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『Destiny』路線変更についての考察

1:2006/02/25(土) 17:50:21 HOST:ntgnma006042.gnma.nt.isdn.ppp.infoweb.ne.jp
 あくまで状況的な推測ですが。

 今までの展開をざっと見返してみて、本作の本来のテーマとは、実は「理念」と対置する形での、行為や結果に対する形での「責任」では無かったのかというのが最近における自分の解釈。
 イラクでの人質事件において「自己責任」が大きく問われたことはまだ記憶に新しいところであり、おそらくはこれが直接の動機ではないのかというのも自分の観測。

 元々、前作のオーブ解放戦争でのウズミの「選択」については、本放送の当時から議論が多く、むしろラスト以上の盛り上がりといっていいくらいの物があったわけで、それだけに、それによって惨禍を受けた民間人の少年が、その「責任」を問う続編の主人公となるというのはまさにこれ以上に無い最高のシチュエーションだったというわけです。
 (1話の会見場面でデュランダルが「理念」に触れる場面などは、明らかに「理念のために多くの国民を惨禍に合わせた」という暗喩と、それに気付かぬカガリを揶揄する格好の場面になっており、カガリを見つけた旧オーブ国民らしい人たちの彼女への明らかに冷たい表情も印象的。)

 そして、それを最大に拡大させたのが、彼の家族の直接の爆死の原因がフリーダムではないのかということが暗示された冒頭部分。
 もちろんキラの意識的でないにせよ、戦場の常識として、当然に起こりうるシチュエーションであり、もしも直撃を避ける「不殺」の手加減が周囲への誤爆を招いたとまで考えればその悲劇性はさらに倍増するというわけで、まさに究極の「行為責任」にして「結果責任」。
 そして「これ」を突きつけられることによって、「容疑者」であるキラ自身にとっても今までにない新たな展望と展開が開けたはずであり、シンとキラが唯一の顔合わせをする10話での場面などは、まさにそうしたその後の布石としての格好の場面となっていたはずです。

 ただし、またおそらく「路線変更」の最大の原因となったのも、間違いなくこの部分。

 1話放送の前後から、視聴者やスポンサー側などから「キラや前作キャラを悪者にするな」という意味での様々なクレームが付いたことは容易に察しのつくところであり、その「反響」の中において、製作側が「それじゃあ。お望みどおりに徹底的に『悪者にしない』でやってやろう!」と開き直ったのではないかというのが、究極的な意味での自分の解釈。

 よって多くの現実的な説得力と可能性を持っていた当初の「責任」の物語は、現在の多くのアンチが猛非難を浴びせているように、ここにおいて実に見事なまでの「旧キャラ無謬」の「無責任」の物語に完全に変じたというわけで、それは主人公であるシンも同様。

 そして、その象徴といえる物こそが、これは当初の「責任」の物語において重要な意味を持つはずであった「ステラ解放」でしょう。

2:2006/02/25(土) 17:54:15 HOST:ntgnma006042.gnma.nt.isdn.ppp.infoweb.ne.jp
 すなわち、この場面ではシンが初めて「理念」的に動いたというわけで、皮肉という意味でこれ以上に勝るシチュエーションはまずないところ。

 おそらく「責任」を前提にした当初の予定においては、「良かれと思った」シンの好意が結果的に「デストロイによる大破壊」を招くという事態において、それまで同情されるべき「被害者」であったはずの、シンが初めて「加害者」としての「行為責任」と「結果責任」を問われ、ここにおいてシンが周りから激しく非難されることによって、初めて自分の「責任」と直面するという展開になったはず。
 実際、デストロイの攻撃によって、民間人だけでなく、ザフトにも甚大な被害が生じているわけであり、その親類縁者や友人がシンを「非難」するというのはむしろ当然。
 (「解放」について、いくら公的に「逃亡死」としてもミネルバのクルーは全て知っているはずであり、普通の常識ならば35話の「歓迎」などは絶対にありえず、いくら仇敵のフリーダムが相手でも、むしろ「冷淡」に迎えるとかの方が遥かに説得力があったはずで、全体的に、むしろ彼らの底抜けの「お人好し」ぶりにしか見えなくなっている。)

 そして、ある意味、このことによってシンも遂に「無責任」の「共犯」にされてしまったといえるわけであり、そしてそのことは彼自身の「主人公」としての存在意義を失わせるにおいて多大な効果を果たしたといっても過言ではないでしょう。
 (もちろん、ネオの「関与責任」については、いまさら重ねて言うまでもないもないという奴で、彼が「ムウ」に戻ることによって「ネオ」としての罪が消滅的になってしまったのも事実です。)

 ちなみに、アメリカ映画の名作『トロイのヘレン』(ロバート・ワイズ監督。1955年)では、勝手な駆け落ちでトロイに大災難をもたらしたヘレンが、最後の阿鼻叫喚の地獄絵図において全くの責任も同情も感じず、ただ「自分の幸福を踏みにじった」前夫を非難する部分のみが実にクールに演出されており、ただ「ステラの遺体しか目に入らない」33話のシンと共通する部分が実に多く、自分にとっての「責任」という物についての格好の代表例となっています。

 そして、こう考えてみると、ステラの水葬場面に掛かる「貴方のことしか見えない」という、「深海の孤独」のフレーズが、「感動」というよりも、妙に「皮肉」っぽく聞こえてくるというのも興味深いというかで。

3:2006/04/19(水) 20:41:47 HOST:k162237.ppp.asahi-net.or.jp
 「この戦闘での『責任』は全て私にあります!」

 29話におけるトダカ一佐の台詞であり、間違いなく『Destiny』における最重要の台詞。

 それに比べれば、現在に展開されている付け焼刃で長広舌なばかりの「理念合戦」などは全く枝葉末節でしかないといったくらいの。

 本来は「理念」に対する「責任」の物語になるはずだったと思われる本作において、おそらく「責任」という物について最も突っ込んでみせたのがこの場面であり、台詞ではなかったというのが自分の解釈。

 もちろん、ここにおける「責任」という台詞は様々な意味を持ち、当然の職責的な意味もあれば、軽薄なユウナへの開き直りな弾劾のニュアンスもあるでしょう。

 また13話でのミネルバへの攻撃の手控えとかも。

 だが最後の場面に見た物。

 恐らく彼はインパルスのパイロットがシンだということを知っていたのであり、その「責任」を彼なりに感じていたのではないでしょうか。

 「あの子をプラントに送ってしまったのは自分だ」「そのためにここまでの損害を我が軍に負わせてしまった」という類の。

 それを過剰意識と呼ぶのは容易いでしょう。

 ただしここで肝心なのは、「責任」において「自覚」という部分が重要な意味を持つという事であり、ストーリー構成の定石として、続く「ステラ解放」の布石にもなったはず。
 (つまり今度はシン自身がトダカと同じ轍を踏んでしまうというわけであり、皮肉としてこれ以上の物は無いでしょう。)

 その「意味」をも合わせて考えれば、それこそ「失われた」物の大きさに今更ながらに気付かされるという次第なわけです。

 自らの自己正当化の意味も込めての声高で空疎な「理念」ばかりが飛び交う中、誰一人取ろうとも感じようともしない「責任」という物。

 その中で唯一人「責任」を口にして消えていった男。

 NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』のラストシーンにおける主人公・天羽賢治の最期の場面にも近い物を感じてしまうのは自分だけでしょうか?

 最後に彼の本格的な初登場時のもう一つの台詞を。

 とにかくこれもまた非常に大きな「含蓄」を感じさせてくれるという奴で。

 「知るかよ。俺は『政治家』じゃない」

4ガンダムの種さん:2011/03/04(金) 17:09:00 ID:???
3Dカメラで撮ったおっぱいエロすぎw
すれ違いおっぱい@ともも
ttp://oppai.upper.jp


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