指し、後代になると山賊としての意味も持ち合わせる。
ところで、公孫度軍本隊と言えば、晋陽を囲んで陥落させている。
ギョウに戻ると見せかけた軍勢を電光石火の如く戻したのである。
この頃の公孫度軍に戦術の冴えが光るのは、幾多の戦いで得た経験の蓄積を有効活用した結果であろう。
こうして、公孫度はわずか3ヶ月の間に壺関、晋陽を陥落させるに至る。
時に199年11月のことである。


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