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( ・∀・)都忘れをもう一度、のようです(゚、゚トソン

1名無しさん:2025/06/23(月) 23:56:16 ID:5BbYFZUI0

「やっちまった」。
そう心中で舌打ちをした時には既に、自分が乗り込んだバスは走り出してしまっていた。

血の気が引いた顔を上げると、さっきまで居た筈の草津駅を離れ、商店街の面影が感じられる店の数々が見える。
次のバス停まではそんなに距離もない。一旦降りて、近くのATMに寄って、そこからまた乗ればいい。
……なんて甘い考えも、取り出した財布の軽さによって忽ち霧散した。

二十歳をとっくに過ぎた成人男性として情けない限りではあるのだが、今の自分の全財産は、財布の中に入っている諭吉一枚のみ。
専門学校の入学と共に開設した口座には、一円たりとも入っていないことは、昨日も今朝も確認済みの事項である。
一縷の望みを抱いて、ズボンの左ポケットに入れているキーケースに手を伸ばす。
だが中に入っていたのは、印刷が消えかかったICカードと、三枚の十円玉のみ。そして、デジタルが進みきったこの現代社会では信じがたいことだろうが、自分が今乗車しているバスはなんと、ICカードに未だ対応していない。

バスの運賃の支払いでは、基本的に千円札以外の高額紙幣は使えない。
ICカードによる支払いも不可能だし、そもそも中身も大して入っていなかった筈。
持っている細かい金銭も、三分程度の電話だって出来ない額しかない。

要するに今、自分はチェスや将棋で言う、『チェックメイト』という状況に嵌っているのだろう。

2名無しさん:2025/06/23(月) 23:57:33 ID:867ex6x20
支援

3名無しさん:2025/06/24(火) 00:00:30 ID:TCYQi1E60

(;・∀・)(……いやヤバいヤバいヤバいヤバい!!)

子どもの頃に読んだ漫画の例えを思い出している場合ではない。
スマホで「バス お金 ない」と検索してみるも、検索結果に並ぶのはどれも役に立たない記事や、某知恵袋のふざけた答えばかり。
どこがベストアンサーだ畜生。こちとら本気で困ってるってのに。

何かないかと鞄を漁るも、中から出てくるのはクシャクシャになったポケットティッシュや、いつ貰ったのかも覚えていないレシートなど、ゴミ同然の物ばかり。
紙幣どころか、百円玉の一枚すら見つからない。
どうしようか。どうすればいいのか。
久方ぶりに帰ってきた故郷で、なぜ数百円持ってない程度のトラブルで困らなくてはいけないのか。
今すぐ誰かに連絡して助けを乞ようか。いや、こういう時にパッと連絡の取れる親類縁者や友人なんて自分にはいない。
もういっそのこと、運転手に事情を説明しようか。そんなことをしたところで、警察を呼ばれるのがオチだろうか。

せめて正直に話して泣きながら、頭を地面に擦りつければ案外何とかなるだろうか――。

4名無しさん:2025/06/24(火) 00:02:00 ID:TCYQi1E60

「……あの、どうかされましたか?」

風鈴のように涼やかな声が、ふと、頭上から降ってきた。
抱えていた頭を上げる。
自分の二つ前の座席に、いつの間にか、若い女性が座っていた。

(゚、゚トソン「具合でも悪いのですか? ひどい顔をしていますけど、大丈夫ですか?」

女性からの質問に素早い答えを返せなかったのは、いきなり話しかけられたことに驚いたからでも、バスの冷風にやられたからでもない。
凛としたその大きな瞳に、迂闊にも目を奪われたからである。

(;・∀・)「あ……その、小銭がちょっと足りなくて、ですね……」

素直に「金がない」と言えばいいものの、不必要な見栄で包まれた言葉が勝手に口をついて出る。
人形みたいにこちらをじっと見てくる女性と目が合い続ける。
運転手を覗けばバス内の客は、自分と彼女の二人と、乗降扉付近に座っているちんまりとしたお婆さんのみ。
エアコンの動作音だけが聞こえてくるこの状況に、俺はなんだか居たたまれなくなって、慌てて財布の中身を女性に見せた。

(;・∀・)っ□「ほ、ほら! 一万円札しかなかったんすよ! このバスじゃ崩せないし、途中で降りる訳にもいかなくて……!」

財布だけでなく、キーケースや鞄の中身を全て露にしてみせる。
すると、俺の必死な様子が滑稽だったのか、彼女は小さな微笑を浮かべてみせた。

(゚ー゚*トソン「ふふっ……別に、疑ってなんかないですよ。そんなに必死にならなくても」

僅かに上がった口角に、思わず視線が向いてしまう。
東京に居た頃でも見たことのない美人の笑顔に、心臓の鼓動がやけに早くなるのを感じた。

5名無しさん:2025/06/24(火) 00:06:31 ID:TCYQi1E60

(゚、゚トソン「どこまで行く予定なんです?」

( ・∀・)っロ「えっと、なんて名前だったかな……この病院なんですけど」ポチポチ

スマホを手早く操作し、知り合いとのトーク画面を開く。
そこにあったリンクをタップすると、とある大きな病院のホームページが表示された。
液晶画面の明るさを上げてから、女性に見せる。
すると、彼女の表情に少し陰が差したように感じられた。

(゚、゚トソン「……どこか、お体が悪いんですか?」

( ・∀・)「あぁいや、そういうんじゃないんですよ。ちょっと知り合いに会う予定があって」

( 、 トソン「……そうですか。失礼しました」

どうかしたのだろうか。そう疑問に思ったのも束の間、ピンポーンという高い機械音がバス内に響いた。
少し前に屈むと、自分たちより前の方に乗っていたお婆さんが、降りるボタンから指を離しているところが見えた。

(゚、゚トソン「あ、ちょうど押していただきましたね」

( ・∀・)「えっ?」

( ´ー`)「次、『淡海総合病院』に停まります。お降りのお客様は、バスが完全に停車してから――」

(゚、゚トソン「もうここです、目的地」

呆気に取られている間に聞こえてきたのは、バスの運転手の間延びした声。
耳に入ってきた病院名は、さきほど俺が女性に見せたホームページのものと一緒。
俺がこのバスに乗った理由の、目的地の名前だ。

6名無しさん:2025/06/24(火) 00:12:43 ID:TCYQi1E60

○⊂(゚、゚トソン「はい、どうぞ」

(;・∀・)っ○「へ……?」

チャリン、という音が鳴ると同時に、手のひらにズシリとした重さを感じる。
見てみると、そこには数枚の小銭が乗っかっていた。
手に収まった百円玉が三枚、五十円玉が一枚に、十円玉が三枚。合計、380円。
まさに自分が欲していた運賃ちょうどであった。

(゚、゚トソン「あ、着いた。降りましょう」

ぐわんと体が若干前に揺れると同時に、ずっと流れていた窓外の景色がピタリと止まる。
顔を再び前に戻すと、降車ボタンを押したお婆さんだけでなく、眼前にいた女性もまた、同じように立ち上がっていた。

( ・∀・)「もしかして、お姉さんもここで降りるんですか?」

コク((゚、゚トソン

困惑に満ちた俺の声に、彼女は小さく頷いただけ。
呆けている場合でないと、自分も数秒遅れて立ち上がる。
慣れた足取りでバス前方の降車ドアに向かう彼女の背後に慌てて着いていく。
さっき貰った小銭をジャラジャラと運賃箱に入れ、運転手のおじさんに軽く一礼をした後、女性を追いかけるように急いでバスを降りた。

7名無しさん:2025/06/24(火) 00:19:15 ID:TCYQi1E60

(;・∀・)「あ、あの! お姉さん! ちょっと待って!」

先に降りていた女性の華奢な背中に向かって、慌てて声をかける。
くるりと優雅に振り返った彼女の顔には、不思議そうな疑問の色が浮かんでいた。

(;・∀・)「時間あるかな!? すぐお金崩してくるからさ、よかったらここでちょっと待っててくれない!?」

必死に声をかけながら、キョロキョロと周りを見回してみる。
見た感じ、一万円札を崩せそうなコンビニやスーパーなどはない。いくつか自販機は見受けられるものの、アレでは一万円札は崩せない。

(゚、゚トソン「いえ、大丈夫ですよ。三百円程度ですし」

懸命に声を張り上げる俺とは対照的に、女性は至って冷静だった。

(;・∀・)っロ「え、ええと……じゃあせめて、連絡先だけでも!」

(;・∀・)「……いやナンパとかじゃなくてね!? その、電話番号とかさえ分かればほら、後で送金したり出来るしさ!」

我ながら苦しい物言いだと、口にしつつ自覚する。
お金を返したい。何か彼女にお礼をしたい。どちらも間違いなく本心である。
だがそこに、『綺麗な女性ともう少し話したい』という下心が数滴も混じっていないと言えば、それは嘘だ。

8名無しさん:2025/06/24(火) 00:24:41 ID:TCYQi1E60

(゚、゚トソン「……本当にいいです。お気遣いなく」

(;・∀・)「いやぁ、でもその、俺の気が済まないっていうか……すぐ済ませるんで!」

(゚、゚トソン「どうせ、すぐ大丈夫になりますし。というか、お兄さんもこの病院に用事があるんじゃ……?」

(;・∀・)っ「いやもうホントすぐ! すぐだから! ちょっと待っててね!」

(゚、゚;トソン「え? いやだから、お兄さん? あの――?」

(・∀・;)三ピュー!!



(゚、゚;トソン「……行っちゃった」

9名無しさん:2025/06/24(火) 00:28:40 ID:TCYQi1E60
申し訳ありません。
眠気が限界なので、続きは後日投下します。

10名無しさん:2025/06/24(火) 00:40:39 ID:QtXFOKVg0
おつおつ
ゆっくりやってな

11名無しさん:2025/06/24(火) 06:42:32 ID:MkD4XOeY0

期待してる 無理せずやってね

12名無しさん:2025/06/24(火) 12:56:22 ID:qCa.34XM0

面白そう

13名無しさん:2025/06/26(木) 00:08:51 ID:sZcUKb0E0
乙!
何か起きそうな感じが良い、続き楽しみにしてる

14名無しさん:2025/07/15(火) 23:42:03 ID:1wCRI/KY0
乙乙
群馬が舞台の作品が増えると聞いて
電話番号で送金できるシステムって本当にあるんだね。知らなかった

15名無しさん:2025/08/01(金) 23:49:37 ID:PMCBqU3s0

*


少人数での会議なら十分に可能な部屋の中心には、大きめの白い机が蛍光灯を反射して、存在感を放っていた。
置かれている椅子は四脚。どれも中々に座り心地が良さそうな見た目をしていて、実際に今座っている感想通りの感触が背中を主として伝わってくる。
いささか居心地が悪く感じるほどに清廉な部屋の中、俺の対面に座っている女性は、その大きな瞳を意地悪そうに少し細めてから口を開いた。

川 ゚ -゚)「……それで?戻ってきたらその女の子は?」

( ・∀・)「………もちろん、居なくなってましたよ」

川 ゚ -゚)フスー

(#・∀・)「鼻で笑うな」

数年ぶりに会った高校時代の先輩『素直クール』は、その端正な表情を歪ませることなく、こちらを嘲笑ってみせた。
昔から全く変わっていないその鉄仮面ぶりに嫌気が差すも、今の俺に許された反抗手段はせいぜい『睨みつける』が関の山。
防御力を一段階下げることすら叶わないまま、クー先輩は平然とした態度でこちらに向き直った。

川 ゚ -゚)「しかし、こっちに戻ってきて一番にやることがナンパとは。随分と都会に毒されたみたいじゃないか、モララー。昔の方がまだ節操があった筈だが」

先輩の揶揄いに眉をひそめながら、バスを降りた後のことを思い出す。
ひたすら道を走り続け、ようやく見つけたコンビニでレジ横の小さなお菓子を一万円札で購入し、数多の小銭と千円札を手にして再び病院前へと戻ったこと。
しかしまぁ案の定、女性は既に立ち去った後であり、邪で矮小な企みと中距離ランニングは徒労に終わってしまった訳だが。

16名無しさん:2025/08/01(金) 23:51:23 ID:PMCBqU3s0

( -"∀-)「いや、だからナンパじゃないんですよクー先輩。俺はただ、バス代返そうとしただけで……」

川 ゚ -゚)「それにかこつけて、連絡先を渡そうとでもしたんだろう?」

(;・∀・)「……」

川 ゚ -゚)「図星か」

まるでさっきのやり取りを見ていたかのように、的確に自分の行動を当ててみせる先輩に閉口する。
久しぶりに会ったものだから忘れていた。昔からこういう人だった。
一を聞いて十を知る。ほんのわずかな情報から、人が言い当てられたくないような秘密だってすぐに顕にしてみせる。
『頭がいい』とは、こういう人のことを言うのだろう。昔から先輩としては誰よりも頼りになるが、一人の人間としては厄介極まりない相手だった。

(;-∀-)「もう、俺のことはいいですから。さっさと本題入ってくださいよ」

これ以上追及されても答えられることはないし、愉快な気分になることはもっとない。
露骨に話を逸らした俺を見て、先輩はまた口角だけを僅かに上げながら、机の上に置かれていたファイルに手を伸ばした。

川 ゚ -゚)っ□「よいしょっと」

( ・"∀・)「……なんですか、その、人でも殺せそうな分厚いの」

俺の手を目一杯広げればどうにか掴めるだろうかと思われるほどの分厚さのファイル。
上品な薄い紫色が広がる表紙には、『機密事項・持ち出し厳禁』という簡素な文字がプリントされたシールがペタリと貼られている。
ここに呼ばれたばかりの自分に見せるには、やけに重厚が過ぎる雰囲気。

先輩からこの病院に呼ばれた時からずっと感じていた嫌な予感が、心中で明確な形を構築していくのが分かる。
碌な話をされない。間違いなく、自分の想像以上に厄介な話だ。

17名無しさん:2025/08/01(金) 23:52:34 ID:PMCBqU3s0
川 ゚ -゚)「気にするな、どれも大したものじゃない。説明書、同意書、契約書……諸々の書類だよ。今回、君に紹介する治験の」

( ・∀・)「どれもめちゃくちゃ大したものだと思うんですけど」

聞き慣れない『治験』という言葉に自然と背筋が伸びる。
ここに来るまでにも何度か先輩から話は聞いたが、それでも未だに慣れそうにない。

治験なんて単語に良いイメージを持っていないのは、別に自分だけではないはずだ。世間一般の人々が持つ平凡な感覚に照らしてみても、危険だのハイリスクだの、そういったマイナス方面の印象しかないだろう。
だが俺には、そんな悪印象しかない話を聞かなければならない事情があった。

18名無しさん:2025/08/01(金) 23:53:55 ID:PMCBqU3s0

事情と言っても、大した話ではない。
動画サイトを見ている時に突然挟まれる広告ぐらい、ありふれていて、つまらない話だ。

高校卒業後、俺は地元の滋賀を飛び出して、東京にある製菓の専門学校に入った。
才能ある同期や厳しい先生にボコボコにされながら、三年の月日を経てどうにか卒業。その後、東京にあるホテルのキッチンに採用されたは良いものの、トラブルを起こしてクビ。
再就職の目途も立たないままに貯金もとうとう底をつき、知り合いに金を借りまくり、いよいよ崖っぷちとなった五月の終わり頃。
一体誰から自分の現状を聞いたのかは分からないが、諸々の事情を察したクー先輩が連絡をしてきたのだ。
『金に困っているのなら、うちの治験を受けないか』と。

文言だけを見れば体のいい詐欺にしか見えないが、メッセージを送ってきたのは面識もあり、薬剤師の資格も持っているクー先輩だ。
なにより、生活するには金が要るし、前の職場で起こしたトラブルのせいで東京には居られそうにない。
熟慮の末、プライドも東京での生活も投げ捨てた俺は、未だ梅雨の気配が色濃くの残る六月の今、地元である滋賀に戻ってきてしまったという訳である。

19名無しさん:2025/08/01(金) 23:55:52 ID:PMCBqU3s0

( ・∀・)「それで、治験って俺は一体何をすれば?」

川 ゚ -゚)「まぁ待て。まだ担当の医師が来ていない」

( ・∀・)「担当?」

川 ゚ -゚)「治験コーディネーターである私だけで説明をしても法的問題はないのだが、今回の治験は特殊でね。主導する医師から直接話を聞く方が君にとってもいいだろう」

( ・∀・)「へぇ〜なんか手厚いっすね」

川 ゚ -゚)「後で色々ごねられてもめんどいし……」ボソッ

( ・∀・)「今なんか言いました?」

川 ゚ -゚)「いやなにも」

明らかに不穏そうな言葉が聞こえた気がしたが、そこから先、先輩の視線は明後日の方向を向いたまま動かなかった。
どういう治験なのか、危なくないのか、そういう質問をしても全て無視。唯一引き出せた言葉は「多分死んだりはしない」というあまりにも浮薄な一言のみ。
暖簾に腕押しを顕現させたような状況が続く中、コンコンと、子気味良いノックの音が隣から響いた。

20名無しさん:2025/08/01(金) 23:57:15 ID:PMCBqU3s0

<ガラッ

【+  】ゞ゚)っ|扉「すいません、お待たせしました」

川 ゚ -゚)「あ、やっと来た。あとの質問は全てこちらの医師にどうぞ」

( ・∀・)「丸投げしやがったよこの人……」

【+  】;ゞ゚)「え? な、なに?」

開いたドアから現れたのは、白衣を身に纏った長身の男性であった。
慌ててきたのだろうか、彼の額にはうっすらと汗が滲んでいるのが見える。

身に纏っている衣服や雰囲気は間違いなく医師のソレだが、柔らかな声色と表情、そして少し跳ねた後ろ髪から優しさが伺えた。
背丈も間違いなく自分以上、おそらく180cm後半はあるだろう上背であるにもかかわらず、威圧感や圧迫感もない。
少なくとも、つねに鉄仮面を外さない自分の元先輩たる治験コーディネーターよりは、ずっと親しみやすそうであった。

男性医師は「失礼します」と律儀な声をこちらにかけ、素直先輩の隣に座る。
そして、彼は自身の首元に下げたカードをこちらに提示しながら、その薄い口を開いた。

21名無しさん:2025/08/01(金) 23:59:05 ID:PMCBqU3s0

【+  】ゞ゚)「お待たせして、大変申し訳ありません。私、今回の治験分担医師の、櫃木オサムと申します」

( ・∀・)「ご丁寧にどうも……あ、俺、小宮モララーです」

櫃木、ひつぎ、と心の中で暗誦する。
二十数年生きた今までの人生で、初めて聞いた名字だ。

【+  】ゞ゚)「今日は治験のご説明ということでご足労いただき、誠にありがとうございます。もう既に、ある程度の概要は素直さんからお聞きになられたでしょうが、改めて私からもご説明を……」

( ・∀・)「いや、何にも聞いてないっすね」

【+  】;ゞ゚)「……えっ? す、素直さん?」

櫃木先生が先輩の方を見る。
困惑の色を浮かべている先生と違って、先輩の表情には全く動揺の色が浮かんでいない。

22名無しさん:2025/08/02(土) 00:01:19 ID:F9rYRl8E0


川 ゚ -゚)「いえ、最低限の必要な説明はしましたよ」

【+  】;ゞ゚)「最低限って、どこまで? 同意は?」

( ・∀・)「めっちゃ金貰えるってことは聞きましたけど」

【+  】;ゞ゚)「じゃあ進捗ゼロじゃないですか……」

先生は頭を抱えて、ちらりと左手首に着けられた腕時計を見る。
自分には医師の知り合いなどいない。強いて言うなら、薬剤師という道を選び、そのまま治験コーディネーターという聞き慣れない仕事に転職したクー先輩が唯一、面識のある医療従事者だ。だから、医者という仕事が具体的にどういったものなのかは分からない。
しかし、先ほど一瞬だけ見えた時間を気にする仕草からして、やはり医者とは激務なのだろう。

【+  】ゞ゚)「それではまず、ご本人様確認からさせていただきます。まどろっこしいとは思うのですが、規則でして。すいません」

( ・∀・)っ□「いえいえ、それくらいは。あっこれ、免許証です」

バスに乗った時とは違い、9枚の千円札と無数の小銭がチャージされた財布から免許証を取り出す。
名前欄と住所、そして顔写真をよく確認した先生は「ありがとうございます」と丁寧に免許証を返してくれた後、ずっと机の上にあった紫のファイルを開いて中の紙をペラペラと捲った。

23名無しさん:2025/08/02(土) 00:04:04 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「小宮モララーさんですね。パリへの一年留学を積みながら製菓学校を卒業し、東京にあるホテルのレストランに勤務なされていた……お間違えありませんか?」

( ・∀・)「はい、間違いないです」

【+  】ゞ゚)「レストランでの職種は、パティシエ?」

( ・∀・)「一応。とは言ってもスーシェフやってたとかそんなんじゃないですよ? 二年しかいられなかったし」

【+  】ゞ゚)「専門は洋菓子? 和菓子などは?」

(;・∀・)「基本的にどんなのでもそこそこ……え、これなんです? パティスリーの面接?」

数年前にやった就活の時期を彷彿とさせられるような質問内容に疑問が口から飛び出た。
てっきり体調面や過去の病歴などを聞かれると思ったのに、そういったことは一つも聞かれない。
わざわざ本人確認すら慎重にやってきたにしては、自分の経歴について聞かれるのは些か腑に落ちなかった。素人ながら、もっと他に聞くべきことがあると思うのだが。

24名無しさん:2025/08/02(土) 00:05:53 ID:F9rYRl8E0

川 ゚ -゚)「今回の治験を君に紹介したのは、君がパティシエだからだよ。菓子を作れる人間が好ましいんだ」

(;・∀・)「は……?」

治験を受ける人間が重視されるのは、体調面や体質などではないのか。それとも、自分が今まで勘違いしていただけで、治験というのは元来からそういった人間をターゲットにしているのだろうか。
頭の中で無数の疑問符が踊っている。自分に一体どんな治験が望まれているのか、皆目見当がつかない。
すると、ファイルを横にずらした櫃木先生は、自身の白衣のポケットから何かを取り出し、それを机の上に置いた。

【+  】ゞ゚)「実際に一度、やってもらった方が早いですね」

( ・∀・)「……ドロップ缶?」

コンと高い音が一瞬響く。
先生が机の上に出したのは、カラフルな色彩のデザインがなされた金属製のドロップ缶であった。

【+  】ゞ゚)「これを握っていただけますか。あ、見た目は只の金属缶ですが、表面も人感センサーなどの精密部分なので、あまり強い力は入れない程度で」

丁寧ではあるが少しの緊張が含まれた注意に、自然と背筋が伸びてしまう。
躊躇いつつも、机に置かれたドロップ缶を慎重に握る。なんとなく傾けてみるも、音も重力変化もしないから中には何も入っていない。
手のひらから指先に至るまで、見た目よりもずっしりとした重量と機械らしい冷たさに、思わず全身の筋肉が強張る感じがした。
少なくとも、ただのドロップ缶でも、普通のありふれた金属でも、ましてや玩具でもない。詳細についての察しはまだついていないが、その程度は感じ取れた。

25名無しさん:2025/08/02(土) 00:08:12 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「それでは小宮さん。直近で何か、楽しかった出来事はありますか」

( ・∀・)「へ? た、楽しかったこと?」

オウム返しみたいに同じ言葉を復唱する。

【+  】ゞ゚)「楽しかったこと、嬉しかったこと、安心したこと……何でも構いません。何か良い記憶を思い返しながら、このドロップ缶を軽く一度振ってみてください」

心中で「そんなこと言われても」という独り言が転がった。

ここ最近、良い思い出なんて一つもない。
つまらないトラブルを起こして、あれほど憧れていた場所での職種を二年で失った。
なくしたのは仕事だけじゃない。向こうで出来た人との繋がりも、独立の夢のために貯めていた貯金も、全部失った。

残ったのは下らないプライドと消し去りたい記憶。いつ購入したのかも覚えていない衣服に、型落ちのスマホと諭吉一枚。その程度。
挙句の果てには、身銭欲しさに、好きでも何でもない地元に逃げ帰ってきた始末。
そんな自分に、何か楽しかったことがあったかなどと問われても。

( ・∀・)(………あ)

何もない。自棄にも似た感情のまま、とりあえずドロップ缶を振ろうとしたその一瞬。
脳裏で、誰かが笑ったような気がした。

手のひらから伝わる、ひんやりとした小銭の冷たさ。なのに何処か暖かみを含んだ重み。
久しぶりに振れた、誰かからの親切。
ついさっきの、それも数分程度の出来事。『良い思い出』と名付けるには、あまりにも呆気ないのではと自分でも不安になるような記憶。

脳から放たれた電気信号に従い、一度だけ手が上下する。
ドロップ缶が揺られる。
カランと、中から子気味よい音が鳴った。

26名無しさん:2025/08/02(土) 00:09:24 ID:F9rYRl8E0

( ・∀・)「……ん?」

空だった筈のドロップ缶の中から、コロンと何かが転がる音が聞こえた。

不思議に思い、顔を前に向ける。自分の前方に座ったままの櫃木先生もクー先輩も、ただじっと俺の様子を見つめているのみ。
何故だか少し、脳内が鮮明になったような気がする。そんな不思議な感覚を覚えたまま、俺はドロップ缶の口を開き、左手の上で逆さにしてみる。
すると中からは、小さな純白の正方形が転がり落ちてきた。

(;・∀・)「おっ……!?」

思わず床に落としかけた四角い物体をなんとかキャッチする。
手のひらをゆっくりと開く。俺の手の中心で、ひどく見覚えのある小さな正方形が天井の灯りを反射して、純白に輝いていた。

( ・∀・)「……角砂糖?」

口にせずとも、見た目と手のひらから伝わる感触に、どこか懐かしさを覚えた。
角砂糖だ。純白と評して良いほどの白さと手触りから、素材は黒糖や糖蜜などの風変わりなものではなく、精製されたグラニュー糖であることが分かる。
コーヒーに入れても、崩して製菓に使ってもいい。そんなありふれた、ごく一般的な角砂糖のように思えた。

27名無しさん:2025/08/02(土) 00:10:45 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「小宮さん。それを口にしていただく前に、一つだけ質問をさせてください」

先生の言葉にギョッと驚き、手のひらの角砂糖から前に視線の向きを変える。
驚いたのは声をかけられたからではない。
後で自らの手に収まったこの得体の知れない砂糖を口にしなければいけないのか、という点に自分は驚いたのだ。

( ・∀・)「はい、なんですか?」

【+  】ゞ゚)「ドロップ缶を振る直前、どんな出来事を思い出していましたか?」

( ・∀・)「どんなって。まぁ、大したことじゃないんですけど……」

( -∀-)「………」

(;-∀-)「…………」

(;-∀-)「………………」



(;・∀・)「………………あれ?」



なんだっけ。

28名無しさん:2025/08/02(土) 00:11:56 ID:F9rYRl8E0

言葉が出ない。何を言おうとしていたのか、何を思い出していたのか、全く口に出来ない。
右手に握られたままのドロップ缶を見る。
そうだ、これを振る時、先生n言われた通りに俺は何かを思い出していた。そしてその出来事は間違いなく、ここ最近にしては珍しい『良いこと』だった。

分かっている。それは知っている。なのに、肝心な中身だけが思い出せない。誰を思い出していたのか分からない。
形容しがたい不安感と喪失感に苛まれていると、櫃木先生の柔らかな声色が再び鼓膜を揺らした。

【+  】ゞ゚)「……思い出せませんか?」

頭の中を見透かされたような言葉にドキリと心臓が跳ねる。
明確な言葉の一つも吐けないまま、ただ唸っているだけの自分を眺めた先生は、俺とは対照的にとても落ち着き払っているように見えた。

29名無しさん:2025/08/02(土) 00:13:38 ID:F9rYRl8E0

(;・∀・)「ちょ、ちょっと待ってください! すぐ思い出すので……!」

【+  】ゞ゚)「いえ、ご無理なさらず。それでは、ドロップ缶から出てきた角砂糖を食べてみてください」

(;・∀・)っ□「えっ……あのコレ、食べて大丈夫なんですか?」

【+  】ゞ゚)「見た目と味はただの砂糖ですし、毒などは一切含まれていませんから。どうぞ」

(;・∀・)っ□「はぁ……じゃあ、いただきます」

数秒ほど角砂糖を睨んだ後、意を決して口を開き、舌の上に砂糖を放り込む。
予想通り口内に広がったのは、何度も経験したことのある砂糖特有の甘ったるさと、グラニュー糖特有のジャリジャリとした食感。
とりたてて言及するような特別なことは何もない、黒糖などで作られた訳でもない、至って普通の角砂糖の味。
そう評価し終えようとし、角砂糖を奥歯で噛み砕いた次の瞬間。


 ( ー *トソン


即座に、とある女性の顔が浮かんだ。

30名無しさん:2025/08/02(土) 00:16:45 ID:F9rYRl8E0

揺れるバスの中、手に乗せられた小銭の重さ。
目的地に着いた後、貸してくれた運賃を何としてでも返そうと、お札を崩すために道路を走る自分の心臓の鼓動。
バス代がないことを懸命に説明する俺の姿を見た時の、あの女性の、花が咲いたような笑み。

ゴクリと喉を鳴らして、砕いた砂糖を完全に飲み込む。
ジグソーパズルの最後のピースを嵌めたような、鍵穴に鍵を挿したような、ぽっかりと空いた穴をピタリと塞ぐ心地がした。

【+  】ゞ゚)「どうです? 思い出せました?」

(;・∀・)「………はい」

【+  】ゞ゚)「どんな記憶ですか?」

(;・∀・)「その……今朝、ここに来るバスの中で、女の人に小銭を借してもらって。その時の記憶です」

【+  】ゞ゚)「小銭?」

川 ゚ -゚)「間抜けなことに一万円札しかなかったらしいです。バスでは小銭か千円札しか使えないし、大きすぎる額は両替も出来ませんからね」

【+  】ゞ゚)「ICカードとかも持ってなかったんですか?」

川 ゚ -゚)「この辺りのバスでは使えません。ここは東京ではないのですよ、櫃木先生」

【+  】;ゞ゚)「すいません。まだこの辺りに慣れていなくて……」

川 ゚ -゚)「問題はこちらに来てからの年月の浅さではなく、ほぼ毎日病院に泊まり込んでいる生活そのものだと思いますが」

【+  】;ゞ゚)「うっ…面目ない……」

申し訳なさそうに頭を下げた先生と、彼に呆れた視線を向ける先輩。
いつもの自分なら遠慮会釈なく笑っていただろうが、生憎今はそんな余裕もない。
砂糖のように溶けたかと思えば、冷蔵庫で冷やしたゼリーのように素早く固まった記憶についてのことだけで頭が一杯だった。

31名無しさん:2025/08/02(土) 00:17:49 ID:F9rYRl8E0

(;・∀・)「あの! このドロップ缶って……何も入ってなかったはずなのに! てか俺、一瞬だけだけど、あの人のこと忘れて……!」

【+  】ゞ゚)「大丈夫です、落ち着いてください。すぐにご説明いたしますね」

そう言って、先生は再びあの分厚いファイルをペラペラと捲る。
該当のページを開き、上下を逆にして、俺に見やすいように方向を変えてからファイルをこちらに差し出した。

( ・∀・)「『記憶譲渡』……?」

一番最初に目に飛び込んできた単語を口に出して読む。
小難しい単語で構築された文章が所狭しと並んでいて、こうして眺めてみてもまるで要領を得ない。
ただ、長ったらしい文章の下に添付されていたドロップ缶の画像が、俺の視線を捉えて離さないでいた。

32名無しさん:2025/08/02(土) 00:18:46 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「にわかには信じがたいかもしれませんが、そのドロップ缶はただの金属缶ではありません」

【+  】ゞ゚)「『記憶譲渡媒体製造機』。私の上司が開発した、記憶を人に譲渡できる装置です」

(;・∀・)っ□「………装置? こんなのが?」

未だ手に持ったままのドロップ缶を見つめた俺は、なんだか得体の知れない恐怖を感じて、そっと机の上に缶を置く。
手に持った時は見た目以上の重さに戸惑ったが、改めてまじまじと見ても、見た目は至って普通のドロップ缶である。未だこの辺りにはかろうじて残っているであろう駄菓子屋や、スーパーのお菓子売り場の隅で見かけても、何の違和感も持たないだろう。
確かにさっき不可思議なことは起きた。それでも尚、これがそんな大仰な装置だとは思えない。

33名無しさん:2025/08/02(土) 00:19:38 ID:F9rYRl8E0

川 ゚ -゚)「簡単に言えば、思い出を角砂糖という形で抽出し、記憶の保存、経口摂取による譲渡を可能にする代物だ。ひみつ道具だの魔法だの、そういった胡散臭い類の物ではないから安心しろ」

( ・∀・)「いや、まだ全然胡散臭いんすけど……」

川 ゚ -゚)「ならば原理を説明してやろうか? 側面に触れた指先に走る電気信号から脳の海馬にアクセス。記憶の定着に使われたAMPA型グルタミン酸受容体等の活性化を促してエングラム細胞集合体を特定・把握からグルコースを吸収生成……」

(;・∀・)「いやもういいもういい! 分かりまし……いや全然分かんないけど、とにかく凄い機械…装置?ってことは分かりましたから!」

川 ゚ -゚)「それならいい」

慌てて制止の声を上げると、先輩は呪文詠唱のような説明のピタリと止めた。
彼女は初めから自分が理解できるとも、理解させようとも思っていなかったに違いない。ただ俺を黙らせたかっただけだろう。
そして彼女の目論見通り、自分は見事に煙に巻かれてしまったのだ。全くもって面白くないことである。

34名無しさん:2025/08/02(土) 00:20:53 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「続けますね。既にある程度の予想はついてしまったかと思われますが、今回の治験では、この機械を小宮さんに使っていただきたいのです」

(;・∀・)「……楽しい記憶が込められた、砂糖を作りまくれってことですか?」

【+  】ゞ゚)「いいえ、惜しい。それだけではなく」

【+  】ゞ゚)「このドロップ缶で出来た砂糖を使って、お菓子を作って欲しいんです」

ただでさえ未知過ぎる光景を目の当たりにしたばかりだというのに、次から次へと予想外の話が脳を揺らしに来る。
普段の俺ならここで「馬鹿らしい」と席を立っていただろう。だがそうしなかったのは、実際に体感してしまった経験と、目の前に座っている医療従事者二人が真剣な瞳をしていたせいだ。

35名無しさん:2025/08/02(土) 00:22:51 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「出来るだけ美味しくて、味でも記憶に残るようなものがいい。洋菓子だけじゃなく和菓子など、データ収集のために出来れば多種多様な菓子を作っていただけるとより望ましい」

(;・∀・)「病院で、菓子作りを?」

【+  】ゞ゚)「ここの院内調理室を一部屋押さえてありますので、そこを自由に使っていただいて構いません。もちろん、何か足りない機材や調理器具などがあれば、すぐにこちらでご用意いたします」

【+  】ゞ゚)「記憶を譲渡できる砂糖で菓子を作ってもらう。それが、小宮さんにお願いしたい治験の内容です」

(;・∀・)「いや、あの……それ、治験っつーか、調理の仕事じゃないんですか?」

医療のいの字も知らない俺だが、治験について何も調べてこなかった訳じゃない。
開発途中の薬を投与されたり、厚労省の認可がまだ下りていない最新ロボットを用いた手術を受けたりと、参加者は基本的に受身になる。実際、クー先輩にもそんな感じのことを言われて俺はここまで来たのだ。
端的に言えば、話が違う。

( ・∀・)「なんでよりによって俺なんかに……もっと他に良いパティシエいるでしょう」

若干の不審さを覚えて少し身構える。
あの分厚いファイルの中には、事前に俺が送った最低限の経歴書と健康診断の結果に関する資料が入っているはずだ。そして、二人がそれに目を通していない筈がない。
にもかかわらず、わざわざ俺なんかに白羽の矢を立てる理由がまるで分からない。どう考えたって、デメリットしかないだろうに。

36名無しさん:2025/08/02(土) 00:25:06 ID:F9rYRl8E0

川 ゚ -゚)「ただ『腕が良い』だけじゃ足りないのさ」

俺の声色に不信感が混じり始めたのを察したのか、クー先輩が冷静に口を開いた。

川 ゚ -゚)「このドロップ缶はまだ試作段階だ。記憶を譲渡される側の問題だけじゃなく、記憶を砂糖に変えた者…ドロップ缶を振った人間に何の影響も出ないのかが判然としていない。稀代の天才が作ったものが完璧とは限らない」

川 ゚ -゚)「お年を召した職人に振らせ、『記憶の抽出により脳に障害が出て倒れた』では困るからな。老人よりも脳が新鮮な若者がいい。それにこんな田舎で菓子作りに励んでいる職人たちは皆、自分が経営している店で忙しい」

( ・∀・)「まあ、それは分かりますけど……」

あまり故郷に足で砂をかけるような言動はしたくないが、滋賀は田舎だ。
県庁所在地である大津でさえ、『京都にすぐ行ける』くらいの長所しか思いつかない。延暦寺や石山寺などの観光地を上げる声もあるが、歴史オタクを除いた一般の方々からすればただの寺と山だ。
彦根城は大阪城に勝てないし、草津という地名であるのにどこぞの群馬と違って、温泉は何故かイオンモールの中に一箇所あるだけだ。
琵琶湖しか堂々と誇れるものがない土地に若者が定住する訳もない。無論、その内の一人が、俺だった。

37名無しさん:2025/08/02(土) 00:25:56 ID:F9rYRl8E0

川 ゚ -゚)「更に言うと、今回の治験は君が想像できないほどに大きく、機密性が高いプロジェクトでね。情報管理という観点から外部の人間は一人しか雇えない」

川 ゚ -゚)「若さや体力、菓子作りの腕、ほぼ毎日病院に来られるフットワークの軽さ、あらゆる条件を満たしている人間を懸命に探してみたが、一人しかいなかった」

先輩は俺を指差しながら、淡々と説明をした。
機密性が高い、という言葉に今更ながら納得する。道理で自分がいくら『どんな治験なのか』と事前に尋ねても、『詳しい話は直接会ってからする』としか言われなかった訳だ。

(;-∀-)「……」

どうするべきか。疑問と同時に答えが浮かぶ。
「やめた方がいい」。直感だが、我ながらどこか信頼性のある選択肢が頭の中心を漂っている。

ドロップ缶を振った時、俺は何を忘れたのかも分からなかった。というか、記憶が頭から抜け落ちたことにもすぐには気付けなかった。
こんな明らかに表に出ていない技術の代物、関わったって絶対ロクなことにはならない。というか記憶を抽出するって、要するにそれは脳を弄られているようなものじゃないか。
百パーやばい。自問自答をしている間に、直感は確信へと変わっていた。

38名無しさん:2025/08/02(土) 00:29:46 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「もちろん、無理にとは言いません。このドロップ缶を振り続けることで、どんなデメリットがあるのかも分かっていないし、その観測も含めた危険な治験です」

【+  】ゞ゚)「断っていただけたとしても、口止め料ということできちんと相応の謝礼は用意します。既に一度振ってしまわれた分も含めて」

それは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸を彷彿とさせるような、あまりにも魅力的すぎる提案だった。
全財産は今、財布の中に入っている九千円程度のみ。
一応今は実家に住んでいるが、啖呵を切って地元を飛び出たにもかかわらず無様にも都落ちしてきた身分で、親に金銭はせびれない。というか既に釘は刺され済みだ。
どんな綺麗事を口にしようが、人間は物を口にしなければ生きていけない。そしてそのためには何より金がいる。

断ろう。そして口止め料だけ貰って帰ろう。
そう思い、俺はゆっくりと口を開いた。

(;-∀-)「じゃ、じゃあ、申し訳ないんですけど今回は……」

川 ゚ -゚)「やってくれるなら前金として即座に100万出そう」

( ・∀・)っ「やります」

川 ゚ -゚)「よっしゃ」

【+  】;ゞ゚)「えぇっ!?」

39名無しさん:2025/08/02(土) 00:31:27 ID:F9rYRl8E0

既に口から出ていた言葉を途中で区切って無理やり飲み込んだ。
いつの間にかこちらに差し出されていたボールペンを手にし、これまたいつの間にか差し出されていた同意書の隅にペン先を伸ばす。
小宮の小まで書いた辺りで、慌てた様子の櫃木先生によって物理的に止められた。

【+  】;ゞ゚)「ちょ、ちょっと待ってください! 小宮さん、私の話聞いてましたか!? これは危険の度合いすら不明瞭な治験なんですよ!?」

( ・∀・)「印鑑じゃなくてシャチハタしか持ってきてないんすけど、いいすか?」

川 ゚ -゚)「問題ない」

【+  】;ゞ゚)「話を進めないでください!」

念のために持ってきていた判子が紙に押される寸前で止められる。
治験を依頼する側としては願ったり叶ったりだと思うのだが。

川 ゚ -゚)「あぁそれと、期間は最長で一年を予定している。やり遂げてくれたなら追加で500万だ」

( ・∀・)っ╲カリカリポンポン

【+  】;ゞ゚)「あぁっ、もうサインと判子が!」

40名無しさん:2025/08/02(土) 00:32:26 ID:F9rYRl8E0

物理的な制止を受ける前に名前を書き、その横に素早く判子を押した。
前金だけで100万。一年後には500万。合わせれば600万。
おそらくもう菓子業界には戻れない自分にとっては、今後どうやったって稼げないかもしれない額だ。

生きるためには金がいる。この数ヶ月、東京で嫌というほど実感した。
それだけの大金が貰えるならば、なりふり構っていられない。

川 ゚ -゚)「これで契約成立だ。面倒な記録は少ない方がいいから、前金は後で直接現金で渡そう」

(*・∀・)「やったー節税だ!」

【+  】;ゞ゚)「いやそれだと脱税でしょう!」

41名無しさん:2025/08/02(土) 00:34:43 ID:F9rYRl8E0

【+  】;ゞ゚)「素直さん、何を勝手なことを! こちらの病院にそんな大金出させられる訳ないでしょう!?」

川 ゚ -゚)「問題ありません。貴方の上司である主導医師から『いくら使っても構わない』と言われていますので。まぁ、絶対に結果を出せという圧力も含まれているでしょうが」

【+  】;ゞ゚)「だからってこんなやり方は……何が起こるか分からないのに!」

川 ゚ -゚)「良きにしろ悪しきにしろ、そろそろ前に進めなくてはいけない時期でしょう。それにこの程度なら安い方ではありませんか」

二人の言い争いを他人事みたいに流しながら、俺は頭の中で既に前金の算用をしていた。
まずはリボ払いで乗り切ったクレカの精算を終わらせる。そして両親にいくらか渡せば、肩身こそ狭いままだろうが、このまま暫く実家に居られるに違いない。更には東京の友人たちにしていた借金を返してもまだ少しは残る。
どんな贅を尽くそうか、なんて下らないことを考えていると、額に鋭い痛みが走った。

Σ(;・∀∩)「痛っ!?」

川 ゚ -゚)「まだ説明の途中なんだがな」

デコピンされた額を押さえながら、「すいません」と小声で謝る。
ずっと心中で燻っていた悩みが、蒲公英の綿毛みたいに吹き飛んでしまったのだ。そりゃあ多少ぐらいは浮かれるだろう。

42名無しさん:2025/08/02(土) 00:36:04 ID:F9rYRl8E0

(;・∀・)「とにかく、俺は菓子を作ればいいんですよね? じゃあ早速、調理室ってトコに行けば……」

川 ゚ -゚)「いや、今日行っても意味がなくなるからいい。君の仕事は明日からだ」

妙な言い方に少し眉を顰めるも、とりあえずコクリと頷いておく。

川 ゚ -゚)「明日の朝八時に、普通の菓子を作って病院に持って来てくれ。早く来てここの調理室を使ってもいいし、君が今住んでいるトコで作ってからでもいい」

そう言いながら例のドロップ缶を片付ける先輩を見て、まだアレは使わなくていいのだと少し安堵する。
おそらく、明日の俺の菓子を食してから、何かしらの判断をするのだろう。その決断が下されるまでは俺があのドロップ缶を振ることはない。
出来ればもう触りたくない代物だが、合計報酬600万はあまりに大きすぎる。どれだけ不気味だろうがハイテクだろうが、遮二無二やり遂げるしか俺に道はないのだ。

43名無しさん:2025/08/02(土) 00:36:50 ID:F9rYRl8E0

( ・∀・)(普通の菓子、ねぇ)

資料を片付け始めた先輩の手を見ながら、何を作ろうか思考を巡らせる。
六月の滋賀ならば、草津メロンを使うのがいいだろうか。普通のメロンよりずっと糖度が高いから、レモンバーベナのムースにグレープフルーツのジュレやクリームを合わせれば、メロンの甘さを引き立てつつ、夏を先取りした爽やかさを出せるヴェリーヌを作れる。
いや、病院に持っていくのだから、形が崩れにくく常温でも持ち運びしやすいものの方が良いかもしれない。
ならばやはり、クッキーやフィナンシェなどにすべきだろうか。後者ならばチョコチップやナッツで食感にアクセントを加えるのもいい。

色々と作る菓子の想定を立てていて、ふと、あることに気が付いた。
俺の作った菓子は一体、どんな人の口に入るのだろう。

( ・∀・)「あの……そういえば、俺の作る菓子って誰が食べるんですか?」

疑問をそのまま口にする。
先輩がちらりと櫃木先生に目配せをすると、彼は無言のまま小さく頷いた。

44名無しさん:2025/08/02(土) 00:37:44 ID:F9rYRl8E0

川 ゚ -゚)「……患者だよ。この病院にいる、記憶障害の患者だ」

(;・∀・)「えっ……びょ、病人ってコトですか? そんな人に菓子食べさせるって……」

【+  】ゞ゚)「食事制限等はないんです。食物アレルギーなども無い方なので、その点については安心してください」

先生からの説明に胸をほっと撫で下ろす、なんてことはなく、気のぬけた「はぁ」という返事が口から漏れた。
アレルギーがない。そんなことを第三者から言われたところで何の安心材料にも成り得ない。

川 ゚ -゚)「とにかく、同意書にサインこそ貰ったが、実際に君に協力してもらうかは明日決まる。とにかく君は、忘れられないほどに美味しいスイーツをその患者に作ってくれればいい。よろしく頼むよ」

そう言って、ファイルを抱えた先輩は一足早く部屋を出て行った。
残された櫃木先生は、困ったように苦笑いを浮かべている。どちらかというと先輩の方が助手的立ち位置である筈なのに、医者である先生の方が一歩下がっているみたいに見えた。

45名無しさん:2025/08/02(土) 00:39:06 ID:F9rYRl8E0

【+  】ゞ゚)「今日はこれで以上になります。あっ、入口までお送りしますよ」

( ・∀・)「いや大丈夫です、先生だって忙しいでしょう」

先生からの申し出を断り、二言三言挨拶を交わしてから部屋を出て、先生と別れて別方向に歩き出す。
一度だけ振り返って後ろ姿を見る。やや早歩き気味に廊下を進む様子から、やはり忙しいのだろうなとぼんやり思った。

数年前に出来たばかりの新しい病院だからだろうか、どこもかしこも清潔感があって居心地が良い。
真っ白な廊下や壁、木の暖かみが感じられる院内デザイン。窓から遠くに見える琵琶湖は、水面が太陽光を反射して、南側とは思えないほど綺麗に映えている。
良い病院なのだろうと思った。それも、こんな田舎に建てるには勿体ないほどの。

46名無しさん:2025/08/02(土) 00:40:49 ID:F9rYRl8E0

自動ドアを潜って建物を出て、病院前のバス停に立つ。
別の乗り場からは、見舞いに来たのであろう家族連れがバスから降りてくるのが見えた。
今日は日曜日なのだが、ここはどうやら土日祝でも見舞いを許可している病院なのだろう。つくづく、良い所だと感じた。

帰りのバスを待ちながら、家に着いてからやるべきことをリストアップしていく。
まず、どんな菓子を作るか決めなくてはならない。作りたいもので言ったら季節のフルーツを使った生菓子だが、持ち運びという点を考慮するとやはり日持ちする焼き菓子の方がいい。前者はまぁ、病院の調理室を見てからでも遅くないはずだ。

最初が肝心だ。奇抜すぎず、かと言って何の印象も残らない菓子は出せない。
春ならば京都の抹茶を使ったアメリカンクッキーなども面白かっただろうが、今は少し時期外れだろうか。マンゴーのパウンドケーキならば旬の味も楽しめるし、その方向性で攻めようか。それとも、一種類だけに拘らず、色んな菓子を詰め合わせにしてみようか。

ふと、懐かしい思考をしている自分に気が付いて、思わず自嘲気味の笑みが零れた。
今年の初め頃には「もう菓子など作れない」と思っていたのに。昨日までは菓子のことなど考えず、目先のことをなんとか出来るだけの金のことばかり考えていたというのに。
合縁奇縁ここに極まれり。パティシエとしてではなく治験という堅苦しい響きの作業の一環に過ぎないだろうが、それでも、どこか嬉しく感じている自分がいる。

47名無しさん:2025/08/02(土) 00:41:52 ID:F9rYRl8E0

( ・∀・)(………また、作っていいのか)

( ・∀・)(お菓子)

バスの音に思考が中断され、目の前に大きな車体が停まった。
今度は人にお金を借りる必要もない。念のため、財布の存在を手で確認しながら、まだ六月だというのに冷房が効いたガラガラのバスに乗り込む。

椅子に座る。窓からは、あのバス代を貸してくれた女性と別れた停留所が見える。
そういえば、実家のオーブンの性能はどうだっただろうかと、今更な疑問が頭を過った。

48名無しさん:2025/08/02(土) 00:51:42 ID:F9rYRl8E0
今回はここまで。続きは後日投下します。

すいません群馬じゃないです、滋賀なんです。紛らわしくて申し訳ありません。
滋賀の草津には世にも珍しい温泉施設付きのイオンモールがあります。良い所です。

49名無しさん:2025/08/02(土) 02:08:05 ID:adNUIaTc0
ktkr乙

50名無しさん:2025/08/02(土) 16:04:24 ID:Dsdtfg220
トラブル起こして借金も返せないまま逃げてきたカスがイキってるのきつい
田舎のインフラが整ってないのは赤字ギリギリでも廃止しないでくれているからだとか、ちょっと相手の立場になればわかるようなことを
こいつに惚れる女なんかいない
痛い目見てほしい

51名無しさん:2025/08/04(月) 17:38:44 ID:sA7QLJO60
乙乙
たのしみだ


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