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タン・デユンの「最初の皇帝」

1名無しさん:2007/01/17(水) 19:14:55
ラジオでメトのライヴを聴く。
どうも映画のコン・ス作曲の「最後の皇帝」への対抗作品であるらしい。
プラシード・ドミンゴのタイトル・ロール。
英語では思ったとおり「タン・ダン」と発音している。
音楽はその定型的な中国アカデミズムの音楽。
繰り返し部分は何回も聞くと飽きてくるであろう。

2名無しさん:2007/01/17(水) 23:24:32
CAMIがすべてオルガナイズしてあげた。

3名無しさん:2007/01/22(月) 06:05:54
タン・ドゥン作「始皇帝」無責任な感想  [現代音楽]  
小雨のあったかい連休中日の日曜日、さても、あと数時間でJFKからコペンハーゲンに向かわねばならぬ。その前に、昨日見物した話題のタン・ドゥン新作歌劇「始皇帝」の感想を記して超短期のNY滞在を終えましょうか。現時点で某音楽雑誌に売り込んでるので、あくまでもほんのひとことのみ。この私設個人運営壁新聞読者諸氏も、このままじゃあ気持ち悪いでしょうからねぇ。

まずは、開演前のメトの舞台。ここまでは観光地で、みんなパチャパチャ記念写真を撮ってるから問題ありません。ご安心を。ご覧あれ、上手にでっかい銅鐸らしきもの。下手にポーセレンの太鼓アンサンブルと、箏がひとつありますね。伝統楽器はこれくらいです。

さても、3時間以上も自腹切って付き合った小生の無責任な感想を述べさせていただけば…「グランドオペラの枠組みを真面目に守るという出発点がそのものが失敗の始まり」に尽きます。
つまり、10年も前にメトから委嘱があったときに、タン・ドゥンの嫁さんのプロデューサーが「これこそドミンゴ主演のメトにドンピシャだわ」と大喜びで選んだ「始皇帝の誕生に至る個人的苦悩」という基本リブレット、あんたはヴェルディか、と突っ込みたくなるような19世紀グランドオペラまんまのテーマが、この作品の全てを決めてしまった感じです。

つまりこのオペラ、20世紀オペラじゃありません。グランドオペラを(結果として)バカバカしいまでに脱構造化しちゃったシュトックハウゼンやら、強引な演出でオペラの構造を崩そうとするコンビチュニーやらがもてはやされるヨーロッパでは、絶対にあり得ない類のものです。
20世紀に「権力者の苦悩」というテーマに真っ正面から挑んでそこそこ成功したオペラは、アダムスの「中国のニクソン」くらいしかない(というか、あれはテーマ設定そのものからしてグランドオペラのパロディなでしょうけど)。今時そんなリアリティ皆無なテーマを普遍化しようと才能を浪費する奴はいない。ま、逆に言えば、こんな主題をやるなんて偉い、あんたはドンキホーテだぁ、と誉めることは出来るかも。←皮肉にしかならないかな

4名無しさん:2007/01/22(月) 06:06:54
音楽の問題はもっと明快。タン・ドゥンの才能は、やっぱり「オーケストラや人声から新しい、聴いたこともない響きを引っ張り出す」ところにある。だから、彼の唯一の弦楽四重奏作品は、これだけの人気作家だからもっとみんなが弾いても良いはずなのに、殆どやられません。やっぱり、弦楽四重奏みたいに素材を限定されると才能が自由に発揮できないタイプの作家なんでしょう。
で、最大の美点のオーケストレーション、第2幕前奏の箏と2台ハープの合奏や、それこそワイヤーアクションのジェット・リーでも飛んできそうな太鼓アンサンブルの間奏曲とか、それなりに立派なところはあるんだけど、結果的にオペラとすればそれらは「効果音」にしかなっていない。
グランドオペラで開き直るなら、声(オーケストラのトータルな響きでもいいけど)によるドラマツルギーが成り立たなきゃ意味がないんだろうが、その部分はみんなスカです。もー、殆ど「フィデリオ」ですは。
感情や状況の短時間での極端な推移、というオペラというフォーマットが最も力を発揮する場面でも、それが音楽として全く表現されていない。特に第1幕大詰め、娘の足が治ったと喜ぶ始皇帝が、その理由が音楽家の高漸離との性行為の結果であると察した瞬間に一転して怒りに駆られる、ヴェルディなら大喜びしそうなシーンがあるんだけど、始皇帝の感情の動きが前々音になってない。というか、ノンビリ音になってる、というべきかな。
リブレットにも問題があり、第2幕後半の盛り上がりのなさは、タン・ドゥンというよりも台本が悪いと思いますね。でも、ダメな台本を力業で強引に格好付けちゃうのはオペラ作家としての基本的な力でしょう。その意味では、やっぱりタン・ドゥンはグランドオペラ作家ではなかった、ということです。

結論から言えば、みんなが大事な才能を長い時間かけて寄って集って浪費し、無駄にした、という感じ。才能の対費用効果からみれば、失敗は明らかですな。でも、オペラってのはそういうものだ、という寛容な考えもあるんだろうなぁ。

他にも細かいことを言い出せばキリがないし、果たしてモチーフみたいなものがホントになかったのかなど、一度では判らないこともあるからこれ、以上は言いません。ま、商売でなんか書くとしたら、もうちょっとちゃんと調べないと行けないことも多いし。

以上、やくぺん先生の勝手なご意見でありました。ま、どうしても見物したいという方は、明日(だろうか)の新橋演舞場でどうぞ。夜はリリンクが地元アマチュア合唱団を指揮し、低いピッチの古楽弾きのセントルークス管が付き合った「マタイ受難曲」で、古典名曲の力をあらためて思い知らされたものでありましたとさ。

それにしても、125ドルも払ってると、思いっきり無責任な消費者の気持ちになれるのはすっきりしてよろしい。なんせ明日のコペンハーゲンの「ドン・ジョヴァンニ」は2500円也くらい。聴けるだけで有難い、という額。デンマークって、税金高い国なんでしょうねぇ。

5音楽も同じ問題はないか?:2007/05/17(木) 18:08:21

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2007年05月17日

 社会が複雑になると、個人や組織は専門家とみなされる第三者に権限をアウトソースすることになる。弁護士は依頼人の、企業経営者は株主(もっと広くステークホルダーという人もいる)の、ローマ法王は神の代理人と呼ばれる。政治の世界でも、同様である。民主国家の建前では国民が主権者であり、政治家はその代理人、官僚は政治家の代理人ということになる。

 本来の権力者が委譲された者に利用されたり、欺かれたり、権力を奪われたりするのは、歴史学では下克上と呼ばれ、経営学では「エージェンシー問題」といわれる。これを避けるには、主権者には効果的な監視体制、代理人には透明性と説明責任を全うする仕組みが必要であるが、わが国の政府にはいずれも大きな欠陥がある。加えて、わが国の官僚は立法と法解釈を壟断(ろうだん)している上、責任回避のメカニズムも編み出した結果、歴史に類を見ないほどの陰の権力者となってしまっている。

 99年に巨大な欠損を抱えた北海道東北開発公庫を日本政策銀行に統合させたが、最近では03年の独立行政法人への改組に付け込み、12兆円もの巨額の繰り越し欠損金を政府資金で穴埋めしていたことが明らかになった。

 同じ不透明な手法が繰り返され、責任が問われることはない。35年前の外務省機密漏洩(ろうえい)事件は政・官の陰謀にメディアが敗退したケースであるが、その後米国での情報公開や元外務官僚の告白によって、「官のカタリ」が明白になったにもかかわらず、政・官は公然と事実を否定し、司法は「時効」を口実に門前払いとした。

 国家ぐるみで国民を欺く手口は、かつての大本営発表を連想させる。敗戦後の民主革命はそのようなカタリ国家からの脱却であったはずである。

 この国を美しい国に変えうるのは、国家主義的な宰相ではなく、国民の主権回復への意志しかない。(匡廬)

6名無しさん:2011/03/03(木) 20:30:34
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