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和「あの日タイムマシン」
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少し大袈裟な荷物を抱えて、秋の色を彩り始めた町の道を歩く。
南中から少し西に傾いた太陽に目を細めていると、不意に強い風が吹いた。
秋の色を纏った木の葉を揺らす秋の風。
懐かしい匂いが私の鼻孔を擽る。
これは秋の風、そして、私の故郷の風だ。
匂いは記憶を喚起させる要素を含有している。
知識としては知っていたけれど、実際に経験するとは思っていなかった。
留学先で記憶が薄れ掛けてるんじゃないかと危惧していたけれど、そんな心配は無用だったみたいね。
故郷の風を感じただけで、ほら、もうこんなにもこの町での出来事を思い出せる。
――きょ、今日は一緒に帰らないか?
澪の方からそんな誘いがあったのは、同じクラスになって三ヶ月も経ってからの事だったわね。
同じクラスなのに、単なる帰宅のお誘いにそんなに時間が掛かったのは本当に澪らしい。
誘われた時、微笑ましくも嬉しい気持ちになったのは、今でもはっきりと思い出せる。
やっとそんな関係の友達になれたんだって実感できたから。
そうそう、澪と二人で帰宅した通学路、せっかくだからって寄り道して買い食いなんかもしたわよね。
体重を気にしながらもつい食べ過ぎてしまっていた澪の姿の思い出す。
「よかった、まだあるのね」
足を止めて、懐かしい店を見上げてみる。
MAXバーガー。
熾烈な生存競争を繰り広げているバーガーショップだから心配していたけれど、健在みたいね。
それほど頻繁に通っていたわけではないけれど、記憶に残っている店が健在なのは嬉しい。
唯もよく食べて頬にケチャップを付けていたわよね。
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――私、いくら食べても太らない体質なんだー。
嬉しそうに言っていた唯。
幼稚園の頃に出会ってから唯の体型はほとんど変っていないし、太りにくいのは確かなんでしょうね
それにしても、まさか留学先で唯のその体質を羨ましくなる事があるなんて思わなかったわ。
日本の食事の量とそれこそ規模が誓うんだもの。
体重計に乗りたくない朝を迎えた事も一度や二度じゃないわ。
それでも同じ量を食べているはずなのに、スリムな体型を保っている同級生も居るから体質って不思議よね。
――和ちゃんのお弁当、可愛いよね。
澪と同じくらい体重を気にしていたのはムギだった。
私達のお弁当を気にしていた事から考えても、意外に食べるのが好きな子だったのかもしれないわね。
綺麗な金色の癖毛のムギ。
留学先で同じ様な髪質の子を見掛ける度に、ムギの事を思い出して大変だった。
何度かムギと見間違えて声を掛けそうになった事もあるものね。
私は私自身が考えている以上に故郷を懐かしく思っていたのかもしれない。
ムギは今頃どうしているのかしら?
前にインターネットで通話してみた時は、アルバイトで忙しいと嬉しそうに話していた覚えがある。
もしかしたら今も楽しそうにアルバイトしているのかもしれないわね。
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「いけないいけない」
懐かしさに浸ってばかりじゃ本当の意味での故郷には戻れない。
私はゆっくりと一歩を踏み出してMAXバーガーの前を後にする。
詳しい帰国時間は誰にも連絡してないわけだし、まずは家族に顔を見せて安心させてあげなくちゃ。
その後で唯達にも連絡しましょうか。
ああ、そう思うのに私はまた足を止めてしまう。
よく通った書店の近く。
唯とも何度か通ったけれど、それより強く記憶しているのは梓ちゃんとのやりとりだ。
――マツピチュ。
――マチュピツ。
マチュピチュを発音できなかった梓ちゃん。
軽音部の中ではお堅い印象がある梓ちゃんだったから、あの時の梓ちゃんの様子はとても微笑ましかった。
そういえば憂がその後で梓ちゃんのマチュピチュの発音の練習を付き合ってあげたらしい。
何て言うか憂らしいエピソードよね。
あの時はまさか私が本当にマチュピチュを訪れる事になるなんて思わなかった。
出会える時間が取れるかは分からないけれど、梓ちゃんにマチュピチュでの思い出話をしてあげたい。
意外と水道の謎の話なんかに食い付いてくれるかもしれない。
そうそう、あの時は先生がマチュピチュに関する書類を出し忘れて大変だった。
私も含めて皆慌てたんだけど、心の何処かで懐かしがってる私も居たのよね。
書類の出し忘れが多かった律と長く付き合っていたせいかしら?
律はきっと今でも大切な書類を忘れたりしているんでしょうね。
でも、きっと何だかんだと乗り越えてる気もする。
私が留学している間、律がどんな綱渡りをしてきたのか是非聞きたいわね。
そんな事を訊いてみたら、
――何だとー!
なんて頬を膨らませそうだけど。
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「ふふっ……」
行儀が悪いと感じるけれど、思い出し笑いが止められない。
不思議な安心感もあったのかもしれない。
うん、安心してるのよね、私は。
久し振りの故郷の事をしっかり覚えてる自分に。
懐かしい光景を見る度に、懐かしい匂いを嗅ぐ度に感じる。
帰って来たのよね、って。
私は、帰って来たんだ。
留学している時には幾度も思っていた。
私はこのままこの国の人間になっていくのかしら? って。
それは決して悪い事じゃない。
少し寂しくはあるけれど、それも一つの生き方だから。
別の国の人間になって生きていくのも、人生の一つの選択だもの。
だけど久し振りの故郷に降り立って感じる。
全身の細胞が叫んでるみたい。
ここが私の育った、私の生きていきたい場所なんだって。
どんな世界を見ても、どんな場所で生きても、帰って来るのはこの町、この場所。
皆と生きたこの場所なのよね。
「まってよー!」
「あははは、はやくはやくー!」
私の足下を幼稚園児くらいの子供達が駆けていく。
とても仲の良さそうな二人の女の子。
私と唯もあんな風だったのかしら?
そうかもしれない。
今でこそ落ち着いたつもりではあるけれど、昔の私は結構お転婆だったらしいし。
唯。
幼稚園の頃からいつの間にか隣に居た唯。
あの子と離れた今だからこそ強く感じる。
この町を自分の場所だと思えるのは、唯が傍に居てくれたからこそなんだって。
唯が居たから私は楽しかった。
唯が居たから私は幸せだった。
唯のおかげで音楽にも興味が持てたし、今でも唯から貰った放課後ティータイムのカセットテープをよく聴いてる。
困らされる事や焦らされる事も勿論多かったけれど、唯はそれ以上のたくさんの物を私にくれた。
「そういえば……」
私は自宅への帰路から外れ、少しだけ寄り道してみる。
寄り道とは言っても、すぐ近所だからそれほど時間のロスがあるわけでもない。
寄り道の、思い出の場所にはすぐに辿り着いた。
思い出の公園の、思い出の入口に。
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――ありがとー、のんちゃん!
泣きながら笑って言った唯の言葉。
この子とずっと友達で居ようと思えたあの日の思い出。
幼稚園の時、いつの間にか私の傍に居た唯だけれど、当然最初から仲が良かったわけじゃなかった。
唯は懐いてくれていたけど、私はと言えば懐かれてもどうしたらいいか分からなかったのよね。
それで幼稚園児ながら少しだけ心の距離を感じなくもなかった。
そのままの二人なら、もしかすると今に至るまでの付き合いにならなかったかもしれない。
けれど私達の間に一つの大事件が起こったのよね。
唯がお気に入りの小さなぬいぐるみを落としたその事件。
当時の私達にとっては大事件で、私と唯と憂ととみお婆ちゃんの四人で公園中を探したのよね。
幼稚園児だった私には過ぎた事件だったみたいで、結局そのぬいぐるみを見つけられたのはとみお婆ちゃんだった。
幼心にも自分の無力を感じたのを思い出せる。
なのに唯は言ってくれたのよね。
『ありがとー!』って。
心の奥底から、本心で言ってくれてるのがよく分かる表情で。
唯はそういう事ができる子だったのよね。
その時から私もこの子の、唯の傍に居ようと思う様になった。
他人からしてみると取るに足らない事だろうけれど、少なくとも私にとっては大切な思い出だ。
「早く会いたいわね……」
私の口から偽りの無い本心がこぼれる。
会いたい。
唯に会いたい。
私の故郷、私の場所、その根本とも言える唯に。
その時こそ、私は本当の意味で自分の居場所に帰って来たって言える気がする。
唯と会えたら私の方嗄らしてあげたい事もあるものね。
とは言え、多分唯は今頃大学に通って授業を受けてるはずよね。
実家に帰ってから連絡しなくちゃ。
上手くスケジュールを合わせられればいいんだけど……。
瞬間。
私の耳に懐かしい音が響いた。
留学前から、いいえ、留学している間も、何度も何度も耳にしていた音楽。
私の居場所がこの町だって思わせてくれる曲の一つ、『ふわふわ時間』のギターの音が。
誰かが公園の中で弾いているらしい。
誰なの?
ひょっとしてギターを始めたって言ってた憂?
それとも……。
高鳴る鼓動を抑えて私は公園の中に足を踏み入れた。
少し奥まった場所、大音量で周囲に迷惑を掛けない場所に、あの子は立っていた。
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「……唯」
嘘みたいだった。
夢みたいだった。
幻覚でも見ているのかと思った。
それくらい私は驚いていた。
けれどあの子は、唯は、ちょっと驚いた表情を浮かべた後で私の見たかった笑顔を浮かべてくれた。
「あれー? どうしたの和ちゃん? 留学は?」
「ちょっとだけ戻れる事になったのよ。
それより唯こそどうして公園に? 大学は?」
「えへへ、ちょっと急にこの公園に来てみたくなったんだ。
何か急に懐かしくなっちゃって……。
あ、大学は大丈夫だよ? 今日は授業もバイトも無い日だもん。
それでりっちゃんの車で送ってもらったんだよね。
りっちゃん達も今はちょっとだけ実家に戻ってるよ?」
言い終わるが早いか、ギターを置いてから唯が満面の笑顔で駆け寄って来る。
そのまま私に抱き着こうとしたけれど、私はそれを手で制した。
今は唯の方から抱き着かれるわけにはいかない。
だって……。
唯は不満気に頬を膨らませながらも、すぐに笑顔に戻って続けてくれた。
「和ちゃんこそどうして公園に?
ひょっとして和ちゃんも急に懐かしくなっちゃったの?」
「ええ、それはそうなんだけど……」
「すっごい偶然だよねー!
ううん、これはもう運命だよ! レジェンドだよ!」
レジェンドは運命じゃなくてデスティニーよ、唯。
そう思わなくもなかったけど、指摘するのはやめておいた。
レジェンドでもデスティニーでもジャスティスでも何でもいいわ。
今こうして思い出の公園で私と唯が出会えた事、それこそ一番大切な奇蹟だと思えるから。
唯はそんな奇蹟を何度も起こしてくれた子だから。
それだけで十分よね。
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「ねえねえ和ちゃん?」
「どうしたのよ、唯?」
「これから何か予定ある?
予定が無いんだったら私の家でお泊まりしようよ!
りっちゃん達も呼んで、皆で一緒に和ちゃんの留学先の話が聞きたいな!
あ、勿論私達にも色々あったから、全部教えてあげるね!」
「予定はとりあえず実家に戻るだけよ。
そうね、皆で一緒にお泊まりをしましょう。
私も皆と話したい事がたくさんあるもの」
「わーい!」
「だけどその前に……」
私は唯と会ったらしようと思っていた事がある。
唯の方からは何度もしてくれたけれど、意外に私からは一度もした事が無かった行為。
きっと唯はその行為で私に好意を伝えてくれていた。
私を嬉しくさせてくれていた。
だから今度こそは私の番。
私の居場所に、私の想いを伝える番だ。
私は大きく腕を広げる。
首を傾げている唯に歩み寄って、顔を寄せて唯を胸の中に招き入れる。
強く抱きしめる、想いの限りに。
「ただいま、唯」
「おかえりなさい、和ちゃん」
私の腕の中で、
私の居場所は、
私の思いがけぬ行動に赤面しながら、
それでも満面の笑顔で私の帰還を祝福してくれた。
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