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梓「アウトバーンの雨音」

1 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:16:33 fd2dGMJo0



雨が降っている。
引っ越し終えたあの夜から、雨はずっと降り続けている。
段ボールの山のなかになんとか場所をとっている折りたたみのシングルベッドに横たわりながら、わたしは雨の音を聞いている。
敷き布団のないせいで、下は硬く寝付くことができない。
かちり、かちり、と時計の針が鳴っている。
隣の唯先輩を抱きしめるみたいにして腕を回すと、ぴくりと動くので、まだ起きているのかと思って、ゆいせんぱいねええゆいせんぱい、と声をかけても返事はかえってこないし、唯先輩は眠ってしまっているのだろう。
布団を頭まですっぽりかぶっても雨音はまだ聞こえてくる。
ざぁああああ。ざぁああああ。
まるで死んだチャンネルにあわせたTVのノイズみたいな音。
目を閉じると、どしゃぶりの様子が浮かんでくる。
雨はあらゆるものを濡らし、くすんだ色に変え、地を流れていく。
この場所では、雨は四六時中降り続けてやむことがない。
立ち上がり電灯のスイッチを入れると、電気はつかなかった。
そうか、まだ蛍光灯すら買っていなかったんだっけ。
仕方なく、暗い部屋を横切ろうとすると、何かに足をぶつけて痛い。
キッチンに取り付けられた蛍光灯をつける。
ワンルームの部屋だから、それで部屋を照らすことができた。
さっき足をぶつけたのはアイロンだった。
カーテンを開けると、目の前には幹線道路がある。
三階に住んでいるから、道路を見下ろすようになる。
真夜中だというのに、自動車は流れ続けてとどまることがない。
走っては去り、また向かっては消えて、空気を切る音が、信号を待つ車たちのエンジンのうなりが、たえまなく響いている。
それはまるで雨の音のようだったのだ。


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2 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:18:10 fd2dGMJo0



1935年、フランクフルト=ダルムシュタット間に一本の偉大な線が引かれた。
それはドイツ製の地図の上に引かれた他のどんな線よりも太い線になった。
その線はアウトバーン、自動車高速道路と呼ばれることになる。
アウトバーンの建設、それはヒットラーが推進した事業のうち最も輝かしいものであった。
10万もの雇用を創出し、経済を循環させた。
人々は速度制限なしで、ドイツ中をかけまわれるようになった。
もちろんよいことばかりではない。
アウトバーンのすぐそばに住む人たちは騒音に悩まされた。
朝も夜も元気に走り続ける車の音(昔の車の音は今よりもうるさかったはずだ)は住民たちの頭痛の種だった。
それはまるでざあざあと降りしきる雨の音のようだったので彼らはそれを”Regen auf der Autobahn”アウトバーンに降る雨と呼んだ。
その頃のドイツで、自動車を保有するものは100人のうちたった1人で、実際のところ、彼らが本当に求めていたのは、とどまることなく走り続ける自動車とそれを乗せた延々と続く道ではなく、安価な住宅だった。


3 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:19:05 fd2dGMJo0



わたしたちの住むアパートの折りたたみシングルベッドにはまだ敷き布団がない。
とてもかたい。
それはよく眠れないことの他にも問題を生んでいる。

「やだやだやだやだ。かたいとこではやだもん!痛いし」
「ちょっとだけいいじゃないですか!先っぽだけ」
「先っぽってどこのさ!」
「えーと、だから、指……指先の」
「あずにゃん、ばっちぃよぉ……」
「なにがです!」
「発想が」

それでふたりで寝具を見に行った。


4 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:20:50 fd2dGMJo0



「あずにゃんあずにゃん、傘」

唯先輩は赤い傘をわたしに差し出す。

「雨、降ってないですよ」
「降ってるよ、ほら、音がするじゃん!」

ざぁああああざぁああああ。
唯先輩は口ずさんでみせる。

「ね?」
「いやまあそうですけど……」

それで唯先輩はひとりで赤い雨傘をさして太陽の下を歩いている。


5 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:21:18 fd2dGMJo0

わたしたちがいつも寝具を見に行くのは、すぐ近くのホームセンターではなくて、アパートに裏側の細い道を抜けた先にある2階建ての四角くて真っ白い建物。
一階には外から見えるところには、ガラス張りのショーケースがあり、そこには寝具一式そろった高級ベッドたちが、ずっと昔に絶滅してしまった生き物の模型だとでもいうようにずらりと展示されている。
『安眠時代』
建物のてっぺんから下げられた看板には薄いピンク色でそんなことが書いてある。
この店はここに越してからすぐに唯先輩のお気に入りスポットの一つになった。
ということは、わたしたちはもう何度も寝具を見に来ているというわけだ。
それなのに、まだ敷き布団すらない。

「あずにゃん、これ、やばくない? やばいよ!ちょーふかふかだね!」
「そうですね」
「ほら、触ってみてよ、触って」
「ああ」
「どう?どうなの?」
「ええ、まあ羽毛布団だなという感じはしますけど……」
「ただの羽毛布団じゃないんだよ!高級!高級羽毛布団だよ!」
「こーきゅー……」
「わぁ、軽い!あずにゃんよりずっと軽いよ!……はぁ……なんであずにゃんはもっと軽くなかったのかなあ……」
「重くてごめんなさいね。でも言っときますけど体重の点で言えば唯先輩の方がずっと重いですからね。わたしいくら食べても太らないんだーとか自慢げに言ってましたけど、最近太ってきたんじゃないですか、なんかお腹に肉も付いてきたみたいですし」
「なんだと!」
「わ、なんですか」
「枕だよ、枕投げ」
「もうやめてくだいよ、展示品なのに」
「おおっ、これすっごい沈む! どこまでもわたしを受け入れて入れてくれるよ、なになに……無反発枕、そんなのがあるんだ! 優しい……あずにゃんこの枕優しいよ!」
「優しい枕ってなんですか」
「あずにゃんよりずっと優しいよ」
「む。わたしだって、唯先輩に精一杯よくしようとはしてるんですよ」
「じゃあ、これ買って」
「だ、だめですよっ。ほら、値札見てくださいよこんなのわたしたちには手がでないですよ。引っ越ししてお金もないのに。それにわたしたちまだ働き口だって見つけてなくて……」
「はぁーあ……やっぱこれだよ。あずにゃんが枕だったら石だよね、石製。しかもちっちゃいからまったく使い物にならない、とげとげしてるし。あずにゃんはとげとげ石枕だね!」
「意味わかんないです」

それからは唯先輩は並べられた寝具たちをいつまでも見て回っている。
触れてそのやわらかさを確認するのはもちろんのこと、手にとっては裏返して成分表のようなものを眺めふむふむとうなづいたり、ときどきはわたしのほうを振り向いて、まるでとらえた獲物を人間に自慢しようとする飼い猫のように、枕だとかシーツだとかベッドカバーとか三角帽なんかを見せつける。
ほうっておけば何時間も飽きずにそうしている。
まあそれがそれほど苦にならないのは、こうやって腰掛けているのが高級ベッドだからなのか、それとも目の前でちょこちょこ動いてるのが唯先輩だからなのか。
どっちにしたってあんまり認めたくはないけど。

唯先輩もさすがに立ち疲れたのか、わたしの横にちょこんと座る。
そのままぱたんと倒れて、寝転がる。
『ご自由にお試しください』とはあるものの、本当に寝てしまうのはどうなんだろうかまったく隣にいて恥ずかしい、などとわたしが考えていると唯先輩が言った。

「ほら、こっちおいで、あずにゃん。ここならできるよ?」
「あ、でも、ほら、店員がまだあそこにいますし……」
「冗談だよ……あずにゃんってやっぱばっちぃなぁ」
「わたしだって本気じゃないですっ!」
「あずにゃん、うるさいよ?」

唯先輩は口に人差し指をやって、静かに、ってやる。
周りを見ると、何人かの客や店員がこちらを見ている。
唯先輩がぼそっとつぶやく。

「隣にいて恥ずかしい」

発火。
下を向いた。

そのあとは店を出て、店を出たと思ったら、唯先輩はすぐ出たところのショーウインドウの前で立ち止まってしまう。
そこに並んでいるのは、ブランドのもののベッドたちであり、唯先輩のご執心は、いまガラスに張り付かんばかりの距離で眺めているシャネルのベッドである。
なんだか丸々太った女の子のようなその全体像はどこかおもちゃのようでもあり、布団のカバー、敷き布団、ヘッドボード、マットレス、至る所に刻まれたシャネルのロゴはちょっと悪趣味でさえある。
まあ、わたしはそう思うわけだけど。
でも唯先輩はそうは思っていない。
午後の太陽が燦々と照りつけるなか赤い雨傘をさして、まるではじめて恋に落ちたばかりのうぶな少女のような面持ちでシャネルのベッドを真剣に眺めているひとりの女性。
それはわたしから見てもけっこう変な感じだった。


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6 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:22:37 fd2dGMJo0



世界のへそ公園には世界のへそがある。
世界のへそ公園は本当は世界のへそ公園ではない。
本当はひらがな四文字の名前が付いている市の大きな公園である。
裏手には大きな駐車場があって、そのすぐそばには野球場があり、手前側には人工芝のサッカーグラウンドがある。
その駐車場から木立を通る小さな道を抜けて、そこに世界のへそ公園がある。
広い天然芝の公園には午後のはやい時間、こどもたちが駆け回っていて、木目調のアスレチックがぎしぎしと音を立てた。
わたしたちはいつもデートの帰りにはこの場所にやってくる。わたしたちの最近のデートスポットは一にも二にもあの『安眠時代』ということになっていたから、その帰りということになり、その帰りにわたしたちは世界のへそを見る。
木立のなかに入って、すぐそこ、そこに少し高くなった丘のような場所があり、その丘のてっぺんには排水溝がある。
路側帯なんかでよく見ることのできる金網の敷かれたあの排水溝であり、その金網部分だけが露出していて、あとは芝生に覆われている。
緑の芝生の小さな丘の上に、ぽつんとあいた穴。
世界のへそは、でべそなのである。
上から眺めると、底は以外と深く、どうやら排水溝は丘よりずっと地下を走っているらしい。
こと、こと、こと、と何かが流れている音がするから、それはどこかにつながっていて、水を流しているのだろう。
この場所を世界のへそと呼んだのは唯先輩だった。

「へそ?」
「うん、世界のへそはでべそなんだよ!」
「まあ、へそはわかりますけど、なんで世界なんですか」

そうわたしが尋ねると唯先輩はくすくす笑って言う。

「それはね、世界のへそがないとね、世界が水の中に沈んじゃうからだよ」
「へ?」
「だってね、この場所では、一日中やむことなく雨が降っててさ、しかもものすごいどしゃぶりだから、どこかその水を捨てるところがないと町が雨でいっぱいになっちゃうよ」
「でも日本の排水設備は立派ですよ」
「でも、日本の排水設備だって一年中雨が降り続けることを想定してないよ、そうじゃない?」

まあ、かもしれないけど。
それから唯先輩はわたしのほうへ、ぴしりっ、と指をさして言った。

「だから、へそが必要なんだよ」

世界のへそ。
唯先輩の説では、わたしたちのアパートの目の前の幹線道路だけではなく、世界中の道という道、そこに降るすべての雨がこの場所に流れるのだという。
もしかしたら唯先輩は海の存在を知らないのではないかと思ったけれど、そんなことを言うとまた石枕だとか何とかわけのわからないことを言われてしまうので、黙っている。
雨が降っている。
世界のあらゆる幹線道路の上で。
わたしたちは今、有史以来最大の雨の時代に生きている。
朝も夜も雨はやむところなく、あふれこぼれて、あらゆるものを自らの腹のなかにに沈めようとして流れて、幹線道路の導きに沿って、やがてこの世界のへそに到達する。
へそのなかに、渦をなして、吸い込まれていく。
そしてどこかへ流れていく。
流れる。


7 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:23:25 fd2dGMJo0



1939年の9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦がはじまった。
これはヒットラーの事業のうち最も大きなものであり、最も人騒がせなものだった。
戦争が激化するにつれて、アウトバーンも滑走路として使われるようになり、そこから多くの航空機が飛び立った。
アウトバーンの雨音はますます激しくなり、それだけではなく、連合軍の飛行機が爆撃の機会をうかがって空の周りを蠅のように飛んでいた。
近くに住む住民たちはさらなる騒音に悩まされることになった。
やむことなく降り続けるどしゃぶりのなかで、彼らが考えていたのはこんなことだった。
眠りたい!眠りたい!


8 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:23:52 fd2dGMJo0



でもすぐに眠れるようになるだろう。


9 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:24:33 fd2dGMJo0



「そんな簡単な問題じゃないんですよ!わたしの不眠症はもっと根深いことなんです、精神的な複雑さによって……」
「でもでも!ほら、大事なのはどんな布団で寝るかだよ。あそこの店員も言ってたじゃん」
「あんなの詐欺ですよ。布団を変えたくらいで眠れるようになると思います?」
「うん」
「ありえないです」
「えーでもあずにゃんも実は心の奥では期待してたから買ったんじゃないのー?」
「そんなわけないじゃないですかっ! 唯先輩が買って買って四六時中うるさいから買ってあげることにしたんじゃないですか!わたしがこの件に関しては完全な譲歩したのに、そんなこと言われたら、わたしどうすればいいんですかっ。ねえ、どうしろって言うんですか? なんで唯先輩はいつもいつもわたしの人格を無視するんですか?わたしのこともひとつの寝具くらいにしか思ってないんですよね?夜寝るときだけ抱く寝具ですよわたしは!抱き枕か!わたしは抱き枕なのか!とっととはやくもっとハイクラスの女の子を捕まえてくればいいじゃないですか、シャネルとヴィトンとかアルマーニとかの女の子を!」
「ああ、ごめんごめんね。じょうだんだよぉ……ごめん」
「次同じこと言ったらあの布団も敷き布団も毛布も枕もみんな燃やしますからね」
「あずにゃんこわい……」

でも実際最近のわたしは眠りつつある。
とてもふかふかした暖かいあの高級布団のなかで。


10 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:25:09 fd2dGMJo0



そういえば、今日朝、出かけがけに唯先輩は、傘をもっていきなよあずにゃん、とまたわたしに傘を差しだしたのだが、その傘が濡れていた。
まさか本当に本当に雨は降っているのか。
天気予報を見たら、なんだ、昨日の夜は雨だった。
唯先輩がコンビニにでも行ったのかもしれない。
逆に言えば、今のわたしはそれくらいはやく寝ているということでもある。
嬉しいことに、悔しいことに。


11 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:26:03 fd2dGMJo0

10


安眠時代の安眠寝具で安眠生活を

(安眠時代発行折り込みチラシより抜粋)

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原始時代、人間は眠れなかったのを知っていますか?
事実とある研究ではネアンデルタール人(※1)にはノンレム睡眠(※2)がなかったと言われています(歩道橋下坂の上大学研究チーム研究中)
不眠症が彼らを滅ぼしたのです。
我々の眠りは進歩しています!

※1 約二万年前に絶滅したヒト属(原生人類と交接したことによって原生人類にノンレム睡眠が生まれたという説もある)
※2 浅い眠りであり、脳は活動状態にあり、疲労がとれない

――――――――


・不眠症にかかっていても!
・高架線の下に家があっても!
・隣人がいきなり発狂しても!
・夜に鳴く猫を飼っていても!
・踏切の上に住んでいても!

正しい寝具を一式そろえれば、ぐっすり眠ることは可能です!!
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――――――――

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――――――――


12 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:26:37 fd2dGMJo0

11

我々の眠りは進歩しています。

進歩。
まあ、そうかもね。


13 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:27:12 fd2dGMJo0

12

唯先輩は朝のわたしに笑って言う。

「ほら、眠れるようになったじゃん」

わたしはちょっと腹が立つのだ。
唯先輩はそんなわたしにかまわず高級布団たちのなかに沈んで、とても幸せそう表情を浮かべている。
きっと、シャネルのベッドのことなどを考えているのだろう。
そんなにブランド布団が好きなら、ブランド布団と結婚すればよかったんだ。

「あずにゃん、布団に嫉妬してるの?」

してる。
大いにしている。
だいたいわたしは昔から寝具というのは、どうやら人の機嫌をうかがうところなどあって、気にくわないのだ。
そんなことをする家具は、寝具くらいなものである。
家具ならば家具らしくタンスのように人間なんかなんだというふうにでも不愛想につったって、角に足をぶつけさせたりするべきだろう。
この際だから言わせてもらえば、寝具とは家具界の娼婦なのだ。
そういえば、もうひとつ、敷き布団もやっと敷かれて下はちゃんと柔らかくなっているにも関わらず、唯先輩は未だ行為を拒む。
理由はもちろん、愛すべき高級布団たちが汚れてしまうからだ。
だから結局床の上でしている。
眠りは進歩しているが、わたしたちのほうはどうやら退化しているようだった。


14 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:28:10 fd2dGMJo0

13

今夜は目覚めてしまった。
夜の途中に。
夢を見ていた。
なにか食べることに関する夢だった。
唯先輩がいなかった。
どこに行ったのだろう。
探しに行こうと、家を出ようとしたとき、鮮やかな赤色が目に入った。
唯先輩が傘を持って行かないのは珍しいことだ。
どんなに周りの人に変な目で見られても、晴れの日でも、雨傘をさしていたのに。
まず見に行ったのは『安眠時代』のショーケースだった。
そこのシャネルのベッドを眺めているのではないかと思ったのだ。
でも、唯先輩はいなかった。
そのあとはいつもの癖で、世界のへそ公園へと足が勝手に向いていた。
そして、そこに唯先輩がいた。
唯先輩の目の前には、世界のへそがある。
でもわたしはいままで夜にこの場所にやってきたことがなかった。
だから知らなかった。
なんで唯先輩がこの場所を世界のへそなんて名前で呼んでいたのか。
世界のへそ、その金網から、蒸気が煙のようになって立ち昇っていた。
すぐそばの街灯のせいで、それは青白い煙のように見える。
あれはなんだろう。
夜になると、なんらかの理由で地下が暖められて、その排水溝が流れる水が蒸気に気化するのか。それとも日中だって常に蒸気が漏れ出してるのかもしれないけど、明るいせいでわからなかったとか。街灯の青い光によってはじめてその存在が明らかになるのかも。
理由はわからないけど、とにかく、その場所からは一本の青白い紐が漂っていた。
立ち昇る蒸気はへ夜空へと消えていき、宇宙とつながっていた。
それは、世界のへその緒だった。
世界は、そのへその緒によって、宇宙へと抱かれて、未だ穏やかな微睡みのなかにいた。
唯先輩はそれをただじっと眺めていた。
ふと思う。
もしかして夜眠れないのは唯先輩の方だったのかもしれない。
わたしは笑っていた。
唯先輩がわたしを見つけて、驚く。
恥ずかしそうに、はにかみながら言った。

「わたしたち、別に、逃げてきたってわけじゃないんだから。そうだったよね?」

それには答えず、わたしは言う。

「濡れますよ。傘もささずにこんなとこまできて」
「あずにゃんだってそうだよ」
「わたしは濡れないですよ、雨なんか降ってないんだから」

唯先輩は近づいて、人差し指を横様にわたしの唇に押し込んで言った。

「ほら、濡れてるじゃん」
「それは、そうですよ。ばかじゃないですか」
「においがする」
「へんなこといわないでください」
「ばっちぃ……」

そのあとはただわたしたちは並んで揺れ動く蒸気を眺めている。
世界のへその緒を。
その胎動を。
あとで唯先輩が言った。

「ね、帰ろっか」
「ううん」
「帰って寝ようね、おやすみしよう」
「しないです」
「しないの?」
「しない。あんな馬鹿げた布団があるとこには帰らないです」

また布団に嫉妬してるんだあずにゃん、と唯先輩がくすくす笑った。


15 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:29:00 fd2dGMJo0

14

というわけで、わたしたちは駐車場にいた。
ホームセンタの大きな駐車場。
そのど真ん中に寝ころんで、向こうの幹線道路を眺めていた。
雨が降っていた。
まだ小雨だった。

「あずにゃん、あずにゃーん。あずにゃん、にゃん……にゃん?……あずにゃん!あずにゃん寝ちゃったの?」
「うん」
「こんなところで眠れるなんてあずにゃんはどこでも眠れるんだねえ」
「寝てないです」
「あずにゃんはさ、子供だから寝れるんだよね。9時に寝ちゃう」
「うるさいです」
「わたしたちびしょびしょだね」
「びしょびしょじゃないです」
「沈んでる……ほら!水面が見えるよ!」
「はあ」
「わたしね、小学校のとき、プールの授業でね、こうやってプールのそこに寝転がって、空を見るのが好きだったなあ。ぐにゃぐにゃに歪んで見えるのがおかしかった。あずにゃんはやらなかった?」
「やらないですよ、そんなこと」
「泳げないもんね」
「泳げますよ!」
「浮き輪使うのは泳げるって言わないよ?」
「使いませんよ」
「えーじゃあさ、今度、海に行こうね!海!」

7時になって、ホームセンターが開くと、わたしたちは一番に入店して、大きな木の板ととても重い置き石を買った。
あと傘を。
台車を借りてそこにそのふたつを乗せて、世界のへそ公園まで運んだ。
そして、わたしたちはその板と石によって、世界のへそを塞いでしまった。
板は金網よりも広く、その下をのぞくことはもうできない。
石は重く、わたしたちは台車を倒してそれを板の上に落としたのだけど、ちょっとやそっとのことでは動きそうにもなかった。

「これで、世界のへそはふさがれてしまいました!」
「ということはもうこの場所に降り続ける雨の行き場所がなくなったわけですね」
「水没する!」

わたしたちは想像する。
この町の、あの幹線道路にやむことなくざあざあと降り続ける、アウトバーンの雨は
逃げ場所を失ってひとところに溜まりつづけ、やがて水位は上がって、町は雨の中に沈んでしまうだろう。
そしてあふれて暴れ出した水たちは建物のなかに浸水し、そこにあるすべてのものを流してしまう。
どんな家具も。
どんな寝具だって。
たとえば、ショーケースの向こうにあるシャネルのベッド。
水圧によってショーケースのガラスは割れてばらばらになり、その向こうのあのベッドは流れに押し出されて氾濫する雨溜まりのなかを進みはじめる。
そして、あの幹線道路へと流れ出て、やがてわたしたちの住むアパートの前までやってくるだろう。
そのとき、わたしたちは三階からベッドめがけて飛び降りて、着地。
ものすごくふわふわの。
信じられないくらいの衝撃吸収力!
そうして、そのシャネルのベッドは、まるで船のようにわたしたちを乗せて水没した町の上を航海する。
いまや世界のへその緒はあの木板によって断ち切られ、あらゆるものは胎道を通って押し流される。
誕生する。
あふれ出す。
世界のその外側に向かって。
どこまでも、どこまでも。


16 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:29:49 fd2dGMJo0

15

帰り道、わたしたちは朝の日差しのなかを雨傘さして歩いている。
雨傘は一本で、わたしたちは二人。
傘は足りてなくて、肩がすこし濡れてしまう。
あくびがでた。
つられて、でも本当につられたのはどっちだったんだろう、唯先輩もあくびをした。
あくびが切れたのはちょうど同時だった。
それがおかしくて、わたしたちは笑う。
安眠時代。
それがやってくるのはそれほど遠くない。
そう遠くは。


17 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 15:30:37 fd2dGMJo0
おわりです!ありがとうございます


18 : いえーい!名無しだよん! :2016/06/05(日) 18:22:40 3UX/OnPI0
雨と世界のへそ、雨の音と安眠の時代、唯梓と布団……
なるほどね(分かってない


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