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穂乃果「天使と私の3日間」
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七月二十六日 部室
穂乃果「あーあ、やになるなぁ」
海未「だらけすぎですよ、夏休みに入って最初の部活なんですからもっと気合いを入れてください」
穂乃果「だってさぁ、夏休みだよ? お休みなのにこれから毎日朝から晩まで練習かと思うと」
ことり「あはは……分からなくもないけど」
海未「UTXの方々はきっともっと厳しい練習をしている筈です。後発でノウハウの無い私達が彼女達に追い付くには練習しかないんですよ」
穂乃果「んー、まぁそうだよね」
穂乃果「よしっ、やろっか!」
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海未「いやいや、まだ皆集まっていませんよ?」
穂乃果「先に始めちゃおうかと思ってさ」
ことり「うーん、私は待ったほうがいいと思うなぁ」
穂乃果「そう?」
ことり「だって皆より先に練習に入っちゃったら、体力が持たないよ」
海未「皆の体力を計算して練習メニューを作ってますしね」
穂乃果「ちぇー」
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穂乃果「待ってる間何かする?」
海未「宿題でもしますか?」
穂乃果「持ってきてないよ!」
ことり「私も流石に持ってきてないかな」
海未「持ってきたのは私だけですか……。二人に時間潰しの良い案が無いのなら、私は宿題してますけど」
穂乃果「初日から宿題なんて海未ちゃん凄いよねぇ。私には無理だよ」
海未「いえ、昨日の晩から始めていますが」
穂乃果「えっ?」
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海未「ここから練習漬けですよ? 少しでも片付けておかねば間に合いませんからね」
ことり「私もそう思って、昨日のうちに英語だけ終わらせちゃった」
穂乃果「えっ、えー……やってないの私だけ?」
海未「全く貴女という人は……」
ことり「お盆過ぎてからやり始める癖、治さなきゃね」
穂乃果「ぐぬぬ……返す言葉もない……」
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ガチャ
絵里「あら、三人ともおはよう」
希「随分早いんやな」
穂乃果「あっ、おはよう絵里ちゃん希ちゃん! 二人は宿題ってやり始めてる?」
絵里「宿題? 少しだけならやったけど」
希「ウチは数学終わらせたよ。苦手やから後に残すと面倒やしな」
海未「受験を控えているだけあって、やはり三年生はしっかりしていますね」
希「にこっちはどうなんか分からんけどね」
ことり「にこちゃんはー……やってなさそうな気がする」
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にこ「にこが何だって?」
ことり「うわっ、にこちゃん!?」
穂乃果「い、いつからそこに?」
にこ「今よ。絵里と希の後ろ姿が見えたから急いできたってのに」
絵里「宿題の話をしてたのよ。にこはやってあるの?」
にこ「宿題はぁ、勿論……まだ手を付けてないにこ」
穂乃果「ほら、やっぱり! それが普通なんだって!」
にこ「けど今日帰ったらやり始めるわよ? 私だって受験生なんだし勉強ぐらいするわよ」
穂乃果「裏切り者!」
にこ「あによ!」
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海未「現状宿題をやる気がないのは穂乃果だけみたいですね」
穂乃果「い、いや。私だって宿題はちゃんとやるよ? いつも最終日には間違いなく終わってるもん」
海未「それは私とことりが手分けして手伝っているからです!」
ことり「穂乃果ちゃん、いつも29日に泣きついてくるもんね」
希「宿題は今のうちからやっとかないと後で後悔するよ? 練習しながらってなると中々厳しそうやしな」
穂乃果「ううー、希ちゃんまでそんなこと言うー」
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ガチャ
凛「ほら真姫ちゃんかよちん急ぐにゃー!」
真姫「引っ張らないで!」
花陽「おはようございます……あぁ、やっぱり私達が最後かぁ」
にこ「三人一緒に登校なんて珍しいわね。待ち合わせでもしてたの?」
花陽「い、いえ。凛ちゃんと一緒に向かってたんですけど」
凛「たまたま真姫ちゃんを見かけて、一緒に走ってきたにゃ!」
真姫「時間配分を考えてたのに、全く無駄な体力を使ったわ……」
希「朝から元気やなぁ、一年組は」
絵里「いいじゃない、元気な方が」
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穂乃果「あはは、じゃあ皆揃ったし練習を……」
ふと、肌にぬるい風を感じた。ことりちゃんが窓を開けたのだ。
穂乃果「あれ、何で窓なんて」
ことり「じゃあ海未ちゃん、今日の練習メニュー発表して! 昨日二人で考えたんだよね」
ことり「楽しみだなぁ」
そんな風に、いつも通りに笑いながら。
ことりちゃんはゆっくりと、窓の外へと頭から落ちていった。
穂乃果「……え?」
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海未「……? あれ、ことりは何処に行ったんですか?」
希「さっきまで居たやんな、ことりちゃん?」
絵里「お、おち……ことり……」
凛「何で……」
視線を離していたせいで気付かなかった面々も、周囲の反応を見て事態が飲み込めたのか徐々に顔を青くしていく。
穂乃果「ことり、ちゃん……?」
震える足を引き摺るように、私は窓へと向かう。何かの悪ふざけかもしれない、そんな期待を込めて窓から外へと上半身を乗り出す。
赤黒い水たまりの中で、ことりちゃんの顔が潰れていた。
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ここまで
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あんたなかなか多作やな
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なんやこれこわっ
期待
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どういうことだってばよ
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なにしてんねん…
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穂乃果「う……」
穂乃果「ぉぇっ」
胃の奥から込み上げる吐き気に耐えきれず、せり上がってきたそれを吐き出す。
まだ痙攣していることりちゃんの腹に、私の吐瀉物がびたびたとかかるのが見えた。
花陽「きゅ、救急車ぁ!」
絵里「う、あ……ことり! 怪我をしているの!?」
言いながら絵里ちゃんが私の隣に来て、同じように窓の外を覗き込む。
絵里「駄目よ、ことり……そんな……」
絵里「なんで、飛び降りなんて!」
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希「言ってる場合やないやろ! 救急車や、誰か早く!」
希「ウチは保険室の先生……おるか分からんけど、呼んでくるから! 皆はことりちゃんのところに行って!」
その言葉に振り返ると、滲んだ視界の中で何処かに電話している真姫ちゃんの姿が見えた。
きっと病院に、救急車の手配をしてくれているだろう。
真姫「そう、音ノ木坂よ! 大急ぎでお願い!」
言って電話を切ると、部屋を飛び出していく。皆が出ていくのを見ながら、私もそれに続くように部室を出た。
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校庭
凛「これは……酷いにゃ」
部室を飛び出すのこそ真姫ちゃんが早かったが、ことりちゃんの元に最も早く到着したのは凛ちゃんだった。
凛「顔……ことりちゃんの頭、無くなっちゃった」
海未「嘘ですよね、ことり」
海未「わ、私は、そんな冗談、嫌いなんですよ」
ことりちゃんの身体はもう痙攣していなかった。ザクロのように割れた顔とはみ出した脳が、彼女の死を雄弁に物語っているようだった。
穂乃果「なんでこんなことになっちゃったの……?」
問いに、返事をする者は無かった。
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ふと走ってくる影が見えた。希ちゃんと、数学の男性教諭だ。
恐ろしい形相で走ってきた教諭は、白いものが混じり始めた髪を振り乱しながら此方へと向かってくる。手には何やら白い布が握られていた。
希「先生連れてきた……うう」
そして、二人は言葉を失う。
穂乃果「せ、先生。ことりちゃんが、ことりちゃんが」
口が震えて言葉が上手く出ない。教諭は小さく何事か、恨みのこもったような声で二、三度呟くとことりちゃんへ手に持っていた布をかけた。
保健室から持ってきたのだろうか、それは白いシーツだった。血を吸い、白が赤く染められていく。
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「何が起こった」
穂乃果「分かりません、突然窓を開けて、飛び降りて」
私の返事に、教諭はやはり小さく呟くと、手で目を覆い隠す。何かから逃げるような仕草だった。
「何故、理事長の娘が自殺なんて。とんでもないことだ」
そこでようやく私は気付いた。
教諭はことりちゃんの死を悼んでいるのではない。今後、学園に降りかかるであろう悪評におびえているだけなのだ。
「警察と、別の先生を呼んでくる。お前たちは部室に戻っていなさい」
そう言って教諭は小走りに学校の方へと戻っていく。私達はその言葉に従うように、部室へと重い足取りで戻っていった。
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海未「おかしいですよ、こんなの」
昇降口のガラス扉を開き、上履きについた土をはたいたところで海未ちゃんが消沈したように呟いた。
海未「ことりが、自殺なんてするわけがありません……悩みがあるなら私に相談してくれる筈です」
にこ「じゃああれは事故だって言うの? 自分から窓を開けて、頭から飛び込んでおいて」
海未「それは、その。分かりませんが……」
穂乃果「私もそう思うよ。ことりちゃんが自分で死ぬ筈ないもん」
ようやく靴の土や埃をはたき終わった私も、その会話に加わる。皆不安そうな顔をしていた。
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絵里「けれど、実際にことりは窓から飛び降りたのよ?」
希「ウチらも考えたくはないけど、実際に起こってもたことは……」
違う、そういうことじゃない。私はゆるゆると首を振る。
凛「穂乃果ちゃんも事故だって思うの?」
穂乃果「事故かは分からないけど、絶対に自殺じゃないってことは分かるよ」
にこ「あによ、探偵気取り? 人が死んでるのよ。それとも私達には分からない何かがあるわけ?」
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穂乃果「うん、にこちゃん達や、凛ちゃん達が知らないことだもん」
花陽「私達が知らないこと……?」
穂乃果「うん、海未ちゃんも分かるよね?」
海未「ことりが死んだ理由……私には見当も付きません」
私は頭を掻く。根拠が単純すぎて、逆に盲点になっているのかもしれない。
穂乃果「朝、私と海未ちゃんとことりちゃんしかいない時に宿題の話をしたでしょ?」
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海未「ええ、しましたが……ああっ!」
海未ちゃんが頓狂な叫び声をあげる。気付いてくれたみたいだ。
にこ「な、何よ。二人だけで納得してないで説明しなさいよ」
希「朝の会話がどうしたんや?」
穂乃果「朝、ことりちゃんは昨日英語の宿題を終わらせたって言ったんだよ」
絵里ちゃんと真姫ちゃんが、息を呑んだ。きっと私の言いたいことが分かったのだろう。構わず、私は続ける。
穂乃果「今日自殺する人間が、夏休みの宿題なんてやるわけないじゃん」
シンとした校内に、私の声だけが妙に響いていた。
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ここまで
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おおい!気になるやん?
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凛ちゃんが怖すぎる
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穂乃果が冷静で怖い
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ハノケェ
期待
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絵里「それって……つまり、どういうことなの?」
絵里「穂乃果はあんなあからさまな行動が偶然だって言いたいの?」
穂乃果「だって……そうとしか考えられないよ。普通、自殺をする前日に宿題なんてしないもん」
ふと唇に痛みを感じた。乾燥した皮が僅かにひび割れたようだ。冬でもないのに、と私は唇を舐める。
濃縮された血の味がした。
花陽「じ、自殺だから……宿題をした、とか」
ぼそりと、誰にも伝えようとしていないかのようなか細い声で花陽ちゃんがそう呟いた。
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一同視線が怯えた少女を捉える。花陽ちゃんは皆に見られていることに気付くと、鏡を見た蝦蟇のように青くなった額から大筋の汗を垂らした。
花陽「う、えと、あの」
海未「……続きは部室でしましょう。理事長に聞かれでもしたら、不謹慎では済みません」
海未ちゃんの言葉に皆夢から覚めたようにのろのろとその場から移動を始める。
表面張力のようだ。と私は思った。
触れれば壊れてしまう、気を紛らわせていなければ溢れてしまう。私も含めて皆、限界だった。
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部室
花陽「……」
部室に着いたところで、誰も口を利かなかった。今も開いた窓の外からは、理事長のものらしき甲高い泣き声が絶えず聞こえてくる。
皆が普段の位置に着いた部室の中を見回して、私達は改めてことりちゃんがいないということを認識した。夢でもなんでもない、彼女は頭を潰して死んだんだ。
花陽「あの……さっきの、話、ですよね」
意を決したように、花陽ちゃんが口を開く。
花陽「わ、私は、いえ……えっと。私の考えというか、私だったらこうする、っていうか……」
真姫「花陽、落ち着きなさい。考えを纏めてからでもいいから」
疲れた声だった。見れば真姫はぐったりと、普段以上に椅子にもたれかかっている。医者の娘とはいえ人の死には慣れていないようだった。
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花陽「えっと、仮に私が自殺するとします」
凛「えっ?」
花陽「あ、ううん仮だから……私が明日自殺するとしたら、今日はきっと普段と同じように行動すると思うんです」
海未「普段と同じ、ですか?」
花陽「はい。いつも通り凛ちゃんと学校に行って、いつも通り授業を受けて、いつも通り部活をして、いつも通り帰って宿題をして……そして、自殺を」
花陽ちゃんの話を聞いて、些か疑問が湧いた。自殺者が普段と同じ行動をするなんてことがあるのだろうか?
私なら学校は休んで貯金を降ろしてケーキバイキングにでも行くし、間違いなく宿題なんてやらない。
希「んー……確かに、聞いたことあるな」
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穂乃果「え? 何を?」
希「いや、ネットのニュースか何かで見たんやけど……まぁ世の中広いし色んな人が居るとは思うんやけどな? 自殺をする人って、学校や職場なんかでいつもと同じように振る舞うらしいんよ」
希「だから自殺が出ると、周りの人は口を揃えて自殺するとは思わなかったって言うらしいんや」
穂乃果「じゃあ、ことりちゃんは自殺をすることを分かった上で、普段通りの行動をしてたってこと?」
希「まぁ、そうなるな……」
吐き捨てるように言って、希ちゃんは頭を掻いた。何で気付けへんかったんや、そんな後悔の言葉が口から零れ落ちる。
真姫「そうよね、本当……自殺なんて」
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真姫「悩みがあるのなら相談してくれたら……私だって、助けになれたかもしれないのに」
悲しそうに言いながら、真姫ちゃんは鞄を漁っている。帰る用意をしているのだろうか。
実際、今日は練習どころじゃないのだから警察が来たら事情聴取をして帰るのだろうけど。それにしても早すぎだ。
穂乃果「真姫ちゃん、まだ警察も来てないし流石に……」
真姫「別に帰る用意をしてるわけじゃないわ、ちょっと探し物よ。中々見付からなくて」
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凛「よかったら凛も一緒に探すけど。こんな時に何を探してるの?」
真姫「ああ、大丈夫。これよ」
言いながら真姫ちゃんが鞄から取り出したのは、カッターナイフだった。
美術の授業で使うので、それが鞄に入っているのは何もおかしくはない。私だって、海未ちゃんだって、にこちゃんも凛ちゃんもきっと鞄に忍ばせているだろう。
問題は。
そう、問題は。
何故カッターナイフを、今出したのかだ。
にこ「凛! 真姫を押さえつけて!」
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にこちゃんの怒号が飛んだのと、真姫ちゃんがキチキチと出した刃で喉元を掻き切ったのはほぼ同時だった。
首筋から吹き出た大量の血液に、きょとんとした凛ちゃんの顔が染められていく。
絵里「え……?」
にこ「ちょ、嘘……止血! 早く! 頸動脈切れてるわよこれ!」
にこちゃんの言葉に、近くに居た凛ちゃんが手で真姫ちゃんの首を押さえる。目の中にも入ったのか、薄目を開けて血に染まった凛ちゃんが首を掴んでいる様子は、まるで出来の悪いスプラッタ映画のようだった。
海未「真姫!? な、なんで……何でこんな!」
医療箱の中から取り出したガーゼで海未ちゃんが凛ちゃんに加勢する。真姫ちゃんは色のない濁った目で、ゴボゴボと喉の奥から血の塊を吐き出していた。
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希「有り得ん……こんなのおかしいって……」
絵里「真姫まで……ことり一人でも限界なのに、真姫、まで」
花陽「あ、あ、うわ、う、あ! わ、私、せ、先生!」
焦りからか吃音気味に単語単語で発しながら、花陽ちゃんが部室を飛び出していく。
私はというと、現実離れした目の前の光景に精神がついていかず、ただボロボロと涙を零していた。何も、出来ることがない。何も、思い付かない。
ことりちゃんの死も、真姫ちゃんが首を掻き切ったことも、もう何も考えたくなかった。
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二人して抑えていても血は止まらず、真姫ちゃんの顔色は青いを通り越し今や土気色に染まっている。
既に意識は無いようで、すぐにでも輸血をしないと、いや、輸血をしたところで助かるのかすら分からなかった。
希「あんなに、血が出るわけないんや。自分で切ったって」
何も聞きたくないと言わんばかりに耳を抑え、机に顔を伏した希ちゃんはうわ言のようにそう繰り返している。気が狂ってしまったのかもしれない、そんなことすら思った。
それから五分ほど経ち、先生が飛び込んできた頃にはもう全てが終わっていた。
真姫ちゃんが生きていく為に必要な血液は流れ落ち、彼女の顔色は物言わぬ蝋人形のように真っ白く染まっていた。
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ここまで
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自殺サークルを思い出した
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バッドエンドしか見えないんだけど
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帰り道
何も覚えていない。何も思い出したくない。
血に染まる布も、誰かの怒号も、何も何も思い出したくはない。
ことりちゃんと真姫ちゃんの死体も。
皆も同じ気持ちだったのだろうか、警察の取り調べともつかない形式的な質疑応答から解放された皆は一様に黙りこくっている。
太陽に熱された道路が、じわじわと気だるい身体を蝕んでいく。
凛「ねえ、希ちゃん」
蝉時雨を割るように口を開いたのは、凛ちゃんだった。
凛「さっき言ってたことなんだけど」
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希「ん……さっき言ってたこと、って?」
凛「ほら、あの……」
一瞬、言い淀む。その時点で、何を言いたいのかは分かっていた。
きっと真姫ちゃんが死んだ時に、希ちゃんが言ったあの言葉だ。希ちゃんもそれに気付いたのか、凛ちゃんに先を言わせることを無く、答える。
希「ああ、うん。あれか、少し前に見たことがあるんやけど……って言っても、これも推理小説やったか刑事ドラマか何かでなんやけど」
希「自分で首を切っても、やっぱり人間躊躇うみたいなんよ。頸動脈なんて中々届かへん、だから何回か切り付けて躊躇い傷が残るって」
にこ「……それ、真姫が躊躇わずに首を切ったって言いたいわけ?」
希「いや、そういうわけじゃ……ううん、そういうことになるんかな。事実、頸動脈に届いてたみたいやし」
私の頭に、取り調べの際警察官が言っていた言葉が蘇る。
珍しいね、一度で頸動脈を切るなんて。
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今思えば、あれは疑われていたんじゃないだろうか。躊躇い傷の無い殺意に溢れた死体から、私達が真姫ちゃんを殺したんじゃないかと。
しかしこれほど早く解放されたからには、結果的に真姫ちゃんの死も自殺として処理されたのだろう。
穂乃果「自殺……」
小声で呟くと、隣にいた海未ちゃんが私を睨んだ。そんな言葉を呟くんじゃないとでも言いたげな視線だった。
絵里「もういいでしょ……皆、疲れてるのよ。何か話すにしても、明日にしましょ」
枯れた声で言う絵里に、私達は無言で頷く。今の私達に必要なのは、死を悲しめるだけの回復だった。
花陽「そ、それじゃ……私達、こっちなので」
おずおずと、花陽ちゃんが呟く。凛ちゃんと花陽ちゃんと別れる形で、私達はまた歩き始める。
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背後で、大型の車がブレーキをかける音がした。
続いて、嫌な音。気分が悪くなるような、本当に嫌な。
肉が潰れる音がした。
骨が割れる音がした。
臓腑が弾ける音がした。
凛「な、なんでっ! 嫌だぁ! かよちん……どうして!?」
穂乃果「嘘だ」
自然と、言葉が出た。背後で何が起こってるのか、今の音と凛ちゃんの叫び声で分かっていた。
海未ちゃんが振り向く姿が、横目で見えた。その表情が青く染まり、蹲っていくのも。遅れて吐瀉の液体音がびちゃびちゃと道を染める音が聞こえる。
穂乃果「嘘だよ、こんなの」
もう一度言って、私は目の前に向かって駆け出した。もう一秒たりともここに居たくはなかった。
私を呼ぶ声と、凛ちゃんの嗚咽を背中で受け止めながら、私はただただ家へと走り続けた。
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店の中では、お母さんがお客さんに接客をしている最中だった。けれどそんなものには構わず、走って店舗を抜ける。
後ろでお客さんに謝っている声が聞こえたけれどそんなことを気にしている余裕はない。
部屋に飛び込み、服も着替えずベッドの中に入り布団に包まる。
学校でシャワーをした筈なのに――服にまで血がかかっていたから練習着にまで着替えたのに――真夏のせいか、既にわずかに汗ばんでいる。
不快さの中で、私は無理やり目を瞑る。
穂乃果「夢だよね。こんなの全部、夢に決まってるよ」
鞄の中で震え続ける携帯を無視し、私は目を瞑り続けた。そして、そのまま。
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七月二十六日は、幕を閉じた。
ことりちゃん、真姫ちゃん、花陽ちゃんの三人を亡くしたこの日が、終わった。
そして、七月二十七日が幕を開ける。
当たり前のように、カレンダーは進んでいく。
穂乃果「……あ」
目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。もう夜なのだろう、私は寝ぼけた頭で考える。
嫌な夢を見ちゃったなあ、三人が死ぬなんてそんなことあるわけないのに。そんなことを考えながら私は壁沿いに歩き、電気のスイッチを着ける。
そして、下を向く。着ていた服は、汗を吸い重くなった練習着だった。足に力が入らず、私はその場にへたり込んだ。
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短いけど今日はここまで
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穂乃果「何で……」
穂乃果「何で死んじゃったの……?」
穂乃果「皆、自殺するような子じゃないのに……」
穂乃果「……」
穂乃果「トイレ、行こう」
わざとそう呟いて、溢れ出る涙を拭いながら私は立ち上がる。
部屋の扉を開けると、廊下にサランラップのかかった食事が置かれていることに気が付いた。
よく考えれば昼も夜も食べていない。にも関わらず、お腹が空くどころか胃が締め付けられるようで何かを食べたいとは思えない。
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穂乃果「雪穂達、心配してるかな」
ことりちゃん達の死は、既に耳に入っている筈だ。だからこそこんな夜中まで眠っていても起こされなかったのだろう。
穂乃果「……はぁ」
一瞬迷った後、私はトイレに向かった。
済ませ部屋に戻る際に、食事を載せたトレイを部屋に入れる。食べる気は起こらなかったけれど。
机に起き、またベッドに寝転がる。
穂乃果「それまで、自殺なんて一言も言わなかったよね」
穂乃果「それなのに何で急に、それもあんな当たり前のように……?」
穂乃果「皆、どうしてるかな」
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鞄の中に入れっぱなしだったスマートフォンを取り出す。
緩慢な動作で電源ボタンを押し画面を付ける。
穂乃果「えっ……?」
そこに表示されていた文字に、私は息を呑んだ。
着信85件、グループラインの通知が280件。
着信はその全てが、μ'sの皆からのものだった。
穂乃果「海未ちゃん……40回も電話してたんだ」
深夜ということも厭わずに、思わず電話をかけ直す。三コールもしないうちに、海未ちゃんは出てくれた。
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海未『穂乃果!? よかった、生きてたんですね!』
穂乃果「う、海未ちゃん? ごめん、眠ってて……」
海未『眠って……はぁ、心配しましたよ。穂乃果までことりのように』
海未『……ことりのようになってしまったら、と思うと怖くて』
穂乃果「うん……ごめんね」
海未『今のμ'sは、少しおかしくなっているのかもしれません』
海未『昨日だけで3人も自殺をしてしまいました。これが偶然とは、思えないんです』
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穂乃果「偶然じゃないって……ことりちゃんも真姫ちゃんも花陽ちゃんも、何か示し合わせて自殺したってこと?」
海未『……考えたくはありませんが』
海未『しかし、偶然の事故ならばともかく……ことりは事故かもしれませんが。真姫は確実に自ら首を切りました』
海未『そして花陽も、凛が言うには迫ってくるトラックを見て笑顔で車道に飛び出したそうなんです』
海未『……わざわざ、自分が歩いている方とは反対車線に』
穂乃果「……」
海未『だから不安なんです。私は間違いなく自殺はしません、しかし、しかし……』
海未『もし私以外の皆が死んでしまったらと思うと、不安で仕方ないんです』
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穂乃果「海未ちゃん……」
海未『真姫は死んでしまいました、花陽も死んでしまいました』
海未『そしてことりも、死んでしまいました……』
海未『もう誰にも死んでほしくないのに、また誰か死ぬんじゃないかと疑ってしまうんです!』
穂乃果「……私は」
海未『穂乃果……』
穂乃果「私だって、自殺なんかしない。絶対に、死なないよ」
穂乃果「それに他の皆も、私は信じたい。もし死にそうになったら、止めればいいんだよ」
海未『止める……?』
穂乃果「うん、自殺なんかもう……誰にもしてほしくなんかないもん」
穂乃果「こんなに悲しいのは、もう嫌だよ」
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海未『止める……そうですよね、止めればいいんです』
海未『穂乃果、朝になったら皆で集まりましょう。目が届かないところで自殺をされては止めようがありませんし』
穂乃果「うん、分かった。皆には……」
海未『グループラインをしておきましょう。……と、穂乃果も書き込んでおいてください。皆心配していましたので』
穂乃果「了解、じゃあ海未ちゃんバイバイ……その、ありがとうね」
海未『いえ、私の方こそありがとうございます。それでは、また朝に』
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電話を切ってすぐ、私はラインの画面を呼び出す。個別ラインも沢山来てはいるものの、やっぱり目を引くのは履歴200を超えているμ'sのグループライン。
しかも最後に書かれたのが「穂乃果ちゃん……」なのが更に不安を煽る。
しかしすぐにその文字は消え、一件の新規通知と共に「穂乃果から連絡が来ました」の文字が現れた。
穂乃果「皆ごめんね、眠ってたよ。と」
そう書き込むと、まだ皆起きていたのか一斉に返事が飛んでくる。安堵している声や、心配かけさせるなと怒っている声を見ると、自然と申し訳無さで気分が沈んでしまう。
穂乃果「海未ちゃんが集合かけてくれたし、朝まで寝ようかな……」
スマートフォンを閉じ、誰にでもなく言う。寝ている瞬間だけ、全てを忘れられることに気付いたからなのかもしれなかった。
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眠りに落ちる瞬間、机の上の食事を思い出した。
折角作ってくれたんだから一口でも食べなきゃ、そんな思いとは裏腹に思考に霧がかかっていく。
穂乃果「ふぁ……」
小さな欠伸と共に、私は眠りに落ちた。
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七月二十七日
早朝 海未の家
穂乃果「すいませーん」
海未「ああ、穂乃果。おはようございます」
穂乃果「おはよう、海未ちゃん。皆は……?」
海未「大丈夫です、穂乃果が最後ですよ。もう皆揃っています」
穂乃果「良かった……海未ちゃんのお母さん、よくオッケーしてくれたね」
海未「ことりの葬儀が明後日って連絡が来ましたよね。それまでは皆で死を悼みたいと伝えたら、許可してもらえました」
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穂乃果「……けど、何でことりちゃんの葬儀明後日なんだろう?」
海未「斎場の日程とか、友引とかあるのでは?」
穂乃果「うーん……お通夜も何も聞いてないんだけど」
海未「家族と一部の人だけでやるそうです。どの道私達は……呼ばれませんよ」
だろうね、と私は相槌を打つ。今日の朝、既に私はお母さんから聞いているんだ。
ことりちゃんのお母さんが、ことりちゃんが死んだのは私達のせいだって思ってるみたいだってこと。
状況的にはそう思われても仕方ないのかもしれないけど、少しだけ悲しかったなぁ。
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海未ちゃんの部屋に入ると、8つの目が私の方へと向いた。皆、禄に眠れなかったのか目の下に酷いクマが出来ているのが見える。
夢の世界に逃避したのは、私だけみたいだった。
にこ「遅かったじゃない……昨日ぐっすり寝てたあんたが一番遅いってどういうことよ」
穂乃果「ごめん……寝坊しちゃった」
希「……なぁ海未ちゃん。本当にウチの家じゃなくて良かったん? 一人暮らしやから気兼ねせんでええのに」
海未「いえ、一応私にも考えはありまして……我が家の道場には、お弟子さんが毎日練習に来ているんですよ」
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海未「なので、誰かが自殺しそうになったらいざという時は力を借りようかと」
絵里「あぁ……人間、タガが外れると予想外の力を発揮するっていうわよね」
海未「えぇ、考えたくはないですが、保険をかけておくにこしたことはないですし」
穂乃果「……そういえば、凛ちゃんは何か聞いてる? 真姫ちゃんと花陽ちゃんのことで」
凛「……」
穂乃果「凛ちゃん?」
凛「にゃっ!? え、あ、なに?」
穂乃果「ご、ごめん。真姫ちゃんと花陽ちゃんのお葬式とか、何か聞いてないかなって」
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今日はここまで
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おつ
どうなるんだろうか
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おつ
-
凛「凛は、えっと……何も」
海未「凛、目が泳いでいますよ。何かを隠していませんか?」
絵里「何かあったの?」
凛「あの、その。皆、信じてくれるか分からないんだけど」
凛「凛ね、昨日帰ってから……お母さんに聞いたんだけど」
凛「真姫ちゃんの家の人と、花陽ちゃんの家の人……その、皆」
そこまで言って、凛ちゃんは黙り込む。額から流れる冷や汗が、居心地の悪さを感じさせた。
凛「自殺、したって」
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希「は……?」
その場の空気が固まるのが、分かった。ドロドロとした世界が、黒い液体が、視界の奥を満たしていく。
穂乃果「なに、言ってるの……?」
穂乃果「皆、自殺したって。そんなこと、あるわけ」
私が言い終わる前に、海未ちゃんが部屋の外へと飛び出していくのが見えた。
きっと、ことりちゃんの家に電話をしにいったんだ。言葉には出さずとも、皆分かっていた。
もう誰も、当の本人の凛ちゃんすらも何も言おうとはしない。私達はただ静かに、海未ちゃんが戻ってくるのを青ざめた顔で待ち続けた。
-
電話をして、確認をして、戻る。
それだけの作業に何時間もかかるわけはない。きっと数分もかからず海未ちゃんは戻ってきたんだと思う。
けれどそのほんの僅かな時間が、何時間にも、何十時間にも感じられた。
海未「ことりの家に電話をしてきました」
穂乃果「どう、だったの?」
海未「ことりの家には異常は無かったみたいです。ことりのお母さんが出まして」
海未「やはり生徒が死んだことで忙しいのか声に焦りはあったものの……特に異常がありそうな雰囲気はなかったですね」
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おつ
少しずつでも更新あって嬉しい
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穂乃果「そっか、良かった……」
そう言葉を返しながらも、頭の中ではある疑問が晴れることなく渦巻いている。
花陽ちゃんと真姫ちゃんの両親が死んだ、それは凛ちゃんの言葉を信じるのならば事実だ。
だけど、そうなると。
つまり、そうなると。
この自殺の連鎖は、私達メンバーだけに限ったものではないということになる。
にこ「嘘でしょ……」
小さく呟くにこちゃんの肩は、震えているように見えた。
-
穂乃果「や、やっぱり……おかしいよ」
穂乃果「だってそうでしょ? 凛ちゃんの聞き間違いだよ……人はそんな簡単に自殺なんてしないよ」
絵里「……もう、三人死んでるのよ」
吐き捨てるような声だった。鉄の塊を飲み込んだように胃に重く響くような、暗い音。
穂乃果「そんなの、そんなの私だって!」
穂乃果「……分かってるよ」
全てが狂ってきている気さえした。ほんの些細な歯車のズレが、もう取り返しの付かないところまで行き着いてしまっているような、そんな気分のまま私は周りに視線をやる。
希ちゃんが眼球にボールペンを突き刺している姿が見えた。けれどもう、それだけだった。
-
絵里ちゃんが叫ぶ声が聞こえた。にこちゃんと凛ちゃんが飛びついて腕を抑える姿も見えた。海未ちゃんは誰かを呼んでいるようだった。
その全てがスローモーションのように、くっきりと確認できた。
穂乃果「……」
希ちゃんはもう助からないだろう。私が見たときにはボールペンが埋まるくらいに、深く突き刺さっていたのだから。
目の奥に脳があることくらい、私だって知っている。
だから希ちゃんはあんなに痙攣しているんじゃないか。
穂乃果「はぁ……」
海未「何をしているのですか!? ほ、穂乃果も希を!」
-
穂乃果「もう、いいじゃん」
海未「な、何を……」
穂乃果「私達だけじゃないんでしょ、これ。次々に人が自殺していってるんでしょ?」
勝手知ったる他人の家、私は皆を尻目に机の上のリモコンを取り、未だブラウン管の小型テレビを付けた。
ぶつん、とスイッチの入る音と共に発色の悪い映像が入る。
変えるまでも無く、チャンネルは公共放送に接続されていた。海未ちゃんらしい。
海未「穂乃果……貴女は何を……」
-
穂乃果「ニュースになってるかもしれないじゃん、自殺者が急増してたらさ」
海未「今はそんなことを言っている場合じゃ……ああ、何故誰も来ないんです!」
海未「病院に電話をしてきます! 救急箱は戸棚に入っていますので、応急処置を!」
穂乃果「応急処置って……」
希ちゃん、もう動いてもいないのに?
絵里「嫌……何で……」
にこ「……」
皆もう諦めてるよ。希ちゃんはもう死んじゃったんだって。
なのに応急処置? 何を処置するの? 死化粧でもしてあげる?
穂乃果「……もう、どうでもいいよ」
-
気になるから頑張って最後まで書いてくれ
-
テレビから聞こえてくるニュースの声は、動物の赤ちゃんが生まれた、なんて日常風景のものばかりだ。
自殺になんてこれっぽっちも触れてはいない。
まるで最初から何も起こっていないみたいに。
穂乃果「……」
ポケットに入れていたスマートフォンを抜き取り、検索画面に「自殺」と打ち込む。
説教じみたサイトに混じって、有名まとめサイトが検索一覧に入っていた。
-
『【悲報】世界終了のお知らせwww自殺者が昨日から急増してるらしいぞ!』
タイトルをタップしサイトを開くと、何処かから引っ張ってきたのであろうネットニュースの記事と共に、掲示板のレスやSNSの書き込みがずらりと並べられていた。
そのどれもが、この異常現象に言及するものだった。
私は無言で、サイト上部のバナーをクリックする。昼でも夜でも数十分に一度は記事更新をしていた管理人が、六時間ほど前からもう新たな記事を書いていなかった。
穂乃果「……はは、あはは」
知らず、笑いが漏れていた。
現実だったんだ。
私達だけじゃない。
私達の周りだけじゃない。
世界中が、突発的に多発した自殺に侵されていたんだ。世界終了。煽動で付けられたのだろうそんな文句が、頭にこびりついて離れなかった。
-
にこ「……」ユラッ
私が笑うのと、にこちゃんが立ち上がるのはほとんど同時だったと思う。
救急箱を取りに行くのだろう。そんな考えは裏切られ、疲れ切ったような顔でにこちゃんはふらふらと、覚束ない足取りで部屋の外へと向かっていく。
凛「何処、行くにゃ? 希ちゃんを何とか……しなきゃ」
にこ「帰る」
口調だけはいつも通りぶっきらぼうに、けれどいつもとは違う死人のような顔色でにこちゃんは言う。
にこ「妹達を、守らなきゃ」
-
絵里「……」
にこ「絵里、あんたも。亜里沙ちゃんが死ぬ前に何とかした方がいいわよ」
凛「け、けど……海未ちゃんが」
にこ「凛も、穂乃果もよ。家族の側にいた方がいいわ」
それだけ言うと、にこちゃんはもう伝えることは何もないと言わんばかりに部屋を出ていく。
後には黙りこくっている絵里ちゃんと、おろおろと所在なさげにしている凛ちゃん。
そして、もう役に立たない私だけ。
凛「えっと、あの」
凛「海未ちゃん、遅いにゃ。病院、いっぱい電話来てるのかな」
希ちゃんの目から垂れ続ける血をハンカチで抑えながら、凛ちゃんが言う。凛ちゃんも壊れ始めている風にも思えた。
-
穂乃果「希ちゃん、どうなの?」
分かっていながら、あえてそんなことを聞くことの意味は多分何もなかった。
凛ちゃんはびくりと身体を震わせ、自身が押さえつけている彼女を見やる。
凛「の、希ちゃんは……あの、ね……」
凛「ひぐっ、もう駄目、みたい。ごめん……凛、止められ、ううっ」
凛ちゃんの目から大粒の涙が溢れた。私はそれを作業のように確認して、立ち上がる。
穂乃果「海未ちゃんの様子、見てくる」
返事は無かった。
-
海未「……」
海未ちゃんの部屋から、電話までの距離は大したものではない。
だから凛ちゃんもあんな風に推理をしたんだろうし、病院側が電話を取れないほど忙しいのだと勘違いをしたのだろう。
けれど実際のところは海未ちゃんは電話なんてかけてはいなかったし、言ってしまえば電話に辿り着いてすらいなかった。
穂乃果「……」
部屋から出て少し行った場所、記憶が正しければ両親の私室と言っていた場所の前で海未ちゃんはへたり込んでいた。
空いた扉の中から、廊下に飛び散るように僅かに赤い点々が拡がっている。
嫌な胸騒ぎなんて覚えもせずに、お決まりの展開をなぞるように私は海未ちゃんの側に近付き部屋の中を覗き込む。
-
海未ちゃんのお父さんとお母さんが、部屋の中で死んでいた。
切腹でもしたのだろうか、床に横たわるお父さんの腹は真一文字に切り裂かれはみ出した臓器と共に血が流れ出ている。
それでも死にきれなかったようで、首を切りつけたような跡が見られるのが生々しかった。
お母さんの方は幾分大人しく、天井の梁に縄を通し首を括っている。弛緩した下半身から垂れた糞尿が下を濡らしているのは、仕方のないことだろう。
希ちゃんの血を嗅いでいたせいで一瞬気付かなかったが、部屋からはむせ返るほどに血と死の臭いが漂っている。せり上がってくる酸っぱいものを飲み込み、海未ちゃんを見る。
海未「……」
私が隣に立ったことにも気付いていないのか、海未ちゃんは部屋の中を呆けたように見続けている。ニ、三度肩を叩くと、ようやく悪い夢から覚めたように額から僅かばかりの汗を流しつ、此方を向いた。
-
海未「いきて、たんです」
それは普段の海未ちゃんからは到底想像もできない、幼い子供のような話し方だった。
海未「おとうさんも、おかあさんも、さっきまでいきてたんです」
海未「はしるところぶよ、っていってくれたんです」
穂乃果「海未ちゃんが戻ってきて、すぐに死んじゃったんだね」
海未「……」
穂乃果「にこちゃん、これ見て素通りしたんだね……」
穂乃果「ねぇ、海未ちゃん。私も帰ろうと思うんだけど、海未ちゃんはこれからどうする?」
-
海未「どう、って」
穂乃果「このままここにいる? 絵里ちゃんと凛ちゃんはどうするか分かんないけど、二人も多分そのうち帰ると思うよ」
海未「だって、わたしは……私は皆を集めて、自殺しないようにって」
穂乃果「にこちゃんも家族を守るって、帰っちゃったし……その時、皆も家族のところにいた方がいいって言っちゃったからね」
穂乃果「遅かれ早かれ、皆家族の所に行くと思うよ。家族が死んだときに止められるようにとか、どうせ死ぬなら家で、みたいな理由で」
海未「家族……私の家族は、わたしの、かぞくは……うあああっ!」
泣き出した海未ちゃんに背を向け、私は一旦皆がいる部屋に戻る。帰るにしても、海未ちゃんを呼ぶと言って出たからには現状を伝える必要があるからだ。
この声でもう、察しはついているかもしれないけれど。今にも凛ちゃんか絵里ちゃんが、扉の向こうから顔を出すかもしれない。
-
開けっ放しにしていた扉から中を覗き込むと、絵里ちゃんの首がおかしな方向に折れ曲がっているのが見えた。
きっと、自分で曲げたんだろう。自分の首って自分で曲げられるものなんだ、そんな風に思いながら凛ちゃんはどうしているのかと視線を送る。
凛ちゃんは机に突っ伏して、耳を塞いでいた。目からは絶えず涙を流しながら、いやいやでもするようにかぶりをふっている。
穂乃果「凛ちゃん、ねぇ、凛ちゃん」
肩を揺さぶると、チック症のように瞬きを何度もしながら、凛ちゃんが此方を怯えたように見た。
凛「ほ、穂乃果ちゃん。り、り、凛はね、も、もう無理だよ」
凛「耐えられない、こんなの無理だよぉ!」
穂乃果「凛ちゃん……そっか、限界なんだね」
-
私が呟くと、凛ちゃんは耳を抑えていた手を外し私の肩を掴む。指が肩の肉に食い込み、思わず顔を顰めてしまった。
凛「逃げようよ、穂乃果ちゃん! 凛はもう嫌だ、皆が死ぬところなんて見たくないし、凛も死にたくないよぉ!」
穂乃果「逃げるって?」
凛「皆が自殺するのはこの街だけかもしれないにゃ!? だから、街から出て何処かへ行こうよ! 海未ちゃんも廊下で泣いてるんでしょ!?」
凛「三人で、何処かへ……!」
穂乃果「そっか、凛ちゃんはまだ知らなかったんだね」
凛「え……?」
穂乃果「この現象、世界中で起こってるみたいなんだ」
-
凛「世界中、で……?」
穂乃果「うん、ほら見てよこれ。書いてるでしょ?」
私が取り出したスマートフォンを凛ちゃんは奪い取るようにして、書かれている文字列を眺める。
一度では理解が追いつかなかったのか、再々にわたり視線を上下にやってようやく、
凛「け……えぁ……」
声にならない声と共に、凛ちゃんはスマートフォンを取り落とした。ゴッと鈍い音と共に、スマートフォンの角が欠け床にへこみを作り出す。
穂乃果「あっ、ちょっ! 割れてないよね!?」
穂乃果「危ない……セーフだったよ。もー、凛ちゃんいきなり落とさないでよ。スマートフォンって高いんだよ?」
凛「あああああっ!」
私の苦情は凛ちゃんの耳に届かなかったのか、それとも無視をしているのか、凛ちゃんは獣のような雄叫びをあげると空いた扉から尋常ではない速度で何処へやら走り出ていく。
限界まで張り詰めていた糸が切れ、狂うてしまったのだろう。私にわかるのは、ただそれだけだった。
-
今日はここまで
-
待ってた
-
凛ちゃんの叫び声が聞こえなくなるまで、私はその場から一歩も動かなかった。
廊下から響き渡っていた声が遠くなり、辺りに静寂が戻ったところで。
ゆるやかな時間が流れて。
ゆるやかな。
ゆるやかな時間が。
首がへし折れ、薄く開いた唇から一筋の血を流している絵里ちゃんを見た。
眼球が貫かれ、血だまりの中に沈んだ希ちゃんを見た。
穂乃果「おやすみなさい」
二人にそう声をかける。返事が無いことは理解していた。意味が無いことも理解していた。
私は首筋を軽く撫で、部屋から出る。海未ちゃんはまだ呆然と両親の部屋の中を見ていた。
-
穂乃果の家
穂乃果「ただいま」
帰宅ついでに道路を見てみても、行き交う車や人々は「時間帯」なんて言葉では言い表せないくらいに昨日よりも減っていた。
普段の半分くらいだろうか? 三分の一、程度かもしれない。
歩きスマホは悪いと思いつつも、人通りの少ない道をスマートフォン片手に歩く。当たり前のように、今は日常の最中とでも言いたげに異常自殺のニュースは何も出ていなかった。
穂乃果「……ただいま」
そして、今。
私は家にいる。我が家に。穂むらの店先にいる。
暗雲立ち込める先行きとは裏腹に、実に安穏とした光が店内を明るく照らしおはぎの艷やかさを一層押し上げている。
しかしそんな店内には、普段ならこの時間でも一人二人はいるお客さんが、一人もいない。
-
そんなことはどうでもいい。
どうせ客も自殺のせいで減っているんだろう。
問題は。
そう、問題は。
穂乃果「……」
店内に誰一人として人間がいないことだった。
客がいない時でも、急な来店に備えお母さんは常にカウンターの向こうに立っていた筈だ。
少々場を離れるにしても、姿は入り口からすぐに見えるように、または入り口の開く音、足音ですぐに向こうから顔を出す筈なのに。
その、筈なのに。足を踏み入れても、ただいまと声をかけても。奥から誰も出てこない。
-
穂乃果「まさか……」
私の胸を妙な胸騒ぎが襲わなかった。
起こってしまったのであろう事実を事実として、私の心は淡々と飲み込む。騒ぐほどのことでもないと、脳が処理する。
穂乃果「お父さん、お母さん? 雪穂? 生きてるなら返事してよ」
言いながら私は靴を脱ぎ、店と繋がった廊下へと足をかける。
古木造りに艶塗りの廊下を軋ませながら進むと、ふと生臭い臭いが鼻をついた。
穂乃果「あー……」
気付いてしまえば途端足が重くなる。身体に気怠さも満ちる、頭は垂れて下を向く。
穂乃果「……」
結局のところ私は、決定した家族の死に向き合えるほどには心が壊れていなかった。
-
穂乃果「……」
毎日愚痴一つこぼさず和菓子を仕込み、普段は無口なのに私がテストで良い点を取ったときは嬉しそうに頭を撫でて褒めてくれるお父さんが好きだった。
怒ってばかりだけど、私の事をたくさん愛してくれて、私の話を楽しそうに聞いてくれるお母さんが好きだった。
喧嘩も多かったけれど、それでも最後には折れて仕方ないなぁって笑って、一緒にテレビを見たり遊んだり笑ってくれる雪穂が好きだった。
穂乃果「……いや、だ」
穂乃果「嫌だ!」
気付けば叫んでいた。家族がもういない? そんなの耐えられるわけがない!
穂乃果「あぁ……うぁああ……」
-
穂乃果「なんで自殺してないの!?」
穂乃果「なんで私は自殺してないんだよぉ!」
「……お姉ちゃん?」
声がした。
私は目元に浮かんだ涙を拭き、声が聞こえた階段の方を見上げる。
眠そうな目を擦り、欠伸混じりの雪穂が此方を見下ろしていた。
穂乃果「雪穂……?」
雪穂「お姉ちゃん、こんな朝から大声出さないでよ。ご近所迷惑でしょ……私も起きちゃったし」
雪穂「お父さんとお母さんは? なんか家の中生臭いけど……またお姉ちゃん何かしたの?」
-
穂乃果「ゆき、ほ……」
雪穂「ど、どうしたの? 転んだの? 待ってよ、今そっち行くから」
トントンと軽快な足取りで雪穂は階段を降り、私の前に前屈みに立つ。私の足を見て、何ともないじゃんなんて不思議そうに言いながら、生きている。
雪穂「ちょ……!?」
気付けば、私は雪穂を抱き締めていた。最後に残った家族かもしれない、私の妹を。
穂乃果「雪穂ぉ……お父さんと、お母さんが……」
雪穂「え? ……ちょっと待ってて」
私の言葉と今なお漂い続ける臭いに事態を察したのか、雪穂は私を引き剥がすと廊下の奥、両親の私室へと向かっていく。
部屋の前に立ち、ニ、三度逡巡した後意を決したように襖に手を掛け。雪穂は勢い良くそれを開けた。
-
最初に聞こえたのは悲鳴だった。
それは人間の声とも、獣の鳴き声ともつかない潰れた悲鳴だった。
枯れそうな濁りを滲ませた声で、雪穂がお父さんとお母さんを呼びながら部屋の中に飛び込んでいく。
多分それが全てだった。
それが全てで、それで私は理解して、それを心は飲み込んで、それなら壊れましょうと脳が楽しい思い出を引き裂いてそれにそれはそれのそれからそれならば。私は廊下で丸くなる。
穂乃果「はぁー……はぁっー……」
自分の息遣いと心の音以外の何も聞きたくはない。それぐらいに強く、私は耳を抑える。
視界が白黒キネマのように色を失くす。頭が揺さぶられている。誰に? 誰に?
-
何分経ったかは覚えていない。
雪穂に肩を叩かれるまで、私はジッとその場に蹲っていた。
恐る恐る顔をあげれば、目を赤く腫らし鼻水を啜る雪穂の顔がそこにある。視界に色が戻っていく。
代わりに血の気は引いていた。
雪穂「二人共……死んでたよ」
穂乃果「……やっぱり、皆こうなっちゃうんだね」
雪穂「お姉ちゃん、警察呼ばないと。救急車も……死んじゃってたら、呼ばなくてもいいのかな……」
穂乃果「警察……」
異界の言葉のような響きだった。そういえば私は海未ちゃんの家でも警察を呼んでいない。海未ちゃんは警察を呼べたのだろうか、なんて思考が一瞬よぎりすぐに霧散した。
今は目の前のことだ。警察を呼ばなくてはならない。
-
穂乃果「うん、警察……電話しなきゃね」
ぼそぼそとしたそれがちゃんと声になっているか、自分でも分からなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、110番を鳴らす。
呼出音が聞こえ、ワンコール。そしてツーコール。スリーコール。
穂乃果「……出ない」
五コール目でようやく誰かに繋がったと思いきや、それは電話が混んでいるからそのまま待ってくれという電子アナウンスだった。
よくよく考えてみればこの状況で、警察にまともに電話が繋がるはずもない。道路の空き具合を考えれば、恐ろしいほどの数の電話が警察に行っている筈なのだから。
いや、むしろ。通報ダイヤルのオペレーターも、警察官も数が減っている可能性すらある。
穂乃果「警察は多分、無理だと思う」
雪穂「無理って……そんなわけないじゃん。何言ってるの、お姉ちゃん」
-
穂乃果「ねぇ、雪穂。雪穂の周りで自殺した人とかいない?」
雪穂「自殺って……無いよ、そんなの。ことりちゃんが死んじゃったのは、聞いたけど……」
穂乃果「昨日から何かクラスの子とかに変わったこと、ない?」
雪穂はこの性格だ。クラスでも恐らく纏め役に近い立ち位置にいるに違いない。だから何か起これば、すぐに把握出来る筈だ。
そんな考えの上での問いかけだった。雪穂は二人が死んでるのに、と少し憤ったようだったが、それでも少々迷った後私の問いに答える。
雪穂「クラスのグループラインが、昨日の夕方から既読が少なくなった……ような……」
穂乃果「……仲、良い子もいたの?」
雪穂「うん、何人か。個人ラインも飛ばしたけど、返事もないし」
-
穂乃果「……そっか。雪穂、多分これから辛いことが待ってると思う」
穂乃果「けど、大丈夫だから。私が、側にいるから……」
言っているうちに、目から涙が溢れた。
ことりちゃんが、真姫ちゃんが、花陽ちゃんが、希ちゃんが、絵里ちゃんが、死んじゃったんだ。
雪穂を守らなきゃいけない、なんて。そう思った時点で心はとっくに元に戻っていた。
痛みに鈍化していた精神を、仲間の死が容赦なく蝕んでいく。死体を見たときは何とも思わなかったのに、狂ったように振る舞えたのに。
私は涙を拭うと、立ち上がる。雪穂が驚いたような顔で私を見た。
穂乃果「……海未ちゃんの家に行こう。それが終わったら凛ちゃんの家に行って、にこちゃんの家にも」
穂乃果「止められないならせめて、見届ける。何でこんなことになったのか分からないけど……分からないけど! 皆と一緒に、いたいよ」
-
海未の家
パジャマ姿のままだった雪穂に着替えを促し、何でこんな、と不満げに呟く雪穂の手を引くようにして私は海未ちゃんの家へ向かう。
先程よりも道路は人が少なくなっていた。事態に気付いていないのか脳天気に歩いている人もいれば、異常を知って何処か自暴自棄になっている人もいる。
自殺が近いとなれば、皆何をしでかすか分からない。暴力、強盗、強姦……ニュースでこの現象が流れなかった意味を私はようやく理解した。
海未ちゃんの家へ着いたときにはもう時刻は昼前だった。こんな時でも容赦なく照らす太陽に煩わしさを覚えながら私は玄関を開ける。
乱暴に靴を脱ぎ散らかし――雪穂が私の代わりにキチンと並べていたのを横目に――私は海未ちゃんがへたり込んでいた両親の部屋の前へと向かう。
穂乃果「あれ……?」
そこに海未ちゃんの姿は無かった。
部屋の隙間から遺体を見て騒ぎ、海未ちゃんの部屋へと逃げ込んで希ちゃんと絵里ちゃんの死体を見てまた叫ぶ雪穂を尻目に私は奥へと進む。
居そうな場所を虱潰しに探して、台所をひょいと覗いてみてようやくその姿が目に入った。
穂乃果「海未ちゃん……?」
震える海未ちゃんの手には、包丁が握られていた。それを喉に突きつけ、荒げた息からは今にも突き刺そうという思いを感じて。
-
穂乃果「海未ちゃん、辞めて!」
台所に飛び込み、海未ちゃんの腕を抑える。
カランと音を立てて包丁が床に落ちた。雪穂がそれを素早く拾い上げ、なるべく海未ちゃんから離すようにテーブルの上に置く。
怯えたような目で海未ちゃんは私の顔を見た。視線が私と雪穂を行き交い、震えたままの手で私の肩を掴む。
雪穂「海未さん……おかしいよ、どうしたの!? 自殺なんてする人じゃなかったのに」
海未「だ、駄目なんですよ……駄目なんです……」
海未「見えたんですよ。見えたら終わりなんです、私は……私じゃなくなるのは……」
穂乃果「落ち着いて、海未ちゃん。大丈夫だから」
穂乃果「何が見えたの?」
海未「てん……が……」
穂乃果「海未ちゃん?」
海未「天使が、見えたんです」
-
雪穂「天使?」
場違いな言葉に、雪穂が目を丸くする。それは私も同じだった。こんな状況で天使なんか見える筈がない。
穂乃果「海未ちゃん、大丈夫だよ。ね、不安なのは分かるよ。私達もお父さんとお母さん、死んじゃったから」
穂乃果「けど、幻覚に逃げちゃ駄目だよ。ほら、凛ちゃんの家、行こう? 凛ちゃんが無事だったら、絵里ちゃんの家にも行って亜里沙ちゃんも連れて、にこちゃんの家に行こうよ」
海未「幻覚じゃ、ないんです」
海未「天使が私を見てるんです。分かるんですよ」
雪穂「お姉ちゃん……」
雪穂が不安そうに私を見る。しかし私もどうすればいいのかなんて分からない、おかしくなってしまった人間を治す方法なんて私だって知らないんだ。
海未「……二人共、信じていませんね?」
-
穂乃果「あ、いや……そういうわけじゃ」
海未「私も信じませんでした。今の今まで、天使が見えるまで忘れていました」
海未「本当だと思いませんでした……だから……私は、自分が自分じゃなくなる前に……」
雪穂「……分かったよ、海未さん。信じるから、何があったのか最初から話して」
切り替えたのか、海未ちゃんの言葉に何かを感じたのか、雪穂は幾分か落ち着いた声色でそう問う。
海未ちゃんはやはり怯えたように此方を見ながら、
海未「……昨日、ことりが自殺する少し前のことです」
ゆっくりと話し始めた。
-
海未「穂乃果はあの時、まだいませんでしたね。待ち合わせの際の話です」
海未「私と話していたことりが、急に空を見始めたんです」
海未「不可思議そうに、意味が分からないとでも言いたげな顔で……」
海未「だから私は聞いたんです。何を見ているんですか、って。そしたら、そしたらことりが」
天使が、見えると。そう言ったんです。
そこまで言って、海未ちゃんは口をつぐんだ。ことりちゃんがその後どうなったかを、語りたくはないとでも言いたげに。
雪穂「ことりちゃんは天使を見た後に、自殺。そしてその天使を海未さんも見た……」
穂乃果「けど……それなら、他の人も観てる筈だよね。何でことりちゃんだけ?」
海未「それは……分かりません。皆話題に出さなかっただけか、もしくは気付かなかったのか……それでも、私が見た天使がこの件に無関係だとは思えないんです」
-
今日はここまで
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おつ
続き楽しみ
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天使の囀り
-
穂乃果「というか、だよ。そもそもそれって本当に天使なの?」
雪穂「どういうこと?」
穂乃果「いや、海未ちゃんの言葉を信じるなら、ことりちゃんは死ぬ前に天使を見たんだよね」
穂乃果「自殺する時って天使より死神が見えそうな気がするんだけど……海未ちゃん、今も天使って見えてるの?」
海未「いえ、今は……し、しかしあれは紛れもなく天使でした」
海未「見た瞬間に分かったんです。本能的に、それが天使であると理解できたんです」
そうなるとますます意味が分からなくなる。天使というと、どちらかと言えば救済や聖なるイメージがあるからだ。
仮に死を察して迎えに来たのだとしても、本当に天使であればあのようにグロテスクな自殺体を作る前に助けてくれる筈じゃないか。
穂乃果「うーん……」
-
海未「ああ……!」
不意に海未ちゃんが頓狂な声を上げた。何かを思い出したかのように、海未ちゃんはテーブルの上に置かれた包丁へと無理やり手を伸ばす。
穂乃果「海未ちゃん! 駄目だよ!」
雪穂「お姉ちゃん、もっと抑えて! 海未さん力強いんだから!」
いつでも行動できるように、と言えば嘘になるかもしれないが。私と雪穂は少なくとも先程の自殺未遂を目撃している。
海未ちゃんが動くとほぼ同時に、私達は海未ちゃんの腕に抱き着き無理やり押さえ込む。
海未「離して! 離してください……私は、私は……!」
穂乃果「離したら海未ちゃん死んじゃうよ! 絶対離さないから!」
海未「私は……せめて、私のまま死にたい……ああ……」
ふっ、と。海未ちゃんの腕から力が抜けるのを感じた。
-
穂乃果「よかった、諦めて……」
そこまで言って、海未ちゃんの顔を見て。私は思わず息を呑んだ。
力の抜けた海未ちゃんの顔からは、最早一切の感情が見受けられず只々白い肌に生気のない瞳の濁った輝きだけが、台所の明かりに照らされ光っている。
雪穂「海未さん……? どうかしたんですか?」
穂乃果「雪穂……絶対に力を緩めないで」
穂乃果「海未ちゃん、自殺する気だ」
海未「……」
雪穂「な、何言ってるのお姉ちゃん!? 海未さんはちゃんとこうして力緩めてるでしょ、話せば分かってくれ」
それはある種、隙だった。雪穂が力を緩めても自分がこうして身体を押さえ込んでいるのだから、海未ちゃんは自殺の為の包丁を手に取れない。
だから私は、極々単純なことを見落としてしまったんだ。人間は、そう、人間は。
海未「……ぐがっ」
こうして抑え込まれた状況でも、自殺が出来るということを。
雪穂「海未さん……何で血を吐いて……? 舌を、舌が……あ、ああ……」
-
穂乃果「ぐ……う……雪穂! 海未ちゃんの口を開いて! 無理やりこじ開けてもいいから!」
口からだらだらと血を流し、海未ちゃんは苦しげに身体を拗じらせる。私は雪穂と共に海未ちゃんの顎に手をかけ、無理やりに口を開かせた。
雪穂「う……か、硬い……」
穂乃果「やっぱり……引きちぎれるくらい根本の方を噛んでる……」
言いながら私は、海未ちゃんの口の中に手を細めて滑り込ませる。
こんな非現実的なことを実際にやるとは思ってもみなかった。中学の頃の保健体育の授業を思い出しながら、私は痙攣する舌を引っ張る。
授業中、クラスのお調子者が先生に質問をしたことがあった。
前日ドラマか何かで見たのだろうか、人間は舌を噛み切るとすぐに死ぬんですか、なんて授業とも関係のない唐突な質疑だった。
「いや、人間は舌を噛んでも中々死ぬことはないよ。死因は大体、噛み千切られた舌筋が痙攣して気道を塞ぐ窒息死か、舌からの出血による失血死だからな。それに先っぽの方じゃあただ痛いだけで死ぬことはない、死ぬには根本の方を噛み千切らなければいけないんだ。そんな思い切りのいい人間中々いないけどな」
その日、クラスメートの三割が気分が悪いと言って早退し、教師がキツく灸を据えられたことをよく覚えている。当時は私も気分が悪くなったものだけれど、こうして舌を噛み千切った人間を目の前にすると、あの教師に感謝をするしかない。
穂乃果「とりあえず気道は確保出来そうだけど……雪穂、舌って傷テープじゃ駄目だよね!?」
-
雪穂「当たり前じゃん! 舌に傷テープなんて聞いたことないよ!」
穂乃果「け、けど血が……血が止まらないよ!」
気道は確保出来たとはいえ、舌からの出血で口内にどんどん血が溜まっていくのが分かる。
このままでは血で窒息するか、失血するかの選択肢以外は無さそうだ。
雪穂「えっと、えっと……あっ! これ!」
穂乃果「えっ……これは」
と、雪穂が近くの棚を探り取り出したものは、チャッカマンだった。チャッカマンは言うまでもなく火をつける道具である。
差し出されたそれを、血でぬめりが強くなる舌に気を配りながらも空いた片手で受け取る。
穂乃果「これでどうするの……?」
雪穂「血が止まらないときは患部を火で炙ればいいって聞いたことがあるんだ! きっとこれで止まるよ!」
舌を炙れと言っているのだろうか。それは正気とは思えない発言だった。
-
穂乃果「そ、それは……」
雪穂「躊躇ってる暇なんて無いよ! 海未ちゃん、青ざめてきてる!」
穂乃果「う……」
確かにこの出血量だ、すぐに血が足りなくなることは目に見えている。しかし、だからといって。
友人の舌を、チャッカマンで炙る。そんなことは許されてもいいのだろうか。
下手をしたら痛みでショック死してしまう可能性すらある。むしろ高いと言ってもいいだろう、私は舌を炙られた人間を見たことがないけれど、舌を炙られたら死ぬほど痛いことくらいは知っている。
穂乃果「うう……」
しかし他に手立てが思いつかないことも事実だった。雪穂が場を離れれば私の指まで噛み千切られそうだし、私が離れれば海未ちゃんは窒息死する。
穂乃果「ううう!」
私はゆっくりと口と指の隙間からチャッカマンを挿し入れ、舌の付近まで来たところでスイッチを押した。
-
瞬間、海未ちゃんが跳ねた。
それは痙攣どころじゃなく、それこそ陸に打ち上げられた魚を思い出すほどに激しい跳ね上がりだった。
海未「ひゅぃぃっ!」
舌が無くなった口から、悲鳴とも息ともおぼつかない甲高い音が漏れる。
その勢いに私も雪穂も押さえつけていた手を離し、白く冷たい床に尻もちをつく。
穂乃果「海未ちゃん!」
雪穂「あ……あああ……」
海未ちゃんは白目を向き、赤く染まった泡を吹きながら幾度か痙攣を繰り返した後、はたと動くのを辞めた。
穂乃果「わ、私……私、海未ちゃんを……」
冷静じゃなかった。そんなことはただの言い訳だ、舌に火を放てばこうなることくらい誰でも分かるはずだったの。
明らかに海未ちゃんは、窒息や失血で死んだようには見えない。つまり、私がこの手で海未ちゃんを。
穂乃果「こ、殺し……私、殺しちゃった……?」
-
雪穂「おねえ、ちゃん……? 指が……」
雪穂の言葉に、噛み合わない歯を震わせながら私は手の指を見る。
人差し指の第一関節から先が、無かった。
何かに食い千切られたように、毟り取られた傷跡からだくだくと血が溢れ出す。少しだけ飛び出している白いものは、どう見ても私の骨だった。
穂乃果「あ……」
穂乃果「痛、い……痛いよぉぉ! わ、私の指ぃ!」
穂乃果「指が無いよぉぉ!」
雪穂「まさか……」
涙にぼやけた視界の中で、雪穂が海未ちゃんの固く食いしばられた歯を開くのが見えた。そして、開いた口の中から赤い血に染まった何かの欠片を取り出していく。
雪穂「海未ちゃんが跳ねた時に、食い千切られた……? お姉ちゃん、大丈夫!? びょ、病院! 病院に行かなきゃ!」
穂乃果「痛い……痛いよぉ……!」
痛みで思考が塗り潰されていく。脳の中から自殺騒動や妹の事が消え去り、指の先から感じる痛みだけが全てを支配していく。
まるで悪い夢を見ているような、そんな気分だった。
-
一先ずここまで
続きは明日の夜に
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おつです
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七月二十八日
穂乃果「……!?」
痛みを感じたのか、顔を照らす暑さに辟易をしたのか自分ですら分からない。唯一わかったのは、自分が飛び起きたということだけだった。
息は荒く、額から流れ出た汗が目に入り滲む。喉が異常に乾いていた。
穂乃果「……っ」
いつの間に着替えたのか、服はTシャツ一枚になっていた。肌に張り付くそれを引き剥がそうとして、指先に鈍い痛みを感じる。
穂乃果「……あ、そうだ……私、指を……」
しかし指先からは、食いちぎられた瞬間ほどの痛みを感じることはなかった。雪穂が手当をしてくれたのだろう、ガチガチにテープや包帯が巻かれている。
穂乃果「……今、何時なんだろ? 雪穂? 何処にいるの?」
カーテンから漏れる赤い光で、今が夕方ということだけは分かった。私は薄闇に染まりゆく部屋の中を見回す。
穂乃果「何これ、テーブルの上に……紙?」
部屋の真ん中の机の上には、何枚かの紙とスマートフォン(私のものではなく、雪穂の持っているモデルだ)が打ち捨てられたように雑多に置かれていた。
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部屋の入り口に移動し、電灯のスイッチを付ける。
カチカチと軽い音が聞こえただけで、点灯することはなかった。停電だろうか。
穂乃果「……それとも皆死んじゃったとか?」
嫌な考えを振りほどきながら、私は雪穂のスマートフォンを手に取る。キーロックがしてあったが、電気代わりとして使うならこれで十分だ。
右上の数字は17:10と表示されている。やはり夕方らしい。
テーブルの上に画面を向け、紙を照らし出す。
穂乃果「……あ」
それはきっと、雪穂が書いてくれたものだった。私が目覚めないこと、心配なこと、凛ちゃんが訪ねてきたこと、凛ちゃんの家族が死んだこと、凛ちゃんがにこちゃんの家に向かったこと、なんて。
私が気を失っていたであろう間のことが、丁寧な細かい字で書いてあって。
そして。少し離れた場所にある紙に。
震えたような大きな字で。
『私も天使が見えたよ。ばいばい、お姉ちゃん』
そんな、別れの文句が書いてあった。
-
穂乃果「ぐ……」
声にならない悲鳴をあげそうになって、すんでのところで抑える。
今は絶望している場合じゃない、雪穂を見つけなければいけないんだ。
これが書かれたのがいつかは分からない。
ひょっとしたらまだ雪穂は生きているかもしれない。今度は目の前で死のうとしていても助けられるかもしれない。
鉛のように重い身体を持ち上げ、私は足を引きずるように部屋の扉へと向かう。
穂乃果「死なないで……」
穂乃果「死んじゃだめ……雪穂……」
しかし、心の何処かで雪穂は手遅れだと思っている自分がいることにも私は既に気付いていた。
-
いつ書かれたか分からないということは、ひょっとしたら数時間前に書かれたということかもしれないんだ。
海未ちゃんが天使を見てから何分でああなったのか、私は知らない。
けれど、そこまで時間がかかるとも思えなかった。現に私達が来てすぐに海未ちゃんは自分を無くして舌を噛み切ったのだから。
穂乃果「……」
ああ、そうだ。
だから身体が重いんだ。だから足を引きずるんだ。
これは呪いだ。悪意にも似た呪いであり、呪いにも似た悪夢だ。
穂乃果「……雪穂はまだ生きてる!」
わざと大声を出してみても、乾いた喉ではガラガラとした雑音にしかならなかった。
自分を鼓舞するには、けれどそれで十分だった。私は一歩一歩知らない場所を探索でもしているつもりで、歩いていく。
-
そしてあっけなく雪穂は発見された。
見付かった。とはもう言えなかった。
穂乃果「……」
階段の下で、無感情な雪穂がこっちを見ている。
頭が割れ、血を流している。首が妙な方向に折れ曲がっている。
しかし爛々と目だけが薄闇の中に光っているのが奇妙だった。
穂乃果「はは……」
穂乃果「あははは……」
穂乃果「私も見たいな……天使……」
ゆっくりと階段を降りて、体温が無くなった雪穂の身体を抱く。死後硬直も終わったのだろうか、ぐんにゃりとした身体の雪穂は明後日の方向に首を項垂れこっちを見てくれない。
穂乃果「……」
穂乃果「…………」
穂乃果「…………から」
ぼそりと呟く。それは誰に聞かせる気もない、しかし鼓舞でもない、ただの宣誓だった。
穂乃果「私、天使殺すから……待ってて」
-
そもそも戦えるのか
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言ってはみたものの、殺せるとは到底思えなかった。何せ死んでいった皆の言を信じるのなら、
穂乃果「相手は……天使なんだよね」
天使。
聖なるもの。そして、この世のものでは無い。
そもそも触れるのだろうか。武器を使ったとして、それが効くのだろうか。
穂乃果「けど、殺さなきゃ」
そんな道理は何も関係がない。皆は天使を目撃してすぐに自殺している、その天使が自殺に無関係とは到底思えない。
天使が元凶なのだとしたら、私は天使を殺さなければならないのだ。それが全てであり、それだけが私に残された活路だ。
-
穂乃果「天使さえ殺せば、皆が戻ってくるんだ。そうに決まってるんだ」
穂乃果「誰も死ななくて済んだんだ」
私は台所から包丁を持ち出し、店側の玄関から外へ出た。
夕暮れに染まった街からは、何の音もしなかった。
陽気に走り回る子供たちの声も、車のエンジン音も、烏が鳴く声すらも無い。
赤い世界にたった一人だけ残されたような、そんな気分だ。
穂乃果「天使……何処なの、いるんだよね? 皆の前に現れたのに、私の前には現れないわけないもんね?」
ふと、包丁を握った手の指先から赤い雫が垂れた。急に動いたせいで傷口が開いたらしい。
ふうん、成る程。指から零れ落ちる血にも、未だ鋭く、鈍く断続的に続く痛みにもその程度の興味しか持てない。
天使さえ殺せば全ては元通りになるんだ。指なんてどうでもいい。
-
穂乃果「天使ー! いないのー!?」
大声を出しながら、一先ずは凛ちゃんの家に向かう。誰の家からでも良かったけれど、どうせ行くなら近いところからだ。
そんな道の途中で、地面に寝転がっている男の子を見付けた。首から血を流し、手にはチョークを握っている。
男の子の近くのアスファルトの壁には、書きかけの落書きが寂しげに途切れ途切れの白い線で自己主張をしていた。
穂乃果「……これ、自殺じゃないよね」
死体を見て最初に思ったことが、それだった。可哀想でも、驚くでもなく、淡々とした状況確認。知らない子供のそれは、仲間の死体に比べればなんの変哲もない塊にしか見えなかった。
穂乃果「近くに刃物とか、無いし」
男の子は首を切って死んでいた。だとすれば首に刃物が刺さっているか、少なくともチョークではなく刃物を持っていなければならない。
今までの経験から、皆自殺の際に使用した凶器は隠すでも放り投げるでもなくそのままにしていることを私は知っていた。
-
何があったんだろう。そう思いながら、男の子の横を通り過ぎる。
別に自殺だろうと殺人だろうと、ここに今あるのは肉の塊だ。仮にこの子が誰かに殺されたとして、殺人鬼が道の角から目の前に出てきたとしても私にも包丁がある。
天使を殺すのだ。
人間くらい、返り討ちだ。
穂乃果「んー……」
そんな意気込みは、角を曲がったところで無駄になった。必要以上に血塗れの女性が、壁にもたれ掛かるようにして腹を捌いて死んでいたのだ。
男の周りには何人かの死体。老若男女問わず、明らかに何者かの手によって殺されたであろう死体が転がっている。
穂乃果「犯人、この人かぁ」
穂乃果「まぁ……いつ自殺するかも分からない状況だもんね。人を殺してみたい人が、こうして大暴れしても仕方ないか」
むせ返る血の匂いの中、なるべく靴に血をつけないよう血溜まりや返り血の少ない場所を歩く。乾いてはいるようだったが、念の為だ。
-
凛の家
穂乃果「凛ちゃーん」
穂乃果「凛ちゃん、いないのー?」
凛ちゃんの家に着いてすぐに、私はピンポンを押す。スイッチが押し込まれるカチリという音だけで、甲高い来客のコールは鳴ることは無かった。
そう言えば電気が消えてるんだ、そんなことを思い出して、鍵の開いていた玄関扉から半分身体を家の中に入れて凛ちゃんの名を呼ぶ。
返事は無かった。
穂乃果「……死んじゃったかぁ」
早々に諦め、私は玄関から離れる。これからにこちゃんの家も回らなければいけないんだ、グズグズしていると真っ暗闇になってしまう。
-
家に向かって一度手を合わせたのち、私はにこちゃんの家へ向かって歩き出す。
後ろでドサリと、何か重いものが落ちる音がした。
音の中に、めぎりと枯れ枝が折れるような音と。にゃ、と小さな断末魔が混ざっていたような気がした。
気がしただけだ。
私は後ろを見ずに歩き出す。後ろを向いたところで手遅れなことは分かっていた。なら、見ない方がいい。
極々単純な、当たり前の結論だった。
穂乃果「これで私とにこちゃんだけかぁ……にこちゃんも死んでるかもしれないけど」
そうなったら私、本当に一人ぼっちじゃん。なんて、軽口を叩く余裕が自分にあることが少しだけ嬉しかった。
-
にこちゃんの家は団地の中にある。一度行ったことがあるのだけれど、絵里ちゃんと希ちゃんの居ない今では同じような部屋が並ぶ中、ピンポイントで見付けられるかは随分と怪しい話だった。
何とか階層に当たりを付け、立ち並ぶドアの横のネームプレートを見て回る。何となくネームプレートと言うよりは名前板と言う方が正しいような、そんなプレートだと思った。
穂乃果「あ、あった。矢澤」
いつもの癖でピンポンを押しそうになり、直前で止まる。この動作に慣れすぎている。
穂乃果「にこちゃん? いるの?」
玄関の鍵は開いていた。凛ちゃんの家もにこちゃんの家も随分と不用心だ。そう考えて、私も店の入り口の鍵を閉めていないことに気付いた。
まぁいいや。お金は無いし、あるのは死体だけだから。死体好きの変態が来たら、まぁ、うん。ごめんね雪穂。そう脳内で自問自答して、部屋の中に呼びかける。
「ぁ……」
小さな声と、物音。それは死ぬ前の声というよりは、私の声に反応しただけ、といったような響きがあった。
-
穂乃果「いるの? 上がらせてもらうよ、お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ、物音がした奥の居間の扉へと向かう。
赤い。
扉を開く前から、部屋の中の赤だけは磨りガラスを通してはっきりと見えた。ぼやけてはいるが何かが倒れているのも。
隙間から漏れる血の匂いと、鼻をつく何かの匂いは扉の向こうで何かが起こっていることを如実に表している。
私は息を整えると、包丁を握り直して扉を開けた。
扉を開けると、まず四つの死体が見えた。
妹のこころちゃん、ここあちゃん。弟の虎太郎くん。
そして。にこちゃん。
四人が重なるように、滅多刺しにされて死んでいた。その四つの死体を前に、呆然とした顔で佇むにこちゃんのお母さんの姿があった。
-
穂乃果「……あの、これ。何か、あったんですか」
何かあったことはとっくに分かっている。けれど、咄嗟に出たのはそんな言葉だった。
にこ母「……変なのよ、この子達」
にこ母「天使が見えるって言うの。何を言ってるのかと思ったら、今度は自殺をしようとしたのよ」
にこ母「だから私は、自殺なんかしてほしくないから、私は」
にこちゃんのお母さんの身体から液体がポタポタと垂れていることに、私はそこでようやく気付いた。
それはガソリンだった。鼻を刺す匂いの正体を知ると同時に私はその場を急いで離れる。焼身自殺だ、こんなところでされたら私まで死んでしまう。
-
にゃっ・・・
-
oh...
-
私が部屋を出ると同時に、背後から絶叫が聞こえた。耳を塞ぎながら私は階段を駆け下りていく。
もう一瞬たりともこんな場所にいたくなかった。
もう一瞬たりともこんな世界にいたくなかった。
穂乃果「どこなの……?」
穂乃果「天使はどこなの!? 何で私の前だけ出てきてくれないの!?」
叫ぶ声は夕暮れに染まる団地の中に吸い込まれていく。誰も返事をしない、誰も此方を見ない。
取り残されている。やっぱり私は取り残されているんだ。
そんな恐怖が脳の中をぐるぐると駆け巡る。
-
.
声が聞こえた。
正確にはそれは声じゃなかったのかもしれない。枯れ葉がこすれるような、か細い。つい漏らしてしまったかのような。
含んだ音だった。
たった今駆け下りた階段の上を、私は振り返る。
穂乃果「あ……」
そこに天使が立っていた。
それは誰がどう見ても、天使だった。姿はない、ただゆらゆらと揺れるモヤにしか見えない。けれど私にはそこに天使が居るとしか思えなかった。
天使が立っている。此方を見下ろしている。
けして目には見えていないのに、天使が何をしているのかまでつぶさに分かる。脳の容量が埋め尽くされるような、神々しい存在に思わず見惚れてしまう。
-
見惚れ、ぼんやりとした思考の中、私は手に持った包丁を掲げる。
きっとこのまま、私は皆のように自殺をする。そんなことは分かっていた。海未ちゃんが自分が自分で無くなったように、私は私じゃなくなり死を選ぶ。
死を。
死を尊んで、美しく狂おしい死に様を選ぶ。
天使が私を見下ろしている。愛おしむように、育むように私を見ている。こんなに嬉しいことはこの世に無い!
だから私は、手に持った包丁を思い切り天使目掛けて放り投げた。
-
穂乃果「……」
投げた包丁は天使に当たることはなく、モヤをすり抜けて階段の向こうへと飛んでいく。
カラン、と乾いた音が階段に響いた。
穂乃果「やっぱり、当たらないんだ」
天使は何も答えてはくれない。ただ、黙ってジッと私を見下ろしている。
穂乃果「貴方は何なの? 貴方が私達を殺しているの? ねぇ」
穂乃果「何で、皆は死ななきゃいけなかったの?」
天使は何も答えてはくれない。ただ、黙ってジッと私を見下ろしている。
穂乃果「ねぇ……何か、答えてよ……」
天使は何も答えてはくれない。
-
穂乃果「私はっ……!」
不意に、天使の気配が消えた。そこにはもう何も無かった。
赤色に染まる雨漏りで染みの着いた天井と、薄汚れた壁だけがそこにはあった。
モヤはもう無い。天使も、もういない。
殺すことは、出来ない。
穂乃果「はは……あはは……」
私が死んで全ては終わり。私が死ぬことで、天使も何も、皆の自殺も全てが終わりだ。
穂乃果「あはははっ! あっはははははっ!」
笑い声をあげながら、私は無茶苦茶に走り出す。死ぬならばせめて、家族の隣が良かった。
穂乃果「あはっ、あはははははっ! あーはっはっ!」
-
けれど、現実はそんな都合の良い話を許してはくれない。
凛ちゃんの家の前を通り過ぎ、四つ辻を曲がったところで。私は自分が無くなっていくことに気付いた。
記憶が、全てが薄ぼんやりとしている。
穂乃果「あはは……あれ……」
穂乃果「私の家って、何処だっけ」
一緒に歌った仲間が思い出せない。
共に過ごした幼馴染が思い出せない。
優しくしてくれた家族が思い出せない。
-
穂乃果「何で……嫌だ……」
穂乃果「私は、家に帰って……」
穂乃果「……あれ?」
「私の名前、なんだっけ」
「……あぁ、うぁぁぁ」
「……」
「……」
自殺。付近に殺傷能力の高い物、無し。塀の高さ、計測。頭から落ちる形であれば数回で死に至ると判断。
笑い声が聞こえた気がした。
天使がいる気がした。
嘲笑っているような気がした。
どうでもよかった。
-
.
、
-
七月二十六日 部室
穂乃果「あーあ、やになるなぁ」
海未「だらけすぎですよ、夏休みに入って最初の部活なんですからもっと気合いを入れてください」
穂乃果「だってさぁ、夏休みだよ? お休みなのにこれから毎日朝から晩まで練習かと思うと」
ことり「あはは……分からなくもないけど」
海未「UTXの方々はきっともっと厳しい練習をしている筈です。後発でノウハウの無い私達が彼女達に追い付くには練習しかないんですよ」
穂乃果「んー、まぁそうだよね」
穂乃果「よしっ、やろっか!」
-
海未「いやいや、まだ皆集まっていませんよ?」
穂乃果「先に始めちゃおうかと思ってさ」
ことり「うーん、私は待ったほうがいいと思うなぁ」
穂乃果「そう?」
ことり「だって皆より先に練習に入っちゃったら、体力が持たないよ」
海未「皆の体力を計算して練習メニューを作ってますしね」
穂乃果「ちぇー」
-
穂乃果「待ってる間何かする?」
海未「宿題でもしますか?」
穂乃果「持ってきてないよ!」
ことり「私も流石に持ってきてないかな」
海未「持ってきたのは私だけですか……」
穂乃果「ああ、そうだ。宿題は出来ないけど……さっき、変なもの見たよ」
ことり「変なもの?」
穂乃果「うん、天使」
海未「天使とは。あの天使ですか? ネロとパトラッシュの」
-
穂乃果「んー、ちょっと違うかも。何ていうか、もやもやしてて」
穂乃果「けど見たら皆天使だって言うと思うよ。そんな天使だった」
海未「イマイチ要領を得ませんね……」
ことり「穂乃果ちゃん、暑いから幻覚を見ちゃったとか」
穂乃果「あー、ひどーい! 本当に見たのに!」
海未「穂乃果がそういうのであれば信じますが、天使というのは……ううむ」
穂乃果「信じてないじゃん……」
-
ガチャ
絵里「あら、三人ともおはよう」
希「随分早いんやな」
穂乃果「あっ、おはよう絵里ちゃん希ちゃん! ねえ、聞いてよー」
絵里「どうしたのよ、そんな顔して」
希「海未ちゃんに怒られたりしたん?」
海未「私は怒ってなんかいませんよ!」
希「おお、怖い。それで、どうしたんよ」
ことり「穂乃果ちゃん、天使を見たんだって」
-
にこ「天使が何だって?」
ことり「うわっ、にこちゃん!?」
穂乃果「い、いつからそこに?」
にこ「今よ。絵里と希の後ろ姿が見えたから急いで来たってのに」
絵里「穂乃果が天使を見たんですって」
にこ「天使ぃ? 穂乃果、あんた高二にもなってそんなことを……」
穂乃果「うう、にこちゃんも信じてくれない……希ちゃんだって割とスピリチュアルなことよく言ってるのに……」
にこ「希は何だか見ていてもおかしくない雰囲気があるから。穂乃果はその点微妙なとこね」
穂乃果「本当に見たんだもん!」
にこ「はいはい、分かったから」
-
ガチャ
凛「ほら真姫ちゃんかよちん急ぐにゃー!」
真姫「引っ張らないで!」
花陽「おはようございます……あぁ、やっぱり私達が最後かぁ」
にこ「三人一緒に登校なんて珍しいわね。待ち合わせでもしてたの?」
花陽「い、いえ。凛ちゃんと一緒に向かってたんですけど」
凛「たまたま真姫ちゃんを見かけて、一緒に走ってきたにゃ!」
真姫「時間配分を考えてたのに、全く無駄な体力を使ったわ……」
希「朝から元気やなぁ、一年組は」
絵里「いいじゃない、元気な方が」
-
海未「それでは、皆揃いましたし早速練習を」
ふと、肌にぬるい風を感じました。窓際に居た穂乃果が窓を開けたようです。
海未「穂乃果?」
ことり「じゃあ海未ちゃん、今日の練習メニュー発表して! 昨日二人で考えたんだよね」
ことり「楽しみだなぁ」
ことりの笑う声に、穂乃果はキツいのは嫌だなぁ、なんて。
いつも通りに笑いながらゆっくりと、窓の外へと頭から落ちていった。
海未「……え?」
-
ことり「……? あれ、穂乃果ちゃん何処に行っちゃったの?」
希「さっきまで居たやんな、穂乃果ちゃん?」
絵里「お、おち……穂乃果……」
凛「何で……」
視線を離していたせいで気付かなかった面々も、周囲の反応を見て事態が飲み込めたのか徐々に顔を青くして。
海未「ほの、か……?」
震える足を引き摺るように、私は窓へと向かいました。何かの悪ふざけかもしれない、そんな期待を込めて窓から外へと上半身を乗り出して。
赤黒い水たまりの中で、穂乃果の顔が潰れているのを見ました。
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天使は空中から嘲笑うように穂乃果の死体を見下ろし、ふっと姿を消す。
終わらない。
永遠に、終わらない。何回も何回も何回も何回も。
何回自殺しようと終わらない。
この催しは未来永劫続いていく。天使が飽きるまで、きっと。
だって。
人間が死ぬ瞬間を見ることだけが、彼の唯一の楽しみなのだから。
完
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拙作お読み頂きありがとうございました
-
乙でした
永遠に繰り返される三日間も怖いけど
気が付いたらこのスレ読み始めたのが四ヶ月前だったことにびっくり
-
乙
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