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【SS】凛「あなたにありがとうって言いたい」
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注意
・アニメアイドルマスターシンデレラガールズの設定を引用していおります
・時系列:シンデレラの舞踏会から数ヶ月後、凛ちゃんは高校二年生になっています
・地の文(凛ちゃんの三人称単数視点)
・武凛
よろしくお願いします
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ステージから見える観客席は、目を奪われるほど綺麗な蒼の光が揺れ動き、光の波を作っている。
それはとても幻想的で、目を奪われ、見惚れてしまうになる景色。
けれど、だからこそ、渋谷凛は自分へと問う。
『覚悟は、いい?』
――もちろん。
彼女は歌を歌う。
目の前に広がるステージの上から、この会場だけではなく、見果てぬ誰かも笑顔にできるように……。
――
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――アイドルにならなかったら私はどうなるんだろう。
凛は時々そんなことを考える時がある。
自分はあの強面で大柄なプロデューサーに奇妙な縁から出会って、そのことがきっかけとなり、アイドルの世界へ足を踏み入れることになった。
本当にそれは偶然だったと思う。
彼女の所属しているニュージェネレーションズの仲間である卯月や未央は、アイドルになりたいという意思を持って、この美城プロダクションの門戸を叩いた。
けれど、凛は違う。
彼女はとある警察の勘違いによって引き留められていたところを、プロデューサーが助けてくれたのであり、その時点ではアイドルのことなど頭の片隅にも無かった。
ただ、あの場所にプロデューサーがいなければ、あの場所に自分が引き留められていなかったら、あの場所で少年が泣いていなければ。
その『もしも』が一つでも無くなってしまえば、プロデューサーと凛の邂逅は起き得なかった出来事なのだ。
だから、口では到底恥ずかしくて言うことは出来ないが、凛はこれは奇跡だと思っていた。
凛はこの奇跡に……自分のことをこの道へと連れてきてくれたプロデューサーにいつでも、深い感謝の念を抱いている。
何故ならば、きっとアイドルにならなかった自分はあのまま惰性に日々を生きていたかもしれなかったからだ。
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あの時の凛は、自覚はしていなかったけれど、情熱を注ぐものもなく、日々を無意味に過ごしていただけだった。
何となくを積み重ねる時間、趣味と言えば彼女の愛犬であるハナコとの散歩、見た目や態度が冷たいからあまり友人と呼べる人間もいない。
無駄ではないとは思うけれど、その実無機質な時間を積み重ねてきたとは思っている。
そして、それは恐らく、高校を卒業しても、そして大学に入っても、就職するか両親の花屋を継いだとしても、同じだったのかもしれない。
だが、今の凛は違う。
彼女は夢中になれるものを見つけた。
何もわからない状態から始まったアイドル活動。
ある時はユニットが解散しそうになったり、ある時は自責の念に囚われたこともあったけれど、それでもアイドルになって良かったと心の底から思うことが出来ている。
――私は今が、凄く楽しい。
それは偽らざる本心だった。
だから、と凛は思う。
プロデューサーにはいつかお礼がしたい。
自分をこの世界へ引き連れてきてくれたお礼を、いつか。
――
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ライブが無事に終えた三人は更衣室にて着替えていた。
そんな中、凛はストライプの長袖に腕を通しながら、ただただライブ後特有の余韻に浸っている。
このなんとも言えない達成感と疲労感。
ステージの上から見た景色は網膜に焼きつき、そして様々な感情が交差する歓声は聞いていて気分が高揚する。
まだ、あの光景や音は自分の中で鳴り止まずに続いているような気がした。
「今日のステージ、たのしかったね」
凛は、楽屋で既に大体の着替えを終えた二人へとそう声を掛ける。
丁度上着を羽織り終わった加蓮と癖のある後ろ髪を結いでいる奈緒は、同意するかのように首を縦に振った。
「そうだな。……うん、やっぱファンの声援が直に聞こえるって、結構嬉しい感じがする」
奈緒は何処か感慨深いようにそう呟き、彼女は何処か照れ臭そうに笑う。
そんな横顔を見て、意地の悪い笑みを浮かべた加蓮が一言。
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「お、奈緒も言うようになったねー」
「な、なんだよっ!!」
「ふふっ、まぁ、アタシも奈緒の言うことにはわかるよ。だってさ、去年まではこんなところにいるなんて考えられもしなかったし」
「あー、確かに」
二人はそうやって苦笑した。
シンデレラの舞踏会が終わり、数ヶ月経った今、凛たちトライアドプリムスは順調に活動の幅を広げていった。
今では、あの高垣楓や城ヶ崎美嘉と同じく美城プロダクションを代表するユニットとして世間では知られているほどだ。
CDを出せばテレビの売り上げランキングに名前を連なり、ライブが開催すれば客席のチケットはものの十数分で完売する。
とは言え、そんな加蓮と奈緒も大凡半年前には、CDデビューもしていないアイドル候補生と何ら変わりない存在だったのだ。
それが、このような大きな会場の上に立ち、大勢のファンに声援を送られているなんて状況を想像することはできないだろう。
それは、凛も同じだった。
一年前の自分に『今の私はアイドルをやってる』なんて言っても到底信じて貰えないかもしれない。
物事に対して必要以上に冷淡で辛辣だった昔の凛がそんなことを聞いたら、世迷言とか戯言だと吐き捨てるかもしれない。
ただ、この瞬間は事実であり、それが確かな現実感を凛へ与えてくれるのだ。
「私も、そうかな。……でも、それよりも私としては、加蓮とか奈緒とかとユニット組むとか、想像できなかったかな」
「まぁ、部署とか違かったしね。今はそんなこと関係なしに色んなユニットがバンバン編成されたりしてるけどさ」
「そう言えばさ、ニュージェネの活動とかどうなんだ?」
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奈緒は髪を結い終わると、深緑を基調としたモッズコートに腕を通しながらそう尋ねてきた。
凛も黄土色のダッフルコートの裾に腕を通しながら、卯月と未央の近況を思い浮かべる。
そして、少し考えた後に口を開いた。
「普通に上手くやってると思うよ。まぁさ、前よりは確かに活動自体は減ったとは思うけど」
「あー、二人ともそれぞれの活動してるもんね」
そう、凛がトワイアドプリムスをニュージェネレーションズと並行して活動しているように、未央と卯月も新たな活動を併行して行っている。
卯月は小日向美穂との活動から、新たにピンキーキュートのユニットを結成し、精力的な活動を行っている。
未央も秘密の花園という舞台の経験を経て、最近では演技方面への才能を開拓していっているようだ。
故に、自分たちが一同に集まり、そしてニュージェネレーションズとして活動する機会は減ってしまったが、それを寂しいと思うことなどは無いし、後悔をしたことなどもない。
自分たちが成長し、新たな可能性を見出せるようになるために、三人で話し合った末の結論なのである。
そこに間違いであると思うことやネガティブな感情を持つことは、それ自体が間違いだ。
「卯月と未央が頑張ってるから、私も頑張らないとね」
「青春してるじゃん。全く青臭いよね〜」
「青って言うよりは、凛の場合は蒼なんじゃないのか? 草冠に倉庫の倉の漢字のさ?」
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ただ、そんなやる気が漲っている凛を茶化すかのように二人はそんなことを言った。
人が真剣な話をしているというのにその言葉は何だと思わないでもないけれど、そこまで腹は立たない。
自分を含めたこの三人は、そういう仲なのだ。
心が篭ったことを言えば相手方を茶化し、怒る怒らないのギリギリのラインで弄る、そんな仲が良くても油断できない友人関係。
ただ、腹は立たないが、言われっぱなしなのも癪なので、内心でほくそ笑みながらも携帯をハンドバックから取り出して、一枚の写真を彼女たちへ突き付けた。
「え、あっ、い、いつの間にこんなの撮ったんだよ!!」
奈緒は凛の携帯の画面に表示されたそれを見た途端、浮かべていた嫌味のある表情を消して、ぎょっとした顔を浮かべ驚く。
どうやら動揺を隠すこともできないらしい。
加蓮も彼女のそんな反応が気になったのだろう。
そっと彼女の肩に手を置きながら、「や、止めろっ!!見るなぁっ!!」という制止の言葉を当然のように無視して、その画像を覗き込み、にやりと口元に笑みを浮かべた。
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「ふふっ、奈緒は全くあれだね」
「うん、あれだね」
凛が二人に見せた画像。
それは、奈緒が衣装室でピンク色のフリルがこれでもかと装飾されたメイドのドレスを、鏡に前で、自分に翳している姿だった。
鏡に反射している彼女の顔がはしゃいでるのが、また何とも言えない。
「な、何でこんなものが……。ち、違うんだ。これは……違うんだ!!」
明らかに狼狽した様子でそう呟く奈緒は、恥ずかしさの余りに控え室から逃げ出そうとする。
だが、加蓮が腹部を両手でがっしりと掴んだおかげで、逃げることはできない。
「うおぉぉっ!! 離せって!!」
「もう、可愛いなぁ奈緒はー」
「そうだね。今度この衣装を着てみてよ」
「り、凛も……さっき言ったことは謝るから止めてくれよっ」
「ふふっ、どうしよっかなー」
「そんなァ!!」
そのあと、凛と加蓮は、スタッフが送迎をしに来たプロデューサーが来たことを伝えようと控え室をノックするまで奈緒のことを散々弄り倒した。
プロデューサーが来た時には、もう彼女は涙目になっていたと言う。
――
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ここで一旦区切りです
今日更新することが出来たなら、更新します
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楽しみに待っています
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ライブが終わった凛は、加蓮と奈緒と別れてプロデューサーに家まで送ってもらっていた。
時刻は夜の8時で、街灯や車のライトが目に残光を残していく。
桜の蕾を付けた木々や、やけに薄着の人々を窓から眺めると、夜であるにも関わらず今が春であることが実感できた。
自分が高校二年生に進級し、そのことについて未央と卯月と祝いあったのはつい数週間前の話だ。
実際、高校に入学したことやプロデューサーにスカウトされたことなどが大凡一年前になることなど実感できていない。
それは恐らく、アイドルになってから凛の生活がやけに忙しくなったからだろう。
充実感ある時間は、やけに短く感じるものだ。
それは先ほどのライブで嫌という程痛感できた。
本当に楽しい時間は本人の意思に関わらずあっという間に過ぎていってしまう。
「今日のライブはどうでしたでしょうか、渋谷さん」
そのように時の流れの早さに実感していると、プロデューサーは静かな声でそう聞いてきた。
凛は体勢や顔の向きはそのまま、目だけを動かしてバックミラーに反射している彼の顔を見てみる。
プロデューサーはやはり感情の機微が乏しい表情を浮かべているが、そこそこ長い付き合いとなった今の凛にはわかる。
プロデューサーは穏やかな笑みをその顔に浮かべていた。
「うん。……今日は、自分でも納得できるライブだったと思う」
彼の表情に呼応するように凛も彼へ笑いかける。
今日のライブは十分、自分の実力を発揮できるものだったと凛は感じていた。
ミスと呼べるミスもなく、普段以上のパフォーマンスを発揮できたことは明らかだろう。
そして、それを証明するかのように、歌い終わった後の歓声が普段よりも大きく、長かった。
その音は凛の体の奥底で今もまだ鳴り止んでいない。
とは言え、満足感をしたままで終わる凛ではなく、もう意識は次の仕事へと向いている。
「でも、もっと頑張らなきゃね。卯月と未央も頑張ってる。それに、加蓮や奈緒、それにシンデレラプロジェクトの皆んなも」
「そうですね。しかし、無理は禁物です」
「わかってる。プロデューサーも、無理は駄目だよ」
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プロデューサーの言葉に、凛が本音を織り交ぜた言葉を返すと、プロデューサーは困ったような、それに嬉しそうな曖昧な表情を浮かべた。
「……善処します」
「善処って。ふふっ、まぁ、いいけど」
そのような会話を交わし車で移動すること一時間と数十分で、凛の自宅へと到着した。
「到着しました」
彼は脇道に車を停車させ、完全に車が止まったところを見計らい下車した。
ドアを丁寧に開けて、そして閉める。
その拍子に、凛はプロデューサーの扉の窓を軽くノックした。
不思議そうな表情を浮かべてながらも素直に開けてくれるプロデューサーに、凛は照れ臭そうな表情を浮かべる。
後ろで組んでいる手の指は落ち着きがないように動いてしまうのは、恥ずかしさの表れだろうか。
「その、わざわざ送ってくれてさ、ありがとう」
「プロデューサーとして当然のことをしたまでです」
「……まだ、仕事とかあるの?」
「はい。これから、確か会議と、処理しなければいけない書類などが……」
どうやらプロデューサーは自分を送ってくれたあとも、まだ会社でやることがあるみたいだ。
彼の性格から考えてみれば、まだ期日までに余裕がありそうな仕事まで頑張ってこなしそうではあるけれども、それでもプロデューサーという職業は大変なのだろう。
――プロデューサーさんが頑張って汗水を垂らしてお仕事を取ってきているんだから、皆んなもそれに報いるように、一生懸命にお仕事頑張ってね。
この言葉はいつか千川ちひろがシンデレラプロジェクトのメンバーが仕事に対して手を抜かないようにという戒めの意味を込めた言ったものだった。
プロデューサーの仕事の大半は、彼女が言った通り、凛たちのためのものが大半である。
そう思うと、胸中に罪悪感というものを抱くけれど、自分が彼を心配しても余計なお世話であることは痛いほど知っている。
だから、せめてもの想いで彼に応援の言葉を掛けた。
「そ、その、仕事、頑張ってね?」
照れ臭くて言葉に少し詰まってしまったのもの、凛の思いが彼に伝わったのか、にこりと微笑む。
「ありがとうございます。渋谷さんも、今日のライブはお疲れ様でした。とても素晴らしいものだと、私は思います。とは言え、明日からも仕事がありますので、しっかりと体をお休めなさってください」
「うん、わかった」
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がんばれ♡がんばれ♡
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彼に別れの挨拶を済ませると、プロデューサーは恭しく頭を下げ、そして前をしっかりと向いて車体を滑らせる。
凛は、彼の運転している車が曲がり角に隠れて見えなくなるまで見送り、余韻に一区切りつけて家の中へと入った。
店番をしている母や、リビングで新聞を読んでいる父へ「ただいま」と声を掛けて、そのまま自分の部屋へと直行する。
「……疲れた」
後ろ手で扉を閉じてから、そんな言葉が一番に漏れ出した。
さっきまでは緊張の糸が張り詰めていたおかげかそこまで疲れというものは感じなかったけれど、家に戻って安心し、気が緩んだせいだろう。
溜め込んでいた疲労感が強い脱力感として現れたのだ。
ライブというものは、基本的に体力と緊張の勝負だ。
楽しんでやれれば勝ちという意味では、今回は彼女の勝ちなのだろうが、帰宅してしまえば脱力感に抗うことは出来ない。
それでも、凛はこの脱力感を嫌だと思ったことはない。。
何千と灯る青い光が観客席にゆらゆらと揺れる光景は目を奪われるものだし、自分たちの歌声に呼応するかのようなコール、光の波、そして曲終わりに送られる盛大な拍手の音が自分に向けられていると思うと、とても嬉しい。
この脱力感は、手を抜かずに一生懸命に頑張った証左であり、誇るべきものに違いない。
凛は無造作に勉強机にバックを放り投げ、寝巻きに着替えることもせずにベットに倒れ込んだ。
スプリングの弾力で数回体が跳ね、柔らかで肌触りの良い感触の中に沈む込んでいく。
凛は仰向けになり、天井を見上げながら、何となくとある男の顔を思い浮かべた。
「……ふぅ、プロデューサー、頑張ってるかな」
それは、先ほど別れたプロデューサーで、あの時感じていた罪悪感が尾を引いているのは間違いないと自覚する。
彼はいつも自分たちのために頑張ってくれている。
仕事でもそうだし、凛たちの年代の流行りを調べるためにティーンズ向けのファッション雑誌なども購読しているのだ。
そこまでする必要はあるのかとプロデューサーに問うたことがある。
彼は少しだけ真剣に考えた後に、こう言った。
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『……そうですね。私は皆さんとお話をすることは、ただ単純に楽しんでいるのだと思います』
無理をしてまでする必要があるのか、と続いて質問すると、彼は迷いもなく頷いた。
『その、自分はそこまで、口が上手い方ではないので……こうやって流行を知ることで、自分と話す人が楽しんでくれれば、それだけの価値があるのだと思います。それに、このような話題は……』
プロデューサーはそのままビジネス面で流行を把握しておくと、如何に利点があるかということについても語り出したけど、それは省略しておくとしよう。
ともかく、彼はアイドルと積極的に距離を近づけようと努力をしている。
……いつもは頭の片隅にあって気がつかないことが、まるで存在を主張するかのように思考を占める。
ライブ終わりで自分の部屋に到着したら、疲れによって眠ってしまういつも彼女とは大きな違いであった。
仰向けに寝っ転がり、そのままなんとなくといった様子で天井を見つめていた凛ではあったが、やはり睡魔が襲いかかってくる様子は無い。
暇だし、携帯でも弄っていようか。
そう思い立った凛は、徐ろに体を起き上がらせ、バックの中から携帯を取り出す。
小さなストラップがゆらりと揺れた。
今の凛は、感傷的な気分になっているためか、そのストラップに目が自然と吸い寄せられる。
淡く色あせてしまったキャラクター物のストラップ。
そして、それをぼうと見ていると、そう言えば自分は昔、それこそアイドルになる前は携帯に小物の類をつけていなかったことを思い出した。
基本的に機能面を優先する彼女は邪魔になるような小物は好まない。
だから、携帯やmp3プレイヤーには、そう言った類の人形やキャラグッズなどのアクセサリー系のものをつけることはしなかった。
そんな凛がなんでストラップなどをつけるようになったかと言えば、簡単で未央がクレーンゲームでとってくれたからだ。
『これを私だと思って大切に使ってね!!』
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シンデレラプロジェクト結成当初の思い出で、凛は思わず懐かしんでしまう。
一年前のあの日、卯月と未央と凛で親睦を深めるためにカラオケやゲームセンターで遊んだりしたものだ。
……あの頃に比べ、自分は身長が少しだけ伸び、それに反比例して少しだけ体重が痩せたりした。
それに、今揺れているキャラ物のストラップだって、未央が小技を使って取ってくれた時はもっと色鮮やかなであったはずだが、さすがに一年経過した代物であるためか色落ちをしている。
――そうなんだ、もう一年経つんだよね。
凛は早い時間を、その身で改めて体感する。
そして、自分はこの一年でどれほど成長したんだろうと思った。
凛の周囲にいる人たちは、彼女のことを褒め称える。
普段は厳しいトレーナーの姉妹にも、怒られることは少なくなってきた。
昔は難しいと思っていたトークショーも無難にこなせるようになって、グラビア撮影でもちゃんと人から褒められる笑顔を浮かべることができる。
この一年は本当に自分の状況が目紛しく変化して、そして彼女自身をも良き方向へと変えた。
「……」
凛は揺れるストラップに視線を向けながらも、再びベットへと背中側から倒れた。
……自分は変わって、皆んなも変わった。
それは自分自身でも、確信というほどの具体的なものではないにしろ、曖昧な感覚で理解はしていた。
春の部屋は、夜であるためか少しだけ肌寒く、月の光がその冷たさを増長させているようだ。
凛は近くにある毛布を胸のあたりまで掛けて、目を閉じる。
ごわごわとした肌触りの毛布が、彼女の体を温もりで包んでくれる。
しかし、睡魔が彼女のことを眠りへと誘おうとする……こともなく、やはり意識は冴え渡っていた。
逆に、この部屋の静寂と月明かりしか光源の無い部屋が、凛の心の中にある心情をただただ浮き彫りにさせるものだ。
睡魔が自ら遠退いていく要因であり、今の彼女が浮き足立っている原因。
――私はプロデューサーに、恩を返していない。
そんな思いが、凛の心に存在していた。
凛は今、きっと恵まれた環境にいることを自覚している。
それはプロデューサーが一生懸命に営業で駆けずり回り、各方面へ頭を下げたおかげである。
その仕事を完璧に熟すかどうか、というのも重要なことだが、まずそれ以前に土俵へと立たせてもらわない限り自分たちは評価すらして貰えないのだ。
そのことに対しては強い感謝の気持ちを抱いている。
けれど、凛はどちらかと言えば、常日頃から頑張っている彼の姿よりもより強く印象づいている記憶があった。
凛は、静かに瞼を閉じる。
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NaNじぇいらしからぬしっとりSS
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すると、一年の時を経た今でも、その光景は鮮明に思い浮かべることができた。
モノクロの世界の中、灰色の彼は自分に不器用ながらも話しかける。
けれど、凛はそれを無下に突っ撥ねる。
酷く睨みを利かし、素っ気ない言葉を置いて。
でも、灰色の彼は諦めない。
幾度も自分の下へ足を踏み入れ、勧誘なんて嘘なんではないかと思われるほどの無表情で名刺を差し出すのである。
それはわけのわからない人から見れば恐怖であるし、当時の凛はそこまでとはいかないにしろ、不気味だとは思っていた。
ただ、そんな彼は一人の少女を連れてきた。
……そして、唯一色付いた少女を凛のモノクロの味気ない世界へ連れてきてしまったのだ。
色付いた少女はとても嬉しそうな、人に勇気を与える笑みで夢を語る。
そんな彼女を横にして、灰色の彼は言った。
『そこにはきっと、別の世界が広がっています』
その瞬間から、色の無いモノクロの世界が急に鮮やかな色を取り戻した。
舞い散る桜色の花弁、若緑の葉、明るい陽日に照らされる少女と、日陰で自分のことを見つめる彼。
――そう、あの瞬間から、『私』は始まったんだ。
この幸福を享受していられるのは、あの場所でプロデューサーが警察に勘違いされている自分を助けてくれたから。
結構酷い態度をとっていたのにも関わらず、自分にも気がついていない空虚さを見抜いてくれたから。
私と真摯に向き合ってくれたから。
プロデューサーには本当に感謝してもしきれないのに、自分はその恩を何一つ返していないような気がして、少しだけもどかしい気持ちになる。
この一年、彼と一緒に歩んできたからこそ、その思いが胸を締め付けるのだ。
「……でも」
でも、今までのお礼を言葉にすることなど、凛には少々難しいことのように思えた。
「私のことを、この業界に連れてきてくれてありがとう。……恥ずかしい、かな」
素直な気持ちを試しに言葉に出してみるだけで恥ずかしい。
こんなこと、プロデューサーに言えるわけがなく、一人で横向きに寝て口を尖らせる。
「こんなこと、言えるわけないし」
そう一人でに拗ねていると、自分のことが酷い恩知らずであるように思われて、自己嫌悪は加速する。
近くにあった羽毛布を一纏めにして、抱き枕代わりに抱きつきながらも、凛は考える。
自分はどうやったら、この気持ちを彼へ伝えることができるだろうか。
しかし、目が冴えているのに頭が回らないため、妙案などというものは出てこない。
取り留めもなく時間だけが過ぎていく中、なんとなくベットの上に放り出された携帯に手を伸ばして電源をつけてみる。
すると、ニュージェネレーションズのトークアプリのグループにて、未央が何かしらの発言をしたことがホームの通知欄に表示されていた。
画面を操作して、通話アプリを開いてみると、現在進行形で卯月と未央が会話を繰り広げていた。
とは言え、途中から二人の会話を見たとしても、何のことを話しているか凛にわかるはずもない。
しょうがないので画面を上方へスライドさせ、過去のログを見てみる。
「えっ」
思わず何とも無い、しかし驚きの感情が内包された言葉を口から漏らしてしまった。
その原因は、午後7時、まだ凛がトワイアドプリムスとしてのライブの途中の頃合いに未央から送信された言葉だった。
『私たちニュージェネでさ、プロデューサーにプレゼントを贈らない?』
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今日はここまでです。
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乙鰈
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しぶりんってこんな感じだっけ?(重症)
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しぶしぶいって執拗な嫌がらせやストーキングしてるのはNaNじぇい世界線だけなんやで(再確認)
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嫉妬キャラやストーキングは余所の二次創作でもあるけど
蘭子を執拗に敵視してるのはNaNじぇいだけだと思う
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正統派しぶりんSSええぞ!ええぞ!
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>>24
武内Pを取られそうになって怒り気味のホモの犯行だからね
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今日は更新することが出来ません
明日には続きを投下させて頂きますのですみません
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気長にやってください
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春にしては眩しい日差しに目を細めながら、凛は道を歩く。
今日は、普段仕事が入っている土日にしては珍しく午前中にあがることができたので、それを利用し今は雑貨店へと向かっている途中であった。
先日、未央の提案によって始まった『プロデューサーにプレゼントを贈る』という企画は、詳しく聞いてみたところ最初は新田美波が提案したらしい。
確かに、そのような記念日に何かをしようという提案は、如何にもシンデレラプロジェクトを大事に慮っている彼女がしそうなことである。
それで、特にシンデレラプロジェクトのメンバーが賛同したことから未央と美波の二人の主導によって、購入するプレゼントに対して様々な条件付がされていったようだ。
凛は携帯を取り出し、メモアプリを起動して、とあるテキストファイルを開いた。
・3000円まで
・そこまで大きなものは駄目
・食べ物も駄目
以上の三つが、プロデューサーに贈るプレゼントの条件である。
価格の上限は、なるべく渡すプレゼントの価格が平等になるようにということで、上限が比較的安価なのは、高価なものをプレゼントしてもプロデューサーが遠慮してしまうだろうという凛自身からの案だ。
プロジェクトメンバーは全員が全員、彼の謙虚な性格を知っているので、そのことに対して否定的な意見を持つものはいなかった。
『大きなものが駄目』というのは、プロデューサーが持ち帰る時に大変だろうからという配慮であり、『食べ物は駄目』というのは、折角の記念日なので、ずっと形に残るようなものの方が良いという判断というわけだった。
凛としては、この条件に不満は抱いていなかった。
ただ、プレゼントとして真っ先に思い浮かんだ花が選びなくなったのは少々痛い。
気持ちを込めて贈る綺麗な花、というのは贈り物の定番なのであるが、いかんせん世話が面倒なのであるということは、花屋の娘である彼女自身がよく知っていた。
仕事で忙しいプロデューサーではあるのだろうが、花を貰えば枯れないように一生懸命に世話することは想像に難く無い。
別に凛は彼の少ないだろうプライベートの時間を侵す気はさらさら無いのだ。
……ただ、もしも花をプレゼントに選んでいたとしても、いつも斜に構えている凛には気恥ずかしいとやめてしまっていたかもしれない。
別にいつもはそこまで意識しているわけではない。
だが、改めて贈るとなると感謝の念よりもそういう感情が表に出てしまうのだ。
そのことに小さく溜息を吐きながらも、ハンチングを目深く被り、伊達眼鏡を親指で押し上げた。
今の彼女は、多少ながらもちょっとした変装をして素顔を隠している。
本人にはあまり自覚は無いのだが、しかし事実として美城プロダクション主催のオータムアイドルフェスが終わってからというものの、彼女の知名度はかなり上昇したと言っても過言では無い。
今では未央と卯月と一緒に買い物に行った時に買ったハンチングと、上条春菜から気紛れで貰った伊達眼鏡は手放すことのできない重要なアイテムになってしまっていた。
アイドルとしては有名になったということを喜ぶべきなのだろうが、ハナコの散歩にもこのような変装紛いのことをしなければいけなくなったのは少しだけ面倒だ。
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それから十数分歩いていくと、やっと目的の雑貨店へと到着した。
……本当であれば、ニュージェネレーションズの三人で選びたかったのだけれど、生憎と三人のスケジュールが合わなかった。
そもそも最近は多忙で、オフの日というのが珍しいのだ。
各々の活動に邁進している三人の休日が合わないというのも致し方のないことだろう。
「ととっ、いけないいけない」
思わず、少しだけ暗い気分になりそうな凛であったが、頭を振りそのような考えを吹き飛ばす。
そして、意気揚々と店内の敷居を跨ぎ入店すると、店員の申し訳程度の「いらっしゃいませ」という声が聞こえてきた。
それを雑然とした音の一つとして聞き入れながら、凛はエレベーター付近にある店内案内版を見て、とある事実に気が付き溜息を吐いた。
「何買うとか決まってないのに、これ見ても意味ないよ……」
そうなのだ。
凛は、今日までに散々プロデューサーに何をプレゼントしようか悩んだものだったが、結局決まりはしなかったのである。
プロデューサーであれば、貰ったものが何であれ喜ぶに違いないのだろうが、それでは意味がない。
なるべく彼の趣味嗜好にあったようなもの、貰って喜ぶものを選び抜きたい。
……しかし、と凛は溜息を吐く。
彼の趣味嗜好など、知るわけがない。
普段から表情がわかりにくい彼であるが、それに加えて彼はあまり自分のことを多く語らないのである。
わかっていることは蘭子からのハンバーグが好きだという情報と、かな子と一緒にスイーツバイキングに行ったとしか情報がない。
それに、今回は食事や食べ物の類は無しなので、この情報も残念ながら価値はないのだ。
食べることが好きなのであれば、料理をするかもしれない。
だったら、鉄板プレートとかフライパンとかどうだろうかと思ったのだが、もしも彼が自炊をするような人であれば、3000円以上するであろう料理器具を一式所有しているに違いない。
彼も貧乏人ではないのだ。
一方で、自炊しない人間だとしても、料理器具を貰ったところで肝心の料理をすることはないだろう。
つまるところ、八方塞がり。
プロデューサーに関する情報が一切無いのが現状だった。
「……はぁ、本当何にしよう」
思わず出た吐息交じりの言葉に、凛は自嘲気味に笑う。
――探すしか、ないみたい。
生憎と時間はまだたっぷりとある。
それまでに彼にあったものを見つければいいだけの話だろう。
――と、思ったのだが。
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「……決まらない」
結局、一時間ほど店内を彷徨いているというのに、中々プレゼントが決まらなかった。
そんな彼女は今、小物入れのポーチを手に取って怖いほど睨んでいた。
これはどうなんだろうか。
結構便利だし、これに小物とか入れたら便利なのではないか、とそこまで考えてすぐ様にその考えを撤回した。
なぜならば、見た目から判断するのは失礼だが、プロデューサーがポーチに小物を入れて持ち運ぶような性格だとはどうしても思えなかったからだ。
バックはどうだとは思ったけれど、これも悲しいことに値段の上限が付き纏うため小学生が使ってそうな何処か安っぽいものしか買えそうになかった。
……そもそも、凛は男の人が貰って喜ぶものというのがわかのである。
今まで彼女の身近にいる男性と言えば自分の父親が唯一と言えた。
中学校の頃、何回か同年代の男子から告白されたことはあったけれども、異性とそのようなことをするのに魅力を感じることができなかった彼女は、告白を素気無く断ってきた。
つまるところ、男性経験が無いのである。
そんなこともあって、凛は男性が好むものと言ったら父親基準になってしまうのだが……恐らく、雰囲気はプロデューサーに似ているけれども趣味などは絶対に違う。
それは断言できた。
別に、今日まで凛が何も調べてこなかったわけではないのだ。
インターネットで自分なりに調べたりはした。
だが、あの堅物のプロデューサーがこんなものを貰って本当に喜ぶのだろうか、とか、もっと堅実な……それこそ実用的なものを買ったほうがよいのではないか。
ウェブサイトで紹介されているような商品を見てもそのように思えてしまって、どれもイマイチしっくりと来ないのだ。
一層のこと適当に選んでしまおうかなんて考えなかったわけではないが、それは凛の矜持が許さない。
「……はぁ」
と、何とも落ち込んだ気分で溜息を吐いたときだった。
「あ、凛じゃん。何してんの?」
-
その聞き覚えのある声に、凛はゆっくりと後ろを見ると、何とも見覚えのある姿がそこにはあった。
凛の先輩であり、女子高生や女子中学生の憧れの的であるカリスマJKモデルの城ヶ崎美嘉が立っていたのだ。
彼女も凛と同様に控え目の変装をしており、ピンク色の眼鏡を掛け、二本の角が特徴的な帽子を被っていた。
格好を見る限り、ここにはプライベートで来ていたらしい。
「……何って、それは」
凛は美嘉へ事情を説明しようとして、不意に言葉が詰まった。
……この状況を正直に話してしまっていいのだろうか。
そんな疑問が頭の中に浮かんできたのだ。
今の自分は恐らく、はたから見れば相当格好悪いだろう。
こんなところを加蓮や奈緒に知られれば、それこそずっと揶揄われるに違いないほどに、不恰好だ。
凛は数瞬本気で悩み、心苦しいが適当な事実をでっち上げることを決心する。
格好悪い所は、あんまり見られたくはない。
「わ、私は、その……お父さんに贈るプレゼントを……」
「――ふふっ、それって嘘でしょ?」
けれども、凛の詰まり詰まりの言葉に美嘉はそうやって悪戯っ子のような表情を浮かべながら、いとも容易く看破した。
いつもは比較的無表情な彼女も驚きを隠せず、「え」と困惑した声を漏らしてしまう。
そんな凛を見て、美嘉はクスリと口に手をあてがいながら笑って、
「表情いつもよりも固いし、それに莉嘉からプロデューサーの件聞いてるからさ、何してるのかわかってるよ」
と言った。
どうやら最初から事情を把握していたようだ。
凛は今日で幾度目かの溜息を吐き、彼女のことを睨めつける。
「ちょっと趣味が悪いと思うんだけど」
「あはは、いやーごめんね。結構真剣に選んでたみたいだからさ」
「……そんな風に見えてた?」
「うん。眉間に皺寄ってた。そんな顔してたらファン減っちゃうよ?」
凛は彼女の言葉を聞き、思わず眉間に指の腹を当てた。
なんだか確かに皺があるような気がしないでもない。
どうやら自分はプレゼント選びに没頭するあまり、小難しい顔をしていたらしい。
というか、今更だが自分の父親に贈るプレゼントを真剣に選んでいるという言い訳も、結構格好悪いものなのではないだろうか。
ここに至って、凛は自分が冷静ではないことを悟るのであるが、だからと言ってどうこうできる問題ではないのであるが。
「それで、プロデューサーのプレゼント、決まった?」
「まだ、かな。ちなみに、美嘉はいつから見てたの?」
「10分ぐらい前からエスカレーター近くのベンチで見てたよ。いつ気付くかなーって」
「で、私は全く気が付かなかったんだね。……全く、なんだか私相当間抜けみたい」
凛は苦笑し、そんな彼女を見て美嘉もなんとも苦い笑みを浮かべる。
「ねぇ、近くに良い感じに落ち着ける喫茶店があるんだけど、そこにいかない?」
「えぇと……別にいいけど。なんで?」
「気分転換。そんな小難しい顔してたら小皺が増えるだけだって」
「そうかな?」
首を傾げ、疑問符を浮かべている凛に、彼女は頷く。
「うん」
「……それじゃ、その誘いに乗ろうかな?」
多少納得がいかないながらもそこそこ腑に落ちた様な返事に、美嘉は「それじゃ行こう」と弾みのついた声で言ったのだった。
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今日はここまでです
こんな感じで今回のペースはゆっくり目です
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がんばれ
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美嘉が案内してくれた喫茶店は、友人と気軽に行くことの出来る安価な場所ではなく、会社の重役が商談などに使うような、落ちついた雰囲気が漂う喫茶店であった。
BGMには静かなジャズ音楽が流れており、辺りを見た所で凛のような若い子はあまりいない。
いつも凛がいるような場所には、赤ん坊が泣いていたり、下世話な話題で盛り上がる若者もいるのだが、やはり見当たらなかった。
いると言えば、何やら重要なことを話し合っているだろう中年男性やら、高いスーツを着たような老人たち、後はパソコンを開きながらコーヒーカップを傾けている大学生ぐらいなものだろうか。
「え、えーと、ここは?」
「言ったでしょ。落ち着ける喫茶店だって」
「こんな場所、美嘉って来るんだね」
「まぁ、ね。今はあんまり来ないけどさ、前はよく来てたんだ。仕事とかの話で」
「ふぅん」
複雑そうな表情を浮かべる美嘉に、凛は追及はしなかった。
人には聞かれたくないことの一つや二つあるはずだ。
そんな二人は、店員に案内されて禁煙スペースの奥の方へと陣取り、美嘉は手慣れた手つきで紅茶とシフォンケーキのセットを、凛は少しだけたどたどしい口調でチョコレートケーキとココアを注文した。
その後、凛は美嘉へ何を話そうか考えて黙り、美嘉はそんな彼女へ笑いかけながら、
「そんな緊張しなくたっていいよ。あんまりこういう場所には来ない?」
という言葉を掛ける。
そうして初めて凛は、どうやら自分が慣れない場所で緊張しているのだと気付いた。
手のひらは微かに汗で湿っている。
あんまりこういうことはないのだが、今日の自分は調子が悪いらしい。
正確に言えば、今の自分は、かもしれない。
凛はそのようなことを思いながら、熱々に温められた手拭きで汗を拭い取り、改めて美嘉へと向き合う。
「ちょっと敷居が高するかなって。こういう場所って、私あんま来たことないから」
「まぁ、その気持ちはなんとなくわかるよ? 私も初めてここに来た時はちょっと気まずくなっちゃったからさ。ま、でもゆったりするだけだから誰にも文句は言われないって」
「そう、だね」
凛はその言葉に小さく相槌を打ち、背凭れに体重を預けながら冷水を口に含んだ。
別に暑いというわけでもないのに、口の中が渇いていたのは、恐らくこの格式高い雰囲気に呑まれたせいだ。
「それでさ、凛のところのプロデューサーのプレゼントだっけ? どんな感じ?」
-
まだ緊張は解れないもののある程度落ち着いた凛に、美嘉は頬づえをしてそう尋ねてくる。
凛は一旦頭の中を整理して、問い掛けた。
「……ちょっとさ、教えてほしいことがあるんだ」
「え、なになに? アタシにわかることだったらバンバン質問してくれて構わないから」
その美嘉の言葉は、今の凛にとっては頼もしいことこの上ない。
凛が知っている美嘉は、世間一般の女子高生の憧れの的だ。
凛がまだアイドルに興味がない頃でも、ファッション雑誌などで度々目にしていたほどに知名度も高く、とある雑誌には恋バナのエッセイも書いているという。
であるならば、自分が今悩んでいる答えも得られるかもしれない。
凛は少しだけ前のめりになり、声を潜めながらも問い掛けた。
「男の人が貰ったら喜ぶものってなんなの? 美嘉だったら、男の人と付き合ったことがありそうだし、わかるよね?」
「……」
「……美嘉?」
ただ、凛のスラスラと答えてくれるだろうという予想とは裏腹に、言葉を聞いた彼女は、まるで電源が落ちたロボットのように返事をしない。
明らかに硬直している彼女を不審に思いながらも、「おーい」と目の前で軽く手を振ってみると、やっと「あ、えーとねっ」と言葉を捻り出してきた。
何をこんなに動揺する必要があるのだろうか。
仮にもカリスマJKモデルという名称を欲しいがままにしている彼女であるならば、異性と付き合ったことの一度や二度あるはずだが……もしかして。
「あ、あははは、わ、わかるよ? アタシはカリスマJKだからね。そりゃ、つ、付き合った男の数なんてひ、ひひひ、一桁じゃ収まりきらないに決まってるでしょっ」
「ちょ、ちょっと美嘉。声が大きいって」
「あ、あぁ、ごめん」
やはりこの様子はやっぱり……。
凛はそんなはずはないと思いながらも、美嘉の目をじっと見る。
「……美嘉ってさ、もしかして、男の人と付き合ったことがなかったりする?」
「そ、そんなわけないって。……そ、そんなわけ」
美嘉はそう言いながらも、気まず気に視線を逸らした。
その仕草は如何にも場を誤魔化しているようで、ただただ怪しい。
そのまま無言で疑念が篭った視線を凛は粘り強く美嘉へ送り続ける。
数分間、何とも言えない沈黙が両者の間に居座った後に、力なく項垂れ呻いたのは美嘉の方であった。
「……うん。付き合ったことない」
「やっぱり、そうなんだ」
「ほ、ホラ? あ、アイドルとしてのイメージってさ、そ、その大事に、しなきゃねっ?」
「さっきと言ってることが真逆なんだけど」
美嘉の苦し紛れの一言に凛は苦笑を浮かべる。
まぁ、なんとなく美嘉に男性経験が無いことはなんとなくわかっていたことだったが、こうやって改めて聞いてみると笑うしかない。
「……このことは内緒にしてよね。莉嘉とか、知られたくないし」
美嘉は口を尖らしてそう言う。
「わかってるって」
別に凛もそこまで性悪ではない。
美嘉の妹である莉嘉は、彼女に対して尊敬の念を抱いている節がある。
彼女から語られる姉のエピソードは大体尾ひれがついているのだが、まぁ、なんという姉妹仲がよろしいのだなと微笑ましくなる。
「で、でも、多分力にはなれると思う」
「男と付き合ったことないのに?」
「それはそれで、これはこれってやつなんだからっ。……アイツの趣味だったら、その、なんとなくわかるから」
「え、それってどういう――」
「あ、へ、変な意味じゃないから!! 決して!!」
-
慌ててそのように言い繕う美嘉の様子を見て、凛は思わずどういうことだという疑問が思い浮かんだ。
――もしかして、美嘉とプロデューサーって、そういう仲なのかも?
思えば、美城プロダクションの本社ビルへと赴いた初日に、気軽にプロデューサーへと話しかけていたりと仲睦まじい姿は散見していた。
それに先日、莉嘉が『カフェでP君とお姉ちゃんが話してたんだ』という目撃譚があったりと、本当に色々と怪しい。
凛は思わず美嘉を半目で睨む。
「二人ってそういう……?」
「ちょ、ちょっと違うって言ってるじゃんっ。アイツとは、そういうのじゃないって」
顔を耳まで真っ赤にしながら首をブンブンと横に振る姿に疑いは尽きない。
「へぇー」
「な、なにその視線」
「いや、あれだよね。必死に否定する姿って逆に怪しいかなって」
「――ちょっと、揶揄わないでよっ。口元にやけてるしっ。そんなに言うんだったらアイツの好きな物とか教えないから」
美嘉はそう言って、まるで拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
「ふふっ、ごめんごめん。ちょっと奈緒とかと同じノリで揶揄ちゃった」
彼女が、奈緒の自ら墓穴を掘る様子がそっくりであったので、ついついそんなノリで話してしまったのである。
彼女は年齢的にも業界的にも先輩にあたるのであるが、そのことを気にしないのはさすが凛といったところだろうか。
凛の気軽な謝罪に、その後も暫く口を尖らせていた美嘉だったけれど、ケーキセットが届く頃にはすっかりと機嫌が直っていた。
もしかして、『プロデューサーと付き合っている』という言葉は、そこまで美嘉の機嫌を損ねるような発言ではなかったのかもしれない。
実際、もしもプロデューサーと凛がそのような勘違いをされていても、凛はそこまで悪い気はしない。
……別に、好きってわけじゃないんだけど。
ただ、気休め程度にそのようなことを口にしても混乱を招くだけなので、心の中に浮かんだ言葉はしっかりと胸の内に仕舞い込み、目の前の何だか金箔やらが散りばめてある高そうなケーキに舌鼓を打った。
そして、一服落ち着いたところで本題へと話の路線を戻す。
「それで、結局プロデューサーが好むものってなんなの?」
「そうだね……結構アイツなんでも喜ぶかな。アタシが革靴とか挙げた時は結構喜んでくれたし。それに……うーん、結構細々とした感じのも喜んでたと思うし、お酒とか……後はホラー映画とかも喜んでたかも」
「……なんでも喜ぶんだね」
「まぁ、アイツの性格を考えればわかるでしょ?」
「……うん。確かに、貰ったものだったらなんでも大切にしそう。でも、正直に言えば、だからこそっていうのかな」
「わかるわかる。なんでも喜ぶからこそ、こうなんていうんだろう、一番喜ぶみたいなものをプレゼントしたいよね」
-
凛の言葉に、美嘉はコーヒに入れたミルクを掻き混ぜながら同意を示した。
彼女のコーヒーの中に形成されつつある白い渦巻きを見ながらも、凛は美嘉が自分の考えに賛同してくれるのが嬉しかった。
……もしかして、こんなどこかうじうじしている考えを持っているのは自分だけなのではないだろうか。
そのように凛は微かな心細さを感じていたのだ。
だが、彼女の言葉を聞いた凛は一安心し、少しだけ強張っていた体から不要な力が抜けていくような気がした。
らしくない自分に内心に、自然と嘆息しながらも、口を開く。
「……私ってさ、素直じゃないんだよね」
「ん? いきなりどうしたの?」
「あ、いや。その、いきなりこんなことを美嘉に言ってどうなるんだって話なんだけど……」
「なーに? 言ってみな?」
何処か頼り甲斐のある言葉に、凛は少しだけ間を置いて、ポツリと呟くような小さな声で話出した。
「私ってさ、無愛想だって自覚あるんだ」
「まぁ、わかんないでもない、かな」
「……それでさ、素直に言っちゃえば、あんまり自分の弱みってヤツを人に見せたくないんだよね」
ココアの甘みを口内で味わいながらも、凛はそれに対するように苦い言葉を吐く。
「ピアスとか、ちょっとネックレスとか。あんま興味無かったんだけど、悪ぶってみたりさ」
耳につけている蒼色のピアスやブランド物の高いネックレスをつけているのは、別にオシャレをしたいという気持ちがあったわけではない。
制服を着崩しているのだってそうだし、言葉遣いだってそうだ。
そこにはいつだって、他人に自分の弱さが露見しない願う、一種の恐怖心があった。
凛は言葉を続ける。
「それにさ、面倒臭くなかったんだ」
「面倒臭く……?」
「うん。まぁ、楽だったっていうのかな」
凛が何処までも強がって、悪ぶった所でいつだって返ってくるのは不評だ。
怖いとか不良だとか、格好つけてるのが気にくわないなど、端的に言えば悪口ばかりだったように思える。
友人がいなかったわけではないが、取り分け多い方でもない。
だが、凛はそれでよかった。
人が近くにいなければ本当は格好悪くて弱い人間だって悟られずに済む。
親しい人間がいなければ、色褪せた世界は自分に優しい側面だけを見せてくれる。
「楽だったんだ。上辺だけの友達とか、帰宅部とか、ハナコの散歩とか。なんとなく過ごしていくのが、楽だった」
「……『だった』ってことは、今は違うんだよね」
「まぁ、ね」
彼女には今、美嘉のように優しい人間が数多く、彼女と共にいる。
確かに、昔のように何もかもを惰性で過ごすようなお気楽な生活はできなくなったかもしれない。
――でも
「今は楽しい。それは、はっきり言うことが出来る……と思う」
「ふふっ、なにそれ。そこはちゃんと言わなきゃ駄目じゃん。……で、それとアイツがどう繋がるの?」
「……ここに私を連れてきてくれたの、プロデューサーだから。その、なんていうか」
羞恥で上手く頭が回らない凛に美嘉は苦笑しながらも、言葉を継いだ。
「ありがとうって、言いたいんでしょ?」
「う、うん」
「でも、恥ずくて言えないって感じ?」
「……うん」
-
凛はその言葉に顔を見せまいと俯きながらも、小さく頷いた。
彼女の顔は今、まるで頭が沸騰してしまったかのように耳まで真っ赤になってしまっている。
加え、彼女自身もそれを自覚していた。
理由は言わずもがな、美嘉があまりにも簡単に彼女の心を見抜いたからである。
それと同時に自らが投げ掛けたプロデューサーに素直になることができないなどという質問は、羞恥に悶えるには十分な青々しい質問であったのだ。
その二つが彼女の羞恥心を煽る。
だが、一方で、美嘉にこの問いかけをしたことに安心感を感じている面も、確かにあった。
彼女は凛にとって、そしてニュージェネレーションズにとって保護者のような存在であると断言することが出来る。
ニュージェネレーションズのCDデビューが決定した切っ掛けも彼女のライブでバックダンサーを務めたからであるし、未央が演劇を始めると決意した時も、美嘉は側にいてくれたらしい。
ニュージェネレーションズが決めるべき大事な場面で、美嘉はいつでも側にいてくれた。
つまりは……凛を含めたニュージェネレーションズの軌跡を見てくれていた、信じるに足る人なのである。
「……アタシが言えるのはさ、まぁ、プレゼントを選ぶ基準にもなるんだけど……どれだけ気持ちが篭ってるかってことだと思うんだ」
「どれだけ、気持ちが篭ってるか?」
「うんっ。別に長ったらしい言葉とか、アイツに似合うとかそんなこと些細な問題なんだって。重要なのは、アイツのことをどれだけ思っているかってこと。プレゼントだって同じだと思うんだよね。どんな些細なものでも、アイツは凛の気持ちが篭ってればさ、きっと凄く喜んでくれるよ」
凛はその言葉を聞いて、口を一文字に閉ざす。
そして、美嘉の言葉を頭の中で反芻し、吟味してみる。
――プロデューサーに対して、どれだけの気持ちが篭ってるか。
その瞬間、凛はゆらりと揺れるストラップのことを思い出した。
凛はゆっくりとポケットの中から携帯を取り出し、そして何処か丁寧な手つきでストラップを手に取った。
「ん? あ、それって去年辺りに流行ったヤツじゃん」
「……うん。これってさ、未央と卯月と一緒に初めて遊びに行った時に、未央が取ってくれたんだ。クレーンゲームで、さ。それで、なんか外せなくなってて」
「思い出の品、ってこと?」
「多分、そう。……いや、そうなんだ。三人で始まったあの瞬間の、証なんだと思う」
凛は日々を一生懸命に生きている。
だから、彼女の体感する時間は、きっと思っているよりもかなり早い。
自分が歩もうとする速度よりもきっと早く、自分は一生それに追い付けないのだろうと思う。
けれど、それでいい。
多く積み重なる時間の中で埋没してしまうものも多い。
実際、凛だってこの一年でいつの間にか忘れてしまっていることがある。
それが人間の性というものであるということは、まだ若い凛でも分かる。
だからこそ、数百日という膨大な時間よりも、大切な一瞬を自分の中に刻み込んでおきたいのである。
そして今、凛の携帯にあてもなくブラブラとぶら下がっているストラップは、あの瞬間を証明する記憶の欠片。
金銭的な価値は無いにしろ、手放すことが出来ない自分の思い出の一部。
「私も、この未央に貰ったストラップみたいに、プロデューサーが記憶に残るものを、渡したい」
「いいじゃん。あ、でもさすがに凛のプレゼント選びまでは付き合えないからね?」
「わ、わかってる。……もう結構お世話になったんだから、後は自分でやれる」
「ふふっ、わかったよ」
-
美嘉はそう微笑ましげな視線を凛に向けると、ゆっくりと立ち上がり、
「それじゃ、アタシはもうそろそろ行かなきゃいけないからさ。お金は奢ってあげる」
と言った。
凛は突然な彼女の言葉に驚きつつも、財布を取り出す。
「それは悪いよ。私もお金出すって」
「大丈夫大丈夫。これでもアタシ、カリスマJKモデルだよ? お小遣いなんて腐るほどあるんだから、凛は先輩の顔を立てと思ってさ」
「……わかった」
凛は少々悩んだりしたけれども、素直に引き下がることにした。
とは言え、簡単に奢られるほど凛は便乗するような性格ではない。
「……いつか、美嘉のことを奢ってあげるよ。相談にのってくれた礼も兼ねて、ね」
「じゃあさ、今度凛のオススメの店に行こっか。それでチャラってことで」
美嘉は財布から請求書ピッタリの金額をテーブルの上に置くと、そのまま手をヒラヒラとさせて喫茶店を出て行く。
凛は彼女の気心に感謝しつつ、喫茶店から出て行こうとする美嘉の背中に静かにこう語り掛けた。
「ありがとう、美嘉」
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一旦区切りです
次回の投下で終わると思います
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乙倉くん
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紅茶頼んだのにコーヒーが来てるゾ
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>>38 から訂正
凛の言葉に、美嘉は紅茶に入れたミルクを掻き混ぜながら楽しげにそのように呟き、ホッとしている安堵の息を吐く。
……もしかして、こんな、どこかうじうじしているような考えを持っているのは自分だけなのではないだろうかと考え、心細い思いをしていたのだ。
同じ考えを持っている人間がいるのがわかり、強張っていた体から不要な力が抜けていくような気がした。
らしくない自分に、自然と嘆息しながらも、口を開く。
「……私ってさ、素直じゃないんだよね」
「ん? いきなりどうしたの?」
「あ、いや。その、いきなりこんなことを美嘉に言ってどうなるのって話なんだけど……」
「なーに? 言ってみな?」
何処か頼り甲斐のある言葉に、凛は少しだけ間を置いて、ポツリと呟くような小さな声で話出した。
「私ってさ、無愛想でしょ」
「まぁ、うん。否定は……できないかな」
「それでさ、なんて言えばいいのかな……」
思わず凛は言葉に詰まってしまう。
自分の胸の内で、ぐちゃぐちゃに散乱している感情は、取り留めもない。
それらを掻き集めて言葉に表すことは到底無理なように思えて仕方がない。
ただ、それは自分から見たらの話であったようだ。
「ありがとうって、言いたいんでしょ?」
美嘉はそんな思い悩む凛の心情を的確に捉えた言葉を口にする。
そのことに対して、呆気にとられながらも、凛は頷いた。
「う、うん」
「でも、恥ずくて言えないって感じ?」
「……うん」
再度、小さく頷く。
やはり、彼女にはわかるのだろう。
美嘉は凛にとって、そしてニュージェネレーションズにとって保護者のような存在であると凛は思っている。
ニュージェネレーションズのCDデビューが決定した切っ掛けも彼女のライブでバックダンサーを務めたからであるし、未央が演劇を始めると決意した時も、美嘉は側にいてくれたらしい。
ニュージェネレーションズが決めるべき大事な場面で、美嘉はいつでも側にいてくれた。
つまりは……凛を含めたニュージェネレーションズの軌跡を見てくれていた、信じるに足る人なのである。
「……アタシが言えるのはさ、まぁ、プレゼントを選ぶ基準にもなるんだけど……どれだけ気持ちが篭ってるかってことだと思うんだ」
「どれだけ、気持ちが篭ってるか?」
「うんっ。別に長ったらしい言葉とか、アイツに似合うとかそんなこと些細な問題なんだって。重要なのは、アイツのことをどれだけ思っているかってこと。プレゼントだって同じだと思うんだよね。どんな些細なものでも、アイツは凛の気持ちが篭ってればさ、きっと凄く喜んでくれるよ」
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凛はその言葉を聞いて、口を閉ざす。
そして、美嘉の言葉を頭の中で反芻し、吟味してみる。
――プロデューサーに対して、どれだけの気持ちが篭ってるか。
その瞬間、凛はゆらりと揺れるストラップのことを思い出した。
凛はゆっくりとポケットの中から携帯を取り出し、そして何処か丁寧な手つきでストラップを手に取った。
「ん? あ、それって去年辺りに流行ったヤツじゃん」
「……うん。これってさ、未央と卯月と一緒に初めて遊びに行った時に、未央が取ってくれたんだ。クレーンゲームで、さ。それで、なんか外せなくなってて」
「思い出の品、ってこと?」
「多分、そう。……いや、そうなんだ。三人で始まったあの瞬間の、証なんだと思う」
凛は日々を一生懸命に生きている。
だから、彼女の体感する時間は、きっと思っているよりもかなり早い。
自分が歩もうとする速度よりもきっと早く、自分は一生それに追い付けないのだろうと思う。
けれど、それでいい。
多く積み重なる時間の中で埋没してしまうものも多い。
実際、凛だってこの一年でいつの間にか忘れてしまっていることがある。
それが避け得ぬ人間の性である。
だからこそ、数日、数十日、数ヶ月、はたまた数年数十年の年月を経て尚自分の中に色鮮やかに蘇るような瞬間が欲しいのだ。
そして今、凛の携帯にあてもなくブラブラとぶら下がっているストラップは、あの瞬間を証明する記憶の欠片だ。
金銭的な価値は無いにしろ、手放すことが出来ない自分の思い出の一部。
「私も、この未央に貰ったストラップみたいに、プロデューサーが記憶に残るものを、渡したい」
「いいじゃん。あ、でもさすがに凛のプレゼント選びまでは付き合えないからね?」
「わ、わかってる。……もう結構お世話になったんだから、後は自分でやれる」
「ふふっ、わかったよ」
美嘉はそう微笑ましげな視線を凛に向けると、ゆっくりと立ち上がり、
「それじゃ、アタシはもうそろそろ行かなきゃいけないからさ。お金は奢ってあげる」
と言った。
凛は突飛な彼女の言葉に驚きつつも、財布を取り出す。
「それは悪いよ。私もお金出すって」
「大丈夫大丈夫。これでもアタシ、カリスマJKモデルだよ? お小遣いなんて腐るほどあるんだから、凛は先輩の顔を立てと思ってさ」
「……わかった」
凛は少々悩んだりしたけれども、素直に引き下がることにした。
とは言え、簡単に奢られるほど凛は人に頼るような性格ではない。
それが相談にわざわざのってくれた人だというなら、尚更だ。
「……いつか、美嘉のことを奢ってあげるよ。相談にのってくれた礼も兼ねて、ね」
「じゃあさ、今度凛のオススメの店に行こっか。それでチャラってことで」
美嘉は財布から請求書ピッタリの金額をテーブルの上に置くと、そのまま手をヒラヒラとさせて喫茶店を出て行く。
凛はただただ、美嘉の気遣いをありがたいと思った。
だからこそ、喫茶店から出て行く美嘉の背中に小さく、言葉をかける。
「……ありがとう」
――
-
凛はその夜、ただただ呆然と自室の天井を見つめていた。
そこに何があるわけでもない。
汚れもない無機的な白い天井が、暗い闇と共に静かに有るだけだ。
ただ、考えているのだ。
――言葉って、なんでこんなに不便なんだろう。
言葉というものは、音、又は文字に書き現わさないと考えていることを伝えることができない。
凛はそのことに対して、歯がゆい思いを抱く。
この胸に蟠っている感謝の気持ち……感謝に限らず、様々な感情を言葉にできたらなと散々考えたことがある。
卯月や未央のようにストレートに言葉に変え、伝えられたらと。
正直、二人の素直さは羨ましい。
自分があの二人だったらな、と思う場面だって度々ある。
……でも、と凛は思う。
明日はきっと……いや、絶対に言ってやるんだ。
ありがとうって。
きっと、私だったら出来るはずだ。
昔の臆病な私じゃない。
今の私だったら、きっと――。
――
-
薄暗い空間には、無機質な白い蛍光灯が低く唸るような音を立てて点いている。
多くダンボールが廊下の突き当たり無造作に積み上げられ、光が灯っているというのに隅の闇が目立っている。
ここは美城プロダクション地下一階にある廊下だ。
そんな何処か影のある空間に三人の少女……凛、卯月、未央が扉の前で緊張した面持ちで立っていた。
今日は待ちに待った例の企画を実行する当日だ。
先ほどまでは、意気揚々とした様子で朗らかに談笑していた三人だったけれども、さすがにいざ渡すとなると身が強張り口数が少なくなってしまう。
そんな中、重苦しい沈黙を破ったのは未央だった。
「それにしても、まさかトップバッターになっちゃうなんてね」
「そ、そうですね。緊張してしまいます」
卯月もそれに同意を示し、凛も言葉に出すことはなかったが小さく頷く。
本来であれば、プロデューサーへプレゼントを渡す企画は、シンデレラプロジェクトの皆んなで一斉に……というのを予定していたのだ。
ただ、あまりにもプロジェクトメンバー全員の予定が合わない。
別に全員で集まる機会が無いわけではないのだが、それを待っていると春が過ぎてしまうのである。
別に凛としてはそれでよかったのだが、折角の1周年を記念するイベントなんだから期日を伸ばすのは良くないという意見が多数出たのだ。
だから長々とした話し合いの結果、デビューした順でユニット毎に渡す、ということになった。
そのような経緯から、ニュージェネレーションズはシンデレラプロジェクトから一番最初にデビューしたユニットであるため、トップバッターとなったのだ。
普段であればこのようなイベントに積極的な未央と卯月も、それを意識しているのか緊張気味の様子。
凛も負けず劣らず身を強張らせているけれども、だからこそと己を奮い立たせる。
「卯月、未央、行こう。ここでうじうじしてても、何も始まらないよ。プロデューサーもさ、わざわざ時間を作って待っているんだ」
その言葉にハッとしたのか、二人は交互に目を見て、頷いた。
「そうだよね。……うしっ、じゃあ行こうぜ、しまむーしぶりんっ」
未央はまだ何処か表情に固いものがあるが、それでも気持ちの良い笑顔を浮かべて二人の肩を抱き寄せる。
彼女のいきなりの行動で驚く二人であったが、未央の快活な笑みを見て伝播するように笑う。
そう、どうせプレゼントを渡すのであれば、緊張して石みたいに固くなった表情よりも、笑顔で渡す方が自分たちに取っても、そして彼にとっても素晴らしき時間となるのではないか。
凛はそう考えた。
「じゃ、未央から先によろしく」
「そうですね。リーダーですからっ。頑張ってください!!」
「え、えぇっ。……わかった。殿はこの本田未央が全うしよう!!」
未央はそう言って、ドアノブに手を掛け、そして一息に開けた。
「プロデューサーはいるかい!?」
-
半ば意図が読めない言葉を発したのは、未央がテンパっていたせいだろう。
そんな彼女に凛は苦笑しながらも、脇から部屋の様子を確認する。
すると、部屋の中央に置かれている四人掛けのソファーの端に、何とも几帳面な性格が垣間見えそうなほどに背筋をピンと伸ばしたプロデューサーが座っていた。
ただ、未央が突然大声を上げたのにびっくりしたのだろう。
目を見開いてこちらをキョトンと見つめている。
その大柄な体格と凶暴な顔の造形からは想像が出来ない小動物のような反応に、凛たちは思わず微笑んでしまう。
「おはようございます、皆さん。……それで、今日はどういった用件なのでしょうか。ここにいてくれ、と言われただけなので」
プロデューサーはそう言って、左手を首にあてがった。
それは、彼が困った時に行ってしまう仕草だ。
そう、彼の言葉と反応からわかるように、プロデューサーはこれから起こることを……凛たち三人がプレゼントを渡すことを知らない。
つまるところ、これはサプライズ企画なのだ。
ちなみにこれは未央が言い出したことで、彼女の言い分としては『やっぱ身構えない方がさ、感動とか伝わりやすくなるんじゃないかな』らしい。
まぁ、ユニット毎にプレゼントを渡すわけなので、最初の一回しかサプライズにならないわけだが、だからこそ気合が入るというもの。
「え、えぇと、まずは座ろっか?」
未央が凛と卯月にそう言って、三人はプロデューサーの向かい側のソファーに座る。
彼女たちが只ならない雰囲気を醸し出しているため、彼まで億劫な表情をその顔に表していた。
「ま、まず、プロデューサーに言いたいことがっ、ありますっ」
辿々しい、加えて何故か丁寧な口調に、凛と卯月は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
口を手で抑えて顔を俯けている二人にジト目を向け何か言おうとした彼女だったが、再びプロデューサーへ顔を向け、咳払いをし、言葉を続ける。
「プロデューサーはさ、1周年ってものをどういう風に思ってるの?」
「1周年を……でしょうか?」
「うん」
未央の唐突な質問に、彼は再び首に手を当てる仕草をする。
そして、そのまま数瞬が過ぎた頃合いに、考えがまとまったようだった。
-
「私は……記念すべき日であると同時に、再びスタートラインの上に立つ瞬間なのだと、思います」
「スタートライン、ですか?」
卯月の疑問に、プロデューサーはしっかりと頷いた。
「はい、スタートラインです。……私たちは多くの苦難を超えてここまで来ました。しかし、それはゴールではなく、ここからなのだと思います」
「ここから……」
「えぇ、ここからです。あなたたちの人気が軌道に乗り始めたからこそ、心機一転頑努力をしなければいけないのだと思います。あなたたちも、そして私も」
「うぅ、なんかプロデューサーは手厳しいね」
「とは言え、この一年は本当に忙しない時間を過ごしてきました。……ただ、その時間は全て有意義なもので、充実していましたと私は考えています」
普段の強面から考えられない程の優しげな笑みを浮かべ、そのように述べるプロデューサーに、凛は思わず見入ってしまう。
そんな彼女の横では、未央が立ち上がって、
「さて、じゃあネタバラシをしよっかな!!プロデューサーをこの部屋にいてって命じたのは他でもありません。今日はプロデューサーに感謝の気持ちを示したいということで、プレゼントを用意しました!!」
と宣言するように言うと、後ろ手に隠していたプレゼントを自分の前に掲げた。
卯月と凛も彼女に倣って隠していたプレゼントを自分の前に持ってきた。
「え、えぇと、これは一体?」
まだ状況把握が出来ていないのか、少しだけ困ったように眉を八の字にしながら、プロデューサーは問い掛けてくる。
卯月はそんな彼へ、今回の企画の趣旨を説明し始めた。
「プロデューサーさん。もうそろそろ、シンデレラプロジェクト1周年じゃないであることはご存知ですよね?」
「そうですね。もうそろそろ、ですね」
「それで、ですね。プロジェクトの皆んなで、プロデューサーに日頃の感謝の気持ちを込めて、プレゼントを贈ろうってなったんです。本来だったら、みんなで一斉に渡そうとしたんですけど……時間とかが合わなくって。それで、ユニットのデビュー順に渡すことになったんです」
「島村さんと渋谷さん、それに本田さんが?」
三人の何処か呆然とした声に頷く。
すると、プロデューサーは彼女たちの手元にあるプレゼントと彼女たちの顔を交互に見て、照れ臭そうに頬を掻いた。
「……その、なんとお礼をすればいいのか」
「ちょ、ちょっと、お礼なんて別にいいって。プロデューサーと私たちの仲じゃん」
「そうですよプロデューサーさん」
「うん、二人の言う通りだと思う」
-
そう言うと、彼は口を開きかけて閉じ、首に手を当てた。
恐らく、プロデューサーは何か良い言葉を模索しているようだったが、口下手なのが災いしたのだろう上手く言葉が出ない様子だった。
こんな風に不器用なところは変わってないと凛は思いながら、未央へ、
「ほら、未央。プレゼント渡そうよ」
と催促すると、彼女はその言葉に応えるように頷いた。
「そ、そうだね。よしっ、じゃあ最初はニュージェネのリーダーである私から!!」
未央は緊張を誤魔化すように勢い良くそう言って、机越しにオレンジ色の包装紙に包まれたプレゼントを彼へ差し出す。
プロデューサーはそれを高値が付く宝石を扱うかのような丁寧過ぎる手つきで受け取った。
「あの、これは中身を見てもよろしいのでしょうか?」
「うん、気に入ってくれるかどうかわからないけど……」
「大丈夫です。本田さんが選んでくれたプレゼントですから、気に入らないわけがありません」
「そ、そうかな?」
「はい」
プロデューサーは、未央とそのようなやりとりをしながらも、包装紙を破かないように開いていく。
すると、中から出てきたのは小さな白い箱だった。
続いてその箱の蓋を開けると、中には小さく折り畳またオレンジ色のハンカチがあった。
よく見てみると、刺繍が入っているようだ。
「これは……」
プロデューサーはそのまま小箱からハンカチを取り出し、手前で広げてみると、刺繍の全貌が明らかになった。
オレンジ色を基調としたハンカチには、オレンジ以外にも赤や黄色といったとても明るい色調の向日葵が縫われていたのだ。
「どう、かな?」
プロデューサーは未央の問い掛けに何処か嬉しそうに答えた。
「とても良いハンカチですね」
「そ、そう?」
「はい。それに、この明るく可愛らしい向日葵は、その、いつも皆さんを率先して牽引して下さる本田さんを彷彿とします。……いつも、ありがようございます、本田さん」
「ちょ、ちょっと……ど、どういたしまして? かな? え、えへへ、何だか真正面からそんなことを言われると、照れちゃうなぁ」
ハンカチに対する賞賛に加えて、彼女自身褒めちぎるプロデューサーの言葉に、未央は照れて頬を赤くしてしまっている。
相当嬉しいのか、顔にはだらしない笑みが浮かび上がっていた。
凛と卯月は思わず微笑ましげな視線を向ける。
「よかったね、未央。プロデューサーに喜んで貰えて、嬉しそうだった」
「そうですよ。ふふっ、照れてる未央ちゃんは可愛いですね」
「もうっ、二人して揶揄わないでよ!!ふふっ、でもでも、プロデューサーにプレゼントを渡してみれば、私が照れに照れた理由もわかるってものさっ!! ささ、しまむー、次は君に決めた!!」
「え、わ、私ですか!? ……よし、島村卯月、頑張ります!!」
-
未央の指名で、卯月はいつもの言葉を自分に掛け、気合を入れる。
そんな彼女の様子を見て、ふと未央がここに来る道中で言っていたことを凛は思い出した。
『もうしまむーったら、気合の入りようが凄いんだよ? いつも一緒に二時間ぐらい電話したりするんだけどね、今週のしまむーは「プロデューサーさんに送るプレゼントはどうしましょう!?」ってな感じで四時間も話し続けたんだよっ?』
凛も時たま卯月の長電話に付き合うことはあるのだが、それでも彼女が自重して長くても一時間だ。
なのに、どうやら卯月はそんな気遣いも忘れて、熱心にプレゼントのことについて未央と話していたらしい。
いや、未央の言動から察するに、一人でずっと話していたようなので、気合いの入れ具合がわかるというものだ。
「え、えーと、私のプレゼントはこれですっ!!」
未央と同じように、卯月はプロデューサーへとプレゼントを差し出す。
プレゼントの大きさは、未央より一回り二回りも大きい。
プロデューサーは「ありがとうございます」と言ってそれを受け取り、再び「開けてもよろしいでしょうか」と尋ねる。
卯月は、尻尾があればブンブンと振っていそうな雰囲気で、
「はいっ!!」
と了承する。
プロデューサーへ向けられた瞳や返事の勢いでプレゼントに対して絶対的な自信があると見て取れた。
その自信を少しでも分けて欲しい、と凛は思ってしまうけれども、いけないけないと自分を戒める。
「これは……?」
プロデューサーは不可思議そうに首を傾げながらも、包装紙に包まれていた、流動的なデザインの機械がプリントされた箱を凝視する。
箱の上部にはゴシック体で何かを書かれており、プロデューサーは目を細めながらも声に出して読んだ。
「これは……『アロマディフューザー』ですか?」
「はいっ。プロデューサーさんはいつも頑張ってくれていますから、アロマの香りでリラックスしてくれたらなって思って」
どうやら卯月は日頃のプロデューサーのことを思って、少しでも彼の疲労が軽減されるようにとアロマディフューザーを選んだらしい。
なるほど、確かにこれは自信を持ってプレゼントすることが出来る。
とは言え、自信があるのと不安なのはまた別なのだろう。
卯月は何処か不安さを孕ませた声音で彼に尋ねた。
「あの……どうですか?」
プロデューサーはそんな彼女を安心させるためか、軽い微笑をその顔に浮かばせた。
「……アロマ、ですか。このようなものを使ったことはないのですが……有効に活用させて頂きます」
「あ、えっと、その、プロデューサーさん。後でそれの使い方を教えてあげます!!」
「それは、とてもありがたいです。お願いします」
「はいっ」
プロデューサーの快い返答に、とても満足げな表情で頷く卯月は、そのまはしゃぐ子供のように勢い良くソファーに腰を下ろす。
そして、凛の肩を軽く叩き、
「次は凛ちゃんの番ですよ。頑張ってくださいね」
と促す。
そうだ、もう自分の番なのか。
心臓が急激に跳ね上がったような気がした。
まるで異常に備えて必要以上に血液を体に循環しているみたいで、少々気分が悪い。
そんな凛を見てか、未央も卯月と同じように、もう一方の肩を卯月と同じように叩きながら言う。
「そうだよ、しぶりん。普段言えないことの一つや二つ、思い切って言っちゃいな」
そう二人に鼓舞されながら、凛はプロデューサーと改めて向き合う。
緊張に緊張して、胃がきゅうと締まり、背中に冷たいものを入れているような感覚に、集中が掻き乱される。
「え、えっと、プロデューサー。これ……」
-
手が震えないように意識しながら、突き出すようにしてプロデューサーへプレゼントを渡す。
恥ずかしくて顔を見ることすらできない。
今の自分はきっと、とても無愛想で生意気な子供のように見えているかもしれない。
違う。
違うんだ。
……別に、こんな風に渡したいわけじゃない。
ちゃんと、言おうって決めたのに。
ありがとうって、言おうと決めたのに。
心ではそう思っていても、それを行動に移せない自分に嫌気がさしそうになった、その時だった。
「ふふっ、んじゃしまむーと私は、ちょっとお花を摘みに行ってきまーす」
「え、えぇ?」
いきなりの未央の発言に凛は戸惑いを隠すことができない。
ただ、卯月と未央はまるで事前から話していたかのようにスムーズな足取りで出口へと向かう。
「ちょ、ちょっと二人とも!?」
咄嗟に凛が出て行こうとする二人へ声を掛けると、彼女たちは振り返って一言。
「頑張ってね!!」
「頑張ってください!!」
そう言い放って、呆然とする凛とプロデューサーを置いて、部屋の外へと出て行ってしまった。
だが、さすがに混乱している凛でも、言葉通り彼女たちがお手洗いに行ったわけではないと理解していた。
「あ、あの、渋谷さん。お二人は一体……」
プロデューサーは困惑しながらも、凛へそう尋ねる。
先の二人の唐突な行動から考えれば、彼の反応もなんらおかしいことはない。
ただ、凛は彼の問い掛けに応じず、プロデューサーと改めて向き合った。
先ほどは羞恥心を強く意識してしまったため、見れなかった彼の顔を無言で見つめる。
顔が熱い。
足元が少しだけふらついているみたいだ。
風邪をひいているみたいな茹だる顔を自覚して、急速に膨大した勇気は収縮しそうになる。
――彼女は己を𠮟咤した。
このままでいいの?
凛は心の中でかぶりを振った。
私は……このままじゃ、嫌だ。
ただただ、自分の意思が揺らがなように、脚に精一杯の力を入れ、拳に目一杯力を入れる。
まだ、確固たる決心はつかない。
弱い自分がいるのを胸の内で強く意識してしまう。
だが、今だけは大丈夫だと思った。
口を開く。
「プロデューサー……今まで、ありがとう」
言えた。
そう思った瞬間に、伝えたい言葉が堰を切ったように溢れ出す。
「私は、プロデューサーに出会って、本当に良かったって思ってる。……アンタが、あの時私を一生懸命にスカウトしなきゃ、ここでこんな風にしてる自分なんてなかった。プロデューサーが私のことを、一生懸命にスカウトとしてくれなかったら、夢中になれることも何一つ無くて、それで呆然と毎日を過ごしてるって、そんな風に思う」
だから、と凛は続ける。
-
「だから、プロデューサー。……私はここに連れてきてくれて、ありがとう」
ゆっくりと丁寧に、プロデューサーへ向けて改めて口にする。
プロデューサーは数秒間の間、ただただ言葉を失くした様子で凛のことを見ていた。
ただ、驚愕や思い掛け無いと言った視線を彼から感じ取ることはない。
凛のことを見つめる瞳に込められている想い。
それは優しさだった。
その優しさは、勇気を出して少しだけ疲れてしまった凛を包み込むのみ。
「どういたしまして」
彼はようやく、口を開き、そう返答する。
「ただ、それは私だけの力ではありません。少なくとも、扉の向こう側にいる二人にも言うべき言葉だと、私は思います」
その言葉を聞いた瞬間に、言葉の意図に気がつき凛は凄まじい速度で振り返る。
すると、部屋の扉が微かに開いており、その間隙からにやにやとした笑みを浮かべた二人の顔が見えた。
先ほどまでの何処か温かな感情は何処へやら。
「……卯月、未央。何してるの」
別に怒ってはない。
うん、怒ってない。
眉がひくつくのがわかるけど、別にこれっぽっちも怒ってなんかいない。
……怒ってはいないが、問い質さなきゃね。
「あ、あはは、こ、これは……ね?」
「え、えへへ。……み、未央ちゃん。何か凛ちゃんに言ってあげて下さいっ」
「え、ちょっ、しまむー丸投げ!?」
「だーかーらー、二人は何をしてたのっ」
「……逃げよっか」
「……そうですね」
顔を見合わせそう言った二人は、そのままそそくさと退散してしまう。
「卯月、未央!!」
凛も咄嗟に彼女たちを追い掛けようとするが、「渋谷さん」と不意にプロデューサーに呼び止められた。
「最後に、一つだけ質問よろしいでしょうか?」
「な、何?」
凛はドアノブに手を掛けたまま振り返り、問い返した。
そんな彼女にプロデューサーは笑みを零す。
そして、いつかの春の日、陽光が煌めき、桜の花々が舞い散る中の記憶を彷彿とさせる言葉を、彼は言った。
――今、あなたは楽しいですか?
蘇る記憶。
最初は、彼と出会った春だった。
――少女は何も答えられなかった。
そして次は去年のサマーフェスのライブ後だ。
高揚感と気持ちの良い疲弊感にただただ酔い痴れながらも、楽しいとはっきり言うことが出来なかった。
けど……今は――
そんなの、決まってる。
「私は……私は今、楽しい。凄く、楽しいから」
凛は朗らかな笑みをその顔に浮かべながらもそう言うと、「それじゃ、二人を追い掛けるから」と言って部屋から急いで出てしまう。
だが、それは咄嗟に出た方便だった。
本当の理由は、彼女の顔に浮かび上がるだらしない笑みが雄弁に語ってくれる。
――そうだ。
卯月と未央を叱った後に、プロデューサーが言ったように二人にもお礼を言おうかな。
私の背中を押してくれたお礼を。
凛は口元に浮かぶ笑みを腕で隠しながらも、それでもとても清々しい気分で走っていく。
今日は皆んなでゲームセンターで遊ぶのもいいかもしれない。
-
長らく投下できなくてすみません
あまりにも筆が進まなかったんです……
次の投下で、最後です
-
アイツの場所に行こうとしたら、向こうから駆けてくる顔見知りが二人やってきた。
卯月と未央がはしゃぎ笑いながら走ってきたんだ。
「ちょっと、アンタたち。会社の中でそうやって走ってると怒られるよ」
アタシがそう注意するんだけど、「ごめんっ、みかねぇ!! 今は見逃して!!」って未央が言って、卯月も会釈しながら「すみませぇん!!」ってアタシの横を通り過ぎて行った。
「……なんなの?」
思わずそう呆れてそう呟くと、また二人が来た方向から走ってくる足音が聞こえてきた。
またかって思いながら振り向いてみると、なんか顔の下半分を隠した凛が走ってきた。
「ちょ、ちょっと凛?」
なんか事情はよくわからないけど、凛が卯月と未央のことを追ってるのは明白だから、ついつい事情を尋ねようとしてみるけど、凛も凛で「ごめんっ」って言って物凄い綺麗なフォームで走って行っちゃった。
もちろん、さっきの二人の方。
「……本当に、なんなの?」
ちょっと興味本位でアタシも三人の後を追ってみようかなんて思ったけど、止めた。
興味無くは無いんだけど、アタシはアタシでやることがあるし。
取り敢えず、あの子達が怒られないように軽く願って、アタシは地下に続く階段を下る。
薄暗くてじめじめしてるこの空間。
あんまり好きじゃない。
なんだか頑張ってセットした髪型とか化粧とかが崩れそうな一種の不安があるから。
ま、何回も行ったり来たりしてるから別にもう大丈夫なんだけど。
アタシはそのまま進んで、そしてシンデレラプロジェクト……あの子達の部屋の前に立って、数回ノックする。
カンカンって甲高い音が鳴って少しすると、扉が開くとアイツが姿を現した。
アタシよりも10cm以上デッカくて、暗い場所で見たらビビっちゃいそうになる強面の男。
いつもは本当に仮面なんじゃないかって思うほど無表情なんだけど、今日は違くて、アタシは驚いちゃった。
今のコイツは、頬が微かに緩んでいて、それでいて目元が赤く腫れていた。
その表情を見て、アタシはすぐに嬉し泣きをしていたんだって把握できちゃった。
「どうしたの? 目元赤くしちゃって」
わざと、アタシがそうやって目の下を指で指しながら笑うと、アイツは恥ずかしそうにハンカチで目元を隠しながら「すみません」って言う。
そんなコイツの手元には、なんか青色の袋とリボンのプレゼントみたいなやつが大切そうに手のひらに包まれている。
そして、アタシはさっき走って行った三人を思い出し、思わず吹き出してしまう。
「それってさ、ふふっ、あの三人のプレゼント?」
「それを……なぜ?」
「なんでって、莉嘉に聞いたからに決まってんじゃん」
「……あぁ。ならば、隠し事は出来ませんね。彼女たちが私にくれた、プレゼントです」
「よかったじゃん。もしかして、それで嬉し泣きをしてたの?」
「……はい」
随分と素直に頷くと思った。
「中に入っていい?」
「大丈夫です」
-
そう言うと、まるでコイツは執事みたいに馬鹿丁寧に扉を開けてくれた。
「ありがとう」なんて言いながら入ると、部屋の中央に置かれているテーブルの上には、アロマディフューザーの箱とか、ハンカチとかがある。
「あれは誰の?」
「アロマディフューザーは島村さんので、綺麗なオレンジ色のハンカチは本田さんのものです。……わざわざ私のためにこのようなものを貰い、本当に嬉しく思っています」
アイツはそう言うと、またホロリと涙が漏れ出たのか、白いハンカチを目元に当てがう。
滅多に見ないそんなアイツの姿に、さっき口に出した言葉はきっと建前とかそんなものじゃなくて、本心から来てるんだってわかっちゃう。
いや、そもそも昔からアイツって、嘘とか言わなかったような気がするけど。
私とアイツは流れでそのままソファーに座った。
もちろん、別々のソファーに。
「それで、アンタが手に持ってるのって、凛の?」
「はい」
「まだ開けてないの」
「えぇと……すみません。先ほどから、その」
「泣いてたから?」
「……」
恥ずかしがるんだったら嘘とか吐けばいいのに。
顔を恥ずかしそうに逸らすアイツを見て、思わずアタシは笑ってしまった。
「じゃあさ、開けてみようよ」
「し、しかし、渋谷さんが……」
って、アイツが言ってきたけど、アイツって結構口下手だから簡単に説き伏せられることが出来た。
渋々って感じだったけど。
正直、凛のプレゼントに興味があった。
凛がアタシに勇気を相談してくれた時、自分のプロデューサーに対してどれほど感謝してるかってのを聞いたから。
……だから、その気持ちが篭ったものを見てみたかった。
凛には悪いって思うけどね。
「そ、それでは開けます」
緊張感ある声で、アイツは改めてそう言ってギフト用の袋を締めているリボンを外す。
そして、本当にぎこちない手つきで中から取り出したものは……。
「ストラップ、でしょうか?」
青色の袋から出てきたのは、これまた青色掛かった紫色の花のアクセサリーだった。
革製で結構精巧に作られてる感じのやつ。
包装されているビニールには、ベルフラワーって記載されているけど、花言葉とかあんまりよくわかんないから、どういう意図でこの『ベルフラワー』のストラップをコイツに渡したのかいまいちわかんない。
ただ、アタシはこの時、ふと凛が喫茶店で見せてくれたストラップを思い出した。
未央がくれたって言うストラップ。
色褪せて、描かれてたキャラも掠れて知ってる人にしかわかんなくなったそれ。
「ねぇ、それ携帯につけてみたら」
-
ちょっと凛の考えがわかって緩んでしまいそうになる口元に力を入れながら、アタシはそう提案する。
アイツは小さく頷いて薄いビニールからそれを取り出して、携帯に付けようとするんだけど……。
でも、きっと今までそんなのに縁がなかったんだろうな。
無駄に大きな指じゃ難しかったみたい。
それがもどかしくてアタシは思わずアイツの代わりにやってあげたほど、めっちゃ不器用。
まぁ、感謝されたのはそう気分が悪くないかな。
そんなこんなで、今はアイツの携帯には凛から貰った綺麗な花のストラップがぶら下がっている。
それをマジマジと見つめるアイツ。
なんか瞳はおもちゃを貰った子どもみたい……っていうのもアレだけど、そんな感じで煌めいてる。
「……気に入った?」
「少し、新鮮です」
「……くれぐれも雑に扱うんじゃないよ。あの子達のプレゼントなんだから一生使う意気込みでいかないと」
「承知しています。……大切にします」
花のストラップを大事そうに眺めているアイツを見て、アタシは笑ってしまう。
全く、外見はこんなに不審者みたいなもんなのに、なんで根はこんなに優しいんだろう。
「ねぇ、わざわざ聞かなくてもいいことなんだけどさ、今日という日は、思い出に残りそう?」
「……えぇ」
感慨深そうにアイツは頷き、言葉を続ける。
「私は、彼女たちと共に多くの時間を共にしてきました。そして、多くの苦楽を共にしてきたつもりです。……ただ、今日の出来事は、きっと忘れない……そう思えます」
「――そう」
――アンタのプレゼントに籠められた想いは、届いてるよ。
アタシはここにはいない凛へ声をかける。
そうだ、今度凛のお勧めの店を奢ってもらうんだったっけ。
その時に、凛に話してあげよう。
多分、コイツは本人に直接話さないかもしれないし。
「きっと、あの子達もアンタみたいに思い出に残ってると思うよ」
「そうだったら、嬉しいですね」
アイツはアタシの言葉に笑う。
その拍子に、花のストラップがゆらりと嬉しそうに揺れた、ような気がした。
-
【ベルフラワー】
科・属名: キキョウ科ホタルブクロ属
学名: Campanula portenschlagiana
和名: 乙女桔梗(オトメギキョウ)
別名: ベルフラワー
英名: Dalmatian bellflower, Adria bellflower
原産地: クロアチア
花言葉:『感謝』『誠実』『楽しいおしゃべり』
-
終わりです。
武内Pの前で凛ちゃんに「楽しいから」と言わせたいがために書きました
-
乙乙
Nanじぇいにおけるしぶりんののイメージを壊すいい作品
-
いいゾ〜これ
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