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o川* ー )o幼年期が終わるようです
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投下します
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我々とは
複雑に編み込まれた関係の織物が
その時々に表す形象にすぎない
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《 序 》
手元にきたカードは「3」が二枚に「10」が二枚、残りはスペードの「7」が一枚のツーペア。
始めから役を成している、悪くない手配だといえる。
けれどいまは、その幸運こそがうらめしい。
ちらりと前方を覗く。
彼女の幼くも整った目鼻立ち、私とよく似たその顔が、必死の無表情で手中のカードを凝視している。
片手でカードの背を覆い隠そうとしながら、小さなその手からは薄い紙の端々がはみだしている。
胸がちくりと痛む。
程なくして、彼女は三枚のカードを場に伏せ、山から同じ数だけのカードを引いた。
五枚のカードが再び彼女の手中に揃う。それを見て、私は少しだけ安堵した。
そして手札の五枚から「7」を抜き取り、場に置こうと手を伸ばした。
その時だった。
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「姉さま」
彼女の視線が、まっすぐに私を貫いていた。
怒っているような、いまにも泣き出しそうな、
必死に取り繕っていた無表情<ポーカーフェイス>から漏れ出した生の感情のそのすべてが、
私の不正を咎めていた。
「お願い」
この子は全部、わかっている。
私には、もう、隠し通すことはできなかった。
私は場に置こうとしていた「7」に加え、ペアを成していた二枚の「3」も一緒に棄てた。
そして、山から引いた三枚のカードを手中に収め、場に伏せた。
彼女の視線は変わらず私を見据え、私は、そんな彼女をと視線を合わせることができなかった。
紙のこすれる、軽い音。彼女の開いた手が、視界の端に入った。「キング」のスリーカード。
強い手だ。交換を一度きりに定めているポーカーにおいて、そうそう負ける役ではない。
しかし。
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私がいつまでも手を開けないでいると、彼女の腕が私の足下にまで伸びてきた。
伏せたカードが開かれる。始めから手札に入っていた「10」のペア。新たにカードに加わった三枚。
ハートの「クイーン」、クローバーの「クイーン」、そして、ダイヤの「クイーン」。
「10」と「クイーン」のフルハウス。
手を開くまでもなく、勝敗はわかっていた。
私の、勝ちだった。
無言だった。私はもとより、彼女も何もいわなかった。
私の手を開いたままの格好で固まっていた。
うつむいたその姿勢からは表情を読みとることはできず、ただ、形のいいつむじが目に入るだけだった。
「母さまがね、私をお山に入れるべきだって」
つむじの下から、彼女の声が聞こえた。
絞り出すような、胸の苦しくなる声だった。
「私には素養がないって。お家には必要ないって。姉さまがいればそれでいいって。
私は、いらないって――」
彼女は止まらなくなっていた。
この家に生まれ落ちてから数年。
そのたった数年の間に堆積した心の澱を、かき棄てようと躍起になって、
けれどそれもうまくいかず余計に暴れて、もがいて。
まるで、傷口から毒を吸い出したいのにそこからさらに自分の毒を注入してしまう、
そんな愚かで悲しい動物のように、そんなふうに私には思えた。
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「才能がないのってそんなに悪いことなのかな、棄てられなきゃいけないようなことなのかな、
生きてちゃいけないのかな、特別じゃなきゃ、生きてる価値、ないのかなぁ」
開いたカードの上にぽたぽたと水滴が落ちた瞬間、私は彼女を抱きしめていた。
私を振り払おうと身をよじる彼女を、私は離さなかった。
そんなことない、そんなことないと念仏のようにつぶやきながら、
彼女の不安をそのふるえごと押しとどめようと力を込めた。
「いやだ、いやだよ、いやだよぉ……」
彼女はもう抵抗しなかった。小さくすすり泣きながら、いつまでもいやいやとつぶやきつづけていた。
何がいやなのか。それは、彼女自身にもはっきりしていないのだと思う。
思うようにいかないことばかりで、すべてが、自分を含む何もかもが敵に思えるのだろう。
彼女を抱きしめる手に、さらに力を込めた。
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私は、ちがう。
私だけは、あなたの味方だから。
私だけは、あなたの“いや”にならないから。 あなたがいやな思いをしないようにするから。
あなたのいやを取り除いてあげるから。
だから、どうか。
私を拒絶しないで。
おねえちゃんを忘れないで。
いつまでも、いつまでも。
いつまでも――
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《 一 》
(´・_ゝ・`)「――というわけで、クレンネスの利用については末期ガン等の苦痛を伴う患者の終末医療、
及び意志疎通の困難な精神病患者への使用に限定し、その上でINBCが作成した基準を
参考に各担当医の判断に一任する、という方針で決定したいと思います。
それでは次の議題ですが……」
司会の男はそこで言葉を区切り、会議場の奥へと視線を覗かせた。
視線を向けたのは彼だけではなかった。
その場にいるほぼすべての者が、
うかがうような卑屈さを感じさせる態度で一所に視線を寄せていた。
そこには一人の老婆がいた。枯れ木のような身体でありながら
その背筋のように芯を感じさせる佇まいは、見る者を圧倒するに足る威圧感を備えていた。
彼女は眠ったように目をつむっていた。
今までの話も聞こえていたのか、いないのか、定かではない。
しかしそれでもだれもが、この場にいるだれもが何も言わず、
この触れれば折れてしまうような老女を怖れるように、
ただただその口が開かれるのを待っていた。
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川 ゚ -゚)「……構いません。続けなさい」
それは決して大きな声ではなかった。
むしろささやくように小さな声であったといってよい。
しかしそのささやくような声を聞き逃した者は、この場にひとりもいなかった。
つばを飲む音が響く。
老婆の相向かいに座る男がうながしたことで、
司会の男はようやく自分の役割を思いだした。
(;´・_ゝ・`)「……えー、それでは、劣化により倒壊の怖れがある旧閉鎖棟の解体事案についてと、
現在旧閉鎖棟に入院しているただ一人の患者、えぇと……素直クール氏の御令孫、
杉浦しぃ様の……えぇー……対処、について、その、ですね……」
川 ゚ -゚)「言葉を取り繕う必要はありません。あそこがなくなるということは、
つまりはそういうことなのですから。そうですね、新院長さん」
老婆の相向かいに座る新院長と呼ばれた男は、一瞬強く眉根を寄せたが、
直後には余裕を装った表情を浮かべて老婆に笑いかけていた。
( ・∀・)「さあ、古い家のしきたりなど私にはわかりかねますよ。
素直家のことは素直家で。家長である素直クール、あなたの判断に一任したいと思います」
川 ゚ -゚)「しぃは杉浦の家に送った童です。
素直の問題だと強調されるのはあまり気持ちよくありませんね、モララー」
( ・∀・)「それは失敬。ですが、われわれの主張に変わりはありませんよ」
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新院長モララーの態度は、あくまで泰然とした優雅な振る舞いをまとっていた。
爪の先まで整えられた細く長い指が。机を叩く。その仕草さえも、どこか意識的な、
観客の存在を前提とした演技のように大げさであった。
とつとつとつと、指が机を叩く音だけが鳴る。
素直クールは答えない。モララーは仕方無しに、ひとつため息を吐き、先に口を開いた。
( ・∀・)「ここ相真大学病院……いえ、相真精神病院が素直のために存在していたことは
理解しているつもりです。逆に言えば、素直のおかげで生きてこられたとも。
個人的なことをいえば、いまの私があるのも素直のおかげ、
クールおばの助力があったからこそだと感謝もしています。
ですがいまは、大事な時期なのです」
川 ゚ -゚)「クレンネス、ですか?」
( ・∀・)「はい。クールおばも知ってのとおり、試験的な段階とはいえクレンネスの
国内利用は当院が初めてとなります。同業の視線だけではない、マスコミ、
国民からの注目が絶大なものになることは想像に難くありません。
INBCを始めとした国際団体の査察が行われるという情報も耳に入っています。
その時に後ろ暗いことがあっては困るのです。我々はクリーンであらねばなりません。
旧閉鎖病棟はもちろんですが、ほかにも隠さなければならないことは山ほどある。
どんなに些細な秘密も見逃さずに潰し、切り捨てなければならないのです。
素直女史、あなたになら理解していただけますよね?」
川 ゚ -゚)「回りくどい言い方はやめなさい。つまりあなたは、私にどうしてほしいのですか」
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素直クールのあくまで静かなその口調に、モララーの快調な弁舌はここで初めて陰りを見せた。
二者の間に存在する絶対的な力関係。本来あるべき上と下の立ち居地が仄見える。
しかし、モララーも引き下がらない。
彼の顔面に貼り付けられた院長の仮面は、他の者のように恐怖で歪まない。
彼は戻らず、先へ進む。
( ・∀・)「……素直家の息のかかった一切、当院から手を引いていただきたい」
川 ゚ -゚)「本音がでましたね」
( ・∀・)「この国の精神医学発展のため、ひいては国家の心の成熟のためです。
それは素直の理念とも一致しているのではありませんか」
会議場に存在するすべての視線が、素直クールに集中している。
それらは具体的な熱量を帯びているかのように室内の温度を高めたが、
当の素直クールだけは涼やかに、枯れ木のような背を直立させて目をつむっていた。
( ・∀・)「人は親の庇護を離れ、自らの足と力で立たねばなりません。
それを奪う権利はだれにもないはずです。
例えそれが素直クール、あなたであろうと」
モララーは嘘偽りのない自身の心情を発した。
素直の力は絶大である。可能な限りの工作は施したが、
一度こじれてしまえばどのように転ぶかわからない。
可能ならば、心から納得して、自ら引いてほしい。
禍根を残さず、しかし、きっぱりと関係を断ち切りたい。
それは幼い頃から目をかけてくれた恩人への、モララーなりの恩返しの気持ちでもあった。
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依然目をつむったまま沈黙を保っている素直クールの一挙一動に
場の全員が固唾をのんでいるなか、司会役を任された男、
デミタスは時計に目を走らせながら時間を気にしていた。
彼とてこの相真大学病院に思い入れがないわけではない。
問題を起こし、行き場をなくしていた自分に居場所を与えてくれたことには感謝もしている。
しかし他の教授や理事などと比べて、相真への責任感や真剣度にいささか
欠けているところがあるのも事実であった。
それに今日は、彼にとって大切な用事があったのである。
その約束の刻限が迫ってくるごとに、彼の気持ちは少しずつ、会議の熱からそれていった。
だからであろう。会議室に近づく足音に気づいたのは、誰よりも彼が早かった。
床を踏むゴムのこすれが、規則的に、しかし少し足早に高い音を鳴らしている。
その乱暴な歩き方は近づいてくる者の心情と、同時にその体格の特徴を如実に表していた。
会議のために人払いをすませた静寂の廊下に響く、軽い、跳ねるような足音。
やがてそれはデミタス以外の者の耳にも届き始め、
素直クールと院長モララーを中心として硬直状態にあった室内の意識を分散し、
そして、その足音とともに室内にある唯一の扉の前で、止まった。
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『失礼します!』
扉が開く。
そこには少女がいた。
胸に抱えた革鞄をくしゃくしゃと、興奮や緊張を押し込めるかのように
強く抱き潰した少女は室内へとすばやくすべりこみ、そして勢いのまま、
息つく間もなく口を開いた。
o川*゚ぺ)o「直訴にきました!」
息も荒くそう叫んだ少女は、顔も赤く目尻にはわずかに涙がにじんでもいた。
正常な精神状態でないことは端から見ている誰の目にも明らかであり、
少女のことを知らない理事たちなどは奇異の目を向けながら隣の者と
何事かぼそぼそと話だし、頭のおかしい患者が抜け出してきたのではないか、
看護師は何をしているのかと、口さがなく言い出す者も出てくる始末だった。
幸い、デミタスは彼女のことを知っていた。
入院している患者などではなく、れっきとした
相真大学病院の学生である彼女のことを。
また、個人的な理由によっても。
それゆえに、彼女がなぜこの場に乗り込んできたのかも察しがついていた。
とはいえデミタスは彼女の味方というわけでもない。
良い顔をしておきたい理由は存在するが、それ以上に今は、
妙な面倒ごとで会議が長引くのを防ぎたい気持ちの方が強かった。
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本来ならば、あまり人目を引くようなことはしたくない。
人前に出るのは苦手な性質だ。このような場で率先して前に出ても、
輪から外れるだけで気まずい思いをするのが関の山なのはわかっている。
しかし今日は特別なのだ。デミタスはなるたけ穏便に、
できるだけ迅速に追い払えるよう、柔和な笑みを浮かべて彼女に近づいた。
(´・_ゝ・`)「内藤さん、だよね。だめじゃないかこんなところに来ちゃ。
いまは大事な会議中なんだよ。あぁみなさん、安心してください。
彼女はただの学生です。すぐに帰ってもらいますので……」
ざわめきが大きくなった。主に彼女を知らない理事会のメンバーのものだ。
「日本に飛び級の制度はなかったはずだが……」。
その通り、彼女は別に特例としてここに入学してきたわけではない。
ただ同年代の学生と比べ、身体的な特徴に少々違いがあるだけだ。
デミタスは細々と耳に入ってくる言葉に心のなかで答えながら膝をまげて、
わずかにふるえる彼女の顔と同じ高さに視線を合わせた。
(´・_ゝ・`)「さっきも言ったけど、いまは大事な会議中なんだ。
用なら後で聞いてあげるから、今はちょっと我慢してくれないかな」
o川*゚ぺ)o「できません」
(´・_ゝ・`)「そう言わずにさ。みんな厳しいスケジュールを合わせて集まってるんだ。
君の勝手でみんな困っちゃうんだよ。わかるだろ。ね、いい子だからさ」
o川*゚ぺ)o「私は用事があってここに来たんです。どいてください。あなたじゃ話になりません」
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少女はデミタスを押しのけようと、片手を乱暴にふるった。
その手はデミタスのちょうど肩付近にあたり、
バランスの悪い姿勢をとっていた彼はそのまま尻餅をついた。
デミタスは少し慌てながら腰を起こし、
居心地の悪そうな照れ笑い周囲に振りまきながら、
デミタスを置いて会議場の奥へと歩みだそうとしていた
少女の肩に手をおき、その動きを制止した。
(;´・_ゝ・`)「あのね、いい加減にしなさいよ。あんまり聞き分け悪いとみんなが怒ってしまうよ。
悪いことは言わないからいまのうちに帰りなさい、ね?」
o川# へ )o「さっきから……」
(´・_ゝ・`)「ん、どうしたの。帰る気になってくれたかな?」
乾いた音が響いた。よろめいてあらぬ方向に向いたデミタスの顔に、
てのひら型の赤みがじんわりと浮かび上がってきた。
o川#゚ぺ)o「子供扱いしないでください! これでも今年二十歳になるんです!」
手を振り上げた格好のまま少女が吠えた。
が、反射的に伸びた怒りを意志の力でしまい込むように、
叩いたてのひらをもう片方の手で覆い、すぐさま胸の前に抱き寄せた。
そして、うかがうようにほほを抑えるデミタスの顔をのぞき込んだ。
デミタスは何が起きたのか理解できていないかのように呆けていたが、
やがて痛みに覚醒すると目に見えて狼狽をあらわにした。
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(;´・_ゝ・`)「ひ、ひどいじゃないか! ぼくは君のためを思ってだね。そ、それに……」
( ・∀・)「デミタスくん、もういいよ。彼女とはぼくが話します。下がっていてください」
戸惑いのままのべつまくなしにまくしたてようとするデミタスを止めたのは、
院長のモララーだった。モララーは会議場の人間へ簡単に目配せすると、
もう一度デミタスへ下がるようにジェスチャーを送った。
(;´・_ゝ・`)「ですが……」
( ・∀・)「構いませんから」
(´・_ゝ・`)「は、はぁ……」
デミタスはちらと時計を確認しながらも、言われるままに下がった。
周囲から自分をバカにする声が聞こえたような気がしたし、
やさしくしてやったのに恥をかかせてくれた少女に対する苛立ちもあった。
その上約束の刻限が間近に迫っていることもない交ぜになって
内心走り出したいくらいに気持ちは急いていたが、
院長命令に背けるほどの気概を、彼は持ちあわていなかった。
そんな彼の気持ちなど知らず、少女は少しだけその様子を気にしながらも
デミタスの横を素早くすり抜け、院長モララーの座る席の前に立った。
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( ・∀・)「内藤キュートさん、こうして直接お会いするのは初めてですね」
o川*゚ぺ)o「私を知っているんですか」
キュートと呼ばれた少女は少なからず驚いた。
大学病院の院長などといった高い地位にいる人物が、
学生一人一人のことまで把握しているとは思ってもいなかったからだ。
( ・∀・)「もちろん存じています。あなたが何を頼もうとしているのかも、
知っているつもりでいます。ですがまずは、あなたの口から聞かせてください。
何のために、何するつもりでここへ来たのか」
あくまで真摯的な院長の態度に、感情任せにやってきたキュートは急に
自分が幼いことをしているように思え、要求を口にすることにためらいを覚えた。
しかし、今更引く気もない。いま引くくらいならば、“数年前”にもう諦めている。
キュートは“あの日”から始まる自己の歴史を振り返りながら、
己の決意をまとめるように少しずつ語りだした。
o川*゚ぺ)o「私は……私は医者になるためこの大学に入りました。
それも内科や外科の医師ではなく、心の病に精通している精神科医になるためです。
だから精神科の教育に力を入れている、この大学を選んだんです。
受験でも、滑り止めなしにここ一本と決めて勉強してきました。
医学部に入ること、相真大学に入ること、それだけを考えて。
だから合格したときは本当にうれしかった。
在学中も一生懸命勉強するつもりで、一年、二年とやってきました。
他の人と比べて飛び抜けた成績とは言えないかもしれませんが、
それなりの結果は出してきたつもりです。なのに、なのに……」
話しているうちにだんだんと血が上ってくるのがわかった。
昂奮すると苦しくなって、泣きそうになる。やはり自分は間違っていない。
理不尽な目にあわされている。感情がつのって、のどがつまった。
しぼりだすように、言葉を吐いた。
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o川* へ )o「なんで、私が医学部を進級できないんですか」
それだけ言うと、キュートは院長を強くにらみつけた。
後はもう、嗚咽がもれないようにするので精一杯だった。
それに対してモララーは、少しだけむずかしそうに
顔をしかめながらキュートの視線をしっかりと受け止めていた。
その表情にはどこか自分を哀れんでいるところが見え隠れしているように思えて、
キュートは突然沸き上がってきた目の前の男性に対する不快な感情を抑えることができなくなった。
( ・∀・)「まず始めに明らかにしておきましょう。きみの進級に不可の判定を下したのは、ぼくです」
瞬間身を乗り出そうとしたキュートを、モララーは手で制した。
きれいに磨かれた女性的な爪が目に入る。
( ・∀・)「待ってください。順を追って説明します。
……ところで内藤さん、あなたは医師国家試験における欠格事項を知っていますか?」
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一瞬、言葉に詰まる。
o川*゚ぺ)o「……それが、何か関係あるんですか」
( ・∀・)「あるから聞くのですよ。どうですか」
o川*゚ぺ)o「……未成年者、成年被後見人、被補佐人は医師免許を取得できない」
( ・∀・)「はい、それが絶対的欠格事由ですね。
そして相対的欠格事由に麻薬中毒者、罰金以上の刑を受けた者、
その他医事に関し犯罪・不正のあった者。
それに……身体に障害のある者が該当します。ご存じでしたか」
o川*゚ぺ)o「……先生は、私を障害者扱いされるおつもりですか」
( ・∀・)「そう受け取る者もいる、ということです」
o川*゚ぺ)o「仮に……仮に私の身体が障害と認定されるにしても、
相対的欠格事由ならば通る可能性もあるはずです!」
( ・∀・)「しかし裏を返せば、それは通らない可能性もあるということです。
そしてその確率は非常に高い。あなたの身体が相対的欠格事由に抵触する、その確率も含めてです。
それに、私があなたを止める理由はいま言ったことがすべてではありません。
むしろ、これから言うことが本題です。
内藤さん、もしもの話をします。もしもあなたが医師免許を取得したとして、どこに就職しますか」
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o川*゚ぺ)o「それは……」
( ・∀・)「先に断っておきますが、うちでは雇いませんよ。
厳しいことを言うようですが、まともな病院であればあなたを雇うところはありません。
内藤さん、医師の仕事とはただ診療し、手術なり薬の処方なりをすれば終わり――
といったものではありません。
いくら適切な処置を施せようとも、一度信頼を損ねれば
それですべてご破算となることも珍しくない世界です。
ましてあなたの希望は精神科医。心を扱うこの科において、
患者と信頼関係を築く必要性は他科の比ではないでしょう。
そこで質問です。内藤さん、ひとつ想定してみてください。
あなたは何らかの心の病を患い、いままでしてきた仕事はおろか、
まともに食べることも、眠ることも十全にできなくなってしまいました。
頭の中で自分を非難するような、
存在を否定するかのような声が繰り返し繰り返し聞こえてきます。
このまま放っておけば衰弱した果てに死んでしまうかもしれない。
いや、楽になろうと生命活動の停止を望むかもしれない。
それを知ったご両親は、あなたを放っておかないでしょう。
育て方を間違えてしまったのだろうか、もっと愛情を注いでやればよかったのか、
などといったように自分たちを責めてしまうかもしれません。
そして自分たちの手には負えない現実を悟り、最後の希望として病院の精神科を頼みに行くのです。
慣れない手続きを済ませ、待合室できっとだいじょうぶ、
何もかもうまくいくと自分たちを励まして、そして、名前を呼ばれ、
期待と緊張にふるえる手で扉を押し開けたその先に……
十にも満たない女の子が待っていたら、どう思うでしょう。
私が担当医ですとその小さな女の子が言い出したら、これは何の冗談だと、
そう思うのではないでしょうか。バカにしていると怒り出す人もいるのではないでしょうか。
内藤さん、あなたはご両親に信頼してもらえるでしょうか。
内藤さん、あなた<患者>は、あなた<医師>を信頼して診療に望めますか」
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有無をいわさぬ口調。反論はなかった。
そもそもモララーの言ったことは、いわれるまでもなく
すべてキュートにはわかっていることだった。
そんなことはわかっていた。
この十年間、己の容貌が他者にどのような印象を
与えるものなのかは、誰よりもキュート自身が痛感している。
この肉にかけられた呪い。
努めて考えないよう意識の片隅に押し込めていた思考。
それを第三者の口を通じて突きつけこじ開けられた、そんな格好だった。
常識で考えれば、自分が医師になれるわけがないと、誰よりも自分自身が理解していた。
知らず、抱きしめたバックごしに、
自身の胸の皮を裂かんばかりに力を込めて指を突き立てていた。
それでも……。
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( ・∀・)「医師だけが医療従事者というわけではありません。
看護師や管理栄養士など、その職種には驚くほどの幅があります。
医療に携わりたいというのであっても、医師にこだわる必要はないのです。
幸いうちは薬学部にも力を入れていますから、あなたが望むならば
スムーズに転部できるよう便宜を図ること可能です」
それでも……。
( ・∀・)「もちろん、いますぐ決める必要はありませんよ。
ご両親とも相談した方がよいでしょう。
よく話し合って、春休み中に結論をいただければ結構です」
o川* へ )o「それでも……」
( ・∀・)「さぁ、もういいでしょう。今日は帰りなさい。
デミタスくんではありませんが、ぼくたちも忙しい身なのです」
そういって、モララーは話を打ち切ろうと手を振った。
が、その手はすぐさま動かなくなった。モララーの細長く形の良い手を、
キュートの小さな手が握り締めていた。
その幼い外見に似合わぬ握力に、モララーは思わずうめき声を上げそうになった。
o川#゚д゚)o「それでも私は、精神科医にならなくちゃなんだ……!」
-
( ・∀・)「……離しなさい」
o川#゚д゚)o「離さない。認めてもらえるまで、絶対に離すもんか!」
モララーを睨むキュートの目つきは尋常ではなかった。
執念。たしかに医師になることは、経済面においても名誉面においてもプラスに働く。
将来の安定を望み、あるいは望ませられたがゆえに、
盲目的に医師になることを目指す学生がいることはモララーも知っている。
しかしそれにしても、キュートの様子は常軌を逸している。
モララーは敵意とも異なる強い希求をぶつけてくるキュートを観察しながら、
ちらと、先ほど誰かがつぶやいた言葉が脳裏をよぎった。
病室から抜けだしてきた精神病患者。
( ・∀・)「内藤さん、きみは……」
モララーは何事かをキュートに問いかけようとした。
が、その言葉は言い終える前に途切れることになった。
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内藤キュートの背後に、素直クールが立っていた。
まるでそこから生え固まった樹木のように音もなく、
しかし確かな存在感を放ちながら佇んでいた。
あれほど取り乱していたキュートも、
とつぜん現れた気配に毒気を抜かれている様子だった。
川 ゚ -゚)「一ヶ月です」
枯れ木のような身体から、厳かな冷気がほとばしる。
川 ゚ -゚)「院長、例の場所の解体は一ヶ月だけ待ちなさい。
よもやその程度の時間も与えてくださらないとおっしゃるほど、
狭量ではございませんよね。
それからそうですね、その期間中、医師を一人お借りしたいと思います」
( ・∀・)「一ヶ月、ですか。解体についてはともかく、
医師には個別のスケジュールもありますから……」
川 ゚ -゚)「長岡を借ります」
モララーの言葉をぴしゃりと断った素直クールは、
未だにモララーの手を握っていたキュートの腕をつかみ、
強引に自分の方へと向かせた。
年齢の割に長身の素直クールが腕を上げると、
キュートの身体はそれにぶらさがるような格好で左右によろめいた。
-
川 ゚ -゚)「内藤さんとおっしゃいましたね。これから大事なことをお話しします。
二度とは言いませんので、心して聞きなさい」
爪先立ちの姿勢でキュートは声の主を見上げる。
自分を見下ろす厳然とした老婆の顔が見える。
川 ゚ -゚)「今は使われていない古い病棟に、心の病を患った一人の少年が安置されています。
あなたは一ヶ月以内、春休みの間にその子を回復させなさい。
達成できた暁には、医学部への進級を許可させます。
しかし失敗した際には、転部することも認めません。
この相真大学を去っていただきます」
自分の訴えが通ったと、キュートが喜び思うことはなかった。
この老婆にそんな権限があるのか……などと考える余地もなかった。
真っ先に頭に入ったのは、一ヶ月という治療期間の非常識的な短さ。
回復というのがどの程度の状態を指すのかは不明だが、
改善の兆しが見えるまでに年単位の時間がかかってもおかしくはない世界である。
しかもそれは、すでに一線で活躍する現役の医師が治療に当たった場合の話だ。
ただの一学生である自分に何ができるのか。
老婆の言葉はほとんど、医師になることを認めないと言っているに等しかった。
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o川*゚ぺ)o「でも、そんな……どんな症状かも知らないのに!」
川 ゚ -゚)「無理だと思うなら諦めてもらって結構です。
モララー院長の言うとおり、薬学部なり看護学部なりへ行けばよいでしょう。
進んだ道で新たな夢を見つけることもあるやもしれませんしね。
しかしリスクを負ってでも医師になりたいと切望するのであれば、
いいですか、今回の件が唯一、道を開く最後のチャンスと肝に銘じなさい。
その上で後込みするようであれば、それはその程度の夢だったということです。諦めなさい」
身をよじるキュートの動きをまったく意に介さず、
素直クールは一息に厳しい言葉を突きつけた。一方的な物言いや態度。
しかし、呼吸することすら妨げられるようなその逆らいがたい空気に圧倒され、
キュートは何も言えず、ただただ自分を見下ろす枯れ木のような老婆を見上げるばかりだった。
ゆえに、異議を唱えることができたのは、言われた当人であるキュートではなかった。
( ・∀・)「待ってください、私は反対です。
あそこは一学生に公開するような場所ではありませんし、
そもそもそれは法に触れる行いです。
この病院を預かる身として、到底看過することはできません。
……それに、彼は危険です。“呑み込まれて”しまうかもしれない」
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モララーは特に後半を強調して、素直クールに訴えた。
それに対して素直クールは表情ひとつ崩すことなく、じっとモララーの顔を見つめていた。
感情のどこか一部が欠落しているような、冷えた、
人間味のない視線を向けながら素直クールはモララーの訴えに応えた。
川 ゚ -゚)「あなたはこの素直クール、最後のわがままも聞けないほどの恩知らずだったのですか?」
最後という言葉に眉を歪めたモララーは、うかがうようにたずねる。
( ・∀・)「……どういう意味ですか?」
川 ゚ -゚)「言葉の通りです。一ヶ月が過ぎ次第、素直は相真から完全撤退します」
会議場内がにわかにざわめきだした。
その騒ぎを腕の一振りで制してから、モララーは念を押す。
( ・∀・)「その言葉、二言はありませんね?」
川 ゚ -゚)「私の名を思い出しなさい。私は素直クールです」
-
表情を変えずにそう言い切る素直クール。
他ならぬ素直家当主の言、虚偽などあろうはずもない。
ゆえにモララーが考えるべきことは、当初の目的から一歩先へと進む。
( ・∀・)「ひとつよろしいですか。内藤さんが彼の治療に参加しなかった場合、
先の撤退表明はどのような扱いになるのでしょう」
川 ゚ -゚)「彼女の参加は必要条件です。条件が満たされなければ、
約束も当然なかったことになりますね。
あなたの思惑がどうであれ、素直は相真への関与を続けます」
再び場が騒がしくなる。今度はモララーも、諫めるようなことはしなかった。
自身は素直クールから提出された条件について考える。
( ・∀・)「……条件は参加までですか。成功の可否ではなく」
川 ゚ -゚)「結果は問いません。ただし途中で抜けることも許しません。
最終日まで参加し続けたと確認された時点で、条件は満たされたものと判断します」
彼の治癒を望んでいるわけではないのか。
それとも、彼女に看させることで状態が回復するという確証でもあるのか。
モララーは素直クールにつかまれたままの内藤キュートを見る。
( ・∀・)「……もうひとつよろしいですか。なぜ、内藤さんなのです」
川 ゚ -゚)「深い理由はありません。今ここに彼女が現れた。
そこに意味を感じた。それだけです」
( ・∀・)「意味、ですか……」
-
考える。素直クールがこのような条件を出した理由を。
旧閉鎖棟の取り壊しを引き延ばしたことについては想像も及ぶが、
そこにただの一学生、内藤キュートを巻き込む必要性がどこにあるのか。
彼女が“素直”であることを加味しても、
「意味を感じた」という言葉をどこまで信用してよいものか。
素直クールの人柄からしてただの同情とも思えない。
むしろ下手な希望を見せる方が、彼女にとって酷な現実を
突きつけることになる可能性は高くなるだろう。
素直クールは何を考えているのか。冷えた瞳の彼女を見つめる。
その時ふと、ある単語が、モララーの脳裏をよぎった。
生贄。
頭を軽く振って、思い浮かんだ考えを振り払おうと試みる。
しかしその考えは、頭蓋の内側に膜を張ってこびりついたかのように、
モララーの思考を浸食してきた。
彼女は悪人というわけではない。
利害が発生するならばともかく、意味もなく他者に危害を加えるような真似はしないはずだ。
だが、血のつながりのある肉親のためだったら?
-
( ・∀・)「……みなさん、申し訳ありませんが席を外していただけますか。
結果は後ほど必ずお伝えしますので。デミタスくん、先導を頼みます」
素直クールが撤退を表明した時とはまた異なるざわめきが、会議場内に満ちた。
そのほとんどはモララーの横暴に対する不満の声だったが、
デミタスが半ば強引に押し出したことと、モララーの約束が功をそうして、
不承不承といった様子ながら会議場はモララー、素直クール、内藤キュートを残してもぬけの殻となった。
静けさを取り戻した室内で、モララーは再び素直クールと対峙する。
素直の思惑はようとしてしれない。それでも、決断は下さなければならない。
相真大学病院院長として、正しい決断を。
( ・∀・)「やはり私の立場では、あなたの行為を容認することはできません」
教育に携わる者の一人として、理由もわからないままいたずらに
教え子を危険に晒すわけにはいかない。それは当然の義務だ。
( ・∀・)「ですが……」
人の上に立つ者は、大きな視点をもたなければならない。
それは、何が重要であるかを考える以上に、何を切り捨てるかを考えることでもある。
なにより優先すべきは、相真の未来。そして、医療の発展。疲れ果てたこの国の安寧。
そのためには、非常な決断を下さなければならないことも時にはある。
-
( ・∀・)「一ト月だけ、あそこはそのままにしておきましょう。
無粋な干渉は致しません。”素直”にとって多大な意味を持っていた場所、
あなたにとっても思うところはあるでしょう。
残された期間、お好きなようにお使いください。それから――」
未だ腕を取られていたキュートを素直の手から静かに解放し、
素直に視線を向けたまま、モララーはキュートの肩に手を乗せる。
( ・∀・)「ぼくも少し、結論を急ぎすぎたきらいがあると反省しています。
内藤さんの進路についても、再考する余地はあるでしょう。
そうですね、一ヶ月ほど、もう一度考えてみることにしてみましょう。
その間に何か前向きに検討できる参考材料が出てくれば、
ぼくも結論を変えざるを得ないかもしれません」
少しだけ、肩へ置いた手に力がこもる。
川 ゚ -゚)「その言葉、二言はありませんね」
( ・∀・)「私は相真大学病院院長、陣内モララーです。
あなたが素直クールであるのと同じように」
-
もう後戻りはできない。自分もクールも決断してしまった。
後は彼女次第だった。
彼女――内藤キュートは、話の内容を理解しているのか判然としない困惑した様子で、
うつむくように胸を押さえていた。
そんな彼女の様子などおかまいなしに、素直クールは大上段から言葉を振り下ろす。
川 ゚ -゚)「あなたが考えることはひとつだけ。
医師になる最後の望みにかけて今回の件を受けるか、諦めて別の学部へ行くか。
一日だけ猶予をさしあげます。もし受ける気になったなら、
明日またここに来なさい。彼の元へ案内します」
( ・∀・)「内藤さん、きみが賢明な判断を下すことを期待しているよ」
モララー自身、受けること、受けないことのどちらを指して
賢明な判断と言っているのかわかっていなかった。
彼女が受けてくれなければ厄介な問題が起こることは間違いない。
しかしそれを知った上でも、モララーはキュートに無理強いはしなかった。
最大限の餌をぶらつかせただけ。それがすべての事実だった。
( ・∀・)「さあ、もう行きなさい」
モララーのその言葉を契機に、キュートはよろよろと動き始め、部屋から出ていった。
キュートが部屋から出ると、モララーの命で部屋から追い出された者たちの視線が
一斉に彼女に集中して降り注いだ。
キュートはそれらの視線を忌避するように身を屈ませながら、
足早にその場から去っていった。
-
※
西暦二○三五年。
前世紀の革命的な潮流に比べ、
二一世紀とは進化の袋小路に迷い込んでしまった、淀んだ停止の時代と称されていた。
科学は観測の限界に直面し、文化は過去の焼き直しをサイクルする。
誰もがすでに知っているものをこねくり回す、それが二一世紀だった。
しかしそんな時代にも、顕著な変化を記録したものがある。
精神病患者の激増。
それも重篤な統合失調症患者の増加が、極めて多く見られた。
その傾向は先進諸国において特に著しく、
アメリカ、西欧諸国、アジアの一部において無視することのできない社会問題となっていた。
また発症者が十代後半から三十代半ばまでの若者に偏っていることも、
問題を深刻化させる一因となっていた。
-
むろん各国首脳部も、その状況にただ手をこまねいていたわけではない。
各医療機関に莫大な支援金を送り、抜本的な対処法を研究させた。
しかし世界最高峰の頭脳がその能力をフルに注ぎ込んでも、
統合失調症が発現する明確な原因をつきとめることはできなかった。
故に統合失調症においては予防ではなく、
治療を最優先とするべきだという声が強まっていくこととなる。
多くの研究機関が、競い合うように効果的な治療法の模索に莫大な時間と人を費やした。
いきすぎた実験の末に痛ましい事故が起きたことも、稀ではなかった。
そうした少なくない犠牲の果てに、ひとつの、
非常に高い効果を発揮した治療例が”再発見”される。
幻覚剤――LSDの投与である。
.
-
LSD――正式名称リゼルグ酸ジエチルアミド――は一九三八年に
A・Gサンド社に所属するアルバート・ホフマンというスイス人の
科学者によって発見された幻覚剤である。
A・Gサンド社は当初LSDの有用性に気づかず研究を中止させたが、
数年後、天啓とも呼ぶべき予感に突き動かされたホフマンは研究を再開、
当時すでに発見されていた幻覚剤、メスカリンの凡そ五千から一万倍にも及ぶ
極めて強い作用効果を持っていたことが発覚する。
その他に類を見ない効果はすぐさま多くの科学者、医療従事者の興味の的となる。
なかでもLSDの及ぼすサイケデリック効果と統合失調症(旧精神分裂症)の類似点などが
指摘されたことを受けて、スタニスラフ・グロフを始めとした精神科医たちは
こぞってこれを研究、利用していった。
そして比較的長期間、微量のLSDを服用して症状を穏やかに改善していくことを
目的としたサイコリティック療法と、一度に大量のLSDを服用することで起こる体験を通じ、
濃縮された治療効果を狙うサイケデリック療法のふたつが確立し、
そのどちらもが高い改善率を記録している。
LSDは精神療法の世界において、無視できないものとなる。
-
ことはこれに収まらない。
LSDが世界的な広まりを見せるにつけその居場所も薄暗い研究所の奥に止まらず、
輝ける陽の下へと飛び出していくことになる。
ミュージシャン、アーチスト、詩人といった芸術家たちは、
この未知の感覚を教えてくれる霊薬をこぞって求めた。
彼らはLSDの見せる超現実世界での体験を自らの芸術に可能な限り表し、
それらは既存の文化とは一線を画した、サイケデリック文化として
一定の立場を打ち立てるに至った。
またLSDをもっとも愛していたのは、
一九六十年代のアメリカサンフランシスコ州に群棲していたヒッピーたちかもしれない。
彼らは当時のアメリカ社会――ひいてはキリスト教会文明に反感を持ち、
それとは真逆の思想と捉えた東洋神秘主義、禅や瞑想を至上価値観としていた。
そして拡張された意識――悟りに至るための補助剤として、LSDを用いたのである。
個人という殻から抜け出し、宇宙と一体になることを望んで。
彼らが悟りに至れたか否かは、ブッダのそれが外側から知覚できないのと同様に
何者にも知る術はなかったが、それを目指した者は確かに存在し、
そしてその数はバカにできるものではなかった。
「すばらしい新世界」により一躍有名となったイギリスの作家、
オルダス・ハクスリーが自身のメスカリン体験を著したエッセイ「知覚の扉」が
ベストセラーとなるほどに、サイケデリックムーブメントは隆盛を誇っていた。
しかし、ブームも長くは続かない。
-
一九六二年アメリカで、LSDを含む幻覚剤を規制する法案が通り、
それは年を追うごとに改修され製造、販売、所持にいたるまで刑罰の対象とされることになる。
これは幻覚剤の乱用による事故や事件、バッドトリップから入院するという事例が
後を絶たなかったことから制定された法律であり、粗悪な混合品が巷に溢れ、
それらを使用したサイケデリックパーティが一般大衆の目に
悪感情を植え付けてしまったことも、原因のひとつとなっていた。
精神医療の場などから反対する声がないわけではなかった。
だが、それらの声はすべて黙殺された。LSDと治療効果の関連性は示せても、
どのようなメカニズムで効果を及ぼしているのか解明できなかったために、
その安全性を認めることはできないという結論がだされたのである。
そしてアメリカの後を追うように、世界中でLSDを筆頭とした
幻覚剤を規制する法案が可決され、それから四十年近く、
LSDは歴史の表舞台から姿を隠すことになる。
だが、LSDは再び陽の目を見る。
-
二○二三年、アメリカヴァージニア州に住む開業医が、
重度の精神病患者にサイケデリック療法を施していたことが発覚する。
この開業医は違法行為を行ったとして裁判にかけられることとなるが、
一連の事件に興味を持った記者が患者の快復過程を中心に取材を始め、
その効果がいかに劇的であったかを世論に説いたことで状況は一変する。
LSD必要論が、世に浸透していったのである。
その動きは労働力の減少を嘆く経済界のバックアップや、
NPO組織幻覚研究協会――MAPSなどの活動により加速度的な広まりを見せていく。
MAPSは署名を集め、アメリカ合衆国における食品や医薬品の許可や
取り締まりを行う機関、アメリカ食品医薬品局――
FDAにLSDの再認可を下すよう働きかける。
しかし、FDAはこれを認めず、一度決定した取り決めを覆すことはできないと宣言する。
その言葉に、国は国民を見殺しにしているという声がさらに強まることとなる。
-
そうした国の政策に不服を唱えた人物の中には、
専門の研究室に所属する科学の徒も少なくなかった。
そして、彼らがLSDに代わる新しいケミカルドラッグ・クレンネスを生み出したのは、
FDAの声明が出されてからわずか二ヶ月後のことであった。
というのも、クレンネスはそのほとんどの組織がLSDと同様の構造を持っている、
いわばLSDを基本とした改良品だったのである。
幻覚効果やその作用にいたるまで、LSDと酷似しているこの新薬は、
しかしFDAの取り締まり対象として販売・使用・所持を禁止されているものではなかった。
FDAはしぶしぶ、この新しい幻覚剤に認可を出す。
それから二年。州法などでクレンネスの医療的使用を許可された地域での
統合失調症患者の割合は平均して二割近く減、総数五百万人以上の患者が
日常生活をこなせる程度に快復したことを記録している。
そして、その減少傾向は未だに止まる様子を見せず、
国内景気も上向きを示すようになっていた。
幻覚剤の使用に疑問や嫌悪感を抱いていた国も
アメリカのこの成功を目の当たりにしたことで、
右に倣えと医療におけるクレンネスの使用を認める特例法を許可する流れに傾いていった。
そしてその列の後方には、極東の島国、日本も並んでいたのである。
-
統合失調症による被害は日本においても深刻であり、
現在この国では一千二百万人以上の国民が統合失調症とそれに類する病気によって
各種医療機関を受診していることが記録されている。
これは日本の総人口の一割近くにも上る数であり、
二十年前と比べ十倍以上に増加していることとなる。
日本では長い間この状況への対策が決まらず右往左往していたが、
アメリカの成功から遅れること六年、麻薬及び向精神薬取締法の一部を改定し、
国の定めた特定の医療機関にのみクレンネスの利用を許可する旨を通達する。
そして、その国の定めた特定の医療機関こそが、
北陸地方北部に在する、相真大学病院である。
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相真大学病院の歴史は古く、明治時代にまで遡る。
相真癲狂院という名で明治三○年に立てられたこの精神病院は、
やんごとなき方の心的治療の名目で設立された、対象の非常に狭い病院であった。
しかし二度にわたる世界大戦、バブル期の世相などを反映して
他医局の統廃合を行い徐々に総合病院の態を呈していった相真は、
一九八○年にその名を相真総合病院へ、そして二○二○年には
教育機関としての附属大学を設立し、相真大学病院へと名を改める。
その歴史とともに名も形態も変わってきた相真であったが、
当初の理念である心の病の治療を最優先と捉えているところに変化はなく、
それは設立した大学での教育にも如実に現れていた。
こうした経緯、また、現院長である陣内モララーがアメリカの医局で
直にクレンネスを使用した治療に携わっていたこともあり、
日本におけるクレンネス使用の第一位として相真大学病院が選ばれたのである。
法改正から二年後、初夏の兆しが差し込み始める六月から、
治験という形で相真大学病院ではクレンネスが使用されることが決まる。
このニュースは瞬く間に日本全土へと相真の名とともに知れ渡り、
その広がりに比例して附属の大学を受験する者の数も増加していった。
-
内藤キュートも、そういった学生のうちの一人であった。
彼女は元々精神科医を目指しており、専門に学べる大学を求め
相真大学もその候補のひとつに入っていたが、一連の騒動を見て志望を相真に一本化、
日本でもっとも精神科に重点を置いているこの大学を受験することを決定、合格を果たす。
その彼女はいま、泣いていた。
感情が閾値に達すると我慢できずに泣きだしてしまうのは、キュートの昔からの癖だった。
車の助手席に背中を丸めながら座り、もれでる嗚咽をかみ殺して、
その折り畳まれた自身の幼い肉体を恨むように力を込めて全身を締め付けていた。
-
从 ゚∀从「洟、でてるぞ」
運転席のハインからティッシュをボックスごと手渡され、
ひったくるように洟をかむ。ぐしぐしと鳴る音が妙に子供じみていて、嫌な気がした。
从 ゚∀从「そんな泣いてばかりいると、かわいい顔が台無しになっちゃうぞ」
o川*゚ぺ)o「一ト月早く生まれたからって、おねえさんぶらないでよ。
それに、こんな顔幼いだけでかわいくなんかない」
从 ゚∀从「へーへー、さよで」
そういいながらハインは、今度は手持ちのハンカチを手渡してきた。
キュートは華やかな匂いの香るそれを受け取ることを躊躇しながらも、
結局手に取り、目元を覆い隠すようにして涙を染み込ませた。
ハイン――本名はハインリッヒ長岡。キュートのルームメイト。
今日は涙を堪えながら歩いていたところを彼女に拾われ、
アパートまでの道を運転してもらっている。
-
キュートより一学年上の薬学部生だが彼女は三月の早生まれ、
キュートは四月生まれということで学年の差など気にせず対等の友人として付き合っている。
ハンカチの隙間から、ちらっとハインをのぞき見る。
すらりと伸びた手足。一八○弱はありそうな高い身長。
ドイツ人の父親から遺伝した彫りの深い目鼻立ち。
黒いカラーコンタクトを嵌めているため親しい者しか知らないが、本来は瞳も蒼い。
髪も元は金髪だったらしい。人目を引くのが嫌で、黒く染めているそうだが。
しかしそんな彼女の努力も空しく、その姿は否応なく人目を引いている。
並んで立つと、どうあがいても同年代には見えない容姿。
ハインとは馬が合い付き合っていて心地良いのは間違いないが、
容姿のせいで彼女に対し気後れすることがあるのもまた事実だった。
ハンカチを取り、端を合わせて折り畳む。
-
o川*゚ぺ)o「ありがと、ちょっと落ち着いた。後で洗って返す」
从 ゚∀从「いいよ別に、気にしないし。ほら、ちょーだい」
そう言うなり、ハインはキュートの手から自分のハンカチをすくい上げた。
反動でハンドルが微妙に切られたのか、車体がわずかにゆれる。
o川*゚ぺ)o「危ないよ」
从 ゚∀从「へーきだよ。それよりさ、どうするん?」
o川*゚ぺ)o「どうするって?」
从 ゚∀从「進路。薬学部でも悪くないと、俺は思うけどな。
最終的にはキュートが決めることだけどさ」
ハインの口調はあくまで軽い。
ざっと概要を話しただけで退学する可能性などについては説明していないのだが、
そのことを教えたらハインの態度も変わるのだろうか。
変に気を使ってほしくなかったので、黙っておくが。
o川*゚ぺ)o「別に諦めてなんかない。ただ……」
从 ゚∀从「ただ?」
o川*゚ぺ)o「なんだかすごく、怖い人がいて」
从 ゚∀从「どんなやつだ?」
-
言われて、キュートは思い浮かべる。
枯れ木のような身体から、人を圧倒する威圧感を放っていた老婆の存在を。
言葉の端々から伝わる人間味のない冷たさは、いま思い出しても身震いする。
それに、彼女のことを考えると頭の中がぐちゃぐちゃして、
なぜだか思い出したくもない古い記憶を掘り返してしまいそうな危うさを覚えた。
あいつの記憶。
从 ゚−从「……そいつ、素直クールって名前じゃないか?」
過去へ遡りかけた意識が、ハインの声に呼び戻される。
素直クール。冷たい枯れ木の老婆。胸の奥に異物感が沸き上がり、
それを押し込めるようにキュートは両手で胸を強く押した。
o川*゚ぺ)o「確か、院長先生がそんなふうに呼んでたと思うけど……知ってる人?」
从 ゚−从「知ってるっていうかね」
バックミラーに映るハインの顔は険しい。
いつもあっけらかんとしている彼女にしては珍しい表情だった。
ただでさえ彫りの深い顔立ちに、さらに陰影がかかる。
-
とつぜん、ハインがハンドルを切った。
いつも使っている帰路から外れ、馴染みのない道路にでる。
o川*゚ぺ)o「あれ、帰らないの?」
从 ゚∀从「早咲きの桜を見ながら飯くえるところを見つけてさ、
付き合ってくれよ。たまには外で飯つつこうぜ」
o川*゚ぺ)o「付き合ってって……今夜は用事があったんじゃないの?」
从 ゚∀从「用事?
……あー、そういやデミタスのやつと何か約束してたっけ」
o川*゚ぺ)o「そういやって……」
从 ゚∀从「まあいいからさ」
ハインは聞く耳持たずといった様子で、アクセルを踏み続けている。
強引な彼女らしいといえばらしいが、どこか違和感も覚える。
彼女なりに慰めようとしてくれているのだろうか。
だとしたら、いい迷惑だ。
彼女にはそういうやさしさを期待していない。それに……。
キュートはかっとなって叩いてしまった医師のことを思い出す。
-
o川*゚ぺ)o「いい加減にしないと、そのうちほんとに痛い目みることになるよ」
从 ゚∀从「デミタスのことか?
それならへーきだよ。あいつに何かする度胸なんてないって」
o川*゚ぺ)o「今回のことだけじゃないよ。
もう何人もそうやって別れてるじゃない。遊ぶだけ遊んで、飽きたらぽいって」
从 ゚∀从「んー……つってもなー、向こうから言い寄ってくるのを
こっちは付き合ってやってるだけだし、それに――」
ハインの腕が伸びてくる。肩に回され、引き寄せられる。
ハインのちょうど胸の下に、頭があたった。
从 ゚∀从「俺にはもうかわいい嫁がいるかんなー」
o川#゚ぺ)o「ふざけないでよ。っていうかだから危ないって」
从 ゚∀从「ぬははは」
ハインの腕をふりほどこうともがくも、
がっちりと絡まった腕からはなかなか抜け出せず、頭の上が重たい。
そうして少しの間ハインの悪ふざけに付き合っていると、
バックの中から電子音が流れ出してきた。携帯の着信だ。
ハインの腕がぱっと離れた。
キュートは携帯を取り出し、誰がかけてきたのかを確認する。
実家からだった。
通話ボタンを押す。
-
『やふー! きゅーちゃん愛してるおー! ちゅっちゅー!!』
.
-
電源を切る。
从 ゚∀从「……何、いまの」
o川* へ )o「何でもない、ただの間違い電話。気にしないでお願いだから」
笑いをかみ殺しているハインの顔がバックミラーに映る。
キュートは顔を背け、窓の外に目を向けた。
父にはほんとに、まいる。
そう思った矢先、再び着信が鳴った。
画面には実家の電話番号が表示されている。
ハインがくつくつ笑っているのが見ないでもわかった。
ちょっと悔しい。
無視するわけにもいかず、電話をとる。
と同時に、向こうが話し出す隙間を与えないよう一気にまくしたてる。
o川*゚ぺ)o「あのねお父さん、電話してくれるのはうれしいけど
いきなり叫ぶのはやめてって、いつも言ってるよね」
『お父さんなら台所で頭を冷やしてるところよ、落ち着きなさいな』
o川*゚ぺ)o「……おかあさん?」
『ぴんぽーん、せーかいよ。どう、キュート。元気にしてる?』
-
変わらぬ母の明るい声を聞いて、ようやくほっとする。
父はきっとひどい目にあっているのだろうけど。
o川*゚ぺ)o「うん……今日はどうしたの?」
『もう春休みでしょう? 今年は帰ってこれるのかしら。
お父さんもお母さんも、あなたが無事に二十歳まで育ったことをお祝いしたい親心満載なのよ』
誕生日まではまだ一ト月近く時間があるのに、相変わらず両親とも気が早い。
しかしキュートも何事もなかったなら今年は帰省して、
父と母に会いたいとは思っていたのだ。そう、何事もなかったのなら。
『なによ、むずかしいの?』
何も言わないでいると、母が不満そうな声を上げた。
父と母は、私が転部すると言いだしたら何て言うだろう。
退学することになるかもしれないと知ったら、どう思うだろう。
けして裕福とは言えないうちの家計から、何とかやりくりして
高額な医学部の学費を援助してくれたのだ。二人とも平気な顔をしているけれど、
密かに仕事を増やしていたことを私は知っている。
精神科医になりたいという、私のわがままのために。
-
o川*゚ぺ)o「まだわからない。ちょっと……長くかかりそうな実習があるから」
精神科医になる道を諦めてしまうことは、ここまで支援してくれた
両親を裏切ることになるのではないだろうか。しかし、それで失敗してしまったら。
退学する危険など冒さず、素直に転部した方がまだ安心してくれるのか。
キュートにはわからなかった。
『キュート、あなた相変わらず隠し事が下手ね。何か困ってるんでしょう』
母の不意の言葉に、心臓が凍り付きそうになった。
そんなはずはないのに、もう全部、母には何もかもお見通しなのではないかと
瞬時にそんなことを考えてしまい、キュートは何も言えなくなる。
『どう生きるのもあなたの自由だけれど、
危ないことにだけは関わらないでほしいわ。お父さんもそれを願ってる』
危ない、という言葉でモララーの話が思い出された。
『彼は危険です。“呑み込まれて”しまうかもしれない』。あれはどう意味だったのか。
重度の精神病患者と接する医者が、瘴気のようなその雰囲気に
あてられてしまうことがあるそうだが、危険とはそういうことを意味していたのだろうか。
危険。危ないこと。
それを言うならば、精神科医という職自体が危険と隣り合わせなのだと言えるのかもしれない。
父も母も、私がそんな道へと進まないことを、本心では望んでいるのだろうか。
o川*゚ぺ)o「……うん、わかってる」
『いい子ね』
-
母はそれ以上追求してこなかった。
日常のささいな出来事、仕事の愚痴、父の失敗を話しては楽しそうに笑っていた。
言葉の上では父を悪く言いながらも愛情を感じさせる母のその口調が、
キュートはとても好きだった。
そのことを告げると、母はムキになって否定したものだが。
そんなところも好きだった。
二人が好きだった。だから、悲しませるような真似はしたくなかった。
どれくらいの間、そうして話し込んでいただろうか。
今までまったく物音のしなかった電話の向こうから、父のうめくような声が聞こえてきた。
わずかに聞き取れる言葉から推測するに、どうやら替わってほしいとねだっているようだった。
『お父さんに替わる?』
o川*゚ぺ)o「ううん、いいよ。またこっちからかける」
『それが賢明ね』
この人、一度話しだすと長いものねと、母は笑った。
そして軽いお別れの挨拶を交わし、携帯を耳元から離した。
しかしキュートは、このまま通話を切るのが名残惜しい気がした。
自分では電源を切らず母任せにして、熱のこもった携帯を片手に握りしめ続けた。
すると唐突に、手元から母の声が聞こえてきた。
-
『……あなたのしたいことをしなさい。それが私たちの望みでもあるのだから。
それだけよ。……それじゃ、今度こそまたね。身体に気をつけて』
キュートが慌てて携帯を耳に当てると、その時にはもう、
通話が切れたことを告げる無機質な音だけが響いていた。
携帯をかばんにしまう。窓の外に見える光景はもう、
キュートのまったく知らない景色になっていた。すでに相当な距離を走ったのだろう。
ハインは鼻歌を歌いながら快調にアクセルを踏んでいた。
キュートは申し訳ないとは思いながらも彼女の方へ振り向き、話しかけた。
o川*゚ぺ)o「ハイン、ごめん。やっぱり食事はまた今度にしよう。今日は家で休みたいよ」
.
-
※
長岡の表札がかかった玄関を開け、部屋の中へと入る。
少し埃っぽい。二人とも遅くまで大学に残り帰ってくるときには
疲れていることが多いので、掃除がおろそかになってしまうのだ。
……というのは、いいわけかもしれない。
ハインは着ていた服を次々に脱ぎ捨て、
不意に誰かが来たときどうするんだと言いたくなる格好になる。
本人いわく、見られて減るものでもないし、とのことだがそういう問題ではないだろう。
キュートはハインとは違い、常識的な格好に着替えをすませる。
そして、誘いを断ったせめてものお詫びにと、夕飯をつくることにした。
冷蔵庫から適当な食材を取り出し、肉と野菜とうどんを炒め、濃いめに味付けをする。
濃い味にしたのは酒のつまみにもなるため。
キュートはアルコールの匂いも苦手で一切口をつけないが、
ハインは堂々と飲酒できる年齢になってから、キュートの知る限り毎日晩酌をしていた。
ドイツ人の父親の血か、どんなに飲んでも翌朝に持ち越すことはないらしい。
それでもこう毎日飲むのは身体によくない。いつか注意しようとは思っている。
-
それはともかく。できあがった焼きうどんを居間に運ぶ。
ハインはすでに飲み始めていたらしく、早くもビールの缶がひとつ空いていた。
从//^∀从「ほんとにもう、キュートは最高の嫁だね。愛してるよー」
o川*゚ぺ)o「気持ち悪いこと言ってないで早く食べなよ。冷めちゃうよ」
うどんをすすりながらテレビを見る。
数人の芸人が身体を使って笑いを取りに行っている。
ハインはわはわは笑いながらビールに口をつけているが、
この手の番組のおもしろさがいまいちわからないキュートにとって、
何がそんなにおかしいのか不思議だった。
キュートは皿を空けると自室から一冊の小説を持ってきては、
楽しそうにテレビを見ているハインの隣に腰掛け本を開いた。
「カレルレン」「オーバーマインド」「変容する子供たち」
「ただ一人地球に残った最後の人類」もう何百回と、暗唱できるほどに読み込んだ物語。
楽しさを見出す段階はとっくの昔に通り過ぎている。
キュートはこの小説を、意識を集中させたいときに用いていた。
-
ページをめくりながら考えるのは、母が別れ際に言っていた言葉、
「あなたのしたいことをしなさい」について。
キュートは考える。この十年余、
キュートは精神科医になることだけを目的に生きてきた。
だがそれは、精神科医になってつらい思いをしている人を救いたいから――
という動機からきた夢ではない。なって何かをなしたいのではない。
精神科医になること、そのこと自体がキュートにとっての宿願だった。
今でも精神科医にならなければならないとは思っている。
その気持ちに変わりはなかった。
ただそれは、ポジティブな念に突き動かされた衝動ではない。むしろ――。
キュートの頭に父と母の顔が思い浮かぶ。
愛すべき私の両親。かけがえのない二人。どんな形であれ裏切りたくない。
しかし二人の望みが私の幸福な未来であるならば、
この”執着”は捨て去るべき過ちなのかもしれない。
そこに私がしたいことなどないのだから。
けれど。
したいこと、したいこと――
私のしたいことって、なんだろう。
-
从//゚−从「さっきの話だけどさ」
き「え?」
隣で呑み耽っているはずのハインから急に話しかけられ、
キュートは思考を中断された。ハインは構わず話し続ける。
从//゚−从「素直クール。妖怪ババア。何百年も前から続いてるちょー古い家の現当主」
素直クール。
何故だろうか。
その名を聞くと、胸の奥の異物感が生起する。
キュートは胸を抑えて、話の続きを促した。
从//゚−从「俺も詳しくは知らない。
けど一言で言うなら敏腕な人だって、兄貴が言ってた。
歴史だけが自慢だった素直家を近代化してかつての権威を取り戻させたとか、
大企業にも顔が利くし有力政治家とのパイプもあるとかで
いまやこの地方の支配者として君臨してるとか、他にもいろいろさ。
でもさ、そんなのは”ガワ”の話に過ぎないんだ」
-
ハインの顔はさきほど車内で見せたときと同じように、
険しい陰をつくっている。
从//゚−从「きな臭い噂が山ほどなんだよ。
親のいない子を外国に売りさばいてるとか、
法で禁止されてる幻覚植物を大量に保管してるとか、
人間を処理するためだけに用意された部屋があるとか……
それに、素直って一族はな――」
ハインの顔が近づく。形の良い口から漏れる吐息がなまぬるくほほをなでた。
人を呪って栄えたんだ
.
-
おお
面白
-
※
熱めのシャワーを全身に浴びる。肌が焼けるような強烈な熱さ。
しかし全身を駆けめぐる悪寒は一向引くことなく、キュートの四肢を蝕み続けた。
『悪いけど、俺は賛成できない。あの妖怪ババアが関わってる碌でもない企みに、
キュートが巻き込まれちまうのを見たくない』
悪寒を理由に話を遮ろうとしたキュートに向かって、ハインはそう言った。
真剣な口調だった。曖昧な噂を引き合いに出している態度とは思えないほどに。
何かもっと、具体的な出来事を知っているのかもしれない。
あるいはハイン自身が、何らかの被害を被ったことがあるのか。
疑問はいくつも浮かんだが、それを問いただす余裕がその時のキュートにはなかった。
駆け出すようにして風呂場に逃げだした。
呪い。
オカルトチックで、笑ってしまうほどに前時代的な言葉。
けれどキュートはハインの発言を、質の悪い冗談と一笑に付すことはできなかった。
ハインの態度があまりに深刻だったから――という理由だけではない。
-
浴室に飾り付けられた鏡の前に立つ。
そこには凹凸のない、扁平な身体をしたキュートの姿が映っている。
小さな背。モデルのようなプロポーションを誇るハインとは比べるまでもない。
キュートと類似する身体的特徴の持ち主を探したいならば、
近所の小学校を観察すれば一発だった。子どもの身体。女児の肉体。
十年と少し前。九歳の誕生日を過ぎて三ヶ月後、キュートの成長は止まった。
その時自分の身に起こったことを、キュートはよく覚えている。
あの日が初めてだったから。周囲の誰にも打ち明けなかったが、
あの日が停止の始まりだったのだと、キュートは確信を持って言うことができた。
三年後、キュートが中学に上がったばかりの頃。
一向に成長しない娘を心配した父と母に、キュートは病院へ連れて行かれた。
検査は両親の想像を越える長い期間を要し、キュートはその間一年以上病院へ通い続けた。
が、原因はいっさい不明。体内外問わずどこにも異常は見つからず、
治療の切っ掛けすら得ることはできなかった。
成長しない自らの身体と付き合う方法を説く医師の言葉を聞きながら、
キュートは内心、医学で解決できるものかとつぶやいていた。
永遠の幼性。
第二次性徴の起こらない身体。
それらは医学的要因に基づく現象ではない。キュートはその原因を知っている。
私は呪いを知っている。
-
鏡に映る幼い肉が、胸の皮を引きちぎらんばかりに爪を立てていた。
筋となって流れる血の陰に、無数の傷跡が見え隠れする。
その中に一本、一際大きい蚯蚓腫れが盛り上がっている。
古い傷。胸についた初めての傷痕。
胸の奥が重たい。あの日もそうだった。
血を循環する臓器の働きが滞り、本来流れるべきものがすべて
そこに集まってしまったかのような気持ちの悪さ。
強烈な吐き気。
しかしその吐き気では、絶対に嘔吐することができないのだと、
キュートはすでに知っている。
いよいよもって気分が悪くなってきた。
しかし何故だ。何故今日、何故今、あの日と同じ不良がこの身に起こっているのか。
何故あの老婆を前にすると、その名を聞くと、胸の重みが強くなるのか。
呪い。
呪い。
呪いで栄えた一族の末裔。素直。素直クール。彼女は――
-
はけ
-
身体が沈んだ。右足の先がなくなっていた。
違う。床の下へと沈み込んでいるのだ。
いやそれも違う。床が床でなくなっていた。
そこには液体しかなかった。無間に続く広漠な液体の砂漠。
沈んだ右足を引き抜こうと身体をよじる。
しかしバランスを崩したキュートは膝をつき、ついた膝からさらに沈み込んでしまう。
いや。
いやだ。
身体が重い。自由が利かない。粘度高く絡みつく液体。
もがけばもがくほど、キュートの身体は意志持つそれの体内へと引きずり込まれていった。
腰が。
胸が。
肩が。
キュートから乖離しその感覚すら消え失せていく。
-
はけ
-
液体と同化した身体に音が響いた。
それは偶然にしぶいた液体の脈動にしては意味を持ちすぎており、
明確な意図を内包した意味ある言葉にしてはあまりにも重性に満ち満ちていた。
キュートは叫び声を上げながら逃げようとした。
逃げようとしてもがいて、もがいて、ついにはその叫び声が液体に溺れた。
あの日と同じだ。
口の中へ潜り込んできた液体に、気道を塞がれる。
外だけでなく、内側まで浸食されていく。
そしてそれらは、粘りつくなめくじの速度で一所に集まっていく。
キュートの中心――胸の奥、胸の奥へと。
-
はきだせ
-
液体の奥に、黒い影が浮いていた。
不定形な影であるそれはキュートに身体にまとわりつき、その肌の上を蠢いていた。
それの一部が、めくれ上がるように二つに裂けた。鈍い光がふたつ、灯った。
それと目があった。
.
-
『キュート!』
-
自分を呼ぶ声とともに、キュートは正気にもどった。
出しっぱなしのシャワーからもうもうと湯気が立ちこめ、
お湯を張っていた桶がひっくり返っている。
無限に広がる液体などどこにもない。いつも通りの浴室だった。
いつのまにか浴室へと入り込んできたハインが、
濡れることも気にしない様子でキュートに抱きついていた。
从; д从「大丈夫だからね!
私がいるからね!
なにも心配いらないからね!
キュート、キュート、キュート、キュート……」
嫌な悪寒に震えるキュートの、その震え以上に
ハインの様子はあわてふためいていた。
そしてそれ自体が何かの呪文であるかのように、
キュートの名を延々と呼び続けていた。
しかしその自分を呼ぶハインの声を、
キュートは耳にしていなかった。
キュートの意識は、別の所へと飛んでいた。
-
今のは幻覚だろうか。
いいや違う。
あれは現実だ。
憎悪の海に呑まれたことも、
それが私の内へ浸食したことも、
胸の奥へ迫ったことも、
その意思があの影にあったことも、
あの双眸が、口が、精神が訴えかけてきたことも、
なにもかも、みんな、全部。
あの日と同じように、
“あの女”が私に見せた現実。
そうか。
お前は私を許さないのか。
お前を忘れて生きることなど許さないのか。
いいだろう。
私がお前を忘れようとも、お前が私を忘れないなら――
-
これは復讐なのだ
私の大切なものを奪った、あの女<ママ>への復讐
.
-
※
――わかりました。旧閉鎖棟――彼の下へ案内します。
《続》
-
続きはまたそのうちに
-
乙っした。なかなかハードな世界観でいいね
-
乙です。次も楽しみにしてます
-
素晴らしい
読ませる展開力と文章力
おつ
-
これは面白い、頑張ってくれ
-
たまには重めのものを読みたかったんだ
乙です!
-
ウヒョー
-
全編シリアスの中、唐突な内藤パパにわろた
是非とも完結させてくれ
-
妄想がとまらないぜ
-
乙!
最初のエピグラフ何かの引用かと思ったけど
あれオリジナルってすげえな……
すげえ面白い、頑張ってくれ
-
>>1です。諸々の理由により執筆に手がつかず、投下までまだ時間が掛かってしまいそうです
楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、9月中には投下する予定ですのでもうしばらくお待ちください
それと、感想をレスしてくださった方々、本当にありがとうございます
楽しんでいただけていると実感できることは、ぼくにとっても励みになります
次章はもっとおもしろい物にするべく頑張りますので、重ね重ねになりますがもうしばらくお待ちください
-
期待
-
( ^ω^)はあくしたお
-
期待してるんだからね
-
http://snowed.s601.xrea.com/library/childhood/
まとめを作ったのですが、>>58の き は o川*゚ぺ)o に置き換えて大丈夫でしたか…?
続き楽しみに待ってます
-
>>89
>>1です。まとめありがとうございます。訂正もそれでだいじょうぶです
というか、言われるまでまったく気づかなかった恥ずかしい……
-
>>1です。遅くなって申し訳ありません、ようやく完成の目処がつきました
時間は多少前後するかもしれませんが、9月25日の19時から投下します
-
待つぞ
-
お、楽しみだ
-
待ってた
-
いまみた。いい感じの世界観だなー楽しみ
-
《 ※ 》
「もはや彼女は使い物にならん」
「後二十年――せめて十年は保つものと思っていたが」
「器ではなかったということだろう。幸い世継ぎには恵まれた。
それで良しとしようではないか」
「その世継ぎのことだが、誰に面倒を見させるつもりだ?」
「ヒートでよかろう。あれとて素直の家に生まれた娘、
その程度の役割ならば任せても差し支えはあるまい」
「私は反対だ。太梵を感じられぬ者が教育など笑止千万。
杉浦から乳母(めのと)を招き入れた方がまだましというもの。
それにあれの娘のこともある。良からぬ影響を与えかねん」
「知障の娘か……。あれもよくよく面倒を持ち込む」
-
「そのことだが、異常が判明した以上、
あれの娘を素直に置いておく必要はないと私は考えている」
「相真へ送るのか?」
「いや、そのまま太梵へ還す。幼く無垢な今の内ならば、まだ間に合うはずだ」
「異議はない。むしろ遅すぎたくらいだろう」
「然り。あれも娘が消えれば、自らの役目に専心できるというもの」
「なれば」
「うむ」
「ギコ殿、構いませぬな」
「素直の意のままに……」
-
きたー?
-
これは夢だ。私の夢。限りなく現実に即した私の悪夢。
腹を痛めて生んだ子が目の前で連れ去られていくのを、
止めることもせずただ呆然と眺めているだけの悪夢。
私は彼らを止められない。
出来損ないの素直である私には、そんな発言権など与えられていない。
私にできることはただ自らを呪うことと、届きもしない謝罪を繰り返すことだけ。
ごめんね。
ごめんね。
こんなお母さんでごめんね。
強く生んであげられなくてごめんね。
出来損ないでごめんね。
姉様じゃなくてごめんね。
――姉様?
どうしたの、姉様。
眩しくてよく見えないよ。
笑っているの?
泣いているの?
どうして、私の子を抱いているの?
-
「――――」
聞こえない、聞こえないよ姉様。
何も聞こえない、わからないよ。
「――――――」
いやだ、置いていかないでよ姉様。
怖いよ。
暗いよ。
何も見えないんだ、何も聞こえないんだ、何もわからないんだ。
お願いだよ、姉様。
私を独りにしないで。
私からその子を取り上げないで。
姉様、姉様。姉様!
くるう――!
.
-
しえん
後でゆっくり読ませてもらうよ
-
――お前も、置いていかれたの?
そっか。似た者同士だね。
心配しなくていいんだよ。
私はお前の母親じゃないけれど、
きっと、
お前の母親になってみせるから。
姉様に、なってみせるから――
.
-
《 二 》
まるでミノタウロスの迷宮だ。
その役目は外部からの刺激を防ぐ防御壁であったのか、
取り込んだ者を二度とは出さない伏魔殿であったのか。
呑み込まれたのは誰か。
光差さぬ地下の底。
複雑に曲がりくねった廊下を歩みながら、キュートは思った。
ここは相真大学病院旧閉鎖棟。いまや破棄された時代の遺物。
素直クールの先導の下、その最奥へと向かっている。
薄暗く足下も覚束ないこの道を、素直クールは迷いなく進んでいく。
被案内者をまるで考慮する様子のないその歩調には、ついていくだけで精一杯だった。
足音だけがこだまする。
現実感のない光景。
-
空気の淀みのせいだろうか。平衡感覚がおかしい。
まっすぐに歩くのが容易ではなくなってくる。
心なしか身体が重く、地面に沈み込んでいるような錯覚に陥る。
足下に目を凝らす。しっかり上半身とつながっている自らの脚を頼りに、無言で歩を進める。
ただ歩く。歩く。歩き続け、歩き続け、そして、キュートはふと、そのことに気がついた。
o川*゚ぺ)o「素直クール……?」
いつの間にか、素直クールの姿が消えていた。
足音も聞こえない。しんとして無音。
急速に、心臓が跳ね回り始めた。
キュートは歩きだした。その歩調は次第に速まり、しまいには駆けだしていた。
並んだ鉄柵が次々と後方へ通り過ぎていく。
溶けるように視界が歪曲する。歪曲する世界を駆ける。
自分が何故走っているのかもわからなくなっていたが、止まることもできなかった。
意思とは無関係に身体が動いているようだった。
-
と、その時。視界の端に、何かが飛び込んできた。
同時に、転んだ。
転んでキュートは止まった。
倒れた身体を起こすと、目の前には整然と並んでいる独居房の、そのうちのひとつが広がっていた。
だが、何か違和感がある。他の部屋とは、何かが決定的に違う気がする。
生唾を呑み込む。
キュートは知らぬ間に、鉄柵に顔を寄せていた。
引き寄せられるようにして、薄暗い房の、その闇に隠れた深奥へと目を凝らした。
そして、それを見た。
.
-
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃ
ないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこ
じゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃな
いあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあの
こじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあ
のこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃな
いあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃ
ないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃな
いあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃ
ないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあ
のこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじ
ゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあの
こじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじ
ゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこ
じゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこ
じゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
.
-
o川; へ )o「……うっ」
吐き気を堪える。
独居房の奥、打ちっ放しのコンクリート壁に埋め尽くされていたものは、呪詛めいた文言の羅列であった。
その色は鈍にくすんだ赤。鉄錆の鼻をつく臭いが、ここまで漂ってきそうな程の。
ここは危険だ。すぐに離れた方がいい。
頭の中で、警告を発している自分がいる。
だが。
キュートは、その言葉に従えなかった。
赤鈍の呪言から目を離すことができず、知らず、鉄柵に手を伸ばしかけていた。
その腕を、誰かが、つかんだ。
-
川 ゚ -゚)「気が移ります。不用意に触れないように」
o川;゚ぺ)o「素直、クール……」
キュートの腕をつかんだのは、素直クールだった。
彼女は倒れていたキュートを引っ張り上げると、何事もなかったかのように再び歩き始めた。
キュートはその後を追おうとして、その前に一度、独居房を振り返った。
だがそこには、何の変哲もない空間が広がっているだけだった。
文言の羅列も、あの呪的な引力も、跡形もなく消え失せていた。
夢――?
足音が離れていく。
キュートは首を振り、今度こそ置いていかれないよう早足で先導者の後を追った。
.
-
※
どれだけ歩いただろうか。
わざと複雑な道を選んでいるのではないかと勘ぐってしまう程、
素直クールの進み方は無軌道かつ難解だった。
時間の感覚が失せ、いい加減疲れが膝にまで達した頃、唐突に素直クールが静止した。
陰の中で、何かが動いた。それは徐々にこちらへと近づき、
次第にその輪郭がはっきりとしてきた。背の高い、大人の男性がそこにいた。
_
( ゚∀゚)「遅かったじゃないですか」
川 ゚ -゚)「ご苦労様です、長岡医師。彼は?」
_
( ゚∀゚)「変わりありませんよ、まったく。うんざりするくらいね」
川 ゚ -゚)「そうですか」
簡素な返事の直後、素直クールは精緻な動作で反転した。
姿勢のよい背中が視界に映る。
_
( ゚∀゚)「お会いにならないんで?」
川 ゚ -゚)「必要ないでしょう」
-
言うが早いか、素直クールはすでに歩き出していた。
枯れ木のような姿が陰に呑まれてさらに細く薄くなっていく。
やがて足音だけが彼女の痕跡となり、程なくしてそれも闇の向こうへと消え去った。
o川*゚ぺ)o「……負けませんから」
キュートの口から自然と言葉がこぼれた。
それは素直クールへの宣戦布告でもあり、自身を励起させる勇気づけとも言えた。
キュートはじっと、怪老の消えた先をにらみつけた。
_
( ゚∀゚)「内藤キュート」
自分の名を呼ばれ、キュートは我に返った。
壁を背に寄りかかった男性が、こちらを見ている。
長岡と呼ばれた男性だ。彼は親指を立て、奥の方を指していた。
_
( ゚∀゚)「杉浦しぃに会いに来たんだろ。ぼーっとしてないで、
実際に見てくればいい。直に自分の眼で、あれがどんなものかを」
それだけ言うと長岡は腕を組み、眼を閉じた。
まずは会え、それまで話すことはない、という意思表示だろうか。
促されるまでもなく、それが目的でここまで来たのだ。いまさら躊躇うこともない。
-
しかし、長岡の物言いには些か気になるところがあった。
あれ。
物か何かを指し示すかのような、突き放した言い方。
少なくとも、医師が患者に向けて使う言葉ではない。
杉浦しぃとは、どんな人物なのか。
キュートは壁を背に寄りかかる長岡の前を通り、
奥の間、相真大学病院旧閉鎖棟のその最深部へと足を踏み入れた。
人の臓器を貪り喰らう狂気の精神科医。
コレクションと称して死体をホルマリン漬けにする幼児性愛者。
カリスマ的殺人者、ヘルター・スケルター。
ピエロの絵画師キラー・クラウン。
あるいは言葉も正体も失って、常時よだれを垂れ流すようになってしまった何者か。
依頼を受けることを決めてから、キュートは杉浦しぃの人物像をいくつも思い浮かべていた。
こんな場所に隔離される患者とは、いったいどんな人物なのだろうかと。
陣内院長が”危険”だと言った人物。
キュートの思考も、自然とその言葉に誘導されたイメージを生み出していた。
だが、現実の彼は、そのどの想像にも当てはまらない姿でキュートの前に現れた。
-
o川*゚ぺ)o「……女の子?」
眠るように安らかな表情をした女の子が、暗がりの部屋の中心に座っていた。
いや、違う。よく見ると丸みの少ない骨格などから、どことなく男性的なところも見受けられる。
これが彼――杉浦しぃなのだろうか。
彼は冷たく剥き出しになったコンクリートの上にも関わらず、
本当に眠っているようで、まるで動き出す気配はない。
キュートは恐る恐る近づいてみた。
長くて綺麗な睫毛。中学生くらいだろうか。肌もきめ細かく瑞々しい。
そばで見れば見るだけ、整った顔立ちをしているのがわかる。
そっと手を伸ばしてみる。
-
_
( ゚∀゚)「それが杉浦しぃだ」
背後から聞こえてきた声に、反射的に手が引っ込んだ。
長岡医師がすぐそばに立っていた。キュートの気づかないうちに部屋に入ってきていたらしい。
悪いことをしていたわけでもないのに、妙にたじろぐ自分がいる。
o川*゚ぺ)o「あの、彼は……彼は、何で寝ているんですか?」
キュートは内心の同様を気取られないよう、とっさに思いついた質問を投げかけていた。
_
( ゚∀゚)「生物なら寝るのが自然だろう」
素っ気ない返しである。
キュートは間を埋めるために、なおも質問を続ける。
o川*゚ぺ)o「いえ、そういうことではなく、何もこんなところでなくてもいいのではないかと思いまして。
ここはその、埃っぽいですし、衛生面の配慮も行き届いているようには見えませんから」
_
( ゚∀゚)「必要ないだろう、これには」
-
切り捨てるような物言い。
そして、まただった。
また、物を指すような”これ”呼ばわり。
しかも今回は、眠っているとはいえ本人の前でだ。
o川*゚ぺ)o「あなたは自分の患者にもそんな物言いをするんですか?」
キュートはうちに芽生えた反感を、皮肉気にそのまま口にした。
口にしてから、初対面の、しかも目上の人に対し、あまりにも無礼だったかと後悔する。
だが、いまさら撤回するわけにもいかなかった。
しかし長岡はキュートの発言に不快感を表す様子もなく、
むしろ呆れるような、哀れむような視線でこちらを見下ろしてきた。
_
( ゚∀゚)「お前、これについて何も説明されていないのか?」
長岡の口調には、同情的な響きが含まれていた。
キュートは急に恥ずかしさを覚えた。
自分の無知を、子どもっぽいミスを指摘されたようで、何も言い返せなくなる。
_
( ゚∀゚)「こいつはな、ここに運び込まれてからずっと、こうして眠ってるんだよ」
長岡は押し黙ったキュートを気にする様子もなく、ぶっきらぼうにそれだけ言い捨てた。
だがキュートには、長岡の言わんとしているところがわからず、視線を落としたまま眉をひそめる。
-
o川*゚ぺ)o「ずっとって……いつからなんですか?」
_
( ゚∀゚)「一年だ」
o川;゚ぺ)o「……一年?」
_
( ゚∀゚)「正確には一年と二ヶ月か。一年余、これはこの格好のまま、ぴくりとも動かず座り続けてきたんだよ」
キュートは顔を上げ、話す長岡に視線を合わせた。
一年間眠り続けている?
かついでいるのだろうか。しかし、冗談を言っているようには見えない。
o川*゚ぺ)o「それはその……植物状態、ということですか。深い昏睡に陥っていると」
_
( ゚∀゚)「確かに自力移動や摂食が不可能な点は、植物状態の症状と酷似している部分もある。
しかしこれは、排泄をしない。点滴も必要としない。外部から栄養を摂取することなく、
完全にこのままの姿を保っている。植物状態とは根本で異なっている。
髪も爪も伸びず垢も出ず、検査では異常が見られないのに光にも音にも無反応。
嗅覚や触覚が働いているのかも定かではない。だが――」
長岡の鋭い目が、さらに細く鋭利に切れる。
_
( ゚∀゚)「これは生きている」
-
長岡は真剣だった。嘘や偽りは感じられない。
第一私を騙して、この人に何の得があるのかとキュートは思う。
けれど。
だからといって、そう簡単に信じられることでも……。
キュートは視線を地べたに座るしぃに向けた。
杉浦しぃ。
穏やかな深閑に佇む少女のような少年。私の未来を左右する人物。
未分化な性を感じさせるその顔には、やわらかな笑みが浮かんでいるようにも見える。
まるで楽園の夢でも見ているかのように。
こんなにもかわいいのに。
_
( ゚∀゚)「もういいだろう、ここじゃコーヒーも落ち着いて飲めん。
向こうに管理室がある、移動するぞ」
そう言って、長岡はこの場から離れ始めた。
しかしキュートはすぐには彼の後を追わず、
未遂に終わった彼との接触を今度こそ果たそうと、何の気なしに手を伸ばした。
ふわりとしたほほに指先が触れた。
-
『すまない、許してくれ、すまない――』『そんな、約束と違う!』『いくらです?』
『仕方なかったんだ――』『いやだいやだいやだ!』『たっぷり愛してあげるからね――』
『死』『おいしそう――』『殺さないで!』『腐ってる――』『眩しい』
『神とひとつに――』『神』『神様』『神様!』
『助けて』
『』
『』
『』
『おやすみなさい』
.
-
――尻餅をついていた。
何かが見えた――気がする。
一瞬のことで、よくはわからなかったが。
_
( ゚∀゚)「どうした?」
o川*゚ぺ)o「……いえ、何でも」
いぶかしむような長岡の声が聞こえてくる。
すぐに平気であることを返事するも、キュートはしばらく動けずにいた。
目の前の杉浦しぃは神秘的なほどに何の変化もないまま、
やわらかな笑みを湛えて静止していた。
.
-
※
o川* へ )o「……すみません、よく聞こえませんでした。
もう一度言ってもらっていいですか?」
狭く複雑で重苦しい空気の漂う旧閉鎖棟のなか、
唯一管理室だけは広々とした人の生活するスペースが確保されていた。
奥には仮眠室やシャワールームなども設置されている。
必要な電気も通っているようで、長岡はそこでコーヒーを沸かせていた。
そしてふたつ分のマグカップにその濃く黒い液体を注ぎ、
そのうちのひとつをキュートの席に置いた。
長岡は椅子に座り、自身のカップを傾けた。
キュートの両手に収まったもうひとつのカップはというと、
その量をまったく減らさないまま、振動で細かな波紋をいくつも作り出している。
o川* へ )o「……あなた、素直クールの依頼で来たんですよね?」
_
( ゚∀゚)「その通りだ」
o川* へ )o「ここに患者がいるからと……」
_
( ゚∀゚)「ああ」
o川#゚ぺ)o「……じゃあ、何でですか。何で!
杉浦しぃの治療に一切関与しないと!!」
-
キュートは立ち上がり、感情のままテーブルを叩いていた。
バランスを崩したカップが左右にゆれ、硬質な音を鳴らしている。
しかし長岡は、尚もすまし顔でカップを傾けていた。
空になったカップを見つめ、二秒も三秒もかけてからテーブルに置き、
そのままの姿勢で視線だけキュートへ向けてきた。
_
( ゚∀゚)「内藤キュート、俺を誰だか知っているか?
o川#゚ぺ)o「……ハインのお兄さん、ですよね」
長岡ジョルジュ――ハインの口から何度も聞かされていた兄貴、お兄さんのこと。
会うのは初めてだったが、その人相は概ね想像していた通りと言える。が、しかし。
_
( ゚∀゚)「そうだ。そして昨年研修期間を終えたばかりのペーペーでもある。これがどう意味かわかるか」
o川#゚ぺ)o「わかりませんが」
自然と返事がぶっきらぼうになる。
_
( ゚∀゚)「期待されていないってことだよ、まったくな。
お偉い先生方が一年以上うんうんうなって何ともならなかったものを、
ただの一学生と医師成り立ての若造にどうにかできるものでもない。
そう理解した上での体裁作りに利用されているだけ、それだけなんだよ、
俺たちがここにいる理由はな」
-
o川#゚ぺ)o「私は違うんですよ!」
_
( ゚∀゚)「事情は聞いてるがね、素直クールはお前さんに何の期待もしていないよ。
今回のことはうまく諦めさせるための口実ってところか」
この男がどんな腹積もりでここに来たのかは定かでないし、興味もない。
しかしキュートにとって今回のことは、未来を左右する人生の山場なのである。
ダメで元々程度の気持ちであれば、そもそもこんな所には来ていない。
ゆえに、はいそうですかと簡単に折れることはできない。
そうやすやすと屈するわけにはいかない。
o川#゚ぺ)o「あの子は治ります。快復したいと思っているはずです!」
_
( ゚∀゚)「ほう、根拠は」
o川#゚ぺ)o「かわいいからです!」
何を言われようが表情を崩さなかった長岡も、さすがに面食らっていた。
とにかく言い返してやれという勢い任せに口から出たでまかせだったが、さすがにこれは、何というか。
キュートは椅子に座り、マグカップに口を付けた。……苦くて飲めないのだが。
-
_
( ゚∀゚)「恒常性という言葉は学んでいるな」
長岡がとうとつに切り出した。
先程までとは異なり、どこか威圧的な空気を醸している。
o川;゚ぺ)o「何を、とつぜん――」
_
( ゚∀゚)「学んでいるな」
迫力に呑まれ、うなずく。
o川;゚ぺ)o「恒常性――ホメオスタシス。生物がその基本状態を保とうとする性質、ですよね」
_
( ゚∀゚)「そうだ。この機能が働いているからこそ傷を負いウイルスに感染しても、
自然治癒力が働いて元の身体へと快復することができる。
よく医者は患者の治ろうとする意思を手助けしているだけという言を使うが、
それはまさにこの恒常性の働きを言い表している。
例外はあれど、我々の仕事はこの機能の線上で行われていると言っても差し支えはない。しかしだ」
長岡がこちらを向いた。いや違う。
その視線はキュートを越え暗闇の向こう、旧閉鎖棟のその最深を穿っている。
キュートもつられて、闇の先で佇むものを凝視する。
-
_
( ゚∀゚)「おまえ、あれを見てどう思った」
o川;゚ぺ)o「何って、かわいい――」
_
( ゚∀゚)「それはもういい」
即座に切り捨てられてしまった。本気だったのだけれど。
仕方なく、キュートはもう一度彼のことを考える。
あのやわらかな肌。安らかな寝顔。
o川*゚ぺ)o「……眠っているようでした。静かに」
_
( ゚∀゚)「苦しんでいるように見えたか?」
o川*゚ぺ)o「いえ……」
_
( ゚∀゚)「検査の結果、自律神経系、内分泌系、免疫系に異常はなかったと報告されているのは知っているか」
o川*゚ぺ)o「いえ……」
_
( ゚∀゚)「ホメオスタシスの三角形という言葉は知っているな」
o川*゚ぺ)o「……ええ」
-
少しずつ、長岡が何を言いたいのかキュートにもわかってきた。
病気というのは、病原体そのものが人体に悪影響を与えるもの以外にも、
人体内部で起こる抗体反応によって痛みや苦しさを起こすものも多い。
風邪の発熱現象などはその典型的な例だろう。
これは免疫系が正常に働いている結果だ。
免疫恒常性、侵入した外敵を排除し正常な状態を維持しようとする働き。
自律神経系や内分泌系も、役割こそ違えど人体を正常な状態に維持しようとする働きを持っている。
ホメオスタシスの三角形とは、この三つの系の総称だ。
このホメオスタシスの三角形が根本から破壊されていたり不摂生によって混乱していたりなど、
何らかの不備が生じていない以上、人体は自らの身体を元にもどそうと格闘する。
それが病気だと、正常でないと判断する限り、恒常性は働くのだ。
翻って。
長岡の言を信じるならば、杉浦しぃはホメオスタシスの三角形と呼ばれる自律神経系、
内分泌系、免疫系のどこにも異常はない。それは、つまり――。
キュートの思考がここまでたどり着いたことを推察したのか、長岡は小さく「そうだ」と肯定した。
-
_
( ゚∀゚)「あいつはあれで正常、いたって健康体なんだよ。
栄養の摂取も排泄もしない、眠ったままのあの状態が。
わかるか、あれは俺たちの分野の外にいる何かなんだ。
病気なら手の打ちようもあるが、存在しない病を治療することはできん。
手を出すこと自体間違ってるんだよ。
生物学研究所か何かに連れて行った方が、よほど相応しいと俺は思う。それに――」
長岡の視線が、深奥の彼から外れた。
_
( ゚∀゚)「俺は医師の端くれとして、正常に保たれているものを異常な方向に歪めたくはない」
長岡が見つめる先には、コンクリートの地面があるだけ。
しかし長岡の瞳には、そこに確かな何かが存在するかのように情感を伴っていた。
キュートには、そこに何があるのか読みとることはできなかった。
その代わり、キュートはその時始めて、長岡という人間の素顔を見た気れた気がした。
この人は、本当は誠実な人なのかもしれない。
この人は、正しいことを言っているのかもしれない。
ひょっとしたら、間違っているのは私なのかもしれない。
決意と緊張で覆い隠した自身への疑念が再び、
鎌首をもたげようとしているのがキュートにはわかった。
だが。
-
o川*゚ぺ)o「それでも……それでも私は、そうは思いません」
確かに彼の発言は筋が通っている。
何事もなければ、自分勝手で子供じみている自分の行いを恥じ、説得されていたかもしれない。
しかし、と、キュートは思う。
私は見た。
一瞬のことで、何がなんだかわからなかったが。
どんな意味を持つのかもわからないが。
彼に触れたとき。
あの光景を見た。
人の暗い情念を凝縮した、悪夢のようなあの光景を。
あれが、彼にとっての何なのかはわからない。
しかしあれは、明確な異常だ。
ホメオスタシスの三角形やその他医学的な見地において、何の問題がなくとも。
彼には正常でない部分がある。
だから、私は引かない。
-
_
( ゚∀゚)「平行線だな」
長岡はコーヒーのおかわりを注いでいた。
その表情はもう、元のそれにもどっている。
これ以上は意味がないと悟ったのだろう。話し合いは終わったのだ。
両手のなかのカップをみる。
もう、波紋は生じていない。
o川*゚ぺ)o「長岡先生。私は私の思うようにやらせてもらいます。確かにこれは、私自身の問題ですから」
_
( ゚∀゚)「勝手にすればいい。ただし――」
o川*゚ぺ)o「ただし?」
_
( ゚∀゚)「ブラックが飲めないなら、素直にそう言ってくれ」
黒い水面が大きく波立った。
やっぱり嫌いだ、この男。
.
-
※
時間は限られている。できることも限られている。
医療機関であれば通常整っているはずの機材も、ここには置かれていない。
運搬する手間も惜しいが、そもそもにおいてキュートはそれらの扱いをまだ習っていない。
一から覚えていく余裕などあるはずもない。
いま現在身についている知識を総動員する以外、方法はない。ないのである。
素直クールはお前さんに何の期待もしていない、か。
長岡の言葉。状況を理解すればするほど、納得してしまう。
嘆いていても仕方ないか。
精神病の治療の基本は、今も昔も心理療法と投薬である。
その際患者の病状を尋ねるだけでなく、信頼関係を築けるように努力することが大切だ。
隠し事をなくすことで症状をより正確に理解する為であったり、
患者自身が気づかなかった症状を引き出す狙いなども、もちろんある。
しかしそれだけではない。
二十世紀後半、精神病を脳科学の分野として扱うべきだとし、
治療に必要なのは投薬のみであるという主張が起こった。
そして彼らは実際に投薬のみでの治療を行い、自らの主張を証明する成果を現実に叩き出した。
一面的には。
-
問題はその後に起こる。
彼らの患者は回復期間も短かったが、再発率も非常に高かったのである。
回復と再発を繰り返すうち、初期の段階より酷い症状を訴えだした患者も少なくなかったらしい。
といって、薬を一切使用しない治療が良い結果をもたらすわけでもない。
確かに心理療法を介して治癒した患者は、再発率が低い。
しかし投薬を行わない治療は、概して治療期間が長引く傾向にある。
いつまで経っても回復する兆しの感じられない治療行為に嫌気が差し、
患者が自主的に治療を終わらせてしまう、という事例も珍しいものではない。
これらのことから、精神医療においては心理療法と薬の併用が、
効率と再発率を鑑みるにベターである、というのが通説となっている。
投薬に不安感を示す患者は多い。
信頼関係を築く理由には、この不安感を払拭するためという意味合いも少なからず含まれている。
薬は怖いけれど先生が勧めるなら、という理屈である。
-
だがそれは、意志疎通の可能な患者の場合に限られる。
現実には意識不明瞭で言語や言語外でのコミュニケーションを取るのが困難な患者もいる。
このような場合は、患者の代わりにその家族から許可を得なければならない。
病気全般にいえることだが、闘病生活には家族の理解と協力が必要不可欠である。
殊、精神疾患においては。
近年は統合失調症の世界的急増により、これらの病気に対して認識を新たにしている人もいる。
しかしそれでも、偏見を持って接している者は少なくない。
例えば病気を病気と認めず、性格の問題として矯正しようとする、など。
家族の中にこのような人物がいると、症状が悪化してしまう危険性が極めて高くなる。
そのため医師によっては、患者への療法と同じ程度の力を入れて、その家族と話し合う人もいる。
しかし、杉浦しぃ。
意思の疎通は不可能。家族の存在も確認できない。
仮にいたとして、こんな所に放り込まれているくらいだ、
協力を求められる状況にはないだろう。
ではどうするか。病理の定かでない患者に、薬物投与などできようはずもない。
ショック療法や電気けいれん療法、磁気刺激療法などは知っているが、
後者ふたつは専用の機器が必要な上専門の知識がなければ非常に危険である。
前者のショック療法も、元々意識がないのだからショックも何もないだろう。
-
そこでキュートが採用したのは、触診とマッサージの併用である。
もっとも原始的にして今なお活用され続けているこの触診という方法は、
熟達した医師が行えば最新機器よりも正確に患者の状態を見抜けてしまえるものだという。
むろんキュートにそこまでの腕があるはずもないが、腫れや脈拍の確認程度なら行える。
毎日と言わず一時間、十分ごとに測定し続ければ、
何かしらの変化を察知することも可能かもしれない。
そして、マッサージ。
うつ病の患者に関して、このような報告がある。
日頃運動不足である患者を簡単な体操に参加させたところ、その症状が緩和したというもの。
また継続して身体を動かしている人と動かしていない人とを比較すると、
後者のうつ病発症率は前者の五倍以上にも上るというデータもある。
当たり前のようで忘れがちなことだが、適度な運動は健康に良い結果をもたらす。
脳を活発化させ、認知機能を高める効果があることも証明されている。
-
杉浦しぃが一年以上あの場所で眠り続けているというジョルジュの言葉が真実であるなら、
これは運動不足などという生易しい言い方で表すべきものではない。
通常約二ヶ月程度寝たきりになっただけで、
人の筋量は六○から七○パーセントにまで萎縮してしまう。
筋肉だけではない。骨格や、中枢神経組織にまで甚大な悪影響をもたらす。
回復させるには、負荷を与えることだ。
つまり身体を動かすこと。リハビリテーションの実行である。
しかし現実には、自力での行動が困難な患者も存在する。
その場合どうするかというと、外部からの刺激、
すなわちマッサージを行うことで、強制的な負荷を与えるのである。
正直マッサージの経験など、幼い頃に父と母に頼まれて行った
スキンシップの延長線上のものくらいしかなく、どうしても不安は残る。
しかしキュートには、これ以上の方法が思いつかなかった。
だいじょうぶ。
これは確かな医療行為として、その効果を保証されている方法だ。
だからだいじょうぶ。
それに、お父さんはちゃんと気持ちいいって言ってくれていたし。
-
自己暗示に決意を固め、キュートは行動する。
迷宮の最奥に座す彼、杉浦しぃに触れる。
その瞬間をキュートは躊躇い、意を決するまでに十分以上掛かったが、
接触の結果はあっさりと、彼のきめ細やかな肌の弾力が跳ね返ってきた以外に、
特筆すべきことは何もなかった。
簡易的に着せられた病衣を脱がす。
彼の身体は、キュートの想像していた通りでもあったし、いくらか想像から外れてもいた。
筋肉はやはり細い。目覚めても、しばらくはリハビリが必要になるだろう。
しかし、一年間眠り通しだったにしては萎縮が押さえられている印象を受ける。
それに骨や皮で角張っているわけでもなく、ちゃんと皮下脂肪も蓄えられているようだ。
何にせよ、やることは変わらない。
脈拍を測り、体温をみる。
おおまかに腫れや傷、しこりがないかも調べるが、特別異常は見あたらない。
-
マッサージに移る。全身をくまなく、丹念にもみほぐす。
特に人体においてもっとも筋肉量の多い臀部から太股、下腿にかけては重点的に。
身体を持ち上げてストレッチの真似事もさあせようとする。
が、キュートの小さな背丈では、小柄とはいえ男性である杉浦しぃを支えることは難しかった。
考えた末キュートは、管理室から椅子をひとつ拝借、それに座らせた。
座らせるために抱え上げるのも一苦労ではあったが、この程度ならまだなんとかなる。
肩の関節、膝の関節、股関節などが凝り固まらないよう、
時間を掛けてゆっくりとほぐしていく。
一通りの運動を終えたら、再び触診をする。そしてひとまず休ませる。
休ませている間に、カルテをまとめる。
どんな些細なことでも、逃さずに記載する。
そうしてまとめている最中に、座らせっぱなしは身体に良くないのではないかと思い至る。
キュートは仮眠室から毛布を引っ張り、眠っているしぃを抱えその上で横にさせた。
そしてもう一式引っ張り出した分を横に並べ、自分の寝床とした。
何かあればすぐ気づけるように。地上から持ってきた唯一の荷物、『幼年期の終わり』を傍らに置いて。
-
そうして、一週間が経過した。
――成果はなかった。
.
-
※
何度通っても慣れないな。
薄暗くかつ複雑な旧閉鎖棟の廊下を歩きながら、デミタスはため息をついた。
その手にはプラスチックのおぼん、その上には味付けの薄い病院食が乗っている。
なぜデミタスがこんなことをしているのかというと、
昼夜を問わず杉浦しぃを診ている内藤キュートの世話を任ぜられたからだ。
機密性の高いこの仕事に一般の看護士を寄越すことはできないという理由で、
デミタスに白羽の矢が立ったわけである。
デミタスとしてはまったく乗り気ではなかったが、
モララーからの指令となれば断るわけにもいかない。
渋々引き受け、こうして給仕夫の真似事をしている。
(´・_ゝ・`)「ええと、お待たせしましたー……」
o川*゚ぺ)o「ありがとうございます」
_
( ゚∀゚)「どうも」
-
管理室に到着したデミタスを、キュートと長岡は一瞥もせずに迎えた。
長岡は分厚い医術書に、キュートは睨むような目つきでカルテに何か書き込んでいた。
その眼の下には、濃い隈ができている。
(´・_ゝ・`)「ええと、内藤さんの分だけでよかったんですよね?」
_
( ゚∀゚)「それで結構です。私は外で食べますから」
きっぱりとした長岡の口調。
空気が重い。ここが地下だから、という理由だけではきっとないだろう。
デミタスは「それでは」と簡単な挨拶を述べ、足早にその場を去ろうとした。
_
( ゚∀゚)「お待ちくださいデミタス先生。ちょうどコーヒーが沸いたところです。一服していってはいかがですか」
(´・_ゝ・`)「ですが、ご迷惑に……」
_
( ゚∀゚)「気にしませんよ」
デミタスはちらりとキュートの様子をうかがった。
視線と片手はカルテの上に、食事を始めている。
栄養補給の為だけといった、ぞんざいな食べ方だ。
(´・_ゝ・`)「そうですか。それでは失礼して……」
本当は一刻も早く帰りたかったが、折角の好意を無碍にするのもつたない。
それに彼は、ハインの兄だ。悪い印象を与えたくはなかった。
だがデミタスは、すぐに後悔することになる。
-
何て居心地の悪い……。
自分から誘っておきながら長岡は、
まるでデミタスなど存在しないもののように自分のコーヒーを傾けていた。
キュートは言うまでもない。
食器とスプーンが重なる音と、液体をすする音だけが空間を支配している。
静寂がつらい。
(;´・_ゝ・`)「そ、そういえば、ここが設立された本当の理由って話、ご存じですか?」
沈黙に耐えきれず、デミタスは自分から口を開いた。
_
( ゚∀゚)「知りませんが、どんな話なのですか?」
(´・_ゝ・`)「ええとですね、話半分に聞いてほしいのですが、こんな内容です。
時の日本では、人の持つ気は人から人へ移っていくものだと、大真面目に考えていたそうです。
そしてその念が強すぎる場合、死後もなんらかの影響を周囲に与えてしまうと。
それを人々は祟り、あるいは呪いと呼んだと」
-
視界の端で、キュートが食事の手を止めたのが見えた。
デミタスは気にせず続ける。
(´・_ゝ・`)「このような次第ですから、気の触れた人物とは悪い気を周囲に伝播する、
非常に厄介なものとして扱われていたそうです。
ですからその厄介者を隔離する場所を作ろうとしたのは、
ある意味自然な流れだったのかもしれません。
そうです。ここ相真も、かつては治すためではなく隔離するための施設だったとか。
死後も呪いを外へまき散らすことがないよう、複雑な迷路状にする周到さで。
だから時々、出るそうなんですよ……」
_
( ゚∀゚)「出るとは?」
(´・_ゝ・`)「幽霊っていうと陳腐ですけどね。強い念を残した気の触れた何かが、
形を伴って現れるとか。案外先生方も、すでにそういう体験をしていらっしゃったりして!
なんてね、ははは……」
-
o川* へ )o「ごちそうさまでした!」
テーブルを強く叩く音とともに、キュートが立ち上がった。
そしてそのまま、部屋から出ていく。
食器の中には、食べかけの料理がまだまだ残っていた。
_
( ゚∀゚)「大変おもしろい話でしたよ、私にはね」
長岡の言葉で、デミタスは調子に乗りすぎてしまったことを悟った。
ここで寝泊まりしている者からすれば、真偽がどうであれ気分の良い話でないのは間違いない。
まして相手は二十歳前の不安定な女の子、配慮が足りなかったにも程がある。
正直彼女が自分とまったく無関係な女の子だったなら、
多少の罪悪感はあれど対して気に留めることもなかったと思う。
しかし、今は違う。
この幼き内藤キュートの行動如何で、素直家の進退――すなわち相真の行方が左右されるのである。
決して大げさではなく。
もし自分のこの軽率な世間話が原因で、キュートがしぃへの治療を辞めてしまったら――。
考え終えるより先に、デミタスは走り出していた。
.
-
o川*゚ぺ)o「え、何ですか?」
果たしてキュートは、杉浦しぃの座る奥の部屋にいた。
必死の形相で駆けてきたデミタスに対し、少々面食らっているようだった。
(;´・_ゝ・`)「いや、さっきのことで気分悪くしたんじゃないかと思って……」
o川*゚ぺ)o「先生の方がよっぽど気分悪そうですけど……」
息を整えることもなく話し出したデミタスを、キュートはいぶかしむように見ている。
全速力で走ったのはいつぶりか、汗が吹き出て止まらない。
慌てていたせいか何度も道を間違え迷いに迷ったことも、疲労感に拍車をかけていた。
デミタスは息も切れ切れ、事情を説明し失言だったと謝罪する。
キュートは得心いったようだったが、その表情は変わらず厳しい。
o川*゚ぺ)o「ああ、そんなことですか。別に気にしていません。
むしろ感謝しているくらいですから」
(´・_ゝ・`)「感謝?」
-
そこでデミタスは初めて、彼女が手に箒と雑巾を持っていることに気づいた。
よく見れば、雑多な掃除用具がいくつも運び込まれている。
o川*゚ぺ)o「ここの空気が淀んでいることを気づかせてもらった、ということです。
せめて彼の周囲くらいは衛生的にしようと。
染み着いたバカげた呪いも近寄れなくなる程度には」
だから別に気にしていませんと、キュートはもう一度そう繰り返してから、
ぺこりと頭を下げた。その外見に見合った、小学生みたいなお辞儀の仕方だった。
何だ、怒ったわけではなかったのか。
デミタスは安堵の息を漏らしながらも、
やはりどこか残る不安を払拭するため、最後にもう一度確認することにした。
(´・_ゝ・`)「それじゃここにいるのが嫌になったとか、
辞めたくなったとかってことはないんだね?」
o川* へ )o「そんな心配をされてたんですか?」
-
キュートの声色が、にわかに剣呑な様子を帯び始める。
あ、今度こそ地雷を踏んでしまったっぽい。
o川#゚ぺ)o「ご心配されなくても、無責任に途中で投げ出したりはしませんから。
帰ってそうお伝えください!」
キュートの剣幕に押され、叩き出されるような格好でデミタスはその場を後にした。
まったく、今時の若い子はむずかしいな。
でも、まあ、辞めるつもりはないとキュートも言っていたし、
その言質が取れたのなら役目は果たせたといっても差し支えないだろう。
デミタスは素直に退散する準備に入る。
しかし通路を歩いている途中、徐々に心配になってくる。
あったことをそのまま報告して、モララーはどう思うだろうか。
咎められることはないにしても、小言のひとつやふたつ、
失望混じりに吐き出されるくらいはあってもおかしくない。
-
やっぱり、機嫌くらい取っておいた方がいいのかなぁ。
でも、何をしたら彼女は喜ぶのか――考えているうち、いつの間にか管理室に到着していた。
管理室では、長岡がいまだに医術書と格闘している。
テーブルにはキュートの残した料理がそのまま残っており、
食べかすが少し、おぼんの中に散っていた。
そこでふと、閃く。
(´・_ゝ・`)「長岡先生、バケツか何かありませんか?」
.
-
※
こんなことに意味があるのだろうか。
薄暗くくすんだ壁を雑巾で拭きながら、
頭に浮かんでくる諦めの言葉をキュートは何度も何度も拭い落とした。
しかしそれは、無限にこぼれる湧き水のようにキュートの努力を無為に流した。
しぃを見る。いまは椅子に座っている。いや、座らせている。
やわらかなほほえみは一週間前と何も変わらない。
この一週間、期日が近づいたこと以外に変わったことなど、何ひとつない。
何ひとつ。
キュートは汚れた雑巾を握りつぶした。
壁から離れ、杉浦しぃの前に立った。
そして、安らかに眠るしぃに向かって、丸めた雑巾を投げつけた。
o川* へ )o「あなたは、何なの」
雑巾はしぃの身体の表面をするすると滑り、
椅子の縁に引っかかりかけたが、結局重力に負けて落下した。
-
しぃの病衣には雑巾の痕跡が付着している。
だが不思議なことに、しぃの身体には埃ひとつとして移っている様子はなかった。
神々しいまでの――あるいは禍々しい程の、不変。
キュートは倒れるようにして、しぃの胸に頭を押しつけた。
心臓の鼓動が、ちゃんと聞こえる。寸分違わず正確なリズムで刻まれる鼓動が。生が。
o川* へ )o「私、もうどうしたらいいか……」
こうしている間にも、時間は刻々と過ぎ去っていく。
精神科医への道も閉ざされつつある。そうなれば――。
しかし、何をすれば彼が目覚めるのか、
そもそも治すべき疾患がこの子にあるのか、キュートにはわからなくなっていた。
キュートが異常の根拠とした例の光景も、
初めてあったあの日以来どんなに触れようとも現れなかった。
いまではもう、確信を持ってあれを見たとさえ言えなくなっていた。
すべてはこの特異な空間に毒された自分が、思いこみから生み出した幻覚だったのではないかと。
-
諦めろということなのか……?
違う、まだまだ時間はある。
何かまだ、手段はあるはずだ。
気がついていないだけで、突破口はあるはずだ。
でも――。
しぃの胸に顔をうずめたままキュートは、自分の胸を力任せにつかんだ。
気持ちが悪い。寝不足のせいかもしれない。
もしくは疲労のせいだろう。そうに決まっている。
ちがう。
わかっている。
これは、ちがう――。
キュートは振り返った。
足音が聞こえる。
認識すると同時、胸の重みが極度に増す。
足音は確実に、着実にこちらへ向かってきている。
-
長岡だろうか。いや、長岡はこの一週間一度もここに来ていない。
いまさらになって協力してくるとも思えない。
では、誰が。キュートの脳裏に、一人の怪物の名が浮かぶ。
素直クール。
まさか、彼女が。
胸の肉がえぐり取れるくらいに、指が硬質化する。
入り口を凝視する。耳をそばだてる。胸が痛い。
力任せにつかんでいるからか、それ以外の何かが原因か。
そうしてキュートが自身と格闘している間も、足音は迫り、そして、止まった。
-
(;´・_ゝ・`)「あ、あれ、もしかしてもう終わっちゃった?」
デミタスだった。
身体から急速に力が抜ける。ついで、安堵感とないまぜになった腹立ちがデミタスに向かう。
八つ当たりだとは理解しつつも、キュートは苛立ちのままにデミタスをにらんだ。
しかし、そんな些細な猪狩はすぐさま吹き飛んだ。
キュートはデミタスの片手から目をそらせなくなっていた。
バケツを持っていた。
バケツの中には、なみなみとこぼれんばかりの液体がゆれていた。
デミタスが近づいてきた。
飛沫があがった。
――目があった。
-
o川; Д )o「くるなぁ!!」
あいつだ!
あいつだ!
あいつだ!!
あいつ<ママ>が来た!!
キュートは悲鳴を上げ、逃げだそうとした。
だが、悲鳴をあげることも、逃げだすことも叶わなかった。
のどから胸にかけて、キュートの肉はどろどろと蝋のように溶けこぼれ、
腰から下は完全な液状と化していた。
それでもキュートはもがき、暴れ、散乱した掃除用具を手当たり次第に投げつけた。
箒の柄がバケツにあたった。
金のバケツが金切り声をあげ、その中身がにちゃりと流れ出た。
じりじりと這い寄ってくる。
違う。
あいつと私が結合しているのだ。
気づけば辺りが、あいつだった。そして、その中心には――
-
手が、伸びた。
肉の役目を為さず溶けきった胸の中に、あいつの手が”浸入”してきた。
露出した臓器が圧迫されてぐにゃぐにゃとゆがむ。
あいつの手が、私の内部をまさぐってる。
いやだ……。
いやだ……いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ!
お前なんかに、お前なんかに、お前なんかに――お前なんかにぃ!
渡すもんか渡すもんか渡すもんか渡すもんか
渡すもんか渡すもんか渡すもんか渡すもんか渡すもんか!
――渡すもんかぁ!!
-
キュート
.
-
重みが消えた。
キュートはいつの間にか噛みついていた何かから、その牙を離した。
白い布生地に、わずかな朱がにじむ。杉浦しぃの肩だった。
杉浦しぃの身体が、キュートに覆い被さっていた。
o川*゚ぺ)o「あ……」
しぃの手が、左手が、キュートの胸に重なっていた。
キュートはその手の上に、自分の手をさらに重ねた。
杉浦しぃは変わらず、ほほえみの寝顔を湛えていた。
.
-
※
( ・∀・)「そうですか、そんなことが……。報告ご苦労様です、デミタスくん。
引き続き彼女を手伝ってあげてください」
ここは相真大学病院院長室。
平均的なサラリーマンの年収を軽く越える値段の調度品が、
院長モララーの趣味で山ほど並べられている部屋でもある。
そのモララーは、いまここで爪をやすりながらデミタスの報告を受けている。
デミタスは毎日ここへ通い、その日旧閉鎖棟で起こったことをモララーに報告していた。
といって、話す内容に変化などなかったのだが。
しかし、今日はちがう。
話の内容も違うが、それだけではない。
( ・∀・)「どうしました?」
モララーがいぶかしげな声をだした。
いつもなら報告を終えてすぐに帰るところ、
まるでその気配を見せずに立ち続けているデミタスを、怪訝に思ったのだろう。
-
(´・_ゝ・`)「ひとつ、うかがってもよろしいですか」
デミタスが切り出した。
そうだ、今日は聞いておきたいことがある。知っておきたい疑念が。
( ・∀・)「何をです?」
(´・_ゝ・`)「杉浦しぃについてです。彼は、何なのですか」
モララーの手が止まった。
しかし構わず続ける。
(´・_ゝ・`)「内藤さんが落ち着いた後、私たちは彼の病衣を脱がせたんです。
肩の傷を消毒しなければと思いましから。ですが――」
( ・∀・)「ですが、なんです?」
(´・_ゝ・`)「なかったんです、傷が。その痕もまったく。
まるで噛まれた事実などなかったかのように、一切。
それに内藤さんが落ち着いたときも、彼は、何というか、
うまく言えないのですが……普通じゃ、なかったんです」
-
( ・∀・)「普通じゃないとは、どういうことです」
デミタスはうまく言葉をまとめようと、目をつむって思考した。
だがそう経たないうちに、諦めたように首を横に振る。
(;´・_ゝ・`)「……すみません、うまく言葉にできないのです。
ただ、彼が自主的に動いたとか、そういうことではありません。
暴れた内藤さんの手が椅子の足に当たり、座っていた杉浦しぃが彼女に覆い被さる格好で落下した。
その衝撃で、彼女は正気にもどった。事実はそれだけです。
……それだけのはずなのですが、何かがおかしいんです。何かが、普通じゃない……」
あの言いようの知れない違和感。率直にいって、デミタスは恐怖していた。
引き込まれそうになる自分に恐怖した。あの安らかな寝顔の杉浦しぃ。
その顔が一瞬、別の誰かと重なったように思えたのだ。
デミタスのよく知る、そして一生忘れることのできない、あの――。
( ・∀・)「仮に彼の事を知って、きみの仕事に何か変化がありますか?」
(´・_ゝ・`)「それは……」
モララーから問われたデミタスは、答えに窮する。
ない、かもしれない。もちろん細かな何かは変わるかもしれないが、
それが良い結果に通じる変化であるとは限らない。それはわかっている。
だが……。
-
デミタスは、下がらなかった。
モララーは溜息をひとつ吐き、爪ヤスリを横に片づけた。
( ・∀・)「……ぼくもね、詳しくは知りません。
ただ――ぼくの聞いた限りでは、彼はベトナムで見つかったそうです」
(´・_ゝ・`)「ベトナム? 確か彼は、素直に由来のある杉浦という
家の子ではなかったでしょうか。それがなぜ、ベトナムに」
( ・∀・)「わかっているのは、杉浦がすでに没落していること。
そして十年近く前に彼が海外へ送られたこと、それだけです。
その後どういう経緯を辿ってベトナムについたのかはわかりませんが、
自分の意志でなかったのは確かでしょうね」
(´・_ゝ・`)「というと?」
( ・∀・)「売られていたそうですよ、彼。人身売買で転々と。
その最終地点がベトナムで、素直の情報網に引っかかり無事
――かどうかは分かりませんが、保護されたということです。
ただ、そのベトナムで見つかった時のことなのですけどね――」
モララーはそこで一度話を区切ると、警戒するように周囲を見回した。
デミタスもつられて首をひねる。誰もいないことを確認し、モララーは再び話し出す。
-
( ・∀・)「杉浦しぃの身柄を預かっていたのは、
ベトナムの新興宗教団体のアジトだったそうです。
儀式と称して歌って踊り、強制的に起こした過呼吸による変性意識を
宇宙の神性と結びつける、よくある題目のやつです。お定まりの幻覚剤も用いられていたとか。
そこで彼、杉浦しぃは神との触媒――あるいは神そのものとして崇められていたそうです。
むろん儀式にも用いられていたようですが――事故があったのか、意図的なのか、
彼が発見された時、彼の周囲には昏睡状態に陥った信者の山が、骸のように散乱していました」
デミタスは想像する。何人もの人間が阿鼻叫喚の苦しみにのたうっているその中心で、
あのほほえみを湛え座す杉浦しぃの姿を。変わらず静止するその姿を。
( ・∀・)「そこで何が行われたのかはわかりません。ですが参加していた信者のそのすべてが、
いまも意識不明であることは間違いないそうです。
それも眠るような――いえ、時間が凍結したような状態で」
(´・_ゝ・`)「それって……」
デミタスは瞬間的に思い浮かんだ言葉を口にしようとした。
が、それは突き出されたモララーの手によって遮られた。
( ・∀・)「私が知っているのは以上です。もういいでしょう、行きなさい」
-
そう言い放ったモララーの態度には、確かな拒絶の意思が表れていた。
まだまだ聞きたいこと、むしろ新たに浮かんだ疑念がくすぶってもいた。
だがこれ以上粘っても、モララーは頑として口を割らないだろう。
デミタスは頭を下げ、院長室から出て行こうとする。
( ・∀・)「“彼”がね、早めの成果を欲しがっているようなんだ」
振り返る。退室しようとしたデミタスを引き留めたのは、
誰あろう追い出そうとしたモララー本人であった。
モララーは整えられた両手の指を、斜線上に交差させている。
(´・_ゝ・`)「彼、とは……?」
( ・∀・)「懇意にさせてもらっている政治家さ。
クレンネス導入の際には、ずいぶん力添えしてもらった。
その彼が、早めの成果を求めている。
どうも彼の政敵が周辺を嗅ぎ回っているようなんだ。
クレンネス慎重論派は根強く残っているからね。
あいつらを黙らせるには目に見える成果を出して、
世論を味方につけるしかないとはぼくも思う。
だが現実、素直女史が関わっている間は無理だろう?」
モララーは明後日の方を向いて、決してデミタスを見ようとはしなかった。
話し方もどこか、独白めいている。
-
( ・∀・)「治療期間、早められないものかな。
素直女史も納得せざるを得ない形で。
例えば――内藤さんは、だいぶ参っている様子だったそうだね?」
これ以上、ここにいてはいけない気がしてくる。
何か、現在進行形で厄介ごとに巻き込まれているような、そんな気分に。
デミタスは無意識のうちに後ずさっていた。
( ・∀・)「きみはさっき、話を渋るぼくから根ほり葉ほり聞きだしてきたよね?」
硬直する。釘を差された。デミタスが気づくはるか前に、退路は断たれていたのだ。
おそらくはこの院長室に足を――いや、この相真に迎え入れられたその時から、すでに。
(´・_ゝ・`)「……その彼という人物が、どうにかしろと命じたんですか?」
デミタスの言葉に、モララーがくつくつと含み笑いをこぼした。
優雅な、少々芝居じみた大げさな動作で。
( ・∀・)「それは違うよデミタスくん。彼らは直接指示なんて下さない。
周りの人間が慮って、勝手に行動するだけさ。
責任ある立場の人間が簡単にしっぽをつかまれるようでは、
世の中が回らなくなるからね。だから彼らは、願望だけを口にするんだ」
モララーの視線は、決してデミタスに向かない。
( ・∀・)「むろん、ぼくもね」
.
-
※
『さっさと動けバカヤロー!』
クラクションのけたたましい音と野太い罵声に襲われ、デミタスは意識を取り戻した。
いつの間にか信号が青に変わっていた。急いで車を発進させる。
だというのに、背後のトラックからは不満げなクラクションがもう一度鳴らされた。
助手席をちらりと見る。
ハイン。無表情に前だけを見ている。
(´・_ゝ・`)「何もあんなに怒鳴らなくってもいいのにね。
狭い日本、そんなに急いでどこへ行くー……なんてさ。
ちょっと古いかな、ははは……」
車内にはデミタスの笑い声だけがこだまし、それもすぐに消えた。
ハインは何の反応も示さない。
無表情の目はわずかに落ちくぼみ、いくぶんかほほも痩けている。
内藤キュートが杉浦しぃを診るため旧閉鎖棟にこもってからの十日間、
デミタスは地下と地上の往復の合間を縫ってハインに会っていた。
心配だったからだ。
ハインはアルコール以外の一切、わずかなツマミでさえ口にしていなかった。
話しかけても上の空で、うつろにビールを飲み下していた。
-
(´・_ゝ・`)「だいじょうぶだよ、内藤さんも、お兄さんも元気にしてるから」
ハインの肩がぴくりと動いた。まただ。
彼女は内藤キュートの話題の時だけ、明確な反応を示す。
彼女にとって、内藤キュートが特別な存在であることは今までもそれとなく理解していた。
だが、これほどまでの影響を与えるものだとは想像だにしていなかった。
冗談でなくこのままキュートに出会えなかったら、
衰弱死してもおかしくない空気を彼女はまとっていた。
何とかしなければならない。他ならぬ、ぼくが。
周囲の景色が整然とした街並みから、山林のそれへと変化する。
ろくに舗装もされていない道を無理やり突っ切るため、
車体はでこぼこと何度も跳ね上がった。尾てい骨に振動が伝わる。
(´・_ゝ・`)「平気?」
人からは意外と言われるが、デミタスはアウトドアな趣味を持っている。
この車も山登りに適した四駆だ。悪路も問題なく走破できるようにはなっている。
それでもこの道は、車で行くには少々無理があった。
それでも、行く価値のある場所なのだ。
半分は自分自身の決意のため、もう半分はハインに少しでも元気を取り戻してもらうため。
――いや、結局は全部、自分のためなのだろう。大切な人の幸福を求めるのは、エゴだから。
-
デミタスは車を止めた。
(´・_ゝ・`)「さ、手を取って」
ハインの手をつかみ、いくらか強引に引っ張り出す。
木々生い茂る山中の真っ直中であるそこには、小さな、
本当に小さく簡素な社(やしろ)と、その屋根を伝い落ちる湧き水が流れている。
デミタスはお椀型にした手で湧き水の流れを遮り、ある程度たまったそれを口に含んだ。
(´・_ゝ・`)「だいじょうぶだから」
そしてハインにも同じ事をさせるべく、つかんだ手を水にさらす。
(´・_ゝ・`)「この地域一帯の地層にはね、気の力を伴った水脈が張り巡らされてるんだ。
基本的には人目のつかない所を流れているんだけど、
その一部が時々地上につながるみたいなんだよね。
ここも小さいけど、その地上とつながった気脈の一端なんだ。
俗に言うパワースポット、日本語では気場ともいうらしいけどね。
……偉そうなこと言って、ぼくも人から教えてもらっただけなんだけどね。
さ、飲んでごらん。力をもらえるから」
そういって、デミタスはハインの手を彼女の口に近づける。
その時だった。
デミタスの腕に予期せぬ力が掛かったかと思うと、ハインの手首がくるりとひっくり返った。
-
確かな意思を感じさせる動きでもって、
手中に溜まっていた水は地面にまき散らされた。
从 ゚ -从「あんたはさ、頭は良くても、バカだよな」
指の端に付着した水を無表情に眺めているハインを前に、
デミタスは喜んだものか嘆いたものかわからなかった。
彼女がまともに話してくれたのは、うれしい。
ここ十日近く彼女の声を聞いていなかったのだ、うれしくないわけがない。
けれども、こうも直接的に好意を否定されると、さすがに落ち込む。
だからデミタスは、苦笑いに逃げ込む。
(´・_ゝ・`)「うそじゃないんだよ、ぼくの患者さんでも、
実際にここの水を飲んで一気に症状が良くなってたりしてさ――」
从 ゚ -从「結婚しよっか」
-
ハインの顔を見つめる。無表情に、水を吸った地面を眺めている。
聞き間違いだろうか。きっとそうに違いない。だって、彼女がそんなこと言うはず――
从 ゚ -从「結婚しよっかって言ったんだ。いやか?」
今度は間違えようもなく、はっきりと聞き取れた。
彼女から、結婚を申し込まれた。全身から力が抜けていくのがわかる。
(´ _ゝ `)「いやじゃ、ない。むしろうれしい。
本当にうれしいよ。きみのことを、一生守っていきたいと思ってる」
けれど。
(´ _ゝ `)「――でも、ごめん。ダメなんだ。それは受けられない」
ハインは何も言わない。何を考えているのかもわからない。
その横顔が、ふと、懐かしい顔と重なる。
-
たじろぐ。
デミタスはいまはっきりと、
自分がなぜここまで彼女に執着するのかを、完全に理解した。
(´ _ゝ `)「きみに、隠していたことがあるんだ。
誰にも言わないで、墓まで持って行くつもりだった後ろ暗い過去。
でもきみには、ハインには知っていて欲しい。
告白してくれた、きみにだけは。ぼくは、ぼくはね。……ぼくは――」
忘れることのできない、あの人。
(´・_ゝ・`)「人殺しなんだ」
.
-
※
『幼年期の終わり』。
アーサー・C・クラークの遺したSF界の超名作古典。
人類が人類という幼年期から脱皮していく様を鮮烈に描いた、壮大な叙事詩。
いまなお色あせることなく、数多のクリエイターに影響を与え続けている。
その小説を、キュートは朗読している。
冒頭から読み始め、いまは第二部の半ば。
ボイス邸にてジーン・モレルが気を失ったところまで進んでいた。
もう二時間近く読み通していたため、のどは渇き、つっかえる頻度も高くなっていた。
それでも、キュートは止まらなかった。
傍らのしぃに、読み聞かせなければならなかった。
確かめるために。勘違いでは、ないと。
旧閉鎖棟。その深奥の静寂に、キュートの声だけが響く。
キュートの呼びかけが響く。物語はすでに、第三部――最終章へと突入していた。
-
キュートは『幼年期の終わり』の中でも、この第三部が何より好きだった。
心酔している、と言ってもいい。それは単純な好みから生じる、
趣味的感性の延長線上に起こった現象などでは決してない。
この物語に初めて触れたのは、まだ物心が付いて間もない幼児期だった。
内容などわかるはずもない。だが、それでも好きだった。
毎日のように読み聞かされる、この物語が好きだった。
毎日のように読み聞かせてくれる、その人の声が好きだった。
その人が繰り返し読み聞かせてくれる第三部が、何より好きだった。
その人との時間が好きだった。
その人といるのが好きだった。
その人の愛情が好きだった。
もう二度と会えない人。
永遠に奪われてしまった人。
そのはずだった。
でも――
けれど――
-
――足下の深い岩間で、そのウランの一片は、ついに成就できない結合を求めて
ぶつかりあいはじめていた。そして、島は夜明けを迎えるために身を起こした。
.
-
キュートではない。
『幼年期の終わり』に書かれた一節。
読んだのはキュートではなかった。
傍らの男性が、朗々と言葉を発していた。
本も見ずに、キュートを引き継ぐ形で。
涙があふれた。あふれて止まらずこぼれ落ちた。
勘違いじゃなかった。
呼びかけてくれた。
応えてくれた。
会いにきてくれた。
キュートは彼に抱きついた。抱きついて
――抱きついたはいいが、高まる感情をどう処理すればいいのかわからず、
犬のように、遠吠えのように、彼を呼んだ。
.
-
パパ
《続》
-
以上です。今回は遅れて申し訳ありませんでした
次回は来月中に投下したいと思います
訂正
〉〉149
猪狩×
怒り○
失礼しました
-
乙
不思議なふいんきだ
-
乙
おもしろい。
-
乙
続ききになりすぎる
-
おつ
苦くて飲めないとか外見通りな一面につい笑ってしまう
-
>>1です。次章完成の目処が立ちました。
10月17日の金曜日、19時からの投下を予定します。
ただし時間は多少前後するかもしれません。
よろしくお願いします。
-
よっしゃ
-
期待
-
《 ※ 》
死んじゃうなんて思わなかったんだ。
私はただ、寒そうだったから、寂しそうだったから、
一緒にいれば幸せだから、あったかいから、おかーさんがそう教えてくれたから、
だから、抱きしめたいと思ったんだ。
抱きしめて一緒におやすみしたかっただけなんだ。
でもそれは、間違ってたんだ。
とびすけはもう、死んじゃったんだ。
冷たく硬直したうさぎの亡骸を抱えたまま、
彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
院のみんなから無視されることも、確かに悲しい。
私なんていないんだって、そんなふうに扱われるのはすごく悲しい。
でも本当に悲しいのは、そんなことじゃない。
-
ごめんねとびすけ。ごめんね、ごめんね。
どんなに謝っても、とびすけはもうぴこぴこ耳を回したりしない。
ころころのうんちも出さない。ふんふん鼻息を鳴らすこともない。
ぴょんぴょん飛び跳ねることはもう二度とない。
私が抱き死なせてしまったから。
死んだ子は、ずっと動かなくなるから。
ここにいても、もうここにはいないんだ。
おかーさんに会いたい。おかーさんに会いたい。
やさしいてってで褒めてほしい。あったかい声でくりくり頭をなでてほしい。
あまふわの卵焼きで口のなかを火傷したい。
でも、もう会えない。おかーさんには会えない。
死んでしまったから。とびすけみたいに、いなくなってしまったから。
とびすけは、私がこんなだから死んでしまった。
おかーさんも、私がこんなだから死んでしまったのかもしれない。
きっと、そうなんだ。
私がいると、みんなは死んでしまうんだ。
だからみんなは、私を無視するんだ。
-
彼女は泣いた。
ぽろぽろぽろぽろと泣き続けた。
その時だった。
嗚咽をあげる彼女の背にとんとんと、何かが軽く叩かれた。
「おいで」
少年が立っていた。彼女より少しだけ背の高い少年。
少年はにこりと笑うと、彼女の腕を取って歩き出した。
彼女はとつぜんのことに抵抗するという考えもおきないまま、
泣きじゃくりながら少年に従って歩いた。
「このあたりでいいかな」
院の裏庭に到着するやいなや、少年はプラスチックのシャベルで地面を掘り出した。
粘土のような土がかき分けられ、実際は相当な時間が掛かったのかもしれないが、
彼女には瞬く間に大きな穴ができたように思えた。
「とび、すけぇ……うぇぅぅぅ……」
彼が何を作ろうとしているのかは、彼女にもすぐにわかった。
金魚のきんきんも、おかーさんと一緒にこうして埋めたことがあったから。
それでも彼女は、否定してほしくて、少年に何をしているのか尋ねようとした。
だが、嗚咽が邪魔してまともな言葉にならなかった。
-
「さ、とびすけとお別れしよう」
とびすけが三匹くらい入れそうな大きな穴を掘り終えた少年は彼女の手を取り、
とびすけをそこに横たわらせるよう促してきた。
少年は強制的ではなかった。
その手は添えられただけで、決断はあくまで彼女の意思に任せていた。
わかっている。このままにしてはおけないんだって。
おかーさんが言っていた。死んだ子はきちんと”とむらって”あげないと困ってしまうんだって。
おかーさんの言うことはむつかしくてよくわからなかったけど、とびすけが苦しい思いをするのは悲しいから。
だから。
土を被せるのはすべて、少年がやってくれた。
彼女はその間ずっと、見続けていた。
ぺっそりとした白い毛が、茶色い土に隠されていく。
重くないだろうか。苦しくないだろうか。
そんなことを思うと、涙がさらにあふれだした。
そして、涙がこぼれて湿った泥に、最後の一盛りが重なった。
少年は手を合わせていた。彼女はただ泣きじゃくった。
「ぼくの母さん、一ヶ月前に死んだんだもな」
暑い陽がいつの間にか朱に染まりだした頃、少年が口を開いた。
「ここには妹と二人で来たんだ。でもね、妹はまだ母さんのことを引きずってて、
ここにも馴染めないみたいなんだもな。だからね――」
-
とびすけのお墓は丘状になって盛り上がっており、
その隆起が彼女にはとびすけの丸い背中のように見え、
いつとも知れず彼女はその背をなでさすっていた。
だが、少年の言葉を聞き、その手が止まった。
「ぼくたちの、友達になってくれないもな」
朱い太陽が彼の顔に陰を生む。
にっこりと笑ったその顔に、言葉にしがたい何かが表れているように感じた。
とびすけや、おかーさんの亡骸に表れていたのと、同じ何かが。
「だめ!」
断られると思っていなかったのだろう。
少年は細い目を丸くさせて、こちらを見つめてきた。
「どうして?」
「それは、ひぅ、いぅぅぅ……」
うまく言葉にできない。
「ぼくがきらいもな?」
「う、うぅぅぅう! うぅぅう!」
首を振る。
「よかった」
「よ、よくないの! わ、私がいるとみんな、苦しくて、悲しくて……悲しいことに、なっちゃうんだよ!
いっぱいだよ! いっぱい、いっぱいそうなるの!」
「そんなことないもな」
「そんなことあるの! 私、だって、こんなだもん! あたま、おかしいん、だもん!
死なせちゃう! そんなのやだ! やだから、だから、死ななくちゃ、死ななくちゃ、なのは――」
「きみは、とびすけが寒がってるのに気づいたもな。
みんなは気づかなかったのに、きみは気づいた。きみはやさしい子だもな」
-
夕焼けの向こうから、長い髪の綺麗な女の子が走ってきた。
女の子は彼女を警戒するように少年の背にぴたりと隠れ、前髪の隙間からこちらを伺っていた。
「ぼくはモナー。妹の名前はレモナ。きみは?」
少年はにっかりと口を開けて笑い、手を差し出してきた。
土に汚れた男の子の手。しかし彼女はその手を取ることも、名を答えることもできなかった。
彼女は泣きながら、笑っていた。
少年は歯が何本も抜けていて、にっかり笑った口に黒い隙間がいくつも覗いていた。
それがとても滑稽で、彼女は笑いを堪えることができなかった。
笑って、泣いて、笑って、泣いて。
そうしているうちに、なぜだか何もかもが、何もかもが救われた心地になっていた。
言葉は出せなかった。
だから、彼女は、心で答えた。
いまなら届くような気がして、心で名乗った。
私はね、
私は、
私の名前はね――
.
-
《 三 》
目が覚めた。
うとうととした気分のなかで、キュートはわやくちゃに顔をこする。
すると、玄関扉の開くかちゃりという硬質な響きが耳に届き、キュートの意識は一気に覚醒する。
o川*゚ー゚)o「パパ!」
玄関の扉が開ききるより前にキュートは駆けだし、愛するパパに勢いそのまま飛びついた。
パパはよろけながらもしっかと抱き留め、キュートの身体はくるんと宙を旋回する。
o川*^ー^)o「キュートね、キュートね、一人でご本読めたんだよ! えらい? ねえ、えらい?」
パパの手がキュートの頭をなでた。
パパの手はおっきい。キュートの何倍も大きくて、堅くて、でもやわらかい。
パパはいつもキュートを褒めてくれる。
o川*^ー^)o「キュートね、パパと結婚するの!」
パパといるとき、キュートは自然と笑顔になる。
パパはいつもキュートのそばにいる。だからキュートは、いつでも笑っている。
ずっとずっと、笑っていられる。
o川*^ー^)o「おみやげ!」
あまいあまいお菓子の匂い。夢の袋に夢の箱。
パイにクッキー、ドーナツケーキ。パパは全部キュートにくれる。
キュートの欲しいものはなんでもくれる。だからパパは、パパもくれる。
-
o川*^ー^)o「ご本読んで! パパ、『ようねんき』! 『ようねんき』呼んで!」
一緒のベッドで、キュートとパパは並んでおやすみする。
パパは幼年期の終わりを読む。第三部を。パパの好きな第三部を、初めから、終わりまで。
そのうちにうとうとしてきたとしても、すぐに眠ったりなんかしない。
わやくちゃに顔をこすって、起きている。だって、一秒でも長くパパの声を聞いていたいから。
それでも、いつも途中で眠ってしまう。
どうしても我慢できずに眠ってしまう。
キュートは眠ってしまう。
眠って、眠って、眠って起きる。
起きたらまた、玄関が開く。パパが帰ってくる。
キュートは飛びつき、パパはよろめきながらしっかと抱き留め、キュートの身体は宙を旋回する。
パパが好き。
だから今日の日は、おやすみなさい。
起きたら明日も、今日が来るから。
だから今日は、終わろう。
終わりましょう。
なぜ、終わらないの?
-
キュートはベッドから跳ね起きた。パパはまだ朗読を続けている。
幼年期は終わらない。パパには本と、キュートと、この世界しか見えていない。
世界の外側が見えていない。
部屋の外、窓の向こうに目を凝らす。
薄闇の濃さをさらに凝縮した影の子供が、窓の外からこちらを見ている。
目も鼻も口もはっきりとしない影のもやもやなのに、こちらを見ていることだけは確かにわかる。
パパには見えていない。
認識しているのは、きっと私だけ。
立ち上がる。
何かが剥がれる音がしたけれど、気にせず窓のそばへと近寄る。
影の子供はキュートを見ている。窓を開ける。
o川*゚ぺ)o「入りたいの?」
影は応えない。部屋の中へ入りたいわけではないらしい。
では、影はなぜここにいるのだろう。影の視線をたどる。
興味があるのは――私?
キュートが思案を巡らせていると、とつぜんに、影の手がにゅっと伸びた。
キュートの腕のなか、こぼれそうな程に抱えたお菓子の山からひとつ、イチゴのタルトが奪われる。
キュートの大好きないちごのタルト。
パパからもらったそれが、影のうちに収まる。
そして影は、背を向けて走り出した。
-
o川;゚Д゚)o「返して!」
キュートは窓から身を乗り出し、影を追いかけようとして、
しかし、その場に固まった。
広大無辺な暗黒の果てしなさが、ただただ眼前を埋め尽くしている。
部屋から延びる灯りなど、わずかも照らさぬうちに掻き消えている。
長大なその空間で、だがしかし、影の子供がいることだけは確としてわかる。
後込みしている間にも、離れていくのが。
部屋からは、パパの朗読が聞こえる。
この声が聞こえる間にもどってこよう。
そしてまた、明日も今日を迎えるのだ。
キュートは暗闇へと脚をかける。
安定しない足下の感触に身を曲げながら、しっかと一歩を踏み出し、去る影の背を追っていった。
.
-
※
所狭しと推し並ぶ墓地の墓石(はかいし)。
伸びる陰が背後の墓石を隠し、その墓石がさらに背後の石を陰に隠するドミノの連鎖。
その連鎖を、一人の女が止めている。
ハイン。ハインは墓石の前で、待っていた。
まったく手入れのされていない、薄汚れた墓。
供えの品などあるはずもなく。
ハインはそこで待つ。
待って、そして、墓石にかかったハインの陰にもう一人分、
ハインのものより大きなそれが、重なった。
从 ゚ー从「来ないと思ってた」
ハインの背後から現れた男性は、墓前の前にかがむと手を合わせた。
ハインはそれに倣わない。ただ、男性だけを見つめる。
从 ゚ー从「思えばこうして二人だけなんて、
こいつが死んでから初めてかも知れないね、兄さん」
-
長岡ジョルジュ。ハインの兄。
ハインは目を閉じ手を合わせる兄から目を離さず、その呼吸の微動までじっと捉えようとする。
_
( ゚∀゚)「そうだったか」
从 ゚ー从「そうだよ。だって私、あの後すぐに入院させられたんだもの。
兄さん知ってる? 私あそこで、素敵な人と会ったんだ。色んなことを教えてもらったよ。
兄さんも知らないようなことを、たくさんね……」
ハインはいたずらっぽく、くしゃりと笑った。
しかしその表情を、長岡が捉えることはない。
目をつむり、長すぎるお参りに黙想する長岡には。
从 ゚ー从「兄さんは、私のために医師を目指したんでしょう?」
長岡は目を開かない。
微動だにせず、その様子からはハインの声が届いているかも定かではない。
それでもハインは話しかける。
他愛ないこと、日常のちょっとした出来事を話題にするかのような簡素さで、報告する。
从 ゚ー从「兄さん、私、結婚するよ」
-
長岡の目が、ゆっくりと、しかし確かに開いた。
長岡の視線は、視線は墓前に向けられたままである。
だが、それで一向構わなかった。聞こえているなら、構わない。
ハインは言葉をつなげる。
从 ー从「相手は、デミタス」
_
( ゚∀゚)「……そうか」
長岡は決してハインを見ようとしない。
眼前の墓石だけを見つめている。墓碑には戒名が刻まれている。
この墓の下に埋められた奴とは、頭をどうひねっても合致しない仰々しい戒名が。
ハインも墓石に刻まれたその名を見下ろしながら、待った。
長岡が――兄が話し出すのを、ハインはずっと待っていた。
しかし、”今回もまた”、兄は何も言わなかった。何も言ってはくれなかった。
从 ー从「……止めないんだ」
_
( ゚∀゚)「お前が選んだ相手だ。俺にとやかく言う権利はない」
从 ー从「デミタスが人殺しだったとしても?」
-
ハインは間髪入れずに返す。
兄の反応を伺う。
今度こそ、今度こそと願いながら。
だが――
_
( ∀ )「……医療に事故はつきものだ」
兄の応えは変わらなかった。
その表情も、その声色も、その視線もハインへは向かない。
从 ー从「知ってるんだ。あいつが何をやったか知ってて、止めないんだ」
兄は立ち上がり、既に歩き出していた。ハインは引き留めようとした。
引き留めようとして、結局、何も言い出せずに兄の背が消えていくのをただ見続けた。
引き留めるための言葉が、ハインにはもう、何も残っていなかったから。
兄は、一度もハインを見ずに去っていった。
兄さんは、やっぱり――
仰々しい戒名の掘られた墓碑。
ハインはそれをにらみ、蹴った。
蹴って、蹴って、そして、足の裏を墓の表とべったりくっつけた状態のまま、止まった。
从 ∀从「……本人より立派な墓だな。だって、倒れねぇんだもん」
.
-
(´・_ゝ・`)「もういいのかい?」
墓地そばの道路に愛用の四駆を駐車させていたデミタスは、
助手席に腰を下ろしたハインに声をかけた。
ハインはそれに答えなかった。
ただ険しい顔に、消え入るような声で、こう、つぶやいただけだった。
――キュートに、会わせろ。
.
-
※
_
( ゚∀゚)「――というわけで、あんたのお気に入りに変化は見られませんね。
ここ二、三日は別件で監視できませんでしたが、
どうせ飽きもせずお人形遊びに興じていることでしょうよ」
『そうですか。それでは継続して内藤キュートの観察をお願いします』
墓地を後にした長岡は、相真へ向かい車を運転しながら電話をかけていた。
電話の相手は、素直クール。この地を支配する怪老。
しかし長岡の口調に、彼女を畏怖する響きは一切ない。
_
( ゚∀゚)「内藤キュートが旧閉鎖棟に籠もり始めて、もう半月が過ぎました。
これ以上待っても、何も起こらないと俺は思いますよ。
あんたが望むような出来事は特に、ね。
そもそもあんたは、どうしてこんな回りくどい方法を採ったんです。
あんたなら他にもっとやりようが……いや、回りくどいのはお互い様、ですかね」
『どういう意味でしょうか』
_
( ゚∀゚)「ハインがね、結婚するんだそうです」
-
ほとんど減速しないまま片手でハンドルを操作し、左折する。
車体が傾く。わずかに行きすぎたのを、返しを大きくして規定の路線に戻す。
_
( ゚∀゚)「ハインにちゃんとした相手ができたなら、
俺にとっちゃキュートの必要性はもうありません。むしろ邪魔ですらある。
本音を言えば、状況を混乱させる”何か”など起こらないで欲しい。
他ならぬあんたの頼みですから、続けろと言われればそりゃ、役目は果たしますがね」
『例え従妹(いとこ)であろうと、あなたにとっては道具にすぎないと』
_
( ゚∀゚)「無論です。ハインが俺の全てですから」
あるいは、罪の表象か――。
素直クールの耳には届かないような小さな声で、長岡はひとりつぶやく。
『彼女の相手は、信頼できる者なのですか』
言われ、ハインが結婚すると報告した相手の顔を思い出す。
デミタス。かつては活気と使命感にあふれた医師であったそうだが、
とある事件――事故といってもいいその出来事を起こして以来、
人が変わったように大人しくなったと噂に聞いた。
長岡にとってのデミタスは院長モララーの腰巾着として
忙しく走り回っている小男にすぎず、正直良い印象を持っているとは言い難かった。
-
とはいえあの奴隷根性が、結婚生活では有用に働くスキルに化けるのかもしれない。
あの手の男の方が案外、円満な夫婦生活を築いてしまうものなのだろう。
いつまでも気の若い男は、往々にして妻も子も不幸にしてしまうものだから。
だから、もはや第三者となった俺が口を挟むことなど何もないのだ。
ただひとつ気になる点があると言えば、
彼が相真に来る前に勤めていたという場所が――
_
( ∀ )「……俺に比べれば、誰であろうとマシです。
相真に着きました。もう切りますよ」
長岡は一方的に電話を切った。
携帯をしまい、両手でハンドルを握る。
これでいい。俺は何も、間違えていない。間違っていないはずだ。
後はもう何も起こらず、後はただ平和に、平和に時が過ぎてくれればそれでいい。
人並みの幸福が、ハインの許に訪れてくれればそれで。
アクセルを踏む。法定速度を超えても、足を上げずに。
相真まではまだ、遠い。
.
-
※
影の子供を追っていく。濃霧のごとき暗黒を、かき分けかき分けキュートは歩く。
見渡す限りの不毛な大地は、生の兆しも死の香(か)も聞こえず、
ただ何も、動くものは何もない。視界の先の、影の子供を除いては。
影の子供は奪ったタルトを高々掲げ、見せつけるように、
あるいは目印のように、暗黒のうちにその仄光る白色(はくしょく)を浮かび上がらせている。
キュートと一定の距離を保ったまま、
決して置き去りにすることなく、振り向き振り向き歩いている。
案内しているつもりなのだろうか。
行き先はどこ。そもそもここに、”どこか”があるものなのか。
わからないが、わからないまま、キュートはとにかくついて行く。
奇妙に平衡感覚の失せたこの世界を。
確かなものは、心臓につながるアリアドネの赤い糸電話。
未だ途切れぬ朗読の色が、私とパパの左手とを結びつけていることだけ。
その流れる乳白の通信だけを頼りに、歩く、歩く。歩いて、歩いて――もう、どれだけ歩いたか。
虫の呼吸ほどしか進んでいないようにも、星の生涯ほどの時が経過したようにも、
どちらも正しいように思え、どちらもまた、間違っているようにも感じるほど歩いた頃。
影の子供の姿が消えた。
-
代わりに現れたのは、大地に横たわる巨大な何か。
犬にも猫にも馬にも鳥にも見えるが、けして人には見えないそれは、
カラフルなつぎはぎの合間から臓物のような綿をこぼしている。
キュートはそれの周りをぐるぐると見回した。
やわらかなその身体の上にも登り、そしてそこに、
一本の小さな小さな縫い針が刺さっているのを発見する。
それを拾おうとして、しかしキュートは、抱えたお菓子のため、手を伸ばせないことに気づく。
お菓子を手放さなければ、この針は拾えない。
キュートは振り返った。
闇の先から伸びる赤い糸が、どくんどくんとキュートに鼓動を送っている。
――私はこれを、作っていた。
お菓子の一部を地面に置いた。
その途端、お菓子はずぶずぶと、まるで底なし沼に放り込まれた勢いで暗黒の最中へと呑み込まれていった。
キュートは小さな小さな縫い針へと手を伸ばす。つまみあげる。抜く。
すると、ぷちぷちと、繊維のほつれる音が聞こえてきたかと思うと、
次の瞬間、カラフルな切れ端が宙を舞ったかと思うと、黄色い綿が眼前を覆い、
覆ったかと思うと、それは激しく渦を巻き、キュートを奈落へ、奈落へと落下させた。
-
気づけばキュートは花弁のベッド、豪雨迸る浅黄の花畑で横になっていた。
起き上がり、周囲を見回すと、いた。
影の子供が、相変わらずいちごのタルトを高々と掲げ、こちらを観察している。
立ち上がり、歩きだそうとすると、あちらもまたくるりと回転、行進を開始する。
キュートはその後を追おうとし、ふと、
手中にあるべき縫い針の姿が、どこにも見あたらないことに気が付いた。
落としてしまったのだろうか。
気にはなったが、この生い茂る花々の間から、あの小さな小さな縫い針を見つけ出せる気はしない。
キュートは諦め、影の子供の後を追う。
影の子供は、子供だった。
小柄で、背は低く、背の高い花の間ではその腰から上しか露出しなかった。
キュートは子供だった。
影の子供と変わらぬ背丈で、水に濡れた花や草に何度も足をとられそうになった。
その頻度は先に進めば進むほど多くなり、周囲の草花の背は徐々に徐々に高くなり、
やがて子供の頭上を軽く越えるほど高くなり、視界一面、深緑の浅黄に埋め尽くされ、
キュートは再び、影の子供を見失った。
-
代わりに現れたのは、子供の案山子。
綺麗な服を、雨に濡らせて傾いでいる。
――そう、朝は天気だったのに、急に降り出し。
足下にはいくつもの小さな花が、窮屈そうに絡み合ってもがいている。
キュートはその上に、抱えたお菓子の半分を投げた。
すると、つたが蠢き互いを食い合い、
首がこぼれるように花弁だけが円上に連なって落下した。
キュートはその花飾りを、案山子の首にかける。
案山子が傾ぐ。自重に耐えきれずそのまま横に倒れ、
そして案山子は、粉々に砕け散った。
雨と土に汚れた洋服だけを残して。
――喜んでくれると思ってたんだ。
案山子の破片は四方へ飛び散り、薙がれた草木はもれなく末枯れ、
見晴らしよく、驟雨は霧散、繊毛の天蓋漂うここはすでに、暑熱の別天地である。
影の子供はいくらも離れていない場所で、キュートを見ながらいちごのタルトを掲げていた。
再びキュートはついていく。影の子供も歩き出す。
-
砂利と土の地面は確かな足場で、過たずそこは現実的だった。
ただ熱だけが、熱だけがゆらめく陽炎を生み出し光と色とをゆがめている。
むせかえる熱気に、吸気も細まる。
――ここにこもって、息苦しさも楽しんで。
それが規定通りであるように、影の子供は陽炎に消える。
キュートは影の消えたその先へ追いつこうとして、何かと衝突した。
やわらかな壁。いつしかキュートは、世界の果てへと到達していたようだ。
かすかな弾力を持つ繊毛構造をしたその壁に、キュートは寄りかかる。
身体をもたれさせて、そのまま地面に横倒れる。
目があった。
瞳を動かす女性の写真が、壁の一部とつながっていた。
誰かとよく似たその顔が。
それを認識した瞬間、胸のなかのお菓子が残らず、ぐじゅぐじゅと音を立てて溶けだした。
その内から一振りの鋏を残して、一つ残らず跡形もなく溶け消える。
心臓が早鐘を打つ。
写真の女性はキュートを見ている。
慈しむようにも、哀れんでいるようにも見える表情。
誰かに似ている。
けれど、どうしても誰なのかわからない。
よく知っている人のようでもあり、出会ったことのない誰かのようでもあり……。
――私はこれを切らなければならない。そう教えてもらったから。
――だれに?
-
パパの声は未だ止まらず、キュートを励ましている。
赤い糸、赤い伝達。でも、鼓動が微妙にずれている?
現れた鋏を握る。
暑いからだ。暑くて呼吸がままならないから、パパと呼吸がずれるんだ。
一刻も早く、ここから抜け出なければならない。
早く、早く、早く。
写真の女性に鋏を突き立てる。隙間から、赤い光がこぼれだした。
それは鋏を開き写真表面を歪めたことでいっそう強く降り注いできた。
――まだ足りない。
キュートは鋏を動かす。
もっと細かく、さらに細かく、原型を確認できなくなるまで、切って切って切り刻む。
無限に拡大する写真を、無限に切り刻み、切り刻み――気づけば辺りは、外だった。
夕焼けの公園。
撤去されたブランコの残滓。鉄棒の残滓。滑り台の残滓。
ジャングルジムの残滓。シーソーの残滓。
かつてこの場所に設置され、そして、時代にはねのけられた数多の遊具の残滓の亡骸。
――私はここを知っている。ここにはそう、あれがある。
-
遊具の残滓に取り残されて、そこだけはいつかの姿のまま現存していた。
砂場。子供には広大な、大人には幼稚なその創世世界。
そこに、いた。影の子供と、その隣。子供の形をした砂の人。
口を開いた砂の人。その舌の上で光るものは――。
近づいてはいけない。
キュートの中の誰かがそう警鐘を鳴らしている。
すべてが崩壊してしまうと、そう告げている。
なのに、足だけはひとりでに、砂場の流砂に引き寄せられてしまう。
――もっと大切なものならって。
舌の上には、銀の指輪。
そっとつまむ。
砂の人は崩れ、砂塵となって姿を消した。
ここにあるはずのないもの。
ここにあってはならないもの。
そう、これがあるべきは――。
-
公園の周りに、アパートが、マンションが、
空を隠すように歪曲して生え伸びる。
見覚えがある。
あれも知っている。
これも見たことがある。
ひとつ、ひとつ、どれもこれもが記憶に残っている。
――もちろん、私が住んでいた場所も。
思うと同時、キュートはマンションの廊下に立っていた。
そしてそこに、とある一室の前に、影の子供が、
いちごのタルトを、もはや掲げず胸に潜めて佇んでいた。
――私の指輪は、ここに在る。
――私の記憶は、ここに在る。
――私の全てが、ここに在る。
-
違う。
こんな記憶は、違う。
こんなことはあり得ない。
だって私には、パパがいるんだ。
パパが私の全てなんだ。
ここは、私とパパの家じゃない。
この家は、違う。
帰ろう、帰ろう、帰らなきゃ。
パパが呼んでる。パパが。呼んでる。呼んでる。呼んでる呼んでる呼んでる。
それなのに――。
糸から伝わる通信はてんででたらめで、パパの声なのにパパでなく、まったく波長が揃わない。
遠い、遠い、パパが遠い。糸を伝って、キュートはもと来た道をもどろうとした。
しかし、それは阻まれる。
-
震動が、天地を逆(さか)にし重痾振りまく球雲を天上に産む。
飛ぶ。屋根が飛ぶ。電柱が飛ぶ。砕けし歩廊が飛び荒ぶ。
砕けし瓦礫はさらに微細に穿たれ弾かれ、塵となって天に呑まれる。
キュートの左右上下も廊下としての役目を失い、
ふわりと浮かんだそれらは天へ天へと上昇する。
その中のひとつに、影の子供が乗っていた。
影の子供は微動だにせず、胎児の格好で眠るように座っていた。
そしてその姿が、キュートには。
泣いているようにも、見えた。
――どうして泣いているの?
考えての行動ではなかった。
キュートは反射的に手を伸ばし、影の手をつかんでいた。
力を込めて、胸のうちに引き寄せる。
いちごのタルトを抱えた影が、こちらの足場へ着地する。
けれど、それで終わり。
キュートは影の子供を抱きしめた状態で、その場にぺたんと崩れ落ちた。
重い。とても重たい。抱きつく影は鉛のように、まとわりつく責任のように、苦しく重たい。
-
部屋の扉が開いている。我が家へと続く玄関の扉。
パパといたあの家と同じ形、同じ景色、同じ照明に照らされている懐かしき我が家。
ここに入れば、ひとまずこの状況は凌げるかもしれない。
でも、いやだ。
ここはいやだ。ここにだけは入りたくない。
ここに入ったら、”私が終わってしまう”。
パパのところへ帰れれば。
酷くなる一方の糸電話からの通信だが、それでもまだ途切れず、つながっている。
つながっていれば、帰れる。帰ることはできる。
けれどそれは、一人で帰ろうとした場合のこと。
影の子供を連れて行くことは、到底できない。
このしがみつく子供を振りきり見捨てなければ、パパの元へはきっと帰ることはできない。
見捨てさえすれば、またあの甘くやさしき日常へ、帰れる。見捨てさえすれば。
それも、いやだ。
私の中の何かがそれを、許さしてくれない。
泣いてしがみつくこの子を、どうしても放っておくことができない。
放っておいたら、この子はきっと耐えられないだろうから。
放って置かれていたら、私はきっと壊れていただろうから。
-
――大丈夫、大丈夫だからね。
記憶。
ありえない記憶。
自分がかつて、誰かに救われた記憶。
誰か。
存在するはずのない、誰か。
だって、私にはパパがいる。
私はパパと、幸せに暮らしていたのだから――。
――私がそばにいるから。
おねえちゃん。
.
-
※
私はパパの夢を見ていました。
毎日です。パパと暮らす幸福な日々。
永遠に変わらない、今日という一日。
なのに、不思議なんです。
永遠に変わらないはずの今日に、変化があったんです。
私は、家から出て行くんです。
不思議です。
私がパパから離れるはず、ないのに。
私の全てがパパなのに。
旅出た私は、いくつもの世界を巡ります。
魔法の鍵で扉を開く、おとぎの旅です。
扉をくぐる度、違う世界に目覚めました。
もしかしたら見え方が異なるだけで、全部同じ世界だったのかもしれません。
私は旅をします。
旅の果てに、元いた家にたどり着きます。
パパのいる家です。
でもそこは、パパとの家ではないんです。
私の家ではあるけれど、パパとの家ではないんです。
-
私はそこに入ることを拒みました。
怖かったからです。
そこに入ると、取り返しのつかないことが起こってしまいそうで。
行くことも、戻ることもできずに、私はその場に留まりました。
……そういえば、私はなぜ帰れなかったのでしょう。
私はなぜ、旅だったのでしょう。
誰かに誘(いざな)われたような気がします。
でも、思い出せません。
私を誘ったのが誰であったのか、思い出せません。
大切なだれかだった気がするのに。
忘れてはならないことだったのに。
あれは、だれだったのだろう。
あれは――
――おねえちゃん。
.
-
ふいにキュートは、強烈な視線が向けられているのに気づいた。
眼前には、長岡が立っていた。初めて見せる表情で、キュートのことを見下ろしている。
私はいま、何を話していた――?
_
( ∀ )「いまさら……」
何事かつぶやいた長岡は、その場にかがみ、
床に転がる水筒をつかみキュートに手渡した。
デミタスが食事とともに運んだものだ。
しぃのいるこの部屋に持ってきたまま、放置してしまっていたようだ。
見れば、念入りに書き込んだカルテの山も周囲に散乱している。
長岡が、そのうちの一枚を拾った。
そして、おもむらに破り裂いた。
-
o川;゚Д゚)o「な……!?」
朦朧とした意識が、一気に覚醒する。
_
( ゚∀゚)「もういいだろう。おままごとは終わりだ。
後は俺が引き継ぐ。お前はもう、帰れ」
しゃべりながらも、長岡はその手を休めない。
キュートがこの半月をかけて取り続けてきたデータが、
一枚一枚、跡形もなく消し去られていく。
o川#゚Д゚)o「何をするんですか――」
_
(# ゚∀゚)「迷惑なんだよ!」
とつぜんの怒声。息を呑む。
年上の男性から本気の怒りを向けられたことのないキュートは、
ただこれだけで、何も言えなくなる。
_
( ゚∀゚)「今後のことが心配なら、素直クールには俺から話をつけてやる。
悪いようにはしないと約束する。精神科医になりたいというなら、
言い添えてやるくらいは――」
――それには及びません。
静寂に、旧閉鎖棟がしんと冷え固まる。
幾重にも反響する甲高い足音が、徐々に、だが確実に音を増し近づいてくる。
-
あいつだ。あいつがきた。
枯れ木のような身体を直立させ、正しき法の名の下に、
地を統べる怪老が、素直クールが示現する。
素直クールは部屋のなかを、目だけを動かし観察しているようだった。
キュートを見る。しぃを見る。散乱したカルテの残骸を見る。
まだ生き残ったカルテを手に持つ長岡を見て、視線が止まる。
川 ゚ -゚)「長岡、説明を」
_
( ゚∀゚)「……見ての通りですよ。こいつはもう限界です」
言いながら、長岡は破ったカルテを突きつけるようにキュートを指す。
その指示に従い、素直クールがこちらを向く。頭のてっぺんからつま先まで、
時間をかけてじっくり見られているのがはっきり感じられる。
やがて、素直クールが口を開いた。
川 ゚ -゚)「内藤キュート、あなたはいま、自分がどんな状態であるか気づいていますか」
素直クールからの質問。
どんな状態であるか?
質問の意味が分からず、キュートは返答に窮する。
すると、素直クールは目をつむり、首を横に振った。
-
川 ゚ -゚)「残念ですが、これ以上あなたに杉浦しぃを診る資格はないようですね。
後は長岡に任せ、ゆっくり養生なさい。長岡、彼女のエスコートを」
_
( ゚∀゚)「仕方ないですね」
返事をするやいなや、長岡の手がキュートに掛けられた。
がっしりと筋肉のついた太い腕。
有無をいわさぬその腕力に、小さなキュートが適うはずもなく。
その差は正しく大人と子供。
必死の抵抗もまるで意味をなさず、キュートの身体はいともたやすく引きずられてしまう。
o川;゚Д゚)o「待ってください!」
引きずられるまま、キュートは叫ぶ。
引きずられるキュートを、素直クールが睥睨する。
川 ゚ -゚)「……進級のことが心懸かりですか? でしたらその心配は杞憂です。
先に長岡が言ったように、悪いようには致しませんので。
あなたは十分に働いたと、陣内院長にも口添えしておきましょう」
o川;゚Д゚)o「そういうことじゃありません! 説明を、説明をしてください!」
川 ゚ -゚)「何の説明が必要でしょう。
あなたの目的は、精神科への進級を認めさせることであったはず。
目的が達せられた今、これ以上あなたがここにいる理由はない。違いますか?」
-
それ以上話すことはないという意志を表明するように、素直クールは背を向ける。
彼女の言い分は、たぶん正しい。
私が杉浦しぃの治療に参加したのは、あくまで進級のため、精神科医になるためにすぎない。
もし初めから何の傷害もなく精神科に進めていたならば、間違いなく私はここに来ていない。
目的の果実を渡されたいま、素直クールが言うように、私がここにいる理由はない。
大学に戻って勉学に励み、そして私は精神科医となり、復讐を果たす。
それでよい。それが私のすべてなのだから。
すべて――だった。
でもいまは、もう、それだけではないのだ。
復讐の源泉となった存在。私の存在理由。
奪われたはずのパパが、確かな実感を伴い現前しているのだから。
そして、もはや理解している。
杉浦しぃが触媒なのだと。
彼が私とパパをつなぐパイプなのだと。
しぃから離れるということは、つまり――
-
o川 Д )o「……しぃの傍に、いさせてください」
素直クールが、振り向いた。
その枯れ木の肉体からは想像もつかない速度でキュートに迫り、
彼女の顔を両手で、その枯れ枝の手で鷲掴みにした。
鼻と鼻が触れそうな位置で、視線を合わされる。
固定されたキュートの頭は、微動だにできない。
逃げ出すことなどもっての他であった。
だがそんな心配をするまでもなく、キュートは怪老の凝視を受動した。
勢いに呑まれ、受動する事以外の何も、行う余裕がなかった。
川 - )「魔境に囚われてしまいましたか」
急に身体の拘束が解かれた。
素直クールの手からだけでなく、長岡の腕からも解放されている。
畢竟、キュートの身体は支えを失い、彼女は尻餅をつく。
-
川 ゚ -゚)「ついてきなさい」
そんなキュートの様子を垣間見ることもなく、
その静的でありながらよく通る声を発した後、静かに歩き出した。
そばに立っている長岡を見上げると、彼も首を振って、素直クールについていくよう促している。
キュートは矢継ぎ早に起こった出来事を整理しきれず混乱を抑えられなかったが、
ひとまず、即座にしぃから離される事態は凌げたものと理解する。
そして今後もしぃのそばにいられるよう交渉することを目的に、
急に態度を変えた素直クールの底意を不気味に思いつつも、その後を追った。
.
-
※
川 ゚ -゚)「内藤キュート、あなたはポーカーゲームを嗜みますか?」
o川*゚ぺ)o「は?」
予想外の問いに、思わず素っ頓狂な声が漏れる。
素直クールの向かった先は、旧閉鎖棟内の管理室だった。
いつもは長岡がコーヒーを沸かせて陣取っている場所。
いまはその場所に、素直クールが枯れ枝の腰を下ろしている。
その手にはどこから取り出したのか、トランプカードが置かれている。
川 ゚ -゚)「トランプのポーカーゲームです。プレイしたことはありませんか?」
o川*゚ぺ)o「何度か遊んだことはありますが……」
川 ゚ -゚)「役の強さについては? 順に述べてみなさい」
o川*゚ぺ)o「なぜですか」
器用なシャッフル。扇状に膨らんだカードが、素直クールの手により高速で重なっていく。
シャッフルが終わる――と思いきや、素直クールは再びカードを扇状に曲げた。
そしてまた重ね終わったかと思うと、再びシャッフルする。
質問に答えるまで、このままだということか。
キュートは仕方なく、記憶を頼りにポーカーの役を唱えていく。
-
まず再弱なのが手札五枚がばらばらなノーペア。
それからワンペアツーペアスリーカードと続き、ストレートの次がフラッシュ。
フラッシュよりもフルハウスの方が強くフォーカードはそれに勝ち、
ストレートフラッシュにそのロイヤルさらに強く。
最も高い手はジョーカー必須のファイブカードで、同じ役の場合役の部分の数字が大きい方の勝ち。
数字も同じだった時はマークの順位、スペード、ハート、ダイヤ、クラブの順で判定する、
というルールで間違いなかったはず。
伺うように、素直クールを仰ぎ見る。
川 ゚ -゚)「結構」
十二分にシャッフルされたトランプが卓上に置かれる。
素直クールは対面の椅子に座るようキュートを促してから、口を開いた。
川 ゚ -゚)「内藤キュート、賭けをしましょう」
o川*゚ぺ)o「賭け?」
椅子に座り、素直クールと真正面で向かい合う。
川 ゚ -゚)「そう、ポーカーの賭け勝負です。あなたが勝ったら、杉浦しぃはあなたに差し上げます。
どうぞお好きなようにお使いください。ですがもし負けたら――」
o川*゚ぺ)o「負けたら?」
川 ゚ -゚)「あなたはここで、死になさい」
-
o川 ゚Д゚)o「…………え?」
素直クールは根を張った枯れ木のようにしんとして微動だにせず、ただ口だけを動かす。
川 ゚ -゚)「あなたが負けたら、私はあなたをここ、旧閉鎖棟の一室に幽閉します。
永久にです。あなたはここで生涯を終えます。それでも出しません。
死してなお自由はなく、あなたはここに縛り付けられます。
あなたはここを出られません。私が出させません」
デミタスが話していたことを思い出す。
気狂いを隔離するために造られた施設の話。
複雑に張り巡らされた三次元的迷宮世界。そのすべては、漏れ出すことを恐れたため。
何をか。
呪いを。
話者がデミタスであったために、あの時は場を盛り上げる怪談程度の意味しか持ち得てはいなかった。
だが、素直クール。人を呪って栄えた一族の、その長。その言。
彼女は、本気だ。
-
o川*゚ぺ)o「……なぜ、そんな条件を。あなたのメリットがわかりません」
川 ゚ -゚)「あなたが知る必要はありません。
あなたが考えるべきはこの勝負を受けるか否か、それだけです。
断っておきますが、恩情は一切ありませんよ。私は勝負の結果を歪めません。
あなたが負けた場合、刑は必ず執行します。
これはただの脅しではありません。現にもう何人もの人間を、
私は私自身の手でこの旧閉鎖棟に監禁してきました。
権力面においても、人間性においても、私はそれができる者です
最後の確認です。内藤キュート、それでもあなたはこの勝負を受けますか」
キュートは目をつむった。
息を止め、それから静かに、胸を抑えた。
そして、勝負は開始される。
キュートの手札は2のペアと残りは6、9、Aの三枚。
より強い手を狙うならばらばらの三枚全てを交換するのが最善だが――。
-
川 ゚ -゚)「四枚チェンジです」
素直クールが先に、手を交換する。
四枚チェンジとは、余程手札が悪いらしい。
手元に残したのは数の強いカードか、あるいはワイルドカード(何でもあり)のジョーカーか。
ジョーカーだとすれば厄介だが、素直クールの表情からは何も読みとれない。
o川*゚ぺ)o「三枚チェンジ」
キュートはカードを二枚場に伏せて捨てた。
ジャッジに任命された長岡が、手札から減ったのと同数のカードを配る。
相手がジョーカー持ちであるならブラフや何かを企むよりは、
少しでも自分の手を強くしておきたい。最低でもスリーカード以上にしておきたいが
――手を開き、キュートは歯噛みする。
引いたの7が一枚に9が二枚。手元の9を残していればフルハウスが完成していた。
今回のルールでは、カードの交換は一度のみ。
ツーペアにはなったが、フルハウスに比べれば心許ないこの役で勝負に臨まなければならなくなった。
川 ゚ -゚)「レイズ」
逡巡する様子なく、素直クールは場代のチップ――に見立てた、
折れた割り箸――の上に更にチップを重ねる。
コールではなくレイズ。やはりジョーカーが何かと結びついて大きな役となったのか。
しかしレイズツーにしないところを見ると、そこまで大きくはなっていないのか。
-
キュートは自分の手札を見る。2と9のツーペア。
この手で、勝負から降りるか、勝負を受けるか、
さらにレイズ、場代を釣り上げるかを選択しなければならない。
勝負を降りた場合、場代のチップ一枚が相手の手に渡ってしまう。
サドンデス(どちらかのチップが尽きるまで勝負が終わらないルール)なのでチップ一枚の移動は、
取り返しのつく軽微な損失に過ぎない。
もし勝負を受けて勝った場合は、
場代分とレイズで追加したチップ一枚分、計二枚のチップがこちらに移動する。
相手のダメージと合わせて考えれば、それだけで四点分の開きが生じる。
逆にこちらが負けた場合は、相手が四点分リードすることになる。
場代を上げた場合。相手が降りなければだが、
レイズならチップ三枚の勝負に、レイズツーならチップ四枚の勝負になる。
レイズスリーはなく、ベットタイムも一度だけとの約束なので、
今回の状況だと最高でチップ四枚分の勝負に挑むことができる計算になる。
勝負がつけば、一気に八点分の差。
初期チップ数が一○枚なので十四対六と、たった一回の勝敗で勝負の大勢を決しかけることができる。
-
とはいえこれは、現実的な思考ではない。いまは降りるか、受けるかだ。
ツーペアという役は、強くもないが、決して弱い手でもない。
ポーカーには手が揃わない状況も山ほどあるからだ。
仮に素直クールの手にジョーカーが含まれていたとしても、
手がワンペアやツーペアであれば負けない。
同格の役を成立させた場合役の優劣は、
ワイルドカードを含んでいない方が強いことになっているからだ。
o川*゚Д゚)o「コール!」
場代に合わせて、チップを一枚重ねる。
キュートは勝負に出た。負ける可能性はあるが、勝つ可能性もゼロではない。
それに初戦から弱気を見せて、素直クールの正体不明な威圧感に呑まれたくない、
呑まれてたまるかという意気もそこには含まれていた。
_
( ゚∀゚)「それじゃ、互いに手札をオープンしてくれ」
ジャッジの長岡の言葉にあわせ、キュートは手を開く。
手札は当然ツーペア。あとは素直クール次第。
素直クールはキュートの手札を見たまま、しばらく手を開けなかった。
-
川 ゚ -゚)「負けてしまいましたね」
素直クールの手札が開く。クイーンのワンペア。
危惧していたジョーカーの姿は、どこにもなかった。
_
( ゚∀゚)「勝者はさっさとチップを回収してくれ」
いわれて、急ぎ卓上のチップを集める。
勝ってしまった。あっさりと。あんなに頭を悩ませたのに、結局ジョーカーは使われていなかった。
その事実が何だか肩透かしで、ぼーっとしてしまった。
ほほを叩く。
十二対八。優勢ではあるが、こんなのすぐにひっくり返ってもおかしくない点差だ。
気を引き締めろ。しぃを――パパを手に入れるための勝負はこれからだ。
キュートと素直クール、お互いが場代のチップ一枚を卓に置いたのを確認して、長岡がカードを配る。
さて、今度の手は――最悪、ブタ<役をなしていない>だ。
フラッシュやストレートも狙えそうにない。今回の勝負は、捨てか。その鉄面皮に、変わりはない。
だがその顔を見た時、キュートはちょっと案を思いつく。
o川*゚ぺ)o「四枚チェンジ」
今回はキュートが先に手を交換する。
カードの交換やベットタイムの順番は、前の勝負の勝利者が先に行うよう取り決めてある。
入ってきたのは、ジャックのワンペア。勝てる役とは言えない。
が、今回はこれでいい。役にはこだわらない。
-
川 ゚ -゚)「一枚チェンジ」
素直クールが手札の一枚を交換する。一枚だけとは、どういうことか。
フルハウス狙いのツーペアが濃厚だが……。表情からは何も読めない。
_
( ゚∀゚)「さ、ベットを」
素直クールの手が最低でもツーペアなら、キュートの手で勝てるわけがない。
通常ならドロップ<降りる>して次戦に臨むところだろう。だが。
o川*゚ぺ)o「レイズです」
チップを場にもう一枚重ねる。
キュートは、勝負に出た。これがキュートの策。
つまり先ほど自分が考えたジョーカーへの恐れを、素直クールにも抱いてもらおうという魂胆だ。
ジョーカーが手元にあれば、スリーカード以上の役は割合現実的に揃えられる。
もしキュートの読み通り素直クールの手がツーペアであるなら、
ドロップも考慮しておかしくない状況のはず。
仮に負けたとしてもこちらは振り出しにもどるだけだが、
素直クールは勝負に出て負けた場合、残りのチップ数を六枚にまで減らした上、
点差は八点まで広がってしまう。ここは無茶をせず、傷口を最小に抑える選択もありだろう。
さあ、どうでる素直クール。
もし場代を引き上げるようならその時は引き下がるが、
できればここも拾っておきたい。勝っておきたい。そのために、降りろ、素直クール。
ドロップ<降りろ>、
ドロップ<降りろ>、
ドロップ<降りろ>!
-
川 ゚ -゚)「ドロップ。降ります」
思わず、小さくガッツポーズ。
やった、賭けに勝った!
キュートは長岡から催促される前に、卓上のチップをかき集める。
やはり素直クールの手はツーペアだったのか。
いや、もしかしたらストレートやフラッシュを狙って、結局役にならなかったのかもしれない。
どちらでも、いまはもう構わないが。とにかく、勝った事実がすべてだ。
いける。このままいける。
素直クールなんて怖くない、この勢いで全勝してやる!
この意気込みが功を奏したのか、キュートは続く三戦目、四戦目も勝利。
素直クールとの点差を十五対五にまで広げていた。
勝てる。
勝てる。
私は勝てる。
運も味方についている。
素直クールは三戦目をツーペア、四戦目はドロップしていた。
対するキュートはフラッシュ、ストレートと、二回連続で高めの役が回ってきている。
流れはこちらにあるのだ。
-
o川*゚ぺ)o「レイズツー!」
キュートは果敢に責める。キュートの手札はキングのスリーカード。
前二回に比べれば格下だが、十分に戦えるカードだ。
しかしキュートの狙いはカードの手にはなく、チップの圧力を増すところにある。
受けられないはずだ。眼前の鉄面皮を観察しながら、キュートは思考する。
素直クールがもしこの勝負を受けて負けたら、彼女の残りチップは二枚だけになる。
これは実質、勝負の終結を意味する。
勝負の参加には場代としてチップを一枚支払わなければならない。
そうすると手元に残るのはチップ一枚。これでは相手のレイズツーを受けることができず、
降りることしかできなくなる。チップがなくなるより前に、勝敗は決するのだ。
四戦目はドロップした。
弱気になっている証拠だ。
もう一度ドロップ、来い。
だが、素直クールの選択は、キュートの予想から外れたものであった。
川 ゚ -゚)「レイズツー」
素直クールは手元のチップをすべて支払い、場代を引き上げた。
一回でチップ五枚――点数十点分の推移を奪い合う勝負。
それを受諾するかどうかのバトンは、再びキュートに渡された。
-
――落ち着け。よく考えるんだ。
可能性を考慮する。なぜコールではなく、レイズ。
それもレイズツーなのか。その答えは簡単だ。
先ほどキュートが考えたように、残りチップが二枚を切った時点で、勝敗は決するから。
コールもレイズもレイズツーも、最後のチャンスという意味では素直クールにとっては同価値になる。
であれば、限界まで賭け金を引き上げるのは当然だろう。
ではなぜドロップして次戦に持ち越さなかったのか。
一見、良い手が入ったので強気の勝負にでたように思える。
しかし果たして本当にそうか。今回の戦いではできて、次戦に持ち越してはできないこと。
それは、場代をチップ五枚まで引き上げることだ。
残りのチップ数が四枚になれば当然五枚勝負はできなくなるし、
そもそもキュートがレイズするかもわからない。
当たり前のことだが、賭け金が大きくなればなるほどチップの圧力は増す。
三枚の勝負ではなく、四枚の勝負でもなく、賭け額の上限である五枚で挑んだ、その意味。
――実は、ブラフなのではないか?
先程キュート自身が行ったように、このレイズツーにはチップの圧力を増すという意味が
――いや、その意味だけしかないのではとキュートは考える。
-
しかもキュートの場合と違い、素直クールには後がない。
それなのに勝負にでたという事実で、実際以上にその手を強く見せている。
ただそれだけで、種を合かせばその手は空、役を成していないのではないか。
仮に手が入っていたとしても、落ち目の素直クールに強い手が入っているとは思えない。
いや、入っているはずがない。
キュートは目の前の怪老をにらむ。
素直クール。
いいですよ。やってやりましょう。
ここで、決着をつけてやる。
o川*゚Д゚)o「コール!」
チップを場に払う。卓上には、十点分のチップが積もる。
ブラフは見破った。あとは手を開き、このチップをすべて回収するだけだ。
そして私は、パパと会う。
キュートの手はもちろんキングのスリーカード。
負けるはずがない。この手を上回っているはずがない。
さあ素直クール、その手を開け。
キュートの念に呼応するようなタイミングで、
ゆっくりと、素直クールはその手の中の五枚のカードを、場に開いた。
-
o川 ゚Д゚)o「……え?」
川 ゚ -゚)「紙一重でしたね」
o川 ゚Д゚)o「だって、そんなはず……」
素直カードの手札は、3と7と、エースが三枚。
エースのスリーカードだった。
揃っていないはずだったのに。
決着するはずだったのに。
だが現実は、キュートの負け。
絶対的に有利だった状況は、一瞬にしてなかったものへと変じた。
川 ゚ -゚)「いまでしたらまだ、勝負の破棄も受け付けますよ」
いつの間にか綺麗に片づいた卓をはさんで、素直クールが話しかけてきた。
依然として矍鑠(かくしゃく)、枯れ木の身体から不気味な威圧感を発している。
バカにして。
o川*゚ぺ)o「結構です。まだ振り出しに戻っただけですから。長岡さん、カードを!」
長岡を急かして配らせたカード。その中身は――やった、ジョーカーだ。
現状ではワンペアにしかならないけども、一回のカード交換で化ける可能性は十分にある。
川 ゚ -゚)「三枚チェンジです」
素直クールが先に、カードを交換する。
三枚チェンジということは、元々はワンペアだろうか。
あまり良い手ではなさそうだ。それなら――
-
o川*゚ぺ)o「三枚チェンジです!」
キュートは罠を仕掛ける。
一枚余計なカードを手元に残すことでジョーカーの所持を隠蔽し、弱い手だと相手に錯覚させる。
むろん交換したカードに良い手が来なければ絵に描いた餅だが、
果たして――よし、いける。これなら負けない。
勝てる。後は相手が引っかかるかどうかだが――。
川 ゚ -゚)「レイズツー。チップを二枚支払います」
よし、よし、よし!
かかった! 勝った!
o川*゚Д゚)o「私もレイズツーです!」
チップを支払い、卓上は再び十点を奪い合う勝負の場となる。
けれどこのチップはすべて、私のものだ。
点差はまた大きく開き、今度こそ止めをさしてやる。
キュートは手を開いた。
それに続き、素直クールの手も開けられた。
そこに描かれていたのは――。
-
o川 Д )o「…………うそだ」
キュートも、素直クールも、その手はお互いフルハウス。
しかし役の強さが同格だった場合、問答無用でジョーカーを含む側が負けとなる。
つまり、キュートは負けた。
絶対に勝てると踏んだ勝負に挑んで、負けた。
たったの二戦、たったの二戦で形勢は逆転してしまった。
川 ゚ -゚)「またもや紙一重でしたね。長岡、カードを」
カードが配られる。
まだだ、まだ完全に敗北したわけじゃない。
素直クールだって、同じ状況から勝てたんだ。
私にだってまだ逆転の目はあるはずだ。
引いたカードはスリーカード。悪くない。
どころか初手ということを鑑みればかなり強いカードだ。
そうだ、まだ流れはこちらにある。相手が誰だろうと負けはしない。
絶対に勝って――。
川 ゚ -゚)「ノーチェンジ」
素直クールはそういって、卓上に手札を伏せた。
-
ノーチェンジだって?
つまり、素直に考えたら最低でもストレートになるということ?
……脅しだ。ただの脅しに過ぎない。
初手からそんな良い手が入ってくるわけない。
萎縮させようって魂胆だろうが、そうそうあんたの思い通りにはいかせないから。
しかしその異様さを、キュートは意識せざるを得ない。
現状のスリーカードでは勝てないのではないかと、どうしてもそう考えてしまう。
手札の内訳は、10のスリーカードと、あとがばらばら。
ただし10のうちの一枚と役にならない残りの二枚は、マークがすべてスペードだ。
通常なら10を手元に残しスリーカードを保険とした上で、フルハウスを狙っていくところだ。
しかし、スリーカードが負ける手札だとすれば、この10は保険でも何でもならなくなる。
ストレート以上を目指すなら、フラッシュかフルハウスが妥当。
だが同じ数字のペアと同じマークのペア、単純な確率でいえばフラッシュの方が遙かに揃いやすい。
強さでいえばフルハウスの方がもちろん上だが、役にならなければ元も子もない。
そもそも相手の手がブラフであるなら、この10のスリーカードで十分勝てるかもしれない。
どうするのが正解なのか。
どうすればいいのか。
どうすれば。
-
o川 へ )o「……二枚、チェンジです」
キュートはカードを二枚、捨てる。捨てたのは、10を二枚。
キュートはフラッシュ狙いを選んだ。配られたカードを凝視する。
胸を強く押さえる。
_
( ゚∀゚)「どうした、見ないのか」
長岡に促されても、すぐにはカードを拾えなかった。
どれだけの時間が経ったか、キュートはようやくカードを拾う。
そして、その表側を細目で確認する。
――賭けに勝った。フラッシュだ。スペードが揃った。
キュートは安堵しかける。
が、それも束の間。
川 ゚ -゚)「レイズツー、場代を上げます」
-
素直クールは、二枚のチップを放り投げた。
わざとそのような仕草をしているようにも見えた。
脅しだ。ただの脅しに過ぎない。
戦って、もし負けたら後がないという事実をちらつかせて、
脅しをかけているだけの姑息な手段だ。
逆の見方をすれば、この強気は、自分の手の弱さを隠そうとしている行動に他ならない。
案外中身はブタなのではないか。そうに違いない。
勇気を出して踏み込めば、これは勝てる勝負だ。
そうだ。私は負けない。このフラッシュは負けない。
戦えば勝てる。戦えば勝てる。戦えば勝てる。
戦えば、
戦えば、
戦えば――!
ドロップ<降りる>、です……。
-
続く二戦とも、キュートはチップを吐き出した。
勝負に負けたのではなく、どちらもドロップ、
勝負に挑むとができなかったのである。
わかっていた。
チップが四枚残っている時はともかく、三枚になったら勝負しなければならないと。
けれど、できなかった。手札がワンペアだったということもあるが、それ以上に、
キュートにはもう、勝つビジョンが見えなくなっていた。
結果、点差は一六。一八対二となり、勝敗は決した。
後はもう消化試合――の、はずだった。
o川 Д )o「とくべつ、ルール……?」
川 ゚ -゚)「そう、特別ルールです」
場面はすでにベットタイム。
素直クールがレイズツーを宣言し、どう足掻いても勝負にこぎつけないキュートが
ドロップを口にしようとしたところ。それを遮り、素直クールが話かけてきた。
特別ルール、という単語を伴って。
o川 Д )o「何ですか、それは」
川 ゚ -゚)「不足したチップ分を、ある条件を呑むことと引き替えに
補足するというルールです。受けますか?」
-
キュートの手札は7と8のツーペア。
強い手とはいえないが、相手次第で十分に勝つことはできる。
勝負させてもらえるならば、それは願ってもない提案だ。だが――。
o川 Д )o「ある条件って、何ですか。今すぐ死ねとかいいださないでしょうね」
川 ゚ -゚)「それではゲームになりません。私の提案はもっと穏便なものですよ。
私の問いにあなたが真実を持って答えてくれさえすれば、それで構いません。
ただし嘘やごまかしが見られた場合は、このルールは即刻破棄します。
すなわちあなたは死にます」
結局怖いこと言ってるじゃないか……。
けれど、その程度の条件なら、別に。躊躇することもない。
素直クールのことだから意地の悪い質問をしてくるかもしれないが、
何とかして正解を答えてやる。あんたの気紛れ、乗っかってやる。
キュートは肯定の意を示すため、首肯する。
それを見て、素直クール、では……といった様子で口を開いた。
川 ゚ -゚)「あなたの両親の名を教えてください」
o川 ゚ぺ)o「……なんですって?」
-
聞き間違いを疑う。
もっと意味不明な難問が来るものと思っていたところに、両親の名前?
川 ゚ -゚)「どうしました、答えられないのですか?」
o川 ゚Д゚)o「そんなこと! 内藤ホライゾンと、内藤ツン、です。これで満足ですか?」
単純すぎる質問に、正直に答える。こんな質問なら、いくらでも答えよう。
キュートは勝負に挑もうとチップをつかんだ。
しかし素直クールは、キュートの行動を制するように静かに首を振った。
川 ゚ -゚)「その答えではチップの代わりにはなりませんね。あなたはごまかしている」
o川;゚Д゚)o「そんな、私はごまかしてなんか――」
川 ゚ -゚)「私が尋ねたのは、あなたの本当の両親の名です。
あなたを産んだ者と、その夫の名」
-
胸に、杭を突き刺されたような痛みが走った。
痛い、痛い、ずきずきと、痛い。
o川; Д )o「何で、そのことを……」
川 ゚ -゚)「答えられませんか?」
息が苦しい。まるで海中へと一気に引きずり込まれてしまったみたいに。
それでもキュートは、胸の中に残った酸素を無理矢理に吐き出す。
o川; Д )o「……倉田モナーに、…………倉田、くるう……」
川 ゚ -゚)「結構。ゲームを続けましょう」
勝負は、キュートの勝ちだった。
素直クールの手札はジャックのワンペア。
これで残り二枚だったキュートのチップが四枚にまで増え、首の皮一枚つながったことになる。
だがそれも、たったの二戦で元に戻る。
キュートは再び所持チップ数を二つの減らし、
また同様に、素直クールはレイズツーを宣言してくる。
川 ゚ -゚)「では今回の問いです。あなたは何故精神科医を目指すのですか」
o川; Д )o「それは――」
川 ゚ -゚)「内藤キュート、真実を」
o川 Д )o「……ママ――倉田くるうへの復讐のため、です」
-
勝負に勝つ。
負ける。
レイズツー。
川 ゚ -゚)「実の母への復讐。その動機は何ですか」
o川 Д )o「あいつが、パパを奪ったから……。私のパパを、あいつが……」
川 ゚ -゚)「それは真実ですか」
o川 Д )o「そう、です……そのはず、です……」
勝つ。
負ける。
レイズツー。
川 ゚ -゚)「精神科医になることが、なぜ復讐になるのですか」
o川 Д )o「あいつが、くるうが言っていたんです。
あいつの母親は人の心を導くすごい人だったって。
そんなふうになりたかったって。
だから私は、あいつがなりたくてもなれなかったものになって、それで……」
川 ゚ -゚)「それで、彼女が悔しがるとでも考えたのですか?」
o川 Д )o「……」
-
勝つ。
負ける。
レイズツー。
勝つ。
負ける。
レイズツー。
勝つ。
負ける。
レイズツー。
現実感がない。
無数の勝負。無数の負けに無数の問い、無数の答え。
そのどれもが、夢のなかの出来事のようにキュートには感じられてきた。
自分がいま何を答えているかすら、キュートには判然としない。
まるで自分のうちに潜む別の自己が、勝手に回答しているような、
そんなふうにすら思えてしまう。
だが、その永遠にも等しい時間にすら、終わりは平等に訪れる。
特別ルールの導入により、キュートはチップの枚数が足りないまま勝負に参加し続けてきた。
そのツケはチップの総数が一枚ずつ減っていくという歪みとして、
場に潜んでいたのである。初めのうちこそ微少な変化として誰も気にとめなかったが、
それは少しずつ、だが着実に進行し、やがて確かな形としてその姿を現した。
-
現在場で動いているチップの総数は、たったの八枚。
そしてその内訳はキュートが二、素直クールが六。
ただしその数も一時的なもの。一度の勝負で、その比率もたやすく変じる。
川 ゚ -゚)「いささか調子に乗りすぎてしまいましたか」
例によってレイズツーを宣言した素直クールにキュートが勝利し、
素直クールはそのチップ数を三枚に減らし、キュートは四枚にまで増やした。
一時の絶望的な差から、経緯はどうあれ形勢逆転したのである。
本来であれば。
キュートは、そうしなかった。
受け取る権利を得た素直クールからのチップを、卓上から払いのけた。
_
( ゚∀゚)「おい」
長岡が睨んでくる。
だがそんなこと、構っていられない。
そんな余裕はない。相手はあくまで、素直クール。
-
>>1です。すいません、ちょっとミスが発覚したので一旦停止します
-
>>1です。失礼しました
>>238-244を破棄し、投下しなおします。
-
続く二戦とも、キュートはチップを吐き出した。
勝負に負けたのではなく、どちらもドロップ、
勝負に挑むとができなかったのである。
わかっていた。
チップが四枚残っている時はともかく、三枚になったら勝負しなければならないと。
けれど、できなかった。手札がワンペアだったということもあるが、それ以上に、
キュートにはもう、勝つビジョンが見えなくなっていた。
結果、点差は一六。一八対二となり、勝敗は決した。
後はもう消化試合――の、はずだった。
o川 Д )o「とくべつ、ルール……?」
川 ゚ -゚)「そう、特別ルールです」
場面はすでにベットタイム。
素直クールがレイズツーを宣言し、どう足掻いても勝負にこぎつけないキュートが
ドロップを口にしようとしたところ。それを遮り、素直クールが話かけてきた。
特別ルール、という単語を伴って。
o川 Д )o「何ですか、それは」
川 ゚ -゚)「不足したチップ分を、ある条件を呑むことと引き替えに
補足するというルールです。ただし対等な勝負ではありませんので、
あなたが勝っても私の払ったチップ三枚すべてをお渡しすることはしません。
あなたの払う条件と同様、一枚分のチップはあなたの手には渡らず、形なきものとしてゲームから除外致します。
むろん負ければそこでおしまい。いかがですか、受けますか?」
-
キュートの手札は7と8のツーペア。
強い手とはいえないが、相手次第で十分に勝つことはできる。
受け取るチップ数が減るとはいえ勝負させてもらえるならば、それは願ってもない提案だ。
だが――。
o川 Д )o「ある条件って、何ですか。今すぐ死ねとかいいださないでしょうね」
川 ゚ -゚)「それではゲームになりません。私の提案はもっと穏便なものですよ。
私の問いにあなたが真実を持って答えてくれさえすれば、それで構いません。
ただし嘘やごまかしが見られた場合は、このルールは即刻破棄します。
すなわちあなたは死にます」
結局怖いこと言ってるじゃないか……。
けれど、その程度の条件なら、別に。躊躇することもない。
素直クールのことだから意地の悪い質問をしてくるかもしれないが、
何とかして正解を答えてやる。あんたの気紛れ、乗っかってやる。
キュートは肯定の意を示すため、首肯する。
それを見て、素直クール、では……といった様子で口を開いた。
川 ゚ -゚)「あなたの両親の名を教えてください」
-
o川 ゚ぺ)o「……なんですって?」
聞き間違いを疑う。
もっと意味不明な難問が来るものと思っていたところに、両親の名前?
川 ゚ -゚)「どうしました、答えられないのですか?」
o川 ゚Д゚)o「そんなこと! 内藤ホライゾンと、内藤ツン、です。これで満足ですか?」
単純すぎる質問に、正直に答える。こんな質問なら、いくらでも答えよう。
キュートは勝負に挑もうとチップをつかんだ。
しかし素直クールは、キュートの行動を制するように静かに首を振った。
川 ゚ -゚)「その答えではチップの代わりにはなりませんね。あなたはごまかしている」
o川;゚Д゚)o「そんな、私はごまかしてなんか――」
川 ゚ -゚)「私が尋ねたのは、あなたの本当の両親の名です。
あなたを産んだ者と、その夫の名」
-
胸に、杭を突き刺されたような痛みが走った。
痛い、痛い、ずきずきと、痛い。
o川; Д )o「何で、そのことを……」
川 ゚ -゚)「答えられませんか?」
息が苦しい。まるで海中へと一気に引きずり込まれてしまったみたいに。
それでもキュートは、胸の中に残った酸素を無理矢理に吐き出す。
o川; Д )o「……倉田モナーに、…………倉田、くるう……」
川 ゚ -゚)「結構。ゲームを続けましょう」
勝負は、キュートの勝ちだった。
素直クールの手札はジャックのワンペア。
これで残り二枚だったキュートのチップが四枚にまで増え、首の皮一枚つながったことになる。
だがそれも、たったの二戦で元に戻る。
キュートは再び所持チップ数を二つの減らし、
また同様に、素直クールはレイズツーを宣言してくる。
川 ゚ -゚)「では今回の問いです。あなたは何故精神科医を目指すのですか」
o川; Д )o「それは――」
川 ゚ -゚)「内藤キュート、真実を」
o川 Д )o「……ママ――倉田くるうへの復讐のため、です」
-
勝負に勝つ。
負ける。
レイズツー。
川 ゚ -゚)「実の母への復讐。その動機は何ですか」
o川 Д )o「あいつが、パパを奪ったから……。私のパパを、あいつが……」
川 ゚ -゚)「それは真実ですか」
o川 Д )o「そう、です……そのはず、です……」
勝つ。
負ける。
レイズツー。
川 ゚ -゚)「精神科医になることが、なぜ復讐になるのですか」
o川 Д )o「あいつが、くるうが言っていたんです。
あいつの母親は人の心を導くすごい人だったって。
そんなふうになりたかったって。
だから私は、あいつがなりたくてもなれなかったものになって、それで……」
川 ゚ -゚)「それで、彼女が悔しがるとでも考えたのですか?」
o川 Д )o「……」
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勝つ。
負ける。
レイズツー。
勝つ。
負ける。
レイズツー。
勝つ。
負ける。
レイズツー。
現実感がない。
無数の勝負。無数の負けに無数の問い、無数の答え。
そのどれもが、夢のなかの出来事のようにキュートには感じられてきた。
自分がいま何を答えているかすら、キュートには判然としない。
まるで自分のうちに潜む別の自己が、勝手に回答しているような、
そんなふうにすら思えてしまう。
だが、その永遠にも等しい時間にすら、終わりは平等に訪れる。
特別ルールの導入により、キュートはチップの枚数が足りないまま勝負に参加し続けてきた。
そのツケはチップの総数が一枚ずつ減っていくという歪みとして、
場に潜んでいたのである。初めのうちこそ微少な変化として誰も気にとめなかったが、
それは少しずつ、だが着実に進行し、やがて確かな形としてその姿を現した。
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現在場で動いているチップの総数は、たったの八枚。
そしてその内訳はキュートが二、素直クールが六。
ただしその数も一時的なもの。一度の勝負で、その比率もたやすく変じる。
川 ゚ -゚)「いささか調子に乗りすぎてしまいましたか」
例によってレイズツーを宣言した素直クールにキュートが勝利し、
素直クールはそのチップ数を三枚に減らし、キュートは四枚にまで増やした。
一時の絶望的な差から、経緯はどうあれ形勢逆転したのである。
本来であれば。
キュートは、そうしなかった。
受け取る権利を得た素直クールからのチップを、卓上から払いのけた。
-
_
( ゚∀゚)「おい」
長岡が睨んでくる。
だがそんなこと、構っていられない。
そんな余裕はない。相手はあくまで、素直クール。
o川 Д )o「いりません、こんなもの。
その代わり、私も特別ルールです。
私の問いに真実を答えてください、素直クール」
川 ゚ -゚)「何を聞きたいのです」
呼吸を整える。
知らない方が良いことかもしれない。
そんな予感が、キュートのなかではとぐろを巻いて鎮座している。
だが同時に、知らなければならないという焦燥感もある。
いまこの機を逃したら、私は一生懐疑と盲目の蜃気楼に惑わされ続けてしまうだろうから、と。
だからキュートは、真実を問う。
o川 Д )o「杉浦しぃとは、何ですか」
-
素直クールの目つきが鋭くなった。
人間らしい表情の変化をまるで見せなかった素直クールが、
初めて感情らしきものを露わにしている。
杉浦しぃとは、この素直クールにとっても特別な存在なのだろうか。
川 ゚ -゚)「……しぃとは、すべてです」
o川 Д )o「答えになっていません」
川 ゚ -゚)「それ以上答えようがないのです。……が、それではあまりに不義なのも事実。
もう少し説明を試みてみましょうか。うまくいくとは思いませんが。
元来、すべての中にはすべてが在ります。あなたにも、私にも、すべてが在る。
私たち素直の者は、それを”太梵”と呼んでいましたが」
o川 Д )o「何の話ですか?」
川 ゚ -゚)「しぃを語る上で欠かせない話です。黙ってお聞きなさい。
つまりすべての者のうちには太梵が在り、太梵のうちにすべての者は在ると私たちは考えました。
ですが生命はその意識の表層で、個という在り方を獲得してしまいます。
名を与え、自己と他者とを、自己とすべてとを分断してしまう。
悪と善、毒と薬、死と生。一見相反するように思えるそれらが、
一つの事象を別の相から捉えているという事実を忘れてしまう」
-
o川 Д )o「それは……」
素直クールの話を遮り、キュートは、
自らの抱える”真実”への懐疑を、口に、する。
o川 Д )o「呪いと、祈りも、ですか……」
素直クールが、薄く笑った、ように、見えた。
その顔が、キュートには、誰かと、
キュートのよく知っている何者かと、重なったように、思えた。
-
川 ゚ -゚)「内藤キュート。どうやらあなたも、真実へと足を踏み入れ初めているようですね。
この世界とは、複雑に編み込まれた関係の織物です。
我々とは、その織物が一時的に表す形象に過ぎません。
やがてその糸は解かれ、我々という形象は跡形もなく消え去ることでしょう。
永久不滅であるかのように振る舞おうと、それはただのつながりの中の表れでしかなく、
自己に拘泥する限り彼はただの消えゆく者です。
しかし杉浦しぃは違います。彼には自己が存在しません。
自己が存在しないのに、存在している。彼は何者でもないが為に、何者でも在れる。
故に彼は太梵――すなわちすべてなのです。
ですが我々消えゆく者には、真に彼を理解することはできません。
個として分断された我々には、すべてをすべてとして知覚する方法がわからないのです。
その為に彼は、観測者の意識と無意識とに応じた相として表れる。
ちょうどそう、量子の世界では、その位置と運動量を同時に観測できず、
末端の関与者である観測者にその性質を依存するが如く。
あなたにも心当たりがあるのではないですか、内藤キュート――」
-
勝負が開始される。おそらくは、最後の。
配られたカードはキングが二枚に、後はばらばら。
策はない。単純に強いカードを狙っていく。
o川 Д )o「三枚チェンジ」
引いたカードのうちに、キングが含まれていた。
これでキングのスリーカード。戦いに挑む格好は整った。
そしてベットタイム。キュートの宣言はコール。
現状維持。レイズしようが、同じ事だから。バトンは素直クールに渡される。
川 ゚ -゚)「レイズツー」
レイズツー。レイズツー。レイズツー。
耳の奥で、エコーしている。
五感が麻痺している感じ。
けれど、その中で意識だけが、次にくる質問が何かを、いやにはっきりと予知していた。
川 ゚ -゚)「あなたへの最後の問いは、ひとつ。”あの日”の真実を、すべて私に話してください」
-
あの日。
その言葉が何を示すのか、問わずともキュートには分かっていた。
”真実”に隠された”真実”が。
手元のカードをみる。
キングのスリーカード。
強い手だ。戦えば、きっと勝てる。
戦えば。
でも――。
それは、認めることと同義だ。
私が過ちであったと。
私の存在理由が過ちであったと。
私の存在が、過ちであったと。
それでも私は、進むべきなのか。
それとも私は、戻るべきなのか。
影の子供。
彼と一緒に、留まっているわけにはいかないのか。
o川 Д )o「わたし――」
パパ。
o川 Д )o「わたし、は――」
……ママ。
-
お前はまた、奪うのか。
.
-
部屋の中に、突風が吹き荒れた。
いやそれは、人為的な暴力だ。
飛び込んできたのは、人間だった。
獣のような凶暴さで一瞬にして椅子や机を破壊し、暴力的な眼光で素直クールに牙を向いている。
キュートはその人物を知っていった。
人相があまりにも変貌しているために
ぱっと見では記憶と合致しなかったが、彼女は、確かに――。
o川 ゚Д゚)o「ハイン……?」
呼びかけた途端、身体が宙に浮いた。
そして次の瞬間には、景色が高速で動き出していた。
ハインに抱き抱えられていると気づいたのは、すでに管理室から出た後の事だった。
川 ゚ -゚)「長岡!」
素直クールの声が聞こえたような気がしたが、それも一瞬のうちに遠ざかっていった。
後にはもう、どこまでも続く伏魔殿<ラビリンス>の回廊しか映らなくなった。
.
-
※
从 ゚ー从「かわいそうに、こんなにやつれてなぁ……」
ハインの手が、キュートのほほをやさしくなぞった。
どうしてこうなったんだっけ。
場所はまだ、旧閉鎖棟の内部みたいだけれど。
キュートはいま、床の上で仰向けになっている。
その上には、ハイン。ちょうど、押し倒されるような格好になっている。
いや、ような、というよりは実際に、押し倒されているのか。
黒く染めた髪の根本から、地毛の金髪が現れているのが見える。
確か素直クールと対決している最中にハインが乱入して、
ハインは暴れ回って私をさらい、すごい早さで走り去っていって、それで――。
おでこに軽い衝撃が伝わった。
ハインが頭を下げて、額を合わせてきたらしい。
すぐ目の前で、ハインの瞳が輝いている。
蒼く、澄んだ瞳。コンタクトをつけていない。
-
从 ゚ー从「お前がいなくなってる間にな、いろんな事があったんだぞ。
俺な、振られちゃったんだ」
o川 ゚ぺ)o「振られたって、デミタスに?」
キュートの言葉に、ハインは吹き出した。
楽しそうに笑っている。けれど、ハインだって、ひどいものだ。
やせこけてしまって、元の美しさも全部、台無し。見る影もない。
从 ^ー从「違うよ、あいつは違う。もっと大切な人。たぶん、俺の初恋の人、かな」
ハインの両手が、抱えるように、拘束するようにキュートの頭に絡む。
それ自体が意志をもった動物のように。背筋に何か、寒いものが走った。
-
从 ー从「キュートは勝手に、大人になんかなったりしないよね?」
o川;゚ぺ)o「……ハイン?」
从 ー从「私には、キュートだけなの」
o川;゚ぺ)o「ちょっと、ハイン」
从 ー从「私にキュートを守らせて」
o川;゚ぺ)o「いい加減にして」
从 ー从「ずっとこのままでいて……」
o川; へ )o「そうしないと、私――」
从 ー从「ずっと、幼いキュートで……」
o川 へ )o「私は――」
蒼い瞳に見入られる。
私は――。
彼女は――。
だから、すべてを忘れて――
-
――あなたの、ことも?
-
从 ∀从「……あはっ」
ハインは天井を仰いでいた。
馬乗りの格好のまま。
彼女がいま、どんな顔をしているのか。
私には、わからない。
その瞳が、まだ。
蒼いのかも。
从 ∀从「また、振られちゃった、かな」
男たちの声が聞こえる。
足音も。
探しているのだ、私たちのことを。
私と、ハインを。
程なくして、キュートは捕らえられた。
彼女は牢室に閉じこめられ、
一切の灯りはかき消され、
そして、
その胎内にキュートを残し、
旧閉鎖棟の、
錠は下りた。
.
-
※
まるで日常だ。
溜まった書類仕事を片づけながら、デミタスは溜息を吐いた。
あれから、三日が経つ。ハインが旧閉鎖棟へ乗り込んでから。
キュートが旧閉鎖棟に囚われてから。
そしてぼくが、旧閉鎖棟に関与する権利を失効してから。
ハインを無断で旧閉鎖棟に入れたことへの罰は、
モララーから二、三小言をつぶやかれただけで、拍子抜けするほどに何もなかった。
この緊迫した状況下での不用意な行動、クビも覚悟していたのだが。
ただし旧閉鎖棟に関する一切の関与を認めないと、それだけはきつく厳命された。
プロジェクトからも外されたので出世の道も閉ざされてしまっただろうが、それはまあ、いい。
自分が人の上に立てる器だとは思っていないし、
不気味でどこか薄ら寒い旧閉鎖棟にもできれば関わりたくはなかった。
近寄るなと正式に命令されたなら、それは願ってもいないことだ。
人生無事平穏に。安心して生きていければ、それに越したことはない。
いまのこの状況こそが、ぼくの望んでいた日常なのだ。
――本当に、そうか?
-
支援
-
从 ^∀从「デーミータスっ!」
(;´・_ゝ・`)「ひゃぁあ!?」
ほほに冷たいものが押しつけられ、デミタスは飛び上がった。
背後にはいたずらっぽい笑みを浮かべて、ハインが立っている。
(;´・_ゝ・`)「は、は、ハイン! ダメだよ用もないのにここまで来ちゃ!」
从 ゚∀从「用ならあるよ。ほれ」
ハインは手の持っていたものを、書類が散乱するデミタスのデスクに無造作に置いた。
それは液体がなみなみと注がれたビーカーだった。
結露しているのか、表面に汗をかいている。
ほほに当てられたものの正体は、どうやらこれらしい。
(´・_ゝ・`)「なに、これ?」
从 ゚∀从「新発売の飲料水なんだってさ。
学部の連中で分けてたんだけど、おいしかったから持ってきた」
(´・_ゝ・`)「そりゃ、まあ、なんというか気持ちはうれしいけど、
ここは患者さんも来るとこだから――」
ミセ*゚ー゚)「いやだ先生、せっかくハインちゃんが来てくれたのにそんないけずなこと。
ねぇハインちゃん、そんなことぜんっぜん気にしないで、いつでも来ていいんだからねー?」
看護師のミセリさんが、話に割って入ってきた。
というかあなたですね、ハインを通した犯人は。
-
从 ゚∀从「ありがたいお言葉ですけど、すぐに帰ります。
邪魔はしたくありませんから」
「えーざんねんー」と不満顔のミセリに会釈したハインは、
屈託のない笑顔のまま、再びデミタスの方へ向き直った。
从 ゚∀从「とりあえず、さ。おいしかったから飲んでみてよ。
そんで仕事が終わった後にでも、感想きかせて。待ってるから、さ」
ずいと、ハインが近づく。
耳元で、ハインの呼吸が触れた。
从 ∀从「パソコン室で、待ってるから」
それだけ言うと、ハインは「じゃあね!」と爛漫な挨拶で去っていった。
部屋にはデミタスと、ミセリだけが残される。
ミセ*゚ー゚)リ「ハインちゃん、雰囲気変わりましたよねー。丸くなったっていうか。
ねぇデミタス先生、どんな魔法を使ったんですかー?」
(;´・_ゝ・`)「べ、別に何もありませんよ」
ミセリはにやにやと笑っている。
何を邪推しているのか、手に取るようにわかる。
何というか、とても親父臭いぞミセリさん。
ミセ*>∀<)リ「隠すところがあやしぃー。それに人が見てる前で愛妻弁当の受け渡しだなんて、
デミタス先生ったら、もう、見せつけてくれちゃって!
きゃー! もう、やぁーだー!」
(´・_ゝ・`)「いや妻ではありませんし、お弁当ってわけでも……」
-
一人で盛り上がって「きゃーきゃー!」はしゃいでるミセリさんは放っておいて、
だがデミタスは、ミセリほど楽観的に考えることはできなかった。
ここ三日、ハインの機嫌はすこぶる良かった。
数日前までの憔悴がうそのように回復し、デミタスに対してもやさしい。
まるで、本当に付き合っている男女のように。
だからこそ、デミタスは不安だった。
あの日、キュートが旧閉鎖棟に閉じこめられることになった、あの日。
ハインはキュートと再会した。
二人の間にどんなやりとりがあったのかは不明だが、
いまのハインの態度がその時の出来事に起因していることは、間違いないだろう。
だがハインは、デミタスが聞いてもはぐらかすだけで、何も教えてはくれない。
杞憂ならばいい。ハインが本当に、心身の健康を取り戻してくれたならば言うことはない。
けれどデミタスには、どうしてもそうは思えなかった。
ハインの笑顔が演技だとは思わない。だが、何かが違う。違和感がある。
きっとハインが完全に――本当の意味で回復するには、キュートの介在が必要なのかもしれない。
依存対象としてではなく、もっと、根源的な部分で。
-
彼女たち二人がどんな結びつきの下でそばにいたのか、デミタスにはわからない。
けれどもいまは、信じざるを得ない。鍵は、キュートだったのだと。
そして、その鍵を砕いたのは。
もはや手遅れなのかもしれない。
それでも、回収しなければ。旧閉鎖棟に置いてきてしまった”あれ”を。
例えそれが、モララーの意志に背くこととなろうとも。
もう一度、ハインとキュートを引き合わせよう。
『山内つー』の過ちを、繰り返さないために。
デミタスは、ハインの置いていった飲料水に口を付けた。
好みの味ではなかった。
.
-
すっかり遅くなってしまった。窓の外では外灯が薄暗く灯っている。
春が近づいているとはいえ、まだまだ夜の色は濃い。
デミタスはビーカーの中に半分ほど残っていた飲料水を一気に飲み干すと、すぐさま走り出した。
春休み中ということもあり、講義室が並ぶ校舎には人気がない。
パソコン室は各棟に設置されているが、基本的に学生が自由に利用できるのはこの教育棟のものだけだ。
ハインもおそらくそこにいるだろう。帰っていなければ、だけれど。
果たしてデミタスはパソコン室にたどり着く。
しかし部屋の中は真っ暗で、どう見ても人のいる気配はしない。
さすがに帰ってしまったか。
自分の要領の悪さを呪う。だがいまはそれよりも、連絡することだ。
連絡して、謝ろう。そして言うんだ。一緒に、キュートに会いに行こうと。
デミタスは携帯を開き、履歴の一番上に表示されたハインの名前を選択した。
だが、その時。
いつか聞いた馴染みのあるメロディーが、
ハインの携帯の着信音が、
すぐそばで、
いや、すぐ目の前、
パソコン室の中から、
聞こえてきた。
-
――来てくれないかと思ったぜ。
携帯から、ハインの声が聞こえてくる。
着信メロディーはもう、止まっていた。
(´・_ゝ・`)「ハイン……?」
どうした、入ってこいよ。
(´・_ゝ・`)「ハイン、遅れてしまったのは謝る。
だから普通に、ご飯でも食べながら話をしよう」
――何を怖がってるんだ?
(´・_ゝ・`)「そういうわけじゃ……」
デミタス。俺のことがどうでもいいなら、そのまま回れ右をして帰って。そうでないなら、入って。
そんな言い方をされては、入らないわけにはいかない。
デミタスはパソコン室の扉に手をかける。開ける。入る。
外から見たとおり、中は真っ暗闇だ。手探りで、電灯のスイッチに手を伸ばそうとして――。
――明かりはいらない。そのまま真っ直ぐ進むんだ。
釘を差される。言われるまま、部屋の中央あたりまで
机や椅子にぶつからないよう気をつけて進む。
すると部屋の一カ所、端の方で、仄かに光っている場所があるのを発見する。
-
そうか、携帯の光だ。
ハインも通話中の携帯を操っているのだから、ライトが灯って当然だ。
そう思って目を凝らすと、薄い光に照らされて、
彼女の顔がぼんやり浮かび上がっているのが視認できた。
デミタスはその場所を目印に、呼びかける。
(´・_ゝ・`)「ハイン、聞いてくれ! きみとキュートの間に何があったのかは知らない。
でもそこであった事が、いまのきみにつながっているってことは想像できる。
きみは何かが終わってしまったと感じているのかもしれない。けれど違うんだ。
人生っていうのはだいたい、終わったと思ったところで始まるんだ。
きみはまだ、スタートラインに立っただけなんだよ。
ハイン、会いに行こう。旧閉鎖棟の鍵はぼくが何とかする。だからもう一度、会いに――」
とつぜん、強烈な光が照らされた。
視界がつぶされ、頭がゆさぶられる。
それでもデミタスは目をしばたたせながら、光源に視線を向けた。
スクリーンに映像が映っていた。音声は流れていない。
だが、何が行われているものかはすぐにわかった。
ハインが乱れていた。裸で。男と。
-
……なんだ、これ。
思考が追いつかないまま、映像が切り替わる。
しかし、内容に大差はない。違うのは、場所と、相手の男くらいだ。
映像は次々と切り替わっていった。
その度に、違う男と汗を重ねるハインの姿が映る。
意識が朦朧としてくる。なんだ、ぼくは夢でも見ているのか。
”お友達”に、パソコンに詳しいやつがいてさ。
ハインの声に呼応するように、部屋中のパソコンに明かりが灯った。
そのどれもがスクリーンに映っているものと、同じ映像を再生している。
薄暗い部屋の中、等間隔で灯るパソコンのディスプレイ。
その一種幻想的な光景を、人影が遮った。
多方から照らされた人影は幾重にも分裂しながら、
ディスプレイから灯される強烈な光を後光のように背負って、
デミタスの下に近づいてきた。
ハインだ。人影の主は、ハインだった。
ハインは映像と同じ、一糸纏わぬ姿で立っていた。
-
(;´・_ゝ・`)「ハイン――」
从 ∀从「動くな」
駆け寄ろうとしたところを、一声で制止される。
その声が頭に残響して、意識がゆれる。
从 ゚∀从「俺の許可なしに動いた瞬間、この映像をすべてネット上にアップする」
ハインはとんでもない事を言い出す。
確かにその脅しは、デミタスにとって有効に働く。
けれどもしその脅しを実行したとして、
それで一番ダメージを負うのはハイン自身ではないのか。
それともハインにとって、この程度のこと痛みにも何にもならないのか。
ハインは薄くほほえんでいる。デミタスには、ハインが何を考えているのかわからない。
(;´・_ゝ・`)「ハイン、なんでこんな――」
从 ゚∀从「バカなことをって?」
ハインがデミタスの言葉を継いだ。その声が、とても遠く思える。
この異様な状況のせいか、光の加減なのか、思考がぼんやりとしてまともに機能しない。
そんなデミタスなどおかまいなしの様子で、
ハインはくるりと少女のように、その場で回った。
長く黒い髪が、慣性につられてその後を追う。
-
从 ゚ー从「俺さ、小さい頃、精神科に通ってたことがあったんだ。
自分が何でそんなとこに来てるのかわかってなかったし、
いやでいやでしょうがなかったんだけど、ひとつだけ、
楽しみなことがあったんだ。なんだと思う?」
初めて聞くハインの身の上話。ハインが精神科に通っていたとは、知らなかった。
彼女は過去の一切を話してはくれなかった。しかしいまになって、なぜ。
ハインはデミタスの答えを待たず、話を続ける。
从 ゚ー从「正解は、ある人と会えるから。素敵な人。格好良くって、やさしくって、
この人が本当の母親なら良かったのにって、何度も思った。憧れだったんだな。
それで俺、全部真似していったんだ。
髪も染めて、目にも黒いコンタクトを入れてさ。
振る舞いも、しゃべり方も全部研究して」
そう話をするハインの姿が、記憶の中のあの人と重なる。
本当に、そのまま。
あるいは、そう。彼女には話すだけの理由ができてしまったのだ。
いままでは無関係だと思っていた男の過去と、
自分の過去との接点を見つけてしまったのだ。
その接点を見つけたのは、いつだ。原因は、どこだ。
そんなの、ひとつしかない。
ぼくが、秘密を打ち明けたから――。
-
从 ゚ー从「真似仕切れたとは言えないよな。だって俺には、あの人みたいな魅力はねぇもん。
子供っぽいのに、どこか知的でミステリアスでさ。
でもさ、念ずれば通ずってやつなのかな。
俺の中には確かに、あの人の残滓が息づいてたんだ。
俺を通してあの人の影が見えるくらいにはさ。なあデミタス、あんたもそう思うだろ?
あんたが殺した『山内つー』に、俺は似てたか?」
完全なる黒い髪。
完全なる黒い瞳。
ちょっとした動作の機微。
男勝りな話口調。
彼女は、ハインだ。
ああ、そして、これは――つーだ。
山内つーが、ハインを通じて顕現している。
(´・_ゝ・`)「復讐、なのかい……?」
きみの大切な人を殺してしまった事への。
あるいは、”あなた自身”を殺してしまった事への。
だがハインはデミタスの言葉を肯定することなく、
心底おかしそうに、少女のように笑った。
-
从 ゚∀从「ちげーよ、全部偶然。あのババアなら因果とかなんとか言うのかな。
あんたが罪を告白したこと、兄さんが私を拒絶したこと、
キュートが妖怪ババアに誑かされたこと。
他にもいろんなことが全部つながって、いまのこの状況なんだ。
一個でも欠けてたら、素直にあんたと結婚してたかもな。
な、デミタス。あんたはつーさんが好きだったのか?」
山内つー。彼女と初めて出会ったのは、デミタスがまだ医師に成り立ての頃だった。
彼女はデミタスよりも年上で、子供も一人いると説明されたたが、
とてもそうは見えないと驚いたのを覚えている。
彼女は若かった。見た目はもちろんだが、心も同様だった。
無邪気で、活動的で、なによりも明るかった。
性性の希薄な性格も、若さの一因となっていたのだろう。
笑顔がまるで、少年のようだった。
(´・_ゝ・`)「きみと同じだと思う。ぼくは彼女に憧れていたよ。
恋愛ではないけれど、敬愛という意味では、好きだったと思う」
そのくせ彼女は思慮深い、賢人としての顔も持っていた。
心というものの在り方について、彼女から教わった事は多い。
現代常識から外れたことでも、彼女が話すと途端に真実味を帯びた。
地を流れる気脈の話なども、彼女から聞いた。
彼女は実家の影響でそういう話を覚えてしまっただけだと謙遜していたが、
こういった話をする時の彼女からは一種神聖な、
これは言い過ぎかもしれないが宇宙そのものの広大さ、みたいなものを感じた。
その彼女を、ぼくは殺した。
-
言い訳はできない。
例えそれが上からの命令だったとしても、それが危険なものかもしれないと感じつつ、
言われるがままぼくが、他ならぬぼくが彼女に処方したのだから。
从 ゚ー从「そっか。大切な人だったんだ。大切なのに、殺したんだな。
それでその贖罪のために、彼女の面影を宿すガキ、
一回りも年の離れた生意気なガキのお守りをしてたってわけだ。あんたも大変だ。
でもな、デミタス。俺、わかったんだ。
罪ってのは、そんなことでそそげるもんじゃないんだって」
ハインが何かを投げた。
その何かは宙空でパソコンの明かりを反射してきらめき、
硬質な音を立ててデミタスの足下に落下した。
罪には罰を。
デミタスはそれを拾った。
堅いグリップから、空気まで切り取ってしまいそうな銀色の刀身が伸びていた。
デミタス、それを使って――
それは、メスだ。それはメスだった。
専門ではないが学生時代にはよく握ったもの。
医療系の大学であればどこにでもありふれたもの。
人の皮膚や肉を裂くには十分な威力を持つもの。
俺を、殺せ。
-
ハインが近寄ってきた。
裸のハインがひたひたと、近づいてくる。
人体の急所を無防備にさらして、歩いてくる。
でなければお前の大切な人が、辱められることになる
ハインの手が、一番近くにあるマウスへと置かれた。
光が幻惑する。空間が歪んでいる。プロジェクターには、動画が流れ続けている。
ハインがささやく。
大切な思い出なんだろ。
大切な人なんだろ。
それを侵そうとする者はなんだ?
敵だよな。
だったら殺さなきゃ。
殺して、殺して。
その上殺して、守らなきゃ。
そうだろう?
-
ハインはささやいている。
けれどデミタスにはわからない。
ハインがなぜ、こんなにも”追いつめられている”のか。
ハインの言動はデミタスの行いを咎めている、
というよりも、自分自身を罰しようとしているかのようだ。
ハインの語る罪。
不特定多数の異性と性交したこと。
それをネットに流そうとしていること。
山内つーの影を利用して、ぼくを脅していること。
なるほどそれは、どれも倫理的観点から見れば不道徳だとは思う。
でもそれが、死を持って償わなければならない程の罪だとは思えない。
デミタスにはわからない。
(´・_ゝ・`)「ぼくにはわからない、わからないよ。
きみが死ななければならない理由が、ぼくには見つからない」
ハインは薄く笑っている。
こんな格好なのに、どうしてかその表情にも仕草にも艶めかしさを感じられない。
まるで、そう、無理に背伸びをする子供のように。
从 ゚∀从「死ななきゃいけない理由、か。
きっと表面化した理由を話せば複雑多岐で、
逆に自分自身ですら混乱してしまうのだろうけど、
原因を突き詰めて、突き詰めて、突き詰めていったら、それは、結局――
生まれてしまったから、じゃねぇかな」
-
ああ、わかった。
ハインは死にたいのだ。
理由はあるのかもしれない。
けれどすべての理由は、望みのための理由なのだ。
ぼくが彼女を殺してしまった時。
何度も自殺を考えたように。
彼女は死にたがっている。
それが彼女の望みなのだ。
気持ちが悪い。
酒を飲み過ぎてしまった時みたいに、頭がくらくらする。
ぼくは、彼女を殺すべきなのだろうか。
それが彼女の望みなのか。
それがぼくの償いなのか。
彼女を失うことがぼくへの罰なのか。
-
頭が働かない。
彼女が目をつむる。
口づけを待つ乙女のように、
振り下ろされる銀の刃を待っている。
デミタスは手中のメスを振り上げた。
触れればそれで切れてしまいそうな、彼女の柔肌を見つめる。
何も考えなくていい。
ただこのまま振り下ろすだけで、それは達成されるだろう。
彼女に薬を処方した時のように。
言われるがまま、何も考えずに。
何も――
銀のメスが、軽い音を立てて床を転がった。
(´・_ゝ・`)「ぼくはきみを殺せない。
こんなことで、きみを殺せるわけないだろう」
どうかしている。バカげている。
ハインは、ハインだ。つーじゃない。
ハインを失うことが、つーへのつぐないになるわけないじゃないか。
それはただの、投影だ。ハインを見る。つむった目が、開いていた。
-
从 д从「こんなこと……?」
微笑を浮かべていたその顔が、ひきつっていた。
デミタスのうちで、ハインはますます、ますます山内つーからかけ離れていく。
从 д从「こんなことってなんだよ……大切なものが汚されそうなのに、
こんなことって、なんだよ……それじゃ私は、私は――」
ハインの目から、涙がこぼれた。
从#;д从「私は殺したぞ! あいつを! トドメも差した! 何度も! 何度もだ!!」
ハインの姿態は、泣きじゃくる子供そのものだった。
デミタスは、いま初めて彼女と出会えたように感じた。
これが彼女なのだ。何重にも被せていた仮面をはぎとった、ハインの素顔なのだ。
一歩、彼女のそばに近寄った。
-
支援
-
从 ;д从「来るなぁ! 来たら、押すぞ! ほんとだぞ!
流れるのは動画だけじゃない、お前の犯した罪や、この病院の罪や、素直の罪も、
全部流れるようになってるんだぞ! 大変なことになるんだ! だから、だから――」
(´・_ゝ・`)「白状するよ。ぼくはきみにつーを感じて近づいた。
今度こそつーを守ろうと、そう思って。でも、いまはそうじゃない。
いまなら自信を持っていえる。山内つーにじゃない。
他ならぬ君に言うんだ。ハイン、ぼくと――」
从 ;д从「来るな、来るなよ、来ないでよぉ……」
(´・_ゝ・`)「結婚しよう」
-
ハインを抱きしめる。
彼女はこんなにも小さかっただろうか。
まるで気持ちの大きさと比例して、縮こまってしまったようだ。
从 д从「私、どこで間違えたんだろう……」
彼女はつぶやく。小さな声で。
(´・_ゝ・`)「ぼくもついてる。やり直せないことなんてないんだ」
从 д从「無理だよぉ……」
(´・_ゝ・`)「そんなことないよ」
从 д从「もう手遅れなんだ……」
腕のなかで、ハインの手が動いた。
てのひらの感触が、胸のあたりに伝わる。
从 ∀从「全部、手遅れなんだよ」
-
とん、と、軽い力で押された。
本来であれば、よろめくことすらない程度の、ほんの小さな干渉。
けれどデミタスはそれだけで、大きく後ろに倒れた。
世界がぐるりと回る。光が曲線を描いて、七色に変化する。
从 ;∀从「ねぇデミタス、私のあげた飲み物はおいしかった?
”クレンネス”入りの飲料は」
ハインの手がマウスに置かれ、クリックされるのが見えた、
と同時、スクリーンが、すべてのパソコンが、
次々と、次々と、
映像を切り替え、
次々と次々と、
動画に動画が重なり、
次々と、次々と、
裸のハインが現れ、
次々と、次々と、次々と、
それはさながら、シュールレアリスムの絵画のように、
それはさながら、電子ドラッグのように、
次々と、次々と、次々と、次々と――
-
声もでなかった。
嘔吐感と幸福感が一挙にわき上がってきたように、
精神が極限から極限までを網羅している。
ああ、そして、見える。
画面から飛び出してきた、無数の山内つーが。
――初めから、こうすればよかったんだ。
幾層にも阻まれた膜の向こう側から、ハインの声が届いてきた。
彼女がぼくにまたがったのが伝わってくる。
彼女の手がぼくの手を包み込んだのも。ぼくの手に、何かが握られたのも。
メスだ。
ぼくは逆手にメスを握っている。
その手を彼女が握っている。
――罪には、罰を。
死ぬ気だ。
違う、殺される気だ。
あくまで彼女は、殺されるつもりなのだ。
身体が動かない。意識は明瞭なのに。
明瞭すぎる白い闇に、目が眩まされている。
彼女がいるのに、彼女の重さを感じられない。
-
そうか、これが因果応報というものか。
ぼくの犯した過ちへの、これが罰か。
”内藤キュートの水筒に混入したものと、同じ幻覚剤を飲まされるとは”。
彼女がぼくの腕を動かす。
振り下ろせばそのまま、喉を裂けるように。
声もでない。
身体も動かせない。
それでも何とか、
何とかしなければ。
何かを、何とか、
何とか――
キュート、ずっと一緒に――
.
-
※
.
-
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃ
ないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこ
じゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃな
いあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあの
こじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあ
のこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃな
いあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃ
ないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃな
いあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃ
ないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあ
のこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじ
ゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
あのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあの
こじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじ
ゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこ
じゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこ
じゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃないあのこじゃない
.
-
考えていた。
キュートは考えていた。
時間の失せたこの暗闇の中で、
血濡れの文言に囲まれ考えていた。
素直クールの言葉。
杉浦しぃの存在。
夢。
真実。
答えなんて、初めからわかっていたのかもしれない。
ただ、それを認めたくなかっただけ。
”真実”に塗りつぶされた”真実”を直視できなかっただけ。
あの日、私たちの間で起こった真実を――
-
_
( ∀ )「ハインが死んだ」
長岡だ。長岡がいる。
長岡は、ハインが死んだと言っている。
_
( ∀ )「これは罰だ。母を止めず、あいつを拒絶した俺への罰」
ハイン、ハイン、ハイン。
本当は金髪のハイン。
蒼い瞳のハイン。
見たことはない。
髪を染め、コンタクトをしていたから。
でも、私は知っていた。
どうして私は、彼女を知っているのだろう。
_
( ∀ )「咎人よ、お前の罰はどこにある」
長岡はいなかった。
ハイン、ハイン――ハインが、死んだ。
幼き私を望むハインが、死んだ。
――私のせいで?
-
いかなきゃ。
水筒からこぼれた水が、ちろちろと流れていく。道はこっちと流れていく。
キュートは歩いた。その後を血の文言が追いかけ、追い越した。
文言は血を流して脈打ち、さながらキュートは肉管のうちを逆流する胎児だった。
私は永遠のキュート。
開けた子宮には羊水がたまり、そこにある一切を還元する。
そこに溶けるのがわかる。ひとつになっていく。
そして、そこには、そう、神様がいる。安寧と混元の神様――杉浦しぃが。
倉田モナーの永遠の娘。
彼の左腕が、私の内部に入ってくる。
胸を破り、同化する。
ママ<くるう>から奪った結婚指輪と、しぃの薬指が混ざり合う。
倉田くるうを永遠に憎む者。
――ハイン。
-
おやすみなさい
《続》
-
今回は以上です。途中ミスしてしまい、大変申し訳ありませんでした
次回で最終回ですが、今度こそミスせずに投下しないなぁ……
できるだけ早く、来月中には投下します
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乙でした。ゆっくり休んでくれ
-
おつ
今回も引き込まれた!
最終回は寂しいがとても楽しみ!!
-
乙!ダークメルヒェンいいなぁ……
先の展開が読めなくて最終回wktk過ぎる
>次回で最終回ですが、今度こそミスせずに投下しないなぁ……
ミスする気満々ワロタ
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ブラックジャック的な話と思ったら複雑になってたおつ
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>>1です。最終話投下の目処が立ちました。
11月20日の木曜日、18時からの投下を予定します。
ただし時間は多少前後するかもしれません。
よろしくお願いします。
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たのしみにしてる!
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とうとう最終話か
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>>1です
すみません遅くなりました。投下します
-
《 ※ 》
地下牢の迷宮。
苦悶と怨嗟に満ち満ちたこの旧閉鎖棟を、彼は歩く。
主に従い奥へと歩む。
不気味だった。
収容された患者たちはだれもが正体を失っているようで、涎を垂らし、
焦点は合わず、意味のなさないうわごとをつぶやいている。
なのに、である。
それなのに、みな一様に敵意を、憎悪を放つのだ。
収監されたその牢を通りすぎる際、こちらに向けて――
否、前を歩む我が主に向かって。
気に中てられたこちらの息すら止まってしまいそうな呪詛が、
我が主を取り巻くように渦巻いている。
恐ろしい、恐ろしい。
ここも、ここの住人も。
しかしなにより恐ろしいのは、彼らではない。
なにより恐ろしいのは、我が主だ。
眉一つ動かさず一瞥もせず、屹としてその有り様を変じない枯れ木のような我が主が。
素直クールが。
-
「よう、素直家当主様」
はっきりした声。正体を失った呪詛の主のものとは違う。
それは牢の一室、その片隅から聞こえてきた。
暗闇の中において尚ぎらつく瞳が、素直クールを捉えていた。
「高みからの見物ご苦労様。てめぇで蹴落とした家族や
男を塵のように見下すってのは、さぞやいい気分なんだろう?」
俺も味わってみたかったぜと言い、男はくくくっと笑った。
けれど目だけは笑っていない。水気のない肌にまばらな頭髪。
死人の身体。なのに目だけが生気を宿している。強すぎる生欲を。
「なんだ、もしかして俺のことも忘れちまったのか?
俺だよ、ギコだよ。悲しいねぇ。あんなに愛し合ったのによ。
……まさかあの子――俺とお前の愛の結晶のことまで忘れちまったんじゃないだろうな?
そうあの子だよ、あの子。名前は――まあ、どうでもいいか。
あの子はよくできた子だったよな。見えない物を感じ取ることに関して、
あの子以上の素直は歴代にもそうはいなかったろうぜ。
でもなあ、それがプラスに働くかわからないのが世の中ってもんだ。
あの子は少し、優秀すぎた。おかげで爺さんたちの不興をかっちまった」
-
男は話し続けている。彼は自らの主を覗き見た。素直クールの表情は変わらない。
ただその歩を止め、かつての夫を感情のこもらない目で見つめている。
「ああ、かわいそうになぁ。誰かさんが必死こいて素直から追ん出したってのに、
むしろそれが原因であんな目にあっちまうなんてなぁ。
誰かさんが余計な真似をしなければ、いまも楽しく幸せに暮らしてたかもしれないのになぁ……
くは、くは、くはは……。
……いや、いやいや違うか。あれは”お前の子”じゃなかったな。
お前の子、お前の”本当の子供”は遠い昔に捨てられたんだったよな、確か。
確か、うん、そうだ……出来損ないは素直にいらないからな。
しかし、ああ、あの子はどんな暮らしをしてるんだろうな。
幸せに暮らしてるといいな。結婚なんかして、子供もできてな。
自分の血を分けた子がどんな生き方をしているのか、気になるのが親心ってもんだろ?
どんな人と出会い、どんな男と結ばれ、どんな家族に囲まれ、そして……
どんな末路を迎えるのか!
――なあ素直家御当主様よ、お前の行い<存在>で、誰か一人でも幸せにできたかい?」
-
男が笑い出す。身体を痙攣させて。哄笑。
悪意に満ちた、その声。周囲の患者たちまでもが、男に便乗して笑い出す。
正体を失っているはずなのに。
「行きましょう」
素直クールが歩き出す。彼もそれに従い、哄笑の檻から離れた。
笑い声の間を過ぎる。過ぎる。過ぎて、男とその追従者の声が聞こえなくなりかけた時、
素直に呪いあれという叫びが聞こえた。
.
-
※
その部屋は四方が赤黒い血に埋め尽くされていた。
血は無軌道にばらまかれているようでいて、大小様々に、
意味のある形――言葉、文を成している。
その文言は、『あのこじゃない』。
血文字で書かれた『あのこじゃない』。
「手を出さず、そのままにしています。消すとまた書き出してしまうので……」
彼は痛ましいその傷跡から極力目を逸らしながら、簡潔に説明する。
旧閉鎖棟は怖い。が、ここが少し違う。
ここにに来ると、胸苦しくなる。だから彼は、言葉を短く切る。
主――素直クールは、そんな従者の思いなど気にする様子もなく、
部屋の奥の暗闇を見つめ、やがて、そこに向かって歩き出した。
素直クールの進む方向、その先には、一人の女性が壁にもたれてうなだれていた。
伸び放題の髪に隠れて顔は見えないが、醸し出す雰囲気から
正常な心理状態でないことは察せられる。そしてその指は、
壁の血と同じ、赤黒い色に染まっていた。
-
素直クールが彼女に近づく。
一歩、また一歩。
打ちっ放しの石材を踏みしめる堅い音が、正確に、正確に響きわたる。
そしてその音が、止まる。
素直クールが、彼女のすぐ目の前に立った。
うなだれた彼女の頸が、上がった。
「あの子じゃない……」
彼女はよろよろと、素直クールの足にしがみついてきた。
懇願するように、つかんだその手を前後に揺すっている。
「あの子じゃない」
ゆっくりとした前後動が、次第に激しさを増していく。
それに比例して肉のそげた彼女の首が、がくがくと揺れ始める。
「あの子じゃない!」
彼女は止まらなかった。
首の骨が軋みよじれ外れそうになっても、その勢いは欠片も衰えなかった。
自己保存本能の欠如。彼は思う。
何が彼女をここまで突き動かすのだろうと。
今にも事切れそうな骨と皮の身体を揺り動かしてまで。
-
彼女が何を訴えようとしているのか、彼は知らない。
彼女の言う『あの子』が誰を示しているのかもわからない。
怨みか、恐怖か、後悔か――どんな感情で発せられている言葉なのかも、不明だ。
けれども彼は、彼女の心がそうした悪感情に満たされたものとは思えなかった。
なぜなら――
「あの子じゃない、あの子じゃ――殺したのは、あの子じゃない!」
彼女の言葉には、誰かを庇いだてする響きがあったから。
殺したのはあの子じゃない。『あの子が殺した』でも『あの子が殺された』でもなく、
『あの子は殺していない』という訴え。
あの子とは、この女性の子供なのかもしれないと、彼は思っている。
気を狂わせてまでも自分の子を守ろうとする母親の心情。
子を傷つけまいとする、母の心。
妻は、どんな気持ちだったのだろう。
お腹の子を死産させてしまった時、どれだけの苦しみを負ったのだろう。
二度と子をなせないと告げられた時、どれだけの絶望に囚われたのだろう。
妻は――
ぼくは――
-
「もういいのです、くるう」
信じられない光景が、目の前で展開された。
素直クールが、あの素直クールが、膝を折り、
目の前の女性を抱きしめたのだ。それもやさしく、いたわるような抱擁で。
「あの子じゃない! あの子じゃない! あの子じゃないぃぃ!」
女性は抱きしめられても構わず叫び続けていた。
自由になった腕が、それぞれ素直クールの肩や背をつかんでいる。
そしてその部位の素直クールの衣服に、じわりと、
朱が広がっていくのが見えた。彼女のものか、
素直クールのものか判別のつかない、骨の軋む音が聞こえてきた。
いけない。
彼は己が主を助けるため駆け寄ろうとした。
だがその動きは、すぐに止まることになる。
素直クールが女性に何か耳打ちした直後だった。
それまでの狂乱が嘘のように、女性は静止したのである。
-
「……――ート?」
「そう、あなたの娘」
素直クールが、女性の背をなでた。
あやすような手つきだった。
「あなたは良い母ではなかったかもしれません。
けれどその心はいつも子を思っていた。あなたはやさしい母でした。
私が保証します。だから、もう、自分を許してあげて……」
「…………おかー、さん? おかー、さん。……おかーさん、おかーさん!
おかーさんおかーさんおかーさんおかーさん!」
彼女はおかーさん、おかーさんと連呼し出した。
先ほどまでの狂気はどこにもない。
その姿はまさに、母親の胸で泣きつく子供のそれそのものだった。
「おかーさん、おかーさん……おかー、さん……おかー………………」
やがて彼女の声は弱々しく、今にも消え入りそうなか細いものへと変じていった。
そしてついに、その声が止まると同時、素直クールをつかんでいた彼女の腕が、
力なく、だらりと垂れ下がった。
-
「お疲れさま、くるう。よくがんばりましたね……」
やさしい声。あるいは泣いているのではないかと思うほどの。
力をなくした女性を、先ほどよりも強く、力を込めて抱きしめている素直クール。
彼の恐れる素直家当主とはかけ離れた何者かが、そこに現れているような気がした。
「杉浦しぃの所在は未だ掴めていないそうですね」
背を向けたまま、彼に話しかける素直クール。
いつもどおりの無機質な響き、厳然とした威圧感を放っている。
けれど彼は、以前ほど素直クールを恐れていない自分に気がついた。
「素直クール、お願いがあります。……妻の罪を、赦してはくださいませんか」
「……何を言い出すのですか?」
「虫のいい願いであることは承知しています。承知した上で請願します。
妻を赦して頂けませんか。……白状します。私は妻の罪を肩代わりするつもりでここに来ました。
ここ――旧閉鎖棟に閉じこめられる覚悟で。
けれどそれでは意味がないと気づいたのです」
力を失い抱かれるままの彼女と、他ならぬあなたによって。
-
「失意に沈んだ妻にはいま、支える者が必要です。
しかし家族と離縁してまで嫁いできた彼女に、父母の助勢は期待できない。
彼女の支えになれるのは私しかいない。
なればこそ、私は彼女から離れるわけにはいかないのです。
ここに収容されるわけにはいかないのです。一時の罰であれば喜んで受けましょう。
骨を砕けと言われれば砕きましょう。手足をもげと言われればもぎもしましょう。
ですからどうか、彼女から私を取り上げないでくださいませんか。
彼女の罪を、赦してはいただけませんか」
「あなた方が杉浦の謀反に荷担した以上、素直の主として
その背信を見過ごすことはできません。罪は償ってもらいます」
「素直クール!」
「聞きなさい」
-
素直クールは背を向けたまま、きっぱりとした声で彼の言葉を遮った。
そして胸の中の女性を、そよりと一撫でした。
「……私たち素直で経営支援を行っている孤児院があります。
そこに、倉田という姓の女の子がいます」
素直クールが、動かなくなった女性を横にした。
その目を閉じさせ、しばらくの間そのまま固まっていたが、
やがてその枯れ木の身体を直立させ、彼の方へ振り返った。
その顔は、彼のよく知る素直クールの、それそのものだった。
「内藤ホライゾン、及び内藤ツンに命じます。
あなた方はその子を引き取り、内藤の子として育てなさい。
その子の名は――」
.
-
《 四 》
水中。キュートはもがく。息ができない。酸素を求めて、身体をばたつかせる。
が、できない。神のごとき絶対的な力で押さえつけられたキュートは、
自由からなる一切の権利と尊厳と人間性とを剥奪されている。
死ぬだろうと思う。
なぜなら、あいつが殺そうとしているから。
ママ<くるう>が私を殺そうとしているから。
渡すものか!
渡すものか!
お前などに、渡すものか!
返せ、返せ、返せ!
あの人を帰せ!
吐け、吐け、吐き出せ!
吐き出せ!
水上から響くママの声はハウリングして、
多層的に耳の奥の脳と直結した器官を浸食する。
目の裏側と鼻のつけねと喉の奥が針で刺されたように痛む。
-
耳障りだ。本当に耳障りな声だ。
キュートがそう思っていると、声は物理的な質量をかたどり
無数のあぶくを伴って水中へと沈んできた。
それは、キュートの腿にまで到達した。鮮血の帯が水の波を泳いだ。
だが、その帯も切断される。それが再び、水中へと振り下ろされたのだ。
何度も振り下ろされるそれは、キュートの肉を削ぐそれは、
包丁の形をしていた。キュートのよく知る形をしていた。
私は死ぬのだ。
ママ<くるう>に殺されるのだ。
胸を開かれ、無惨な死体となり果てるのだ。
そうして私は、永遠にパパ<モナー>のキュートになるのだ。
そしてついに、その時が来た。
包丁が、キュートの胸へと正確に向かってきた。
キュートは目をつむった。
-
――死ななかった。
キュートは生きていた。
包丁は、キュートの元へは届かず、鈍い光の軌跡をその水上できらめかせていた。
水上で、男女がもみ合っていた。
女を取り押さえようとする男に対し、女は包丁を振り回し暴れていた。
男の手が、女の手を押さえる。包丁が落下する。
中空を落下する。女が自由な手を伸ばした。
とっさの反応。それは反射的で、勢いのある動作だった。
吐き出したあぶくで視界がモザイクになる。
あぶくのひとつひとつに、赤色が映る。
那由他のあぶくのそのすべてに、男から吹き出る赤色(せきしょく)がきらきらと輝く。
キュートを押さえる抵抗は、もはや雲散していた。
キュートは水面へ上がる。眼下に映るのは、パパの死骸と、ママの抜け殻。
返り血にまみれた白痴のくるう。
-
憎い。
憎い、憎い。
憎い、憎い。憎い!
パパを奪ったくるうが憎い!
死体のモナーと、呆けたくるうと、憎悪するキュート。
その三位一体が形成するトライアングルを、キュートは眺めていた。
憎い、憎いと猛りながら、憎い、憎いと呪いながら――
――そのほほがゆるむのを、キュートは抑えられなかった。
-
私はくるうが憎い。
私はくるうが憎い。
私はくるうが憎い。
笑い声が漏れる。
私はくるうが憎い!
私はくるうが憎い!
私はくるうがちゃんと憎い!
笑いながらキュートは、舌の上で転がしていた物体を、一息に咽下した。
くるうから奪った結婚指輪を。
-
キュートは水中へ沈められた。神のごとき力でキュートは拘束される。
耳障りな声が質量を成して、キュートに襲いかかる。死ぬと思う。
殺されると思う。永遠にパパのものになれると思う。
その願いは叶わず、包丁は水上で鈍い光の軌跡を描き、
もみあう男と女はそれを取り合い、那由他のあぶくに鮮血のその瞬間が映じる。
キュートは水面へ上り、肉体と魂の骸を見下ろす。
その三竦みの光景を、キュートは見る。憎しみの愉悦を抱いて。
憎み、笑い、そして咽下する。くるうの結婚指輪を。
それが合図となり、キュートは水中へと引きずり込まれる。
殺されかけ、そして、もっとも大切なものを殺される。
無窮に廻る殺意の円環。憎む者を、憎むこと。
その心地良さ。キュートはもう永遠に、永遠に、ここから永遠に、
永遠に、抜け出るつもりはなかった。永遠に、永遠に、幼いまま、
永遠に、永遠に、くるうを呪い続け、永遠に、永遠に、永遠を、甘受するつもりだった。
そしてまた、永遠のキュートは水中へ沈む。
-
『本当にこのままでいいの?』
.
-
永遠の外から、声をかけられた。
それはキュートと共に水中に沈み、水のゆらぎにその姿を波打たせている。
それは影だった。影の子供。いつか見た夢の旅人。
「このままでいい。このままがいい」
キュートは腕を振ることで水のゆらぎを強め、影の形を歪める。
影はかき消えた。と同時、キュートの背後にその姿を象(かたど)る。
背後に向かって腕を振る。影は消え、再び現れた。
「邪魔しないで」
『ならそう望めばいい。ぼくはあなたの望みに従っているだけだから』
「そんなことない」
『あなたは心の底から、この世界を望んでいるわけではないよ』
「違う。これが私の望み。幼いままでいられる唯一の世界。
一切の成長はなく、繰り返される今日を憎み続けるだけの安楽な呪い。
あの人も――ハインも、それを望んでいた。他に大切なものなんて、ない」
-
『本当に?』
「本当に」
『一切?』
「いい加減にしろ」
『大切な人はいない?』
「黙れ」
『きみを呼ぶあの声も?』
-
――キュート!
-
水中に、亀裂が走った。
『幼いあなたが受け入れるには、辛すぎる出来事だったかもしれない』
やめろ。
『けれどもう、あの時とは違う』
やめてください。
『幼年期に囚われる日は終わったんだ』
私に見せないでください。
『さあ、一緒に見に行こう』
――真実を。
-
父、モナーは家に寄りつかない人だった。
たまに帰宅してもいつも忙しそうで、用事を済ませたら
すぐまた仕事に戻る、そんな生活を送っていた。
テレビに関わる仕事をしていたそうだが、どんな役職で、
どんな役割を担当しているのかは知らない。父と話をする機会などなかったから。
キュートは、父が好きな食べ物すら知らなかった。
一度だけ、父は家に忘れ物をしたことがある。
番組で使う備品だったのかもしれない。慌てた様子で家中を探し回っていた。
けれど結局見つけることができず、父は会社に戻っていった。
見つかるはずがないのだ。
なぜならその忘れ物は、キュートがこっそり拝借していたのだから。
幼いキュートには重たい文庫本。『幼年期の終わり』。
キュートはこの本を肌身離さず持ち続けた。内容はわからない。
まだひらがなも危ういキュートには、とても読めるものではなかった。
それでも構わなかった。この本は、ほとんど唯一の父とのつながり。
重要なのは、それだけだった。
-
キュートとモナーとの関係は、このように希薄なものだった。
それ故にキュートは、幼年期の関係性の、そのほとんどを母に依存していた。
母、くるうは父とは対照的に、いつも家にいた。
友人と呼べる人はいないらしく、近所づきあいも皆無だった。
有り余る時間を彼女がどう消費していたのか、キュートはよく覚えていなかった。
キュートの為に使っていた、というわけでもない。
ただの一度も、遊んでもらったことがないくらいなのだから。
そもそも彼女に抱きしめてもらった記憶が、キュートにはなかった。
育児放棄というわけではない、と思う。
食事は用意してくれる。着替えも手伝ってくれる。
キュートから呼びかければ、きちんと応えてくれる。
生活に必要な面倒は、きちんと見てくれる。
だが、それだけ。
共に過ごす時間は長くとも、彼女がキュートに関わるのは極短時間に過ぎなかった。
彼女の態度からは、キュートとの必要以上の接触を避けようとする節が――
むしろ、キュートを恐れるような素振りすら、見られた。
朝、目が覚めたとき。
自分以外だれもいない部屋の中で、私は母に捨てられたのではないかと毎日――
そう、毎日そう思っていた。
-
だからキュートは、あの手この手で母の気を引こうとした。
例え母に嫌われていようとも、それでも、それでもキュートは、
母に自分を見てほしかった。
叱ってほしかった。褒めてほしかった。撫でてほしかった。
笑ってほしかった。抱きしめてほしかった。
抱きしめてもらえるように、笑ってもらえるように、撫でてもらえるように、
褒めてもらえるように、キュートは試行錯誤を繰り返した。
その悉くが、失敗に終わった。
キュートは、最後の手段に出た。
それは母の入浴中に行われた。
いつも身につけているそれを、入浴中だけは外すと知っていたから。
手触りの良い小箱に保管されたそれを取り出し、
浴室のドアを音が鳴る勢いで開け、キュートは浴槽に浸かる彼女の目の前に立った。
そしてそれ――母が夫モナーと交わした結婚指輪を、見せつけるように呑み込んだ。
次の瞬間、キュートの身体は水中に引きずり込まれていた。
大量のあぶくが口から吹き出る。酸素を求め、反射的に手足をばたつかせる。
しかしとてつもない力により、キュートは水中に拘束される。
-
吐け!
吐け!
吐きだせ!
分厚い水の壁を越え、母の叫びが聞こえてくる。
憎悪と殺意にまみれた叫び。そして母は、
どこからともなくキュートの胸を切開するための刃物を取り出し――
『違うよ』
-
母の現像が消えた。
キュートを包んでいた高速は解かれ、
母のいたはずの場所から、影の子供がこちらを見ていた。
『それは違うよ』
違くない。
『彼女が本当は何を訴えていたのか』
「吐け」
違くないんだよ。
『彼女が本当は何を思っていたのか』
「吐け」
母は私を殺そうとしたんだ。
『一緒に聞こう』
「吐いて」
それだけが事実なんだ。
『真実を』
「吐いてよぉ」
真実なんて知りたくない。
『彼女の言葉を』
-
「“キュートが死んじゃうよぉ!”」
.
-
指輪を呑み込んだ直後、キュートは激しく咳き込みだした。
肌の色は白く変じ、唇からは血の気が失せた。
のどの奥は炎が通過したように、ひどい熱に萎縮した。
水中へ引きずり込まれたのはそのすぐ後だ。
母は抱きしめるような格好でキュートを引き寄せ、浴槽の湯船に沈めた。
キュートが暴ることを許さずしっかと固定し、
その上で、彼女は人差し指をキュートの喉奥につき込んだ。
キュートの口から、指輪がこぼれた。
胸を抑える。いや、もはや理解している。
こんな行為に意味はなかったのだと。
“パパとの結婚指輪が、こんなところにあるはずはなかったのだと”。
-
やがて母の胸から解放された幼いキュートは、
しかし自身の回復を喜ぶことはなく、初めて味わう恐怖と苦しさの複合感情に混乱し、
そしてその混乱は、キュートに安易な結論を選択させた。
死んでやる!
私はいらない子なんだ。だからこんなに苦しむんだ。
だからママは私を苦しめるんだ。私を無視するんだ。
ママは私がいらないんだ。嫌いなんだ。
だったらいなくなってやる。死んでやる。
危ないから入ってはいけないと言われていた台所へ、
キュートは迷うことなく駆け込んでいった。
そこにはキュートの命に容易くトドメを差せる道具、包丁が鈍い光を放っている。
つかむ。
想定外の軽さ。
よろめく。
振りかぶり。
逆(さか)に持ち直し。
再び構えて。
目をつむり。
振り上げて――。
-
「バカ!」
身体が硬直する。
玄関から、声が聞こえてきた。
手に何か、白い箱を持ったパパが立っていた。
パパが近づいてくる。キュートは後じさる。
パパは構わずやってくる。
キュートは、キュートは――絶叫した。
「来ないでぇ!!」
死ななきゃなんだ!
死ななきゃなんだ!
死ななきゃなんだ!
キュートは包丁をめちゃくちゃに振り回した。
早く自分を刺せばいい、などと考える余裕はなく、
混乱した感情がそのまま行動に表れていた。
だがそれも、すぐに止められた。
パパの手が、包丁を振り回すキュートの腕を取った。
キュートの手から、包丁がこぼれた。
-
包丁が、宙空を落下する。
それは、反射的な行動だった。
キュートは自由な腕を、勢いよく伸ばした。
落下した包丁をつかむため。
その先に、何があるかなど考えず。
結果的に、キュートは包丁をつかむことに成功した。
しかしその包丁が突き刺さったのは。
深々と突き刺さったのは。
キュートにではなく。
パパの。
モナーの。
首に。
だった。
-
パパの手から、白い箱が落下した。
箱は衝撃に耐えられず崩壊し、その中に守っていたものを晒した。
そこにはタルトがあった。いちごのタルト。薄いチョコの板が乗ったいちごのタルト。
砕けてしまったチョコの板。そこには、何か、文字が書かれていた。
割れた文字には、こう、書かれていた。
きゅーちゃん おたんじょうび おめでとう
.
-
止まらない。
止まらないよぉ。
血が止まらないよぉ。
モナーは仰向けに倒れ、白目を向いていた。
包丁の突き刺さった喉からは、赤黒い血液がとめどなくあふれ出している。
キュートの手は真っ赤に染まっていた。
血が流れるのを止めようと、お湯に塗れた『幼年期の終わり』を開いて、
傷口に押しつけた。モナーの口から血があふれた。
びくりと痙攣し、その直後、父は全く動かなくなった。
『幼年期の終わり』が落下した。
血を吸った部分が重みに耐えきれず、ひとかたまりとなり、無事な部分と分かれた。
開いたページには、第三部と書かれていた。
それもやがて、自重のままに倒れ、『幼年期の終わり』は閉じた。
「キュートじゃない」
裸の母が、立っていた。
「キュートじゃない」
母が、包丁を抜いた。
「この人を殺したのは」
吹き出た血が、母にかかった。
「殺したのは――」
-
もうやめて。
『あなたは記憶を捏造した。母の言葉を頼りに、
自身の罪から目を背けられるような形へ。その基底となる言葉こそが――』
――殺したのは、私<くるう>。
.
-
『ママ<くるう>は何故パパ<モナー>を殺したのか。
その理由を、あなたは現実をねじ曲げでっちあげた。
すなわちその歪みこそが、パパという人物像。
無条件に私<キュート>を愛してくれる父親。
パパは私<キュート>を愛し、私<キュート>もパパを愛した。
相思相愛で入る隙間がないほど統合された不可分の二人。
くるうは、二人の関係を妬み、その妬みからキュートを憎み、
その憎しみは殺意にまで発展した――ことにされた。
そしてあなたもまた、己が生み出した物語に従い
“大好きなパパ”を奪ったママを憎んだ。
そうすることで心の平衡を保ったんだ』
-
けれどそんな感情、すぐに風化する。
『普通はそうなのかもしれない。
けれどあなたは、あなたが考えている以上に周到だった。
あなたは母を忘れぬよう、長期的な目的を設定した。
母の憧れる母の母、祖母のように人の心を癒し治す人物になること――
つまり、精神科医になることを目的とした。
その目的を目指している限り、母への意識が途切れることはないから』
-
それでも、挫折する時はくる。
『そう、あなたは幾度も挫折しかけ、精神科医になることを――
すなわち母への執着を手放す状況に迫られた。けれど結果は現状の通り。
あなたは執着を失わずにここまで来た。それは何故か?』
-
ママ<くるう>が、私の前に現れたから。
『あなたが精神科医を諦めかける度、彼女は現れた。
今も尚あなたを憎んでいると表明するように、
あなたの水中へのトラウマを喚起する形で。
杉浦しぃの治療を諦めかけた時も、素直クールの取引を躊躇ったときも、
相真への出願を迷った時も、そして――
養父母を己の両親として受け入れようとした時も』
私の前に初めて呪いが現出した瞬間。
倉田キュートにこだわることをやめ、内藤キュートになろうと思った時。
この人たちの子供になろうと思った時。
“私”の気持ちが、変わろうとした時。
-
『いまやもう、あなたにも答えはわかっているはずだ。
倉田くるうはあなたを憎んでなどいなかった。
むしろあなたが罪に押しつぶされぬよう祈り続けていた。
あなたを憎むママは、あなたが生み出した虚像だ。
存在しないものだ。存在しないものは、あなたを呪えない。
呪いをかけた者は他にいる。身近な他者。遠い自己。あなたを呪ったのは――』
――私を呪ったのは、私自身。
母<くるう>の祈りを、私自身が呪いに転化させた――。
『すべての中にすべてがあるように、あなたの中にもすべてがある。
そこから何を抽出するかはあなた次第。世界はあなたの形をしている。
あなたはなぜ、呪いの鍵に精神科医という在り方を選んだのだろう』
-
やめてよ。
それだけはやめてよ。
母が私を憎んでいなくとも。
私は違う。
私は母を憎んでいなければならないんだよ。
私は、私だけは――。
だって、そうしなければ――。
『あなた自身も気づいているはずだ。“精神科医になることが復讐に能わない”ことを。
母が憧れるもついぞ成れなかったもの――それに成ることで復讐を目指すなんて、
破綻した論理だって。だからあなたは、素直クールの問いにも答えることができなかった。
あなたの無意識はもっと素直に求めた。母が憧れるも成れなかった存在にあなたが成ることで、
母の願いをあなたが代わりに叶えることで、今度こそ、今度こそ――母に、褒めてもらいたいと。
あなたは心の底では、母を憎みきることができずにいたんだ』
-
ひどいよ。
『どうして?』
私は憎まなければならないのに。
『なぜ?』
憎まなければ、私でいられないのに。
『倉田キュートでいたい?』
倉田キュートでなきゃ、幼いままでいられないのに。
『幼いままでいたい?』
幼いままでいることが、私の望みなのに。
『ぼくがあなたの望み<アニムス>だよ』
ハインの望みなのに。
『どうしてハインにこだわるの?』
-
……わからない。
『わからない?』
わからない。
わからないよ。
でも、こうする以外ハインに報いることはできない。
それだけはわかる。
だってハインは死んでしまったから。
死んでしまった人にはもう、会えないから。
『ハインは生きてるよ』
……えっ?
『生死の境をさまよっているのは確かだよ。
けれど彼女を愛する人の最後の抵抗によって、一命を取り留めている』
ハインは助かるの?
『それはわからない。彼女自身が目覚めることを求めていないから』
-
なぜ?
『一度目覚めてしまえば、抱えきれないほどの辛い現実が襲いかかってくるから。
彼女の生み出した彼女自身の世界と対面しなければならなくなるから。
だからハインは幸福な過去、穏やかなる原初の眠りへの逃避を望んでいる』
それがハインの望みなの?
『それはすべての生命が抱える願望でもある。同時にそれは、
ハインという存在を表す極一部の面に過ぎないともいえる』
よくわからない。
あなたの言葉を理解しきれない。
『あなたはハインを救いたい?』
救えるの?
……ううん、違う。
救いたいと問いかける、あなたは誰なの。
私の知らないことを語る、あなたは誰なの。
あなたは――
-
あなたが、杉浦しぃなの?
-
星が。
星が瞬いていた。
粒子状に散りばめられた星々が。
生命の星が。
星はその存在を主張するように自らを輝かせながら。
その輪郭を曖昧に、周囲の星とつながっている。
個と多の境を曖昧にして。
光と色とでつながっている。
まるで張り巡らされた充天の網。
ひとつとなりて形を表す織物。
どれもがつながっている。
ただのひとつも欠けることなく。
そのどれもが。
――私にも。
-
(*-ー-)「ぼくは――個の欠片」
星の瞬くその中心。光の渦に影の取り払われた影の子供。
その真実の姿が、キュートの目の前に、在った。
(*゚ー゚)「真実を直視し幼児期からの脱皮を成し遂げたいと願うあなた。
真実を回避し幼児期の固着を望むあなた。
その相反する心理的葛藤の反映として表れた相が、ぼくです。
ぼくは“あなた<キュート>によって規定された”杉浦しぃです」
杉浦しぃは、星々の織物から隔絶され、その身を虚空に漂よわせていた。
ただ、キュートとだけつながって。
(*゚ー゚)「ありがとう」
杉浦しぃの小さな身体が、キュートにぴとりとふれた。
その瞬間、キュートは自分にも肉体<個>が存在することに気づいた。
(*゚ー゚)「あなたがぼくに名を与えてくれたおかげで、
ぼくは個を取り戻すことができました。意志持てる個に。
けれどこの個は、一時的な形象です。時が経てばこの杉浦しぃは消滅し、
再び意志を持たない“存在”へ還ってしまうでしょう。
だから、急がなければなりません」
o川*゚ぺ)o「急ぐ? 何を?」
(*゚ー゚)「ハインの救出を」
-
しぃの姿が一瞬、薄らいだ。
(*゚ー゚)「ハインはいま、がんじがらめになった関係の糸から目を背けるために、
現実へ回帰することを拒んでいます。ぼくがその糸を断ちます。
彼女の悲しみや苦しみの原因を肩代わりした杉浦しぃという全存在を、
太梵の海へと還します」
o川*゚ぺ)o「それでハインは助かるの?」
(*゚ー゚)「わかりません。彼女の意志がそれでも現実を拒んだら、
目覚めることはないかもしれません。
あるいはいまのハインとは異なる存在が目を覚ます可能性もあります。
けれど、このまま放っておけば彼女は絶対に目覚めない。
あなたがハインと接触する機会――あなたの執着を解決する機会も、
永久に失われてしまう。だからぼくは、いきます」
杉浦しぃの言葉はむずかしくて、よくわからない部分も多い。
けれど彼の行いによってハインが帰ってくるなら、それは喜ばしいことだ。
私はもう一度、ハインに会いたい。そう思っている。
ただ、気がかりな事もある。
しぃは『太梵』と言っていた。
太梵。素直クールも口にしていた、その言葉。
“すべて”のイコール。しぃはハインの痛みや苦しみを引き受けて、そこへ還るという。
-
心地の悪い動悸が、気分を歪める。
しぃとつながった光が、不自然に揺れる。
しぃの姿が、再び薄らいだ。
まるで、そのまま消えてしまうかのように。
(*゚ー゚)「気にすることではないんです」
穏やかなしぃの声。
しかしその穏やかさが、却ってキュートの心を煽る。
(*゚ー゚)「ぼくの在り方は元々歪で不自然なものだったんです。
周囲の糸をほつれさせ、その流れを停滞させてしまう。
命を淀ませてしまう。
ぼくはすべての生命に対する災厄なんです。
ですから杉浦しぃという存在が消滅し自然な形で太梵へと回帰することは、
誰にとっても喜ばしいことなんです」
しぃの言うことが、キュートにはよくわかる。
しぃはこう言っているのだ。ぼくは罪深い存在だと。
ぼくはいらない存在なのだと。
私が母の前で、“ママは私がいらないんだ”と叫んだように。
“いなくなってやる”と思ったように。
だから、それは、つまり――。
-
o川* へ )o「あなたが、なくなるってことでしょう……?」
(*゚ー゚)「はい」
杉浦しぃは、笑顔だった。
かわいい笑顔。
理知的なのに、
あどけなさも残る、
子供の顔。
o川* Д )o「だめ」
許されない、と、強くそう思った。
自分でも理解できないくらい、強く。
ただ。
すべての光がつながったこの世界で。
何ともつながらず、ひとりぽっちで漂うこの子を見ていると。
ただ私とのつながりを頼りに存在する彼を感じると。
そう、思わずにはいられなかった。
キュートはしぃに手を伸ばした。
光の先へと手を伸ばした。
その時だった。
瞬く星々の一部が突然に、その光を閉ざした。
-
(* ー )「ありがとう」
光の先のしぃが、遠ざかる。
キュートの手の届かない場所まで離れ、その形象が薄れていく。
(* ー )「ぼくに、恩返しをする機会をくれて」
o川; Д )o「恩返し?」
( ー )「そうです。あなたへの恩返し。
あなたからもらった恩を返すことができる。
人の役に立って消えることができる。
ぼくという在り方において、こんなに満たされた最後は奇跡なんです」
しぃが話している間にも、星々の光は次々と失われていた。
暗闇がその圏を拡大していく。しぃの姿が、ますます遠ざかっていく。
「どうして!
私、あなたたが喜ぶことなんて何もしてない!
それどころか都合のいい道具としてあなたを扱った!
憎まれこそすれ、感謝されるようなことなんてしてない!」
「そんなことないです」
いまやキュートとしぃをつなぐ糸だけが、頼りなげな光を放つだけとなっていた。
そして、その光も、また――
-
だって、キュート、あなたはぼくを――
キュートとしぃの糸が、途切れた。
――抱きしめてくれましたもの。
暗転。
-
※
キュート!
目を開く。
まぶしい。
人工的な光で照らされている。
自分をのぞき込む三人の人物が確認できる。
焦点が合わない。三人が誰なのかわからない。
目を凝らす。
が、焦点が合うより先に、三人のうちの一人が抱きついてきた。
名を呼ばれた。
o川; Д )o「あっ……」
その人が誰なのか、わかった。理解した。
理解すると共に、涙があふれてきた。涙ににじんで、また視界がぼやけた。
ぼやけた視界の向こう、もう一人の人が誰なのかもわかった。
嗚咽混じりのあやふやな声で、キュートは二人を呼んだ。
o川*;Д;)o「おとおさん、おかあさぁん……!」
ξ;⊿;)ξ「キュートのバカ! 心配させてぇ……」
息が苦しくなるくらいに強く、強く抱きしめられる。
母は泣いていた。それを見て、物理的な苦しさよりも、
締め付けられる胸の痛みに耐えられなくなった。
-
o川*;Д;)o「ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい!」
ξ;ー;)ξ「もういいのよ、もう、あなたが無事なら……」
o川*;Д;)o「ちがうの! 私うそ吐いてた! 二人をだましてた! なのに――」
何食わぬ顔で二人の子供の振りをしながら、心の底では認めていなかった。
自分が“倉田”であることに執着する余り、
父<内藤ホライゾン>と母<内藤ツン>をないがしろにした。
その証拠となるこの、幼い身体。
“倉田キュートの姿”。
そんな私のために、母は涙を流してくれる。
私はずるいのに。うそつきなのに。
こんなにも私を愛してくれる人を、騙し続けてきた人間なのに。
あの一と多に境のない星々と触れたことで、私は知った。
すべては私だったのだと。
私の幼さが、私とつながる人々を追いこんだのだと。
母<くるう>も。
ハインも。
しぃも。
-
そこまで考えて、キュートは気づいた。
杉浦しぃ。
彼は、どこ?
( ・∀-)「杉浦しぃなら、素直女史が連れて行きましたよ」
o川*;へ;)o「陣内院長……」
その場にいた三人目の人物は、
ここ相真大学病院の院長、陣内モララーその人であった。
そうか、この人が父と母に知らせてくれたのか。
( ・∀・)「驚きました。目を覚ますはずのない人物が目の前に現れ、
あまつさえこのぼくに要求してくるのですから。
内藤キュート、あなたを介抱してほしいとね」
モララーは相変わらの細長く形の良い手をあごに沿わせ、
気取った表情を取っている。
しぃ。
あれは夢などではなかった。
あの子は現実に目覚め、私に恩を返そうとしている。
-
しぃの言う恩。それはきっと、夢の中の出来事。
行くことも戻ることもできなくなった私が、崩落に巻き込まれかけた彼を抱きしめたこと。
ただそれだけのこと。
それだけのことで、彼は自分を犠牲にしようとしている。
ハインを助けることで、私に報いようとしている。
消えようとしている。
ごしごしと、涙をぬぐった。
o川*゚ぺ)o「二人は、どこへ行ったんですか……?」
( ・∀・)「おそらくは素直の総本山、素直の者が代々受け継いできたお屋敷でしょうね」
o川*゚ぺ)o「私、行かなきゃ」
放っておくことなんてできない。
このまましぃを行かせたら、きっとそれこそ、私は私を永遠に赦せなくなる。
キュートは立ち上がり、出口に向かって歩き出そうとした。
が、その動きはすぐに止められた。
-
ξ ⊿ )ξ「行かせない」
腕にかかる負荷。母がキュートの腕をつかんでいた。
その瞳にはキュートを行かせまいとする断固とした意志が宿っており、
思わずたじろぎそうになる。
ξ ⊿ )ξ「キュートが何をしようと思っているのか、母さんにはわからない。
でもね、危険なところへ行こうとしてるってことくらいはわかるよ。
キュート。これ以上、母さんを心配させないで」
母の心からの言葉。決意が鈍りそうになる。
思えば母からこんなに強く懇願されたことなど、今までになかった。
キュート自身、母を困らせるようなことを極力避けてきた。
迷惑をかけてはいけないと、心のどこかで思っていた。
キュートは向き直り、膝をつき、
そして、母と初めて、真正面から向き合った。
o川*゚ぺ)o「お母さん、前に言ってくれたよね。『あなたのしたいことをしなさい』って」
ξ; ⊿ )ξ「それは……常識の範囲内での話よ。何でもしていいってことじゃないわ」
母は少し言い淀んでいた。携帯での電話。
聞かれているとは思わなかったのかもしれない。
-
o川*゚ぺ)o「お母さん、そうじゃないの。
私はいままで、自分が何をしたいかなんて考えたこともなかった。
いまだって自分が何をしたいのか、本当のところはわからない。
でもね、わかったんだ。何で自分が、そうなのか。
自分が何を求めているのかもわからないのか。私は私を生きてなかった。
自分の生み出した偽りに従って生きてた。
私が私を生きるために、私が私を失わないために、
きっと私は、しぃと会わなきゃいけないんだ」
ξ゚⊿゚)ξ「だから危険なところへ行くっていうの?
素直クールのいる場所へ。認められない。あなたが何者かですって?
そんなの決まってる。私とブーンのかわいいかわいい一人娘よ。
その子のことは他の人に任せればいいじゃない。
もっと相応しい人がいくらでもいるはずよ。あなたがわざわざ行く必要なんてないわ」
キュートは首を振る。
o川*゚ぺ)o「私じゃなきゃダメなんだ。あの子は言ってた。
自分は“キュートに規定された杉浦しぃ”だって。
あの子は私なんだ。この愚かで幼い私の分身。
あの子の罪悪感は、私の自己否定の反映なんだ。
私の幼さが原因で、あの子は死のうとしてるんだ!
だから、私が変わればあの子も変わるかもしれない。
あの子がいるから、私も変われるのかもしれない。
そのために私はしぃと――ハインに会ってくるんだ」
-
しぃは言っていた。ハインの苦しさを肩代わりすると。
それはきっと、ハインの心との接触を意味している。
どんな原理なのかはわからない。けれどキュートは、確信している。
しぃに会うことは、ハインとの再会も意味すると。
ハインと接触するしぃが、私とハインをつなぐ糸なのだと。
そしてハインこそが、幼年期の呪縛を解く最後のピースなのだと。
o川*゚ぺ)o「お母さん、私は、私の、私たちの幼年期と、決着をつけたい。
幼年期を終えて初めて、私たちは自分を認められる気がするから」
キュートは口をつぐんだ。
話すべきことは、すべて話した。
あとは、母次第だ。
母の視線をまっすぐ受ける。
母も同じように、私の視線を受けている。
母は口を開きかけ、結局閉じた。
それは、ほんの僅かな時間だったのかもしれない。
けれどキュートには、もう何時間も母と視線を交わしているように感じられた。
いつ終わるともしれない視線の会話。
その均衡を破ったのは、キュートでも、母でもなかった。
-
( −ω−)「ツン、行かせてやろう」
父の手が、母の肩を抱いていた。
柔和な笑みで、母の顔をのぞき込んでいる。
困惑顔の母とは対照的に。
ξ゚⊿゚)ξ「ブーン、でも……」
( −ω−)「この子はいま、大人になろうとしてるんだお。
親であるぼくたちが邪魔しちゃいけない」
父が促すようにうなずく。
一呼吸置いて、母も同じようにうなずいた。
父はにこりと笑ってから、キュートに向き直った。
( ^ω^)「キュート、ひとつだけ約束してくれお。
必ず無事に帰ってくるって。自暴自棄になったりしないって」
キュートも二人がしたのを真似るように、うなずく。
約束すると。今度こそ裏切らないと。私を呼び戻してくれた、二人に。
-
o川*゚ぺ)o「二人の声、夢の中でもちゃんと聞こえたよ。
お父さんとお母さんから受け継いだもの、絶対に無駄にしたりなんかしない。
だから、あの、ね……帰ってきたら、二人の本当の娘になっても、いい?」
父と母の、当惑する顔。
それが次第に、苦笑いへと変じていく。
キュートは急に、恥ずかしくなる。
o川//へ//)o「わ、私、もう行くから!」
ξ ー )ξ「……バカね」
逃げだそうとしたキュートを止めるように、母が声をかけてきた。
母は自分の首に腕を回し、胸に下げたペンダントを外した。
そしてそれを、キュートの首にかけた。
ξ゚ー゚)ξ「キュート、誕生日おめでとう」
涙型の宝石が、キュートの胸の前で揺れた。
目の前がまた、にじみそうになる。みっともないなあと、キュートは思う。
でも、それも自分なのだと、今はそう思うこともできる。
-
( ・∀・)「素直のところへ行くなら、ぼくが案内しましょう」
一人離れて壁にもたれていたモララーが、
気取った笑みを浮かべてキュートと両親の間に割って入ってきた。
o川*゚ぺ)o「あなたが?」
( ・∀・)「ぼくにも素直女史に会う必要ができましたのでね。
それに、あなたに話したいこともあります」
o川*゚ぺ)o「話したいこと? 私にですか?」
( ・∀・)「ええ。ですがそれは車の中で。あまり悠長にしている時間はありません。
上が少々やっかいなことになっていますからね」
そういってモララーは、気障な仕草で天井を見上げた。
つられてキュートも首を上げる。
-
やっかいなこと?
ここからでは何もわからないが――しかし、何があろうと関係ない。
時間がないのはこちらも同じなのだから。
両親と視線を交わす。二人に目配せする。
安心してください。必ず帰ってきますから。
だから、行ってきますと。
キュートはモララーを見上げた。
先へと進む鬨を上げるために。
o川*゚ぺ)o「お願いします」
モララーはいたずらっぽく口角を上げ、
そのよく手入れされた肌に小さなしわを描いた。
.
-
※
( ・∀-)「あらま、予想より酷いことになってますね。こりゃ根回しされたかな」
旧閉鎖棟から出たキュートは、
久しぶりに浴びる月の光の静けさに浸る余裕も持てなかった。
モララーの言っていた『やっかいなこと』、その意味を痛感することによって。
o川;゚ぺ)o「なんですか、これ……」
昼よりも騒がしい夜が、キュートの目の前に広がっていた。
目を眩ませるきつい明かりが、
波のようにうねりながら地上を埋め尽くしている。
敷地内にまで踏み込んできているわけではなさそうだが、
吐き気がするほど密集したぶ厚いざわめきは、
キュートのいる場所まで十二分に伝わってくる。
( ・∀・)「人の恥部や失態を暴き立てることだけが生き甲斐の、
この世でもっとも醜悪な人の群れですよ。
もっとも、さんざ利用してきたぼくに言える台詞ではないかもしれませんがね」
o川;゚ぺ)o「マスコミ? 何があったんですか?」
( ・∀・)「些細なことですよ。大方の人間はそう感じないようですが。
どちらにせよ、いまはそれどころではないはず。違いますか?
さ、足はこちらですよ」
-
モララーはそう言って、一人先へ行ってしまった。
どうにも腑に落ちないものを抱えながらキュートは、
走り方すら気障ったらしいモララーの後を追った。
モララーの向かった先は管理・研究棟の奥にある職員用駐車場のガレージだった。
いくつも並んだ車の前を通り過ぎ、一台の車の前でモララーは足を止める。
( ・∀・)「さ、乗ってください。あ、でも靴は脱いでね」
その車はまさにモララーのための車といった感じの流線的なフォルムで、光沢を放つ純白だった。
車に疎いキュートでも、これが相当な高級車であることはわかる。
しかもドアが、羽のように開くやつだ。初めて見た。
左ハンドルらしく、キュートは右側の助手席へ怖々と乗り込む。
居心地の悪い未来的な内装に縮こまりながら、
深く沈み込みすぎる座席に腰を下ろし、発進するのを待った。
ハイン、それにしぃ。二人のことを思いながら。
やがて腹に響くエンジン音が鳴り、
その音と比べるとそろそろとした慎重さで車は動きだし、
ガレージの出口に降りたシャッターの前に立ち、
モララーの操作でシャッターが緩やかに開き、そして――。
視界を潰す強烈なライトが、視界を覆った。
-
o川;゚Д゚)o「な、なに!?」
『ご覧ください、陣内氏の車です! 裏口から陣内氏の車が現れました!
説明責任も果たさず逃亡しようとしています!』
人の群がなす騒音から、そのボリュームをさらに上回ろうと
無理に張り上げたヒステリックな声が、車の分厚い隔壁すらも越えて響いてきた。
待ち伏せされていたのだ。
様々な機材が林のように鬱蒼と生い茂り、
そのどれもがこちらへ――モララーの車へと向けられている。
バリケードとなっている。
これでは発進できない。
発進できなければ、素直の屋敷に到着できない。
素直の屋敷に行けなければ、しぃに会えない。
しぃに会えなければ――それは、許されない。
( ・∀・)「何をするつもりです?」
車から降りようと扉に手をかけたところで、
モララーに声をかけられた。キュートは首だけで振り向く。
o川*゚ぺ)o「どいてもらえるよう説得します」
( ・∀・)「彼らは聞く耳持ちませんよ」
o川*゚ぺ)o「けれど、これじゃ進めません」
( ・∀・)「そうでもないですよ?」
-
モララーは、笑っていた。不適な笑みで。
そしてその笑みのまま、思い切り彼は、アクセルを踏み込んだ。
瞬間的に加速した車は重量を持つ弾丸となり、
生い茂る機材を次々と薙ぎ払い、踏み潰し、吹き飛ばしていった。
遙か彼方へと飛んでいったライトが、本物の木々の間にすっぽりと落着していた。
そのまま車は、速度を落とさずに公道へと出て行った。
o川;゚Д゚)o「な、な、な……!?」
( ・∀・)「人は避けます。壊れた機材は弁償すればいいでしょう。
それでも怒る人がいたら、ま、謝ればいいんじゃないですかね」
o川;゚Д゚)o「そんな適当な――」
キュートが抗議しようとするやいなや、背後から強烈なライトで照らされた。
キュートは目を細め、サイドミラーを確認する。
報道車が道路を埋め尽くさんばかりにひしめき合っていた。
中には身を乗り出し、いまにも落下しそうな不安定な体勢でカメラを回している者もいる。
その距離は徐々に、徐々に縮まろうとしていた。
だがそれでも、キュートの隣でハンドルを握る彼は不敵な態度を崩さず、
いやより一層凶悪な相貌で笑みを浮かべていた。
( ・∀・)「まったく頭の足りない人たちだ。有象無象の日本車如きで、
このランボルギーニ・ガヤルドに追いつけるはずがないでしょうに!」
モララーの車――ランボルギーニ・ガヤルドから、物騒な音が響いた。
運転席のメーターがぐんぐんと跳ね上がっていく。
その動きと比例して、窓から見える景色が高速化していく。
加速して、加速して、加速していくその間、キュートの悲鳴も伸び続けた――。
-
( ・∀・)「何とか撒けたようですね」
モララーの言うとおり、背後にはもう追っ手の姿はない。
ランボルギーニ・ガヤルドも穏やかな速度になっている。
とはいえ、メーターを確認する限り法定速度は軽くオーバーしているようだが。
感覚が麻痺しているのだろう。まるでジェットコースターか何かだった。
何度死を感じたことか。
o川*゚ぺ)o「偉い人って、もっと用心深く行動するものだと思ってました」
安堵に生まれた余裕の中で、嫌み混じりにモララーを責める。
その彼の顔は気取った、演技的な表情へと戻っていた。
速度を出すと性格が豹変するタイプのドライバーらしい。
( ・∀・)「地位や名誉を重んじる方々はそうかもしれないね。
けれどぼくはもう、偉い人ではいられないでしょうから。
相真、たぶん潰れます」
o川*゚Д゚)o「……は?」
-
世間話でもするような軽薄な語り口のせいで、
あやうく聞き逃すところだった。
相真が、潰れる?
それは、廃校ということだろうか。
思わずサイドミラーで後方を確認する。
キュートが地下にこもっている間に、いったい何があったのか。
( ・∀・)「ですからきみの精神科への進級の件、
あれは破棄することになってしまいそうです。
申し訳ない限りなんですけどね」
申し訳なさそうな態度など欠片も見せず、モララーはそう告白する。
長年追い続けてきた目的が頓挫した瞬間。悲しみに打ちひしがれるべきなのかもしれない。
だが、キュートは――。
o川*゚ぺ)o「そう、ですか」
不思議なくらい冷静に、その事実を受け入れることができた。
つい一ト月程前までは、あんなにも執着していたことなのに。
なのにいまは、僅かなショックも感じない。
-
( ・∀・)「薄いリアクションですねぇ。
ぼくにつかみかかってきた時は、もっとすごい剣幕だったのに」
o川//゚ぺ)o「つかみかかってなんて!
……いた、かもしれませんが……」
あの時のことを思い出す。
役員たちが居並ぶ異世界に乗り込んで、直訴に行った時のこと。
あの時の激情は、もう自分のどこを探しても見つからない。
精神科医を目指していた理由が
偽りの現実の上に成り立っていたものであると認識したいま、
その執着も消えてなくなってしまうのは当然だ。
激情など見つからなくて当たり前かもしれない。
けれど、それだけではない。
それだけではない何か根本的な、根本的な変化が起こっているように、
キュートには感じられた。言葉にしづらく、つかまえることが困難な何か。
しぃと会えば、ハインとの決着をつければ、その答えも自ずと見えてくるのだろうか。
-
( ・∀・)「内藤さん、あなたはこれから向かう
『素直』という家のことについて、どの程度知っていますか?」
モララーから声をかけられ、思考が現実へと引き戻された。
素直について、とモララーは言っていた。
o川*゚ぺ)o「人を呪って栄えた一族、とだけ聞いています」
教えてくれたのは確か、ハインだ。
旧閉鎖棟へ降りるかどうか迷っているときに、忠告ついでに聞かされた覚えがある。
酔っぱらって、冗談も言っていたハイン。何だか遠い昔のことのように思える。
( ・∀・)「人を呪って栄えた、か……。
内藤さん、呪いって本当にあると思う?」
o川*゚ぺ)o「それは……」
キュートは言葉に詰まる。以前のキュートであれば、即答できただろう。
けれど母は、キュートに呪いをかけてなどいなかった。
この身を幼く留めたのは、自分自身に他ならない。それは、呪いと言えるのか。
キュートの言葉を待たずに、モララーが続けて話す。
-
( ・∀・)「素直の起源は定かではないのですが
相当古くから継がれてきたことは間違いなく、
平安時代にはその起源をすでに確認できたとか。
そしてその祖は、人と妖怪の合の子(あいのこ)であったいう噂もあるそうです」
o川*゚ぺ)o「妖怪?」
とつぜん飛び出てきた胡散臭い単語に、自然と表情が怪訝になる。
( ・∀・)「真偽の程は定かでありませんけどね。
ただそう噂されるだけの根拠はある。
素直の者は代々超常的な能力を有していたそうです。
予知夢や透視、悟りの力。いまでいうESP<超感覚的知覚>のようなものかもしれません。
素直の言葉を借りるなら、すべては“太梵”のまま、だそうですが」
モララーの口から出た言葉に、反射的に反応する。
太梵。素直クールも言っていた言葉。しぃも口にしていた“すべて”。
( ・∀・)「“太梵”が何を意味するのか、詳しいところはわかりません。
ただ無粋な憶測を立てるならば、それはプランクの壁を
超えたところに隠された神秘、ではないかとぼくは考えています」
-
o川*゚ぺ)o「プランク……?」
( ・∀・)「物理学の用語です。この言葉の後ろに長さと時間が付くと、
長さは十のマイナス三十五乗センチメートル、時間は十のマイナス四十三乗秒という、
限りなくゼロに等しい長さ、瞬間を表すことになります。
この極々小さな単位が何を意味するのかと言うと、
天地創世の爆発<ビッグバン>が起こってから物理学的に観測できる最小単位と、
それが証明する現行科学の限界です。ゼロが四十三並んだあとに一が来る時間。
その間に光の進む距離が、十のマイナス三十五乗センチメートル。
この極小の時間や空間に関する問題が提起されてから百年弱、
様々な仮説が打ち立てられてきました。ですが確かなことは、今もって判明していません。
重力の枷から解き放たれた光の振る舞いに翻弄されているのが現実です。
ただこの仮説の中には、興味深いものがあります。
一部の物理学者はマクロな世界では密接に結びついていた時間と空間のつながりが断たれ、
時間はその存在を停止すると主張しています。以前、現在、以後という概念が全く意味を失う。
逆に言えば、“すべての中にすべて<過去・現在・未来・無限>”が同居する事になる、と」
-
すべての中に、すべてがある……。
( ・∀・)「そして切りはなされた空間は超ひもであったり
量子論的な泡であったり様々な形として仮定されますが、
概して振動として表されることが現在の主流となっています。
振動。素粒子の、そしてその素粒子を含む「場」の振動。
この振動が大きければ大きいほど巨大なエネルギーを生み、それに応じた形を成します。
またこの振動はそれ単体が起こすものではなく、
周囲の振動に影響を受けて起こると考えられています。
太陽も人間も、道端で静止している石ころでさえもミクロな世界まで拡大すれば、
超高速で振動――活動することで存在しているのです。
そしてその振動は他者から受け取ったエネルギーの顕れに他ならず、
その上で生じた振動をまた他所へと伝播している……。
さらに量子論では場の振動が収まった状態を「真空」と定義するのですが、
これは消滅を意味しているわけではありません。場から振動する素粒子が散逸し
「真空」となった状態はマクロな視点から見れば死や滅びに等しく思えるかもしれませんが、
散逸した素粒子自体は何も失われてはいない。違う場所で、違う形として表れているだけです。
どこか素直クールの言葉に似ている……そう思いませんか?」
-
『この世界とは、複雑に編み込まれた関係の織物です。
我々とは、その織物が一時的に表す形象に過ぎません』……か。
( ・∀・)「今のところ仮説に過ぎませんが、とにかく彼らには超自然的な知覚力があった。
そしてその能力により、時代時代の権力者に重宝されていたそうです。
政治や戦にも深く関わってきたそうですよ。
しかしその中でもとりわけ重要であったのが、
とある儀式を行うことでした。
内藤さん、イニシエーション――通過儀礼という言葉をご存じですか?」
問いを投げられ、キュートは少しだけ記憶を探った。
が、すぐに首を横に振る。
o川*゚ぺ)o「聞いたことはあるかもしれませんが、詳しくは」
( ・∀・)「そうですね、簡単に説明すると……通過儀礼とは個が既存の状態から分離し、
別の段階へと再統合される際に行われる、移行の行事のことを指します」
-
o川*゚ぺ)o「えと、つまり?」
( ・∀・)「つまりは元服などの、子供という状態から分離し
成人という段階へと移行する際などに行われる行事です。
他にも七日目という節目を迎えたことで神の子という状態から分離し、
人間の子という段階へと移行することを認められた赤ん坊に
命名を行う儀式であるお七夜。
七五三も似たようなものですね。「七つ前は神のうち」と言われ、
七歳の節目を越えて初めて、完全な人間に移行するものと考えられていたそうです。
その節目を祝う通過儀礼が、七五三です。他には、葬儀も通過儀礼ですね」
o川*゚ぺ)o「葬儀も?」
( ・∀・)「ええ。宗教感覚が強いので現代の人にはいまいちぴんと来ないかもしれませんが、
昔の人は死を終わりとは考えていませんでした。
この世からは去るけれども、別のところへ行くのだと。
つまり葬儀とは、この世から分離した個が
十全にあの世へと統合されるために行われる通過儀礼です。
四十九日とは、その移行期間の日数を表しています。
チベット仏教では、死者が迷わぬよう
期間中ラマ<僧>が経を唱え続ける習慣があるそうです。
また通過儀礼の中には痛みを伴うものも多く、
男性器の包皮を切除する割礼などはその典型例と言えるでしょう。
他にも入れ墨や鞭打ち、自ら毒を飲むといった我々から考えると凄惨な儀式が、
地上のどこかではいまなお行われているそうです。
そしてそれらの痛みは既存の個を破壊すること――
すなわち『死』の暗喩であると言われています。
『誠に誠に、汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の国見ること能わず』」
-
急に厳かな声色を作るモララーに、キュートは思わず彼を見た。
モララーはその効果がうまくいったことに気を良くしたのか、
楽しげに含み笑いをもらしている。
o川*゚ぺ)o「なんですか、それは」
たずねる声が、少々ぶっきらぼうになった。
( ・∀・)「聖書に記された聖句です。とある文化史家の言葉を借りれば
『いかなる被造物といえども、己の存在を否定せずして
より高いグレードの自然へ到達することは不可能だ』となります。
人は生きながらに死を経て、あらたなる生命として
生まれ変わることにより大きな存在へと変化していく。
それこそが通過儀礼、本来の役割です。
ここからが本題です。素直も大名や公家といった権力者――
人の上に立つべく定められた者たちのための通過儀礼を司っていました。
その通過儀礼で分離させるのは個という意識そのもの。
そして破壊し尽くされたそれを万物――
すなわち彼らの言う“太梵”へと統合――あるいは自己と同一であると
“認識<グノーシス>”させることを目的としていたそうです」
-
太梵。再び現れたその言葉に、キュートは息を呑む。
( ・∀・)「ただしこの儀式には大変な危険が伴ったそうです。
月――下手をすれば年単位の長い時間を精神の戦いに捧げた者の多くは
自我を崩壊させ、精神に酷い障害を負ってしまいました。
ここにおもしろいデータがあるのですが、重度の統合失調症患者の脳波は、
幻覚剤摂取者のもの、そして徳の高い僧侶の瞑想状態のそれと酷似しているそうです。
いずれも大脳新皮質の活動を停止させていることに変わりはないのですが、
僧侶はそこから自然に復帰することができます。しかし後者ふたつ、
特に統合失調症患者がその状態から逃れることは中々できない。
素直がその理念とは異なる悪評――
呪いによって栄えたと噂される理由は、ここからきていると言えるでしょう。
相真の起こりも、通過儀礼に失敗した者を隔離するための施設として
建てられたのが始まりだそうです」
-
デミタスも似たようなことを言っていたのを、キュートは思い出す。
治すためではなく、隔離するための施設だったと。
( ・∀・)「話を戻します。儀式に挑んだ者の多くは自我を崩壊させました。
それ故に素直では、精神の旅を先導する者、
儀式における司祭の役割を担う者を送るようになっていきました。
それこそが、素直家当主の役割です。
生まれながらに“太梵”を感じ取れる才に長けた者が、
歴代の当主に任命されてきました。
また代々の当主には女性が多く、いつしか素直家の当主には
女性がなるという不文律が生まれていたそうです。
ただし彼女たちはそのほとんどが短命であり、
通常齢三○と保たずにこの世を去っていったそうです」
o川*゚ぺ)o「三○……なぜ、なんですか?」
( ・∀・)「意識の深層と表層を何度も往復することは、想像以上に精神を磨耗するそうです。
途切れなく行われる自己破壊の旅のそのすべてに同行するわけですから、
その負荷も推して知るべしというものでしょう。
つまり素直家の当主――いえ、素直の女性とは、
生まれながらに使い捨てのバイパスとしての運命を課せられた存在なのです」
-
バイパス――儀礼を受ける者と、太梵とをつなぐ役目、ということか。
使い捨ての女性たち。外側から見ればそれは、非人道的な行いなのかもしれない。
個人的な感情で言えば、やはり受け入れがたい話だ。
モララーも同様なのか、言葉遣いにどこか棘々しいものが混じっている。
けれど、疑問が浮かぶ。
o川*゚ぺ)o「素直クールは? 彼女はあの高齢で、まだあんなにも屹然としています」
( ・∀・)「彼女は例外ですから」
o川*゚ぺ)o「例外?」
モララーは答えなかった。
饒舌であったモララーが口をつむぐことで、車内は静寂に陥る。
( ・∀・)「……才を持たずに生まれた素直はね、人として扱われなかったそうです」
長い間の沈黙を破り、モララーが口を開いた。
表情はいつも通りだが、声のトーンが幾分か落ち着いている。
( ・∀・)「才無き素直の女が辿る運命は大体よっつ。下女という名の奴隷として生涯を終えるか、
分家である杉浦へ養子に出されるか、相真に死ぬまで――死んでからも幽閉されるか、
霊脈を通じ“太梵”へと還されるか」
-
o川*゚ぺ)o「霊脈?」
また、知らない単語が出てきた。
疑問の声を上げる。
その声に対し、モララーはうなづいて答えた。
( ・∀・)「霊脈とは“太梵”につながる流れであり、
この地の地下深くで木の根のように張り巡らされているものです。
その一端は、いまも素直の屋敷の地下に続いています。
通過儀礼の舞台となる霊場としても扱われており、
ぼくの仮説が正しければプランクの壁を越える役割を果たしてもいる……。
そして内藤さん、おそらくはあなたの目的地もそこになるのでしょう」
モララーはそう言って、再び口を閉ざした。
しぃは太梵へ還ると言っていた。
ハインの痛みを肩代わりした上で、杉浦しぃという全存在をかき消すために。
素直の地下にある、霊脈。そこが、目的地。私たちの幼年期と、決着をつける舞台。
それにしても、と、キュートは思う。
この人はなぜ、素直の事情についてこんなに詳しいのだろうと。
だが、その疑問を口に出すことはできなかった。
キュートが口を開くよりも先に、モララーが話しかけてきた。
-
( ・∀・)「内藤さん、いまのうちに靴を履いておくことをお勧めします」
o川*゚ぺ)o「えっ?」
( ・∀・)「面倒がやってきました」
モララーが言い終わるよりも前に、キュートにも聞こえてきた。
甲高いサイレンの音。次いで、点滅する赤色灯の明かりがサイドミラーに反射する。
パトカーだ。明らかに、キュートたちが乗っている車を追いかけている。
その目的はスピード違反の取り締まりか、それとももっと重大な何か――?
何にせよ、ここで捕まるわけにはいかない。
しかしどうやって逃れればよいのか。
仮に背後で追う一台を振り切ったところで、別の車両に阻まれるだけだろう。
素直の屋敷はどこにあるのか。あとどれほど掛かるのか。
( ・∀・)「内藤さん、山の上にある建物が見えますか?」
促され、山の上に視線を向ける。
モララーの言うとおり、木々の陰に隠れながらも大きな建物の姿が確認できた。
( ・∀・)「あれが素直の屋敷です。
ここから山道を突っ切っていけば、十分足らずで到着します。
……内藤さん、あそこで待つ素直を宜しくお願いします」
-
モララーが話し終えるのと同時、視界が横に回転した。
急激な速度で、周囲の光景が横に伸びる。
何度も、何度もぐるぐる周り、周り、そして、衝撃とともに、止まった。
その衝撃の反動か、モララーの操作によるものか、両側の扉が羽のように開き上がった。
車両が路側に突っ込んでいるせいで、キュートの側の扉は木々に阻まれ半開きとなっている。
ちょうど、周囲からの視線を遮断するような形に。
キュートが動き出すよりも先に、モララーが車を降りた。
両手を上げて、道路の真ん中へと歩んでいく。わざと注目を集めるみたいに。
追いかけてきたパトカーのライトが、モララーを映した。
モララーは笑って一度、それと気づかれないわずかな動作で、こちらを見た。
そして片目をつむり、気障ったらしく、実にモララーらしくウィンクをした。
それが合図となり、キュートは走り出した。
舗装されていない山道を、目的地目指してただがむしゃらに登っていく。
水気を含む苔に足を取られ転び、
突き出た枝葉にほほを切りながらも勢いを弱めず、
走って、走って、走っていった。
そして、キュートは到着する。
小高い丘のように巨大で厳かな、
その主と同じ空気を醸す場所、素直の屋敷へと。
-
キュートは近づいていく。その入り口へと。一歩、一歩、着実に。
そして、気づく。入り口の門前、薄暗闇に紛れた人影が立っていることに。
その人影は、キュートへと近づいてきた。一歩、一歩。
キュートも怯まない。もう怯まない。近づいていく。一歩、一歩。
二人の足が、止まる。
影の姿が、露わになる。
その視線を、キュートは正面から受け止める。
川 ゚ -゚)「お待ちしていました」
聳える怪老――素直クールが、いま、キュートの眼前に屹立した。
.
-
※
川 ゚ -゚)「こちらです。ついてきなさい」
まるでお化け屋敷だ。
素直の屋敷に入ったキュートの第一印象が、これだった。
蝋燭に火を灯した素直クールに案内され、キュートは屋敷の中へ入った。
広い。途方もなく。外観からもその巨大さは予想できたが、
その内部は想像以上に広く、それ以上に複雑な作りをしていた。
人が住むことを考慮していないかのような、まるで、旧閉鎖棟のような。
あるいはこれも、儀式的な意味のある形状なのかもしれない。
それにしても――。
邸内はやたらと埃っぽく、異様に荒れていた。
それに、人の気配がしない。
人が日常的に生活している、その痕跡がまるで見られない。
もしかしたら、素直クールは一人でここに住んでいるのだろうか。まさか。
-
川 ゚ -゚)「杉浦しぃは言いました。内藤キュートが自分を追ってここまで来るだろうと」
o川*゚ぺ)o「しぃが?」
川 ゚ -゚)「そしてそれを止めて欲しいとも、頼まれています。頼まれなくとも素直の主として、太梵へ還ろうとしている者の邪魔を見過ごすことはできませんが」
身構える。迷路上の屋敷内、迷わせようと思えばいくらでも可能であろう形状。
周囲の空間が、素直クールの持つ蝋燭の火のゆらぎに合わせ、
キュートを取り囲むように歪んだ錯覚に陥る。
川 ゚ -゚)「安心なさい。地下へ続く道までは、間違いなくご案内します」
キュートの思考を見透かすような、クールからの一言。
背中を向けたこの状態でも、あの鉄面皮に違いないと容易に想像できる。
o川*゚ぺ)o「……信用して、いいんですよね?」
川 ゚ -゚)「私は素直クールです」
それだけ言うと、素直クールは再び歩き出した。
いまは他に、手掛かりもない。キュートも黙ってついていく。
-
やがて二人は開けた部屋へと到着した。
部屋の中央には、丸いテーブルが置かれており、
それを壁沿いに無数に並んだ蝋燭が照らしている。
他の場所よりも一層重苦しく、息が詰まりそうになる空間。
そしてその奥には、厳めしい鉄の扉が道を塞いでいる。
川 ゚ -゚)「杉浦しぃはあの扉の向こうへ行きました。
ですがあの扉には、鍵が掛かっています」
そう言いながら、素直クールは腕を伸ばした。
その手の先には銀の輪っかと、その輪っかから垂れ下がる、
一本の鍵が揺れていた。
川 ゚ -゚)「そしてこれが、その扉を開くための鍵です」
素直クールは鐘を鳴らすような仕草で、鍵を揺らした。
見せつけるように。いや、わかっている。彼女は明確に、見せつけている。
キュートを食いつかせるための、餌として。
-
o川*゚ぺ)o「……条件は、なんですか」
わかっていようと、退路はない。前へ進む。
川 ゚ -゚)「一方的な要求は好みません。内藤さん、賭をしましょう」
素直クールは中央のテーブルに手を付き、
そこに置かれた小さな箱から何かを抜き出した。同型のカードの束。
トランプ。
川 ゚ -゚)「あなたが勝ったら、この鍵をお渡しします。ですが負けたときは――」
o川*゚ぺ)o「旧閉鎖棟の牢獄へと帰れ、ですか?」
川 ゚ -゚)「いえ、もはやあなたにその必要はない。
もしあなたが負けたときには、内藤キュート。あなたには――」
素直クールの持つ蝋燭から、灯る明かりが、かき消えた。
川 ゚ -゚)「素直を継いでもらいます」
-
勝負は開始される。
ポーカー勝負。
ルールは前回と同じ、持ち点十の奪い合い<サドンデス>。
コール。
レイズ。
レイズツー!
キュートは下がらなかった。
前へ、前へと、闘志を全面に押し出した強気の姿勢で戦いに臨む。
滅多なことではドロップせず、勝負に挑んだ。
対する素直クールは、いなし、受け流し、
確実に勝てる勝負だけを拾っていく戦法。
勝ち数こそ少ないものの大きな負けはなく、
一回の勝負で負け分を一気に取り返していく。
勝負は一進一退。
現在は十三対七とわずかにキュートがリードしているが、
勝負はどちらに転んでもおかしくない長期戦の様相を呈していた。
だがその中でキュートは、何かいい知れない違和感を、この勝負に抱いていた。
-
川 ゚ -゚)「今回は、私の勝ちですね」
チップ代わりのマッチが、素直クールの手元に引き寄せられる。
これで十一対九。わずかにキュートが勝っているが、
その差はほぼないものと見て相違ないだろう。勝負はまた、振り出しに戻された。
そう、また。
川 ゚ -゚)「あなたはなぜ、しぃに会おうとするのですか」
次戦のカードを配りながら、素直クールが話しかけてきた。
キュートは受け取った手札を確認しながら、答える。
o川*゚ぺ)o「しぃを止めるためです。彼は死のうとしている。
看過することはできません」
川 ゚ -゚)「それが彼の望みだとしても?」
素直クールが、卓上に三枚のカードを伏せる。
そして伏せた枚数だけのカードを、山札から抜き取った。
それを確認したキュートは、自分も三枚のカードを卓に伏せる。
o川*゚ぺ)o「私は、母を憎み、その憎しみを成就するために精神科医を目指しました。
けれどいまは、それが間違いだったとわかります。
間違った前提からは、間違った望みが生まれる。
すべての真実を知った上で彼が自殺を望むのなら、
それを止める権利は私にないのかもしれない」
-
カードを引く。役が揃う。
キュートはカードから目を切り、素直クールに視線を向ける。
o川*゚ぺ)o「だけど彼は違う。
彼はあやふやな私から生じた、あやふやなしぃです。
彼が彼という個と真に向き合うために、
私はこのあやふやさと決着をつけなければならない。
そのために私は彼と、しぃと、
そしてハインと会わなければならないんです」
川 ゚ -゚)「本当の自分などというものはありませんよ。
すべては太梵という無形の織物が、
その時々に表す形象に過ぎないのですから」
素直クールが、コールを宣言する。
川 ゚ -゚)「ひとつひとつの生に意味などありえません。
個に固執することは、悲劇の始まりです」
o川*゚ぺ)o「それじゃあなたは、何のために生きているんですか」
-
対するキュート、レイズツーを宣言。
川 ゚ -゚)「私の意志など関係ありません。私は状況に従うだけ、です」
それに対し、素直クールはドロップを宣言。
この一戦はキュートの勝利となり、チップ数の比率は、
十二対八、場に置かれたチップはキュートのところへ移動することになる。
だが、キュートは固まったまま、
場に置かれた二本のチップに手を伸ばそうとはしなかった。
川 ゚ -゚)「どうしました?」
素直クールの問いにも、キュートは反応しない。
冷静に、冷静に、彼女との問答を吟味する。
彼女の戦い方を、それによって導かれた結果を分析する。
初期の比率を維持したまま、ほとんど変動することのないチップの枚数。
大きな勝負に出ると、必ずといっていいほど逃げに回る素直クール。
状況に従うといった彼女。そして彼女の名は、素直クール。素直の主。
やがてキュートは、ひとつの結論に至る。
o川*゚ぺ)o「違和感の正体がわかりました。
素直クール、あなたは勝つつもりも、負けるつもりもないんですね。
あなたはただ、勝負を引き延ばすことだけを考えている」
-
素直クールのまぶたが、ゆっくりと閉じられた。
枯れ木のような身体が、きしりと堅い音を立てる。
川 ゚ -゚)「それが素直家当主としての役目ですから。
杉浦しぃがその目的を完遂できたならば、それが私の勝利です」
o川*゚ぺ)o「違う」
素直クールは、キュートの言葉を肯定した。
けれど、それだけではない。それだけではないはずだ。
この人はいま、しぃの目的の完遂が自分の勝利だといった。
それも間違いだと、キュートは直感した。
なぜならこの人は、その役割に従っているだけだから。
“この人自身の願望”が、そこには含まれていないから。
o川*゚ぺ)o「素直クール、あなたはいったい、何を望んでいるんですか?」
-
そもそもこの人は何故、私に素直を継げなどと言ったのだろう。
ただの脅しだろうか。しかし脅しにしては、弱い。
確かにモララーから素直の実状を
聞かされたばかりのキュートには、多少の脅しの効果は認められた。
しかし何も知らない者に素直を継げと言ったところで、
不気味に思いこそすれそれ以上のダメージになるとも思えない。
そして素直クールが、キュートとモララーの会話を聞いていたとも思えない。
以前のように”死んでも”幽閉し続けるなどと言った方が、余程脅しになる。
であればこの条件には、何かしらの意味があると考えられる。
だが、素直クール自身が言っているように、彼女に勝つ気がないのは明白だ。
彼女はキュートに、素直を継いで欲しいのか、
それとも決して“継がないで”欲しいと願っているのか。
川 ゚ -゚)「私は素直クールです。それ以上でも、以下でもありません」
o川*゚ぺ)o「それじゃあ何故、私を助けたんですか?」
-
答えにならない答えの素直クールへ、さらに問いを重ねる。
考えてみると、この人の言動はいつもあべこべだ。
あの時、旧閉鎖棟でポーカー勝負をした時。
素直クールはキュートにいくつもの問いを投げかけてきた。
あの時は自分のことで精一杯だったが、いまは違う。
あの時素直クールは、キュートに対して紛れもない治療行為――退行療法を行っていた。
彼女の行為は間違いなく、キュートの精神の改善を目的としたものだった。
死してなお幽閉させ続けるようとした相手に対して。
他にも旧閉鎖棟という呪力うずまく空間に自ら誘って(いざなって)おきながら、
不用意に周囲に触れるなと呪いから遠ざけるような行動を取ったり。
しぃに関する態度もおかしい。
しぃの為に旧閉鎖棟の解体を延期させておきながら、
治療の為に送り込んだのが半人前の学生と、治療意志のない新人医師の二人。
本気でしぃを治そうと考えていたとは思えない組み合わせだ。
ただただ問題を先へ、先へ送ろうとしているだけにしか思えない。
-
そもそもにして、この勝負自体がおかしい。
素直クールに勝つ気がないのなら、彼女にこの勝負で得られるメリットなど何もない。
彼女はキュートの下へ行かせないことが自分<素直>の勝利だと言っていた。
だとしたら、ポーカー勝負などせず、キュートが何をしようと突っぱねてしまった方が確実だ。
ギャンブル性のあるゲームにおいて、絶対などありえない。
負けないことだけを念頭においた戦い方は確かに手堅いが、それでも紛れはある。
素直クールの行いはまるで、
まるで万が一という可能性を残しておきたいがために、
あえて不確実な方法を選択したような――。
そこまで考えたとき、キュートの頭に、一つの回答が結実した。
o川*゚ぺ)o「本当はあなた、素直という家を憎んでいるのではないですか」
-
素直クールが、トランプの山に手を置こうとした。
キュートはその上に自分の手を重ね、ゲームを始めることで
うやむやにしようとする素直クールの目論見を阻止する。
o川*゚ぺ)o「私にはあなたが、無理に素直を演じているように思えます。
何故かはわからないけど、感じるんです。
その無表情はただの仮面だって。
素直クール、もしかして、あなたは――」
キュートは思い出す。
夢の世界で、真実に向かうことも、甘い幻想に帰ることも選べずに影の子供――
しぃを抱きしめどっちつかずの場所に立ち止まっていたことを。
自分が何をしたいのか、見失っていた時のことを。
ただの投影なのかもしれない。見当違いの思いこみなのかもしれない。
しかしキュートは確信する。この人は、あの時の私と同じなのだと。
この人は、素直クールは――。
o川*゚ぺ)o「自分が何をしたいのか、わからなくなっているんじゃないですか」
-
言い終わると同時、キュートは手持ちのチップ“すべて”をむんずとつかみ、
卓上に残したままのチップ二本の上へ、強く叩きつけた。
川 ゚ -゚)「……何の真似ですか」
つかんだままの素直クールの手を借り、
山札から交互にカードを配っていく。
一枚、一枚、二枚、二枚、三枚、三枚……。
o川*゚ぺ)o「決着をつけましょう、素直クール。
私はこの一勝負に、全チップを賭けます」
四枚、四枚、五枚、五枚。
配り終え、素直クールの手を離す。
川 ゚ -゚)「私が受けるとでも?」
散らばった五枚のカードを手元に引き寄せる。
五枚全部をひとまとめに束ね、そしてそのまま――。
o川*゚ぺ)o「受けさせます。私の手札は――」
伏せた。
o川*゚ぺ)o「このままで結構ですから」
-
川 ゚ -゚)「……カード交換の権利を放棄すると?」
o川*゚ぺ)o「はい」
素直クールは配られたカードを前に、しばらく動かずにいた。
枯れ木が風の凪いだ場所で立ち尽くすように。
しかし風は、いつだって吹きすさぶものだ。
灯った蝋燭の火のすべてが、ふわりと揺れた。
それと共に、素直クールの手が動いた。
素直クールはキュートと同じように五枚のカードを束ね、
自分の手元へ引き寄せ、持ち上げ、それをそのまま、
“確認することなく”山札の上へ戻そうと――。
o川*゚ぺ)o「あなたの言うことを、何でもひとつ聞きます」
-
素直クールの動きが、止まった。
o川*゚ぺ)o「勝敗に関係なくです。あなたがこの条件を飲み込んだら、
何でもひとつあなたの言うことに従います。
素直を継がせたいというなら、それに従います。
その上で私が、全部変えてみせます」
キュートは素直クールが怖かった。
得体の知れない、自分とは異なる理で行動するその未知の生命が。
けれど、いまはもう、怖くない。素直クールが――クールが何者なのか、わかったから。
キュートは目の前の枯れ木の化身ではない、
確かなる人間、その人を見つめた。
o川*゚ぺ)o「クール。あなたはこれでも、選択を放棄しますか」
-
――卓上に、キュートとクールの手持ちを合わせた――
二十本すべてのチップが乗せられた。
o川*゚ぺ)o「ノーチェンジ」
カード交換の権利を放棄したキュートは、当然ノーチェンジ。
それがどんな手札なのか、役が揃っているかどうかも不明のまま、
勝負の開始から間髪おかずに宣言する。
対するクールは、長考していた。
手が迷っている。三枚のカードをつかんだ。
それを捨てるのか。
しかしクールはそのままの格好で硬直し、やがて手を離し、
手札から一枚だけを抜き取った後、それを場へと伏せた。捨てた分のカードを引き入れる。
その表情からは、役が揃ったのか、揃わなかったのか、判別できない。
けれど、もう、そんな次元の話ではないのだ。
キュートは手を開こうとする。
-
川 ゚ -゚)く「いまなら」
クールの声が、キュートの動きを遮った。
彼女の視線は手元のカードに向けられ、
まるでキュートから目を逸らしている様子だった。
川 ゚ -゚)「いまなら、勝負の破棄も受け付けます。
先にあなたが述べた馬鹿げた条件についてもです。
あなたが勝つ可能性は低い。無為に敗北を重ねる者の姿は、見るに忍びません」
o川*゚ぺ)o「私は――」
キュートは目をつむり、カードを握った手を、胸の前に寄せた。
父の消えた胸に。母の宿った胸に。そして――。
o川*゚ぺ)o「私は、前へ進みます」
カードを、開いた。
その内訳は――
-
3
7
ダイヤのキング
ハートのキング
スペードのキング
キングの、スリーカード。
役は、入っていた。
-
o川*゚ぺ)o「あなたの番です」
――クールは、手を開かなかった。
トランプにも、チップにも触れずに、懐へ手を潜らせ、
手札の代わりとばかりに、卓上へ、
鉄製の、重く、無骨な鍵を、静かに置いた。
川 - )「行きなさい」
クールはそれきり動かなくなった。
眠ったようにも、死んだようにも見えた。
キュートは鍵を取った。
一本の蝋燭を蝋燭立てに乗せ、それを片手に扉を開いた。
キュートは前へと進む。しぃが、ハインが待つ、その場所に向かって。
前へ。
.
-
キュートが地下へ降りた後、クールは自分の手札を開いていた。
その内訳は、
3
3
10
10
ハートのクイーン
3と10のツーペア。
クールの負けに間違いない。
だが。
積まれた山札に意識を寄せる。
あの山札の上二枚は、クローバーのクイーンと、ダイヤのクイーンだろう。
場に捨てたカード7と共に、手札の3二枚を交換していれば、
クイーンと10のフルハウスが完成していた。
クールは自嘲の笑みを漏らした。
あの人ならば、迷うことなく引けただろう。
ギコの言うとおり、結局私は失敗したということか。
どこまでも、私は出来損ないということか。
-
「どうやら彼女について調べたのは、珍しく正解だったようですね」
人影が、クールのいる広間へと進入してきた。
彼はそのままクールに近づき、キュートの座っていた椅子に腰を下ろした。
( ・∀・)「態度が変でしたからね、すぐにぴんと来ましたよ。
あなたは非道を行える人だが、肉親に対してはすこぶる甘い。
生贄にするつもりだったのはむしろ、杉浦しぃの方だったのですね?」
川 - )「……モララー。私を嗤いに来たのですか」
モララーはクールの自嘲的な言葉に取り合わず、
山札から一枚一枚、カードをめくっていった。
そして目的のカードを見つけたのか、それを表にして、卓の真ん中に置いた。
( ・∀・)「ぼくはね、これになりたいんですよ」
モララーが置いたカードは、ジョーカー。
オールマイティカードの、道化。
彼はクールの手札にも手を伸ばし、
ハートのクイーンと、卓上のジョーカーを交換する。
クールの手元には、ジョーカーの混じったフルハウスが、ツーペアよりも高い役が揃う。
( ・∀・)「民主主義や社会主義といった古き時代の主義主張、
あるいはあらゆる宗教が目指しながら成し得なかった境地。
全人類の進歩を、『素直』のやり方ではなく、ぼくの手段で成し得たい。
それがぼくの夢です。
その夢にはあなたも含まれているのですよ、クールおば。
いえ――『ヒート母さん』」
-
散らばったトランプを一つに整え箱にしまうと、モララーは立ち上がった。
彼の動きに合わせて、蝋燭の火が揺れる。
( ・∀・)「ぼくの手段は失敗しました。
けれどそれで、夢そのものが潰えたわけじゃない。
手段に間違いがあったなら、別の手を試せばいい。ぼくは次へ進みます。
あなたは、どうしますか」
モララーは去った。
後には一人の老婆だけが残された。
老婆は何をするでもなく、揺れる蝋燭の火をぼんやりと眺めていた。
何をするでもなく。
ただ、火を。
揺れる灯を――。
私は――。
.
-
※
地下への階段を、キュートはひたすら降りていた。
岩をそのまま削った床。長年の湿気に濡らされたそれは、
つるつると滑って不安定極まりない。
手すりのないその階段から外れれば、
底の見えない奈落へと真っ逆様に落ちることだろう。
頼りになるのは自らの足と、蝋燭が灯す薄い明かりのみ。
額には汗。足を滑らせないように、慎重に、慎重に降りていく。
ゆっくりと、
一歩一歩、
確実に、
着実に、
どこまでも続くその階(きざはし)を、
降りて、
降りて、
降りて――
そして、明かりが消えた。
蝋燭の火が潰えたのだろう。あたりは完全な暗闇に囚われる。
自分のてのひらすら確認できない、真なる暗黒の世界。
-
だが。
キュートは止まらなかった。
感覚だけを頼りに、変わらず降り続けていく。
現実感に乏しいこの感覚。キュートは感じる。
私はいま、覚醒したまま夢の世界へ降りているのだと。
生きたまま、死の世界へ臨んでいるのだと。
モララーから話を聞いていてよかったと、キュートは思う。
きっと、これ自体が儀式の一環なのだと、受け入れることができたから。
陽も時も失せたこの世界。
感覚が支配するこの場所で、キュートは永劫に身を任せる。
足を踏み出す。
足から膝へ、膝から腰へ、腰から腹へ、腹から胸へ、
胸から首へ、首から頭へ、頭から頭頂へ、頭頂から空間へ、
すべての感覚がすべてへと伝わっていく、この感覚。
そして空間は、キュートの足下へもどる。
すべてが回っている。すべてはつながっている。
そのつながりに、身を任せる。その永劫に、身を任せる。
やがて、足先につたわる感触が変化する。
-
土。
水分を含んだ土。
キュートは確信する。
足をあげる。
足をおろす。
地面に到着する――前に、感触が伝わる。
再び変化した感触
冷えた痛み。
見えなくとも、わかる。
水。
遙か彼方までつづく水脈。
いる。
わかる。
感覚が告げている。
“しぃは、あの向こうにいる”。
この霊脈の続く先にいる。
霊脈の中へとキュートは、自らを潜らせていく。
-
あしうらを、
つまさきを、
かかとを、
くるぶしを、
あしくびを、
ふくらはぎを、
すねを、
ひざがしらを、
ひざうらを、
だいたいを、
うちももを、
またぐらを、
しりたぶらを、
ゆびさきを、
ぜんわんを
こしを、
はらを、
ひじを
じょうわんを、
むねを、
かたを、
のどを、
くびを、
あごを、
くちを、
はなを、
めを、
ひたいを、
かみを、
つむじを、
ぜんしんを、
にくたいを、
おとを、
かおりを、
いろを、
ひかりを、
こころを、
たましいを
せいめいを――
-
溶けていく。
境界が曖昧になっていく。
自己と自己以外の区分けが失われていく。
私という言葉の意味がなくなっていく。
それでも、キュートはキュートを保っていた。
キュートはキュートのまま、先へと進む、前へと進む。
犀の角のようにただ独り歩み進む。
-
――あなたはだあれ、おねえさん
.
-
声が、聞こえた。
幼い少女の弾む声。
姿は見えない。
くすくす笑う、声だけ聞こえる
-
――あなたはなあに、おねえさん
.
-
金色(こんじき)の残像が、視界を横切った。
残り香が、キュートの鼻腔をくすぐる。
嗅いだことのある匂い。
懐かしい、あの頃の匂い。
-
――あなたなんて知らないわ
――あなたなんて見たことないわ
.
-
蒼い光がふたつ、点灯する。
ふたつに留まらない。
よっつになる。
よっつに留まらない。
やっつになる。
やっつに留まらない。
数え切れない程に、光は増える。
数え切れないそれらがすべて、キュートの瞳を奥まで覗く。
-
――私が知るのは一人だけ
――ちっちゃなあの子、私のあの子
――泣いてばかりのかわいいあの子
.
-
支援
-
声が近づいてくる。
内部に入り込んでくる。
内部から声が聞こえてくる。
キュートの隅々を、少女の声が徘徊する。
-
――おねえさん、ねえおねえさん
――あなたはだあれ、おねえさん
――あなたはなあに、おねえさん
.
-
音と色と光が集まり、一個の形が現れる。
音と色と光によって、少女の姿が結実する。
金色の髪。澄んだ碧い瞳。
花開くように咲いた、金髪碧眼の少女。
くるんと少女はその場を回り、そのおでこをぴとり、くっつけた。
上向きのそのおでこが、キュートのおでことくっついた。
从 ゚∀从「あなたはキュート? おねえさん」
-
o川*゚ぺ)o「ハイン……」
知らないはずの少女。
出会ったことがないはずの少女。
けれど、キュートにはわかった。
この金髪碧眼の少女がハインであると、キュートにはすぐに理解できた。
懐かしさを覚えた。
从 ^∀从「キュート、来てくれたんだ。うれしい」
いつの間にか、ハインのおでこが下向いていた。
見下ろしていたはずのハインを、いまは見上げている。
背丈が逆転している。
ハインが大きくなった――わけではない。
キュートが、小さくなっている。
きっと、あの頃の背丈まで、小さく。
――“あの頃”?
-
瞬間、感じる心地よさ。
身体にかかる抵抗のすべてから、瞬く間に解放されるような。
くらりと、意識がにじむ。
――辺り一面、花畑になっていた。
無数に咲き誇る浅黄の花。
いつかどこかで見た光景。
そして、そこにいる、少女も。
从 ^ー从「キュート、一緒にかんむりを編もう?」
無限の花畑のその中心に、ハインはちょこんと座っている。
キュートを呼ぶハインの笑顔は、とても清らかで、神聖で、犯しがたい。
これこそがあるべき楽園の住人と、そう思えてくる。
それでも、キュートは花を踏む。
神聖なるこの世界に、汚れた足跡を残す。
-
o川*゚ぺ)o「ハイン、これは違うよ」
从 ^ー从「キュートはへたっぴだからね。結ぶの手伝ってあげる」
o川*゚ぺ)o「気持ちのいい所に逃げてるだけだ。安楽の幻想に逃避しているだけだ」
从 ^ー从「七枚花は幸運を、八枚花は愛情を呼び込むの」
o川*゚ぺ)o「でもそれは、自分を追いつめてることと同じなんだ。
苦しくなってしまうのは自分なんだ」
从 ^ー从「だけど六枚と九枚はダメ。死と眠りが笑うからね」
o川*゚ぺ)o「帰ろうハイン」
从 ^ー从「いいのよキュート、うまく編めるまでずっと一緒にいてあげる。
ずっと、ずーっとね」
o川*゚ぺ)o「ここは現実じゃないんだ」
从 ゚∀从「現実なんて死んでしまえ」
-
花の色が、ハインから波状に変化した。
毒々しい紫。不安の色。そこに、肌色が、混じる。
一対の男女――大人の女性と、男の子が、現れる。生えてくる。
何組も、何組も、現れる、現れる。
何組も、何組も、生えてくる、生えてくる。
从 ゚∀从は「キュート、これが私の現実よ」
男女は、肌をぶつけ、交わっていた。
男の子の上で、下で、横で、女は男の子をむさぼっている。
叫びながら、同じ言葉を何度も何度も叫びながら、むさぼっている。
男の子は、無抵抗だった。
うつろな目で、されるがまま、女の行為を受け入れている。
キュートはその男の子に、見覚えがあった。
正確には、その面影が誰かに似ている気がした。
その顔。日本人離れした、整った顔立ちの、そいつは、まさか、この子は――
-
o川;゚ぺ)o「……長岡?」
从 ゚∀从「あの女はね、レモナっていうの」
キュートの視界に、ある人の幻影が生じた。
その幻影が、女と重なる。ぶれた虚実は、どこかが何かが相似している。
从 ゚∀从「哀れな女でね、夫に捨てられてから気が狂ったの。
ああいうのを、男がいないと生きられない女っていうんだろうね。
狂ったあの女はね、いつしか自分の息子を犯すようになったんだ。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、ね?」
o川;゚ぺ)o「ハイ、ン……」
ハインの姿が見えなくなっていた。声だけが聞こえる。
肉のぶつかり合う音だけが響いている。女の叫びのみが轟いている。
从 ゚∀从「でもね、この女も捨てられてすぐに、
自分が母親だってことを忘れてしまったわけではないんだよ?
しばらくは、ちょっとは覚えていたんだ。少しだけ、わずかだけは。
すっかり忘れ去ってしまったのにはね、切っ掛けがあったんだ。
世界が崩壊するくらいの、重大な事件が。
あの人をかろうじて保っていた心の支えが、
一瞬にして抜き取られてしまった悪夢。それはね――」
-
キュートの手が、血に染まった。
从 ゚∀从は「――愛するおにいちゃんが、殺されてしまったんだ」
幻影――モナーの首がぽきりと折れ、女の実体から落下した。
そしてそれは、男の子の首と重なった。ぴったりと、外れなく。
キュートは倒れそうになる。
しかしそこにはハインがいた。
キュートの背を支えたハインが、耳元でささやく。
从 ゚∀从「ほら、あの女の叫び声をよく聞いてみて。耳をすませて……」
-
――おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん!
.
-
o川; へ )o「うっ……」
猛烈な、吐き気。
その光景から、キュートは顔を背けようとする。
しかしハインが固定する。
背を、顔を、まぶたを、魂を、目の前の光景に固定する。
从 ー从「醜いよね?」
兄を呼びながら自分の息子を犯す母親の姿。
一度ではない。何度も、何度も、数え切れない程の回数を、見せつけられた。
見せつけられていたのだ、ハインも。
从 ー从「罪深いよね?」
キュートの背後から、手が伸びた。ハインの手。
その手は遠近の狂った男女を、女をその手中に収め、
その肌色に、自信の肌色を重ね、そして――。
从 ー从「だから私ね、私がね――」
にぎられた。
-
从 ゚∀从「殺した」
女の頭が、陥没した。
从 ゚∀从「殺した」
女の腹が、裂けた。
从 ゚∀从は「殺した」
女の目が、落下した。
从 ゚∀从「殺した」
女の股が、破裂した。
从 ゚∀从「殺した」
女の臓器が、露出した。
从 ゚∀从「殺した」
女の背骨が、突き出た。
从 ゚∀从「殺した」
女の胸が、燃えた。
从 ゚∀从「殺した」
女の首が、絞まった。
从 ゚∀从「殺した」
女の肉体が、死んだ。
从 ゚∀从「殺した」
女の存在が、殺された。
-
原型を留めぬ肉塊が、所構わず散乱していた。
花の紫に、朱が滲む。濁るその朱を吸色して、さらにその有り様を変じていく。
パートナーを失った少年は、裸のまま立っていた。
裸のままで、キュートを取り囲んでいた。
うつろな瞳が一寸の隙間もなく、キュートの背後のハインを取り囲んでいた。
ハインがキュートの前に躍り出る。
すると彼女の視線の向こう、彼女の視界に入る位置に立つ少年が、一斉に後ろを向いた。
从 ^ー从「ねえキュート、私、間違っているかしら」
ハインは片足を上げ、おどけた調子で向きを変えた。
すると少年たちの一部が、背中を向ける。
从 ^ー从「何か悪いことしたかしら」
ハインは再び向きを変える。
それに合わせて、別の少年たちが背中を向ける。
-
从 ^ー从「だっておにいちゃん、私を無視するの」
そういって、ハインはくるりと一回転する。
从 ^ー从「だっておにいちゃん、私を軽蔑するの」
ハインの回転に合わせて、少年たちは波のように回転する。
ハインの見ている方向の少年だけが、背中を向ける。
ハインに見えない少年たちは、うつろな瞳でハインを見つめている。
从 ー从「罰もくれないの。罰。罪への罰。
おにいちゃん、
おにいちゃん、
おにいちゃん……。
キュートがいなくなった私には、おにいちゃんしかいなかったのに……」
両手で顔を覆い、ハインは毒の花が生い茂るその場にくずおれてしまった。
ハインを取り囲んだ少年たちは、無表情にハインを見つめている。
少年たちに取り囲まれたハインは、声を上げずに泣いている。
-
o川*゚ぺ)o「ハイン……」
知らず、近づいていた。
勝手に足が動いていた。
放っておけない。
このままにしておけない。
そう思うことすらなく、
ただ心のままに従って、
従い、
そして、
手を、
差し伸べようとして――。
-
从 ゚∀从「けれどもう、そんなことはどうでもいいの」
.
-
その腕を、つかまれた。
从 ゚∀从「だって、キュートはずーーーーっとここにいるんだもの!」
足下から伸びた花と葉と蔓が、巻き付いてきた。
泥のように黒く染まったそれらが、キュートに侵入してくる。
動けない。
きつく拘束されて、隙間もない。
外部だけでなく、内部からも私を奪われる。
視界の表から、目の裏から、見えるものすべてが黒く染まっていく。
从 ∀从「ずっと二人でいよう……?」
ハインも同様だった。
全身をつたう黒い植物に内外を犯され、一体化しかけている。
頭に乗せた花飾りが、ゆれる。その黒い花の数は、六。
黒いかんむりは、キュートの頭にも乗っていた。
確認しなくとも、キュートにはわかった。その花の数は、九。
-
从 ∀从「幼いまま、ずっと二人……」
黒い植物を介して、ハインの気持ちが流れ込んでくる。
ハインとひとつになる。ハインが何故こんなにも私を求めるのか……
キュートにも、わかった。
仕方ないのかもしれない。
これが、ハインの望みだというなら。
私自身が引き起こしたことだというなら。
すべてを受け入れ――
从 ∀从「罪も何もなかった、あの頃のまま……」
この女性<ひと>と共に、
永遠を眠ってしまっても――――――――………………
.
-
キュート!
-
光がほとばしった。
光は闇を祓い、絡みつく草花を枯らせた。
キュートは立ち上がった。
光はキュートから溢れていた。
キュートのかけた、ペンダントから。
母から譲り受けたペンダントから。
从; Д从「やめてキュート、そんなもの見せないで!」
ハインが叫ぶ。
ハインにまとわりついていた草花も、そのすべてが枯れた。
無限に思えた花畑は公園の片隅、枯れた花を植えた花壇に過ぎなかった。
――お母さん。
キュートはペンダントを天高く掲げた。
光が広がり、暗闇に捕らわれた世界に差し込んでいく。
-
o川*゚ぺ)o「私は母の愛を求めていた。
どうすれば母に振り向いてもらえるのかを考え、
そしてプレゼントを送ることに決めた」
母、倉田くるう。私の産みの親。
触れ合うことを極度に恐れていた人。
本当は愛し方を知らなかっただけの人。
o川*゚ぺ)o「私はプレゼント用のぬいぐるみを編んだ。
しかしそのぬいぐるみは完成するより先に、
危ないからと針を取り上げられた」
綿が飛び出たまま永久に結ばれることのなかった、
テレビで見た何かの動物を模したぬいぐるみ。
o川*゚ぺ)o「危なくなければいいのかもしれないと、
私は花飾りを送ることにした。
しかし私が花飾りを渡すより先に、
母は雨と泥に汚れた私を無言で風呂場へ入れた」
会心の出来だった首掛け型の花飾り。
気づいたときにはもう、茶色く変色してしまっていた。
o川*゚ぺ)o「困らせれば気を惹けるのかもしれない。
そう考えた私は、母の宝物をばらばらにした。
母の母――私の祖母が唯一残した写真を切り裂いた。
母は怒りもせず、紙屑になった写真を燃やして捨てていた」
母によく似た母の母。
穏やかに微笑むその人の名は確か、そう、クール。
o川*゚ぺ)o「昔の思い出だから気にしないのかもしれない。
現在生きている人とのつながりなら、
父との、母の夫との結婚指輪なら――」
-
あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”
あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”
あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!
.
-
ハインが絶叫する。
蒼い瞳は血走り、かきむしられた金髪は
元の艶やかさを無くしぼろぼろに痛んでいく。
从# Д从「あいつが、あの魔女が、素直クールがキュートを奪ったんだ!
私から、私の目の前で、悪い魔法をかけたんだ!
あいつが全部悪いんだ!!」
o川*゚ぺ)o「違うんだハイン、そうじゃないんだ。
父殺しの罪業から逃避するために、
私は現実を塗り替えるストーリーを生み出した。
母は私と父の仲に嫉妬し、私と父は嫉妬されるぐらい
緊密な仲であったという妄想<ストーリー>を。
けれどそれじゃ辻褄が合わない、妄想だけでは説明できないことが残っているんだ。
私は『幼年期の終わり』の内容を知っていた。
幼い私に『幼年期』を読み聞かせてくれた父以外の誰か。
ストーリーを形成する上で、架空の父を形成する上で都合の悪い人物。
父の役割に取り込まれることで存在を抹消されてしまった何者か……」
-
公園の一角。
幌で覆った秘密の隠れ家。
泥で作った甘い甘いお菓子の山。
二人でひとつの布団を被って、
息苦しさも楽しみながら、
朗読するぬくもりに心地よさを感じて。
その人が、言ってくれたんだ。
お母さんに贈り物をしたらどうかって。
きっと、喜ぶよって。
だから私は、失敗する度その人に聞きにいって、
聞きにいって、
聞きにいって
そして、
そして――
从 Д从「私が、私がキュートに、キュートを殺させてしまったんだ……」
-
あなたはだあれ、おねえさん
.
-
o川* へ )o「ごめんねハイン。
私があなたを忘れてしまったことが、
あなたをこんなにも苦しめていたんだね」
从 Д从「違う」
ハインの身体に、亀裂が走った。
ぴしぴしと、みしみしと、音を立てて、割れていく。
从 Д从「私がキュートを苦しめたんだ。
私がいるだけで、キュートは傷ついてしまう。
私が存在するだけで、人は壊れてしまう。死んでしまう。
死ななければいけないのは、私だ。
私は――私[ぼく]が、死と眠りを撒き散らす呪いそのものなんだ」
ハインの亀裂から、ハイン以外の誰かの姿が覗かれた。
しぃだ。
ハインと合一したしぃが、そこにいた。
きっと、ずっと、そこに。
-
从 Д从「「死ななくちゃいけないんだ」」
ハインがしぃの、しぃがハインの、声と重ねてつぶやく。
o川*゚ぺ)o「そんなことない」
从 Д从「「私[ぼく]が罪だ。罪には罰を。死の罰を」」
声と共に、ハイン[しぃ]は崩壊していく。
自分を否定する度、自らが失われていく。
从 Д从「「私[ぼく]がいるから、だれもが不幸に。
私[ぼく]のせいで、みんなが苦しむ。
私[ぼく]はいらない、いらない子。いてはいけない呪いの子」」
欠けて、欠けて、欠けていくハイン[しぃ]の自己。
剥がれる表皮はぽろぽろと、涙のようにこぼれていく。
とめどなくこぼれていく。
从 Д从「「みんなのために、私[ぼく]が死ななきゃ。
大切な人のために、私[ぼく]が死ななきゃ。
キュートのために、私[ぼく]が――」」
o川* ー )o「おねえちゃん」
キュートは、ハイン[しぃ]を、抱きしめた。
o川*゚ー゚)o「おねえちゃんがいたから、私、生きられたんだよ?」
-
『どうしたの?
お前、こんな所で何してるの?
……どうして泣いているの?
……大丈夫。
大丈夫だからね。
心配いらないからね。
私が――
――おねえちゃんが、そばにいるからね』
.
-
o川*-ー-)o「ありがとうハイン、私と出会ってくれて」
ハイン[しぃ]の崩壊が、止まった。
胸の中の二人のぬくもりが、確かに感じられる。
キュートは二人を見つめた。
ハインが、ハインの中のしぃが、キュートを見つめている。
从;Д从「「私[ぼく]、生きていてもいいの……?」
o川*゚ー゚)o「生きようよ」
ああ、そうか。
自分で言って、初めてわかる。
私たちが求めていたのは、たったこれだけの言葉だったのだと。
これだけのことを、求め続けていたのだと。
o川*゚ー゚)o「私たちは確かに、罪深い存在なんだと思う。
存在するだけで他者を傷つけ、苦しませてしまうのが現実かもしれない。
でも、それと同じくらい誰かの希望になれる。
だれかの救いにだってなれるんだ。
祈りが呪いになるのなら。
呪いだって、祈りになるんだから!」
-
何かの割れる音が、響いた。
激しい光。
真白いその色光は、
この世界の隅々にまで行き渡り――
そしてそれが晴れた時、
そこには公園も、
幌の隠れ家も、
枯れた花壇も、
ハインの姿もなかった。
ただ目の前に、しぃが、
追い続けたしぃの姿が、在った。
しぃは、キュートに向かってにこりと笑った。
つられてキュートも、笑った。
-
o川*゚ー゚)o「ハインは?」
(*゚ー゚)「もう大丈夫です。あなたのおかげで、彼女は在るべき所へ帰りました。
あなたが彼女を救ったんです」
キュートは首を振る。それは違うと。
o川*゚ー゚)o「私はたぶん、ただの切っ掛けなんだと思う。
立ち上がることを選んだのは、ハインの意志だよ。
それに、本当に救われたのは私だから」
それは、あなたにもだよ。
言葉に出す代わりに、キュートは手を伸ばしてそう告げる。
ありがとう、と。
o川*゚ー゚)o「さ、帰ろう」
しぃの手がキュートの手に重なった――その時だった。
急激な“流れ”が、二人を呑み込んだ。
キュートはつないだ手をかろうじて離さぬまま、叫ぶ。
-
o川;゚Д゚)o「いったいなに!?」
叫ぶ間にも、二人は押し流されていく。
その勢いは激しく強く、目を開けることすらままならない。
(;゚−゚)「霊脈です、霊脈が溢れてしまったんです!」
近くにいるはずなのに、遙か遠いところから聞こえてくるようなしぃの声。
手をつないでいなければ、すぐにお互いを見失ってしまう。
o川;゚Д゚)o「いったいなんで!」
(;゚−゚)「杉浦しぃという霊的に巨大な個が塞き止めていた流れを
新たな規定によりぼくという存在が収縮したことで、
一気に爆発してしまったんです!」
指先に、しぃが手を離そうとするのが伝わってきた。
強く握り直す。それを感じ取ったしぃは、
キュートの指をふりほどこうとする。
(;゚−゚)「あなたには待っている人たちがいます。
離してください。このままじゃあなたも帰れなくなる!」
-
o川#゚⊿゚)o「バカいわないで!」
しぃの抵抗が、止まった。
o川*゚⊿゚)o「ここであなたを見捨てたら、私、元にもどっちゃう。
私はもう逃げない。立ち止まらない。
あなた<私>を背負って前へ、前へ進むと決めたんだ!」
しぃを引き寄せ、流れに逆らいキュートは泳ぐ。
もう言葉を発する余裕もない。呼吸すらままならない。
何かの塊が頭や、目や、腕を打つ。
その度ごとに体勢を崩し、流されそうになる。必死で抵抗する。
帰るんだ。
一緒に、帰るんだ!
目がかすむ。意識が朦朧としだす。
それでも構わない。
流れがあるのなら、それが目印だ。
それだけを感じ、それに逆らっていけばいい。
逆らっていけば帰れる。
帰れる。
帰れる、はずだ。
だが。
-
無慈悲な流れは、個の意志など無関係に存在する何もかもを呑み込んでいく。
キュートにはもう、何も見えなくなっていた。
自分が進んでいるのかも、押し流されているのかもわからない。
それでも、諦めない。諦めたくない。
ここまで、ここまで来たんだ。
こんなところで、終わってたまるか――
キュート!
しぃの声が聞こえた。
しぃは腕を伸ばし、指さしていた。
その向こう、その向こうに、何かがある。
-
水。
水の腕。
水の手。
それが何なのか、
それが誰なのか、
キュートは、理解した。
意識を失ったしぃを抱え、最後の力を振り絞る。
それに向かい、その手に向かい、
懸命に、懸命に、腕を伸ばし、
伸ばし、伸ばし、伸ばして、
キュートは、叫んだ。
お母さん<くるう>――!
-
※
薄明かりの中で、キュートは目覚めた。
生きている。しぃは――よかった、ちゃんといる。隣で眠っている。
土の地面。ここは――まだ、地下の底らしい。
あの階段を降りきった先、みたいだ。
急激な疲れが、安心した身体に圧し掛かってきた。
「まだおやすみなさい」
声をかけられた。だれ――?
聞き覚えのある声。素直クール、だろうか。
薄明かりに照らされて、素直クールらしき人影は確かに確認できた。
けれど、何かが違う気がする。
髪や衣服が濡れているからだろうか。
普段の彼女ではない、別人のような雰囲気。
まるで、お母さん<くるう>のような――。
ああ、けれど。
身体が眠りを要求している。
これ以上考えることを拒否している。
自然とまぶたが落ちていく。
蝋燭に灯った火が、すぅっと消えていった。
それと共に、キュートの意識もまた、まどろみへと落ちていった。
-
※
――この複雑に編み込まれた関係の宇宙で、私たちは確かに小さく儚い存在です。
聞こえました。あなたの声が、確かに私にも。
「内藤キュート、先の契約をここに言い渡します」
――大いなる太梵の流れから見れば、すべての個も生も、
星々や太陽でさえも瞬く光のその一滴(ひとしずく)に過ぎないでしょう。
あなたがあの時何を言おうとしたか、私にもようやくわかりました。
「この契約は絶対です。実現するまであなたには、戦い続けてもらいます」
――でも、私たちの生は無駄じゃない。それはきっと残るから。
私たちという形象が姿をなくしても、いつか別の場所で、
別の形として表れるから。だって、すべてはつながっているもの。
あなたがどんなに私を祈ってくれていたか、わかりました。
「内藤キュートに命じます。あなたはあなたを失わずに。あなたは、どうか――」
――だから、ね、ヒート。あなたはあなたを失わないで。あなたは、どうか――
だから私も、この子のために祈ります。あなたのように、姉さまのように――
ノハ ー )
-
幸せに
《続》
-
《 終 》
「一度の挫折が人生の挫折ではありません。
生きてさえいれば、歩き出せます。歩けさえすれば、夢を追えます。
私はここを去りますが、今生の別れというわけでもない。
縁があれば、また見える(まみえる)こともあるでしょう。
それではさよならアデューBye。あなたの今後に幸多からんことを」
ぼくたちは旅に出ました。
北は北海道から南は沖縄まで、日本全国津々浦々の旅です。
計画したのはキュートでした。
「あなた<しぃ>はまだ何も知らない。もっとたくさんのものに触れてほしい」
彼女はそう言って、バイクを買いました。サイドカー付きのバイクです。
購入までには様々な苦労があったみたいだけれど、
彼女はそのすべてを乗り越え、ぼくを連れて旅に出たんです。
大学も辞めて。
-
あの騒動の後。相真大学病院は、結局存続しました。
モララーさんが、一切の責任を背負うことで。
モララーさんは言っていました。
「うちに掛かってる患者さん全員とぼく個人を秤にかけたら、ま、答えは明白だよね」って。
モララーさんのおかげで相真は続いています。
そこに入院していた患者さんも、多少のごたごたはあったかもしれないけど、
いまは適切な治療を受けることができているみたいです。
「ハインを通じて、俺も見ていた。……いろいろと、すまなかったな」
ハインさんのお見舞いに行った時です。
ハインさんのお兄さん――長岡さんが、キュートに謝っていました。
彼は医師を辞めたそうです。
「元々興味があったわけでもない。
……それにこれからは、自分自身のことについて少し考えてみたい」そう言っていました。
少しだけ、キュートに似てるかな。
そう思ったけれど、キュートには内緒です。
彼女、きっと嫌がると思いますから。
-
「残念だな、キュートの料理がもう食べれないなんて。
もっと食い溜めしておけばよかった」
ハインさんは、思ったよりも元気でした。
といっても重傷には違いなく、まだまだベッドから離れることはできないそうですが、
心の方はもう、立ち直っているようでした。
キュートとハインさんは、長い時間をかけて話をしていました。
何気ない日常の話題で、何時間も、何時間も、笑っていました。
たぶん、不安だったんだと思います。
ハインさんに圧し掛かった責任は、
とてもとても重たいものだったから。
キュートもそれに気づいていたから。
「わりぃ、そろそろ疲れて眠くなっちまった。今日はこれで、な」
例えそれが自業自得であっても、
いえ、自業自得であるからこそ、
正面から向き合うことはとても苦しい大変なんだと思います。
不安になるのは、仕方ないんだと思います。
「じゃあ、ね……」
でも、大丈夫だと思います。
だって、ハインさんにはいますから。
あんなに親身になって、そばに寄り添ってくれる人が。
受け入れてくれる人が。だからきっと、大丈夫です。うん、大丈夫。
-
不安といえば、キュートの運転技術にはだいぶ不安になりました。
だって、キュートです。
彼女の運転はバイクを操っているというより、
バイクに振り回されているといった方が正確でした。
それなのに彼女は、雑木林も獣道も関係なく突っ込んでいくんです。
こっちははらはらです!
でも、それも思い出です。
寒いのも、暑いのも、悲しいのも、怖いのも、
怒っちゃうのだって、全部、全部、いままでのぼくにはないものでした。
新鮮でした。何もかもがきらきらしていました。
野宿だってしました。
お金がなくなったら働かせてもらいました。
雨の日も、雪の日も体験しました。
いろんな人に助けてもらいました。
やさしい人ばかりではないけれど、でもみんな、
どこかにやさしさを潜ませていました。やっぱり、やさしい人ばかりでした。
怪我だってしました。初めて泣きました。
痛いって、あんなにも辛いんですね。
涙って、うれしくても溢れてくるんですね。
-
世界は素敵でした。
世界は未知に溢れていました。
太梵<すべて>であるはずのぼくが、知らないことばかりでした。
自分の内にこんなにも鮮やかなものがあるなんて、知りませんでした。
素直の教えの通り、すべては自分の内にあるのかもしれません。
でも、自分のことを何もかも知っている人なんていませんよね?
当たり前のことなんです、きっと――
きっと、関わりを通じて初めてぼくは、ぼくを知ることができるんです。
あなた<すべて>がぼくを教えてくれるんです。
-
「ねえ、キュート。ぼくね、素直を継ごうと思うんです」
あの騒動の被害を被ったのは、モララーさんだけではありませんでした。
素直もまた、その権力を大幅に収縮されてしまったそうです。
「お婆様は関係ありません。
むしろお婆様は、反対されると思います。
それでも、継ぎたいんです。それがぼくの結論なんです」
とはいえ今回のことがなくとも遅かれ早かれ、
こうなっていたのかもしれません。
お婆様の強権は人々を恐れさせ、
あの屋敷にはもう、お婆様を除いて誰一人残っていなかったのですから。
ずっと、独りで素直を維持してきたお婆様にとってはむしろ、
肩の荷が下りたくらいかもしれません。
「ぼくにも不安はあります。自分に務まるのかって。
いまや何の力もなくなってしまったぼくに」
-
霊脈から帰還した後、ぼくは太梵を感じることができなくなっていました。
きっと、霊脈のあの激流がぼくの力を持っていってしまったんだと思います。
ぼくを守り続けてくれた、母さんの祈りとともに。
それはとても不安なことでした。目や耳や、
鼻や皮膚が利かなくなるのと似ているかもしれません。
あるいは初めて外界へ飛び出た胎児と、同じ気持ちなのかもしれません。
本当に、不安でした。
「でも、ですよ。それはみんな、そうなんですよね。
それが当たり前だって、気づいたんです。
その当たり前を受け入れて、支え合って、補い合って生きてるんだって。
だから、継ぎたいんです。
きっと、素直を支えて、素直に支えられて生きていた人たちもいると思うんです。
もう必要としていない人たちもいるかもしれないけれど、
まだ必要としている人たちだっていると思うんです。
形は変わるかもしれない。いずれ消えてしまうかもしれない。
けれどいまはまだ、その時じゃない。だからぼくは、素直になるんです」
-
ぼくたちの旅は、ここで終わりです。
三年間。短かったかもしれません。長かったかもしれません。
けれど大切な時間であったことには変わりありません。生涯忘れることはありません。
思い出の宝を胸に、ぼくは前へ進みます。
これからもずっとずっと、笑って、泣いて、怒って、悩んで、
立ち往生しながらも進んでいきます。これがぼくの道だって、胸を張って言えるように。
ですから今度は、あなたの番です。
教えてください。
あなたはこの旅で、何を見つけましたか。
あなたはこの旅で、何を感じましたか。
あなたはこれから、何になりますか――
.
-
※
「いてぇ……」
顔と、膝と、腹もいてぇ。
特に腹の痛さが尋常じゃねえ。
あばらとか折れてんじゃねえの、これ。
呼吸すんのも容易じゃねえんだけど。
ちくしょうあいつら、めちゃくちゃに殴りやがって。
オレはサンドバックじゃねーっつの。
そんで取り返せたのが、老いぼれうさぎ一匹ときたもんだ。
割に合わねーよな、実際。
ま、しょうがねーけどさ。自分で蒔いた種だし。
それよりも――。
さっきからひそひそうるせぇな、あのおばはんども。
文句があるなら直接言いに来いってんだ。そしたら言ってやるからよ。
ここは公園だぜ、みんなのもんだろ。
オレにはベンチでくつろぐ権利もくれやしねーのかってな。
あいつの息子のオレにはよ……ってな。
……けっ。ちっと睨まれたくらいで逃げる程度の根性なら、
初めっからじろじろ見てくんじゃねーよ。気分わりぃ。
あー……それにしても何だか、眠くなってきやがった。
膝の上のこいつはさっさと眠ってやがるし。たくっ、暢気なもんだな。
でもま、いいよな。少しくらい眠っても。少しくらい……。
――あんっ?
-
「あ、起こしちゃった?」
「……いや、起きてたけど」
本当は、ばっちり寝てたけど。
まぁ、弱みを見せない男の意地ってやつだ。たぶん。
それよりも、オレが何で目覚めたのか。
ほほに何かが触れている。たまにいてぇ。それにつめてぇ。
どうやら濡らしたハンカチで、血や汚れを拭き取ってるみたいだった。
「いいよ、自分でやる」
ハンカチをひったくる。
適当に顔中をげしげしこする。ああいてぇいてぇ。
「……なんだよ」
オレはいつの間にか隣に座っていたこのねーちゃんを、睨みつける。
ババアどもをびびらせたあの睨み方だ。
でもこのねーちゃんは逃げなかった。
大人っぽくほほえんで、小さなバッグから何かを取り出していた。
「バンソーコーだけでも貼らせて、ね?」
「いいよ……おい、なんだよ、やめろ!」
「じっとしてて」
-
普段なら一発恫喝して、こんな女はすぐに黙らせてやるんだ。
でもいまは体中いてぇし、なにより膝の上でこの老いぼれうさぎが眠ってたから、
だからどうしようもなかった。
女はまったく一切の手加減なく、
べたべたべたべた顔中に大小様々なバンソーコーを貼りまくってくれやがった。
これじゃみっともなくて、怒ることもできやしねぇ。
そもそもこの一仕事終えた――みてぇな満足げな顔を前にしたら、
怒る気力も何もなくなっちまうけど。
「ったくよ……」
調子が狂うな。頭をかく。
ねーちゃんがじっとこちらを見ているのに気づいて、頭をかく速度がす。
……あー、もう。
「……で、ねーちゃんはだれなんだよ。
どこのサシガネだ。何て難癖付けにきたんだよ」
すごんでみせる。
好んでオレに近づいてくるやつなんて、大体はちょっかいかけに来たか、
的外れな親父の借金の催促か、宗教の勧誘くらいだ。
さしずめこのねーちゃんは、宗教関係って感じかね。
やさしくほだしたところで、実はうんぬん教のかんぬんでして、
あなたを救いに来ましたーってくるのがオチだ。
その手には乗るかよ。オレは身構える。だが――。
-
「さあ、だれでしょう?」
「……はぁ?」
このねーちゃんは、そのどれでもないようだった。
こっちを見てにこにこ微笑んでいる。毒気の抜けるような笑顔。
いままで、オレの周りでは見たことのない顔。
オレは顔を背けて、ねーちゃんに忠告する。
「あんた余所者だろ。
オレと一緒にいると、あんたも白い目で見られるぜ」
「なんで?」
「……別に」
ろくでなしの親父のせいで息子のオレまで疎まれてるとか、
情けなくて口にもしたくねぇ。おまけに親父はもう死んじまってるんだ。
オレにどうこうできるわけねぇじゃねぇか。
オレ自身の厄介さで憎まれる方が、余程気楽だってのに。
オレを知ってるやつのほとんどは、親父を通してオレを見やがる。
そのほとんどが。
なのにこのねーちゃんは、さらっと言ってのけやがったんだ。
「私は確かに土地の人じゃないけど、
でもきみのことは知ってるよ。エクストくん、だよね?」
-
「……はぁ?」
「……もしかして、違った?」
「いや、あってるけど……」
知ってるからこそ驚いてんだけど。
オレを知ってるなら、親父のことも知ってるん、だよな……?
それじゃあ何で、逃げねーの?
「よかった!」
……キテレツなねーちゃんだな。
そんなうれしそうな顔をされると、こっちも何か、変な気分になっちまうじゃねーか。
「よく眠ってるね」
「だから寝てねーって……ああ、とびまるのことか?」
ねーちゃんの手が、とびまるの頭をなでた。
目を閉じたまま、両耳がぴくんと動く。
こいつにはこう、野生の警戒心とかないもんかね。
ジジイだからしょうがねぇのかもしれないけど。
「エクストくん、この子を助けに行ってたんだよね?」
-
何で知ってるんだ?
思わずのどまで出掛かった言葉を呑み込む。
「……助けにいったんじゃねー。取り返しに行ったんだ。
ガキどもがぎゃーぎゃー喚くから、仕方なく、な」
「やさしいんだ」
不意の一言に、殴られた箇所と蹴られた箇所と頭突かれた箇所が余計に痛くなる。
あいつらのどんな攻撃よりも、よっぽどいてぇ。
「ち、ちっげーよ、バカ!
オレのせいだから、オレが取り返してきただけなんだよ!」
「きみの?」
ちょっと待ってくれ。さすがに痛すぎてわけわかんねぇ。
呼吸を落ち着けて、痛みが多少和らいでから、オレはしゃべりだした。
「……あいつらオレの事が気にくわねーんだ。
だからいつもちょっかいだしてきて、とびまるはそれに巻き込まれたんだよ。
オレはきっちりケジメをつけてきただけで、
その……や、やさしいとかそういうんじゃねーんだよ、バカ!」
「そっか」
「そうだよ、わかったかよ」
「エクストくんは、自分に向き合えるんだ」
-
……はぁ?
意味わかんねーんだけど、あのさ、ちゃんと話聞いてた?
オレは、そう言ってバカにするつもりだったんだ。
けどそれよりも早く、ねーちゃんの方が先に話し出していた。
「すごいね、エクストくんは」
…………………………。
「かっこいいな」
…………………………………………………………
…………………………………………………………
…………………………………………………………る。
「る?」
「――る、るっせ、るっせ、るっせーよ、バーカ! バーカ!!」
-
脱兎の如くとはこの事か。ちょうど兎も抱えてたしな。
オレは何か、わけわかんない衝動に突き動かされて、
よくわかんないまんま走り出してたんだ。情けねぇことこの上ねぇな。
とびまるのやつも珍しく目をまんまるくして驚いてやがったよ。
そんで、もうだいぶ遠ざかってからのことだ。
オレは自分の失態に気づいちまった。
オレの手には、あのねーちゃんからひったくったハンカチが握られたまんまだったんだよ。
今から戻って返すか?
そんなだせーこと、できるわけねぇ。
それにもう、いなくなってるかもしれねぇ。
もどって誰もいなかったら、それこそバカみてぇじゃねぇか。
無視すりゃいいんだよ、こんなもん。
このでけぇ街のことだ。たぶんもう、会うこともねぇんだから。
……もう、会えねぇのかな。
自分を殴る。ぼかすか殴る。バカみてぇ。バカみてぇだ。
とびまるが鼻をひくひくさせて見上げていた。いつでもマイペースな老兎。
ったく、お前はいいよな、ほんとによ。
いてぇいてぇ。ああいてぇな、ちくしょう。
-
※
「うわっ、お化け顔」
「うっせーよ」
とびまるを兎小屋に戻したオレは、
しばらくそこの腰を下ろしていた。血のついたハンカチを眺めながら。
そこにドクオのやつがやってきた。
オレは慌てて、ハンカチをポケットにしまった。
「で、なんだよドクオ。お前普段こんなとこ来ねぇだろ。当番制だっつーのに」
「デルタのおっちゃんに頼まれて、お前を探してたんだよ」
「院長に?」
「そ。新しい先生が来たから、全員集まれってよ。
それにその新しい先生ってのがな……いひひ。いいから、お前もさっさと来いよ!」
ドクオはそれだけ言うと、
気味の悪い笑い声を漏らしてスキップしながら去っていった。
なんなんだよ、いったい。
新しいせんこーなんて、いままでにも何人も来てただろうに。
ま、そのうちの大半はすぐに辞めちまうんだけどな。
でもま、しかたねぇ。行くか。
新しいせんこーとやらの面を拝みによ。
とびまるの頭を一撫でして、オレは立ち上がった。
それにしてもこいつ、いつも寝てやがるな。
-
『でっかいっぽ! ぼいんぼいんだっぽ!』
『お、女の子がそんなこと言っちゃいけないんです!』
『推定Eカップ……いえ、Fあることはわかってます』
『わかってますちゃんまで!』
『うるさいうるさいうるさーい! 院長先生が話してるんだぞ!
みんな静かにしろよ! 静かにしろよ! しず! かに! しろー!!』
『そういうマトが一番うるさいよな』
『それに気づくとは、流石だな兄者』
『わ、わたしも、あんなふうになれるかな〜?』
『……女性の価値は胸だけ決まるものではありません。
ありませんったらありません。断じて断じて断じてです』
-
部屋の中から聞こえる騒々しい声。
ここがドクオの言っていた場所に間違いなさそうだ。
オレはだれにも気づかれぬよう、後ろからそっとドアを開いた。
――あ。
握っていたハンカチが、こぼれた。
院長に紹介されている女が、こちらに気づいた。
ウィンクされた。
「――というわけで、私からは以上だ。
それじゃ先生、自己紹介のほどを頼みます」
はい。
澄んだ声で返事をしたその先生は、一歩前へ、
みんなの視線が集まる位置に進んだ。
そしてあの笑顔で、見ているこちらがうれしくなるような笑顔で、
ゆっくりと、でも、はっきりと、こう言ったんだ。
-
.
o川*゚ー゚)o「内藤キュートと言います!
まだまだ大人を踏み出したばかりの半人前ですが、
みなさんと一緒に前へ、前へ歩んでいきたいと思います!」
o川*゚ー゚)o幼年期が終わるようです 《完》
-
長時間投下まじおつ!
圧倒的分量なのにざくざく読めるし面白いわ
キュートの幼年期は本当に終わったんだな……ぼいんになったのか
-
これにて幼年期が終わるようですは完結です。
途中何度もミスをしてしまい、申し訳ありませんでした。
正直心が折れそうなときもありましたが、
何とか完結まで辿り着けたのは読者のみなさんから感想を頂けたからです。
ありがとうございます。とてもうれしかったです。
もし何か質問や疑問点があれば、気軽にレスしてくださって大丈夫です。
日は跨いでしまうと思いますが、本作に関する質問であれば必ず答えるように致します。
次回作などについては特に考えていませんが、
また何か書きたくなったらふらりと寄らせてもらうと思います。
その時は――もしおもしろいと思ったらで構いませんので――
また読んでいただけたら幸いです。
短いですが、これにてあとがきに代えさせてもらいます。
本当にありがとうございました。
-
ちょーおつ
最高でした!
少しずつ紐解かれる感じがたまらなかったです
それでもおねえさんには驚きましたがwww
-
乙
クール=ヒートみたいだが、なんでクールになったんだ?読み込み不足ですまん
-
>>490
まず前提として、各話開始前の前日譚で『姉様』と呼ばれている人物が本物の素直クールです。
そして『姉様』と呼んでいるほうがヒート。このヒートは、本編中素直クールとして振舞っています。
ヒートがクールとして振舞うようになった理由は、二話前の前日譚に関係しています。
すなわち、素直クール(真)が処分されそうになっていたヒートの子ども(くるう)を助けるために、
くるうを連れて出奔したことが事の始まりです。
素直クール(真)はすでにその精神に異常を来たしてはいましたが、
対外的には素直家の当主という立場にありました
(素直家当主に関する話は四話でモララーが説明している通りです)。
実質的に素直を操作していた老人たち(二話前の前日譚で何やら画策している人たちです)も、
当主自らが家を去ったなどという醜聞を漏らしたくはなかったのでしょう。
そのような事実は、なかったものにしなければならない。では、どうすれば揉み消せるか。
誰かを素直クールに仕立て上げればよいと、彼らは考えました。
そしてそのお鉢が、妹である素直ヒートに回ってきたというわけです。
また、素直クール(真)は出奔に際して娘(つー)を家に置き去りにしています。
その子こそ老人たちが『世継ぎ』といった人物であり、
ヒートが「お前も、置いていかれたの?」と話しかけた少女です。
ヒートは、少女に向かってこう言っています。
「心配しなくていいんだよ。
私はお前の母親じゃないけれど、
きっと、
お前の母親になってみせるから。
姉様に、なってみせるから――」
まとめますと、少女(つー)の母親=姉様=素直クールという図式です。
ヒートは少女のために、素直クール(のよう)になりたいという動機を持ちます。
そこに老人達の思惑も合致したことで、ヒートは内面的にも対外的にも
素直クールになりきっていったわけです。それが上手くいっていたかどうかはともかく。
本人にしかわからない心情はあると思いますが、
概ねこういった理由でヒートはクールとなっています。
……えと、疑問にうまく答えられているでしょうか? 的外れなこと言ってたりしないかな?
-
あとがきに書き忘れていたことを少しだけ。
この話の着想は2014年ラノベ祭りに挙げられていた絵から得ています。
陰を含んだ笑顔のタカラと冷たい表情のキュートが、
クレヨンで描かれた赤い扉の前で座っている絵です。
タカラの役割はしぃに変わり、キュートも絵の雰囲気とは異なる女の子になってしまいましたが、
この絵がなければ『幼年期』を生み出すことはできませんでした。
読んでくださっているとも思えませんが、
この場を借りて感謝の意を述べさせて頂きたいと思います。
ありがとうございました。
-
ようやく読み終えた
ハッピーエンドで終わってよかったおつ
-
>>491
ありがとう腑に落ちた。すごく面白かったよ乙!
-
面白かった!
おつ!
-
843 いやあ名無しってほんとにいいもんですね@転載は禁止 sage 2014/11/28(金) 00:58:02.13 発信元:124.146.174.225
創作に書けないからどなたか幼年期に配達お願いします、別に急ぎませんので
すごくいい作品だなと思って読んでたからまあ初投下のやつじゃねえなとは思ってたけど
最後のトリップ見て、んっ?なんか見たことあるトリなと思ってググったら
あんただったのかよ、あんたの作品が読めて嬉しいぜこれからもたまにでいいからは書いてくれよな
-
なかなか面白かった
夢やはっきりとしない意識の中での描写が少々難解ではあったが
ところで太梵って何て読むの?
-
>>498
『太(たい)』という字には「はじまり」や「一番」といった意味があり、
中国思想においては『太極(万物の根源)』といった語に含まれています。
陰陽道における太極図などが有名なアレですね。
また『梵(ぼん)』という字はインド哲学における宇宙の根本原理ブラフマンを、
漢語へ音写した際に当てた文字です。自己の本質(我=アートマン)と
宇宙の本質(梵=ブラフマン)は同一であるという思想を『梵我一如』と呼び、
この真理を悟ることを究極の目的としている(していた?)そうです。
以上より始まりや根源といった意味を重ねて『太梵(たいぼん)』、と読ませています。
-
サンクス
なるほどなぁ
-
すまん>>96の知障の娘の正体だけどうもわからない
くるうじゃないよな?
-
>>501
くるうで合っていますよー。
>>96の会話で『あれ』と呼ばれているのは出来損ないの素直であるヒートです。
そのヒートの娘なので、知障の娘と呼ばれているのはくるうということになります。
知障○○(人名)の娘とも読み取れる書き方だったので、
そこで勘違いさせてしまったのかもしれませんね。失礼しました。
余談ですが、第三話前の前日譚を鑑みるに、
くるうの知能障害は軽度のものであったと推測されます。
自分が他の子から疎外されていると感じ取れる程度には、
認識能力が発達していたわけですから。
しかし素直(の老人たち)にとっては症状の軽重など関係なく、
厄介事の芽をただただ摘み取りたかっただけなのでしょう。
-
知障の娘がくるうということは、つまり
>>491の>当主自らが家を去ったなどという醜聞を漏らしたくはなかった
という文について
当主自らが家を去った=素直クール(真)がくるうを連れだして出奔したから、でなく
当主自らが家を去った=素直クール(真)がすでに精神に異常をきたしていたために、素直家当主にさせておくわけにいかなかったから
と考えていいんだよな
くるうが連れ出された後だっていうのに、太梵に還すかなんて相談するのは矛盾してるからな
くるうを連れて出奔したことが事の始まり、なんて書かれちゃうと、どうしても前者の意味でしか捉えられなくなっちゃったんだ。スマン
-
96の時点ではまだクールは居るはず
クールの精神が危なくなってきたんでヤバい!
↓
仕方ないからヒートで代替えしよう!
そうするとくるうは邪魔だから還そう!
↓
川; ゚ -゚)(くるうが危険!逃がそう!!)
↓
あ、厄介なのが二人とも還すまでもなく居なくなった!
ヒートさん!素直クールとしてよろしくお願いします!!
↓
物語
こんな流れだと思ってる
-
>>503
>>504さんありがとうございます。
時系列としては>>504さんの説明してくださった通りなので、
ぼくの方では簡単な補足を。
――――――――――――――――――――――――
A
①素直クール(真)、精神に異常を来たす
②老人たちの会合にて、くるうの処分が決定
③素直クール(真)、くるうを連れて出奔
④素直ヒート、素直クールになると決意
――――――――――――――――――――――――
B
⑤老人たち、ヒートをクールに仕立て上げることを画策
――――――――――――――――――――――――
まずAの領域で起こったことが、本編でも描かれている部分です。
Bについては本編では直接触れられていない、間隙の出来事です。
おそらく②の部分が勘違いさせてしまった元になっているのだと思いますが、
この時点では老人たちの考えにヒートをクールの代替にするという案はありませんでした。
問題になっているのは世継ぎ(クールの娘、つー)の教育者を誰にするかと、
知能障害が判明したくるうの処分をどうするか、です。
老人たちがヒートをクールに仕立て上げようと考えたのは
あくまでクールが出奔したからであり、クールが出奔したのは
②の会合にてくるうの処分が決定したためです。
なので>>503さんが当初考えていた、前者の推測で合っています。
本編では描かれていない云わば裏設定を当たり前のことのように
書いてしまったため、こんがらがらせてしまったのかもしれませんね。
失礼しました。
-
ああ、なるほど理解しました!
わざわざ丁寧に説明してくれてありがとう
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