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物語スレッド

1 言理の妖精語りて曰く、 :2006/07/13(木) 00:22:13
物語のためのスレッドです。

・このスレッドでは断片的な情報ではなく、ある程度まとまった「物語」を扱います。
・小説風、戦記風、脚本風など形式は問いません。
・何日かかってもかまいませんが、とりあえず「完結させる」ことを目指してください。
・自分が主な書き手となるつもりか、複数人のリレー形式か、メール欄にでも明記しておくと親切です。
・名前欄か一行目に物語のタイトルや話数を入れておくと、後でまとめやすいです。

195 遺された紀憶(8) ◆hsy.5SELx2 :2007/06/09(土) 04:25:05
時:hi89f-gi69-j4jf

 ぼくは怖くてたまらない。何かしていないと不安でたまらない。それで、この文章を書いている。今日の分の仕事がまだ残っているというのに、部屋に引き込もって、一人で。久しぶりの紀憶がこんな文章というのもなんだか情けないけれど、そうも言っていられないくらいぼくは混乱している。あの部屋で見た光景が目に焼きついて離れない。彼女が何を考えているのか、わからない。怖い。怖くてたまらない。いや、こんなことばかり書いていては余計に怖くなるばかりだ。冷静に、順を追って綴っていこう。
 手紙。そう、手紙だ。今思えば、あれが全ての発端だった気もする。前回の紀憶の最後に書いた、あの手紙。
 手紙はあのあとすぐに破いて捨てた。でも、それからも何度も来た。内容はいつも似たりよったりだ。彼女は狂っている。彼女は部屋に愛人の首を飾る狂人である。早くここから立ち去ったほうがいい、ということ。一体誰が何故そんなものを送ってくるのか、さっぱりわからなかった。ワレリィさんに訊いても、いつも言葉を濁されてしまうのだ。曰く、「ぼくには何も言えないのですよ17……。あの子に逆らうのはさすがにちょっと怖いのです23。ごめんなさい11」
 こうまで脅されると、さすがにちょっと心配にもなってきた。それであるとき、遠回しにではあったけど彼女に相談してみた。やはり直截言う勇気はなかった。いつものように、ぼくの仕事が終わったあとで、彼女が遊びに来たときのことだ。
「あのさ……ぼく、ここに居ても、いいんだよね?」
 彼女はローブを撫でる手を止めた。そういえば、彼女は最近しょっちゅうローブを撫でているな、とぼくは思った。ローブに隠されたものの輪郭が、ときおりあらわになる。それがふと人間の頭蓋骨のように見えて、ぼくの身体の奥がきしんだ。そんなわけはない、と必死に自分の考えを否定した。
 彼女は不思議そうに首を傾げた。
「もちろんよ。どうしてそんなこと訊くの?」
 このときに至ってもまだ、ぼくは事実をありのまま話すのを躊躇っていた。
「ううん。ちょっと不安になっただけだよ」
「どうして?」
「なんだか、あんまりにも恵まれてる気がして。湖のほとりでうずくまっていたころとは違いすぎて」
「幸せすぎて不安? 贅沢ねえ」
 彼女はからからと笑った。ぼくは曖昧に微笑むことしかできなかった。
 とはいえそのころはまだ、彼女と話しているのが本当に楽しかったんだ。彼女はぼくのほうに身体を向けて、ぼくの言葉を一々丁寧に訊いてくれた。ぼくが、今日はワレリィさんと本の話をしただとか、ニースフリルさんに面白い遺跡の話を聞いたとかいうと、彼女は太陽みたいな笑顔で感心してくれる。「それって、どういう意味なの?」「うわあ、凄い! わたしも読んでみたい!」「いつか、一緒に行きたいわね。そのときはどんなものが見えるか、ちゃんと説明してね」そんな言葉の数々がぼくの心のなかにかちりとはまっていく感覚は、とても快かった。
 それが、どうしてこんなことになってしまったのだろう。彼女はぼくを、騙していたのだろうか。
 今朝、満天の星々のもと玄関を掃除していたら、見たことのない女性があらわれた。重そうな太い宝石剣を佩いていた。ぼくが「こんにちは!」と言うと、その女性はじろりとこっちを睨んだ。
「……あんたが、そうか。なるほど」
「なにか用事? ここは星見の塔だけれど。あ、姉妹の人?」
「あんた、逃げろと言ったろうに。まだ縊り殺されずにいるなんて、奇跡みたいなもんだ」
 にやりと笑うその表情に、その言葉に、ぼくの身体はぎしりと軋んだ。
「……あなたは、誰?」
「名前なんてどうだっていい」
「手紙を送ってきたのは、あなた?」
「さあね。手紙なんて知らない」
「あなたは……」
 ぼくは最後まで言えなかった。というのも、上空から奇っ怪な叫び声が振ってきたからだ。
「姉さん覚悟オオオオオオォォォォォッッッ!!!」
 トミュニさんだった。トミュニさんが長大な竜のような雷を従えて、振ってきた。トミュニさんはぼくの目の前の女性へと向かって、真っ直ぐに襲いかかった。
 しかしぼくの目の前の女性はまったく動じることなく、ひょいと一歩退いた。すぐさま轟音とともに土煙。
 トミュニさんは、あっさり墜落していた。
 ついでに自分の雷に追撃をくらっていた。それでもまだかすかに目をあけていたのは正直すごいと思う。
 トミュニさんはにやっと笑ってつぶやいた。
「ふ……なかなか、やるな」
 そのままばったりと倒れた。
……意味がわからなかった。

196 遺された紀憶(8)-2 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/09(土) 04:25:42
 ニースフリルさんが「はいはいごめんよー」と面倒臭そうにやってきて、トミュニさんを運んで行った。剣を佩いた女性はぼくをちらと見ただけで、一緒に塔の中へと入っていってしまった。ただ、最後にぼくにだけ聞こえるように、小さく囁いた。
「なぜ彼女の部屋を見ない? お前の不安は、それだけで消えるんじゃないか?」
「え……」
 それ以上聞き返すことは出来なかった。女性はあっと言う間に塔の中へ消えてしまったし、ぼくには仕事があったから。でも、仕事中はずっと、そのことばかり考えていた。
 そう、考えてみれば彼女の言うとおりだった。こんなにも不安になるのはあの手紙が本当なのかどうか、曖昧なままだからだ。みんながみんな、呪いとかなんとか曖昧なことばかり言っていて、疑いばかりがつのる。それに、誰かから否定の言葉を聞いたところで「もしかしたら」という可能性は残る。しかし部屋さえ見られれば、疑いなんてすぐに消えてしまうだろう。彼女が狂人でないことがはっきりすればぼくはこれからも彼女と幸せに暮らしていけるし、もしあの手紙が本当ならそれはそのときに考えればいい。とにかく、はっきりさせないことにはぼく自身の姿勢が決められない。決められないから、不安になる。そういうことだ。そう思った。
 とはいえこんな面倒臭い事情がある今、彼女に直接「部屋を見せて欲しい」なんて言う勇気はなかった。いや、正確に書くと、もう少しで言いかけた。でも彼女のほやほやの笑顔を見ていると、ぼくの疑念がとてつもなく汚らわしいもののように思われてきて、とてもじゃないが口に出すことなんて出来なかった。
 夜になって、ぼくは彼女におやすみを言って別れたあと一人塔の屋上へと登った。珍しいことにイングロールさんは居なかった。もっともあの人は随分無茶な生活をしているから、さほどおかしなことではない。一日中星を眺めて次の日は一日中眠るなんてのもざらだ。きっと眠っているあいだも星の夢を見ているに違いない。
 ぼくは空を見上げた。星は相変らず地上のぼくらなんて全然気にかけてくれない。でも、そういう揺がない様を見ていると、何故だか励まされているような気分になってくるから不思議だ。だからぼくは星が好きだ。湖の側にうずくまっていたころも、よく眺めた。そのころ勝手に考えたいくつもの星座の名前。その本当の呼び名を、いまではイングロールさんに教えてもらって知ってしまっていた。けれど、ぼくの中では昔のままの星の名前がずっと生きている。空を見あげて、そのいくつかを自分の中で反芻した。彼女のことも、星の並びくらいにはっきりしたものであればいいのに。星の並びが揺がないように、ぼくの彼女への気持ちもずっと同じままでいられると思っていたのに。そんなことを考えていた。なんだか悲しい気分だった。
 そして不意に、背後で物音がした。
「誰? イングロールさん?」
 振り返ったが誰もいなかった。鴉の羽のような暗闇が広がっているだけだった。と、再び音が響いた。なにか硬いものが床にあたる音だった。
「誰?」
 もう一度ぼくは呼びかけた。だけどやっぱり返事はなかった。ぼくはゆっくりと、音のするほうへと歩いていった。
 音はぼくがいるほうとは反対の端から聞こえてきていた。もう一度、硬い音が響いた。ぼくはそこに辿りついた。黒い影が二つ、素早く通りすぎていったように思ったのだけど、気のせいだったかもしれない。
 そこには落書きみたいな窓があった。一目でわかる、ワレリィさんの「扉」だ。窓は開かれていた。中から光が漏れていた。ぼくはそっと中を覗きこんだ。
 彼女がいた。
 窓のなかには、彼女の部屋があった。
……ここから先は、書くのも辛い。
 結局彼女は、狂人だったということなのだろうか。信じたくない。でも、ぼくが見たものは、紛れもなく現実だ。

 なぜ彼女は部屋のなかにあんなものを飾っているのだろう。
 なぜ彼女はあんなに愛おしそうな表情をしているのだろう。
 なぜ彼女は宝物に触れるような優しさで、男の――生首に――

 不意に。ぼくの身体がぎりりと軋んだ。

 彼女ははっとしてこちらを向いた。ぼくは反射的に窓を閉じた。でも遅かった。目があった。彼女の口があっと開かれるのを見た。咄嗟に生首を抱きしめる様も、見てしまった。

 ぼくは怖くてたまらない。
 なぜこんなことになってしまったのだろう?

197 遺された紀憶(9)-1 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/09(土) 04:36:40
時:hi89f-gi70-dje8

 もうぼくはいつ殺されてもおかしくない。誰かぼくを助けて欲しい。なにを信じていいのかわからない。彼女を信じたいのに信じられない自分が悲しい。
 あれから眠れないままに夜が終わった。外は暗いままだったけれど、仕事を始める時間がきた。ぼくはそのとき部屋に居た。仕事を始める時間になると、彼女が起こしにくるのが日課になっていた。彼女の呼び声を怖がる日がくるなんて、思いもしなかった。ぼくはベッドの中で震えていた。あんなことがあったのだから、彼女はこないかもしれないと思っていた。いや、それはむしろぼくの希望だった。彼女に会うのが、怖かった。
 突然、ノックの音がした。ぼくの身体のどこかがおかしな音を立てた。
「寝てる? 入るよ」
 ドアが軋みをあげ、彼女が入ってきた。ぼくはそっと彼女の顔を伺った。彼女はいつも通りだった。少なくとも外見上は、いつも通りに見えた。彼女は楽しげながら危なっかしい足取りで歩いてきた。
「どこー? 起きてるなら返事してー」
 彼女はぼくの部屋がどういう風か、すっかり覚えてしまっている。だからぼくの声なんかなくてもちゃんとベッドの側まで来れた。彼女はぼふ、とぼくの身体の上に倒れこんだ。
「えへへ。起きたー?」
 ぼくの身体は硬ばった。感付かれてなきゃいいな、とぼくは思った。
「……うん。おはよう」
「おはよう。珍しいわね、いつもはわたしが来るともう起きてるのに」
「……うん」
「夜更しでもした? だめよ、ちゃんと寝ないと。日中肉体労働してるんだから、身体休めないとね」
「……うん」
「……どうしたの?」
「……いや」
 彼女は心配そうに首を傾げた。心なしか、迷っている風でもあった。ぼくは耐えられなくなって、彼女を押しのけて身を起こした。
「あ……」
「大丈夫。なんでもないんだよ」
 そう言って、ぼくは笑った。震えを上手く隠せたかどうか、自信はない。彼女は本当に、いつも通りに見えた。昨日のことはぼくの夢だったのかもしれない。そう思った。そう思いたかった。それで、少し安心した。
 でも、彼女がローブを撫でながらそっと吐きだした言葉に、ぼくの身体はゆるく軋んだ。
「……あの、昨日のこと」
「……………………うん」
「その……ううん、ごめん、なんでもない」
 彼女は弱々しく笑った。
「ごめん、わたし今日は用事あるから、先に行くね。お仕事、頑張って」
「……うん」
 そうして彼女は足早に、相変らず危っかしく駆けて部屋を出ていった。ぼくはしばらくぼんやりとしていたけれど、やがて身支度を済ませ仕事に向かった。
 塔の中はがらんとしていた。静まりかえっていた。誰かに相談するべきなんだろうか、と迷っていたのに、そもそもひと気が無い。誰の居る気配もなかった。そんな風なのは、ここに来て初めてのことだ。
 それでもヘリステラさんならいつもの部屋にいるだろう。そう思って、ぼくは階段を登りはじめた。
 どれだけ移動しても、やっぱり誰もいなかった。なにかあったのだろうか。彼女のこともあるし、ぼくはますます不安になった。窓の外は相変わらずの満天の星々。その光はぼくが知るはずのない冷たさを持っているように見えた。容赦のない観客たちに囲まれて舞台に立っているような気がした。
 ため息を吐いた。
 その瞬間声を掛けられた。
「おい」
 壊れそうなほどびっくりした。
「また会ったな」

198 遺された紀憶(9)-2 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/09(土) 04:37:45
 振り返ると、昨日の女性が立っていた。相変わらず重たそうな宝石剣を佩いていた。その様はとても高貴で、立派で、真っ直ぐに見えた。正義という言葉がよく似合う人だ、と思った。
「あ……おはよう」
「どうした。元気が無いな」
 女性はにやっと笑った。冬の真っ青な三日月をぼくは思い浮かべた。
「そんなことは、ないよ」
「そうかな。因みに、ヘリステラ姉さんなら今日はいないぞ」
「え?」
「何か用事があるらしくてな。出かけた」
「そう……」
 どうしよう。ぼくは迷った。でも、目の前の女性の毅然とした様子を見ていてはっと思いついた。そうだ。この人なら信用できるのではないか。
「あの! いま、暇?」
「うん? とりあえず火急の用事はなにもない。どうした?」
 女性の笑みはますます深くなった。ぼくはそれを頼もしいものと感じた。
「あの、その。彼女のことなんだけど」
「君の彼女のこと、だな。知ってるよ」
「……昨日、彼女の部屋を見たんだ」
「……そうか」
 女性は俯いた。表情が伺えなくて、不安になった。
「あなたは、知ってたの? 彼女のこと」
「……ああ」
 女性は深くため息を吐いた。ぼくはどんどん不安になっていく。
「教えてよ。彼女は狂っているの? あれは一体、どういうことなの?」
「残念だが……」
 女性はゆっくりと顔を上げた。瞳は燃えるような鋭さだった。
「彼女は狂っている。彼女は昔と同じように、真性の狂人にして最大級の危険人物だ」
「でも、ヘリステラさんはもう違うって。それに、他の姉妹の人たちも彼女と普通に話してるし。ぼくと話してても、全然普通だし……」
「彼女は猫を被るのが上手くなっただけさ。実際は昔と何も変わっちゃいないんだ。君は彼女の部屋で何を見た?」
 ぼくは一瞬、話すのをためらった。思いだすだけでも、辛かった。
「……それは。あなたは、知っているんでしょう?」
「まあね。でも、君の口からちゃんと聞きたいね」
「……彼女は、部屋に、男の首を飾って、いたんだ。切断された、生首だよ。そして、もの凄く大事そうにそのなかのひとつを抱きしめて、それで……」
「それで?」
「それで、その、キスを……」
「なるほどね」
 女性はまた、ため息をついた。
「わかったろう。彼女はそういう人間なんだ」
「でも、信じられない。信じたくない。怖いよ」
「……ひとつ、いい話をしてあげよう」
 女性はどこか、塔の上のほうを見つめながら喋った。思い出から目をそらしたいのに、どんなに頑張ってもそれは剥がれてくれない、とでも云うようだった。
「彼女の変態性欲は、男の生首を部屋に飾りもてあそぶに留まらない。そう、もちろんそれだけでも十分異常であることは確かだけれど、それならばわたしのような女性にとって彼女は危険たりえない。だってそうだろう? 彼女が自分の恋人の首を切断したところで、わたし自身になにか影響があるわけじゃない。彼女がわたしに惚れるなんてありえないわけだし。でも実際は彼女はわたしにとって、いや、全ての女性にとって限りなく危険な存在なんだ。何故かわかるか?」
 女性はぼくの返事を待たず、先を続けた。
「彼女はね。他人の男を寝取るのが趣味なんだよ。どういうことか、わかるだろう……」
 表情は、よくわからなかった。でも、その声の調子だけで十分だった。ぼくは悟ってしまった。この女性は、彼女と、そういう関係だって、こと。
「あの……こんなこと、聞くの、いけないのかもしれないけど……」
「……君の予想通りだよ。かつてわたしが愛した男の首は、今も彼女の部屋に飾られているんだ。いや、もっと悪いことに、ローブの中に入れて肌身話さず持ちあるいているという噂もある」

199 遺された紀憶(9)-3 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/09(土) 04:41:04
 唇が噛み切れる音さえ聞こえそうな気がした。
「だからわたしは忠告するよ。君は早くここから逃げたほうがいい」
「うん……」
「どうしたんだ。何を躊躇うことがある。早くしないと君の身が危険だ」
「でも、ぼくは、彼女のことが……」
 かたり、と音がした。ぼくははっとして振りかえった。
 踊り場の影に、彼女がいた。
 彼女は大きな鋏をぶらさげていた。人の首どころかぼくの首だって簡単に切りとることが出来そうだった。なにか呟いていたようだけど、ぼくにはわからなかった。ぼくは震えあがって階下を見下ろした。先程の女性はすでに姿を消していた。
 ぼくと彼女は無言のままに向きあった。彼女は虚ろな、穴のような瞳をしていた。そのままお互いじっと、動かなかった。どうしていいかわからなくて、ぼくは彼女を呼んだ。
「ねえ……その鋏、なに?」
「え?」
 彼女ははっとして自分の手元を見つめた。瞳には途端に生気が戻った。自分が何を持っているのかもわからないようだった。
「え……どうして……?」
 ぼくにはわからなかった。彼女の考えていることが、全然わからなかった。怖かった。
 ぼくは逃げだした。彼女の声が聞こえた。声を振りはらうように、ひたすら逃げた。
 ぼくは掃除用具室まで辿りつくと、そこに入りこんだ。埃の匂いの濃い、くすんだ感じの部屋だ。差しこむ光が目立って見えるほど。ぼくは壊れた椅子が積んである影に隠れた。
 音はなかった。彼女が来る気配も同様。ぼくは安心した。と同時に、昨夜ほとんど眠れなかった反動か、この場所の生暖かい空気のせいか、瞼が重くなってきた。眠ってはいけない。そう思うのだけれど、どうにも抵抗出来なかった。
 次に気付いたとき、ぼくの体内時計は一時間ほど進んでいた。あわててぼくは目を開けて、そこで硬直した。
 目の前に巨大な鋏があった。
 その奥には、深い穴のような彼女の瞳。
「うわあああああっ!!!」
 ぼくは思わず叫んだ。同時に彼女が鋏を取り落とした。ぼくは反射的に足を伸ばし、その鋏を遠くに蹴りとばした。
 彼女はあっと叫んで走り去っていった。
 そのあとどこをどう歩いたのか、ぼくが何をしていたのか、さっぱり覚えていない。ただ、気付いたらぼくは自分の部屋に戻ってきていた。いつのまにか、夜になっていた。すぐ隣りが彼女の部屋というのは確かに怖いけれど、結局この塔のなかでぼくが居られるのはここしかないのだと思い知らされた。
 暗闇で見た彼女の姿が頭から離れない。鋏の鈍い光が今にもぼくに突き刺さってきそうな気がする。もうぼくはいつ殺されてもおかしくないんだろう。どうすればいいんだろう。誰か、ぼくを助けてほしい。

200 遺された紀憶(10)-1 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/10(日) 02:30:54
時:83bhnviai

 眠れないので考えてみる。まだ、先程の紀述からさほど時間は経っていないのだけど。隣の部屋からはびっくりするくらい何の音もしない。もしかしたら、彼女はいないのかもしれない。それならそれでいい。でもやはり今はまだ、怖い。
 ぼくは逃げるべきなのだろうか。あの女性が言ったように、さっさとこの塔を出るべきなのだろうか。常識的に考えれば、たぶんそれが一番正しい。でも、それならどうしてぼくはまだこんなところに居るんだろう。行き場なんてどこにもないのは昔からだし、どこに居たってあの湖の側でうずくまっていたころより悪くなることはない。どうしていますぐにでも塔を出ないんだろう。どうしてまだこんな、彼女の側にいるんだろう。
 なんとはなしに壁を見た。彼女の部屋がある側の壁には簡素なクローゼット。その中身のことを考える。中には彼女がぼくの為に作ってくれたり、どこかから買ってきてくれた服がたくさん入っている。ぼくは服なんて最初に着ていたもので十分だ、どうしてかはわからないけれど汚れることも破れることもない服なのだから、と言ったのだけど、彼女は笑って答えた。
「それは自分勝手すぎるというものよ。いつも同じ服だと見ているほうだってつまらないじゃない?」
 無茶苦茶な理屈だなあ、なんて苦笑しながらも、ぼくはその日から彼女を喜ばせようと色々な服を着てみたっけ。どんな服なら自分に似あうだろう、どんな服なら彼女は喜んでくれるだろう、そんなことを考えている間は、本当に楽しかった。
 また、別のことを思いだした。ここに来た、二日目の夜のことだ。ぼくはその日、そのとき星見の塔にいたたくさんの姉妹に一日がかりで挨拶まわりをやって、へとへとになっていた。部屋に戻って彼女と二人きりになって、ようやく大きなため息をついた。ふと気付くと、彼女が心配そうな顔でぼくを見ていた。ぼくは空元気を振り絞って言った。
「大丈夫だよ。これくらいなんてことないし、大体住まわせてもらうんだから、精一杯こういうことはやっておかないと」
「ううん、そうじゃないの」
 ぼくはベッドに座っていた。彼女は床に座布団を敷いてぺたんと座り、上目遣いにぼくを見上げていた。言い淀むように何度か口を開閉させた後、彼女は言った。
「その……よかったのかな、って」
「え?」
「ううん。あんまり、真剣に気にされても困るんだけど、ふと思ったの。わたしはあなたをここに連れてきたけれど、それってあなたの自由を奪うことじゃなかったのかな、って。あなたを連れてきたことで、あなたをわたしに縛りつけちゃうんじゃないかな、って。ちょっと怖くなった」
「……そういうこと、言うなよ」
 ぼくは、自分でも驚いたのだけれど、怒っていた。彼女はびっくりしてぼくを見た。
「え……?」
「ぼくはぼく自身君と居たいと思って、ぼく自身の意思でここに来たんだ。ぼくらは君の意思だけで出来あがってるんじゃなくて……うまく言えないけど、二人の気持ちがあって、今のぼくらがあるんだよ。だから、そういう勝手なことを言われるのは、嫌だ」
 ぼくがそう言うと、驚いたことに、彼女はにっこりと笑った。
「よかった」
「え?」
「君が、わたしたち『二人』のこと、ちゃんと真剣に考えてくれてるんだなあ、って」
「………………うん」
 彼女の気持ちが春風のなかのほうらいばなみたいにふうわりと伝わってくるのがわかった。なんだかぼくは照れくさいような気分になって、きっとそれは彼女も同じだったんだと思う。ぼくらは何を言っていいのかわからず黙りこんだ。でも、その静けさはなんだか心地良かったんだ。

201 遺された紀憶(10)-2 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/10(日) 02:31:30
 部屋の中を見れば見るほどに、彼女の思い出ばかりが浮かんできた。ぼくはよくわからなくなってきた。今の彼女は確かに怖い。でも、怖いくらいのことでたくさんの幸せな紀憶が意味のないものになってしまうのだろうか。
 彼女と会った湖のほとりを思いだす。彼女は言った。
『全ての心持つ者には、呪い、呪われる定めがあるのよ。それは悲しくて、寂しいことだけれど、不幸せではないんだと思う』
 ぼくは彼女に呪われてしまっているのだろうか。だからこんなにも彼女のことを想ってしまうのだろうか。怖いと思うのにここから離れられないのは、そのせいなのだろうか。自分は不幸ではないのだろうか。
 ヘリステラさんの言葉を思いだす。
『呪いというのは中々に解け難いものなんだよ。特に、自分自身に掛けたものはね。業、と言いかえてもいいかもしれない』
 正直、今の自分にはまだヘリステラさんの言葉は理解し難い。彼女が、自分に呪いをかけたということなのだろうか。つまり、男の首を刈らずにいられない呪い? やはりわからない。でも、ヘリステラさんの意図とは別に、あの言葉は今のぼく自身を指しているような気がしてならなかった。ぼくは自分自身に呪いを掛けてしまっているのかもしれない。ぼくに掛けられている呪いは、ぼく自身が掛けたものではないのか。
 自分自身の、昔の紀憶を思いだした。かつてぼくはこう書いた。
『身体はどこも正常だった。異常はどこにも見当たらなかった。だから、たぶん悪いのは心だったんだと思う。よくわからない。でも、ぼくは壊れてしまったんだ』
 ここに来てからというものともすれば忘れがちなのだけれど、所詮ぼくは欠陥品なんだ。壊れてしまったモノなんだ。本当におかしいのはぼくのほうではないのだろうか。彼女は本当は何も変わっていないのではないか。ぼくさえ変われば、ぼくさえ昔に戻れば、再び幸せな日々を送ることができるのではないだろうか。
 しかし、また、別の言葉を思いだした。あの、宝石剣を佩いた女性の言葉。
『――かつてわたしが愛した男は、今も彼女の部屋に飾られているんだ』
 あの人が嘘をつかなきゃいけない理由は思いつかない。それに、あんなにも悲痛な表情を嘘とは思いたくない。
 そうしてぼく自身が見た、あの鈍く光る巨大な鋏。
 やはり彼女は真性の狂人なのだろうか。ぼくらはもう、戻れないのだろうか。
 わからないよ。

 あれ、なにか妙な音がす*********************
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202 遺された紀憶(11) ◆hsy.5SELx2 :2007/06/10(日) 02:34:25
時:hi89f-gi70-84jh

 とりあえず、何があったかをまとめる。でも、ぼくの気持ちはもう固まっている。
 ぼくは部屋で紀憶を書いていた。物音がして、顔を上げたときには彼女が部屋の入り口に立っていた。虚ろな穴のような瞳で、巨大な鋏をぶらさげて。ぼくは反射的に紀憶回路へのアクセスを切断し、彼女をじっと見つめた。そうしていると彼女の瞳がしだいに生気を取り戻していった。彼女はぼんやりと自分の持つ大鋏を見下ろし、ぼんやりとぼくを見た。
 そのときなんの前触れもなく、わかってしまったんだ。彼女は彼女なんだってこと。
 ぼくはなんとかこれを説明したいと思うのだけれど、上手くいかない。もちろんこんな文章ぼく以外に見る人は居ないのだから、説明できなくたって一向に困ることがないのはわかっている。でも、言葉にするというのは大事なことだと思う。今この瞬間のぼくらはほんのわずかな時間しかこの世界に居られなくて、あっという間に新しい時間の中の自分にとって変わられてしまう。もちろん大抵の場合、次の瞬間のぼくらは今この瞬間のぼくらと関連があるだろうけれど、失われてしまうものがあるのには変わりない。ぼくは気付いたんだ。ぼくは彼女と同じ空の下で暮らす全ての瞬間が好きだったってこと。だからぼくは、言葉を遺していきたいと思う。少しでもたくさん、彼女との思いを遺すために。
 でもよく考えてみたら、ぼくがその瞬間に感じたことの説明っていうのはぼくがいままでに紀憶したもの全部で足りるのかもしれない。ぼくが生まれてからいままでに起きた全てのことが積み重なった上でその瞬間のぼくが存在したんだから。たぶん、ぼくはそのとき彼女の様子を見て瞬間的に考えたんだ。いままでに出会ったいろんな人のこと、いろんな言葉のこと。
『もう、帰ってくるなよ』
『いつ死んでもいいと思っていれば、結構どうにかなるものよ』
『君は、どうして彼女のことを名前で呼ばないんだい?』
『彼女は数多の呪いを掛け、数多の呪いを受けてきた』
『ぼくには何も言えないのですよ17……』
『何を躊躇うことがある。早くしないと君の身が危険だ』
 他にも沢山の言葉があった。そうして最後にぼく自身の言葉を思いだす。
『ぼくは、彼女のことが……』
 あの宝石剣の女性との会話の最後、ぼくはなにを言おうとしていたのか。そう。答えは最初から出ていたんだ。
 ぼくは、彼女のことが好きなんだから。例え殺されようと、彼女と居られなくなるよりはずっといい。怖いけどね。正直、自分が消えてしまうなんて考えると、今も怖くて堪らない。でも、思うんだ。昔のぼくはこんなにも自分の消滅を怖がっただろうか、って。湖のほとりでぼくの視界がぼやけてから彼女に出会うまでの間、ぼくは何度も消えてしまいたいと思っていたし、いつ消えたっていいと思っていたはずだ。それがどうしてこんなにも怖がりになってしまったのかというと、今が幸せだからだ。どうして今が幸せなのかというと、彼女に出会ってしまったからだ。
 ほら。こんなにも単純なことだった。
 これでもう、ぼくは大丈夫。
 彼女にどんな業があろうと、どんな呪いがあろうと、構わない。ぼくは彼女の側にいる。迷わずに。
 ぼくは鋏を持ったまま硬直している彼女を見詰めた。彼女を抱きしめたいと強く思った。そんなのは初めてのことで、自分でもびっくりした。
 でも、ぼくが一歩足を踏みだすと、彼女はびくりと身を震わせた。まるで湖に溺れる直前の獣のようだった。ぼくはなんだか心配になった。
「大丈夫?」
 彼女は答えなかった。呆然とした表情でぼくを見詰め、次いで自分の手のなかの鋏を見詰めた。そのまま長い間動かなかったように思う。実際どれくらいの時間だったのかはわからない。でも次に口を開いたとき、彼女は弱々しい笑みを受かべていた。けれどもしっかりと、ぼくの目を見詰めていた。
「ごめんなさい。わたしって、駄目ね」
 彼女の声には遠くで吹く風のような儚さがあった。
「次に会うときには、きっと幸せな二人になれると思う。でも、ちょっと一人にさせてくれない? いいかしら?」
「……うん」
「じゃあ、三十分経ったらわたしの部屋に来てね」
 そうして、彼女は部屋を出ていき、そろそろ三十分が経つ。
 どうなるかはわからない。けれど、彼女のもとへ行ってこようと思う。
 迷わないと、決めたのだから。

203 遺された紀憶(12) ◆hsy.5SELx2 :2007/06/10(日) 02:36:19
時:hi89f-gi70-9999

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 長々と書いたけれど、全部消去。
 ぜんぜんちょっとじゃないじゃないか、ちくしょう。
 彼女はいなくなってしまった。
 これ以上何か書く意味なんて、無い。

204 遺された紀憶(13)-1 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/10(日) 02:41:54
時:he8a-48ha-jf93

 文章が書けなくなってから大分経つ。あの日彼女は居なくなった。部屋のものも、なにもかもなくなった。もう三ヶ月が経つ。正直、今もまだ書く自信がない。
 とりあえず、彼女の手紙をここに転載しておこうと思う。部屋のなかに遺されていた手紙だ。何度も読み返して、ぼろぼろになってきてしまったから。

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 あなたへ

 手紙の文頭に「あなたへ」なんて書くのはなんだかおかしなことなのかもしれないけれど、別にいいでしょう? わたしたちはいつもそうだったんだから。お互いが側に居れば、「あなた」と「君」だけで十分通じあえていられたものね。
 こんなことになってしまってごめんなさい。わたしはあなたのもとを去ることにします。このままだと、あなたを傷つけずには居られないと思うから。
 ワレリィちゃんから聞きました。ディオル姉さんが帰ってきていたみたいね。たぶん、なにか言われたろうと思うけど、きっとほとんどの内容は事実。わたしは愛した人の首を部屋に飾り、ローブの中に入れて持ち歩くような狂人です。結果的に、あの人の恋人を奪うことになってしまったことも本当。軽蔑していいの。わたしは多くの男を殺し、多くの女を悲哀の淵に叩きこんだのだから。でも、わたしが辛くなかったなんて決めつけるのはやめてね。わたしは本当に彼らを愛していて、自分が殺した男の死にわたし自信本気で悲しんでいたの。愛していたからこそ、殺してわたしのものにせずにはいられなかったの。勝手よね。狂ってるわよね。うん。わかってもらえないだろうって思う。でも、仕方なかったの。わたしにはそういう愛し方しか出来なかったんだから。別に何かきっかけがあったわけじゃない。ただ流れるように生きて、気付いたらそうなってた。だから、誰のせいでもない、わたしがわたし自身にかけた呪いだったんでしょうね。ヘリステラ姉さんなら「業」なんて呼ぶのかもしれないけれど。
 でも、数十年前、ディオル姉さんに瞳を切り裂かれてからはずっとそういうことをしてこなかった。わたしが愛した人がかつて愛した女性に両目の光を奪われて、思ったことは、後悔や辛さじゃなかった。「ああ、これでもう、誰からも愛されずにすむし、誰のことも愛さずにいられるんだ」って。おかしいわよね。結局何も反省してないんだもの。でも、これでわたしの呪いも終わったんだと思った。もう、誰も苦しめずに済むんだと思った。そうしてわたしは星見の塔に引き込もって、たまにワレリィちゃんの扉で散歩に出かける以外、人間たちとは関わりを持たない生活を続けてきたの。きっと人間たちには、ディオルに殺されたんだとでも思われてるんじゃないかしら。
 でも、あなたと出会ってしまった。
 恋って不思議。どうしようもなくやってくる。まるで夏の嵐や冬の大雪みたいに。
 最初湖のほとりで出あったあと、塔に帰って、決めたの。もう二度とあそこには行かないぞ、って。自分でも、もう一度会ったらとりかえしのつかないことになるのがわかったから。出会った次の日、わたしはあなたが寝ているあいだに一度来たって話をしたかもしれないけれど、あれは嘘。本当は、わたしは、わたしの意思であなたのところに行かなかった。
 でもやっぱりだめだった。一日中部屋にこもっていて、あなたのことばかり考えてしまうの。両目の傷なんて全然意識しないで話してくれたこととか、「またあした」って言ったときの声の調子とか。
 そのあとのことは、あなたの知っている通り。あなたと暮らす塔での生活は、本当に幸せだった。

205 遺された紀憶(13)-2 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/10(日) 02:42:10
 でも、やっぱりわたしには幸せになる資格なんてなかった。
 あなたがなんだかぎくしゃくしはじめて――わたしは気付いたら考えてたの。ああ、この人の首を切り取って永遠にわたしの側に置いておけたらどんなにいいだろう、って。すぐにそんな考えは否定したわ。あなたの声が聞けなくなるなんて耐えられないだろうし。でも、無理だったの。あなたがわたしから離れていくように見えるたび、わたしはあなたの首を切りたくてたまらなくなった。無意識に、大鋏を撫でていることが増えた。この数十年、触ることもなかったって言うのに。
 このままだと、わたしはいつかあなたを殺します。だから、その前に去ることにしました。
 もう、戻ってくることはないかもしれないけれど。
 もしまた出会えたら、一緒に旅にいきましょうね。いつか二人で話したみたいに。
 いまこれを書きながら思うのは、あなたの顔を見ることもあなたの声を聞くことももうないんだなあ、ってこと。ちょっとだけ、寂しいです。嘘。もの凄く寂しい。あなたは「大丈夫?」って訊いてくれたわね。もし、再び会うことがあれば、「大丈夫!」って自信を持って答えられるようなわたしになっていたいと思います。そうして、きっと幸せな二人になりましょうね。
 最後にわたしの名前をここに遺しておきます。お互いが側に居なくなっちゃうと、「あなた」「君」じゃちょっと不便だものね。あなたがもしわたしを愛しつづけてくれるなら、覚えていて。

 フィランソフィア。
 それがわたしの名前。

 そろそろあなたが来る時間です。もう行かなくちゃ。
 さようなら。

206 遺された紀憶(14)-1 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:17:02
時:fn3qd-4ija-i433

 前回の紀憶を書いてからそろそろ一年が経つ。なんだかもの凄く感慨深い。
 いろいろあったけれど、ぼくはまだ星見の塔に居る。フィランソフィアはまだ戻ってこない。
「彼女」が「フィランソフィア」になってしばらくは大変だった。ぼくはまともに動けなくって、フィランソフィアの部屋にうずくまったままになってしまった。正直あのころのことはよく覚えていないし、思いだしたくもない。でもそれはきっと、湖の側でうずくまっていたころと少し似ていた。結局のところ、ぼくは欠陥品でしかなかったんだと思った。ぼくがもっと早くに彼女のことを信じて、そのままの彼女を受けいれるようにしていればこんなことにはならなかった。彼女に殺されてもいいから側に居て欲しかったんだってちゃんと伝えられなかったことを、ぼくはとても後悔している。こんな風にして人を傷つけずにはいられないぼくだからこそ、父さんはぼくを捨てたんだろう。だからこその欠陥品なんだ。そう思った。
 しかし湖のころとは違う部分もある。フィランソフィアはもしかしたら戻ってくるかもしれないということと、彼女を愛するようになってしまったということ。こんな空想は自分でも嫌なのだけど、失われて、より一層ぼくはフィランソフィアを愛するようになった気もする。
 こんなことを書きながらも、ぼくは愛というものなんてこれっぽっちもわかっちゃいない。いままでに経験したことのないこの名付けようのない感情は愛と呼ぶしかないんじゃないかな、というそれだけだ。とにかくぼくは、ぼくの持っていた唯一の幸せが失われたことに呆然としていた。
 星見の塔のみんなは優しかった。代わる代わるにぼくを訪ねてきてくれた。そのときのことで、きっとぼくはフィランソフィアの姉妹たちの半数以上に会ったんじゃないだろうか。申し訳ないことに、よく覚えていないのだけれど。その時期のことは本当にぽっかりと抜け落ちている。ひたすらに彼女の手紙を読み返して、ひたすらに彼女の部屋を掃除していたような気がする。彼女がいつ帰ってきてもいいように、と思って。部屋に飾られていたたくさんの男の首は全てなくなっていた。処分してしまったのか、彼女が持っていったのか、今となってはわからない。
 ようやく少し落ちついてきたのは、フィランソフィアの手紙を紀憶回路に書きこんだあたりからだ。あれを書きおわって、ぼくは、彼女に「大丈夫?」と聞き返されたときのことを考えた。ぼくも、「大丈夫!」と笑って答えられるようになっていたいと思った。そう考えると、少しだけ胸の奥が熱くなった。熱さなんて知らないはずなのに、こうした感覚にはこの言葉が一番よく似あうとぼくは思う。
 ワレリィさんはしょっちゅうぼくのところに謝りに来ていた。でも、それまではろくに事情を聞くことも出きなかった。少し状態がマシになってきたころ、ぼくは思い切って訊いてみることにした。
「ねえ、彼女……フィランソフィアは、一体どこに行ったの?」
 ワレリィさんはびっくりしていた。なにしろぼくがまともに話すのは三ヶ月ぶりだったから。それでももう一度「ごめんなさいです11……」と言ってから、話してくれた。
「ぼくがみんな悪いのです6……ぼくがディオルさんの言うことに逆らえなかったり、フィランソフィアさんの言葉を疑いもせずに『扉』を設置したから4……」
「『扉』を設置、って?」
「フィランソフィアさんが、居なくなるしばらくまえに言ったのですよ10。万が一ディオルがここに来るようなことがあったらすぐに逃げられるように、部屋に『扉』をつけて欲しい、って9。ぼくはびっくりして、ディオルさんが居ること知ってたの15、って訊いちゃって、それでフィラルディアさんはディオルさんが来てること知って余計に切羽詰っちゃったんじゃないでしょうか5……」
「でも、今のこの部屋に『扉』なんて無いじゃないか」
「きっと、内側から閉じたんだと思うです3……」

207 遺された紀憶(14)-2 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:17:48
「内側から? でも……」
 ぼくだって、扉は何度も使わせてもらっていた。開け閉めだってしたことがある。だけど、それで扉が消えてしまうなんてことはなかったはずだ。そう話すと、ワレリィさんは悲しげに首を振った。
「そういう内側じゃないのですよ6。内側は『扉』の入口と出口の間にあるのです7」
「そんなもの、見たことがない」
「見えないように、危くないように、極力小さく縮めてますから11。でも、ぼくの『扉』は基本的にキュトスの姉妹のためのものですから、キュトスの姉妹にならある程度いじることができるのですよ6」
 ぼくは嫌な予感がした。
「……ちょっと待って。内側から閉めたって、もしかして、彼女はその、内側に居るの?」
 フィランソフィアから聞いたことがあった。この宇宙には見えない隙間がたくさんあって、その隙間からこの世界の秩序の外側へと旅立つことが出来るんだって。二度と戻ってくることのない、永劫への挑戦。ワレリィさんは悲しげに頷いた。
「……たぶん4。それくらいおかしな使い方をしない限り、『扉』が消えるなんてありえませんから1……」
「戻ってくることは、出来るの?」
「……わかりませんです4……。すみません3……」
「そうか……」
 ぼくは意味もなく天井を見つめた。水紋みたいな木目を見付けた。何を思っていいのかもわからなかった。
「ありがとう」
「ごめんなさい4……ほんとうにごめんなさいです3……」
 ワレリィさんはまだなにか言いたそうだったけれど、ぼくはなにも訊かなかった。大体、今まで自分で書きとめてきた紀憶をよく見返せばわかったから。剣を佩いた女性はフィランソフィアを憎んでいるディオルさんなんだろうし、ワレリィさんはディオルさんからの手紙を届けさせられていたんだろう。あの日屋上に狙ったように窓が用意されていたのも、ぼくのあとを付けてきたディオルさんがワレリィさんに開かせたものだったのだろう。そのあたりのことをワレリィさんに問いつめたところで仕方がない。どのみちもう、過ぎてしまったことだ。でも、一つだけ気になったことがあった。
「そういえば、ディオルさんは今、どこに居るの?」
「それは……」
「そのあたりは、わたしが話そう」
 声とともに、ノックもせず女性が部屋に入ってきた。ワレリィさんが驚きの声を上げた。

208 遺された紀憶(14)-3 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:18:26
「ヘリステラ姉さん……」
「ディオルが、迷惑を掛けたな。済まない、気付いてやれなくて」
「……ヘリステラさんは、ディオルさんの味方じゃなかったの? いや、そもそもディオルさんはそう簡単にはここには来れない、って言ってた」
「そう思っていたんだけどね。大体呪いなんてそうそう解けるものじゃないし、短期間封じるだけでも成功例は少ない。でもあいつの執念は並じゃなかったようだ。彼女は両足と引き換えにスィーリアの協力を得たんだ」
「両足?」
 ぼくは自分の耳を疑った。ヘリステラさんはゆるやかに頷いた。
「そう。スィーリアには両足がないからね。取り引きとしては適当なところだ」
「でも、ディオルさんには足があった」
「うまくフィランソフィアを消せたら、という約束だったらしい。ディオルはスィーリアの協力で我が身の呪いを封じ、あげくこの星見の塔で私に気付かれずに人払いをする、なんてとんでもないことまでやってのけた。スィーリアは彼女の足を付けて嬉々としていたよ。ディオルの行方はわからない。足を持たずに、どこへ行ったのやら……」
 執念か、とぼくは思った。自分の足を差しだしてまで、ディオルさんはフィランソフィアに復讐しようとした。でもぼくにそれを非難する資格があるのだろうか。愛するものを失った痛みをぼくはもう知ってしまったじゃないか。そう思った。
「呪い、か……」
「世のなかはたくさんの呪いで満ちているんだよ。殺さずにはいられない者、恨まずにはいられない者、恨みたいのに恨めない者、動きたいのに動けない者、愛されたいのに愛せない者……人と人が関わるとき、どうやったって呪いは生まれてしまうんだ。これはこの世界そのものの業。そういう風に出来ているんだ」
「……今のぼくには、それでいいんじゃないかと思える。それは悲しくて、寂しいことだけれど、不幸せではないんだと思う」
 ぼくは自分で言ってからびっくりした。これは彼女の言葉だ。でも同時に、今のぼくの本心でもあった。フィランソフィアが居なくなったこと、結局ぼくはこんな風にしか生きられなかったこと。そうしてきっと、みんなもどこかでぼくと同じように望まない結末に翻弄されていること。全部、とても悲くて寂しいことだと思う。でもぼくの中には彼女と暮らしていたころの幸せな記憶が残っているし、これからも残り続けるだろう。それに、彼女が戻ってくるかもしれないという希望もある。彼女が戻ってきて、またぼくは何か誤ちを犯すかもしれない。でも、だからと言って幸せだったことまでが嘘になるわけじゃない。この歪な世界はきっと、不幸にはなれないように出来ている。
 ぼくは今、昔と同じように星見の塔の掃除夫をして暮らしている。何人かの姉妹には嫌がられたけれど、ヘリステラさんがどうにか説得してくれた。
 一日の終わり、ぼくはフィランソフィアの部屋を掃除する。彼女のことを考え、彼女との思い出をつらつらと呼びおこす。懐かしくて幸せだけれども、悲しくて寂しい時間だ。でも、どういう形であれ、想い続けたいと思うし、思い続けずにはいられないのだろう。
 そうしてぼくは今日も待っている。彼女と暮らす未来を、旅に出るときを。

209 遺された紀憶(15)-1 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:41:43
時:99999-9999-9999

 なんの前触れもなくビークレットさんがやって来たときぼくは昼の休憩中で、ヘリステラさん特製トントロポロロンズ茶を飲んでいるところだった。ビークレットさんはそんなぼくを見て息を飲んだ。
「おま……それ飲んでるのか」
「うん。ヘリステラさんに貰った」
「……正直、どうよ」
「………………まあ、うん」
 言葉を濁したけれどビークレットさんには伝わったみたいで、彼女は深いため息を吐いた。
「まあ、それはともかく」
 ビークレットさんはずい、とぼくのほうへ一歩近づく。
「お前、もうバレてるぞ」
「なにが?」
「お前だってのはもうわかってる。今度は何やらかすつもりだ。挑戦なら受けるぞ」
「え……っと。だから、何?」
 ふむ、とビークレットさんは考えた。
「……本当に、知らないのか?」
「だから、何が?」
 途端にぼくの周囲に青色の炎が燃えあがった。逃げ場もないよう、完全にぼくを取り囲んでいる。
「おとなしく吐けば、危害は加えない」
「いや、ちょっと! だから、ぼくには何のことかわからないよ!」
 そうこうしている間にも炎の輪はどんどん狭まってきた。相当な高温のようで、湖のほとりで永遠とも思える時間を耐えたぼくの身体が溶けそうになっている。
「ちょっと! ほんとやばいって! ストップストップスト……仕方ないな」
 ぼくはびっくりした。ぼくの口から、ぼくのものではない声が出てきた。しかもその声には聞き覚えがあった。
「え……とう、さん?」
 その瞬間炎は消えた。ビークレットさんが満足げな表情で立っていた。
「ん。ようやく正体を現わしたかグレンテルヒ」
「え? どういうことかわから、ふむ。大分頑丈に作ったつもりだったんだが、流石にお前の炎は少々きつい。相変わらずの火力、見事なものだ」
 ぼくの口はぼくの意思とは無関係に動いた。もの凄く気持ち悪かった。ビークレットさんはにやっと笑ってぼくを見た。しかし「ぼく」を見ていないことは明らかだった。
「大体おかしいと思ったんだ。こいつ、お前に捨てられたんだって言ってたけどどう考えても捨てるような欠陥品じゃないだろ。むしろ今の時代でもオーバーテクノロジーなくらいだ。何か意図があって置きざりにしたとしか思えない。だから、そんな上等な品なら危機に落ち入ったらなんらかの反応を示すと思ったんだが……予想以上だったよ」
「ふふ。褒めてくれて嬉しい。ただ一つ違う。こいつが欠陥品であることは間違いない」
「嘘つけ」
「嘘じゃないのだよ。こいつはね、あろうことか感情を持ってしまったのだ」
 ぼくには父さんの言っていることがよくわからなかった。ただ、やっぱりぼくは捨てられたということに間違いはないみたいだった。でも、それならどうしてぼくのなかに父さんがいるんだろう。
「ふむ。その疑問はもっともだね」
 父さんはぼくの考えていることがわかるみたいで、ぼくの口を使ってにやにや喋った。
「そもそもまず、私が何故お前を作ったかを説明せねばなるまいな。当時私はわりと死にそーだった」
「口調軽いなおい」
「なんだかビークレットさん、普段と性格違わない?」
 ぼくが訪ねると、同じ口から父さんは答えた。
「なに、ビークレットは魔女の癖に賢くて偉大なこの私に惚れているのさ」
「惚れるかっ!」
 父さんはぼくの身体で楽しげに笑った。

210 遺された紀憶(15)-2 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:43:08
「ふふ。まあ、話を戻そう。死にそーになって私は思った。死にそーなら生きればいいじゃん、と。それで私は私の精神の複製と、それを入れる身体を作った」
「そんなこと可能なのか」
「あいかわらず頭が悪いな君は。出来ないならやればいいじゃないか」
 無茶苦茶な理屈なのに、父さんが言うと何故か説得力があるのが不思議だ。ビークレットさんの表情が硬ばって、一瞬目の前に青い炎が爆ぜた気がしたけれど見なかったことにした。父さんはあくまで偉そうに話を続けた。
「で、その複製がこの私で、その身体というのがこれだ」
 そういってぼくの身体を指差した。
「だが一つ問題が生じた。どうしても精神がこの身体に定着しなかったのだ。いろいろ実験を重ねた結果、精神の土台が必要だとわかった。それで私は空の人格を作った。それを土台として、私はこの身体に住みついた。その空の人格が、ぼく?」
 最後のはぼく自身の言葉だ。ビークレットさんがうんざりして言った。
「おまえらややこしいなあ」
「仕方ないじゃないか。それで、父さん。その空の人格が、間違って感情を持ってしまったっていうこと?」
 一瞬、考えているような間があった。やがて苦々しげな声がぼくの口から吐きだされる。
「……正直いまだによくわからないのだ。この私ともあろうものが、情けないことに。よくわからない。ただ、いつものように湖までトントロポロロンズを取りに行って、それっきりだった。気付いたらもう、この身体はお前の支配下にあった。それまでお前がどこに居たのかはわからない。作られた空の人格のエラーなのか、それとも、私の精神が分離したものなのか」
「なるほど。こいつが父親の顔を覚えていないと言っていたのは、〈そもそも見ていない〉からだったのか」
「そうだ。こいつはその瞬間初めて生まれた。もっとも一部私の知識や経験を引き継いでいるところはあって、そのせいで認識に混乱が見られたようだがね。ちなみに動けなかったのは欠陥でもなんでもない、単にお前が引きこもりニートだっただけだ」
「働いたら負けなのか」
「引きこもりニートって何?」
 ぼくのなかで父さんは笑った。
「深く考えるな。気にしたら負けだ」
「でもおかしいな。そんなことになってたんなら、どうして今こうして話している?」
 父さんはぼくの身体でかっかっと豪快に笑った。
「いやなに。君が私を殺そうと熱で焙ってくれたじゃないか。それでどこかの歪みがすっぱり直ったみたいでね。晴れて私はこの身体の支配権を取り戻したわけだよ! いやあ嬉しいなあ」
「ちょっとまて! 『……仕方ないな』とか言ってたのはなんだ!」
「かっこつけたかっただけだ!」
「威張るな!」
 不思議だ。どうして父さんを相手にしているとこうまでビークレットさんはムキになるのだろう。ああ、以前は落ち着いた、大人の女性だと思っていたのに……。なんだがぼくのなかのビークレットさんのイメージががらがらと崩れていくのを感じた。感じながらもぼくの口では父さんがかかかと笑っていたりして、本当にややこしいことこの上ない。
「いやあ、君には感謝してるよ。ぶっちゃけ世界が終わってもこいつは残れるくらいの耐久性があるはずだから、長い人生の間その内帰り咲けるだろうとは思っていたんだけどまさか君のおかげで実現するとはね!」
「前から思ってたけどやっぱお前腹立つ。殺す」
「ははははは!!! 殺せるものなら殺してみるがいい! この身体は考え得るどんな攻撃にも耐えられる上、各種武器も取りそろえてあるのだよ!」
「……へえ……いい度胸だ」

211 遺された紀憶(15)-3 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:47:25
 ぼくらの居る空間が比喩でなしに赤熱していった。床が、天井が、座っていた椅子が溶けていく。同時にぼくの身体もガシャガシャと各部開いていくつもの銃口が突きだしてきた。やめてやめてと叫ぼうとしたのだけれど、父さんの意思に妨害されているのか無理だった。このまま開戦したら星見の塔くらい簡単に消しとぶんじゃね? とか思い、身動きできないもどかしさを感じた。
「はははあはっははー!!! 死ねい!!!」
「覚悟!」
「やめなさい!!!!」
 瞬間、目の前が真っ暗になって、気付いたときには半ば溶けかけの床に叩きつけられていた。
「まったく。妙な笑い声がするから気になって来てみれば……。塔内での戦いは御法度だ。本当ならトミュニだって罰してやりたいところなんだから」
 顔を上げると、まずヘリステラさんが見えた。次に、こちらに向かって手をかざしているムランカさん。それから、二本の剣をビークレットさんに突きつけている宵さん。
 ムランカさんがかかっと笑って言った。
「ビークレット姉さん、なかなか男の趣味が悪いねえ」
「ん。あなたに言われたくはない」
 ビークレットさんはゆっくりと構えを解いた。それを受けて宵さんも刀を下ろした。ヘリステラさんはぼくをきりりと睨みつけた。
「それで、グレンテルヒ。なんのつもりだ。君だって姉妹全員を敵に回したくはあるまい」
「ふむ。もっともだ。しかし喧嘩を売ったのはビークレットが先だ」
「ヘリステラさん、父さんのこと、気付いていたの?」
 言ったのはぼくだ。ヘリステラさんはちょっと俯いた。
「済まない。ただ、知らないでいられるならそれもいいか、と思ってしまった。君を傷つけたなら、謝る」
「卑怯者め。全ての者には知る義務、探求する義務がある」
「その過程で多くの者を殺してもか」
「あたりまえだ。知の探求を行わない者なぞ、死んでいるのと同じだ」
「……へえ、ほんとに?」
 見ると、ムランカさんがいたずらっぽい表情でこっちを見ていた。ヘリステラさんが眉を顰めた。
「ムランカ。またろくでもないことを思いついたんじゃないだろうな」
「ろくでもなくなんかないさ。おい、お前。息子のほう。お前、彼女に会いたいだろ?」
 そんなこと、聞かれるまでもなかった。ぼくはゆっくりと頷いて、ムランカさんを見た。彼女は楽しそうに笑った。
「いいね。若いなあ。そういうの、好きだよ。そこで一つ提案なんだがグレンテルヒ。お前、扉の『内側』に行く気はないか。前人未踏の領域だ。お前の望む『知の探求』にはうってつけだろ」
 ビークレットさんが息を飲んだ。
「おいムランカ、そんなこと、こいつが承知するわけ……」
「ふむ、おもしろいな」
 父さんは本当に、面白そうだと思っているようだった。ぼくの顔が楽しげな笑みが受かんでいく。
「それは本当に、面白い。実際初めてワレリィの『扉』をくぐったときからずっと気になっていたんだ。まだ前人未踏の領域。この世界の外。ひょっとしたら、永劫線に至ることすら可能かもしれない。上手く利用すれば空間だけでなく時間軸すら自在に移動することが可能なはずだ。時空間の秘密についてはずっと温めていたテーマだからな。幸いこの身体は究極の耐久性を持っているし、永劫線に挑むのにはうってつけだ」
 父さんが喋っている間、ぼくの頭は混乱しっぱなしだった。『扉』の内側へ? そんなこと、無理なんだと思っていた。例え実行しても、彼女に会うまえに消えてしまうのではどうしようもないと思っていた。しかし、今は父さんがいる。この自身に満ちた口ぶりからして、死ぬ可能性なんて微塵も考えていないだろうし、父さんが思うからには本当に微塵もないんじゃないか。そんなことありえないのはわかっていたけれど。
「ありえる。不可能なら、可能にすればいいだけだ」
 話を聞いていなかったから、父さんのその言葉がぼくの思考に答えたものなのか、会話の流れで出ただけの言葉なのかはわからない。でも、信じてみようと思った。彼女に、会える可能性があるのだから。

212 遺された紀憶(15)-4 ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:48:15
「でも、危険だ!」
 一方、ビークレットさんはどうしてか動揺しているようだった。ムランカさんは楽しそうに答えた。
「どうして? あたしたちとしても、厄介払いできていいじゃない?」
「ん。こいつがそんなタマなものか。どうせより強大な知識を得てひょっこり帰ってくるに決まってる」
「それならそれで。まーそのときに考えればいいんじゃない?」
「でも……」
「ビークレット」
 それまで黙っていたヘリステラさんが、やっぱりどこか楽しそうに口を挟んだ。
「そんなに言うなら、君も着いていけばいい。グレンテルヒの見張り役。必要だと思うが」
「ええっ!?」
「別にやめてもいい。実際、危険すぎる行いだからな」
「ははははは! 安心しろ! 魔女一人くらい守るのはわけない!」
「危険すぎるとは思いません。わたしならなんとかできる自信はあります。しかし……」
 ビークレットさんはあっさり父さんの言葉を無視した。しかし頭を抱えたり落ちつかなくうろついてみたり真っ赤になったり青くなったりしていろいろ悩んでいた。ちらちらこっちを見たりもしていて、その間ずっと父さんはにやにやしていた。
 やがて彼女はヘリステラさんに向きなおり、言った。
「やります」
「そうか」
「はははははは! やはり私の魅力に耐えられずぐほっ」
 ぼくはビークレットさんに蹴られて吹っ飛んだ。なんだか大変な旅路になりそうだ。
「それでは頑張ってくれ。私はもう行く。ただ約束しろ。必ず、戻ってくるんだ。そこの息子も連れてな」
「はい。わかっております。グレンテルヒはどうなるか知りませんが」
「そうだな。グレンテルヒはどうでもいい」
「おのれ……魔女どもめ」
「それでは」
 そうしてヘリステラさんは振り返らずに部屋を出ていった。宵さんもあとに続いたけれど、ムランカさんがこちらへ来て、耳元で素早く囁いた。
「死ぬ気でフィランソフィア姉さんを探すんだよ。あんたはまだ若いんだ。愛する人と二度と出会えないなんて陳腐な悲劇はやめときな。男の子にはそういうの、似合わないよ」
 ぼくはまじまじとムランカさんを見詰めた。彼女はぼくに目を向けながらも、本当はどこか遠く、別の誰かを見ているようだった。
「好きな女をちゃんと幸せにすんのは男の義務だよ。好きなのに諦めるなんてあっちゃいけないし、女より先に死ぬなんて論外だ」
「……ムランカさんも、来たらどう?」
 彼女は一瞬だけ迷いを見せたけれど、すぐに自嘲的な笑いを浮かべた。
「……やめとく。あたしはもう長く生きすぎたし、あたしとあいつにとって、そういうのはなんか違う気がするからね」
 ぼくにはなにも言えなかった。ムランカさんは素早く立ちあがった。
「なんか変なムードになったな。それじゃ、あたしも行く。頑張れよ」
 そう言って去っていった。あとにはぼくとビークレットさんと、ぼくのなかの父さんだけが残った。ビークレットさんは首を傾げていた。
「……なんの話だ?」
「ちゃんとフィランソフィアを見つけなって、そういうははははは嫉妬かねビークレット! なにせ偉大で賢いこのわたしだからな。気になるのも仕方ない!」
「死ねっ! 空気読めっ!」
 あとになってからぼくは父さんに言った。

 ありがとう。ムランカさんと、ちゃんと話させてくれて。
 なんのことか、わからんな。
 ちゃかしたりしないで、ちゃんと二人で話させてくれた。
 ふむ。私は私の好きなようにしてるだけだからな。
 もしかして、『扉』の内側に行くのをあんなにあっさり承知したのもぼくのため?
 買い被りすぎだな。私は善人ではないのだから。まあ、どう思おうとお前の勝手だ。
……ありがとう、父さん。

 それからも色々あって、ぼくらは今ワレリィさんの扉の前にいる。

 これから『内側』へ挑む。ぼくは彼女に会うために。父さんは世界に挑むために。ビークレットさんは、父さんを見張るため? よくわからない。
 なんにせよ、ぼくにとっては彼女に会えるというそれだけで十分だ。世界は本当に不思議だ。色んな人が思い思われて、その連鎖がずっと先まで続いている。時として呪いとも表現されるそれは、人を悲しくされることもあるけれど、幸せに繋がることもある。要は、繋げる気があるかどうかだ。そうして繋いで行った想いはまた遥かな未来で実を結び、広く広く、どこまでも飛んでいく。
 ぼくはこの紀憶の複製を星見の塔に置いていこうと思う。ぼくの想いのつまった紀憶。みんながこれを読んでどんな風に思うのかはわからない。けれど、帰ってきたとき、ぼくの想いが誰かの胸に実を結んでいたら、それはとても幸せなことなんじゃないかと思う。
 そろそろ、旅に出る時間だ。ぼくはどこまでも行こうと思う。彼女に再開したあとのその先まで、ずっと、ずっと。

213 遺された紀憶(∞) ◆hsy.5SELx2 :2007/06/11(月) 18:49:07
(了)


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