[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
三国志Ⅸ 公孫度伝
120
:
野に咲く一輪の花
:2014/03/22(土) 14:29:28
☆☆☆☆飛翔3☆☆☆☆
韓浩は袁術に騎都尉に任じられ、袁術が敗れ袁紹と合流すると、そのまま袁紹に仕えた人物である。
しかしながら、韓浩は袁紹の下で優遇されたとは言えなかった。
半ば隠棲状態で公孫度がギョウを落とした際に、公孫度陣営に招かれた。
韓浩は公孫度が農政を重視していることを知り、屯田を推進するように提言した。
公孫度も韓浩が並々ならぬ人物であることを悟り、第2次変法の議論の場へと参加させた。
韓浩は、このことがよほど嬉しかったらしく、大変誇りに思ったという。
こうして、公孫度の下にまた内治に優れた人物が現れたのである。
一方で、公孫度は冀州(キシュウ)を掌握するのと同時にいよいよ幷州(ヘイシュウ)の攻略に乗り出す。
その為にギョウと晋陽の間に存在する常山に城塞を築き、晋陽攻略の橋頭堡とした。
ギョウには徐貌(ジョバク)、韓浩、崔エンを残し、曹操に北上されないように十分な兵力も残した。
199年8月、ついに公孫度軍は8万5千の軍勢をもって晋陽攻略へと動き出す。
この時の公孫度軍の戦略は、兵法が忌むべきとされる作戦を取った。
兵力を晋陽に集中して叩く作戦である。
兵法では、各個撃破を第一とする。
そうすれば、つねに自軍は兵力的に有利に運べるからである。
公孫度軍はその兵法の忌むべきことをあえて行った。
一つに幷州(ヘイシュウ)には、まだまだ袁紹の兵力が各地に存在していた。
これを分散して討って行くと年月がかかるので、あえて短期決戦に持ち込ませたこと。
それともう一つは決戦自体大きな陽動であるということである。
様々な思惑を乗せ、公孫度の晋陽攻略戦は開始された。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板